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反・反戦派の方々へ

1イカフライ:2003/05/04(日) 14:53
 え-、よく晴れたゴ−ルデンウイ−クにネットに向かってるのもネクラなんですが、時間のあるうち、ということで。

 今更ですが、反・反戦派、まあ、戦争容認派、反戦懐疑派、いいかたはなんでもいいんですが、の方々の主張は、まとめるとこんなところでしょうか。

1・戦争に賛同するわけでも推進するわけでもないが、無くす手段が無い以上、容認せざるをえない。
2・だから、反戦運動は、無駄である。
3・人間は利益、利害で動くものだから、関係無い他者がいくら死のうが関係無い。
4・もし戦争になって、自分や家族が死んでも、その時は、仕方ない。

102ぼーん:2003/05/11(日) 12:50
>>95
どうもお久しぶり。
JDSみらいさんの理解は誤解ではあるのですが、僕がここ数日の間は強調しなかった
点に関する「ありうべき誤解」です。僕がこれまでに書いたことはずっとマシに理解さ
れているように思うので、大感謝ですね。

>>83ぼーん氏
>>とりあえず、利己的ではない「他者と自分を等しい価値のあるもの」とみなすまと
>>もな人だけを相手にして、順番に説得してゆく。ある段階で、それが十分な多数派
>>になれば、それで話は解決する。ある段階で、道義に従う多数派に暴力で立ち向か
>>うことは却って損になる。「利己的」なら、そんなことはしない。

> 少なくとも、私にとって「家族・親族係累・友人知己」と「その他の人間」であれば、
> 「他者と自分を等しい価値のあるもの」とは見做せません。特に、生命に関わる問題で
> あれば、なおさらですが。

「私において」はもちろん違います。
そこらへん歩いてる誰かさんと、私の家族とでは、「私にとっての」重みはぜんぜん違います。「私にとって」は、後者の方が大事なのは確かです。多くの人がそうでしょう。家族の大切な一員を殺されることと、誰か知らない赤の他人が殺されること。それは、多くのひとにとって違う重みを持つでしょう。そのことは認めています。

大事なことは、これは「私にとっての違い」であり、「万人がそう感じるべき違い」ではない、ということです。

私にとっての大事な家族は、別の誰かにとっては赤の他人である。
私にとっての赤の他人は、別の誰かにとっては大事な家族・友人であったりもする。
あるいは、少なくとも本人にとって、本人自身はかけがえのない存在である。
一人一人にとっての「誰か」の重み、というのは、その関係性によって違います。(続く)

103ぼーん:2003/05/11(日) 12:51
ここで、仮に「私の大事な家族が」何者かによって殺されたという状況を想像してみます。
(あまり愉快な想像ではないですが。)
その状況で、僕は激しく怒り、悲しむでしょう。私に近しい人は、私と共に(ある程度は)怒り、悲しむでしょう。まったくつながりのない赤の他人は、さほど怒りも悲しみもしないでしょう(まったくしない、とは言わないが)。

素朴に見れば、ある事件があり、その後の怒りや悲しみというのは、このように不均質に存在しています。ここまではJDSさんのおっしゃる通りです。

さて、もしここで、その犯人を捕まえようと思えば捕まえられるのに、誰も捕まえようとせず、罰することもしようとしないならば、僕はそれに怒るでしょう。悲しむでしょう。
しかし、そのような「残念だ」という感覚だけではなく、それは「不正である」と強く思うでしょう。社会は、そのような人間を捕まえてきちんと罰するべきであるのに、それをしないならば、それは「僕にとって腹の立つこと」「僕にとって悲しいこと」であるというだけでなく、「社会全体が正すべきこと」として認識されるでしょう。この最後の一点において、「自分と他人を等しい価値があるものとみなす」ルールにコミットしているんです。

このルールにコミットしているとすると、どういうことが言えるでしょうか。
「あなた自身が、あるいはあなたの大切な人がヒドイ目にあわされたとき、それを「腹が立つ」とか「悲しい」とか、そういうことを言う自由はあなたにはある。しかし、αを拒否するならば、「それは不正だ」と言う資格は、あなたにはありません。ただただ腹を立て、ただただ悲しんでください。「犯人を捕まえて罰して「欲しい」」とは言う自由はあります。しかし、「犯人を捕まえて罰する「べきだ」」という資格はありません。αを拒否するとは、こういうことです。」

「あなたは、赤の他人が殺されたときに、それに「自分の家族が殺されたときと同様に」腹を立てたり、悲しんだりはしないでしょう。する人もいるかもしれませんが、それはその人の自由です。しかし、正/不正というレベルにおいては、不正であるという認識を「自分の家族が殺されたときと同様に」持たなければなりません。これが、他者と自分を同等に尊重する、ということの意味です。」

多分、こういうことが言えるはずです。

104ぼーん:2003/05/11(日) 12:52
さらに続けます。
「身近な人における不条理に対して「悲しい」というだけでなく、それを「不正だ」というのならば、それはαにコミットしているのです。だから、赤の他人が出会っている不条理に対しても「不正だ」といわねばなりません。「悲しい」という必要はありません。

しかし、もし、あなたが赤の他人の出会った不条理について、
(1) 「不正だ」とは言わない。あるいは、
(2) 「不正だが、仕方がない」と言う。
ならば、あなたはαにしたがっているとは言えないのです。その場合には、あなたは、身近な人における不条理についても「不正だ」と言う資格を失います。「悲しみ」「怒り」をただただ個人的なこととして受け止めるべきです。決して「不正だ」と言ってはいけません。どうしても「不正だ」といいたいならば、(1)や(2)のようなことを言ってはなりません。」

あくまでも、αに立ちつづけるのか、αを放棄するのかは、それぞれの人が選ぶことです。
僕は、αに立っているという人に対して、その人が実際にはαを裏切っているではないか、という話をします。そして、一貫してαをきちんと守るように要求するのです。その段階で、その人はαに立ちつづけるか、αを放棄するのか、再度選びます。
「そんなにすごいことなら、αなんか守ってらんねえや」という人がいれば、残念ですが話はそこで終わりですね。しかし、今までのところ、幸いにしてそんな人に会ったことがないので、このやり方も捨てたもんじゃないな、と思ってます。

105ぼーん:2003/05/11(日) 12:53
>>95
> そして、上記のような価値観は極一部の少数派の価値観でも無いでしょう。
> 「家族・親族係累・友人知己」と「その他の人間」を同等の価値であると考える人間の
> 方が、むしろ少数派なのでは?

そう思います。ただし、その場合には、「情」の側面が含まれているから、です。
「情」の側面において、各個人に対して、各個人において、異なる価値が与えられている、というのは経験的にも分かることです。

しかし、僕らは不条理に出会うとき、「怒る」「悲しむ」だけでなく、「不正である」という感覚を強く持ちます。この3つめの感覚において、私たちはαを前提しており、また、3つめの感覚を主張したいならば、その点において、「自分と他者を同じ価値があるとみなさなければならない」ということを言っているのです。

いいかえれば、「不正である」という感覚において等しい価値を付与するとしても、それ以外の「情」の部分でいくら異なる価値を付与したって構わないわけです。で、合計としては異なるでしょう。とまぁ、そういう話になるわけです。

> と言う事は、「ある段階で、それが十分な多数派になる」状態は永久に望めないでしょう。
> このように考える人間が私の周囲では殆ど、と言うか全てです。
> 自衛隊の内部のみでは無く、郷里の同級生・知人・そして現在居住している場所での
> 近所付き合い・その他趣味を通じての知り合いでもそうです。

> 少なくとも、その生命に於いては、
> 「その他の人間の比重」=「家族・親族係累・友人知己の比重」では無く
> 「その他の人間の比重」<「家族・親族係累・友人知己の比重」とする人間が
> 大多数なのでしょう。

「家族・親族係累・友人知己の比重」=「公正概念における比重1」+「情における比重」
「その他の人間の比重」      =「公正概念における比重2」

なんですね。
で、僕は「公正概念における比重1」=「公正概念における比重2」を要求してるわけです。

「その他の人間の比重」<「家族・親族係累・友人知己の比重」は構いません。

ただし、「公正概念における比重1」=「公正概念における比重2」を拒否するならば、

「家族・親族係累・友人知己の比重」=「情における比重」

でなければならない。つまり、公正概念に訴えてはならない。ということを意味する。そういう話です。

106ぼーん:2003/05/11(日) 12:53
(続き)
> そうで無いのであれば、アフガン・イラクに対する軍事攻撃の「反戦運動」に対して、
> 日本国民の大多数が殆ど無関心であった説明が出来ないのでは?
> ぼーん氏は日本国民を説得(布教・・ですか?)する気は無いのでしょうか?

説得する気があるんです。アフガン・イラクに対して大多数が無関心であったのは、彼らがαを自分に対しては適用しながら、他人には適用しないという「違反」を行っているからです。だから僕は彼らの一人一人の元を訪れ、αの履行か、もしくは完全なる拒否を求めます。αを使ったり使わなかったり恣意的なやり方はよせ、と言うのです。

これが、「説得」にあたります。

でも、この説得には結構多くの人が応じると思いますよ。
広島出身の人なら、原爆投下を不正義だと思わない人なんてほとんどいない。
実際に身近な人が理不尽な目にあったとき、それを「情」のレベルで悲しむだけで満足する人は、あんまり見たことがありません。「ヒドイ話でしょ?ねぇ?」と、あくまでも「不正である」という主張への同意を求めてきます。だから、その点では、僕は結構楽観的なんです。

JDSさんの誤解を避けるために僕が強調すべきは、「情」と「正/不正」の感覚が、互いに関係はしてても「異なるものである」という点でした。この点は、議論が煩雑になるまで、実際に疑問点が提出されるまであまり強調しませんでした。この話を受けて、JDSみらいさんはどうお考えになりますか?




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