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反・反戦派の方々へ

103ぼーん:2003/05/11(日) 12:51
ここで、仮に「私の大事な家族が」何者かによって殺されたという状況を想像してみます。
(あまり愉快な想像ではないですが。)
その状況で、僕は激しく怒り、悲しむでしょう。私に近しい人は、私と共に(ある程度は)怒り、悲しむでしょう。まったくつながりのない赤の他人は、さほど怒りも悲しみもしないでしょう(まったくしない、とは言わないが)。

素朴に見れば、ある事件があり、その後の怒りや悲しみというのは、このように不均質に存在しています。ここまではJDSさんのおっしゃる通りです。

さて、もしここで、その犯人を捕まえようと思えば捕まえられるのに、誰も捕まえようとせず、罰することもしようとしないならば、僕はそれに怒るでしょう。悲しむでしょう。
しかし、そのような「残念だ」という感覚だけではなく、それは「不正である」と強く思うでしょう。社会は、そのような人間を捕まえてきちんと罰するべきであるのに、それをしないならば、それは「僕にとって腹の立つこと」「僕にとって悲しいこと」であるというだけでなく、「社会全体が正すべきこと」として認識されるでしょう。この最後の一点において、「自分と他人を等しい価値があるものとみなす」ルールにコミットしているんです。

このルールにコミットしているとすると、どういうことが言えるでしょうか。
「あなた自身が、あるいはあなたの大切な人がヒドイ目にあわされたとき、それを「腹が立つ」とか「悲しい」とか、そういうことを言う自由はあなたにはある。しかし、αを拒否するならば、「それは不正だ」と言う資格は、あなたにはありません。ただただ腹を立て、ただただ悲しんでください。「犯人を捕まえて罰して「欲しい」」とは言う自由はあります。しかし、「犯人を捕まえて罰する「べきだ」」という資格はありません。αを拒否するとは、こういうことです。」

「あなたは、赤の他人が殺されたときに、それに「自分の家族が殺されたときと同様に」腹を立てたり、悲しんだりはしないでしょう。する人もいるかもしれませんが、それはその人の自由です。しかし、正/不正というレベルにおいては、不正であるという認識を「自分の家族が殺されたときと同様に」持たなければなりません。これが、他者と自分を同等に尊重する、ということの意味です。」

多分、こういうことが言えるはずです。




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