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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

21地下に眠るM:2007/11/14(水) 22:41:26 ID:yb0RBWTc
科学という知的体系は、人類史的にみても特殊な地位を獲得した知的体系だということは僕も率直に認めますにゃ。この特殊な地位というのは、科学が《「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった》問い(以下「重要な問い」とでも書きますかにゃ)にそもそも答えようとしにゃーところから得られたものなのではにゃーでしょうか。

科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
だから
・宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?
宗教には「重要な問い」に答えられない、と判断してしまったとしたら、その時点でその判断者は「重要の問い」の「正しい答え」を独占したのと同じことになるにゃんが。

僕は、ドーキンスは「啓蒙」の立場だと思ってるにゃ。
まあ、「神は妄想である」は未読なので断言はしにゃーけどな。

僕は別に、宗教に「重要な問い」の答えを独占させようとしているのではにゃーのだよ。ただ、宗教は「重要な問い」に答えられない、という判断は少なくとも科学がしてよいことではにゃーといっているんだにゃ。
文化相対主義の立場(各文化の間に優劣はなく、現代が古代や中世に優越するわけではないという立場。つまり「啓蒙」からもっとも遠い立場)では、「重要な問い」への答えは「それぞれの文化次第」ということになるわけで、各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。
(ここでは通文化的な普遍性については触れないでおく)


ちゅうわけで個別に
>chochonmage
>化け猫さんは、その「本音」部分を見抜き、それが「啓蒙主義」であると看破し

本音部分もなにも、形式論理的にドーキンスの立場は「啓蒙」ですにゃ。
宗教に答えられないと判断できるということは、自分が当の答えを知っているのだと主張しているに等しい。


>GB
>違う時代の人たちが言ってることはみんなおバカに見えたりするけど、われわれだって
>きっとおバカに違いない。

「理性は万人の狂気である」(アンドレ・シュアレス)
僕たちは狂っていにゃーことが不可能なんだと思いますにゃ。



>後悔と懺悔
>立場2c】この観点から、NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノとして、「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、そしてもちろん「宗教」も、絶対に相応しくない──このことが、私がここで主張したいことのほとんどすべてである。

繰り返すけど、ドーキンスの立場こそ啓蒙主義ではにゃーのかね?
正しさを独占したがる宗教と啓蒙とは双子みたいなものでにゃ。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」(ニーチェ)
ドーキンスはミイラになっちゃったんでにゃーのか?

22地下に眠るM:2007/11/14(水) 23:43:25 ID:yb0RBWTc
加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫P167によれば
(この本↑オススメにゃんぜ。事例(10人の命を救うために1人を殺すことは許されるのか、とか、10人のエイズ患者に対して特効薬が1人分しかないとき誰に渡すか、とか)をベースに説き起こす本)

自由主義の原則は、要約すると、「1判断能力のある大人なら、2自分の生命、身体、財産に関して、3他人に危害を及ぼさないかぎり、4たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、5自己決定の権限をもつ」となる。
ここで
3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。ここが自由主義のキモなんだにゃー。
他者の愚行(お馬鹿な行為)に対して、説得することはできても禁止することは「自由主義社会」ではできにゃーのさ。いったん「愚行」の禁止を認めてしまったら、公権力やら多数派の気に入らないあらゆる行為が「愚行」の名のもとに禁止されるのは明白なんだにゃー。

「分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。 分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。 ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない。」(バーナード・ショウ)
などという話もあって、愚行を禁止したら確かにニンゲン社会の進歩なんてありえにゃーよな。種痘の予防接種法を発見したジェンナーなんて、愚行の極みを地でいっとるよにゃ。

ドーキンスはミイラをとりにいって、自由主義者を廃業しちゃったんだろか?

23chochonmage:2007/11/15(木) 08:35:58 ID:Qhwn4442
うーむ、さすが猫さん。簡潔にして明瞭、いつもながら感服いたします。
ですが、いくつか疑問点があります。

>各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の
>精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。

ここは、「各宗教」でなく「各文化」なのではないでしょうか。
それとも現実的に文化=宗教だということですか?

>宗教には「重要な問い」に答えられない、と判断してしまったとしたら、その時点でその判断者は「重要の問い」の
>「正しい答え」を独占したのと同じことになるにゃんが。

>宗教に答えられないと判断できるということは、自分が当の答えを知っているのだと主張しているに等しい。

おっしゃりたいことは何となく分かるのですが、

例えば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」(あまり一般的でなく、かつ異論が出そうな例で
申し訳ない。ですが過去ログのどこかで猫さんがこの本を既読という記述をなさってたような記憶が
あったもので。ウロなんですけど。)や、山本七平氏と佐伯真光氏との間での「Do not swear at all.」の
解釈に関する論争を読んだ後に、山本氏はユダヤ教や英語に対する問いには答えられないと読者が判断する
のはその読者が「正しい答え」を独占したり、自分こそが答えを知っているのだと主張することと同義でしょうか。
些細な間違いを指摘されということでなく、内容がとんでもなく出鱈目でしかも捏造が多くあるような事を知った後に
山本氏の指摘された部分と関係のない記述、発言についてもうさんくさく思ってしまうのは、推論としてそれほど
とんちんかんだとは思えません。
そして、各宗教の聖典なり、教義なりに出鱈目が多いと思った人が、宗教は「重要な問い」に答えられないと
判断したとしても、自分は答えを知っていると主張しているわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

24AH1:2007/11/15(木) 12:58:09 ID:8sNrdPpc
たとえば、和食か中華か洋食かを討議している時に、誰かが宗教的理由で中華と言い出したとします。
ここで
「ちょっと待てよ、それって俺らにはどうでもいい事じゃん」
「お前、なんでリクツ抜きなんだよ、頭悪いんじゃねえのか?」
「こういう時は協議するのが当然だろ、馬鹿じゃないならお前の考えを改めろよ」
となると、やはり「理屈と協議を理解できないおバカを撲滅する啓蒙主義」になっちゃうんではないかと。
(こんなに挑発的な言い方はしないかもしれませんが敢えて罵倒モードで)

「なるほど、ではそれに合わせますか?」
「まあ、中華がどうしても嫌な人は他へ行くということで」
くらいに話を合わせておくのが「オトナ」な態度かもしれません。
もちろんオトナな態度が良いのかどうか、これは場合によりけりでしょう。中華にしたからって死にはしないでしょうが、命に関わることだってありますから。
これが地下猫さんの書いておられる「3他人に危害を及ぼさないかぎり、・・5自己決定の権限をもつ」という部分でしょう。

協議しましょうというやり方は、一応「異なる意見の言い分も聞く」形にはなっているので、形式としては異なる意見への侵略性は低いかもしれません(まあ**教に帰依しなければ殺すと言われるよりゃよほどマシでしょう)。
それでもメタレベルで言えば「協議して決めよう」という同じ土俵に上がる事を要求します。
(日本人は黙っているから欧米人から見ると何を考えているかわからない、というような話がありますが、それって「違いにワーワー言い合って意見を調整する文化」を前提にしてるだろ?自己主張自体が不作法とされる文化はどうしてくれるのよ?というような話です。*)
この問題は「同じ世界で生きて行く時に、最低限の『同じ土俵』をどこに定めるか」という問題であるかと思います。ただ・・「オレサマの言うことを聞かない奴は殺す!」と叫ぶ無法者がいれば、そいつと共存するのは難しいでしょうから、地下猫さんの挙げた付帯条件くらいがギリギリの線ではないかと思います。

*いや、日本人が本当に黙っているかどうかは別としてですが。
ただ、ドナルド・キーンが川端康成のことを「欧米のジャーナリストは彼を寡黙な、もしくは気難しい人物と紹介するが、それは違う。彼は喋ることがある時は喋り、そうでない時は黙っているのだ」とわざわざ書いている文章を読んだ記憶はあります。

25カクレクマノミ:2007/11/15(木) 17:22:45 ID:THRtI5kM
ん・・・?何だか変な方向に進んでいるいるような。
ドーキンスは価値に関してはどちらかと言えば文化相対論的だと思いますし、愚行権を否定してもいないと思うんですが。
ドーキンスのどの主張が文化相対論や愚行権を否定しているのか僕にはわからないので、ちょっと議論について行けません。

ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?
個人が出した答えよりも、文化ないし宗教が出した答えは優先されるのですか?

26GB:2007/11/15(木) 19:37:17 ID:UK61EP2o
>>20
「おバカなこと撲滅」については、もちろん賛成です。
でも、既存宗教を否定すればいいとも思えない。私なりの問題意識としては…

・科学が答えられない「重要な問い」に関しては、宗教を含む文化が答えるしかないのではないか。
人の「理性」がそれらの問題に答え得るというのは、幻想なのではないか。
・理性が取扱い可能なのは、世界認識の方法としての科学や、政治的な手法としての民主主義などの
(価値を棚上げにする)「手続き」でしかないのではないか。
・しかしその手続きを現代社会の合意事項にしようというのも、実は一定の文化的な背景を持っているので、
たとえばテロに対する米国の「民主主義の戦い」も難航してる。

ど、どうしたらいいんだ!

27Kosuke:2007/11/15(木) 20:02:17 ID:NkrhEzds
チョットだけ口を出させていただくとすれば、「宗教」という用語の定義がまちまちだと議論はかみ合いません。
究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

もちろん、既成宗教(団体)の多くはそれ(「宗教」を個人の心の内に限定すること)には賛同しないでしょうが。

28地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:20:48 ID:cizMQ0FI
>chochonmage

>ここは、「各宗教」でなく「各文化」なのではないでしょうか。
>それとも現実的に文化=宗教だということですか?

文化∋宗教、なので。

>例えば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」

浅見には聖書学について答えをいう資格があるだろ? 専門家が自らの専門の範囲において無知を無知と断じただけにゃんね。何の問題もにゃーだろ。
科学には「重要な問い」に答える資格がそもそもにゃーのに、宗教には何もわからんと断じるのとは訳が違いますにゃ。
それに
山本ベンダサンという特定個人の無知蒙昧とデタラメぶりを、書籍や議論から判断することは可能であるけれど
ある種の宗教がデタラメだからといって、既存宗教すべてについてデタラメとは判断できるわけにゃーよな。
山本ベンダサンがデタラメだからすべての保守系評論家がデタラメである、という判断をするようなものだにゃ。

既存宗教はダメだとか「重要な問い」に答えられないとかいっているのなら、ドーキンスは「戦闘的」というより「無謀で野蛮で非論理的」無神論者といっていいにゃ。

29地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:21:18 ID:cizMQ0FI
>カクレクマノミ

>ドーキンスは価値に関してはどちらかと言えば文化相対論的だと思いますし、愚行権を否定してもいないと思うんですが。
>ドーキンスのどの主張が文化相対論や愚行権を否定しているのか僕にはわからないので、ちょっと議論について行けません。

僕もドーキンスは自由主義者であると思っていたけどさ、どうも相手が宗教になると自由主義を返上しちゃってるのではにゃーかということにゃんね。
で、僕自身は「神は妄想である」は未読なので、ナトロムのブログから孫引きすると

>同じように、私たちはみな、科学に道徳的価値観について助言する役割を務めさせるのは、控え目に言っても問題であるということについては意見が一致するだろう。しかしグールドは本当に、何が良くて何が悪いかという権利を特に宗教に譲り渡したいのだろうか?宗教がそれ以外に人類の英知に貢献すべきものをもたないからといって、私たちに何をなすべきかを教えるフリー・ライセンスを宗教に手渡すべきだ、ということにはならない。そもそも、どの宗教を選べばいい?私たちがたまたま育てられた宗教なのか?あるいは、聖書のどの書のどの章によればいいのか―なぜなら、聖書中の見解は聖書全体を通じて一致しているというにはほど遠く、またあるものは、いかなる理性的な規準に照らしてもおぞましいものだからである。(「神は妄想である」、 P89)

1)宗教は道徳的価値観「以外に人類の英知に貢献すべきものをもたない」などとなぜ生物学者のドーキンスが断言できるのか?

2)「そもそも、どの宗教を選べばいい?」以下の記述は、どうみても「1つの正しさ」を前提にした物言いだにゃ。動物行動学者であるドーキンスは、生物がある行動をとるときに多様な要因が働いていることはよく理解しているはずだにゃ。キリスト教だけをとっても、聖書の相互に矛盾するように見える記述について厖大な解釈がなされているのは僕だってしっているにゃ。相手が宗教となると極めて表面的で単純で逐語的、要するに愚昧な批判をするというのはどういうわけだろにゃ。

つまり、ドーキンスはこと宗教さんが相手だと文化相対論的ではにゃーのよ。文化相対論者は特定の考え方を無益だとか悪だとか撲滅せよとは言わにゃー。また、「1つの正しさ」を前提に議論するものが愚行権を認めているとは言い難いにゃ。
少なくともドーキンスは、信仰者の愚行権を認めているようには見えにゃーよな。

また、(2)でもちょい触れたにゃんが、宗教文献・神話などのテキストを逐語的に読むのは馬鹿の極みだろにゃ。
聖書を逐語的に解釈するという意味では、創造科学とドーキンスは同じ穴の白痴だにゃ。心からの侮蔑に値するにゃんね。

というわけで、ごくごく部分的な引用だけでも問題が山のように見て取れますにゃ<「神は妄想である」
批判しておいて無責任なようだけど、気分が悪くなりそうなので読む気になれにゃー。

30地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:40:46 ID:cizMQ0FI
>ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?
>個人が出した答えよりも、文化ないし宗教が出した答えは優先されるのですか?

おっとっと、これに答えわすれてたにゃんね。
個人という単位で「重要な問い」に答えられると考えるのは、近代人に特有の思考でしょうにゃ。
ちゅうか、文化的なバックグラウンドなしで「重要な問い」にどう答えるのでしょうにゃ?
極端にいえば、利己的な動機による殺人がなぜダメなのかについて、文化的バックグラウンド抜きで根拠を出すのはムツカチイのではにゃーかな?
(まあ、思いつかなくもにゃーけど)

このあたりの話は、いくらでもでかくなってしまいますからにゃー。困った。

とにかく、個人という単位で「重要な問い」に答えるなんてのは、古代のニンゲンから見たらまさに狂気の沙汰でしょうにゃ。
昔と今ではニンゲンは別の狂い方をしているのでしょうにゃ。

31カクレクマノミ:2007/11/16(金) 14:22:42 ID:THRtI5kM
まず最初に。たぶんドーキンスは宗教の否定よりもむしろ、無宗教の擁護に重きを置いています(少なくとも僕はそう理解しています)。

>1)宗教は道徳的価値観「以外に人類の英知に貢献すべきものをもたない」などとなぜ生物学者のドーキンスが断言できるのか?

この部分はむしろNOMAに対する皮肉なレトリックでしょう。大事なのは、科学が及ばない範囲だからと言ってそれが宗教の領分だとは言えないという、それだけのことです。
宗教が道徳的価値観を独占的・特権的に扱えるとする理由はこれといって示されていません。強いて言うなら、宗教は他のことに役立たないから道徳ぐらいしか居場所がないってことじゃないの?とちょっとからかっているわけです。

>2)「そもそも、どの宗教を選べばいい?」以下の記述は、どうみても「1つの正しさ」を前提にした物言いだにゃ。

「1つの正しさ」を前提としなくても、この記述は理解できますよ。
各個人ないし各文化、まあ何でもいいんですが、何かの単位が宗教に基づいて「重要な問い」に答えたいときには、どの宗教を選ぶかによって、また宗教のどの記述を、どの解釈を選ぶかによって答えは変わってしまいます。文化によって答えは違うとしても、この問題は残るでしょう。
愚行をするにしても、宗教に基づいて愚行をするとしたら、どの宗教に基づくかによって話は違うでしょう。

それに続く記述においても、ドーキンスは宗教の原典を逐語的に理解するのは馬鹿だということをよく知っています。それどころか、それこそがドーキンスの議論のキーポイントになります。
地下猫さんのおっしゃる通り、宗教から「重要な答え」を出そうとするとき、まともな人は逐語的に読んだりしません。

たとえば、ある宗教の聖典に「異教徒は直ちに殺すべし」という記述と、「みだりに人を殺すなかれ」という記述があったとき、たぶん現代の多くの人は前者を逐語的に受け取ったりはせず、後者を重視して「重要な問い」に答えを出すでしょう。
実際、今の穏健なキリスト教徒はそうしていると思います。
なんで前者よりも後者を重視するかと言うと、僕たちは「みだりに人を殺すのはよくない」と思っている(注)からです。聖書を読む前から何がしかの倫理基準を持っていないと、取捨選択はできません。
だったら、そのもともと持っている倫理をそのまま答えとして採用しても、答えは変わらないでしょう。聖書解釈というステップをはさむのは、よく言っても冗長です。

だから、宗教が独占的・特権的に道徳的価値を扱えるという主張(しばしば、だから無宗教では倫理が崩壊するという含みを持たせてなされる)は誤りです。
ドーキンスが宗教と道徳の問題について書いているのは、おおむねこういうことです。

僕にはこの主張は、かなり説得力があるように感じられるのですが、どうでしょうか?


>ちゅうか、文化的なバックグラウンドなしで「重要な問い」にどう答えるのでしょうにゃ?

それはそうなんですが、でも文化的バックグラウンドをもとに答えを出すのはその文化に属する個人なのではないでしょうか?
そもそも、"文化"という実体のない存在が、どうやって判断を下すのでしょうか?


(注)これがどこから出てくるのかという問題について、ドーキンスはヒトの生得的な傾向と、"道徳に関する時代精神"について論じています。でもこれはたぶん本質的な問題ではなく、由来はともあれ何らかの倫理基準を持っているというのがミソ。

32地下に眠るM:2007/11/17(土) 00:06:12 ID:yb0RBWTc
レス前後しますにゃ

>Kosuke
>究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

ジンケンの基本は自由権にあり、さらにその核は内心の自由にありますにゃ。
この内心の自由というのは、いかなる専制主義政体や全体主義国家においても現実的に取り締まることができにゃーというシロモノにゃんね。言い換えれば、地上の権力、世俗の権力が一切及びようがにゃー領域が個々人の内心ちゅうことになるわけですにゃ。

で、自由権の拡張の歴史ちゅうのは、内心の自由の拡張の歴史なんですよにゃ。
内心の自由を認めるからこそ、表現の自由や身体の自由を認めなければならにゃーわけで、そこから政治的自由にも直結しますよにゃ。逆にいえば、表現・身体・職業・政治的自由などを認めにゃーということは、内心の自由を認めてにゃーことになる。
内心の自由の発露として政治にかかわること自体は、自由主義においては必然なんですにゃ。

だから、宗教を個人の心に限定して政治的活動を認めにゃーというのは、自由主義の原則に反することになっちまいましてにゃー。
無論、自由主義の寛容につけこんで、馬鹿宗教の非寛容が跋扈したりすることもあるわけで、このあたりが自由主義の悩ましいところですにゃ。

33地下に眠るM:2007/11/17(土) 00:13:36 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

逐語的にレスする前に聞いておきたいですけどにゃ
おみゃーさんの言う通りに
>たぶんドーキンスは宗教の否定よりもむしろ、無宗教の擁護に重きを置いています(少なくとも僕はそう理解しています)。
のであれば、グールドを犬呼ばわりする必要なんてまったくにゃーと思うんだけど。

NOMA原理って、そもそも無宗教の擁護なんでにゃーのか?
グールドへの犬呼ばわりって、NOMA原理への否定でにゃーの?
つまりそれは無宗教擁護というよりは宗教否定とはならにゃーのかね?

その辺についての意見をお聞かせ願えにゃーですか?

34カクレクマノミ:2007/11/17(土) 14:46:13 ID:THRtI5kM
ドーキンスの考えでは、宗教は、自分たちが道徳的価値を扱うのに適した存在であるということを説得力を持って示してはいません。
にもかかわらずグールドは、道徳的価値を宗教の教導権下に置いてしまっています。

積極的な理由がないのに、道徳的価値を宗教のなわばりに献上するというのは、宗教へのご機嫌取りではないかとドーキンスは主張しているわけです。

35地下に眠るM:2007/11/18(日) 12:56:55 ID:yb0RBWTc
とりあえず簡単なレスね

>ドーキンスの考えでは、宗教は、自分たちが道徳的価値を扱うのに適した存在であるということを説得力を持って示してはいません。

ふーん、なんでドーキンスにそんなことがわかるのかにゃ?
カガクには道徳を扱えないことを認めていながら、なんで宗教、しかも既存の宗教全てに対してそういう判断ができるの?
僕にはぜーんぜんわかんにゃーんだけど。


>にもかかわらずグールドは、道徳的価値を宗教の教導権下に置いてしまっています。

え?
グールドは道徳を宗教に独占的に扱わせろとかいってるの?
そういう悪意に満ちた誤読をして相手を否定するという、創造カガク信者のような手口をドーキンスがしているのではにゃーのかね?

グールドがそんな白痴的な主張をしているというのなら、証拠を見せてほしいものだにゃ。

1)道徳の領域にカガクが口をだすべきではない
2)道徳の領域は宗教が独占するべきである

確かに(1)はグールドが主張しているけど、(2)をグールドが主張してんの?
もし(2)をグールドが主張しているのなら、ドーキンスによるグールドの犬呼ばわりは妥当でしょうにゃ。
しかし、グールドが(2)を主張してにゃーのなら、ドーキンスは創造カガクの連中と同じ類いのカスだにゃ。

もしもグールドが(2)の主張をしてにゃーのなら、ドーキンスはカスだとカクレクマノミも認めるかにゃ?

36chochonmage:2007/11/18(日) 14:21:32 ID:Qhwn4442
う〜、書きたいことがいっぱいあってどこから手をつけたらいいのか
よくわからん。とりあえず猫さんからいただいたレスについて。


猫様。
>>23へのレスありがとうございました。
しかし、私の比喩が良くなかったのか、少々ずれを感じましたので
再吟味していただけたら幸いです。

>浅見には聖書学について答えをいう資格があるだろ? 
>専門家が自らの専門の範囲において無知を無知と断じただけにゃんね。
>何の問題もにゃーだろ。

私の行った比喩は、ある「読者」(ドーキンス)が山本七平という人の著作を読んだり、
浅見さんの本を読んだりした後に(ドーキンスが各種宗教の経典を読んだり、信頼できる文献に当たった後に)
山本七平氏にはユダヤ教や英語に対する疑問には答えられないと判断しても(ドーキンスが「重要な問い」には
宗教は答えられないと判断しても)その「読者」(ドーキンス)自分はその答えを知っていると主張しているようには
私には思えないということです。

浅見さんとドーキンスを比べたわけではありません。

37カクレクマノミ:2007/11/18(日) 17:07:07 ID:THRtI5kM
はじめに断っておきます。僕としてはできる限りドーキンスを代弁しているつもりでいますが、議論が進むにつれて当然、僕自身の解釈による部分が多くなってくると思います。
というわけで、これはドーキンス自身の議論というよりも、僕なりのドーキンス解釈として読んでください。

>カガクには道徳を扱えないことを認めていながら、なんで宗教、しかも既存の宗教全てに対してそういう判断ができるの?

まず第一に、ドーキンスが科学者だからといって、科学のみに依存した議論しかしてはいけないということはないでしょう(それとも、科学者には殺人犯を非難することも許されないのですか?)。科学者であるグールドが主張してNOMAだって、科学の範疇内に収まるものではありません。
実際、「神は妄想である」のドーキンスの議論には、科学だけでなく倫理学などの分野も関連しています。

そして、ドーキンスの主張は、「宗教は道徳的価値を扱うのに適していない」ではなく「仮に宗教は道徳的価値を扱うのに適しているとしても、その理由は示されていない」というものです。
一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

>グールドは道徳を宗教に独占的に扱わせろとかいってるの?

訂正します。「独占的・特権的」というのは強すぎる表現でした。
しかしグールドは(独占的ではなくとも)道徳的価値を扱う資格を宗教に認めています。少なくとも、宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは間違いないでしょう。
そして繰り返しになりますが、宗教が道徳的価値を扱うのに適した存在であるということについての説得力のある理由は示されていません。

38地下に眠るM:2007/11/18(日) 19:09:43 ID:yb0RBWTc
>chochonmage

>浅見さんとドーキンスを比べたわけではありません。

浅見の発言の文脈と、ドーキンスの発言の文脈とを比較したうえで
浅見の発言から山本ベンダサンについて判断するのは妥当だけど、ドーキンスの発言から既成宗教全般について判断するのは話にならにゃーと書きましたにゃ。

39地下に眠るM:2007/11/18(日) 19:10:18 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>科学者には殺人犯を非難することも許されないのですか?

まったくソノトオリで、科学者には殺人犯を非難してもいっこうにかまわにゃーよな?
ならば、宗教家が殺人犯を非難することも許されて当然ではにゃーのかね?
殺人犯を非難するってのは、要するに「倫理的判断」をしているちゅうことだろ?

>実際、「神は妄想である」のドーキンスの議論には、科学だけでなく倫理学などの分野も関連しています。

うんうん。別に科学者が倫理について語っても構わにゃーと僕も思う。
しかし、宗教家が語っていけにゃーとも思わにゃーぜ。
科学者である自分が倫理を語るのはいいけど、宗教者に語る資格がないとでもいってるのなら、とんだダブスタ小僧にゃんねえ>ドーキンス

そもそもさ、倫理とか道徳って、専門家のみに語る資格があるという類いのものではにゃーだろ。
万人が従うべき規範について考えるときには、万人に発言権があるのはアッタリマエだよにゃ。例えば、犯罪者だからこそ説得力のある倫理に関する発言だってありえるわけだにゃ。道徳的価値を扱うについては、適するも適さないもなく、みなに発言権があるにゃんね。


その上、
宗教には積極的に倫理について発言してもらわなければ困るんだにゃ。理由はいま思いつくところで2つ。

1)先ほど言った通り、倫理とは万人に開かれ、万人が従うべき規範だよにゃ。であれば、多数派を無視することはできにゃーのよ。無論、多数決で決まるようなものではにゃーが、多数派を無視もできにゃーわけね。地球上では無神論者よりも信仰者の数のほうがはるかに多く、彼らの依拠する価値を無視できうるはずもにゃー。

2)倫理とか道徳というものは、ようは「価値」「規範」を扱うというこものだにゃ。で、価値や規範というのは実証的・科学的に決められるものではにゃーよな(実証的に価値や規範を決めるのであれば科学的に決めるべき)。で、現実に宗教というものは価値や規範を説いているだろ? 適している適してないとかいうお話以前に、実際に価値や規範を扱っているという事実が厳としてあるにゃんなあ。

つまりさ、
倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、あるいは排除することもブッブーなのよ。

>一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

したがって、適しているとか適してないとかいう話は問題外。
倫理や道徳については誰でも発言してよいし、責任を多く負うものには倫理の問題から離れることは許されにゃー。どうしても宗教の言い分を聞いておく必要はありますにゃ。したがって「宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは」まさに妥当な見解にゃんねえ。

40chochonmage:2007/11/19(月) 05:31:54 ID:Qhwn4442
えーっと、私はドーキンス派なのですが、猫さんご指摘の

1.ドーキンスがしていることは啓蒙活動である。
2.ドーキンスがしていることは文化相対主義の観点から問題がある。

の二点については、私としては認めざるを得ません。

しかし、その上でドーキンスの擁護にまわりたいと思います

>科学者である自分が倫理を語るのはいいけど、宗教者に語る資格がないとでもいってるのなら、
>とんだダブスタ小僧にゃんねえ>ドーキンス

ドーキンス氏(なぜか山本氏とか日本人には”氏”をつけて、
ドーキンスさんには”氏”つけてなかった。ダブスタもいい加減にしろよ>俺)
は上記のようには言っていないと思います。
宗教者の「宗教が無ければ倫理が崩壊する」という発言に対する押し返しとして
「宗教なくしても倫理は成り立つ」ということを論証しようとしています。

>倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、
あるいは排除することもブッブーなのよ。

「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。
猫さんは、上記ご発言で、「独占を排除すること」もブッブーだとおっしゃっているのでしょうか?

41chochonmage:2007/11/19(月) 05:36:22 ID:Qhwn4442
「啓蒙」の部分ですが、そもそもドーキンス氏は「フィクションとしての宗教」を否定していません。
例えば彼は「西洋人」としての文化的素養としての聖書理解はむしろ重要であるという認識です。
それは、シェークスピアの「物語」を「西洋人」の常識として身につけるのが重要であると考えることと
同様の認識だと思われます。

彼が批判しているのは、「宗教というフィクション」をそれこそ「逐語的」に取り入れ、その内容に「懐疑的」に接せず
「盲信」してしまうことだと思います。(それを信仰と呼ぶのでしょうが)
そして、信仰者がその奉じる宗教の内容をフィクションでないと主張することと、シェークスピアの物語が
フィクションでないと主張することの差異が、私には見えません。

>聖書の相互に矛盾するように見える記述について厖大な解釈がなされているのは僕だってしっているにゃ。

私は聖書学、神学等に全く無知でありますので、ご批判は甘受いたしますが、
ここの部分なんかは、私には「フィクションであるストーリーの矛盾部分の厖大なつじつま合わせ」に思われてしまいます。
(歴史学的な証拠に基づいて検証できる部分は除いて)
ラブクラフト氏のクトゥルフ神話を同時代、後世の人たちが様々に解釈、世界観の構築に励んだことに似ているように
思えます。
その研究過程で新たな重要な思想が生まれ、蓄積されてきたであろうことは容易に想像でき、かつ錬金術が科学を
大いに発展させたのと同様に有意義であったのであろうとは思いますが。

で、ドーキンス氏が「啓蒙」しようとしているのは、
「フィクションと現実をごっちゃにするなよ」=「クトゥルフの世界をほんとの世界だと思うなよ。(マニアには多いらしいっす。)」
レベルの話だと思うんです。
そのぐらい言ってもいいじゃん、と私なんぞは思ってしまうのは、やはり危険なのでしょうか。

さらに、「逐語解釈」について、読者が宗教文献を読むときにどこを逐語解釈し、どこを比喩的に捉えるかというのは
誰が決めるのでしょう。そこに神学のキモがあるのでしょうが、いずれにしても決める人の脳内の話になってしまうのでは
ないでしょうか。
私が例えばキリスト教に入信したいと思ったときに、極力「逐語解釈」から遠い宗派を選ぶのが安全なのでしょうか。
イエスが「神の子」である、「復活した」ひいては「神の存在」さえ逐語解釈していない宗派はあるのでしょうか。

42chochonmage:2007/11/19(月) 06:56:03 ID:Qhwn4442
シェークスピア「氏」、でした。
こだわると結構わずらわしいっすね。(^ ^;

43カクレクマノミ:2007/11/19(月) 08:53:45 ID:THRtI5kM
>ならば、宗教家が殺人犯を非難することも許されて当然ではにゃーのかね?

えと、宗教家が個人として倫理的判断をするのは全くかまわないし、宗教家の意見が一個人の意見としてそれなりに尊重されるのは全くかまわないでしょう。
ドーキンスもそれを否定したりはしていないと思いますが。

ドーキンスが問題にしているのは、宗教に基づいた意見が、そうでない意見に比べて特に尊重されるべき理由は示されていないというものです。
地下猫さんがおっしゃるように、宗教を信じている人の方が人数が多いから、尊重すべきというのは1つの理由かもしれません。でもそれは、宗教的意見と非宗教的意見を区別しなくても、単なる多数決と結果は変わりません。多数決の表現で言うなら、ドーキンスが批判しているのは、宗教に基づく票には重み付けして集計するような態度です。
ある人の意見は、宗教的であろうと非宗教的であろうと1票に数えられるべきです。

もう1つの問題は、宗教的意見であれば批判が許されないという点です。
いくら価値は相対的で、倫理は実証的に取り扱えないとしても、倫理的主張には説得力のあるものと荒唐無稽なものがあります。この点で価値相対主義的でないと言われればそうかもしれませんが、そこまで行くと相対主義と言うよりもアナーキズムになってしまうでしょう。地下猫さんだって、グールドによる価値に関する意見には説得力があり、ドーキンスのそれは荒唐無稽であると主張しているわけですし、この点には同意していただけると思います。
非宗教的に荒唐無稽な意見を言えば、もちろん批判されます。じゃあ宗教的で荒唐無稽な意見に対してはどうすればいいのでしょう?同じくらい荒唐無稽な非宗教的意見に比べて批判すべきでない理由はあるでしょうか?
ドーキンスはないと主張しますし、僕もそれに同意します。

44NAN:2007/11/19(月) 09:55:21 ID:???
かくなる私の考えによると、一般的(世俗的)に言う「神」とは「お偉いさん」すべてを象徴するものであり、なにか非常に現実的な「ご飯」とか「おこづかい」とか時には「罰」を「生きている者」に与える存在です。言い換えれば倫理そのもの、と云ってもいいでしょう。お金を盗んだらいけないことも、むやみに人を殺してはいけないことも、それらは妄想である現実を保つために必要な「狂気」の一種であり、この狂気がもしも霧散したならば、今ある文明社会とやらが根底からひっくり返るような類のものです。

これらは大抵、誰もが営んでいる生活の対価として現れます。自給800円で8時間働くと6400円もらえる。信仰はこれほど具体的ではないけれど、一種のヒエラルキー(坊さんの位とか位牌とか牧師のランクとか果ては天使の階級まで様々)が存在することが、やはり実績に対する対価を保証していて、それらピラミッドの頂点に位置するものが「世俗的な神」の正体なのだろう、と思います。

信仰に対して、そんなものどうでもいいじゃん!と云える人であっても、社会的信用制度に対してそれを云える人はとても少ないでしょう。お金?全部あげるよ!とか云えないことと同じです。特定地域における信仰はそれ以上に厳格な規範として共同体を支え(だって財産投げ出しても信仰するんだぜ)、規範に背くものには積極的に罰を与える。まさにそこでは信徒が神そのものであり、彼らの「意向」に背くということはそのまま、神への冒涜であることにワイヤリングされちゃう…しかもごく自然にそうなるのではないでしょうかね。

では科学はなにをするのか?

コレは当然、それらが妄想であることを暴く存在です。しかも「倫理に束縛されない」という、ジンルイ歴史上最強の無敵モードというかチート行為によって、一部のニンゲンの目を片っ端から覚ましてしまう、実にキケンなシロモノなのですね。

なんてことだ!イカの目が我々ニンゲンの目より高度な構造になっていたなんて!これが科学です。究極の平等であり、無差別攻撃です。天体の運動も、時間さえもが相対的であることを暴き、ジンルイシャカイを支えるあらゆるヒエラルキーが、それらはまったく正当性の見当たらない、単に「ヒトビトの要求」によってルール化された真実味のない妄想であることさえ教えてしまう、価値に依存する人にとっては猛毒と云って差し支えないでしょう。

しかしここで気付くことがあります。巨大宗教の本当に原始的な教えも、実は似たようなものではなかっただろうか?ある苦しみがそこにあるのならば、その原因を科学的に探り、ワケの分からない形而上に頼らずに問題解決に臨め、と教えたのではないだろうか。私はそう思います。難しい問題はなんでも「神のミワザ」にしちゃうのも、消費税の税率が上がる本当の理由も、似たようなものです。問題の棚上げやすり替えによって、妄想を保つ行為にほかなりません。

いわゆるキリスト教信者で全うな生物科学者である人は、山ほどいるでしょう。相対論を数式(幾何)で理解している仏教家も、数多くいることでしょう。私は思うのですが、彼らは迷うことなく信仰と科学を両立させているのでしょう。それは恐らく、我々が営む「現実と認識される世界」が妄想であることを認め、受け容れた後に訪れる(宗教的な意味に於いても)「悟り」の境地に近いのではないでしょうか。

神とはつまり、想像を超えるもの、であるはずだと私は思います。聖書に書いてある神なんてのは、想像の産物なのですから神であるはずがない(しかしガイネンとしての神を導入するきっかけには使える)。人語にコーディングされた瞬間、神は神でなくなる。そういうものだと思うのです。既存宗教とはこれに反し、想像の「限界」を経典の内部に閉じ込め、封印させる装置です。国家も似たようなものですが、一応立法制度があるので少しは革新的かも知れません。まぁ現実が妄想であることがバレないようにするには、想像の限界点というのを定め、定点化することで絶対的な価値観を維持できるってことですね。

神と科学は、もちろん共存できるでしょう。それが私の結論です。想像の限界を超え、あらゆる屈辱的な事実を受け容れ、事象と向き合う姿勢こそが科学の姿である、と私は思います。だからこそ、真に科学的である姿勢を貫ける人格というのは、ほとんど存在しないだろうな、とも思います。

45NAN:2007/11/19(月) 09:55:57 ID:???
件の本は私も未読なので書評的なことは書けませんが…少なくともドーキンスは時折、宗教(あるいは宗教家)に対して露骨な感情(もちろん嫌悪)を露に表現していることは間違いない、と私は思う。この理由、つまり米国の末期的な狂信者の群れと共存しなければならない進化生物学者のストレスという点について、私は大いに同情できるし理解もできるけれど、かといってそれが「行き過ぎに見える」ことに違いはありません。

で、このスレってドーキンスの人物評スレ(あるいは書評)なの?だったら正直あんまり興味ないんだけど、スレタイどおりに「神と科学は共存できるか?」ってところを主題にして良ければ若干書きたいことがあります。

根源的に考えると、情緒を持つ生物すべてが恐れるものは「死」ですね。人間においてそれは激しく顕著で、信仰はそれを薄れさせてくれるものだったのだろう、と私は思います。言い方を変えると、一種の生命保険ですね。きちんと積み立てすると、こんだけ保証があんだよ、みたいな(笑。死の恐怖を担保しつつ、生の苦しみを補填してくれるものが信仰だったのでしょう。お金を貯めるのも社会的地位を向上させるのもあれこれと蓄財したりコレクションしたりするのも、生の満足度と死の恐怖とのバランスシートの上で成り立っているのではないだろうか?なんてことを最近は考えています。

そいでもって、猫氏じゃないけど私にとって究極の理解ってのがあり、それは「なんでも妄想なんじゃん!」という科学的知見に基づくスタンス(視点)です。ドーキンスが「悪魔に仕える牧師」の中で書いている、分子の格子の中の兵隊の視点では、世界はスカスカです。電子と電子、あるいは核と電子、あるいは分子配列中の各原子の距離というのは、人間的スケールに直すと膨大なものであり、私たちがなにかに「触れた」と感じているのも、実は電子のやりとりに過ぎない。とても硬い壁に思えているものも、たまたま私たちの脳は「硬くて通り抜けられない」と知覚する(それも恐らく進化的要望によって)に過ぎない。私たちは妄想(あるいは知覚という幻想)の中で生きているという事実です。

ところが…我々が感じる苦悩や欲望、あるいは喜びや幸せさえもが、実は妄想であることを約2000年ほど前に説いた人がいます。イエスですね。ていうか仏陀でもいいけど、原始経典にある「教え」ってそういうものでしょ。キリスト教は詳しくないけど、原始仏教なんかそうですね。(死を超えるとかってそういうことじゃなかろうか)

しかし、世界が妄想だと困る人たちがいる。最初は弟子たち、以後は教会や寺社かな。「神」を強く導入したのはそういう人たちでしょう。死んだら仏になるとか神がいつも見ているとか、それらは帰依を強要し死を担保された共同体として強く結びついていったんじゃないでしょうかね。

実は、生命保険だとか積み立て預金の勧誘と布教活動はそっくりだな、と思っています。どちらも「価値」を保証するものだし、自由経済社会における倫理を支えるものって、実は通貨だったりするんだけど(なにせ罰金刑だとか保釈金なんてものがある)、信仰によって得られるものはなんだ?と考えると…ああそうか、教会に行っている、という「共同意識」なんかが、たとえば米国などでは非常に強い、きっと「村(共同体)への帰属意識」なのではないかな、と思います。

内心の自由ではなく、共同体としての確固たる枠組みを保つためには、さまざまな理由付け、あるいは私の大嫌いな「自己正当化」が必ず必要で、これに反するもの、つまり経典に反するものを排除したがるのも頷けるところでして、創造科学信仰家が守りたいものとは、個別の信仰ではなく共同体としての信仰集団を支える正当性なんだろうね、などと思うわけです。

と、前振りが長くなりましたがいよいよ本題へ(笑。

46NAN:2007/11/19(月) 09:56:33 ID:???
失礼!書き込みが逆順に投稿されちまいましたとさ!

47chochonmage:2007/11/19(月) 15:40:37 ID:Qhwn4442
それから、文化相対主義の話なのですが、私も基本的には文化相対主義者でありたいと思っています。
他者の文化を大切にしよう、他者の意見を大切にしよう、お父さんお母さんを大切にしよう、一日一善!
などと思ってしまう今日この頃ではあります。

しかし、文化相対主義というのは無敵の思想なのでしょうか。
すでに古い議論かもしれませんが女性割礼廃絶運動が文化相対主義者
から批判された一件など、私はやはり廃絶運動の方を支持したくなります。
(もちろんどうしてもしたいと本人が主張した場合、止める権利はだれにもありませんが。)

また、ある文化が「他文化の否定」を既に含んでいた場合(多くの宗教なんかモロこれにあてはまる
と思うのですが)それさえも尊重しなさいという話になって自己矛盾しちゃいます。
(「お前は他者の文化を否定してるから間違っとる」「これは我々の所属するコミュニティの
文化であるからして、その文化を否定するお前の方が間違っとる」ってな話ですな。)

さらに、文化相対主義を徹底した場合「完全逐語解釈宗教者」やNOMA侵犯の「創造科学者」でさえ、
それもまた文化の一部だということで、「カス」だとはよべなくなってしまうと思うのです。

で、文化相対主義の観点から問題ありとしても、必ずしも誤ってるとは言えないと
思うのですが、これは私の浅薄な見方にすぎないのでしょうか。

48後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:22:30 ID:FvvOuBrA
>>18の約束通り、とりあえず11月15日までのコメントについて返信したいと思います。3日かけて冷静に多面的批判的にじっくり読んだつもりですけど、まだ誤読・誤解、重要な論点の見落としなどがあれば指摘していただきたいと思います。それ以降のコメントについては、私自身がまだ我田引水な誤読や先入観による誤解をしている点が多々あると思いますので、もう少しきちんと読み返した上で返信したいと思います。

>>20:chochonmageさん
>猫さんの「固有文化否定のローラー作戦」、「啓蒙主義の血塗られた歴史」等の
>記述を読んで、現在考えが色々と揺れております。

「固有文化否定のローラー作戦」については、>>3のコメント(2007/11/07 20:49)の最初の段落を読んでも納得できなかったということでしょうか。ならば、『神は妄想である』第1章「すこぶる宗教的な不信心者」などを読むといいと思います。

>>20:chochonmageさん
>というのは、「おバカなこと」を撲滅することは、即ち「おバカなことを信じちゃう人」を撲滅する
>ことに繋がることに気がつかされたからです。それってやはり血塗られた道になりそうです。

「おバカなこと=“正しさ”を独占するモノ」がなければ、たぶん血塗られた道にはならない気がしますが、楽観的過ぎるでしょうか。人間を「血塗られた道」に駆り立てるモノが何なのかを、もう一度検討してみる価値はあるかも知れません。
>>17のたとえ話をもう一度読んで欲しいのですけど、(4)のような場で「俺が正しい! 俺に従え!」と言い張る人がいたら、誰かがその人を諭すか、だんだんと人が離れていくだけですよね。あなたはそういう人を殴り倒せますか。そういう気持ちにはなるかも知れませんが、まず実際にそんなことはしませんよね。殴り倒すことが、その人の「悪行」への制裁として本当に相応しいかどうか、まず考えてしまうはずです(相応しいとなれば殴り倒すでしょうけど、そういった場面場面で下される我々の判断がどれほど普遍性をもち信頼に値するかについての議論は、『神は妄想である』第6〜7章に詳しいです)。そういうふうになっていくんじゃないでしょうか。
しかし、「おバカなこと=“正しさ”を独占するモノ」にとって、その「正しさ」に疑問をもつとか、その「正しさ」を認められないとかいった「罪」は、無条件で自動的にどのような制裁にも釣り合う罪になってしまう傾向がとてつもなく強いわけです。その点こそを問題にし、非難しているわけです。

>>20:chochonmageさん
>で、やはり後悔と懺悔さんは「おバカなこと撲滅論者」ではありませんか?

正直に言うと、私の立場は、「おバカなこと=“正しさ”を独占するモノ」がどれほど人類にとって悪しきモノかということを、すべての人間が学び知るべきだ──というところまでです。
何度も書いてるけど、人間なんて弱いモノです。絶対的な「正しさ」を求めてしまう心を撲滅してしまうことが本当にできるとは思えません。少なくとも私はできない。でも、人間が本来的にもつそういった心の「悪しき」部分が他人に噛み付いたりしないように、ある程度飼い慣らすことはできると思うんです。だから、あえて言うなら「おバカなこと探究論者」かな。マキアベリじゃないけど、「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである」ということを主張したいと考えています。
──でも、本当に撲滅できるのならば、(手段にもよりますけど)それにこしたことはないとも思っています。『神は妄想である』はその意味でも挑戦的で興味深い意欲作だと思います。

>>20:chochonmageさん
>上記なような「おバカなこと」も信じちゃうのがあたりまえだと考えた方がいいのでしょうか?

横レスで失礼しますが、私自身は、人間は「おバカなこと」も信じちゃうのが当たり前だと考えた方が良いと思います。そしてそのことは現代の人間が必ず学ばなければならないことの一つだと考えています。宗教について、この観点からの議論は『神は妄想である』第5章「宗教の起源」に詳しいです。

49後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:24:14 ID:FvvOuBrA
>>25:カクレクマノミさん
>ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?

そのとおりなのですけど、私はニーチェみたいに(?)「神なんかに頼らないで、ひとりひとりが強くなって生きようね」などと主張できるほど、人類に対して楽観的にはなれないわけです。『神は妄想である』第5章「宗教の起源」などを読めば、「重要な問い」に向き合う際に「宗教」が人類にとっていかに拒みがたく魅力的な麻薬であるか納得していただけるのではないでしょうか。
いろんな意味で問題のある比喩ですけど、煙草を吸うか吸わないかの答えを出すのは各個人です。でも、煙草の魅力に逆らうのは(特に幼少時からそれに接している人にとっては)難しいのではないのでしょうか。特に煙草の(いろんな意味での)害を知らなければ、なおさらです。私は喫煙者を非難するのではなく、煙草そのものの害をいろいろな面から論じることで、各個人が煙草を選ぶときの判断基準を提供したいわけです(で、私の主張が正当でかつ説得力を持つものならば、煙草はしだいに社会から姿を消すことになっていく──当然喫煙者も少なくなっていくし、残った喫煙者は煙草の(いろんな意味での)害についてちゃんと理解した上で楽しむようになる──と期待しても良いでしょう)。

>>26:GBさん
>人の「理性」がそれらの問題に答え得るというのは、幻想なのではないか。

何度も繰り返していますけど、この(当然生じうる)疑問については、私は主に2つの点から反論をしています。
(1)「重要な問い」に対する何らかの答え(絶対的な「正しい」答え)が得られて、それを人類が共有できるというのは確かに幻想であるし、有害ですらある(もちろん各個人がその答えを得たと思うのは構わない)。私が主張したいのは「重要な問い」への向き合い方についてである。
(2)「重要な問い」への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ思われる)。この点については、『神は妄想である』第6〜7章で徹底的批判的に議論されている。
ただ、この2点(特に(2))の主張の正当性について私の信頼度はドーキンスほど強固ではありません。だからこそ、ここでさまざまな方のご意見をうかがいたいわけです。

>>27:Kosukeさん
>究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

Kosukeさん自身も認めていらっしゃるように、いわゆる「宗教」が実際にはそういうものではないから非難しているわけです。
付け加えるならば、そういうものは(少なくとも私とたぶんドーキンスも)ここでは「宗教」とは呼んでいません(たとえば、>>16の【立場2d】(補記)や、『神は妄想である』第1〜2章などを参照)。余談ですけど、私が注意深く括弧付きで「宗教」と書いたり、「“正しさ”を独占するモノ」と言い換えたりしているのも、そういう理由からです。

50後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:25:09 ID:FvvOuBrA
>>24:AH1さんの論点は、私の立場(“「宗教」有害論”&“人類は「宗教」がなくても「重要な問い」にうまく向かい合える論”の立場)にとって興味深いものであるので、少し詳しく論じておきたいと思います。

まず、対立する意見が深刻な衝突をおこした場合、議論以上に望ましい解決策が私には思い浮かびません。この点については、ぜひとも皆さまのご意見をうかがいたいと思っています。
なお、誤解のないように付記しておけば、正しくは「私」が思い浮かばないのではなく、私がこれまで知りえた狭く偏った僅かな知識や経験のなかに、議論以上に望ましいと思えた解決策のアイデアが存在しないということです。>>7の地下に眠るMさんのコメントにならって言うなら、私はプラトーンには遠く及びませんが、プラトーンに学ぶことはできますから(ちなみに古代ギリシアのデマゴーグたちやソフィストたちからも学ぶべきことが多いのは知っています、念の為)。
さらにあわてて補足しておきますけど、ここでいう「議論」とは、「ディベート」や「言い争い」みたいなものでも、ましてや「勝ち負け」を決めるようなものでもないということは強調させて下さい。

さて、実は、日常生活で対立する意見が深刻な衝突をおこす事態というのは案外少ないのではないでしょうか。>>17の例でも、「あえて言えば中華だけど別になんでもいい」「むしろ誰かにスパッと決めてもらえるとありがたい」という人も多いわけです。
一般的な極めて単純化した話をすれば、人生に立ちはだかるさまざまな問題に対して優先順位(または「譲れない度」とでも言いましょうか)というものがあります。ある問題に対して、Aさんはとても差し迫った重大な問題ととらえるかも知れません。同じ問題に対してBさんはあまり関心をもたないかも知れません。一般に、ある問題に対して高い優先順位を与えた人は、そうでない人に比べて、その問題についてより広く深く知識を集め思索を深めていると期待することができますから、意見の対立があった場合には、とりあえずそういう人の意見を聞いておこう──と判断する傾向が多くの人間にはあるわけです。人類はそれでとんでもない大失敗をしでかしてしまうことも多かったわけですが、長い目で見れば、全体的には概ねそれでうまくやっていったように見えます。

たとえば、普通の多くの人にとって「同性愛問題」は、その人が抱え思い悩むさまざまな問題のなかでも特に高い優先順位が与えられるということはまずないと思われます。少なくとも、その人が払わねばならない税金についての議論よりも優先順位が上であることはないでしょうし、同性愛者自身が同性愛問題に与える優先順位よりも上になることはおよそ考えられないでしょう。だから、同性愛問題で意見が対立した場合、当然議論になりますが、普通の多くの人は同性愛者に主導権を譲るわけです(ただ、もしも同性愛者が税制的な優遇や公的福祉の拡充などを主張すれば、普通の多くの人が高い優先順位を与えている問題に抵触しますから、真剣な議論が必要になるでしょうけど……)。

しかし、「“正しさ”を独占するモノ」、特に「宗教」が絡むと事態は不穏に変化します。
信仰者にとって、「宗教」はつねに優先順位の最上位にくることになります(それは「正しさ」を独占するものですから)。一般の信仰者にとって同性愛問題の優先順位は低いかも知れませんが、「宗教」の教義がそれを否定しているとなれば、無条件でそれはその人の優先順位の最上位に置かれてしまいます。信仰者にとっては「“正しさ”を独占するモノ」の見解に反する主張を撲滅することが優先順位の最上位を占めているからです。さらに、その問題についてより広く深く知識を集め思索を深めていると期待できる人の見解を学んだり取り入れたりして自分の見解を改善することが期待できません。「“正しさ”を独占するモノ」の見解は予断なく「正しい」からです。

つまり、「宗教」は本来おこりえなかったはずの深刻な対立・衝突を誘発するものでもあるわけです。これが私が「宗教有害論」を唱える根拠のひとつ(あくまでひとつ)です。
もちろん、このような本来不要なはずの深刻な対立を煽る傾向は「宗教」に限ったことではありませんが、特にこの点における「宗教」の絶大な威力は目に余るものがあるように感じます。

51後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:28:49 ID:FvvOuBrA
正直に言って、地下に眠るMさんは『神は妄想である』を読んだほうが良いと思います。「藁人形論法」という言葉をご存知かも知れませんけど、地下に眠るMさんのここでの主張は完全に「藁人形論法」になっています。

>>21:地下に眠るMさん
>ただ、宗教は「重要な問い」に答えられない、という判断は少なくとも科学がしてよいことではにゃーといっているんだにゃ。

これは2重の意味ではっきり誤解です。誰も「宗教は「重要な問い」に答えられない」とは言っていません。主張しているのは「「重要な問い」に対する答えとしての宗教は有害である」ということです。そして、誰もその主張の根拠を「科学」に求めたりしていません。「宗教がいかに有害か」を述べるのに「科学」など必要ないことは言うまでもないでしょう。
これらは『神は妄想である』を読んだ人間にとって誤解の余地はありません。

>>21:地下に眠るMさん
>僕は、ドーキンスは「啓蒙」の立場だと思ってるにゃ。

私は「(地下に眠るMさんのいう意味での)啓蒙」の立場ではない気がします。「重要な問い」に絶対的な正しい答え(と称するモノ)を与えるモノはなんであれすべて有害だ──と誰よりも強く主張しているドーキンスに向かって、『神は妄想である』を読まずに、彼が「(地下に眠るMさんのいう意味での)啓蒙」の立場だとして非難するというのは、勇み足に過ぎると思います。
「重要な問い」に絶対的な正しい答えがなくても、人間は「重要な問い」に向き合えるはずではないのか──ということを、『神は妄想である』のなかで彼は徹底的批判的に検討しているものと、私は理解しました。この彼の立場は、「(地下に眠るMさんのいう意味での)啓蒙」の立場とイコールなのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

>>21:地下に眠るMさん
>各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。

それは、各宗教が人々にその「正しさ」を強制しない限りにおいて、また、各宗教が教義の対立する他の宗教に対しても自由と寛容の精神を保てる限りにおいて、認められるべきかと思います。そして、ここで問題になっている「宗教」は、容易に喜んでその自由と寛容の精神を破棄する強い傾向をもつことが避けえないし、実際破棄し続けてきたという点を非難されているわけです。
そういう傾向のない「文化としての宗教(という言い方が適切かどうか分からないけど)」については、>>3のコメント(2007/11/07 20:49)の最初の段落、および>>16の【立場2d】(補記)ですでに述べたとおりです。それでも納得できないようでしたら、『神は妄想である』第1〜2章を読むことをお勧めします。

>>22:地下に眠るMさん
>3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。

ご説明のことはもちろん存じています。私は(そしてたぶんドーキンスも)、「“正しさ”を独占するモノ」が著しく容易にこれ以上ないほど効果的かつ徹底的に「他者危害原則」を犯すことを助長しうる──と非難しているわけです。私が(そしてドーキンスも)「(他人に危害を及ぼさない)愚行権」を否定したことがあったでしょうか。少なくとも私は「愚行権」を非難する気はまったくありません。>>16の【立場2d】(補記)や、>>17のたとえ話の(4)は、その種の誤解をあらかじめ回避する意図だったのですけど……。

──────────
ところで、最初、私は、地下に眠るMさんは、「「重要な問い」に向き合うのに、人類から「宗教」を奪ったら、「(地下に眠るMさんがいう意味での)啓蒙」しか残らない」「だから「宗教」はいわば“必要悪”である」という主張をしているのかと思っていました(>>4で引用された一番下のコメントなどを参照)。

しかし、「ドーキンスは、「重要な問い」に向き合おうという人類から「宗教」を奪って「(地下に眠るMさんがいう意味での)啓蒙」を押しつけようとしている」というのが、地下に眠るMさんの現在の主張なのだとしたら、はっきり言って、私は、私の知らなかった・気づかなかった視点や論点・事実などに気づかせてもらえるなど、この議論を通じて地下に眠るMさんから何かを得られるかも知れないという期待をもつことができません。ドーキンスの立場については、カクレクマノさんが(私よりも的確かつ端的に)説明されていますから、私がこの件についてこれ以上口を挟んでカクレクマノさんの解説を邪魔するのは良くないでしょう(もちろん、『神は妄想である』を読んでなお同じようなことを主張なさるのでしたら、話は別ですけど)。

52後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:30:09 ID:FvvOuBrA
>>22:地下に眠るMさん

加藤尚武『現代倫理学入門』を読みました(ご紹介ありがとうございます)。倫理学者たちの思索の偉大な成果はともかく、『神は妄想である』では、似たようなより悩ましい様々な事例について、現実の人間(西洋人及び文明人との交渉がほとんどなく宗教らしい宗教も持たない中央アメリカの小さな部族)の道徳感覚を実際に調査した研究が紹介されています(p.325以下)。大変興味深い結果だと思うので、一読をお勧めします。
ちなみに、イスラエルの子供1000人以上に対する調査で、聖書の「ヨシュア記」のエピソード(預言者ヨシュアに命じられたイスラエルの民が異教徒の町々を焼き払い、女子供家畜にいたるまで一人残らず虐殺した上で財宝を略奪し主に捧げた物語)について、74%が民は正しい振る舞いをしたと回答したこと、また、ヨシュアを「リン将軍」、イスラエルを「3000年前の中国の王国」に変えただけのまったく同じ文章では、民の振る舞いを是認したのは7%に激減したことも紹介されています(p.372以下)。

──────────
ところで、ここでの議論とはまったく関係ないのですけど、個人的な興味から教えて欲しいことがあります。

>>22:地下に眠るMさん
>種痘の予防接種法を発見したジェンナーなんて、愚行の極みを地でいっとるよにゃ。

似た分野で言えば、華岡青洲の妻や母、晩年の野口英世などに対して「愚行の極みを地でいっている」というのなら理解できなくもないのですけど、ジェンナーって、何か「愚行の極み」のようなことをしてましたっけ。私は、先にも書いたように、人間の愚行(我々はどんな愚行をしでかしうるのか)にはとても興味があるので、ぜひ教えて下さい。

53chochonmage:2007/11/21(水) 03:07:14 ID:Qhwn4442
後悔と懺悔様

>世界各地の固有文化と「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)への
>答えとしての宗教」は分離可能だと私は考えますし,

猫さんは、

>ドーキンスの言い分って固有文化否定のローラー作戦、あるいは貨幣を唯一神とあがめる「グローバリズム」
>とかいう名の拝金教のイデオローグにもなりかねにゃーんだ。

と、書かれてます。「である。」とはおっしゃっていません。
で、私も「なりかねにゃー」と思います。

後悔と懺悔や私の立場からすれば「分離可能」だと考えられるし、それがそれほど困難な
ことだとは思えませんが、宗教が日常の、そして人生そのもののほとんどを占めてしまって
いる方たちっているわけで(極端な例で言うとアーミッシュの人たちとか)、この方たちにとって、
宗教を何かから分離するというのはとんでもなく難しいことだと思うのです。

我々がここで固有文化と「重要な問い」に対する答えとしての宗教を分離した議論を展開することは
可能ですし、「宗教≒人生」外部の人たちの間でのある程度の合意を得ることも可能かも知れません。

でも、例えば米国の白人ばっかの小さな田舎町を想像してみてください。そこでは教会がコミュニティの
中心であり、皆で同様の思想を共有してそれなりに平和に暮らしちゃってるわけですよね。
そこはかなり外界から隔離された場所であり、情報が行き届き難い場所でむかしながらに暮らしている
わけです。
もちろん現代のインターネットやら通信技術の発展した世界で「我々には情報が届きにくい」とか主張されたら、
私なんぞは、そらぁ単なる怠慢やんけとか言いたくなりますけど。しかも恵まれた米国で。

私はそういう「宗教≒人生」という人たちを見たり、それが大きな理由のひとつとなって世に起きている悲惨を
見て「何とかならんのか」という感想を抱きますし、かつ私の考える「おバカなこと」を「撲滅」したく思ってしまいます。
また、ドーキンス氏がさんざん論じておられるように、「宗教≒人生」の人たちの子供たちが親の考えを刷り込まれ、
公平な知見を得るのに困難が生じることに対して憤りを覚えます。

ただ、猫さんの記述を拝読して「ことはそれほど単純ではないな」ということを改めて確認させられました。
モルモンの人たちのように国家と戦争になっちまうことさえあるのですから、「宗教≒人生」という人たちが存在する
以上それを変えようとする動きには相当な抵抗が予想され、状況次第で簡単に血塗られた道になりそうだと
思います。

ですが、ドーキンス氏が主張していることは(「本音」は撲滅したいのだとまだ私は思っているのですが)
カクレクマノミさんがわかりやすく、的確に要約してくださっていることだと思いますので、
私はドーキンス氏を支持したいです。

54地下に眠るM:2007/11/21(水) 13:01:27 ID:cizMQ0FI
>カクレクマノミ

おみゃーさんが>>43で述べた内容に特に異論はありませんにゃ。
でもさ、>>43の記述内容ってグールドの言っていることと変わらないんでにゃーの?
なんでグールドが犬呼ばわりされたんだろ?
ドーキンスの考えが>>43のようなものだとしたら、グールドへの犬呼ばわりの理由がわかんにゃーのだが

グールド「宗教と科学は共存できるだろ」
ドーキンス「共存だとお? おまえは宗教の犬か? あいつらは侵略者なんだ。」
という話なのでにゃーの?

つまり、このロジックでは最終的には宗教全否定にならざるをえにゃーんだけど。
ドーキンスの主張って「やつらは侵略者だ。殺られる前に殺っちまおうぜ」
とかいう全体主義国家の総統が好むロジックなんでにゃーですか?

55カクレクマノミ:2007/11/21(水) 14:48:38 ID:THRtI5kM
ドーキンスのどの主張が、「やつらは侵略者だ。殺られる前に殺っちまおうぜ」に対応するのかよくわからないので、返答できません。

56地下に眠るM:2007/11/21(水) 14:58:01 ID:cizMQ0FI
グールド「宗教と科学は共存できるだろ」
ドーキンス「共存だとお? おまえは宗教の犬か? あいつらは侵略者なんだ。」

まではおっけー?>カクレクマノミ

で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

57AH1:2007/11/21(水) 16:24:27 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔様

>まず、対立する意見が深刻な衝突をおこした場合、議論以上に望ましい解決策が私には思い浮かびません。この点については、ぜひとも皆さまのご意見をうかがいたいと思っています。

はい、私もそのように考えます。より正確に言えば、「正しいであろう判断」としてそれを支持します。
内心で「この阿呆が**したろか!!」と思うことはありますが、現在、自分の暮らす社会で、公に認められないであろうという意味です。
(さらに自分だけが何をしてもいいというのは不公平であると認めているとか、そういう点もあります)

>さて、実は、日常生活で対立する意見が深刻な衝突をおこす事態というのは案外少ないのではないでしょうか。>>17の例でも、「あえて言えば中華だけど別になんでもいい」「むしろ誰かにスパッと決めてもらえるとありがたい」という人も多いわけです。

同意します。先の投稿では対立する場合としてちょっと強調して例を挙げました。
「今日は中華!神様がそう決めたの!」に対する反論は、二種類あるかと思います。
一つは「俺は中華は食いたくないんだ!」という場合です。
>>50で挙げておられる優先順位の問題は「なんでもいい」から「中華は絶対に嫌(理由は和食が食いたいから、中華が嫌いだから、etc.)」にいたる、その人の昼食のメニューの重要性に例えられるかと思います。

いま一つは「お前の決め方はおかしいだろ!」という場合でしょう。
後者は「中華は食いたくない」場合もあるし、そうではない場合もあるだろうと考えます。そうではない場合というのは、「中華を食うことには賛成だがお前の決め方は悪いだろ」であり、物事を決める時のお約束を守らない相手に対するダメ出しという意味です。

>しかし、「“正しさ”を独占するモノ」、特に「宗教」が絡むと事態は不穏に変化します。
>信仰者にとって、「宗教」はつねに優先順位の最上位にくることになります(それは「正しさ」を独占するものですから)。

まさにそうであろうと思います。前回は長くなるので省きましたが、教義や布教は恐らく、(言葉は悪いかもしれませんが)侵略性を持つ場合がある、あるいは持ちがちである・・という事があるでしょう。kosukeさんが「内心であれば」と書いておられますが、例えば「内心ではイカンと思いつつ牛肉を食べるヒンズー教徒」はかなりな苦痛でしょう。また、ある信仰に深く帰依した人にとって、明らかに神の道を守らず、どうかすれば地獄行きの道を歩く衆生を救済するのは、その人の努めと感じられるかもしれません。
で、「ある一つの絶対基準」を持つ人にとって他人との協議などは無意味であり、当然、「協議するという同じ土俵に立つ」ことを拒否するでしょう。
つまり、
>「“正しさ”を独占するモノ」の見解は予断なく「正しい」からです。
と同じ意見です。
これは「同じ土俵に立とうとしない相手をどうするか」という問題であり、
多様な意見を認める立場としては、「違う土俵に立つ相手に対しても、なるべく公平なルールを適応しようとすべきではないか」という事になるかと思います。
これが「この土俵のすばらしさがわからんボケは撲滅したるんじゃー!」になると、「同じ土俵か、死か」という極めて侵略的・暴力的なものになるでしょう。
その壁は意外と薄いのではないか、と思います。

>もちろん、このような本来不要なはずの深刻な対立を煽る傾向は「宗教」に限ったことではありませんが、特にこの点における「宗教」の絶大な威力は目に余るものがあるように感じます。

はい、しばしば絶大であろうと思いますね。
しかし、それを「宗教」としてくくって良いのだろうか?というのが私にもわからないところです。さっき牛肉を食べるヒンズー教徒はいそうにないと言いましたが、そこまで「譲れない度」が高くなければ適当に折り合いをつけている人々もいるであろうことは疑いません。
よって「狂信的に社会を破壊するものは、多数の幸福のために排除せざるを得ない場合があるだろう」ことには同意するのですが(テロを野放しにしていいとは言わない)、
それが「宗教の排斥」になるとやりすぎではないか? つまり、宗教ではなく
「他人の言い分に全く耳を貸さず、他人が嫌がったり悲しんだりする事にも目をつぶり、自分の正しさをふりかざせば何をしても良いという態度」
が悪いのであり、宗教は時としてこれに手を貸すかも知れないけれども、全部を「宗教は」と呼ぶことに抵抗があるという事です。
ドーキンスは原理主義的・狂信的なものを指して「宗教」と呼び、批判しているように見えますが、なにが宗教でなにが宗教でないか?という点は私にはなんとも言えず、
ドーキンスの表現には納得していない所があります。

58リリス:2007/11/21(水) 23:31:16 ID:nrzx3pJo
こんばんわです。

件の「神は妄想である」、私も未読なんですが、ドーキンスの宗教批判の文章なら幾つか目にしています。私の場合、頭の中で[宗教→西洋系一神教の中でも保守的でちょっとアレな宗教さん]と翻訳して読んでいるので、賛同する気持ちが大きいです。でも「宗教→既存の宗教全て」と読むなら、もの申したいところが多いですね。ドーキンスの批判は、仏教儒教神道ヒンドゥー教その他アミニズム系などの西洋系一神教以外の宗教を広く考慮したものとは思えませんから。

NANさんが原始経典について注意を促しておられますが、仏教では今でも「空」「無」が教えの中核に据えられているでしょう。ここでは、世界を確固とした実体のあるものとして把握するのは人間のこころの働きによる、とされています。これは「すべては妄想である(だからと言って無価値という意味ではないけど)」とも言えますし、具体的な正しさという概念を人間のこころの裡にあるものとすることで、「問い」に絶対的な「正しい」答えなどないと主張することに通じると思えます。

「宗教」というのは非常に門戸の広いものでしょう。人間の情動と深く関わっている分野ですから、「神」のような絶対価値の概念と結びつきやすいのは宿命かもしれません。しかし「宗教に神は必須か」という問いだって立てられると思います。禅宗に至っては、「仏に逢っては仏を殺し、・・・」「仏とは乾屎蕨(かんしけつ)」などという、「仏」を「神」に置き替えたならばクリスチャンが卒倒してしまいそうな言葉まであるくらいですもの(笑)。

問題なのは、信仰に名を借りた思考停止や、無意識的にであれ思考停止を他者にも求めること、教義(の解釈)の正しさを確信するあまり他の正しさに対して盲目になってしまうこと、などでしょう。またニーチェは、仮想された「絶対的真理」を過剰に重んじる事がリアルの人間存在の軽視に繋がることについて警鐘を鳴らしていたと記憶しています。これらの根底には、問いに確固とした答えがあると思う傾向、自分が正しい側にあると思いたがる傾向、人生の価値に保証を求める傾向、などがあると思います。で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです。

これらは人間に普遍的に見られる傾向ですし、それゆえに強力ですから、勢力を伸ばしたい社会集団なら宗教でなくてもこれらの傾向を利用するでしょう。これらの傾向を効果的に取り込む教義体系を見いだした一部の宗教は、人間の普遍的な傾向を吸着することによって大きく進展してきたのだと思います。でも、信者数が多いという理由で、一部の教義を「宗教」の代表のように扱うならば、それもまた藁人形論法になってしまうのではないか、と案じます。人間のこれらの傾向と向き合うのも宗教の機能の一つでしょうし、現にそれらを否定する宗教だって存在するのですから。

進化論と創造論の話では宗教=キリスト教のような雰囲気になりがちなのが気になって、ヨコを入れてしまいました。「宗教」に関しても文化相対主義ヨロシク、ということで如何でしょうか。
(文化相対主義は価値感の意識的無意識的な押し付けを戒める考え方でしょうから、本末転倒に陥ってまで適用する必要はないでしょうけれど。)

59地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:36:19 ID:yb0RBWTc
まず最初に言っておくんだけど、僕のニンゲン観は進化生物学を基盤にした唯物的・自然主義的なものだにゃ。
また、理性的たらんと欲するのであれば、「敵」に対するよりも「味方」「身内」に対してより批判の矢を向けるべきでもあると信ずるものにゃんね。


>chochonmage

>>40
>宗教者の「宗教が無ければ倫理が崩壊する」という発言に対する押し返しとして
>「宗教なくしても倫理は成り立つ」ということを論証しようとしています。

これは後悔と懺悔にもいっておこうと思ってたけど、僕自身は「宗教なくても倫理は成り立つ」という言明にいかなる異論もにゃーですよ。進化心理学(社会生物学)のニンゲン観の基本コンセプトを理解した上で支持しているつもりだし、そもそも自由主義って根本的には性善説がベースにゃんからな。

ただし、ここで注意すべきは「宗教なくしても倫理は成り立つ」が正しいからといって、「宗教を前提とした倫理はありえない」「宗教を前提とした倫理は間違っている」が正しいということにはならにゃーということだにゃ。


>「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。

ほほう?
ナトロムのブログエントリによれば「「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」戦闘的な無神論者は例外的だとグールドは主張」しているとのことにゃんが、「倫理道徳の事実上の独占」なんてのは確かに微妙さや多様性を何ら理解していない発想にゃんな。
これは>>41
>私が例えばキリスト教に入信したいと思ったときに、極力「逐語解釈」から遠い宗派を選ぶのが安全なのでしょうか。
>イエスが「神の子」である、「復活した」ひいては「神の存在」さえ逐語解釈していない宗派はあるのでしょうか。
という疑問とも通底しているにゃんね。

60地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:37:00 ID:yb0RBWTc
つづき

日本大百科「神学」の項から一部引用するにゃ
*********************************
現状と将来

 4世紀のコンスタンティヌス大帝のキリスト教公認以来、ヨーロッパに形成されてきたキリスト教世界における神学は、二度の世界大戦によって大きな衝撃を受けた。啓蒙(けいもう)主義時代を経て、19世紀にきわめて楽観主義的、進歩主義的、人間主義的になっていた近代自由主義神学は、第一次世界大戦によってキリスト教世界が幻想にすぎないことに衝撃を受け、1918年に『ロマ書』をもって登場したスイスのプロテスタント神学者K・バルトを中心とする弁証法神学運動によってやっと活路を得て新しい時代を迎えた。さらに、第二次大戦の経験を経て、教会と世俗世界の関係について積極的な関心をもつようになった。ヨーロッパではキリスト教福音(ふくいん)の非神話化を唱えたR・ブルトマンをはじめ、世俗化論を唱えたD・ボンヘッファー、F・ゴーガルテンなどが活躍し、アメリカではH・コックスや神の死の神学、状況倫理などが現代世界との取り組みに苦闘した。1970年代前後からはヨーロッパの希望の神学者J・モルトマン、歴史の神学を唱えたW・パンネンベルク、アメリカではプロセス神学者たちや、J・コーンなどの解放の神学が活発に展開されている。ローマ・カトリック教会では第二バチカン公会議(1962〜65)を開き、現代世界に対する教会のあり方を再検討し、全キリスト者の一致を求め、内的に刷新し、他宗教に対しても開かれた姿勢をとろうとしている。将来の神学は、ますます現代化、一致(エキュメニズム)、革新、他宗教の問題を積極的に取り上げざるをえないだろう。
*******************************

ここにいろいろとキーワードがあるから、ぐぐってみてほしいにゃ。例えば「自由主義神学」でぐぐるとウィキペディアの記述が筆頭に来るにゃんな。
で、こんなことが書いてあるわけだにゃ。
*****************************
自由主義神学の特徴

* 科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造、ノアの箱舟、バベルの塔等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に有益な寓話(若しくは神話・説話・物語等々)とみなす。
* 聖書本文に対する批評的な研究・解釈を支持し、書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義とする。各書の成立に纏わる伝説(モーセ五書の著者はモーセ、イザヤは一人の預言者イザヤによる、など)を必ずしも採用せず、聖書無謬説、聖書無誤説、逐語霊感説を採らない。
* 古文書学の他、考古学、史学の成果も最大限活用して古代の信仰のありようを分析し、そこから現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとする。

* 一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。
*****************************

61地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:37:38 ID:yb0RBWTc
他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。ドーキンスがこれら主要な各神学の主張全てを適切に理解した上で批判しているとは、とてもとても思えにゃーな。
日本大百科の記述に
>ローマ・カトリック教会では第二バチカン公会議(1962〜65)を開き、現代世界に対する教会のあり方を再検討し、全キリスト者の一致を求め、内的に刷新し、他宗教に対しても開かれた姿勢をとろうとしている。将来の神学は、ますます現代化、一致(エキュメニズム)、革新、他宗教の問題を積極的に取り上げざるをえないだろう。
とありますにゃ。現代のメリケンを中心とした馬鹿宗教は、こうした動きに対する「反動」にゃんな。

>「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。

こんなことは、宗教の多様性を理解したらそうそう言えることではにゃーはずなんだにゃ。
良心的な信仰者は、まさに多数派の倫理・道徳から疎外されているのが現状なのにね。

もちろん、メリケンを中心に馬鹿宗教がでかい面してブイブイ言わせているのは僕も知っているにゃ。でもさー、さっきも書いたけど、これは流れから言うと「反動」なわけでしてにゃ。例えば、「外国人は犯罪者が多いから、みな出て行け」とか、日本で馬鹿ウヨがブイブイいっているという理由で、「日本人(全て)は、アジア侵略に対して何の反省もしてない」とかいう「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」物言いってどうよ?

「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」論法というのは、まさに全体主義者の好む論法だろにゃ。ドーキンスがこの話題で採用している論法にゃんけどな。

だいたい、多数派がカスだなんてことはアタリマエにゃんからな。多数派の屑を基準にするのなら、いかなる国民・民族も生きている価値なんでにゃーだろ。

62地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:39:35 ID:yb0RBWTc
>NANのネタ

長くなりそうなので、メモ風箇条書きで。
・NOMA原理は、成り立ちはするけれど机上の理論だと思う

・ニンゲンの実際の行動に対する影響をあたえるモチーフとして、宗教と科学は対立する
※文化妄想装置論、という妄想を以前にまき散らしたことがあるにゃ。「妄想は適応的」が基本コンセプトでしたにゃ
ttp://members.jcom.home.ne.jp/natrom/board040611.html

・つまり、宗教という妄想はもともと適応的なもの

・宗教感情、というコトバがある。宗教と感情は切り離せない

・道徳感情、倫理感情、というコトバもある。道徳や倫理と感情は切り離せない

・4枚カード問題は、感情を伴う場合においてこそ、ニンゲンが正確で素早い判断ができることを示す

・感情は合理的である

・無論、科学も合理的である

・ブレーキとアクセル、交感神経系と副交感神経系、理性と感情、科学と宗教、などの一見すると対立する要素はいずれも合理的であり、2つそろって現実的な制御が可能となる

63地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:59:16 ID:yb0RBWTc
うう、ネミイ
今日はここまでにゃんな

>chochonmage

文化相対主義の原理主義的適用については、もちろん問題オオアリ。


>後悔と懺悔

ジェンナーは息子で天然痘予防接種の人体実験をしたという話があるにゃんね。調べたらどうも伝説の類いのようですけどにゃ。

64リリス:2007/11/23(金) 02:20:28 ID:nrzx3pJo
すこし補足。

猫さん仰るところの「馬鹿宗教」がキリスト教の一部に過ぎないことは存じております。
私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。先の投稿で、一神教の傾向についての言及と「馬鹿宗教」についての言及が混ざってしまいましたので・・・。

NOMA原理に賛同する〜理解を示すクリスチャンは多いだろうと思います。でも、聖書の記述を「事実」として信じる事が重要であるような信仰をもっている人にとっては、NOMA原理と言えど、侵略的で承認し難いものになるのかもしれません。信仰を変容させることなしに、NOMA原理を受け入れることは出来ないわけですから。

AH1さんの仰る「同じ土俵に立とうとしない相手をどうするか」という問題は難しいです。
聖書の記述を「事実」として信じる事がなぜ重要か・・・このような事柄は、「キリスト教」や「プロテスタント」といった同じ土俵の上で色々と議論して欲しいですね。土俵の主要部分を共有する多数の人間が活発に意見交換を行うなら、さほど偏った考えにはならないと思いますので。(無神論者の私は参加できませんが。)無神論者も含めて同じ土俵で議論するなら、それは「社会の構成員として」あるいは「人間存在として」といった大きな枠組みになるのでしょうかね。

65カクレクマノミ:2007/12/04(火) 00:34:17 ID:THRtI5kM
しばらく間が空いてしまいました。

>で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

ここでいう「殺す」が何を指す比喩なのかよく理解できません。まさか、文字通りではないでしょうし。

>他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。

その通りです。キリスト教1つとってもいろんな流派、解釈があり、それぞれに支持者がいます。
で、その支持者たちは、いったい何を基準に自分の流派を選んでいるのでしょう?

結局のところ、宗教とは別の理由で持っている価値観をもとに選んでいるのではないでしょうか?
たとえばフェミニズム神学の支持者や提唱者は、もともと何か別の理由でフェミニストであって、だからこそフェミニズム神学を選んだのでしょう。

結局多くの人は、宗教とは別の理由で何かを価値観を持っていて、それに合った宗教解釈を選んでいるだけではないでしょうか?
だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

66後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:32:54 ID:FvvOuBrA
議論の論点は、主に「宗教をどう撲滅するつもりなのか」「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」──という流れになっているようですので、この2点について、私の見解と、ぜひ皆さまの見解をうかがいたい点を述べておこうと思います。

まず前者。「宗教をどう撲滅するつもりなのか」について。

何度も繰り返しているように、私自身は本気で「撲滅」したいとは思っていません(>>48>>49参照)。重要なのは、「人間はどんな過ちを犯しうる存在なのか」ということを知ることだと思っています。一方で、人間が犯しうる過ちのすべてを、一人の人間が知ることは不可能なので、社会全体がいわば「ファイルセーフ機構」として働くようなシステムであることが望ましいわけです。たとえば、いわゆる「マナー」といったものは、一種の「ファイルセーフ機構」と言えるでしょう(余談ですけど、そう考えると、人類の道徳観念や価値観・倫理観の「進歩」というのは、結果的に(あくまで「結果論として」)この「ファイルセーフ機構」をより良いモノにしていくための営みであった──という見方もできるかも知れません)。

そういう意味で、太古の昔、ヒトにとって「宗教」がそういった「ファイルセーフ機構」として大変有益だったような時代があったであろうことは容易に想像できます(「宗教者」の「宗教がなければ人はどうして善悪を判断できるのか・善良でいられるのか」という主張は、それを端的に表していると私には感じられます)。
しかし、これだけ多様な価値観が混じり合い(>>6で再掲された (2007/11/11 01:13)のコメントの最初の2段落などを参照)、かつ、道徳観念や価値観・倫理についての考察・教訓がこれだけ蓄積されている現代では、むしろ「宗教」自体に「ファイルセーフ機構」が必要になってきているわけです。
──ここまでは、おそらく誰も異論はないでしょう(あれば言って下さい)。では、具体的にどのような「ファイルセーフ機構」が必要であり、また現実的なのか──ということが、問題になるわけです。

ドーキンスや私が、本音として「“宗教”なんてこの世から消えてなくなってしまえば良い」と思っているのは否定できません(ハロウィンを楽しんだり、お盆に墓参りすることまで、なくなって欲しいとは思っていません、念の為)。でも、それは不可能であるということは、よく分かっているわけです。では、どうすればいいのか。
私自身の今の考えは、>>49において、カクレクマノミさんへの返信で書いた通りです。そしてその結果、最終的には、>>3で再掲された(2007/11/07 20:49)のコメントの一番下の段落のようになってくれれば……と考えています。今の日本は、かなりそれに近い状態と言えるかと思います(自分の家族がなんらかの「宗教」にハマっていると知ったとき、日本の平均的な人がどんな反応をするか想像してみて下さい)。他の点はともかく、「宗教」について言えば、現在の日本はドーキンスにとって(そして私にとっても)かなり理想に近い世界なのかも知れません(そのかわり、「宗教」の占めていたトコロに、別のやっかいなモノが次々と居座ってるみたいですけど(苦笑))。

でも、正直に言って、私はそれがベストと言えるだけの根拠や確信があるわけではありません。今のところ、他の考えがないだけです。いずれにせよ、「宗教」を現在のように野放しにしておくのが好ましくないという点には同意して頂けると思うのですけど、では皆さんは、どんな「ファイルセーフ機構」が必要ないし好ましいと思いますか。

67後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:38:37 ID:FvvOuBrA
「宗教をどう撲滅するつもりなのか」について、もう少しだけ。以下はドーキンス擁護みたいな感じになりますが……。

日本では、一般的に「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージがかなり広く浸透しているのではないでしょうか。平均的な日本人は、伝統的な仏教徒やキリスト教徒など「宗教者」の滅私的・道徳的な振る舞いに深い敬意を示すものの、自分の家族がそれらの宗教に入信することを積極的に勧めようとはしないと思われます。これはなぜでしょう。
「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージの浸透こそが、「ファイルセーフ機構」として働いていると考えることは、あながち荒唐無稽とは言えないでしょう。しかも、これは「反宗教-原理主義」に陥るわけでもない絶妙な「ファイルセーフ機構」と言える気がします。
では、なぜ、どうやって、そんなイメージが日本人の間に広く浸透したのでしょうか。

ちょっと想像してみて欲しいのですけど、日本の平均的な中学生に「サンタクロースは実在する」ということを信じ込ませるのは、かなり難しいことのように思えます。では「(宇宙人の乗り物という意味での)UFOは実在する」や「FBI超能力捜査官は実在する」はどうでしょうか。「マイナスイオンは身体に良い」とか「化学肥料を使った作物・化学調味料を使った料理は身体に悪い」とかだと疑わせるほうが難しそうです。では、その差はいったいどこにあるのでしょうか。
「1999年に地球は滅ぶ」と信じる人たちの声が大きい社会では、平均的な中学生に「1999年に地球は滅ぶ」と信じ込ませるのは簡単なことだったでしょう。たとえ社会全体で「1999年に地球は滅ぶ」と本気では信じていない人の割合が実は大きかったとしてもです。

>>31でカクレクマノミさんが指摘しているように、ドーキンスは、『神は妄想である』の「はじめに」で、とくに無宗教・無神論者の擁護を重要な目的のひとつとしていることを強調しています(この目的が効果的に果たせているかは微妙ですが)。『神は妄想である』は、「宗教者」の側から無宗教・無神論者に向けられる様々な非難に対する徹底的に練られた決定版「想定問答集」と読むこともできます。むしろ、そのような意図で書かれていると主張してもそれほど不当ではないでしょう。

私としては、『神は妄想である』は、「宗教者」に向けられた本というよりも、「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージを持っている人・持ちうる人に向けられた本という気がします。「あぁ、そういう気持ちをもっても、そういう態度を表明しても、いいんだ……」という勇気を与える本と言えるでしょうか。

──これらのことは、『神は妄想である』の「はじめに」の最初の1ページ目に書かれていることから、私なりに連想したことです。未読の方は、『神は妄想である』の最初の1ページだけでも立ち読みしてみることをお勧めします。どういう状況にいるどんな人に向けた本なのか、はっきりすると思います。

68後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:56:08 ID:FvvOuBrA
次に、「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」という点について。

この点については、2つの論点から意見を述べたいと思います。一つは「NOMA原理」の観点から、もう一つは「ファイルセーフ機構」の観点から。いずれにせよ「“宗教”または“宗教者”の犯しうる過ち」についての話に収束していくでしょう。

まず、「NOMA原理」の観点から。

ドーキンスは「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と書いていますが、これに全面的に納得する人は少ないでしょう。一方で、ドーキンスは「私は超自然的な神だけを妄想と呼んでいることを心に留めておいてほしい(同書29頁)」と何度も強調しています(「超自然的な」の部分は傍点で強調されています)。

>>16の【立場1】で述べたように、私には、そもそもNOMA違反を犯さない「宗教」を考えること自体が困難です。教義のどこかにNOMA違反を犯している部分があれば、必ずそれは現実と齟齬をきたすことになるわけです。「宗教」はそのとき容易に「教義」のほうを優先する強い傾向があるということは誰も否定できないでしょう。
さらに悪いことに、もしも「教義」を支持するような「科学的事実」があれば、喜んでNOMA原理を(逆の意味で)放棄して、自分たちの「教義」こそ「“正しさ”を独占する」に相応しいということを示す根拠として、その「科学的事実」に飛びつこうとする抗いがたい強い傾向をも有しているわけです。

私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。
──余談ですが、その結果、私が受けた印象は、「それは“宗教”と呼べるようなモノではなく、“文化”といったほうが相応しいモノ」でした。なぜそういう印象をもったのかうまく説明できないのですが、「信仰」という言葉自体に「信じるべき適切な理由がなくとも信念をもちつづけることができるのが、信仰の本質である(同書80ページ)」というイメージを持っていたことが何らかの影響を与えたのかも知れません。

NOMA原理とは少しずれるかも知れませんが、>>16の【立場2d】(補記)に書いたとおり、人は「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」として生きることは可能ですし、文化の多様性という観点からは、むしろ望ましいとさえ思います。
しかし、彼らが「宗教」を擁護することで、いらぬ誤解をしてしまう人々(特に「“正しさ”を独占しようとする宗教家」たち)が多くいるという事実から目をそらすことは「彼らには」許されない──と私は考えています。

(続きます)

69後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:59:05 ID:FvvOuBrA
(続きです)

『神は妄想である』第8章(特に「信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか」の項)で詳しく議論されていますが、超自然的な教義をもつ「宗教」は、多かれ少なかれ「信仰」を奨励せざるをえないわけです。たしかに、「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」は「信仰」の負の面を熟知しているかも知れません。しかしいずれにせよ、「信仰」の奨励は、過激主義者・原理主義者に好都合な土壌の一部になっていること・なりうることは否定できないでしょう。この点に関する「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」の責任と義務はとても大きいと考えます。少なくとも「自分たちは過激主義・原理主義ではない」と言っていれば済む問題ではありません。

合コンなどで血液型の話題をする多くの人は、「婚姻相手は血液型を重視して選ぶべきだ」とか「雇用者の採用にあたっては血液型を積極的に利用すべきだ」とか主張しているわけではないでしょう。むしろ「そこまでいくとさすがに非難されるべき差別だと思う」と感じる人がほとんどかも知れません。でも、次のような指摘は、あながち的外れとも言えないのではないでしょうか。
====================
自分が血液型を書くこと、話すことが、根拠のない「社会的現実」を維持するために、どのような貢献をすることになるのか。そこで血液型を書くことに、どんな科学的、倫理的意味があったのか。あなたにそれを思い出していただけるだけで、このページの使命は終わりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
柴内康文氏、Webページ『「血液型と性格」の問題点』より引用
ttp://www1.doshisha.ac.jp/~yshibana/etc/blood/archive/ethics.htm
====================

キリスト教に限らず、「超自然的な」教義をもつすべての「宗教」に対して、これらのことを当てはめて論じてはいけない理由は、私にはないように感じられるのですが、いかがでしょうか。

70後悔と懺悔:2007/12/04(火) 03:00:58 ID:FvvOuBrA
「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」という点について、「ファイルセーフ機構」の観点から、私見を述べたいと思います。

日本人なら誰でも、現在の仏教や神道が「“正しさ”を独占しようとするモノ」でないことを知っています。その意味で、ドーキンス(や私)の「宗教」批判で非難されている点を、現在の仏教や神道などはすでに克服していると言っても良いと思います。

しかし、かつては、仏教も神道も「血塗られた道」を通ってきた「“正しさ”を独占しようとするモノ」であった歴史をもっていることは紛れもない事実なわけです。また、カルト化した・カルト化が危惧される多くの現代の新興宗教が、仏教やヒンドゥ教などの影響を強く受けていることも否定できない事実です。
後者は直前のコメントでの論点から語られるべきことでしょうから、ここでは前者について論じましょう。

まず、リリスさんの>>58での指摘を引用します。「これらの根底には、問いに確固とした答えがあると思う傾向、自分が正しい側にあると思いたがる傾向、人生の価値に保証を求める傾向、などがあると思います。で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです」
この見解には全面的に同意します。むしろ私は、このような人間のもつ本来的な傾向が生み出したモノの一つが「宗教」であるという解釈に説得力を感じます(『神は妄想である』第5章「宗教の起源」参照)。そして私は、「宗教」にはこれらの「人間の問題」に対して「正しい答え」を提示し(それこそが「宗教」の本来的な目的だったと思われます。>>16の【立場2】などを参照)、「その“正しさ”を独占しようとする」強い傾向があることを、ずっと非難してきたわけです。言い換えれば、「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです(同じ点を助長するモノは「宗教」だけではありませんが、今は「宗教」について論じているので、そのことについては割愛)。

しかし、少なくとも、現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。つまり、「“宗教”および“宗教者”の犯しうる過ち」に対する「ファイルセーフ機構」が内蔵された「宗教」である──ということです。これは私にとって非常に興味深いことです。

私は仏教の歴史について詳しいわけではありませんが、もともと釈迦は「人間が本来的に犯しうる過ち」について教え諭していたように思えます。その後「宗教」として組織化されると(その当然の帰結として)「“正しさ”を独占しようとする」傾向が強まっていったように見えます。しかし、まったく不思議なことに、いつのまにか現代では「仏教=(“正しさ”を独占しようとすることも含めた)人間が本来的に犯しうる過ちについて戒めるモノ」という印象を持っている人が多いのではないでしょうか。その意味で、ドーキンスが「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と述べたのも一理あると言えるかも知れません。

私が特に興味を持つのは、「このように、みずからが犯しうる過ちに対する“ファイルセーフ機構”をみずから持つことを、ほかのすべての“宗教”にも期待できるのか。そして、その“ファイルセーフ機構”は永久に働き続けると期待しても良いのか」ということです。
もしも期待して良いと信じられるのでしたら、すべての「宗教」を一括りにして非難するのは不当かも知れません。まだ「ファイルセーフ機構」を持たない「宗教」だけを批判の対象にすべきでしょう。
でも、それを期待するほど楽観的になれないうちは、すべての「宗教」を一括りにして、「“宗教”および“宗教者”の犯しうる過ち」について警鐘を鳴らし続けることは大切なことだと、私は考えています(たとえすでに現在はその点を克服している「宗教」があったとしても)。

71chochonmage:2007/12/04(火) 14:16:06 ID:Qhwn4442
”フェイルセーフ ”っすよね? まぁ、英語の日本語表記ですから,
何が正しくて、何が間違ってるとは言いがたいですが、一般的に、ってことで。
すんません、細かいことで。ちょっと気になったもんですから。

内容についてのコメントはまた後ほどさせていただきたく思います。

72chochonmage:2007/12/04(火) 14:34:39 ID:Qhwn4442
>現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する
強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。

眠いので一言だけ。神道については、「靖国」の愚かしいドタバタを見るに、
上記ご意見には賛同できません。

まぁ、「靖国」の場合、神道という「宗教」以外の要素が大部分を占めている
こともわかってはいるつもりです。
が、「強力なフェイルセーフ機構」、「みずから築き上げた」には全く同意できません。

73次郎:2007/12/04(火) 16:17:38 ID:D2PZoWjk
はじめまして。議論が始まった当初から興味深く拝見させていただいております。

>現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。

フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。
単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

実際それらと齟齬のある沖縄では、どちらも現地の民間の祖先崇拝を弾圧してますよ。

といいますか、人類の道徳観念や価値観・倫理観にしても「他者に対する価値観の強要」の歯止めにはならないのじゃないでしょうか。
つーか、そうであるならドーキンス氏のような主張がそもそも出てこないように思えるのですが、それとも価値観・倫理観の進化がまだ不十分なんでしょうか。

74AH1:2007/12/04(火) 18:21:56 ID:fKqeZx4M
なんとなく思っている事を書きますが・・・多分に詭弁めいて来るのですが・・・

後悔と懺悔さんが書いておられるのは、
「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」を是とする、という事ですよね(このちょっと警戒する感覚をフェイルセーフと呼んでおられるのでしょう)。
これはつまり、個人の理性と良心と自由意志に基づく合理的判断ができなくなる絶対基準に頼ることはやめよう、という意味であるかと考えます。
これは「個人の理性と良心と自由意志」に至上価値を置く価値体系なわけですね。

「それは良い価値体系だと思うか?」と言われれば、「うん、僕はそう思う。もし考えを変えることがあるとしても、他人に価値観を強制されるのはご免だ。」と答えます。

で、聞いてみたい所は結局ここへ戻るんです。
「私は『個人の理性と良心と自由意志」』に全く価値を見い出さない。お前は他人に意見を強制しないと言いながら、俺には『「個人の理性と良心と自由意志』を重視することを強制するのか」

その辺の採るべき態度をいかが御考えになりますでしょう?

私はあまり良い知恵がないのですが、「あんたがそうしたけりゃ勝手にしていいけど、他人まで巻き込むなや。勝手に賛同する奴は知らんけどさ。」くらいしか思い付きません。要するに対策というか態度としては狡獪と懺悔さんの想定しておられるであろう「日本人の普通な態度」とほとんど同じになりそうな気がします。

75AH1:2007/12/04(火) 18:23:41 ID:fKqeZx4M
うわわわ、失礼しました!!
誤 狡獪と懺悔さん
正 後悔と懺悔さん

76後悔と懺悔:2007/12/04(火) 23:55:15 ID:FvvOuBrA
取り急ぎ訂正です。
>>66から>>70までの私の発言の「ファイルセーフ」はすべて「フェイルセーフ」の間違いです。正しくはもちろん「フェイルセーフ」です。chochonmageさん、ご指摘ありがとうございました。

他のご指摘に対しては、しっかりと時間をかけて吟味した上で、自分の考えたことを述べようと思います。ただ、現状、自分の認識の底の浅さというか、視野の狭さは痛感しています。貴重な経験だと思っています。

77次郎:2007/12/05(水) 11:46:24 ID:D2PZoWjk
後悔と懺悔さん
うまく論理的に書けないのですが、結局GOD派とアンチGOD派はコインの裏表のようなものじゃないでしょうか。
どちらも神様に対して強く固着しているのではないでしょうか。

ドーキンスがミイラになってしまったのも彼がアンチGOD派であって、信じるものが「人間理性」というよりも「神を排除するために、神を排しても成り立ちうると彼の信じる人間理性」なのだからのような気がします。

後悔と懺悔さんの思想や考えが浅いというよりも、やはりドーキンスと同種の神へのこだわりが視野の限界を規定しているような気がします。

78地下に眠るM:2007/12/06(木) 03:43:57 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>>で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

>ここでいう「殺す」が何を指す比喩なのかよく理解できません。まさか、文字通りではないでしょうし。

ドーキンスの立場では、信仰集団という社会集団を侵略者だと認定することになるということに異論はにゃーのだね?
ここは重要なところにゃんぜ。


>>他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。

>その通りです。キリスト教1つとってもいろんな流派、解釈があり、それぞれに支持者がいます。

で、ドーキンスはそうした多様性を無視して一律に侵略者認定をしているということにゃんね?
しつこいようだけど重要なところにゃんぜ。


>結局多くの人は、宗教とは別の理由で何かを価値観を持っていて、それに合った宗教解釈を選んでいるだけではないでしょうか?
>だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

「だとしたら」の前後のつながりがわかんにゃーのだが。
多様でありえるから倫理に果たす役割がない、ってどういう理屈かにゃ?
いっとくけど、グールドにしろ僕にしろ、宗教に倫理面において特権的な役割を認めたおぼえはにゃーですよ。

>>62ですごく乱暴に書いたけど、倫理と感情、宗教と感情は切り離せないものですよにゃ。
感情の生き物であるニンゲンは、宗教的生物でもあるのだにゃ。

79地下に眠るM:2007/12/06(木) 03:44:58 ID:yb0RBWTc
中高生のセックスが体に悪くて頭も悪くなると仮定しますにゃ。しかも社会秩序を乱す社会の敵、いうなれば侵略者であるとしましょうにゃ。
そう信じ込んでいる馬鹿宗教さんとかチンカス道徳屋とか珍しくもにゃーしな。

で、
この手のチンカス道徳屋は、どうあっても中高生のセックスを禁止したくてしょうがにゃーようだ。

でもさ
セックスを禁止したら、ガキがセックスをしなくなるとでも思っているんだろか?
ここが本当に馬鹿だよにゃ。
どっちかちゅうと、禁止したら魅力が増すものですにゃ。

ガキに教えるべきは、パートナーの身体と人格を尊重し、リスクをコントロールすることだってのが現実的なおとしどころだと思うんですにゃ。

自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは、チンカス道徳屋とかガリガリ権力亡者とか逝かれナチとかドーキンスの発想にゃんね。

80地下に眠るM:2007/12/06(木) 04:15:12 ID:yb0RBWTc
>>78の補足

>だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

>>39で書いたことが埋もれてしまっているので再掲

*****************************************
その上、
宗教には積極的に倫理について発言してもらわなければ困るんだにゃ。理由はいま思いつくところで2つ。

1)先ほど言った通り、倫理とは万人に開かれ、万人が従うべき規範だよにゃ。であれば、多数派を無視することはできにゃーのよ。無論、多数決で決まるようなものではにゃーが、多数派を無視もできにゃーわけね。地球上では無神論者よりも信仰者の数のほうがはるかに多く、彼らの依拠する価値を無視できうるはずもにゃー。

2)倫理とか道徳というものは、ようは「価値」「規範」を扱うというこものだにゃ。で、価値や規範というのは実証的・科学的に決められるものではにゃーよな(実証的に価値や規範を決めるのであれば科学的に決めるべき)。で、現実に宗教というものは価値や規範を説いているだろ? 適している適してないとかいうお話以前に、実際に価値や規範を扱っているという事実が厳としてあるにゃんなあ。

つまりさ、
倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、あるいは排除することもブッブーなのよ。

>一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

したがって、適しているとか適してないとかいう話は問題外。
倫理や道徳については誰でも発言してよいし、責任を多く負うものには倫理の問題から離れることは許されにゃー。どうしても宗教の言い分を聞いておく必要はありますにゃ。したがって「宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは」まさに妥当な見解にゃんねえ。
*****************************************

上記の特に(2)の論点、つまり宗教には倫理規範について発言する義務がある、という論点を忘れてほしくにゃーね

81カクレクマノミ:2007/12/06(木) 04:21:25 ID:THRtI5kM
>「侵略者」

なんだかすごくこだわっておられるようなので、「侵略者」の定義も確認しておきたいです。
もちろん、「殺す」のほうについても説明をお願いします。
「重要なところ」を、比喩のままで議論するのは不気味なので。

>「だとしたら」の前後のつながりがわかんにゃーのだが。

たとえばフェミニスト神学者は、フェミニスト神学を読む前からフェミニストであって、だからこそフェミニスト神学を選択しているという場合がほとんどでしょう。
他の聖書解釈についても、だいたい同じでしょう。
ここまではいいですか?

>自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは

ドーキンスは(僕の知る限り)一言も、宗教を禁止しろとは書いていませんよ。
それに僕を含め、ここでの議論で宗教を禁止しろという意見は誰も出していないと思いますが。

地下猫さんは、いったい誰に対して罵倒しておられるのでしょう?

82地下に眠るM:2007/12/06(木) 06:23:40 ID:yb0RBWTc
>「重要なところ」を、比喩のままで議論するのは不気味なので。

もとが比喩なんだけどにゃ。
この「侵略者」の比喩は、ドーキンスがNOMA原理(宗教と科学の共存)を提唱したグールドを犬呼ばわりした比喩の解釈として出したものだにゃ。
だから、てっとりばやいのはドーキンスがグールドを犬呼ばわりしたのはなぜかをカクレクマノミが説明することだと思いますにゃ。
ちなみに、犬呼ばわりの僕の解釈は>>54で示したとおりにゃんね。
宗教と科学の共存を主張したグールドを犬呼ばわりするというのは、宗教の否定ということにならにゃーというのなら、その解釈を是非とも聞いてみたいものにゃんよ。


>たとえばフェミニスト神学者は、フェミニスト神学を読む前からフェミニストであって、だからこそフェミニスト神学を選択しているという場合がほとんどでしょう。
>他の聖書解釈についても、だいたい同じでしょう

そうでもにゃーと思うんだにゃ。宗教心理学においては「回心」というのは無視できにゃー要素なのだにゃ。ほとんど人格変容をともなうような信仰への目覚めっていうことは事実としてあんのよ。パウロの回心なんかは典型例にゃんな。
でも、まあここはその前提で話をしていただいてかまいませんにゃ。

83カクレクマノミ:2007/12/06(木) 07:34:55 ID:THRtI5kM
>ちなみに、犬呼ばわりの僕の解釈は>>54で示したとおりにゃんね。

その>>54の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。
一応僕の解釈も説明しますが、地下猫さんの比喩の意味についても説明していただけると幸いです。

ここでいう「犬呼ばわり」は、「ご機嫌取り」という意味です。
「神は妄想である」の中での「犬呼ばわり」の前後の文脈は、実は道徳はほとんど出てこなくて、主に「神仮説」についての議論です。
「犬呼ばわり」の対象となっている文章も、グールドが神について述べたものです。

神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。

もちろん神仮説の否定が宗教の否定だと言われればそうかもしれませんし、僕もドーキンスが宗教を批判していないとは言っていません。程度の問題として、無神論擁護に重きを置いているとは言いましたが。
ただ、ドーキンスの批判を「侵略者」「殺す」といった比喩で表現するのが妥当かどうかは、その比喩の具体的な意味を説明していただかない限り、判断できません。

>でも、まあここはその前提で話をしていただいてかまいませんにゃ。

前に述べたことを前提にすれば、宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。

宗教の原典をそのまま価値観として採用するのは馬鹿げています。だから宗教から価値観を読み取ろうとすれば、何らかの解釈が必要です。すごく大雑把には、この解釈の違いが宗派の違いと言っていいでしょう。
で、ある人がどの解釈を採用するかは、その人がもともとどんな価値観を持っているのかに強く依存します。
だったら、そのもともとの価値観をそのまま採用しても結果はほとんど変わらないのではないでしょうか?

84GB:2007/12/06(木) 15:31:31 ID:Ni9i2QWM
>>77の次郎さんのご意見と、おそらく同じ感想を持ちました。キリスト教文化という
コインの表裏ですよね。ドーキンスが最初に展開する「神は科学の対象となる」
「神はほとんどいない。妄想である」というのも、キリスト教文化圏の中でしか通じない話です。
(ユダヤ・キリスト教、およびイスラム文化圏と言った方がいいか)

人は、具体的な文化の中で育ち「人になる」ことにより、本人が意識することなく、
ある価値体系を共有する人々の一員になります。「重要な問題」が重要なのは、自分が
生きる社会集団(との関係)にとって重要だからです。

文化が指し示す規範の内容は多彩です。「誰も見ていないところでお金を拾っちゃったらどうするか」
から、たとえばアメリカにおける「銃規制」のような歴史的な問題、死生観に絡む事柄まで。
これらは思考方法や感情が絡み合った複雑なものなので、「宗教」だけを切り離すことはできないのでは
ないかと思います。

ただ、キリスト教も科学によって「おバカ」をそぎ落としながら変容してきたのも事実で、
その意味で、「理性」は有効だったし、これからもそうでしょう。でも、西欧文化のコアの部分は
キリスト教という宗教と一体となっており、たとえばフェミニズムという一つの価値観も、
実はキリスト教文化が生んだ発想なのだと私は思っています。

もし、私が自分の文化、特に無意識の領域を否定されれば、私には感情的な反発が起こるでしょう。
外国では、相手の反応にとまどったり不快な思いをすることもありますよね。
それを避けるために、人々は多様な文化を認め合うという方法を長い時間をかけて身につけてきましたが、
ドーキンスの言う「宗教」に関しても、同じことだと思うわけです。(NOMA賛成)。

85atheist:2007/12/06(木) 17:44:00 ID:s2.p1dVI
>自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは、チンカス道徳屋とかガリガリ権力亡者とか逝かれナチとかドーキンスの発想にゃんね。

検討外れの批判ですね。それは、地下に眠るMさんの”脳内ドーキンス”に対する批判でしかないと思いますよ。
カクレクマノミさんが指摘されている通り、ドーキンスは(私の知る限りでは)宗教を禁止しろとは書いていません。
ドーキンスが言おうとしているのは、宗教なんてみんなが思っているほど重要なものではないのだから、変に尊重して
無批判な態度をとるのはやめろと言うことだと私は受け止めました。批判的な態度をとるということと全面的に否定して禁止しろということとは、天と地の開きがあります。

86GB:2007/12/06(木) 19:32:59 ID:Ni9i2QWM
しかしドーキンスは、はっきり「宗教は必要ない」と繰り返していますよ。
宗教の害を、これでもかとばかり列挙する中で。

読み進める中で気になる部分は多々ありましたが、10章の「死」に触れた部分もその一つです。
(実は、歴史的な宗教の必要性という視点が欠けているところに首をかしげていたので、とくに印象に残った
わけなんですが)。

死の扱いは(NANさんがおっしゃるように)宗教の根源の一つだと思うので、
ドーキンスが「慰めとして死後の世界を信じる効用」に触れたあとで、
「そうであるなら、なぜ宗教を信じるものは自殺や安楽死に反対するのか」
という意味の内容を述べるくだりは、目を疑いました。
(そこで実例をも挙げている)死を恐れない精神を賞賛するのは良いのですが、
それをもって宗教否定につなげるというのは、啓蒙の暴力、といってよいと思います。

87atheist:2007/12/06(木) 21:17:37 ID:.r2n24dM
「必要ない」というのと「絶滅しろ」というのとは違います。
たとえば、ゲームなどは興味もないし、やるだけ時間の無駄だと思っていますから、
私にとってはゲームは「必要ない」ということになりますが、だからと言って、「ゲームなど禁止してしまえ」などと主張するつもりはありません。
ゲームに関しては、私は「ゲーム脳」などというものはトンデモだと思っているので、過度にのめりこまない限り害はないと思っていますが、宗教に関していえば、宗教が原因だったり宗教を正当化に利用した害悪(戦争、差別、詐欺等)が明らかにが存在します。なにごとにおいても絶対的な悪というものは存在しないと思いますし、当然、宗教には良い面もあるわけですが(人心をまとめる、生きる活力となる、心の慰めとなる等)、問題は宗教のメリットとデメリットではどちらが大きいかということです。ドーキンスが苛立っているのは、宗教が尊重されすぎるあまり、デメリットの方が無視されてしまうという状況に対してではないかと思います。ドーキンスが宗教の悪い面を並べ立てるのはそのためではないでしょうか。

88atheist:2007/12/06(木) 21:30:29 ID:.r2n24dM
補足です。
率直に言って、私は宗教というものは、メリットよりもデメリットの方が大きいと思っていますが、だからと言って「宗教を絶滅しろ」などと主張するつもりはありません。それは、無理に宗教を排除しようとしたときの反作用的な害が大きいからです。私は、殺人は当然悪だと思っていますが、だからと言ってこの世から殺人を無理になくそうとしたら、超管理社会にするしかないないわけで、そのような社会を私は望みません。このことは、私が殺人がこの世からなくなればよいのにと思うこととなんら矛盾しません。

89名無しさん:2007/12/06(木) 22:03:42 ID:zXfK7pu6
私が問題だと思うのは、「人がいかなる基準によって宗教を選ぶのか」
「どの宗教の道徳的価値観を受け入れるべきかを決定するのか」
「なぜ(神という)仲介者を排して、宗教なしにその道徳上の判断基準を判定しないのか?」
という、私にとっては考えにくい「疑問」そのものなんです。

直後に続く(P90)、
「私は、グールドが『千歳の岩』で書いたことの大半を本気で言っていたという可能性を
断じて信じない。先ほども言ったように、私たちはみな、こちらを益するところはなくとも
強大な力をもつ対抗勢力に対して、あらんかぎりの手を尽くして、いい顔をしようとした点で
有罪であり、グールドがしていたのもそれだとしか私には考えらない」

これは、(ドーキンスにとっての)神=宗教の全面的な否定ではないですか?

90GB:2007/12/06(木) 22:05:13 ID:zXfK7pu6
あれれ。>>89は、GBです。

91後悔と懺悔:2007/12/07(金) 02:30:25 ID:FvvOuBrA
以下は皆様の見解や示唆とは無関係の、たんなる私の内心の感情的な吐露です。

人間が本来的にもつ性向のうち、私がとてつもなく嫌悪感を覚えるものに、「“正しさ”を独占しようとする」「自分の“正しさ”を受け入れないモノを“敵”と認定する」「“敵”に対してはどのような“罰”も許される」などと思いたがる傾向があります。

私がこれらの性向を憎悪するのは、たぶん、私自身が現実にこのような態度をとってしまっては、後になって悔い恥じることが多かったからでしょう。私は常に「自分はこのような過ちを犯しうる、実際犯してきた人間である」と自戒しながら生きていかなければならない存在であり、それでもなお過ちを犯してしまう愚かな人間です。
そんな愚かな人間でも──「オレは正しい」「あいつは間違ってる」と一度思い込んだら修正不可能になってしまうような、「お前馬鹿なんじゃね、こんなことも分からないのかよ」と罵りたい衝動にかられてしまうような、「あいつなんか死んだほうが世のためだ」と思ってしまうような、そんな愚かな人間でも──人間社会のなかでなんとか無事に(?)生きていられるのは(そもそもそういったことが「愚か」だと気づけたのは)、法体系とか世間体とか理性とか、本当のことは分かりませんが、なにか理由があるのでしょう。

ところで、これらのような強い傾向を持ちながら、なぜ私が人間社会のなかでなんとか無事に生きていられるのか、その理由は分かりませんが、そのような(私にとって)好ましいとは思えない人間の性向を効果的に助長し、それが犯しうる過ちを顕在化・肥大化させ正当化するモノが確かにあるように、私には感じられます。それが、「神」という名で呼ばれているモノだとしても、「啓蒙」と呼ばれているモノだとしても、「科学」と呼ばれているモノだとしても、人間の本来的にもつ性向を煽り立て、それが犯しうる過ちを奨励するかのようなモノは、何であれ、私にとって、嫌悪する対象になりうるわけです。

いずれにせよ、「自分自身が犯しうる過ち」に対して無自覚だったり、そのことに対する批判を許さない態度は、理屈抜きに、私に度し難い憎悪の感情を湧き上がらせます。そして、そういう態度を促すモノ・助長するモノを、私は非難せずにいられないのです。これが私の動機のすべてです。

当然、以上のことはすべて私の感情的な思いですので、論理的な矛盾や非合理的な欠陥はいくらでもあります。私はこれらの幼稚で衝動的な気持ちを、理性的に捉え直し、より一般的でより望ましい「見解」へと修正していかなければならないのですけど、まだそれがまったく出来ていないわけです(そもそもその湧き上がった感情が「私自身が犯しうる過ち」でないかどうか吟味しなければならないわけで)。

一部の「宗教」は、明らかに、「自分自身が犯しうる過ち」に対して無自覚であり、そのことに対する批判を許さない態度を誇示してさえいます。『神は妄想である』は、そういった態度を助長する土壌として「超自然的な神をもつ宗教」一般の存在を指摘し、無宗教・無神論が「宗教」と対等な立場で互いを批判することが許される世界を要求していると、私は受け取りました。そして、それらの主張にとても強く説得力を感じました。
しかし、皆さんご指摘の通り、まだまだ私の認識は狭く浅はかだということが、よく分かりました。皆さんのコメントは、これからじっくりと時間をかけてしっかり消化吸収し、自分の幼稚で衝動的な気持ちを整理修正する糧としたいと思います。

92AH1:2007/12/07(金) 12:24:26 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さんの>>91はまさに「フェイルセーフ」と書いておられた部分を自らに当てはめ、自戒として書かれたものと拝読します。
つまらない意見ですが、宗教であれ啓蒙主義であれ科学主義であれ、全てが「独占ー排除ー敵対ー撲滅」というループにはまり得るものであり、このループこそが害悪である、という認識は必須でしょう。
実はグールドもドーキンスも宗教について語っている著作はちゃんと読んでいないので伝聞と推定なのですが、この自戒の部分を強く書いているのがグールドであり、ややもすれば侵略的傾向を示す(恐らくはアメリカの原理主義的な一部の)宗教に対するレッドカードとして書かれたのがドーキンスの著作でしょうか。
(まあ、両者が譲り合って境界を決めるのがグールド、押し合って境界を決めるのがドーキンスという感じはするから好みは分かれそうな)
「あいつらが押して来るんだから押し返さないとバランス取れねえだろ!」という苛立ちは、わかる気がします。私は日本に住んでいますので肌で感じているわけではありませんが。

チェンバレンとチャーチルみたいなもんかな?とはいえ、チャーチルが「ついでにドイツを占領し、世界に冠たる大英帝国の版図にしてしまえ!その方が世界は平和!ドイツ人も幸せ!」と言えば「そりゃあんた、ヒットラーと同じっしょ」と言わざるを得ない。
(くり返しますが未読のため、ドーキンスがヒットラー的と言ってるわけじゃないです。押し返すのもやりすぎれば侵略になるだろう、という話。)

93atheist:2007/12/07(金) 13:15:16 ID:Gg732u8U
>これは、(ドーキンスにとっての)神=宗教の全面的な否定ではないですか?

宗教の効用の評価という意味では、全否定といといってもいいでしょうね。
ですが、前にも書いた通り、だからといって、ドーキンスが「宗教を撲滅しろ」と主張しているとは思いません。

「神は妄想である」の「はじめに」を読めば分かる通り、すでに宗教に強くとらわれてしまっている人間を無神論者に転向させるのはほとんど無理だとドーキンスは考えている。

  もし本書が私の目論見どおりの役目を果たしてくれれば、本を開いた宗教的な読者が、
  本を閉じるときには無神論者になっているだろう。なんという厚かましくもずうずうしい楽天主義か!」P16

「神は妄想である」は、宗教に疑いを持ち始めたり、宗教に違和感を持っている人の肩を押して、宗教に対する批判的な態度を進めているのだと思います。
アルコールをやめたいと思っているアルコール中毒患者に対して、アルコールの危険性を説いてアルコールをやめる手助けをしたからといって、その人間が飲酒を全面的に否定しているというわけではないでしょう。

94atheist:2007/12/07(金) 15:24:45 ID:Dffm1ah2
93で引用した箇所だけだと、これがドーキンスの自嘲的な表現だということが分かりにくくて、誤解されそうな気がしてきたので、別の箇所も引用しておきます。

  世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、
  その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教のの名によっておこなわれる
  悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っている----いや
  むしろ、確信している。つまり、両親の信じる宗教を捨てたいという漠然とした願望を抱いて
  いて、できればそうしたいと思っているが、離脱が現実的な選択肢であると気づいていない
  だけの人々がいるはずだ。もしあなたがそういう人間の一人なら、本書はあなたにこそ
  読まれるべきである。(p9)

96名無しさん:2007/12/09(日) 03:18:06 ID:E7qhD8do
なんだか知らないけど、当該の本も読んでないくせに孫引き、引用の
言葉尻をとらえて脳内敵認定&批判てダメじゃね?

97地下に眠るM:2007/12/09(日) 03:58:19 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>その>>54の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。

・宗教(特に、ヘブライの一神教)という「ミーム」は自然科学という「ミーム」に敵対的であり、共存は不可能である、「侵略」というのは宗教と自然科学というミーム相互間が本質的に敵対的であるということであり、「殺す」とはミームの消滅をはかること(ヴィークルの消滅ではない)
ってところかにゃ。
宗教(特に、ヘブライの一神教)と科学の共存は不可であるというのがドーキンスの認識なのではにゃーのかね?

このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?>>87とかえらく非論理的にゃんぜ。ゲームに興味がなく、しかもゲーム特に有害であると考えてないのなら、ゲームを禁止しろとか言い出す必然性がにゃーだろが。もしゲームが有害であると信じるのであれば、ゲーム撲滅を願うのは当然ではにゃーかね。


ある特定の価値に対するニンゲンの態度はおおざっぱにいって3種類。すなわち、積極的肯定・消極的容認・否定、だにゃ。グールドの立場は消極的容認、ドーキンスの立場は否定であるという読みは間違っているかにゃ?
ある価値体系に対して、その有用性を認めず、有害性ばかりを言い募る言論をすることが、その価値に対する撲滅キャンペーンでなければなんだというのかにゃ?

98地下に眠るM:2007/12/09(日) 03:59:36 ID:yb0RBWTc
>神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
>たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
>にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。

ここだけど、僕にはドーキンスが厨房にしか見えにゃーよ。人工世界論の富樫クンなみに馬鹿丸出しなのではにゃーのか?
ドーキンスの理屈で「ほとんど確実に存在しない」といっている神はどういう神なんだろね。

例えば、こんな神概念はどないだ?
ウィキ「否定神学」の項より引用
****************************
神はすべてを超え出ている。しかしそのような知識は神についての一面的な知識に過ぎず、否定神学によって否定される。たとえば、肯定神学は神を善を超えたものとして示す。否定神学においては、神は、善ではない。ただしそれは神が悪であるという意味ではなく、人間の思考しうるいかなる「善」をも超えているという意味である。人間や事物は神の善性に似ることができる。なぜなら善の源は神であるから。しかしそれは神が善性において人間と似ていることを意味しない。したがって、神は、人間が把握しうる限りでの善ではない。こうして一切の述語は否定される。否定神学の終局は、一切の形、音、概念、人間に把握されるすべてを捨てて、いわば概念の闇と沈黙において、すべてを超えた光のうちに、神と合一することにおかれる。

中略

ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。

こうした中世の神秘主義的否定神学は、ルター派とくにシュヴァーベン敬虔主義に影響し、そこからカントの非述語的な存在概念や、ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立にも影響した。

またハイデッガーの存在論などにも類似の思考がみられるそこにおいて、ハイデッガーは存在を存在者でないと定める。その定め方は極めて否定神学システム=「この世のあらゆる概念“でない”というシステム」に近いといえよう。
*******************************

こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?
ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?
だったら教えてくれよにゃ、いままでの発言を保留した上で、カネ出して「神は妄想である」を購入して検討するから。

「神の不在証明」とかいう理屈がありますよにゃ。神は完全であると仮定すると矛盾するから神は存在しないとかいうやつね。しかし、この否定神学における神概念であれば、この不在証明ではまったく歯が立たにゃーことはすぐにわかるだろ?
僕たちは線的な形式論理を日常的に用いているけど、そんなものは論理の中のひとつでしかにゃーだろ。
神秘主義的宗教においては、排中律すら通用しにゃーんだぜ。科学的な知見で存在を否定できうるはずもにゃーんだよ。

否定神学の神概念をここで出してきたのは、たまたま神学ドシロートの僕が哲学との絡みで少しは理解できるからだにゃ。でも、キリスト教の範囲だけでもいろいろな神概念があるんだにゃ。科学的知見で否定できるのは、聖書を逐語解釈したチンケな神くらいなものだろ?

富樫クンの人工世界論ってのは、本質的に無知で何もわかってにゃーくせに世界がわかったとか抜かすお笑い理屈だよにゃ。世界というものがどんなに複雑で記述し難いものかがわかってにゃーくせに、さも自分ではわかったように思うのは厨房でありトンデモだにゃ。
ドーキンスと富樫クンのどこが違うんだろね? 神概念というものがどんなに厄介なものかドーキンスにはわかっているのかにゃ? ボクシングを習い始めて1カ月の練習生をボコボコにして「ボクサーって弱いぜ」とかいっているチンピラ、人工世界論の富樫クン、ドーキンスは同じことをやっているのでなければいいけどにゃ。

99地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:00:53 ID:yb0RBWTc
他にもこんな話もあるにゃ

伊勢田哲治の「科学的実在論はどこへ向かうのか」
ttp://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/realism.html

科学・技術の枠内、あるいは常識的知見において電子の存在は自明であるとしても、科学哲学においては自明でもなんでもにゃーんだな。さっきの話は、ドーキンスの理屈は宗教的ロジックには通用しにゃーという話だったわけにゃんが、欧米世界における合理的思考のひとつの極みである科学哲学に対しても、ドーキンスの理屈って通用しにゃーんでにゃーのか? 電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?
正直なところ分析哲学系はまるでわかんにゃーので、科学哲学における議論を展開する能力が僕にはにゃーんだが、ドーキンスの理屈は科学哲学的にみてどの程度の水準なのか重大な疑義があるのではにゃーのだろうか?

つまり、神学や観念論哲学の知識があるニンゲンだけでなく、分析哲学や科学哲学系のニンゲンもドーキンスを嘲笑してなければいいね、と。


つまりさー、「ほとんど確実に神は存在しない」などとグールドがいわにゃーのは、グールドが科学主義的厨房ではにゃーからだよ。


でさー
こういう底の浅い厨房発言をするのが富樫クンだったら笑っていればいいわけ。ところがカリスマのドーキンス先生がおっしゃると、真に受けるお歴々がでてくるにゃんな。
僕自身は進化生物学をベースにした人間観を採用するがゆえに、「味方陣営のカリスマ」の科学主義的厨房発言を看過するわけにはいかにゃーんだよ。「利己的遺伝子」「ブラインド・ウォッチメイカー」のドーキンスに対する評価は高いつもりにゃんけどな。神を攻撃するドーキンスはただの厨房だにゃ。

で、その厨房としかいいようのにゃー幼稚な認識を振り回して、「敵陣営」の多様さや奥深さを無視して同一視して否定するってのはどういうことよ? 多様さを無視して同一視するのはファシストのお決まりの論法であり、ドーキンス自身もそういうのはダメだといってたんでにゃーのか? 厨房かつダブスタでファッショでは何の救いもにゃーだろ。百害あって一利もにゃーな。

事実、僕はいわゆる創造カガクの言説について、多少なりとも同情的になっちゃったにゃ。
こんなドーキンスみたいな厨房の宗教否定言説がまかり通るのなら、その対抗言説として創造カガクのようなものがあっても当然ではにゃーか。

100地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:01:49 ID:yb0RBWTc
さて、宗教と倫理のからみね

>宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。

はあ?
その理屈だと、カトリックのフェミもプロテスタントのフェミも無神論のフェミも区別をつける必要がなくなっちまうだろ? みんな同じだとでも思ってんの? カクレクマノミの通常の言動を知る身としては、信じられにゃーほど粗雑にゃんな。

ちょっと別の視点から見てみるにゃ。法と宗教の関係ね。
以下は「世界の法思想入門」千葉正士著 講談社学術文庫版 より「結論 諸法思想の比較的特徴」より引用
***********************************************
まず法と宗教との関係について、西欧法思想の特徴がいちじるしい。言うまでもなく、法と宗教の分離を憲法上の大原則としていることである。これは、近代国家法としては普遍的原則であることに疑いない。しかるに、他の法思想はむしろこれと異なる。ユダヤ・イスラム・ヒンドゥー・仏教の各法思想は、宗教と一体である。固有法思想も現在まで報告されているものは、祖神信仰・超自然力信仰・精霊信仰あるいは創造神信仰など何らかの宗教的信仰と結びついている。

中略

だが、西欧法思想も、法理論としては法と宗教を峻別するけれども、法文化としては、両者は、峻別されていないどころか、反対に不可分の関係にある。西欧文化は、諸民族の固有文化とキリスト教が同化した結果であり、西欧人の行動基準はキリスト教倫理か少なくともそれの支配する社会道徳である。

中略

法と宗教の分離という法理論上の原則は、法が自己完結の規範論理体系であるという観念上の要請を概念的に尊重するための文化的な形式だと言わねばならない。逆説的に言えば、法と宗教は、文化的に不可分だからこそ法理論上分離しておかないと、それぞれ固有の特質が混同され存在意義が損なわれると解されて、いわば分業体制がとられたものである。
P290〜292
***********************************************

法と宗教の分離なんて前提だと僕たちは思っているにゃんが、ぜんぜんそうでもにゃーんだよね。このあたりの記述を見ると、宗教が法に対して発言権を持つのは当然もいいところにゃんがな。法と宗教の形式的分離という、キリスト教に特有の法思想を前提にすることは、各文化における法思想に対する押し付けであるという意識は、法人類学においては共有されているもののようにゃんな。

法思想ですら宗教と不可分であるのに、倫理と宗教の分離なんざどこの厨房のタワゴトかと眩暈がするにゃんよ。

それにね
キリスト教の歴史というのは、政治・科学・法などとの分離の歴史であるといえますよにゃ。キリスト教の枠内において、宗教と倫理の分離という話が出てくるのも理解はできるにゃ。しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか? まさに、異文化否定のローラー作戦だにゃ。
ドーキンスは、自分でも知らずに他の文化圏をキリスト教化しようとしているオオタワケ。まさに厨房だにゃ。

101地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:04:56 ID:yb0RBWTc
>>96
まともな本相手であれば、おみゃーさんの言う通りにゃんがな。
厨房のタワゴトだと読まずにわかるのであれば、そんなものを読む必要なんてにゃーのだよ。

102後悔と懺悔:2007/12/09(日) 07:51:23 ID:FvvOuBrA
これだけ議論を重ね、コメントを何度も読み直し、それでもまだドーキンスのほうに強く説得力を感じるのは、私が「反宗教-原理主義者」だからなのでしょうか。

たとえ仮にドーキンスが「反宗教-原理主義者」だとしても、ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め、その答えを全人類に(他の「宗教」や無宗教者、これから生まれてくるすべての人たちを含めた全人類に)広く示す義務と責任がある──と思わずにはいられません。
たとえば、超自然的な神や教義の存在は重大なNOMA違反ではないのか。「宗教」は、自らの神や教義を支持する科学的事実があったときにもNOMA原理を遵守することはできるのか。そもそも厳密なNOMA原理の遵守など有り得るのか。(『神は妄想である』第2〜4章など)
たとえば、「宗教」は自らに批判が向けられることに対してどのような態度を奨励してきたのか・今後するのか。その態度の正当性をどう説明するのか。(『神は妄想である』第1〜2, 8章など)
たとえば、「宗教」は自らが犯してきた過ち・犯しうる過ちに対して、どこまで自覚し自省しうるのか。「宗教」は自らが犯しうる過ちに対する有効な「ブレーキ」なり「フェイルセーフ機構」を自らもちうるのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、これらの批判に真摯に向き合った「宗教」があるとして、自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。

「宗教」批判者の態度など、「宗教批判」そのものに対する皆さんの反論にはそれぞれ正当性があるのでしょう。説得力を感じるものも多いです。しかし、私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。

一方、ドーキンスは「宗教撲滅論者」「無宗教-原理主義者」かも知れません(私にはそう思えませんが)。しかし、そのような態度は別にして、ドーキンスが主張する「無宗教者」擁護の言説とその根拠には、とても強い説得力を感じます。
たとえば、他人の「宗教」を、他人の家族や食事の好み以上に尊重しなければならない理由はあるのか。その理由は本当に正当と言えるのか。(『神は妄想である』第1, 5〜7章など)
たとえば、無宗教者が自分の立場を(「宗教」に配慮・遠慮することなく)明言できるということは、社会にとって健全なことではないのか。自分の価値観や道徳観を表明するのに、また、新たな問題について倫理的な考察をするのに、まず「宗教」に配慮しなければならないという社会は、あまりに不健全ではないのか。(『神は妄想である』第1, 8章など)
たとえば、私たちが善良であることに「宗教」はどれほど寄与しているのか。現代ではむしろ「宗教」は人類の「道徳観念」の「進歩」に対する足枷となっているのではないか。(『神は妄想である』第5〜7章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。

ドーキンス(や私)が、「宗教」を有害なモノとみなすよう促しているのか、全否定しているのか、撲滅しようとしているのか、そういった議論はともかく、私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。

103後悔と懺悔:2007/12/09(日) 08:01:40 ID:FvvOuBrA
10日以上読み返し自分なりに咀嚼し検討したコメントに対してならば、私のような偏見に凝り固まった人間でも、多少とも何らかの示唆となりうるコメントができるのではないかと期待します。より最近のコメントについては、私がまだ十分に意を汲めていないと思われる点が多々あるので、もう少しじっくりと反芻してみます。

>>57:AH1さん
>これが「この土俵のすばらしさがわからんボケは撲滅したるんじゃー!」になると、「同じ土俵か、死か」という極めて侵略的・暴力的なものになるでしょう。
>その壁は意外と薄いのではないか、と思います。

>>48にも他にも随分と書いてきたと思うのですけど、私が興味深いのは、なぜ「“正しさ”を独占するモノ」を批判すべきだという思想が、「オレの言い分を理解できないヤツは撲滅したるんじゃー!」になりうる、その壁は意外と薄いのではないか──と思われるのだろう……ということです。
決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。

>>58:リリスさん
>でも、信者数が多いという理由で、一部の教義を「宗教」の代表のように扱うならば、それもまた藁人形論法になってしまうのではないか、と案じます。

おっしゃることは正論だと思います。しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。的を射た喩えではないかも知れませんが、「穏健な行革肯定派」は「過激な行革肯定派」が弱者切り捨て政策を次々と断行することに対して責任はないのでしょうか。責任を追及するのは酷だとしても、何の負い目も感じないとすれば、やはり問題かと私は思います。
本音を言えば、>>64でリリスさんが述べているように、ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。

>>58:リリスさん
>(前略)で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです。

もちろんおっしゃる通りです。しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。こういった人間の問題に関して思索するときに、「宗教」という腫れ物に少なくないリソースを向けなければならないというのは(私にとっては)悲しいことです(たとえば、>>6の最初の2段落を参照。これは私があらゆる事柄のなかで最も声を大にして主張したい気持ち・感情の発露です)。
ドーキンスは次のように書いています。「宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、(中略)内集団/外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカーチームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる(『神は妄想である』378頁)」

>>64:リリスさん
>私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。

「正しさ」が静的に硬直したものでないことは、『神は妄想である』第5〜7章(とくに第7章)の主要なテーマです。人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。
そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。つまり、「動的に探求されてきた」動機は、「宗教」そのものにあるのではなく、たとえば「安息日に薪を拾ったからって処刑するのはやりすぎじゃないか」とか「処女でないという理由だけで婚約者に打ち殺されるなんてあんまりじゃないか」とかいったより素朴でより根元的な感情が動機になっていたのではないかということです。この考えでは、「宗教」そのものは「進歩」に対するブレーキとしてのみ働いているわけです。

104地下に眠るM:2007/12/09(日) 10:24:39 ID:yb0RBWTc
>自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。

20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?
ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。
チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。

105後悔と懺悔:2007/12/10(月) 00:56:07 ID:FvvOuBrA
かなりムカついたくらいで自分の決めた約束事をあっさり反故にするダブスタ野郎の言うことなんで、適当に無視するなり嘲るなりしてくれれば良いのですけど……。

>>104:地下に眠るMさん
>20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?

知ってますよ。>>4で地下に眠るMさんご自身が再掲した私の(2007/11/08 20:08)のコメントの最後の一文は信じてもらえてなかったわけですね、残念です。ちなみに、「無宗教の名の元に」という主張にはとてつもなく強い違和感がありますが、地下に眠るMさんがそう主張し続けるなら、いずれ議論の俎上にのぼることになるでしょう。

>>104:地下に眠るMさん
>ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。

>>91を書いた直後に、なおそういうことを言われなくちゃいけないんですか。>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論を読んで、なおそういうことを言われるわけですか。
もともと私の問題意識は、「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである(マキアベリ)」にあり、「人が犯しうる過ち」についてであり、ヒトラーやスターリンやポルポトの虐殺のようなことがなぜ起こるのだろうといったことから始まり、より身近な「ニセ科学」問題を経て、理科教員時代に「オウム事件」の衝撃を受け、「宗教」に至っているわけで。私としては、すべては同じ問題意識上にあるんですが。

で、地下に眠るMさんは、私にどんな責任をとれとおっしゃるのでしょうか。
一応、私は微力ながら理科教員として、科学や科学史などの話題を取り上げながら、「人はどんな過ちを犯してきた・犯しうる存在なのか」「どんな自戒が必要なのか」といったことを子供たちや同僚に伝えてきたつもりですが、まだ不足ですか、そうですか。いや、不足なんじゃなくて、そもそもそんなのは責任の取り方として見当違いだとおっしゃりたいのですか。教えて下さい。

ドーキンスがスターリンやポルポトの虐殺にどんな責任をとっているのかは、『神は妄想である』第7章を読むか、彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。

>>104:地下に眠るMさん
>チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。

そうしたいし、そうしているつもりなんですけど、自分の能力を超えることはなかなかできないんで、自分が知らないうちに失態を犯していたり陥穽にはまりこんでしまっていたりしていたときには、そう指摘していただけるのはとても有り難いです。ただ、今回はさすがに納得しかねました。10日以上推敲した結果がアレなわけで、そんな馬鹿で無知な人間にも、どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。

106chochonmage:2007/12/10(月) 01:46:43 ID:Qhwn4442
後悔と懺悔様
猫さんの「ダブスタ」は、後悔と懺悔さんの、

>「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
を受けてのことでしょう。
(無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
になるという事。)

それから、
>彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。
は、それを言っちゃあおしまい、ってやつみたいに思います。

ですが、私も猫さんに質問。

スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
とは考えられません。いかがでしょうか。
私の無知なのかも知れませんので、もし文献をご存知でしたらご紹介いただけたら幸いです。

107カクレクマノミ:2007/12/10(月) 02:08:07 ID:THRtI5kM
>このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?

「できたら撲滅したい」と、独裁者の言う「殺してしまえ」というのはずいぶんニュアンスの違う言葉だと思いますが。
まあ何にせよ、ドーキンスが宗教をできたらなくしてしまいたいと考えているのは間違いないと思います。たぶん、地下猫さんが安易な宗教否定を撲滅したがっているのと同じくらいに。

>こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?

ドーキンスは、自分が否定する「神」の定義をかなり絞っています。
ドーキンスが批判対象とする「神仮説」は、
「宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説」(邦訳p.52)
です。これ以外の神の定義が可能なことも、それらについては批判できていないことも、ドーキンスは認めています。
だいたい、無数の神の定義すべてを扱おうと思ったら、たぶん定義の列挙だけで「神は妄想である」よりも厚い本が必要でしょうね。

ドーキンスは、もちろんあらゆるパターンの宗教や神を批判できてなどいないし、それができているとは思ってもいないでしょう。
ドーキンスが直接に議論している宗教はごく一部であり、その他の宗教をどう判断するかは読者への宿題といった所でしょうね。
ドーキンスの批判点をすべてクリアした宗教があるとしたら、胸を張って出てくればいいし、ドーキンスもそれを批判はしないでしょう。

>電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?

地下猫さんの議論とは思えないほど甘いなあ。
科学哲学における反実在論に基づいても、神仮説が妥当でないという主張は可能です。
確かに反実在論を考慮すれば電子の実在は自明ではありませんが、「電子仮説」が妥当かどうかは判断できます。

ついでに言うと、科学者の中では素朴実在論の立場が多数派で、反実在論科学哲学者もいちいち科学者の実在論的言明の言葉尻を捉えて嘲笑するほど暇ではありません。
そんなことをしていたら、科学哲学者は素粒子物理学のジャーナルを1冊読み終わる頃には顔の筋肉を痛めてしまうことでしょうし、1年分読み終わる頃には寿命が近付いているでしょうね。

>しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか?

分離"しろ"なんてドーキンスは一言も書いていないし、僕も書いた覚えはありません。
書いてないことに文句を言われても困ります。

108NAN:2007/12/10(月) 02:24:19 ID:???
>>102
>>103:後悔と懺悔さん

私もあなたの主張に批判的ではあるのだけれど、そのポイントは少し違う(あるいは単にちょっとソフト)ものです。議論自体については基本的に傍観していましたが、ここでちょっと気になる点を書いてみます。

>ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め〜

一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?そもそもすべての「比較」において、どこかに軸が必要になるのは当然なのですが、その軸が、果たして対立軸だったり集団を隔てる壁となり得るものなのか、さらには自分は「どちら側」にいてという前提に立っているのか、その前提は本当に確かなものなのか…それらについて私はとても懐疑的な気持ちでいます。

>私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。

その議論とはネットの議論ですか?ほとんどの場合、ネットで発言している宗教擁護者というのはどうにもならないガチガチのバカです。というかそもそもネット議論に参加している人口など、すべての宗教者のほんの一部でしかなく、さらに極端なニンゲンばかりである、と私は認識しています。これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。

>私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。

その点は私も大いに関心があるし、そういう議論を歓迎するでしょう。しかし、ドーキンスの著書をベースに議論を進めたところで、書評あるいは人物評(非常にローカルで問題とはまったく別次元である、ということ)から逃れることもできないでしょう。

で、せっかくなのでこの点について少し書くと、宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。ではどのような議論が考えられるのか?私はそれを「絶望の上に立った議論」と表現します。
先にも書いたジンルイの妄想とは、希望だとか理想だとかあるいは「期待」と言い換えることができるだろう、と思っています。相手に対する期待。それはつまり自己の投影であり社会と自分との同一化でもあります。自分は健全で犯罪者ではなく常識を持ち善意的な人間であるみたいな認識です(笑。同時にそれは相手もそういうニンゲンであることを期待している(前提にしている)ことを意味し、共通の文化基盤、共通の生活様式などを自分と同様に相手も保持していることを無意識に要請します。これは群れ生活を営んできたジンルイすべてが持つ広範囲で脆弱な特性でしょう。

さてこの「期待」がほとんどすべての社会生活者が持つ妄想であるのならば、ほとんどすべての社会生活者も、実は宗教者(とここで表現されている仮想集団)となにも変わらない、というのが私の認識です。そこで、少し考えていただきたいのですが、これ、実は巨大宗教のほとんどが持つ「他力本願」の思想とそう変わりがありません。つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。まぁ残念ですが、こんなカタチの「啓蒙」はまったく無意味だし、対立の溝を深めることにしかならないでしょうね。(対立の溝を深めたいならそれもOKなんですよ)

109NAN:2007/12/10(月) 02:24:51 ID:???
絶望とは、相手に期待しない、ということです。この「相手」とは個人や集団に限らず社会だったり因果律で云う結果だったりします。自己の投影を行わず、相手を想定さえせず…って姿勢を極限まで貫いていくと、物凄く宗教的なスタンスが生まれるように私は思います。まぁつまり、敵を撲滅したり殲滅したりっていう、「攻撃(他力本願)」を行う姿勢からはなにも生まれないので、自分以外という認識を捨てて、自分自身が敵そのものになるしかないんじゃないでしょうかね。いわゆるこれは…「出家」みたいなものですね。

>ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。

ね、他力本願ですね。宗教者と表現されている人となにも変わりません。念仏を唱えても極楽浄土には行けません。それと同じことです。もしもあなたがクリスチャンのなにかを変えたいのであれば、あなた自身がクリスチャンとして影響力のある存在になるしかないだろう、という意味でもあります。

ここからは私の意見を書きます。
なにがしかの信条、あるいは信仰などによってラベリングされる人々(集団)になにか問題であるのだとして、本当に問題となるのはその「ラベル」にあるのかどうか?そういうことに私は重きを置きます。あるいは、置きたいです。たとえば、大学卒業者に対して中卒者の犯罪率がもしも高いのだとしたら、問題があるのは「中卒者」という集団(サンプル)でしょうか。そうではないはずです。中卒者となるだけのなにがしかの理由や社会システム、そういった要因が必ずあるはずだ、と私は思います。さらにそれらは必ず個別の事象に行き着き、複雑でしょう。この複雑な問題を解決するのだとしたら、相当に慎重で、計画的で、あるいは自力本願的な言動…仮想敵に対する相当に正しい認識あるいは理解をもたないことには、どうにもならないだろうというのが私の意見です。しかし、不可能ではない。これもやはり、私の認識です。

病的な原理主義や妄信、教条的な思考、それらはいつでも誰でも発現し得るありふれた現象で、ボーダーレスに「ある」事象です。たとえば私は法を守らないこともできる…しかも法を守らないからといって必ず人殺しや泥棒になるわけではありません。ではなぜ、私は教条的に法を守ろうとするのだろう?それはニホンジンという集団幻想の中に私がいるからです。(かなりはみ出していますが)

社会は逆に、私(あなた)自身をも投影します。つまり社会(あるいはここで云う宗教者)がなにか「悪い(自身に対して害)」のであれば、それは私自身が認識する「倫理価値の軸」の投影でもある、ということです。

110AH1:2007/12/10(月) 12:37:17 ID:fKqeZx4M
>>決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。

これは半分は自戒を込めての事なのですが。
壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。押し返すのもやりすぎれば侵略、とはそういう意味です。

もう一つは、こうです。ここで恐らく、後悔と懺悔さんと私は『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という考えを共有しています。それを共有していない人間に対し、共有せよと迫る事は良いのか?ということです。
そりゃまあ、別に構わないとは思います。主張したければする自由があります。運動したければする自由もあります。ただ、ダブスタにならないためには、宗教の自由も布教の自由もあると言わざるをえない。すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(ex. 共産党の街頭演説を狙って軍歌を流した街宣車が来るようなもの)。
つまり、「譲らずに意見を言い合う」という理想論が「大声で喚いている馬鹿が二匹」に落ちぶれるのはとっても簡単じゃないかな、ということです。

さらに一つは、自戒を込めてですが、「宗教は現実世界について正しいことを言っていない、それは科学の役目である」という考えが、科学的には正しいのでしょうが、本当に正しいかと言えば絶対の自信はないということです。同様に『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という私の持っている「幻想」が本当に正しいかどうか、それにも絶対の自信はありません。

また、例えば中絶に反対だから医者を殺すとか、婚前交渉があったからと女性を焼き殺すといった例は私も否定すべきだと思いますが、これはいわば極端な例ですよね。原爆による被害の写真を見せながら「原子力は恐ろしい、科学は危険だ」と言っているような、ちょっと恣意的な気配を感じてしまうのです。
「科学で検証できそうな『現実世界』は全て科学のもの、宗教が口を挟むのは越権行為!」と主張するのは、科学主義としては痛快かもしれないんですが、そうすると宗教の出番って最終的にはほぼ無くなりますよね(なんせ人間がこの世に生きているんだから、この世に何のかかわりもない絵空事なんて宗教にもならない)。これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。

111GB:2007/12/10(月) 19:41:52 ID:Ni9i2QWM
以前頂いた、後悔と懺悔さんからのことば、

>人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる
(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ
思われる)」私には、ドーキンスはこう言っているように聞こえます。

私にも、そう言っているように聞こえます。さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
言っているように聞こえます。でも、

理性、倫理、道徳などという実に人間的な属性が、ヒトの生物学的な基盤の上に立つものであることは
当然だとしても、「倫理もミームで説明できるはず」で済ましてよいのかどうか。
その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

ドーキンスが頭に置いていたのが一神教または組織宗教だけだったとしても、彼の論理の流れは
どうしたって「宗教一般」に関わるものであり、しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、
まるで、と言って良いほど答えていない、と思います。

(人間性の進歩というテーマについての「時代精神」の章でも同じ感想を持ちましたが、ここでは触れません)。
でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…
でも私には、そう映るんです。

112地下に眠るM:2007/12/14(金) 12:28:29 ID:cizMQ0FI
なかなか書くヒマがにゃーので、むかーし第一掲示板に書いたネタのコピペ
形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ



背理  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年01月05日23時40分

****************************************
三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
*******************************************

科学的世界観をもつためには、心に棚をつくらなければならず
信仰においては背理に耐えられなければならにゃーのだね


113atheist:2007/12/15(土) 21:04:22 ID:MCLpIKSA
地下に眠るMさん(以下「Mさん」と略)へ

>形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ

これは、神の存在を肯定する側にも言えることですね。
そもそも論理によって神の存在を証明しようとすることがおかしいのです。宗教を否定する側が狙っていることは、論理による神の存在証明の弱点を突くことにあるのであって、神の非存在を証明することではありません。だからMさんの批判は宗教批判派への攻撃としては無効なのです。
スパゲッティー・モンスターの存在が否定できないように、なにかが存在しないことの証明は不可能なのです。Mさんはスパゲッティー・モンスターの存在を肯定するのですか?

>すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。

これって単なる開き直りじゃないですか。全然宗教の擁護になってませんよ。むしろ全否定じゃないですか。

114atheist:2007/12/15(土) 21:32:03 ID:nBjbGh2w
GBさんへ

>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と言っているように聞こえます。

確かに、現に存在する複数の倫理/道徳の体系を評価し、その中からひとつを選択するということは科学の問題ではありません。ですが、なぜ現に存在するような倫理・道徳が存在するか、ということなら科学である程度説明できると思いますよ。

>その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。

その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん

だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。

>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

なぜ宗教が存在するかという問題(事実の問題)と、宗教が必要かという問題(価値の問題)は別のものです。宗教の問

題になると常にこの問題が混同され、「現に存在するのだから必要なのだ」と考えてしまうのが混乱の元なのです。

115atheist:2007/12/15(土) 21:49:06 ID:nBjbGh2w
MANさんへ

>宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解
、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。

>これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗
教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。

別に私は、宗教家対反宗教家だとか、ドーキンス派対アンチ・ドーキンス派だとかいう枠組みで戦おうなどとは思っていないのです。
宗教を否定することと宗教家を否定することは別のことです。ドーキンスは、宗教をウィルスのように考えている(つまりミームとして考えている)わけで、そのウィルスにどう対抗するべきかということを考えているのだと思います。ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません。問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。

116GB:2007/12/15(土) 22:40:59 ID:zXfK7pu6
とりあえず、グールドの言葉で。

「敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である──人類と同じぐらい古く、永続的に警戒することなしには
廃絶することができない伝統である。」
(『神と科学は共存できるか?』P158)

117atheist:2007/12/15(土) 23:14:12 ID:azIdXNDg
もうひとつ問題があるのを忘れていました。
それは、ウィルスに感染していない人の中にも、ウィルスに感染することに意味があると思っている人がいるということです。

GBさんへ
宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。

118GB:2007/12/15(土) 23:43:36 ID:zXfK7pu6
すべての人間は、それぞれのウィルスに感染してるんだと思いますよ。

119NAN:2007/12/16(日) 13:33:40 ID:???
>atheistさん

横レスですか?構いませんが、私はあなたの発言について対立軸や立場を指摘していません。ですからあなたの反論は検討違いです。また、あなたの発言は私的にノーマークでした。チェックすらしていないのでどんな主張をしている方なのかさっぱり分かりませんでした。

>問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。

そこで、逐語的にここだけ指摘します。
上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。

あなたが比喩として持ち出した「仮想ウィルス」はどんなウィルスですか?感染すれば必ず癌化したり致死的な症状をもたらす殺し屋ですか?それとも、遺伝子の「運び屋」みたいなものですか?ミームというガイネンを持ち出したからには後者を想定しますが、その割には「ミームを持つことに自覚のないことが問題だ」と結ぶあたり、ご自分でなにを主張しているのかさっぱり自覚していない風情に見えます。

あなたは宗教というミームを「殺し屋(ネガティブなもの)」と最初から固定して想定し、そのうえで文脈を組み立てた。ところがミーム(いや、ウィルスですら)はさまざまな性質を持つし、それぞれの環境に対して正方向にも負方向にも作用し得るものであるはずです。これらに「感染」している自覚を持っているほうが平常時には不思議だし、自ら感染したのであれば誇りを持っているであろうことは当然です。

別に私のHNを間違えてても構いませんが、反論らしきことを述べるならまともに推敲した文章でお願いします。

120NAN:2007/12/16(日) 13:56:11 ID:???
ついでにもうひとつ「横レス」しておきます。

>117:atheistさん
>宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。

あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。不寛容なニンゲンとなると、そこら中に見受けられます。たとえば私もそうです(笑。

>114 を見ると、
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩んだりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。


現にあなたも「宗教と云われるものは一切信じない」という枠組みの中に縛られ、教条的に発言しています。どうやら「ゲームは(自分には)必要ない」というミームにも感染しているようだし、その自覚もなく、感染しているこおに誇りすら感じる。まさにあなたの指摘に適合しますが、それは宗教の性質ではなく、ニンゲンの性質でしょう。


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