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浄土真宗掲示板

62名無しさん:2015/09/04(金) 00:07:46
南無阿弥陀仏は
沢山のものを運んで来て下さる
温かいものごと
ささやかなこと
気付かせること

何処へ行っても 同じものが売っていて
浅い言葉だけの付き合いの人々に会い
愛も怒りもがお金やインターネットで満たされる
そうしたさもしい世の中で

私達がどれだけ苦しんでいたか
それがおかしなことと言えないでいた
穢土が
浄土の御光で
ある日変わる

仏様は 私達に運んで下さる
素直な心 感じる心
痛み 悲しみ 慈しみ
そして耐える心 本願に向かって生きる 希望

苦しみを 苦しみと言って良かったのだと
南無阿弥陀仏は 認めて下さる
世界は 決して殺伐としてはいない
優しさを ご縁を
広めよ 広まれ
無碍光 無辺光
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

63名無しさん:2015/09/10(木) 02:11:56
無碍光 無量光
南無阿弥陀仏は
無限の可能性を開く
南無は一人ではない
無量無数の同行と共にある

赤ん坊が
遊んでいたら
顔を上げる度に
父母のことを呼ぶ
抱っこ抱っこと
請い願う
生き物は孤独だ
小さな赤ん坊の頃から
心は孤独を知っている
普段はただ
忘れたふりをしているだけ

無碍光 無辺光
南無阿弥陀仏は
限りない孤独を解かす
私の孤独を
孤独を創るエゴを照らす
信心は 忘れさせない
仏は常に在しまして
同じ孤独を知る無量の同行と
一味に私を救い上げる
南無阿弥陀仏
帰命尽十方無碍光如来

64名無しさん:2015/12/10(木) 15:55:02
よく称名報恩と言いますが、正確ではないのかなと思います
称名とは、まあこの場合口唱ですが、口唱は場所的にはたらくことにのみ意義があるのかなと思っています
口唱とは覚悟の表明でなければならないと思います
つまり、他者との関わりを方向づけるものだということです
他者を敬うことのできる根拠であり、人間を信ず自覚だと思っています

法然の生き様、これこそ人間を信ずる自覚の意義を明確にしておると言えるのかなと思います
法然は当時救われる存在ではないとされた女人や五逆の悪人、謗法の人まで自分のもとに受け入れています

普通こんなことはできはしない
世間をみれば、凶悪な犯罪者は更生の余地なんかないということで死刑になっています
ルールに従わない奴は、人に迷惑をかけた奴は人とも思われない扱いを受けています
世間では何度言ってもわからん奴はもう知らんわとなっているのかなと思います

本来切り離せない関係を切り、悪人というレッテルで責任をなすりつけていく
まあ我々は規範を利用しますから、こんなことをしてしまうのかなと思います
親鸞も叡山を降りとるのでその辺はわかっていただろうなと思っています
だから、法然にあったときはああこれが仏道なんだなと思ったのかなと思います
これが正しいあり方なんだと思っただろうなと思います

どんな人間も分け隔てなく、ともに救われていく存在であると信じ接する法然、もっと言えば自分の曇った眼からはどんなに酷い人間に見えても、仏性を持った存在であると、仏を見て感動する存在であると、仏のようになりたいと心の底から願っている存在であると信じて、決して諦めずに訴えかけ続ける法然、そういう法然の姿を見てここに仏道があると、いや例えこれが仏道で無くても、この道を行くと思ったのかなと思います
勿論、親鸞は百日かけて法然を吟味していますから、法然の願いが届かない場面も見ていますでしょう
法然も叡山におった僧侶となんら変わらん
他者を見捨てていくところを見たかもしれません
でも、それでも、法然は諦めなかったでしょう
法然が諦めてもなお南無阿弥陀仏は諦めなかった

これはさぞ衝撃だっただろうなと思います
だって普通は百万遍やって百万遍無理なら諦めますよ
腕を振っても空は飛べません
飛べないのに飛ぼうとするのはこれは道理に反している
百人が、千人が、万人、全世界がNOだという道理に対して、いやそもそも自分でさえNOだと思ってしまう道理に対して、YESだと言う
こんなことは正気の沙汰ではないのかなと思います

しかし、いくら我々が我々の迷妄した物差しで正気の沙汰ではないとしても、事実としておこっているものを否定することはできないのかなと思います
腕を振って飛べないということがいくら道理であると思っていても、腕を振って飛ぶという事実がおこってしまえばその道理は道理ではなかったことになる
私がどれだけ自分自身を蔑んでも、私の心の上に事実として湧き上がる願いは否定することができない
私が何度間違いだといい、諦めようと、いや事実として諦めたとしても、希望が止むことはない

法然も、五逆謗法も、みな同じかなと思います
救われざる私の発見と、それをしてなお願わしめるものの発見
このふたつに依って、はじめて人を信ずることができるのかなと思います
ここまでいってはじめて、口唱は称名の意義を全うできるのだろうと思います
仏道は、特に大乗ですが、これは他者との同一性を証明することにのみ成り立ちうるのかなと思っています
虫も、虫を殺す人も、家畜も、家畜を殺す人も、戦争屋も、差別者も、悪魔と呼ばれる人たちも、同じく私なのだと、同じく願うものなのだと、教えられています

殺し願う私は、それでも人間です
そして、残念ながらあなたも、同じく人間なのです

65名無しさん:2016/01/01(金) 21:13:22
年末のクッソつまらん番組に辟易している層を狙って、NHKがピタゴラスイッチの特番、ピタゴラ装置大解説スペシャルをやっていた
この番組では、ピタゴラスイッチの基本的な機構を解説するなかで、機構の意味が変容するということを解説していた
この機構の意味が変容するということは、例えば、上りの階段という意味を持った機構がその役目を終えたのち、下りの階段へとその意味を変えることや、ドミノという意味を持った機構が倒れ終えたのち、球が転がる道という意味を持った機構に変わるというようなものだった

これと同じに人生にも意味の変容は起こる
例えば、苦や死、何かしらの妨げなどがそれに挙げられるだろう

普通一般において苦・死・妨げは避けるべきもの、忌み嫌われるべきものという意味を持っている

だが、ことに仏道において、避けるべきこれらは、仏道の成就の為に乗り越えられるべきもの(全うされるべきもの、それをしてなお願われるべきものごと)という意味に変容される

苦しみが大きければ大きいほど、反作用のように人間の尊厳はその尊厳足る意味を成就するのだ

中国の高僧、曇鸞はこれを喩えて、

高原の陸地には、蓮華を生せず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。
これは凡夫煩悩の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う

と解説している

思い通りに行く中で思い通りにすることには何の尊厳もない
ホームランを打つことが確実にできるものがホームランを打ったとしても、そこに感動は起こり得ない
願いすら持つことのできない中でなお願いを持つ、そこにこそ奇跡が起きていると言えるだろう

人間は人生のある一点にしか焦点があたらない
だから、自らの物差しで目の前の物事を短絡的に苦であると認定してしまうのだ
だが、人生の全体をみるならば、その苦にこそ意味があるものである

仏教では、人を動かしめる意欲、人生全体の意味保管するものを仏法と呼ぶ

人は自らの人生を他者のため、苦を乗り越えるために生まれてきたのだ

乗り越えないままに乗り越えるのである

最後に曇鸞の言葉を引いて締めくくることとする

もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。ーー正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

66名無しさん:2016/04/04(月) 05:58:52
人生は無意味だ
そのように考える人がいます

結果が全てである
そのように考える人もいます

ただ、僕はそうは考えていません
そう考えることができないからです

いや、厳密に言うならば、そう考えることはできます
むしろ、まさにそのように考えているといっても過言ではない

しかし、それと同時に、そう考えながらもその考えに心から納得ができない事実があるのです
どうせ全ては無意味なのだ!と考えてみても、人間は無意味には耐えられない
考えれば考えるほどそういう弱さというものに直面せざるを得ないのです

人は死ぬとどうなるのか
死ねば終わり
そういう風に考える人がいるかと思います

実際がどうか、それは死ぬまで分かりません
しかし、その様な考え方ができるのは余裕のある人ではあるのかなと思います

本当に追い詰められればその様な考え方をすることはできないでしょう

人間は情を捨てることができず、自分の都合の悪いことを信じ続けられるほど強くないからです
合理的に非合理であるもの、それこそが人間だからです

ただ、このような人間観を受け入れられる人は少ないかと思います
殆どの人間は、強い人間を装い、自分自身にも嘘をつき続けて生きてきたからです

しかし、言うまでもありませんが、強いふりをした人間は強い人間ではありません

弱いそのままの自分を受け入れることこそ強さであるからです

弱いそのままの自分を受け入れられず、強い自分像を追い求め、本当の自分を偽ってしまうものこそ弱い人間の具体相です

この世には強いふりを強いられた弱い人間しかいない
だからこそ、心の奥底に隠された人間の弱さを顕かに示し、心と心をつなぐ、そのような人間が求められているのです

67名無しさん:2016/08/23(火) 17:28:57
正覚の内容
縁起の理法
涅槃ー一切の執着を棄て去ること

縁起の理法をもって
迷妄、流転からの解脱を明確に認識する
解脱知見

縁起
縁って生起することー先に存在する原因との関係において、結果として事物の生起があること

此縁性果
果はかならず何かを縁として成り立つ
全ての物事にはかならず因(原因)と縁(条件)とがある
だからおかげさま
だから彼は悪くない
だからこの心の因縁は阿弥陀にあり

全ての物事はからなずその他の物事の原因と条件になる
たがら頑張ろう
だからここで乗り越えよう

迷妄流転の原因
愛憎違順ー自らに順ずるものを愛し、違うものを憎む=選び嫌い捨てる
愛憎違順→迷妄流転
愛憎違順を超えるー摂取不捨

愛憎違順を超える智慧=正覚の智慧

阿弥陀=選ばず嫌わず見捨てず
選び嫌い捨てる=凡夫
南無阿弥陀仏=選ばず嫌わず見捨てずにに帰り依らしめる

帰依
本質に帰り依る
本質=選ばず嫌わず見捨てずであることを志向する
本質故、不退転に住せざるを得ない

回向成就前
神話的にのみ語られ得るが、現実的には回向成就前は存在しない
本質=自己中心
自分さえよければそれでいい

回向成就後
現実的には生の前段階として回向成就がある。それ故本来的には前後の区別はない。
本質=回向成就の南無阿弥陀仏
他のためになりたい

阿弥陀は阿弥陀である故に南無阿弥陀仏を凡夫に成就し、その選び嫌い捨てる性質をそのまま変えることなく、選ばず嫌わず見捨てず以外を選び嫌い捨てるようにせしめる

転倒
選ばず嫌わず見捨てず以外を選び嫌い捨てるものこそが凡夫であるにも関わらず、選ばず嫌わず見捨てずを選び嫌い見捨てること

68名無しさん:2016/09/04(日) 05:14:17
仏とは自覚覚他覚行窮満の存在だ。
書き下せば、自ら覚り、他を覚らしめ、それらの覚行が窮まり満ちている、ということにでもなるだろう。
要は、自ら仏となり、あらゆる他者を仏となし、それが遍くところで同時に行われ、最後まで尽くされる、そういう存在のみを仏ということができるということだ。

覚行が窮満であるということは、あらゆる条件が超越されるということだ。
それは、怒りや憎しみ、世俗的な価値観は勿論、仏教理解の浅深、仏教的な行の有無、仏教に触れることや時空間すら超越する。
どのような存在も、概念すらも、もはや存在しないものでさえ、仏からは逃れられない。
仏は何ものをも条件とせず一切のものを救い、必ず仏となる覚りに導くからだ。

仏とはどのような存在をも選ばない。
仏とはどのような価値観をも嫌わない。
仏とはどのような悪人をも見捨てない。
仏とはあらゆるものが忌み嫌う死をも捨てないのだ。

何故なら、仏は知っておられる。
あらゆる存在が選び捨てられ、泣くことを。
あらゆる価値観が嫌われ、泣くことを。
あらゆる悪人が見捨てられ、泣くことを。
苦が泣くことを。死が泣くことを。

みな迷い、煩悩の荒波に溺れ、痛ましいあり方を痛ましいと知りながらどうすることもできないことを。

だからこそ、仏はあらゆるものに仏の心を与えになられるのだ。

迷い惑い、怒りにのまれ、憎しみにまみれながらも、それでも他者のために生きたいと願う心を。
誰も、どのような自分をも選ばず嫌わず見捨てず救いたいと願う心を。
殺し傷つけあう現実に負け、絶望し希望を見失ってなお、立ち上がる心を。

その心に気づく必要すらない。
何故なら、初めから我々はその心が自らの本当の願いであると知っていたからだ。

その心を止めおく必要もない。
何故なら、最初から途切れたことなど一度もなかったからだ。

何故なら、それを実現するもののみを仏と呼ぶからだ。

我々のなすべきことは、給わった心のままに仏となる道を行くことである。
つまり、我々が給わった選ばず嫌わず見捨てずを願う仏の心こそ我々の本心であり、本心のままに生きようと、何ものをも選ばず嫌わず見捨てず伝え続けることだ。

何度、失敗してもいい。
その度に我々がなお願う事実は確信へと変わるからだ。

69名無しさん:2016/09/05(月) 01:44:07
南無阿弥陀仏

私達は本願から来て浄土へ還る
その道を仏様と歩む
私より前に仏様が私を捕まえている
仏様は何時でも私のご縁を準備している

思うようにならない苦
仏様の救いは常に私達の思いの外にある
私達には既に本願の内にあることが見えない
念仏申しご聴聞する中からしか見えてこない

仏様は関係の中にしかない
私をいくら見ても私は空っぽだ
関係の中から私はご縁を見ていく
関係の中からご本願とまた出会っていく

南無阿弥陀仏

70名無しさん:2016/12/31(土) 01:37:13
信心

単純なことを理解するのに
随分随分回り道させられることはある
簡単だ、基本だと世間から言われて
全く簡単でも基本でもなく
そういう世間が間違っていただなんて
ざらにある
それで人は20年ほどを簡単に失う

単純なことを理解するのに
随分随分回り道させられることは良くあって
例えば僕が初めて仏教って何?と聞いた時には
無常感とか空とか説明されたけれども
それは全然仏教の本質じゃなくて
見てくれや最大公約数を掠っているようなもので
実際は「本願」だった
そういう入り口に立つのに
人は20年なんて簡単に失う

無常とか縁起とか
空とか無我とか
一生懸命言う人がいるんだ、ある界隈では
一生懸命読むとそういうのが頭に入ってくる
お話で頭が一杯になる
心が空っぽになる
心が空っぽになれば、何か良いことがあるのか?
まああるんだろう
そこに「慈悲」が入って来れば
でもそんな慈悲って
本願以外の一体どこから入って来るんだ
仏が本願じゃなかったら
一体何なんだ

理屈と慣習で人の心を擦り減らさせるために
力を注いでしまうのが人なら
そんな惰性は捨ててしまいなさい
自分も人も殻を壊してしまうようなものが
宗教でないのなら
失った空っぽの20年はどこへ行って
見つけたような宝は
あと20年もすれば
高値づかみさせられた空虚な箱のようになってしまうだろう

71名無しさん:2017/03/14(火) 00:16:35
我ら仏のましますごとくせん

結局これに尽きるかなと思う

無理だけども

それでも、どうしようもなくそう願っている

だから、人を信じられるんだと思う

72名無しさん:2017/05/19(金) 03:20:17
腹が立つとは自分の考えのみを正しいとする心であり、瞋恚の心である
めんどくさいとは自分さえよければいいということであり、貪欲の心である
これらの心は正しいことを見失った愚痴の心より生じ、これを総じて無明とする
世の問題の全てはここより起こる

人間に無明を打ち払うことはできない
何故なら、何が正しいか分からないからだ
それゆえ阿弥陀は座より立たれ、人に正しい道を示される
我が道をゆけと
人に彼が道をゆきたいと願わしめる
これが真宗の肝要である

73名無しさん:2017/05/29(月) 21:52:18
人は満たされていなければ、他者を気遣うことができない
つまり、他者を気遣うことができず、誰かを傷つけてしまうということは、何かしらによって苦しんでいるということに他ならない
横暴に見える他者でも、その背景を知れば必ず理解し合うことができる

しかし、自らのみの力で他者の背景を推し量ることはとても難しいことだ
何故なら、私たちは自分自身から見える範囲でしか物事を考えることができず、怒りや怠慢に簡単に絡め取られてしまい安直な答えをとろうとしてしまうからだ

だからこそ、常に自らを律し、相手の語る内容に耳を傾ける必要があると考えている

ただ、例え他者の語る内容に耳を傾けたとしても、それで万事物事が解決する訳ではない
何故なら、他者に対して自らの背景を語るということは他者の背景を推し量るということ以上に難しいことであるからだ

私たちは自分自身を理解しているつもりであっても、自らの本当の背景に気付いていないことが往々にしてある
自らの背景を語っているつもりであっても、それが実際の本心に即していなければ、問題の解決には至らないのは当然であろう

自らの背景を語るためには、まず自分自身の本心に即した背景を包み隠さずに知るということが重要になる
しかし、自分自身の本心に即した背景を包み隠さずに知るということは、自らが思い描く自己像を破壊することに等しく、また、自らを縛る心の傷と向き合うことと等しい
故に自分自身の本心に即した背景を包み隠さずに知るということは、他者の背景を推し量るということ以上に難しい難中の難であり、また、それを語ることは至難であるといえる

しかし、この難中の難を紐解き、至難を乗り越えなければ、他者と理解し合うことはできない
何故なら、通常、人は心に傷を持っているとは考えておらず、持っていると自認していたとしても、それが自らの行動に強く影響する背景となっているとは理解していないからだ
しかし、心に傷を持っていない人間などこの世には存在しないし、些細なことでバチバチに傷つくのが人間である

つまり、自らの本心を知ることができず、他者に背景を語ることができない根底には、弱い自分を切り捨て、自らの抱く強い自己像のみを演じ続けようとすることがある
この自己の心に対する解釈の乖離こそ、自らの背景を包み隠さずに知るということを妨げる要素であり、自縄自縛するその縄であるといえる

勿論、他者が真に心の傷を持っていないと語るのであれば、それは尊重すべき内容ではあるだろう
しかし、実際に何かしらの問題が起こっているのならば、必ずそこには原因があるといえる

それは問題を構成する何某の人間のみに還元することのできることではない
何故なら、完全に自らの成すべきことを事を成しているならば、問題など起こりようがないからだ

「傷ついた」というその一言を言えないがために、人は理解し合うことができず、傷つけ合いの螺旋から逃れることができないでいる

本心から語り合うならば理解し合えないことなどありえないにもかかわらず、自らの縄によって苦しみの海に沈み続けているものこそ、我々の現実の姿だろう

自らの前に立ちはだかるその人はそのような苦しみの海より救われたいがために、自らの前に立ちはだかっているのだ

他者の責任を担い立ち上がることのできるものは、心の傷を顕かに知り、顕かに示すことのできる者だ

踏み出せないその一歩を踏み出すことで、私には知ることができないとしても、間違いなく救われる人がいる

その事実こそ、絶望の只中でなお、無意味を越えて歩み出す力となるのだと強く感じている

74名無しさん:2018/02/25(日) 20:33:23
宗教の事はみんな長文になりがちだね。
語りたいけど語る場は中々ないし、教えに出会えた感動を表現しようとするとスパっと一言では言えず...って感じかな。
論争もおきがちだし、こうした場は貴重だけど運営も難しそうだね。

75名無しさん:2019/05/16(木) 20:32:51
蜂屋という方の「四十八願講話」という本に「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という無量寿経の四十一願について「これは信心を得たものについての願。信心決定すると、諸根が具足する」と書かれてあって、それはおかしいんじゃないか、だったら身体障碍の方は救われないんじゃないかと思い、四十八願について書かれてある本を読み漁りました。
すると
金子大栄師は「他方国土の諸菩薩衆というのは哲学者や聖道門の修行者のこと」としており
阿満利麿さんは「佛のもとにいて修行しているもの」としており
香月院深励師は「十住以上の浄土嫌いの菩薩を18願に引き入れるための願」としておりました
41願の「他方国土の諸菩薩衆」が誰なのかについては本を読んでも様々な説があり、どれをとっていいのか分かりません
浄土真宗の公式見解?のようなものはどうなっているのでしょう
もし蜂屋賢喜代さんの言うように、信心のあるものは身体障碍を負わない、という願だったとしたら、私も体が弱いので、後生が不安です


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