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蓮祖及び門下の曼荼羅について

1管理者:2005/04/28(木) 16:42:49

つぶやきスレッド2 の1525レス以降において、蓮祖及び門下の曼荼羅が話題になっています。新しいスレッドのご提案がありましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。

つぶやきスレッド2

1536 名前: 三学無縁 投稿日: 2005/04/28(木) 13:31:41

「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」スレッドでも良いのでは?興門の本尊書写については「三度相伝」や「七箇相承」など、「伝・従日蓮日興相伝」ということになっていますから。もしくは、新しく「蓮祖及び門下の漫荼羅について」というようなスレッドを立てて頂いたほうが良いかもしれませんね。


1537 名前: 彰往考来(しょうおうこうらい) 投稿日: 2005/04/28(木) 15:03:08

※ここはつぶやきスレッドなので、これで最後にします。必要なら三学無縁さんのお勧めの新しいスレッドを立ち上げましょう。

263犀角独歩:2007/10/06(土) 09:12:02

れんさん

「本門ノ寺」とのこと、なるほどと拝読しました。

かつて顕正居士さんが二箇相承の「富士山に本門寺の…」という読み下しは間違いで、「富士山本門寺」であるとご指摘なさったことがありました。

つまり、山号としての富士山であるということです。こうして、富士門下の山号寺号を見直すと、実在するわけでした。となれば、まず、富士山本門寺が成立し、その後、由緒伝来が紡がれる段階で二箇相承の如き文書が捏造されていったと考えると合点がいくことになります。

しかしながら、日興に、迹門の戒壇に対して、本門の戒壇という発想があったとすれば、その脈絡から、迹門の寺に対して、本門の寺という発想があることはむしろ自然ということになります。この意味でれんさんが仰ることは的を射ていると、賛同します。

では、この本門の寺が、やがて本門寺という寺号に宛てられるときがやってきたこととなるわけですが、この変遷は、日興自身の段階であったことなのか、〔是一〕

ここで「大本門寺」というとき、これは本門寺を形容する意図としての大いなる本門の寺という意味合いから、寺号としては本門寺であるけれど、その偉大さを形容したものだと見るほうが自然と感じます。大本門寺という寺号は、本迹といった教学的な発想からすると、少し不自然と感じるからです。本迹であれば、事理で、迹門寺→本門寺→事本門寺といった名称が相応しいように思えます。しかし、名称としてはあまり似つかわしくはないとは感じますが。

れんさんは、「大本門寺」は寺号であるというお考えですか。〔是二〕

もし、よろしければ、以上2点に就き、ご賢察をいただければ、有り難く存じます。

264れん:2007/10/06(土) 19:12:18
天蓋さん、宗祖は「智者とは世間の法より外に仏法を行はず。世間の治世の法を能々心へて候を智者とは申すなり」(減劫御書)とのべ、興師は原殿御返事にて「内外の才覚無くしては国も安からず法も立ち難しとこそ有りげに候」と述べていますから、ただ蓮師の教えを信じていればよいという訳ではなく、平たく言えば社会の有為な人材として成長していくことも大切と考えます。


犀角独歩さん
ご質問の件ですが、たしかに“本門の寺”が後世の重須において寺号“本門寺”に宛てられたわけですが、特定の寺号としての“本門寺”は興師の段階には遡れないと考えます。興師は石山在住の日目を指して「西坊主」(西坊主御返事)と呼び、日目自身も自筆の消息に「にしの房日目」(与民部殿書)と自署しているところから、興・目両師の在世当時の大石寺は「西の房」と呼びならわされていた可能性が高いですね。重須の場合は興師が自ら“おもす大坊”(小三郎殿御返事)と自署し、開目抄要文の奥書では「正和六年二月二十六日於御影堂」龍三問答記の奥書では「正和五年閏十月二十日駿河國富士上方重須談所ニシテ以再治本書写了 白蓮七十一才」とありますが、重須在住時代の確実な興師自筆文書を精査しても、残念ながら重須の堂宇の特に寺号としての“本門寺”は無い訳です。ですので、私はこの“本門の寺”が本門寺という寺号に宛てられる時がやってきた時期は興師自身の段階ではないと考えます。重須文献でも、日興在世における成立(とされる文献)には上野や重須の特定の寺の寺号としての“本門寺”は見えませんが暦応五年の「表白文」には“本門寺学頭日順”と見えますから、南北朝時代初期、上野・重須それぞれが独自に寺院経営をし始めるその胎動期には特に重須は寺号“本門寺”を名乗り始めたのではと愚考します〈是一答〉
次に、“大本門寺”が寺号か否かですが、以上のことから興師の時点で本門寺の寺号を用いた確実な例が存在しないので、私の愚考では寺号ではなく、流布の暁に上野重須の寺域に建立すべき堂宇全体の総称という感じで、むしろ概念的な意味合いが強いものと推測します〈是二答〉
以上、ご参考になれば幸いです。

265犀角独歩:2007/10/07(日) 08:51:00

れんさん

ご教示有り難うございます。
恐縮ながら、もう一点、質問させてください。

日興・日目在世当時、大石寺は「にしの房」と呼び慣わされていたとするとき、『日興跡条々事』の「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」という“大石寺”の成句は、どうでしょうか。真偽の問題も含めて、ご回答をいただければ有り難く存じます。

266れん:2007/10/07(日) 19:12:29
犀角独歩さん

大石寺の寺号の文献上の初見は日目師消息の“大石寺坊主事”(正本保田妙本寺蔵)の「一、伊賀房ハ武蔵房の謗法を申シ候処、彼ノ坊焼失する間、伊賀之所以とて武蔵房・伊賀房・性善共ニ追出候間、大石寺にハ人なく候」ですから、日目師在世には大石寺の寺号が存在したことは確実です。当消息が興師在世に書かれた可能性も高いと思われますので、上野の堂宇は先に記した興師筆・目師筆に見られる“西の房”とともに目師筆消息文に見える“大石寺”(おおいしのてら)と呼び言い慣われていたと推考します。

日興跡条々事については、未だ案文・正本ともに石山より公式に鮮明な写真が公開されていないので、真偽は何ともいえません。が、石山日時談“大石記”に「日代は数通の御譲状を持ちたりと云へども、既に迹門得道の上は争テか言ふに足るべけんや。其の上付法の旨は其ノ証拠をば上々の御事なり(中略)此ノ方にも上人の御筆を載せたるなり」とあり、この“此ノ方”(石山)の“上人の御筆”(つまり興師筆)とは現在の日興跡条々事をさす可能性が高いので、日時の時代には現在の正本案文または“原”日興跡条々事が成立していたことが分かります。これが、日行ないし日時の作成文書だとしても、その内容たる独自の日目師の位置付けは条々事の成立よりも先行する訳で、この日目師の位置付けがどの程度遡れるのか?興味深いものがあります。

取り敢えず、こんなところです。以上ご参考になれば幸いです。

267犀角独歩:2007/10/08(月) 21:51:45

れんさん、ご教示、有り難うございました。
大変に参考になりました。

268しゅんかん:2007/10/09(火) 13:40:35
石山に於いて、出征兵士へ石山云う処の本門戒壇の大御本尊の御守が在ったと
云うレスを拝見した様に記憶しておりますが
重須では鉄砲曼荼羅で在ったようです。

駿河國富士郡北山村
危難除鉄砲本尊御守
大本山 本門寺

富士山本門寺靈寶
        鐵砲漫陀羅略縁記
日蓮聖人眞跡

此ノ鐵砲漫陀羅ハ徳川家康公武田勝頼ヲ征セントシ路駿河ヲ經北山邑ニ舘ス、時ニ本門寺住職日出公ニ竭ス、日出
歳八十八公其高齢ニシテ日出ノ佳字ナルヲ嘉ス以テ必勝ノ兆ナリトシ護身ノ守ヲ請フ日出乃チ漫陀羅ヲ呈ス
公之ヲ馬前ニ建ツ彈丸日蓮ノ花押中心ニ的中(本紙ニ顯然)シ以テ危難を逃ル、ヲ得タリ
實ニ天正十年三月廿八日ナリ仝年五月十日凱旋ノ砌リ公曰ク今般不思議ノ靈驗アッテ危難ヲ逃ル
是レ身代リナリト依テ永ク祈念アルベクトテ當寺に返附ス其報謝ハ所望スヘキノ命アリ依テ日出請フニ甞テ
武田ノ暴徒の爲メニ奪取セラレシ日蓮聖人眞筆百八十五品ノ穿鑿及用水ヲ請願ス公家臣ニ命シテ日蓮聖人眞跡
八十点取戻シ貳里餘ノ新堀ヲ開鑿シテ水路四十二石永代免除セラル今之ヲ本門寺堀ト稱シ數村此ノ水ヲ以テ
飲料及水田ニ供ス爾来名テ鐵砲漫陀羅ト尊稱ス 今般『日支事變ニ際シ皇軍出征将士武運長久』ノ祈念ヲナシ
并ニ軍人護身ノ御守トシテ此漫陀羅ヲ(三十六分ノ一)縮寫シ諸士ニ頒與スルモノナリ日蓮曰ク我カ魂を黒ニソメ
流シテ書テ候ソ信シサセ給ヘ佛ノ御意ハ法華經也日蓮カ魂ハ南妙法蓮華經ニ過キタルハナシ云々經文ニ曰ク
勇猛精進無有懈倦ト昔時外征ノ猛将加藤清正常ニ七字ノ名号ヲ唱フ曰ク我モ無事ナリ陣中モ亦無事ナリト諸士
復タ奮進シテ危難ヲ避クルコト疑ナキナリ  謹言
      大日本帝國 静岡縣富士郡北山村
  昭和十二年八月    大本山 富士山本門寺根源
                 (御本體謹寫)  本門寺根源印

269犀角独歩:2007/10/09(火) 21:52:14

しゅんかんさん

268は、何に書かれた文章でしょうか。出典を挙げていただけませんでしょうか。

270しゅんかん:2007/10/10(水) 10:17:04
独歩さん
お久しぶりです。

御守(危難除鉄砲本尊御守)そのものです。
駿河國富士郡北山村
危難除鉄砲本尊御守
大本山 本門寺
※追記、朱による鶴丸印
上記は御守の包み紙です。

富士山本門寺靈寶〜(御本體謹寫) 本門寺根源印までは鉄砲本尊御守の裏書き文です。
御守本尊は四つ折りされておりまして写し部寸法は、幅6.8Cm×丈14.5Cmです。
裏書き本文「(三十六分ノ一)縮寫シ」には当て嵌まっていません?
(御本尊集、幅46.4Cm×91.7Cm)
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
又、御本尊集より全体的に暗いです
表装の一文字部が写っておりますが亀甲に三つ葉葵紋らしき物が僅か見て
取れるます(現物を拝見した事がございませんから三つ葉葵は私の先入観に
拠るものかもしれません)

271犀角独歩:2007/10/10(水) 18:22:18

しゅんかんさん

有り難うございます。
参考になりました。
たぶん、コピペ・ミスだと思いますが、鉄砲漫荼羅は、以下です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/033.html

石山の彫刻本尊は小笠原慈聞氏が、これをなしたという話がありますが、三学無縁さんに拠れば、その現物に当たれず、ガサネタではないかということでした。

いっぽう、ご指摘の御守は、現物があるわけですか。なかなかすごいお話だと思いました。参考になりました。御礼申し上げます。

272偶ロム偶ログ:2007/10/10(水) 23:23:38
>独歩さん
ガサネタではなくガセネタです。
ガセネタは、信憑性の無いお騒がせネタ。
ガサネタ、これは、ごく一部で使われていますが、十羽一絡げのどうでもいいようなネタ。

273しゅんかん:2007/10/11(木) 01:33:25
独歩さん
ご指摘ありがとうございますコピペ・ミス致しました。

そうですか、どちらのレスを拝見したのか失念いたしましたがガセネタの可能性が
ある理由ですか。

>ご指摘の御守は、現物があるわけですか。
〇はい、私の手元にございます。
>なかなかすごいお話だと思いました。
〇宝の持ち腐れですね、裏書文は私もこちらの掲示板を拝見させていただき独歩さん
はじめ諸賢方々から御教示いただき知るところですが、私には字面のみしか読み取れ
ないのが現状です。

こちらのスレッドとは関係がございませんが「顕正会の実態を検証する」
の750〜757は私の知るところではございません。

274ふうてん:2007/10/23(火) 15:52:34
臨滅度時の本尊について教えてください。
この御本尊は弘安三年三月建立と聞いています。
立正安国会の御本尊集にも、そのようになっています。

ただ下のページを見ますと十月となっています。
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/11/374.html
どっちが正しいのでしょうか。よろしくお願いします。

275れん:2007/10/23(火) 16:17:09
ふうてんさん
臨滅度時の御本尊についてですが、ご紹介のHPの年記は誤りで、立正安国会の方の年記が正確なものです。立正大学の中尾先生の著書によると、本紙の裏には日朗上人の花押があるとのことで、当御本尊は日朗上人に授与されたもので、その大きさから、相当の大きさの堂宇に安置されることを想定して御図顕されたものと推考されます。取り急ぎご参考まで。

276ふうてん:2007/10/23(火) 19:51:13
れんさん どうもです。
そうですか、立正安国会の方が正しいのですね。

>当御本尊は日朗上人に授与されたもので
これは知りませんでした。なんか、十枚綴りで作成されているようですね。
五尺三寸三分となってました。人間の背丈くらいの大きさですね。スゴイ。
どうも、早急なお返事ありがとうございました。

277犀角独歩:2007/10/24(水) 07:45:58

れんさん

中尾堯師の監修で、妙本寺が発刊した『妙本寺文書』には仰るように「日朗菩薩之御筆ニテ御日号花押有之」とあるようですね。しかし、たとえば『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』から考えると、日興が加筆し仮に花押をなしたところで、その授与者を決めるのは、やはり本人の授与書ですね。
その意味で、いくら裏に「日朗花押」とあっても、授与者が日朗ということにはならないと思いますが、如何ですか。むしろ、なにがしかの経緯で日朗の所有になり、署名書き判をなしたと考えるほうが至当ではないでしょうか。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/mandara81uragaki.jpg
(直接、ジャンプしません。アドレバーにコピペしてください)

278犀角独歩:2007/10/24(水) 07:49:42

【277の補】

本人の授与書>日蓮の授与書き

279れん:2007/10/24(水) 17:39:21
中尾氏が蓮師の漫荼羅について書いた本(書名失念)ではそのように解説してましたので、何ら検討することなく、臨滅度時の裏に日朗花押とあることをもって、朗師授与と即断してしまいました。
としますと、安国会目録第17番の通称朗師加判の御本尊も臨滅度時と同様のことが言えそうですね。
御批正有難うございました。

280犀角独歩:2007/10/25(木) 03:34:37

れんさん

安17ですか。『御本尊集目録』に「加判ノ本尊安置ノ所ヲ本意ノ寺ト定候也」(P26)という日朗の『報曽谷殿書』の一文が現存するわけですね。

日付の応長元年は1311年、日蓮遷化からちょうど30年目に当たる年ですね。一如日重が『見聞愚案記』に「朗師ノ御筆ニテチイサク御判ヲ遊バシテ永仁元年十一月廿七日トアリ」(同)という永仁元年は1293年、遷化12年ということは、数えでいえば十三回忌に当たるということでしょうか。この年号はいまは見られないとのことですが、年忌をもってしたとすれば、証憑性を感じます。また、日朗の人柄も偲ばれる話ということになります。

仮にこの記述を信頼することにします。曽谷教信といえば、日蓮大壇越ですし、本弟子日朗がその人物に送った書状であれば、日朗の加判は門下において何ら批判されることではなかったと想像できますか。となれば首題直下の署名花押の原形といえることができることになるでしょうか。しかし仰るとおり、この漫荼羅が日朗授与であるという証拠はありませんね。意味するところは別にあると思えます。

日朗自身が漫荼羅は書いているわけで、それとは別に日蓮御筆大漫荼羅に署名花押をなしたうえ、その安置寺院を「本意ノ寺」とするということは、漫荼羅の用途がここで聖筆をもってすること、自ら書してすることの二様であったのを物語っているように思えます。本意寺とは、日興でいえば「奉懸本門寺」「重宝」といったところでしょうか。

興味が尽きないところです。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/017.html
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/nenkihyo.html
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/hujinennpyou/hujinennpyou2.htm

281ふうてん:2007/10/25(木) 08:47:43
臨滅度時本尊に記載の鬼子母神は鬼子神になってるようですが、
これは私の見間違えですか?それとも、鬼子神は鬼子母神の略なんでしょうか。

つまらん質問ですみません。

282犀角独歩:2007/10/25(木) 09:37:43

ふうてんさん

はじめまして、でしたか。

ご投稿のとおりで、中尾師は「御祖師様の書き間違え」と講義で聞いた覚えがあります。実際のところはどうでしょうかね。

283ふうてん:2007/10/25(木) 11:16:26
犀角独歩さん、お返事ありがとうございます。

なんと書き間違えですか。
こういう誤筆本尊って他にもあるのでしょうか?
お弟子さんも指摘しなかったのかな(^_^;)
あとから母の字を書き加えるってこともしないのですかね。
いや、これは冗談です。

ところで臨滅度時本尊は正宗では真跡と認めているのでしょうか?
なんか、この本尊に関しては物語的なものが多くて。

284犀角独歩:2007/10/25(木) 19:48:46

ふうてんさん

> こういう誤筆本尊って他にもあるのでしょうか?

まあ、これを誤筆といってよいかどうかはわかりませんが、わたしはこの点、余り意識しないできました。れんさんや、パンナコッタさんのほうが、よほど、お詳しいかと存じます。

なお、れんさんが挙げられた安17の備考に「四大士の位次が通例と異なる」(P25)と記し、さらに安26を挙げ「右方を『無辺行菩薩、上行菩薩』と次第したまい、全く通例と逆になっているが、妄りに凡慮を以て聖筆を忖度することは慎むべきであろう」(P26)と記しています。余談ながら、この大漫荼羅は日興『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に載ります。

> …臨滅度時本尊は正宗では真跡と認めているのでしょうか?

特にこの本尊を批判した文書はなかったように思います。ただし、この「臨滅度時」という点については、もちろん、異論は立てていたと思います。

わたしもこの点は、こちらの掲示板のどこかで記したと思います。
池上で、いよいよ最後を迎えんとするとき、身延に取りに行かせたといった物語ですね。この点から、少なくともいくつかの矛盾が浮かびます。

漫荼羅本尊が正意であるという考えからするなら、日蓮が身延を出発するとき、肝心の本尊を持たないで出たということなります。また、波木井日円から馬を借り、その馬上で既に日蓮は二度と身延に戻れないことを悟っていたという物語りながら、ならば、何故、その時点で臨滅度時と定めた本尊を持参していかなかったのかという疑問も生じます。

こうした点を、創価学会だったか、石山だったかが、どこかに書いていたかもしれません。自分で考えたこと思ってきたのですが、どうも記憶が曖昧です。いずれにしても、臨滅度時は、創作物語であろうと考えます。ただし、だからといって、この本尊の価値が下がるということではありません。

> なんか、この本尊に関しては物語的なものが多くて。

特に近代、取り沙汰された話から出来上がっていったことも多くあるわけですね。宗定本尊などというわけですが、そもそも「日蓮宗」という呼称自体、近代はじめられたわけです。尤もこの点も、たしかこちらでは記しましたが、この「日蓮宗」という熟語は、日眼、日順に係る文書で既に見られました。また、日寛、日量でも、その使用が見られました。案外言い出しは富士門下かも知れません。

まあ、立派な本尊ですから、これを重視するのはわかります。
余談ながら、先に独歩の会の夏季合宿で島田裕巳師に話してもらいましたが、日蓮への興味が固まったのは大日蓮展でこの本尊を見てからだと仰っていました。わたしもこの本尊は印象的です。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51065460.html
http://www.nittsu.co.jp/supp/2003zenhan/nichiren/nichiren_1.htm

285ふうてん:2007/10/26(金) 11:30:19
犀角独歩さんへ

> なお、れんさんが挙げられた安 17 の備考に「四大士の位次が通例と異なる」

確認しました。たしかに逆になってますね。ところで、鬼子神などというのは、
よく御書に妙法華経とか略して書かれてあるのと同義なのかなと思った次第です。

> 池上で、いよいよ最後を迎えんとするとき、身延に取りに行かせたといった物語ですね

そうなんですか。すこし笑っちゃいました。失礼。

> 妄りに凡慮を以て聖筆を忖度することは慎むべきであろう

そうですね。私もこれ以上の詮索は慎みたいと思います。

286パンナコッタ:2007/10/26(金) 16:21:56
ふうてんさん、初めまして。
自分は詳しくはないのですが、"蓮祖聖人の覚知した世界観"という事であり
略したのか書き損じなのかは正直不明で、"その様な勧請"として
700年以上経っているのが現実ですね。
守護国家論や開目抄等にみられる"妙法華経"のニュアンスに、近いのかもしれませんね。
(ただ、法師品や見宝塔品等の経文引用は、そのまま)

また誤筆ではないのですが、四隅の四天玉勧請を方角的に捉えれば、
よっぽど奇妙ですね。(これに関しては独歩さんの秀逸な考察がブログにありました)
No,38・39・40のような例もありますから二天勧請が基本で、音写表記が方角、
通常表記が世界観 などと考えられもしますが、よく解らないのが実情ですね。

287犀角独歩:2007/10/26(金) 17:18:06

ふうてんさん

> 詮索は慎みたい

いえ、わたしが山中師の一言を引いたのは、日蓮を仏菩薩であるから間違いなどないと妄断妄信したり、また、「どうせ、人間だから間違いもある」といった短絡的な決め付けをせず、詳しく考証をし、事実を明らかにしていくことが大切であるという意味です。その意味で真摯な探求であれば大いにけっこうであろうかと存じます。


パンナコッタさん

いつもご高覧有り難く存じます。
ご紹介ついでに宣伝させていただきます。

【試論】四大天玉の図示の位置について
 http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50543409.html

288ふうてん:2007/10/27(土) 10:58:48
パンナコッタさん どうもです。

>また誤筆ではないのですが、四隅の四天玉勧請を方角的に捉えれば、

犀角独歩さんのページ読ませていただきました。なるほど、二次元に三次元を現出させるべく
大聖人が知恵をだされている模様がよくわかりました。<(_ _)>

289約6年ぶりの投稿:2007/11/02(金) 23:49:12
すいません。昔過ぎて、自分のハンドルネームも忘れてしいました。

>臨滅度時・・・「鬼子神」の間違い

これは、中尾さんが臨滅度時の真筆を前に語っていた場所に偶然居合わせましたので、
中尾さんが言っていたことは明確に覚えています。

「これはですね〜、日蓮さんも間違えることがあるということでしょうね。
 その証拠が、南無妙法蓮華経の蓮の字のしんにょう部分です。
 このしんにょうは『ピョン』と跳ね上がっているでしょう。
 これはですね、全ての十界を書き終えて、仕上げの題目を書き始め、
 蓮の字に差し掛かった時に、「鬼子神」が目に飛び込んできて、
 『しまったあ!!!母の字を抜かしてしまったあああ!!』と言って、
 思わず筆が跳ね上がってしまったんですよ」
と言っていました。しっかりと覚えていますよ。

 あの臨滅度時の蓮の字のしんにょう部分には、妙本寺の伝説がありまして、
 戦国時代、上杉家と佐竹一族の戦争に巻き込まれた妙本寺は大火災に遭って、
 時の住職「日カン」(字を忘れました)が、
「臨滅度時の御本尊だけは守らなければ!!」と、山の上にある井戸に
 隠したところ、たちまちのうちに大蛇が空高く舞い上がり雨雲を作って
 大雨を降らし、大火災を消したという伝説で、「よかったよかった」と
 臨滅度時本尊を取り出してみたら、しんにょうが「蛇の形」に変わって
 いたという伝説です。
 ですので、臨滅度時本尊は、別名「蛇形本尊」と言われているのでした。

 こんなおとぎ話はどちらでもいいのですが、中尾さんの説明もどうかと思いました次第です。

 >日朗と書いてある

  あれは日蓮の字ではないと思います。
  勝手な推測ですが、字が違います。

290犀角独歩:2007/11/04(日) 10:17:20

> 289

この語り口には記憶があります。たぶん、わたしもこの講義を聴いています。ご紹介の内容については触れていませんが、以下であったと思います。

中尾堯師『日蓮聖人「大曼荼羅本尊」について』 聴講
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25499393.html

>> 日朗と書いてある
> あれは日蓮の字ではない

それは、先に挙げた資料に

「日朗菩薩之御筆ニテ御日号花押有之」

とあり、日朗の字であるとしています。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/277

291ふうてん:2007/11/04(日) 18:39:12
約6年ぶりの投稿さん

> これはですね、全ての十界を書き終えて、仕上げの題目を書き始め、

なるほど、本尊というのは先に題目を書くのかと思ってましたが、最後ですか。
知りませんでした。

292ふうてん:2007/11/04(日) 19:02:55
犀角独歩さん

> わたしがもっとも驚いたのは、蓮師の筆法の特徴を為す、文字の「髭」、も
> しくは「光明点」と称される画を長く伸ばし書いた部分は、あとから書き足
> したものであるという指摘だった。「南無妙法蓮華経」の文字は、長く伸ば
> された画まで、一挙に書かれたものであると思い込んでいたが、さにあらず、
> いったん、書き終えたあとで、書き足したものであるというのだ。

私も驚きです。マジですか。X線なんかで見るとよく分かるのですかね。
今度、じっくりと拝してみます。

293犀角独歩:2007/11/04(日) 23:04:27

ふうてんさん

髭の書き足しは、鮮明な御筆大漫荼羅の写真があれば、確認できますよ。

もう一点、わたしがびっくりしたのは、ボロン字花押の段階で顕著なことですが、かなり何回も書き足したり、なぞったりしていますよ。これは、たぶん、書き順を消すためなのか、あるいは形を整えるためなのか、わかりませんが、日蓮の漫荼羅の書き様は、実に自由闊達です。

以下は、そんな論攷のいったんです。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50864173.html

294ふうてん:2007/11/05(月) 10:53:02
犀角独歩さん

> 髭の書き足しは、鮮明な御筆大漫荼羅の写真があれば、確認できますよ。

さきほど確認しました。たしかに言われてよく見ると書き足したあとが見られますね。

> もう一点、わたしがびっくりしたのは、ボロン字花押の段階で顕著なことですが、

やはり花押はボロン字ですか。「妙」をくずしたものだとか「鑁」をくずしたものだとか、
色んな説がありましたけど。

あと、これも光明点でしょうか。日蓮の「日」文字と、題目の「法」文字にかかる点が、
2点の場合と1点の場合がありますね。大聖人の場合は時代とともに変遷するのは
分かるのですが、石山歴代猊下の場合にも、2点、1点、無点とあり、どういう決まりで
書写しているのかが分からないのですよ。

まさか気分次第ということはないと思うのですが。(^_^;)
この場合、蓮の字の辶の点はカウントしていません。
かにか情報をおもちでしょうか。

295犀角独歩:2007/11/05(月) 17:21:47

ふうてんさん

> やはり花押はボロン字ですか

この点、わたしもけっこう疑って、しつこく食い下がったのですが、いまのところ、後期は、まあ、ボロン字だろうと、“いまのところは”書いています。ただし、前期は「摩尼」であると考えています。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50832258.html
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50833446.html

石山住職の本尊に関しては、大縫さん、独学徒さん、れんさんほか諸賢のご教示を寧ろ、わたしもお聞きしたいと思います。

296パンナコッタ:2007/11/05(月) 20:48:36
横レス、失礼します。
墨の濃淡が、わりあい解りやすい本圀寺のの画像を再掲。
 http://butuzou.com/honkokuji/original/picture/007.html
 http://butuzou.com/honkokuji/original/picture/005.html

辶の``は、蓮祖の特徴の一つなのですが、どうなんでしょう。
参考として、本尊三度相伝
 「日蓮の蓮のそばに点を打つ事則有想無想の二点なり、是れは字点を表するなり云云」
御本尊七箇相承
 「日蓮の蓮の字に点を一つ打ち給ふ事は天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間・亦た一点を
  打ち給ひて後の玉ひけるは・予が法門に墨子を一つ申し出す可きものなり、
  さてこそ天目とはつけたれと云云」
なんてのがありますね。

池上のNo.102が、千部会の時に公開されると思いますので、
実際に間近でご覧になった方が良いのではないでしょうか。
蛇足ですが常連さん達、見学オフの時みんな拝んじゃっていましたよ。
そのくらい、圧倒的な迫力がありました。

297ふうてん:2007/11/08(木) 18:24:03
バンナコッタさん

> 墨の濃淡が、わりあい解りやすい本圀寺のの画像を再掲。

鮮明ですね。かなり保存状態がいいみたいですね。

ところで、石山歴代で、法の字に2点打ってる猊下はご存じですか?
下の蓮の字の辶をいれると3点となります。

よろしくお願いします。

298パンナコッタ:2007/11/09(金) 13:23:25
ふうてんさん、いくつか独学徒さんの談義所にあったような(定かではありませんが)。
 http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

やはり大縫さん、れんさん、独学徒さん などの諸賢の書き込みを待った方が良いみたいですね。

299ふうてん:2007/11/10(土) 18:43:03
パンナコッタさん

> いくつか独学徒さんの談義所にあったような(定かではありませんが)。
 
そちらをあたってみます。ありがとうございます。

300ふうてん:2007/11/10(土) 18:45:12
日目上人の御本尊について教えてください。

http://kissho.xii.jp/1/src/1jyou19256.jpg
上記の御本尊の書写年月日が、うまく読み取れません。
元○三年十月十三日?
正確な年月日をご存じの方、よろしくお願いします。
あと、授与者も分かりましたらお願いします。

301れん:2007/11/10(土) 18:47:14
一応、奉蔵於奥法寶にて確認しました。
開山興師は、首題の蓮の点は二個ですが、最晩年は省略されている印象があります。日蓮の蓮の点はほぼ一貫して二個です。三祖目師の御本尊は正中三年卯月日の御筆は首題と日蓮の蓮字の点は一個。正慶二年二月彼岸の御筆は首題の蓮字は一点、日蓮の蓮字は二点。元弘三年十月十三日の御筆は首題の蓮字・日蓮の蓮字はともに二点でした。道・行二師も首題・日蓮の蓮字ともに二点。時師は至徳四年七月のものは首題の蓮字は二点、日蓮の蓮字は三点。応永九年以降のものは首題・日蓮の蓮字はともに三点です。影師は首題・日蓮の蓮字はともに二点、日有も二点です。
このように俯瞰してみますと、案外、石山上代においても、時の住持により違いがあり、蓮の点について、厳格な伝承みたいなものはなかったようですね。

302ふうてん:2007/11/10(土) 19:02:47
すみません、うまく表示されませんね。
http://kissho.xii.jp/1/
上記の掲示板の 1jyou19256.jpg です。

よろしくお願いします。

303れん:2007/11/11(日) 20:55:24
ふうてんさん、はじめまして。

お尋ねの目師御筆御本尊についてですが、御提示の脇書の年月日から元弘三年(1333)十月十三日「日目弟子大学民部阿闍梨日盛授之」の漫荼羅と思います。
取り急ぎですが、ご参考まで。

304ふうてん:2007/11/12(月) 10:16:49
れんさん はじめまして。

色々調べてくださりありがとうございます。
おや、3点のもあるんですね。

> このように俯瞰してみますと、案外、石山上代においても、時の住持により
> 違いがあり、蓮の点について、厳格な伝承みたいなものはなかったようですね。

取り決めのようなものがあるのかと推察していたのですが、どうも猊下の自在
のようですね。

> お尋ねの目師御筆御本尊についてですが、御提示の脇書の年月日から元弘三
> 年(1333)十月十三日「日目弟子大学民部阿闍梨日盛授之」の漫荼羅と
> 思います。

こちらも情報ありがとうございました。<(_ _)>

305鳥辺野:2008/01/08(火) 19:07:17
本日、久々に京都要法寺へ行ってまいりました。
  
しゅんかんさん
お久しぶりです。
 
以前(どのスレッドか忘れてしまいましたが、)本堂の御影尊像後方の板曼荼羅について、本日お寺の方にお聞きしました。板曼荼羅は日興師の曼荼羅を板にしたものとのことでした。また客殿の板曼荼羅も別の日興師の曼荼羅とのことです。尚ベースになった曼荼羅の書写年月日は調べないとわからないとのことでした。以上ご返事が遅くなってしまい申し訳ありません。

306しゅんかん:2008/01/11(金) 17:35:19
鳥辺野さん
お久しぶりです。

覚えていて下さったんですね、有難う御座います。
そうですか、要山に於ける興師への想いが窺えますね。

>以前(どのスレッドか忘れてしまいましたが、)
〇身延相承書と池上相承書について、のNo173で御座いました。

私は昨年は6月の上旬と12月の上旬に訪れました。
6月には、お名前は存じ上げておりませんが、何時もお聞きする御僧侶さんに「御歴代墓?・・・」
とお訊ねした処、実報寺とお教え戴き行って参りましたが、鳥辺野さんのHNの由来地だったんですね。
自由に近くまで参られないのが残念でした。

12月は時間の余裕が無くじ寺務所へ顔出しが出来ませんでしたが鳥辺野さんの参拝とは
約1月ほど間が在りますね、鐘楼工事は進んでいた事でしょうね。
完成は4月でしたか?私の場合、全く何も無く基礎を掘っておられました(寂しい)
完成が楽しみですね(^^)

307鳥辺野:2008/01/11(金) 21:57:50
しゅんかんさん
お久しぶりです。

>身延相承書と池上相承書について、のNo173で御座いました。
そうでしたか・・。見つけられませんでした。申し訳ありませんでした。

鐘楼ですが、三月末日竣工予定で、お披露目の法要は、五月八日とのことです。
私も瓦一枚寄進してまいりました。

308しゅんかん:2008/01/12(土) 00:41:36
鳥辺野さん

5月8日は木曜日ですね(残念)

>私も瓦一枚寄進してまいりました。
〇あっ!されましたか、それは良かったですね。
総門側に白テントを張り寄進者の芳名を記された瓦を拝見しました。
以前、末寺に於いて修復を募る振込票を戴いてましたが出さずじまいでした、
本山でそれを見て自ら名を書き込めるのかも、と思い懐をさぐったのですが
恥ずかしいことに余り持ち合わせていず引き上げたしだいです。

309鳥辺野:2008/01/12(土) 01:43:27
しゅんかんさん

>5月8日は木曜日ですね(残念)
この日は日尊師の開山会の日ですので、これにあわせるそうなんです。日祝なら沢山の人が訪れるかもしれませんね。

310彰往考来:2008/04/15(火) 13:31:16

掛け軸売れない男性を恐喝未遂 4人逮捕<4/14 13:00>

10億円で掛け軸を販売するよう持ちかけ、販売できなかった男性から現金を脅し取ろうとしたとして、警視庁は元暴力団組員の男ら4人を逮捕した。
 恐喝未遂の疑いで逮捕されたのは、元暴力団組員・芳賀初美容疑者(60)ら4人。調べによると、芳賀容疑者らは去年10月、会社役員の男性に仏教の世界を表現した「曼陀羅(まんだら)」の写真を見せ、「これは日蓮が描いた本物だ。10億円で売りたい」などと、購入者を見つけるよう依頼した。しかし、男性が見つけられなかったため、「ぶっ殺すぞ。わびろ。300万円払え」などと、現金を脅し取ろうとした疑いが持たれている。
 調べに対し、芳賀容疑者らは「曼陀羅に手を出さなければ良かった」などと話している。

http://www.news24.jp/107235.html

http://news.tbs.co.jp/20080414/newseye/print3827930.html

311天蓋真鏡:2008/05/14(水) 22:13:55
蓮祖・大小様々な漫荼羅・法華一乗道場結界、門下・日蓮教学の共通認識項

312れん:2008/05/19(月) 11:37:39
大弐日寛の抜書雑雑集によりますと「一、正中山建治二年本尊日興御筆祖師御判」とあり、中山法華経寺に伝日興代筆の建治二年の漫荼羅が存在していたことを記しております。
身延曽存の伝四条金吾氏代筆のものの如く、それなりに信憑性があるものか、または仙台仏眼寺の飛び漫荼羅の如く偽作であるかはわかりませんが、江戸中期の中山法華経寺にこのような漫荼羅があったようです。当漫荼羅は当初から中山にあったというよりも、保田か重須から流失したものが中山に流れついたものかもしれません。
なお、中山の宗祖筆大漫荼羅類は明治時代に盗難に遭って紛失しており当漫荼羅も曽存の可能性がありますが、この中山の伝日興代筆漫荼羅の写本ないし相貌その他の情報をご存じの方はご教示ください。


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