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「教区会員」板

193SAKURA:2012/10/09(火) 22:05:59 ID:jH5uEFzM
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>164>>165>>166>>167>>168>>169>>170>>172>>178>>179>>183>>184>>191の続き投稿です…。
私事【SAKURA】が、以前読みました[清超先生の書物]からの抜粋!なので〜〜〜す…。

遅くなってごめんなさ〜〜〜イ!
下記の文章です。…が??“投稿”させて頂きます。(清超先生著書より抜粋)

〜〜〜【一部抜粋】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■凡ての人間は、過去においても現在においてもまた未来においても、同様な考え方をする。
ただ、それを表現する感覚(センス)は非常に変っている。それはあたかも、裸の人間のみ
をみては、過去の人と現代の人と大差はないが、衣服をつけた人をみると、過去の人と現代
の人と大変異なっているようなものである。しかしながら、古きものは常に新しきものに連
続しているのであるから、そこに何らかの共通点を見出すことが出来る。まして、裸のままの
人間そのものの心は過去・現在・未来を問わず、永久に不変である。…云々…

釈尊は世の中の生老病死の四苦を見て、現世をいとい、何とかして解脱に達せんとして苦行
林に入り六年間の苦行をした。キリストは荒野にて四十日四十夜の断食をして飢えたもうた。
彼らはただ、ばくぜんと苦行したのではなく、「現在の自分」というものに満足できず、何
ものかによって現在の苦しみから脱却せんと希ったのである。

 釈尊においても、かっては苦しみがあり、キリストにおいてもなやみがあった。釈尊やキ
リストが偉大であるのは、何もかかる悩みそれ自体によるのではなく、その苦しみを超克し
た偉大なる彼らの人間性(即ち神性の顕現)によるのである。かくの如く人間はすべてなや
む。しかし、人間が悩む故にその悩みが貴いと考えるのは馬鹿げた事だ。豚は悩まないが人
間は悩む、悩みなき豚となるより、悩み多き人間となる方が貴いと言う人がいるが、それは
勿論その程度の発達状態の人間にとっては、悩まざる痴呆より悩み多きインテリである事の
方が好ましいにちがいない。しかし、吾々の要求している「悩みなき人間」の水準は、さら
にその上にある。悩むことを知った人間が、更に昇華して、悩みなき神の子たる人間にまで
到達する事を求めているのである。釈尊やキリストが到達した(或いはある程度到達した)
境地を、万人に求めているのが、吾々の精神運動である。

諸君はそれを至難だと思うか。それは決して考えられている程に至難ではない。それは苦
行ではなく楽行である。それ以外の道が苦行であるのだ。吾々が、彼ら先達の道をふみしめ
歩み行う時、それは安らかな道であるが、吾々が、彼らの切り開いた同じ密林を自分の力で
切り開いて行こうと思う時、至難道となるのである。

                      (つづく)


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