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本門の戒壇について

1野菊:2003/10/09(木) 09:02
またまた新スレッド作ってしまいました。<(_ _)>
本門の戒壇というとすぐ国立だの富士山だのとなってしまいますが、
私は一番重要なのは、自誓戒ということが本門の特徴だと思うのです。
偉い坊さんから授かるのではなくて、自らすすんで御本尊に誓う。
折伏といえどもこの例外ではなくて、説き伏せて、泣き脅して(笑)
某教団などとは違い、我々はそんなことはしませんが、そんな方法で会員を
増やしたところで、他人に強制されて立てた誓いでは本門の戒壇ではないわけです。
どうでしょう?

2空き缶:2003/11/04(火) 00:00
はじめまして、空き缶と申します。

興味のあるスレッドでしたので、若干趣旨と異なるかもしれませんが、書込みいたします。

「娑婆は究極円満の事相の寂光なり。この寂光を以って、本国土の娑婆と名づく。これ本門の戒壇なり。」(本門戒体見聞)

日隆上人の教説と聞きますが、どういう意味なんでしょう?

末法の娑婆世界=本門の戒壇という事でしょうか?

詳しい方教えて下さい。

3野菊:2003/11/04(火) 09:27
空き缶さんおはようございます。(^○^)
本門の戒壇の解釈は難しいですよね。未だよくわかりません。
御書にも「本門戒体抄」というのがありますよね。出勤前に目を通しましたが
よくわかりませんでした。
私のメールマガジンの今月号が丁度、宮沢賢治の本門の戒壇についてなので
読んでみてください。↓ ヒントになるかも?
http://www.reibyo.net/mag/backno/0009.html

教学的な難しい話は別の師にお願いいたします。

4川蝉:2003/11/04(火) 11:49
2 : 空き缶 さん今日は。

日隆上人の教学には全くの不案内ですが、本門法華宗管長の増田日紘師の著書『本門法華宗教義提要』があります。

「門祖(日隆上人)は、本国土妙をもって本門の戒壇となし、その中でも、末法は本時の寂光法界であるから、末法をもって戒壇院となし、娑婆即寂光、本国土妙戒壇の説」(170頁)

と解説してあります。

妙法不信謗法の充満するままの濁悪末法のままに本門の戒壇と見るのでなく、「衆生一同に妙法を唱えるところに、十界久遠の本門の戒壇が実現することになる」(同書170頁)と云うことのようです。
妙法により寂光化された娑婆を本門の戒壇とするようですね。

いわゆる国立戒壇のような戒壇建立論は主張されていなかったかのでは。

5空き缶:2003/11/04(火) 16:14
野菊さん、川蝉さん、はじめまして。
早々のお返事ありがとうございます。

「国立戒壇論」は富士門流の伝統が、「大政奉還・明治維新」後の日本政治の変換を受けて、うまれてきた思想であると思います。

戒壇論については、某掲示板にて「顕正会」の皆さんと意見を交わそうと思い、スレッドを立ち上げましたが、残念ながら閑古鳥が鳴いている状態です。

「富士門流信徒の掲示板」においても、現在の私の考えを箇条書きにして述べさせていただきました。

富士門においても、上代では「朝廷の帰依による、朝廷発願・建立の戒壇」であり、戒壇建立の場所については、日本一の名山「富士山」であると伝わっています。
この戒壇が建立されるまでは、日蓮門下は「私度僧」(律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼。)で在るべき、とするのが富士門流における「戒壇建立」の意義であったように感じます。

今日的な意義としましては、どうなんでしょうか?少なくとも「国立戒壇」を造ると成ると、「公共事業」ですから、もっと別な税金の使い方をしてほしいと、個人的には思ってしまいます。

6野菊:2003/11/04(火) 22:05
三大秘法抄において、「最勝の地をたずねて、戒壇を建立すべきか。時を待つのみ。
事の戒壇とはこれなり−−」これが国立戒壇のもととなったのでしょうが、
田中智学先生はだいたい500年くらい先と考えていたようだ。と聞いたことがあります。
その時は、一天四海帰妙法がなった時で建物の建設が目的ではありません。
一天四海帰妙法のモニュメント的なものが国立戒壇で、建設が目的ではないと思います。
それ以前に、重要なのは、門下の戒は先達、先師に授けられる受動的な戒ではなく
自ら仏や上行菩薩日蓮聖人に誓う自誓戒でなければいけません。
自ら誓うのですから、唐招提寺や東大寺でなくても良いのであり、今、自分が生活する
その場が、即道場、戒壇だと思います。
富士門流のことはわかりませんが、上行菩薩日蓮大聖人の門下は大聖人の御心に異体同心し
一天四海帰妙法に邁進すべきであり、建物の建設などは二の次だと思いますよ。

7空き缶:2003/11/04(火) 23:44
なるほど、その辺が富士門流(日興門流)との見解の相違なんですね。

富士門流において、現在「国立戒壇」を主張する団体は「顕正会」のみです。その顕正会が依正としている御遺文も「三秘抄」です。

富士門流は癡なことに、この「建物」のことでイザコザをおこして650年に成らんとしています。

建てる場所、本堂に安置する御本尊、等など。しかし、それほど富士門流にとっては重要なことだったのでしょう。

私は、上代における「本門寺」構想は、僧侶の出家得度の儀式を遂行する場としての意義があったのではないか、と考えています。
富士門流では、本門寺本堂には宗祖御影を安置すると伝わっているところも在ります。その意味では、

ご存知と思われますが、日隆上人は富士門流の方では無いです。富士門流に教学的な影響を与えた方です。
日隆上人の本門戒壇論は、野菊さんの考えに近いような気がいたします。

8空き缶:2003/11/04(火) 23:47
訂正です。

◎富士門流では、本門寺本堂には宗祖御影を安置すると伝わっているところも在ります。その意味では、

富士門流では、本門寺本堂には宗祖御影を安置すると伝わっているところも在ります。その意味では、日蓮門下内においては様々な戒壇論があるんでしょうね。

9管理者:2003/11/05(水) 11:52
空き缶さん、初めまして。
昨日色々と調べてまして遅くなりました。
>2の「娑婆は究極円満の事相・・・・
ですが、日隆上人の書物は数百在ると聞いてます。この文とは違いますが、川蝉さん引用中の「末法をもって戒壇院」(この様な表現が日隆上人の書物に幾つか在るのか)について、山川智應先生は
「末法といふ時代全体をば、戒壇院だといふので、彼の「本尊抄」の『四十五字の法体』を、証文に引いて居るなど、理檀も理檀、根本的の理檀、即ち本門円戒の原理論である。」日蓮聖人の実現の宗教157頁
と言われてます。
尚、出典箇所に山川先生の意に反する箇所でしたら、全て私の責任です。m(_ _)m

>国立戒壇
これに就いて、様々に記憶をたどり出典を今求めたのですが、短い文章で端的に書かれている箇所が発見できませんでした。m(_ _)m

10川蝉:2003/11/05(水) 11:53
今日は。

隆師の戒壇についての見解が気になったので、日蓮宗事典を見たところ、
《 『法華本門弘経抄』の神力品の項で師日存の口伝として「本門の戒壇について通途に戒と云う時は、正報を本と為し、壇と云う時は、依報を本と為す(略)国主信用の時は日本一州万民を受者として本門の戒壇を建つべきなり。戒壇は世間流布の本尊の如く、戒壇の方面は地形に従うべし。寸尺高下注記すること能わず云々」(日隆聖人全集第十一巻一ー二頁)と述べている。この文から推察すると、師日存には戒壇建立の主張があったものと考えられるが、この文以下の日隆の記述は事壇の主張はみられず、即是道場の理壇を主張している 》

と解説してありました。

伊藤 瑞叡教授は
「日隆の叔父であり師である日存は像門であるから、この口伝は日蓮聖人から朗師・像師への相承でありうる。・・。隆師は理壇に立脚しながらも、口伝相承を媒介として、未来に戒壇事成を期している、と知られるのではないか。」(三大秘法抄の真偽論争75頁)
と云う見解を記しています。

伊藤 瑞叡教授の「三大秘法抄の真偽論争」(日蓮宗出版扱い・5000円)は非常に参考になるものです。

11空き缶:2003/11/05(水) 21:28
管理者さん、川蝉さん、お返事ありがとうございます。

私が引用しました「本門戒体見聞」も「存師、口伝に曰く」と成っていることから、日隆上人の本門戒壇思想は日像上人以来の影響によるものと思います。

「三大秘法抄の真偽」には、私も興味があるのですが、上古の写本は「久遠常院日親上人」の写本でしょうか?

12川蝉:2003/11/06(木) 15:13
空き缶 さん今日は。

室町時代の写本として四本あるそうです。
冨士門流の日時(〜1406年)
日隆(1385〜1464年)の写本
日親(祖滅161年の1442年書写)
身延日朝(1422〜1500年)の写本

伊藤 瑞叡教授の「三大秘法抄の真偽論争」によると、
伊藤 瑞叡教授は入手した日時写本のコピーを見ると「弘安五年卯月八日」となっているそうです。

富士年表委員会では「日時写本考証の結果信憑に足る」とする富士年表委員会の考証理由を転載しています。

日時写本が日時真筆とすれば、日親上人写本より約45年ほど古い物となりますね。

13空き缶:2003/11/06(木) 16:51
川蝉さん、いつもお返事いただきありがとうございます。

日時写本といわれていたものは、大石寺所蔵の「御書目録日記事」に掲載されている「大田金吾殿御返事」のことですが、最近の興風談所の筆跡調査によると「日時筆」ではなさそうです。

この興風談所の研究成果を考慮しますと、やはり「日親写本」が上古の写本になりそうですね。

14川蝉:2003/11/06(木) 19:31
空き缶さん今晩は。

興風談所の筆跡調査を知りませんでした。有益な情報を有り難うございます。

16管理者:2003/11/07(金) 11:54
空き缶さん、今日は。
ご参考まで。日蓮聖人の実現の宗教135頁に

 そこで此の「心底抄」(原漢文)の内容は、三大秘法を講説したもので、その中の『本門
戒壇』の下に、
 『本門ノ戒壇建立必定ナリ。所以ハ何ン。涌出、神カノ明文ニ、本化ノ大人ヲ召シテ久成ノ要法ヲ授ク。故ニ経ニハ、後五百歳中広宜流布、於閻浮提無令断絶卜説キ、釈ニハ、当ニ知ルベシ、法華真実ノ経ハ、後五百歳ニ於テ、必ズ応ニ流伝スベシト明セリ。加之、天台ハ下方ヲ召シテ来ラシムルニ、亦三義アリ。是レ我ガ弟子ナリ、応ニ
 我ガ法ヲ弘ムベシ。緑深広ナルヲ以テ、能ク此ノ土ニ遍スト宣ベリ。』
と書き出して、『本門戒壇』将来必らず建立せらるべきであると断諭し、つゞいて
 『道暹云ク、付嘱トハ、此ノ経ハ唯下方涌出ノ菩薩ニ付ス。何ヲ以テノ故ニ爾ルヤ。法ハ是レ久成ノ法ナルガ故ニ、久成ノ人ニ付ス等、経釈符契ノ如シ。行者(これは日蓮聖人のことである)既ニ出現シ、久成ノ定慧(本門の本尊と題目)広宣流布セバ、本門ノ戒壇其レ豈立タザラン哉。佛像ヲ安置スルコトハ、本尊ノ図ノ如シ。戒壇ノ方面ハ、地形ニ随フべシ。国主信伏シテ、造立ノ時至ラバ、智臣大徳宜シク群議ヲ成スベシ。兼日ノ治定、後難ヲ招クコト有ラン。寸尺ノ高下ハ、注記スルコト能ハズ。』
なかなか識見明快である。本門の戒壇は、必ず建てらるゝ時があるに相違ない。その時には、佛像を安置することは、この本尊曼荼羅の如く安置すべきである。戒壇の方面は、地形に随って定むべきである。国主信伏して、一国同帰の戒壇を造立するの時が至ったなら
ば、その時には、必ず智臣大徳が、その事に就いてよく熟議して、宜しきに従って、きっと真の戒壇が建つであらう。その時も来ない今において、所謂『兼日の治定』=勝手な事を小田原評定すること=は、却って宜しくない。さういふ訳だから、寸尺の高下等は、此に註記することは出来ないと、かういふのである。

     第三項一妙=導師との符契の解釈

 そこで此の「心底抄」は、彼の江戸時代の単称日蓮宗の学者、一妙導師の説と最も近い。導師は、戒壇造立の時がいたったならば、その時は国王は無論の話、皇太后にも、法師にも、国臣にも、必らず本化の菩薩が出られるだらう。さうして真の本化の本門戒壇が、建
設せられるに相違ないといふことを、「祖書綱要」に、信念欝勃たる文章で、
 『其ノ時既ニ至ラバ、則チ上行等ノ四大薩た、国母トナリ、賢王トナリ、良臣トナリ、聖僧トナリ、折伏ヲ以テシ、摂受ヲ以テシ、戒壇ヲ勝地ニ築キ、三秘ヲ普天ニ掲ゲンコト、決定シテ疑無カラン。誠惶至炊。然ルニ其ノ時無クンバ、応ニ本化所弘ノ三秘ハ、未ダ迹化過時ノ三学ニ及バズト言フべシ。無稽ノ曲説、大ニ宗旨害アリ。彼等ノ偏見ヲ容スべカラズ。』(原漢文)
と、断乎として国立戒壇を否定する説を排斥して居るのである。そしてその理由も文章も恰も三位口順師が、六百余年前に書いて居るのと、符契の如く合って居るではないか。

17管理者:2003/11/07(金) 16:44
空き缶さんへ、
長いですが何かの参考まで、日蓮聖人の実現の宗教148頁に

「日什御奏聞記録」(日穆詑)…中略…
 その記録は、什師の諌状奏聞の事蹟を、日穆といふ彼の師の上足の人の筆で、その中に日穆師が、諌状奏聞の趣旨について、什師に尋ねたのに対し、什師の答へた語がある。
 『日穆尋ねて云く、報恩鈔に云く、天台伝教の弘め残したまふ所の法門三つあり。所謂本門の戒壇と本門の本尊と、妙法蓮華經の五字とこそ候に、(師の)申状の如き(は)、天台は一心三観一念三千、日蓮は題目の五字とこそ候に(へ?)。何ぞ上の(戒壇と本尊)の二つをば、載せず候耶等云云』
天台伝教の未弘の法門が三ツある。所謂本門の戒壇と、本門の本尊と、題目の五字であると大聖人が仰せられてあるのに、師が武家公家への上書には、専ら題目の五字のみを天台伝教の一心三観一念三千に対してお説きになつて、本尊と戒壇の事は、天聴及び将軍家に向って、何等申し上げて居られない。これはどういふ次第でありますかと尋ねて居るのである。それに対して、日什師の答は、
  師曰く、『尤も所難の如し。但し申状に裁せざることは、上ニヶ條は、当宗信仰の後申し立つべき法門にて候間、載せず候。』
戒壇、本尊といふことは、信者以後の人に向って初めて言はるべき事で、未だ信仰しない人に対して開示すべき法門でない、それだから言はぬのである。これは『逆縁ノタメニハ但ダ妙法蓮華經ノ五字ニ限ルノミ』の意で、宗門上古の正義を示したものだ。またこの書の最後のところに、斯ういふことがある。
 『総じて奏聞の事は、涅槃經の、若善比丘等の、佛法中怨の難を恐れ、是我弟子真声聞也等の金言に任せて、上人(日蓮聖人)仰せ候ひし事なれば、一天御承引のなからん程は、日什が門弟に於ては、一大事たるべく候。是則ち日本国の人に訴ヘ申し候也。一天承引の後は、花洛の弘通、公方に望むことは、名利の禍も有るべく候か。仍て田舎卑賤の土民を教化する事を、化導の本意と為すべく候。』
もう一国同帰となったといふ時までは、みな集中して公家武家を諌奏せよ。若し国主信用して、一国同帰の場合に至れば、初めて都から離れねばならぬ。何となれば、その暁に、なほ都での弘通は、名利を望むに似て感心しないから、一国同帰となった時には、我が弟子等は、皆田舎へ行って弘通しろ。それを私の門弟に特にいって置くといふのである。
 この中に二つの感銘すべきことがある。『一天承引なからんほどは、日什が弟子に於ては、一大事たるべく候』といって、どこまでも『一天承引』を目標として居ることと、今一つは、『一天承引』の後は、京洛に留まってグズグズして居ては、名聞栄利を望むやうでいけない。早く田舎へ行って、地方の民衆を教化せよといふことで、中央集権の後は、もはや地方を顧みないやうな政治家などは、宜しくこの什師の態度に恥づるがよい。これも日什師が、法華の円理について、十分の体験をもって居たからの卓識である。


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