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Tohazugatali Medical Review

4133とはずがたり:2014/08/24(日) 17:43:20
>>4132-4133

◇  ◇  ◇
 ≪終戦後、山梨医専は甲府連隊が使っていた兵舎跡地(甲府市北新、現在の山梨大付属小・中学校)に移転した≫

◇  ◇  ◇
 当時は建物が足りず、真夏の炎天下の中庭で、麦わら帽子をかぶって汗だくになりながら死体の解剖実習をしました。

 終戦直後で死体はたくさんあり、1年間で30体近く解剖したと思います。時には死体にホルマリンを注入する仕事を1人でやるように命じられたこともありました。

 ◆死体のホルマリン漬け「やってられない」

 医専に入った連中は、医者志望者と、僕のような徴兵を避けてきた者とに分かれていました。

 表立っては言いませんが、互いに雰囲気で何となく分かります。僕は医者志望じゃなかったから、死体をホルマリン漬けにする度、「やってられない」という気持ちになりました。

 勉強にも身が入らず、授業で教授から質問されたのに答えられなくて、隠し持っていたバイオリンを弾いてごまかしたこともあります。

 しかし、医専の教授は東大出身がほとんどで、教養を備えた人が多かった。彼らと音楽や芸術の話をできるのが楽しみで学校へ行っていました。

◇  ◇  ◇
 ≪山梨医専は47年、廃止された。当時、医専には3学年248人が在籍。学生は他大学の医学部に移るか、救済措置で設置された「戦後特設高校」に進むかを選ぶことになった≫

◇  ◇  ◇
 戦争で諦めたバイオリンや文学をやろうと思いました。そんな折り、親しかった太宰治が「君はマスクがいいから」と、俳優座養成所の募集を教えてくれ、俳優を目指すことにしました。

 僕のように医者にならなかった人を、仲間は「医専崩れ」と呼びましたが、地方で舞台の公演があると、同級生が見に来てくれました。

 ただ、医専の親友はみんな亡くなってしまいました。戦時中は、バイオリンも文学も「国賊」扱い。だから、戦後は好きなことをやってやると思って俳優になりました。戦争ほどばかげたことはありません。(佐々木想)
2014年08月16日 12時04分


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