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蓮祖及び門下の曼荼羅について
284
:
犀角独歩
:2007/10/25(木) 19:48:46
ふうてんさん
> こういう誤筆本尊って他にもあるのでしょうか?
まあ、これを誤筆といってよいかどうかはわかりませんが、わたしはこの点、余り意識しないできました。れんさんや、パンナコッタさんのほうが、よほど、お詳しいかと存じます。
なお、れんさんが挙げられた安17の備考に「四大士の位次が通例と異なる」(P25)と記し、さらに安26を挙げ「右方を『無辺行菩薩、上行菩薩』と次第したまい、全く通例と逆になっているが、妄りに凡慮を以て聖筆を忖度することは慎むべきであろう」(P26)と記しています。余談ながら、この大漫荼羅は日興『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に載ります。
> …臨滅度時本尊は正宗では真跡と認めているのでしょうか?
特にこの本尊を批判した文書はなかったように思います。ただし、この「臨滅度時」という点については、もちろん、異論は立てていたと思います。
わたしもこの点は、こちらの掲示板のどこかで記したと思います。
池上で、いよいよ最後を迎えんとするとき、身延に取りに行かせたといった物語ですね。この点から、少なくともいくつかの矛盾が浮かびます。
漫荼羅本尊が正意であるという考えからするなら、日蓮が身延を出発するとき、肝心の本尊を持たないで出たということなります。また、波木井日円から馬を借り、その馬上で既に日蓮は二度と身延に戻れないことを悟っていたという物語りながら、ならば、何故、その時点で臨滅度時と定めた本尊を持参していかなかったのかという疑問も生じます。
こうした点を、創価学会だったか、石山だったかが、どこかに書いていたかもしれません。自分で考えたこと思ってきたのですが、どうも記憶が曖昧です。いずれにしても、臨滅度時は、創作物語であろうと考えます。ただし、だからといって、この本尊の価値が下がるということではありません。
> なんか、この本尊に関しては物語的なものが多くて。
特に近代、取り沙汰された話から出来上がっていったことも多くあるわけですね。宗定本尊などというわけですが、そもそも「日蓮宗」という呼称自体、近代はじめられたわけです。尤もこの点も、たしかこちらでは記しましたが、この「日蓮宗」という熟語は、日眼、日順に係る文書で既に見られました。また、日寛、日量でも、その使用が見られました。案外言い出しは富士門下かも知れません。
まあ、立派な本尊ですから、これを重視するのはわかります。
余談ながら、先に独歩の会の夏季合宿で島田裕巳師に話してもらいましたが、日蓮への興味が固まったのは大日蓮展でこの本尊を見てからだと仰っていました。わたしもこの本尊は印象的です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51065460.html
http://www.nittsu.co.jp/supp/2003zenhan/nichiren/nichiren_1.htm
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