したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

Tohazugatali Medical Review

1とはずがたり:2004/10/17(日) 14:58
医学・病院・地域医療など今までTER http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1046080617/l10で扱ってた話題を独立させます。

医薬品・製薬関連はこちら http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1070807006/l10

自民党と結託し日本の成長に対する桎梏となってる医師会・歯科医師会の不祥事はこちら http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1067007932/l10

TERの過去レスは>>2-5あたり

4132とはずがたり:2014/08/24(日) 17:42:36

3年間で廃止「山梨医専」…在籍者が見た終戦
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20140816-OYT8T50041.html?from=yartcl_popin
2014年08月16日 12時04分

戦後の一時期、山梨医専の校舎として使われていた国の登録有形文化財「山梨大学赤レンガ館」(甲府市北新で)

 太平洋戦争の本土空襲が本格化した1944年、甲府市に県内初の医師養成機関として山梨県立医学専門学校(山梨医専)が開校してから今年で70年。軍医や国内の医師不足を背景に設置されたが、終戦間もない47年にわずか3年間で廃止され、その実像はあまり知られていない。

 山梨医専に在籍し、後に俳優となった甲州市出身の土屋嘉男さん(87)に当時の様子を語ってもらった。

 ◆「徴兵なし」で受験

 44年、僕は日川中学5年生で、学徒動員先の愛知県の飛行機工場で働いていました。

 旧制中学は5年制。バイオリンを弾いていたこともあり、卒業後は東京音楽学校(現在の東京芸術大音楽学部)にと考えていましたが、戦況悪化で学生の募集がなかったのです。

◇  ◇  ◇
 ≪山梨医専は44年4月、当時は生徒募集を中止していた甲府商業学校(甲府市青沼)の敷地内に開校。山梨県立中央病院史によると、同年の第1期生入試には120人の定員に3420人が応募。倍率28・5倍の狭き門となった≫

◇  ◇  ◇
 当時、医学生だけは徴兵されなかったので、実家から「山梨医専を受けなさい」と言われました。戦場に行かせたくない親心でしょう。45年の試験を受けると運良く合格できました。

 ◆甲府空襲…焼けた校舎 片付けばかり

 入学式の前夜の45年7月6日、甲府空襲がありました。翌日、塩山から汽車に乗って医専を目指したが、石和から先に進めず、歩いて向かいました。

 甲府に入ると家が1軒も残っていない焼け野原。ものすごい数の死体も見ました。入学後は焼けた校舎の片付けばかりで、授業どころではなく、入学から約1か月、ほとんど勉強せずに終戦を迎えました。

4133とはずがたり:2014/08/24(日) 17:43:20
>>4132-4133

◇  ◇  ◇
 ≪終戦後、山梨医専は甲府連隊が使っていた兵舎跡地(甲府市北新、現在の山梨大付属小・中学校)に移転した≫

◇  ◇  ◇
 当時は建物が足りず、真夏の炎天下の中庭で、麦わら帽子をかぶって汗だくになりながら死体の解剖実習をしました。

 終戦直後で死体はたくさんあり、1年間で30体近く解剖したと思います。時には死体にホルマリンを注入する仕事を1人でやるように命じられたこともありました。

 ◆死体のホルマリン漬け「やってられない」

 医専に入った連中は、医者志望者と、僕のような徴兵を避けてきた者とに分かれていました。

 表立っては言いませんが、互いに雰囲気で何となく分かります。僕は医者志望じゃなかったから、死体をホルマリン漬けにする度、「やってられない」という気持ちになりました。

 勉強にも身が入らず、授業で教授から質問されたのに答えられなくて、隠し持っていたバイオリンを弾いてごまかしたこともあります。

 しかし、医専の教授は東大出身がほとんどで、教養を備えた人が多かった。彼らと音楽や芸術の話をできるのが楽しみで学校へ行っていました。

◇  ◇  ◇
 ≪山梨医専は47年、廃止された。当時、医専には3学年248人が在籍。学生は他大学の医学部に移るか、救済措置で設置された「戦後特設高校」に進むかを選ぶことになった≫

◇  ◇  ◇
 戦争で諦めたバイオリンや文学をやろうと思いました。そんな折り、親しかった太宰治が「君はマスクがいいから」と、俳優座養成所の募集を教えてくれ、俳優を目指すことにしました。

 僕のように医者にならなかった人を、仲間は「医専崩れ」と呼びましたが、地方で舞台の公演があると、同級生が見に来てくれました。

 ただ、医専の親友はみんな亡くなってしまいました。戦時中は、バイオリンも文学も「国賊」扱い。だから、戦後は好きなことをやってやると思って俳優になりました。戦争ほどばかげたことはありません。(佐々木想)
2014年08月16日 12時04分


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板