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宗教関係雑感
1
:
近藤 貴夫
:2008/05/31(土) 00:23:07
「創価学会を故意に中傷した」という非難により、サイト本体の
宗教批判関連コンテンツを昨年削除しましたので、ここに代わりに
宗教への思いを書くスレッドを立てます。
2
:
近藤 貴夫
:2008/05/31(土) 00:51:05
私の宗教への態度の原則1は、自分の信じられない宗教には所属しない、
そして宗教上の演技はできるだけ避ける、ということです。
殆どのことで意見が対立する両親のもとで幼少時を過ごしたことなどから、
私は自分の行動指針を組み立てるのに苦労しました。
自分自身が統一された人格でないような感覚が慢性的に続くと同時に、他人も
身体や精神的諸側面が統一された存在と素朴に把握するのに骨が折れました。
何割の人がそう感じて育っているのかは知りませんが、現代では結構普通の
ことだと推測します。
そしてその苦痛を避けようとする対策として、このような原則を自然に立てた
のです。
私は、幼少時に母の信じていた宗教として知った創価学会の信仰を、本当に
信じられるのか、信じたいのかと、何度も検討した末に離れました。
それは、日蓮の御書の論理構造や根拠をその時なりに真剣に調べた結果のみ
ならず、図らずも創価学会の信仰が、私自身の心の傷の形成に何重もの影響を
与えたのだと感じ取ったからです。
私個人の経験は、個別的特殊なもので、創価学会に関わる万人に普遍的な
ものではありません。
ただ、心の傷の原因となった信仰に、心の傷を癒すために関わろう、信仰
しようなどという気になれないのは、家族や親戚の創価学会員に現に理解して
もらえているだけでなく、関係以外の多くの人にも分かっていただけること
だと、今でも思っています。
3
:
近藤 貴夫
:2008/05/31(土) 19:27:34
>>2
実際、学生時代に、当時の学内学生部(東学研)の皆さんも一定の理解を
示してくれました。
幼少時から、殆どの学会員の大人は、学会指導以外にありうる、人間の
心の状態・思いというものへの想像力が単純に欠落しているように感じて
いたので、同世代と言葉が通じるだけでも大きな救いでした。
自分の信じられない宗教には所属しない、ということは、自由な近代社会
だからこそ許され、また期待されることです。領主や一族の宗派を連綿と
守らなくてはならない社会では、不可能なこと。近代的な自我の一部を成す
ことがらです。
信仰の自由・良心の自由。その結果として、現代では家族や親戚で宗教の
異なることが増えている状況で、その状況への対処にも知恵が必要になって
います。
4
:
近藤 貴夫
:2008/05/31(土) 19:39:24
昨夏〜秋の議論で、私は「宗教や哲学こそが最も大切、という思い込み」に
反対する立場を表明しました。
そのことからすると、私が
>>2
の立場を取ることには、矛盾があると思われる
かもしれません。つまり、「宗教や哲学がどうでもいいなら、それについて
従順なふり、信じているふりをするのもどうでもいいことのはずだ」と。
しかしそれは、私の言いたいこと・思いを誤解しています。
私はかつて、「不自惜身命」が理想だと信じた結果、生活の糧を得る就職と
いうことも、恋愛や結婚ということも度外視したような価値観を持ち、宗教
そのものの考察と選択に没頭することで少年期を過ごしました。
社会に加わるより先に、自分の価値観や考えを確立しないと生きていけないと
いう、強迫観念に近いものがあったのです。
私が否定するのは、私が少年期に持っていたようなそういう観念・感覚です。
5
:
近藤 貴夫
:2008/05/31(土) 19:55:14
>>4
私が少年期に持った自然な発想には、いろいろな回路が欠落していました。
一つ代表的なものを今挙げるとすれば、「生産効率を上げる」という回路は
全く私の頭にはありませんでした。
お金儲けを考えるなどということは、賎しい考え、ましてや、具体的な
生産物を作らずに儲けのからくりを考えるのはもってのほか、という考えが、
宗教書などを通して浸透していたのです。
私は今、生産の現場、乃至はそれに非常に近い所にいますが、生産効率に
ついての思考の自然な優先順位がまだまだ低いために、周囲と発想が合わな
かったり、足かせになったりしがちです。
それを念頭に置いて、昨年の私の発言があったのです。
それに対し、私が今回
>>2
で言っているのは、宗教や信仰に対しては誠実で
あるべきだ、ということに過ぎません。
クリスマスの歌を歌うには、本当に自分はイエスの生誕を祝いたいのか、
それとも単に楽曲が好きなのか、或いは周囲への義理なのか、よく自覚して、
自分に嘘をつくなということです。
6
:
近藤 貴夫
:2008/05/31(土) 20:10:58
私の宗教への態度の原則2は、宗教書は誠実に書かれているものとして
読むということです。
寓話として「譬えるなら〜」と始まっている部分は寓話だし、「誰それは
言った〜」として始まっている部分は誰かの発言です。
しかし、真実だとして書かれている文章の「地の文」は、事実として書いて
いると古代や中世の一般人も信じたはずだし、私もそう読みます。
法華経の竜女成仏の話も、私はそれが「事実として書かれている」ことを
今でも前提とします。なぜなら、現に説法の席に竜女が現れ、皆の目の前で
成仏の姿を示したと明記されているのだからです。説法の席の誰かの発言
内容でもなく、ましてや、譬え話でもないのです。
仮に、事実として書かれていることが事実でないのなら、その書物は間違って
います。たとえ、それがファンタジーとして感動的だったり、教訓的な寓意を
秘めていたとしてもです。
7
:
近藤 貴夫
:2008/06/01(日) 23:40:29
お伽噺だというのなら、ありえない設定をされた仮想の世界で、その中で
つじつまが合うように作られた話だという前提で、話を楽しみます。
また、小説だというのなら、ほぼ現実世界と同じ世界設定で、ありうべき
登場人物を仮に振舞わせているのだという前提で、真意を読み取ろうと
します。
それらに書かれていることは、現実の世界とは関係がありません。
しかし、歴史書だと言われれば、そこには現実にあったことを、ある程度の
取捨選択はしながらそのまま記したものだということを前提に読みます。
宗教書で、教祖の説法の様子を記したものだと言われれば、その地の文は
その時の様子を事実として述べているものだということを前提にします。
それがつまり、誠実な書かれ方というものです。
もし、竜女の成仏が、事実なのだとしたら、つまり、法華経の力によって、
まだ8歳のナーガの娘が成仏した姿を大衆の前で示したのだとしたら、それは
「畜生(動物)で、女性(メス)の在家の信徒が、短年月の教化の結果
成仏できた」という事実の証言として力を持ちます。
しかし、法華経全体が、ファンタジーやお伽噺や寓話の類なのだとすれば
(中世の仏教徒はそんな風には考えていなかったですが)、それはあくまで
物語世界だけの話です。
同じテーマを換骨奪胎して別のファンタジーを新作して、それが気に入る
ならそれを使ってもいい、ということにもなりえます。
上記のようなことを「事実」として主張することはできず、そういう思想が
含まれている、ということが主張できるだけです。それが「事実」でなかった
としたら、もちろんその実現性・再現性への主張は弱まり、別の根拠を必要
とします。
仏教などにおいて、文証(聖教量)の位置づけは、信頼できる人(聖者)の
言葉ということであって、寓意文学等としての価値を云々するものでは
ありません。
したがって、そういう意味で誠実に書かれていない聖典なのだとしたら、
私はその分、価値を低く見ます。
8
:
近藤 貴夫
:2008/06/07(土) 22:39:54
次に、原則3として、思考停止に陥らず、一度たどり着いた思想を守る
ことに固執しない、ということです。
変節と言われようと何と言われようと、晩年に至るまで、再構築に躊躇しない
姿勢を保ちたい。そういう思想のあり方が理想であり、目標です。
それは、浮ついた考えを軽々しく言い続ける、ということとは違います。
少なくともその時々に、心の奥から叫びたいことがらを、できるだけの推敲を
経て述べるという線は守ります。
また、何とはなしに修正・脱線するというのではなく、公然と根拠や理由を
述べて、明確に思想を組み替えるということです。
私は、宗教団体に対しても、教条を守ることを第一にしなくてもいいから、
それを変える時には、少なくとも内部に、理由とともに明示的に示すことを
求めます。
9
:
近藤 貴夫
:2008/06/08(日) 23:32:41
そしてまた、相手を言い負かせばよい、という論戦を主とする立場を採り
ません。議論はできるかぎり紳士的で、建設的なものであるべきです。
私のかつて属した宗教団体や、その関連団体の論客の論戦で、相手を罵倒
しまくり、心理的な駆け引きや論理上の罠を駆使し、とにかく勝つことが
第一という議論をかつて目にして、とても醜く感じてきました。
またその背景として、宗教は、各人が自分なりに知識と経験とを増やし、
自分自身で誠実な考察と活動を繰り返すことが肝心だと考えています。
先人が考えた結果を鵜呑みにし、盲信することは感心しませんし、少なくとも
いつでもそこから逃れる準備ができているべきだと思います。
微力でも、そうして自主的に思想を展開する個人の集まりであってこそ、
近代の自立した個人による社会であり、今後の人類の安寧を約束すると
考えます。
失敗するだろうから、どうせ自分なんかが考えてもだめだろうから思考を
停止しよう、とみんなが思ってしまっては、民主主義社会・自由主義社会は
機能しません。
10
:
近藤 貴夫
:2008/06/09(月) 00:25:11
各個人が自主的に思考する時間を確保する……その日に起こったことを
振り返って整理することも含めて……ためにも、人々を働かせ過ぎることを
防がなくてはなりません。
長時間労働は、為政者や雇い主による支配や搾取に、好都合なのです。
宗教の中にも、睡眠時間を削り、ぎりぎりまで病を押して、様々な活動の
全てを身を挺してやり遂げることを推奨する団体があります。
確かに、リーダーや信徒としてそうすることは、一種の美学にも思えます。
ただし、そうした勤勉さのすすめが、過労のすすめに転化してはいけません。
また、頑張れない状態の人を鞭打って悪化させることになってもだめです。
そうならないように、皆が目を離さないようにするべきです。
11
:
近藤 貴夫
:2008/10/16(木) 22:50:26
<政教分離>について、創価学会など政治に関わる教団側が言うことには、
世間一般が<政教一致>として彼らを批判する時には、<政教分離>の
概念を捉え間違っているのだと言います。
いわく「宗教者や宗教団体が、政治的発言・政治活動をすることには
全く問題がない」のであって、もし宗教者や宗教団体であることを理由に
政治的発言や政治活動が規制されるべきと言うのであれば、その方が、
かえって法の下の平等に反するというのですね。
そして、問題となる<政教一致>とは、政府・自治体が、公の立場で
特定の宗教を支援したり妨害したりすることであって、「<政教一致>
と批判するが、果たして我々が、国務大臣や官僚などの立場を利用して
特定の宗教を支援したり妨害したことがあったのか。または教団として
政治上の権力を与えられ行使したことがあったのか。」と反論します。
法律上は恐らく、そこまでやらない以上は合法なのでしょう。
その上さらに、創価学会の場合は「会員にも公明党への支援は強制して
いない」としています。実際、表立って「公明党反対」とか「対立候補に
入れる」と言いながら学会活動するのは非常に居づらいと思いますが、
不可能ではないですね。
逆に<政教一致>批判をする側は、例えば、宗教施設の選挙活動への利用や、
宗教活動内での政治的運動、そして政党人事への教団の介入などを問題に
します。
しかし、これらを理由に、宗教施設の一部を課税対象にしたりする程度は
辛うじてできるかもしれませんが、大問題にして教団を組織的に罰する
ような法的根拠は今のところ日本にはないと私は認識しています。
宗教施設が時間的・空間的に何割まで宗教目的に使われていれば大丈夫
なのか、或いは一回でも政治的活動に供されればアウトなのか、その
根拠は何なのか……ぜひきちんとラディカルかつ噛み合う議論を展開
して欲しいものだと思います。
そして、日本では宗教団体は政治活動をしてはいけない、という法体系
が国会を通ったのなら、ありとあらゆる宗教団体に対して平等に、その
政治活動が取り締まられるべきです。
民主党の石井一参議院議員などは、創価学会の信仰を問題にするのでは
なく、<政教一致>を問題にするのだと言いますが、彼らの言うところの
<政教一致>が本当に問題にするに足ることなのかどうか、まずはその
哲学的根拠から問われる必要があります。
12
:
近藤 貴夫
:2010/04/11(日) 23:01:59
創価学会の信仰に対して、
「特定の掛け軸(マンダラ=本尊)を前にして、呪文(マントラ=題目・経文)を
唱えて祈ったり(自行・勤行)、そのやり方を広めたり(化他・折伏)しさえすれば、
それだけで万人が必ず幸せになる(即身成仏する)。逆に少しでもその妨げをすれば
必ず究極の不幸に陥る(無間地獄に落ちる)」
などという構造の教え一般が、本当であるとは信じられないという直観は、今でも
私の中で生きています。
マンダラやマントラの優れている理由をいくら加えても、せめて100%雨を降らせる
呪法とか、100%何かの病気に罹らない呪法とかが行きわたって広まっているような
背景が無い限り、上記の構造自体を(ファンタジーの世界はいざ知らず)真面目に
信じる気持ちにはなれません。
創価学会は、戦後復興〜高度成長の時期に「折伏大行進」と呼ばれるかなり強引な
布教活動を行い、各自の努力の結果や経済発展の勢いに乗ったことをも「功徳」と
思わせる効果によって、飛躍的な拡大を果たしました。
しかしその後、特にこの20年間に、そのような拡大の勢いが止まり、選挙での
公明党の得票も頭打ちになっていることは、つまり、教え自体には本来魅力が薄く、
その功徳も水増しされて感じられてきていたということを示唆すると思います。
創価学会は外部から、あることないこと、尾ひれをつけて怖がられ、非難されてきた
面もありました。
しかし、全てに根も葉もないのではなく、強引な折伏を受けた人、軍隊組織にも似た
バリバリの組織活動で苦しんだ人、脱会や内部告発に伴って嫌がらせを受けた人など、
様々に、厭な思い・怖い思いをした人を生み出してきたことによって、日本社会から
嫌われてしまったのだと思います。
創価学会側からすれば、厭な思い・怖い思いをした人の方が少数派で、大多数の
人は救われた思い・幸せな思いをしている筈だと言うでしょう。批判は嫉妬する者や
権力を求めて失敗した反逆者の中傷である、と言うわけですが、実際には日本社会に
大きなトラウマ(精神的外傷)を作ってしまったということだと思います。
今は、創価学会は十分に大きくなった結果、強引な折伏も減り、見かけはソフトに
なりました。
しかし、昨年まで公明党が政権与党にあったことに象徴されるように、すでに
権力への抵抗というより、権力側に立つようになってしまったのです。
政界・財界・法曹界・マスコミなど、多くの分野で一定の勢力を持ってしまった
創価学会は、うまい具合にあらゆる批判活動を抑え込めるような体制を作ろうと
画策し、少しずつ言論の自由を衰退させようとしているように見えます。
そもそも創価学会は、宗教団体にはよくあることと言ってしまえばそうなのですが、
中央の指導部の命令一下動く中央集権的な組織であり、会内では真の民主主義は
ありません。従順で「優秀」な会員・同志は結束して守る半面、反骨精神のある者・
やめたり反逆したりした者には、口を極めて悪いレッテルを貼り集団攻撃をします。
脱会までしなくても、一定のグループ内で権威と思われる者の意見に逆らうだけで、
大変な罵倒の嵐に遭いかねません。
会社でも自治会でも何でも同じようなことがありうるだろうと言えばその通りですが、
自分たちが唯一無二の最高の護法団体であると思っているがために、その度合いが
ひどい場合が多いのです。
1990年代に、日蓮正宗宗門との非難合戦があり、最終的に創価学会が破門された
流れにおいては特に、「創価新報」や「聖教新聞」上での非難は、探偵もここまで
やるかというような手口といい表現といい、良識ある者は目も向けられないであろう
レベルのものでした。これはしかし、創価学会が始めたことではなく、四箇の格言に
代表されるように、「大聖人」と崇められる日蓮その人がやっていたのを真似たに
過ぎないので、学会がその点を非難されるならまず日蓮がされるべきでしょう。
創価学会は人権を守る団体だと言っていますが、以上のような組織防衛至上の傾向を
踏まえると、意見を異にする者、逆らう者の人権が守られるとはとても思えません。
だから、下手に権力を広げさせると、言論の自由に不安があるのです。
したがって、一見テレビコマーシャルなどでソフトに良いことを言っているなと
思っても、かつてのような派手な折伏をしていないなと思っても、目を離して油断
してはいけないと思います。
インターネットの言論空間を狭めようとする画策、特定の者を容易に批判できなく
するような画策、言論・出版物の適切さを誰かが恣意的に決められるようにする
画策などが行われないように、私は注意をしていきたいと思っています。
13
:
近藤 貴夫
:2010/04/12(月) 01:39:08
最近の十数年、1990年代以降の重要な社会状況として、インターネットの
普及があります。
私の思うに、これは、言語・文字・印刷・放送に次ぐ、人間の思考の
記録・伝達における画期的な出来事ではないでしょうか。
インターネットによって、一般の人が、情報発信者として世界中の人に
情報を届けられるようになりました。そこには行政の認可も要らず、
基本的にはスポンサーを集める必要もありません。閲覧の多くは無料で、
通信費だけで見られます。
一部の国の政府では公然と検閲を行うようにはなっていますが、一般の
個人が情報発信力をこれまでになく高めたことで、市民感覚を裏切るような
マスコミ報道もしにくくなったし、マスコミ報道に対して「それは絶対
嘘だ」なんてことを大挙して書きこまれるようにもなったわけです。
民衆の団結する手段に、政党や宗教団体や組合を使わずとも、もっと柔軟に
インターネットで人々がつながり、様々な市民運動が行われるように
なってきました。
最初はパソコン通信から始まり、個人WEBサイトや掲示板中心の段階を経て、
チャットやブログ、SNSやTwitterと様々なツールや場が生まれ、複層的に
人々がつながり、情報が流れ、活動が生まれています。
Skypeを使えば、相手の顔を見ながら生で話をすることもできます。
こうしたインターネットの諸機能が、創価学会の「座談会」が持つ
コミュニティ機能をかなりの部分で代替できるようになっているのでは
ないかと私は思います。
14
:
近藤 貴夫
:2010/04/12(月) 01:54:58
1990年代以降の社会状況で、日本に限れば、不況の基調が続き、少子化が
問題となって、社会的に退潮傾向にあることが挙げられます。
上げ潮ムードに乗って広まった創価学会でしたが、この不況続きで、
自然に「功徳」と考えられることが起きる確率が下がってしまいました。
元気を鼓舞することを謳うタイプの宗教にとっては、つらい状況では
なかろうかと思います。
また、1995年の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教関連の事件や、
2001年の9.11同時多発テロなどによって、カルト乃至は宗教過激派に
対する世間の目が益々厳しさを増したこともありましょう。
洗脳・マインドコントロールといった言葉が誰でも使える程度に広まり、
非人道的な布教は社会的に絶対に許されないものとなりました。
また、聖なる目的のためには手段を選ばないという立場は、「テロ」として
大いに非難されることとなりました。
危険な団体と認定されては組織が崩壊しかねないため、宗教団体としても
行動を自重する流れになっているのではと思います。
最近は「環境テロ」という言葉もありますね。何を旗印に掲げていたとしても、
過激で非合法な手段に訴えてはいけないということです。
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