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minglingましょう

1名無しの神学さん:2012/01/12(木) 16:02:05
んでは神学しましょう

ご参考に
ttp://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/psy/1323911382/

83ニュッサ:2012/01/14(土) 02:03:39
ロジックが逆なんです、暇人さん。

普通は、異端だと主張するほうが、確たる証拠を示さなければならないんです。
それが、普通のロジックです。

ところが、異端ではないという方が、確たる証拠を示さなければならないと主張
されている。

これでは、中世の異端審問所と変わりません。

暇人さんほどの人なら、これが転倒したロジックであることがおわかりですよね?

84ニュッサ:2012/01/14(土) 02:08:13
>>82

そんなことはいいんです。
それは、本当かもしれませんし、本当でないかもしれません。

では、暇人さんが考える地方教会の異端であることの証拠は何ですか?

神化、それは少なくとも、ギリシャ教父や東方では異端だと思われていないことは
少なくとも示しました。

それが全く同じでないにしても、これで異端だということはできないはずです。

それでは、異端だという決定的な証拠となる教えは何だとお考えなんですか?

85ニュッサ:2012/01/14(土) 02:14:13
私はすぐ異端だという人には、辟易します。

カトリックから見れば、プロテスタントは異端。
プロテスタントから見れば、カトリックは異端。
メインラインから見れば、福音派は異端。
福音派から見れば、リベラルは異端。

きりがないです。

しかも、そのほとんどが誤解に基づいている。

なぜ、信仰のひとつのモデルだと見ることができないのでしょうか。

確たる根拠もなしに誰かを異端だと決めつけることこそ、私は人間の持つ最大の
罪だと考えます。

そして、イエスご自身、異端者の烙印を押されて十字架に死んだわけです。

86ニュッサ:2012/01/14(土) 02:20:16
とにかく、神化以外に、地方教会が異端だという決定的な証拠を示してください。

それが納得の行くものであれば、異端であると認めましょう。

しかし、そうでなければ、異端としない。

これが正常なロジックです。

いい加減、眠ります。おやすみなさい。

87暇人:2012/01/14(土) 02:23:07
>>77
失礼 ハンドルを一々いれないといかんみたいです トホホ
ほう。なるほど副詞句なんだ サンクスです。

「神が人となったのは、人が神になるためであった」を正教が運用しても
信徒は誰一人、自分が神となるんだと思ってませんよ。
ローカルチャーチと違って。
ちなみに親鸞の教行信証の証巻には、なんまんだぶぅの究極は
みんな真如となる。真如は一如である。故に弥陀如来は如より来生し
報・応・化種種の身を示し現わしたまうなりという様態論が展開されている
しかし念仏者のだれひとり自分が将来弥陀如来になるんて思っていない。
ところがリーは「神になる」と主張する。

重大な差があるんですけどねー

88ニュッサ:2012/01/14(土) 02:28:47
>>87

そうすると、異端かどうかは、信徒の意識ということになりますね。
それは、確たる異端の証拠とは言えませんね。

しかも、私が知っていた地方教会の兄弟は、別に、自分が神だと信じているとは
全く思えませんでした。

これは、暇人さんに対する皮肉ではなく、一般に対するものですが、
自分を神だと言わなくても、すぐに誰かを異端だと言うならば、まさに自分が、
すべての判断基準である神として振る舞っていることになりはしませんか?

私は単なることではなく、内実を取ります。

とにかく、異端だという客観的な証拠となる教えを示してください。

89ニュッサ:2012/01/14(土) 02:31:20
付け加えると、その兄弟が自分が神であると思っていないのは、
「神格において、神になるのではない」という歯止めがあるからでしょう。

この歯止めがなくて、自分が直接、神だと言えば、キリスト教的には異端でしょうが、
歯止めがある限り、どう異端にしたくても、異端とは言えないでしょう。

90ニュッサ:2012/01/14(土) 02:33:23
失礼、単なること→単なることばです。

いい加減寝ます。

鬱病持ちには睡眠不足は特にこたえるので。

91暇人:2012/01/14(土) 02:35:13
>>83,84
そこに異端の理由が論究されているでしょう。
それをまず読まれて考察されるべきなのでは?

私はあなたのリー擁護に付き合い、
よくわからない英語にもかかわらず
あなたと山谷氏の手助けを手掛かりにマカリオスのテキストを確認し
mingleという語があっても、使用方法がまつたく違うということを
確認しました。
「魂」についての考察についてあなたも差異を確認されました。
マカリオスはリー擁護の材料とはなりません。

ということは他の教父の「神になる」も同様であるという推定を私は持っています。

「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

>>85
ログをご確認くださいな
私はローカルチャーチの方たちと3スレ分議論してカルトと結論しています。

>>86
1.他教会を否定して自分たちの集まりだけを正しいと思っている
2.重訳にもかかわらず回復訳を原文に忠実と威張る
3.他教会の牧師が地方教会の説教を密に盗んでいると主張する
4.独自訳(回復訳)を信仰している
5.回復訳のフットノートを信仰している
6.回復訳フットノートの日本語訳が変だ
7.信徒さんらがカルトぽい

92暇人:2012/01/14(土) 02:40:39
それとニュッサさんはローカルチャーチを異端とされるとムキになられますが
他者を異端と呼ぶのは間違っている、と。

ところがニュッサさんは平気で唐沢グループをグノーシス主義と批判されます。
これはダブルスタンダードですよ。

それはともかくとしてニュッサさんのグノーシス定義を教えてください
私の定義は「神格化教義」です。
イエスを神としたヨハネ福音書は私の定義ではグノーシス文書です。
非グノーシス派キリスト教は、義人ヤコブの系統、ペラに移住し
イエスを神としなかったためユダヤ・キリスト教異端として排斥された人たちです

私の認識ではキリスト教もグノーシス派の一つなので
他のグノーシス派と激しくやりあったと思っています。
余談でした。

93暇人:2012/01/14(土) 02:57:01
>>81
統一教と同じくローカルチャーチを危険だと思っているんです。

聖霊派も福音派も危険ですが、
ローカルチャーチは一線を超えているという点で異端でありカルトなのです。

最近の動向として無根拠な異端解除の風潮がありますので
きちんとした論拠のない異端解除には信を置けません。

異言が聖書の異言と同じモノである必要がなぜあるのですか?
祈りや賛美は聖書と同じものでないといけないのですか?

ニュッサさんがマカリオスも「人性と神性のmingle」を言っている。
リーの「人性と神性のmingle」を批判するのは神学的無知だと主張されたので
マカリオスの英文テキストを確認したら、mingleは確かにあったが
リーのmingleとは別物だったという流れです。。
りー擁護の論拠が崩れたわけです

94暇人:2012/01/14(土) 03:30:21
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1141282723/

地方教会の信者さんが313以下で
原文をカトリックに難癖をつけている図だが
これもカルトぽかったです

95ニュッサ:2012/01/14(土) 04:22:51
暇人さん、遅くまでいろいろ書かれていますが、

まず、前提ですが、

私は、異端とカルトとは全く違うと思っています。

世間では、どうやら、異端と言っても名誉毀損にはならないが、
カルトと言うと名誉毀損になるようです。

しかし、正統であってもカルトはあり、誰でも内なるカルト性を抱えているので、
カルトは、正統であってもなくても、誰でもカルトになりうる訳です。

これに対して、異端というのは、ある教えについて、はっきりした根拠に基づいて
判断されるべきものです。

世間では逆でしょうが、教会史を知る私には、異端という言葉はカルトという
言葉より、はるかに重い言葉です。

カタリ派は異端として、歴史から完膚なきまでに根絶されましたし、
オリゲネスやエックハルトなど、異端として、歴史から抹殺されそうになった
人たちはあまたいます。

ですから、異端という言葉は、慎重の上にも慎重に使うべきです。

ところで、91で、暇人さんがあげている項目は、どれも異端だということの
要件は満たしておりません。

これらの項目から、主観的にカルト的ということは可能かもしれませんが、
客観的に異端だと言うことはできません。

ダブルスタンダードとおっしゃいますが、
私のなかで、グノーシス的であることは即、異端ではありません。

そして、私がK氏の教えを、はっきり異端だと行ったことがあるでしょうか?

96ニュッサ:2012/01/14(土) 04:28:49
グノーシスの定義ですが、

私は、グノーシス主義というのは、「人間存在を、分割して、そこに高低の順序をつけ、
分割した一部を救われるべきもの、また一部を滅ぶべきもの」と考えることだと思って
おります。

ただ、それが即、異端だとは思っておりません。

97ニュッサ:2012/01/14(土) 04:40:15
しかも、最初から、マカリオスは例示だと言ったわけです。
別に、そこが正しいと証明する論拠になるとは一切言っていない。
私が言っていないことを、勝手に読み込んで、違うと主張してもおかど違いという
ものです。

とにかく、項目としてあげておられる理由は、単なる実行に関することで、
教理ではありません。

それこそ、暇人さんが私に対して言った、狂気の沙汰です。

なぜなら、上げておられる項目をどう思うかは主観的なことで、
教理の間違いという客観的なものでは一切ないからです。

これでは、異端審問未満です。異端審問では、でっちあげにしろ、
教えが取り上げられるのですが、ここでは、単に実行が取り上げ
られているだけだからです。

これでは、魔女狩りと言わざるを得ないです。

もう、最初から結論は決まっているということになります。

結論は決まっていて、そのための理由でしかありません。

98ニュッサ:2012/01/14(土) 04:54:27
>>93

だから、なぜ、危険なのでしょう?
危険だから危険だとか、異端だから異端だとか、循環論法にすぎません。

今まで、異端だと、それも一部の人に言われていたから異端なのですか?

ナンセンスです。

教えの点でここが異端だとそちらが確証を提出されなければ、
時間の無駄ですからこの議論は打ち切ることにします。

99ニュッサ:2012/01/14(土) 05:14:27
最後に、もう1度、ロジックを確認しますよ。

私はリーが正しいかは知りません。
どちらかと言えば、リーは好きではありません。地方教会に行く気もしませんl。

むきになっているのは、あなたの方ですよ。
異端にしたくて、むきになっているわけです。それは、はっきり申しますが、
罪以外の何ものでもありません。

>「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

むしろ、全く逆です。

あなたがたは、リーは「神になる」と言って異端だと言っている。
しかし、教父も「神になる」と言っているのだから、「神になる」ということで
異端だと言うことは、根拠がなく、無効です。

あなたがたは、リーがmingleという用語をとりあげて異端だと言っている。
しかし、マカリオスもmingleという用語を使っているのだから、mingleという
用語をとりあげて異端だと言うことも、根拠がなく、無効です。

つまり、あなたの言っていることはまったくロジカルではないのです。

もう少し、暇人さんは、まともな議論が出来る人だと思っていましたが、
見当違いでした。哲学科にいるとしたら、相手にされないレベルです。

私が以前、知っていた方々と同じように、事や内容そのものの是非ではなく、
戦いをしていて、自分の陣営に有利なことをしたいだけのようです。

私は、馬鹿馬鹿しいし、そんな戦争に加わるつもりは、金輪際ありませんので、
少なくとも、この場からさっさと撤退します。



よく聞いてください。

100ニュッサ:2012/01/14(土) 06:08:30
ウェスレーは、神化を知っていたが、自身の聖化の教理を、異端だと言われることを
恐れて、神化ではなく、聖化と呼んだ。

しかし、ウェスレーが神化と呼んでいたらどうだろう。
リーと同じ嫌疑をかけられたのではあるまいか?

しかも、ウェスレーの聖化の教理は、教父たちの神化の教理と同じではない。

すると、暇人さんの言っていることに従うなら、

ウェスレーは正しくないし、異端の嫌疑を晴らすこともできないことになる。


人を異端ということはとても恐ろしいことである。
それは、人にアナテマというのと変わらない。

101山谷真少佐:2012/01/14(土) 10:09:42
乃公のロジックは、こうです。

正教は神化を言うが、それには、カルケドン、両意論、パラミズムの枠が付けられている。

アタナシウスの定式(神が人となりたるは人が神となるため)及びマカリオスのminglingは、上記の枠内で考えなければならない。

後期ルター派がケノーシス・キリスト論からクリプト・キリスト論を経て「属性の融通」に至ったのは、後期ルター派の全部でなく一部であるし、カルヴァン派から「エクストラ・カルヴィニスティクム」(人性と神性のminglingは絶対に無い)の抗弁でもって批判されているので、「属性の融通」によりカルケドンが解除されたことにはならない。

後期ルター派の「属性の融通」は、御子の位格的結合における神性と人性の融通に限定されており、これを「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者とのminglingを正当化するために使うことは出来ない。

ウェスレーは聖化を「信者が神の愛に化されること」と考えたが、これに正教の影響を認めるとしても、正教では「神の愛=エネルゲイアは神そのものではない」と考えているのだから、これを「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者とのminglingを正当化するために使うことは出来ない。

リー派は「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者がminglingした結果が「団体のキリスト」だとするが、団体のキリストとは地方教会だけを指すのであり、諸教派の教会は「背教のバビロン」とするのだから、諸教派がリー派を危険視するのには合理性がある。

信者と神とのminglingを支持する証拠聖句は存在せず、聖書正典に示されているのは、信者と神との「結合」(union)である。

以上が乃公のロジックです。

102暇人:2012/01/14(土) 10:55:49
ニュッサさん 具体的な反論があればお聞きします。

きちんとマカリオスのテキストを読まれて下さい
リーのテキスト、二ーのテキストを読まれて下さい。
聖書を読まれて下さい。

103名無しの神学さん:2012/01/14(土) 11:04:45
>>102
人を馬鹿にするような言い方しか出来ないのか?無駄に年だけ食ってるよなぁ。

104暇人:2012/01/14(土) 11:21:51
>>103
ニュッサ氏の論は結局のところ

「他の人も神化を言っている、mingleを言っている
だからリーが言っても異端ではない」に戻ってしまってます。

ニュッサ氏、山谷氏、暇人が考究した結果は
マカリオスのmingleとリーのmingleが違うという証明だったにも関わらずです

105山谷真少佐:2012/01/14(土) 11:54:29
乃公的には

アタナシウス定式(神が人となりたるは人が神となるため)が取られたアタナシウス著『受肉論』が
エクストラ・カルヴィニスティクム定式(神性と人性の混合は絶対に無い)の主要な典拠の一つとなっている。

という事実でもって「おわった」感を抱いています。

106ニュッサ:2012/01/14(土) 14:01:33

山谷少佐のロジックは、欠陥があります。

それは、

ひとつには、アタナシオスとマカリオスの神化に関する理解を、それよりもずっと
後代の両意論、カルケドン、パラミズムの範囲内に限定していること。

リーの言うminglingが、カルケドンの言うcominglingと同じであることを示せない
こと。

危険視するのは個人の自由だが、だからと言って異端とすることはできないこと。

unionを支持する証拠聖句はないというが、そもそもminglingは神化を示す表現で
あるだろうことを無視していること。それなら、パラマスの本質とエネルゲイアの
区別も証拠聖句は示せないはず。

以上、人の生殺与奪となる異端という判断をするには、あまりに根拠希薄です。
最初に、結論ありきのロジックと言わざるを得ません。

107山谷真少佐:2012/01/14(土) 14:29:24
>>106
>unionを支持する証拠聖句はないというが

minglingを支持する証拠聖句はありません。が、unionを支持する証拠聖句は沢山ありますよ。

108山谷真少佐:2012/01/14(土) 15:05:37
>>106
>本質とエネルゲイアの区別を示す証拠聖句

これなど、どうでしょう?

出エジプト33:20
(主はモーセに言われた)
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
 人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」

同33:23
(主はモーセに言われた)
「わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」

ここに、「神の顔」(ウーシア)と「神の後ろ」(エネルギア)が示されているのではありませんか?

モーセは神のウーシアを見ることは出来なかったが、神の後ろ(エネルギア)を見た。それで、死なずに生きていることができた。

109ニュッサ:2012/01/14(土) 16:05:43
>>108

これがどうして、ウーシアとエネルゲイアの区別の証拠になるのでしょう。
ここから、ウーシアとエネルゲイアの区別が演繹できるのですか?

最初に、ウーシアとエネルゲイアの区別があって、それを単にこの聖句にあては
めただけではありませんか?

これと同程度なら、地方教会の人にも、レビ記の練り粉に油を混ぜるところとか
聞いたことがあります。

それも、私は単なるタイポロジーであって、証拠とは言えないと申しましたが。

つまり、本質とエネルゲイアの区別も、minglingも、聖書から演繹できないのです。
聖書から演繹できないのに、前者を正統、後者を異端とするのはおかしいのです。

そもそも、聖書から演繹できないものを、聖書を用いて異端かどうかを判断すること
はできないのです。

だから、ウーシアとエネルゲイアの区別も、minglingも、神化を表す表現と言っている
ではありませんか。

110山谷真少佐:2012/01/14(土) 17:24:21
粉と油は、粉と油に過ぎません。

しかし、神の顔と神の後ろは、どちらも神ですよ?

111名無しの神学さん:2012/01/14(土) 17:40:13
>>110
詭弁はいいですから、もっと大人な議論をして下さい。

112山谷真少佐:2012/01/14(土) 19:55:12
ウーシアとエネルギアでないとしても、神には、神の本質(神の顔)と神の非本質(神の後ろ)がある、という区別を、ほかならぬ神ご自身がなさっておられる証拠聖句になると思います。

ところで、「神の後ろ」が存在しなかった時、というのは考えられないのだから、「神の後ろ」は永遠に神から出て神と共にありしかも神の本質ではない「神の非本質」ということになります。

そうして、この「神の非本質」に最も近い概念がパラマスのエネルギアでしょう。

113名無しの神学さん:2012/01/14(土) 20:05:32
>>112
何を言ってるんですか?>>110では「神の顔と神の後ろは、どちらも神」と言っておいて、
ここでは「神の後ろ」は「神の非本質」?どこにもそんな聖句はないですよ。

114ニュッサ:2012/01/14(土) 20:27:58
>>112

非本質というのは、誰の用語でしょう。
そういったところで、非本質は、エネルゲイアと相似しておりません。

なぜなら、エネルゲイアは活動における神ご自身ですが、
非本質は、本質でないものということだから、本質でなければ、神ご自身では
ないからです。

まあ、何にしても、この聖句が直接、本質とエネルゲイアの証拠にならないのは
事実です。

それとも、山谷さん、正直なところ、以前は、パラマスの神学を聞いたこともなく、
あなたはこの聖句から、本質とエネルゲイアの区別を知ったのでしょうか

115ニュッサ:2012/01/14(土) 21:01:40
さらに、山谷さん、

「神のご性質にあずかるが、神格における神になるわけではない」ということでは
ずばり、何が問題なんでしょう。

神格における神になるわけではないと、ちゃんとストッパーがついていると思うの
ですが。

端的な答えをお願いします。

116名無しの神学さん:2012/01/14(土) 21:20:13
>>114

非本質とは、先の乃公の文脈では「神のウーシアではないもの」ですよ。

117名無しの神学さん:2012/01/14(土) 21:26:07
>>116
詭弁ですね。あなたは「神のウーシアではないもの」なるものを証明出来ない。

118ニュッサ:2012/01/14(土) 21:26:38
>>116

具体的には、何を指すわけですか?

119ニュッサ:2012/01/14(土) 21:31:37
普通に考えるとね、

神の本質(ウーシア)とは、「神であること」だから、
非本質は、「神ではないこと」になる。

そうすると、神のうしろというのは、神ではないものになる。

本質とエネルゲイアは両方とも神ご自身だから、まったく違うわけですよ。

120山谷真少佐:2012/01/14(土) 21:47:23
神はモーセに「神を見たら死ぬ」と言われました。

神は、神の顔をモーセにお見せになりませんでしたが、しかし、神の後ろをお見せになりました。

モーセは死にませんでした。

では、神の後ろとは、いったい何でしょう?

乃公はすでの乃公の考え方を示しました。

121暇人:2012/01/14(土) 21:49:07
>>115
ttp://localchurch.web.fc2.com/PDF/God-man.pdf

「神から生まれた存在として,私たち神-人(複数形)は単に神聖な命を持つだけでなく,神聖な性
質も持っています。神に感謝します。聖書の66巻において、一つの節があります−2ぺテロ1:4、す
なわち私たちは神聖な性質に与るものであり、それは神の御性質です。そのような節には印をつけて、
いつでも引用できるようにすべきです。私たちはカメではありません。私たちはカメの性質を持ってい
ないからです。私たちは人です。私たちは人の性質を持つからです。しかし私たちはまた神から生ま
れました。私たちは神の息子たちであり子供たちです。よって、私たちは神の性質を持っています。
私たちが神の御性質を持つのであれば,私たちは神ではないでしょうか?実際,私たちはその命と
性質において神なのです。しかし神格においてではありません。」

正確には
「実際,私たちはその命と性質において神なのです。しかし神格においてではありません。」

ここで私が疑問なのは
新生したキリスト者は神性において神だが、神格において神ではないと
神を神性と神格とにリーは分割されているが、これはどういう意味なのであろうか
ウーシアとエネルゲイアとの区別ではないのは明らかであるし。
単に神性=「いのち」と神格「存在者」との区別なのであろうか
だったら、「神になる」という強調のいみがわからない

122暇人:2012/01/14(土) 21:57:03
中世思想原典集成2収録のアタナシオス著『言の受肉』を今読んでいるのだが
「アタナシウス定式(神が人となりたるは人が神となるため)」はまだ出てこない。

今のところ、神が人となったのは、
人が自由意思で堕落したので「いのち」が「死」へと堕落した。
「死」を「いのち」へと救うために、総てを創ったロゴスが
肉をまとい「死」を経験することで、すべての死を滅ぼし
「いのち」に導くためだとある。
アタナシウスの論点は「死」を滅ぼして「永遠の命」を得せしめる為ですね

123山谷真少佐:2012/01/14(土) 21:59:54
ウーシアとは、それ自体で存在するもの。

エネルギアとは、ウーシアに依存するもの。

神の顔は、それ自体で存在しますが、神の後ろは、神に依存するものです。

よって、神の顔はウーシア、神の本質。

神の後ろはウーシアに依存するがウーシアそのものではないもの、つまり、エネルギア、神の非本質、ということになります。

124暇人:2012/01/14(土) 22:41:37
>>106
>ひとつには、アタナシオスとマカリオスの神化に関する理解を、それよりもずっと
>後代の両意論、カルケドン、パラミズムの範囲内に限定していること。

この論点の意味がわからない。
1.正教も神化を言っている、だからリーは異端ではないという論説に対して
 正教には「両意論、カルケドン、パラミズム」があるという限定を指摘することは大切だ
2.アタナシオスとマカリオスの神化が「両意論、カルケドン、パラミズム」から逸脱している
ということなのであろうか?

>リーの言うminglingが、カルケドンの言うcominglingと同じであることを示せないこと。

カルケドンはそもそも単性論というかキリストに於いて神性と人性が合一されて一体となる事に対して
「人性」と「神性」とが混合されないと説いたのだから、
リーの言うキリスト者における「神性」と「人性」の混合とは別テーマですよね
ただリー自身がカルケドンを意識して「合一」をさけ
「茶葉」と「御湯」の性質はそれぞれ独立したままと弁護しされたように
「人性」と「神性」のminglingと聞くと我々はただちにカルケドンを想起してしまう

125暇人:2012/01/14(土) 22:46:38
聖書に基づくならば、unionなのに
リーは、これを否定してunionをminglingと読み変え
これが真理であり神秘だとした。

なぜ聖句どおりのunionではダメであったのであろうか

126山谷真少佐:2012/01/14(土) 23:10:28
アタナシウス『受肉論』の中に、「ご在世当時のキリストの肉体に神性が全部収っていたわけではなく、キリストの肉体の外部、宇宙の外部にもキリストの神性が遍在していた」と言ってる箇所があって、そこは、エクストラ・カルヴィニスティクム(神性と人性の混合は絶対に無い)という立場の根拠にされていたと思います。

アタナシウスの「神が人となりたるは人が神となるため」の定式は、上記と照らし合わせて考えるのでなければなりません。

127ニュッサ:2012/01/15(日) 00:18:12
いっぱい書かれていますね。

私は、私のペースでゆっくり書く事にします。

神の後ろとは、ルターの言うように、すでに啓示された神でしょう。
神の御顔とは、まだ隠された神のことです。

128ニュッサ:2012/01/15(日) 00:31:24
あとは、後代のものを持って、その前の時代を説明するのはおかしいという
のはこういうことです。

つまり、神化というのは、まず経験であって、その説明というものは後からつけ
足されたものだ。

これは、パラマスの説明の経緯がそうです。

トマスの影響を受けたギリシャ人バルラムが聖山アトスを、「神を見る」という
ことで批判し始めた。

それに対し、パラマスはやむを得なく、論争することになり、そのなかで、
本質とエネルゲイアの区別を言い出したわけです。

だから、経験が先にあり、その説明は後から生まれたものだ。

そういう点から考えると、アタナシオスやマカリオスを、後代のものから、
説明を加えるのは、解釈の原則を犯していると言える。

はっきり、言って、読み込みということになるわけです。

そして、リーの神化についての説明自体、神学的になされていない。
非常に、プリミティブなものです。

だから、それを、彼と直接、関係のないものを持ってきて、異端だということ
は、これは解釈からはずれるわけです。

総じて、言うと、異端であるということを言うには、積極的な理由が必要です。

それなのに、異端でないことを証明せよとは、異端という結論ありきの馬鹿げた
論理です。

129ニュッサ:2012/01/15(日) 00:34:10
>「人性」と「神性」のminglingと聞くと我々はただちにカルケドンを想起してしまう

「想起してしまう」。なるほど、だからそれは主観に過ぎません。

客観的なものではありませんし、異端の証拠にもならない。

130ニュッサ:2012/01/15(日) 00:36:29
>>125

それは、神化を説明するためでしょう。

同じことです。unionでいいのに、パラマスは本質とエネルゲイアの区別を持ち出した。
リーはminglingを持ち出した。

神化を説明するためです、それ以上のものではありますまい。

131暇人:2012/01/15(日) 00:44:00
中世思想原典集成2 p134
アタナシオス著『言の受肉』54-(3)でようやく発見。
「実に、この方(ロゴス)が人となられたのは、我々を神とするためである」

私の読解力ではこの語がどういう意味でここに提出されたのか よくわからない。
唐突な印象を受けます。
49でギリシアの神であるヘラクレスやディオニュソスより、ロゴスの優位性を
色々と論証し、それが直前まで続き、53でロゴスの神性の証明は
十字架にかけられたイエスがギリシアで今や神として礼拝されており
かつてのギリシアの神々が捨てらているからだという。
これらは人間の業(わざ)ではなく神の業だという。この業とはエネルゲイアのことか?
そしていよいよ54で見えない神を観たいと思うならば、神の業によって
理解知るべきだという。
キリストの死に依って不死がすべてのものに及び、ロゴスの受肉において
万物に対する摂理と、その実践者であり形成者である神のロゴスとその方が知られたことを
讃嘆せよとあり、(4)と続く。

132暇人:2012/01/15(日) 00:52:57
「実に、この方(ロゴス)が人となられたのは、我々を神とするためである」
の続きは
・この方が肉体を通してご自分を現されたのは、
見えない父の認識(エンノイア)を我々が得るためである
・この方が人々の侮辱を耐え忍ばれたのは
われわれが不滅を受け継ぐためである
・この方は苦しみ得ぬ方、朽ちざる方、ロゴスそのもである神として
 いかなる点でも損なわれることのない方であったが
人々ためにこれらの苦悩を耐え忍ばれたのであり、
ご自分の受苦不能性によって人々を守り救われたのである

133暇人:2012/01/15(日) 01:08:19
野呂芳男「神の死の神学」で
ttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/1977kamikan.html
>>132k
「受苦不能性」を批判されておられる

今のところアタナシオスの「我々を神とするためである」から
「永遠の命」という意しか見いだせないのだが
それ以上の意味をアタナシオスは想定していたのであろうか

134ニュッサ:2012/01/15(日) 01:13:07
ちなみに、先に言っておきますが、
アタナシオスを上げたのは、神化について、東方では当然のこととなっている
例として、あげたわけです。

決して、リーと同じことを言っているという意味であげたのではありませんからね。

また、リーと同じことを言っていないと言いがかりをつけるのはやめてくださいね。

神化は経験です。そして、その経験を説明する説明はたくさんある。

西方では、その説明を、信条として、決まったかたちに決めますが、東方では、
最低限の信条を決めて、あとは、それぞれ、その説明は自由だ。

そういう意味では、むしろ、表現なのです。

まあ、だんだん、疲れてきました。
実りのある議論はできそうもないですし、一致した着地点も得られそうもないで
すし、そろそろ離脱することに致します。

ただ、繰り返しますが、
リーが異端であるという積極的な理由は提出されていないのです。
これと違う、あれとも違う、だから異端だという論理矛盾です。

それをいくら積み重ねても、異端だということにはならないです。

これ以上、知りたければ、
サロメさんの言うように、リーのテキストをもって、正教会の神父に尋ねて
ご覧になるのがよいです。

以上。

135暇人:2012/01/15(日) 01:24:12
アタナシウス『受肉論』の中に、
「ご在世当時のキリストの肉体に神性が全部収っていたわけではなく、
キリストの肉体の外部、宇宙の外部にもキリストの神性が遍在していた」と言ってる箇所

集成2 p121 アタナシオス著『言の受肉』42-(7)の後半にありますね
議論としては41あたりから続き、結論部分ですね

42-(7)
また人間全体にくまなくいき渡っている精神も、肉体の一肢体-私の言わんとするのは舌の事である-
によって知られるが、だからといって、それによって精神の実態が縮小されるとは誰も言わない。
同様に、万物に内在される言(ロゴス)が人間の[肉体]という道具を用いたとしても、
当を失したこととは思われないのである。上述のように、
まさしく肉体を道具として用いられたにせよ、
まさしくこの方(言ロゴス)は[宇宙]全体の内に存在しておられるのである。

136暇人:2012/01/15(日) 02:25:17
>>128
冗談ですが、「後代のものを持って、その前の時代を説明するのはおかしい」
のであればアタナシオスやマカリオスの件を千年後のパラマスから例示されている
ニュッサさんの立場からするとはどうなるのでありましょうか。
私の立場からすると「わりやすく」するためされている例示だから無問題ですが。

さてパラマス。
ttp://morfov.blog79.fc2.com/blog-date-201105.html
ここを参考にしますと、

「人間は、神の「ウーシア(本質)」には触れることができないが、
神の「エネルゲイア(活動)」には触れることができるというものです。」
にまったく違和感がありませんです。

ttp://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
ttp://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari09.html
このヘシュカズムを読んで想起したのは沈黙の祈りでインナーライトを体験される
クェーカー派に似ているなということと仏教の瞑想や聖霊派の祈りに類似しているということです。

カラブリア出身の修道士バルラームとありますので、イタリア出身ですね。
ギリシアにもおられたことがあるようですが。
バルラームの攻撃以前から、アトス修道院では「神の現れである神秘の光」と
考えていたので、バルラーム批判を受けてパラマスが
「ウーシア」と「エネルゲイア」という理論で反論されたわけですが
これはむしろ、批判があった為に、経験が理論化されたという進化だと思いますね。

それでこのことが
「アタナシオスやマカリオスを、後代のものから、
説明を加えるのは、解釈の原則を犯していると言える」とどうリンクするかわからないです。

例えば親鸞を理解にするにあって、蓮如や歴代の解釈に沿って説明を加えると
これは江戸教学(伝統教学)になりますが、学問にならないという意味での
学問的解釈の原則を犯しているということならば理解できますが
今やっているのは「伝統神学からの逸脱の確認」ですので
ニュッサさんの方向性は混同あるいは混乱があるように思います。

137名無しの神学さん:2012/01/15(日) 08:49:45
山谷先生

「神の顔」を見たら死んでしまい、「神の後ろ」を見たら死なないという根拠は何でしょうか?
「神の後ろ」は「神の非本質」などというのは、拡大解釈ではないでしょうか?
神学論争も結構ですが、神の御言葉を我田引水の道具に貶めてしまうのは感心しません。

士師記13章22節
マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。
士師記13章23節
だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。

138山谷真少佐:2012/01/15(日) 09:31:29
マノアに顕現したのは「不思議」という名前の天使ですよ。

天使は神のウーシアでも神のエネルギアでもなく、被造物です。

139名無しの神学さん:2012/01/15(日) 09:41:18
山谷先生

当時の人々は天使を見ただけでも死ぬと思っていたほどのようです。
「神の後ろなら見ても死なない」と言える根拠はどこにあるのでしょうか?
ウーシアやエネルギアという専門用語使って誤魔化すのではなく、日本語で回答願います。

140山谷真少佐:2012/01/15(日) 10:26:02
神の後ろを見たモーセが死ななかったから。

141暇人:2012/01/16(月) 17:51:45
中世思想原典集成3と4が到着。

3も4も金額がはるが、圧倒的なボリューム。
3はp975に及び、4はp1287もある。

ニュッサ氏は全訳ではないと言われていたが勘違いではないだろうか。
ちらっと見た限りでは書簡集は抄訳だったが、
大説教は全訳のようだった。

しかもこのマカリオス文書の大雑把な解説も興味深いものであった。

さて、まったりと目を通して、後日紹介します。

142山谷真少佐:2012/01/16(月) 18:37:08
"Through transformation the very essence of the Triune God is mingled with our soul, our very self." (Witness Lee, The Economy of God, chapter 13)

「変革を通して、三一の神の本質そのものが、われわれの魂、すなわち、われわれの自我そのものと混合される」

神の本質と信者の混合ですね。

143暇人:2012/01/16(月) 20:14:18
>>141
失礼 抄訳の方でした。

>SPCKが1921年に出したアーサー・ジェイムズ・メイスン訳『偽マカリオス大書簡』(五十説教集)がWebarchivesで無償公開されとります。
>いわゆる「神性と人性のmingling」がホントに講述されてんのかどうか、精査しましょう。

144暇人:2012/01/17(火) 08:32:36
>>142
これはニュッサさんの批判(言ってないことを言ったという批判)に対するものでしょうし
その限りでは、山谷氏の証拠提出の意義はありますが
我々のテーマとしては
魂とのmiglingですと、振り出しに戻るのではないでしょうか。
>>4においても
「聖なる性質とキリスト者の魂を混ぜ合わせ」が確認されております。

中世思想原典集成3 p249
「偽マカリオス 説教20」2-(3)にも
「それというのも、魂を天上の聖霊と混ぜ合わせ、
地上的なものと天上的なものとの混合(μιζισ※シグマは語尾の奴だが代用)
・混交(χοινωνια)をあらしめんがためであり、
ひいてはわれわれが互いに愛し合い、神を信仰せんがためである」
とあります。

我々はリーの
「変革を通して、三一の神の本質そのものが、われわれの魂、すなわち、われわれの自我そのものと混合される」

マカリオスの
「ご自身の聖なる性質とキリスト者の魂を混ぜ合わせた」
「魂を天上の聖霊と混ぜ合わせ」
とを引き続き考究する必要がありそうです。

145山谷真少佐:2012/01/17(火) 09:38:50
もうひとつ。

"His substance is increased in us and mingled with us."
(Witness Lee, The Experience of Life, p.162)

「神の本質がわれわれの内に増大し、われわれと混合する」

神の本質と信者の混合についてリーがsubstanceを使っている例です。

146暇人:2012/01/18(水) 22:16:43
中世思想原典集成3 p250
「偽マカリオス 説教21キリストを土台とした霊的構築」
1キリストを土台とした教会の構築-(1)

われわれの主イエス・キリストは、そもそも彼自身が(建物の)土台(1コリ3:11)であり、
満ち溢れる完成であり、要石(エフェ2:20)であられる。それというのも、主が天地とを
自らの出自とされているからである。実際、主は神として天から来たり、地から人間を
取り上げ、人間と一つに混ざり合われた。とりわけ「天から」、「地から」、「土台」、
「要石」という点に注目せよ、主はそのように働こうと心に決められたからこそ、
地から生まれた人々に天から聖霊をもたらされたのである。それはまさに上方からの
者たちと下方からの者たちとが、神性と人性が混ぜ合わされながら一つの教会(エレクシア)を
作らんがためにである。

偽マカリオスで「神性と人性が混ぜ合わさせ」を確認しました。

147暇人:2012/01/18(水) 23:13:04
「ニュッサのグレゴリオスと擬マカリオス」
『エイコーン』第28号(2003年、東方キリスト教学会)掲載 土橋 茂樹

ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.article22.html
ご参考に

148暇人:2012/01/19(木) 06:01:44
474 :ぱるるん ◆SuSYjvNEBI :2012/01/17(火) 10:20:51.60 ID:QwL3cRlk
>>470人間は神の似姿として創られてるけど、堕罪の状態にある。
そんなわたしが主イエスの十字架と復活の恵みにあずかり、神の似姿を完全回
復できたとしたら、どんなもんだろうかというのが、リーとかニーとか、神秘
主義クリスチャンの関心でしょ。

中世思想原典集成3 「偽マカリオス 説教」を読了。
全体的な感想は、ぱるぱるの言う
「神の似姿を完全回復できたとしたら、どんなもんだろうか」という方向性だった。
しかし善悪二元論、現世否定など質的なものはビオラ神学と同質であった。

また解説を読むと異端ではないと結論されていたが
異端のメッサリア派文書を砂漠修道士の大マカリオスの名を冠することで
ロンダリングして正統派文書にし、もつぱら東方正教の中で大切にされて
きたようだ。

149ニュッサ:2012/01/19(木) 14:32:27
書かないと思っていたが、ひとつだけ。

>偽マカリオスで「神性と人性が混ぜ合わさせ」を確認しました。

いみじくも、暇人さん自身が確認したのであれば、マカリオスのテキストの神化及びminglingの例示
としての役目は、果たされたのである。

つまり、マカリオス自身が、神性と人性のminglingを言うのであれば、それはリーのものと構成におい
て、異なるにしても、同方向、同質の共通性を持っていることになる。

>異端のメッサリア派文書を砂漠修道士の大マカリオスの名を冠することで
ロンダリングして正統派文書にし、もつぱら東方正教の中で大切にされて
きたようだ。

さらに、このマカリオスの文書を異端とするのは無理がある。
土橋氏のカトリック神学院の講義で(ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/lec02lec-mat1.html)
、「そうした異端の運動体であったメッサリア派と非常に近い存在であったため、異端として排斥
されることを恐れた修道者たちが、エジプトの修道院活動の父とも言うべき聖マカリオスという人
の名前をわざとその書物につけて、つまり、おそらくは本当はシメオンという名前のシリア人なの
に、マカリオスという偽名をつけて、その書物を守りました。あのお偉いマカリオス様のご本なら大
丈夫だ、という効果を狙ったわけです。確かに彼の書物が異端のメッサリア派のいわば霊的指導
書の役割を果たしたのは事実なのですが、彼自身の主張に異端的要素はありません。」
と言っている。

カトリック神学院(つまり神学校)で「異端的要素はありません」と断言しているのだから、何をどうし
ようとも、偽マカリオスは異端ではない。

しかも、偽マカリオス自体が、正教やカトリックだけでなく、聖公会などプロテスタントの
一部においてさえ、霊的書物として読まれてきたのであって、あのウェスレーにも影響を
与えた書物として言われているのである。

決して異端のロンダリングなどでないことは、それは上記の土橋氏の言葉からも明らか
である。

メッサリア派の霊的書物として使われたがために、異端の嫌疑を免れるために、「マカリオス」
の名前を冠したのである。内容的には、異端では全くない。むしろ、東西霊性において貴重な
書物であった。

さらに、メッサリア派の異端について、その異端断罪の理由は、上記にも多少あらわれている
が、彼らが、祈りだけで足りるとして、洗礼やミサなどの聖礼典を無視したことが大きいのであ
る。これは、特定の視点からの異端という味方であって、同じことならば、当然、クエィカーも、
やはり聖礼典を持たないのであるから、異端ということになる。

150ニュッサ:2012/01/19(木) 14:37:29
であるから、偽マカリオスが異端でないなら、同方向、同質の共通性を持つリーも
異端でないことになる。

リーを異端にするなら、同方向、同質の共通性を持つ偽マカリオスも異端である。

しかし、偽マカリオスを、その内実をもって異端であるという人は、今までの歴史上で
存在しなかったのである。

とすれば、偽マカリオスもリーも異端であることは難しい。

151ニュッサ:2012/01/19(木) 14:47:28
さらに、


>しかし(偽マカリオスは)善悪二元論、現世否定など質的なものはビオラ神学と同質であった。

この言葉には、内容的には、私も賛成する。
なぜなら、私が主張しているのは、神化の神学ではなく、受肉の神学だからだ。
ただ、だからと言って、神化の神学を異端だととは思っていないところが異なる。

ここは、正確に言い直させていただければ、ビオラ神学と同質なのではなく、
ニーと同質なのである。

なぜなら、ビオラ神学は、内容的に、ニーと異なるものがあるわけではなく、
ご自身、ニーに忠実であることを言っておられる。

だから、暇人さんご自身の口で、実は、偽マカリオスは、ニーと同質であると告白
されていることになる。

すると、どうなるのであろうか?

偽マカリオスは、リーと同質、同方向の共通性を持っており、
また、偽マカリオスは、ニーとも同質、同方向性の共通性を持っている。

そうであるならば、当然、ニーとリーは、同質、同方向性の共通性を持っている
ことになる。

つまり、当初の私の主張通り、ニーとリーは内的に連関しているという私の主張が
、この迂回路を通って、証明されたことになるのである。

以上が、この議論から、私が思うところの結論である。

152山谷真少佐:2012/01/20(金) 11:49:00
乃公の考えは、こうです。

1.メッサリア派は「神の本質と信者の混合」を説いて異端定罪された。

2.隠修士はメッサリア派異端定罪の巻き添えを食うのを恐れて「神性と人性の混合」の教えを偽マカリオス文書に避難させた。

3.リーは「神の本質と信者の混合」を説くんだから、現代メッサリア派とみなされる。

4.偽マカリオス文書に「神性と人性の混合」という表現があっても、メッサリア派異端定罪の事実は覆らない。何故なら、メッサリア派が異端定罪されたからこそ隠修士は偽マカリオスに避難したんだから。

5.同様に、偽マカリオス文書に「神性と人性の混合」という表現があっても、リー派が現代メッサリア派である事実は覆らない。

以上が乃公の考えです。

153名無しの神学さん:2012/01/20(金) 13:19:52
日曜日午前10時30分から始まる聖別会の直前も直前になってインターネットの掲示板に書き込みを行なわれたことについて、
山谷少佐のお考えをお聞かせ下さい。

140 :山谷真少佐:2012/01/15(日) 10:26:02

154名無しの神学さん:2012/01/20(金) 14:04:05
ttp://www.affcrit.com/acpress/index.html
ttp://www.affcrit.com/acpress/pdfs/Diviniz-Intro.pdf

ttp://en.wikipedia.org/wiki/Perichoresis
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Theosis
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%90_(%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A)

155ニュッサ:2012/01/20(金) 14:43:25
>>152

別に、あなたの考えがどうであっても構わないが、根拠がなければ有効な考えと
はみなされない。

メッサリア派が異端とされたのは、「自分たちが聖霊に満たされていて、そ
のしるしを身体的・感覚的にわかり、秘蹟の有効性を否定した」(つまり、現代の
聖霊派に似ている)と言われているのだが、
「神の本質と信者の混合」を説いて異端とされたという根拠は何か?
文書を示してください。

156ニュッサ:2012/01/20(金) 15:07:29
例えば、カトリック百科事典のメッサリアの項目
(ttp://www.newadvent.org/cathen/10212a.htm)を読んでも、

彼らが「神の本質と信者の混合」を説いて異端とされたとは書いていない。

そうではなく、秘蹟の有効性を否定した静寂主義ということを中心に書いてある。

秘蹟の有効性を否定した静寂主義が異端ということならば、
同じく、静寂主義ということで異端とされた、がイオン夫人の流れを汲むニーも
異端ということになってしまうだろう。

ニーとリーは、表現は違っているが、その内的連関は外せない。

リーが異端ならば、ニーも異端だろう。

ニーが異端でないならば、リーも異端でない。

157ニュッサ:2012/01/20(金) 15:08:51
失礼、ガイオン夫人です。

158ニュッサ:2012/01/20(金) 15:13:16
繰り返し、言うが、私はリー派でもなければ、個人的に、彼の神学に賛成するもの
でもない。むしろ、反対の神学に立つものである。

しかし、人を大した根拠もなしに異端だということはおかしいと思う。

何をどう捻じ曲げても、リー派を異端にしようというおぞましさをあなたがたに
感じるのだが、

私は、そのような、誰かを異端にしようということ自体を根源的な罪だと思って
いる。

159ニュッサ:2012/01/20(金) 15:28:24
Sacraments they held to be useless, though harmless, the only spiritual
power being prayer, by which one drove out the evil spirit which baptism
had not expelled, received the indwelling of the Holy Ghost, and arrived
at union with God, becoming so perfect that the passions ceased to trouble.
(カトリック百科事典より、メッサリア派の項目)

「秘跡を、無害だが、役に立たないものだと考え、祈りこそが唯一の霊的な力だと
考えた。人は、祈りによって、洗礼が追い払うことのできない悪霊を追い払い、
聖霊の内住を受け、神との一致に達し、感情がわずらわされることのないほど
完全になると考えたのである。」

中心点は、どう考えても、洗礼や聖体拝領などの秘蹟の有効性を否定した静寂主義
にある。

160ニュッサ:2012/01/20(金) 15:32:23
「祈りによって、洗礼が追い払うことのできない悪霊を追い払い、
聖霊の内住を受け、神との一致に達し、感情がわずらわされることのないほど
完全になると考えたのである。」

という部分は、むしろ、ウェスレーやその後のペンテコステ派や聖霊派に似ているではない
か?

だからと言って、ウェスレーやペンテコステ派や聖霊派を、私は異端だとは全く思わないが。

とにかく、リーを「現代のメッサリア派」だと言って異端にしようと言うのは、
全くの言いがかりであり、

何が何でも異端にしようという思いだけが透けて見えるだけである。

161名無しの神学さん:2012/01/20(金) 15:37:57
※救世軍はウェスレー派です。

162ニュッサ:2012/01/20(金) 15:48:22
しかも、救世軍は、洗礼(入隊式が洗礼に当たるとされているが)も聖餐もなく、
いわば、秘蹟もかろんじられているわけだから、
むしろ、当てはまると言えば、救世軍も現代のメッサリア派ということになって
しまうではないか?

私はそうは全然思わないが。

163ニュッサ:2012/01/20(金) 15:53:21
だから、メッサリア派が異端であることを利用して、リーを異端であるということは
根本的に無理があるのです。

「剣を持つものは、剣によって滅びる」というが、
返す刀が自分に返ってきてしまう。

メッサリア派が異端であることを用いて、
リーが異端であると言おうとするならば、

記述されている特徴にもっとよく当てはまる救世軍は、なおさら、異端ということ
になってしまうのだ。

私が異端にしているのではない、間違いのないように。

自分で自分の教派を異端ということにしてしまっているのだ。

164ニュッサ:2012/01/20(金) 16:10:18
ttp://orthodoxwiki.org/Messalianism

正教による「メッサリア派」についての解説。

ここでも、「神の本質と信者の混合」を説いたから異端などとはどこにも書いて
いない。

論旨は、カトリックのページと同じである。

秘蹟が恵みを与えることを否定し、祈りだけが聖霊を受けさせるものだというこ
とが、異端の根拠である。

165暇人:2012/01/20(金) 22:44:22
岩波キリスト教辞典p1104「メッサリア派」の項
担当の久松英二は竜大教授
ttp://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901013982725936

「メソポタミアに起こり、シリアや小アジアなどに普及した敬虔主義的分派。
エフェソス公会議(431)で異端として断罪されたにもかかわらず7世紀まで
存続した。メッサリアとは「祈る人々」を意味するシリア語のギリシア語音訳で
その意味を取って「エウキタイ派」(Euchitai)とも呼ばれる。
人間の心には悪魔が巣くっているため、これを撃退するためにひたすら祈ることの
必要性のみを強調し、その代わりに教会的組織や秘跡を否定もしくは無視した。
特に秘跡の否定に関して、霊的体験と五感体験を同一視するあまり、恵みの有効性は
それが感覚されうるかどうかにかかっていると主張した」

久松の論文レジュメ
ttp://www.bun.kyoto-u.ac.jp/mdvphil/ksmp/rejume04.html
「動詞plerophoreo(pleres:充満した+phoreo:繰り返し運び・持つ)および名詞plerophoriaは、
元来、量的な規定を与える世俗的な言葉であったが、新約聖書においては、
霊的実在がもたらす「充溢、完全性、確実性」、また主観的な「確信」を表現するために、
ルカ、パウロなどによって用いられたギリシア語固有の術語である。
今回の発表では、(1)この術語を東方教父の中で際立って多用したバシレイオスと擬マカリオスの用法を比較することによって、
さらに(2)擬マカリオス『大書簡』と体系的な類似を示すニュッサのグレゴリオス『キリスト教綱要』の当該語にかかわる
平行箇所の考察によって、擬マカリオスが(他の二人に比して)この語によっていかに力動的な信仰概念を語り得たかを跡付け、
その上で(3)そのような革新的な信仰概念がメッサリア派という異端へと即反転せざるを得なかった所以を、
「感覚主義」という観点から考えてみたい。
その際、人間の知性把握を超絶した「語り得ぬ神」を、こともあろうに「感覚する」という逆説(およびその逆説の文脈)の
哲学的解明がポイントとなるはずである」

166ニュッサ:2012/01/20(金) 23:11:36
暇人さんの引用は、結局、感覚主義による秘蹟の否定であり、

この感覚主義は、現代のペンテコステ、聖霊派にもある。

しかし、山谷さんの言う、「神の本質と信者の混合」を説いたがゆえの異端という
ことはどこにも現れていない。

秘蹟よりもむしろ、祈りによって「聖霊を5感で感じられる」ことを重視したのが
メッサリア派ならば、
メッサリア派は、祈りによって、本人が感じられる形で聖霊のバプテスマを受ける
ことができると説く、ウェスレー以降の、メソジスト、ホーリネス、救世軍、ペンテコステ
、聖霊派に近いことになる。

167ニュッサ:2012/01/20(金) 23:52:14
結論:正教やカトリックにとって、秘蹟は教会の根幹であり、
メッサリア派を異端にしたのは、その秘蹟を否定もしくは無視したことによる。

決して、メッサリア派が「神の本質と信者の混合」を説いたから異端とされたの
ではない。

従って、>>152の山谷さんの主張は、根拠がない。

結局、>>149から151の私の結論は、未だ、有効である。

168ニュッサ:2012/01/20(金) 23:54:30
付加

「従って、従って、>>152の山谷さんの主張は、根拠がない。」
→「従って、>>152の山谷さんの主張は、根拠がなく、単に、リーをどうしても
異端にしようというための、こじつけにすぎないことが判明した。」

169暇人:2012/01/21(土) 09:15:03
アンリ・イレネ・マルー  上智大学中世思想研究所 訳・監修
「平凡社ライブラリー168 キリスト教史2 教父時代」P310-312

異端ではあるが最も意義深いものは、メッサリア派あるいは<祈祷派>(エウケータイ)の
謬説である。(この二つは前者が古典シリア語、後者がギリシア語で、いづれも
<祈りの人>の意味がある)。というのはこれらの謬説の思弁的な謬説さえも
苦行や神秘生活と堅く結ばれているからである。メッサリア派は390年頃、
カッパドギアの綺羅星のごとき偉大な教父らのなかのより小さな星であるイコニオンの
アンフィロキオスに攻撃され、エフェソス公会議で排斥されたが、五世紀以降にも
ローマ帝国の東部諸州とササン朝王国のネストリオス派のなかに勢力をふるった。
この派のなかの主要人物としては、メソポタミア出身のシメオン(4c後半)の
ような人物があげられる。

170暇人:2012/01/21(土) 09:16:09
この説の出発点にはきわめて遺憾な体験的事実がある。すなわち、人間は洗礼の
後でも、自分の内に罪の方へ押し流されていく悪い傾きを認める。西方では
一般にひろく認められている原罪と肉欲との区別を、メッサリア派は持たないために
この傾きを悪魔が人間の魂に住んでいるために起こるものと表現している。
そして悪魔を追放し、情欲に完全に打ち勝って至福の境地<アパティア>(不動心)に
達するためには厳格な禁欲生活に、特に祈りに、聖パウロが勧めている<絶えまない祈り>
(1テサ5:17)に頼らなければならないとする。悪が情欲おいて感覚的に体験される
のと同様に、聖霊が魂の中に入り、それを燃え立せ、清めて神化する事実も
彼らには同じように感覚を通して感じられ、それは光の現象、または恍惚の状態を
ともなうのである。そこからこの派対して<狂信者><歌う人>(あるいは<踊る人>)
という侮蔑的な呼称が起こっている。反対派は彼らに対して怠情、精神的緩み、
痛飲乱舞の宴などという非難とともにこの呼称を乱発している。しかしこの非難の中に
偽の神秘主義に特有の偏向と彼らの思想上の原理から事実に関係なく論理的に
引き出された中傷とを識別することは困難である。
 メッサリア派の思想と習慣は慎重に緩和され、不安を与えないような形で、
教父たちの権威借りて東方の霊性の上にひろく行き渡った。すなわちその影響は
7世紀(649年頃)、シナイ山に没した聖ヨアンネス・クリマクス(570-649)とともに
現れ後年アトス山で発展する神秘的<神秘主義>(ヘシュカズム)の進展の中に
特に感じられる。それにしても神秘主義が存在論的なものから心理的なものに
滑り落ち、感覚的な錯覚に堕落するのは危険である

171暇人:2012/01/21(土) 09:44:53
>>149
土橋氏は擬マカリオス文書の本当の著者を
「シメオンという名前のシリア人」と推定されておられるが
(これは登塔者聖シメオンのことか?)
>>169アンリ・イレネ・マルーの論考によると、このシメオンは
メッサリア派の代表者であるメソポタミアのシメオンと断定されている。

土橋氏の論考「ニュッサのグレゴリオスと擬マカリオス」の註12)によると
ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.article22.html
「メッサリア派の中では、デリース(H. D嗷ries)以降、メソポタミアのシメオンが
マカリオス文書の真の著者(すなわち擬マカリオス)として最有力視されている。
メソポタミアのシメオンとは、反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト
(テオドーレートス〔Hist. eccl. 4, 11,2〕)の中に見出される名であり、
さらに『五十の霊的講話集』のいくつかの写本がその著者として掲げる名でもある。
シメオンの生涯については多くの部分が不明であるが、
おそらく三八〇年から四三〇年の間に小アジアあるいはシリア、メソポタミアで活動していたと思われる。
エジプトの誉れ高き霊的指導者マカリオスの名を冠し、彼の福音的霊性に満たされながらも、
シリア起源の「カルディア心の霊性」によってそれを一層深め、何らかのかたちでメッサリア派とも繋がる
メソポタミアのシメオン、このいわば霊的複合体、デリースの表現を借りれば「マカリオス/シメオン」こそが、
擬マカリオスの正体と言い得るのかもしれない。」

つまり「擬マカリオス」の著者の最有力説は
異端のメッサリア派のメソポタミアのシメオンである。
マルーは、神秘主義を危険視するカトリック的バイオスから議論しているきらいがあり
土橋氏は、対話を重視する第二バチカン会義視点から書いている差があるのではと思う。

172暇人:2012/01/21(土) 10:04:56
土橋は、なぜか
「確かに彼の書物が異端のメッサリア派のいわば霊的指導書の役割を果たしたのは事実なのですが、
彼自身の主張に異端的要素はありません。」
と言われるのであるが、カルケドンに抵触する「神性と人性の混じり合い」があるにもかかわらず
そのことについて一切触れずに「異端的要素は無い」と断定されても
土橋なぜそう主張できるか、私には理解できない。

但し、このスレッド的には、正教が大切にしているテキストであるから
無条件に正統派文書ということにしないと議論の前提が崩れることとなると思う。

スレッド的には場外に属するのであるが
事実の探求の観点からは
1.マカリオス文書は異端メッサリア派の代表者メソポタミアのシメオンが作成し
2.大マカリオスの名を冠してロンダリングして
3.正統派文書として東方で大切にされ
4.慎重に危険性が取り除かれて
5.東方の霊性そのものとなった
という事実はとても興味深い

173ニュッサ:2012/01/21(土) 10:44:53
暇人さんは、どうしてこうも我田引水的に資料を探して来て、ご自分の推定を
主張されるのかわかりません。

まず、アンリ・イレネ・マルーによる「メッサリア派の思想と習慣は慎重に緩和され、不安を与えないような形で、
教父たちの権威借りて東方の霊性の上にひろく行き渡った。すなわちその影響は
7世紀(649年頃)、シナイ山に没した聖ヨアンネス・クリマクス(570-649)とともに
現れ後年アトス山で発展する神秘的<神秘主義>(ヘシュカズム)の進展の中に
特に感じられる。」
という部分ですが、

この言い方は、東方の中心的な霊性であるアトスのヘシュカズムの否定となって
います。

実は、トマス神学とパラマス神学は相容れないのであって、現在のカトリックでも
ごりごりのトマス神学に立つどちらかと言えば保守派の人たちは、正教の霊性を認め
ません。

しかし、それはとりもなおさず、正教を否定することになります。

なぜなら、アトス山は正教の中心であって、さらに、ヘシュカズムはアトス山の根本的
な霊性だからです。

そういう流れに立って、メソポタミアのシメオンが異端メッサリア派の指導者
だと断じているわけです。

ですから、メソポタミアのシメオンが異端メッサリア派の指導者だと断じる事
は、正教に対するカトリック優位の偏向した考えであって、それを事実だと言う
ことは無理があります。

174暇人:2012/01/21(土) 10:52:09
>>173
私は冷静に
「マルーは、神秘主義を危険視するカトリック的バイオスから議論しているきらいがあり」
と解説しています。

正教の友人からヘシュカズムに否定的なカトリックの立場についてのレクチャーを
受けております。

175ニュッサ:2012/01/21(土) 10:52:41
土橋氏の論考によると、

「エジプトの誉れ高き霊的指導者マカリオスの名を冠し、彼の福音的霊性に満たされながらも、
シリア起源の「カルディア心の霊性」によってそれを一層深め、何らかのかたちでメッサリア派とも繋がる
メソポタミアのシメオン、このいわば霊的複合体、デリースの表現を借りれば「マカリオス/シメオン」こそが、
擬マカリオスの正体と言い得るのかもしれない。」

と書いてあるわけです。


正確に読むならば、

「何らかのかたちでメッサリア派と繋がる」と書いているわけで、
メッサリア派の代表者とはどこにも断じていません。

176暇人:2012/01/21(土) 10:57:10
>>171を確認して頂きますとわかりますように
対話主義立場に依って、正教に理解のある土橋氏の論考の註12を確認
した上で、その中の
1.反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト
2.『五十の霊的講話集』のいくつかの写本
という点から、なるほど
メソポタミアのシメオンが最有力説なのだと納得しているわけです。

メソポタミアのシメオンがメッサリア派なのは、土橋氏も資料も認めるところです。
つまりマローの説だけではなく裏を取ってます

177ニュッサ:2012/01/21(土) 10:58:44
つまり、ここまでで、暫定的な結論を申し上げると、

アンリ・イレネ・マルーのような、保守的なトマス主義者から見るならば、
そもそも、トマス神学からは、神化などは成立せず、正教の中心的霊性である
ヘシュカズムは間違いと言うことになるのです。

そのようなアンリ・イレネ・マルーの著書を持ってきて、メソポタミアのシメオン
がメッサリア派の代表者だと言ったところで、それは疑わしいと言うことです。

178暇人:2012/01/21(土) 11:02:38
「メッサリア派の代表者」という表現は、>>169
マルーの
「この派のなかの主要人物としては、メソポタミア出身のシメオン(4c後半)の
ような人物があげられる。」から暇人が翻訳した語です。

これと土橋氏の
「何らかのかたちでメッサリア派とも繋がるメソポタミアのシメオン」は矛盾しません。

なんとか土橋氏はマカリオス文書の正当化をしたいのですが
さの土橋に依ってもメッサリアとの関係を否定できないということです。
その種の配慮の気持ちの無いマルーはずばり異端と言っているわけです。

179ニュッサ:2012/01/21(土) 11:04:41
>>176

たとえ、メッサリア派のリストに挙げられており、メソポタミアのシメオンが
写本の著者だということが事実だとしても、

メソポタミアのシメオンが、メッサリア派の代表者ということにはなりません。

まず、メッサリア派リストにあるからと言って、それがメッサリア派であるという
確定的な証拠にはならない。

だから、土橋氏は、メソポタミアのシメオンが著者だとしつつも、
「メッサリア派と何らかの繋がりがある」と慎重に言っておられる訳です。

180ニュッサ:2012/01/21(土) 11:15:15
>>178

マルーの本は、単なる教会史ですよ。その教会史の本によって、偽マカリオスの
専門家の意見を修正するのは、無理があると思います。

しかも、今、異端とまで言い換えている。

偽マカリオスの文書の内容をはっきり異端だと言う人は、今までいないわけです。
そこは揺るがない。

それなのに、あなたはどうしても異端だと言いたいために、
異端が書いたんだから、異端なのだという循環論証の詭弁に持ち込もうとしている。

しかし、それは、今、論じているように、前提が成立するかどうかもわからないし、
ましてや、前提が成立しても、循環論証の詭弁な訳です。

なぜなら、異端かどうかは、内実によって判断される訳で。
今まで、偽マカリオスの文書を異端だと言う専門家はいなかったし、ましてや、
正教で正統的なものとして読み継がれ、カトリックやプロテスタントの一部でも
読まれてきたわけです。

正当な論理としては、内容が異端でないのだから、著者も異端では
ないということが正当な論理であって、

著書が異端だから内容も異端だとは、単に、循環論証にすぎないわけです。

181ニュッサ:2012/01/21(土) 11:36:56
また、

「カルケドンに抵触する『神性と人性の混じり合い』があるにもかかわらず
そのことについて一切触れずに『異端的要素は無い』と断定されても
土橋なぜそう主張できるか、私には理解できない。」

と暇人さんは言っているが、

当たり前です。

なぜなら、偽マカリオスの言う「神性と人性の混合」の混合と
カルケドンの言う「神性と人性は混合せず」の混合は
意味が全く違うのですから。

カルケドンの言っている混合は、二性が混合して、新しい第3の性質が生じること、
これは、エウティケスに対する否定です。

ところが、偽マカリオスは、二性が混合して、新しい第3の性質が生じるなど
とは、言っていない。混合しても、神性は神性のまま、人性は人性のままなのです。
だから、カルケドンに抵触などしていない。

それは、リーの混ざり合いでも同じことです。

あなたがたが挙げたttp://localchurch.web.fc2.com/part2/mingling.html
の文章をよくよく読んでください。

182暇人:2012/01/21(土) 11:43:03
>>179-180
事実はこういうことです

1.メッサリア派は、エフェソス公会議(431)で異端として断罪された
2.「反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト」にメソポタミアのシメオンの名が
 挙げられている
3.『五十の霊的講話集』のいくつかの写本がメソポタミアのシメオンを著者としている
4a.リベラルなキリスト教史の権威マルーは、メソポタミアのシメオンをメッサリア派の
 主要人物としている。根拠は反メッサリア文書がそう書いているからだ
4b.マカリオス文書を正当化したい土橋でさえ、古代資料からメッサリア派と
 メソポタミアのシメオンの関係を否定できない。

異端と言いたいわけではなく、事実探求です。
事実、異端文書がロンダリングされたのです。
誤解を避けるために事前に私は>>172
「但し、このスレッド的には、正教が大切にしているテキストであるから
無条件に正統派文書ということにしないと議論の前提が崩れることとなると思う」
と書いております。


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