[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
宗教関係雑感
7
:
近藤 貴夫
:2008/06/01(日) 23:40:29
お伽噺だというのなら、ありえない設定をされた仮想の世界で、その中で
つじつまが合うように作られた話だという前提で、話を楽しみます。
また、小説だというのなら、ほぼ現実世界と同じ世界設定で、ありうべき
登場人物を仮に振舞わせているのだという前提で、真意を読み取ろうと
します。
それらに書かれていることは、現実の世界とは関係がありません。
しかし、歴史書だと言われれば、そこには現実にあったことを、ある程度の
取捨選択はしながらそのまま記したものだということを前提に読みます。
宗教書で、教祖の説法の様子を記したものだと言われれば、その地の文は
その時の様子を事実として述べているものだということを前提にします。
それがつまり、誠実な書かれ方というものです。
もし、竜女の成仏が、事実なのだとしたら、つまり、法華経の力によって、
まだ8歳のナーガの娘が成仏した姿を大衆の前で示したのだとしたら、それは
「畜生(動物)で、女性(メス)の在家の信徒が、短年月の教化の結果
成仏できた」という事実の証言として力を持ちます。
しかし、法華経全体が、ファンタジーやお伽噺や寓話の類なのだとすれば
(中世の仏教徒はそんな風には考えていなかったですが)、それはあくまで
物語世界だけの話です。
同じテーマを換骨奪胎して別のファンタジーを新作して、それが気に入る
ならそれを使ってもいい、ということにもなりえます。
上記のようなことを「事実」として主張することはできず、そういう思想が
含まれている、ということが主張できるだけです。それが「事実」でなかった
としたら、もちろんその実現性・再現性への主張は弱まり、別の根拠を必要
とします。
仏教などにおいて、文証(聖教量)の位置づけは、信頼できる人(聖者)の
言葉ということであって、寓意文学等としての価値を云々するものでは
ありません。
したがって、そういう意味で誠実に書かれていない聖典なのだとしたら、
私はその分、価値を低く見ます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板