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2022/9/4「自由意志とは何か?」

1久保共生:2022/08/04(木) 00:50:19
最近、スピノザの『エチカ』の影響もあって、「自由意志」についていろいろと考えてみたのですが、想像以上に問題の多い概念であるということが分かってきました。
この発表ではまず、「自由意志」という言葉は一体何を意味しているのか、そもそも概念としてまともに成立するようなものなのか、というような点を検討したいと思います。
予め僕の考えを述べておくと、自由意志論者たちは、「自由意志」ということで自分が何を言わんとしているのかを、自分自身でもよく分かっていないのではないかと考えています。(ちなみに、僕は同じような思いをクオリア論者にも持っています。)

また、問題が多い概念であるにもかかわらず、なぜ「自由意志は存在しない」という主張に抵抗を感じる人々がいるのかという点や、刑事責任をどう考えればよいのかなどの倫理問題などにも言及したいと思っています。
加えて、僕はこれまで全く興味がなかった決定論的世界観に、最近少し魅力を感じている(自然主義的な視点ではなくある種のプラグマティックな視点から)ので、その旨にも触れたいと思います。

2久保共生:2022/08/04(木) 01:02:33
自分で考えた内容を発表するので、参考図書などは特にありません。

3ウラサキ:2022/08/04(木) 05:43:10
私は「自由(free)」という形容詞を、「意志(will)」という名詞に使うのは、
そもそもカテゴリー・ミステイクだと思います。
「自由」ってのは「本人の意志通り」という意味を含んでいますので、
語の選択制限違反かと。

4久保共生:2022/08/06(土) 00:24:41
>>3
なるほど、面白い指摘だと思います。

「自由な行為」とか「自由な選択」などは普通に意味が明瞭だと思います。
すなわち、「本人の意志通り」の行為や選択という意味に解釈できます。
ところが「自由意志」となると、「本人の意志通りの意志」みたいな厄介なことが生じます。
こうなると、「意志を意志通りに持つ」というような状況を想定せねばならないでしょう。

けれども「意志を持つ意志」というのが何を意味するのかよく分かりません。
いわゆる意志の無限後退(意志を持つ意志を持つ意志を持つ意志‥‥)に陥らない、意志の最初の出発点となる意志を自由意志と名づけるべきなのでしょうが、これが有意味な概念として成立するかは甚だ疑わしいと思います。

5久保共生:2022/08/06(土) 00:46:02
ちなみに僕も別の視点から、「自由意志」は語の適切な使用方法から逸脱していると考えています。
詳しくは当日の発表で述べますが、僕は「自由意志」は一般に「意志」と呼ばれているものの範疇から逸脱していると考えます。
特に、非決定論を要請する自由意志は、もはや意志とは呼びえないようななにものかになると考えています。

6野口:2022/08/06(土) 23:08:11
私は「脳科学」の視点から「自由意志」を考えてみたいと思っています。いわゆるリベット博士の実験です。
また「統一教会」の自由意志による度を過ぎたと思われる寄付・寄進についても考えてみたいです。

7久保共生:2022/08/07(日) 23:03:25
>>6
リベットの実験についても少しは言及しようと思っていましたが、そこまで詳細に扱う気はなかったので、ここに僕が思うところをやや詳しめに書いておきます。
もし以下の議論に興味を持たれる方が多ければ、発表で時間を割いてもよいと思っています。

まず、実験の内容を確認します。
被験者は好きなタイミングで手首を曲げるなどの特定の身体運動を行うように指示されるが、その際、「手首を曲げよう」と意識した瞬間、目の前の画面に映っている回転する点がどの位置にあるかを覚えて報告するように指示される。
この報告がなされた時刻と、手首を動かすための脳活動が起きた時刻とを比較したとき、後者の方が前者よりもわずかに早かったとのことです。
この結果は一般に、「手首を曲げよう」という意志は脳活動が原因で生じたと解釈され、「自由意志が否定された実験」として知られています。

ただ僕としては、この実験やその解釈に対しては、非常に多くの突っ込みどころがあると思っています。
正直、色々と問題が多すぎて突っ込み切れないレベルですが、以下でなるべく丁寧に問題点を指摘したいと思います。

8久保共生:2022/08/07(日) 23:53:44
突っ込みどころをいくつか挙げておきます。

①手首を曲げる瞬間の「今だ!」というような意識は、果たして意志が発動した時点を表していると言えるのか?
「手首を曲げよう」という意志は本当にその瞬間に生じたのか?
そうではなく、実験に協力し手首を曲げる指示に同意した段階で成立していたと考えることもできる。
意志の発動時刻を特定することは困難だし、恣意的にならざるを得ないだろう。

②なにかをしようとした瞬間の「今だ!」というような意識に先行して脳活動が生じるのは、別に何も驚くべきことではない。
それどころか、「今だ!」という意識に先行して、身体運動が生じることも珍しくはない。
例えば、野球においてバッターがボールを打つとき、打つ瞬間の「今だ!」というような意識よりもずっと前に、バッターはボールを打つ態勢に入っていなければならない。
行動を起こす瞬間の「今だ!」というような意識に先だって、その行動を起こすための態勢が出来上がっているというだけの話である。

③そもそもこれは自由意志についての実験なのか?
「手首を曲げる」という行為は、単に実験者の指示に従っただけのものであり、普通は本人の意志によるものとは言わないのではないか。(少なくとも、自由意志によるものとは絶対に言えないだろう。)
尤も、手首を曲げるタイミングは確かに本人が自由に選択したとは言える。
けれどもここにおける「自由」は、単に手首を曲げるタイミングに特に制限がないというだけの意味であり、「自由意志」とは無関係である。
リベットに限ったことではないが、論者たちはしばしば「自由」と「意志」と「自由意志」の三語を不用意に混同し、徒に混乱した議論を展開することがある。

④実験から明確に分かることは、脳活動は手首を曲げる瞬間の「今だ!」というような意識に先行して生じている、という点だけであり、「脳活動が原因で手首を曲げようという意志が生じる」という解釈は全くの臆断でしかない。
さらに言えば、こうした「心身因果説」的な解釈は一種の誤謬によって生じるものであり、ナンセンスな解釈だと僕は考えます。
これについての詳細は当日の発表で述べるので、ここでは省略します。

9久保共生:2022/08/08(月) 00:12:29
以上のように、リベットの実験に関しては、どこから突っ込んだらいいのか分からないくらい、非常に多くの問題を抱えていると思われます。
これもひとえに、「自由意志」という概念の捉え難さによるものと言えるでしょう。
「自由意志」という語が一体何を意味するのか、リベット自身でさえよく分かっていなかったのではないかと推察します。
一般にリベットの実験は、自由意志の存在の危機と受け止められましたが、「自由意志」が何を意味するのかよく分からないまま存在するか否かを議論しても不毛でしょう。

10久保共生:2022/08/08(月) 00:33:12
>>7
6行目の

>この報告がなされた時刻

というのは、「手首を曲げよう」と意識した瞬間の時刻という意味です。

11akira:2022/08/09(火) 21:51:53
こんばんは。自由意思に興味があるので参加したいと思います。

最近読んだものでは、青山拓央『時間と自由意志』がとても面白かったです。基本的に、自由は「したいことを妨害されずにする自由」「何をするかを自ら決める自由」の2つに分けて考えるようですね。前者が自由、後者が意志に対応するんじゃないかと思っています。

12ウラサキ:2022/08/10(水) 10:06:05
皆さん、「自由意志」という表現をお使いですが、「自由でない意志」もあるのでしょうか?
もし無いのなら「自由意志」は「本人の意志である」事を強調するための一種の冗語表現なのかと思います。
もし「自由でない意志」の具体例をご存じの方が居られれば御教示頂ければ幸いです。

あ、今思いついたのは、旧統一教会のマインド・コントロールによる献金?
教団側は「信者御本人の自由意志に基づいた献金です」って言うだろうけど、
実際は「自由でない意志による献金」なのだろうか?←私は何か変な言葉遣いに感じます。

13久保共生:2022/08/10(水) 12:18:14
>>11
akiraさん、歓迎いたします。
『時間と自由意志』ですが、以前買ったまま放置していたのを思い出したので、ちょっと引っ張り出して読んでみようかと思います。

14久保共生:2022/08/10(水) 12:29:04
>>12

>皆さん、「自由意志」という表現をお使いですが、「自由でない意志」もあるのでしょうか?

マインド・コントロールによる献金などは「自由でない意志」の一例と言ってよいと思います。
「自由でない意志による献金」という言葉遣いは僕も変に感じますが、そもそもウラサキさんが仰っていたように、「意志」に対して「自由」とか「自由でない」という形容をすること自体に問題があるように感じます。

15ムラタ:2022/08/10(水) 13:48:07
自由意思の「自由」をウラサキさんの言う通り「本人の意思通り」と解するならば、「自由でない意思の献金」というのは、「本人の意思通りでない意思の献金」(文Aとします)ということになり、つまり「本人の意思でない本人の意思」という一見矛盾した文が出来上がるわけですが、 文Aも、以下のように解釈するならば、矛盾した文ではなくなるように思います。
つまり文Aに出てくる二つの意思という言葉の相が異なっているという解釈で、前者の意思は、強制的に操られていない意思であり、後者の意思は、強制的に操られた意思と解するということです。

16ムラタ:2022/08/10(水) 14:18:26
>>14
>「意志」に対して「自由」とか「自由でない」という形容をすること自体に問題があるように感じます。

もし良ければその理由を簡単にでも教えてもらえないでしょうか?

17久保共生:2022/08/10(水) 20:58:21
>>16
これについての一つの切り口は、>>4 でも述べたように、「自由な行為」とか「自由な選択」と言えば意味が明瞭なのに対して、「自由な意志」と言うと意味が不明瞭であるという点が挙げられます。
実際、このあたりについては非常に混乱した議論が散見されるように思います。

例えば何かを成し遂げようと意志して、その意志に即した行為が可能であるとき、その行為は自由であると言えるでしょう。(むしろ日常的には、意志に即した行為が何らかの障害によって邪魔されときの不自由感を自覚することの方が多いと思いますが。)
上の例は「自由な行為」の事例とは確かに言えますが、これを「自由意志」の文脈で取り扱うような議論をしばしば見かけます。
僕としては、上の例は自由意志とは無関係であり、上の例を解釈するのに自由意志という概念は不要だと思います。

他の例としては、腕を拘束されていたり、腕が麻痺していたりしない場合、われわれは自由に腕を上げたり下げたりすることができるが、これをもって「自由意志」の存在を主張する論者もいます。
しかしここでの「自由」は、腕を上げ下げすることに関して特に障害や制約がないというだけの意味であり、「意志」すなわち「〜しようと思う」こととは無関係です。
仮に今何かを意志し、それに即した行為を行うときに、腕の上げ下げが必要であれば、それに関しては特に障害がないという点で自由だと言えます。
しかしここでも、「自由意志」など持ち出す必要は全くありません。

18久保共生:2022/08/10(水) 21:00:03
以上のような混乱が生じる理由は、論者たち自身でさえも「自由意志」という概念が何を意味しているのかをよくわかっていないからだと思います。
では、「自由意志」という概念をどのように理解すればよいかという点については、決定論との非両立性なども含めた詳しい議論が必要なので、そこは当日の発表に回したいと思います。
ただポイントだけ述べておけば、よく言われる「自由意志とは自分の行為を自分で決定する能力である」という主張の「自分で」とは一体何を意味するのかをよく考えることが重要だと思います。
ここがよく分かっていないから、上のような混乱が生じるのだと思います。

19久保共生:2022/08/10(水) 21:27:38
ちなみに、マインドコントロールによる献金は、「自由意志とは自分の行為を自分で決定する能力である」という考えに照らして、自分の行為を自分で決定していないように感じられるので、そこに自由意志はないと解釈されることが多いと思います。
けれども、やはり「自分で」ということの意味が不透明であり、何となくで解釈していると言わざるを得ないと思います。

20ムラタ:2022/08/10(水) 22:54:30
>>17
なるほど。どうも有難うございます。
一般的には自由意志が語られる時の「自分で」というのは「他から影響を受けず専ら自分だけで」と捉えられているのではないか、というのが個人的な印象です。
つまり、自由意志という言葉が使われる時は、近代的自我のような、自分を出発点とするような自我概念が念頭にあるのではないかと疑っています。
僕も今度ばかりは出来れば参加しようと思っているので、楽しみにしています。

21久保共生:2022/08/10(水) 23:28:05
>>20
>一般的には自由意志が語られる時の「自分で」というのは「他から影響を受けず専ら自分だけで」と捉えられているのではないか

僕もまさにそのように思います。
しかしこの「他から影響を受けない意志」というような考えを煮詰めていくと、自由意志はもはや意志とは呼ぶことのできない奇妙な概念なるということを発表で示したいと思っています。
参加ありがとうございます。
こちらこそ楽しみにしています。

22火雨:2022/08/11(木) 17:40:37
みなさんの書き込み、とても興味深く読ませてもらいましたので、僕の思うところも少し。
途中で久保さんが仰ってた、自由な選択や自由な行為なら意味が明確なのに、自由意志は不明瞭だ、という点がとても重要に思います。

きっと自由意志という言葉を使用するときは、明瞭さがない方がいい、あるいは不明瞭なものを不明瞭なまま表現したいという状況があるのではないかと思います。僕が自由意志に関わる不明瞭なものとしてぱっと思いつくのは、「なにか実存的なもの」です。
自分の中から感じられる意志には、自分が見ているこの現実からは影響されないものがある、と、実存者ないしは「自由意志」の語の使用者は感じているのではないかと思いました。
本来の議論の争点が外れてしまうかもしれませんが、語の使用あるいはプラグマティズム的な面からも考察はできるのではないかと思いました。


あと全く異なる観点としてもう一つだけ。「自由意志」とか「free will」という音がなんか響きがいい、というのもあるのかな、と思います。

23久保共生:2022/08/12(金) 00:46:10
>>22
>自分の中から感じられる意志には、自分が見ているこの現実からは影響されないものがある、と、実存者ないしは「自由意志」の語の使用者は感じているのではないかと思いました。

そのような点で「自由意志」の支持者がいることは確かだと思います。
自然主義が圧倒的に優位な現代においてでさえ、このような思想を固持しようとする論者がいる理由は、やはり人間精神とか実存に対して「自由意志」という言葉が何かしらの恩恵を与えてくれると信じているのだと思います。

けれども一方で、僕が最近「自由意志」を問題視し始めた理由の一つに、「自由意志」という概念がもたらす負の側面に気づかされたという点があります。
「自由意志」という概念が本当に人間に恩恵を与えるのであれば、プラグマティックな側面から自由意志の存在を肯定してもよいと思うのですが、僕は最近、「自由意志」はむしろ有害な側面の方が多いのではないかと強く感じています。
僕がその有害さを強く確信した一つの例としては、マイケル・サンデルなどが鋭く批判しているメリトクラシー(能力主義)が挙げられます。
サンデルは『実力も運のうち』で、メリトクラシーという思想が、社会的弱者には自己存在あるいは自分の実存についての強い否定感を、一方で成功者にはある種の驕りと弱者への見下しを生むということを明らかにしましたが、僕はこの思想の土台には「自由意志」への信仰が存在すると思っています。

これ以外にも、犯罪行為などの倫理問題に向き合う上でもやはり「自由意志」という概念は有害だと考えているのですが、詳しくは当日に発表したいと思います。

24ウラサキ:2022/08/22(月) 08:44:12
何だか、「自由意志」って「自主的なボランティア」のようなredundancyを感じます。
言い換えれば、「自由で無い意志」は「強制的なボランティア」や「丸い三角形」のような矛盾した表現では無いでしょうか?

25ウラサキ:2022/08/22(月) 12:42:33
>23
サンデルのその本は私も英語で読みましたが、
彼自身は「自由意志(free will)」という表現は使っていなかったと思います。
「本人の意志や努力と見なされている部分の多くは、実は生まれ育った家庭環境(親ガチャ)ではないか」という主張は見て取れました。

26久保共生:2022/08/23(火) 00:51:03
>>24
「自由」という語の意味を「本人の意志通り」と解すれば、ウラサキさんの仰る通り、「自由意志」は冗語となるでしょう。
実際、自由意志をそのような意味で扱っている議論もあり、ここでの「自由」は決定論と矛盾することもないので、特に自由意志論者の言うような哲学的問題は存在しないと結論されることが多いと思われます。

しかし一方で、決定論との非両立性を要請するタイプの自由意志論は、上とは全く別の意味で理解されなければならないと思っています。
上の「本人の意志通り」というのはつまり、「本人の意志に即した行為を邪魔立てするものが存在しない」ということですが、これは単に「行為が自由である」ことを意味するものであり、このことと「意志が自由である」こととは全く異なるというわけです。
では自由意志をどのように理解すべきかということについては詳しくは当日の発表に回しますが、結論だけ述べておけば「他のものから影響を受けない意志」を自由意志と呼ぶべきではないかと考えています。
つまり、自分の意志の力のみによって自分の行為を決定するというのが自由意志の要請するところであり、自分の意志以外のなにものかによってそうしようと思わされているのであれば、それは自由意志とは呼べないということになると思います。

27久保共生:2022/08/23(火) 01:06:01
>>25
>サンデルのその本は私も英語で読みましたが、
彼自身は「自由意志(free will)」という表現は使っていなかったと思います。

仰る通り、サンデルの本に自由意志という表現はなかったと思います。
能力主義を支持する者の背景には「自由意志」という信仰があるのではないかというのは、僕自身の考えです。

28ウラサキ:2022/08/23(火) 08:12:25
>>26
「他ものから影響を受けない意志」は、「マインド・コントロールを受けてない意志」でしょうか?
サンデルは「すべての人間は社会や家庭の環境の中で生育するので、本人の意志や努力も、
遺伝+環境要因によって決まる」という主張だったと思います。
つまり「誰しも一定のマインド・コントロールからは逃れられない」という事かと。

29久保共生:2022/08/23(火) 14:05:58
>>28
>「他ものから影響を受けない意志」は、「マインド・コントロールを受けてない意志」でしょうか?

一般にマインドコントロールを受けているならば、他からの影響を受けていると見なすべきだと思うので、「意志が他のものから影響を受けていないならば、マインドコントロールを受けていない」というのは正しいと思います。
ただし、「他のものから影響を受けない意志=マインドコントロールを受けてない意志」と考えるのはやや語弊があると思います。(マインドコントロールの定義にもよりますが)
というのも、マインドコントロールと言えば、本人ではない「別の人間の意志」による操作という意味合いが強いと思われるからです。
自由意志という概念が要請する「他のものから影響を受けない意志」というのは、「別の人間の意志」の影響に限定されるものではないでしょう。

30久保共生:2022/08/23(火) 14:19:02
>サンデルは「すべての人間は社会や家庭の環境の中で生育するので、本人の意志や努力も、遺伝+環境要因によって決まる」という主張だったと思います。

サンデルは「自由意志」という言葉自体は出してはいないですが、彼の主張から見るに、明らかに「他のものから影響を受けない意志」のようなものの存在に否定的ではないかと思います。
ちなみに僕自身もサンデルの主張に同意しますが、それに加えて僕は、そもそも「他のものから影響を受けない意志」というのは煎じ詰めれば、まともに概念として成立しないようなおかしなものにならざるを得ないのではないかと考えています。

31ウラサキ:2022/09/04(日) 19:39:59
今日は面白く高密度でした。

32おぐす:2022/09/04(日) 20:52:12
久保共生さん、今日はお疲れ様でした。
今日の論議のなかで決定論の是非を自由意志と絡めて考えること(自由および意志という二つの
概念をナイーブに結合させることも含めて)そのことを俗流の倫理に拡張して判断してしまうこ
との危うさに改めて思い至りました。現実の不全感やルサンチマンを倫理に仮託してカタルシス
を得ることには慎重でありたいと思います。


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