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蓮祖及び門下の曼荼羅について
32
:
れん
:2005/06/28(火) 13:35:04
横レス失礼します。
私も、三学無縁さんのお言葉に賛同します。当時の比叡は今でいう総合大学ですから、仏典のみならず、陰陽道や修験、神道に関する書物も所蔵されていた筈で、修学の過程で、蓮師もそれを学び、のちに、自らの信仰体系や人生観に取り入れていったものや影響を受けたものも、必ずあるとおもいます。
また、興師の弟子の中に「新富士の神主」(弟子分帖)や、寂日坊日華師や式部房日妙師・大和房日性師・肥後房など神道の神主や修験出身の弟子が居たことも、決して見逃せない事実です。このなかとくに、修験と興師との関わりに考察を加えたものとしては、石山系では池田令道師が「富士門流の信仰と化儀」において、項目を立てて触れられている程度だと思います。
何れにせよ、三学無縁さんが仰る通り、仏教の側面だけから蓮師や興師の実像を描き出すのは不可能で、やはり、蓮師と当時の仏教外の思想や文化との関わりという点からも考察しなければならないと思います。その点皆様のさらなる議論の深化を仰ぐところです。
33
:
きゃからばあ
:2005/06/28(火) 19:18:17
『御本尊七箇相承』において、
「御判形の貌・一閻浮提のなりにて御座すなり、梵字は天竺・真は漢土・艸は日本・三国相応の表事なり。」
とありますが、この「御判形の貌」とは、御本尊全体の貌でしょうか?または花押のことでしょうか?
御本尊とすれば「梵字は天竺・真は漢土・艸は日本・三国相応の表事なり。」がわかりますが、もし花押であればどのような意味になるのでしょうか?
あくまでも私個人の推測ですが、私は花押と考えていました。
そして梵字とは薩達磨分陀利伽蘇多攬の薩であり、真は漢字であり、艸は草書体と考えています。
どうしても「ボロン」とは思えなかったのです。
もしろん初期の花押は「妙」の字と考えています。
皆さんの御意見を教えてください。
『御本尊七箇相承』の真偽は別として、古文書として正確な意味が知りたいのです。
よろしくお願いします。
34
:
れん
:2005/06/28(火) 19:58:35
きゃからばあさん。御本尊七箇相承のなかの「御判形の貌」とは私も花押のことと思っておりますが、詳細はわかりません。しかし、蓮師の花押や梵字について、保田の切紙の中に「御判之筆法写」(千葉県の歴史資料編中世3・247ページ)「御本尊梵字口決第二写」(同311ページ、但し保田の写本は途中で欠失しているが宮崎県史所収の定善寺文書所収の写本活字本により補えるが宮崎県史のものは全体的に誤読が目立つので注意が必要。また、この御判之筆法や梵字口決と同内容のものが本尊論資料520ページ所収の常門の本尊灌頂秘決に見える)「御本尊口決第三写」(同311ページ)があります。これらの切紙の出自ははっきりしてないので、はっきりいって文献としての価値は低いのですが、一応、富士門における伝承を窺う資料として、参考のためにお読みになることをお薦めします。
35
:
れん
:2005/06/28(火) 20:33:26
訂正です。
誤)しかし、蓮師の花押や梵字について、保田の
正)しかし、蓮師の花押や梵字について「御本尊七箇相承」に関連する文献として、保田の
蛇足ながら、すでに上記の文献についてお読みでしたら、出すぎたことを言ってしまい大変失礼しました。
36
:
大勇者
:2005/06/29(水) 00:51:01
>33 きゃからばあ さん
こんばんわ
もし花押が漢字だとしたら、後期の花押は「是」「日の下の人」ではないかと・・・
尤も自分のインスピレーションの部分が強いですが。
しかし、日興、日頂、日朗の花押を見て、もし何らかの相伝があったとするならば、漢字には思えないんです。
「3枚の花びら」のような「三つ円を大きい円で囲む」ラウンデルのような共通点あります。
左半分の文字が何なのかよりも、右半の方が何を表すのかが重要かも知れません。
37
:
きゃからばあ
:2005/06/29(水) 08:43:00
れんさんへ、貴重なご意見をありがとうございます。
>蓮師の花押や梵字について、保田の切紙の中に「御判之筆法写」(千葉県の歴史資料編中世3・247ページ)「御本尊梵字口決第二写」(同311ページ、…「御本尊口決第三写」(同311ページ)
れんさんが記載された書籍は、拝見したことがありません。もしよろしければ、どのようなことが書いてあるのか少し教えてください。
大勇者さんへ、貴重なご意見をありがとうございます。
>尤も自分のインスピレーションの部分が強いですが。
私も自分のインスピレーションとしてこのスレッドに書き込んでしまいました。何の根拠も無く、皆さんに怒られてしまうかもしれません。
>「3枚の花びら」のような「三つ円を大きい円で囲む」ラウンデルのような共通点あります。
一見すると蓮華座のようにも見えます。
38
:
きゃからばあ
:2005/06/29(水) 09:08:24
私が御本尊の花押に興味を持ったのは、初期のものに「日蓮」の名前と左右に分けて書かれているのが不思議だったからです。
それは中央の主題とあわせれば、まるでよくある釈迦三尊のように思え、名前と花押は主題の脇仏のように考えると、花押も単なるサインではなく、特別な意味があるような気がしていました。
後期には主題とまるで一直線のように並んでしまいます。(空白の関係でしょうか?少しずれているのも多少ありますが…)
そこで主題の「南無」が妙法蓮華経、日蓮、花押の三つにかぶさり、「南無妙法蓮華経」「南無日蓮」「南無花押」と思いました。
それは三身なのか、三宝なのか、それはわかりません。
結局、何の根拠もないのですから。
では、花押をなぜ「薩」と思ったのかといえば、開目抄の
『大経に云はく「薩とは具足の義に名づく」等云云。無依無得大乗四論玄義記に云はく「沙(さ)とは訳して六と云ふ。胡法(こほう)には六を以て具足の義と為すなり」等云云。吉蔵の疏に云はく「沙(さ)とは翻(ほん)じて具足と為す」等云云。天台の玄義の八に云はく「薩とは梵語(ぼんご)此(ここ)に妙と翻ずなり」等云云。付法蔵の第十三、真言・華厳・諸宗の元祖、本地は法雲自在王如来、迹に竜猛(りゅうみょう)菩薩、初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云はく「薩とは六なり」等云云。妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬(さつだるまぶんだりきゃそたらん)と申す。』
を参考にしたからです。
飛躍しすぎでしょうが、御本尊には「南無・薩達磨分陀利伽蘇多攬」という真言としての題目も表していたのではないでしょうか?
39
:
顕正居士
:2005/06/29(水) 12:04:03
>>33
花押の簡単な説明があります。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D068R200.HTM
書き判、判形ともいう。鎌倉時代頃からは別に署名し、その下などに書くようになった。
「御判形の貌」は「日蓮判」のことで、花押は梵字を草書、日蓮は漢字(真名)の意味でしょう。
40
:
きゃからばあ
:2005/06/29(水) 16:12:22
顕正居士さん、こんにちは。
>花押は梵字を草書、
やはりこの梵字は「バン」とか「ボロン」と思われますか?
それとも他の梵字でしょうか?
41
:
顕正居士
:2005/06/29(水) 18:18:12
バンとボロンに比較的はっきりと見える場合はあります。
ボロンだという説は古くからありました。
御判形事(日朝口伝)
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=23&ITYPE=0
42
:
れん
:2005/06/29(水) 22:05:06
きゃからばあさん。私が先に挙げた切り紙古文書は「千葉県の歴史」「宮崎県史」に収められており、おそらく市立・県立クラスの図書館で閲覧可能ですので、私は梵字の知識が無いので、お読みになった上で、御賢察をご披瀝戴ければ幸いです。
さて「御判之筆法」では蓮師の花押に使われている梵字について解説しています。御本尊梵字口決では曼陀羅に使われる不動・愛染の意義を解説し、その筆順を示し、次に判形の意義を明かして最後にボロン字についての意義を明かします。
なお、これらの古文書は奥書によるかぎりすべて保田の日要師から伝授がはじまっており、その意味では、日要師が生きた1400年代後半から1500年代初め以前には遡れないもので、所謂、当時の富士ないし保田における解釈を示したものであって、1200年代を生きた蓮師と直接の関係は認められないのは言うまでもないので、あくまで後世の門下による解釈の一例としてご参考にして戴ければ幸甚です。
43
:
きゃからばあ
:2005/06/30(木) 08:21:53
顕正居士さんへ。
サイトをご紹介頂き、ありがとうございました。
今後も、このサイトを参考に学んでいきたいと思います。
れんさんへ。
「御判之筆法」は、どこで拝見できるでしょうか?
よろしくお願いします。
44
:
きゃからばあ
:2005/06/30(木) 08:27:48
れんさんへ。
「御判之筆法」は、千葉県の歴史資料編中世3・247ページとご紹介されていました。
心からお詫びいたします。
45
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/07/01(金) 07:26:53
横レス失礼します。
34でれんさんが紹介されている下記資料は所蔵していましたので、該当箇所のコピーを2日のオフ会に持参する所存です。
興味のある方は、オフ会でご覧になってください。
① 千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)(平成13年、千葉県)
② 宮崎県史 史料編 中世1(平成2年、宮崎県)
③ 本尊論資料(昭和53年新訂複製版(明治42年初版)、臨川書店)
彰往考来
46
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/11(木) 16:14:04
日向師の御本尊について
素朴な疑問のスレッド2588で日向師の御本尊について触れましたのでここで紹介しておきます。
管見に入った日向師の御本尊写真は下記2点です。
①建治2年8月26日 静岡感応寺蔵
②永仁4年6月2日 京都本伝寺蔵
このうち①は身延山短期大学出版部編『身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』新訂版』(昭和53年新訂複製版)に、②は宮崎英修監修『日蓮聖人門下歴代 大曼荼羅本尊集成』(昭和61年、大塚工藝社)に入集しています。
①は首題の周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているという珍しい御本尊です。『本尊論資料』の目次10頁に、「藻原門流祖民部阿闍梨日向上人真筆本尊・・・建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅頼圓蓮海等者也」とあり静岡感應寺寶蔵ということです。すでに上記スレッド2588でご指摘申し上げましたがこの御本尊は偽筆でしょう。この御本尊の首題の下に日向花押とあり、常師、朗師など日興門流以外の諸師の御本尊と同じ書き方です。蓮祖在世中に日向師が首題の下にご自身の花押を認めた御本尊を図顕するとは考えられず後世の偽筆と判断しました。日向師の花押は『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』(明治17年、村上勘兵衛)の「六老僧御判類聚之部」に日向師の六種類の花押が紹介されていますが、当該御本尊の花押はそのどれとも一致しません。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=36&ITYPE=0&L=0
この感應寺の御本尊は堀慈琳(堀日亨師が日号を名のる前)師の『熱原法難史』(大正13年、雪山書房、107頁)に「感應寺に日向が熱原の五人即ち日辨日秀日禅頼圓蓮海に受興した本尊を近古入山瀬(いりやませ)辺から発見したと云い伝えておる。これは先方ですら真偽未決のもので到底批評に値せぬ」(引用者注:現代かな使いに改めました)と記述されているものです。
『日蓮宗寺院大鑑』(昭和56年、池上本門寺、511頁)によれば感応寺はかつては感応山竜泉寺と称し、貞観年間に建立された台密系の道場で、建治2年8月に日向師により日蓮宗となったということです。当該御本尊に授興之日辨日秀日禅頼圓蓮海等者也とあることから、どうも熱原法難にかこつけて寺伝とともに偽作されたのではないかと推測しています。
②は首題の下に日蓮聖人 在御判とあり、日興門流の御本尊と同じ書き方で諸尊の配座、賛文なども『日興上人御本尊集』のNo.40やNo.58などと同じです。②には“佛滅度後二千二百三十余年”と書かれています。極めて日興上人の御本尊と近いと言ってよいでしょう。但し、南無天台大師(②)と南無天台智者大師(No.40, 58)など細かい点で表現が異なる箇所はあります。また『日興上人御本尊集』では日蓮聖人と認められたものは初期の3幅(No.4,7,8)だけで、この3幅とは諸尊の配座が異なる上に、この3幅で在御判とあるものはない(No.7のみ御判とある)など詳細にみると完全に一致する日興上人の御本尊は見あたりませんでした。以上のことから、②は初期の日興上人の御本尊(特定できず曾存か)を写したものではないかと考えています。“日蓮聖人”とあることから初期の日興上人御本尊を書写されたのでしょう。日向師は「弘安8年身延山へ登り、日興上人の元に学頭として活躍」(『日興上人身延離山史』(昭和52年4版(初版昭和36年)、富士学林研究科、70頁)していたことから身延時代に日興師から御本尊を授与され、それを基に書写した可能性もあるのではないかと考えます。
by 彰往考来(しょうおうこうらい)
47
:
独学徒
:2005/08/13(土) 19:06:17
彰往考来さん
次回お会いできる時には、要山称徳曼荼羅のコピーを再び持参します。
偽筆であることは疑いありませんが、是非とも彰往考来さんには見ていただきたいです。
この偽筆曼荼羅に込められた、当時の思惑に興味があります。
また5月のオフ会後に、私も何時か研究発表をしたいと書かせていただきましたが、実はその研究発表の題材に考えていたのは、このスレッドにて彰往考来さんが取り上げられました向師曼荼羅②についてです。
こちらもお会いする機会がございましたら、是非ご教示願いたいと思います。
48
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/15(月) 09:37:51
>47 独学徒さん
そうですか。向師漫荼羅②ですか。
私もちょっとこの漫荼羅には興味があります。
貴殿の研究内容をぜひ次回にでも発表ください。
49
:
独学徒
:2005/09/01(木) 13:49:23
>お薦めスレッド 307
彰往考来さん今日は、スレッドをこちらに移させていただきました。
山中師・片岡師が御本尊集目録にて、「・・・日載授与の本尊は、当御本尊を模写したもののようである。」と記したことに興味があり、今回閲覧・複写を行ったのですが、家に戻り82曼荼羅と比較してみて、まず花押の鍵の部分から引っかかってしまい、どうもうなずけませんでした。
籠抜きと違い、模写をもって原図を判断できたということは、なにか諸尊座配などに特徴でもあるのでしょうか。
話は変わりますが、片岡師の「御門下御本尊集」に掲載された、先の向師漫荼羅②の隣に載っています、藻原寺所蔵の向師筆本尊座配図ですが、向師漫荼羅②とは向師の花押が全く異なると思います。
向師漫荼羅②の花押は、日興上人の花押に似ており、通常の日向師の花押とは明らかに異なります。
私は向師漫荼羅②の「日向」と見える自署部分の「向」の字は、「興」の一部分が欠損し「向」と見えているだけで、実際には「向師漫荼羅②」は、日興上人の御筆によるものではないかと思うのですが、この点いかがでしょうか。
50
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/01(木) 15:29:33
>49 独学徒さん
>日載授与の本尊
これは、諸尊を解析してみようと思います。追って要旨を投稿します。詳細はオフ会でお話しすることになるでしょう。
>藻原寺所蔵の向師筆本尊座配図
再度、国会図書館でのコピーを引っ張り出して検討してみます。ちょっと時間をください。
彰往考来
51
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/02(金) 07:27:43
>49 独学徒さん
永仁4年6月の日向師の御本尊(以下、本御本尊と略します)について、とりあえず私見を述べます。本御本尊は興師の御本尊ではないかという貴殿の指摘は傾聴に値するものがありますが小生は違う考えを持ちます。詳細に調査すれば色々出てくるでしょうが、興師の御本尊とするならば例えば下記疑問点があります。
(1)“大”字
大毘沙門天などの大字が異なります。本御本尊は“大”字の第2画(右上から左下に延びる線)が第3画(左上から右下に延びる線)より短いですが、興師御本尊では通常逆です。
(2)不動点
『興風 第11号』(平成9年、興風談所)の348頁に菅原関道師が指摘していますが、本御本尊では向かって右の不動明玉の不動点が「大持国天玉」の右に打たれています。蓮祖、興師とも「大持国天玉」の左です。
(3)愛染明玉
本御本尊は書き方が興師御本尊と異なります。
では、向師に授与された蓮祖の御本尊(第61番本尊)と本御本尊を比較するとどうでしょうか。やはり疑問点があります。主だったものは、
(A)四天玉
本御本尊は“大増長天玉”と“大廣目天玉”であるのに対して、第61番本尊は“大毘楼博叉天玉” と“大毘楼勒叉天玉”になっています。
(B)先師
本御本尊は“南無天親菩薩”と“南無竜樹菩薩”の勧請があるのに対して、第61番本尊はありません。
この(1)〜(3)と(A)及び(B)の疑問は本御本尊が興師御本尊の書写であると考えると氷解します。興師御本尊は“大増長天玉”と“大廣目天玉”であるものが多く、“南無天親菩薩”と“南無竜樹菩薩”の勧請があるものが多いからです。
特に“南無天親菩薩”は決定的ともいえ、蓮祖御本尊では53番と54番しかみられず、諸尊解析から興師御本尊は53番もしくは54番の書写である可能性が高いからです。従って、本御本尊は61番よりは53番もしくは54番の相貌に近いといえます。但し、“提婆達多”は異なります。蓮祖御本尊の53番と54番には“提婆達多”の勧請はみられないのです。53番と54番は弘安元年8月の御図顕であり、“提婆達多”は弘安期では弘安2年2月以後に現れます。61番は弘安2年4月の御図顕ですから“提婆達多”が見られます。
興師御本尊で“南無天親菩薩”が見られる御本尊では、初出の正応3(1290)年から乾元2(1303)年までは“提婆達多”の勧請はみられず、嘉元元(1303)年以後は若干の例外を除き“提婆達多”の勧請が見られます。このことから興師御本尊のうち“南無天親菩薩”が見られる御本尊で永仁4(1296)年のものがあるとするなら、(『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)には該当御本尊はありません)“提婆達多”の勧請はみられないはずなのです。しかしながら、本御本尊では“提婆達多”の勧請がみられることから、本御本尊を興師の御本尊とするには重大な疑問点があります。
52
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/02(金) 07:28:16
51の続きです。
この点は本御本尊が興師御本尊の向師による書写であると考えても疑問ではあります。永仁4(1296)年以前の興師御本尊が書写対象になるわけですから、嘉元元(1303)年以後の興師御本尊に“提婆達多”の勧請がみられることは、本本尊とは関係ないからです。
本御本尊に“提婆達多”の勧請がみられる理由はわかりませんが、興師御本尊でも、“南無天親菩薩”が見られない型式の御本尊では、永仁4(1296)年以前の御本尊でも“提婆達多”の勧請がみられますし、上記のとおり、第61番本尊には“提婆達多”の勧請がみられますので、向師が書写の際に“提婆達多”を書き加えられたのではないかと推測しています。
もうひとつの重大な点は本御本尊に“日蓮聖人 在御判”とあることです。『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)では日蓮聖人と認められたものは初期の3幅(No.4,7,8)だけですから、もし、本御本尊が興師御本尊を向師が書写したものであるとするなら、ごく初期の興師御本尊であった可能性が大です。
さて、向師の花押です。向師の花押は『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』(明治17年、村上勘兵衛)の「六老僧御判類聚之部」に六種類の花押が紹介されています。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=36&ITYPE=0&L=0
『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』は臨写ですので注意が必要ですが、この資料から解かるように日向師は実に色々な型式の花押を使っていたということと、確実な資料が少ないということから正確な判断は困難ですが、敢えて愚論を述べます。
確かに『御門下御本尊集』(昭和56年改修(初版昭和32年)、立正安国会)に入集している本御本尊の写真(サイズ:12.7x6.4cm)では写真が小さくて不鮮明なために“興”か“向”か判別は苦しいです。また山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)の198頁にある永仁4年10月の“興”字は他の時期と比べ“向”に似ているのでなおさらです。しかしながら、『日蓮聖人門下歴代 大漫荼羅本尊集成』(昭和61年、大塚工藝社)に入集している同本尊の大判御本尊写真(サイズ:36.4x18.3cm)では、明らかに“向”と読めます。日興上人の“興”字は永仁4年10月の“興”字を含め最初の第1画と第2画が“く”のようになっていて比較的なだらかで角張っていないのに対して、本御本尊では明確に“「”のように角があります。『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』の臨写花押で判断する限り第1画と第2画に角があるのは向師の特徴といえるでしょう。花押も日興上人のものとはみえず、上記6種類の向師花押のうちではどちらかといえば右の一番下のものに書き方が近い気がします。同じ形ではないのですが。
以上のことから本御本尊は向師の書写によるもので、初期の興師御本尊がベースになっていると考えています。
by 彰往考来
53
:
独学徒
:2005/09/02(金) 12:27:47
彰往考来さん、詳細に有難うございます。
お会いしました際には、種々の資料を付け合せながら、またご教示を賜りたく存じます。
54
:
パンナコッタ
:2005/09/04(日) 00:23:48
彰往考来さん、独学徒さん、
議題に上がっている物とは直接関係ないのですが、蓮祖及び門下が間接的に影響をうけたかもしれない
法華曼陀羅や星曼陀羅は、なにか参考になるかと思います。
http://www.ermjp.com/bukyou/manda/mikyo/mikyo5.html
55
:
独学徒
:2005/09/04(日) 19:20:28
>54 パンナコッタさん、
有難う御座います。
未だ密教関連まで研鑽の手が伸びていませんが、私もいずれ密教や大乗非仏説も研鑽していきたいと思っています。
今後ともよろしくお願い致します。
56
:
パンナコッタ
:2005/09/04(日) 19:43:16
独学徒さん、こちらこそよろしくおねがいします。
以前、絹本の本尊について独歩さんが指摘していましたが、諸尊配置を含めてこの手の
密教曼陀羅は何らかの影響があると思いましたので参考としてupさせていただきました。
57
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/08(木) 07:45:04
>49 独学徒さん
>日載授与の本尊
まず、この関係資料を整理してみましょう。
山中喜八氏編著の『御本尊集目録』(昭和56年訂補3版(初版は昭和27年、訂補4版は平成2年、訂補5版は平成6年)、立正安国会、121頁)に第82番本尊の記載があり、(備考)(2)に 「「御本尊寫眞鑑」巻之一に収載してある弘安三年三月 沙弥日載授与之本尊は、當御本尊を模寫したもののようである」 との記載があります。
『御本尊集目録』には引用文献の解説はありませんので、「御本尊寫眞鑑」巻之一がどういう資料をさすのか『御本尊集目録』からはわからないのですが、幸いにも同氏の「日蓮聖人曼荼羅図集」(『大崎学報 第102号』(昭和29年、立正大学仏教学会)収録)の97頁序説に「稲田海素先生の謹集せられたる『御本尊写真鑑巻一』(大正元年十二月、須原屋書店刊)」とあることから資料が特定できます。同98頁に「『御本尊写真鑑巻一』は、京洛の諸山に蔵する御真筆御本尊十五幅、正中山旧蔵の御本尊模本一幅と、御直弟等諸聖の御本尊十四幅を収めたもので、その聖筆御本尊の大多数は『御本尊集』に輯録されているから、未輯録の一幅と中山旧蔵の模本のみを本書に拠った次第である」とあります。なお『大崎学報 第102号』に収録された「日蓮聖人曼荼羅図集」と同じ序説が『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版)の5頁に採録されています。
さて、その『御本尊写真鑑巻一』(大正元年十二月、須原屋書店刊)です。国立国会図書館にて閲覧・複写できる同書は、稲田海素編『御本尊寫眞帖 全』(大正元年十二月、須原屋書店刊)で書籍名が異なります。手元にある国会図書館のコピーから内容をみると、京洛の諸山に蔵する御真筆御本尊十五幅、正中山旧蔵の御本尊模本一幅と、御直弟等諸聖の御本尊十三幅であり、御直弟等諸聖の御本尊数に差があります。『御本尊寫眞帖 全』では頂妙寺蔵の「小寶塔」(これは中山法華経寺にあったものの写)が入集していてこれを数えると十四幅ですから一致するといってよいでしょう。編者、発行年、出版社も一致しますから山中氏のいう『御本尊写真鑑巻一』とは『御本尊寫眞帖 全』と判断されます。
この『御本尊寫眞帖 全』に日載授与の本尊が入集しています。諸尊の勧請は第82番本尊と一致します。配置も同じです。ただ、独学徒さんがご指摘されているように花押の書き方が違います。花押が弱い。力がない。逆にこのことから、当該本尊が相剥本ではないことが解かります。諸尊の勧請が第82番本尊と一致し、配置も同じであることから、山中氏は模写と判断されたものと考えます。「模寫したもののようである」という表現は模写と思うが断定はできないという立場をとられたものと推察します。
独学徒さんは、スレッド49で、
>家に戻り82曼荼羅と比較してみて、まず花押の鍵の部分から引っかかってしまい、どうもうなずけませんでした
とされていますが、模写であればこんなものです。むしろよいほうです。実際この掲示板でも投稿されていたと記憶しますが、『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』(明治17年、村上勘兵衛)や『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』(昭和45年、身延山久遠寺)などに入集している模写御本尊を現存する原本の御本尊と比較すると相当差があります。
58
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/08(木) 07:45:38
57の続きです。
山中喜八氏の御本尊鑑定は松本佐一郎氏によると、「山中氏は専ら墨色筆勢字画等を以てされるから、その点最も信頼がおける。同氏の言によると墨色が無く筆勢のつかみ難い板曼荼羅は責任のある判断はできない」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻第一刷(初版昭和43年)、大成出版社、206頁))ということです。すなわち教学視を用いず専ら筆跡にて判断するという方法です。100%ではありませんがこの方法が一番間違い難い方法であると思います。もちろん筆跡は年代により変化しますので、確かな各年代での基準を用いた判断は必要です。
山中氏の資料のうち、第82番本尊のように御本尊の幅尺が不明のものがあります。これは同氏が現物を当たらず写真にて判断したことを示していると考えます。少なくとも実地調査をして現物にあたったなら寸法測定はイロハであるからです。ど素人の私でも寸法は測定いたします。
現物寸法をあたらなかったと考えられる例をあげましょう。82番、111番、116番本尊です。いずれも富士大石寺蔵(目録では所蔵不明)で幅尺は不詳です。もちろん大石寺の秘密主義では当時山中氏に石山所蔵の御本尊を開示したとは考えられず、この写真は正式なルートによるものではないと思われます。山中喜八氏の「片岡随喜居士の御真蹟蒐集について」(『山中喜八著作選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』(平成5年、雄山閣出版))には片岡随喜氏の真蹟写真撮影の記録が記載されていますが、富士大石寺へいったという記録はありません。日興門流では昭和四年の項に「二月二十三日〜二十八日 北山本門寺・西山本門寺・妙蓮寺等(一六七枚)」とあり、このときに御本尊写真をみられ写真の写真を撮影されたのか、大石寺へいって無許可ながら(あるいは黙認され)遠くから撮影したのかどちらかでしょう。恐らく写真が持ち込まれ撮影されたのではないかと推測しています。目録で所蔵不明とあるのは情報提供者への配慮であると考えます。昭和52年に法蔵館から発行された『日蓮聖人真蹟集成 第十巻 本尊集』のB4サイズの大判御本尊写真では、ピントが他の御本尊写真と比べ若干ぼけています。これは写真を原本にして再度写真撮影したため、もしくは遠くからの撮影と考えれば合点がいきます。コピーのコピーは原本より画質が落ちるのと同じ原理です。このピントのズレは立正安国会発行のB5サイズの御本尊写真(『日蓮聖人御真蹟 御本尊集』(昭和56年再版、立正安国会など)では写真が小さいために解かりません。大判御本尊写真で判断する必要があります。
59
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/08(木) 07:46:30
58の続きです。
『御本尊寫眞帖 全』に記載された日載授与の本尊の解説は「大聖人御年五十九弘安参年庚辰参月身延山ニ於テ書シテ沙彌日載に授興シ給タル御眞蹟ニシテ京都本宗本山本法寺ノ霊寳ナリ」とあります。それに対して第82番本尊は、『御本尊集目録』によれば御授興、幅尺、所蔵とも不明で、(備考)の(1)に「右隅に授興書の存したのを、載落した形跡がある」とあります。上記(備考)の(2)の記載と併せて考えますと、『御本尊寫眞帖 全』に記載された日載授与の御本尊は授興者も模写された可能性があり、82番本尊は沙弥日載に授与された御本尊ではないかと考えることもできます。山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、151,154頁)によれば82番本尊は富士大石寺蔵とのことで「紫宸殿御本尊」と通称されている御本尊が該当します。参考までに「紫宸殿御本尊」の寸法は丈95.5センチ、幅50.5センチ(『日蓮正宗大石寺』昭和45年、東西哲学書院、88頁)です。もし82番本尊が沙弥日載に授与された御本尊であったとするなら、個人に与えられた御本尊であって「紫宸殿御本尊」であるとはいい難いということになります。仮に日載授与の御本尊と「紫宸殿御本尊」はそれぞれ別の御本尊で同一日に図顕されたので諸尊の勧請が一致したのにすぎないとするなら、個人に授与された御本尊と同じ相貌の、恐らくは三枚継ぎで寸法も同じ、御本尊を「紫宸殿御本尊」として御図顕されるでしょうか? 私は疑義をもっています。
沙弥日載とはどういう人なのか、なぜ石山で「紫宸殿御本尊」として珍重されて板本尊まである御本尊の模本が京都本法寺にあるのか、疑問はつきません。
また 「『御本尊写真鑑巻一』は、・・・なお、その聖筆御本尊の大多数は『御本尊集』に輯録されているから、未輯録の一幅」 とある未輯録の一幅は第28番本尊と同型で『御本尊集目録』には入集していません。やはり模本と判断されているのでしょう。これも京都本法寺蔵です。どのような経緯でこれらの本尊が本法寺に流入したのかよく解かりませんが興味深いです。
60
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/08(木) 07:47:06
59の続きです。
『御本尊寫眞帖 全』収録蓮祖御本尊一覧(『御本尊集目録』の本尊番号を併記)を掲げておきます。
(1)文永8年10月10日 京都立本寺蔵 ・・・第1番本尊
(2)建治元年12月 京都妙顕寺蔵 ・・・第28番本尊
(3)年代未詳 建治年代? 京都本法寺蔵 ・・・未収録(28番と同型) 注1)
(4)建治2年卯月 京都本圀寺蔵 ・・・第34番本尊
(5)弘安元年4月21日 京都立本寺蔵 ・・・第48番本尊 注2)
(6)弘安元年7月5日 京都頂妙寺蔵 ・・・第50番本尊
(7)弘安2年6月 京都頂妙寺蔵 ・・・未収録 日等模本 注3)
(8)弘安2年6月 京都本圀寺蔵 ・・・未収録 日顕法師授与 注4)
(9)弘安3年2月 京都妙覚寺蔵 ・・・第73番本尊
(10)弘安3年2月 京都妙覚寺蔵 ・・・第76番本尊
(11)弘安3年3月 京都本法寺蔵 ・・・未収録 沙弥日載授与 注5)
(12)弘安3年卯月 京都妙顕寺蔵 ・・・第89番本尊
(13)弘安3年6月 京都本法寺蔵 ・・・第95番本尊
(14)弘安3年9月 京都妙覚寺蔵 ・・・第55番本尊 注6)
(15)弘安5年卯月 京都本隆寺蔵 ・・・第120番本尊
注1)『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版)268頁記載
注2)『御本尊寫眞帖 全』では京都本法寺蔵
注3)寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』(平成9年、雄山閣出版)84頁記載
注4)『御本尊集目録』の第63番本尊の注記(3):日顕法師授与の御本尊は第63番本尊の摸写と考えられる(要旨)
注5)『御本尊集目録』の第82番本尊の注記(3):日顕法師授与の御本尊は第82番本尊を摸写したもののようである(要旨)
注6)『御本尊集目録』の第55番は御顕示年未詳。
『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』202頁:弘安元年9月頃の図顕と拝すべきである
こうしてみると『御本尊集目録』で摸本とされた(8)と(11)以外は『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』と『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』で御本尊写真が確認できます。
61
:
独学徒
:2005/09/08(木) 20:48:29
彰往考来さん、詳細なご教示を有難う御座います。
本法寺といえば、単純に日親上人を思い浮かべます。
日親上人の時代は、大石寺は日有上人だと思いますが、日有上人といえば紫宸殿御本尊の彫刻が思い浮かびます。
何か関係があったのでしょうか。
62
:
れん
:2005/09/09(金) 00:28:04
横レス失礼致します。
私も石山蔵弘安三年三月日蓮師筆大曼陀羅に関する彰徃考来さんのご投稿を興味深く拝読致しました。
興風談所の大黒喜道師編「日興門流上代事典」の日尊師の項の記事によりますと『暦応三年(一三四0)6八月には弘安三年三月の宗祖本尊(通称・紫宸殿本尊)を模刻して脇書(【要】八・二一0)に「上行日尊之を彫刻す」と記し』とあり、この記事が正確ならばという前提での話ですが、大夫日尊師が石蔵の弘安三年三月日の蓮師筆大曼陀羅の籠抜きか臨書による模写本を所持しており、それをもとに板本尊を造立したものと思われます。つまり石蔵の弘安三年三月日の大曼陀羅の模写本が大夫日尊師により京都にもたらされており、本法寺のそれは、何時の時代かは分からないものの尊門から流出したものが施入されたのではないかと推測できます。本法寺蔵本の脇書に見られる「沙弥日載」は彰徃考来さんのご指摘の如く石蔵弘安三年三月日の蓮師筆大曼陀羅の授与者である可能性は高いと思います。一例を挙げれば御本尊集第三九番の蓮師筆曼陀羅の脇書は削損されておりますが、三九番の模写である北山本門寺蔵模本ならびに日向定善寺蔵の模本に「亀弥護也」とあることにより原本から削除された授与書が明らかになります。このように、原本の授与書が削損されていても、模本により復元できる例もありますので、私も本法寺模本にある「沙弥日載」が石蔵の原本・弘安三年三月日蓮師図顕大曼陀羅の本来の授与者である可能性は非常に高いと思います。
63
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/10(土) 19:44:26
>62 れんさん
レスありがとうございます。
>何時の時代かは分からないものの尊門から流出したものが施入されたのではないか
なるほど、尊門からの流出の可能性ありと。確かに可能性ありますね。
非常に参考になりました。今後ともよろしくご教示願います。
64
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/26(月) 12:32:13
「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」でスレッド1398〜1400に山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)に誤記がかなりある旨のご指摘をいたしました。しかしながら同書は資料として極めて有益と考えますので誤解のないようにお願いいたします。
同書の名誉回復(?)を兼ねて154〜155頁に記載の大石寺及び末寺蔵蓮祖御本尊の記載を引用し、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会)などの記載内容と照らし合わせて考察します。
以下、『日蓮正宗史の基礎的研究』を「基礎的研究」、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』を「富要集八巻」と略します。
「基礎的研究」154頁には8幅の富士大石寺蔵蓮祖御本尊を記載していますので以下年号脇書等その内容を引用します。なお便宜上、(1)〜(8)の数字を振りました。
************************************
二、大聖人御本尊現存目録 (安国会目録外・要集等)
年号脇書等 備考
(1)建治元年太歳乙亥十一月日 要八−一七七
(2)建治二年太歳丙子八月十三日 同
(3)弘安二年太歳己卯十一月日 俗日増授与之 可為
本門寺重宝(開山筆) 同
(4)弘安三年太歳庚辰二月日 同一七八
(5)弘安三年太歳庚辰三月日(安国八二) 同
(6)弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之 同
(7)弘安四年太歳辛巳九月日 俗守常授与之
(安国一一一) 西三
(8)弘安四年太歳辛巳十二月日 優婆塞一妙授与(安国一一六)
遠江サガラノ小尼給本尊也(開山筆) 東四
*************************************
ここで、驚きであったのは、(4)(7)(8)がそれぞれ立正安国会の『御本尊集目録』の第82番、第111番、第116番本尊に該当するということが初めて「基礎的研究」で明かされたことです。
今まで未公開とされていた石山の御本尊が三幅も公開されていました。しかも第82番本尊が“紫宸殿の御本尊”であったことは意外というほかありませんでした。この3幅は『御本尊集目録』によれば所蔵は行方不明でしたし寸法も未詳でした。富士大石寺蔵であったがために所蔵元など明らかにできずこのような記載になっていたのでしょう。立正安国会蔵版の写真は恐らくは現物を撮影したものではなく御本尊写真を再度撮影したものと考えます。なぜなら、『日蓮聖人真蹟集成 第十巻』(昭和52年、法蔵館)にあるB4サイズの大判御本尊写真で確認すると、この3幅は少しピントがボケているのです。このことと寸法が不詳であることと考えあわせると誰かが御本尊写真を立正安国会に開示し、会のほうで御本尊写真を再度撮影したものと推測します。写真の写真(複写)は画質が落ちるというわけです。
65
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/26(月) 12:35:04
64の続きです。
(6)の弘安三年太歳庚辰卯月日が弘安三年太歳庚辰五月九日の誤記であると考えるのは「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」のスレッド1398〜1400に記したとおりです。
また(8)について“優婆塞一妙”とありますが『御本尊集目録』では“優婆夷一妙”となっています。“一妙”は女性の在家信者と考えられますから“優婆夷”が正しいと判断されます。“優婆塞一妙”は“優婆夷一妙”の誤記でしょう。
上記内容から(1)〜(6)が「富要集八巻」から引用されていることが解かります。それに対して(7)、(8)は「富要集八巻」には入集していません。引用資料の“西三”、“東四”はどういう資料の略であるのかよくわかりません。この2幅が「富要集八巻」の編纂後に大石寺へ奉納されたということもないようなので実に不可思議なことなのです。このうち(8)については、堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会、786頁)に「本山にある優婆塞一妙の御本尊(中略)富士宗学要集に脱漏した」とあるので「富要集八巻」に脱漏していることを堀師が認めています。『富士日興上人詳伝』の記載で“優婆夷一妙”ではなく“優婆塞一妙”とあることから、「基礎的研究」の誤記はその基となる資料に誤記がありそのまま転記された可能性があります。あながち山口師だけのミスとは言い切れないわけです。ただ『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、91頁)には“優婆夷一妙”と明記されています。つまり昭和45年の段階で集成されてその存在が公開されているわけで『御本尊集目録』の記載と併せると「基礎的研究」では“優婆夷一妙”とすべきであったと思います。まあ校正ミスといえるでしょう。
資料が見あたりませんでしたが(7)も「富要集八巻」に脱漏した可能性があります。
そうすると、なぜ(4)(7)(8)がそれぞれ立正安国会の『御本尊集目録』の第82番、第111番、第116番本尊になったのでしょうか? いいかえれば誰が写真を立正安国会に提供したのでしょうか?もちろんそのものズバリである資料はありません。ただ状況証拠を積み重ねると、堀日亨師が立正安国会に開示したのではないかと思える節があります。
御本尊写真を立正安国会に開示するのであれば下記用件を満足していることが必要でしょう。
(一)管長級の権限があること
(二)御本尊写真を持っているか撮影できること
(三)立正安国会の写真撮影時に接触があること
この3つに条件に堀日亨師は合致するのです。
66
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/26(月) 12:36:35
65の続きです。
いうまでもなく大正15年〜昭和3年まで堀日亨師は日蓮正宗の第59世法主でした。また、立正安国会の片岡随喜氏らによる御本尊写真撮影は「片岡随喜居士の御真蹟蒐集について」(『山中喜八著作選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』平成5年、雄山閣出版、150頁)によると、昭和3年〜昭和9年に実施され、昭和4年2月23日〜28日に北山本門寺・西山本門寺・妙蓮寺等で撮影されていますが、堀日亨師の『富士日興上人詳伝』によれば、「先年上総国東金にある祖書鑚仰会の片岡清助氏が大挙撮影の時に北山にて予も参列した」(同書、613頁)とあるように、このときの北山本門寺での撮影に堀日亨師は参加されているのです。さらに堀日亨師が御本尊写真を持っていたことは周知の事実です。堀日亨師の編纂による『富士宗學要集 史料類聚別巻』(昭和17年、雪山書房)には、13幅の御本尊写真が入集していますし、『大白蓮華第66号(昭和31年11月号)』に記載された「堀上人に富士宗門史を聞く(一)」(『堀 日亨上人 富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、99頁)に「わしの紫宸殿の御本尊は立派じや。寫真からとつたんじやから。すつかり、そのままです。寫真からとつて、それを引き延してやつたんですから御正筆と少しも變らないです」(引用者注:“や”と“つ”を小文字(じゃ, とっ)で記さないのは原文のママ)とあるように、少なくとも(4)の紫宸殿の御本尊(=第82番本尊)は写真撮影されています。従って(7)、(8)についても堀日亨師が写真を所有していても不思議はないのです。
では(7)、(8)がなぜ「富要集八巻」に脱漏したのでしょうか。今となっては推理たくましく考えるしかありませんが、私は昭和4年の北山本門寺での撮影の際に堀師が(4)、(7)、(8)の写真を見せたところ立正安国会の撮影するところとなったため、写真が流出した事実を隠匿するために(7)、(8)についてその当時編纂していた『富士宗學要集 第七 史料類聚』(昭和14年、雪山書房)にあえて記載しなかったのではないかと考えています。『御本尊集』出版にあたって堀師は立正安国会に所蔵が大石寺であることを秘匿させたのではないかと思われます。(4)は紫宸殿の御本尊のためあまりにも有名なので『富士宗學要集 第七 史料類聚』に入集させざるを得なかったのではないかと考えます。なお、要集の「漫荼羅脇書等」の記載内容は同じです。但し新版は旧版の旧字を当用漢字に改めてあります
「基礎的研究」には蓮祖の御本尊が8幅記載されています。日蓮正宗の日顕管長が「現在、大聖人様の御真筆御本尊様は、御戒壇様は別にして、大石寺に紙幅の御本尊様が八幅あります」(平成4年9月21日 法観寺寺号公称・落慶入仏法要の砌 御法主日顕上人猊下御説法 日女御前御返事(1):『大日蓮 第645号(平成11年11月号)大日蓮編集室、36頁』と述べているのと同じ数字です。日顕管長のいう“八幅”とは「基礎的研究」に記載されている8幅の御本尊を指すと考えて間違いないでしょう。
67
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/26(月) 12:37:14
66の続きです。
ところが、「富要集八巻」の「漫荼羅脇書等」には総本山(=大石寺)に所蔵される御本尊として戒壇本尊を別にすると上記の(4)と(6)以外に6幅が記載されています。(4)と(6)は当時大石寺の所蔵ではなく昭和45年にそれぞれかつての所蔵者から大石寺に奉納されましたので、脱漏した(7)、(8)を加えると総数10幅となり、上記8幅と合致しません。つまり「富要集八巻」に記載があって、「基礎的研究」に記載のない蓮祖御本尊が2幅あるのです。単純な脱漏でなければ山口師が摸写か偽筆と考えていたために除外したと考えられます。
この2幅とは、(引用者注:便宜上、(9)(10)と数字を打ちました)
(9)弘安二年太才己卯八月十八日、沙門佑盛日合に之を授与す
(10)弘安三年庚辰五月廿六日、沙門民部日向に之を授与す
の2幅です。特に(10)は不信です。太才(歳)がありませんし、日向師に授与された御本尊が大石寺にあるのも不可解ですし、日向師に授与された御本尊は他寺に所蔵されていますので、偽筆の類と考えられます。
ここに興味深い記事があります。正信会の機関紙である『継命』(第31号:昭和55年12月1日付、第4面)に「総本山における御虫払大法要に、大聖人の御本尊として奉掲されるもののうち、二幅は偽筆と鑑定されている。それを知って奉掲して御信者の拝ませるのは、諦法を容認弁護するどころか、自ら諦法を犯していることにはならないのか。日蓮正宗みずから諦法を犯していては、学会の諦法を責められないのも道理である」とあります。この記事は誰の記事か記載がないので不明ですが、正信会の僧侶であることは確実でしょう。山口範道師は当時正信会でした(第3回日蓮正宗全国檀徒総会紀要(昭和54年8月25・26日実施)の参加僧名簿中に、“本山 蓮光坊 山口範道”とあります)ので、この記事の内容を主張する立場にいたはずです。記事ではどの御本尊が偽筆であるのか触れていませんが、上述のように「富要集八巻」と「基礎的研究」の記載内容を照合することで偽筆の疑いのある2幅を浮かび上がらせることができたわけです。
「基礎的研究」に記載の大石寺蔵蓮祖御本尊8幅にはすでに述べているように『御本尊集目録』に入集している3幅((4),(7),(8))が含まれていますので、未公開の紙幅御本尊は5幅です。これは山中氏の指摘と符合します。
山中氏は「大聖人自筆の漫荼羅は全国に128幅現存することが確認されており、この外に未確認のもの4〜5幅が存在する模様である」(「房総に現存する日蓮聖人の自筆文書について」:『日蓮 房総における宗派と文化』1980年、千秋社、214頁)といわれています。さらに「『御本尊集』は、現存御真筆御本尊百二十三幅を収め、石山(静岡県富士宮市大石寺)関係の若干を除けば、殆んどこれを網羅せざるはない(遍注・その後、四幅を追増補し、現行本は百二十七幅を収載している)」(『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』平成4年、雄山閣出版、5頁)といわれています。すなわち、未確認のもの4〜5幅とは石山(静岡県富士宮市大石寺)関係の御本尊なのです。但し、「基礎的研究」には大石寺の末寺関連の御本尊について、7幅(保田妙本寺の1幅を含む)を記載しています。うち2幅が『御本尊集』に入集していますので未確認のものは5幅です。末寺関連の御本尊については追って検証します。
by 彰往考来
68
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/26(月) 18:17:10
>65 誤記訂正
誤:昭和45年の段階で集成されてその存在が公開
正:昭和45年の段階で修正されてその存在が公開
69
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/26(月) 18:26:35
>65〜67 誤記訂正
第82番本尊(紫宸殿の御本尊)は65でいう(4)ではなく(5)が該当します。
お詫びかたがた訂正いたします。
70
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/09/27(火) 12:11:35
彰往考来さん
> しかも第82番本尊が“紫宸殿の御本尊”であったことは意外というほかありませんでした
これは何も山口氏の記述からわかることではないのではないでしょうか。
この件に関してはれんさんと議論で、明確にしたことです。故に自説として拙書に載せたことでした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r471-r472
あと、これまた、重箱の隅をつつくようで恐縮ですが、「行方不明」ではなく、『御本尊集目録』の記載は「現在宝蔵 不明」です。また、幅尺も「未詳」ではなく、「不詳」です。
わたしにはこの「不」は‘〜にせず’という意味が隠っているのだろうと思います。
つまり、「現在の宝蔵を明らかにせず」「幅尺を詳らかにせず」ということです。
この石山蔵の3体の漫荼羅を『御本尊集』に山中師を通じて、掲載できる人物は、もちろん、堀日亨師を除いてはいないというのは、みな共通して感じるところです。この亨師が不明、不詳とさせたのだろうと思えます。
その他、考証は実に参考になりました。
有り難うございます。
71
:
01
:2005/09/27(火) 22:36:26
彰往考来さんの不屈の投稿ってナイスだね。
72
:
藤川一郎
:2005/09/28(水) 11:34:05
>>67
彰往考来さん
誤解があるといけませんので、補足させて頂きます。
>>山口範道師は当時正信会でした(第3回日蓮正宗全国檀徒総会紀要(昭和54年8月25・26日実施)の参加僧名簿中に、“本山 蓮光坊 山口範道”とあります)ので、この記事の内容を主張する立場にいたはずです。
上記についてですが、正信会は昭和55年7月4日発足です。
それまでは、日蓮正宗内の「正信覚醒運動」があっただけです。
正信覚醒運動の僧侶=正信会参加者ではありません。
73
:
犀角独歩
:2005/09/28(水) 23:44:12
藤川さんのご指摘を読んで思い出しましたが、本来、正信覚醒運動の創唱者は細井(日達)師であり、飴の大村、鞭の山口の役割分担をしたのも同氏であったわけですね。
その後、お詫び登山、6・30教学訂正・特別学習会、池田氏の正式謝罪と会長、法華講総講頭辞任、以後、復権しないことを約し、それを聖教新聞紙上で発表したことで、細井氏は刀を鞘に収めると共に、正信覚醒運動自体もここに終息することを訓じたわけでした。ところが勢い余って、というか、裏で山崎氏、原島氏などでマッチポンプが続いた結果なのか、正信会参加の坊さん達は収まりがつかないまま、走り続けたという一連の流れがありました。
正信会運動は、興風談所のような成果も挙げる一方、しかし、肝心の彫刻本尊には頬被り。結局のところ、池田創価学会憎しから、さらに阿部(日顕)憎しというような形でしか展開しなかったことは、大乗の名に悖るところで、この点では他の集団と変わらなかったのは、如何にも残念でした。
74
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/29(木) 09:51:55
>70 犀角独歩さん
関西方面へ出張でしたのでレスが遅くなりました。でもそのおかげで色々資料を入手できました。
第82番本尊=紫宸殿の御本尊 というのは1993年に「基礎的研究」が発刊された始めて公式に明らかになったことです。これはれんさんも恐らく1993年の「基礎的研究」発刊以前はご存知ないことであったと思います。
今ではあたりまえのことかもしれませんが、文献初出は1993年の「基礎的研究」であり、当時初めてこの箇所を読んだとき、私には衝撃でした。
“未詳”、“行方不明”の表現は私の記憶違いが多分にありますので、ご指摘の件、整理して再投稿いたします。
75
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/29(木) 09:54:43
>72 藤川一郎さん
本件、ご指摘のとおりでしたね。正確にいうなら“正信覚醒運動の活動僧侶でした”
といったところでした。修正いたします。
76
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/09/29(木) 10:16:53
> 74 彰往考来さん
いや、そうではなく、第82漫荼羅が「紫宸殿本尊」であるということは山口氏の記述だけではわからないというのが、わたしの発言の趣旨です。
山口氏の記載から、「現在宝蔵不明」3体が石山蔵であることはわかっても、第82漫荼羅が「紫宸殿本尊」であることはわからないでしょう。信行寺板本尊の写真と、それが「紫宸殿本尊」の模刻であるという情報の三つを総合して明らかになったことです。
故にれんさんも
「独歩さんの御教示で信行寺の板曼陀羅が八二番の摸刻であることが分かりましたので、八二番の曼陀羅が石山で紫宸殿御本尊と言われる曼陀羅」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r472
と記してくださったわけです。
77
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/29(木) 10:26:12
>76 犀角独歩さん
なるほど。そういうロジックですね。よくわかりました。
ただ私は別のロジックで第82漫荼羅が「紫宸殿本尊」であるということを結びつけたと記憶していますので、それはそれで再度検証してみます。
78
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/29(木) 10:27:19
>71 01さん
過分なるお褒めの言葉をいただきありがとうございます。
今後ともがんばります。
79
:
犀角独歩
:2005/09/29(木) 10:46:17
彰往考来さん
漫荼羅については、ロジックからというのは考証として必要な側面でしょうが、しかし、結局のところ、「百聞は一見に如かず」です。
漫荼羅の写真を持って論じられない漫荼羅議論は意味を持ちません。
故に石山が彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本とする臨模・作為ではないと証明するには、鮮明な写真の呈示が必要不可欠であるのも当たり前すぎることでしょう。
第82漫荼羅は『御本尊集』に掲載されたとしても、紫宸殿本尊模刻である写真を得ずして、文献資料から迫っても、結局、最後のところで決定打とはなりません。わたしが言っているのはその点です。
それは真跡資料にしても同様で、石山の『日興跡条々事』の考証にしても、全紙写真を載せずに「真筆だ」「本物だ」と声を枯らしても意味がないのと同じことです。
故に「日顕管長のいう“八幅”とは「基礎的研究」に記載されている8幅の御本尊」といい、あたかも真筆8幅を所蔵している如く印象を与えますが、結局のところ、『御本尊集』に載る3幅以外は、仮に山中師等が真筆とは認められなかったという裏の歴史があるのだろうわたしは想像しています。
その意味において、その真偽を鑑定にかけるわけでもなく、恣に真筆といい、真筆8幅所蔵を事実のように扱う姿勢をわたしは感心しない、故に山口氏のこの根本的な姿勢は古文書の扱いはまったく不誠実であると言わざるを得ません。
80
:
れん
:2005/09/29(木) 10:51:13
横レス失礼します。
彰徃考来さん。
石蔵の紫宸殿大曼陀羅については、確かに故山口範道師の「基礎的研究」で御本尊集に収録されている82番であるらしいことを知りました。しかし、従来の正宗系の文献には記されなかった事柄ですので、一抹の疑念があったわけですが、犀角独歩さんがお手持ちの石蔵の紫宸殿大曼陀羅を模刻した信行寺の板曼陀羅の写真を御提示して下さったことによって、石蔵の紫宸殿曼陀羅が御本尊集82番であることが確認できたという経緯がありました。
なお、石蔵の弘安二年太才己卯八月十八日の伝蓮師筆曼陀羅ですが、大黒喜道師編の「日興門流上代事典」の沙門佑盛日合の項目では当曼陀羅を「宗祖真筆」と記述しております。その鮮明な写真が公開され、かつ立正大の中尾師の精密な鑑定がなければ、確実な蓮師筆か否か分かりませんが、佑盛日合授与の曼陀羅については偽筆と断ずるのは、やや早計な気がいたします。
私も彰徃考来さんのご投稿に、いつも学ばせて戴いておりますので、今後とも、御賢察をご披瀝下さりますようお願い申し上げます。
81
:
犀角独歩
:2005/09/29(木) 12:26:13
れんさん、ちょっと、よろしいでしょうか。
「弘安二年太才己卯八月十八日」の可能性を、れんさんがお考えになる理由は、やはり、大黒師によるのでしょうか。同師は、どのような根拠で、この漫荼羅を「宗祖真筆」とされたのでしょうか。大黒師の高名は独り富士門に留まらず、日蓮宗、また、他在家集団でも大きくところで、わたしは傾聴することは吝かではありません。ご教示いただければ有り難く存じます(ご承知のとおり、恥ずかしながら同辞典が手許にございません)
82
:
れん
:2005/09/29(木) 13:49:35
犀角独歩さん。この件に関しては、興風談所さんや大黒喜道師ご自身に問い合わせたことはないので、当曼陀羅の真偽をどのように判断したのか、真筆として扱う根拠はなにかは残念ながら存じ上げませんが、先に紹介いたしました「日興門流上代事典」の当該項目には
日合(沙門佑盛・宗祖本尊) にちごう(しゃもんすけもり・しゅうそほんぞん) 弘安二年(一二七九)八月十八日の富士大石寺蔵の宗祖本尊脇書([要]八・一七七)に「沙門佑盛日合授与之」とあるが、他の行実は不明である。
とあります。一つ考えられるのは、事典には同じく石山蔵の弘安二年十一月日の蓮師曼陀羅の興師筆添書について「□□九郎次郎時□日興/可為本門寺重宝也」と記載しており、「富士宗学要集」や「日蓮正宗史の基礎的研究」等の所謂る既刊書に記載されてない「□□九郎次郎時□日興」を翻刻していることから、おそらく興風談所か大黒師所属の正信会関係者が両曼陀羅等の写真を架蔵しており、それをもとに真筆と判断し、記事に翻刻したものと推定されます。この私の推定は当たらずとも遠からじだと思います。
私としては、写真が公開されていない以上、真偽その他の判断は出来ませんので、偽筆と断定はしないが、かといって真筆として扱う蛮勇はないというのが、私の偽らざる心境です。
83
:
犀角独歩
:2005/09/30(金) 00:35:48
れんさん、有り難うございました。
参考になりました。
> 大黒師所属の正信会関係者が両曼陀羅等の写真を架蔵
なるほど。各写真集、また古文書研究などから考えても、この可能性はあるわけですね。日蓮真筆も写真に撮っているということですね。
余計ながら、正信会は「日蓮大聖人」を「日蓮聖人」と言い換えたり、日興本尊集を出したり、また、全体とは言いませんが、二箇相承を否定したり、いわば石山タブーを超えてきました。さらに彫刻本尊を含むタブーを超えることを願うほかありません。
84
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/30(金) 07:24:40
>74 自己レスです。
第82番本尊の所蔵と寸法について山中喜八氏の各種文献での記載内容を整理しておきます。
【所蔵】(『御本尊集』では“現在寶藏”)
(A)不明(御本尊写真の脇注では「所蔵不詳」)
(B)不明(御本尊写真の脇注では「所蔵不詳」)
(C)所蔵不詳
(D)不明
(E)某家
【幅尺】
(A)不詳(三枚繼)
(B)不詳(三枚繼)
(D)不詳(三枚継)
※(C)と(E)には幅尺の記載なし
<引用文献>
(A)山中喜八遍『随喜居士謹集 御本尊集』昭和53年訂補3版、立正安国会、121頁
(B)山中喜八遍『日蓮聖人眞蹟集成第十巻 本尊集解説』昭和52年、法蔵館、27頁
(C)『山中喜八著作選集Ⅰ日蓮聖人真蹟の世界 上』「図集」、平成4年、雄山閣出版、222頁
(D)『山中喜八著作選集Ⅰ日蓮聖人真蹟の世界 上』「御本尊集目録」、平成4年、雄山閣出版、384頁
(E)『大崎學報 第102号』「日蓮聖人曼荼羅図集」昭和29年、立正大学仏教学会、75頁
以上のことから山中氏は幅尺については“不詳”のみの使用でした。所蔵(現在宝蔵)については、“不明”、“所蔵不詳”、“某家”の3種類の表現がみられましたが“不詳”という表現は見あたりませんでした。(A)(B)(D)は御本尊集目録ですが、目録ではすべて“不明”、御本尊写真の脇の注ではすべて“所蔵不詳”で(E)の図集のみ“某家”でした。
彰往考来
85
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/30(金) 07:32:08
>79 犀角独歩さん
> 第82漫荼羅は『御本尊集』に掲載されたとしても、紫宸殿本尊模刻である写真を得ずして、文献資料から迫っても、結局、最後のところで決定打とはなりません。
私が第82番本尊が紫宸殿の御本尊であると判断したのは、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)の記載によります。
ロジックといえるほどのものではありませんが、同書の154頁の「二、大聖人御本尊現存目録 (安国会目録外・要集等)」の項に「弘安三年太歳庚申三月日(安国八二) 所蔵 大石寺(引用者注:原文のこの箇所は“同”) 備考 要八−一七八(引用者注:原文のこの箇所は“一七八”)」とあることから、第82番本尊が大石寺蔵であることが判断できます。この行、すなわち“弘安三年太歳庚申三月日”の引用文献は“要八−一七八”です。“要八−一七八”は堀日亨編『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(昭和53年、創価学会、178頁)と判断されます。178頁には“弘安三年太歳庚申三月日 総本山”(但し“太歳”ではなく“太才”となっています)とあるのは1幅だけで、この1幅に“(紫宸殿御本尊と伝称す”と付記されていることから、三段論法のような形で第82番本尊が紫宸殿の御本尊であると確定したわけです。
このロジックを数理的に説明しますと、
“第82番本尊”を a
“弘安三年太歳庚申三月日”を b
“弘安三年太才庚申三月日”を b’
“紫宸殿の御本尊”を c
“『日蓮正宗史の基礎的研究』”を 試料群α
“『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』”を 試料群β
とすると、
試料群αから a=b が成り立ち、
試料群βから b’=c が成り立ちます
α⊆β であることから (試料群αは試料群βに含まれる・・・αはβから引用された)
b=b’ なので
a=c が導かれる (“第82番本尊”=“紫宸殿の御本尊”)
となります。もっと簡単にいうなら、a=bで、b=cだから、a=cということです。
犀角独歩さんが指摘されているように、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』だけでは第82番本尊が紫宸殿の御本尊であるとは判断できませんが、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』の記載内容を合わせることにより第82番本尊が紫宸殿の御本尊であると確定できると考えます。
『富士年表』(昭和56年、富士学林)の46頁(弘安3年1月〜4月)の項には本集(御本尊集の略)71〜91までの御本尊が記載されているのですが、76番と82番の記載がありません。『富士年表』では「2月 本尊を優婆塞日安に授与(8-223)」とあり、『富士宗学要集 第八巻』223頁でこの御本尊が京都妙覚寺蔵であることが確認されますので、この記載が76番のものと判断できます。しかしながら82番が見あたりません。『富士年表』では「3月 本尊を顕す〔紫宸殿御本尊〕(8-178・石蔵)」とありますが、第82番本尊は“所蔵不詳”なので所蔵寺院から確定はできません。わたしは当初、『富士年表』になぜ第82番本尊の記載がないのか疑問に思っていましたが、1993(平成5)年に発刊された『日蓮正宗史の基礎的研究』を読んで、“第82番本尊”=“紫宸殿の御本尊”とすることにより、この疑問が氷解したことを記憶しています。つまり重複記載(“第82番本尊”と“紫宸殿の御本尊”を両方とも記載)を避けたものと考えました。『富士年表』の編集後記には14人の編集委員の名前があり、そこに山口範道師の名前を見つけて「ナルホドね」と当時納得したものでした。
86
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/30(金) 08:17:54
れんさん、
いつもながら重厚なご指摘敬服いたしております。
ちょっと質問させてください。
>80 石蔵の弘安二年太才己卯八月十八日の伝蓮師筆曼陀羅ですが、大黒喜道師編の「日興門流上代事典」の沙門佑盛日合の項目では当曼陀羅を「宗祖真筆」と記述・・・佑盛日合授与の曼陀羅については偽筆と断ずるのは、やや早計
とありましたが、御本尊写真にあたらずして偽筆とは断じ得ないとおっしゃていると思います。それはそのとおりで、山口師の『日蓮正宗史の基礎的研究』に記載なきことは傍証あるいは示唆程度であり断定できる証拠にはなり得ません。
ただ大黒喜道編著『日興門流上代事典』(2000年、興風談所)の377頁、「日合(沙門佑盛・宗祖本尊) にちごう(しゃもんすけもり・しゅうそほんぞん)」の項には、
「弘安二年(一二七九)八月十八日の富士大石寺蔵の宗祖本尊脇書([要]八・一七七)に「沙門佑盛日合ニ之授与ス」とあるが、他の行実は不明である。」
とあるだけですから、これをもってして日合授与本尊について“「宗祖真筆」と記述”とはならないのではありませんか?私は真偽未決本尊の紹介程度に受け止めていたのですが。
>82 私としては、写真が公開されていない以上、真偽その他の判断は出来ませんので、偽筆と断定はしないが、かといって真筆として扱う蛮勇はない
わたしもこの立場です。残念ながら日合授与本尊について写真が公開されていない以上偽筆あるいは真筆と断定しうる資料はありません。これは79で犀角独歩さんが言われているように、“文献資料から迫っても、結局、最後のところで決定打とはなりません”ということです。
87
:
れん
:2005/09/30(金) 11:55:15
彰徃考来さん、私の80の投稿は全くの勇み足でしたね。私も大黒師が弘安二年八月十八日の伝蓮師筆曼陀羅を蓮師本尊と事典に紹介していることは、ある程度の参考資料にはなるものの、犀角独歩さんがおっしゃっている理由の通り、いくらロジックを追っても、いつまでも真偽を決する決定打にはなりえないものですね。この件は86の彰徃考来さんのご指摘の通りですので、無礼をお詫び申し上げるものです。今後とも私の至らぬ投稿に対する、御批正とご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。
83:犀角独歩さん、正信会のそのような最近の動向にたいし、会の内部から一部批判をする人もいるようですが、彫刻について後世の偽作であることを自らの手で論証して、真実の祖道の恢復の道を歩み出してほしいものと思っております。
88
:
犀角独歩
:2005/09/30(金) 12:04:53
彰往考来さん
> “弘安三年太歳庚申三月日”を b
> “弘安三年太才庚申三月日”を b’
まあ、こうした群・分類からのロジックというのは可能でしょうが、たとえば第92、93という彫刻本尊考証に不可欠な大漫荼羅は同一年月日の日付になっていますし、また、Nichiren Shonin Gohonzon Shu のサイトで見れば、 3A・3B、32A・32B、68A・68B といった例があります。
それこそ、日付分類だけでは、お言葉を借りれば「決定打」とはならないでしょう。
89
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/30(金) 12:49:41
>87 れんさん
こちらこそ、投稿段階で大黒喜道編著『日興門流上代事典』「日合(沙門佑盛・宗祖本尊) にちごう(しゃもんすけもり・しゅうそほんぞん)」の項をチェックしておらず赤面のかぎりでした。いや赤ではなく青(真っ青)でした。
今後ともどうかご指導ご鞭撻を賜りますようお願いいたします。
90
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/30(金) 12:53:26
>88 犀角独歩さん
“決定打にならない”というのは犀角独歩さんのお言葉を借りたものです。(笑)
ご指摘のように日付が同じだけでは同一日複数の御本尊図顕例があることから、
b=b’
とはなりません。そこに
α⊆β
であるというもう一つの制限を設けることにより
b=b’
となるというロジックです。
なお、“『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』”を 試料群βとしていますが、“『日蓮正宗史の基礎的研究』は複数の資料を引用していますので
“『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』”を 試料群β
とし他の資料をまとめて試料群γと定義して
α⊆(β+γ)
としたほうがより正確な表現ということになります。
なお、これらは過去の私の頭の中のロジックでして、現在では信行寺板本尊の写真と、それが「紫宸殿本尊」の模刻であるという情報から
a=c (“第82番本尊”=“紫宸殿の御本尊”)
となるという貴殿のロジックは正鵠を得ていると思います。まさに“決定打”ですね。
91
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/10(月) 07:32:49
こちらに移動して投稿します。
> 「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」 スレッド1413 れんさん
『日蓮宗の本山めぐり』ですが出版元のニチレン出版さんに問い合わせたところ在庫がありましたので、クロネコメール便で送っていただき本日入手しました。昭和56年発行の5版でした。ありがとうございました。
さて、この本をパラパラめくっていますと、51頁の弘法寺蔵日頂上人の御本尊写真が目に止まりました。やや不鮮明ですが、“日蓮在判”とあり、“弘安五年□(壬か)午年二月十五日”と読めます。ここで“弘”の字は不鮮明ですのであるいは、“正安”かもしれないとも思いましたが、干支が全く違うように見えますし、正安は4年までです。正安4年(乾元元年)に頂師は日興上人に帰依(『富士年表』62頁、富谷日震『日宗年表』(昭和60年復刻版(初版昭和10年)34頁)とされますので、少なくともこれ以後の御本尊書写はないはずです。
弘安五年に頂師の御本尊書写は有り得ず、51頁の弘法寺蔵日頂上人の御本尊写真は後世のものと思いますが、れんさんはどう思われますか?
92
:
れん
:2005/10/10(月) 09:40:29
彰徃考来さん
>91 「日蓮宗の本山めぐり」出版元に問い合わせられ、在庫があって、無事入手されたとのこと、微力ながらお役に立てた様で幸いでした。
弘法寺の伝・日頂曼陀羅ですが左右がわずかながらカットされており(中尾師『ご真蹟にふれる』によりますと「表装替えをするときに痛んだところを除去したり、寸法を合わせるために本紙の一部を切り取ったりしたから」と説明されています。日興曼陀羅「日蓮」とあるものに関しては表装替えの際の切断により“(在)御判”がカットされたものと見るのが至当です)、表装替え時の切断が左右の脇書の一部に及んで解読しにくいですが、彰徃考来さんのご判読の如く年号「弘安五□午年二月十五日」と読めます。この曼陀羅は首題・日蓮在判でその左下に「日頂(花押)」(書写之の記入はない)で日興門のごとき曼陀羅様式ですが年号の記入式が鎌倉時代の通格(この例で言えば弘安五年壬午とあるべきもの)に反して“弘安五□午年”とあり、この年号の記入式は戦国時代〜江戸時代のものですから、年代が相応しないものですし、被授者も“南條□之助?”もその呼称が鎌倉期に通用するか疑問です。花押も石山蔵の日頂消息(継命新聞社「日興上人」二百五ページに写真掲載)のものと相違するものであって、この伝・日頂曼陀羅は彰徃考来さんのご指摘・御考察の通り後世のものとするのが至当であると存じます。
93
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/10(月) 11:16:59
>92 れんさん
ご考察誠にありがとうございました。
> 花押も石山蔵の日頂消息・・・
大変参考になりました。
彰往考来
94
:
ラスカル
:2005/12/05(月) 16:52:00
■犀角独歩さんが5つ(①仏法者②密教者③行者④陰陽師⑤法律家)視点を述べていましたが、素人から見て①は解脱→下種、成道→成仏、天台→本朝の点・線・面のような事②は密教→顕教への説教化導の筋、不動は迦楼羅の炎を纏い愛染は獅子に乗る事を霊鷲山と獅子吼に引き合いに出した③末法無戒の世に修行して法華経を弘めた者としての様を法華経の行者と表現した。修行と苦難があったと言う事④身分ある人々には其れ相応の書式を選んだのではないでしょうか。⑤識字率其他の問題ではないですか。■きゃからばあさんという人が、南無妙法蓮華経、南無日蓮、南無花押と書いてましたが、私は、南無妙法(本因妙・本果妙)南無蓮華(比喩・当体)南無日蓮(法華経の行者)と我説ですが考えたいです。漫陀羅は修行の道具と考えなければわざわざ図示して一人ひとりに渡さないのではないかと思います。答えを理解するためにはプロセスを知る事も大事ですが、一人ひとりの受け止め方に対応する必要があると思います。其れで無ければ弘教も成仏も化城を越えて砂の城になってしまうでしょう。でも、私が漫陀羅を眺めて浮かんだ事は、北側から南側を見渡した図で大毘沙門天王は佐渡、大増長天王は安房、大持国天王は比叡、大廣目天王は高野、首題は身延を模したのかと言う事。大教教団→善悪二元論、天台→一念三千、伝教→円頓止観、日蓮→妙法蓮華、経(唱)→色心不二、自他→依正不二、立正安国論の語句、南総里見八犬伝は日蓮仏法の善悪二元論ぐらいです。〈神道とか中国の物語とか構成要素がいろいろあるみたいですが〉
95
:
ラスカル
:2005/12/05(月) 17:03:46
聖教新聞で掲載した兄弟の教学の話形式での企画物で、不動感見記と愛染感見記が偽書であると書いてありましたが本当でしょうか。字の鑑定で、はっきりしてるのに国の重要文化財になっていると怒ってました。
96
:
ラスカル
:2005/12/05(月) 17:15:59
大教教団→大乗教団
97
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/05(月) 19:47:04
>95 ラスカルさん、
それは聖教新聞ではなくて北林芳典氏の『日蓮大聖人と最蓮房』で述べられていることでしょう。
http://www.heianbooks.jp/nichisai/index.html
『日蓮大聖人と最蓮房』については若干、氏の妄説に対して私が意見を述べています。なお当時インターネットでの公開は『日蓮と最蓮房』でした。
「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」
のスレッド421
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/?KEYWORD=%CB%CC%CE%D3%CB%A7%C5%B5
スレッド455〜456
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/?KEYWORD=%BD%BD%B0%EC%C4%CC%B8%E6%BD%F1
を参照ください。
98
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 12:08:00
ラスカルさん
> 漫陀羅は修行の道具と考えなければわざわざ図示して一人ひとりに渡さないのではないかと思います
では、反対にお聞きしますが、なぜ、全員に渡さなかったのでしょうか。
また、日蓮、日興共に漫荼羅の複製(形木印刷)と大量生産を認めていません。選ばれた人間にしか漫荼羅を渡していません。あなたの論法で行くと、漫荼羅を与えた人間以外は修行はできないことになりますが、どうでしょうか。
しかし、いまの時代は写真撮影して印刷し、大量生産し、入会すれば、誰彼構わずばらまいています。この無節操な濫売を基本に考えたのがあなたの言うところであるとわたしには思えます。
日蓮は授与者名を記し、個人を特定して手書きで一幅一幅、図しています。
この点は日興も同様です。さらに形木印刷をし、濫りにばらまくものを非難したことは重須文献に明らかに見えます。いまの無節操な団体の様から考えると日蓮の祖意は見えなくなります。
> 北側から南側を見渡した図
なぜ、北側からなのでしょうか。漫荼羅は見宝塔品の物語によっているわけですから西向きです。
> 大毘沙門天王は佐渡…
この発想は面白いですが、先にも記したとおり、漫荼羅はインドの物語です。その設定は霊鷲山です。
不動愛染感見記に対する創価学会も指示する北林さんの話は問題外です。
99
:
ラスカル
:2005/12/06(火) 13:58:41
遺文・御書に依らなくても、一人ひとりの信心の浅深高低があるから全員に渡さないというのはわかりきった事。でもだからこそ、一人ひとりに渡した方が良いはずです。それに全く修行できない事は無いです。末法無戒の世では題目を自分だけでなく他人にも唱えさせないと霊山浄土の世を現出させる事ができないから。一人ひとりの時期を見計らって漫陀羅を授与すればいい。具体的な修行方法は掛軸にした漫陀羅で題目を唱えるしか伝えられないのは皆解り得る事だと思います。花押が仏像から漫陀羅を顕すに連れて変わっていく。という話を読みました。創価学会の場合、上層役員が掛軸は修行方法の道具と割り切って印刷に踏み切ったのだと思います。其れにしても、歴史の波や増上慢の波に呑まれ暴走する事は考えに無かったのでしょう。四分五裂になってます。■漫陀羅の主題・本尊は『南無妙法蓮華経』其の他はヴァリエーションで何度となく変えられてきたはず。法付属の儀式だけで無く幾つかの意義(密教、顕教、三国四師等)を経て大漫陀羅の形になったのだと考えます。其れは説教化導に連れて。
100
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 14:26:57
> 一人ひとりの信心の浅深高低があるから全員に渡さないというのはわかりきった事
どのようにわかりきっているのでしょうか。
> でもだからこそ、一人ひとりに渡した方が良いはず
では、どうして日蓮はそうしなかったのでしょうか。
> 末法無戒の世
末法が無戒ならば、なぜ、日蓮は本門‘戒’壇といったのでしょうか。
> 一人ひとりの時期を見計らって漫陀羅を授与すればいい
だれが、どのように決めると日蓮は言っていますか。
> 漫陀羅で題目を唱えるしか伝えられない
なにがどのように伝えられないのでしょうか。
> 花押が仏像から漫陀羅を顕すに連れて変わっていく
花押が仏像をあらわすとはどのような意味でしょうか。
また、どのように変わって言ったというのでしょうか。
> 創価学会の場合、上層役員が掛軸は修行方法の道具と割り切って印刷に踏み切った
会としては修行の道具としてではなく、販売品の一つとして商売に踏み切ったのではないでしょうか。どうみても、100円前後も掛からないような1枚印刷の代物を3000円で販売するなど、笑いが止まらない商売でしょう。携帯本尊にいたっては5000円。これまた濡れ手に粟のようは話です。
修行に使うだけであれば、インターネットダウンロードして各自で作ってもよいわけですが、このような自主性は認められないのはおかしな話です。修行に使うのであれば、日寛書写の、それも授与者名を画像処理で消し去って会員に頒布するより、日蓮オリジナルの曼荼羅のほうがずっとよいでしょう。なぜ、そうしないのでしょうか。
> 歴史の波や増上慢の波に呑まれ暴走
この増上慢とは創価学会のことですか。
> 漫陀羅の主題・本尊は『南無妙法蓮華経』其の他はヴァリエーションで何度となく変えられてきた
首題に筆法の変化はあったにせよ、首題が首題であったことは終始一貫しています。
> 法付属の儀式だけで無く幾つかの意義(密教、顕教、三国四師等)を経て大漫陀羅の形になったのだと考えます。其れは説教化導に連れて。
別段、どのような考えようが、想像は勝手です。
しかし、公開の場で意見を示すのであれば、根拠があげる必要があります。
思い付きを放言するだけならば、議論にはなりません。
101
:
ラスカル
:2005/12/06(火) 14:34:59
故事付けといわれるでしょうが、素人の座興と看過してください。天台宗の天台とは紫微宮という北極星を中心とした星座にある天台星宿に応ずる環境と言う事で名付けられたとか。また、天台は天に昇るの意味で山紫水明の仏国土を上天之台と言い、其のような山に天台大師は寺を建てられました。鎌倉時代の僧・日蓮が知らなくても、太陽や月を中心と見るのでは無い北天の星中心思想は知っていたのではないでしょうか。漫陀羅は空を其の儘・天蓋世界地図に見立てたダイナミズムで時間と空間を表現しているのだと思うのです。次元論では無いですが「全ては法華経の五字から」みたいな。でないと、インドの神々が原型だからって密教の梵字を書いたりはしないのでは無いでしょうか。佐渡は漫陀羅の意義をより確かなものとした所、安房は法華経の題目を弘めようと決意を新たにした所、比叡は伝教の一灯を改めて知った所、高野は密教の力とは何なのか学んだ所。法華経の行者・日蓮にとって無くては成らない要素。
102
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 15:13:13
まあ、先にも記したとおり、自分の想像、考えでいくのであれば、何を考えてもそれは個人の勝手です。
ただ、ここでは日蓮の確実な資料から、日蓮その人の考えの実際がどのようなものであったのかを考えることに主眼があります。その意味からのわたしも管見を述べています。
> 漫陀羅は空を其の儘・天蓋世界地図に見立てた
日蓮の漫荼羅を考えるうえで、本尊抄の記述は不可欠な要素です。これを見る限り、想像されているような点はまったく見られません。
> 全ては法華経の五字から」みたいな
このような発想は日蓮にあったとは思えません。
日蓮にとって、妙法五字は一念三千の珠を裏んだ付属の正体であるというのが真跡遺文から汲み取れる考えです。
> インドの神々が原型だからって密教の梵字を書いたりはしない
種子で書くところの既に法義があるのでしょう。密教の神仏を感じで書くほうが違和感があるわけですから。理由はそちらと考えるほうが適切です。
> 高野は密教の力とは何なのか学んだ所
日蓮は高野山に行っていないでしょう。
103
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 15:15:11
【102の訂正】
誤)感じで
正)漢字で
104
:
ラスカル
:2005/12/06(火) 15:37:09
■犀角独歩さんと私では年輪の差があるし、経験値も違うので議論は無理だと思います。互いの知識、情報、意見の相違を交換するくらいでしょう。■身分によって学識の差があるかもしれないし個人によって心構えの差があります。■一人ひとり成長の度合いが違います。■一人ひとりの己心に霊山浄土を現出させ維持する為、昔の高野山、比叡山とは違う国全体を取り扱うような戒壇を立てるのも一つの案だったのではないでしょうか。■具体的には書いてありませんが日蓮と同心する事が書いてありましたから日蓮と教えを受け継ぐ弟子しか居ないでしょう。■念仏、真言で無い題目が仏の教えの核心である事。■花押と仏像とは別々です。大雑把ですが前半は本尊を顕す仏像に連れて修行時代の密号・折伏を行なう不動明王の種子を表現するバン字、後半は本尊の題目の五字に連れて諸仏に優先する一乗の教え(法華経)を表現するポロン字のようなデザイン■内部事情はわかりませんが、いろいろな経費を見積もっての値段でしょう。■本仏の図顕した漫陀羅ではおそれおおいからでは?と思います。■創価学会だけではありませんが、そう断じて差し支えないでしょう。■『南無妙法蓮華経』。です。
105
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 15:55:17
■…私では年輪の差がある
あなたはわたしの年齢を知っているのですか。
わたしはあなたがどこの誰であるのか、いくつなのか、男なのか女かもわかりません
しかし、ここではそのようなことは問題ではありません。
指標はただ一つ。確実な資料です。
正直に言えば、わたしは個人がこう思うああ思うという井戸端会議のような話は興味はありません。しかし、質問されれば、答えますし、違っていると思えば異論を述べます。
■身分…学識の差…個人…心構えの差
このような点はわたしにはまったく度外視しています。
必要なのは確実な証拠と、正しい解析です。
仮にわたしより20歳、30歳と若かろうと、わたし以上の知識と正確な解析ができる人があれば、わたしは例を持って教えを乞います。それが仏道です。
■一人ひとり成長の度合いが違います
問題ではありませんが、成長の度合いがあるので在れば、あとから成長するものは、自分の経験不足としっかりと見据え、礼儀を持って質問をし、知らないことを教授されることには例を持って報いるのが日蓮が仏法でしょう。
■一人ひとりの己心に霊山浄土を現出させ維持する為
わたしにはこんな考えはありません。
> 昔の高野山、比叡山とは違う国全体を取り扱うような戒壇を立てるのも一つの案だったのではないでしょうか
何を指していっているのかわかりませんが、日蓮が念頭に置いていたのは、小乗戒壇の東大寺、大乗戒壇の延暦寺ではなかったのではないでしょうか。
高野山の戒壇というのは仰る意味がわかりません。
■具体的には書いてありませんが日蓮と同心する事が書いてありましたから日蓮と教えを受け継ぐ弟子しか居ないでしょう
これは、何を指しているのでしょうか。
■内部事情はわかりませんが、いろいろな経費を見積もっての値段でしょう
そう値段です。しかし、修行の法具であれば、値段を付けて販売されるべきものではないでしょう。
■本仏の図顕した漫陀羅ではおそれおおいからでは?と思います。
なんでですか。わたしは日蓮が本仏であると思いませんが、本仏の教えに従う修行の法具であれば、本仏の漫荼羅を使うなど当然のことでしょう。
別段畏れるに値しません。
■創価学会だけではありませんが、そう断じて差し支えないでしょう
非常に差し支えがあります。
何故ならば、それはあなたの勝手な想像だからです。
■『南無妙法蓮華経』。です。
なにが南無妙法蓮華経なのでしょうか。
先にも記しましたが、わたしはあなたの放言には興味はありません。
また、当掲示板は挙証義務を確実に守る人々の投稿に依ってきたからこそ、成果があったのです。思いつきの自分の考えは、自分勝手におやりになったほうがよろしいでしょう。
106
:
ラスカル
:2005/12/06(火) 16:08:36
真蹟遺文を読むなら其れが中心に話があるのでしょうが、諸仏の始まりとか船の帆柱とか書いてあると先達とか基軸の表現であっても空間の広がりを想像してしまいます。■密教の神々を表現する梵字を、という意味です。■済みません。でも、空海の密教を意識していたなら高野山でも理屈では考えられなくもないと言う事です。全ては説教化導をする方便かもしれませんから。
107
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 16:33:08
> 諸仏の始まり…船の帆柱…先達とか基軸の表現…空間の広がりを想像
まあ、想像するのは勝手でしょう。ここに投稿しても意味はないでしょう。
> 空海の密教を意識していた
日蓮は台密に学んだのであって、空海を否定しています。
ですから、
> 高野山でも理屈では考えられなくもない
ということはありません。
> 全ては説教化導をする方便かもしれませんから。
うーん、これも意味がわかりません。
わたしが『如説修行抄』を引用するのは何ですが、
「所詮仏法を修行せんには人の言を用ゆべからず、只仰いで仏の金言をまほるべきなり。我等が本師釈迦如来」
といい、真跡遺文で言えば、依法不依人、依義不依語、依智不依識、依了義経不依不了義経といい、仏説に依憑して口伝を信ずること莫れと引きます。
要は、あなたのことも、わたしのことも含めて、日蓮は人の言葉によるなと言っているわけです。あなたの想像ももちろん、この中に入ります。
また、わたしが日蓮漫荼羅を重視する理由は、先にれんさんも引用されていましたが、
「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用ひあるべからず」
これはまさに日蓮が授与書きを記し、花押(判)を認めた漫荼羅に他なりません。日蓮が弟子の弟子という直系の弟子であれば、その祖が日蓮から授与された当人の漫荼羅があるでしょう。なければ、それは弟子ではありません。日蓮は用いるなと言っております。
以上が日蓮を考える矜持と言うことです。
残念ながら、あなたが一つも当たっていません。
108
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 16:43:59
要するに日蓮を考えるということは、一切の私情と、集団のご都合を廃し、日蓮がどう考えていたのかを探ること、その基本は真跡遺文を置いてはありません。しかし、日蓮から正式に弟子と認められた人の言であれば、日蓮の真跡遺文に現れない日蓮の教義を継いでいる可能性は他よりは遙かにあるでしょう。看過できません。参考になります。
ですから、ここでわたしが記すことでも、日蓮の真跡遺文から外れることは、採用の価値はありません。
尚、更に言えば、仮に日蓮の言であるからと言って、日蓮が言うとおりになるかどうかは、この段階では各人の問題でしょう。無謬性を見たい人は見ればよいし、科学的に、その教えを分析しようと思う人はすればよいわけです。わたしは前者に少し手をかけながら、しかし、後者の立場です。
109
:
犀角独歩
:2005/12/06(火) 17:00:28
108の文章を少し補足します。
> …わたしが記すことでも、日蓮の真跡遺文から外れることは、採用の価値はありません。
というのは教えについてということではなく、日蓮分析についてです。ちょっと誤解を生じやすい文章でした。
わたしは日蓮の時代に明らかになっていなかった点で、いま明らかになった点は、どんどん、科学的事実によって検証されなければならないと考えています。ですから、漢訳が梵原典と違えば、その点は考え、漢訳でしか成り立たない教義は採用もしません。また、梵典は釈迦滅後の創作である典は、素直に認め、しかし、そこにある精神で採用できるものは採用します。
しかしながらいずれにしても、日蓮の是非の如何、功罪の如何を問わず、正確に日蓮を素描することが、一切の考証の基本になります。まずその素描を正確にし、その資料を共通の議論の題材にしたうえで、次の議論へ進まなければ、いつまでも、証拠もない自分勝手な思い込みの押し売り以上の議論にはなりません。これは時間の無駄です。
前に進むためには、まず日蓮を在る程度、正確に素描できる知識と教養を身につけることが先決ということになります。
110
:
ラスカル
:2005/12/06(火) 18:54:47
インターネットでは相手を確認する事は困難かもしれません。それでも、憶測で年令如何を判断するのは申し訳無いです。正論の羅列を書かれるとどこからどこまで書けばいいのか迷います。(法華の)仏法理論と(過去現在未来の)成道形式論と(信徒の)成仏内実論と(日蓮亡き後の)後日談議を考えるには真蹟だけでは捉えきれないでしょう。肝要を好むと言っても生活環境の違いで進むルートは違うわけですから。貴方の分析は適切だと思います。高説としては「無始とは遠い過去を指すのでは無く成道により過去現在未来を超克し因果倶時たる事を示す云々(抜粋で済みません)」昔の意見か解りませんが私には考えられないので感銘を受けました。ですが、真蹟を確定する研究なら他の要素は文書写真以外一切斜断してやらなければ話は脇道にそれたりしてしまうでしょう。私も浮かれてしまって意味の無い事を書き過ぎました。真蹟に何が書いてあるのか当てるために書いているわけでは無いので遺文・御書を調べてから出直すしかないでしょう。此の場は失礼します。でないと宗門学会其他の愚痴を書き倒すだけになってしまいますので。
111
:
01
:2005/12/06(火) 20:43:51
犀角オジが言ってんのは、知らないならちゃんと聞けってことなんだ、この人は。
聞けば、疑問が出る。そしたら、また、聞け。聞いて聞いて聞きまくれてことなんだな。
自分が思いもつかないことを聞かれたら、一緒の考えるぞ。だがぁ、共通の認識に立ってなきゃ、そんな積み重ねはできねぇぞってことなんだね。
ふぅ、ぼくも通った道だ。
112
:
犀角独歩
:2005/12/07(水) 01:45:23
> 宗門学会其他の愚痴を書き倒す
まあ、そんなことはしないほうがいいでしょうね。
わたしはかなり注意深く原文を挙げています。
そこから考えてみては如何でしょうか。
113
:
ラスカル
:2005/12/07(水) 11:33:14
■01さん、犀角独歩さん、真蹟データや日蓮、日興、諸々弟子の教学を比較検討し得る質量が無いと書き込み辛いです。此っちだけ質問だけになってしまいますから。■視点・論点・問題点整理、本仏同等論、教師僧論、信心&教義(無作り三身、真蹟研究)、宗祖大聖人漫陀羅では無いのか(下種結縁、漫陀羅図)、師僧書写で無いのか(少欲知足の聖僧)其他を学会へ郵便はがきなどで聞いてみたいと思います。口下手なので質疑応答し辛いですから。
114
:
ラスカル
:2005/12/07(水) 12:18:36
無作り三身→無作三身
115
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/07(水) 12:24:19
>113 横レス失礼。
>真蹟データや日蓮、日興、諸々弟子の教学を比較検討し得る質量
質量? 資料?
116
:
ラスカル
:2005/12/07(水) 16:05:56
判断できる内容の質量と言う事。文字変換できない言葉があるので済みません。
117
:
ラキ
:2005/12/07(水) 18:15:23
横レス失礼します。
>113.学会へ郵便はがきなどで聞いてみたいと思います。
学会。宗門。顕正会などの組織に直接質問しても回答はないと思います。
質問がある場合、所属組織の幹部に聞いて下さい。と言われますよ。
疑問・質問なら、ここの「素朴な疑問スレッド」で質問すれば、元、現役の組織所属の方がたくさん居ますので、回答を頂けます。
大抵の疑問なら、過去スレッドを見ると議論されていますよ。
質量は膨大ですが、拝見してためになる事ばかりです。
目から鱗ではないですが、新しい発見があり楽しいですよ。^^
118
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/07(水) 19:09:24
>116 ラスカルさん
理系の私には、貴殿の文章はどうもよく解らないですね。「質量(mass)」とは物質の量をあらわすものです。
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data6014.html
『広辞林』によれば、
質量:〔理〕物体の有する実質の量。物体に働く力を、その物体の加速度で割った値として定義し、重量によってこれを比較する。一般には、重さまたは重量ということばでも表されている。
『広辞林<第六版> 』(1985年、三省堂)
となっています。
つまり貴殿の
>判断できる内容の質量
という言葉の使い方は「質量(mass)」の定義からいってありえないのです。
そうではなくて“判断できる内容の質と量”なら解ります。“質と量”ということですか?それであれば訂正されるべきでしょう。
もうひとつ。
>文字変換できない言葉
も意味不明です。概念としてうまく表現できないということですか?それであれば貴殿の表現力の問題です。だからといって第三者に理解できない、日本語として通用しない意味不明の言葉を羅列してもよいということにはなりません。
ここは議論の場です。議論する以上、自分の考えを相手に伝える能力が要求されます。また、ただの思いつきでどんどん質問し、それへの回答には全く応答しないというような自己中心的な態度はとるべきではありません。
私は貴殿のスレッド95のご質問に対してスレッド97で答えているわけです。それに対して貴殿はどう思ったのですか?掲示板で世界に向って質問しておきながら、それへの回答を食い散らかすようにほったらかしにするのですか?まず、回答者に対して何らかのコメントをするのが礼儀ではありませんか?
>済みません
ですませるのですか?“すまない”の丁寧語は“すみません”です。“済みません”ではありません。
貴殿の投稿ロジックを読んでいますと、まともにお答えする相手ではないと思いますので、スレッド97に対してお答えがないのであれば、これ以後、貴殿への回答は差し控えます。ご苦労さまでした。
119
:
ラスカル
:2005/12/07(水) 23:27:26
彰往考来さん、判断できる内容の質と量と訂正致したいです。それから、まだ指摘の書き込みを確認していないものですから申し訳ないですが是か非かの返答は差し控えさせていただきます。確かに書籍として発刊されていますが聖教新聞に同じような書き方で企画されていました。全話読みませんでしたので、どこからどこまでとは断言できませんが。不確定な書き込みですみません。御説は最な意見ですので書き込みは控えさせていただきます。
120
:
ラスカル
:2005/12/07(水) 23:39:48
ラキさん、それは当然なのですけれど、教学が得意な方がいないのと名誉会長に忠誠or師弟不二を誓う用紙にサインしなかったもので、聞くことが憚られます。それで学会本部もしくは聖教新聞にと思いました。
121
:
ラキ
:2005/12/08(木) 02:22:55
ラスカルさん。
私の体験で言うと、先輩に聞いても入門書籍程度の指導しかされません。
それなら、自分で書籍を読み漁ったほうがましでした。
また、自分では理解できない事などは、こちらで質問をさせて頂き、私なりに納得、理解できたと思える事がたくさんありました。
組織で1年学ぶより、ここで半年学ばして頂いた方が、何十倍も身になると思います。
いろんなスレッドを見るだけでも、基礎から専門書を読んだぐらいの情報の多さ。
そして、判りやすい解説で、教学研鑽には適した場所だと私は思っております。
興味あるスレッドや素朴な疑問のスレットを最初から最後まで読んだだけで、とても勉強になりますよ。^^
122
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/08(木) 07:46:51
>119 ラスカルさん
貴投稿、とりあえず了解しました。
>聖教新聞に同じような書き方で企画されていました
これは初耳ですね。私が見落としたのかもしれませんが、どうでしょうか。このようなイイカゲンな内容を“偉大なる”聖教新聞が載せるのですかね。
『日蓮大聖人と最蓮房』はインターネットで公開されていますので、特に購入しなくても読むことはできます。
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/index.html
北林氏の妄説など百害あって一理なしで推薦できませんが、どこが間違っているのかチェックしながら読むとよいです。おヒマであれば。
123
:
独学徒
:2005/12/08(木) 13:07:32
ラスカルさん、はじめまして。
横レスにて、失礼します。
『戒体即身成仏義』や「不動愛染感見記」に関する、北林氏とほぼ同じ内容の論考として、山中講一郎氏の「日蓮伝再考(一)」があります。
もしかしたらこれらが、今の学会の公式見解に近いのかも知れませんね。
そうだとすれば、ラスカルさん仰せの通り、聖教等に出ていても不思議ではないですね。
私も該当の記事は記憶にないのですが、何分隅々まで目を通していないもので自信がありません。
対話形式といえば、例の座談会記事が思い浮かびますが、どうも思い起こせません。
たとえ公式見解でなかったとしても、北林氏と山中氏が、資料・情報等の共有などで近しい仲であるこは、二人の出版物の内容から明らかだと思います。
124
:
犀角独歩
:2005/12/08(木) 18:32:47
> 名誉会長に忠誠or師弟不二を誓う用紙
こんなものがあるのですか。21世紀にもなって、面白いですね。
こんなものを書かせるというのは、いったい、どんな神経なのでしょうか。
S・ミルグラム師は「忠誠」ということについて、『服従の心理』(河出書房新社)で以下のように記しています。
「忠節、義務、規律といった個人的価値は、ヒエラルキーの技術的必要からきている。個人はそれらを高度に人格的な道徳規範のように感じているが、体制の水準では、それらは、大きな組織を維持するための技術的前提条件に過ぎない」(P242)
「兵を新しい役割に強く拘束するため、忠誠誓言が用いられる」(P234)
「われわれが個人においてかくも高く評価している忠節、規律、自己犠牲などの美徳が、戦争の破壊的組織の道具であり、人間を邪悪な権威組織に結びつける特性そのものであるというのは、皮肉なことである」(P244)
また、西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)で
「破壊的カルトのメンバーが、どのような心理状態になるのかについて、その代表的なものをまとめてみる。まず集団への帰属感・正義感である。自らの組織への強い忠誠心と、帰属意識やそこでの活動の正当性などを抱き、集団への好感的な評価を下している」(177)
創価学会を破壊的カルトとラベリングをする気はありませんが、忠誠を誓わせるサインなどをメンバーに迫ることは、破壊的カルト、また、軍隊に代表される権威組織における分析と合致してしまうのは、何を意味すのかを、グループはよくよく、社会のなかの自集団という客観的視点から見てみる必要があると思います。
125
:
ラスカル
:2005/12/08(木) 20:03:38
彰往考来さん、独学徒さん、気遣いありがとうございます。なるべく多くの議論や書籍を読まさせていただきたいと思います。
126
:
ラスカル
:2005/12/08(木) 20:17:59
犀角独歩さん、其れが学会上層部の指示なのか、県の青年部が自発に集めていたのかは定かではないのですが、私は未活だったのでサインは書きませんでした。師弟不二であれ一人立つであれ青年部が一丸と正確無比な目的で活動するなら組織システムは崩れないものでしょう。戸田城聖以来、飛ぶ鳥を落とす勢いの創価学会も先行きに霧がかかったみたいに見辛くなっているのでしょうか。書籍文献を提示されると何か書かなければという気持ちになって書いてしまいます。
127
:
犀角独歩
:2005/12/08(木) 20:35:25
ラスカルさん
サインをされなかったという選択は、わたし個人としては賢明であったと思います。
わたしもそんなものには、絶対にサインしません。それがどのような種類のものであってもです。
128
:
ラスカル
:2005/12/08(木) 20:39:17
ラキさん、私もここの掲示板に来て驚く事ばかりです。田舎にある創価学会支部なのでノルマ等は無かったのですが、聖教新聞や創価新報で時代の流れ的な事を見ていたと思ったら、本尊論、教義の変遷などありましたから。ここから多くの知識・情報を学べれば嬉しいです。
129
:
ラキ
:2005/12/09(金) 04:22:04
ラスカルさん。
地域差はありますが、新聞啓蒙。民音。書籍とノルマはありますよ。
役職を持ってるか担当になるとプレッシャーがかかります。
先輩諸氏の皆さんがいろいろ教えてくださるし、また、抑えておきたい書籍の紹介などしてくらさるので、学ぶ気持ちがあればいくらでも高みを目指せます。
ぜひ、ラスカルさんの求める答えが見つかるといいですね。^^
130
:
ラスカル
:2005/12/09(金) 18:27:35
ラキさん、ありがとうございます。
131
:
独学徒
:2005/12/14(水) 20:48:00
曼荼羅ではありませんが、「興風叢書9」に紹介された、宮城県の題目板碑についての感想です。
本当は「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」に投稿するべきでしょうが、該当スレッドに投稿画面が出ないようです。
目に止まった板碑は、康永年間の妙教寺の板碑です。
康永元年一体と二年二体の三体が紹介されていますが、年月日の刻み方が、「本門戒壇之大御本尊」とよく似ていると思いました。
あくまでも、柳沢宏道師「石山本尊の研究」に紹介される、座配図が正確なものと仮定することが条件ですが。
中央に年、向って右に月、左に日、となっています。
康永二年七月九日板碑の例を、横書きにして書いてみます。
右為柳[ ]
我亦為世父 七月
南無妙法蓮華経 康永二年
□□□患者 九日
現當二世□□如件 白
132
:
犀角独歩
:2005/12/14(水) 23:00:30
独学徒さん。一つ質問させてください。
この文章の字と、漫荼羅の字は同一ですか、他筆ですか。
ご教示いただければ参考になります。
133
:
独学徒
:2005/12/14(水) 23:55:22
犀角独歩さん、私の目で比較したものでは正直自信がありませんが、板碑の題目の字は、最後の「経」の字最終画「土」の下の「−」が、ひらがなの「へ」の字のようになっており、御本尊集「奉蔵於奥法寶」から奥州の大石寺歴代曼荼羅と比べたとき、日興上人の御本尊の主題をまねているように思われました。
年月日の書き方も含め、興師曼荼羅を定本にしているような感じを受けます。
時代的には日行師の代ですが、行師よりも興師の曼荼羅の主題に似ていると考えます。
是非、れんさん、彰往考来さんの御見解を伺いたく存じます。
134
:
犀角独歩
:2005/12/15(木) 09:31:42
独学徒さん、有り難うございました。
135
:
れん
:2005/12/15(木) 11:35:55
>133 独学徒さん。私はまだ、興風談所さんの最新刊書籍を購入してないので、残念ながら仰る板碑についてはよくわかりませんが、継命新聞社刊「日目上人」に収録された鎌倉末期〜室町期の奥州富士門流の法華板碑を見ますと、たしかに為書きなどは、完則図ならびに現在の彫刻本尊の腰書きの書式に似通っているのは分かりますね。
となると、完則図ならびに現在の彫刻本尊腰書きの書式自体は、鎌倉末〜室町期の板碑の書式を参考にして作文されたものと言えるかもしれません。
興風の最新刊書籍は明日にも問い合わせて取り寄せようと思います。
136
:
独学徒
:2005/12/15(木) 17:38:35
れんさん、
仰られるとおりですね。
私も今しがた自宅に戻ったのですが、興風談所より案内の封書が届いていました。
昨日は、通りがかりの古書店で、仏教書のコーナーを見ていたら、たまたま「興風17号」と「興風叢書9」があったので購入して帰ったのですが、発行日を見ますと両書とも「平成17年12月13日」となっています。
12月13日発行の書籍が、12月14日に古書店に並んでいる方が不思議です。
私はてっきり11月ごろに出版されたのかと思っていましたが、改めてびっくりしています。
いったいどのような経路で、流通したのでしょう。
お手元に届かれましたら、是非ともご意見を伺いたく存じます。
犀角独歩さん、
興師曼荼羅と板碑の類似は、れんさん、彰往考来さんのご教示を待って、もう一度考えを整理したいと思います。
私は康永年間には、奥州富士門寺院には宗祖曼荼羅は存在せず、興師曼荼羅は板碑の原本とする最高の定本であったのではないかと考えます。
もちろん本山には当時も宗祖曼荼羅があり、興師曼荼羅以上に、定本とする価値の高い存在があったものと推考します。
137
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/15(木) 18:16:35
>136独学徒さん
「興風17号」と「興風叢書9」をまだ所蔵いたしておりませんので、
購入後(もちろん読了後)所見を述べさせていただきたいと思い
ます。
なお流通経路ですが、例えば神田のT堂は確かに古書店ですが、
かかる専門書の常置店でもありますので、そんなに不思議ではあ
りません。
彰往考来
138
:
犀角独歩
:2005/12/15(木) 18:48:00
独学徒さん、皆さんのご論考を参考にさせていただく所存です。
有り難うございます。
139
:
れん
:2005/12/22(木) 21:19:19
独学徒さん
本日、興風談所様より、興風第十七号・興風叢書が届きました。
ご指摘の板碑ですが、拝見しましたところ、題目等はあきらかに彫刻本尊とは異筆ですが、その年号等の為書きの書式は彫刻本尊の腰書に似てますね。
ということは、現在の彫刻本尊は曼陀羅部分は弘安三年五月九日の日禅授与曼陀羅を原本とし、腰書の部分については、板碑の為書の書式を参考に作文されたということになりそうですね。
140
:
独学徒
:2005/12/22(木) 21:39:32
れんさん、
ご教示有難うございます。
板碑の主題については、板碑ごとに異なっており、複数写主の曼荼羅が使われているようですね。
例の、彫刻本尊と類似した為書のある板碑は、興師曼荼羅の主題が使われたと愚考しましたが、この点いかがでしょうか。
重ねてのご教示を賜れれば幸です。
141
:
れん
:2005/12/22(木) 21:58:45
独学徒さん
ご指摘の妙教寺の題目板碑の首題の筆跡については、全体的には日目の筆跡の特徴を継承しながらも、独学徒さんの仰るとおり、経字の旁の止筆などは日興書写曼陀羅における首題の経字の止筆〈州終筆を太く止める〉の特徴を模しているようですね。
142
:
れん
:2005/12/22(木) 22:08:19
141の訂正
誤 州終筆
正 終筆
なお、奥州富士門の題目板碑の首題については、曼陀羅における髭題目を使用しながらも、直接の底本としては、興風叢書〔9〕の口絵の日目筆題目(板碑の版下として認めたと推定される)が用いられているようですね。
143
:
独学徒
:2005/12/22(木) 22:52:10
れんさん、
重ねてのご教示、誠に有難うございます。
妙教寺№8板碑は、康永二年の造立との事ですが、大石寺では行師もしくは郷師といった時代背景ですが、そのころの奥州の中心者は日時師でしょうか。
この点も、ご教示を賜れれば幸です。
144
:
れん
:2005/12/23(金) 05:25:39
独学徒さん
妙教寺には、目師書写の元弘三年十月十三日付けで民部日盛師に授与した曼陀羅が所蔵されていますね。その点からみれば、年代的には奥法華衆をまとめていたのは民部日盛師ではないかと推測します。盛師書写の日満抄と御筆集には「日時相伝之」とあり、日時は日盛師との師弟関係も認められます。
とは言え、板碑の筆者は日盛師の物かどうかは、照合できる盛師の筆蹟が無いため、特定はできませんが…。
145
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/23(金) 12:39:44
>141 横レス失礼します。
>妙教寺の題目板碑の首題の筆跡については、全体的には日目の筆跡の特徴を継承しながらも、独学徒さんの仰るとおり、経字の旁の止筆などは日興書写曼陀羅における首題の経字の止筆〈州終筆を太く止める〉の特徴を模している
坂井師は、屋木沢法華堂に安置される無年号の題目板碑を例示して、日目の筆法を模したものと指摘されています(『興風叢書(9)宮城県の題目板碑』平成17年、興風談所、209頁)が、経字の旁などは明らかに興師の特徴であり、坂井師の説は少々強引ではないでしょうか。
いずれにせよ奥州の題目板碑は目師から時師の時代に始まった書き方のようで、興味深いものです。
彫刻本尊と類似した為書については139にれんさんがご指摘されているとおりと思います。目師から時師の時代に始まった書き方を彫刻本尊が受け継いでいるとすれば、そもそも彫刻本尊(初代?)の造られた時期は時師のころ以降ということになります。
146
:
犀角独歩
:2005/12/23(金) 13:11:15
彰往考来さん
> 時師の時代に始まった書き方を彫刻本尊が受け継いでいるとすれば、そもそも彫刻本尊(初代?)の造られた時期は時師のころ以降
この断定はやや強引ではないでしょうか。
確認できる腰書の文が時師に遡れない限り、そうは言えないと思えますが。
漫荼羅の書き方が鎌倉時代の日蓮の筆法を真似て、21世紀の現代でも書かれる時代格差は起き得ます。
また、しばしば、わたしは繰り返してきたことですが「本門戒壇願主」というのは戒壇の願主であって、本尊の願主ではありません。戒壇が造られるときに刻まれた本尊であるから「戒壇」と記されているのではないでしょうか。
彰往考来さんがまさか、本門戒壇(建物)=本門戒壇本尊という初歩的な思い違いをなさっているわけはありませんが、もし、時師の時代に遡れるとしたら、それに見合う築壇の事実との突き合わせが必要であると思いますが、この点はどのように考証なさっての結果でしょうか。
147
:
独学徒
:2005/12/25(日) 00:25:08
れんさん、
ご教示有難う御座います。
民部日盛師でしたか。
確かに、奥州の法華衆を先導する、指導的立場の方だと拝察いたします。
日盛師は、確か曼荼羅書写はされていないと思いますが、それでも日時師と師弟関係にあったのですね。
また勉強になりました。
有難う御座います。
148
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/12/28(水) 12:44:25
>146 犀角独歩さん
「うわ!しまった!ライオンの尻尾を踏んでしまった!」(冗談! でも半分は本音。)
>確認できる腰書の文が時師に遡れない限り、そうは言えない・・・
そうですね。これはご指摘のとおりです。彫刻本尊が後世のものである一つの傍証になるのではないかという点が145の主眼でしたが、私の筆力不足でちょっと誤解を招きかねない表現でした。“時師以降”という表現は、時師の時代から後という意味で、時師の時代でも有師の時代でも精師の時代でもよく、逆に時師の時代より前には遡れないのではないかという考えです。時師に限定できるというものではありません。
彫刻本尊に関する初出文献とされる明応2(1493)年の「重須日浄記」も史料という点からは不確かなものです。その意味で彫刻本尊がいつ現れたかは極めて重要なテーマでありながら、確実な文献不在という壁が立ちはだかっています。今回発刊された『興風叢書(9)宮城県の題目板碑』(平成17年、興風談所)は、極めて興味ある内容で私自身読み込みが足りず十分咀嚼できていないのですが、私は非常に示唆深いと考えます。私が興味深いと考える点は2点あります。
まず第一は題目板碑は紙以外の媒体(この場合は石)に彫刻するという点で、彫刻本尊と共通基盤があります。それをもって何がわかるか不明ですが、あるいは面白い研究結果がでるかもしれません。
第二に同書によれば、至徳5(1388)年や嘉慶3(1389)年の題目板碑の存在があり、まさしく時師の時代のものがあるということです。同書には、「相當日時上人第三年忌」とある応永15(1408)年の題目板碑など時師との関連を示すものが紹介されています。しかしながら、よくよく考えてみれば奥州は時師の御本尊を蔵している正宗寺院が多いなどから、題目板碑などで時師の年代のものがあるのは当然といえます。
いわゆる「河辺メモ」には「その他は時師か有師の頃の筆だ」(『法主詐称』2003年、エバラオフィス、94頁)とあります。鮮明な彫刻本尊の写真が未公開のため、この表現が細部の諸尊のことを指しているのか腰書を指しているのかなど不明なのですが、時師とか有師の筆跡や形態との相似性などを検証していく必要があり、その一環として奥州の題目板碑の研究という視点は発掘結果ともいうべき考古学的な新しいアプローチで今後の研究成果が期待できると考えます。もう少し同書内容を解析してみたいと思っています。
以上で146に対する回答とします。
彰往考来
149
:
れん
:2005/12/28(水) 18:10:20
横レス失礼します。興風第17号に収録されている菅野憲道師の「武田氏の駿河侵攻と富士門徒」は先号収録の同師の「河東一乱と富士門徒」とともに、戦国期の富士山麓の石山をはじめとする日興門下諸寺の消長を知る上で秀逸な部類の論考と思います。その「武田氏侵攻と富士門徒」の中で、石山十四世日主師の「雑録」について触れられています。
その部分を抜粋します。
『主師「雑録」(仏天深秘之問答抄他)について検討してみよう。この典籍は大石寺絵図など一部分しか公開されてないが、全体は冊子本・三十二丁の形態で、表題等はない。
(1)二箇相承 (2)本門寺額 (3)大石寺図絵 (4)戒壇本尊並譲座本尊授与書・主師示書 (5)日興跡条々事・主師示書 (6)本因百六箇之奥之御示書 (7)宗祖御遷化記録 (8)宗祖本弟子六人・日興弟子本六新六・日目弟子・重須新六 (9)仏天深秘之問答抄(日要作)・主師示書
の順序で類集・書写されたもので、(3)・(4)・(5)・(9)などに主師が若干の註釈を付け加えている。またこの主師「雑録」の書写の年代は、末尾にある花押形より、天正十年頃のものと推定される』(興風第17号、54ページ)
菅野師が紹介した日主の雑録には歴全に収録された大石寺図絵・日興跡条々事示書、興風紀要創刊号に収録された譲座本尊示書が収録されており(影本は大石寺図絵は歴全・譲座本尊示書は興風紀要に掲載)、影本が公開されているものはすべて日主の筆跡ですので、その他の部分も主師筆の可能性は高いと推測されますね。
ここで問題とすべき戒壇本尊(彫刻本尊)授与書は現時点において未公開であり、興風談書の池田令道師が興風紀要第二号に寄稿した「富士の立義と血脈相承についての私見(下)」の註において譲座本尊示書の『上段が「弥四郎国重云々」の戒壇本尊脇書になっている』と念記されていることから、雑録の中の彫刻本尊の腰書は「弥四郎国重云々」と記されている(だろう)ことが類推されるのみですが、このことから、彫刻本尊(初代?)の存在は雑録が記された天正十年頃まで遡れること、当時の彫刻本尊の脇書に「弥四郎国重」云々とあったことだけはどうやら事実のようです。
150
:
れん
:2005/12/28(水) 18:16:24
訂正
誤 ここで問題とすべき戒壇本尊(彫刻本尊)の授与書
正 ここで問題とすべき日主師の雑録に記された戒壇本尊(彫刻本尊)の授与書は
151
:
犀角独歩
:2005/12/30(金) 13:16:19
○彰往考来さん
ご返信、有り難うございます。
○れんさん
> 影本…日主の筆跡…その他の部分も主師筆の可能性は高いと推測
わたしは、このような考え方は、学的ではないと思います。
他の日主の筆が紹介されているのに、されていない部分があれば、そこだけは信頼できないとするのが、当然の判断の仕方ではないでしょうか。
条々事の石山僧の研究(とはいえないが)にしても、そうですが、他の本物を示して、肝心のものは影本を見せず、本物であるというのは、本物をえさに偽者を本物と狂言しようとしていると疑って掛からなければなりません。このような非学術的な姿勢は批判こそすれ、採用すべきではないと思いますが、如何がでしょうか。
店頭で本物を見せて、持ち帰りに偽者を包むというのは、よくある詐欺の手口です。
もちろん、示書の該当部分を池田氏が発表し、再度考証するのであれば、上記記述をわたしは喜んで取り下げます。しかし、現段階では、詐欺商法となんら変わらないやり口であると批判するほかありません。
そもそも示書で取り上げているものは二箇相承、本門寺額、戒壇本尊、譲座本尊(譲座である日興、日目の証拠はない)、日興跡条々事、本因百六箇、それぞれの蓮興目のあずかり知らない‘まがい物’の列挙です。こんなものを示す書自体が信頼性がないのに、その示書の証憑性とはいかばかりものでしょうか。
石山門下ではたとえば松本佐一郎氏などにしてもそうですが、石山教義の根幹に関わる彫刻、本仏論をまともに解析も出来ないような文書を金科玉条の如く扱うことは、わたしは間違っている考えざるを得ません。
興風談所は優秀な古文書解析グループに違いありませんが、依然として彫刻を肯定し、日興中心から脱却できず、石山教学の影響を脱し得ないとすれば、教学的解釈は、その分を差し引いて見なければなりません。古文書を正確に読めることと、語る教学的態度がイコールの関係であるという即断は実に危険であるとわたしは考えます。
もちろん、古文書研究の成果に対して、敬意を表するという点を取り下げるということではありません。
152
:
犀角独歩
:2005/12/30(金) 15:13:49
【151の訂正】
誤)示書で
正)示書と
153
:
れん
:2005/12/30(金) 17:22:52
犀角独歩さん
>151
このような考え…学的でない…古文書を正確に読めることと、語る教学的態度がイコールの関係であるという即断は実に危険…
ご批正・ご叱正、誠に有難うございます。確かに、私が今回取り上げた主師の雑記は肝心の部分の影本が公開されておらず、挙証の“証”とするに足らざるものであったことは否めないものですので、今回の考察は取り下げます。
ただ、先に紹介した菅野師の論考を読みまして、石山の“戒壇”安置の曼陀羅の作成・成立には、戦国末期の富士地方の河東一乱や武田氏の駿州侵攻における戦乱による石山の焼失とその後の石山寺家再建の流れが関連している可能性もあると考えておりますので、その点留意しつつ、研究してみようと思います。
しかしながら、この辺になりますと写真や活字資料を並べて見比べる程度の机上の論考・学問だけでは不十分で、実際にこの辺の資料を、自分の足で歩いて発掘しなければならないでしょうね。
今後、時間の合間を見ながら、あらためて富士・伊豆の日興門流寺院を尋ねて、資料の収集をと考えておりますので、富士・伊豆の日興門下諸寺院の諸聖におかれては、私の調査研究にご協力戴ければ幸甚です。
154
:
犀角独歩
:2005/12/30(金) 18:42:58
れんさん、153の方向でのご研究期待申し上げます。
155
:
大縫 薫
:2006/01/05(木) 21:27:26
新年明けましておめでとうございます。
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b63685743
真筆御本尊に見えますが、図顕年月日の位置が左ではなく右に顕されている
のは珍しいと感じますが、皆様は真偽は如何に思われますでしょうか。
ご感想を是非お聞かせ下さいませ。
156
:
れん
:2006/01/05(木) 22:00:41
管理人様・皆様、新年明けましてお目出度うございます。
大縫さん、はじめまして、私はケイタイからの閲覧で細部までみれませんが、おそらく、ぱっとみでは真筆ではなかろうと存じます。細部が見られないのでなんとも言えませんが、同時期の蓮祖真筆と見比べて相貌に破綻がなければ、現存・曽存曼陀羅の模写・臨写・形木の類かも知れません。現時点で一番確実なのは、立正大学の学者さん鑑定してもらうことでしょう。ともかくも、私も他の諸賢の方々のご見解をお聞き致したく存じます。
157
:
れん
:2006/01/05(木) 22:02:31
訂正です。
誤、学者さん鑑定
正、学者さんに鑑定
158
:
独学徒
:2006/01/06(金) 00:50:46
ご参加の皆様、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
大縫さん、はじめまして。
大縫さん仰いますとおり、図顕年月日の位置が左ではなく右にあるのは安99番曼荼羅ぐらいですね。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/099.html
全体のバランスでは、弘安二年十月〜十一月期の曼荼羅にも似てると思います。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068A.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068B.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/069.html
筆勢や運筆からは、御形木(木版刷)や籠抜などの模写よりも、真筆か自信を持って臨写したもののように思えます。
図顕年月日が分からないのと、ガラス越しの写真なので見づらいのが難ですね。
でも真筆の可能性0では無いように思えますので、れんさんのご教示に御座いますとおり、専門家に鑑定を依頼するだけの価値はあるかも知れません。
159
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/01/07(土) 07:40:08
>155 大縫さん
極めて不鮮明な写真のため断定できないという条件付きですが、私は京都本法寺10世日通師による模写ではないかと思います。
写真では裏書でしょうか、慶長九年甲辰卯月十七日と読め、日通と判読されうる花押が見えます。
日通師による御本尊は『頂妙寺文書・京都十六本山会合用書類一』(昭和61年、大塚工藝社、47頁)に文禄四年二月時正月の御本尊が写真公開されています。
これをみますと今回の写真の御本尊と“華”字の五本ある横棒の一番下が横一文字に大きく書かれている点、“経”字の糸偏の第五角が大きく曲がり下にいくほど太くなっている点など、日通師の筆跡とよく一致いたします。
なお、日通師による文禄四年二月時正月の御本尊は図顕年月日の位置が左ではなく右に顕されています。
日通師は『日蓮宗辞典』(平成11年、日蓮宗新聞社)によれば、「日通(1551-1608)京都本法寺一○世。(その他は略します)」ということです。
by 彰往考来
160
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/01/07(土) 10:43:21
>159
誤記訂正
誤:これをみますと今回の写真の御本尊と“華”字の
正:これをみますと今回の写真の御本尊と文禄四年二月時正月の日通師の御本尊とは“華”字の
彰往考来 拝
161
:
れん
:2006/04/18(火) 20:07:11
現在ネット上に公開されている重須本門寺蔵の日禅授与漫荼羅は、経字旁の左部分は華字の縦線を用いていることが知られていますが、他の蓮祖御筆大漫荼羅でこの様な例はないか、縮刷版の「日蓮大聖人御真蹟 御本尊集」で見てみました。
すると、弘安三年三月日図顕に係る七十九番が、禅師授与漫荼羅と同じく経字旁の左部分を華字の縦線を用いている様にみえます。経字旁の左部分は蓮祖自身により重ね書きで補筆されておりますが、最初は確かに華字の縦線を用いていたことが、写真からわかります。
私は、残念ながら、禅師授与漫荼羅が御真蹟か、後世の模写かを判断する能力はありませんが、禅師授与の経字に見られる特徴が、たった一幅ですが、他の蓮師御筆漫荼羅にも見られたので、たとえ現存の禅師授与漫荼羅が模写本であったとしても、そもそもの原本は、蓮師が弘安三年五月九日に図顕し禅師に授与した大漫荼羅であった可能性は十分あると愚考します。
162
:
犀角独歩
:2006/04/18(火) 21:11:12
れんさん、ちょっと、ご投稿の意味を斟酌しかねるのですが、わたしは先にも記したのですが、仰る時期に御筆漫荼羅は実に短期間に「ツ」とするところを「ソ」とする筆法を表します。その一つが、ご指摘の点であろうかと存じます。
これはしかし“華”の“礀”を使用しているというより、件の如き、筆法が実に短期間に存した。そして、日禅授与漫荼羅は、それによったけれど、彫刻造立の段階では、この点を、“礀”を利用して1画に宛てたというのが、わたしの見解です。
この点で、所謂、石山が言う紫宸殿本尊、日禅授与は、同じ俎上で論及されて然るべきであるとわたしは考えています。
しかし、彫刻とに日禅授与の、この相違をよそに、決定打となる相似点は、大広目天玉の筆法です。この点は、かつて独歩の会で論じたところです。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/27018566.html
163
:
れん
:2006/04/18(火) 22:50:33
犀角独歩さん。
ご指摘有難うございます。禅師授与の経字の旁が気になり、同じ様式の経字の旁が蓮祖真筆にあるのか見てみまして、79番にあることから短絡してしまい、現存の禅師授与の原本が禅師授与の蓮師真筆の可能性があると考えてあのような投稿をしてしまったのですが…
所謂現在の彫刻そのものは、独歩さんが解明された通り、現在の禅師授与を臨摸作為して製作されたことは動かないのですが、では禅師授与はとチョット考えたのです。現存の禅師授与を底本とした彫刻は別として、禅師授与のみに見られる廣目天王の点の特徴については、現時点では、何ともいえません。
私としては、彫刻のように底本がわかる全くの偽作品はお話になりませんが、日興の本尊目録には日禅に蓮師の直筆漫荼羅を授与されたことは明記されており、それは史実なので、現存の日禅授与漫荼羅は真筆でなくとも、真筆をもとにした摸本(直写本というより、何度か転写を経ている本かもしれません)である可能性は残るので、その扱いはある程度慎重を期すべきものと愚考します。摸本の場合は全くの偽筆・偽作されたものとはまた性格がことなり、とくに原本の真筆が現存しない摸本の場合、曽存分の蓮師漫荼羅を考察する上での貴重な史資料といえるからです。偽作であることがはっきりしている彫刻は別として、それ以外の石山蔵の伝日蓮漫荼羅は、今後もし写真公開されるならば、真筆でなくとも、上記のことを視野にいれて考察を加えることも必要かと存じます。以上ご参考まで。
164
:
犀角独歩
:2006/04/19(水) 10:25:25
れんさん、有り難うございます。
「大廣目天玉」の特異な筆法は、ただ日禅授与漫荼羅と石山彫刻のみに見られる特徴ですから、この一事を以てしても、原本は動かないというのが先の投稿の意図でした。
しかしながら、それはそれとして、ご指摘の、出は、日禅授与漫荼羅が有する問題は、別に存します。
堀日亨師の言説を信じれば、日興添え書きがあるわけで、その点からすれば、これを偽筆と斥けることには躊躇いがあります。仰るとおり、この漫荼羅は、実に興味深いところです。現日禅授与漫荼羅に関する163のご洞察は説得性があります。
わたしも以前から安79、80の2体の漫荼羅の經字旁には着目してきました。
ところが山中師は、当漫荼羅を以て備考し「当御本尊より、首題の『經』字が第四期の御書体となる」(『御本尊集目録』117頁)とし、いわば「ツ」様の分類してしまっているわけです。わたしはこの点を奇異に感じていました。
この両漫荼羅は共に弘安3年3月で、となれば、日禅授与と2カ月の相違を有します。
れんさんもご指摘されるとおり、日興の文から日禅に御筆漫荼羅が授与されたことは確実なわけで、となると、この史実に基づいて、弘安3年3月の漫荼羅を原本として、模写制作され、5月8日の日付が記された可能性もあるのかどうか、今のところ、わたしはこの点について述べる用意はありません。ご賢察を承りたいと希望するものです。
165
:
れん
:2006/04/20(木) 21:16:58
犀角独歩さん
>164
弘安3年3月の漫荼羅を原本として模写制作…5月8日の日付が記された可能性…
禅師授与漫荼羅の經字の特徴からしますと、その可能性はあると思います。ただ、その場合、なぜ、わざわざ日付を三月日ではなく、五月九日に設定したのか、理解に苦しみます。日禅授与漫荼羅につきましては、ネットで公開されている写真は細かいところが不鮮明なので、結局のところ重須蔵・石山蔵ともに現物を見なければ何ともいえないというのが現状ですね。
166
:
犀角独歩
:2006/04/21(金) 01:06:28
れんさん
> 五月九日に設定したのか、理解に苦しみます
その理由は、さほど難しいことでしょうか。
「弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す」という日興の添え書きが先行していれば、原本は何を使うにしても、日禅の漫荼羅を策定すれば、この日付以外に設定の仕様はありません。
しかし、700年間、御本尊集があったわけでもなく、御筆漫荼羅に触れられる機会は極限られていた、となれば、限られた実見で、目の当たりにしたもの以外は原本に出来ない。要は「弘安三年五月九日」の日興添え書きを知っており、かつ、弘安三年三月の漫荼羅を実見した人であれば、このような模写となるのではないでしょうか。
やや脱線しますが、わたしに対して、「北山本門寺の日禅授与漫荼羅が大石寺にあったことが証明できるのか。証明できないのに、なぜ、それが原本といえるのか」と問うた人がいました。
しかし、あったことが証明できなくても、その文字は酷似しているのは事実です。となれば、石山はこの漫荼羅を原本にする機会を持っていたことが証明されるというのが考えの筋です。同じことが日禅授与漫荼羅にも言えるのではないでしょうか。
なお、れんさんが、独学徒さんのところで、お書きになっていて御伝土代に現れる弘安二年の日興上人と授与書きされた漫荼羅が石山にあって、ここにおいて、焼失したという意見には、わたしは反対の意見を述べておきたいと思います。
この漫荼羅が所蔵された場所がれば、それは日興が過ごした重須以外には有り得ないと、わたしは思うからです。
ただし、そのような漫荼羅が重須に格護されているという噂を石山は知っていた。故に、それにあやかって伝説を捏造したと言うことはあろうかと思います。
わたしは日目が日興の正当な継承者であるという考えは、どうも納得できません。
故に、日興の什宝が日目に伝わる所以を信頼できないと考えています。
この点を、れんさんはどのようにお考えになりますか。
167
:
れん
:2006/04/21(金) 06:48:09
犀角独歩さん
>「弘安三年太才庚辰五月九日比丘日禅に之を授与す」という日興の添え書きが先行していれば…
御本尊集収録の御筆漫荼羅を拝見するに、日蓮御筆漫荼羅において、この日付記入と授与書は日蓮自身が記入するのが通例であり、日興のが添書する場合はその日蓮の授与書の他に「日〇者日興弟子也、仍申与之」等と添え書きするのが日興が守った通例です。「弘安三年太才庚辰五月九日比丘日禅授与之」を日興の添書とすることにはやや腑に落ちないところがあります。この授与書をも日興添書であるとする根拠は何でしょうか?それ以外の日禅授与漫荼羅に関するご見解はなる程と納得しました。学恩に感謝します。
さて日興への上人号授与漫荼羅についてですが、重須にあった可能性はあるかも知れませんが、今のところ上代の富士文献に、その漫荼羅が重須に存在したことを記録または立証するものは、管見に入った資料の範疇ではありません。もし、独歩さんがご存じでしたら、ご教示戴ければ幸甚です。日時の日興上人御伝草案を読むと、日興の重須における事績を意図的に触れていません。引用資料も直接には重須側の文献はなく、自山分のものによっています。これはこの日興伝は日時自身の自山正統意識によって書かれたものであるが故と考えますが、もし、上人号授与の漫荼羅が重須所蔵のものならば、上記の日興伝の性格上、日時はその存在を記録しなかったろうと愚考します。上代に於いて日興への上人号授与漫荼羅が重須にあったならば、それを記録する重須・西山文献がないのは“不自然な文献の沈黙”であり、逆に石山の日時文献にみられるのは、当該漫荼羅が当時石山に流伝されていた可能性を示すものであろうと考えてものです。
>わたしは、日目が日興の正当な継承者であるという考えは、どうも納得できません。故に日興の什宝が日目に伝わる所以を信頼できないと考えています。
条々事も八通遺状も日妙付属状も多分に後世の作成にかかりますから、それらから日興の継承者を推定することは不可ですね。日興真筆史料では正慶元年十一月三日の日目への授与漫荼羅には「一中一弟子也」と記しています。この文言は、日目が日興の継承者的な立場にあることを端的に示したものと言えませんでしょうか?たとえば日朗師の正応四年辛卯九月三日の御筆漫荼羅に「日朗付属之弟子日輪法師授与之」(御筆写真・大田区史所収)とあり、此の日朗師程に直截的な表現ではありませんが、日興の「一中一弟子也」の表現の意図は日朗師のそれに通じるものともいえなくもありません。もし、日代や日妙が日興の継承者ならば日代や日妙にこそ「一中一弟子也」と授与書きした漫荼羅を授与し、それが重須や西山に現存・曽存して然るべきですが、そのような日興自筆漫荼羅が重須や西山にある・または曽存したという文献はなくこれも不自然な文献の沈黙といえるでしょう。故に、日興・正慶元年十一月三日の漫荼羅の授与書により、日目が、いわば日興の継承者的な立場にあったであろうことは、たしかだろうと愚考するものです。日興の什宝は日興自身の判断と意志により、日目に伝えるべきは日目に伝え、日代に伝えるべきは日代に伝えた…とみる方が自然と考えます。
168
:
犀角独歩
:2006/04/21(金) 10:48:43
れんさん、昨晩、気になることがありながら、投稿したので、迂闊な間違いをしてしまいました。仰るとおり、日付・授与者は日蓮の直筆であり、日興の添え書きではありませんね。失礼しました。ここに訂正し、お詫び申し上げます。
> 日興への上人号授与漫荼羅…漫荼羅が重須に存在したことを記録または立証
これは仰るとおりですが、この弘安二年漫荼羅こそ、日興が日蓮から上人号を授けら、弟子であることを認められた最大の什宝となります。日興が日蓮の弟子であることを証する允可証でしょう。
しかし、御伝土代の「弘安二年…日興上人」漫荼羅の信憑性は如何ばかりか、この点も慎重にならざるを得ませんが、仮にこの漫荼羅が授与されていた場合、日興は、この“本尊”を手許から離したでしょうか。もし、これを日目、もしくは日道といった石山方に譲ったとしたら、分与帳にその記載を書き残したはずではないでしょうか。このような記載は見られましたか。
また、、日道は北山に坊を構え、日順に学んだ人であったわけで、たしかに日目寂、日郷が富士に戻るも、その後、日動は石山を居としました。しかし、この日道を、直ちに石山の正当な後継者と見なすのは、石山門下の発想で、たとえば宮崎師は、ここに強い疑義を挟んでいました。大石寺は、日興に由来する寺であるというのは石山のアナウンスであって、門下一般として、日目の私寺として出発と見なされるわけですね。日道の発言を石山を代表するものと見なすべきか、重須・日興を中心にした興・澄・順・道の修学系譜の一環と見なすか、興・目・道の血脈で見なすかで景色は違ってきます。
しかしながら、どちらの景色からしても、日興の正当な後継者であることを自負せんとすれば、この漫荼羅は重要な意義を持つことになります。
たしか、れんさんは重須盗難事件に否定的なお立場であったと思いますが、もしこの事件が事実であったとすれば…
> 当該漫荼羅が当時石山に流伝されていた可能性
とは、まさにこの流伝経路を物語るものだろうというのが、三学さんのご意見でした。つまり、盗人は石山方であろうというわけです。
ところが、石山では日興筆・花押をなした書写本尊に、日目が花押を記したものを「譲座本尊」と称して、恰も血脈系譜の証拠のように扱いますが、弘安二年・上人号授与の漫荼羅があれば、むしろ、この漫荼羅を以てするのが自然ではないのかという思いがわたしにはあります。むしろ、その本尊がないからこそ、譲座本尊伝説が紡がれたのではないでしょうか。あるいは、いったんは、盗み取ってきたけれど、また、石山からも喪われた故、という憶測は可能かも知れません。
御伝土代は、その上人号授与の記事を紹介するばかりです。つまり、土代の記載には“距離”があるように読めるわけです。この書が日道筆であったとして(違うと思いますが)、そんな日興上人号授与の物語があったことを書き記しているばかりで、それが手許にあるというニュアンスがこの文章から伝わらないわけです。
もっと、いえば、わたしには、この漫荼羅が本当に存在していたのか・どうか、そのリアリティが伝わらないという思いがあります。
「鶏が先か・卵が先か」という言葉がありますが、弘安二年に係る物語は、どれが最初に生じたのか時系列に基づく整理が先ず必要であると痛感しますが、今のところ、わたしはこの作業を終えていません。
169
:
犀角独歩
:2006/04/21(金) 10:49:09
―168からつづく―
また、この漫荼羅には「二千二百三十余年」とあったであろうことは、御伝土台の記載から想像されますが、その後、捏造された彫刻では「二千二百二十余年」となっているわけです。つまり、ここに一連の流れがあるというより、認知の相違が確認されます。殊は、さらに絡み合っているように思えます。
以上のような複数の理由から、弘安二年日興上人号漫荼羅が、石山にあったという考えには疑義があり、また、日興什宝であれば、堅く本人が格護し、しかし、盗難で失したという起承転結は納得のいく面があります。そして、その現場は、やはり、日興の許、重須の出来事であろうと思えます。
> 日目への授与漫荼羅には「一中一弟子也」
この解釈は、れんさんが示されるところが、富士門下の一般的な解釈ですが、わたしは、どうも、この点を直ちに採用する気になれない思いがあります。
その大きな理由は、この「一中」の意が、必ずしも富士門下で言われていることであるとは思えない節があるからです。
やや一般常識に属することになると思いますが、通常、漢字成句で「一中」という場合は、以下のような用法となります。
「いっちゅう 【一中】
(1)禅家で、一座に居合わせる人達に茶菓を出し、もてなすこと。また、その一座。…」(三省堂提供「大辞林 第二版」)
この用法に従えば、日興は、彼の門下という言う一座に居合わせた一人の弟子・日目という意味で、「一中一弟子」と記した可能性もあることになります。
また「一弟子」ということですが、日興が弟子の優位を語るに使う成句は、分与帳では「第一弟子」でありませんでしたか。ところが、ここでは「一弟子」となっています。第一ではなく、一弟子です。この差は大きいと思えます。
さらに記せば、「一弟子」という用法は、言うまでもなく『御遷化記録』の「定一弟子六人事不次第」という一節に見られます。これは「定 一、弟子六人の事不次第」と読まれるわけですが、実はそうではなく「一弟子」であり、「六人は弟子として一つという意味」なのだと意を汲んだ方が居られた、わたしは明晰な慧眼であると配したものでした。
以上の点で、わたしはここに即断しようと思いませんが、「一中」「一弟子」については、「一が中の一が弟子」という読みが本当に適宜であるか、再考してみる必要があるように思うわけです。この読みのままにしても、では、「一が中」とは何を意味するのか、「一が弟子」は第一、最高の弟子という意味なのか、単に一人の弟子という意味なのか、一致団結して弟子として一つという意味なのか、もう少し考えてみる必要を感じるわけです。
170
:
犀角独歩
:2006/04/22(土) 07:51:16
―169からつづく―
「一中一弟子」の意味するところは、多分にれんさんがお考えになるようものである可能性のほうが、はるかに高いことになるのは、日道が日行に授与した書写漫荼羅の「暦応二(大才己卯)年六月十五日、日道(在判)日行に之を授与す一が中の一弟子なり」という端書が、たしかに日道のものであれば、ということになろうかと思えます。
上記は、言うまでもなく、家中抄の一節ですが、この日道本尊の影写というのは、出版書籍などに所蔵されているのでしょうか。残念ながら、わたしは見ていません。
もし、この端書きが日道の筆跡であれば、「一中一弟子」という成句を以て、日興から日目、日目から日道へ「第一の中の第一の弟子」と特定した可能性はあることになるかも知れません。
しかしながら、日道はともかくとして、日目もさておいて、日興にこのような意図があったとすれば、『宗祖御遷化記録』の筆者ともあろう方が、随分と日蓮とは違う発想を持っていると改めて感じます。
先に記したとおり、日蓮は「定一弟子六人事不次第」といい、六人の弟子を定めるものの、ここに序列をつけなかったという点で、極めて異彩を放っています。後世、血脈相承が言われることとはまったく相違した日蓮の実像がここにあるわけです。
本六、新六ということが、どれほどの証憑性があるのか、いまはここに記しませんが、しかし、この発想はまだ日蓮の六人弟子を模倣していることがわかります。
しかし、分与帳における「第一弟子」という弟子分類は、既に日蓮の発想からかけ離れたものであったのかも知れません。
171
:
れん
:2006/04/23(日) 18:57:53
犀角独歩さん
重厚なる御提示有難うございます。やや雑文ながら、私見を記しておきます。
>この弘安二年漫荼羅…分与帖…
分与帖そのものは日興の弟子分の日蓮漫荼羅の被授者の記録で、日興自身に授与された漫荼羅については一行も記されておりませんのでそのような記載は見られませんでした。実をいえば、御伝土代の“御本尊”はもしかしたら“御書”の誤聞ではないかという思いがあります。実は“聖人等御返事”の存在が伝聞の過程で“御本尊”と誤聞された可能性もあると考えます。ただ、日興書写漫荼羅に迦葉・帝釈の記名が「南無迦葉尊者・釋提桓因大玉」とある漫荼羅が多くあり、現存の日蓮自筆漫荼羅では、南無迦葉尊者は弘安三年三月まで、釋提桓因大玉は弘安二年十一月よりの記名で、日興は日蓮より、上人号授与か否かは別として、この時期の漫荼羅を授与された可能性はあると類推しています。この漫荼羅を日興が手元を離さずに置いたとしても、重須の後継日代が離山時に西山に携帯すべき性質のものですから、重須には残らなかったと思います。
重須盗難は日順血脈に記事が見えるので実際の事件と考えますが、石山が盗人という三学無縁さんの意見には傾聴しつつも、目師門下という特定にはやや慎重です。どの史料か失念してしまいましたが(静岡県史?)、重須盗難品が讃岐本門寺にある旨記した重須歴代の活字文書を読んだ記憶があります。とすれば、日華・日仙門弟の可能性も視野に入れる必要があると感じます。
172
:
れん
:2006/04/23(日) 19:42:06
続き
>譲座本尊…
御筆写真を見ますと、“日興花押、日目授与之”は確認できるのですが、日目花押は確認できません。本紙裏にでも日目の花押があるのでしょうか?譲座などというのは言うまでもなく、後世の伝説でしょうが、まぁ、大きさからいっても、日目の私寺である大石寺の安置漫荼羅という性格は有った可能性があります。
>もっと言えば…この漫荼羅が本当に存在していたのか…
私も先に記した通り、日興書写漫荼羅「南無迦葉尊者・釋提桓因大玉」との記名から先に示した時期の漫荼羅を日蓮から日興に授与された可能性は捨てきれないのですが、日時の御伝土代の記述に関しては“御書”を“御本尊”と誤聞したのをそのまま記述した可能性の方が高いかもしれません。日蓮の日興への聖人(上人)号授与は「聖人等御返事」であり、上人号授与漫荼羅そのものは存在しなかった可能性もありますね。独学徒さんの所へのあの投稿は一応の仮説としての可能性の提示ですので、上記の可能性も踏まえもう少し考えてみる所存です。
>彼の門下という一座に居合わせた一人の弟子日目という意味で…
常識的に考えれば、仰ることとも考えられますが、であるならば「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之」の授与書で事足りるのではないかと思います。独歩さんの仰る意味ならば、わざわざ念記する必要性が無いような気もします。日道の日行への「一中一之弟子」漫荼羅は影写は公開されていませんが、脇書は富要八巻・漫荼羅脇書等に掲載されてますから、堀日亨師の鑑定は経ているものではあります。この漫荼羅の堀日亨師の鑑別が正しければ、日興から日目、日目から日道へ「第一の中の第一の弟子」と特定した可能性はありえると思います。
日蓮が六老僧を定めた時、ご指摘の通り、六門徒同格が日蓮の意志でしたが、しかし、他の日蓮門下へと目を転じても、日昭にせよ日朗にせよ、それぞれ付属の弟子を定めていることを考えれば、六老僧には、現在の石山の如き血脈観ではないですが、後事を託す門徒の首長を選定するという意味での「付弟一人」に近い考え・思想はあった可能性はあると存じます。
173
:
犀角独歩
:2006/04/24(月) 06:05:03
れんさん
> 御伝土代の“御本尊”はもしかしたら“御書”の誤聞ではないか
なるほど。このご指摘は実に興味深く拝読しました。
> 弘安二年十一月…日興は日蓮…この時期の漫荼羅を授与
これまた、説得力の観察と拝読しました。
> この漫荼羅…重須の後継日代が離山時に西山に携帯すべき性質…重須には残らなかった
日興寂まで重須にあったとすれば、そのようなことになりますね。
> 重須盗難は日順血脈…実際の事件
宮崎師は、この根拠を日代置文としていました。
該当は、日宗全所載文献だと思いますが、手元にありません。
> …石山が盗人という三学無縁さんの意見には傾聴…重須盗難品が讃岐本門寺にある…日華・日仙門弟の可能性も視野に入れる必要
三学さんが特定した盗難者が石山方というのは、まさにこの日仙でした。その遠因に仙代問答を考慮したものです。この問答は石山で行われたものであり、日仙開基の百貫坊も石山にあった故にこの時点で日仙を石山方に含めた発言となったのだろうと思われます。
>> 譲座本尊…
> …日目花押は確認できません
これまた、迂闊でした。訂正します。
> 「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之」の授与書で事足りる
この文章ですが、富要によれば、
「元亨四年十二月廿九日、最前上奏の仁卿阿闍梨日目、(道師加筆)日
道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」
> …「付弟一人」に近い考え・思想はあった
日興にでしょうか? となると、重須は日代に、檀所は日順に、石山は日目に、という三様で、日目が「付弟一人」で、その証文が「一中一弟子」ですか。
うーん、これはどうでしょうか。当時の石山が重須の本堂、檀所より、日興の中で比重が大きかったのかという点で、やや納得できないところがあります。
ただ、寺院・檀所ということではなく、弟子としてみるとき、日目を、ということであろうと思いますが、わたしは、やや違う考えを持っています。
「一中一弟子」の成句を記すとき、必ずその対句があるからです。
以下、挙げます。
・正慶元年十一月三日、最初“上奏”の仁、新田阿日目に之を授与す“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
・奥州加賀野卿阿闍梨日行に之を授与す、“上奏”代日行は日道の“弟子一が中の一”なり
・最初“上奏”の仁新田卿阿闍梨日目に之を授与す“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
このように並べてみると、この対句とは「上奏」で、必ず記されています。
先に挙げたとおり、日道は日郷に授与をしているわけですが、この日郷は、日道より10才年下の日目の弟子で、日目最後天奏のお供でした。ただ、上述の日道の加筆は、やや不審で元亨4年に当たる1324年は、改元され正中元年で、年末の12月29日にこの紀を記していることになります。まあ、それはともかくとして、日郷もまた天奏の一人でした。
以上の点から、わたしは「一中一弟子」は「付弟一人」の特定句ではなく、天奏賛嘆の対句ではないかと考えます。ただし、これは現段階では思索課程です。
174
:
犀角独歩
:2006/04/24(月) 06:26:10
―173からつづく―
ただし、日道においては、「一中一弟子」日行を仰るような「付弟一人」と考えた可能性はあろうかと思います。ここから、日興がではなく、日道には 日興・日道・日行 という弟一人観を想定したのかもしれないとは思います。
さらにただし、その場合、日道の、元亨4年(正確には正中元年)日郷授与は、何を意味するのだろうか。この点、興味が惹かれます。
わたしは、派祖の本尊書写は、あまり、真面目に調べていないのですが、日興に日目に書写本尊を授与したのは、まさに、日道が日郷の先の日付です。『富士年表』によれば、
1324 正中 1 12.29 日興本尊を書写し日目に授与
その同日に日道は日郷に授与しています。
日目本尊書写のはじめは、その2年後、嘉暦元年としてよろしいのでしょうか。同年表によれば
1326 嘉暦 1 4.26 日目本尊を書写し日郷に授与
この一連の流れを見ると、恰も日興・日目・日道・日郷という脈絡があるように映じます。勿論、断定ではなく、出来事を並べると、そう映じると言うことです。
177
:
犀角独歩
:2006/04/24(月) 10:52:24
【174の訂正】
誤)日道には 日興・日道・日行 という弟一人観を想定
正)日道には 日興・日目・日道・日行 という付弟一人観を想定
178
:
犀角独歩
:2006/04/24(月) 12:03:35
朝、寝惚け頭で打ったせいか、いつも以上に間違いを連発してしまいました。
173の引用文がダブっていますね。
もう一度、整理し直して載せます。
1324:元亨四年十二月廿九日、最前上奏の仁卿阿闍梨日目、
(道師加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す
1332:正慶元年十一月三日、最初“上奏”の仁、新田阿日目に之を授与す
“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
1339:暦応二年太才己卯六月十五日、奥州加賀野卿阿闍梨日行に之を授与す
上奏代日行は日道の弟子一が中の一なり
その他、間違いがありましたら、ご判読いただければ有り難く存じます。
179
:
れん
:2006/04/25(火) 19:29:45
犀角独歩さん。
再度の重厚なる御提示痛み入ります。
>宮崎師はこの根拠を日代置文としていました…
日代置文は最近の日興上人全集等の文献によれば写本しか現存しないとのことで、執行師も「これら置文については古来より真偽の論があって、その成立には難しい点がある」と言われており、一応注意の必要な文献ですので、私としては重須盗難を伝えるもう一つの文献“日順血脈”を挙げました。
元亨四年の興師書写目師へ授与の漫荼羅の日道添書は、元亨四年の時点ではなく、おそらくこの本尊については、日目生存中に正慶の日興書写日目授与漫荼羅とともに日目より日道に相伝されたものであるが、特に日郷師は目師の天奏に随伴したので、郷師帰山後、その功により、特に元亨四年の漫荼羅を賞与したものと考えますので、当該漫荼羅の日道添書には年代は記されてないのですが、目師滅後・郷師帰山後の記入ではと類推します。
>重須の本堂、檀所より…日興在世の重須の建物ですが、日興直筆の文献には“おもす大坊”“重須談所”は確認出来るのですが、“重須”本堂の存在を述べる日興直筆文献は今のところ確認出来ないです。「富士本堂」は与日満書、「本堂」は日興上人御遺跡事に見えますが、これは重須か大石かはまだ私は保留中です。ただ、石山日時談大石記に「今の重須の本堂は昔シ之レ無く御影堂計リなり、然るに下ノ坊の僧達、重須の僧衆の百文宛寄セ合ハして奏聞無尽を行はる。折節故上人は御在国あり、奏聞申すべき人無くして、当坊の僧衆にも談合せずして卒爾に御堂を立てられしは今の本堂なり」とあり、重須の“本堂”は興師滅後に初めて建立の可能性もあり、与日満書・日興上人御遺跡事の“本堂”については在所の比定につきましては保留しておきます。
180
:
れん
:2006/04/25(火) 19:52:51
続き
>わたしは「一中一弟子」は「付弟一人」の特定句ではなく、天奏賛嘆の対句ではないかと考えます…
独歩さんの御提示は傾聴すべきものですが、日興が弟子の奏聞を賛嘆した授与書を付した書写漫荼羅は、日目のみではなく、日仙にも日妙にも授与されているのですが、正慶の日目へ授与の書写漫荼羅にのみに「一中一弟子也」とあるのを考えますと、これを単なる「天奏賛嘆の対句」とのみ限定するのはやや納得出来かねるものがあります。この点は早急に結論せず、もう少し思索してみます。
>ただし日道においては…日行を…「付弟一人」と考えた可能性…日興がではなく、日道には日興・日目・日道・日行という付弟一人観を想定…
この点は、ご指摘の通りと、そのように私も考えます。
>日興・日目・日道・日郷という脈絡…
後世の門流間の係争とそれから派生した門流正統意識を持ち込まずに当時の史料を読みますと、そのように受け取れますね。
181
:
犀角独歩
:2006/04/25(火) 21:40:37
れんさん、こちらこそ、いつも正確なご指摘並びに、出典のご提示、まことに有り難うございます。
>> 宮崎師はこの根拠を日代置文としていました…
> …写本しか現存しない
ええ、仰るとおりです。宮崎師自身、この点は十分御承知のうえで挙げていらっしゃいました。50年前の記述ですが、師は、それでも、この置文が示す僧俗の有様はリアリティを感じておられたようで、その意味で、単に捨て去ることはなさらなかったようです。
> 日順血脈”を挙げました。
きわめて適宜な出典であろうかと存じます。
> 当該漫荼羅の日道添書には年代は記されてない…目師滅後・郷師帰山後の記入ではと類推
もし、そうであれば、道郷の関係は日道が明らかにうえと言うことになりますね。しかし、漫荼羅の委譲は、10才年上の日道が、日郷を自分のうえに認めたことなのか・もしくはその逆なのか、れんさんはどちらとお考えになりますか。
れんさんは、道郷争いはなかったというお立場であったと記憶しますが、これまた、宮崎師を引き合いに出せば、「あった」という立場でした。わたしは、どうもこの点はすっきりとわかりません。大石寺は、南条家の私寺で結局、その縁戚が寺の実権を握ったという筋という考えは持っています。ところが、たしか日志であったかは、そのような考え方は「古今の珍説なり」と一笑に付していたごとくでした。しかし、あの当時の寺院相続というのは、結果的にはそうとしかなっていないように思えます。
> …“重須”本堂の存在を述べる日興直筆文献は今のところ確認出来ない
仰るとおりですね。
先にご引用の執行師は『日蓮宗教学史』では
「重須に於ては日興在世中から、大坊派と檀所派の確執があり、日順の大沢蟄居の如きは、一つにはその軋轢を避けたものと伝えられている。蓋し大坊派が日興法脈の正系を以て任じ、檀所派を目して横入の傍系と見做したのに対し、檀所派は学系の正嫡を任じたがためであろう」(P43)
ところがここで執行師がその根拠として挙げられるのは、『五人所破抄』ほか、日興滅後に係るものではないのかと思える文献類です。ただ、わたしは、檀所とは別に本堂に該当するようなものがあったのではないのかと思う第一の理由は、つまり、日代の存在です。ですから、れんさんは保留される「本堂」は、やはり、北山の、現時点では考えています。
> 一中一弟子
この点は、もちろんのこと、たとえば、先より名の上がる宮崎師にしても、当然、れんさんの記される筋で一般化しています。
それにもかかわらず、わたしが拘るのは、「一弟子」の意味するところです。
また、日目の天奏の功は理解できるのですが、結局のところ、この大旅行を30回以上もできたのは、日目の篤い信仰とも言えるのでしょうが、一方、それを支える財力を有していたという側面は看過できないものを感じます。
堀老師は「公家武家共に其目途を成すまでには巨額の資材を以て運動」とその有様を記したわけですが、斯様なことを生涯に亘りできた日目はまた、日興が身延を出たあと、自分の縁戚に案内をつけたりもしました。ある面、日興のパトロン的な側面すら感じます。それに引き替え、日目については教学的な側面は実に浅薄で伝わるところがありません。エピソードとして、御伝草案には見られますが、しかし、それは日蓮在世の話であって、石山住持のものではないわけです。日興を師に立てていたとはいえ、その本尊書写は、同時進行なのであって、ここに、本尊書写の、師弟の矜持も伝わりません。
日興が、六人弟子を継承したのであれば、一人を選んで「第一の中の第一の弟子」などということは全く齟齬を来すことになります。日蓮に比すれば、いわば堕落に等しいことでしょう。本当に日興がそんな人物であったのか? わたしは納得できないわけです。
以上のような前提から、日目に贈った「一中一弟子」とは、一体、何であろうかと考えると、この財力を背景にした天奏の功以外、思い当たらないわけです。さらに加えれば、日興武家に対して、公卿という血筋です。そのようなことからの仮定ですが、この点で、れんさんのご賢察を是非とも窺いたいからのお声かけでした。引き続き、ご教示いただければ有り難く存じます。
182
:
れん
:2006/04/29(土) 19:44:36
仕事が忙しく、やや亀レスになりました。
>漫荼羅の委譲…日道が日郷を自分の上に認めたことなのか…その逆なのか…
正文献上、日道師と日郷師の接点を示すものは、当該漫荼羅以外しかないので、現時点では何とも云えませんね。日道添書の文面から云えば、「その逆」という可能性は否定出来ないかもしれません。
>道郷争い…宮崎師「あった」…
道郷争いを直接示す当時の正文献はないので、新しく見る時には道郷争いそのものは無かった可能性があります。日道は暦応4年(1341)の寂で、日郷は文和2年(1353)の寂ですが、日郷の帰寂日に成立した大石寺蓮蔵坊臈次事には「大石寺東方ノ坊地如本安堵之時者…」とあり、文献的には行郷争いといった方が文献から伺える事実に即しているいるのではと愚考します。
>大石寺は、南条家の私寺で結局その縁戚が寺の実験を握ったという筋…あの当時の寺院相続というのは、結果的にはそうとしかなっていない…
多くの場合そうなのですが、石山に於いてはやや複雑で、南条家の血筋からいえば惣領時綱の子息であった日伝やその門弟が実権を握ってもよいのですが、実際は新田小野寺氏一族の日道・日行の流れが石山の実権を握っていった事実は、南条家の南北朝期の上野郷退出と、日目の42度とも言われる数多くの上奏を支えた奥法華衆の有していた財力によるといえるのかもしれません。
183
:
れん
:2006/04/29(土) 20:21:01
続き
>日目天奏の功…この大旅行を30回もできたのは…それを支える財力を有していたという側面は看過出来ない…
仰るとおりですね。
>日目…教学的な側面は実に浅薄で伝わるところがありません…
日目の教学的営為は、日興・日澄・日順の流れと比べれば、全然華々しいものはありませんが、日目の日蓮遺文写本には一代聖教大意・法華経題目抄・法華取要抄・四信五品抄が現存しますし、日目が正慶元年に弟子民部日盛に与えた消息に「義科ヨクヨクシタタメテ、二三月下リテ若御房達・児ともと可有談義候。年カヨリテ仏法ノサハクリタク候。今年モ四月ヨリ九月廿日比マテ無闕日御書談シ候了」とあって、今年モ…の記述から、石山においては毎年四月から九月まで、日目が中心となって、日蓮遺文等の講義・学習が集中的に行われていたようです。日目の教学は、身延において日蓮に給仕して学んだ法門が基礎で、あとは重須の日興の教示も当然あったでしょう。日目にはものした著述こそありませんが、“教学的には実に浅薄”とのお言葉には、上述の史料から、やや違うのではと思いました。
>日目に贈った「一中一弟子」…この財力を背景にした天奏の功以外思い当たらない…日興武家に対して、公卿という血筋…
なるほど、そういうことかと、やっと納得いたしました。
184
:
れん
:2006/04/29(土) 20:52:16
182の訂正
誤)当該漫荼羅以外しかないので
正)当該漫荼羅以外ないので
185
:
犀角独歩
:2006/04/29(土) 21:56:42
れんさん
たとえば、日目の教学を実際に窺わせる資料にはどんなものがあったでしょうか。
日蓮への給仕、写本だけでは、わからないと思いますが、どうでしょうか。
また、日目に特筆すべき教学があるとすれば、どのようなものでしょうか。
具体的にご呈示いただけますか。
186
:
れん
:2006/04/29(土) 23:31:04
犀角独歩さん
>185
>たとえば、日目の教学を実際に窺わせる資料にはどんなものがあったのでしょうか…
日目の教学を窺わせる資料は、残念ながら上述の資料以外見当たりません。あえてあげれば、日目申状の記述でしょうか。その他は伊豆実成寺から流出した「聴講見聞録」や石山蔵の日目筆とされる「要文」(典拠・完則宝蔵目録)同じく日目筆「見聞」(典拠・完則目録)が全文公開され、それぞれ日目筆が確定すれば、日目の教学の、また違う景色が窺えると思いますが、現時点では、日目の教学を窺う好資料と思われる、上記文献は非公開ゆえ、残念ながらご期待に添える資料の呈示はできません。
>日蓮への給仕、写本だけではわからない…日目に特筆すべき教学があるとすれば、どのようなもの…
日蓮晩年の日目の日蓮への給仕、日目の日蓮遺文写本や申状・消息文に見える日目のわずかに残る資料からみてみますと、日目には、新たに自身が開発したような教義・教学なるものはなかったように思います。逆にそこが特筆すべき点かもしれません。
187
:
れん
:2006/04/29(土) 23:45:38
訂正
誤)同じく日目筆「見聞」正)同じく日目筆とされる「見聞」
188
:
犀角独歩
:2006/04/30(日) 07:49:25
れんさん
なるほど。日目の教学を知る確実な資料はほとんどなく、日目自身が開発したような教義・教学なるものはなかったということですね。
ということは、日興が、日目第一の弟子であるとするれんさんの根拠は、「一中一弟子」という点だけでしょうか。
189
:
れん
:2006/04/30(日) 11:29:51
犀角独歩さん
仰るとおり、日目が日興の第一弟子と理解する場合の根拠は、日興書写の正慶元年の日目授与の漫荼羅の「一中一弟子也」の記述以外にないですね。
しかして、犀角独歩さんが示されたとおり、日興が「一中一弟子也」と記した真の理由は、日目の公卿出身の血筋という家系伝承、日目のパトロンであった新田小野寺氏をはじめとする奥法華衆の有力な財力を背景とした天奏・上奏の功によるものであると言える訳で、日興の「一中一弟子」を額面どおり付属の弟子と理解するのは不可かもしれないと言えるでしょうね。
190
:
犀角独歩
:2006/04/30(日) 11:46:05
れんさん
今回のやりとりのロジックとしては、そうなってしまいますが、この件は保留として、もう少し勘案してみようと思います。
191
:
なし
:2006/04/30(日) 21:33:41
「卿公問答せよ」
192
:
ワラシナ
:2006/04/30(日) 23:38:55
史料紹介「日蓮写真帖」<1><2><3><4>
<1>0 初めに。1,2,3、アルバム外形の紹介
<2>4 写真9枚の紹介(4-10迄)
<3>4 写真9枚の紹介(4-19迄)
<4>5 参考サイトの紹介、6 結語、7 感想
史料紹介「日蓮写真帖」<1>0 初めに。1,2,3、アルバム外形の紹介
0,初めに。
「日蓮写真帖(図19枚折本 帙入)」と題された著者発行者不明の宗祖関連遺蹟の白黒写真19枚(実際は一枚はがされたものと見えて18枚しかない。)のアルバムが某所にある。このアルバムにある写真の撮影者と撮影時期を求めるのが紹介の目的である。その結論は、断定はできなかったが、このアルバム中の写真の撮影者は堀上人ではないかと推測している。根拠は一つ。参考資料として下に挙げたサイトの写真の一部が当アルバム写真の一部とあまりに似ているから。撮影時期は判らない。
この話題はh11/8/07(土)に取り上げた。今回二度目は、前回紹介の時欠けていた写真の実寸を補った事と、前回より落ち着いて観察した点が違う。
1,アルバム外形の紹介。
「日蓮写真帖」とはどういうものか。縦24,5cm、横19cm、厚さ4cmの折本に18枚の白黒写真が貼ってあるだけのもので解題がない。被写体が何かを示す手がかりは、唯一、撮影者が被写体に附した長方形付箋紙だけである。「日蓮写真帖」なる語で折本の外題が記されているわけではなく外題欄は空白、無題になっている。アルバム表紙にも、折り本のどのページにも撮影者の文章が残って無い。解説らしきものは写真中の被写体に附された付箋紙中のメモの字句だけである。「日蓮写真帖」なる語も保管者が分類整理の都合上つけたものと思う。
2,以下に、18枚の写真中に映されている被写体それぞれに添えられている付箋紙の文字と18枚の写真のサイズを列記する。アルバム写真中の付箋紙に書かれた字句をそのまま「」に写し、私の備忘的観察と考察は(*、、、)内に書く。
3,まず、目の前にアルバムを置いて眺めてみた。大きさは、大型の弁当箱サイズ、または、底の薄い折り詰め弁当ほどある。二ミリほどの厚紙が蛇腹のように一連になってつながれたものである。写真はその厚紙に貼られている。厚紙同士のつなぎ部分の紙の色は紺だった(と記憶している)。それらが積み重なると折り本の外周部(天、地、背、小口)になっている。薄クリーム色にみえた表紙の下部には屏風絵にあるような金色の文様がみえる。表紙の左上の長方形の外題枠の中に文字はない。
写真を見るために目の前にアルバムを置き表紙を右側にめくる。その左側を一頁目という順番付けで写真の位置を特定してみた。四番目写真までは各ページ左右の間に薄い、写真と同じように黄ばんだパラフィン紙が挿入されていた。(<1>終わり)
193
:
ワラシナ
:2006/04/30(日) 23:43:00
史料紹介「日蓮写真帖」<2>4 写真9枚の紹介(4-5迄)
4,18枚の写真の紹介
1頁,2頁には写真は無い。(記憶違いで本当は3頁目,4頁目だったかもしれない。その場合最初の写真が登場するのは3頁目ではなく5頁目からになる。)
4-1 3頁(左)に貼ってある1枚目の写真(縦16cm横11.5cm)、
(*正面から見た宗祖座像。四角形の台座の上に両手で巻物を広げたような宗祖がこちらを見据えて見える。着ている納依が肌着のような、柔道着にそっくりにみえる。本当なら両手で巻物を開いて入る姿になるはずだが巻軸を外した姿になっている為に、座して格闘技の構えをしているようにすら見える。この写真には表示用白紙付箋紙は無かった。
なお、以下に続く坐像の写真はどれも被写体として選ばれた坐像以外の背景が削除され白抜きされて映っている。)
4-2,上の3頁を右にめくると裏側の右側4頁に2枚目の写真が出てくる。(縦11cm横15.5cm)、「久遠寺宗祖御影」。
(*上の御影を真横から撮影したものにみえた。台座の四角い厚板を左側に立てかけ台座抜きの尊像は左半身をカメラ側に向けた格好なので、尊像は、自分の目の前で四角い座布団を見ているような感じになっている。両者の中間の真下あたりに「久遠寺宗祖御影」の長方形付箋紙(大きさは見当で縦20cm横10cm位)が置かれている。台座の表面には対角線を交えた四角形の文様が彫刻されている。台座の厚さは、尊像の足の太さ程に見えた。)
4-3,4頁の左側,5頁にある、3枚目の写真。(縦14.5cm横10.5cm)
付箋紙は無い。
(*法衣を纏い、正眼の構えで巻物を広げた宗祖の座画像が、文字曼荼羅同様の表装で掛け軸になってつるされているもの。)
4-4,5頁を右にめくった6頁にある4枚目の写真。(縦15.5横11.3cm)
「中山高祖御尊像」
(*,若干大きめの付箋紙が台座の中央部に立てかけられてあった。二枚目の久遠寺宗祖御影と同じく左半身向けの彫刻坐像だが、両腕の突き出しは巻物を広げていた姿であろうと思われる。よく見ていなかったので両者の差異はこれ以上は書けない。ただこの中山のものは、座布団に座していた事、が違っていたと記憶している。)
4-5,6頁の左側にある7頁にある5枚目の写真。(縦15.5cm横11.3cm)
「中山高祖御尊像」
(*,右の6頁の彫刻坐像の正面撮影と思われる。付箋紙は写真の台座の右下辺りに立てかけられていた。)(<2>の終わり)
194
:
ワラシナ
:2006/05/01(月) 00:05:03
史料紹介「日蓮写真帖」<3・上> 4 写真6枚目から12枚目の紹介(4-13迄)
4-6,7頁を右にめくった8頁にある6枚目の写真。(縦16.3cm横12cm)
「綱要導師御画像(大きめの字で書かれ) 牛込瑞光寺(小さめの字で書かれている。どの付箋紙の場合も所蔵寺院名は小さめの字で書かれている。)」
(*若干猫背気味の老年僧侶が経典を広げた小机の前に座っている。この人物像が掛け軸の下半分を占め上半分は経典の偈頌が書かれている。若干大きめの付箋紙が掛け軸中央左端に上下二点の画鋲でとめられていた。要するに光沢のある丸型が金属製の画鋲とすぐわかる程の解像度の写真なのだ。)
4-7,8頁の左側9頁にある7枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)
「興師御肖像 蘇我福正寺」
(*法衣を纏った老僧が小机に書籍を広げて座している画像が掛け軸の下半分を占めている。画中の老僧の視線が手前の小机より上方を指しているように見えたので聴衆に向かって講義でもしているかのような姿勢に見えた。上部を画鋲一点でとめられた付箋紙は掛け軸右中央部側端に貼られていた。この画像は大石寺教学書籍のどこかで見かけた記憶があった。)
4-8、9頁を右にめくった10頁にある8枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「養珠夫人画像 小石川興善寺」
(*頭巾を被った尼僧姿の女性が両膝を斜めに崩したような姿勢で座している。まるでカトリックの修道女かイスラムの女性のように見える。額を除く顔面と首下の三角形を残した全てが衣で覆われているから、足の組み方などは判らない。顔はふっくらした中年女性の顔。吊るし帯状の縦二本線の有無までは写真に写っていたかどうか記憶があやふやだが掛け軸形式であったと記憶している。付箋紙は写真中央部右側端に貼ってあった。)
4-9,10頁の左側11頁には写真はなかった。はがされた痕も無かった。
4-10,左側11頁を右にめくった12頁にある9枚目の写真。(縦20.4cm横15.2cm)
(*付箋紙は無い。それは、被写体が「諸人御返事(平賀本土寺蔵)」の真蹟御書(或はその印刷物の)であることが一目瞭然だからであろう。
鎌倉笛田山佛行寺のサイトを見ると外陣の欄間に全文が掲載されているので、照合すると9枚目の写真は、「三月十九日の和」から七行目の最下段の「記」字までが撮影されているようだ。「諸人御返事」の写真は9枚目,10枚目,11枚目まで続いている。この3枚はそれまでの8枚とは違いアルバムを見る角度を縦横を逆にして左90度回転させなければ縦書きの文にみえない、そういう写真の貼り方をしている。)
4-11,12頁の左にある13頁、10枚目の写真。(縦21cm横14.5cm)(*付箋紙は無い。「諸人御返事」の続き、「宛も」から、「皆此之」迄の9行。)
4-12,13頁を右にめくった14頁、11枚目の写真。(縦20,8cm横14cm)(*付箋紙は無い。「諸人御返事」の最後,「法門」から、「御返事」迄の5行分。)
4-13,14頁の左側、15頁12枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)「高祖御消息断片 下山抄 浅草善立寺」
(*付箋紙は横長長方形の書簡の中央部上段に両端に画鋲止めされ貼られている。だが写真の向きは上の「諸人御返事」以前の向きに戻っているので、ここでアルバムを右に90度回転させる必要がある。)
(*撮影された下山抄本文の位置は、正確にはわからないが大まかに言えば、両火房の祈雨が叶わず負けた。たとえ雨が降ったとしても雨の形貌を以って祈る者の賢不賢を知る事有り、雨にも色々有り、と、雨の説明を始めている8行部分に見えた。)<3・上の終わり>
195
:
ワラシナ
:2006/05/01(月) 00:06:53
史料紹介「日蓮写真帖」<3・下> 4 写真12枚目から18枚目の紹介(4-19迄)
4-14,15頁を右にめくった16頁、13枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)「慧明燈師本尊 牛込幸國寺」。
(*付箋紙は縦長長方形の本尊字面の外部表装の中央部の右側端に上下二点で画鋲止めされている。主題の「経」字の下は「日蓮大菩薩」だった。右側は「仏滅度後」だが、「二十余年」か「三十余年」であったかは写し忘れた。慧明燈師については、NB氏の富士年表7に「○深草慧明日燈草山清規を著す(別統)」とある。)
4-15, 16頁の左側、17頁14枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「綱要導師本尊 牛込 瑞光寺」
(*付箋紙は縦長長方形の本尊紙面の中央部の左側端に貼られている。本尊字面の右側に「天明四申辰」の文字が見える。)
4-16,17頁を右にめくった18頁、15枚目の写真は無い。
(*台紙には剥がされた跡の形が残されていた。左19頁(縦16.4cm横12cm)の写真のサイズと同じだったので18頁に15枚目の写真が貼られていたと考える。島のような白っぽい円形のはがれ跡が二三箇所あった。他の写真の糊付けが一面べったり風なのに、この15枚目の写真だけは、接着剤が乾ききって台紙と写真との剥離面が大きかったので剥がれ(剥され)やすかったのかもしれない。或は、ここが剥された事を知った後、防護措置として残りの写真全部をべったりと糊付けし直したのかもしれない。)
4-17,18 頁の左側、19頁16枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「高祖御本尊 本郷 長元寺」
(*弘安三年日眼女授与 四天王無し 不動愛染のみの第71番本尊。付箋紙は縦長長方形の本尊字面の外部表装の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。
1,気づき。
ここまで見てきて、撮影者が被写体を鮮明に大きく写す為に付箋紙の貼り方に苦慮している事が判った。付箋紙を被写体外部に貼るだけでは、肝心の被写体を大きく写すことは出来ない。できるだけ被写体に近接させなければ、極端に言えば内部に埋め込ませなければ無理だと思ったのであろう。
この写真では左右均等に写っているべき外部表装部分が右の付箋紙側にしか写っていない。左側の表装部分は視野から除かれて、写真の左際一杯まで本尊の字面が迫っている。写真の全面を本尊の字面で使ってしまえば、文字は大きく鮮明になってくるが、それでは被写体が何物なのかを示す付箋紙の貼り場所がなくなってしまう。何の写真なのかを分からせる為のテロップを挿入することは欠かせない。だが、本尊の字面の余白に埋め込むわけには行かない。だから付箋紙の横径10㎝程は写真の横幅が犠牲になる。
だが、本尊の字面の横幅は犠牲にしたくないので左右どちらかの外部表装を削るしかなくなる。左右の表装のどちらかを犠牲にしないで両方写すと本尊の字面が一回り小さくなって見えると思う。(その例が後に紹介した参考サイトの本尊写真の付箋紙の貼り方だと思う。)
2、気づき。
主題「南」字の右肩上方に穴のように見える小さな白点があった。立正安国会御本尊集ではどう写っているかは所持していないので比較できない。サイト御本尊集で対応するその位置は、放射状の星の瞬きして見える場所に当たっている。やはり穴のような空白部分に見える。長年巻かれ続けていたものを平面に伸ばす為逆方向に折り曲げてできたような痕が幾重にも水平に走っている。)
4-17,19頁を右にめくった20頁、17枚目の写真。(縦16.3cm横12cm)「日朗上人消息 池上本門寺」
(*付箋紙は縦長長方形の紙面の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。書状の末尾。「箱根坂」「恐縮」「人々御中」などの字句が見えた。)
4-18、20 頁の左側、21頁18枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「高祖御消息断片 善無畏抄 鎌倉本覚寺」
(*付箋紙は縦長長方形の書状紙面の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。付箋紙の字句は縦書きだが書状の本文の字面の向きは右20頁を見ていた時の位置からアルバムを左へ90度回転する必要がある。写っている本文は15行程であるが末尾の最後の一二行に「大(?)仏」「百万億」の字句が読み取れただけで、全文のどの部分かはわからなかった。)
4-19,21頁を右にめくった21頁、19枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「日昭上人譲状 池上本門寺」
(*付箋紙の字句と写っている書状の字句の向きは同じで横径12cmの右から左方向に縦書きされている。従って、アルバムの向きは前21頁を手前から奥へめくればよい。
どういうわけかアルバム中この写真だけは付箋紙が被写体の余白部分に埋め込まれて書状の頭に置かれている。写っている本文の字句で読み取れたものは、冒頭の「遺跡事」末尾の年号「文保元年」だけである。中間にも数行あったが読解能力がなく読み取れなかった。(<3・下>の終わり)
196
:
ワラシナ
:2006/05/01(月) 00:09:19
史料紹介「日蓮写真帖」<4> 5 参考サイトの紹介、6 結語、7 感想
5-1,「付箋紙」についての参考サイト「堀師、中山法華経寺に現る」。
このアルバム写真の被写体に付されたインデックス(付箋紙)がどのような感じで写っているかのイメージを伝える為にかなり似ている例としてサイト「堀師 中山法華経寺に現る」を紹介したい。
yahoo でないと出てこない。そこに堀師が撮影したとされる中山法華経寺蔵宗祖御本尊(64番)写真が出ている。その本尊写真の右側端中央部に付されている「高祖御本尊 中山法宣院(ではないか)」と見える付箋紙がそれで、そのような長方形の熨斗紙が当該アルバム写真の右端や左端に写っているもの、と想像して頂ければよい。付箋紙の字体も両者はかなり似ている点、付箋紙の下端に画鋲らしきものが見える点、などから見て「、、のようなもの」としての参考例に出す事は外れていない、と思う。
6 結語
このアルバム写真の撮影者が誰であるか、その手がかりをその写真に求めた時には、上の参考サイトの著者の見聞は貴重な情報を提供していると思う。
6-1 同サイトの見聞が正しければ「堀上人がある時期中山法華経寺を訪問された」らしい。当アルバム写真にも中山法華経寺蔵の遺物写真が二枚有る。
6-2 参考サイトの付箋紙の字体と当アルバム写真中に写っている付箋紙の字体が似ていると見える事。この「似ている」とはその程度を控えめに表現したもので実際にアルバム写真を見た人はそのそっくりさに驚くことだろう。
6-3 写真に写っている遺物の所蔵地が東京中心部と隣接する常総地方に集中している事。撮影時期が堀上人の在東京時代と仮定すると行き易い近場の遺物を狙って撮影に行った、と想定すると無理がない。
などを以って撮影者は堀上人ではないかと想像している。だが、断定するには、付箋紙の字形と堀上人の筆跡とを照合する事、付箋紙に記された寺院に撮影者の記録を聞く事、などが必要であると思っている。
7,最後に感想。
写真一枚ごとにICタグが付いていない現状ではまた抜かれかねないので保管場所迄は紹介したくなかった。だから言葉だけ尽くして描写しようとした。だが、やはり写真の真相は写真を見せることでしか伝えきれないという限界があった。このジレンマ。
(h18/4/30)
198
:
雅也
:2006/05/03(水) 13:52:24
日蓮写真帖って昔、佼成図書館で見た事がある。記憶がハッキリしない部分が
あるが確かに日蓮写真帖というモノクロの写真帖ぐらいの記憶しかありません。
199
:
ワラシナ
:2006/05/03(水) 20:11:23
雅也様、始めまして。ズバリそれです。
200
:
パンナコッタ
:2006/05/05(金) 12:48:08
先月、お薦めの方に記しましたが、池上本門寺の霊宝殿の今月の公開は本尊集に載っていない
建治二年九月の真筆展示ですね。
http://www.honmonji.or.jp/05topic/06info/reihoden/reihoden.html
”此比丘尼授与法日” 3枚継ぎの物みたいです。 寺尾教授の
「新出の日蓮聖人曼陀羅本尊について」という説明文があるそうですが、
現物を拝観しに、行った方がいいかもしれませんね。
201
:
なし
:2006/05/05(金) 22:07:42
これ偽物↓
御遺物配分帳 1幅 鎌倉時代・13世紀 東京・本門寺
(池上)
身延山守番帳 1幅 鎌倉時代・13世紀 東京・本門寺
(池上)
202
:
れん
:2006/05/06(土) 19:18:41
パンナコッタさん、蓮祖の池上の建治2年9月の真筆の展示の御教示まことに有難うございます。今月中に一度拝観に行こうと存じます。
203
:
独学徒
:2006/05/07(日) 16:34:42
パンナコッタさん、れんさん、池上オフ会なんてできたらいいですね。
丁度1年前ころ、「戸田城聖を聞く会」でパンナコッタさんと初めてお会いしたと記憶しています。
5・3でしたっけ?
と、いいつつも、この先の土日は、運動会シーズンなので日程調整は難しいですかね、、、
いずれにしましても、私も霊宝殿へ行きたいと思います。
204
:
犀角独歩
:2006/05/07(日) 19:11:11
パンナコッタさんのご案内に随い、近場ということもあり、散歩がてら、池上本門寺霊宝殿を覗いてきました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/200
実見。真であれ、偽疑であれ、建治2年であろうかと。
諸尊を書き取ってきたのですが、四大天玉、讃文、日付・授与者などを迂闊にも写してきませんでした。以下、図はですから、四大天玉はうる覚えの記憶です。また、慣習的に王を玉で記してありますが、あるいは王を使っている所もあったかもしれません。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/kenji2nenmandara_honmonji.html
ご紹介のパンナコッタさん、また、彰往考来さん、れんさん、独学徒さん、一字三礼さんをはじめ、皆さんからご批正をいただきたいと思いますが、わたしは、この漫荼羅が真筆?という実見感想でした。
その理由をいくつか挙げると、なにより気になったのが經字糸偏の‘ノ’様画、光明点(髭)と言われる伸ばされる部位ですが、谷に弓なりになっていて、通例のように山に弓なりになっていないこと、日蓮の蓮字しんにゅうの点が4点であること、また、首題と光明点が一筆で記されていること、あと、これまた、記憶が定かではありませんが、安立行菩薩の安の字が、この当時の特徴的な書き方 [小/女] となっていなかった(曖昧な記憶ですが、この点は)こと、全体に派祖以降の本尊のように一筆で首題が描かれ、全体に力が弱い印象を受けました。あと、書き落としがなければ、大日天玉がなかったと思います。
この時期は、千眼天王、(大)十二神王が見らるわけですが、この漫荼羅は「寶光天玉」となっていて、眼が惹かれました。
また、配布の展示目録に拠れば「授与・比丘尼法日(裏書)」となっており、授与者が裏面に記されていることや、この尼の名が「日法」というのなら、引っかからないのですが、「法日」というのは、でも、後代に属するように思えました。
皆さんの実見後、ご感想をお待ちいたそうと思います。
205
:
パンナコッタ
:2006/05/07(日) 23:10:16
れんさん、独学徒さん、どうも。
ミニオフ良いですね。みなさんお忙しいでしょうけど、是非やりたいですね。
おや、独歩さんは抜け駆けですか(◎-◎;) ウソ
何やら、あやしさが漂う漫茶羅のようですね。 伝日蓮の数珠や、>201なしさん指摘の
配分帳も以前展示されていましたので、前提として注意が必要でしょうね。
206
:
犀角独歩
:2006/05/08(月) 00:45:22
パンナコッタさん、抜け駆けではないですよ(笑)
あの漫荼羅のために、会するのは、当富士門流信徒の掲示板にしては、勇み足。故に、わたしが暇を惜しんで、皆さんの無駄足にならないように先に偵察?に行ったということです(笑)
だったら、実見後のコメントを求めるなという叱責を受けそうですが、実は、「なんだ」という思いから、まともに観なかった点もあるので、皆さんの方を借りようという(つまり、2回行くのは面倒)という思いからの投稿でした。
悪しからず、ご了承ください。
207
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/08(月) 07:59:39
>204 犀角独歩さん
見てみないとなんともいえないですね。霊宝殿へ足を運びますか。
なお、この曼荼羅は『大田区史 資料編2』では日蓮本尊の部ではなく、伝・日蓮本尊の部で紹介されています。
まあ、後世のものなのでしょう。
彰往考来
208
:
犀角独歩
:2006/05/08(月) 08:47:45
彰往考来さん
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1016869045/666
上記にレスしました。
209
:
畠山 櫻
:2006/05/20(土) 21:07:45
21日(日) 御霊宝虫払会 午後 1時
明日、妙光寺で虫払会が行われ、宗祖筆御本尊が開帳されるみたいですね。
弘安2年4月8日筆の御本尊は伝宗祖の色が濃いのですか?
行かれる方がいたら、感想をお願い致します。
210
:
犀角独歩
:2006/05/30(火) 19:48:39
「何千年か経って、朽ちてなくなってしまうようなものが本門戒壇の本尊であるはずがない」とは、最近、話を聞いた正信会の古文書研究者の言でした(この人物は、いったい、坊さんなのか。坊さんならば、何という宗派、もしくは宗教法人の坊さんなのか?)
こんな本門戒壇本尊観は久保川法章氏の文章で読んだ。その鸚鵡のよう返答でした。
要は、所謂「本門戒壇の大御本尊」と言われる彫刻は偽物であると言っているわけです。一見すると、尤もらしく聞こえるが、しかし、しっくり来ないのは何故でしょうか。理由は、こうだと思います。日蓮の三秘法門中、本門戒壇構想は、『取要抄』を読めば、明らかにあったことがわかります。本尊は燃えてなくなってしまうようなものが本門本尊でないとしたら、日蓮が念願した建造物としての戒壇堂はどうだろうか。本尊が焼けてなくなるものが本門本尊でないとしたら、焼けてなくなる本門戒壇堂もまた、本門戒壇とは言えないのでしょうか。
本尊抄に理論化された本門本尊は法華経寿量品に説かれた久遠五百塵点成道本門釈尊のことであり、理論上のことであるから、これは燃やすも何もできるはずはありません。しかし、これを木像としたものは、火にくべれば燃えるでしょう。
では、この釈尊を図顕したのが日蓮漫荼羅である。これは火にくべれば燃えるけれど、その法魂は燃えない。つまり、正信会の言う本門本尊とは、この法魂であるということになります。ここで論理がすり替わっているのは、法花経典中に明示される本門釈尊が法魂となってしまっている点です。日蓮が言う本門釈尊は、釈尊像に四菩薩を添えることで表現する(日興義)ということで落着するわけですが、これが法魂信仰となっている点で、大きな相違があると共に、では、その法魂を字像漫荼羅と顕すとどうなるのかという具体性が、正信会の本尊観では欠如しています。これでは空理空論ではないかという思いがあります。
何故、正信会では、本尊書写がなされないのか。日顕氏不相承を言う彼等にとって、日蓮日興の血脈は現代において断絶したことを宣言したわけですが、となると、今後、この法魂を書写本尊に顕すのはいったい誰がやるのでしょうか。この点についても、何も語られなければ、興門石山でいう本門本尊の法魂は永劫に法魂の儘となって目にも見えない、焼いても燃えない空性信仰となったことを意味するのでしょうか。
なかなか興味深い点です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18617532.html
211
:
犀角独歩
:2006/05/30(火) 20:46:35
法魂というのか何というのか、それはともかくとして、創価学会、顕正会、正信会という石山破門御三家において、創価学会は日寛本尊を写真製版して複製し、顕正会もたぶん、同様の方法を取っていながら、こちらは非公開。正信会は、どうしているのでしょうか。
日蓮曼荼羅を複製するのは、元来、‘書写’であったわけですが、早い時代には判木に彫ってこの複製が始まり、日興はどうやらこれに嫌悪感を懐いたことが窺われます。
日蓮の師弟子関係にある出家免許された僧侶が、この複製を自ら記して造ること(書写)は、わたしは正当な方法であると思います。
ところが破門御三家では、この方法を採らない。いや、採れない。師弟子関係を解消したわけですから、これはまあ当然です。また、石山血脈断絶を宣言したわけですから、いわば、法魂を具体化(要するに書写)する人間は、断絶したというわけです。この血脈はしかし、便利なもので、切れたりつながったり、大衆相承したり、便利で都合のいいご託を種々考えられ、いま途絶えていても、日目が生前から相承しているから、今度生まれてくるときは相承が要らないとか何とかもっともらしい屁理屈は立つのでしょうが、それぞれ物笑いの種は超えないわけです。しかし、何と言っても、それぞれが手ぐすねを引いて他者批判をしようとしているタイミングは、では、誰が書写をはじめるのかという点でしょう。それぞれ、牽制しあって、書写をするものが出れば「謗法!」と弾劾されることを必至と考えるのか、いまのところ、自著複製をするものは現れないわけです。これはしかし、日蓮漫荼羅を継承し、その中心者として自らが書写した本尊を授与することによって弟子・檀那関係を形成してきた700年来の門下形態の、一面の崩壊を意味するわけです。
このサイトでもダウンロード本尊を自ら表装荘厳して、自らの漫荼羅とする動向は既に伝わっています。わたしは、各集団が故人の本尊を写真製版するのも、ネットからダウンロード、もしくは本尊写真集などから複製を造るのも、客観的に見れば、何ら変わるところがないと思います。創価学会では、和合僧団には本尊授与の資格があると、本尊頒布をはじめる際に自己弁明をしたことがありました。しかし、そうなると、それ以前、過去50年、創価学会は自己頒布をしていなかった=破和合僧だったという逆も真という笑えぬ説明も立ってしまう点には頬被りを決め込んでいるわけです。まあ、会員にわからないように、特別ルートから本尊を仕入れていると言いながら、実際は勝手に複製を造っている顕正会よりはマシかも知れません。では、正信会はどうするのか。700年来の書写本尊授与以前に、法魂を書写できる人間の断絶の宣言は、返す刀で自刃したのと同様ではないのか、ここ数十年は、複製返却物の使い回しで何とかできるにしても、永続的な化儀とは言えない暫定的な措置をいつまで続けられるのか。「次の正しい猊下が御出現になるまで」というところでしょうか。しかし、1回断絶したものは2度とつながらないものですが、このときは、いともたやすく断絶の事実は反故とされるのでしょうか。人を食った話であると思うわけです。
皆さんは、これらの点は、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。
212
:
独学徒
:2006/06/14(水) 20:10:53
興風談所『日興上人御本尊集』未入集の、(伝)興師曼荼羅の画像が出ていました。
http://www.city.kyotango.kyoto.jp/service/6chohp/omiya/history/siteitouroku/jyoutokujinikkou/nikkou.htm
京都府の大宮町の日蓮宗寺院、常徳寺の所蔵とのことです。
大宮町指定文化財のようです。
213
:
れん
:2006/06/14(水) 21:11:58
独学徒さん、ご提示の常徳寺の伝日興曼荼羅は、真蹟の可能性はあると思い
ます。署名・花押が通例と反対の題目の右に書いてある以外は、全体に同時期
の興師筆の特徴が出てますね。これが形木だとしても、原本は日興真蹟でしょうね。
日蓮宗の宗宝調査会や立正大学・正信会の興風談所で調査・鑑定すれば、出自
が分かると思います。
214
:
独学徒
:2006/06/14(水) 21:24:06
れんさん、早速のご意見ありがとうございます。
>署名・花押が通例と反対
私はこの一点が気になって、自分の見解を示せずにいました。
まだまだ勉強不足だと、痛切に感ずるところです。
215
:
大縫薫
:2006/06/14(水) 22:48:49
大宮町の常徳寺
日蓮本宗の薬王山常徳寺は要法寺原日認上人の隠居された寺院で
興・目両画像のほかに石山三十一世日因上人が同寺の住職に授与された本尊
が大阪の安住寺に蔵されています。
興風談所の調査は既に入っていると思うのですが?・・・
216
:
れん
:2006/06/15(木) 08:14:06
大縫さん、ご教示有難うございます。
なるほど、常徳寺は尊門法縁の寺院でしたか、ならば(伝)日興漫荼羅が伝承されているのも納得できます。
よく見ますと、図顕讃文が題目の左にありますね。図顕讃文と署名・花押が全く通例の逆の位置なのが目を引きます。これは興味深いです。
大縫さんご指摘の通り、すでに興風談所の調査が行われているのでしたら、真筆と判断されているならば、談所の出版物に紹介される筈ですが、それが無い?のは、興風談所では、重須の正応の周防房授与漫荼羅同様に日興真筆とは判断しなかったのでしょうね。
多分、模写か形木と言うことでしょうが、図顕讃文と書写年月日・署名・花押の位置が通例の逆になされているのには何らかの作為?を感じますが、全体的には正安年間の日興漫荼羅の特徴が出てますから、原本は間違いなく日興真筆であろうと愚考しました。
217
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/15(木) 12:50:10
>216 れんさん
ちょっと写真が不鮮明で確かなことは言えないのですけど、仮に形木の場合であっても興風談所の『日興上人御本尊集』には入集していますので、この本尊は『日興上人御本尊集』に入集していないことから形木ではない可能性が高いのではありませんか?
今回のように図顕讃文と署名・花押が全く通例の逆の位置の場合、確かなご真筆でこのような例がないと模写であるとの判断は難しいですね。
218
:
れん
:2006/06/15(木) 18:29:49
>217 彰往考来さん
ご指摘痛み入ります。日興の御本尊集の形木の部に入集していないことを思え
ば、形木でない可能性の方が高いですね。
としますと、当曼荼羅は、題目と勧請の諸尊を臨写もしくは模写した上で、図顕讃文と署名・花押を通例
の逆に臨写或いは模写したものである可能性があると言うことですね。
219
:
独学徒
:2006/06/15(木) 21:28:14
同じ大宮町に日蓮本宗と日蓮宗の常徳寺があるようですが、以下の頁では伝興師曼荼羅と合わせて日親師の曼荼羅も出ていることから、この伝興師曼荼羅の所蔵元は、日蓮本宗ではなく、日蓮宗の常徳寺ではないかと思いました。
http://www.city.kyotango.kyoto.jp/service/6chohp/omiya/history/siteitouroku/index.htm
それとも伝興師曼荼羅が日蓮本宗の常徳寺、日親師曼荼羅が日蓮宗の常徳寺でしょうか。
いずれにしましても、この伝興師曼荼羅の所蔵元が、日蓮本宗の常徳寺であれば、興風談所の調査は既に入っている可能性は大ですね。
しかし興燈法縁でない日蓮宗寺院の所蔵であれば、未調査の可能性もなきしにもあらずと思います。
いずれにしましても、署名・花押、図顕讃文の位置が特異であることは、興師真蹟の可能性は低いというのが、皆様のご意見と拝受しました。
220
:
独学徒
:2006/06/15(木) 21:33:39
>219
自己レス訂正です。
大宮町大野にあるのは、日蓮本宗の常徳寺だけでした。
謹んで訂正させていただきます。
221
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/16(金) 07:44:10
>212-220
あくまで私見ですが、お写真を拝見させていただいた感想です。
常徳寺の御本尊では、まず「日興花押」が向って右にあります。通常、興師の御本尊は左ですから特異的です。併せて「図顕讃文」(仏滅度二千・・・)が左でこれも通常、興師の御本尊は右です。但し、『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)で1例だけ「日興花押」が右の御本尊があります。それは『日興上人御本尊集』のNo.5(正安3年10月13日、富士大石寺蔵:通称「譲座本尊」)です。しかしながらNo.5では「図顕讃文」は右で、大徳寺の御本尊とは異なりますが、「日興花押」と「図顕讃文」が同一側にあるのはNo.5のみでむしろ例外といえるでしょう。よって今回の「日興花押」と「図顕讃文」が各々通常と逆の配置となっているだけでは偽筆とは判断できません。
常徳寺の御本尊の諸尊配座は特徴的です。興師の御本尊の中では迹化の菩薩のみられない略本尊に分類されますが、諸尊配置はNo.9(永仁2年2月15日、富士妙蓮寺蔵)が近いです。但し、No.9では大月天玉と大日天玉の配座がみられますが、常徳寺の御本尊にはありません。No.9と同型はNo.24(正安4年、伊豆実成寺蔵)など5幅です。No.13(永仁6年、富士妙蓮寺蔵)は大月天玉と大日天玉を欠く略本尊で、その意味では常徳寺の御本尊に諸尊配座が近いですがNo.13は釈迦・多宝の二仏も欠くなど常徳寺の御本尊と同じでありません。つまり常徳寺の御本尊と同じ配座のものは少なくとも『日興上人御本尊集』に入集している興師の御本尊にはないのです。ですが、そうだからといって偽筆とは判断できないと考えます。初期の興師御本尊の配座から考えて有りうる相貌であるからです。
首題の字など興師の初期御本尊の特徴がよく現れていて、私がお写真を拝見させていただいた限りでは偽筆と判断されうる箇所は見当たりません。しいていえば、全体的にやや力弱いのが気になるというのが感想です。ただこれは写真写りの関係もあろうかと思います。なおもし模写とするなら、きっと原本のご真筆も「日興花押」が向って右にあって、その原本にかなり忠実な臨写本ではないかと思います。残念ながらお写真が不鮮明であるためご真筆なのか模写なのか判断がつき難いですがご真筆の可能性もあるので慎重にお取り扱うべきと存知ます。
222
:
とんび
:2006/09/09(土) 04:58:43
こんばんは。
当方、余り時間がないので、率直に感じていることを申し上げますと、日蓮聖人の
顕された、御本尊は、鎌倉時代の弟子の機根に顕された、御本尊であり、究極の所
日蓮聖人は、南無妙法蓮華経の主題の直下に日蓮としたためられ、御判形(花押?)
のサインを書かれただけの御本尊が、内証であったのだと思います。(わかりやすくいうと)
ですから、主題が、お題目。まわりの四天王や脇士などは、助行みたいなもので、賛文が
どうとか、脇士が誰だとか、帝釈天?がしゃくだいかいにん?だとか、誰が抜けている
入っている、などどいうものの議論は、あまり意味がないように思います。
ただ、日蓮聖人の御本尊を拝むことがホウボウということでなく、正宗では、絶対妙や
体内の辺・対外の辺とか、また別の門流では、総別といかいうことで、結局のところ、南無
妙法蓮華経の御本尊を信じていれば、正宗であろうが日蓮宗であろうが、極端に言えば聖書
を学ぼうが、儒教を勉強しようが、なんでもOKということだろうと思います。
正宗系の人なら、絶対妙や相対妙のことは、ご存じであろうと思います。
223
:
とんび
:2006/09/09(土) 05:08:45
追伸です。
書き忘れていましたが、重要御書に、誰々は、広略を好む、日蓮は肝要を好む、
と書いてあったと思います。
224
:
れん
:2006/09/09(土) 19:45:21
とんびさん
法華経の広略要について、日蓮聖人は佐前の著作である法華経題目抄に「一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。但一四句ゲ乃至題目計りを唱へとないる者を護持するは要也。広略要の中には題目は要の内なり」と述べております。佐後の法華取要抄では「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」として、“広略”を捨てて“要”を取ることを主張されてますね。
これと、漫荼羅がどのようにつながるか、また、はたして漫荼羅=本尊義が成立するか否か、諸賢の皆さんが議論されているところですから、その議論の内容を学ばせていただいてから、結論を出しても遅くないと思います。
225
:
れん
:2006/09/09(土) 20:19:11
>224
訂正
誤)とないる
正)となうる
226
:
無学無明
:2006/09/10(日) 15:41:12
とんびさん、。
某酒造会社のCMに「、、何も足さず、、何も引かず、、」、とうのが有りました。
日蓮聖人の教えと所作を常に給仕・補佐をされていたのはどなたさまでしょうか、? 日興さまです。日蓮師匠のご本尊作成時には殆どを立会った筈です。
日常の修行には人一倍厳しいかった様です。 今問題なのは何でしょうか、?
私は、多くの「宗教執政者(運用・経営・立案側、?)たちの当該原理を守らず、目先の金銭的欲望の虜に堕落」した結果と愚考してます。 今は「何も足さず、!」がより重要か、? 某団体の足したのは「、後世の偽造濃厚な戒壇様、?、」、近代では「多くの真筆本尊にある釈提桓因大王を用いず、大梵天王と付け足した」、この二件は無意味だとは決して思えません。
なぜなら、余計な物件・書画・文物の付け足しにより、「、日蓮祖師の原点から大きく乖離する原因」が生じた、と危惧します。 ただ、団体・運用者側から見ますと「、信者は、小ざかしい御託を言わず、お貸した本尊を、ダマッテ・疑わず拝み、布施(供養)を忘れずにせよ、!」という本音がチラチラ致します、、か、も、。
227
:
無学無明
:2006/09/10(日) 15:44:39
訂正
大梵天王(誤り)
帝釈天王 (正) でした。
228
:
無学無明
:2006/09/12(火) 07:08:00
訂正
団体、、見ますと>>>宗教法人の担当・運営者たちを見渡しますと、、
にお詫びして、補足訂正させて下さい。
229
:
天蓋真鏡
:2007/01/04(木) 20:06:10
【日蓮・法華経≒漫荼羅(題目本尊≒肝要≒実一乗)】 【門下・日蓮→末法本仏≒漫荼羅(心意)≒末法本尊】
230
:
犀角独歩
:2007/02/18(日) 08:59:41
彰往考来さん
れんさん
独学徒さん
ほか 諸賢
安第92大漫荼羅について、お尋ねします。
『御本尊集目録』によると
幅尺 丈三尺二寸七分(99.1センチ) 幅一尺七寸九分(54.2センチ)
このサイズは合っているのでしょうか。
どうも『御本尊集』所載の写真を見る限り、縦横比が合わないのです。
231
:
彰往考来
:2007/02/18(日) 19:02:30
>320 犀角独歩さん
>安第92大漫荼羅について・・・幅尺 丈三尺二寸七分(99.1センチ) 幅一尺七寸九分(54.2センチ)・・・縦横比が合わない
そうですね。第92番本尊は写真でみる限り縦横比が合いません。なお、幅尺 丈三尺二寸七分(99.1センチ) 幅一尺七寸九分(54.2センチ)は第93番本尊のサイズです。
検証してみましょう。数ある御本尊集で一番大きい『日蓮聖人眞蹟集成 第十巻 御本尊集』(昭和52年、法蔵館)の写真を使用します。この資料は概略B4サイズと大きいので寸法測定誤差が少ないものと考えます。
参考として第82番、92番、93番をみてみます。
御本尊集目録記載の寸法は(単位:センチ、82番は『日蓮正宗大石寺』記載寸法)
82:50.5 x 95.5 比率は1:1.89
92:58.8 x 95.1 (一尺九寸四分x 三尺一寸四分)比率は1:1.62
93:54.2 x 99.1 (一尺七寸九分x 三尺二寸七分)比率は1:1.83
となります。しかしながら、写真でみると92番本尊は93番本尊より縦長であり、比率が1:1.62というのは有り得ず寸法記載が誤記である可能性大ということになります。
では、御本尊集の写真から寸法を測定してみると、(単位:センチ)
82:16.9 x 31.9 比率は1:1.89
92:15.9 x 31.9 比率は1:2.00
93:17.2 x 31.8 比率は1:1.85
となりました。
第82番と第93番本尊は目録寸法の比率と写真寸法比率がよく一致します。しかしながら第92番本尊は一致しません。これは犀角独歩さんのご指摘のように目録記載の寸法が間違っている可能性があります。では実際の第82番本尊のサイズはいくつでしょうか?写真でえられた比率1:2.00を使って逆計算をしてやればよいわけです。そうすると、
58.8 x 117.6 (一尺九寸四分x 三尺八寸八分)比率は1:2.00
47.6 x 95.1 (一尺五寸七分x 三尺一寸四分)比率は1:2.00
のどちらかということになります。寸法比率からのアプローチではどちらの可能性が高いか判断できません。そこで1紙のサイズを検証してみます。
第92番本尊のひとつ手前の第91番本尊は時期的に近く、かつ1紙です。このサイズは、
91:60.0 x 37.9 (一尺九寸八分x 一尺二寸五分)
です。この紙を縦横逆にし、三枚継にすると(継ぎ目は1箇所0.5センチの2箇所とします)
X:60.0 x 113.7 (一尺九寸八分x 三尺七寸五分)比率は1:1.90
となり、58.8 x 117.6 (一尺九寸四分x 三尺八寸八分)と近い寸法が得られますので、こちらのほうの可能性が高いのではないかということになります。
この60.0 x 113.7 (一尺九寸八分x 三尺七寸五分)という数字は興味ある数字です。というのは、
92:58.8 x 95.1 (一尺九寸四分x 三尺一寸四分)比率は1:1.62
と比較すると三尺一寸四分が実は三尺七寸四分の誤記ではないかという推論が出てくるからです。結論として下記2種類の寸法が有り得るのではということになりました。
仮説1:58.8 x 117.6 (一尺九寸四分x 三尺八寸八分)比率は1:2.00
仮説2:58.8 x 113.3 (一尺九寸四分x 三尺七寸四分)比率は1:1.93
by 彰往考来
232
:
彰往考来
:2007/02/18(日) 19:07:05
>231 誤記訂正
誤:では実際の第82番本尊のサイズはいくつでしょうか?
正:では実際の第92番本尊のサイズはいくつでしょうか?
謹んで訂正します。
犀角独歩さん、この結論でいいですか?仮説1と仮説2のどちらが正しいか別途検証してみて下さい。私はこれから出かけますのでこれにて失礼。
233
:
犀角独歩
:2007/02/18(日) 23:26:16
彰往考来さん
お手数をおかけしました。
どうも、数字になると、さらに間違えてしまいました。
仮説二つの内、図で当て嵌めたところ、どうやら、
58.8 x 113.3 (一尺九寸四分x 三尺七寸四分)比率は1:1.93
でした。
資料というのは、恐ろしいですね。検証しないで使わないと、このように瑕疵が含まれれているのですね。
それしても、さすが、彰往考来さんですね。
わたしが第92といって、第93のサイズを書いても、ちゃんと、それを訂正してくださいました。敬服します。
まるで、余談ですが、実寸比で、彫刻と妙海寺大漫荼羅を比べたのですが、ぜんぜん、サイズが合いませんでした。
日禅授与漫荼羅の、丈111センチというのもしかし、三枚綴りとしては、随分と大きいですよね。紙そのものが、日蓮が使ったものと違うのだろうと思えました。
234
:
大縫
:2007/02/26(月) 13:27:20
http://www.okayama-kakejiku.jp/newpage1.html
錦司堂さんのHP内の曼陀羅表具の実例で、安82番の本尊の中尊が出ています。
235
:
彰往考来
:2007/03/10(土) 21:14:03
>231の続きです。
三尺一寸四分が実は三尺七寸四分の誤記ではないかという推論は、第91番本尊(60.0 x 37.9センチ(一尺九寸八分 x 一尺二寸五分))の紙寸法を縦横逆にし、37.9センチを三枚継にするとして、継ぎ目を1箇所0.5センチの2箇所として導きだされた113.7センチ(三尺七寸五分)からの推定でした。
しかし、計算間違いを仕出かしていました。
スレッド231での113.7センチとの計算結果は、
37.9 x 3 = 113.7センチ
から導いており、継ぎ目分の長さを引いていないのです。引き忘れています。従ってこのロジックでの正しい計算は
37.9 x 3 − 0.5 x 2 = 112.7センチ(三尺七寸二分)
となります。三尺一寸四分が実は三尺七寸四分の誤記ではないかという推論は変わらないのですが、なんともお粗末な計算間違いでした。「彰往考来さんもヤキが廻ったな」ということでしょう。ま、しかしご指摘を受ける前に自分で訂正しましたので、よしとすべきでしょう。
参考までにメトリックと尺貫法は一尺=30.3センチという換算係数を使います。
113.3(センチ)÷30.3=3.74
となり、113.3センチが三尺七寸四分であるとすぐに計算できます。
一尺=十寸、一寸=十分 と10進法で単位が繰り上がります。
なお、継ぎ目を1箇所0.5センチとしたのは、何点かの継ぎ目のある御本尊実物を見た際の目視であり測ったものではありません。よくよく考えてみると尺貫法での1分は0.3センチですから、継ぎ目を0.3センチとし、再度計算し直すと、113.1センチ(三尺七寸三分)となりました。
漫荼羅本尊は表装の際に周辺を少し切り取りますので、その切り取られた量が不明である以上このような計算は限界があり正確性を欠きますが、おおよその参考にはなり今回のケースでは興味ある結果が得られました。
>233日禅授与漫荼羅の、丈111センチというのもしかし、三枚綴りとしては、随分と大きい
第92番本尊が丈113センチであれば、この本尊も三枚綴りとしては、随分と大きいということです。
第92番本尊: 丈113.3 x 幅58.8 センチ
禅師授与本尊: 丈111 x 幅58.3 センチ
ですから、禅師授与本尊(日禅授与漫荼羅)と第92番本尊はほとんど同じサイズで、第91番本尊と併せ、この連続した3幅の本尊に使用された料紙は同一生産地のものである可能性が高いと私は考えます。さらに第84〜88本尊も第91番本尊と同じサイズの料紙が使われていると思います。
by 彰往考来
236
:
犀角独歩
:2007/03/11(日) 20:23:47
彰往考来さん
独学徒さんの掲示板をお借りしました。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/4/4/
237
:
再挑戦者
:2007/08/11(土) 22:30:11
、、横から失礼します。
観心本尊抄を観ます時、確かに「日蓮さんが、、仏像の建立、?も視野・構想の存在は否定できません、、」、しかし、佐渡流罪以降の身延での晩年の数年間では、「現状認識の変化が、、多少は、??」、存在した、ようでしょうか、??
日蓮さんは、教団の運営の為には、、やはり「現実は厳しい、??」、、と認識したかも、、?? また、設計図〜図面的な==観心本尊抄が、全てが、「無益〜無駄〜クソ〜役立たず、、」に通じるのは、?、、避けたい、?と、思った、かも、?
現今を直視しますと、、「IT時代」を支えているのは科学・理数時代の根本の全ては、、== 、基本の設計、、図面が、シッカリとしていたからこそです、。図面が有ってこそ〜実態経済までの進展が御座いました、かも、??
従って、、「設計図的な == 日蓮さんの真筆の曼荼羅さまでも、、」、、今後の動向や、歴史の批判には、、十分に「、耐えられる、、?、」、と信じたい、、?? 何も、「日蓮さんが佐渡時代の、視野〜構想〜のうちの仏像、?」、などに、拘泥するのはいかが、、??
238
:
再挑戦者
:2007/08/20(月) 22:13:12
しつこいですが、、。
あの戦国・武家時代、、です、、。 親方さまの逆鱗に触れたならば、「、即、切捨て、ゴメン、、」、を再確認したいものです、。
日蓮さんは何度も「、今生は、、此れまで、、!!」、、と御覚悟為されておられます。 当然ながら、「、毎日の中では、あらゆる観点に対しての思考と錯誤など、、」、は存在したでしょうか、?
当時、もし「仏像=これが本尊だ、、」、と建立したならば、???
当時の敵対団体、ドモは、、ココゾとばかり「、その仏像の奪取・破壊・殲滅、、」、、の方向に傾いたかも、??
重い、かつ、大きな仏像、、??、、よりも、「紙幅の曼荼羅の方が、刀を帯同した悪漢ドモが侵入した時の、緊急避難の場合には、保護・保有に関して、どちらが有利でしょうか、??
そして、何より「、仏減度後、、未曾有、、の大曼荼羅、、也、、」との、「真筆曼荼羅さまの右下の御約束・御宣言??」、の意味深長な文言を軽軽に無視、?、しては、エエンでしょうか、?
239
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/08/30(木) 15:37:55
紙幅であれ仏像であれ、1万年もつかどうか。
たしかに戦乱・天災の時代であった当時は紙幅が携帯に一番。
波木井山円実寺ができるまで寺院というものを持たなかったわけですから。
ここは新しい解釈が必要です。
私はホログラム3D御本尊を常ずね主張しています。
文字曼荼羅や仏像を信仰の対象とするのは一種の偶像崇拝的所為で、
キリスト教やイスラム教は中世の神学論争で決着をつけ世界宗教化している。
携帯型ホログラム3D映像なら即道場となり諸仏配置の上下左右奥行東西南北
がはっきりわかる。己身本尊論でありながら己身本尊とはならないのもいい。
240
:
突然ですが
:2007/08/31(金) 20:01:41
あの…日蓮宗に問い合わせまして、
「葵講」なる団体はありません!と言われました。
しょっちゅうこの手の問い合わせがあるらしく大変迷惑している、との事です。
241
:
再挑戦者
:2007/09/01(土) 20:25:05
お名前が長いので、239さんでご免下さいませ。
早速ですが、<、ホログラム3D映像、、>、、とは、一体、どのような形態ですか?
よろしければ、何卒詳細にお聞かせ下さいませんでしょうか、? とても関心がありますので、、。
242
:
パクリですよ(大笑)
:2007/09/04(火) 12:02:35
151 名前:プリン 投稿日: 2007/06/30(土) 18:45:53
ちなみに(御議論のスジからは外れますが)…、
もし仮に大聖人が現代に御出現なされていたなら、御本尊様は「3D」のホログラフ形式になされていたかもしれないな、と思うことがあります。
創価仏法研鑽掲示板の「御本尊について」スレにありました。
243
:
秀麗富士
:2007/09/10(月) 02:17:20
ホログラム3D御本尊って何ですか?波木井さん
244
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/09/12(水) 06:06:24
>>242
過去ログを探してみては?
私は1998年ごろ頃から言ってます。
245
:
再挑戦者
:2007/09/12(水) 21:30:50
ゴメン、、。
そうですか、約、十年も前からでしたか、、。
然るに、貴方の御主張がガセのネタのバカ・ネタでなければ、ナニユエ、、諸衆かたの疑問に、真摯にお応えにならぬのか、!!!
この、フンゾリ返った姿勢には、、少々以上に、ドタマに来ておるがのー、、!!!
言いすすぎならば、陳謝したいが、、。 ホログラム、、とは、、????
246
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/09/13(木) 06:10:42
ホログラムを理解していないと・・・。
ホログラムについてはこちらをまず参照して理解して頂きたい。
http://www.jomon.ne.jp/~artnow/
何故に3Dホログラムかというと、現在の紙幅本尊は二次元(2D)で諸菩薩の
上下左右関係(東西南北や上下)の配置表現に無理がある。
しかし東大寺などの伽藍にあるような仏像を用いても東西南北関係はともかく
上下の配置表現が難しいし、仏像では偶像崇拝の謗りもある。
(紙幅本尊でも一種の偶像崇拝なんだが)
それに紙や木、または金属は経年劣化は避けられない。
しかしホログラムなら何万年でも何十万年でも持つ。
キリスト教やイスラム教は、本尊論に関しては教学がたいへん進んでいて、
マリア像とかキリスト像とかマホメット像をほとんど祀りません。
十字架であったりと”象徴”を祈りの対象としている。
仏教はこのあたりたいへん遅れているのです。
247
:
犀角独歩
:2007/09/17(月) 01:36:14
日興が、いずれの日蓮御筆大漫荼羅を参考にしたのかということがしばしば話題になりますが、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』が存し、また、多数の大漫荼羅に日興が加筆をしていることを考えるとき、それらすべてを参考にしなかったわけはないと、わたしは思います。
また、この書写原本特定の議論では、座配、讃文、また、釈文の書き込みなどが取り沙汰されますが、わたしはなにより、不動愛染の筆法の選び方に目が行きます。すると、その相貌は、むしろ、文永初期に近いことは明白です。
日興の座配その他の定型化とは、別に、では、なぜ、日興は初期愛染不動の筆法に拘ったのかを併せ考えない原本探しは、美を尽くさないように思えます。
あと、石山蔵日禅授与漫荼羅が、真筆であるという線で話は進みがちですが、わたしは、この点については、懐疑的です。その理由は、なにより、大廣目天玉の「玉」字のヽが「天」を超えて縦一本‘礀’で書かれる本尊は、この1舗を除いてはないからです。前日の日付をもつ安92、93もこの筆法になっていないことは整合性を有しません。また、石山門下以外で、この漫荼羅の真筆説を述べる人もありません。まずは、れっきとした学術調査を経たのちに、その成果を踏まえて、この漫荼羅を真筆として扱うことが真摯な学的な態度であると、わたしは考えます。
248
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/09/18(火) 10:16:02
日興の不動・愛染理解はいかばかりか。
249
:
再挑戦者
:2007/09/18(火) 22:59:24
246 波木井、、さん。
ホログラム3Dに関しましてのお答えには幻滅、、!!! 、、でゴワス、!!
要するに、、当該の物件に対する「、、イカナル保存・方法がベストか、、??」、、では無いはずでしょうか、?
極限の意見を御許し願えれば、「、今日、、明日、、の中で、例えば、静岡・浜岡原発の、東海地震による溶解事故、、??」、、などが懸念の中ではあります、。
現今は「ホウボウ厳戒が緩みパナシですか? 」。今こそ、針金宗の真骨頂こそ、、が期待されるか、、、??
250
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/09/19(水) 05:45:29
別に誰かに評価されたくて言っているわけではないので誤解なきように。
1998年当時、私と日蓮宗系僧侶数人が法華チャットを1か月に1回程度の
定例で開催していた。その時出てきたお話ですから。
しかしあなたは人の真意がちいっとも理解できない人のようで。
保存・方法ではなく御本尊なるものを一番正しく理解できる唯一の方法が、
3Dホログラムであって、いくら私の書いた文章が下手であっても、
所詮2D表現方法である紙幅本尊には表現に限界がある。と書いているのです。
それが何故に謗法につながるのかも皆目理解できません。
あなたの能力はかなり劣っているようです。
251
:
ラセード
:2007/09/19(水) 09:17:52
ここの名だたる方々は君を相手にはしていない。理解力が無いなどと人に揶揄するより空気を読めない君は、それ以上に理解力が人並み以上に劣っている。
252
:
再挑戦者
:2007/09/20(木) 20:36:15
250の波木井さん。
一応、レスドーモです。
私のいいたいのは「2D〜〜3D〜〜9D??」、、などご参考にはなります。
なぜ、、? 2Dの表現ならば、、限界が存在して、3D表現ならば、限界が?、氷解するのでしょうか、、?
今後の、突発的な事件(水爆・原爆投下、)の元でも、日蓮さんの根本の精神が継続、、??? 、、の為には、、、何が、???、、必要なのでしょうか、、??
例せば、もし日本が原爆で壊滅したならば、衆生の成仏にかかわる、データが世界のどこかに、片隅にでも残存さえすれば、、「法華・曼荼羅・本尊への復元が可能」、と思います、。 「原図」の「設計図がシッカリ」していさえすれば「良い」のでは、、?
と存じますが、、。
253
:
管理者
:2007/09/20(木) 20:46:09
再挑戦者さん
波木井さんは、当掲示板への書き込みが禁止され、書き込みできません。申し訳ありません。
254
:
再挑戦者
:2007/09/20(木) 20:48:33
、、ドーモ、、でした、、。
255
:
パンナコッタ
:2007/09/20(木) 22:09:22
再挑戦者さん、むしろ過去のカキコにあった"観心"と"教相"の本尊という切り口から
アプローチしていった方がややこしくはありますが、より蓮祖の本意に近づけるのではないでしょうか。
話は全然違うのですが、立正大の温泉掘削が失敗したとの記事。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news001.htm
ある意味、イタい事例なのかもしれませんが、"そこから何を学ぶか"が、
大事な事と思えますね。
256
:
犀角独歩
:2007/09/22(土) 07:43:16
パンナコッタさんが仰る「“観心”と“教相”の本尊」とは、より具体的に言えば、漫荼羅図と仏像造立のことでしょうか。となれば、わたしも賛同します。
日蓮の、四角い1枚の紙に展開した漫荼羅図は、極めて完成度の高いものでした。立体と比べて優れるとか・劣るとかいった観点は不用だと思います。
二次元でしか表し得なかったことを二次元で尽くしたということでしょう。
この点については、まだ20世紀だった頃、ワラシナ師と議論をしたことがあり、その点につき、昨年であったか、薬王寺・大埜慈誠師から問われ、ブログで答えたことがありました。
【試論】四大天玉の図示の位置について
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50543409.html
では、いっぽう、立体でということなら、なにも現在の最新技術などを使うまでもないでしょう。既に重須文献「漫荼羅の図の如し」の段階でその構想は論理的に具体化し、以降、東西の地域差・門派を問わず、それが実現されてきました。つまり、仏像の造立です。また、それは堂塔伽藍の配置でも可能ではないか、これが大本門寺構想として、日興已来、言われていたのではないかという議論は、かつて問答さんとした記憶があります。
私案ながら、やや具体的に記せば、その伽藍の中心は宝塔で、そこには題目が奉懸され、左右に釈迦多宝像、四菩薩を配し、四大天玉像を配します。高い山の上がよいでしょう。そして、その宝塔より下り、漫荼羅に記される菩薩像を祀るお堂、さらに各界を祀る、たとえば鬼子母神堂などをさらに下り配し、二つの垂迹堂に天照・八幡像を、そして、その前に日蓮御影堂を配し、山門の左右には不動・愛染像を祀る、そんな堂塔伽藍の配置が、わたしは大本門寺構想なのではないかと、その素描をもって、問答さんと議論をしたことがあったと思います。
ただ、その後、わたしの気分は、漫荼羅と仏像とは、表すところが違うと傾き、やや、この構想には醒めたものがありました。
以前にも記しましたが、この大本門寺構想では、けっして、造立できない像が一つあります。それは、「日蓮花押」という署名と判です。こればかりは、日蓮直筆の文字でなければ意味がなく、仏像化は不可能であるわけです。尤も、漫荼羅を大本門寺の堂塔伽藍の設計図とすれば、その筆写が日蓮であることを証する花押であれば、これは御影堂をもってすれば事足りることになります。
なお、過去の管見では、このような大本門寺構想を日興に遡源できると、わたしは考えていました。しかし、日蓮御筆大漫荼羅に「本門寺奉懸」を書き込んだ日興は、本門寺には漫荼羅を懸けることを意図していたことになります。この日興に加上しながら、しかし、漫荼羅を設計図の如きとする重須方の発想は、実は日興と齟齬を来している点は見逃せません。
257
:
天蓋真鏡
:2007/09/24(月) 20:28:00
寺の設計図にしては大雑把でしょう。 持ち運び便利な法華経解説図・鎌倉時代版(天台密教から法華一乗へ転換する導師)では無いかと考えます。
258
:
犀角独歩
:2007/09/25(火) 19:34:29
> 天台密教から法華一乗へ転換する導師
この意味がわかりません。
もう少し記してみてください。
259
:
天蓋真鏡
:2007/09/27(木) 21:33:02
ありがとうございます。指したる挙証がある訳では無いです。妙法漫荼羅供養事か何かで成仏得道の導師なりと書いてあったのがきっかけです。比叡山が密教化して僧兵が幅を訊かす末法の世相。日蓮聖人は加持祈祷よりは法華経の心を唱えさせる漫荼羅を法華一乗に導く師に準えていたのでは無いかと想います。
260
:
犀角独歩
:2007/09/28(金) 19:52:55
レス、有り難うございます。
天蓋真鏡さんが、真剣に日蓮とその信仰を追究されていることは伝わりました。
261
:
れん
:2007/10/05(金) 09:52:47
“大本門寺”という語は、ご存じの通り、文永十一年甲戌十一月日付けの蓮祖御筆漫荼羅(身延曽存)の興師添書「因幡国冨城五郎入道日常息寂仙房申与之、但可為大本門寺重宝也」と、弘安三年太才庚辰五月八日付け沙門日華授与の蓮祖御筆漫荼羅(京都本能寺蔵、安国会御本尊集目録第九十二番)の興師添書「甲斐国蓮華寺住僧寂日房者依為日興第一弟子所申与之如件、大本門寺重寳也」の二ヶ所に見られます。
日華師の住坊は富士上野にあり、一方、寂仙坊日澄師の住坊は重須にあったことは周知の通りですが、上野に住坊のある華師と重須にに住坊のある澄師に下付された宗祖御筆漫荼羅にそれぞれ“大本門寺重宝”と興師が記入されたのは、建立当初はその寺院経営上、上野は南条家、重須は石川家の氏寺としての色彩が濃いのは致し方ないにせよ、興師には所謂本門流布の暁には上野・重須の寺域はともに上下の差別なく“大本門寺”の寺域と位置付ける意図もあったのではないかと愚考しております。
つまり具体的に言えば、日華師への授与の漫荼羅への書き込みでは大本門寺(上野)塔中の寂日坊の重宝の意味であり、日澄師への漫荼羅への書き込みは大本門寺(重須)塔中寂仙坊の重宝の意味を帯びており、それぞれの坊のある上野・重須の寺域はとも流布の暁には“大本門寺”となるのが興師の構想であったのではないかというのが私の観測です。これ以外の興師の宗祖御筆漫荼羅への“本門寺”の書き入れは特定の寺院を指すというより、“本門ノ寺”つまり、宗祖の法華本門を宗旨とする寺院の意で、むしろ被授者の有縁の寺院で重宝として格護せよとの意味だと愚考するものです。
262
:
天蓋真鏡
:2007/10/05(金) 16:54:18
れんさん、知識情報ありがとうございます。 末法が終わるまで、漫荼羅は仏像と法華経経典と共に掲げておくのでしょうか?少なくても聖人君子が出現するまでは教義の核になるのでしょうか。平和憲法を堅持する日本は漫荼羅と法華経経典が要らなくなる日が来るのでしょうか。
263
:
犀角独歩
:2007/10/06(土) 09:12:02
れんさん
「本門ノ寺」とのこと、なるほどと拝読しました。
かつて顕正居士さんが二箇相承の「富士山に本門寺の…」という読み下しは間違いで、「富士山本門寺」であるとご指摘なさったことがありました。
つまり、山号としての富士山であるということです。こうして、富士門下の山号寺号を見直すと、実在するわけでした。となれば、まず、富士山本門寺が成立し、その後、由緒伝来が紡がれる段階で二箇相承の如き文書が捏造されていったと考えると合点がいくことになります。
しかしながら、日興に、迹門の戒壇に対して、本門の戒壇という発想があったとすれば、その脈絡から、迹門の寺に対して、本門の寺という発想があることはむしろ自然ということになります。この意味でれんさんが仰ることは的を射ていると、賛同します。
では、この本門の寺が、やがて本門寺という寺号に宛てられるときがやってきたこととなるわけですが、この変遷は、日興自身の段階であったことなのか、〔是一〕
ここで「大本門寺」というとき、これは本門寺を形容する意図としての大いなる本門の寺という意味合いから、寺号としては本門寺であるけれど、その偉大さを形容したものだと見るほうが自然と感じます。大本門寺という寺号は、本迹といった教学的な発想からすると、少し不自然と感じるからです。本迹であれば、事理で、迹門寺→本門寺→事本門寺といった名称が相応しいように思えます。しかし、名称としてはあまり似つかわしくはないとは感じますが。
れんさんは、「大本門寺」は寺号であるというお考えですか。〔是二〕
もし、よろしければ、以上2点に就き、ご賢察をいただければ、有り難く存じます。
264
:
れん
:2007/10/06(土) 19:12:18
天蓋さん、宗祖は「智者とは世間の法より外に仏法を行はず。世間の治世の法を能々心へて候を智者とは申すなり」(減劫御書)とのべ、興師は原殿御返事にて「内外の才覚無くしては国も安からず法も立ち難しとこそ有りげに候」と述べていますから、ただ蓮師の教えを信じていればよいという訳ではなく、平たく言えば社会の有為な人材として成長していくことも大切と考えます。
犀角独歩さん
ご質問の件ですが、たしかに“本門の寺”が後世の重須において寺号“本門寺”に宛てられたわけですが、特定の寺号としての“本門寺”は興師の段階には遡れないと考えます。興師は石山在住の日目を指して「西坊主」(西坊主御返事)と呼び、日目自身も自筆の消息に「にしの房日目」(与民部殿書)と自署しているところから、興・目両師の在世当時の大石寺は「西の房」と呼びならわされていた可能性が高いですね。重須の場合は興師が自ら“おもす大坊”(小三郎殿御返事)と自署し、開目抄要文の奥書では「正和六年二月二十六日於御影堂」龍三問答記の奥書では「正和五年閏十月二十日駿河國富士上方重須談所ニシテ以再治本書写了 白蓮七十一才」とありますが、重須在住時代の確実な興師自筆文書を精査しても、残念ながら重須の堂宇の特に寺号としての“本門寺”は無い訳です。ですので、私はこの“本門の寺”が本門寺という寺号に宛てられる時がやってきた時期は興師自身の段階ではないと考えます。重須文献でも、日興在世における成立(とされる文献)には上野や重須の特定の寺の寺号としての“本門寺”は見えませんが暦応五年の「表白文」には“本門寺学頭日順”と見えますから、南北朝時代初期、上野・重須それぞれが独自に寺院経営をし始めるその胎動期には特に重須は寺号“本門寺”を名乗り始めたのではと愚考します〈是一答〉
次に、“大本門寺”が寺号か否かですが、以上のことから興師の時点で本門寺の寺号を用いた確実な例が存在しないので、私の愚考では寺号ではなく、流布の暁に上野重須の寺域に建立すべき堂宇全体の総称という感じで、むしろ概念的な意味合いが強いものと推測します〈是二答〉
以上、ご参考になれば幸いです。
265
:
犀角独歩
:2007/10/07(日) 08:51:00
れんさん
ご教示有り難うございます。
恐縮ながら、もう一点、質問させてください。
日興・日目在世当時、大石寺は「にしの房」と呼び慣わされていたとするとき、『日興跡条々事』の「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」という“大石寺”の成句は、どうでしょうか。真偽の問題も含めて、ご回答をいただければ有り難く存じます。
266
:
れん
:2007/10/07(日) 19:12:29
犀角独歩さん
大石寺の寺号の文献上の初見は日目師消息の“大石寺坊主事”(正本保田妙本寺蔵)の「一、伊賀房ハ武蔵房の謗法を申シ候処、彼ノ坊焼失する間、伊賀之所以とて武蔵房・伊賀房・性善共ニ追出候間、大石寺にハ人なく候」ですから、日目師在世には大石寺の寺号が存在したことは確実です。当消息が興師在世に書かれた可能性も高いと思われますので、上野の堂宇は先に記した興師筆・目師筆に見られる“西の房”とともに目師筆消息文に見える“大石寺”(おおいしのてら)と呼び言い慣われていたと推考します。
日興跡条々事については、未だ案文・正本ともに石山より公式に鮮明な写真が公開されていないので、真偽は何ともいえません。が、石山日時談“大石記”に「日代は数通の御譲状を持ちたりと云へども、既に迹門得道の上は争テか言ふに足るべけんや。其の上付法の旨は其ノ証拠をば上々の御事なり(中略)此ノ方にも上人の御筆を載せたるなり」とあり、この“此ノ方”(石山)の“上人の御筆”(つまり興師筆)とは現在の日興跡条々事をさす可能性が高いので、日時の時代には現在の正本案文または“原”日興跡条々事が成立していたことが分かります。これが、日行ないし日時の作成文書だとしても、その内容たる独自の日目師の位置付けは条々事の成立よりも先行する訳で、この日目師の位置付けがどの程度遡れるのか?興味深いものがあります。
取り敢えず、こんなところです。以上ご参考になれば幸いです。
267
:
犀角独歩
:2007/10/08(月) 21:51:45
れんさん、ご教示、有り難うございました。
大変に参考になりました。
268
:
しゅんかん
:2007/10/09(火) 13:40:35
石山に於いて、出征兵士へ石山云う処の本門戒壇の大御本尊の御守が在ったと
云うレスを拝見した様に記憶しておりますが
重須では鉄砲曼荼羅で在ったようです。
駿河國富士郡北山村
危難除鉄砲本尊御守
大本山 本門寺
富士山本門寺靈寶
鐵砲漫陀羅略縁記
日蓮聖人眞跡
此ノ鐵砲漫陀羅ハ徳川家康公武田勝頼ヲ征セントシ路駿河ヲ經北山邑ニ舘ス、時ニ本門寺住職日出公ニ竭ス、日出
歳八十八公其高齢ニシテ日出ノ佳字ナルヲ嘉ス以テ必勝ノ兆ナリトシ護身ノ守ヲ請フ日出乃チ漫陀羅ヲ呈ス
公之ヲ馬前ニ建ツ彈丸日蓮ノ花押中心ニ的中(本紙ニ顯然)シ以テ危難を逃ル、ヲ得タリ
實ニ天正十年三月廿八日ナリ仝年五月十日凱旋ノ砌リ公曰ク今般不思議ノ靈驗アッテ危難ヲ逃ル
是レ身代リナリト依テ永ク祈念アルベクトテ當寺に返附ス其報謝ハ所望スヘキノ命アリ依テ日出請フニ甞テ
武田ノ暴徒の爲メニ奪取セラレシ日蓮聖人眞筆百八十五品ノ穿鑿及用水ヲ請願ス公家臣ニ命シテ日蓮聖人眞跡
八十点取戻シ貳里餘ノ新堀ヲ開鑿シテ水路四十二石永代免除セラル今之ヲ本門寺堀ト稱シ數村此ノ水ヲ以テ
飲料及水田ニ供ス爾来名テ鐵砲漫陀羅ト尊稱ス 今般『日支事變ニ際シ皇軍出征将士武運長久』ノ祈念ヲナシ
并ニ軍人護身ノ御守トシテ此漫陀羅ヲ(三十六分ノ一)縮寫シ諸士ニ頒與スルモノナリ日蓮曰ク我カ魂を黒ニソメ
流シテ書テ候ソ信シサセ給ヘ佛ノ御意ハ法華經也日蓮カ魂ハ南妙法蓮華經ニ過キタルハナシ云々經文ニ曰ク
勇猛精進無有懈倦ト昔時外征ノ猛将加藤清正常ニ七字ノ名号ヲ唱フ曰ク我モ無事ナリ陣中モ亦無事ナリト諸士
復タ奮進シテ危難ヲ避クルコト疑ナキナリ 謹言
大日本帝國 静岡縣富士郡北山村
昭和十二年八月 大本山 富士山本門寺根源
(御本體謹寫) 本門寺根源印
269
:
犀角独歩
:2007/10/09(火) 21:52:14
しゅんかんさん
268は、何に書かれた文章でしょうか。出典を挙げていただけませんでしょうか。
270
:
しゅんかん
:2007/10/10(水) 10:17:04
独歩さん
お久しぶりです。
御守(危難除鉄砲本尊御守)そのものです。
駿河國富士郡北山村
危難除鉄砲本尊御守
大本山 本門寺
※追記、朱による鶴丸印
上記は御守の包み紙です。
富士山本門寺靈寶〜(御本體謹寫) 本門寺根源印までは鉄砲本尊御守の裏書き文です。
御守本尊は四つ折りされておりまして写し部寸法は、幅6.8Cm×丈14.5Cmです。
裏書き本文「(三十六分ノ一)縮寫シ」には当て嵌まっていません?
(御本尊集、幅46.4Cm×91.7Cm)
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
又、御本尊集より全体的に暗いです
表装の一文字部が写っておりますが亀甲に三つ葉葵紋らしき物が僅か見て
取れるます(現物を拝見した事がございませんから三つ葉葵は私の先入観に
拠るものかもしれません)
271
:
犀角独歩
:2007/10/10(水) 18:22:18
しゅんかんさん
有り難うございます。
参考になりました。
たぶん、コピペ・ミスだと思いますが、鉄砲漫荼羅は、以下です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/033.html
石山の彫刻本尊は小笠原慈聞氏が、これをなしたという話がありますが、三学無縁さんに拠れば、その現物に当たれず、ガサネタではないかということでした。
いっぽう、ご指摘の御守は、現物があるわけですか。なかなかすごいお話だと思いました。参考になりました。御礼申し上げます。
272
:
偶ロム偶ログ
:2007/10/10(水) 23:23:38
>独歩さん
ガサネタではなくガセネタです。
ガセネタは、信憑性の無いお騒がせネタ。
ガサネタ、これは、ごく一部で使われていますが、十羽一絡げのどうでもいいようなネタ。
273
:
しゅんかん
:2007/10/11(木) 01:33:25
独歩さん
ご指摘ありがとうございますコピペ・ミス致しました。
そうですか、どちらのレスを拝見したのか失念いたしましたがガセネタの可能性が
ある理由ですか。
>ご指摘の御守は、現物があるわけですか。
〇はい、私の手元にございます。
>なかなかすごいお話だと思いました。
〇宝の持ち腐れですね、裏書文は私もこちらの掲示板を拝見させていただき独歩さん
はじめ諸賢方々から御教示いただき知るところですが、私には字面のみしか読み取れ
ないのが現状です。
こちらのスレッドとは関係がございませんが「顕正会の実態を検証する」
の750〜757は私の知るところではございません。
274
:
ふうてん
:2007/10/23(火) 15:52:34
臨滅度時の本尊について教えてください。
この御本尊は弘安三年三月建立と聞いています。
立正安国会の御本尊集にも、そのようになっています。
ただ下のページを見ますと十月となっています。
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/11/374.html
どっちが正しいのでしょうか。よろしくお願いします。
275
:
れん
:2007/10/23(火) 16:17:09
ふうてんさん
臨滅度時の御本尊についてですが、ご紹介のHPの年記は誤りで、立正安国会の方の年記が正確なものです。立正大学の中尾先生の著書によると、本紙の裏には日朗上人の花押があるとのことで、当御本尊は日朗上人に授与されたもので、その大きさから、相当の大きさの堂宇に安置されることを想定して御図顕されたものと推考されます。取り急ぎご参考まで。
276
:
ふうてん
:2007/10/23(火) 19:51:13
れんさん どうもです。
そうですか、立正安国会の方が正しいのですね。
>当御本尊は日朗上人に授与されたもので
これは知りませんでした。なんか、十枚綴りで作成されているようですね。
五尺三寸三分となってました。人間の背丈くらいの大きさですね。スゴイ。
どうも、早急なお返事ありがとうございました。
277
:
犀角独歩
:2007/10/24(水) 07:45:58
れんさん
中尾堯師の監修で、妙本寺が発刊した『妙本寺文書』には仰るように「日朗菩薩之御筆ニテ御日号花押有之」とあるようですね。しかし、たとえば『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』から考えると、日興が加筆し仮に花押をなしたところで、その授与者を決めるのは、やはり本人の授与書ですね。
その意味で、いくら裏に「日朗花押」とあっても、授与者が日朗ということにはならないと思いますが、如何ですか。むしろ、なにがしかの経緯で日朗の所有になり、署名書き判をなしたと考えるほうが至当ではないでしょうか。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/mandara81uragaki.jpg
(直接、ジャンプしません。アドレバーにコピペしてください)
278
:
犀角独歩
:2007/10/24(水) 07:49:42
【277の補】
本人の授与書>日蓮の授与書き
279
:
れん
:2007/10/24(水) 17:39:21
中尾氏が蓮師の漫荼羅について書いた本(書名失念)ではそのように解説してましたので、何ら検討することなく、臨滅度時の裏に日朗花押とあることをもって、朗師授与と即断してしまいました。
としますと、安国会目録第17番の通称朗師加判の御本尊も臨滅度時と同様のことが言えそうですね。
御批正有難うございました。
280
:
犀角独歩
:2007/10/25(木) 03:34:37
れんさん
安17ですか。『御本尊集目録』に「加判ノ本尊安置ノ所ヲ本意ノ寺ト定候也」(P26)という日朗の『報曽谷殿書』の一文が現存するわけですね。
日付の応長元年は1311年、日蓮遷化からちょうど30年目に当たる年ですね。一如日重が『見聞愚案記』に「朗師ノ御筆ニテチイサク御判ヲ遊バシテ永仁元年十一月廿七日トアリ」(同)という永仁元年は1293年、遷化12年ということは、数えでいえば十三回忌に当たるということでしょうか。この年号はいまは見られないとのことですが、年忌をもってしたとすれば、証憑性を感じます。また、日朗の人柄も偲ばれる話ということになります。
仮にこの記述を信頼することにします。曽谷教信といえば、日蓮大壇越ですし、本弟子日朗がその人物に送った書状であれば、日朗の加判は門下において何ら批判されることではなかったと想像できますか。となれば首題直下の署名花押の原形といえることができることになるでしょうか。しかし仰るとおり、この漫荼羅が日朗授与であるという証拠はありませんね。意味するところは別にあると思えます。
日朗自身が漫荼羅は書いているわけで、それとは別に日蓮御筆大漫荼羅に署名花押をなしたうえ、その安置寺院を「本意ノ寺」とするということは、漫荼羅の用途がここで聖筆をもってすること、自ら書してすることの二様であったのを物語っているように思えます。本意寺とは、日興でいえば「奉懸本門寺」「重宝」といったところでしょうか。
興味が尽きないところです。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/017.html
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/nenkihyo.html
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/hujinennpyou/hujinennpyou2.htm
281
:
ふうてん
:2007/10/25(木) 08:47:43
臨滅度時本尊に記載の鬼子母神は鬼子神になってるようですが、
これは私の見間違えですか?それとも、鬼子神は鬼子母神の略なんでしょうか。
つまらん質問ですみません。
282
:
犀角独歩
:2007/10/25(木) 09:37:43
ふうてんさん
はじめまして、でしたか。
ご投稿のとおりで、中尾師は「御祖師様の書き間違え」と講義で聞いた覚えがあります。実際のところはどうでしょうかね。
283
:
ふうてん
:2007/10/25(木) 11:16:26
犀角独歩さん、お返事ありがとうございます。
なんと書き間違えですか。
こういう誤筆本尊って他にもあるのでしょうか?
お弟子さんも指摘しなかったのかな(^_^;)
あとから母の字を書き加えるってこともしないのですかね。
いや、これは冗談です。
ところで臨滅度時本尊は正宗では真跡と認めているのでしょうか?
なんか、この本尊に関しては物語的なものが多くて。
284
:
犀角独歩
:2007/10/25(木) 19:48:46
ふうてんさん
> こういう誤筆本尊って他にもあるのでしょうか?
まあ、これを誤筆といってよいかどうかはわかりませんが、わたしはこの点、余り意識しないできました。れんさんや、パンナコッタさんのほうが、よほど、お詳しいかと存じます。
なお、れんさんが挙げられた安17の備考に「四大士の位次が通例と異なる」(P25)と記し、さらに安26を挙げ「右方を『無辺行菩薩、上行菩薩』と次第したまい、全く通例と逆になっているが、妄りに凡慮を以て聖筆を忖度することは慎むべきであろう」(P26)と記しています。余談ながら、この大漫荼羅は日興『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に載ります。
> …臨滅度時本尊は正宗では真跡と認めているのでしょうか?
特にこの本尊を批判した文書はなかったように思います。ただし、この「臨滅度時」という点については、もちろん、異論は立てていたと思います。
わたしもこの点は、こちらの掲示板のどこかで記したと思います。
池上で、いよいよ最後を迎えんとするとき、身延に取りに行かせたといった物語ですね。この点から、少なくともいくつかの矛盾が浮かびます。
漫荼羅本尊が正意であるという考えからするなら、日蓮が身延を出発するとき、肝心の本尊を持たないで出たということなります。また、波木井日円から馬を借り、その馬上で既に日蓮は二度と身延に戻れないことを悟っていたという物語りながら、ならば、何故、その時点で臨滅度時と定めた本尊を持参していかなかったのかという疑問も生じます。
こうした点を、創価学会だったか、石山だったかが、どこかに書いていたかもしれません。自分で考えたこと思ってきたのですが、どうも記憶が曖昧です。いずれにしても、臨滅度時は、創作物語であろうと考えます。ただし、だからといって、この本尊の価値が下がるということではありません。
> なんか、この本尊に関しては物語的なものが多くて。
特に近代、取り沙汰された話から出来上がっていったことも多くあるわけですね。宗定本尊などというわけですが、そもそも「日蓮宗」という呼称自体、近代はじめられたわけです。尤もこの点も、たしかこちらでは記しましたが、この「日蓮宗」という熟語は、日眼、日順に係る文書で既に見られました。また、日寛、日量でも、その使用が見られました。案外言い出しは富士門下かも知れません。
まあ、立派な本尊ですから、これを重視するのはわかります。
余談ながら、先に独歩の会の夏季合宿で島田裕巳師に話してもらいましたが、日蓮への興味が固まったのは大日蓮展でこの本尊を見てからだと仰っていました。わたしもこの本尊は印象的です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51065460.html
http://www.nittsu.co.jp/supp/2003zenhan/nichiren/nichiren_1.htm
285
:
ふうてん
:2007/10/26(金) 11:30:19
犀角独歩さんへ
> なお、れんさんが挙げられた安 17 の備考に「四大士の位次が通例と異なる」
確認しました。たしかに逆になってますね。ところで、鬼子神などというのは、
よく御書に妙法華経とか略して書かれてあるのと同義なのかなと思った次第です。
> 池上で、いよいよ最後を迎えんとするとき、身延に取りに行かせたといった物語ですね
そうなんですか。すこし笑っちゃいました。失礼。
> 妄りに凡慮を以て聖筆を忖度することは慎むべきであろう
そうですね。私もこれ以上の詮索は慎みたいと思います。
286
:
パンナコッタ
:2007/10/26(金) 16:21:56
ふうてんさん、初めまして。
自分は詳しくはないのですが、"蓮祖聖人の覚知した世界観"という事であり
略したのか書き損じなのかは正直不明で、"その様な勧請"として
700年以上経っているのが現実ですね。
守護国家論や開目抄等にみられる"妙法華経"のニュアンスに、近いのかもしれませんね。
(ただ、法師品や見宝塔品等の経文引用は、そのまま)
また誤筆ではないのですが、四隅の四天玉勧請を方角的に捉えれば、
よっぽど奇妙ですね。(これに関しては独歩さんの秀逸な考察がブログにありました)
No,38・39・40のような例もありますから二天勧請が基本で、音写表記が方角、
通常表記が世界観 などと考えられもしますが、よく解らないのが実情ですね。
287
:
犀角独歩
:2007/10/26(金) 17:18:06
ふうてんさん
> 詮索は慎みたい
いえ、わたしが山中師の一言を引いたのは、日蓮を仏菩薩であるから間違いなどないと妄断妄信したり、また、「どうせ、人間だから間違いもある」といった短絡的な決め付けをせず、詳しく考証をし、事実を明らかにしていくことが大切であるという意味です。その意味で真摯な探求であれば大いにけっこうであろうかと存じます。
パンナコッタさん
いつもご高覧有り難く存じます。
ご紹介ついでに宣伝させていただきます。
【試論】四大天玉の図示の位置について
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50543409.html
288
:
ふうてん
:2007/10/27(土) 10:58:48
パンナコッタさん どうもです。
>また誤筆ではないのですが、四隅の四天玉勧請を方角的に捉えれば、
犀角独歩さんのページ読ませていただきました。なるほど、二次元に三次元を現出させるべく
大聖人が知恵をだされている模様がよくわかりました。<(_ _)>
289
:
約6年ぶりの投稿
:2007/11/02(金) 23:49:12
すいません。昔過ぎて、自分のハンドルネームも忘れてしいました。
>臨滅度時・・・「鬼子神」の間違い
これは、中尾さんが臨滅度時の真筆を前に語っていた場所に偶然居合わせましたので、
中尾さんが言っていたことは明確に覚えています。
「これはですね〜、日蓮さんも間違えることがあるということでしょうね。
その証拠が、南無妙法蓮華経の蓮の字のしんにょう部分です。
このしんにょうは『ピョン』と跳ね上がっているでしょう。
これはですね、全ての十界を書き終えて、仕上げの題目を書き始め、
蓮の字に差し掛かった時に、「鬼子神」が目に飛び込んできて、
『しまったあ!!!母の字を抜かしてしまったあああ!!』と言って、
思わず筆が跳ね上がってしまったんですよ」
と言っていました。しっかりと覚えていますよ。
あの臨滅度時の蓮の字のしんにょう部分には、妙本寺の伝説がありまして、
戦国時代、上杉家と佐竹一族の戦争に巻き込まれた妙本寺は大火災に遭って、
時の住職「日カン」(字を忘れました)が、
「臨滅度時の御本尊だけは守らなければ!!」と、山の上にある井戸に
隠したところ、たちまちのうちに大蛇が空高く舞い上がり雨雲を作って
大雨を降らし、大火災を消したという伝説で、「よかったよかった」と
臨滅度時本尊を取り出してみたら、しんにょうが「蛇の形」に変わって
いたという伝説です。
ですので、臨滅度時本尊は、別名「蛇形本尊」と言われているのでした。
こんなおとぎ話はどちらでもいいのですが、中尾さんの説明もどうかと思いました次第です。
>日朗と書いてある
あれは日蓮の字ではないと思います。
勝手な推測ですが、字が違います。
290
:
犀角独歩
:2007/11/04(日) 10:17:20
> 289
この語り口には記憶があります。たぶん、わたしもこの講義を聴いています。ご紹介の内容については触れていませんが、以下であったと思います。
中尾堯師『日蓮聖人「大曼荼羅本尊」について』 聴講
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25499393.html
>> 日朗と書いてある
> あれは日蓮の字ではない
それは、先に挙げた資料に
「日朗菩薩之御筆ニテ御日号花押有之」
とあり、日朗の字であるとしています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/277
291
:
ふうてん
:2007/11/04(日) 18:39:12
約6年ぶりの投稿さん
> これはですね、全ての十界を書き終えて、仕上げの題目を書き始め、
なるほど、本尊というのは先に題目を書くのかと思ってましたが、最後ですか。
知りませんでした。
292
:
ふうてん
:2007/11/04(日) 19:02:55
犀角独歩さん
> わたしがもっとも驚いたのは、蓮師の筆法の特徴を為す、文字の「髭」、も
> しくは「光明点」と称される画を長く伸ばし書いた部分は、あとから書き足
> したものであるという指摘だった。「南無妙法蓮華経」の文字は、長く伸ば
> された画まで、一挙に書かれたものであると思い込んでいたが、さにあらず、
> いったん、書き終えたあとで、書き足したものであるというのだ。
私も驚きです。マジですか。X線なんかで見るとよく分かるのですかね。
今度、じっくりと拝してみます。
293
:
犀角独歩
:2007/11/04(日) 23:04:27
ふうてんさん
髭の書き足しは、鮮明な御筆大漫荼羅の写真があれば、確認できますよ。
もう一点、わたしがびっくりしたのは、ボロン字花押の段階で顕著なことですが、かなり何回も書き足したり、なぞったりしていますよ。これは、たぶん、書き順を消すためなのか、あるいは形を整えるためなのか、わかりませんが、日蓮の漫荼羅の書き様は、実に自由闊達です。
以下は、そんな論攷のいったんです。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50864173.html
294
:
ふうてん
:2007/11/05(月) 10:53:02
犀角独歩さん
> 髭の書き足しは、鮮明な御筆大漫荼羅の写真があれば、確認できますよ。
さきほど確認しました。たしかに言われてよく見ると書き足したあとが見られますね。
> もう一点、わたしがびっくりしたのは、ボロン字花押の段階で顕著なことですが、
やはり花押はボロン字ですか。「妙」をくずしたものだとか「鑁」をくずしたものだとか、
色んな説がありましたけど。
あと、これも光明点でしょうか。日蓮の「日」文字と、題目の「法」文字にかかる点が、
2点の場合と1点の場合がありますね。大聖人の場合は時代とともに変遷するのは
分かるのですが、石山歴代猊下の場合にも、2点、1点、無点とあり、どういう決まりで
書写しているのかが分からないのですよ。
まさか気分次第ということはないと思うのですが。(^_^;)
この場合、蓮の字の辶の点はカウントしていません。
かにか情報をおもちでしょうか。
295
:
犀角独歩
:2007/11/05(月) 17:21:47
ふうてんさん
> やはり花押はボロン字ですか
この点、わたしもけっこう疑って、しつこく食い下がったのですが、いまのところ、後期は、まあ、ボロン字だろうと、“いまのところは”書いています。ただし、前期は「摩尼」であると考えています。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50832258.html
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50833446.html
石山住職の本尊に関しては、大縫さん、独学徒さん、れんさんほか諸賢のご教示を寧ろ、わたしもお聞きしたいと思います。
296
:
パンナコッタ
:2007/11/05(月) 20:48:36
横レス、失礼します。
墨の濃淡が、わりあい解りやすい本圀寺のの画像を再掲。
http://butuzou.com/honkokuji/original/picture/007.html
http://butuzou.com/honkokuji/original/picture/005.html
辶の``は、蓮祖の特徴の一つなのですが、どうなんでしょう。
参考として、本尊三度相伝
「日蓮の蓮のそばに点を打つ事則有想無想の二点なり、是れは字点を表するなり云云」
御本尊七箇相承
「日蓮の蓮の字に点を一つ打ち給ふ事は天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間・亦た一点を
打ち給ひて後の玉ひけるは・予が法門に墨子を一つ申し出す可きものなり、
さてこそ天目とはつけたれと云云」
なんてのがありますね。
池上のNo.102が、千部会の時に公開されると思いますので、
実際に間近でご覧になった方が良いのではないでしょうか。
蛇足ですが常連さん達、見学オフの時みんな拝んじゃっていましたよ。
そのくらい、圧倒的な迫力がありました。
297
:
ふうてん
:2007/11/08(木) 18:24:03
バンナコッタさん
> 墨の濃淡が、わりあい解りやすい本圀寺のの画像を再掲。
鮮明ですね。かなり保存状態がいいみたいですね。
ところで、石山歴代で、法の字に2点打ってる猊下はご存じですか?
下の蓮の字の辶をいれると3点となります。
よろしくお願いします。
298
:
パンナコッタ
:2007/11/09(金) 13:23:25
ふうてんさん、いくつか独学徒さんの談義所にあったような(定かではありませんが)。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html
やはり大縫さん、れんさん、独学徒さん などの諸賢の書き込みを待った方が良いみたいですね。
299
:
ふうてん
:2007/11/10(土) 18:43:03
パンナコッタさん
> いくつか独学徒さんの談義所にあったような(定かではありませんが)。
そちらをあたってみます。ありがとうございます。
300
:
ふうてん
:2007/11/10(土) 18:45:12
日目上人の御本尊について教えてください。
http://kissho.xii.jp/1/src/1jyou19256.jpg
上記の御本尊の書写年月日が、うまく読み取れません。
元○三年十月十三日?
正確な年月日をご存じの方、よろしくお願いします。
あと、授与者も分かりましたらお願いします。
301
:
れん
:2007/11/10(土) 18:47:14
一応、奉蔵於奥法寶にて確認しました。
開山興師は、首題の蓮の点は二個ですが、最晩年は省略されている印象があります。日蓮の蓮の点はほぼ一貫して二個です。三祖目師の御本尊は正中三年卯月日の御筆は首題と日蓮の蓮字の点は一個。正慶二年二月彼岸の御筆は首題の蓮字は一点、日蓮の蓮字は二点。元弘三年十月十三日の御筆は首題の蓮字・日蓮の蓮字はともに二点でした。道・行二師も首題・日蓮の蓮字ともに二点。時師は至徳四年七月のものは首題の蓮字は二点、日蓮の蓮字は三点。応永九年以降のものは首題・日蓮の蓮字はともに三点です。影師は首題・日蓮の蓮字はともに二点、日有も二点です。
このように俯瞰してみますと、案外、石山上代においても、時の住持により違いがあり、蓮の点について、厳格な伝承みたいなものはなかったようですね。
302
:
ふうてん
:2007/11/10(土) 19:02:47
すみません、うまく表示されませんね。
http://kissho.xii.jp/1/
上記の掲示板の 1jyou19256.jpg です。
よろしくお願いします。
303
:
れん
:2007/11/11(日) 20:55:24
ふうてんさん、はじめまして。
お尋ねの目師御筆御本尊についてですが、御提示の脇書の年月日から元弘三年(1333)十月十三日「日目弟子大学民部阿闍梨日盛授之」の漫荼羅と思います。
取り急ぎですが、ご参考まで。
304
:
ふうてん
:2007/11/12(月) 10:16:49
れんさん はじめまして。
色々調べてくださりありがとうございます。
おや、3点のもあるんですね。
> このように俯瞰してみますと、案外、石山上代においても、時の住持により
> 違いがあり、蓮の点について、厳格な伝承みたいなものはなかったようですね。
取り決めのようなものがあるのかと推察していたのですが、どうも猊下の自在
のようですね。
> お尋ねの目師御筆御本尊についてですが、御提示の脇書の年月日から元弘三
> 年(1333)十月十三日「日目弟子大学民部阿闍梨日盛授之」の漫荼羅と
> 思います。
こちらも情報ありがとうございました。<(_ _)>
305
:
鳥辺野
:2008/01/08(火) 19:07:17
本日、久々に京都要法寺へ行ってまいりました。
しゅんかんさん
お久しぶりです。
以前(どのスレッドか忘れてしまいましたが、)本堂の御影尊像後方の板曼荼羅について、本日お寺の方にお聞きしました。板曼荼羅は日興師の曼荼羅を板にしたものとのことでした。また客殿の板曼荼羅も別の日興師の曼荼羅とのことです。尚ベースになった曼荼羅の書写年月日は調べないとわからないとのことでした。以上ご返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
306
:
しゅんかん
:2008/01/11(金) 17:35:19
鳥辺野さん
お久しぶりです。
覚えていて下さったんですね、有難う御座います。
そうですか、要山に於ける興師への想いが窺えますね。
>以前(どのスレッドか忘れてしまいましたが、)
〇身延相承書と池上相承書について、のNo173で御座いました。
私は昨年は6月の上旬と12月の上旬に訪れました。
6月には、お名前は存じ上げておりませんが、何時もお聞きする御僧侶さんに「御歴代墓?・・・」
とお訊ねした処、実報寺とお教え戴き行って参りましたが、鳥辺野さんのHNの由来地だったんですね。
自由に近くまで参られないのが残念でした。
12月は時間の余裕が無くじ寺務所へ顔出しが出来ませんでしたが鳥辺野さんの参拝とは
約1月ほど間が在りますね、鐘楼工事は進んでいた事でしょうね。
完成は4月でしたか?私の場合、全く何も無く基礎を掘っておられました(寂しい)
完成が楽しみですね(^^)
307
:
鳥辺野
:2008/01/11(金) 21:57:50
しゅんかんさん
お久しぶりです。
>身延相承書と池上相承書について、のNo173で御座いました。
そうでしたか・・。見つけられませんでした。申し訳ありませんでした。
鐘楼ですが、三月末日竣工予定で、お披露目の法要は、五月八日とのことです。
私も瓦一枚寄進してまいりました。
308
:
しゅんかん
:2008/01/12(土) 00:41:36
鳥辺野さん
5月8日は木曜日ですね(残念)
>私も瓦一枚寄進してまいりました。
〇あっ!されましたか、それは良かったですね。
総門側に白テントを張り寄進者の芳名を記された瓦を拝見しました。
以前、末寺に於いて修復を募る振込票を戴いてましたが出さずじまいでした、
本山でそれを見て自ら名を書き込めるのかも、と思い懐をさぐったのですが
恥ずかしいことに余り持ち合わせていず引き上げたしだいです。
309
:
鳥辺野
:2008/01/12(土) 01:43:27
しゅんかんさん
>5月8日は木曜日ですね(残念)
この日は日尊師の開山会の日ですので、これにあわせるそうなんです。日祝なら沢山の人が訪れるかもしれませんね。
310
:
彰往考来
:2008/04/15(火) 13:31:16
掛け軸売れない男性を恐喝未遂 4人逮捕<4/14 13:00>
10億円で掛け軸を販売するよう持ちかけ、販売できなかった男性から現金を脅し取ろうとしたとして、警視庁は元暴力団組員の男ら4人を逮捕した。
恐喝未遂の疑いで逮捕されたのは、元暴力団組員・芳賀初美容疑者(60)ら4人。調べによると、芳賀容疑者らは去年10月、会社役員の男性に仏教の世界を表現した「曼陀羅(まんだら)」の写真を見せ、「これは日蓮が描いた本物だ。10億円で売りたい」などと、購入者を見つけるよう依頼した。しかし、男性が見つけられなかったため、「ぶっ殺すぞ。わびろ。300万円払え」などと、現金を脅し取ろうとした疑いが持たれている。
調べに対し、芳賀容疑者らは「曼陀羅に手を出さなければ良かった」などと話している。
http://www.news24.jp/107235.html
http://news.tbs.co.jp/20080414/newseye/print3827930.html
311
:
天蓋真鏡
:2008/05/14(水) 22:13:55
蓮祖・大小様々な漫荼羅・法華一乗道場結界、門下・日蓮教学の共通認識項
312
:
れん
:2008/05/19(月) 11:37:39
大弐日寛の抜書雑雑集によりますと「一、正中山建治二年本尊日興御筆祖師御判」とあり、中山法華経寺に伝日興代筆の建治二年の漫荼羅が存在していたことを記しております。
身延曽存の伝四条金吾氏代筆のものの如く、それなりに信憑性があるものか、または仙台仏眼寺の飛び漫荼羅の如く偽作であるかはわかりませんが、江戸中期の中山法華経寺にこのような漫荼羅があったようです。当漫荼羅は当初から中山にあったというよりも、保田か重須から流失したものが中山に流れついたものかもしれません。
なお、中山の宗祖筆大漫荼羅類は明治時代に盗難に遭って紛失しており当漫荼羅も曽存の可能性がありますが、この中山の伝日興代筆漫荼羅の写本ないし相貌その他の情報をご存じの方はご教示ください。
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