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創価学会法華講正信会顕正会妙観講等はカルトっぽいか

61いちりん:2002/10/04(金) 10:10
独歩さん

>聖人が言ったからといって正しいとは限らないでしょう。先ず、この点は頭を柔軟にするべきだと進言しておきます。

至極、当然なことですけど、わたしなど、こんなあたりまえのことが、わかるまで、えらく年月がかかりましたですね。

>正しい生き方、正しい考え方ということでしょう。その正しさを妙法蓮華経というわけですね。妙法蓮華経が正しいのではない、正しいことを妙法蓮華経(正法)というのでしょう。この違いが非常に重要なのです。

ここは、とても重要だと思いますね。

『法華経』とは、『法華経』という経典のことではなくて、いわば宇宙の真理である。その宇宙の真理について書かれたのが『法華経』という経典だと思います。

それは、『法華経』を読めばわかります。『法華経』を説くのに、六十小劫もかかったとか(序品)二十千万億も偈がある(常不軽菩薩品)とか、書かれています。たんなるクマラジーヴァが翻訳してできたところの「妙法蓮華経」という経典のことだけではないということがわかります。

その宇宙の法則というものは、「すべての人が尊い」「すべての人が等しく価値がある」「すべての人が幸せになれる」というようなことだと思っています。ここのところを、端的にあらわしたのが、不軽菩薩の実践なのでしょう。

「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以はいかん、汝等皆菩薩の道を行じて、 当に作仏することを得べし」ということばです。

わたしは、あなたを敬います。どんな人でも、どんな立場の人でも、どんな思想や信条を持った人でも、差別することなく、等しく敬うわけです。そして、等しく、みんなが幸せになれる。そこには差別はないというわけです。

だから、「自分たちだけが正しい」「自分たちだけに価値がある」「自分たちだけが幸せになれる」という考えは、『法華経』に反しているわけですよね。

「自分たちと違う信仰をする人は、間違い」「自分たちと違う信仰をする人は、価値がない」「「自分たちと違う信仰をする人は、幸せになれない」
そういう考えは、『法華経』に反しているわけです。わたしは、そう思っています。

だから、「自分たちだけが正しい」として頑張って、信仰をしない人、他の信仰をする人を、憎悪したり悪口を言ったり軽蔑したりする、そういう心が、不幸を生んでいくともいえましょうか。

62いちりん:2002/10/04(金) 10:34

わたしは「功徳」とか「罰」とかって、なかなか一概には、いえないなあと思っています。

病気が治ること、大学に受かること、出世すること、家が建つことが、功徳であり幸せなのかなあと。
病気になること、死ぬこと、大学に落ちること、会社をクビになること、家が火事になること、それが罰であり不幸なのかなあと。

このあたりは、現象面で見たら、わたしたちの眼で見たら、それはわからないですよね。

病気になって、なおらなくても、そのまま幸せな人もいるし、健康になって不幸になることもあるし。大教団の会長になって、何千万人も信者がいて生き仏のように尊敬され、全世界から勲章や名誉をもらい、毎日、自分のことを誉める機関紙が何百万部も発行されていても、その人の人相やことばとか見てたら、ちっとも幸せそうじゃないなあと思ったり。

まあ、日蓮さんなどは、現象面で言えば、罰であり不幸ですよね。
生涯、流浪の身ですね。さだった住まいはない。そして、いつも貧しくて不自由している。
最後は、長期の下痢になって、いつもお腹が痛くて、いつもぴーぴーしている。常陸の湯で養生しようとして旅をしたら、辿り着けなくて、途中で死んでしまう。
そして、弟子たちは互いに反目して、分裂してしまう。

さらに、何百年後には、自分を信仰する大教団ができたけれども、みんな自分を本仏だとか勝手に崇めてしまったり、勝手に板曼荼羅などをこしらえて拝んだりして、本意を理解しない。そして、おなじ信仰をする人たちが、毎日のように、いがみあい罵り合い、憎しみあっている。
こうしたことをみれば、日蓮さんて人は、すごく不幸な人だといえるわけです。

まあ、いえることは、日蓮さんが幸福であったか、不幸であったか、それは本人にしかわからない。わたしたちには、わからない。

63犀角独歩:2002/10/04(金) 10:50

いちりんさんが書いてくださると、すっかり柔らかく、わかりやすくなります。さすがです(笑)

法華経というのは、こんなに「正しい法があるのだ」ということを記した“本”ですね。この法、つまり教え(教法)とは、実は一念三千なんかではなく、菩薩道ということですよね。菩薩の生き方を教えたのが法華経ですね。

おっしゃるとおり、それは不軽菩薩に端的に表現されています。私は不軽菩薩品が神力品の直前に置かれているのには大きな意義があると思うのです。不軽菩薩品で菩薩の在り方を語り、そして、神力品では、それを伝える重要さを嘆じるという順番が、です。

菩薩は自分たちが正しいとか、あなたは間違っているなんていうことは言わないわけです。ただ、堪え忍び、そして、相手を尊重することを実践するばかりですね。

渡部照宏さんだったと思いますが、法華経という経典そのものを神秘化して、崇拝の対象にするのは、ちょうど、薬の効能書きを読んで、薬そのものを飲まないようなものだと喩えていたと思います。まあ、そんな呪術性を促す側面が、では法華経の物語にないかといえば、ないとは言い切れませんが。だから、善い面をとって悪い面を捨てる知的作業はどうしても必要になるのだと思います。

> 62

この日蓮の実像分析も、ほんとにもっともであると思います。

64いちりん:2002/10/04(金) 10:52

だから、現象面をとらえて、それが功徳だとか、罰だとか、幸福だとか、不幸ということは、いえない。それは、わたしたちには、わからないことだとおもいます。

わたしたちは、人をみて「裁こうとする心」「価値があるとかないかと判断する心」が、出てきます。
「それみたことか」「だから、あの人はああなんだ」「ああやっぱりね」と言いたくなります。言わなくても、心に思いますね。

とくに、正しい信仰などという思いが強いと、あれやこれに対して、いろいろ文句を付けたくなってきます。なにしろ、自分が正しいから、自分たちは正しいから、間違っている人たちは許せないわけです。

そういう心が、こんどは、自分に対しても、裁きを行うわけですよね。
わたしはだめだ、わたしは足りない、わたしはいけない、と。

それで、「あるがまま」の自分ではいられなくて、いつも何かにせかされて、落ち着きがなくて、イライラしてしまう。そういうことが、まあ幸福とはいえないですよね。いるがままに、くつろげないのだから。

ある意味で、自分が正しいという思いを抱いたら、人生は、なかなかうまくいかないんじゃないかなあと思いますね。とくに「自分たちしか正しいものはない」「自分たちしか救われない」「この信仰でしか救われない」という思いを抱くと、それは、まったくうまくいかない。

だって、世の中は、自分が正しいと思うように、他の人も、自分が正しいと思っているわけだから。

自分は、これを正しいと思っているけど、だも他の人は、そうじゃないかもしれない。人それぞれで、いいんだなあ。
だからいちいち他を見て、間違っているとか、違うとかいって、怒って心を不穏にするよりも、人のことは構わないで、自分は自分の心を磨いていけばいい。自分が成長すれば、それでいんだから。
まずは、そういうことが、大きな前提だと思いますよね。

他人の過失をいちいちみるな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見なさい。大切なことは、心を浄めることだよ。そのように、お釈迦さまは言いました。

65犀角独歩:2002/10/04(金) 10:53

自己レスです。

> 薬の効能書きを読んで、薬そのものを飲まないようなものだと喩えていた

これはちょっと違いました。効能書きそのものに力があると、効能書きを拝むようなものだと喩えたのでした。要するに日蓮の漫荼羅信仰を揶揄したわけでしょうね。

66ガンコ:2002/10/04(金) 19:26
独歩さん、いちりんさん、どうも。
お二人とも大変リベラルでいらっしゃると思います。大石寺信徒は日蓮大聖人を
御本仏と仰ぐのですから、なかなか間違っているとは思わないですし、内心では
思っても口には出さないものです。
おそらく多くの大石寺信徒がこの掲示板を見ていて、あなた方の発言に注目して
いるのではないでしょうか。わたくしがその一人でした。小心者だから半年も前
からじっと息をひそめて見ていました。
大石寺の御法門は絶対である。と教わりましたし、少なくとも日蓮宗諸派の中で
は一番優れていると思っていましたので、いずれは誰かが独歩さんを倒すのでは
ないかとひそかに期待していたのですが、どうもそうはならないようです。
おそらく大多数の人々は、あなた方を謗法者と決めつけ親近しないようにしてい
るのでしょう。わたくしにはそうは思えません。むしろ自由な発想、柔軟な思考
に魅力を感じています。今しばらくお付き合い願いたく思います。

顕正会では大聖人の御金言として罰を重視していますが、独歩さんは軽視?して
いるということでしょうか。わたくしはまがりなりにも浅井に師事していますゆえ
浅井を支持したいという、無意識ではありますがそういう心理が働いているかも
しれないとは思います。ですが熱原の法難は門下最大の法難であり、大聖人の御
指示に従って日興上人は奔走されたと言います。その日興上人がのちに平左衛門
の一族滅亡を御覧になって罰と断定されたのではありませんか。これは相当なこ
とと思います。

むろん、独歩さんは罰を否定なさっているわけではありませんでした。
そうではなくて罰に怯えるわたくしの精神状態をご心配くださって、自己分析を
勧めてくだされたのだと思います。
これはなかなか難しいことです。しばらく考えさせて下さい。

廿七年に他意はありません。
出世の本懐と言って置きながら偽物では済まないではないかという、前の書き込み
の意味を含むだけです。
わたくしにそんな難しい法門を論じられるわけがないでしょう。

67犀角独歩:2002/10/04(金) 21:53

ガンコさん:

> いずれは誰かが独歩さんを倒す

心待ちにしておりますよ、そんな日を(笑)

> 熱原の法難は門下最大の法難

浄土門からすれば、念仏を謗じた罰と見られるでしょう。
しかし、こんなやり取りはナンセンスですね。

そもそも、苟もガンコさん日蓮の信徒というのであれば、罰即功徳という言葉はご存じのはずです。また、釈に「因謗堕悪必因得益」とある如くです。

> 平左衛門の一族滅亡を御覧になって罰…

これはたしかにそうでしょう。しかし興師はここで罰が当たって「ざまあ見ろ」と思ったのでしょうか。僧となることは菩薩戒を受けると言うことです。四弘誓願にの「衆生無辺誓願度」の衆生に平左衛門の一族は入らないのでしょうか。
『法蓮抄』に「然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おへざりしかば仏にならせ給はず」とあります。一切衆生に平左衛門の一族は入らないでしょうか。

罰は功徳の始まりあり、衆生済度の基ではないでしょうか。
罰をここまで考えず、罪人の処罰、恐怖の操作に利用するばかりである浅はかさを私は嘆くのです。

> 罰に怯えるわたくしの精神状態をご心配くださって、自己分析を勧めてくだされたのだと思います。これはなかなか難しいことです。しばらく考えさせて下さい。

私の考える罰の意義は以上の如く、自己分析に充て、お考えいただければと思います。

> わたくしにそんな難しい法門を論じられるわけがないでしょう。

これは奇妙なことを仰いますね。顕正会員は地涌菩薩の自覚、あるいは流類としての誉れはないのですか。先にも挙げた四弘誓願に「法門無尽誓願智」とあります。
真跡なくば、私はよくは引きませんが、顕正会なら引くでしょう『諸法実相抄』に

行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず

とあります。『開目抄』には

智者に我が義やぶられずば用ひじとなり

ともあります。
私に異論を述べるのであればよろしく教学を研鑽されるべきでしょう。

ただし、これは瞋って申し上げることではありません。
未来の竜象、精進を期待します。

68ガンコ:2002/10/06(日) 11:53
独歩さんへ。

慈悲、これがすべての大前提なのでしょう。罰を言いつのるあまり、かえって大事
なことを忘れてはいまいか、というご指摘かとおもいます。
はからずもスレッドテーマにふさわしい内容になってきた気がします。そのように
独歩さんが仕向けているのでしょうけど。

顕正会の強引な折伏が不評を買っていることは、内部の人間として大いに反省しな
ければならないと思います。
折伏において罰を言うのは大聖人の御意に適うことですが、その根底に慈悲がなけ
れば単なる悪口になってしまう。顕正会には慈悲の精神が欠落しているのかもしれ
ません。

しかし、これは浅井の意図するところではないし、浅井の本意でもないと思いま
す。わたくし達が先生の意にお応えできていないというのが本当のところです。
正直に言いまして誓願=ノルマに追われるあまり、折伏が雑になっている、正しい
折伏が行われていない、折伏の質が低下(悪化)している、と言えるでしょう。
指導者の責任ではないかと問われれば答えに窮しますが、今はまだ先生を責める気持ちは
ありません。
まだまだ魔法が解けていませんでしょう。こんなところです。

恐怖心がどのように植込まれるかの実体験ですが、どうも記憶があいまいです。
顕正会は洗脳教育などしていないと思います。あるいは洗脳というのは知らず知らず
のうちになされるものでしょうから、気がついていないだけかもしれませんが。

地涌の菩薩はたくさんいますから教学のできない人もいっぱいいるでしょう。
もちろん研鑽いたします。

ところで未来の竜象ってなんですか?

69犀角独歩:2002/10/06(日) 12:32

ガンコさん、こんにちは。

顕正会の折伏は折伏なんて言う代物じゃないですよ(笑)
この点については、以前も自分の体験を記したことがあります。
いまは、過去ロムから消えてしまったようなので控えから転載します。

*****
私が20代の時に創価学会の成果主義に嫌気がさして、石山末寺に、当時、私が尊敬していた僧侶を訪ねました。そのとき、どうしても折伏をしたい友人がいました。

「私はちゃんとした折伏をしたいのです。どうすればよいでしょうか」
「では、いま折伏をしようと思っている人と毎日、お寺の勤行にいらっしゃい。そして、1年経って、それでその人が信仰をしたいと言ったら御受戒を受けさせない」

私は、この言いつけを守り、1年間、雨の日も風の日もお寺に通いました。拒食症、極度の神経障害と闘っているときです。

1年後、本人の意志で御受戒を受けました。しかし、これでは折伏1人と言いません。
「家族の人は信心に同意しましたか。同意させることができたら、御本尊を下付しましょう」

そして、家族の承諾が取れて、御本尊下付、そして、この1人が次の折伏を成就したとき、ようやく、「折伏ができましたね」と言われるのです。
これが当時、石山が法華講に指導していた折伏の有様です。
*****

これは伝統的な石山の言う折伏ですから、顕正会がまだ妙信講と言っていたときは護られていたことでしょうね。浅井さんは、そんな律儀なところがありますからね。

> 地涌の菩薩はたくさんいますから教学のできない人もいっぱいいるでしょう

ガンコさんの文章は、最後でちくりと反論をして終えるという文章の成り立ちですね。
いないでしょうね、そんな人は菩薩とは言いませんから(笑)

竜象とは、今風に言えば、未来、人・社会の役に立つことになる人物を褒めて、期待して言う言い方ですよ。

70やーこ。:2002/10/07(月) 03:10
また横レス失礼しますが、過去にこのスレが出来る前に、うちの会社の人がトンデモ勧誘をした実態をかきこみしましたが、そのおまけです。
その人ではないのですが、私が別の同じエリアの人二人に聞いたのですが、やはり同じ会の違う会員に過去にやられたと聞きました。

改めて、その会のメンバーのすさまじさを感じました。

71菊水護国:2002/10/07(月) 23:14
私も折伏は数を競わす事では無いと思いますね。
私の知ってる方は10年折伏と言うのをしました。
すなわち、10年間、御講等につき合わせ、自分の家に来たときは勤行もつき合わせました。
その間、質問にも答えて、教学研鑽をしましたが、それでも自ら入信したいと言うまで待ちました。
そして、10年経った今年、自ら「御授戒を受けさせてくれ」と云って来たので入信させました。

また、我が寺院は簡単には御授戒を受けさせません。
住職面接で「不退転を確認して」御授戒を受けさせます。
心定まらない方は、寺院参詣は構いませんが、入信はさせません。
新しい寺院では難しいかな・・・。

72やーこ。:2002/10/08(火) 10:03
その通りですよね。みなさん。しゃくぶくはやはり、数を競わせることではありませんですよね。
私の会社他に(現在在籍のみ)被害をくわせた会のメンバーの行動はやはり、しゃくぶく「ノルマ」から来たのではないでしょうか。
かつての学会は数多くをしゃくぶくしましたが、たいてん者も多く、御ジュカイ後タクシーから御本尊をぽいっ! というのを聞いたことがあります。
ノルマ中心の信仰、考えただけでもぞーっとします。

73妙薬:2002/10/08(火) 10:38
 菊水護国さんのお寺は「特別」だと思います。現実には「簡単」に御授戒を受け
させています。「新しい寺院では難しい」という面もありますが、古い寺院でも難
しいですね。
 折伏は慈悲の発露ということが前提ですから、本来は「10年折伏」の精神が大事
だと思います。しかし、法華講連合会という組織(と僧侶の一部)が、結果として
「ノルマ」的なものを煽っているのも事実です。
 私も幾つかの寺院を知っていますが、数を競わせない(表面的な私の認識かも)
ところはありませんでした。
 「仏法は勝負」と言って、会員に折伏の数を競わせた創価学会と似てきたのが心
配です。私の杞憂なら良いのですが。菊水さんの寺院がうらやましい。

74ガンコ:2002/10/08(火) 16:23
皆さんこんにちは。
独歩さんこんにちは。いつもすぐにお返事を下さるので恐縮しています。

日曜日の晩にこんなことがありました。・・・その日は自家用車で遠くまで出かけた
のですが出先で車を盗まれてしまったのです。たいへん動揺し、右往左往している時
ふと思ったのです。これは罰だ、罰にちがいない。御本尊様を疑ったり、顕正会の
恥をさらすようなことを書いたからだ。大変なことをしてしまった。どうしよう。
・・・という夢をみたのです。

過去レスを見ていると、当掲示板でも顕正会員と思しき人が護法の論陣を、もちろん
顕正会の立場でのものですが、ともかく堂々たる論陣を張っているのです。
それに比して、わたくしは一体なにをやっているのだろう、顕正会のなかまに隠れて
こんなことをやっていていいのだろうか、もう掲示板を見ることも書き込むことも
止めたほうがいいのではないか。

このような葛藤が夢に反映したのでしょうか。

あるいは大聖人さまが警告を発して下さったのでは、とも考えたりしています。この
ままいくと大変なことになるよ、夢じゃ済まなくなるよ、と。

自分ではわかっていませんが「罰」の指導=洗脳?が効いているのかもしれません。

次回は逆のことを書く予定です。つまり護法の論陣(もどき)です。

75sunya:2002/10/09(水) 02:06

 ここのところすこし古い資料を整理していて、若かりし頃のわたしが書き散らしたメモ
が出てきました。昭和五十六年一月二十日の日付になっており、今から二十一年前のわた
しの幼い思考が記されています。
 わたし自身のちょっとした、「タイムカプセル」の感がしました。

 阿部師登座の二年後であり、わたしが組織の役職を辞して四年後の時期でした。これだ
け年月が経つと、ある意味もう他人のようなものでしょうか、ひとつのサンプルとしてこ
こに紹介してみましょう。

 「 国家諌暁を目前として、一講員の信仰態度の反省・総括、そして可能ならば今後の
展望 」と、< タイトル >を附しています。

 以下、箇条書きで...

 ◆ 教学という枠をはみ出して、教学の前提・暗黙の了解事項を明るみに出し、
  反省してみる。たとえば、絶対性、宗教批判等。
 ◆ 理論的・観念的な記述ではなく、現実の生活に基礎づける。
 ◆ 教学はひっきょう、自宗自派の正当性・絶対性を主張する論理。はたして
  教学は可能か。
 ◆ 何故、宗教を信ずるか、あるいは信じないか。
 ◆ 宗教と国家権力は、いかなる関係となるべきか。
 ◆ 折伏中心の組織の陥る欠陥は..。組織(信仰)のあり方。
 ◆ 仏法・信仰中心の人生と、世俗の人生の兼ね合い。

 うむむ、こうしてみるとなかなか他人事ではない、かもしれない。(^^;

 わたしの思考の方向性は、所詮こうした枠組みを出ていないかと、自ら反省するところで
した。了解し・解決し得たこともあれば、今だに引きずっている部分もあり...。
 
 ほんのお目汚し、お粗末さまでした。m(..)m

76やーこ。:2002/10/09(水) 06:42
sunyaさんへ
私はその記録と同じ21歳なので、立派な事はいえませんが(笑)、決して幼くはないと思いますよ。
過去の思考を振り返り、今考えてみると、組織の何処がおかしいか、とか見えてくるのではないか、組織の中と外の違いとか、何かの鍵になると思います。
私はつい、一年前迄はある支部の女子部として何も疑う事なく、ただ先輩についてきて、しゃくぶくやら行事などの啓蒙に集中していました。何故活動をやめたかといいますと、その先輩他の言動がおかしいのに気付いたからです。
今振り返ると、実はその相手の事を全く考えてなかった、と

77やーこ。:2002/10/09(水) 06:50
(続き)相手の家族の絆や、気持を破壊していたのにも気付かずに。
しかも、自称しゃくぶくとやらも、よく考えてみれば、あの会と変わらぬ勧誘だった、と。
そこから自分の組織が何となくカルトっぽいのに気付きました。
菊水護国さんみたいに、きちんとしたしゃくぶくしたいな、と思いました。

78妙薬:2002/10/09(水) 08:53
 ガンコさん初めまして
 自動車盗難の夢の話しを見て、ガンコさんは正直で真面目な考え方の人だなぁ
と感じ入りました。確かに、潜在的な罪(罰)の意識が見させた夢だと思います。
 ガンコさんに限らず、私にも同様な体験は何度もありました。ただ、私の立場
(石山派)からは、顕正会の「罰の指導=洗脳」教学?には疑問を持ちました。そ
こまでガンコさんを悩ます信仰とは何なのか、ということです。
 たまにしかネットを見れませんので、的外れな意見でしたらお詫びします。ガン
コさんの態度には好感を持ちましたので、今後も登場してくださいね。

79犀角独歩:2002/10/09(水) 10:29

ガンコさん:

護法ですか(笑)
私も「見壊法者」の観点から「護法」の為に、ここで書いているんですよ。

ガンコさんと私が違うのは、ガンコさんが護っている法は寛師から始まって戸田さんがまとめた現代石山教学を受け継ぐ浅井さんが言うことを何と法であると思っていること、私が護ろうとしているのはシャキャムニに始まって日蓮に至るところを(教)法としていることです。


さて、どちらが正解でしょう?という問いかけをしてきているわけです。わかりますかね。いまガンコさんが信じて罰を当てると思っているものが本当に日蓮聖人が説いたそのものであるか、自分の責任として、ちゃんと確認する作業は人に話す責任を果たすために是非とも必要な作業でしょう。「顕正会が言っていることは正しい」を信じて、その確認作業をしない無責任は、あとになって必ず自分に返ってきます。

なお、ガンコさんが見た夢は心理的な分析からすれば、PTSDを構成しかけているように思えます。危険な状態ですね。なんで、正しい信仰をしているのにこのような心的危険な状態にご自身が追い込まれているかを考えてみてください。しかし、ヒントです。これは「信仰」とか、「正しい」とかをキーワードにした瞬間、導き出される答えは100%間違いとなります。

80犀角独歩:2002/10/09(水) 10:33

75 sunyaさん:

さすがに元より問題意識は高かったのだ、と拝見しました。
「教学の前提・暗黙の了解事項を明るみに出し、反省してみる」という視点をお持ちの方であったと最初から存じ上げていれば、もう少し近距離の会話が出来たものを思いました。

81ガンコ:2002/10/09(水) 13:25
皆さんこんにちは。

sunyaさんの別のスレッドでのご論考をたいへん興味深く拝見しています。ですが、
このところやや浅井先生の著作に寄りかかり過ぎのように思えます。いや、すみません、
生意気でした。これからの展開をたのしみにしています。

やーこ。さん、こんにちは。遠慮せずに顕正会と仰っていいと思います。浅井は、
日蓮正宗の一講中にすぎなかった顕正会がいまや日本国のなかの顕正会になってき
た・・・というのです。「あの会」とか「〇〇会」というのはかえって変な気がし
ます。もちろんあなたの自由ですが。

妙薬さん、どうも。実は意識的に文体を変えて書いているのです。顕正会のなかま
にバレないようにです。ですから「正直・真面目」はウソかもしれませんよ。ただし
夢の話はほんとうです。いま顕正会教学の問題点について真剣に考えています。

独歩さんは、相変わらず挑発的でいらっしゃいますね。
わたくしの中で葛藤があるのです。顕正会の正しさをどのように伝えていくか、この
ことを真剣に考えている自分と同時に、上記のように顕正会の問題点をえぐり出そう
としている自分がいるのです。ところが独歩さんはふところが深いというか、二段構
え三段構えの陣立てでいらっしゃる。端折って書けば、顕正会がまちがっているのは
大石寺の法門に原因があり、大石寺教学に問題があるのは日寛上人に由来すると。そ
してその先もちゃんと用意していらっしゃる。勉強するのがたいへんです。

82菊水護国:2002/10/09(水) 14:00
ガンコさん、初めまして。
私は独歩さんとは、違いまして「シャキャムニに始まって日蓮に至るところを(教)法」とはせず、
「大聖人がシャキャムニの仏法を洗濯し、神道と融合し、寛師が体系化した、時代に併せて変貌可能な和国の法」を法としています。

なお、元顕正会ですから、浅井流仏法の問題点も存じております。
今後とも、よろしくお願いします。

83犀角独歩:2002/10/09(水) 20:02

ガンコさん:

> 相変わらず挑発的

そう感じるのは、ガンコさんの心の置き所に拠るかもしれませんよ(笑)
全然、そんなつもりはありません。

84犀角独歩:2002/10/09(水) 20:05

菊水護国さん:

おっと、こちらは本当に挑発的ですね。

> 時代に併せて変貌可能

ということは比叡山が途中から真言を入れたように、石山も時代相応で、これから南無阿弥陀仏もありと言ってもよいわけですか(笑)

まあ、冗談ですが、しかし、変貌可能とはそんなことも視野にはいることになりますね。

85ワラシナ:2002/10/09(水) 21:14
no71 菊水護国 さん こんばんわ。

「10年折伏」に思う事。

>私も折伏は数を競わす事では無いと思いますね。
>その間、質問にも答えて、教学研鑽をしましたが、それでも自ら入信したいと言うまで待ちました。
>そして、10年経った今年、自ら「御授戒を受けさせてくれ」と云って来たので入信させました。

0、信じられない。同じ正宗教団にこんな世界が有ったなんて!。自分もこんな寺院で青春を過ごしたかった。そうなっていたらここまで駄目な人生にはなっていなかった筈だ。やっと正宗信仰に光明を見出した思いである。

1ー0、それと上の現実は法華経典の原意に添っている、と思う。久保継成氏によれば、法華経原文では「バクティbhakti(信愛、ときに狂信)」より、「シュラッダーsraddhaa (信・信頼)」の方が多く使われているという。だが手元のサンスクリットHP辞典の信解品の信解の原語を確かめれば「アディムクティ(信解)」adhimukti 了達||| 信解||| 勝解」とあったが。

1ー1、久保夫妻によれば、シュラッダーは心が強固なバクティに発展する前段階の心理で「興味と関心をその対象に向けはじめる?(*ちょっと御夫妻の表現を忘れてしまった)」と意訳できるものを含んでいるとのことである。

86やーこ。:2002/10/09(水) 21:40
ガンコさんはじめまして。
こちらは現役会員に叩かれている、両親が元会員の者です。
いろいろ知りたいのでよろしくお願い致します。
ところでガンコさんは、平成に近い時期に入会された方でしょうか、それとも草創期に入会された方でしょうか。
また、今の若者のしゃくぶくについてどのようにお考えでしょうか、ぜひお聞かせください。

87ワラシナ:2002/10/09(水) 23:32
no75 sunya さん こんばんわ。
*「一顕正会員の二十一年前(s56/1)のメモ」

0、色々な意義を持つ大変貴重な記録だと思いました。それを以下述べてみます。

1、私には七項目のどれもが、その問題意識が顕正会組織の欠点への気づきから来ていると思えて、表立っての批判にはなっていないものの一種の体制批判、組織批判の消極的表現とも読める事でした。

2、s56/1は自分が妙信講入講二年目のころ。その組織に少々おかしい点があるのは感じていましたが、黙って没入することしか考えていなかった。その頃の私の心境と比較してsunya さんの早熟ぶりを感じます。元々性格的にクールだから当然ともいえますが。

3、思想遍歴、心境遍歴という点でもっとも注目されるのは、このメモの4年前の役職降板に至るまでに高ぶって行った思想信条の意味するものでしょう。それが何かはまだ明らかにされていませんから、私はあれこれ想像せざるを得ないのです。あのs’52年4月「法廷闘争大勝利の報に接した」大半の講員が、妙信講の正しさ、佛勅ここに下るの重いで感激に震え、大確信に立った、、、という中にあって、どういうわけか一人sunyaさんだけは、その心の中では、かって熱かったものが急速に消えかかって行った瞬間だった、というのですからね。いくら天の邪鬼とはいえ驚かざるを得ません。何故なんだろう、と。

3−1、恐らく入信(s’40?)以来の独自の思索、理想、思い、期待などが或る一つのまとまった形を採って姿を顕わし始め一つのピークをなしたのがs’52年頃の心境だったのではないだろうか。恐らく、それが、もはやこの組織では無理だ、と打ち砕かれた思いを味わったからではないだろうか、、、と、役職降板に至った心境を想像しているのです。

3−2、何故というに、普通入ったばかりの大半の講員の心理には共通のものがあり、個々人はそれぞれが浅井先生に対して勝手な期待を抱いてしまって「今度こそはこの講に対する自分のひそやかな願い理想をかなえてくれるに違いない、違いない、今度こそ、会体質の不合理面に善処してくださるに違いない、今度こそ、今日こそはその発表があるに違いない、、、。」と思って、毎回毎回の総幹部会に登壇される浅井講頭指導を拝聴するのが常でしたからね。またお話ぶりから拝される御人格にはいかにもそういう甘い期待を抱かせるようなものが感じられましたから。ところが何年待てども待てども、一講員の抱く理想像に近づけようとする気配が感じられない、逆に講の現実はその自分の理想から遠ざかって行く一方、、とその頃からお感じになられたのではあるまいか、と想像しているのです。(外れていたらご容赦願います。)

4、だけど、当時は周囲で組織信仰を疑うような人は微塵もいないような環境だった筈。その言論抑圧的な雰囲気の中にあって体制批判的思考を書き残す事自体、背信行為をあえてするときのような恐れおののきを伴うものであったろう事は容易に察せられました。でしたがこの作業は決して徒労とはならなかったと考えます。理想的な教団教学構築への前向きな土台となる思索がこのメモあたりから始まったのだろうと思うからです。

5、このメモ項目を見ると大半に「動詞、述語」が入っている。ここにも頭がしっかりしてらっしゃる事、早熟な事、思索が堅実なことが分かります。思想は名詞と述語で決まります。私のメモなんか「名詞の羅列」で終わって適切な動詞を探し損ねて思想として完結してないメモが多いのと比較してそう思います。

6、最後に、話題は飛びますが、このように自分の考えたことをメモに残しておく習慣は、常時ものを考えながら生きている人には特に大事な作業のようです。

88犀角独歩:2002/10/09(水) 23:42

85 ワラシナさん:

ここまで、法華経を原典から、細かい単語まで精査して読まれながら、いまだに戒壇之曼荼羅が日蓮の出世の本懐で、おまけに生きた日蓮、お肉牙も本物、現石山の体制になんら疑問も懐かないことには驚きを禁じ得ません。(粗飯・慶讃弁当の話はけっこうです)

ぜひとも、どこでそのように考えを整理することがが可能なのか、ご解説いただきたくお願い申し上げます。

89sunya:2002/10/10(木) 01:28
 > 81 ガンコさん、sunya です。

>> sunyaさんの別のスレッドでのご論考をたいへん興味深く拝見しています。

 ご覧いただき、有り難うございます。わたしは昭和四十四年から四十九年にかけて、講
中の「御遺命守護」のご奉公に於いてささやかながらその驥尾に付し得た者ですが、その
ことは今も誇りとし・喜びとし・幸せとするものです。
 言葉をかえれば、“いまだに引きずっている”ということ、になりますが。(^^;

>> このところやや浅井先生の著作に寄りかかり過ぎのように思えます。

 わたしがここで・こうして発言を続ける意図は、富士門徒にあって「正本堂の意義」の
変遷の<経緯>を事実に即してふり返ることはあってもよいことではないか、と思う故で
した。
 昭和五十二年以降の「諸問題」は、ネット上でも各方面で語られていることでしたが、
それ以前に於ける「正本堂の意義」の変遷については、詳細に言及されることがほとんど
なかったのではないだろうか..、と。

 そうした思いから、また当時のことを全く知らない世代の方もこのサイトには多いこと
ではないかと思われたことから、いささかしつこい言及であることは重々・承知の上で、
こうして「大石寺宗門と創価学会の戒壇論の変遷」について、述べ続けていることであり
ました。
 つまり・この言及は、今日の“顕正会”というひとつのセクトへの<護法>という小さ
な料簡などではなく、「富士門徒」という“共通基盤”を背景に“共通理解”を目指して
いるしていることだ、とガンコさんご了解いただければ、わたしとして幸いです。

 その上で、たとえば昭和四十五年四月二十二日の「臨時時局懇談会」にしてもそうです
が、その当事者たる創価学会・辻武寿総務室長をはじめとして、当時の宗門・創価学会の
代表幹部たちは、ありありとその<現場>に遭遇し目撃してたこと(はず)でした。
 しかし今日に至るまで、その事態に言及するのは浅井会長のみ。他の人々はただ黙すの
みにして、あえて浅井会長のその言及を<否定>する言辞とても、またないことでした。

 さて、歴史の<事実>とはなにか..というのは、プロパーの歴史学者たちにとっても相
当な「難題」なのであって、それはあくまで現在・現時点における「過去」への措定され
た“事実”と云うのほかはなく、将来においてそれが塗り替え・書き換えられることがあ
り得ることが、必然的にそこには孕まれているのでした。
 わたしはそうしたことを承知した上で、こうした「歴史的現場」に立ち会った人たちが
今は黙して語らないことを、いずれは(マインドコントロールが溶けて)表明する刻が来
ることだろう..そう思っているのです。

 そしていま、彼らがその立場上語れない「正本堂の意義」の変遷の<経緯>を、いま事
実に即して語っているのは、当事者たちの内にあってただ浅井会長一人であることではな
いだろうか..と。
 少なくともその<事実>や<経緯>において浅井会長は、「偽り」や「二言」を云う必
要がないのであって、自らが経験し立ち会ったその<事実>を“事実”として語っている
ことなのであろう。わたしはそう判断・了解をして、自らの発言の“責任”において今回
の<言及>を重ねていること、でありました。

 「正本堂の意義」の変遷の<経緯>を述べるに際して、顕正会の肩入れをする意図はわ
たしにないことでしたが、そうした変遷の<経緯>を語る資料において、宗門・創価学会・
正信会の関係諸氏にあっては、一連の<事実>において沈黙・隠蔽することがおそらくは
当面の利益・自己保身につながるのでありましょう。
 よって、現時点では「正本堂の意義」の変遷の<経緯>に言及する資料は顕正会サイド
の資料しかないこと、またその顕正会が述べる資料の詳細・事実関係をあえて疑う余地が
わたしにないこと、そうした事由からご指摘のように「浅井先生の著作に寄りかかり過ぎ」
に、わたしとして当面、依らざるを得ない現状があるのでした。

 これは幅広く資料の収集にこれ努めるわたしとしても、残念ながら選択の余地のない事
態であって、以てガンコさんへのささやかな“弁明”といたします。(^^;

90sunya:2002/10/10(木) 03:13
 > 87 ワラシナさん、sunya です。

>> 0、色々な意義を持つ大変貴重な記録だと思いました。それを以下述べてみます。

 <純粋・捨て身>、わたしなどでもそうした「行体」を少しは残していた時代の「戯れ
書き」でありました。過分なお言葉、畏れ入ります。

>> どういうわけか一人sunyaさんだけは、その心の中では、かって熱かったものが急速に消えかかって行った瞬間だった、というのですからね。いくら天の邪鬼とはいえ驚かざるを得ません。

 「この<法廷闘争>において必ず池田会長の邪義を打ち砕き、以て宗門に御遺命の正義
を回復・宣揚する」(取意)ことだったと、かつてわたしはたしかに浅井本部長の言葉を
「この耳」で聞きもし・記憶し・信頼していたことでした。
 しかるにこれは、いかなる“事態”なのか。「約束せし事」とは異なる、表面的な言い
訳に終始していることではないか。その幹部会の<現場>においてわたしの心は、周囲の
熱狂に反して<冷え>かえったことは、今に思い起こされます。いまこうしてワラシナさ
んにその当事の事態を指摘されてみれば、たしかにそのとうりだったかと、あらためて思
うところでした。(^^;

>> 逆に講の現実はその自分の理想から遠ざかって行く一方、、とその頃からお感じになられたのではあるまいか、と想像しているのです。(外れていたらご容赦願います)

 いまさらながら、ワラシナさんのご指摘の通り、と云うの他はありません。

>> 当時は周囲で組織信仰を疑うような人は微塵もいないような環境だった筈。その言論抑圧的な雰囲気の中にあって体制批判的思考を書き残す事自体、背信行為をあえてするときのような恐れおののきを伴うものであったろう事は容易に察せられました。

 またしても、ワラシナさんのご指摘の通り、でありました。そのように言い当てられる
ことこそ、それはまたワラシナさんご自身が、自らそうした<経験>を経られたからこそ
のゆえ、なのかもしれませんですね。
 わたしは、家庭や教師や親族や周囲の人々や友人に対しても、いつも「いい子」である
ことを、何故か自らに課し・演じて来たことでした。そして妙信講に縁したときも、そこ
においてもどこまでも「いい子」であり続けたいと、自ら思っていたのでしょう。

 しかし、まさに「言論抑圧装置」としての<組織>にあって、どこまでも「いい子」で
あり続けることには、「いい子」であり続けたいとの思いが強いほどに、自ずと「限界」
を来たすこと(現実)があるのでした。
 さて、そこでいろいろな<選択肢>があることでしょうが、わたしは「背信行為をあえ
てするときのような恐れおののき」を自ら抱きつつ・そしてそれをかろうじて抑えながら、
だったのかもしれません、その思いを「昇華」すべくたぶん、あらぬことを<思い>書き
綴ったことだったのでしょう。

>> このように自分の考えたことをメモに残しておく習慣は、常時ものを考えながら生きている人には特に大事な作業のようです

 うむむ、わたしはおそらく「自己への執着」がかなり強い、のかもしれません。そのと
きどきにおいて、つまらない「メモ」をなにやら残しているのですが、さしたる進歩・進
展がないことはただ、自らの暗愚を恥じ入るばかりです。

91ガンコ:2002/10/10(木) 08:12
菊水護国さん
顕正会は嫌われ者ですから、わたくしが現役会員であると名乗れば、さぞ攻撃的なレスが集中するだろうと思っていました。ところが案に相違して好意的なものが多いので驚いています。
過去レスをかなり読み込んでいますので、あなたが元会員であることも、今もわりと好意的に見て下さっていることも存じています。
今後ともよろしくお願いいたします。
それにしても右翼の大物にして直信徒とは、まったくすごいですね。

92犀角独歩:2002/10/10(木) 10:56

顕正会って嫌われ者なんですか。どうして嫌われているんでしょうかね。

94妙薬:2002/10/10(木) 14:29
 顕正会というと「国立戒壇論」が直ぐにイメージされ、民主主義とは
異質な全体主義=右翼的傾向の宗教団体ととらえています。
 それと顕正会青年部が石山系寺院を訪れ、高圧的(熱心?)な広宣活
動を展開しているのを何度も目撃しました。
 顕正会に言わせれば、敵対する妙観講などの活動に対し、厳しい批判を
すると思いますが、(不勉強な私個人としては、短絡的に)そんな理由か
ら嫌いなのです。

95ガンコ:2002/10/10(木) 15:01
やーこ。さん
わたくし自身については詳しくお話しすることができません。お許し下さい。ただし、sunyaさんとはだいぶ世代に隔たりがあるようです。
その他の問題については出来るかぎりお答えしたいと思います。
今日は時間がないので失礼します。  

96ガンコ:2002/10/11(金) 09:12
sunyaさんへ。

弁明だなんておっしゃられたら、わたくしはなんと申し開きしたら良いのでしょう。
わざわざ貴重な時間を充ててご説明下さいましてありがとうございました。

今の顕正会員は御遺命守護の時代を知らないのです。
ですから浅井先生の本を読んではじめて知るわけですが、正直に言えば,話を美化し
過ぎているのではないか、という感想もなくはないのです。
ネットを活用している者であれば多かれ少なかれ,先生とは逆の立場の者がどう言って
いるのか、気になって調べるものと思います。そうしてわたくしもこの掲示板にたど
り着いたのですが、ともかくsunyaさんのおっしゃるとおり,先生に対する正面からの
反論はほとんど見当たらないようです。
浅井先生の戦いは本当だったのだ,先生は凄い方なのだ、という想いを強くした次第
です。

97犀角独歩:2002/10/11(金) 15:23

> 96

sunyaさんほどの人が浅井さん翼賛のために文章を書いた、としか読めませんかね。
あ、これは挑発ではありませんよ。

私はsunyaさんは冷静だし、個人礼賛なんてことに留まるような人じゃないと思いますよ。ある面、これでは投稿に対する過小評価と言うことになってしまいますね。意義はそんなところにあるのではないでしょうね。

98三学無縁:2002/10/11(金) 18:04
横レス失礼します。
カルトっぽいのは、現今の大石寺・日蓮正宗なのではないでしょうか。
だから、そこから派生した創価学会・法華講・顕正会など、カルトっぽくても仕方ありませんね。
小野寺本尊小集団とか玉井本尊ミニ集団になると、これは論議の対象にすらなりませんね。

99三学無縁:2002/10/11(金) 19:40
明治からこっちの日蓮正宗の教義の柱は国立戒壇だったと思います。
それは昭和戦後もそうでした。
正本堂建立後も達師は、本山の教師指導会かなにかで凡そ次のように述べています。
「国立戒壇ということばを使わないとはいったが、内容に変わりはない」
これは昭和47か48年くらいだったと思いますが、大日蓮にも掲載されていました。
それがいつのまにか、ことばを使わないのではなく、意味を使わない、に摩り替わったわけです。
摩り替えた責任は時の法主にあります。
つまり、正本堂を「現時における事の戒壇」であるという教義の改変は、少なくとも明治以降の正宗教義への背反です。
日蓮正宗公称以降、国立戒壇以外の戒壇論はなかったわけで、国立戒壇を否定することは異流義となります。
達師は、時の法主として、近代の歴代による国立戒壇論を否定すればよかっただけなのに、それをしませんでした。
明治以前にどのような事壇建立思想があったかは、また別の問題です。
日蓮正宗公称以降の正宗大石寺にあっては国立戒壇論だけが正論だったのです。
したがって顕正会は正宗の正統的戒壇論を述べているといえます。
顕正会がカルトだというならば、それは正宗がカルトであったということにほかなりません。
まあ、現今の正宗大石寺はカルトだとは思いますが。
この問題はカルト論ではなく、セクト=チャーチ論で考えたほうがよいかもしれませんが、それは独歩さんにおまかせしたいと思います。

101三学無縁:2002/10/11(金) 20:01
菊水護国さん

>いやいや「現時における事の戒壇」なら問題はありません。
>「広宣流布の暁の戒壇」とは一言もいってませんよ。

>「・・・大本尊即ち「爾実不滅度常住此説法」で主題の妙法が法で日蓮御判が人で人法一箇であり
>御本尊まします処が義の戒壇(事の戒壇と言うべきも論議上今は道本が義と唱えるのである)・・・」
>(弘安二年大曼陀羅と日興師・松本道本著)
>以上のように、本来は「御本尊まします処」が事の戒壇ですから、達師の説法に問題があったとは思えません。

でも、この考え方は、一致派の理壇論、即是道場論ですよね。
正宗大石寺が国立戒壇論を主張していたときには、他の日蓮系のそのような戒壇論を、真っ向から否定破折していました。
理壇論、即是道場論は不相伝の輩のたわごとである、と。
またまた正宗大石寺の矛盾がでてきちゃいましたね。

102犀角独歩:2002/10/11(金) 20:10

100 菊水護国さん:

これはちょっと無理があるでしょう。

第一、「現時における」というのは「今の段階ではそうで、将来は変わる」という未来の変更を示唆しています。それに対して、「広宣流布の暁」というのは未来完了でしょう。

現時は、いまは事壇で未来は違う。
暁は、いまは違うが未来は事壇。

この差は歴然としています。だいたいもって、「現時における事の戒壇」てなんですか。現時における事の戒壇ならば、その段階で事の戒壇でしょう。ところがそうじゃないという、こういう屁理屈を「詭弁」というのです。達師が学会と妙信講に挟まれた結果、苦し紛れに上げた悲鳴でしょう。

> 「御本尊まします処」が事の戒壇

これは寛師教学の二重性を敢えて無視して弁明に使っていますね。菊水護国さんらしからないですよ。

寛師の教学で、そりゃ戒壇之漫荼羅があるところを事の戒壇という、それはしかし、他の義の戒壇に対した場合です。この場合、本門戒壇義は含みません。戒壇未だならず、です。しかし、広宣流布の暁・本門寺改称後に建つ事壇は、このような相対論ではない。本門戒壇の意義を含んだ、事の戒壇です。即ち三大秘法総在の事の戒壇でしょう。

前者と後者、同じ事の戒壇であっても意味は違う。こんなこと、寛師教学の基礎じゃないですか。達師をかばう気持ちはわかりますが、こんな子供だましを言ってはいけませんよ。

「現時における事の戒壇」を認める寛師教学など、存在しません。
こういう言い逃れを達師がした恥ずかしさは反省して訂正することが潔いのです。
時の猊下であろうと間違うことはあります。

103犀角独歩:2002/10/11(金) 20:15

99 三学無縁さん:

> カルト論ではなく、セクト=チャーチ論で考えたほうがよいかもしれません

これは宿題として、少し考えさせてください。

104三学無縁:2002/10/11(金) 20:17
103 犀角独歩さん

はい、こちらもいただいた宿題は溜まりっぱなしですので。

105犀角独歩:2002/10/11(金) 21:33

102の自己レス

戒壇について、日蓮は述べずに終わった、と私は思っています。

日蓮滅後、そのために戒壇を考える教学的動向は起きていったのでしょう。
その中で戒壇については理壇(漫荼羅安置の所が戒壇)、それに対して、事檀(戒壇堂の建立)を言うようになったわけですね。事檀で言う戒壇とは建造物としての堂宇を言うわけですね。

ところが寛師の言う理壇・事檀は、ここに戒壇之大曼荼羅を戒壇堂本尊に据えた理論構成になるので、それまで理・事では説明しきれないことになったわけです。これが義戒壇・事戒壇ですね。

理・事でいう事戒壇、義事でいう事戒壇は意味が違うわけです。ですから、他日蓮門下で言われる事檀に、もう一重(義・事)事檀を言っているわけです。


理・事戒壇と義・事戒壇、なんだかややこしくて、どこが違うのだと言いたくなります。
簡単に言えば、理・事の事檀は堂宇の建造を、義・事の事檀では漫荼羅を問題にしているわけです。

だから、漫荼羅を中心に義・事を言えば、戒壇之漫荼羅が事で他は義で、本尊安置のところが戒壇(理壇)、しかし、戒壇堂建造まで含めれば、国主帰依・戒壇之漫荼羅安置という条件を満たして戒壇(事檀)と事檀の事檀を言っているのが寛師なんではないでしょうか。

もちろん、これは戒壇之漫荼羅絶対論の立場の話で、この寛師説が正しいなんて、話ではありません。けれど、この寛師戒壇論から言うとき、正本堂とまで銘打って堂宇を作って、その中に戒壇之漫荼羅を入れた上で、「現時における事の戒壇」なんて詭弁を弄するべきではないと言うのが、私が書いたことです。正“本堂”の建立でやったことは、既に事檀の事檀の条件を満たしてしまったわけです。もちろん、実際は「国主帰依」の条件を満たされていません。けれど、この意義の改変までやってしまったんだから、もう言い訳は聞かないでしょう。

まだ、「本門寺に改称していないから」なんて言い訳は立たないわけです。本門寺に改称していないのであれば、本堂は建てちゃいけないし、「××の事の戒壇」なんて言ってはいけないと言うのが、石山の伝統であったからですよ。

しかし、誤解がないように記しておきますが、こんな石山で言われきた戒壇論は、もともと北山が二箇相承をもって言ってきたことであって、石山とは実際は関係のないことであったと言うことです。

…ややこしいですね、まったく。

107ガンコ:2002/10/11(金) 23:20
独歩さんへ。

やや言い訳めいたことを書きますが、あれは純粋な顕正会員の感想です。
それ以前にどなたかsunyaさんの批判をされてましたでしょう。浅井の本の丸写しだ
みたいな・・・。わたくしは浅井の本を熟読してますので、微妙な違いは感じ取って
いたつもりです。けれども昭和45年以降の記述は同じにしか読めなかったものです
から、そう申し上げたまでです。それに対するsunyaさんのご説明は実にすばらしい
ものでした。

108犀角独歩:2002/10/11(金) 23:38

ガンコさん:

私は浅井さんの熱情は好きですよ。それはたしかにここ過去50年ぐらいしか通じない石山義であったとしても。しかし、実際は日蓮の教えはもっと深い、仏法は更に深いんですね。国立戒壇云々なんてそんな浅薄なことはどうでもいいほどです。戒壇が建ったって、なんにも変わらないわけです。たかが建物です。建物が建って、世の中が変わるのであれば苦労は要りません。それなのに浅井さんは息張っていますね(笑)そんなおまじないみたいなことをsunyaさんが書くはずはないんですよ。あれだけ、通仏教に通じられているわけですからね。

この点をsunyaさんは熟知されている。ガンコさんは「浅井さんすばらしい」範囲でsunyaさんを見ているかも知れませんが、sunyaさんが言いたいことは、そんなちんけなことではないんですよ。

はっきり言って、私は顕正会は嫌いです。でも、sunyaさんの見識は高く評価します。だから、おままごとみたいないま顕正会で言われている日蓮教学“みたいなもの”でsuunyaさんの言っていることをわかった気になると、大事な部分の多くは見えずに終わってしまいますよと私は言いたかったわけです。

私たちはガンコさんが知らない、まあ、文章に書くと訴えられたり、命に関わるようなことを、本当にたくさん知っているのです。そんな現実の上で、訴えられない、命に及ばない範囲で書いているだけです。

しかし、もっと現実は甚だ深いのですよ。そんな現実にそろそろガンコさんも気付いてほしいと思います。

109ガンコ:2002/10/12(土) 11:10
独歩さん

仰られていることは理解しているつもりです。「なにもわかっちゃいない」と言わ
れればそれまでですが・・・。

池田会長は「戒壇建立は形式に過ぎない」と言っていると思いますが、あれは確か
39年だったのではないでしょうか。考えてみると変な話です。数年後には仏教三
千年史上空前の偉業だなんて言うのですから。
浅井は、形式だとか記念碑だとか従の従といった池田会長の発言をみて、なんて信心
のない男なのだろうと思ったのでしょう。
そして戒壇建立の重大意義がまったくわかっていないと。
ですからのちに学会側の思惑を見抜き、欺瞞であるとして弾じたのでしょう。

独歩さんもまた戒壇建立は重要でないと仰る、そして浅井の情熱は認めるが教学は
認めないと仰る、それに早く気付けと仰る、・・・どのようにお返事申し上げて良いか
わかりません。

浅井は好きだが顕正会は嫌い? わたくしのような無知蒙昧な顕正会員をお嫌いなの
でしょう。
じゅうぶん命に関わること仰ってますわよ(笑)。

110:2002/10/13(日) 00:15

しばらく、ごぶさたしていました。ですから、話の流れが、わかっていませんが……、

「命にかかわる」ですか。恐ろしい宗教ですね。本心から言ってます。
この掲示板の皆さんは、私が知らない、命にかかわるスゴい裏を、知っていらっしゃるのでしょう。
私は石山系を見ていて、「こりゃ、ヘタなことを言うと、命にかかわるな」と思うことが時々あります。

命にかかわるような恐ろしいを宗教を、よく、広宣流布だなんて、人に勧められるもんだ、と思います。

111犀角独歩:2002/10/13(日) 10:42

109 ガンコさん:

ちょっと、誤解があるようですが、私は戒壇建立を重要なことと思っていません。
建物が建っても何も変わらないことを知っているからです。

それと石山で言われてきた戒壇建立は天皇が帰依をして建てる建立なのであって、学会がいう民衆立、顕正会の言う国会決議は、逸脱したものであるというのが言ってきたことです。

しかも、浅井さんの言うことは、まるで学会2代の戸田さんが言うこととほとんど同じで、40年前のリバイバルで退屈だと言ってきたわけです。

また、浅井教学はほとんど戸田教学と変わらない。しかし、その戸田教学は日蓮の祖意から懸け離れたものであることを、ずっと書いてきたつもりです。

それと浅井さんが好きなのではなくて、その熱情には好感が持てないこともないという意味です。

なお、「無知蒙昧の顕正会員」を嫌いなどと言うことではありません。
ガンコさんをそのようにも思っていません。
けれど、無知蒙昧は間違った結論しか見出せないし、自分で考えることを放棄すれば、そのツケは必ず払わなければならないときが来ます。たとえば、私のようにです。
また、各会の会員は、ガンコさんは私にどんな印象を懐くかは別として、私も敬愛する日蓮を仰ぐ意味で、同じ仲間であると思っているわけです。そこには憎しみも悪感情もありません。ただ、私が言っているのは「それは日蓮が言っていたことと違う」、この1点だけです。

「坊主にくければ袈裟まで憎い」式に自分たちに反対するものは、人格まで攻撃してしまうように躾る団体に所属すると、この点は見えないかもしれません。間違った(と自分たちが考える)相手は、正しい(と自分たちが考える)自分たちを憎んだり、嫌ったりしていると思うことは、その会から刷り込まれた固定観念に過ぎません。

私はそんな「刷り込み地獄」から生還した数少ない生き残り組なのです。

112犀角独歩:2002/10/13(日) 11:15

私は鈍いので、あさんの書き込みを読むまで、ぴんと来なかったのですが、要するにガンコさんは、私の「命に及ぶ」と脅しているわけ。それはそれは(笑)

113ガンコ:2002/10/13(日) 14:12
独歩さん

数々のご無礼をお許しください。つたない知識でわかったような口を利きましたこと、
深く反省いたします。

わたくしは御遺命守護の戦いを実地には知りませんし、はじめは本を読んでもピンと
きませんでした。ところが創価学会から顕正会に入ってくる方たちはものすごく感銘
をうけるみたいです。特に年配の人がそうなのです。
独歩さんの書き込みを読んでいて思ったのですが、学会では戸田門下生と言うでしょう、
もしかしたら真の戸田門下生とは池田氏ではなく浅井なのではないか、すでにそういう
指摘をなさる方もいらしたような記憶があります。

戒壇に関しては異論があります。国会の議決というのは「勅宣・御教書」のうちの御教書
に約して言うのであって、勅宣を否定する意図はありません。それどころか浅井は、
必要欠くべからざる手続きと言っています。もちろん歴代上人に国会の議決をもって
戒壇建立の条件とする御説法はないでしょう。ですが、勅宣も必要なし国会の議決も
必要なしとする学会の民衆立と顕正会の国立戒壇を同一徹のように仰るのは納得でき
ません。
さらに申し上げます。(これは菊水護国さんにもお伺いしたいですが)浅井は守護付属
の上から日本には「本有の王法」とも言うべきものがあると言います。これが歴代上人
の御説法に基づくものかどうか今のわたくしにはわかりませんが、いずれにしても
国主帰依=天皇帰依を念頭においていることは間違いないと思います。

114犀角独歩:2002/10/13(日) 19:01

113 ガンコさん:

> 学会の民衆立と顕正会の国立戒壇を同一徹

いや、そうではなくて、民衆立は後天的な変更なのであって、元よりとするところは類型をなしていると言うことです。

たぶん、ガンコさんが言いたいことは、勅宣、御教書のうち、学会は片方で、顕正会は両方であるということでしょう。しかし、この変更は実は、学会であっても、池田さんにおいて、後天的なことであるということです。

以下、富士の所伝に基づいて記します。

さて、顕正会において、私はこの二つを満たせば、広宣流布とするという考えは、もっとも重要な富士の所伝を欠いていることを指摘しておきます。

それは何かといえば、「目師再天奏」ということです。
勅宣、御教書は国側の話ですが、富士側に最も重要な条件です。それは目師が再来して、天奏をするという条件です。これは目師にあらずんば、その資格なしという極めて厳正な条件です。有名な我師『申状見聞』に

「目上御遺言に曰く 此の申状不奏せずして 終に臨終す 此の土の受生所用無しと所用雖も 今一度人間に生れ此の状を奏す可し 若し此の状奏聞の人未来に於て之れ有らば 日目が再来と可し知る」
(日目上人の御遺言にいわく「この申状を天皇に奏することなく、ついに臨終する。本来であれば、蓮興の相伝を受けた自分は臨終ののちは成仏して、霊山浄土に赴き娑婆世界に生まれる必要はないのである。けれど、今一度、人間に生まれて、この申状を天皇に奏しよう。もし、未来において、この申状をもって、天皇に奏するものがあれば、その人を日目の再来と知りなさい」)

つまり、「目師が再来して、申状を天皇に奏する。それによって天皇が帰依する」という目師による天皇折伏が実はもっとも重要な条件なのです。この意味において、勅宣・御教書は、その副次的条件に過ぎません。

目師の再来、さらに目師申状の再奏がなされていない現在、在家分が、勝手に勅宣・御教書を騒ぐことを「僭越」というのです。この点において、学会も顕正会も、目師を飛び越えて、国立戒壇を唱えることを誤りであるというのです。

また、血脉両抄の意を持てば、

「広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣となり・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師となり・安立行菩薩は大関白或は大国母となり、日本乃至一閻浮提の内一同に四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ」

現代語に書き下す必要もないでしょう。また、この四菩薩につき、この前文に

「日興先をかくれば無辺行菩薩か・日朗後にひかうれば安立行菩薩か・日蓮大将ならば上行菩薩か・日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩か」

とあります。広宣流布の時は日本国だけでなく一閻浮提一同に南無妙法蓮華経と唱えるというのです。広宣流布の暁に国立戒壇というのであれば、全世界一同に題目を唱えることが条件と言うことでしょう。さらに四菩薩の関係を整理すれば、

上行菩薩 =日蓮=大賢臣
無辺行菩薩=日興=大賢王
浄行菩薩 =日目=大導師
安立行菩薩=日朗=大関白・大国母

となります。ここ数年で、顕正会は広宣流布し、国立戒壇を建てると豪語しているそうですが、では、その時まで全世界の民衆が題目を唱えるのでしょうか。四菩薩の変化(へんげ)人たる蓮興目朗は既にこの世にいますのでしょうか。大導師・目師は大賢王・日興に再奏するのでしょうか。この時の天皇は日興の再来であり、首相は日蓮の再来であり、また関白・大国母に当たる何らかの役がいまあり、それが日朗の再来なのでしょうか。

以上の条件を果たしているとガンコさんはお考えですか。このような点を隠し、人心を煽るいまの顕正会を、私は不正直というのです。

この意を如何にお考えになりますか。

115菊水護国:2002/10/13(日) 21:53
富士の伝説で言えば、未だ日目上人は天奏の途上なのです。
旅の途中の目師は広宣流布の時「天奏を果たし」帰ってこられます。
それまでの法主は伝法目師の留守居役であるから、勝手に動けないのです。
法主ですらそうですから、在家をいわんやです。
天皇御帰依だけで済めば、すでに「広宣流布」は果たされている可能性もあります。
数人の陛下が入信していた可能性はあります。
しかし、広宣流布はしてないのです。
浅井さんは「時を待て」と云う事を重視しながら、「勝手に時を定める」という自己矛盾をしているのです。

116犀角独歩:2002/10/13(日) 22:13

115 菊水護国さん:

そのとおりですよね。
それに「日本一同」じゃ駄目なんですね。
なぜならば観念文にあるとおり、目師「一閻浮提の御座主」ですもの。
まさに「日本乃至一閻浮提一同」でなければならないわけですね。

まさか浅井さんが目師でも、他の三師でもないわけですから、浅井さんが決めて善いことは何もないわけです。

ここのところ、国立だとか、民衆立だとかと言った議論が続いていますが、二箇相承に随えば、国主立ということになるんでしょう。しかし、私は血脉抄の意に従えば、これは「四菩薩立」ということになると思います。それは以下の一文によって、そう思うわけです。

「四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ、何れの在所為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり時を待つ可きのみ云々…日蓮在御判」

117菊水護国:2002/10/13(日) 22:38
>116
上記には同意します。
また四菩薩についても独歩さんの言われる

上行菩薩 =日蓮=大賢臣
無辺行菩薩=日興=大賢王
浄行菩薩 =日目=大導師
安立行菩薩=日朗=大関白・大国母

で云うとしても、目師が最初に現れなければ仕方ないと思います。
その時には、それぞれの立場でその他の菩薩が現れる事になるんですから。
いずれにしても、大導師となっている以上、僧侶から目師が現れる事になるでしょうから、
在家から目師は現れることにはなりませんね。
目師で無い以上、越権行為は良くありませんね。
もっと云うと「国立」「民衆立」どのような方法でも、目師が定めると考えても良いと思います。

118ガンコ:2002/10/14(月) 12:52
独歩さん、菊水護国さん

たいへん驚いています。富士の所伝によれば・・・一国広宣流布の時に戒壇を建立するのではありませんでしたか?
すなわち近代の御上人は国立戒壇云々、それ以前には天子将軍御帰依あって云々、国主此の法を立てらるれば云々と。
一閻浮提広宣流布の時に戒壇建立とははじめて聞きました。たぶんお戯れで仰られたのでしょうけど、もしそうでないのでしたらもう少し詳しく教えていただかないと、とても信じられません。

四菩薩についても驚いています。顕正会では長らく三菩薩しか教わっていませんでした。上行、無辺行、浄行をそれぞれ大聖人、日興上人、日目上人と。
なぜ安立行菩薩については誰も知らないのだろう? 幹部に聞いても誰も知らないのです。
ところが昨年でしたか、浅井は四菩薩について言及し、ついに安立行菩薩がどなたであるかを示しました。
すなわち上野殿であると。やや意外な感じを受けましたが・・・
独歩さんの資料が正しいとすると、浅井は安立行菩薩が日朗では具合が悪いので故意に替えてしまったのでしょうか? これはショックです。
日蓮=大賢臣も驚きです。記憶がはっきりしませんが「大聖人様は戒壇の大御本尊様におなりになったのだから、もうお出ましにはならない」と聞いたように思うのです。
これも常住此説法の御本仏様が大賢臣では具合が悪いということでしょうか。

「僭越」とのご論難は浅井のもっとも畏れるところであると、わたくしには思えます。
広宣流布は大聖人の御力によってなされる・・・我々はそのお手伝いをさせていただいているとか、顕正会は日目上人の露払いを申し上げていると言うのです。浅井の姿勢はきわめて謙譲であろうと思います。
ただし現宗門を師敵対と断じ、もう顕正会以外に広宣流布のお手伝いを申し上げる者はいないと繰り返し言うことは、大いに反感を買うことでしょう。そこに「僭越」「逸脱」あるいは「分派独立指向」の論難が生じるであろうことも、承知しているつもりです。
顕正会は存立基盤が不安定ですから「顕正会以外になし」を強調して組織の引き締めを図っている、そういう止むにやまれぬ事情があることをここの皆さんなら容易に理解されると思います。
組織の独自性をアピールしたい、けど過剰であれば叩かれる。あれ? なんだか妙観講のこと言ってるみたい。ごめんなさい。
話が流動的になってしまいました。

菊水護国さんにご質問いたします。「勅宣」は必要ないのでしょうか? 創価学会に言わせれば時代錯誤もはなはだしいということなのでしょうが、右翼でいらっしゃるあなたなら勅宣は必要とお考えなのではありませんか?
質問の発しかたがやや失礼かもしれませんけど、なにとぞお許しくださいませ。

119犀角独歩:2002/10/14(月) 14:07

ガンコさん:

私が挙げた資料は、従前のものです。何もいじっていません。
ところが顕正会はそれを好きなように「解釈」しているわけです。
この点は学会はさらに著しい。その真ん中に立って、言葉を右に左にしてきたのが石山です。

これは駄目です。「一閻浮提一同」も文献に残る動かし難い事実です。
また、日蓮=大賢臣も、安立行=朗師もそうです。戯れ言ではありません。挙げた文献の如きです。

なぜ顕正会では全文資料も、全文御書もないのか、その理由はこんな所にあるわけです。私がいつも顕正会員に「真面目に勉強しなさい」というのは、このことです。
組織が資料を言いように解釈することに騙されるな、原文に当たれというのも同様です。
目師とは、一閻浮提御座主たる大導師に、頼みもしない露払いなど、無用です。
御座主とはもちろん石山住持(いまは猊下などと言いますが)を指すことは勿論です。
日蓮が「上行菩薩の魁(さきがけ)」などの表現を使った物真似をして、勝手に自分の役割を決めることを僭越というのです。いま、いずこに目師が再来され、顕正会に指示でも出しているというのでしょうか。

富士の義に従えば、目師の再来はまさに仏意でしょう。日蓮の御命をそれを勝手に騙り、人を動かす愚を私は文献を挙げて論じているのです。

以上のように富士の所伝の範囲で論じても、その浅はかさは闡明となる、この点をよくよくお考えください。

120菊水護国:2002/10/14(月) 15:04
> 菊水護国さんにご質問いたします。「勅宣」は必要ないのでしょうか? 創価学会に言わせれば時代錯誤もはなはだしいということなのでしょうが、右翼でいらっしゃるあなたなら勅宣は必要とお考えなのではありませんか?
質問の発しかたがやや失礼かもしれませんけど、なにとぞお許しくださいませ。

本門寺の戒壇建立の時には、当然勅宣は必要ですよ。そんなことは常識です。王法の主たる帝の御帰依無くして、戒壇建立はありえません。
ただし、帝御一人が御帰依しても「詔勅」は発せても「勅宣」は無理なのです。
詔勅は天皇陛下御一人の御意志で発せられますが、勅宣は帝と文武百官の意思が必要なのです。

また戒壇について「兼日の治定、後難を招く」ともあります。
治定とは「じじょう」と読みますよ。どこかのM講みたいに「ちてい」と読んではいけません。
御治定は天皇陛下の御意志ですよ。勅の必要性も、不必要性も治定の範疇です。
伊勢の遷宮でも「御治定」と「勅使」は発せられます。
つまり浅井さんや戸田さんの論は「今上陛下」に対して、僭越の極みなのです。
独歩さんは富士義で論じましたが、私は帝の名の元に論じます。
「勝手な、治定は下克上の行いにして、国賊の極みなり」。

121犀角独歩:2002/10/14(月) 15:40

菊水護国さん:

この目師(浄行)再来時の天皇(大賢王)は興師となるわけですね。そして、大賢臣・日蓮の意をももって成就していくということになるのでしょうね。ここに関白・朗師も連なり、四菩薩御談合がつまりは勅宣・御教書ということですね。

また、この広宣流布論というのは一閻浮提の中心は大日本国であるという前提にも基づくのでしょうね。

現代の人たちが訊けば、ぎょっとしますが、ここには厳然として尊皇護国論が生きているわけですね。この基を為すところに本地垂迹説も生きているのであろうと思います。

顕正会は勅宣を言わぬから学会が駄目というわけですが、これはつまり、条件を満たさず勝手解釈が遺憾という意味ですね。しかし、より原義が見れば顕正会のいうことも原義の条件を満たしていないわけです。この点を確認することは大きな意義があったと思います。如何でしょうか。

122菊水護国:2002/10/14(月) 17:09
>また、この広宣流布論というのは一閻浮提の中心は大日本国であるという前提にも基づくのでしょうね。
現代の人たちが訊けば、ぎょっとしますが、ここには厳然として尊皇護国論が生きているわけですね。この基を為すところに本地垂迹説も生きているのであろうと思います。

仰るとおり、世界の中心に帝を据えるという考えはあったと思いますよ。
だからと言って、戦中の石原将軍のように武力で制圧せよとは違うとは思いますがね。
独歩さんの仰るとおり、確かに現代から見れば、ギョッとするのは分かりますが、そもそも天皇と言う称号にも、中華思想の皇帝とは違う、八紘一字、万世一系の意義があると思います。
なお「古神道は蘇る」という書籍の中にもあったように万世一系は血縁の事ではありません。
なお、この間櫻川さんから、最近浅井さんが「日本の天皇を世界の中心にする」(趣意)と言う発言があったと聞きましたが、これとて結構的を得ている考えとも思われます。

なお、学会は勅宣を言わないのは当然です。池田さん以降のあの会には浅井さんと正反対の「天皇制廃止」のテーゼが内在されていたと推察しております。
そうでなければ間違っても自分を「現代の有徳王」と模すような池田さんの発言は出来ないのであって。

123犀角独歩:2002/10/14(月) 20:52

> 戦中の石原将軍のように武力で制圧せよとは違う

いや、私はこんなふうには思っていません。

そんな形で日蓮主義が悪用されたことはあったにせよ、血脉両抄が意味するところはそうではなかった。だって、大導師・目師(浄行)が天奏する相手は大賢王・興師(無辺行)のわけでしょう。その補佐たる関白・朗師(安立行)、大賢臣・日蓮(上行)の四菩薩による広宣流布、事壇建立という台本は、つまり王仏冥合を意味するのであって、この大賢王は、当然、出家となるでしょうし、関白、大賢臣も出家して本門寺上行院を建立して、政務も司ることを意味しているであろうと観察します。これは元来、完全な非武力を意味しています。しかし、この時、反対勢力が武力を持ってくれば、それに対して、大賢臣は「寧喪身命」を尽くすことを有徳王(興師)・覚徳比丘(蓮祖)としてまで、考えられていることは血脉抄の紙背にあるわけでしょう。

ここでは大賢王・関白・大賢臣・大導師は元より決まっており、その四菩薩が一時に現れて広宣流布、事壇建立するというのが血脉抄のいうことです。

その仁にあらざる者が、軽々に広宣流布・事壇建立を語るなど僭越だというのが、この相伝が言いたいところでしょう。

要するに、このような富士戒壇論達成のシナリオは、在家が不自惜身命の赤誠を尽くすと勝手に言う顕正会の浅井さんの錯誤とは、ぜんぜん別の次元であるわけです。

> 池田さん以降のあの会には浅井さんと正反対の「天皇制廃止」

こういった観点も可能ですが、学会は創価王国で池田さんは「庶民の王」を自称。要するに天皇制廃止と言うより、自分が庶民の王=天皇という自覚でしょうね。それがまた、自分を頂点にした“民衆立”の意味でもあるのだと私は観察しています。
これまた在家分が勝手に語る広宣流布ということでしょう。

まあ、もちろん、以上のことは富士の所伝が、本来、意味していたことを素描したのであって、私がそれを指示していると言うことではもちろんありません。

また、以上のことは石山に係ることでもないと私は思っています。理由は至って簡単で、二箇相承は重須の文書、血脉抄は尊門の文書であり、これらは石山とは何ら関係ないからです。この点は、以上の原意の次に来る問題であって、この点は、詳しく問答名人さんと語らってきたとおりです。まあ、この点は菊水護国さんは異論はあるでしょうが(笑)

124ガンコ:2002/10/15(火) 19:26
独歩さん、菊水護国さん

一閻浮提の広宣流布を待って戒壇を建立すべし・・・この類文はあるのでしょうか? 重要法義であるならばたくさんあるはずでしょう。
わたくしはあくまで日本の広宣流布の暁に本門寺の戒壇は建立されるべきと思います。阿部管長=日顕上人の「国主立」にしても学会の「民衆立」にしても「国立戒壇」にしても、それ以前の富士義にしても、それぞれの主張に誤差はありますが日本の広宣流布という視点においてはあまりかわらないと思います。
ようするに他門はさておき当門流においては戒壇建立を重大事とするわけでしょう、ですからいついかなる時に建立すべきか、たくさん御指南があるわけです。

僭越ということを浅井はもっとも畏れると書きました。もう少し言うと浅井はそうした批判を気にしているのです。
かつて妙観講の新聞にでかでかと出ましたでしょう、一閻浮提の座主気取りは止めよ、とかなんとか色々あったと思います。
これは浅井にとってはまったく心外でして、そのような批判が強まるにしたがって浅井の講義講演は言葉の一つ一つにまで気を配って、つまり誤解を生じないように慎重を期している、そのようにわたくしは感じています。
ですから、浅井は会員に日目上人の再誕だと思い込ませようとしている、などと言われればたいへん気にするわけです。
露払い云々はこうした事情の副産物であって、もしこれとても僭越と言うなら浅井は二度と使わないことでしょう。浅井の心中をお察しいただけたらと思います。

勅宣の要不要を論ずるのは僭越である・・・これはそうかもしれません。しかし経緯を踏まえてほしいのです。当時、学会は民衆立をうたって勅宣を時代錯誤と罵っていたし、宗門もそれに同調したのでしょうか建築許可証があれば勅宣は不要とするかの論を展開していたのです。
つまり宗門に皇室を軽んずるかの風潮があったのではないでしょうか。ですから敢えて言わせていただくならば、浅井は猊下の意に背いたけれども皇室に対しては忠の者であったと言えまいか、と思うのです。

宗門において逆賊との汚名をきせられ、今また国賊と言われてしまってはもはや立つ瀬がありません。

なるほど、これがカルトということなのかもしれませんね。
やや自嘲ぎみにそう思いました。

125無徳:2002/10/15(火) 23:55
横レス失礼します。

これは質問になりますがご存じの方にご教授願いたいと存じます。

確か、戦後に天皇は人間宣言を成されたのですよね、まあ、天皇自らの意志で
は有り得ないでしょうが、少なくとも人間天皇となられたわけですから現在時
点で勅宣を天皇の名において発するわけには原理的にはいかないように思われ
ますが如何なものでしょう。(勅宣とは天使の詔を意味しますから現在の天皇
は天使では無く人間天皇ですからそのように私は考えます)

とすれば、顕正会が主張するように戒壇建立の際に勅宣を求めるとすれば現憲
法変えざるを得ないように思います。

もしそうだとすると勅宣なる語彙に時代錯誤を感じるのはやむを得ないように
も思われますが如何なものでしょう。

126犀角独歩:2002/10/16(水) 07:14

124 ガンコさん:

> 一閻浮提の広宣流布を待って戒壇を建立すべし・・・この類文はあるのでしょうか?

では、逆にお尋ねしますが、「日本の広宣流布を待って戒壇を建立すべし」という類文がどれほどあるというのですか。

二箇相承の「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」は広宣流布とはなっていませんね。また三秘抄にしても「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」というも、ここには「広宣流布」の言葉は見えませんね。

単に国主帰依、王法冥仏法・仏法合王法で戒壇建立を言うばかりでしょう。これを広宣流布と勝手に解釈しているのに過ぎないのではないでしょうか。

> 重要法義であるならばたくさんあるはずでしょう。

そうですか。では、戒壇の大御本尊に関する類文はたくさんあるのでしょうか。
三大秘法は重要法義ですが、どれだけ類文があるのでしょうか。
重要法義ならばたくさんあるというのは勝手な想像でしょう。

> わたくしはあくまで日本の広宣流布の暁に本門寺の戒壇は建立されるべきと思います

証拠はなんでしょうか。また、日本の広宣流布というのは何を根拠にその成就と定めるのでしょうか。ガンコさんの勝手な己義に過ぎないのではないでしょうか。

> 浅井は猊下の意に背いたけれども皇室に対しては忠の者

忠とは正法を勧めるをもって「忠」でしょう。
どのような形で皇室に勧めたのですか。また、目師にあらざる浅井さんが、どうやって、そのような忠を示せるのですか。

真偽未決ながら、当体義抄に「如来の滅後後五百歳中広宣流布の付嘱」とあります。

そもそも、浅井さんはいかなる付属、いかなる資格をもって目師の代わりを務めるのでしょうか。

ここのところ、いわゆる石山義に基づいて記述していますが、その範囲で考えても、どうにも承伏しかねるわけです。

ガンコさんは自嘲は当然のことであろうと思います。

127犀角独歩:2002/10/16(水) 07:16

125 無徳さん:

いまの時代に「勅宣」を言うのが時代錯誤なのではなく、条件が整わないいまの時代に戒壇建立を言うこと自体が時代錯誤なのでしょう。

128犀角独歩:2002/10/16(水) 07:37

○ポイントは勅宣・御教書にあるではなく“王仏冥合”にある

私は三秘抄の真筆たることを信じません。しかしながら、富士義は、この真筆であることを根拠に広宣流布・戒壇建立を言っています。その富士の言説に基づいて、この三秘抄を考えてみます。

三秘抄に

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」

この一文をもって「勅宣だ、御教書だ」という議論に終始しています。
しかし、この文は勅宣・御教書に力点があるのではなくて、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持」つ、すなわち“王仏冥合”に力点がある文章でしょう。

先の議論で「日本国一同」か「日本国乃至一閻浮提一同」でガンコさんは拘りを見せたわけですが、結局、いくら勅宣が下ろうが、御教書が下ろうが日本(乃至一閻浮提)一同の条件が整わなければ戒壇建立の条件を満たしていないわけですから、空手形に過ぎないわけです。

同様に王仏冥合をせず、勅宣・御教書がでたところで、そんなものは空手形に過ぎないわけです。民衆レベルの条件が日本(乃至一閻浮提)“一同”であれば、その国王・為政者では王臣“一同”が条件となりましょう。すなわち(はなはだ現代にはそぐわない一文ですが)「上一人より下万民」に至るまで“一同”に三秘密の法を持(たも)つことが戒壇建立の条件なのであって、その結果、当然の如く下されるのが勅宣・御教書に過ぎないわけです。

すなわち、王仏冥合なき勅宣・御教書は空手形である。
三秘抄の教えは王仏冥合であることを忘れ、民衆レベルで事を進めようとしている点で、学会も顕正会も、この王仏冥合を反故にしており、同轍であると私は思うわけです。

以上、富士義に基づいて記しました。

130犀角独歩:2002/10/17(木) 11:40

菊水護国さんの話の腰を折るようで悪いのですが、「天」と「神」は、同じ deva という語の訳語であることが知られています。つまり、同じ意味です。

岩本裕師の解説を載せます

天子 ―― デーヴァ=プトラ devaputra の訳。この語はインド最古の文献である『リグ=ヴェーダ』では「神(deva)の子(putra)を持つ」という意味に用いられ、天地(dyavaprthive,rodasi)の修飾語とされる。しかし、その後この意味には用いられず、西暦紀元後になって文献に見える場合は常に「天(deva)の子(putra)」の意味とされる。その初めはカニシカ王などクシャン(貴霜)朝の諸王が照合に用いたのに始まるが、この時代に中央アジアを媒介として古代中国文化と接触し、その「天子」思想がインドに伝来したものと考えられる。Levi,S:Devaputra, Jounal Asiaique,tome CCXXIV, No1(1934)所載参照。仏教およびヒンドゥ教の聖典でも「天の子」の意味であるが、漢語の「天子」のように国王を意味することはなく、天に住む神霊ないしは鬼霊の一種とされる。(岩波文庫『法華経 上』P377)

ただし、現人神、天子云々ではなくて、三秘抄に基づいて事檀を言うのであれば、当たり前のこととして、勅宣なしなんてことは言えるはずはないという点では、私は菊水護国さんに賛成です。

それにしても現人神って、凡夫(人)本仏という表現と似ていますね。
人を神仏に見立てることには、私は反対です。

131菊水護国:2002/10/17(木) 12:16
独歩さん。
お言葉を返すようですが、私は皇国に2000年続いた、天子を論じたのであり、海外は関係有りません。
語源がどうであれ、2000年の歴史は、日本独特の天子観を作ったのです。
天子は天孫ですが、天ではありえません。
それに日本人は須らく天孫であるのが日本の思想です。
天孫の本家が、天皇家、分家が臣民と言うのが日本の思想です。
天皇家には姓がありません。分家すると分かりにくくなるので姓が発生すると言うのが日本の伝統です。

いずれにしても、現人神は「神」を表現しますが、天子は「人間」です。
人間宣言は「神から天子に帰る宣言」です。

132犀角独歩:2002/10/17(木) 19:08

131 菊水護国さん:

いや、そうではなくて、一般的には、渡来人がこの日本を制圧して国を開いた、その前の思想的系譜を示したまでです。仰る天子観は了解しています。

要するに菊水護国さんが仰っているのは「人王」のことでしょう。
しかし、日蓮の天皇観は人王に限りませんね。この点は『神国王書』の如くです。

漫荼羅に「天照大神」とあります。天皇観の一環ではないでしょうか。まして、興師が再臨する聖天子は神(菩薩)ではないのですか。

現人神は、この際、どうでも好いのです。近代に属する話ですから。ですから、人王としてのご意見は賛同しますが、神国王の部分、また興門の聖天子観を、菊水護国さんは、どうお考えになっているんですか。

133菊水護国:2002/10/17(木) 22:48
私は広宣流布の暁に、本化聖天子が現れると思ってます。
当然、日興上人が生まれ変わるとも考えております。
それまでは、聖が付かない天子です。

神代には日蓮大聖人が天照大神として現れたとも考えております。
これが私の神観です。
天照大神は日輪であり、これが日蓮につながります。

134犀角独歩:2002/10/17(木) 23:38

133 菊水護国さん:

ここに記されるところは、まさに石山の元来の考え方ですね。
まさに民衆立など、入り込む余地はありません。
この原則から日蓮の三つの法門を考えるべきであると、私も思います。

135ガンコ:2002/10/27(日) 14:46
無徳さん、こんにちは。

勅宣を時代錯誤とするご意見について、常連の方以外に投稿がありませんので、元々わたくしが提起した問題でもありますし、わたくしなりにお答え申し上げたいと思います。
以下、見当違いのことを書きます。

わたくしは今、ほとんど折伏をしていませんので昔の話になりますが、皆さんにしたってそれぞれの組織で熱心に折伏なさっていれば経験があることと思います。
「なにぃ? 仏法? キミは頭がおかしいんじゃないの? 今の時代に神様仏様なんてバカバカしい。そりゃキミ、時代錯誤だよ。」
こんなことを何度言われたことでしょう。わたくしなりに工夫して喋っているつもりでしたが、こういう人を納得させることは一度もできませんでした。
顕正会の折伏ではなおさらそうなのかもしれません。というのは、こんなこともありました。
「自分は創価学会の話も聞いたことがあるけど、う〜んキミの話はなんていうか、妙に神がかり的に聞こえる・・・」
仏法なのに神がかりと言われて結構ショックでしたけど、おそらく今ならカルト的ということなのでしょう。まだカルトという言葉が一般化していない頃のことです。

さて、わたくしの言わんとすることが見えてきたと思います。
そもそも宗教そのものが時代錯誤なのではないか? このように考える人たちがたくさんいるという事実に対し、どのように取り組んだらよいのでしょうか。法華講でも学会でも一応それなりの模範解答みたいなものがあるのでしょうが、実際に相手を納得させるのは相当困難なことだと思います。
ようするに、教義論争のむなしさです。勅宣をどのように解釈しようとも、大聖人の仏法を信じていない人にとっては同じなのです。おそらく解釈というのは現代人に迎合するような側面を持っているのだと思います。しかし、どれほどうまい解釈があっても信じていない人にとっては「どっちでもいいよ」ということになるでしょう。
このように考えていきますと、勅宣を重視する立場もご理解いただけるのではないでしょうか。

大聖人の御法門を現代にあわないからといって、あちこち切り取っていったならば、いずれは大聖人の仏法とはまったく違うものになってしまうでしょう。
独歩さんに言わせれば、自分たちの都合にあわせて切り取ったり貼り付けたりしているのが、大石寺とその周辺グループということらしいですが。(すぐツッコミが入るので、先に言っちゃえ!)

もともと無徳さんのご質問にお答えするだけの能力などわたくしにはありませんので、おそらく見当違いのことを書いてしまったことと思います。どうも失礼しました。

136ガンコ:2002/10/27(日) 16:31
独歩さんへ。

実は反論めいたことを長々と書いていたのですが、完成直前に全文消去しました。
自分で読み返してみて、あまりにもハシタナイ文章であることにがく然としました。あんな文章を載せてしまったらお終いだと思ったのです。それこそお里が知れるというものです。

おそらくお読みになっている方は、舌足らずのわたくしにもどかしさのようなものをお感じになられていらっしゃるのではないかと思います。それぞれが、自分ならこう反論するのだが・・・といったお考えをお持ちでしょう。わたくしだってそれほどバカじゃありませんから、いろいろ考えて書いてはみたのです。
しかし、それはそれはヒドイ文章でした。相手を負かしてやろうという気持ちが支配しているうちはダメですね。

議論がかみ合っていないと感じられた方もいらしたことでしょう。実は最初からわかっていたのです。
たとえば独歩さんがいう富士義とは、北山はもちろんのこと要法寺妙本寺等を含めておっしゃるわけですが、わたくしは意地を張って知らんふりして議論していたのです。かみ合わないのも当然ですよね。
顕正会では、富士といえば大石寺、大石寺といえば富士なのです。皆さんご存知のように「冨士」というのがありましたし、「正系門家」は浅井の好む表現ですし、「富士の清流」などは法華講でも言うところでしょう。
こまかい点についてはそれこそ揚げ足取りになりかねないし、時間のムダでもありましょうから止めます。

独歩さんは議論を楽しんでいらっしゃるように見えます。だからといってわたくしがそれに甘えていてはいけない、いつまでもオママゴトにつきあわせていたらいけない、このように考えた次第です。

137犀角独歩:2002/10/27(日) 17:36

> …自分ならこう反論するのだが

この点の反論は歓迎です。途中で投げ出したり、応えなかったり、言い張ったり、論拠を挙げなかったりというズルをしない誠実なやり取りであれば、きちんと対応します。

ただし、不誠実、無礼、卑怯、人身攻撃への転嫁に関しては、私は是としません。


ガンコさん:

ともかく、真面目に勉強してみることです。さすれば、私がここに書いてきたことは容易く理解できるでしょう、事実を正直に受け入れていく勇気があれば。

自分の信じてきたもの、それに費やしてきた時間と熱意、それを否定しなければならない事態に直面しても、真実を受け入れる勇気があれば、自然(じねん)に聖人の祖意に達することが出来るでしょう。

しかし、多くの人は自己弁明と、信じてきた指導者と団体と、何よりナルシズムの虜となって、事実を突きつけられても、無視して、自分と団体の殻に閉じこもり、逃げながら、罵声を浴びせるぐらいのことしかできないものです。

そんな情けない人間にはならない人であると、ガンコさんのことを私は信じます。

以下二つのスレッドに記した内容をしっかり吟味してください。

『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=364&KEY=1015557630
『「広宣流布、本門の戒壇」の解釈又は定義について』
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=364&KEY=1015334405

なお、私は議論など少しも楽しんでいません。事実を認められない卑屈な自分と日々戦い、それに打ち克って、血を墨とし、骨を筆とする気持ちでここに書き留めているのです。

138菊水護国:2002/10/27(日) 19:20
「冨士大石寺顕正会」の「冨士」の字は何故「富士」では無いのでしょうか。
浅井さんの真意はどこにあるのでしょうか。
単純に疑問を感じました。

139無徳:2002/10/27(日) 21:15
ガンコさん今晩は、

私は宗教を時代錯誤と主張する人達の気持ちはよく解るような気がします。何故かな
らば私自身が嘗てそのように思っていたからです。

今でも現代社会にそぐわない宗教は沢山あるように思えて仕方ありません。先日池上
でのミニオフ会で独歩さんともお話ししたのですが、日蓮仏法を含め仏教を時代精神
に昇華する必要があるのではないかと強く感じています。

私はこの昇華という後を現代思想用語での脱構築という程の意味に使用しました。化
学的には個体が液体となる過程を飛び越えて気体に変化することを昇華というのだそ
うです。

仏教というパラダイム(思想の枠組み)を大切にしつつ、現代社会に開かれた(適合
した)特に若い人々が納得でき得る思想運動としてダイナミズムをもったものに昇華
していかねば、嘗てのインドにおける仏教のようにヒンズー教に呑み込まれ埋没して
しまった二の轍を踏みかねないと恐れます。

確かにガンコさんがおっしゃるように<大聖人の御法門を現代にあわないからといっ
て、あちこち切り取っていったならば、いずれは大聖人の仏法とはまったく違うもの
になってしまうでしょう>との危惧もよく解りますが、時代精神に日蓮仏法を昇華す
るためには、現在の日蓮正宗のように旧態前とした在り方に固執していたり、独歩さ
んが主張されるようにカルト集団化した教団では、時代精神どころか日蓮仏法を貶め
る結果となるのではないかと心配します。

したがって、勅宣という語に拘るのではなく今という時代をどう見るのか、また日蓮
仏法の展開が現代社会において如何にあるべきなのかを深く見極めるべきではないか
と私は考えます。その意味からも現代社会においての勅宣なる語は時代錯誤的に感じ
ざるを得ないのです。

140菊水護国:2002/10/27(日) 22:17
確かに、私は化儀改変容認主義であり、時代に併せて変遷可能だと思ってます。
しかし、石山教学において、勅宣等皇室との関係は、時代不変な要素だと思ってます。
大聖人の仏法で、不変なのは「題目」と「皇室の存在」の2点だといっても過言では無いと思ってます。
そうです。
「神道と仏法の習合」の究極が大聖人仏法であり、そうである以上、天孫降臨末裔たる帝を無視は出来ないでしょう。

141アヤエ:2002/10/28(月) 12:58
しばらくぶりに訪れました。
友人が顕正会に入信してしまい「顕正会って右翼団体?!」のスレで
皆様にお世話になった者です。
友人は相変わらずです。変わらず、というよりも最近更にパワーアップしたようです。
自分が折伏した人の指導とかでかなり楽しそうに活動してるようでした。
今回ガンコさんの書き込みから皆様の解答を見て また少し顕正会の事が見えてきたように思います。
素人の私でもちょっと理解できました。ありがとうございます。
今後もロムが多いと思いますが、宜しくお願いします。

142五月雨:2002/10/29(火) 10:55
アヤエさん

お久し振りです、お元気でしたか。

>友人は相変わらずです。変わらず、というよりも最近更にパワーアップしたようです。
自分が折伏した人の指導とかでかなり楽しそうに活動してるようでした。

ご友人はますますパワーアップされていますか、これは困ったことですね(笑)
折伏した人の指導をされているそうですが、これがまた楽しい活動なのです、人の為に役に立っているという大きな自己満足を得られますので、ますます信仰にのめり込むワケです。実は私にも経験があります、これが組織のアメの部分です。ではムチの部分は何かというと、「活動しないと罰が当たる」になるでしょう。どちらにしろ組織に利用だけされているのですが、本人は全く気が付きません。
そんなお友達の姿を見て意見をしたい時もあるかと思いますが、酔って浮かれて、いま一番気分の良い時ですから、何も耳に入らないどころか「教義にもっと執着」してしまいます、これも経験者談です。
アヤエさんは賢く、また思いやりをお持ちの方ですから、その点は十二分に考慮をされておられることでしょう。どうぞいつまでもお友達を温かく見守ってあげてくださいね。

143菊水護国:2002/10/29(火) 16:16
牧口さんは「罰論」を表に出した。
戸田さんは「利益論」を表に出した。
特に戸田さんは「幸福製造機論」のように、欲望剥き出しの現世利益主義に走った。
その両者を巧妙に継承してるのは顕正会に他なりません。
もっとも、最近の若者の折伏はあきらかに「金が儲かるよ」的になってまして、戸田さんをもっとも継承しておりますが。

144アヤエ:2002/10/29(火) 16:30
五月雨さん
>賢く、また思いやりをお持ちの方ですから、
いえいえ、とんでもないです、私に「慢心してる!罰がでるから!!」と
怒ってました。何度会っても仏法をしようとしない私にイライラしてる様子でした

>折伏した人の指導をされているそうですが、これがまた楽しい活動なのです、
人の為に役に立っているという大きな自己満足を得られますので、
ますます信仰にのめり込むワケです。

そう まさに「楽しそう」でした。
仕事から離れて、久々の責任や役割に、それはもう張り切ってました。
今は黙って見守るしかないのですよね。
私の知識はネットに依存しているので、全然信用できないそうで 
まったく聞く気がないみたいです(笑)

毎日新聞からカルトに関する本を購入したので、対処法をもっと勉強します。
みなさんの意見交換はすごく参考になります。これからも宜しくお願いします。

145:2002/10/30(水) 03:18
アヤエさん、お久しぶりでやんす。
お友達を理解するために、がんばって顕正会について勉強なさってるのですね。

お友達が「あなたは慢心している!」とアヤエさん向かって言ったのですか。創価学会を離れて久しい自分には、なつかしいというか、今は意味もわからなくなってしまった、というか……。
石山・用語集でも欲しいところです。

仏法=自分の所属する団体の教義のこと。他団体の教義のことは「仏法」とは言わない。
慢心=自分が言うことを信じないこと。転じて石山においては、自分が所属する団体に入会しないこと。必ず罰が当たるとされている。
ニ乗=本来は、悟った人を指すので、良い意味であったはずだが、現在は「エゴイスト」の意味で使われている。
菩薩=自分のこと。自分の所属する団体に奉仕する行為は、他人がどんなに迷惑に思っても、それは菩薩行である。

用語集というのを作る、というのはどうですか、皆さん?

146菊水護国:2002/10/30(水) 10:13
あ さん
申し訳ないのですが、石山用語に誤解を受けますので、訂正します。

仏法=自団体はもちろん、他団体の仏法も仏法と呼びますよ。そうでなきゃ「仏法の正邪」という言葉が成立しません。
慢心=団体に所属しなくとも全てを慢心とは呼びません。慢心は信心してる中に発生します。やらない人を慢心とは呼びません。正法護持してる人に慢心が発生します。

147菊水護国:2002/10/30(水) 10:17
日達上人は信者で無い方との交流が盛んでした。
笹川良一さん、田中角栄さんなどです。
その方々を、有識者と絶賛されております。
また、地獄落ち等と考えてはいなかったと思いますよ。

148五月雨:2002/10/30(水) 16:19

アヤエさん

>>賢く、また思いやりをお持ちの方ですから、
>いえいえ、とんでもないです、私に「慢心してる!罰がでるから!!」と
怒ってました。何度会っても仏法をしようとしない私にイライラしてる様子でした。

そういう意味ではなくて、そう言われるアヤエさんが「賢く、また思いやりをお持ちの方」なんですよ。思いやりのある方が罰がでるとは言いませんね。

>そう まさに「楽しそう」でした。仕事から離れて、久々の責任や役割に、それはもう張り切ってました。今は黙って見守るしかないのですよね。

そうなんですよ、お友達は気持ちの良いお酒を飲んですっかり酔っ払っている状態ですから、そんな人に何を言っても通じないのはお分かりになるでしょう。ですから、放っとくというのが一番の酔い覚ましになるのです。そして、お友達が信心の話をし始めたらもう聞かないか、別な話題に持っていって、アヤエさんには信心の話をしても仕方がないと思ってもらえるようにするしか方法は無いと思います。お友達を救ってあげたいというお気持ちは、とても素晴らしいけれども、信心にのめり込むのは教義のせいではありません、「マインド・コントロール」のせいです。

>私の知識はネットに依存しているので、全然信用できないそうで 
まったく聞く気がないみたいです(笑)

ネットの情報はまやかしだと教えられているのでしょう、世間一般的に見ても、インターネットのイメージは良くないと思いますから尚更でしょう。私も学会員と対話していて、この掲示板を見ることを勧めたことがありますが、学会でもインターネットを信じるなと教え込んでいるみたいで、私の話に眉をひそめる学会員の表情がいまだに忘れられません。お友達が全然信用出来ないと言うのも頷けます。
私は組織活動を辞めて二年経ちますが、いまだに組織活動していたら、インターネットでの話なんて信じなかったでしょう。まあ、お友達には言うだけ無駄という話になりますね。

>毎日新聞からカルトに関する本を購入したので、対処法をもっと勉強します。

そうですね、マインド・コントロールとは一体どういうものなのかをお勉強することは、いま一番必要なことでしょう。マインド・コントロールが解けるというのは、とても大変なことだと分かると思います。ですから、お友達の言動にはイライラするかも知れないですが、信心の話には乗らずに気長に見守ってあげて下さい。

149ガンコ:2002/10/31(木) 12:44
独歩さんへ

いつもお返事が遅くなってしまいます。とても緊張してうまく言葉にならないのです。なぜかなら、独歩さんはいつも宿題をお出しになられます。しかも超難問です(わたくしにとっては)。
ですからいつも後回しになってしまいます。ごめんなさい。

結論から申し上げれば、戒壇の大御本尊様がまっかなニセモノであれば、いつまでもしがみついている義理はないのです。

わたくしが問題としているのはその前の段階なのです。
浅井は「偽作説」を熟知していることでしょう。あるいは偽作であるとの結論に達しているかもしれません。もしそうだとすると、どういうことになりましょうか?
「本物だろうとニセモノだろうと構いはしない、商売になりゃいい!」・・・こういう風に思っているとも考えられるわけです。
地涌の菩薩だの仏弟子だのとおだてておいて、結局のところわたくし達は「お客様」に過ぎないということになります。
これが、わたくしが掲示板に参加するようになった出発点なのです。

ですが今のところ、先生はそんな人ではない! というのがわたくしの正直な気持ちなのです。
わたくしをニセ会員だと思っていらっしゃる人がいるのでは?と最近気にしているのですが、まだまだこの点では純粋な顕正会員のつもりです。

問題の核心から逃げている・・・ことも事実です。法華講の方も同じでしょうけど、戒壇の御本尊様を云々するのは恐れ多いのです。「偽作説」に足を踏み入れてしまったらもう後戻りはできない、無間地獄は必定という恐怖もあります。

進歩がないなぁ、と思っていらっしゃるかもしれませんね。わたくしは右も左もわかっていませんから、いきなり御本尊様のことを論ずるのは僭越であろうと・・・ですから外堀から埋めていくのが順序と考えるのです。

そういうことで、独歩さんの域に達するのはとうぶん先、いいえ、永遠に来ないと思って下さったほうがいいかもしれません。

これからもトンチンカンなことを書きますので、その都度よろしくご指導ください。

150犀角独歩:2002/10/31(木) 16:25

149 ガンコさん:

人間が自分の信念体系を変えていくことがどんなに大変なことであるか、私は自分の経験からよくわかっているつもりです。時には転向より死を選び場合だってあるくらいでしょう。でも、生きなくてはいけない。かけがえのない生を貫き、望まずとも訪れる死の床で、人生に悔いなしと言えるように、大きな転換を自分に課す瞬間を選択する勇気を持つことも大切なときはあります。私は苦悶のなかでその選択をしました。

トンチンカンなんてことはありません。

どうぞ、お気軽にお声をおかけください。

151アヤエ:2002/10/31(木) 17:54
五月雨さん
私は頭で分かっていてもどうしても言い返してしまうのです。
ひどくむきになってしまう事もあります。ですから彼女に
「慢心してる」などと言われてしまうのでうす。
賢ければ 彼女の言う事をやんわりと受け止めて また会いたいと思って
私のところに来たい、そう思ってもらえるような関係を築けるはずなのに。
だから「賢い」と言われると 穴を掘ってでも隠れたくなるのです。

ガンコさん
貴方はとても柔軟な考えになりつつあるのだと思います。
友人はごつごつとした重たい石のように 今は私の手の届かない水の中に
沈んでいるようです。
それに引き換え あなたは自分で水面に向かって泳いでいけるお魚です。
ご自分の行きたい方へご自身の意思で行けるのです。
友人がガンコさんのようになるまでには まだまだ道は遠いなと思いました。
私は貴方に注目しています。私は知識もないしガンコさんに何もしてあげれませんが
これからも見守らせていただいて良いでしょうか?

152sunya:2002/11/01(金) 03:00
 マックス・ヴェーバーと“知的誠実性”を論じた「マックス・ヴェーバーの犯罪」(羽
入辰郎著、ミネルヴァ書房)という記事(東京新聞、2002,10/30 夕刊)が、たまたまわた
しの目にとまりました。
 ヴェーバーといえば社会学を創始し、宗教社会学や社会科学方法論等の大きな業績とそ
の知的誠実性の主張から“学者の鑑”とも言われ、わたしもヴェーバーを尊敬すること・
人後におちません。もっとも、トーシロがいきなりヴェーバーに歯が立たないことは云う
までもなく、“大塚社会学”等から・かいま見るレベルですが。(^^;

 さて羽入氏は、ヴェーバーの主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』か
ら、その“一次文献”を調べてみて、ただ・そんな「単純な方法」で“驚くべき事実”を
発見した、というのでした。

 その一例として、『宗教改革の祖・ルターがギリシャ語の聖書をドイツ語に訳す際、“ク
レーシス”(原義は「呼び掛け、召し」)を Beruf という独語で訳してしまった』とヴェ
ーバーは指摘し、そのことがヴェーバーの「論理」にきわめて重要な“基礎”を与えたこ
とでした。
 しかし、羽入氏がヴァイマール版ルター聖書を調べてみると、ヴェーバーが指摘するよう
な「訳」は、実は一つもなかったのでした。ヴェーバーはルターがそう訳したのではなく、
後世の誰かがそう訳したことを承知の上で、“そう主張”していたことが明らかになった
と、羽入氏は指摘します。
 そして、その他にも「意図的に資料のでっち上げを行っていた事実」が四ヶ所あって、そ
れは世界で“初めての発見”であった、と云われます。( この一連の業績から、1999年の
第50回 日本倫理学会大会で、羽入氏は「和辻賞」受賞 )

 そうした<捏造>は“自語相違”ではないか、それはヴェーバーが晩年に至るまで主張
し続けた「知的誠実性」に、自ら反する“犯罪的行為”ではないか。
 しかし、世に数多いる“ヴェーバー学者”達はどうして、いままで誰一人としてそうと
気づかなかったのだろうか。相手が「大学者」であろうと「聖人」であろうと、<学問>
として取り組む以上、“検証作業”は不可欠ではないか。
 ヴェーバーのようにあまりに偉い“大学者”の言うことだからという“思いこみ”、そ
れを<わたしが唯一人>で疑うという恐怖、そういった“心理障壁”を後生の学者先生達
は乗り越えられなかったのだろう、と羽入氏は結びます。

 そして、「もう一度原点に選って自分の頭で考えてみる作業、それが必要であろう。た
とえ相手がヴェーバーであっても」と。
 さて、「富士門流信徒の掲示板」に集うわたしたちはいま、この“言葉”「たとえ相手
が○○○○であっても」に、それぞれがいろいろな“名前”を思うのでしょうね。(^^;

 その上でわたしは、こうした<世俗>における「知的誠実性」と<仏法>における「知
的誠実性」とには、いささか<差異>があることを“認める”者でありました。<仏法>
における「知的誠実性」とは、<方便>ということを“抜き”にしては語れないことであ
る、とわたしは思うのです。
 そしてまた、<仏法>がすべて<世俗>に還元し得るなら、今日において<仏法>にも
はやその「意義」はないこと、でありましょう。

 しかして、いまの宗門僧俗の指導者諸氏等に、そうした“思索”や”反省”があるとは、
わたしには見えません。そして、もっともそこから“遠い地点”にあるのは、残念ながら
我が顕正会であることでした。

153ガンコ:2002/11/01(金) 04:21
アヤエさん

どのようにご挨拶していいかわからないので、いきなり質問させていただきます。
独歩さんの一年折伏、菊水護国さんの十年折伏にくらべれば、顕正会の折伏はハードルが低いといえます。
おつきあいで入信してみようと思ったことはないのですか?

それと顕正会をどのようにご覧になっていらっしゃるのか、つくろわずありのままにお話し下さいませんか?

154アヤエ:2002/11/01(金) 11:16
ガンコさん
私は顕正会員です。顕正会が言っている80万人か90万人の中の一人です。
ただ、心から信仰したことは一度もありません。

彼女とは古くからの付合いでしたが、彼女が引越すと 自然に会う回数も減って
時々電話で話すような感じになってました。
ただ、お互い確かめる事はなかったのですが 親友と思ってました。
引越し先でいろいろトラブルがあり かなり落ち込んでいたので心配してました。
連絡をしても暗く、忙しいからと話す機会も減ってきて引越し先を訪ねてみようか
そう思った矢先に 元気な声で電話があり 是非会いたいという事になって
引越し先へ訪ねる事にしました。しかし行き先は彼女の家ではなかったのです。

はじめて行った土地で待ち合わせをし、車で彼女の「友達の家」だと
知らない人のマンションに連れて行かれ、5時間ほどでしたか、折伏を受け
いくら断わっても平行線の会話に疲れ果てて、友人がどういう教団に入ってしまったか
興味もあり、「断わらなきゃ」と言うより、分かったと言えば帰してもらえると考え
入会をしました。まさかその場で入会の手続きに連れていかれるとも思ってなかったので
会館へ連れていかれた時は 泣きたいくらい後悔しました。
そもそも私は優柔不断なので はっきり断わる事ができなかったのです。
恥かしい事です。
言い訳に聞こえますが 友人が心から私のためを思って入信を迫っていると思ったので
それを怒ったりする気になれなかったのです。
これが顕正会に私が関わった経緯です。

155アヤエ:2002/11/01(金) 12:08
ガンコさん
顕正会をどのように感じているか という事ですが
ありのまま 感じたままに と言うと 
顕正会は破壊的カルト集団である と考えてます。
世の中は正しい事がたくさんあります、正しい事は一つではないのです。
自分達だけが正しい、そういった思想は危険だと思うのです。
そう思うから戦争が起こるんじゃないかと そう思うのです。

156アヤエ:2002/11/01(金) 17:44
連発してしまってすみません…

ガンコさん
151でおかしな表現をしてしまってゴメンナサイ。
ガンコさんは疑問に感じる事を素直に疑問として受け止め 解決しようと
努力なさっている、ここが私の友人とは雲泥の差だと感じたので ああいった表現をしました。

私の友人は 疑問に思う事はいけない事だと言って 一心にお題目を唱えるそうです
何か問題が起きると、直接的な努力をせずに 勤行するという行動に出ます。
これは 彼女だけの特殊なやり方で 他の顕正会の方々は違うのでしょうか?
例えば肌荒れも、勤行する事によって治ると思っているのです。
ガンコさんも 肌荒れなども勤行によって治ると考えてますか?
彼女は家族の理解も得ていて、仲良くやっていると言ってましたが
ご家族に直接聞いてみると 毎日喧嘩が絶えず、家の中は空気が重くて
休まらない、と聞きました。この温度差はどういうことでしょう。
彼女がつくそういった小さな嘘が分かる度 本当に心が痛みます。

157ガンコ:2002/11/01(金) 20:48
アヤエさんへ。

たいへん苦慮しています。どのようにお返事申し上げていいか悩むところです。

実はひと月ほど前に、やーこ。さんから質問をいただきながら、まだ答えていないことがあるのです。
「今の若者のしゃくぶくについてどのようにお考えでしょうか、ぜひお聞かせください」と。
わたくしはうっかり者ですから顕正会の恥をいっぱい書いてきましたが、よく読んで下さればそんなに悪口を言っていないことにお気づきいただけるものと思います。
顕正会の評判がメチャメチャ悪いのは事実です。だからといって世間の評判にお追従を言うほど愚かではありませんし、逆に顕正会の中で言われていることをそのまま書くほどバカではありません。どっちに転んでもここの常連の方々に通用するものではありません。
そうなると、わたくしの立場で「顕正会の折伏」 を云々するのは難しいのです。だからずっと考え中だったのです。

まだ考えがまとまりません。
アヤエさんに申し上げても仕方がありませんが、おおむね次のようなことを考えています。

・顕正会の折伏は大聖人の御意に適うのか
・「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる」とも「忠言は耳に逆らう道理」とも言うから、顕正会の折伏が反発を買うのは当然と教わるが、本当か
・折伏は感激を伝えるものと言うが、罰を聞いて感激するのか
・罰は「無間地獄の大苦を今生に消さしめん」との大聖人様の「大慈大悲」であられると浅井先生は言う
・ノルマに追われて慈悲を欠いた折伏になっていないか
・ノルマは先生が決めている
・「おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候」の御金言を顕正会でも引用するが、今の基準は甘過ぎなのではないか

・・・ノルマ、ノルマと書きましたが、顕正会の中で言ったら叱られちゃいます。誓願と言います。それ以外はほぼ顕正会用語(?)にそって書きましたのでお友達に読ませてあげたらいかがでしょう。
おそらくアヤエさんとお友達の中間くらいにわたくしはいるのだと思いますが、お友達から見ればわたくしも「慢心している」グループに入るでしょうね。

今回はずいぶん思い切ったことを書いたの(内心ビクビク)ですが、あくまで疑問形です。これが最終結論ではありません。考えがまとまり次第、書いてみたいと思います。

>連発してしまってすみません…

いいんですけど、わたくし頭の回転が遅いし、ワープロの操作もヘタですので、宿題にさせて下さい。

158顕正居士:2002/11/02(土) 08:48
sunyaさん。はじめまして。

『ヴァイマール版ルター聖書』って何を指すのでしょうか?東京新聞の記事に
今少し何か書いてありませんでしょうか?Luthers Werkeの意味でしょうか?
ルターが職業の意味でBerufを使ったというのは、『ベン-シラの智慧の書』で
Luthers Bibelに含まれてはいない筈なのですが?

159アヤエ:2002/11/02(土) 10:05
ガンコさん
ありがとうございます、書き込んでから 言い過ぎたのでは?と不安で
ガンコさんが傷つくのではないか、せっかく疑問を受け止めようと努力なさっているのに
そこに水を差してしまったのでは、、と不安でした。

私はここに来て 基本的には同じはずの日蓮様の教え、仏様の話が
どうして顕正会の言うことと こんなにも食い違うのか不思議でビックリしました。
友人に聞くと「顕正会以外の教えは全部嘘なの」と言うのですが、
彼女はもう顕正会以外の情報を信じようとしないので 会話になりません。

貴方の書き込みを拝見していて いつも「苦しんでるんだな」と感じていました。
今まで信じていたものが もしかしたら間違いかもしれない、、という事は
とても大変な事だと思います。でもそれは ご自身でしか掴む事の出来ない
ガンコさん自身の「気付き」であり「真」なんだと思います。
どうぞ、じっくり時間をかけて考えてください。焦って結論を出す必要はないと思います。
私も時間をじっくりかけて考えていきたいと思ってます。
本当にどうもありがとう。これからも宜しくお願いします。

160sunya:2002/11/02(土) 15:19
 > 158 顕正居士さん。お話ができますこと、嬉しく思っております。

>> 『ヴァイマール版ルター聖書』って何を指すのでしょうか?東京新聞の記事に
今少し何か書いてありませんでしょうか?Luthers Werkeの意味でしょうか?

 詳細は、ミネルヴァ書房の羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』をごらんいただ
くのがよろしいかと思いますが、東京新聞での羽入氏自身の手になる“本書”の紹介記事
の文章は、こうなっていました。

《 では、そんな大学者の“犯罪”とは何か。本書はごくシンプルに、彼の代表作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理』論文)を対象として、ヴェーバーが読んだと称する一次文献を調べてみたものである。方法の単純さに比べて、出てきた事実は驚くべきものであった。一例だけ挙げてみよう。

 この論文の主要な論点の一つとは、▽プロテスタント諸民族のみにおいて、「世俗的職業」を意味する独語のBerufという語に、「神から与えられた使命」という宗教的合意が存在する▽その理由は、宗教改革の祖ルターがギリシャ語の聖書を独語訳する際に、元来は「仕事」とか「労苦」だけを意味したはずの二つのギリシャ語を、もともと宗教的意味を含んでいたBerufという語で訳してしまったために生じた事態である ▽この事態の根本原因は結局、宗教的意味しかなかった“クレーシス(原義は「呼び掛け、召し」)”という別のギリシャ語をルターがBeruf、という独語で訳してしまったこと、しかもこの“クレーシス”が文脈上「身分」の意味を持っていたことに自ら引きずられたためである -- というものである。

 緻密な論理で隙などないように見える。だが、ルターの一次資料として最も信頼できるヴァイマール版ルター聖書を調べてみると、ヴェーバーが指摘する部分の“クレーシス”をルターがBerufと訳したことなど一度もなかったのである。これがヴェーバーの勘違いなら、論旨は成立しなくなるが、彼の作意までは認められない。だが、彼はルターがそう訳したのではなく、後世の誰かがそう訳したのを承知の上で主張していたのである。さらに調べるにつれ、次々とおかしな点が出てきた。
 本書は彼が『倫理』論文の中で、意図的に資料のでっち上げを行っていた事実を四点明らかにしており、世界で初めての発見である。それは彼が晩年に至るまで強く主張した「知的誠実性」に最も反する犯罪的行為であったのに…。 》と。

 羽入氏は、Luthers Bibel について「ルターの一次資料として最も信頼できるヴァイマ
ール版ルター聖書」と、この記事では言及するのみでした。
 ヴェーバーの“知的誠実性”にするどく迫る羽入氏ですから、“ヴァイマール版”が何
故にして“一次資料として最も信頼”し得るのかは、おそらく“本書”の中で充分に吟味
されていることなのでしょう。


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