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「俳句ダービー」?
伏儀の子とペテロの対決
ローマ帝国での宗教争いも興味深い課題なのですが、
○○さんなど、詳しそうな人が多そうなので私は追いませんが、
キリストは伏儀派の一派、ミトラ教により作られた飾り。
「伏儀さまの権威に従いなさい」という思考なのだが、
ヒクソスが伏儀に屈服するはずがない。
ローマ帝国にマナセ族が関与している可能性を平御幸が指摘していたが、
「この岩(ペテロ)の上の私は教会を築く」教会は、
キリストの権威を、
教会(伏儀と関係ない人)が勝手に判断して使用できるという思考から、
ヒクソスが作ったと仮定したい。
なぜ自由の女神(イナンナ)がアメリカ、日本にあるのか理解できないので、
ローマ、ヨーロッパ史も複雑そうです。
イナンナの子をエフライム、マナセと捏造したいのかもしれませんが、
よくわからないところなので、私は別の課題に移ります。
秋刀魚の雑談(根拠なし)
「北太平洋に広く生息し、日本海を含む日本近海からアメリカ大陸沿岸の
アラスカからメキシコに分布する。
季節によって広い範囲を回遊する魚として知られる。」
↓
やや海洋民族と活動範囲が違うようだ。
インド洋で釣れるだろうか。
「志摩では天岩戸の神饌の一つ。11月23日には岩戸の前で秋刀魚を焼いて食べる。」
↓
ヨセフの相手などしたくなくて、イナンナは引きこもった。
「岩戸隠れの前と後でアマテラスの性格が変わっている
(岩戸隠れの前は独断で物事を決めているが、後では高木神の指示を仰いでいる)」
↓
天照はヒクソスに屈服させられたわけですね。
でも渋って出てこないので、岩戸の前で天照の好物の秋刀魚を焼いて釣った(苦笑)
私は歴史で釣ることにします。
関係ないのですが、
狛犬は、穢貊の繋がりで、
「八」の字、バールかイナンナを指すのかもしれない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002343M.png
サンマなぞ
・・魚群探知機と囲い網があればたやすく捕れる。あわれなものよ。
・・「魚影の群れ」の夏目雅子はよかった。
*
ところで、tomboのトンちゃん!!
画像掲示板のnesuさんが心配してますよ〜〜〜
(無題)
>・・女媧(?〜?)
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。
・・伏羲がバアル、女媧がアナト、というのはたしからしい。
・・アナトは穴門。長門のこと。
http://www.246.ne.jp/~y-iwa/hikojimakodaimojiiwa.htm
*
・・バアルはba-alで、dig、excavate… (511x: ED IIIb, Old Akkadian, Lagash II, Ur III, Early Old Babylonian, Old Babylonian) wr. ba-al; bal; bal3; bal4; pe-el "to dig, excavate; to unload (a boat)" Akk. herû
…to unload (a boat)というのはおもしろい>^_^<
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002345M.png
(無題)
http://umbra.nascom.nasa.gov/comets/movies/SOHO_LASCO_C3_closeup.mpg
・・2つの彗星があいつで太陽に衝突 【1998年6月3日 NASA発】
トンちゃんも釣り糸を垂らしていたか…
>>・・伏羲がバアル、女媧がアナト、というのはたしからしい。
フェニキア神話では、バール=伏儀、アナト=女カか、了解。
どうも西にいくほど話が付け加わっているように見える。
長江−伏儀+女媧
印度−伏儀+女媧+神農
メソポタミア−エンメルアンナの二人+ウバル
フェニキア−伏儀と神農が合体(同一視された)でバアル+アナト(女媧)
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Moto.html
「モトは自分を神々の会議に招かなかった腹いせに、バアールを冥界へ呼び出し、死者の食事を与え、彼を殺してしまう。妹のアナトは、彼を殺した犯人を捜し回った。そして、遂にモトを見つけた彼女は、モトの体を切り刻み大地にばらまいた。すると、バアールは無事生き返ったのである。」
フェニキアでは、モト(セト神、ゼウス系)が冥界王で、
体が切り刻まれているが、
エジプトでは逆にオシリスが体を切り刻まれている。
バアル−オシリス−伏儀の復活を願う思考は一緒だが、
西にいくほど、伝言ゲームのようにずれていく。
ミタンニで、死んだ伏儀の精霊が子供に乗り移る、ミトラ思考誕生。
エジプトのイナンナ派が、ミトラをイナンナの子供として取り入れた結果、
アマルナ一神教に繋がったか?
東が夫妹神話の元だとすると、伏儀は中華出身か?
平御幸説のように前2344年ごろに中華に洪水がなかったか?
もしくは前2344年ごろにほろびた遺跡が長江にないか、興味深い。
俳句ダービーの裏事情も興味深い。
歴史餌を釣り針に。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=unload&kind=ej&mode=0&base=1&row=0
「un・load
━━ v. (積荷などを)おろす, (船・車などの)荷をおろす; (心などの)重荷をおろす ((on, onto)); 厄介払いする ((on)); (銃・砲の)弾丸[弾薬]を抜きとる; (持株を)処分する; 【コンピュータ】アンロードする.」
to unload (a boat)
↓
船の積荷を降ろす。
↓
バールが、ドラヴィダで、伏儀と女媧を船から降ろして留まらせたことを指すか?
「to dig, excavate」
↓
土を掘る、農耕→神農。
考えようによってはぴったりはまる。
ミタンニのフルリ語
http://www.lingua.tsukuba.ac.jp/ippan/JGL/2004/2004-Ninomiya.pdf
「フリ人が確実にいたと推察される地域は、ミタンニ、ヌジ、
アララハ、ウガリット、カトゥナである。」
同サイトによると、この時代の共通語はアッカド語で、
アッカドはヒクソス勢力の言語と推定したが、
ミタンニがイナンナ派、ミトラ教、穢貊に繋がるので、
フルリ語使用者は、シュメール勢力の可能性と仮定できる。
調べてみたい。
以下のサイトによると、
http://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/53-2-285.pdf
ヌジは、イラクのキルクークにある青銅器遺跡。
アラプハという小国の都市。
大半がフルリ人。
「フルリ人はヒッタイトの歴史でも大きな役割を果たした。」
「現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、
ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。」
ハブール川はユーフラテス河の支流、北シリア。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030400.html
「ハブール川流域のテル・カシュカショクの発掘権を得た。この遺跡も四つのテルからなる遺跡群であり、われわれが掘ったのは二号丘と名づけた舌状の部分である(一九八七、八八年)[挿図5]。ここでは、土器新石器時代に集落が営まれていたが、ウバイド期からウルク期に至ると一号丘の住民の墓地とされた。」
カシュカショク遺跡はウバイド期に当たるようだ。
「知られている限り最初のフルリ人の王国は紀元前3千年紀の終わりに
ウルケシュ市の周辺に登場した。」
「紀元前25世紀頃から記録に登場する。」
「ウバイド文明は、ザグロス高原北西部付近に文化的根拠地」
ウバイド人は文字を持たない先−言語学的シュメール人。
そこへペルシア湾からエンメルとウバル(伏儀の一派)が現れて文字をもたらした。
ウガリットにもフルリ人がいて、後のミタンニの主勢力のフルリ人は、
北シリアなどフェニキアとの繋がりも仮定できる。
ミタンニが穢貊に繋がり、百越に繋がるのなら、
東の海洋民族との繋がりも仮定できる。
地図は以下のサイトから、ハブール川。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030600.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002349.jpg
ザグロス山脈とフルリ人
「ザグロス山脈(Zagros Mountains、ペルシャ語で???????????? ?????)は、イランの南西部からイラク、トルコそれぞれの国境線となる山脈である。最高峰はトルコ領内のアララト山(Mt. Ararat:5,165m)で、イラン領内にはザルド・クーフ山(Zard Kūh:4,548m)が聳える。山脈内にはアケメネス朝の首都、ペルセポリスの遺跡がある。」
ウバイド、ウルリ人はザグロス山脈と関係が深いらしいが、
アララト山がある。
「ノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山」
「紀元前9世紀から紀元前585年までアナトリア東部に存在したウラルトゥ王国」は、
「ミタンニ王国を築いたフルリ人たちの言語、フルリ語と近い関係にあり、
両者をまとめてフルリ・ウラルトゥ語族と呼ぶ」が、
「「ウラルトゥ」の名はアララト山(Ararat)とも関係づけられる」。
ウラルトゥ、ミタンニ、フルリ人、ウバイド、アララト山、ノア、伏儀、
前2000年付近のシュメール勢力が多く関わっていて、興味深い。
ウバイド(フルリ人)のところへ、ドラヴィダの3人が、
ペルシア湾から文字を持ってやってきた、と推定されるが、
イランとイラクの中間のザグロス、
なかでもアララト山が彼らに神聖視されたか?
地図は以下のサイトから、ザグロス山脈。
http://junta-enviro.blog.ocn.ne.jp/seasons/2005/10/index.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002350M.jpg
ミタンニとインドの関わり
http://www.wdic.org/w/CUL/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AA%E4%BA%BA
「ザグロス山脈からシリアに至る領土を支配したミタンニ王国」
「フルリ語はインド・ヨーロッパ語ではないが、」
「ミタンニの支配階級である戦士は自分たちをmaryannu(marya、勇士)と呼んだ。これらのことから戦士はインド・イラン系(おそらくインド系に近い)の出自を持つと考えられる。」
「(ミタンニ王の名は)いずれもサンスクリットで解釈できる名である」
同じくフルリ人や、秋魚によるとアナト派と強い関連を持つヒッタイトが、
「紀元前1350年頃にミタンニに攻め込み、トゥシュラッタを暗殺した」
のも、インドとの関わりからイナンナ派と対立した、という仮定もできる。
「フルリ人社会あるいはミタンニ王国における支配階級が
インド語派の出自を持つためと想像されている。」
問題の紀元前1300年前後ですが、
ヒッタイト、エジプト、アッシリア、バビロニアが関わる、
ガデシュの戦いは、勢力の特性を知るために大きな手がかりになりそうです。
紀元前1285ガデシュの闘いの時点で、
エジプトはアマルナ革命が終わった後、
第19王朝、ヒクソス。
バビロニアは、カッシート王朝(バビロン第3王朝)、恐らくヒクソス
アッシリアは中アッシリア時代。
「中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。アッシリア史における転機となったのがアッシュール・ウバリト1世の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書アマルナ文書からも確認できる」
ミタンニ勢力を妥当して中アッシリアを起こした、
アッシュール・ウバリト1世は、【極めて興味深いことに!!!】、
アマルナ革命を起こしたエジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)を、
「我が兄弟」と呼んだ外交文書を残している。
中アッシリアもアマルナ革命と深い関係を持つようだ。
ミタンニのミトラ教も、アマルナ革命の思考との近さを感じさせるが、
アッシリアとアマルナも近い。
紀元前1300年前後の、
ミタンニ、ヒッタイトがわからないので追ってみたい。
地図は以下のサイトから。
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/bc13/bc13assyria.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002351.png
ヒッタイトはフェニキア海洋民族?
ヒッタイトは、
「通説では紀元前1190年に、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされた」
とされているが、
アナト=イナンナ=海の民で、近い関係と推定できるので、通説は誤り。
「紀元前1595年頃、メソポタミアの古バビロニアを滅ぼす」
↓
ハンムラビなどのシュメール系楚を滅ぼすのは、
ヒッタイトが周辺海洋民族だからか?
中華とは近いが対立もする。
「紀元前1450年頃、ヒッタイト新王国の成立。フリ文化の色彩強まる」
↓
フルリはウラルトゥ、ミタンニと近い。
ヒッタイト古王国と新王国の違いの情報も欲しい。
「紀元前1330年頃、シュッピルリウマはミタンニを制圧する」
↓
ミタンニと対立。
アッシリアとも対立するミタンニは、フルリ人ながら、
単純なシュメールではなさそうだ。
その原因はインド系支配層か?
「紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。
ラムセス2世のエジプトを撃退する。」
↓
ヒッタイトの天敵はヒクソスのエジプトなので、
ヒッタイトはヒクソスではない。
トロイアの東に位置するヒッタイトは、
ヒクソスに滅ぼされたトロイア文明とも近かったようだ。
ヒッタイト新王国、中アッシリアにはシュメール色が強い。
http://homepage1.nifty.com/teruminasu/gaiyou.html
「なんと「ボアズキョイ文書」の中には、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、ルウィ語、パラ語、(原)ハッティ語、フルリ語、の7種類もの言語が使い分けられていたそうです。
そして、当時の国際語であったアッカド語とメソポタミアの古典語のシュメール語以外の5つの言語が、ヒッタイトの国内語として使用されていたことがわかって来たそうです。この事は、当時のヒッタイトの国内に、それらの言葉を使っていた5つつの異なる民族が住んでいた事を意味します。」
「ヒッタイト帝国と一時期覇を競ったミタンニ王国は、フルリ系の人々が打ち立てたもので、ヒッタイトは、この国からも各種の影響を受けているようです。」
ヒッタイトは、イナンナ派の強い、海洋交易国家で多言語他民族か?
海洋民族はフェニキア、倭人に当たる。
地図は以下のサイトから、
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/bc13/bc13egypt-hitti.htm
ウガリット、ビュブロス、シドン、テュルスなど、
フェニキアの重要都市は、ガデシュの闘いのすぐ傍にあり、
ヒッタイトとフェニキアの関係の近さを仮定できる。
話題はずれますが、
フェニキアの重要都市は、後の南北イスラエルのやや北西。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002352.png
ガデシュ時代の諸勢力
フェニキア人は、
「紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にティルス、シドン、ビュブロスなどの
都市国家を形成して海上交易に活躍」
↓
ガデシュの闘いと、戦場、時代が同じで、
ヒッタイトとフェニキアの近い関係を仮定できる。
ヒッタイトはフルリ人の関係で、ミタンニと関係が近いが、
(倭人・フェニキアで同族かもしれない。)
ガデシュの闘いに力を削がれ、アッシリア−ミタンニの対立に介入できなかった。
アッシリアはミタンニから独立し、さらにミタンニを従属させたので仲が悪い。
(アッシリア(漢)−ミタンニ(ミトラ化して中華文化を受容した匈奴、もしくは倭人))
このように仮定しておく。
ミタンニについては、インドを調べながら後に考察する。
ミタンニを叩きたいので、
ヒッタイトからの、ミタンニへの援助を防ぎたいアッシリアは、
ガデシュの闘いにおいて、エジプトに「小規模の」援軍。
小規模なのはアッシリアもヒクソスと仲が良くないから。
カッシートは、海の国を滅ぼしているので、ヒクソス系と以前に推定したが、
推定を取り下げる。
「カッシート人は外来の勢力であったが、バビロニア文化を極めて好み、バビロニアの神々を祭る神殿を盛んに建築し、公文書その他はほぼバビロニア語(アッカド語)を用いるなどし、早い段階で現地に同化した。」
「言葉は主にバビロニア語(アッカド語)が使用されたが、バビロニア文化を愛好するカッシート人達によって、バビロニア以前のシュメール文化も再興され、宗教文学にはシュメール語が使用される場合もあった。」
↓
アッカド語はヒクソスを思わせるが、シュメール語は逆の方向。
「紀元前1595年にヒッタイトのムルシリシュ1世がバビロンを攻め倒すと
バビロン第三王朝を開いた」ように、ヒッタイトとも関わりがありそうだし、
ヒクソスのように強く反シュメール的ではないので、
素朴な遊牧民なのかもしれない。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_West.html
「カッシート人の数は非常に少なかったので、
数世代で完全にバビロニア人の中に溶け込んでしまった。」
↓
カッシート王国は、徐々に長江系シュメールに同化されたと理解しておく。
そのカッシートはヒッタイトと同盟を組んで、
アッシリアに対抗するが、それは隣接する中華内の対立で、
ヒッタイトが力を強めれば、ミタンニが盛り返し、
隣接するアッシリアの力が弱まるから、と推定。
マッティヴァザMattivaza 紀元前1350年 - 紀元前1320年頃
サットゥアラ1世Sattuara I 紀元前1320年 - 紀元前1300年頃
ヴァシャサッタVashasatta 紀元前1300年 - 紀元前1280年頃
サットゥアラ2世Sattuara II 紀元前1280年 - 紀元前1270年頃
の時点でミタンニはアッシリアに従属し、滅亡している。
ガデシュの闘いの後、エジプトと講和したヒッタイトは、
関係の近いミタンニを援助しようとしたが、
戦争で疲弊していたため、逆にアッシリアに負けてしまい、
ミタンニは滅亡したと推定。
エジプトはヒクソスだが、
ガデシュの闘い以外は、地理的に距離が遠いので、
勢力争いへの関係が比較的に薄いと仮定。
以下のサイトからヒッタイトの製鉄。
http://www.atomlt.com/06school/sc04/sc04_02.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002353M.png
ヤマの起源がわかったあるよ。
以下、ウィキペディア+私見
閻魔
ヤマ
本来はインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、
アヴェスターの聖王イマ(伏儀)と同起源である。
リグ・ヴェーダでは人祖(人は言葉を持つから人、伏儀)ともされ、
ヤマ(伏儀)とその妹ヤミー(女媧)との間に人類が生まれたという。
人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となった。
(オシリスは、エジプトで冥界の主。)
インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた。
(天国の起源。)
しかし後には死者を裁いて地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、
ついには単なる死神としても描かれる様になった。
(冥界の恐ろしさから。)
イエメン、オマーン、邪馬台国に連なる「ヤマ」は、閻魔=伏儀で、。
リグ・ヴェーダ時代のインドは、バールのシュメール、インダス文明。
「インドのサンスクリット語とは極めて近縁の言語で、
特にサンスクリットの最古層であるヴェーダ語(リグ・ヴェーダなどに用いられた言語)
とは文法的にも酷似している。」
「アヴェスター語は更に、開祖ザラスシュトラ自身の作と思われるガーサー(詩)
に用いられるガーサー語と、後年弟子や信者達によって付け加えられた部分に
用いられる新体アヴェスター語に分けられる。 」
↓
ゾロアスター教は、伏儀の白黒を元にしている。
「広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、後の時代の、仏典などが記された仏教混交サンスクリットをも含む。
そのように古典時代から広く使われて多くの文献を残しているため、サンスクリットは、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されることもある。 同じインド・イラン(アーリア)語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似している。」
↓
サンスクリット最古層=アヴェスター=ゾロアスターは、
紀元前1500年の、インダス文明滅亡の前の文化を継承する、
シュメール=伏儀系の文化。
アーリア人(?)によりインダス文明は滅亡したが、
同じ紀元前1500年頃に起こった、
支配層がインド系のミタンニは、インダス文明の逃亡者と、
フルリ人のシュメール系国家か?
兄妹夫婦伝説を探せあるよ。
失礼、インダス文明は前1800年に衰退したが、
「その後、前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住した」
ように、
ミタンニは徐々にアーリア人によりインドから追い出された。
↓
「紀元前1700年〜1500年ごろ - フルリ人による征服」
前1500年にいたって、国家としてミタンニに繋がるようだ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002355M.png
ヴェーダにも濃い伏儀の痕跡
以下、ウィキペディア+私見
サンヒター(本集)
(ヴェーダの)中心的な部分で、マントラにより構成される。
リグ・ヴェーダ
ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。
アタルヴァ・ヴェーダ
ブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。
「アタルヴァ・ヴェーダ(Atharva-Veda)は主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されているものである。4ヴェーダ本集のひとつ。古い部分は紀元前1500年ころには成立し、時代とともに書き加えられていったと考えられる。当初は、ヴェーダとして認められていなかったが、紀元前500年ころから徐々に認められるようになり、現在では4ヴェーダのひとつと称されるようになった。たとえば、古い仏典でヴェーダといえば「3ヴェーダ(リグ・サーマ・ヤジュル)」のことで、アタルヴァ・ヴェーダは含まれていないことが多い。また、仏典には「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。」(スッタニパータ)とかかれている。」
「紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、インダス文明などを構成した
先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる」
ので、バラモン教には階級固定の狙いが強いのだろうが、
釈迦はバラモンと距離を置いたと理解できる。
まずインダス文明に連なるリグ・ヴェーダがあった。
↓
次に征服者のアーリア人が階級支配の正当化のために、
アタルヴァ・ヴェーダを付け加えた。
↓
バラモン教と対立する仏教が広まった。
↓
仏教に対して、バラモンはヒンドゥー教を作った。
↓
ヒンドゥー教は現在でも盛んで、
同じヒクソスだからか、イスラエルの10氏族も、
ヒンドゥーにはそれほど入りこんでいないように見える。
その代わりに、反バラモン的な釈迦を勝手に仏像化して、思想的に殺した。
バラモンにとって「カースト制度の維持」が何よりの課題だったから、
土着勢力を諭すために、ヴェーダを使用したのだろう。
私は土着思想に興味がないが、
エフライム族が記紀で、列島の歴史に自分たちを繋げる過程をみても、
支配には土着信仰の取り込みが有効。
(関係のない人同士を、勝手に関係あるように捏造するのは、よくある手口)
(私もこの手の詐欺から自分を守らないといけないのです。)
(かわいこちゃん好きは事実なので、捏造ではないです。)
メソポタミア、中華とは別系統の、
インダス・エジプト系シュメールの思考は、
インダス→ミタンニ→アマルナ→エルサレム、などの路線で、
ミトラ教、ユダヤ教、原始キリスト教に繋がった。
大雑把だが、このように仮定しておく。
転生と復活の類似
インドも神が多くて複雑なので、
今は深く追わないが、一つ訂正と、少しだけ推定。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-62.htm
「リグ・ヴェーダの賛歌に明らかに示されているように、
カースト制度の基本的な形式は、誕生ではなく職業に依存していたらしい」
↓
「リグ=ヴェーダ」の成立はBC1200-1000年頃で、
インダス文明滅亡後、何百年間か経過しているが、
「ヤマ」は伏儀としか考えられない。
インダスの伏儀信仰を、階級支配を正当化するための教説に徐々に変更し、
リグ・ヴェーダとして、庶民に普及させたと推定する。
リグ・ヴェーダ編纂の時点で、既にカースト制度が狙いにされている。
ミトラ、オシリス、キリストに繋がる、
伏儀の「復活」という思考は、インドの「転生」思想と近い。
インダス−エジプト・シュメールの思考は継続していると推定。
中華・メソポタミアは、「復活」「転生」のないバージョンのシュメール文化。
インダス系は神話体系を構築し、
メソポタミア系は泥泥した思考を持つ、シュメールの二つの枝分かれ。
個人的には、私は私で誰の転生でも代理でもありません、という立場で、
どちらかといえばメソ・中華型に近い思考をするが、
私自身は誰とも何処とも関係ない、ことが信条なので、
繰り返しますが、私は私。
区別なくただ面白い書物を求めて、勉強しています。
インダス型では「カラマーゾフの兄弟」。
メソポタミア型では「史記」。
この2冊が今のところ、私にとって最も重要な本です。
阿修羅はインダス系シュメールか。
ウィキペディア+私見
アスラとは、インド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称。
リグ・ヴェーダに見られるように、古代インドにおいてアスラは悪役的な要素はなく、
(インダス文明の担い手、アスラ)
デーヴァ神族(ヒクソス系?)の王インドラに敵対することもある天空神・
司法神ヴァルナの眷属を指していたが、
その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調されるようになり、
時代が下った古代インドではアスラを悪として扱うようになる。
(インドの支配者がインダス文明からバラモンに変わったから。)
インド神話がバラモン教からヒンドゥー教へと発展し、シヴァ・ヴィシュヌが
新しく主神となると、アスラはヴァルナの眷属という設定が薄くなる。
そのうち、デーヴァ族(ヒクソス?)に敵対する種族であれば、
何でもアスラと呼ばれるようになった。
アスラが仏教に伝わると、呼び名が「阿修羅」と変わった。
ヴァルナは、ミタンニ・ヒッタイト条約文にその名があげられ、
『リグ・ヴェーダ』では友愛と契約の神ミトラと密接に結びつき、
ミトラとともに太古のアスラ族(インダス文明)、アーディティヤ神群を代表した。
ヴァルナは、ゾロアスター教の、アフラ・マズダーと起源を同じくする。
アフラは語源的にはアスラ(阿修羅)と共通とされる。
アーディティヤ神群は、女神アディティ(女カ系?)の息子たちとされ、
ヴァルナ、ミトラ(伏儀)を首領とする一群。
シヴァ(伏儀)の妻はパールヴァティー(女カ)で、
その間の子供がガネーシャ(キリスト)である。
また、シヴァ神の乗物はナンディンと呼ばれる牛(バール)で、
ナンディン(バール)も神として崇拝されている。
ヴァルナとミトラは表裏一体(白黒八卦で一体の伏儀)。
インドの神話が分かりにくいのは、
同じ神(伏儀と水共の対立)が、転生、化身、表裏一体などで、
色々な名の神に分裂するためと考える。
大まかに言えば、伏儀と水共の対立の派生と考えられると仮定。
インダス・エジプトの特色として、転生、復活、化身があり、
それがミトラ・キリスト教に繋がったという推論は既に述べた。
個人的には、私は集団、チーム、教え、などとは永久に無縁です(苦笑)
私と他人との関わりは、
1、かわいこちゃんへのおさわり
2、引用
3、茶飲み話
この3点のみ、という事実はすでに述べました。
これは永久に変わりません。
○○はカタカムナでワワ♪(秋刀魚釣り)
明日も調べ物あるね。
文学書とかわいこたむ生活はいつになることやら。
ガンダーラ、マトゥラの仏像仏教とチベット、吐蕃王朝、
大同などの経路を追いたい。
地図を見ると、ガンダーラもインドからは離れていて、
アレクサンドロスの流れは南下していないように見える。
アフガニスタン・キルギスなどに失われた10氏族が見つけられるのも、
北イスラエルによる仏像仏教の制作説と平行で納得。
地図は以下からガンダーラ。
http://www.inokozaka.co.jp/gandhara/0tiri.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002359.png
インド史をさらっと調べる。
以下、ウィキペディア+私見
十六大国
紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて古代インドに形成され
相互に争っていた諸国の総称。
アーリア人の指導者によって率いられパンジャーブ地方に勢力を築いたのは紀元前1500年頃であり、彼らは先住民を制圧して牧畜生活を始めた。この時期から500年間で、カースト制の原型が形成された。
紀元前1000年頃からの後期ヴェーダ時代にはいると、アーリア人達はガンジス川流域にも勢力を拡大し各地に定着していった。ラージャンが優位を確立していき、部族の足場が数多く形成されて行った。
その後、紀元前6世紀に16国時代にいたる。
マガダ国は、カースト制度がなく、バラモン勢力と対立した。
釈迦の釈迦族を征服したコーサラと、マガダ国は対立関係にあり、
「ビンビサーラはコーサラの内部撹乱を目的として釈迦に対し出家を思いとどまるように
説得し、戦象を提供して支援することを申し出ている。しかし釈迦はこの申し出を
拒絶した。後にビンビサーラは仏教に帰依し、釈迦に対し竹林精舎を寄進している。」
ように、
バラモンと対立したマガダ国は、釈迦とも関係が深く、
インダス文明の流れと推定できる。
バールハドラタ朝−シシュナーガ朝(釈迦を後押し)−
ナンダ朝(紀元前四世紀、シュードラ(奴隷)の王朝)と、
マガダの流れにはインダス文明が残ったようだ。
同じマガダの地で、ナンダ朝を滅ぼして起きたマウリヤ朝については、
後に調べたい。
ガンダーラ国
紀元前6世紀後半にはアケメネス朝ペルシアの支配下に入っていた。
こうした点において、インドの他の地域とは異なる運命に置かれた国である。
マツヤ国
伝説によれば、太陽神スーリヤの息子マヌ王(伏儀)に、
7日後に大洪水が起こり全ての命を破壊する事を予言した、
ヴィシュヌの第一の化身の大魚。
「彼(伏儀)に船を用意して七人の賢者と全ての種子を乗せるよう言うと
魚は姿を消した。やがて大洪水が起こり、マツヤは船にヴァースキを巻きつけて
ヒマラヤの山頂まで引張った。こうしてマヌは生き残り人類の始祖となり、
地上に生命を再生させた。」
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002360.png
チャンドラクプタはアレク3世の流れか?
マウリヤ朝の背後関係には裏があるかもしれないのですが、
わかる範囲でさらっと調べます。
紀元前317年頃 - 紀元前293年頃
チャンドラグプタが、シュードラ系のナンダ朝を滅ぼす。
ナンダ朝で「身分秩序が乱れていた」ことが背景と、ウィキには書かれている。
「なおギリシアのプルタルコスはチャンドラグプタが挙兵以前の青年時代に、
インドに侵入したアレクサンドロス大王と出会ったという
逸話を伝えているが確証はない」
↓
この記述が気になる。北西インド地方で彼は挙兵したが、
アレクサンドロス3世は、在位前336年 - 前323年で、
チャンドラクプタの挙兵と5,6年の差しかない。
「ペルシャ帝国を征服したアレクサンドロスは、次にインドへの遠征を目指した。
紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、ヒュダスペス河畔で
パウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、
部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした」
わけだが、
その10年後に同じインド北西部から反乱を起こして、
インダス系王朝を倒したチャンドラクプタが、
プルタルコスによると、アレクサンドロスと会っていた、と記述している以上、
マウリヤ朝にアレクサンドロスの残党の関与の可能性は浮かぶ。
紀元前305年、セレウコス一世の侵入を撃退。
セレウコスもわかりにくい国だが、匈奴+南ユダと仮定しているので、
北イ系の可能性が高いマウリヤ朝との対立は納得。
ガンジス川流域とインダス川流域、更に中央インドの一部を含む
インド史上空前の巨大帝国を形成した。
ジャイナ教系の記録によればチャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰した。
ジャイナ教は、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代のマハーヴィーラを祖師と仰ぎ、
特に不殺生の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる
インドの宗教。
ヴァルダマーナは当時の自由思想家の一人として、バラモン教の供犠や祭祀を批判し、あわせてヴェーダの権威を否定して、合理主義的な立場から独自の教理・学説をうち立てた。
↓
バラモン(アーリア系インド上流階級)とヴェーダ(伏儀の痕跡が残る)を、
共に否定したジャイナ教は、アレクサンドロスの流れの、
チャンドラクプタには心地良かった、という仮定をしておく。
アショーカ王もアレクの流れか?
以下、ウィキペディア+私見
チャンドラクプタの孫、
アショーカ王が紀元前268年頃に即位。
紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征をおこなった。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。
カリンガ国は歩兵6万、騎兵1千、戦象7百を擁する一大勢力であったが、
恐らくインダス文明の流れであろう。
アショーカ王の石柱は、表面にサンスクリット語やギリシャ語が刻まれている。
↓
アレクサンドロスの残党の後押しがあったか?
彼は即位後、大量の兄弟や部下を殺しているが、
マウリヤ朝内にも、アレクサンドロス派、バラモン派など、
派閥争いがあったと仮定しておく。
「ある伝説ではビンドゥサーラの剃毛師をしていたダンマという女が
チャンパーのバラモンの娘であったことが発覚したため正妃とされ、
ビンドゥサーラとその女の間にアショーカが生まれた」
↓
このチャンパーが何処を指すのかわからないが、
始皇帝と同じような、出自の疑惑の可能性が浮かぶ。
その女がアレク派の手先だったなど。
「ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラで発生した反乱に際して
アショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせた」
↓
やはりアショーカを、
マウリヤ朝の内紛の一派が後押ししていた可能性を仮定しておく。
アショーカは仏教の庇護者として著名だが、
「仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した」
↓
彼の仏教はヘレニズム=アレクサンドロスの流れを受けて、
北イスラエル化し始めた仏教である可能性を仮定しておく。
マイルストーンもアショーカ王によって設置された。
↓
マイルストーン(Milestone) とは、とは、
鉄道や道路等の起点よりの距離をマイルで表した距離標識の一つ。
ローマ帝国が、主要な街道に置いたのが始まり、
で、
紀元前3世紀のマイルストーンを置いたアショーカ王に、
ローマ帝国(マナセ族?)との関係の深さを仮定できる。
マウリヤ→ジュンガ
以下、ウィキペディア+私見
アショーカ王の死後、
王位継承の争いがあったことが知られているが、
王統をどのように再構築するかは容易に結論が出ない問題であり、
ともかくマウリヤ朝は分裂・縮小を続けた。
やがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)
の圧力を受けるようになった。
「…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…
」
↓
このインド・ギリシア人が、チャンドラクプタ、アショーカを後押し、
その後、マウリヤ朝を分裂の原因となった、
アレクサンドロスの流れではないか、というのが私の仮定。
マウリヤ朝の将軍だったプシャヤミトラがギリシア人との戦いの中、
頭角を表し、マウリヤ朝を滅ぼしてジュンガ朝を起こす。
シュンガ朝はバラモン勢力
以下、ウィキペディア+私見
マウリヤ朝最後の王ブリハドラタに仕えたプシャヤミトラ・シュンガは
紀元前180年頃にブリハドラタを暗殺し自ら王位に付いてシュンガ朝を創設した。
インドの文献の多くによれば「シュンガ」はバラモン姓。
マウリヤ朝はその末期には分裂状態にあり、プシャヤミトラもかつてマウリヤ朝が支配した領域全てを制圧するには到底到らなかった。特に中央インドでは新たにウィダルパ国が創建されシュンガ朝の強力な敵となった他、北西インドにはギリシア人が勢力を持っていた。
↓
北西インドのギリシア人は、アレクの流れ。
ウィダルパ国については、情報が見付らない。
プシャヤミトラは仏教を手厚く保護したマウリヤ朝とは一線を画し、
仏教教団を弾圧してバラモン教の復興に努め、バラモン教的な儀式を好んで執り行った。
↓
前1500年にインドに侵入したバラモン系アーリア人と、
アレクでインドを狙い始めたヘレニズム仏教徒=北イ系の争い。
ジュンガ朝はバラモン系。
ヤヴァナ(ギリシア人)の王がサーケータ市とマディヤミカー市を包囲したとあり、
これはプシャヤミトラ治世下のことであったと考えられている。
このギリシア人はバクトリア系の集団であったと考えられている
↓
バクトリアはエフライム族、マナセ族と推定したが、
バラモン系アーリア人と対立してインド南下を狙ったようだが、
同じヒクソス同士で、バラモン系アーリア人も強いので、侵入しにくいようだ。
ジュンガ朝は部下に倒され、カーンヴァ朝が起こるが、
勢力は同じバラモンで、
実際にはカーンヴァ朝時代にもシュンガ家が何らかの影響力を保持していた。
サータヴァーハナ朝がカーンヴァ家を滅ぼすが、
北西部にはクシャーナ朝が起こっている。
一つずつ追いたい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002364M.jpg
ベニヤミン系クシャーナ朝
以下、ウィキペディア+私見
クシャーナ朝は1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝。
紀元前2世紀に匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民、月氏はバクトリアに定着した。
これを通例、大月氏(ベニヤミン)と呼ぶ。
このうち最も強大だったのは貴霜翕侯(クシャーナ)であった。
クジュラ・カドフィセスは、
アフガニスタン・バクトリアの北イ勢力と共同統治をする一方で、
これらを征服し、中央アジアにおける北イ系ギリシア人を叩いたが、
バクトリア地方の大部分は依然、北イ系の支配下にあった。
インドのパルティアと勢力争いをしていたが、
ガンダーラを奪取。
カブール周辺とガンダーラの支配は、後のクシャーナ朝の拡大の基盤になった。
その子、ヴィマ・タクトは、
北西インド、北部バクトリアを獲得した。
ヴィマ・タクトの発行したコインには、
ギリシア語で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれているが、
クシャーナ朝も南ユダ勢力なので、ギリシア語を使用したわけだ。
ヴィマ・タクトの孫(王朝交代説あり)
カニシカ王はガンダーラ仏教で著名。
ペシャワールに都を置いた。
カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。
ガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。
この時代に史上初めて仏像も登場している。
ガンダーラ仏像仏教は、ベニヤミンが作ったわけだ。
カニシカ王以降の記録は少ないが、
カニシカの3代後、
三ヴァースデーヴァ1世(波調)は魏に使節を派遣し、
親魏大月氏王の金印を贈られている。
倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印として有名。
↓
魏は匈奴+南ユダと推定。
倭国もフェニキアで南ユダ系。
クシャーナ朝もベニヤミンなので、
この三カ国の関係は納得がいく。
ガンダーラとマトゥラーの違いについては後に追いたいが、
自分の話をしますが、
文学者、思想家、そして一人の人間として、
私は仏像仏教は間違っていると考えています。
文学者、思想家は、文章のみを扱う仕事。
文学者、思想家が、像、映像、音声に結び付けられてしまうことは、
文章による作品のみを扱う文学者、思想家にとって、
無意味どころではなく、有害なのです。
少なくとも黒塗りあふぅの場合は、
私を像、映像、音声と結びつけることは、
まず、文学者、思想家の姿勢として禁じています。
次に、史上最も低俗な集団ストーカーに、犯罪を行なわれた個人としても、
プライバシーと自分の人生を守るために、
自分が像、映像、音声と結び付けられることを、禁じます。
黒塗りあふぅ、私は盗聴、盗撮の被害にあっていますが、
本人の意思として、永久にその音声、映像の使用を禁じます。
この決定は、誰にも、永久に変更できません。
私が禁じているからです。
俳句ダービーでの書き込みは、限定的に引用を許可していますが、
その条件については、既に書き込みましたので、そのルールに従ってください。
俳句ダービー以外の書き込みは、引用も禁止します。
サータヴァーハナ朝は、バラモン+ドラヴィダか?
以下、ウィキペディア+私見
サータヴァーハナ朝(前3c?前1c?〜後3c初頭)
パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が発達した。
この時期の遺跡からは、ローマの貨幣が出土することで有名である。
王たちは、バラモン教を信仰したが、仏教やジャイナ教も発展した。
↓
クシャーナ朝もそうだが、サータヴァーハナ朝もローマとの交易で潤う。
バラモン教は前1500年からのアーリア系の可能性をしめすが、
ヴェーダ文献ではアーンドラ人はダスユ(夷狄 非アーリア人)と呼ばれており、
恐らくドラヴィダ系の集団であったといわれているので、私にはわからない。
前1世紀頃にカーンヴァ朝、ジュンガ家(バラモン勢力)を滅ぼして台頭する。
その後、2,3代のあいだに勢力を伸ばすが、
マウリヤ朝によって滅ぼされたドラヴィダ系カリンガの流れが、
マウリヤ朝の衰退をみて、チェーティ朝が起こされていて、
サータヴァーハナ朝はその攻撃を受け混乱。
1世紀頃まで歴史はほとんどわからなくなる。
サカ族(スキタイ?匈奴?)に圧迫されていたが、
ガウタミープトラ(106年頃 - 130年頃)が、
クシャーナの流れから中央インドを奪取、
更に西北インド方面に力を持っていたサカ人、ギリシア人、パルティア人に対抗して
これを抑え、デカン高原のほとんど全域を支配下に置いた。
↓
バラモン教を重視し、スキタイ、北イ、イラン、ベニヤミンと対立した、
サータヴァーハナ朝は、前1500年からのアーリア勢力と推定できる。
その後もクシャトラパ(クシャーナの流れ)と抗争を続けるが、
3世紀にに入ると中央政府の統制力は弱まり、
地方に派遣されていた王族や諸侯達が各地で自立して急速に崩壊した。
アーンドラ人は非アーリア系であると推定されているが、
サータヴァーハナ王家がドラヴィダ人の母系家族制の影響下にあったことも知られている。
バラモン教を基本としながら、仏教も保護されたのは、
アーリアとドラヴィダの妥協王朝だったためと仮定しておく。
地図は以下のサイトから、デカン高原。
http://www.saiyu.co.jp/osusume/110/india_dekan_ajanta_.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002366M.jpg
マガダ→カリンガ→チェーティ朝
以下、ウィキペディア+私見
マガダ→カリンガ→チェーティ朝は、
マウリヤ朝(アレクの流れ)、
ジュンガ朝(バラモン教アーリア)に対し、
インダス文明の流れを組む。
チェーティ朝がどのように権力を得て成立したのかは分かっていないが、
第3代の王と考えられているカーラヴェーラが、
バラモン系、サータヴァーハナ朝を攻撃、
ギリシア系のグレコ・バクトリア王国をも圧倒し、強勢を誇ったチェーティ朝は、
暫くの間、有力勢力として存続していたと考えられるが、
記録が少ないためによくわかっていない。
タミル系のチョーラ朝、パーンディア朝
以下、ウィキペディア+私見
チョーラ朝は、タミル政権で、
1〜3世紀頃にカーヴェリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都をおき、全インドを征服したとかセイロン遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られている。
http://www16.plala.or.jp/vierzehn/P19_22.pdf
南端部にチョーラ朝,最南端部にパーンディア朝が存在→タミル語文学の発展
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/EurasiaBC2.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002368.jpg
サータヴァーハナ朝の分裂後
以下、ウィキペディア+私見
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/andhra.html
アーンドラ王国(=サータヴァーハナ朝)は、
「3世紀初め 西北のサカ族との争いが続き、王国は衰亡、分裂。
王国西部(ナーシク地方) → アービーラ朝
王国東部(アーンドラ地方) → チュートゥ朝
王国南部(クンタラ地方) → イクシュヴァーク朝……3世紀にアマラーヴァティを首都として仏教栄える。
これらの小王朝も長続きせず、デカン地方はヴァーカータカ朝の勢力下に入る。
また東南部海岸地方にはパッラヴァ朝が興隆。」
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/krsna.htm
「「クリシュナ」(kRSNa)は、もとは「黒」を意味する形容詞である。肌の色が黒いためこの名がある。クリシュナは、ヴィシュヌの化身のうちでも、ラーマとともに民衆にもっとも人気があり広く信仰されている。
クリシュナも、ヴィシュヌに劣らず多面的な神で、いくつかの異なる神が複合されて成立した。クリシュナ信仰の成立と発展の過程はきわめて複雑で、西インドのいくつかの部族の神々が合体して多様な相をもつに至ったと推定される。正確なところは不明であるが、クリシュナを構成する主な要素として、次のようなものがあげられる。(1)ヤーダヴァ族の英雄クリシュナ、(2)ヴリシュニ族の一神教的なヴァースデーヴァの信仰、 (3)アービーラ族の牧童(ゴーパーラ gopAla)の信仰、さらに、(4)正統バラモン思想の伝統との融合によるヴィシュヌの化身としての信仰である。
(3) アービーラ族の牧童(ゴーパーラ gopAla)の信仰は、マトゥラー周辺に広まっていたと考えられる。現在もマトゥラーの北には、クリシュナの生誕地とされる所があり、そこにはクリシュナ・ジャナム寺院が建てられている。また、マトゥラー西北のヤムナー河畔にあるヴリンダーヴァンは、クリシュナが牧女たちと遊び戯れた森のあったところとされる。そこには寺院が多く建ち並び、クリシュナ信仰の中心地となっている。」
「インドでのクリシュナ人気は、非ヒンドゥー教のさまざまな逸話を吸収したことが大きい。」
↓
クリシュナはインダス系の神のようですが、
アービーラ朝はクリシュナ信仰で、マトゥラ−にも関わるらしい。
以下のサイトによると、
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm
マトゥラ−坐像の、
「釈迦如来の両脇には脇侍、台座前面の中央、両脇には獅子が浮彫りされております。
この獅子が台座から独立して、中国、日本で変化したのが唐獅子、狛犬、獅子舞、
沖縄のシ−サだったりするのであります。」
↓
仏像はアレクの流れのギリシア彫刻を取り入れた物だが、
獅子は狛犬にも繋がるシュメールの流れと推定できるので、
マトゥラにはクリシュナ+狛犬というシュメールの痕跡も残る。
以下のサイトから抜粋しつつ、私見。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage18.htm
「汝、偶像を祀るなかれ、の戒めを与えたヤーウェ神の国である筈の大ユダが、
何故、偶像仏教の導入を許すことになったのでしょうか」
↓
ヤーウェはシュメールの神。大ユダは南ユダ系でイナンナ派の倭人。
「既に、太子の頃の大ユダでは、ミトラ神崇拝という偶像崇拝が蔓延っていたからです。
ミトラは、大ユダでは、「マトゥラ」と呼ばれていました。」
↓
インダス−ミタンニのミトラ教は、偶像崇拝に繋がり、
ベニヤミンなどはミトラをマトゥラを呼ぶ、と彼は論じているようだ。
「後に、マトゥラ神像は、天台宗の仏寺に安置されて残ることになりました。
延暦寺に祀られている「摩多羅神」や、京都太秦広隆寺の牛祭りの祭神ともされる摩多羅神の由来は不明と言われていますが、共に大ユダ時代のマトゥラ崇拝の名残りなのであります。」
↓
牛祭りはバール信仰、マトゥラ像には狛犬もいる。
仏教はよく知らないのだが、天台宗はマトゥラ系と彼は論じている。
摩多羅神はどうやら、ダビデ崇拝(イナンナ系救世主思考)であり、
「マトゥラ崇拝が戦勝祈願の為の軍人教であったから…
偶像崇拝を禁じた教えが説かれていた大ユダに、
マトゥラ偶像崇拝が蔓延るようになった…
卑弥呼の時代には隆盛を誇っていたのであります。」
↓
邪馬台国は親魏倭王で、南ユダと関係が深いと推定するが、
ベニヤミン系クシャーナ朝が、同じく親魏大月氏王の金印を贈られている。
クシャーナ朝のカニシカ王の時代に、
ガンダーラ、マトゥラーで初めて仏像が制作されているので、
マタラ、ミトラ、摩多羅の音が同じというだけでなく、
勢力の背景から、同一の物である可能性も仮定できる。
「「魏志倭人伝」に記されている「末櫨国」(末羅〔記〕、松浦〔紀〕)は
ヘブライの部族名ではないので、マトゥラに充てたものでありましょう…
大ユダの兵士の多くがマトゥラ崇拝者であったことがそうした命名、
或いは通称名に繋がったのでしょう。
九州の北部は対馬列島と並んで、防衛の拠点であったことが考えられますが、
大ユダはそれらに軍を置いて、朝鮮海峡から対馬海峡を経由した
大陸からの侵入者に対して備えていたのであります。」
↓
彼の言う大ユダを倭人と理解して、
同じ南ユダ系勢力のマトゥラで起こった偶像崇拝が、
倭人の北九州王朝の地名にも残ったという説は、
可能性としてはありうる。
ただ、インド−エジプト型のシュメールの流れには、既に推定したように、
ミトラ−キリストなど、メソポタミアや中華と比べて、
偶像崇拝にまで繋がる特徴的な側面があり、
アレクサンドロスの北イのギリシア彫刻など、
非シュメール的な発想が混じって、
仏像仏教が作られてしまった、と考える。
この仏像という発想は、北イスラエルから来たのではないか?
個人的には仏像という思考は嫌いです。
彫刻と思想は異質です。
画像は以下のサイトから、マトゥラ−坐像。下に狛犬の元がいる。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002369M.jpg
クシャーナが衰退した時代
以下、ウィキペディア+私見+以下のサイトから抜粋
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/gupta.html
グプタ朝
クシャーナ朝衰退後マガダ地方から興る。
西暦320年から550年頃まで栄えた王朝である。
チャンドラグプタ1世の基盤、マガダの地は、
かつてマウリヤ朝を建てたチャンドラグプタが基盤とした土地でもあり、
それを継ぐ者という意識を持っていたようである(ただし、
チャンドラグプタとチャンドラグプタ1世の間に血縁などの関係は全くない)。
2代目はデカンのヴァーカータカ朝と姻戚関係を結んで、
南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。
3代目のチャンドラグプタ2世は、
イラン系のサカ朝(西クシャトラパ)を下し、
ヴァカタカ朝やパンジャーブ諸国を臣従させた。
この時期、東晋の僧、法顕が訪れている。
なお、この頃、ヒンドゥー教が台頭し、仏教文化は衰退を始めた。
第4代クマーラグプタ1世(位415年頃〜455年)の治世は、
玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダー僧院が設立されたことで知られるが、
遊牧民エフタルの侵入によって衰退。
その後は分裂し550年に滅亡。
エフタルは、白いフン、白匈奴。
5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力を
滅ぼしてトハラ(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
隣接するサーサーン朝と渡り合い、インドへと侵入してグプタ朝を脅かし、
グプタ朝の衰亡の原因を作った。
6世紀の前半には東はタミル盆地のホータン、
北ではテュルク系遊牧民の鉄勒、まで支配下においた。
しかし6世紀の中頃に、鉄勒諸部族を統合した突厥と、
サーサーン朝に挟撃されて滅ぼされた。
エフタルが単純に匈奴なのかどうかは、私にはまだ分からないので棚上げ。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/ephthal.html
「= 起源 =
トルコ系 (モンゴル系) 説……元来トルコ系またはモンゴル系で、
天山・アルタイ山脈方面から興り、ソグディアナ・バクトリア地方へ南下。
イラン系説……クシャン族と類縁のイラン系で、アム・ダリヤ上流の
バダフシャン東方またはヒンドゥークシュ山脈方面から現れた。
高車説……中国文献は大月氏または高車の一種で、金山(アルタイ山脈?)
から南下しアム・ダリヤ上流に建国したと伝える。
いずれが正しいか、定説はないが、遺跡調査などからはイラン系説が有利。」
鉄勒、突厥については後に調べるが、
平御幸により突厥はベニヤミン。
クシャーナ朝の衰退によりガンダーラ文化は衰えて、
グプタ様式が盛んになる。
サンスクリット文学は最盛期の時代で、二大叙事詩である
「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、カーリダーサの戯曲「シャクンタラー」
などが生まれる。マヌ法典も完成した。
アジャンター石窟はグプタ・ヴァーカータカ朝に再び活動を始めているが、
バラモン+ドラヴィダのサータヴァーハナ朝時代に開かれたもの。
グプタ朝は、
ヴィシュヌ神を信奉し、バラモン教を国教に、サンスクリット語を公用語にした。
↓
バラモンが支配層、インダス庶民をヴィシュヌ神で取り組みつつ、
アレクサンドロスの流れに対抗した王朝と仮定しておく。
その形式はサータヴァーハナ朝と同じ。
ただし、マウリヤ朝を意識していたように、
インダス勢力を好ましく思ってはいなかったように見え、
勢力の拡大と同時にヒンドゥー教が盛んになり、仏教は衰えている。
勢力が安定したので、インダス勢力の力を切り捨てたと仮定したい。
基本的には前1500年に侵入したアーリア系バラモンの王朝と推定。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/Eurasia4C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002370.jpg
インドとチベットのエロスの起源
インドからチベットを調べようと思っていたのですが、
その時代の前に、パルティア、ササン朝という大国が隣接しているので、
先にパルティア、ササン朝を調べます。
雑談ですが、
ベニヤミンは聖母信仰のためか、ストイックに見え、
メソポタミア・中華もエロスは好きだが、
性にのめり込んで、堕落することを諌める論調が多い。
私にとっても、エロスは読書の次に大切ですが、
あくまでも動物的な欲求にすぎず、強い動物的欲求であることを認めつつ、
理念や文学、思想として追求する価値はないと考えます。
一方、北イ系の文化は、ストイックさ、文化への反抗から、
他人のプライバシーや性の明け透けさ、盗み撮りを好むように見える。
対して、インド・チベット文化には、官能の側面があるようにみえる。
「アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる」
「マハーシャーナカ王子が世俗の快楽を捨て去る決心をして、妃シヴァリーが踊り子たちとともに出家を思いとどまらせようとするが、引き止めきれず、王子はゾウの背に乗って王宮を去り、残された妃は深く絶望し、奴隷たちに囲まれて快楽にうずもれてゆくという場面である。」
アジャンター石窟の壁画を見ても官能的。
チベットよりも先に、少なくとも四世紀の時点で既に、
官能への志向がみられる。
これは、シュメール、北イ系のヒクソスとも違う、
前1500年に侵入したが、インダス系の釈迦の勢力が抵抗する。
その釈迦の禁欲への、インド−バラモンによる対抗が起源なのだろうか?
これはまだわからないので仮定です。
仏教はよく知らないのですが、
ベニヤミン系の仏像仏教とインドの仏教絵画の雰囲気が全く違うことに、
驚いたことがあって、よくわからないので一つ雑談しました。
バクトリアの残党がクシャーナ朝に残って仏像に繋がる。
以下、ウィキペディア+私見
バクトリア(紀元前255年頃 - 紀元前139年頃)
ギリシア人王国でヘレニズム国家の代表。
紀元前228年頃、同じくセレウコス朝より独立した、パルティアと同盟を結び、
西方を固めた。この同盟は、紀元前189年まで続いた。
紀元前2世紀に入ると、ガンダーラを占拠し、
北西インド進入し、パンジャーブ地方支配した。
しかし、このときセレウコス朝の支援を受けた、エウクラティデス王が
バクトリア本国を奪い、パルティアのミトラダテス1世によって侵入される。
しかしインドに進出したデメトリオス王はインド侵略を続け、
バクトリア王国の最盛期を築いた。
メナンドロス王(〜紀元前145年)はバクトリアから分裂し、北西インドを支配した。
この王は哲学議論好きとして知られ、仏僧のナーガセーナと議論を交わし、
最後に仏教に帰依したと言われている。これは仏典『ミリンダ王の問い』。
パンジャーブ地方を拠点とし、ガンダーラ地方、マトゥーラまで支配し、
シュンガ朝を攻撃した。
その後、バクトリア本体は、この二つの分派を制圧し取り戻す。
しかしその後、トハラ族、サカ族、パルティアの侵入を受け弱体化し、
1世紀初めにクシャーナ朝の侵入によって滅ぼされる。
このとき、インドのギリシア王朝、バクトリアは滅びたが、
ギリシア人はその後もこの地域に住み続け、
クシャーナ朝期のガンダーラ美術に大きな影響を与えた。
↓
アレクの流れのバクトリアの残党が、ベニヤミン系クシャーナ朝において、
仏像仏教が生まれる一因となっているので、
仏像へのギリシア彫刻や北イスラエルの影響は間違いない。
地図は以下のサイトから、グレコ・バクトリア
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/hensen1.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002372M.png
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