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都市計画道路・高速鉄道スレッド
1
:
■とはずがたり
:2002/12/21(土) 09:07
都市計画に関するスレッド。田舎の道路開通も可。
1191
:
とはずがたり
:2008/06/05(木) 18:34:35
へぇ。。ほんとなんか!?
17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/05/26(金) 23:37:57 ID:riJF1iSQ0
三田線は、新板橋をJR板橋や東武下板橋との乗換駅にすることと、
朝霞台または志木あたりに延伸することが不可欠だよな。
てか三田線が東急に乗り入れて三田と日吉が1本の線路で連結されたのは、
偏に慶應関係者の力によるものだと思うのだけど、その慶應は三田線を志木に
延ばして三田と志木を連結する気はないのかなぁ。
18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/05/27(土) 12:17:09 ID:tpLeI8yP0
>>17
妄想しすぎて基地外になったか
19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/05/27(土) 23:46:29 ID:ydl1AcZx0
三田〜日吉の連結が慶應の影響力がなかったなんていったら嘘になるよ。
三田線は元々池上線に乗り入れるはずだったのを曲げて目蒲線にしたんだから。
1192
:
名無しさん
:2008/06/05(木) 19:13:15
>>1191
三田線のwikiを見る限り、
>三田線は元々池上線に乗り入れるはずだったのを曲げて目蒲線にしたんだから
と言うのは無理がありますね。
池上線への相互乗り入れ計画が頓挫したのが1965年(昭和40年)で、
目蒲線への乗り入れが決まったのは1985年(昭和60年)となっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E4%B8%89%E7%94%B0%E7%B7%9A
1193
:
とはずがたり
:2008/06/05(木) 20:25:59
>>1192
あざーす。
三田線の建設迄の変遷は可成りの複雑怪奇さですね。抜粋整形。
<東西線の分岐線構想として誕生>S32-S37
1957年(昭和32年)の建設省告示第835号「東京都市計画高速鉄道網」で5号線(現東西線)の分岐線として大手町〜下板橋間の計画が示される。
<都営線として独立・標準軌構想>S37-S39
1962年(昭和37年)の都市交通審議会答申第6号において分岐線は6号線として切り離され、その後5号線を営団が、6号線を東京都が建設することになった。なお、本答申では6号線は西馬込方面より五反田・田町(三田駅)・日比谷・春日町・巣鴨および大和町(後の板橋本町駅となる付近)の各方面を経て上板橋および志村(現:高島平駅)の各方面へ至る路線として示された。軌間も1435mm(標準軌)を採用予定で、西馬込〜泉岳寺間と馬込検車場は浅草線と共用する予定。
<狭軌化・池上線経由田園都市線・東上線乗り入れ構想時代>S39-S40
しかし、路線計画については1964年(昭和39年)の答申により大和町(やまとちょう)〜上板橋間を取りやめて志村から東武東上線の大和町(やまとまち、現・和光市)まで延伸すること、並びに泉岳寺〜西馬込間は1号線の分岐線とし、6号線は泉岳寺から別線(東急泉岳寺線の路線名)で東急側が戦時中に廃止していた桐ヶ谷駅(大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間に位置していた)を大崎広小路駅の代替として復活し既存線の桐ヶ谷〜五反田間は廃止、池上線を経由して田園都市線(当時、現在の大井町線)と接続するように改訂された。また、これに伴い軌間も1067mm(狭軌)に変更された。その後、東武から「上板橋を改良する余裕がない」との申し入れがあり、東武が志村駅〜大和町駅間の連絡線(東上本線支線)を建設して接続する計画に変更。また馬込検車場の共用ができなくなったため、志村検車場を計画に加えた。当時の想定ダイヤは昼間時は長津田〜泉岳寺〜(三田線)〜和光市〜上福岡で直通列車を運転するというもの。
<田園都市線・東上線乗入計画破綻の侭着工>S40-S43
ところが、その翌1965年(昭和40年)に東武東上線は8号有楽町線に、東急田園都市線も11号半蔵門線(ただし当時は東急玉川線の規格を踏装し小型車で計画)への乗り入れを目指す計画に変更され、三田線の直通計画は宙に浮く。
この件では、都は規格の統一の点から浅草線と同様の1435mm軌間で計画されていたのを東急・東武の申し出で1067mm軌間に変更したのに一方的に中止を申し出たので、当時、この件に関しては都側は特に東急側に猛烈に抗議したが、結局東急・東武が押し切る。
高島平駅〜西高島平駅間は上記の東武の連絡線の区間であるが、都が免許を譲受,三田駅以南の計画は未定のまま着工西高島平〜三田間着工。
<大宮西部〜三田線〜港北NT構想>S43-S40後半?
1968年(昭和43年)の都市交通審議会答申第10号において、6号線は、桐ヶ谷方面〜大和町方面が、大宮市西部…浦和市西部〜清正公前(現・白金高輪駅)…港北ニュータウン(横浜市)間に改められた。 1968年(昭和43年)12月27日都営6号線として巣鴨〜志村間(10.4km)開業
港北ニュータウン計画の計画書である「港北ニュータウン交通計画 1971-1972」によれば、当初は都営三田線を西馬込から港北NTを経由して横浜線中山駅まで延伸する計画。西馬込への延伸が浅草線となった後には、港北NTへも同線を延伸することが計画されたが、最終的には再度三田線の延伸計画へと改められている。いずれも、五反田を経由して中原街道を通る計画。
<南北線とのルート共有・目黒経由決定>S40後半?orS50年代?
詳細なルートが確定しないまま、今度は目黒付近を経由して港北ニュータウン地区までの延伸を目指すことになり、清正公前〜目黒間は営団地下鉄南北線(当時)と共用することになった。
<港北NT乗入断念で現行形態確定>S60-
1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は目黒止まりとなり、東急目蒲線(仮称・東急都心線、現在の目黒線)と相互乗り入れすることが確定し、それと共に三田線の港北ニュータウン延伸計画は撤回となった。この結果、東急との乗り入れは当初計画の泉岳寺線・池上線から目黒線へと路線は違えど実現することになり、最終的に東京6号線は西高島平駅〜目黒駅という路線を形成することになった。
1194
:
とはずがたり
:2008/06/05(木) 21:13:05
>>1191-1194
取り敢えず明らかにわざわざ池上線を目蒲線にした訳ではなく都等は東急に可成り反撥してた中で結果としてそうなってしまったと云う事ですね。
まぁ少なくとも南北線だけでも良さそうなものの2社が乗り入れることになったのも慶応の圧力があったかもしれないし都を怒らせた東急が乗り入れに関して配慮を見せたのかも知れぬ。
<田園都市線・東上線乗入計画破綻の侭着工>S40-S43
この時点で狭軌乗り入れが破談してたのに1435mmに戻さなかったのはいずれにせよ何処かと相互乗り入れするという決意の表れか。またこの辺りからネットワーク性に富む営団有利の傾向?
<大宮西部〜三田線〜港北NT構想>S43-S40後半?
>いずれも、五反田を経由して中原街道を通る計画。
中原街道の下では池上線とダダ被りする東急の賛成は得られなかったと思われるが。。
<南北線とのルート共有・目黒経由決定>S43-S40後半?
>詳細なルートが確定しないまま、今度は目黒付近を経由して
この時点で目蒲線を使うことが暗黙の内で想定されていたと思われるが…。
無理矢理2線を目黒線に入れるなら一方を港北NT方面や田園都市線方面へ振り分けでも良かったように思える。また横市交の緑線も場当たり的な感じである。
6号三田線港北ニュータウン乗り入れ
●
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=176c91272a4956e07f52253a8f0f228c
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