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「記者クラブ」関連スレッド

1カマヤン:2004/02/21(土) 18:43
「記者クラブ」関連の情報を集めます。

45・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:35:54
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/0301016_sensouhoudou.htm
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
                                   <2004年7月>
      『兵は凶器なり』(32)    15年戦争と新聞メディア      1935−1945
    2・26事件以後、阿部定事件・新聞記者恐怖症″、腹切り問答
                                    前坂 俊之
                              (静岡県立大学国際関係学部教授)
 二・二六事件で東京に布かれた戒厳令は五ヵ月間も続き、七月十八日まで解除されなかった。
斎藤隆夫の粛軍演説が飛び出した臨時国会では「不穏文書臨時取締法」「思想犯保護観察法」
などの言論取締り法規が相次いでつくられ、メーデーもこの年から禁止されてしまった。
 戦争前夜の重苦しい雰囲気に包まれ、国民は、先行きの不安におびえた。そんな息詰まる暗い
世相のなかで、五月十八日、阿部定事件がおきた。
  ● 阿部定は「世直し大明神」
 この事件で、ファシズムの暗い予兆におののいていた人たちは、まるで暗雲に閉ざされた空に
一瞬光がさし込んだかのように興奮し、阿部定を「世直し大明神」と称し、笑いころげて、ウサを
晴らした。庶民にとっては一種の救いとなったのである。
 軍部の言論統制強化のなかで手も足も出なかった新聞は、その屈折した攻撃のハケロをこの
猟奇事件にむけ、センセーショナルに報じ、社会面はエログロ、ナンセンスに傾斜した。それは
非常時の新聞の一つの特徴でもあった。
 各社はこの事件に飛びつき、おもしろおかしくセンセーショナルに報じた。
「『待合のグロ犯罪』夜会巻の年増美人情痴の主人殺し 滴る血汐で記す『定吉二人』円タクで
行方を晦ます」 (『東京日日』五月十九日朝刊)
「尾久待合のグロ殺人、流連七日目の朝の惨劇 四十男を殺して消ゆ 変態!急所を切取り
敷布と脚に謎の血文字『定吉二人きり』」(『読売朝刊』同)
 特にアソコの表現には各社とも神経を使い、『朝日』は「下腹部」、『東京日日』は「局所」、『読売』は
「急所」「局部」とそれぞれ工夫をこらした。

46・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:36:18
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
 当時、『東京日日』の社会部長小坂新夫はその時のいきさつをこう書いている。
「『阿部定事件』の時は弱った。情人のアソコを切り取り帯にはさんで逃げ回るので、まさか露骨に
オチンチンとも書けず、私は夜になってから編集局全体に 『名案』があったら教えてくれと触れまわった。
政治部の陸軍省担当記者が『まあ、一概にいえば局部というところじゃが、そこをヒネって局所と
やったら』といって来た。で名案としてこれを採用『局所』 と書くことに決めた」(1)
 ところが、最初は『局所』ではなく、『生命線の切断』を取ったが、生命線というと「満蒙はわが国の
生命線」を連想し「軍部から叱られるのでは……」との懸念から、『局所』に落着いた、と『文章春秋』 
(一九三六年七月号)は書いており、「社会記事にまで軍を怖れなければならぬ東日」と皮肉られている。
 阿部定が逮捕されるまで、連日、逃走経路や妖婦の正体などのおもしろおかしい記事を派手に載せ、
大々的に報じた。
 折から国会開会中だったが、逮捕の報に予算委貞会は暫時休憩の声がかかり、議員は秘書が
買い求めてきた号外に殺到し、笑いころげたという。
 また、当時の市電では出発合図の信号が、「チンチン」と鳴って、女性車掌が乗客に向かって
「お切りします」というと、車内は爆笑につつまれたという。
 庶民は阿部定の一途の愛情に共感を寄せ、暗い世相の谷間に咲いたこの妖婦に共鳴したのである。

47・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:36:33
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
  ●報道界内部の事件も相次いだ。
 特に 『朝日』 の取引所改革報道のスクープは全国の株式市場がこれによって休会に追い込まれる
パニックに発展、検察当局は「財界かく乱の疑がある」として、執筆した記者を逮掃するなど新聞界を
揺るがせた。
 発端となった記事は七月二十一日、東京・大阪の『朝日』朝刊経済面に「取引所改革案 当所株
上場を廃し実株本位へ統制 政府当局の立案成る」とトップ四段見出しで報じられた。
 この改革案は一九三四年度の商工省内の取引制度調査委貞会で継続審議されていたもので、
内容がもれると経済界に与える影響が大きいため、秘密裡に審議され、商工省当局も、このニュースは
慎重に扱うよう各社に要望していた。いわくつきのものであった。
 庶政一新をスローガンにしている広田内閣の誕生によって、取引所改革も大幅になるのではとの
見方も流れていた。『朝日』は取引所株の市場上場禁止など内容の骨子をスクープしたのであった。
 この記事に証券界はショックをうけ株価は大暴落し、東京の取引所は立会停止となり、大阪、神戸など
全国的に波及、各取引所も休会する異常事態となった。
 新聞報道によって株式市場が休会したのは取引所開設以来初のケースであった。大混乱に陥ったため、
商工省、大蔵省は『朝日』の記事を全面否定した。二十二日午後、この記事を書いた『東京朝日』経済部、
政治部の記者二人が取引所法第32条「相場の変動を図る目的を以て偽計を用いる」などの容疑で
警視庁に逮捕され取り調べられた。
 二人は山一証券の店員にこの記事を内通して金銭を授受したとの情報も流れ、警視庁は証券会社
店員ら三人も合わせて逮捕した。この間『中外商業』 (現『日本経済新聞』)は号外を発行して、この
スクープの後、この記事が虚偽の風説であると主張、『読売』その他は2記者が二千五百円もらったとか、
五千円もらったとか書きたてた。
 驚いた『朝日』 は二十四日、上野社長が幹部を集めて事件の説明を行い自制自粛を訓示、二人の
記者と当日のデスクを退社処分にし、この処分を社告に掲載、経済部長も辞職した。「記事を漏洩悪用し
社規を紊る」と社告にはいちはやく罪名までつけられた。東京の経済部はこの事件で六人が交代すると
いう騒ぎへ発展した。

48・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:36:50
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
 ところが、東京地裁は『朝日』の2記者については報道内容は虚偽でなく根拠がある、金品授受の事実は
証拠不十分として、八月十九日に不起訴に決定した。また他の証券会社の店員らも合わせて不起訴となり、
大山鳴動ネズミ一匹の感じとなった。
 真相は取引所改革について、大蔵省国債課長が立案したものがプリントとして印刷され、流れていたのを
『朝日』がキャッチして、スクープしたことが判明した。
 この事件は思わぬ余波を引き起こした。国債課長は直ちに専売局参事に左遷され、ついで官規紊乱の
かどで免官された。このため役人は〝新聞記者恐怖症″に陥り、取材制限へと発展したのである。
 八月十日開かれた内閣情報委員会、定例次官会議でこの間題が取り上げられ、情報管理の徹底が
論議され、各官省内に「公表以外記者団にニュース材料を提供すべからず」という厳命が下された。
 さらに十八日の定例閣議で取引所事件が藤沼書記官長より報告され、次のような申し合わせが
決定した。(2)
  一、今後新聞への発表は責任者たる大臣、次官より行う。
  二、局課長は大臣及び次官諒解のもとに、既定の事実についてだけは記者団の質問に速やかに、
かつ詳細に語ることはさしつかえなし。
  三、ただし、原則として局課長以下はなるべく新聞記者と接触せざるよう心がけるべし。
 陸軍当局もこれと歩調を合わせ、記者団に通達した。
「今後、記者団は大臣、次官との共同会見並に軍務局長との会見を自由とする以外、各局課長及
中央部将校に面会する時はあらかじめこれを新聞班に届け出て、その許可を得ることを要す」
 この結果、新聞記者は政府からニュースソースを完全に封鎖されてしまった。
「ヒョ一夕ンからコマではないが、東朝の取引所記事がはしなくもこんな結果をもたらそうとは誰しも
夢想だにしなかったであろう。政府のこのニュース統制強化の態度は実にわが新聞市場空前のもの
であり、全新聞衝に深大な反響を呼んだ」 のである。(2)
 さらに、官庁の発表ものは同盟通信を通じてやればよい、クラブは廃止し、記者は減員か他に回して
自由に取材させれば、という合理化の論議が大きく台頭しはじめたのである。
 一方、軍部は「広義国防」をスローガンに一九三六年から三七年にかけて大幅な軍備増強計画をたてた。
陸軍は軍備増強五ヵ年計画、海軍は一九三六年の軍縮条約脱退によって、戦艦大和、武蔵の建造などを
含む大建艦計画をすすめた。

49・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:37:11
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
  ● 浜田国松の「腹切り問答」
 このため、一九三七年度の予算は前年度の一・三倍にのぼる三十億四千万円に達した。このうち
軍事費は何と全体の半分近い四六・四%を占めた。
 二・二六事件を反省するどころか、若手陸軍官僚が公然と議会政治を否定するような改革案を発表
するなど、軍部の横暴は目にあまるものがあり、軍拡路線を走る広田内閣に対して国民の不満はつのる
一方だった。
 一九三七年一月二十一日。第七十通常国会が新装なった国会議事堂で開かれた。大増税の軍拡予算
を審議する国会だが冒頭から軍部と政党が真正面から衝突した。いわゆる浜田国松の「腹切り問答」 
である。
 浜田は政友会の長老議員でこの時七十歳。衆議院議員当選十一回、議員生活三十四年の大ベテラン
であった。初日の二人目の代表質問者として登壇した浜田は声をはりあげて軍の政治関与を厳しく批判した。
「軍部は近年自ら誇称して我国政治推進力は我等にあり、乃公(だいこうい)出でずんばの概(おもむき)がある。
『五・一五事件』然り、『二・二六事件』然り、軍部の一角より時々放送される独裁政治意見然り。
要するに独裁強化の政治的イデオロギーは常に晴々として軍の底を流れ、時に文武格盾(かくじゅん)し
堤防を破壊せんとする危険があることは国民のひとしくまゆをひそめるところである」
 さらに浜田は「国民的政治機構である政党によって憲政は運用されるべきである。もし軍人が政治活動
をしようとするならば、軍服をぬぎ、サーベルをすて丸腰になって政党をつくるべきだ。軍という立場で
政治を動かそうとするところに危険がある」と語気鋭く寺内陸相に追った。
 浜田は、議会のかけひきに長じた百戦錬磨の闘士であったが、寺内陸相は寺内正毅元帥の長男で、
お坊ちゃん育ちのうえ、中央の軍政にたずさわったのは今回が初めてであった。寺内陸相は浜田の術策に
まんまと引っかかった。
 答弁に立った寺内陸相は「中には或は軍人に対していささか侮蔑するような如き感じを致す所の御言葉を
承りまするが……」と反論した。
 再び立った浜田は「私の演説のどこが軍を侮蔑したか、具体的に答えてほしい」と追及。
 言葉に窮した寺内陸相が「侮蔑するが如く聞こえるところの言辞はかえって浜田君の言われる国民一致
の精神を害するから御忠告を申したのであります」と答えたのに、浜田は憤激し、「速記録を調べて、
僕が軍隊を侮蔑した言葉があったら割腹して君に謝す。なかったら、君、割腹せよ」と詰め寄った。
 互いに興奮し、言葉じりをとらえた子どものケンカじみてみえるが、その背景には軍部と政党の引くに
引けぬ対立があった。国民は浜田の一歩も引かぬ軍部批判と対決に拍手を送ったのである。

50・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:37:30
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
 しかし、この「腹切り問答」で、寺内陸相は「議員に反省を求めるため解散すべし」と閣議で強硬に
主張して譲らず、議会は二十二日から二日間停止することになった。
 さらに、「政府が解散に同意しない場合は陸相単独でも辞任する」と他の閣僚が全員反対しているなかで、
ただ一人強引に政府を突き上げた。傍若無人な陸相の行動についに広田内閣は崩壊する。
各紙はこれをどう報道したか。約七ヵ月前の斎藤隆夫の粛軍演説と同じく大々的に取り上げたが、
社説での軍部批判はいっそうトーンダウンしていた。
 『東京朝日』の社説「突如たる停会」(1月22日)は「政府が物の怪でも怖るるが如く最初から議会の
攻撃を回避せんとするの態度は甚だ取らない。興奮は特に今日の政情において禁物である」
 『東京日日』は「議会停会−政府も政党も反省せよ」(同日)で「政党側からいっても、単に政府攻撃
ばかりが能ではない。政府の立場から見ても議員を威嚇して法案の成立に専念するだけが手柄ではない」
とケンカ両成数的な内容となっており、肝心のマトをはずしていた。
 『文香春秋』の「新聞匿名月評」はこの点を厳しく衝いてこう書いた。
「如何なる点が軍人を侮蔑したのか、新聞はかたく口を閉ざしていた。かつて尾崎愕堂が大臣席を
指して『あれは国賊だっ』とやらかした帝国議会は、もはや外国の議会であり、新聞もまたこの国の
拡声器とは思わない」
「東日の如きは善意か悪意か、見んごと肘鉄を食らわした。翌日、各紙が社会面で追っかけたが、
東日だけは依然としてそっぽを向いていた。幹部が三宅坂に脱帽するのは差支えないにしても、
本山精神と福地精神と福沢精神(時事が解散したのに、合同とは大分変だが)とを買う読者こそ
可愛そうだ」(4)
 『東京朝日』でこの腹切り問答を編集した整理部員はその時の思い出をこう語った。
「『侮蔑の言あらば割腹せんー浜田氏憤然詰寄る』という三段見出しの記事を見ながら溜飲が下がった
気持で、うれしくてひとり悦に入っていた。するとうしろで『こんな馬鹿野郎のいうことを何でデカデカ
扱うんだ』と吐いて捨てるように言うやつがある。ふりむくと『こんな下手な編集をしたのはお前か』と
いわんばかりの顔つきで政治部次長が立っていた」(5)
 すでに新聞社の空気もこのように変わっていたのである。
 そこには浜田演説を支持する言論はなかった。広田内閣を倒し、宇垣一成への大命降下もつぶした
陸軍はいよいよ大手をふって暴走し、半年後に日中戦争を引き起こした。
                                           (つづく)

51・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/01/29(土) 18:37:46
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/heihakyoukinari31_040728.pdf
<引用・参考文献>
(1) 『なぐれ記者』 小坂新夫 印象社(非売品) 一九七八年三月 58−59P
(2) 「新聞街統制禍」 辻民部 文芸春秋 一九三六年十月号
(3) 「同上」
(4) 「政変狂躁曲譜」 M・Y・S 文芸春秋 一九三七年三月号
(5) 『言論昭和史』 三枝重雄 日本評論新社 一九五八年八月号  99P


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