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聖典引用 板

1トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。


 上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、教団、本流復活派、中立派など
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さ
をお願いします。

 この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。

 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

648a hope:2012/05/14(月) 08:07:03 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

仕事の面白みを出す法


仕事や勉強は、人間が自分の生命(自分の内にある生きる力)を生かすために、
神がくださったものでありますから、あまり好まない仕事でも、あまり好まない学科でも、
熱心にただやりさえすれば、しまいには面白くなってくるようにできているのです。
仕事や勉強が面白くないのは、ただその理由は、その人がそれを熱心にやらないということだけです。

つとめつとめて無理にでも根限(こんかぎ)りやっているうちには、それがどんな仕事でも、
本当に楽しくできるようになってくるのは、あの本来苦い不味い煙草でも、
無理につとめて喫(す)っているうちには、美味しくて、
とても止められないほどの味がでてくるのでも知れるでしょう。

まことの習慣の力ほど強いものはありません。
苦い酒や煙草でも、美味しく感じさせるのは習慣の力です。
はじめは如何に、仕事が苦しくとも、勉強が辛くとも、
それは「本当のあなた」の現れではありません。
つとめて行えば必ず仕事や勉強に味が出てくるのです。
必ず仕事が楽しくなってきます。勉強が歓ばしくなってきます。
(つづく)

649うのはな:2012/05/14(月) 18:19:25 ID:???
  祈りを有効ならしめるには

 何事でも不結果が起ったときには、神に一致しない心があるのであるから、
先ず神に一致する心を起すことが必要である。
神は愛であるから、神に一致した心を起すには、先ず愛の心を起さなければならないのである。
誰かを憎んでいたならば、その憎みを捨て、相手の罪を赦し、心に愛と平和を有たなければならないのである。

 次の如く瞑目して静かに念ずるのが好いのである。
「彼(相手の名を念ずる)と私とを神の愛と平和と調和と赦しとが取り巻いている。
私は彼を愛し、彼は私を愛し、私は彼を理解し、その間に何らの誤解もないのである。
愛は憎まない。愛は欠点を見ない。愛は怨まない。愛は相手の立場を理解して決して無理な
要求をしないのである。」

 『真理』第八巻 信仰篇  谷口雅春 先生著

650ハマナス:2012/05/15(火) 00:03:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。

心と生理作用  (『新版 生活の智慧365章』P.155より)

 人体の老衰の原因は、単なる物質的機械のような新陳代謝の出来ないものなら、「使い禿(ち)びる」で
説明されるけれども、新しい細胞が常に古い細胞と置き代っているから、「使い禿(ち)びる」と説明
できないとすれば、如何なる理由によるのであろうか。ここに物資的原因以外に、“心”をその原因者と
して説明に取り入れなければならないことになるのである。“心”というものが吾々人体の生理作用に
非常な影響を与えるものであることを考慮に入れなければならなくなるのである。ちょいと羞恥の感情を
起せば顔は赤くなるし、恐れればふるえるし、悲しめば涙が出る。梅干を見れば唾液が湧く。このように
機械的な電子計算機の調節のほかに、人体には、精神的要素によって生理作用の異なってくる要素がある
ことが明らかである。

 老衰の原因も、心の要素を考慮に入れるとき説明し易くなるのである。或る人は心の鑿(のみ)をもって
老衰をきざみ、或る人は心で血行や新陳代謝を盛んならしめて、その老衰をふせぐことができるのである。
『甘露の法雨』には「若しと思う者は忽ち若返り、老いたりと思う者は忽ち老い朽(く)つるも宣(むべ)
なるかな」と示されている。

感謝合掌

651じっそおー:2012/05/15(火) 05:11:08 ID:vsZYH/3w
a hope 様
初めましてじっそおーです。
>>1962(トーキングステイックボード板)

ご親切におっしゃってくださって本当にありがとうございます。
そんな風に言って頂いてうれしかったです。(それと訊け様をはじめ、たくさんの人に色々教えて貰いまして有難かったです。
ご返事が遅れて申し訳ありません。
(ご返事を)聖典引用板で書かせていただいた理由は
私は、WEB誌友会に参加できそうにありません。仕事があるのとパソコンを家族で共有していますのです。
で、トーキングスティックボード板(今はWEB誌友板ですね。)に書き込みをしにくいので
ここの板でお礼を書かせてもらいました。
パートのお仕事、がんばって下さいね。

652a hope:2012/05/15(火) 07:53:38 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

先ず進んで自分からやれ


仕事や勉強を楽しくするには、懶(なま)けている習慣に負けているかぎりは、
仕事や勉強の喜びは味わえるものではありません。

本当に噛み締めて味わわずには、
物の本当の味わいというものは分かるものではありません。
仕事や勉強の楽しさを本当に味わうには、
身を入れてしっかりとその仕事や勉強を一心不乱にやってみなければなりません。

親が上役から、いつでも勉強せよ、仕事をせよと口喧(くちやかま)しく言われるために、
勉強や仕事が嫌になっている人は、親や上役が見ていない時に、知らぬ間に、
この仕事、この勉強をやって置こうと、そういう機会を覘(ねら)って一生懸命に仕事し勉強をしてみて、
自分から進んでする仕事、自分から進んでする勉強の楽しさの味わいを知ってみるのも一方法です。

ともかく、仕事や勉強の味は、先ず思い切って、一所懸命やってみなければ判りません。
仕事や勉強の味が本当に判ってきたら、この世の中に、これほど楽しい爽やかな喜びはありません。

(つづく)

653ハマナス:2012/05/15(火) 09:53:35 ID:u5mC.eb2

みなさま、おはようございます。

五月十五日 不断の祈り   (谷口雅春先生著作集『光明法語』より)

 「常の祈り」が大切である。所謂る「不断念佛」「平常業成(ごうじょう)」である。
平生の祈りの業が成就して、現象界に現れるのである。朝起きれば、「寝ている間にも
呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、夜中自分の生命を護り給うた神よ、
有難うございます」と神に感謝し、「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と
感謝して起きるのである。今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが
与えられると云うことはあり得ない。感謝する事によってのみ、今与えられたものの充分の
価値を享受出来る。

感謝合掌

654うのはな:2012/05/15(火) 17:36:39 ID:???

全宇宙は一つの生命体でありますから、例えば、人間の身体にも比ぶべきものであります。
われわれの身体においては、皮膚にある損傷ができますと、皮膚そのものに変化が起こるだけではなく、
全身にその違和が感じられ、全身の血液が環流して、その所の皮膚の傷を癒す成分を送ってくれるのであります。
それと同じことが、われわれ個人の経済状態においても起こるのであります。

 われわれが経済状態にあるマイナス状態を生じますと、必ず全宇宙の供給の流れが還流して、そのマイナス状態を
埋めてくれるようになっているのであります。だからわれわれの生活が大宇宙の一つの流れに繋がっているという実相
に目覚める限り、われらには絶対に「貧」ということはありえないのです。

 宇宙は無限供給である。その無限供給に繋がっているとき、どうしてわれわれに「貧」ということがありましょうぞ。
すべての富は今すでにわれらに与えられているのであります。われわれは、宇宙の無限供給の富の中心にいるのであります。


『生命の實相』第八巻 観行篇 谷口雅春 先生著 P115

655SAKURA:2012/05/15(火) 21:10:54 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

■【幸福を招く365章】
――――人間が幸福になるためには――――

人間が幸福になるためには、自分の周囲に光をみなければならない。
この世界を物質の機械作用で、人間の欲望などは踏み躙って勝手に動いている
世界なぞと思ってはならぬ。それは希望のない恐ろしい宿命論だ。
機械的世界観と、宿命的人生観ほど人間を不幸に陥れるものはない。
それは宿命と云う鉄鎖にしばられている囚人の人生観だ。
人間が幸福になるためには、この世界を神の愛に満たされている
世界だと観じなければならぬ。
愛にとりまかれている感じのみが人間を幸福にするのである。
『この世界は神の国である。自分は神の愛ぐし児である』
この自覚が深まれば深まるほど、人間は光にとりまかれ、
幸福感が深まってくるのである。すべての人間を神として観よ。
すべての事物の中に、その動きの中に神の愛が充ち満ちて我等を生かしつつあると観よ。
                        (谷口雅春著) 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

現在の「住居」は……TYOに上京する前は、此処の環境は“一等地”でした。
…が?その「イメ−ジ」もあり、此処の“マンション”を「神に祈り」…
当時必死に「神様…」へ、ひたすら一生懸命“思念”して見つかったのですが…?
手前の「ライオンズ M」を勧められた時“物件”を見まして“改装工事”するにしても…?思いながら、最終的には“手前”の現在のマンションを見ながら〜♫
あそこがあいてたらいいなぁ〜〜♫〜と思いながら…
「第一回TYO」に戻りました…。それから“不動産からの連絡”が、2か月後でしょうか?
連絡が入り、手前のMと知らず,此処に決めようと…“ 候補3件”絞って、
最後に、やはり此処を決めたのです。

引っ越しをした当日!正直な話?胸騒ぎもありましたが……?

まだ当初“環境”がいい方でした……ある時!「吸血鬼・ゾンビ達…」が、
住みだしてから“一変…”した次第です…。

今では私の周りは“ミ―ハ―族”ばかりか?“水物”が多くなり、見ていて“気分”
的にはいいものでは無いです〰〜ネ!

此処は「黒田節??」と云いますから?【アル中みたいな人】が〜〜〜
ゴロゴロ増えて、そればかりが“目”につくようになりました…。
もっと“今”と云う時間を大切にしたら〜〜?その様に思います…。

外に出ますと「吸血鬼・ゾンビ…達」が、必ず!出て来ますし、もしくは仲間も!
このような“環境”での戦いは【精神統一…絶対的】にしなさいとの、
「神のお告げ」の様に、最近思えて来ました…。その後の私は【愚痴】を出す前に、

■「すべての事物の中に、その動きの中に神の愛が充ち満ちて我等を
生かしつつあると観よ………」を…
思念して前に前に“steppe・me・up〜〜〜〜!!”
                             再合掌

PS:トキ様へ
本日の「幸福論」先生の“お言葉”どのように解釈されますでしょうか?
アドバイス頂きますと…幸いです。

656ハマナス:2012/05/16(水) 00:16:48 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。

人類全体の総合された想念  (『新版 生活の智慧365章』P.157より)

 機械的な磨滅や使い禿(ち)び以外に老衰の原因が心にあるとすれば、その心は「個人の心」で
あるか、「人類の心」であるかということが問題になってくるのである。その心は「個人の心」
でもあるし、「人類の心」でもある。人類全体の総合された想念が人類意識というのである
。人類意識の中に「人間は幾歳になったらこれほど老衰する」という共通総合の想念がある。

 個人の意識は人類意識の黒潮の中を泳いている一尾(いっぴき)の魚みたいなもので、
自由意志もあり、欲する方向に運動する自由もあるのだけれども、やはり人類意志全体の
潮流の方に動かされることは避け得られない。黒潮に乗って一定の方向に黒潮の色と同じの
背の蒼い魚が群れをまして泳いで行くように、人類全体の「人間は必ず老衰する」という
潮流に押し流されながら、人間も群れをなして老衰の方向に進んでいくのである。
ただ潮流の流れを、その人がどの程度「人間は神の子で、老いない」という想念によって
逆泳し得るかによって、その人の若さの持続が異なるのである。

感謝合掌

657a hope:2012/05/16(水) 07:13:35 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

思いついたら直ぐ始めよ


仕事や勉強が楽しくないのは、何でも思いついた時すぐしないのに依(よ)るのです。

後からそれをしようと思って尻重くしているために、必要なことも思うように進行せず、
「いざしよう」となったときには、あれもせねばならぬ、これもせねばならぬと、
仕事や勉強が溜まっているために、心がアチコチ踏み迷い、どうしたら好いか分からなくなり、
イライラし、急いで来、急ぐために血は逆(のぼ)せ、呼吸はみだれ、
肩は凝っていろいろの病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのです。
(つづく)

658a hope:2012/05/17(木) 07:35:31 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

考えるより実行せよ


「面白くないから仕事ができない、勉強にとりかかれない」と言う人があるかもしれませんが、
事や、勉強は、乾鯣(するめ)を食べるようなものです。
乾鯣はちょっと舐めてみただけでは本当の味というものは出てこないのです。

本当の仕事と勉強との味は、それを乾鯣のように
噛み締め、噛み締めやっているうちに出てくるのです。
仕事は、それをしないでその仕事のことを考えているうちの味と、
実際にやってみる時の味とは異(ちが)うものです。

仕事をせずに、仕事をせねばならぬと考えているだけでも頭を使う。
仕事をせずに頭を使う事は、却って苦しい仕事でありますが、
仕事に実際とり掛かってみますと案外楽で、やっているうちに、
思いも掛けないよい智慧が湧いてくるものです。

仕事は実際始めれば少しも考えたり頭を悩ましたりすることなしに
よい考えが湧いてくるものです。

神は人間を働くように造ったものでありますから、
働いているときには神の智慧が湧いてきて手伝ってくれるものに相違ありません。

(つづく)

659SAKURA:2012/05/17(木) 20:03:32 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
今日は、ちょっと…色々考えされてしまいましたが……?
海外のグル−プの「女性ボ−カルの話」なのですが……
今日は「女子会」に、投稿してみようと思います。さて!!
今から「人生の永遠…??」の勉強です。その中から【今日の言葉は…】

■【幸福を招く365章】
――――愛は失敗することはない――――

神と偕に生くると云うことは、神は愛であるから、愛を配達する人になると
云うことである。全世界の人類が配達する人になったときこそ地上に天国が
生じたときである。何事を為すにしても、語るにしても、交渉するにしても、
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給う」と愛念を先に送って置いてから
為せば、行く道は平らかとなり、愉快になり、成功多きものとなるのである。
憎しみは失敗することがあっても、愛は失敗することはないのである。
憎しみは争いを起すが、愛は必ず平和を起こすのである。吾々は「愛念」を
実生活の道具として凡ゆる方面に活用することにしなければならぬ
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

「商談…」で、交渉します時は、必ず!黙然して【神想観…】をします。
■【生きとし〜生けるもの〜生かしたまえるみ 親神〜〜〜】と!
“何度も〜何度も〜”唱えて「相手への思念」をしていましたが?そうです〜〜〜ネ!
大体!最後に【愛…絶対の愛…】になるのです〜〜〜ョネ!

“お客様”と接触します時、先ず“お客様”が綺麗に見える様に「思念」します。
そうしますと“フ〜〜〜ット!”アイデアが浮かびまして“お客様”の似会う
“スタイル”が自然に〜〜♫〜
どのように生かすかを「心の目」で見つめていたのでしょう

当時の私は、“売り上げ”より先に!これが優先でした…。気が付きますと
現在では、気が付きますと

何と〜〜〜〜〜何と!売り上げ“優先順位”になりまして、
売り上げより出費がふえて〜〜〜“お金”が逃げてゆくのです〜〜ョネ! ><
「お金を追う?」のではなく「愛を優先に…」
■【世の為…人の為に…どれだけのお役にたつのか…?】が、此処が大事です〜ョネ!
いつの間にか、私の“心の目”が“アキメクラ”になっていましたが…
【真理・光明・絶対の“愛”】なんですョネ〜〜〜〜!

さらに「男女の関係」も、今思いますと、私自信、相手に対しての思いやりは〜と?
何故?そう思うのかと云いますと…
結構!私は思いやりがあるのでは?と…心の奥では思ってたのですが
蓋を開けますと…?そうでは無かったのです〜ネ!
相手の“やさしさ”をくみ取る事より、自分の“要望”を優先でしたかしら〜〜ン?
今!振替ますと、実に恥かしい限りです…。

全て、此の現象界で生きて行く事は「絶対の真理・愛」にまさるものは、
ないのです〜ョネ!今から遅くはないハズです…。
==>気がついたその“瞬間”から、進歩向上の“スタ−ト”です〜〜〜ョネ!
今の私は“スタ−ト・ライン”に、立つています。
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給うあらゆる方面に“愛念”をに送って、
必ず!私の希望も失敗する事なく“成就”しますでしょう〜。
■“愛”は広き門…に【入門】です。

■【生命の実相】の巻頭から
「汝ら天地一切のものと和解せよ」と書いてあります。あの「和解」が
“愛”であります。“愛”とは「和解する」すなわち互いに手を繋ぐ事であります。
自他は本来一体でありますから、分れたように見えても本の姿になったならば、
自然手を繋ぎ合うということになるのです。   (谷口雅春著)

■今日の言葉で……“愛”“愛”“愛”〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜“愛”程…
勝るものはないです〜ネ!此の「気づき」に“神への感謝”が…!  再合掌

PS: トキ様へ
本日の「言葉…」どのように思われますでしょうか?
【愛は、全てを癒す…】その様に私は思いますが……?

660トキ:2012/05/17(木) 21:48:55 ID:UhCo.q7I
>>659

 昔、ダイエーの中内功さんが、「売り上げは全てを癒す」と言っていましたが、
結果、彼の会社は倒産間際になり、中内さんも晩年は不遇のうちに亡くなりました。
 山を動かすほどの信仰があっても、愛の心がなければ、それは無であります。
あと、男女の間ですが、これは、相手を理解していない事から来る誤解から争いが
生まれると思いますから、理解できない事があっても、相手の悪意を想像するのは
よくないと思っています。

 と、これは小生の偏見ですから、あまり気にしないで下さいね。

661ハマナス:2012/05/17(木) 23:40:12 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。ありがとうございます。

寿命の延長  (『新版 生活の智慧365章』P.157より)

 「老衰しない」ということと、その人の此の世の寿命が尽きて霊界に誕生することとは
別であるのである。その人の地上の寿命というものは、その人の魂が、地上の任務に赴任
する時にあらかじめ定められたる赴任期間というものであって、大体その人の赴任期間は、
その人の赴任が発令されたときに定まっているのである。それは会社の社員は外国へ出張
赴任を命ぜられるとき大体その赴任期間が定まっているのとよく似ている。しかし外国で
その社員が予定以上の成績をあげたとき、会社ではその社員を、も少し其処に駐在せしめた
方が会社によって利益だと考えられるときには出張滞在期間が延長されることがある。

 それと同じように、その人が地上生活を営んでいるうちに、自己の霊的進歩に成績を
あげると共に、その人の周囲の人々の魂の進歩に一層成績を挙げるとみとめられる場合
には、地上生活の任期は延長せられて、一層長生きを享受せしめられることもある。

感謝合掌

662a hope:2012/05/18(金) 07:06:44 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

易しい仕事で興味を出して


仕事や勉強をするのに、難しそうな部分からいちいち征服してやってゆく
方法もありますが、それは仕事や勉強がスッカリ好きになってからの事であります。

幾らか仕事や勉強の事を考えるとウンザリするというような人達は、
仕事の中(うち)でできるだけ易しい部分、勉強の中でできるだけ易しい部分から始める事が必要です。

仕事や勉強は喰いつきさえすれば、その中から味が出て来、
神の智慧が一緒に働いてくれますから、仕事や勉強の面倒な部分も自然に易しくなってくるのです。

ですから何よりも先ずどこからでも仕事や勉強に喰いつく呼吸が肝腎(かんじん)なのです。
(つづく)

663ハマナス:2012/05/18(金) 09:21:47 ID:u5mC.eb2

おはようございます。
皆さまにとって、“嬉しい、楽しい、ありがたい一日”でありますように。

長生きと霊魂の高下  (『新版 生活の智慧365章』P.158)

 長生きする者、必ずしも霊魂の進歩が高いと云うにはきまっていないのである。地上の
修行が完了しないために、いつまでも同じ学級にとどまらせられているために、地上生活が
長引いている如き長生きもある。つまり四ヵ年に卒業するはずの大学を七年間もかかって
卒業するのんびりした学生もあるようなものである。長生き必ずしものんびりではない。
十数年間も、或は二十数年間も病苦と闘いながら、その受苦(といっても、それは学課で
あるが)の本当の意義がわからないために、尚寿命が尽きず、苦しみながら此の世の生活を
終え得ない霊魂もあるのである。しかしまた霊魂がみずから進んで苦痛の科目を励むことni
よって、急速に霊魂の進歩を得べく、肢体不完全に生れて来たり、小児麻痺の後遺症で肢体
不自由の中で修行している高級な霊魂もある。ただ一概に、長生きだとか、健康だとかで、
その人の霊魂の高下を判断することはできないし、病苦であえいでいるからとて魂が低いと
いう訳でもないのである。

感謝合掌

664ハマナス:2012/05/18(金) 09:39:23 ID:u5mC.eb2

光明法語〈道の巻〉  谷口雅春先生著作集第1巻

五月十八日の法語   仕事をなす時の祈り

 「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。 
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。仕事のあいまに、
「仕事が祈りである。祈りが仕事である」と念ぜよ。かくすれば仕事の質が上がり、
量が殖え、新しき智慧が発現し、仕事に新生面がひらかれるのである。思わぬ間違いが
発見され故障に到らずにすむのである。「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えで
ある」と念ぜよ。かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

感謝合掌

665aj:2012/05/18(金) 10:42:14 ID:VckWJuk6
おはようございます。初めましてです。
!仕事が祈りなんだ! へぇぇぇと 今日これから出勤したら
仕事の前に 試してみます。

666SAKURA:2012/05/18(金) 20:57:09 ID:FEa/NNlc
>>660

>「山を動かすほどの信仰があっても、愛の心がなければ、それは無であります
理解できない事があっても、相手の悪意を想像するのはよくないと
思っています。」<

そうです〜〜ョネ!
「もう一度…巡り会い」ますと?そのようになれる様な“心境”に?
なれる私に“変身”出来る…「イメ−ジ」でしょうか?進行形!!
もう一度“チャンスの女神”到来かしら〜〜〜ン!

■更に「ダイエ−の中内さん」も、最後に気づかれたのでしょうか???
気づかずに“あの世でも金が永遠?”といって、その同じ考えの世界に、
それともいらっしゃいますのでしょうか……?
子供さん達は、余りにも“金に執着”したような事件が、あり…
今!思い出しますと、

■【商いの道】…その心得は?……“愛の心”です〜〜ネ!
そして「恋愛は、相手を信じる事…」でしょうか……??
理解出来ない時は、“ジ〜〜〜〜〜ッ!”と“信じる心”も【愛…】でしょうか?

*素敵な“アドバイス”ありがとうございます。    再合掌

667SAKURA:2012/05/18(金) 21:33:05 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…

毎日「聖典…」を投稿されていらっしゃいます方々の“文章”拝読!!
そして私自身此処に“投稿”させて頂きますと、こちらまで“気持のいい〜
さわやかな気分“になります…。
もう少し早く“パソコン”に〜〜〜と思いますが?…どうしても遅くなりがちで?
それでも【明日に向けて!!さぁ〜〜今「この本を開き給いて〜〜〜」…神に思念】
「今日の言葉」を頂きました…。では?一緒に参りましょう!!
■【心の宇宙の世界へ〜〜〜♫〜〜〜】

■【幸福を招く365章】
――――他の人の不幸を来たす物を求めるな――――

あなたが神にお祈りになるときに、「此の問題は神が欲したまうものでないかも知れぬ」
と思ってはなりません。そう云う考えがありますと、自分の心で自分の獲得を制限
することになるのであります。神は無限のものを持ち給うのでありまして、
神の子たる吾らに無限に善きものを与えたまうと云うのが神意なのであります。
ただ吾々は自分だけ利益を得て、他の人は損になる云うことや、
自分のみが快楽を得て、他の人は苦痛や不快を得るようなことを望んでは
ならないのであります。神はすべての人類を「吾が児」として生み給うたので
ありますから、他の犠牲において自己のみが幸福を得るようなことに賛成
なさらないのであります。その他のことなら幾ら豊富に求めても過ぎると
云うことはないのであります。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私も「祈り」ます時、どうかしますと…><
これは“自分の事のみだから〜?ダメ〜〜〜?”と“一瞬”よぎる事があります。
その時「祈り方」を変えるのです…。それでも、迷いの中での“迷想観”に、
なっている時がありますのですが〜〜〜 ><その時!!

■【われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て〜〜〜〜心を空しくして
〜〜〜 云々…】と

唱えて行っているのです。その時は、もう〜〜【神様の叡智】に尋ねているのです。
「今日の言葉」から、モット〜〜モット〜〜強く“思念”して行かないといけません。
その様にこの頃は、痛切に思います…。唯!!!
他人に“苦痛”を与えるような「祈り」この事は「神の御心」に反します〜ョネ!

今日からもっと「強く思念…集中」です!!【一念集中??】で〜〜す。
そして【世の為!人の為!に必ずお役立つ事】でしょうか〜〜?
自分の出来ることから〜〜♫〜〜 始めましょう〜〜♫

■今日は“人様に…小さな”善“を、させて頂きましたが…【夢を与える事】ですが?
遠慮せずに“指導”していまいました…。
今日の私は「即行動派??」少しでも【光明化…】していきたいと思いますが?
                          再合掌

PS:
トキ様へ
今日の“言葉”頂きました時、フラフラ〜♫ 迷いの「祈り」…は、やはり…
成就することは……そして「神の御心」に叶うモノでなければと…思いました。
トキ様は、“迷い?”その様な時もあられますのでしょうか?
(失礼な質問でごめんなさい…。)

668a hope:2012/05/19(土) 07:40:10 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

力の働かせ方


「生長の家」では働けば働くほど無限に力が出てきて達者になると申します。
しかし、力は無駄に働かしては無限に力は殖えるものではありません。

あまりに大切でもないことに時間と力を使っていますと、
肝腎な仕事や勉強をせねばならぬときに時間が足りなくなって来たり、
力が足りなくなってきたりすることがあるものです。

人間の力は使えば使うほど殖えるということについて十分知っていただきたいのは、
「智慧の力」も一緒に十分使わねばならぬということです。
「智慧の力」を十分使えば、くだらない事に使う力を必要なことに使うように廻すことができるのです。

必要なことに力を働かせれば、働かした力以上の結果が生まれてくるのです。
働かせした力以上の結果が出てくることをば、使えば使うほど殖えると言うのです。
力を使えば使うほど殖えるようにするには、無駄に力と時間を使わず尊い仕事に使わねばなりません。

(つつく)

669ハマナス:2012/05/19(土) 08:51:29 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま

おはようございます。
今日は素晴らしいお天気です。感謝に充ちた一日でありますように。

高級霊にも色々の等級がある  (『新版 生活の智慧365章』P.159より)

 霊魂の品等には色々の段階があるのであって、高級霊と称せられる者のうちにも色々の
品等がある。まだ受苦を必要とする如き程度の高級霊は、苦痛や業の存在をみとめている
程度の高級さであって、まだ地上の修行を必要とする段階の高級さであるのである。
地上の修行を必要とするからこそ地上生活の受苦を選んでいるのである。

 霊魂の高級さが高くなるに従って、もう受苦の必要はなくなるし、また受苦をみずから
進んでしなくなるが、しかし斯くの如き霊といえども、すべて彼らが生きている限りに
於て働く使命があるのである。過去の善業の上に胡坐(あぐら)をかいて働きを怠ることは
許されないのである。若し働きを怠るようなことがあると、摂理の手が再び地上誕生の霊的
流動の上にのせて苦しみつつ働かねばならぬような境遇のところへ生れ変らせることになる
のである。

感謝合掌

670ハマナス:2012/05/19(土) 09:09:11 ID:u5mC.eb2
ai様
 はじめまして。おはようございます。
お仕事の前に試されて如何でしたか?
私は、益々仕事が楽しくなり、無限の力が出ていつもよりはかどりました。
「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ。」の言葉も良いですね。

>「仕事が祈りである。祈りが仕事である」と念ぜよ。かくすれば仕事の質が上がり、
量が殖え、新しき智慧が発現し、仕事に新生面がひらかれるのである。思わぬ間違いが
発見され故障に到らずにすむのである。「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えで
ある」と念ぜよ。かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

感謝合掌

671うのはな:2012/05/19(土) 15:00:47 ID:???
メンタル・サイエンス奥義 別冊1 生活応用『健全の真理』 谷口雅春 先生著

 「人生は王者と奴隷の鏡である。若し君が友人を欲すれば自分が先ず友人となれ」
とエマーソンは言った。如何なる場所、如何なる人間、如何なる事物にも其の各々の
雰囲気と言うものがある。その雰囲気によって、「類は友を招ぶ」「類をもって集る」の
法則によって、それぞれのものが引きつけられ相合するのである。

 「失敗の雰囲気をもった成功者と言うものはあり得ない」とアーネスト・ホルムスは言っている。
成功する人物は成功を思うのである、成功する人物は自信と力の雰囲気をもって物事をなし、その
雰囲気が微妙なる或るものとなって、その人の身辺の一切のものに漂うているのである。

 人を惹きつける力ある人でなければ大いなる事業は出来るものではないのである。
しからばその微妙なるもの或る物を自分の身辺に漂はすにはどうしたらよいのであるか。
自分は人を引きつけるような魅力はないものである、自分の風采はあがらないなどと自卑すること勿れ。
すべての人間には、誰も皆、最高の魅力あるもの----神が宿っているのである。
その神は完全なる者であるから必ず人を魅きつける力があるのである。

 人を惹きつけるところの力は必ずしも容貌風采が最も美しいと言う訳ではない。
容貌風采が美しくとも、その人間が何となく低卑な感じのする人間もある。
そんな人間は低卑な俗人ばかりを引寄せ得るに過ぎないのである。人格から立ち騰るところの
不思議な雰囲気とは一体何であるか。それはその人の内部から立ち騰る神性である。

 自己の内部にやどる神性、これのみが萬物を支えている本源であり、これのみが他の人の内にも
やどる唯一の實在の力である。この内部神性を発揮せしめるとき何人をも魅きつけ得ないと言うことはあり得ないのである。
先ず、自己に宿る神性を自覚したのち、その神の全能力をもって、心に友を描けば、友が現れるのである。

P200-201   現代仮名に投稿者変更写

672金木犀:2012/05/19(土) 15:05:26 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示

國は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである。人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覺が、その外延であるところの國をも神より生れたる國であるとの神聖性を要求するのである。この要求が神によってその國が造られたのであるとの神話を創造するのである。しかも人は自己が無にして絶對であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覺を、生命の外延の世界に於ても持つことを要請するのである。観られる世界は観る人の心の世界であるからである。身體も國も共に観る者(主體)からの反映せられる世界(客體)である。

観る心の要請が身體に於ては脳髄の存在となり、國に於ては永遠の元首なる、無にして絶對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る。即ち観る主體(民)が神聖であるから、観らるる天皇が神聖なのである。観る主體(民)の神聖性が包まれ蔽はれて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽はれて發現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである。人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。

天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり君は客である。是を主客合一の立場に於て把握すれば主客一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ治は、君を拝むところの事と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。天皇は絶對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絕對性より來る。民が自身の絕對性の把握が破れるとき、その反映として國の絶對性と天皇の絕對性とは破れるのである。打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである。(一二、二八、午後一二時)

673SAKURA:2012/05/19(土) 22:10:42 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
昨日から此処【2チャンネル各ボ−ド】の空気??“オカシク”なっている様に〜〜
感じてしまうのですが〜〜〜私の“考え過ぎ”かしら〜〜〜ン!
「生長の家」は、やはり【 調和の精神 】です〜〜〜ョネ〜〜!
この頃では、おかしな雰囲気?雲行き?になりつつなのでしょうか?
さて!!これにもめげず「宮沢賢治の精神」で…今日も「天の神様」に…“祈り”
開け〜〜〜〜〜ごま〜〜〜〜〜ぁ!!「今日の言葉」を頂きました…。

■【幸福を招く365章】
――――相手の姿を神愛の表現として拝め――――

自分の周囲にあらわれる状態は、すべて自分の想念(こころ)の影なので
あるから、周囲の状態をよくしようと思うならば自分自身の想念をよくする
ほかに道はないのである。若しあなたが誰かが不快なことをしたら、
それは貴方の性格を強くし、どんな現象に接しても其の奥にある善を
見る力を養い、愛を深くするために神が与え給うた絶好の機会であるとして、
相手の人の美点を見るように練習するがよいのである。神の愛が、
相手の姿とあらわれて私を訓練し、高め上げ、磨いて下さるのであると信じ、
相手を「酷い」とか「意地悪」であるとか考えないで、相手を慈悲の権化、
神愛の化身として「ありがとうございます」と拝むとき、相手が真に神愛の
表現として優しき姿にあらわれて来るのである。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

今日“ペ−ジ”を開きますと…本当に!私の“心の現象”が……
出て参りました。“ピッタリ〜〜〜ですョネ!……
本当に!楽しく【2チャンネル各ボ−ド】を、開きますと……
■「ワァ〜〜〜とか?マタァ〜〜〜とか?云う感じでしょうかしら〜〜〜ン!」
内容も、その人それぞれの“個性の中身”ですから、
その内容が?派長が?合わない場合は、当然の事ですが、ありますもの〜〜〜ネ!

ある人は、いつまでも〜いつまでも〜何処までも【ネガティブな感情】ばかりで…
「生長の家」の御教え?本当に理解していらっしゃいますのでしょうか?
と……思いながら?
以前は“拝読”させて頂いておりました…が!!…今では、殆どの“投稿文”は?
ケ−ス・バイ・ケ−スにて拝読の形をとらせて頂いております…。
何故なら、こちらまで【ネガティブ感情】が?押し寄せて来る感じでしょうか?
〜〜〜その人の【心の問題】ではと、思いながら〜〜〜
今日は、正直!釈然としないまま、「雅春先生の書物」を開きますと…其の瞬間!!
“タイトル”が……これには参りましたが〜〜〜!
私自身の【想念…】なのです〜〜〜ョネ!
“文章”を…拝読する!理解する!その前に“別の観点”で【ボディティブ】に解釈!
していこうと…それによりまして“前に〜前に〜♫〜”進むのではと思いますが…

■此処【2チャンネル各ボ−ド】で、いじめの“対象の存在”でしょうか??
これは【私の精神を高め上げてくれる場所】を、神様が提供されている!!
益々!!“強靭な精神”の“修行の場”を頂きましたと…
逆に!「インタ−ネット・ライティング」が、出来るわけですから〜〜〜
“素晴らしいコ−ナ−”ですし、“自分のポリシ−発言投稿”出来ますし、
私の【心の法則の完成】其の途上なのでしょうか〜〜〜??

■相手が真に神愛の表現として、私の【観世菩薩】です〜〜ネ!
“今日の言葉”が、心に深く入りまして…
今から“扉を…天の岩戸を開きま〜〜〜す!”私の自己形成!!
完成〜〜〜までの其の道のり〜〜〜開け〜〜〜ごま〜〜〜ぁ!
                          再合掌
PS:
トキ様 へ
人は“逆境…”と云う“現象=現実”を目の前にしました時、ともすれば?
「???せい」としやすいのですョ〜ネ!それを自分の【観世菩薩】と、
切り替え“行”ずることは難しいのですが〜〜〜今!それを、私は修行!
させて頂いておりますが?トキ様は、このような時の体験は、ございますか?
(失礼な事お聞きしましたら、ごめんなさい。)

674a hope:2012/05/20(日) 08:34:11 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

朝の時間を無駄にするな


早朝の数時間は、最も自分を進歩させる尊い仕事または勉強のために使わねばなりません。
朝新聞が配達されるということは、一部の政治界・実業界の人たちのほかの人にとってはたいてい大いなる損失です。
目まぐるしい実業界で値段の上がり下がりで金儲けをしようとする人以外には、
一週間くらい新聞を見ないでも世間に送れることはありません。

私は、諸法へ講演旅行する時には一切新聞を見ないのでありますが、
一向それで損をしたということはありません。
たいていの新聞は、善悪の差別なしに世間の出来事を、人々の心を惹くよう、
い加減に善悪の区別なく集めたものですから、善い事を教えられもすれば悪いことを教えられもするのです。
毒々しい新聞の薬の広告の刺激で病気を起こす人さえあります。

時間を上手に使おうとする人は、一週間か十日毎に、その間に起こった重要な出来事を、
判り易く簡単に書いた、少しも悪い記事を載せない旬刊新聞か、
週刊新聞を読まれるようにするならば、一生の間にどんなに時間が助かるかも知れません。

(第10章 「働きの生かし」終わり、 次回から、第11章 「時間の生かし方」へ)

675ハマナス:2012/05/20(日) 14:30:19 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。

エリザベス女王の即位60年を祝う行事に出席するため、イギリスをご訪問されて
いらした、天皇皇后両陛下が今日の午後ご無事にご帰国されました。
喜ばしい限りです。

読書百遍の意味  (『新版 生活の智慧365章』P.160)

 宇宙には、吾々がそれから避けることの出来ない法則があるのである。それは、原因あれば
必ず結果があるという法則である。それは物質界に於てもそうであるが精神界に於てもそうで
あるということである。そして精神界と物質界との連関に於ては、想うことは物質界に実現
する原因となるということである。一切の文化的産物は人間が「想う」ことによって生み出さ
れたのである。

 「想うこと」も、その「想い」が強烈でなければ、それは潜在的に蓄積されたままであるが、
その蓄積が次第に増強されて来るときには、突如として強烈なる内圧力となって外界にそれが
現れて来ることになるのである。「読書百遍意おのずから通ず」という諺があるが、「人間神の子」
の思想も、『生命の實相』を精読すること幾十回を重ねるにしたがって、「人間神の子」の想念が
潜在意識に愈々多く蓄積されついに爆発的な力となって、その想念が現象的に具体化することに
なるのである。

感謝合掌

676SAKURA:2012/05/20(日) 20:18:21 ID:FRkn9FYs
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
今日は“オフ日”になり、自宅にて“片付??タイム”です…。
空を見上げますと〜〜もうすぐ“雨…”が降りそうな気配で…
今から“ケ−キの材料”に入れる“??”を買いに行こうかしら〜〜〜ン?
どうしようかしら〜〜〜ン?と“悩み心”……たったこれ位で“生活権”が…
振り回されるの〜〜〜><まるで……【心=固定観念】でしょうか〜〜〜?
同じ【固定観念】でも【向上心を伸ばす】のは……「生長の家…数々の本」です〜ネ!
では“今日もスタ−ト”〜〜〜☆

■【栄える生活365章】
――――老衰をふせぐには――――

老年は、暦日の年数によって来るのではなく、自分の精神が先ず「老年」を
想念して肉体にその印象を刻みつけるのである。肉体は常に新陳代謝して、
古き細胞は運び去られて、新しき細胞をもって置きかえられているのである。
それ故に、細胞それ自体は常に新しいのに、その新しい細胞をつくるときに、
自分の想念が「老衰」の刻印を押すのである。それ故、新しくつくられた細胞にも
「老衰」形態が彫刻されるのである。ではその「老衰」の想念は何処から出て
来るかというと、人類全体の潜在意識の中にあるのである。
それは“精神テレビ局”の放送電波のように空間に漂うているのである。
そして多少とも波長の類似のところへ行って受像される。
そして、テレビに映る影のように、あなたの肉体にその“老衰”の影を映すのである。
だから、自分が“老衰”の念を起こすとそれだけ人類意識の
”老衰“を受像し易くなるのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

「老衰」という“心に先入観”が入りますと…当に!その通りになります〜〜〜ネ!
私の「亡き母」は84歳の頃は、手紙で私が“結婚相手”がで出来るまで頑張ると…!
その様に、私にも励ましてくていました存在の人でした。
そう言いながら、なかなか実現しないので…とうとう「亡き母」は、表現が変化して
きまして、87歳の頃は…「後90歳まで頑張る…!」と口癖のように言ってました…。
いざ!89歳になって「老人ホ−ム」に、入ってからでしょうか?
「後期高齢者」という“認識”が入りそまして、それからなのですが……??
入所してから、3カ月目に“体力ダウン”更に!3ヶ月後は“寝たきり状態”に…
                 <つづく>        NO.1

677SAKURA:2012/05/20(日) 20:19:14 ID:FRkn9FYs
    <つづく>       NO.2                 
■今!!思い出しますと…【老人ホ−ムの介護】は、確かに“言葉”として?
或いは体外的(世間)には?いいでしょうが〜〜〜♫〜〜〜
此の「老人ホ−ムに入所するまでの母」は、しっかり“自分自身の足”で歩行して
いましたのに… >< 【老人ホ−ム】に入ってからは???
変に!【潜在意識に後期高齢者の自覚!!】
この様に本人の自覚は【外部からのインプットでの潜在意識へ】この様に入れられた
【自覚…】もあるのです〜〜〜ネ!!

■私も「地下鉄通勤中…」最近!この年齢で“髪”を下げていますが……
まだ!大丈夫かしら〜〜〜ンと云う思いがありますが??
この頃「同世代の方」で“髪”を下げている方を、よく見かけます…。
更に!私の前に分かる様に「同年代」がいつも登場されて…
つい!私自身は、視角的に物事を見てしまう(職業柄も含め)どうような角度で〜〜
見ましても??まず“年齢”が…??更に!“顔”のイメージで判断しますと…
素直な気持ちですが?“似合わない〜〜〜”と云う方に遭遇してしまいます。
此の時!つい〜つい〜大丈夫なのかしら〜〜ン?思ってしまうのです〜〜〜ョネ!

更に“不思議な事”は、通勤中、この頃若い方が更に“私の周辺”に取り囲む様に、
立ちはばかる感じでしょうか??若いですから…勿論!髪は下げていますし、
勿論!若さのシンボルですから“誰でも一応はオカシクナイ”のですが??
ついついこちらも【年齢の自覚のインプット】を潜在意識の中にされるような
気持ちになった矢先に【心=現象に惑わされない心】…

そうなので〜〜〜すョネ!“今日の言葉”にて、
これも【外部要因…】でかなりのインパクトにての“潜在意識”の中にインプット!
そうされているのかしら〜〜〜ンとの “気づき”を頂きました…。
どう見ましても…此の若者達が「吸血鬼・ゾンビ…の仲間」に見えていました矢先の、
出来事でした…。これは“天からのメッセ−ジ”と、感謝申し上げました…。

■この様に【外部要因によります潜在意識への入れ込み】これは、日常茶飯事…
見えない形で…今日では複雑化した社会では多々ある事でしょう〜〜〜ネ!
■改めまして【自分の心で…“心の法則”に従い揺るぎのない“イメ−ジ化”】集中!
                                  再合掌
PS:トキ様は、本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか?

678金木犀:2012/05/21(月) 08:13:56 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義

この神示は、昭和二十一年三月一日発行の『生長の家』誌三月号の巻頭に掲載されているので、その末尾に書かれてある「一二・二八」というのは終戦の年なる昭和二十年の十二月二十八日だと思われます。丁度その頃は占領軍が日本に上陸して来た当座で、日本を弱体化せんがために、占領軍司令部が新聞記事内容や放送内容を悉く支配し、その指導監督の下に記事が書かれ、放送番組が定められていたために、日本軍の南方に於ける残虐行為などを殊更に強調し、それを天皇陛下の責任の方へ結びつけ、日本民族はこのような残虐行為をなす劣等民族で、その精神年齢は十二歳位だというような、日本民族自身の自信を失わしめる目的で構成せられた新聞記事と放送番組とによって、目と耳と両方から「言葉の力」で吹きこまれた結果、日本人の殆ど全部は、日本民族の優秀性についての自信を失い、天皇の尊厳など口にするものもなく、民主主義が利己主義と混同せられ、精神的動揺は隠し切れない状態が外部生活にもあらわれ始め、かてて加えて食糧の欠乏による闇売り・闇買いが至るところに行われ、それが日本人の常套生活であるかの如き観を呈していた時代であった。この神示はその時代を背景として、神が、日本民族の自信を恢復せしめんがために、日本民族の将来と、今後の日本国の成行きとに、深く思いを馳せて悩んでいる私に対してくだされた神示であるのである。占領軍の管理下で、これだけ天皇の尊厳を書くのは大変な冒険の時代であった。

この神示は、先ず、国とは如何なるものかという解明から始まっているのである。「国は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである」としめされている。人間の生命は、神より来たり、神の自己実現として地上に「生」を保つのである。その「生命の波動」が外部に具象化したものが「肉体」である。その「生命の波動」は、人間に於いては想念感情となってあらわれるのであるが、想念感情の変化にしたがって、肉体に健・不健の状態があらわれるのは、生長の家誌友に無数の実例があるのであって、それは既に読者諸君が充分知悉していられるところである。

肉体が「人間生命の外延」として想念感情の変動を容易にその健・不健にあらわすとするならば、國家が「人間生命の外延」である限りに於いて、国民自身の想念感情が、国家の状態に具象化することは当然の事だと言わねばならないのであります。

国家の事を述べるに先立って順序として「環境」について考えて見るならば、「心が変われば環境が変わる」という事実は随分沢山あるのであります。それを先ず述べて理解の基礎を築いて置きたいと思います。(つづく)

679ハマナス:2012/05/21(月) 09:36:59 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。皆さまは金環日食を見られましたか?
私は、TVで見ましたが、真ん丸の円満完全な美しい姿でした。

泣き面に蜂  (『新版 生活の智慧365章』P.161)

 想念は、その想われている内容が、やがて実現するだけではなく、「類をもって集まる」
又は「波長の合うものは感応する」という法則によって、その想われている事柄以外に、
その想念に波長の合う番組(出来事)を次から次へと実現すること、テレビの受像機の
ようになるのである。このことを古人は知っていたので「泣き面に蜂」というような諺が
あるのである。

 即ち、或る悲しい事件が起こって泣いていると、その悲しい事件ではなく、また別の、
併(しか)しその悲しみに波長の合う色々の「痛い出来事」が引きつづいて襲って来る
ことになるのである。だから悲しい事件が見舞って来たときほどその悲しみの感情から
早く脱却しなければならない。

感謝合掌

680金木犀:2012/05/21(月) 23:16:12 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(2)

例えば兵庫県三原郡南淡町本庄の岡本義人と言われる人は、洲本の講習会のときに、このような体験談を談(はな)されたのであります。

岡本さんは当時、玉葱とか枇杷とか農園の作物を取りつぎ販売によって生計を樹(た)てていられたのでありますが、軍隊時代からの知人で、気心の知っている筈の友人から、そのころ収穫時期であった枇杷を卸してくれと言われるので、相手を信用して、船積みでこれらの品物を大量に送ってあげたのでありますが、豈はからんや、送金の約束の日が来ても一向代金を送ってくれないのであります。それで自分で出掛けて往って代金を請求すると、“小切手にしてくれ”と言うので、その小切手を貰って、銀行へ行くと、その小切手は不渡りです。それで再び請求に行くと、今度は“約束手形にしてくれ”と言って、約手を書いてくれましたが、期限が来ると又不渡りであります。

恰度、その頃は、戦後の新円、、旧円の切換当時で、その頃の貨幣価値で約二十万円の品物代金ですから相当な金額だったのです。しかもその送った商品というのが、自分の果樹園に出来た自分の商品ではなく、友人に頼んで出荷して貰った商品でありましたから、岡本さんは、諸方から無理をして借金したり、色々の工面をして支払っているのですが、売り渡し先の男からは少しも金を入れてくれない。その頃岡本さんは、まだ生長の家の教えに触れていませんでしたから、
「あの野郎!本当に不逞野郎だ。あの野郎見たくもない!」
と相手を憎む一本槍で、憎みに憎み、呪いに呪っていたのでした。

「自分の環境は自分の心の影」「立ち向う人の心は自分の心の反映だ」ということを知らないで、こちらが鬼のような心を以って相手に対しておりますと、相手が人情もない鬼のようになって、無代で品物を引取って、それを売って、自分は金を受け取りながら、それを岡本さんへは支払ってくれない。こちらが鬼の心になって相手を責めに行くと、向うは更に鬼の心になって、全然支払う気持ちをもっていない。それだから最初から喧嘩のようになってしまう。岡本さんにしてみれば、知人であるから別段儲けるつもりでなしに品物を提供してやったのに、先方は平気でこちらに損害を与えるつもりでいたのだと思うと、如何にも割り切れない気がするのでした。

そんな気持ちでいる時に、岡本さんは生長の家に触れて其の頃、尾道にあった生長の家西日本錬成道場(現在は生長の家文化女学院と称する花嫁学校になっている)に往って錬成を受けたのです。(つづく)

681SAKURA:2012/05/22(火) 00:20:30 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
此処昨今は“振り回されました感”と申しましょうか?……
皆様も、どのように感じていらっしゃいますでしょうか??その思いです…。
私は、今日は“つくづく…言葉の重み”を、実感している次第なのですが…?
パソコンで“投稿文”を拝読しますと“読解力?”時としては、読み飛ばす事も、
あるでしょうが…これが【原因…での人間関係】もマイナス要素に >< 
なり易いです〜〜〜ネ???本日は、普段よりは、少々参りましたが〜〜〜
では!いつものように「ゴマ〜〜〜開け〜〜〜♫〜〜〜〜ゴマ」

■【幸福を招く365章】
――――神なる無限供給の源泉と連絡せよ―――――

神は万物を生み給うた。神は愛である。それうえに神は無限の富の源泉であり、
与えるために、貯えられたる貯蔵庫であることが判るのであろう。
神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な大まかな運動や構成は
出来るのであるが、意識的な発動的創造の中心は、神が人間として現れてのみ
出来ることになったのである。神は無限の富の源泉であるから、人間は
その無限の富の意識的表出口だと云うことが出来るのである。
だから人間を神の子だと云うのである。神の子たるものが貧しく生活
しなければならぬなどと云うことは実際あり得ないことなのである。
神が貧しいのは神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切って
いるからである。                    (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【神=人間】の“パイプ”は、不可欠な存在そのものではないでしょうか〜〜〜?
この頃“祈る”時も、【自我意識を中心にして祈る事】もあります…。
神様への“思念”は、人間の……私の思念も“=”でしょうか〜〜〜?
その様に【引き寄せの法則】をいつも【神と一体】で意識を集中するです…。
人間は【念=霊】ですから【心=意識】ではないかと、この頃思いまして…?
私の“心”そのものが“意識一体”ですので、ひたすら
「神様に通じる心!!一体感」なのでしょうか〜〜〜しらン?

地下鉄の通勤で“ポジティブ意識”を集中思念しながら……周りの“状況・情勢”を、
この頃、ついつい判断している私なのです…。
いつも〜いつも〜♫〜太陽のように、光!サン〜サン〜と…
ふりそそいで、私の心に暖か〜〜〜い“エ−テル”が…伝わります…。
「神様とのパイプ」を、いつも繋ぐ私ですので…少しでも「断ち切る時」は?
【祈り…】が、おろそかになっている時でしょうか〜〜〜?

■どんな時でも〜どんな時でも〜毎日「神様へアンテナ」を向けまして…
神様からの“メッセ−ジ”を、いつでも〜どこでも〜【意識】しながら〜〜〜♫〜〜
“受信出来ます様にと〜〜〜”信じて待ちます…。本当に!つながりますと!
とても“楽しい〜〜嬉しい〜〜ポジティブ感情”です…。

今日も一日楽しい【祈り…】更に!仕事中でも、体中で意識出来るように…
毎日が“神様からのメッセ−ジ”受信していますので、
此の大切な「神様とのパイプ」断ち切る事は、できませんモノ!!何故なら…
■【私は神の子ですもの……】  ありがとうございます。

                           再合掌
PS:トキ様 へ
「神が貧しいのは神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切って
いるからである。」此の事は、確かに“祈る”事を、怠りますと……
この体験は、私自身致しましたが…?
この件は、どのようにお感じますでしょうか??

682a hope:2012/05/22(火) 08:15:47 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第11章 時間の生かし方

「いのち」を大切にせよ


たいていの人は、時間というものをぼんやりと過ごしてしまう人が多いのであります。
ところが、「時間」ぐらい大事なものは世の中にないのであって、
何物をもって較(くら)べてみましても、時間以上に尊いものはこの世にないのであります。

というのは、第一私達の寿命(いのち)というものが時間によって成立っている。
人は生命(いのち)から二番目は金である、とこう申しますけれども、
その生命そのものはもう一番目である。

その生命が何によって成立っているかというと、
時間の継続によって成立っているのでありますから、
この時間を十分(ぷん)でも無駄に費やしたら、
その十分だけ自分の寿命が縮まった事になるわけであります。

しかも、それに気のつく人が実際少ないのは残念であります。
それに気のついた人は必ず何かできる人になっている。
必ず何か世の中で頭になっておられるとか、
或いは何か事業に成功するとかしているのであります。

「時間」さえ生かして使えば私達はこの世の中に於いてなんでもできないというものはないのであります。

(つづく)

683金木犀:2012/05/22(火) 16:34:42 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(3)

岡本さんは錬成中講話をききながらも、どうも割り切れない気がするのです。――
「俺は正しいことをして、こんなに苦労している。そして自分は銀行から金を借りたり、親戚で無理を言って金を借りたりして品物の代金を支払っている。それなのに、俺に“屁”をかました奴は、のうのうとして“晩酌でもやろうか”と言っている。こっちは、そんな所の騒ぎではない。八方金策をして、夜行の電車に乗って集金に往ってふらふらに草臥(くたび)れて帰ってくる。やられたものが苦労して、やった奴がのうのうと楽をしている。こんな割り切れん問題はない」と思って、その考えが頭の中に一杯充満しているものですから、せっかくの錬成中の講話も、最初の五日間は自分の胸にピッタリ来なかった。青白い痩せた顔を骨ばらせて、眉を釣り上がらせ、鬼のような顔をして、相手を呪いながら講話を機械的に聴いていた。ところが六日目になって徳久講師や嘉村講師の講話を聴いている時に何かパッと悟るというか、心にコツンと来たものがあったのです。

「出すものは出す。入れるところは入れる。出したところから、それが必ずしも返ると思って掴むからいけないのだ。宇宙は一体であるから、互いに循環している。一時出したものは損に見えていても、それは奪ったものでないから、必ず何処からか循環して還って来る。凡ゆる仏さんは吾々を済度せんがために、時には鬼の姿になり、時には菩薩の姿となってあらわれるというが、先方の鬼の姿は、仏が私にこの真理を知らせるために仮に鬼の姿になって現れているのではなかろうか。彼は、人に迷惑をかけながら、夜逃げもせんと悠々と、悪く言えば不逞ぶてしく、良く言えば逞しい度胸をもって、泰然自若と落ち着いて晩酌でもしている。ところが良いことをしたつもりの自分は慌てふためいて、恨みに恨んで痩せ細っている。落ち着くのも落ち着かないのも、人生は心の世界ではないか。“あいつが払わん、払わん”と、俺は富の一方の入り口ばかりを掴んでいたのが悪かったのだ。」

こんな気持ちになって岡本さんは、十日間の錬成を八日間で「もう分かった!!」と切り上げて、今まで掴んでいた債権を放つ気持ちになって淡路の自分の家に帰る途中に、その相手の家に立寄って、
「おい、お前んとこの勘定棒引きや、堪(こら)えたるから心配するな」と言って帰った。そしたら、今まで引っかかっていて重苦しかった気持ちが軽くなったのです。「あいつから返してもらわんならん」と考えている間は、その方にばかり心が引っかかっているから、別の仕事をすることも出来ない。好い考えが浮かばなかった。収入は杜絶えるし、すること為すこと旨く行かぬ。だから常にイライラしていて、子供が何かすると怒る。家内が物を言うと「やかましいわい!!」と怒鳴りつける。心が貧しさに捉われ不調和だったから、實相の無限供給に波長が合わないで、自分もよい計画は浮かばないし、誰もよい話は持って来てくれなかったのです。(つづく)

684金木犀:2012/05/22(火) 18:18:09 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(4)

ところがその債権を棒引きして、無限供給の出口は何処からでもあると気がついたときに、今まで掴んでいた仕事とは別に何か新たに創意工夫をしなければならないと岡本さんは思い出した。するとそれから半年程して、新しい仕事の計画ができ上がり、それに着手しようとし出しますと、無限供給の流入口が処方に出来て来たのです。あちらからも、こちらからも、
「お前、嘘はいわん正直な男だから、まあ五十円使ってくれ。」
「お前、去年引っかかってエラかったなあ。お前はウソを言わんから百万円先に使うてくれ。そのかわり百万円の品物間違いなく入れてくれよ。」
というような具合で、いつの間にか合計五百万円の金が集まったのであります。あの二十万円を取り立てて向うが支払ってくれていたところで、そんな金だけでは新規の事業はできないのに、二十万円を放つ気になったときに、このように無限供給が入って来たのでした。岡本さんは、あのズルイ不逞ぶてしい奴だと思っていた奴が、実は「掴んでいる物を放て、さすれば無限供給の入口は至る所にある」という真理を教えてくれるために、鬼面をかぶって出て来た仏様だとわかったのでありました。このように、人間の環境というものは、「人間生命の外延」であって、人間自身と別ものではなく、自分の心の雰囲気が環境という形に具体化してあらわれているものなのです。一個人の環境が自分の心の具対化であるということが解れば、国家というものは国民の住む環境として、国民全体の心が具象化したものであるということが解って頂けると思うのであります。

自己の心が「神より生れたる神聖なもの」だという自覚が得られると、その「外延である肉体」が、神らしく健康なものとなる実例は沢山ありますし、また心が一変すれば、上記のように環境が一変するという実例も沢山あるのであります。「生命の外延」というものを、生命を包む一種の「肉体」としてみとめるならば、環境や境遇は広い意味に於いて、人間の「肉体」であり、国家というものは、「多くの国民の心」の外延として多くの国民の心を反映している全国民の「肉体」みたいなもので、国民大多数の心の状態が国家の状態を決定するのであります。だから、その国の人民が、自分が「神の子」であり、“ミコト”であるという自覚がある場合には、その人民の生命の外延(肉体)としての国家は、「神の国」だという国民自覚を生ずるのであります。このことが、
「人間生命が神より生れたる神聖なものであるという自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの神聖性を要求するのである。この要求が神によってその国が造られたのであるとの神話を創造するのである」
と示されているのであります。(つづく)

685復興G:2012/05/22(火) 22:48:44 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <1>

生長の家七つの光明宣言

▽ 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

▽ 吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

▽ 吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

▽ 吾等は生命の糧は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

▽ 吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。

▽ 吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。

▽ 吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に実現せんが為に実際運動を起す。

   総 説 「七つの光明宣言」の解説

 生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。メタ(meta)とは「超越」するという意味でありましてフィジカル(physical)とは「物質的」という意味であります。そしてヒーリング(healing)という言葉は癒すこと治すことを意味しております。つまりメタフィジカル・ヒーリングと申しますのは、物質的方法によらずに実相円満の自覚によって、大生命のお力をよび起こしてわれわれの不幸を癒していただく方法であります。わたしがこの面倒な長い名称をことさらに用いることにしましたのは、「生長の家」のこの救済法が世間にふつうある心霊療法や「手のひら療法」と同一視せられないためであります。

 元来「生長の家」は人類の思想中よりその転倒妄想(まよい)を去らしめ人類生活の全面を光明化せんがために出現したので、病気治療のみを目的に出現したのではありません。ご参考のためにここに「七つの光明宣言」を略解しておきたいと思うのであります。

 一、吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

「生長の家」の目的はその宣言の第一条にありますように生命を礼拝し生命の法則に随順してみずからも生活し、推しひろめてはこの生活を他の人々にもできるだけ多勢の人に生きてもらいまして、しだいに全人類の生活を光明化することが目的なのであります。われわれが生命を礼拝し、こうした「生命」の法則にしたがって生活することを目標においていますのは、われわれがこの世界に「生命」を享(う)けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。

 われわれが「生命」をこの世界に享けてきたと申しますと、わたしというものが別にどこかにあって「生命」というものをどこかほかのところからもらってきたように聞こえるかもしれませんが、そういう意味ではないのであります。われわれおのおのそのものが一個の「生命」であります。何ものを否定しましても、自分が生きているという事実は否定できないのであります。自分は生きているという事実はとりもなおさず自分自身が「生命」であるということであります。

 そこでわれわれが「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い「生命」であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることができるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの「生命」の大元(もと)の「大生命」をも尊び礼拝したくなるのであります。これと反対に自分自身が尊いということが解らねば自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶべきゆえんも、その本源である神を尊ぶべきゆえんも解らなくなるのであります。

 われわれがわれわれの生命の大元(もと)の「生命」を尊び拝みたくなりますとき、われわれはこれを「み親」として、その法則のままにひたすら生きてゆくことを念願せずにいられなくなるのであります。
 <つづく>

686復興G:2012/05/22(火) 22:49:25 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <2>

 二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

 さて、それならば、われわれがひたすらそれに従って生きてゆこうとする生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります。

 これも、われわれ、「生命」として顕現(うま)れて来たという否定できない事実から出発するのでありまして理屈ではないのであります。われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は「生長」することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。

 進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの「生命」は宣告されているのであります。競争者があるがために滅びるような「生命」は競争者がなくては生長しないで退歩またはせいぜい現状維持ぐらいのところでお茶を濁す退嬰(たいえい)的な「生命(たましい)」であるに相違ないのであります。結局、かかる「生命(たましい)」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命(たましい)」の生長にはぜひなくてはならぬ迷妄(まよい)の自壊過程であります。この刺激や反省資料があるためにわれわれの「生命(たましい)」は反省の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。だから「智慧の言葉」にも「苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛が魂の生長にどんなに必要かということを知る者は苦痛でも喜べる」と書かれてあるのであります。

 わたしは先刻われわれは「生命(せいめい)」として顕現(うま)れて来たという否定できない事実から出発すると申しました。「われわれは生命(たましい)である」と申しますとき、肉体のほかに生命はないと考えている唯物主義の人たちにとっては、生存競争や、その他の苦痛によって落後者や夭折(ようせつ)者として死んで行く人間のあるのを見るとき、この世の生存競争や、病苦はただ人間(その他の生物)を不幸にするためばかりにあるのであって、それが少しも「生命」の生長のためになっていない、かえって、われわれの「生命(たましい)」の萎縮や疲労や憔悴のためばかりになっていると思われるのであります。

 けれどもこういう唯物的な浅い見方から観ないで、深くわれわれの「生命(せいめい)」の本質を直観的に掘りさげてゆきますならば、われわれの「生命(たましい)」は肉体が死んでも死なない、生きとおしのものであるということが解ってきます。
 <つづく>

687復興G:2012/05/22(火) 22:50:21 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <3>

 われわれの生命(たましい)が生きとおしであるという意味には二つあります。われわれの生命は宇宙の大生命(おやさま)の支流であって、宇宙の大生命に生かされている。さらにもっと適切にいいますれば、宇宙の大生命の流れと一緒になって流れているのであります。それだからその一つの支流(わかれ)であるところの自分の水(生命)が涸れようとも、その水は大生命の大きな流れに注がれて大生命と一緒にいつまでもとうとうと流れているという観方がその一つであります。

 今までの宗教家の説明はこの観方を採用していたのでありまして、多くは死んだのちにおけるひとりひとりの特性ある霊魂の不死をみとめないで、全体と一緒になって流れている大生命に帰る意味の不死のみを説いています。そしてその方がいかにも大乗の観方らしく、深い哲人的観察らしく聞こえまして皆さまからも歓迎されたのであります。この観方にもむろん真理はないではありません。「生長の家」におきましても死後ばかりでなく、現在肉体の生きているうちのわれわれの生命も宇宙の大生命と一緒に流れているのであるから、この大事実を心の底からさとらせていただくことのよってわれわれ個々の生命(たましい)はいっそう深い生活ができ、安心と自信とをもってその日その日を明るく豊かに経済的にも肉体的にも生き切ることができると信じているのであります。

 しかしわれわれ個々(ひとりひとり)の生命(たましい)が、ただ流るる河の水の上に浮かべる波紋のようなものであって、河の上に浮かんだ一つの波紋が消えたあとには、ほかの波紋がまた新しく起こるだけで、消えた波紋はもうぜんぜんあとかたもなくなると同じように肉体の死は個性として今までありしいっさいのすがたを消してしまって何一つ残らないようになるとしますならば、なんのためにわれわれは個性としてこの世に苦しんできたのか、われわれが切実に個性(ひとりひとり)として経験し、切実に個性(ひとりひとり)として生長を闘いとってきたところの、その切実な個性感がただの幻影(まぼろし)であってウソであったということになるのでありまして、どうもそれはおのおの個性(ひとりひとり)として特徴をもっているところの、われわれ生命(たましい)の必然の要求として不合理であることが直感されるのであります。ところがこのわれわれ生命(たましい)の必然の要求として認めねばならない肉体消滅後の個性生命の不滅ということが最近しだいに科学的に肯定されつつある「霊界通信」(スピリット・コミュニケーション)によって明らかになってきたのは喜ばしいことであります。『生命の實相』第五巻の「霊界と死後の生活篇」に採録してある二つの霊界通信は小説や作り物語ではないのでありまして、最近フランス美術家およびデンマーク戯曲家に起こった「霊界通信」ならびに本部の心霊実験を死後の霊魂実在の実証として掲げたものでありますから、ぜひ目をとおされたいのであります。

 このようにして「生長の家」では単に哲学的に肉体死後の生命(たましい)が大生命(おやさま)へ復帰しての不死を理屈づけして考えるだけではなく、霊界通信の事実によって「個人に宿る生命(たましい)の不死」をも信ずるのであります。われわれは生くるも死するも結局は生命(たましい)はほろびないで「無限生長の道」に乗せていただいていますので、各人ひとりひとりの「生命(たましい)」の生長に最もよいときに、それぞれふさわしい苦しみも、悲しみも、病気も、肉体の死も、生命創化の法則によってやって来るのでありますから、たとい苦しみが起こって来ましても、悲しみがやって来ましても病気になりましても、肉体が死んで腐ってしまいましても、この肉体に宿っている「生命(たましい)」は滅んではしまわないで、個々の人格の特性(個性)をそなえたまま、わたしはわたしとして、皆さんは皆さんとして、やはり「無限生長の道」をあゆんで行くことができるのであります。このことが信ぜられればもうどんな苦しみも悲しみも自己の無限生長の資料としていただいた皆ありがたい修行であると合掌して受け取らしていただき、感謝感謝で暮らすことができるようになるのであります。
 <つづく>

688復興G:2012/05/22(火) 22:54:15 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <5>

      「生長の家」とわたし

「わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。諸方の読者から集まって来る多くの讃辞は、わたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。なかにはわたしを教祖あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない。わたしがまだこの世的な悩みをいく分でも持っているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。霊きたりてわたしを導く。弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。第二号の『生長の家の歌』のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわらで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。それは信じてよいかどうかは知らない。しかしもし『生長の家』に教祖というものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

「およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であるとを問わず、その源(みなもと)は霊界にあるのである。古来から神品(しんぴん)といい神徠(しんらい)といったのはこれである。われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合わさなければならぬであろう。それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。ここにわれらは不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。この訓練がたりないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」

 ところが埼玉県から霊眼によって、わたしが『生長の家』の原稿を書いている現場を透視した人があって、わたしが霊感によって書くということを客観的に証拠だてたひとがあります。それは埼玉県の笠原政好君であって、同君からは昭和六年一月一日付けでつぎのような報告が来ています。

「神想観を実修して、大虚無の境地に入っていた。ふと目に映じ出した、私の処から西南に当たる方向に先生の姿が髣髴(ほうふつ)として見える。実はまだ私は一度も先生のお顔を拝見したことはない。それが霊の性質かもしれないが、確実に見える。さっきから先生は広間の片隅で穆々(ぼくぼく)しく机に向かっておなじみのペンを持って何かお考えを書いている。姿勢よく坐し、しかとペンを握り十分に含ませたインク、あたりの光景は手に取るように見える。光明は先生の躯(からだ)から無限にも放出する。ちょっと弱そうな容貌、しかしその熱烈さ。『道』に奉ずるのご決心は一目瞭然である。生き生きしたペンはソロリソロリ走り出した。まだなん行とも書かぬうちに先生は無我のうちにおかれ、またたくまにペンのスピードは前とはまるで変わってくる。走る走るあらっと思う間もなくぜんぜん先生とは異(ちが)った人になっている。口元の締った、あご髯の胸まで垂れ下った、見るだに気高き霊人だ。あれ先生はどこにと、見詰めた。ああ先生は霊人の内に融け込んでいるのだ。霊人は全支配権を握り、わき目もふらず書を進めてゆく。あれなんという、推敲もせずそしてペンの早さは目も及ばぬほどだ。まあ不思議なこと一体どこから来た方だろう。霊人の神々しい霊光が放たれ付近は光明浄土と化した。静寂また静寂、付近はまだ霊人の占領地となっている。やがてペンははたと止み、霊人はどこかに姿を消してしまった。目的の文ができあがったらしい。後は先生の独坐と変わった。
 <つづく>

689復興G:2012/05/22(火) 22:55:10 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <6>

やれやれ重荷でもおりた様子。篭の鳥が放たれたように急にのんびりして今書き終った短文を精読している。精鋭な先生の視力はやたらに文字に引きずられてゆく。二回も三回も熟読してますます神秘の霊感に打たれている。『無理はない』渺漠(びょうばく)の領域に導かれるどころか独専霊人の書だ。数十分の間私は恍然(こうぜん)としてこの光景につりこまれて、ひたすら現象のなり行きを見つめていた。先生はこれを整理してまた他の目的に向かってお働きになられた。

付言、先月十四日にも神想観実修のおり、目に映ったことがあり、昨夜も同然御動静を拝し、当夜はまたこんな勝(すぐ)れた光景にまで出くわしました。政好は年若く、世の経験に乏しいものです。ですがすべてを政好の感性の所産と思召(おぼしめ)しくださるな。私は初めて自分の偉大さを知る。私は私の背後にもやはり常に私を操ってくださる方のいることを信ずる故に。頓首。(十二月三十日夜)

当夜ありました現象(ことがら)を記しておいて少しはせわしかったためにお送りできませんでした。ただ今自分ながらなんだか変な感じがします。いったいこんな事があったろうか。もしや先生に笑われはしないだろうか。しかし只事ではなかった、実際あったのだ。また気づいてご照会いたします。偶然こんなふうにできあがっていたのですから、なにとぞあしからず。(一月一日朝)」


 四、吾等は生命の糧は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

 愛は生み育てる力、癒(いや)す力であります。慈愛の心で少しも恐怖なしに神様の聖愛が必ずこの祈りを通じてはたらくと念じつつ、病人のために祈りますと、治るべき病気ならば癒えるのでありますし、子なき人も神様の大愛を信仰して「子をお授けください」と念ずれば子が授けられるのであります。例をあげればかつて生長の家の誌友で長尾初枝さんといわれる方があった。この人がまごころの愛の心で知人六名の子なき方に子を授かるように「子育て観音」に祈願なされますと、長きは十数年もえられなかった子宝をはじめとして、知人にいく人も子を授かられた実例があるのであります。これは長尾初枝さんの愛の祈りによりまして、観世音菩薩さまの愛のみ心が、子供を授かって愛したいという本人の母性愛に感応しまして、祈る人、与える愛、受ける人の三者の愛が揃うことになり、ここに医学などではどうすることもできない不妊の人に「生命」が宿って生まれて来るということになったのであります。これによりましても、愛は生み育てる力、癒す力であるということがわかるのでありますが、この愛も祈りという言葉の力がなかったら成就しなかったに相違ないのであります。黙祷でも言葉に出しての祈りでも、どちらもやはり言葉の力であります。

 日本惟神(かんながら)の道では「愛」ということを「むすび」というのであります。「むすび」というのは「縁むすび」などの「むすび」などと同じ意味でありまして、愛の結合をいうのであります。これを古くから日本では「産む霊」という字をあてはめてムスビと読ませてきたのであります。つまり愛は産む霊でありまして、愛が無ければ「生命」は産まれることも育つことも完全にできないのであります。

 かくのごとく愛は「生命」の生長に必要欠くべからざるものでありまして、生命界の現象は大生命の愛の花模様(マンダラ)であるということができるのであります。しかもこの大生命の愛が生きた肉体を備えて眼に見え手で触ることができるように現われて来ましたのが両親の愛であります。ご承知のとおり、有名なるリンカーンは米国大統領になったとき、「自分の今日ある、また将来あらんとするところすべてわが天使のごとき母のおかげである」といっているのです。また大発明家トーマス・エジソンも「自分をつくってくれたのは母の愛だ。母は心からわたしを愛してくれた。わたしはそんなにわたしを真心から愛してくれる母を失望させてはならないと思った。わたしが今日あるのは母を喜ばしたいという衝動に駆られたからであるといっても過言ではない」といっているのであります。
 <つづく>

690復興G:2012/05/22(火) 22:56:20 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <7>

 父の愛も母の愛に決して劣りませんが、言葉に出している機会が少ないために閑却されがちであります。父親はどうしても外の生活の戦いにいそしまねばならぬ時間が多いのでしんみりと愛を言葉に言いあらわしている余裕がないのであります。子供のことを思い、家族全体の幸福のために自分は外に出て、大黒様のように重い荷物を入れた袋をかついで苦痛を忍びながら生活道中をしているのであります。それが習慣になっていますから、うちへ帰ってもやはり苦痛を忍んでいるつづきのような顔をしていて言葉の上ではちょっとしたことにもイライラして叱り飛ばしたりすることが多いのであります。愛語をともなわない愛であるから愛をもちながらも愛の生かす力が完全に発揮せず、愛をもっていない父であり良人のように思われがちであります。世の中の父親である方に「生長の家」の生き方や、言葉の生かす力がわかってきますと本当に大黒様のように背中に重い荷物を背負いながらも、いつもニコニコして愛語を話しうることになるのであります。すると一番重荷を背負っている父親でさえ明るくなるのですからその家庭全体が明るく、和気藹々(あいあい)としてくるのでありまして、そこにおのずから地上天国そのもが実現してくるのは当然であります。

「生長の家」の智慧の言葉には「人を咎むべきことあれば、その人を咎めず、かえって賞むべき点をさがし出して賞めよ」という訓(おし)えがあります。愛がいかに深くとも、愛の心で批(う)つばかりで、讃嘆(ほめことば)がこれにともなわなければ、人間は善くなりにくいのであります。愛語(やさしきことば)も讃嘆(ほめことば)も「言葉の力」であって、善を造る力なのであります。わたしの聞いた話に、ある所に盗み癖のある子供がありましたが、どうしてもなおらないのでいよいよ感化院へまで入れねばならなくなりました。このいよいよのわが子の危急の時が来たので母親に不思議な知恵が出て来たのであります。その母親はその子供の盗みを責めていては盗みということを心に印象するばかりでいつまでもその盗癖はなおらないと気がついたのであります。それでその母親はその子供を叱ることをやめて、わざとその子の通る道にその頃の経済にとってはずいぶんの大金である二十六円おいう金を落しておきました。その子はそれを拾いましたが、あなりの大金なので使うことも能(よ)うせず、警察へとどけに行きますと、警察からは賞められる、学校からは賞められる、ついに人間が善き事をすることのいかに歓ばしいことであるかを知ってその盗みがなおったのであります。この善き話の裏には子供を救うために大金を捨てた母親の愛と善き事をわざと賞めるようにし向けた讃嘆の力とが働いているのであります。つまり相手を信じて善きことを捜し出して賞めるようにすれば誰でもその人の心のうちには神性が宿っていますから、この神性が言葉の力で目をさまして輝き出してくるのであります。

 旧貴族院議員なりし根津嘉一郎氏の実話によれば、氏は若い時分に悪所がよいをして手がつけられなかった。いつもお茶屋に入りびたっていて家へも帰らないのであります。しかしその父親が偉い人でありまして、ひとことも小言をいわないで、黙々として息子の代わりに商品の配達車を引いていられたのであります。その有様をふと往来で見た嘉一郎氏はまずその父の愛の深さに心をうたれましたが、お茶屋へ帰ってみると父から手紙が来ていたのであります。その手紙には「わしはお前を信じている。お前は心がしっかりした男だから結局はまちがいのない男だと信じている。身体(からだ)を大切にせよ」という意味のことが書いてありましたので、嘉一郎氏はこの父親の愛の深さに打たれてしまったのであります。氏は以来ふっつり悪所がよいを止めて、ついに貴族院議員になるほどに努力せられたのであります。

 さきの盗癖ある子供の母にしましても、根津嘉一郎氏の父にしましても、初めから子に対する愛をもっていられたのでありまして、子供が改心して行ないを改めるさいにのみ、愛の心が起こったのではありません。愛の心は前々から親にはあるのだけれども、それが賞讃の言葉となって表われ、信頼の言葉となって書かれるまでは、その生かす力が完全に発現しなかったのであります。だから「七つの光明宣言」第四条には生命の糧は愛であっても、祈りや愛語や讃嘆の言葉となって表われるまでは、本当にその生かす力が完全に発現しないということを宣言してあります。
 <つづく>

691復興G:2012/05/22(火) 22:57:11 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <8>

 五、吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。

 われわれは宗教上の言葉で「たましいの救い」という言葉を使いますが、救われるということは工場で営々とはたらき苦しんでいる職工を網ですくうようにすくい出して、楽にのらくら遊べるように遊里(ゆうり)のちまたに置くというような助けようではないのであります。「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性(ひとりびとりの特性)をもちながらも神または仏そのものなる大自在の境地――欲しいと思う事物(もの)はそこに現われ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境に達するということであります。

 この大自在境をわれわれは実相の世界においては今現にもっておるのでありますが、現象世界においてはしだいに開発されてくる可能性としてもっているのであります。われわれの「生長」とは実相の世界におけるこの大自在境を現象世界において一歩一歩その実現に近づかせることであります。われわれの内に潜んでいるところの無限大のこの可能性こそわれわれの実相なるところの真如または仏性であります。この真如または仏性は、これを発揮(ひら)けばコトバ(真言(しんごん))となり、名号(みょうごう)となり、念力(ねんりき)となり、真に驚くべき創造力を発現するのであります。日本神道(かんながらのみち)ではこれを言霊(ことだま)の力といい、息吹きにて病を癒し、祝詞(のりと)にて禍(わざわい)をはらい、和歌にて雨を降らしたりしますが、キリスト教では「万(よろず)の物すべて言葉にて造らる」(『ヨハネ伝』福音書第一章)といい、「なんじの信仰なんじを医(い)やせり」等々となって現われているのであります。また仏教では「声字(しょうじ)即実相」と説かれまして真言秘密加持法によって神通をあらわし、称名(しょうみょう)念仏と申しまして、阿弥陀仏の名号(みょうごう)を唯となえるだけで驚くべき功徳をあらわし、「生長の家」では「聖典の読誦(とくじゅ)」といって、本書のごとき真理の書かれている言葉を読むだけで難病が治ったりするのであります。こんなことがなぜできるかといいますと、宇宙のいっさい事物はリズムすなわち言葉(近代の科学的術語を使えば波動)でできているからであります。「生長の家」では必ずしも耳に聞こえなくともエーテル波動(ラジオ等)でも思念波動でもすべて波動を指して、コトバというのでありますがわれわれの実践生活のうえでは思念と発声音と表情とが最も重要な、善かれ悪(あ)しかれわれわれの運命を左右するコトバになっているのであります。
 <つづく>

692復興G:2012/05/22(火) 22:57:58 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <9>

 六、吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。

 そこでわれわれは思念と発声音と表情とを実生活の上にいかに応用するかが切実な問題となってくるのであります。われわれは、自分の言葉の使い方一つで、心の持ちよう一つで、表情一つで、今まで暗く不幸であった日常生活が明るくもなれば幸福にもなり、今まで病弱であった身体(からだ)が健康にもなれば、常人以上の精力を発揮することができるようにもなり、衰えていた運命の開拓も徐々に意のままになって来るのであります。(ここに徐々にと申しますのは時間を超越せる心の世界ではコトバと同時に、いっさいが成就しますが、現象の世界における事物の成就は植物の種子(たね)の発芽や生長と同じように時間という要素が要るからであります。)こうしてわれわれが心の持ち方と言葉と表情とでわれわれの生活を正しく「生長の本道」に乗せるとき、人生苦が一つ一つ解決していって苦痛がなくなるという事実等を考えますときには、あらゆる人間の「生命」の生長に必ずしも苦痛が必要なのではないことがわかるのであります。われわれに与えられている人生苦には何かわれわれの生活にどこかあたり前でないところ、すなわち生長の本道に乗っていないところがある・・そのあたり前でないところを気づかせてくださるために現わされているものであるということがあるのであります。(ただしある「生命」が急速度に進化をとげるために特に病弱な肉体に宿って来た場合は別でこれはまた別に説明します。)これを肉体に譬(たと)えてみますと、身体(からだ)のどこかが痛いのはその痛みのある所に何かあたり前でないところがある。それを気づかずに放(ほう)っておいては危い、そこで早く手当をするように生命から痛みというもので警告せられているようなものであります。そこでわれわれが身体(からだ)の傷口や病所に手当てをすればやがて痛みがなくなりますのと同じように、病気や貧乏や煩悶のある人もその生活の「生長の本道」にはずれている所を直しますと、こつねんまたは徐々に、その人の病気や不運や煩悶がなくなってしまうのであります。だから人類から人生苦をなくするにはどうしても広く人類に「生長の本道」に乗った生活を知らさねばならない。これを広く知らすことは何よりも刻下の急務である。そこでわれわれは善き言葉の雑誌『生長の家』を現在も連続発行させていただいているわけであります。最初の『生命の實相』は同誌に約五年にわたって連載されたものを系統立て、秩序立てて一冊でだいたい「生長の本道に乗った生き方」すなわち苦しみという警告を与えられないでいながら「生命」の伸び伸びと生長できる生き方を知りうるように編纂したものでありました。で、本書にのっている生活法や言葉の力の威力はすでに実証ずみであります。じっさい本書にのっている記事は雑誌『生長の家』にのっている当時、ただ読んでくださるだけで神経衰弱のなおった人や、暗い性格が明るくなった人や、ひっこみ思案であった人が前途に光をみとめて大活動家となった例が頻々(ひんぴん)と報告されて来、中には肺病がなおり、胃癌までもなおった人が出て来ていますので、この雑誌を書いたのは谷口のような貧しき知恵者ではない、いっそう高き存在から書かされておるのだと皆々感じていまさら驚き「雑誌」と称せず、誰いうとなく「神誌(しんし)」と称するにいたったわけであります。

 こんなわけで『生長の家』を月々発行して言葉によってこの世を浄め、人生を住みよくし世界の家庭家庭を明るくし、個人個人を幸福にすることは生長の家の主要な事業の一つであります。それは今後皆さんが「心の法則」を深く研究して行かれるに従ってしだいに明瞭になって来ますが、先刻もちょっと言及しましたようにこの世界は言葉の力によってささえられているからであります。ご参考までに東西の経典から言葉の力に関したものを手あたりしだいに抜き書きしてみましょう。
 <つづく>

693復興G:2012/05/22(火) 22:58:39 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <10>

神光あれと言いたまいければ光ありき。(『創世記』第一章)

太初(はじめ)に道(ことば)あり、道(ことば)は神と偕(とも)にあり、道(ことば)は神なりき。万(よろず)のものこれに由(よ)りて成り、成りたるものに一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。(『ヨハネ伝』福音書第一章)

人の生くるはパンのみによるにあらず神の口より出(い)ずるすべての言葉によると録(しる)されたり。(『マタイ伝』福音書第四章)

それ如来の説法は必ず文字による。内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声(ことば)というなり。響きは必ず声(ことば)による。声(ことば)はすなわち響きの本(もと)なり。声(ことば)発してむなしからず、必ず物の名をあらわすを号して字というなり。名は必ず体(たい)を招く、これを実相と名づく。……声字(ことば)には必ず実相を有し実相には必ず声字(ことば)を有す。互いに能所(のうしょ)たり。(真言宗経典『声字(しょうじ)実相義』)

天地(あめつち)のはじめの時大宇宙(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は天之御中主之御言(あめのみなかぬしのみこと)(『古事記』)(成る、鳴る、語源同じ)

言葉は肉体となりてわれらの中(うち)に宿りたまえり。(『ヨハネ伝』福音書第一章)

 かくのごとく、東西の経典は筆をそろえて、言葉に生命(いのち)あり、言葉は必ず体(たい)を招き、言葉はわれらに宿って肉体となることを説いているのであります。古(いにし)えわれわれ日本人が互いにみこと(みは美称、ことは言(こと))と呼び、互いを神として敬し合ったのはこのためでありました。「生長の家」は、この点において神代(かみよの)日本に還るべきであることを提言するのであります。われらはなんであるよりもまず言葉すなわち神の子である。これはじつに否定できない。言葉によってわれらは清くもなれば醜くもなり、幸福にもなれば不幸にもなるのであります。皆さんは毎朝歯ブラシで歯を磨かれるでありましょう。では歯よりも大切な心があることを自覚せられねばなりません。毎朝歯を磨くのにこの大切な心を磨かないのは不合理であります。では、心はなにをもって磨くべきでありましょうか。それは言葉によってであります。皆さんもし朝起きるとひと声「ばかやろう」と家族を叱咤したならば、その日いちにち不愉快なことを自覚せねばならないでありましょう。それは言葉が悪いからであります。われわれが、自己の人生を幸福にし、家庭を明るくし、環境を良化し、運命を改善しようと思うならば、毎日すくなくとも二、三回はそのために作られたる善き、明るき言葉で心を浄め磨かなければならないのであります。それは実際われわれにとって食事をとるよりもなお絶対に必要なことであります。それは心の食事であります。心に善き言葉を食して心を幸福にすれば、肉体は健康化し、運命は良化するのであります。この目的のために、本書および月刊雑誌『生長の家』は生まれたのであります。世界はいま、恐ろしい生存競争と階級闘争との渦の中に転回しています。皆さんは自覚せられないかもしれませんが、われわれがこの争いの世界に住んでいる以上、悩める人類の頭脳から放射される呪詛(じゅそ)、嫉妬、憎悪等の恐ろしい精神波動は、われわれの心に感応して諸君の心をかき乱さずにはいないのであります。よくあることですが、たいした理由もないのに腹立たしく、焦々(いらいら)しく不快でたまらない気分になったり、なんの理由もなく気分がムシャクシャしてきて悲しく不幸に感じられることがありましょう。これは実に、他から放送された不快な感情波動を自己の頭脳に受信しているからであります。思考感情は一つのラジオ波のような波動であって、われわれの頭脳がそれに感じやすい受信機であることを人類は知る時が来るでありましょう。じっさい、われわれはこの恐ろしい呪いの、悩みの、悲哀の感情波動を防ぎとめる方法を講じなくてはならぬところの緊急な必要にせまられているのです。多くの富める家庭が不幸であり、病人が絶えないのはなぜであるか。それは貧しき人々から発せられた呪いの感情波動の支配下にあるからであります。
 <つづく>

694復興G:2012/05/22(火) 22:59:28 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <11>

皆さんはブランコに乗って見られたことがありましょう。同じ小さい力でも、それが加わる回数が重なるにつれて大きく揺れて来るのであります。しかし大きく揺れて来ない前に、またぜんぜん静止させてから揺るならば、そのブランコは永遠に大きく揺れて来ないのであります。われわれはこの原理を利用すべきであります。呪いや、悲哀や、憎悪の感情波動がわれわれの頭脳に感応してわえわれをいく分不快にしたときには、われわれはさっそくこの全集または『生長の家』誌を開いてそこに書かれている善き言葉を読めばよいのであります。揺れかかっていたわれわれの感情のブランコはたちまち平静に立ちかえる。われわれの感情波動の波長が、もうその呪いの感情波動に合わなくなります。こうしてわれわれの感情は再び愛と平和と幸福にみたされて幸福生活を築く基礎ができるのであります。毎日このことを繰り返せば毎日愛と平和と幸福に心が充たされる。これは幸福をもとめる人の毎日繰り返さなくてはならない必須のことであります。一回きりで読んで止めてしまうようでは、せっかく善い方向に振れかかったブランコも停まってしまうように、諸君の運命の良化も停止してしまうのであります。「精読八回自分は境遇を一変した」と一読者はいったがそこに真理がふくまれているのであります。ドシャ降りも一回では石に穴を穿つことができないが、繰り返すとき点滴よく運命の石を穿つのです。自分はこの意味においてこの全集が繰り返し読まれることを希望します。朝起きた時、眠りに入る前、電車や汽車の中の暇な時間に、またお昼の休憩時間やこれから誰かに面会に行こうとする前に、この『生命の實相』の一ページがどんなに諸君の運命を幸福にするでありましょう。しかし言葉はそれに慣れて来るとき新しく心を打つ力を失うのであります。わたしはこの意味において、『生長の家』を毎日毎日新しく書いて皆さんの座右(ざう)に届けたいのであります。けれども時間の関係もあり現在新しい言葉の力としては、『生長の家』『白鳩』『理想世界』『理想世界ジュニア版』『光の泉』『精神科学』や、英語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語の〝生長の家〟が出ています。せめていずれか毎日一回は読んでください。これが諸君の運命の石を穿つ点滴であります。だからぜひとも毎日一回は光明思想の本を開いてください。本書に飽きてきたら右の諸雑誌を読んでください。いずれにせよ、繰り返し繰り返し読んでください。やがて諸君の思考が根本的にあらたまる時が来ます。それが徐々であろうとも、あるいは急激であろうとも、その時諸君の運命も根本的にあらたまり、病は癒され、境遇は改まり、欲する事物が自由自在に集まる境地になられるに違いないのであります。

 本節の最後にぜひとも申し上げておかなければならないことは、荏苒(じんぜん)長びいていた病人がこの真理をお読みになっているうちに、その慢性的症状が急性的症状に変じてきたり、病状がかえって増悪したような観を呈することが往々あることです。それはそれは酸に対してアルカリを投入すれば一時沸騰現象を起こして激しい動揺をあらわすけれども、やがてその沸騰現象は止んで酸が中和されてしまうのと同じで、病人の心の内にわだかまっていた迷いが、真理の言葉を投入されるので沸騰現象を起こすのですから、その時期が通過すれば、迷いは完全に真理によって中和され、ここに根本的にスガスガしい心的状態に達し、したがって肉体の方も、めきめき健康が回復してくるのでありますから、この精神的化学反応の起こったさいに、迷わず恐れず、いよいよ多年の宿痾(しゅくあ)の治るべき前提(まえぶれ)が来たということを自覚して『生命の實相』の読誦(とくじゅ)を自身がお続けになるか、自身で読む気力がなければ、看護者に読んでおもらいになれば、完全に病気を征服しうる時期に達せられるのであります。なお、病人に読んで聞かせれば、ふつうは病人の心が真の平和に達して眠ってしまうものでありますが、そういう場合には『生命の實相』を読むことを中止せず病人の眠ってからも一時間ぐらいも読んで聞かせてあげると、人間には眠っていても眠らない心があるので、この眠らない心こそ、眠っている間にもその人の呼吸や血液循環やその他すべての生理作用を司どっている心でありますから、この心が真理を知ることになり、覚醒中に読むにもまして効果をあげることができます。なお幼児は読んで聴かせても意味を解しないで駄目だろうと思われるかもしれませんが、解って読む人の念波が感応するのですから、幼児に読みきかせても驚くような効果を顕わします。
 <つづく>

695復興G:2012/05/22(火) 23:04:04 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <12>

 七、吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に実現せんが為に実際運動を起す。

 そもそも「生長の家」は机上の空論を書籍に書いて、それを売る商売ではありませんから自己の生活を善くするとともに、しだいに具体的に社会的にも救いの方法を実現して行かなければならないのであります。救いの方法の一つとしましては、病気の場合には「生長の家」の家族はメタフィジカル・ヒーリングの原理により神想観いたしまして、高価な医療を要せずして病気を治療することができ、相愛協力の実をあげることができるのでありますが、病気治しばかりが地上天国建設の方法でもありませんし、またいかなる霊妙な治療法も、ただそれだけで万病を癒すということはできないのであります。時には、あらゆる病気をたちどころに治しうるようにいう心霊治療家がありますが、それはただ誇大的にその効能を吹聴するのであります。病気の原因はこれを時間的に縦に観察しますならば、その人一代につくった原因もあれば、数代否数十代前からつくられて代々子々孫々につたえられて来た原因もあるのであります。キリスト教ではこれを「原罪」と申しまして遠くアダムとイブとの造った罪までも数えているのであります。仏教ではこれを業(ごう)と申しまして、一たびわれわれが作りました業は因縁にしたがって車の輪のようにぐるぐるまわってなかなか果てしなく流転(るてん)するものだと説いているのであります。この仏教で説きます業の流転説は、近代の霊界通信の科学的な実験と観察とによって、その真実が確証されてきているのでありまして、過去世において悪業を作った人間の霊魂が苦行によって罪の消滅をはかるために、ことさら不治的悪疾を肉体にあらわしている場合も多いのであります。かくのごとき霊魂は肉体の精神では病気を治したい治したいと思いながらも、霊魂そのものはその不具とか不治の悪疾とかになって苦しむことによって過去世の罪の浄まることを喜んでいるのであります。これはその人に潜在する霊魂の病気になりたい意志のあらわれであって、聖フランシスの聖痕(せいこん)と同じことであります。かくのごとき病気は宿業的に来るのでありますから、なかなか治りにくいのであります。これを治す唯一の道は「罪は本来ない。生命は神であるから苦行しなくともそのままで完全であり円相である」という真理を、その人の奥底にあるたましいに自覚せしめるほかはないのでありまして、その人の奥底のたましいがこの真理をいかほどまでに受け容れるかによって、その不治的悪疾の治ると否とが決するのであります。

 これを横に空間的に観察いたしますならば、人は環境によっても病気を起こすのであります。家庭の不和でヒステリーや神経衰弱や胃病などがおこるのは、皆さんすでにご承知のとおりでありますが、欧州大戦当時などにはずいぶん奇妙な病気が起こったのであります。これは精神分析(サイコアナリシス)の領域に属するものでありますが、ドイツ、オーストリアの兵隊たちが国家の権力によって徴発され、無意識的にもせよまた有意識的にもせよ戦争をはなはだしく嫌っている時に、イザ戦地に赴いて砲煙弾雨に直面して、眼が急に見えなくなるとか、耳が急に聞こえなくなるとか、手足が急に利かなくなるとか、すなわち一種の神経病的症状を呈するにいたるものがかくさんできたのであります。しかもそれが決してある意味での仮病(けびょう)ではないのでありまして、本人の表面の心にハッキリ意識されないで生じて来るのであります。つまり、これは「生長の家」で常に申しますところの奥底に潜んでいて自覚にはあらわれていないところの心が仕業(しわざ)をしたのでありまして、そういう病気に本人をかかれせておけば、出たくない戦争場裡に出なくともすむという「隠れたる心」のはからいでこうなったのであります。ところがこのさい効果をあらわした第一の治療法は銃口を本人に擬してその生命をおびやかすような威嚇を加えると、その兵隊たちは思わず声をあげるとか、前へ進むとかして勇気を振い起こし、これでただちに神経症状が消失してしまったのであります。戦場よりも危険な死刑に処せられるくらいならば、戦場へ出た方がまだ安全だというので、本人の「隠れたる心」が、今までかからせていた病気を治してしまったのであります。
 <つづく>

696復興G:2012/05/22(火) 23:07:53 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <13>

 ところがこの擬殺(ぎさつ)療法によってまず平癒した神経病的症状も、さらに本人を駆り立てて無理おしにも戦争をやらせると、こんどはさらに、前よりもいっそう悪い症状が生じて来ました。それは身体(からだ)が衰弱して消極的に食事がとれなくなるとか、囈言(うわごと)をいうとか、或いはぜんぜん死んだもののように昏睡状態になってきたのであります。これでは単なるヒステリー患者ではなく、医者に名前をつけさせれば早発性痴呆症の最もすすんだ症状といわねばならぬのでありまして、在来の医学では決して治療法がないのであります。死んだように昏睡状態になっている者に対して鉄砲の筒先を擬(ぎ)して威(おど)すわけにもゆかないのであります。

 われわれの存在の奥底に隠れている心はなかなか巧みな工夫をするものでありまして、とうとうこの方法によって戦場へ出たくない希望をどこまでも押しとおして満足することができたのであります。ところが戦争が終結して、もはや病気になっている必要がなくなってきますと、多勢のこの種の病気がケロリと治ってしまったのであります。

 以上は病気の話でありますが、人生のその他の不幸もまた同じような関係から起こるので、これは本書を読んでいられるうちにだんだんわかってまいります。人間の生命は縦には過去世の因果関係から、横には環境に対する自衛手段として、いろいろの病気や不幸をつくって、それによって、病気そのものや不幸そのものを一種の手段として生命の自由すなわち救いをもとめているものであります。ですから、将来この世界に病気その他の不幸をなくするには、縦には、未来世に病気、その他の不幸の芽を出す業因(たね)を蒔かない工夫をしなければならない。すなわち罪を犯さないでもこの世に生きられる工夫をしなければならないのであります。横には現在われわれが接触する環境を浄めて、「生命」が苦痛や病気という手段を使って自衛を講ずる必要のない天国浄土のような環境をつくるようにしなければならないのであります。ところがこの環境というものが一方においては自身の念(こころ)の影なれども、同時にまた念は環境の影であって、二つ向い合わせた鏡のように環境と念とは互いに影響しあうものであります。毅然とした強い念は環境の方を征服しますが、弱い、発達の程度の低い念(こころ)は環境に征服せられるのであります。

 人間の念(こころ)は幼ければ幼いほど、まだ一定の習慣性を備えていませんから、善い方へでも悪い方へでも環境に感化せられやすいのであります。これを悪い環境のうちに放(ほ)っておけば不良少年少女となるべき者も、幼いときから生長の家式に、愛と信と讃嘆との環境において感化を受け、事物の明るい方面に心が向くようになっていれば、彼らのたましいは健やかに伸び伸びと発達しまして、ひねくれた厭味(いやみ)な性格や、人を苦しめることで自分の快感や利益をえようとするような卑劣な性格は影を潜め、これらの少年少女が成長して社会の中堅となって行くころには、人類がこの世界でつくる悪業もよほど減ってゆき、地上に天国建設の理想実現にだんだん近づいてくるに相違ないのであります。
 <つづく>

697復興G:2012/05/22(火) 23:08:31 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <14>

 生長の家が、聖典の實相篇、光明篇、生命篇、觀行篇等によって人間の肉体を健康化する道を説き、「生長の家の生き方」によって生活を光明化する方法を指導するほか、さらに「生長の家の教育法」によって人間を若芽のうちから、その神性を発揮せしめ、天才を伸ばさしめようとしているのは、地上の天国建設を子供の生長とともに生長せしめたいと念願しているからであります。存在(ものみな)の実相を円満完全なりと認むるこの「生長の家」の人生観と、生活法(生長の家の生き方)と、児童教育法(生長の家の教育法)とが全世界を風靡するようになれば、その時こそ地上天国の成就せるときであります。そのときにはメタフィジカル・ヒーリングによってこの世に病なく「生長の家の生き方」によってこの世に苦悩なく、「生長の家の教育法」によってすべての人間はその子供の時から神性の発達を妨げられないで、皆そのもって生まれた天才を発揮することになるのであります。

 こんな世界がいつ来るかは初期に「生長の家」に集まってくださった熱心な同志または誌友の尽力にまつところが多いのであります。しかし何事も生長は徐々でありますから今はその第一歩からはじめてゆかねばなりません。「生長の家」で最初に天国建設事業として手を出そうとするのは、やはり正しい人生観と、正しい生活法と、正しい教育法とを出版物によって人類に知らせることであります。本書が出版されたのも、地上天国建設事業の一端でありますが、この人生観、生活法、教育法を実地に教える学校のようなものも、「生長の家」の誌友たちによって生まれて来るに相違ないのであります。すでにその芽生えは所々(しょしょ)に生えかかっています。ああ、人生はなんという喜ばしさだ! わたしは諸君とともに手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。

○われらはやがて「心」というものが使い方によれば非常な強壮剤となり、薬用葡萄酒にもまさる興奮剤ともなるのであって、われらの「心」を正しく活きるときは、心それ自体が栄養剤とも若返り薬ともなって物質的薬剤は決して要らぬものだということを知る時代が到達するにちがいないのである。これは心を正しく活かすこと、心を調和せしめて少しも摩擦の起こらない状態におくこと、明るい思想、深切な思想、愛の思想を常に心に充たしておくだけでよいのである。光の満つるところに闇は存在しえないと同じように、かくのごとき生命と光明と愛との思想を心に充ち満ちさせるとき、その反対のものはすべて破砕され、滅ぼされて存在することができないのである。一日中生活のために労苦し焦慮した心のみだれも、就寝前十分間の「神想観」の修行によって神の愛と生命と光明とを心にみたせば苦慮の雲霧(うんむ)たちまち消散して新しい明日の活力がめぐまれる。これ自性円満(じしょうえんまん)の生命の実相が自覚されるからである。
 <『生命の實相』第一巻「總説篇」 完>

698復興G:2012/05/22(火) 23:09:32 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <1>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

あなたの中に太陽が昇る

 K やあやあ遅くなりました。きょうは午前中ある後輩が弁理士の事務所開きをするので、その潔めのお祭りをしてくれというので行って来たんですよ。神職の方にたのめばいいといったら、神職の方は職業上、形式ばかりのことをするような気がする、それより素人でも心のこもった祭りの方がというので、行って来たんだけれどね。

 日本人は本来、家を建ててもそれは自分の家を建てるんじゃなく、神さまの宮を建てて、神の宮に住まわせていただくんだという気持だったんですね。だから入口にしめなわを張って、おまつりをするんですよ。

 食事だって、天照大御神の御いのちをいただく神事であるし、寝るのだって、単に疲れたから寝るというのじゃなくて、マドコオウフスマに入ってお籠りをする神事なんです。すべてこれ顕斎ですよ。

 O すばらしい話ですね。住吉大神の顕斎ということは、他人事(ひとごと)ではなく、私たちのいのちのことなんだということですね。

 K そう。顕斎(まつり)というのはね、まずみそぎをしますが、これは霊注(みそそぎ)ぎで、神さまが霊止(ひと)にお生れになるというのが、まつりの根本的意義なんですよ。

 天照大御神が天皇さまにお生れになるというのが御即位のときの大嘗祭(だいじょうさい)、そして毎年十一月二十三日の新嘗祭(にいなめさい)です。その新嘗祭の前の日である十一月二十二日に、天照大御神の前の霊(ひ)である住吉大神が、谷口雅春先生をはじめとして、われわれ信徒一人一人に御誕生になるんですよ。ですから大変なことであるわけです。谷口雅春先生の御誕生日が十一月二十二日だということは偶然じゃない、宇宙的な大経綸が秘められているという気がしますね。

 O たいへんなことですねえ。

 K 一般に知られている祭りというのは、神さまがここに人のいのちとして生れて、何とありがたいことか、嬉しくて楽しくてたまらないというのが神楽となり、舞となり、踊りとなり、とそういった神遊びで、氏子の地域一帯を神のいのちで充満させるためにお神輿(みこし)をかついでねり歩いたり、神船に乗ってお渡りになるとか、山車(だし)を引いて舞うとかするわけです。

 その、神さまがお生れになって、なんとありがたいことか、たのしいことかという「神遊び」の行事だけが、一般のお祭りとなって残っているわけですが、本当はその前に禊という「幽斎」がある。ところが顕斎だけに世の中の人の眼が向いているので、現在の神道界では、幽斎に向けて熱心になっているんです。生長の家はもともと顕幽一如、幽斎即顕斎だったのですが、今までどちらかといえば「祈ればいい」という幽斎の方が強かったので、今、神さまを形に顕わして行く顕斎の方に向いて来たんですね。

 で「顕斎」というのはお宮を建てて神事を行うということも一つですが、同時に生活の一つ一つに神さまを顕わして行く、生活のすべてを「神遊び」にするということなんですね。

 O うれしくなってきますね。食事も、睡眠さえもが神の祭りであるというのは……

   生活のすべてが「神遊び」である

 K そう、われわれが何の気なしに毎日寝んでいる寝床も、これは日々新生するための神聖な真床追衾(まどこおうふすま)ですよ。寝床に入ることは、いったん今までの自分は死んで、また神のいのちを宿して新たに生まれる、「籠り」の行事なんです。それは人間の誕生だって、胎内に宿ってから十ヵ月のお籠りの期間があるでしょう。それは熟成の期間なんです。紙だって、機械から出て来たナマの紙をすぐ印刷にかけると、あまりかんばしくない。お習字に使う紙だって、半年か一年ねかせておくといいんです。それは何でもそうです、アイディアだってしばらくねかせておくと熟成してくる。神想観していったん死に切って寝むと、またお籠りの期間を経て、「只今誕生」と、新しいいのちが生れてくる、というのが、われわれが日常、寝床に入り、朝起きるという行事なんですね。こういう神事を、日本人はずっとやってきたんですよ。
 <つづく>

699復興G:2012/05/22(火) 23:10:28 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <2>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

    食事は人類共通の顕斎

 食事をいただくのも、これは「大調和の神示」以前に、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」という神示で教えられている通り、たいへんなお祭りですよ。日本古来の言葉でいえば、「贄(にえ)の祭り」または「饗(あえ)の祭り」と言いますが、食事が祭りだというのは日本だけのことじゃないんです。

 われわれ、人類光明化運動と言いますが、その人類共通の祭りは何かといったら、食事ですよ。それから音楽ですね。アイヌの熊祭りというのも、食事によって神と一体になる祭りだし、ヨーロッパでも、ゲルマンをはじめいろんな諸民族で、キリスト教のために自分の民族にうけつがれてきた祭りが抹殺されて今は稀薄になっているけれども、諸民族の祭りの根源をたどって行くと、全部神さまと一体になる、食事によって神さまのいのちをいただいて生れ変るというのが、全人類共通の祭り、全人類共通の顕斎なんですよ。

 その全人類共通の顕斎が、日本に、最も純粋に深く伝えられてきているんです。そのいちばんいいサンプルが、天皇さまのお祭り(大嘗祭・新嘗祭)なんです。そこに、日本の世界的使命というものが感じられるんです。

 だから、現在意識ではそのことをみんな忘れていても、日中条約を結ぶとかなんとか、しち面倒くさい外交交渉なんかの前には、必ず食事の宴がはられるでしょ。それは、全人類共通の顕斎は食事であるということが、深い潜在意識の底にあるからですよ。だからいっしょに一つのテーブルについて飲食を共にするという食事の席では、ケンカをしないでしょう。

 ヨーロッパ人などが未開民族のところへはいって行っても、まず、持っているものを交換したり、いっしょに食事をしたり、というところからやって行くと、警戒心を解いてしまう。

 全く言語も、歴史、伝統、風俗習慣もちがう者同士が会ってもね、一つテーブルについて飲食を共にする行事でもって、お互い一ついのちに生かされているんですよという、つながりを思い出させている……

 O おもしろいですね。

 K だから、世界の、コトバもちがい風俗習慣もちがういろんな諸民族が、長崎の住吉本宮に参拝に来ても、全然不自然なことはないんです。
 <つづく>

700復興G:2012/05/22(火) 23:11:13 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <3>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   神のいのちが顕われると

 E 木間さんの「祭りの形と心」には、日本の古代の村の長老というような人は、いつも神に祈り神と対話することが日常の会話のようになっていたということが書かれていましたね。なにか、それが現代にも行なわれる時が来ているんだなあと、顕斎の時代の意味するものが迫って来るような気がします。すべての人に、それがいのちの底からよみがえってくる……

 K 幽斎・顕斎というのがこう一致してくると、私なるものがかわって来るんですね。生れかわりが行なわれるというか、自我をスパッと死に切って行くと、いろいろと具体的に変化が顕われてきます。

 私は最近、自然にたばこを喫(の)まなくなったんです。たばこをやめようと考えたこともなかったんだけど……実は私は戦時中、戦地に行ったとき、ある先輩が、「君はこれから大勢の部下を持つようになるんだから、兵隊の気持をわかるためには、たばこを喫め。たばこの味がわからなければ兵隊の気持もわからないよ」と言われたんです。当時は、「上官の命令は朕(天皇陛下)が命令と心得よ」ということだったので、私はその先輩の命令のような言葉を忠実に守って三十数年たばこを吸いつづけてきて、やめる気は全然なかった。それはあの、小野田少尉が上官の命令を忠実に守って、上官が命令を解除するというまでフィリピンのミンダナオ島のジャングルから出て来なかったのと同じだなと思ったんですがね。ところが、「顕斎」について書いているうちに、私自身が非常に変ってきて、私の体の中からたばこなるものがフワフワ、フワフワと抜け出して行って、私とたばことがずれてしまったような感じなんですね。そうして全然たばこを吸わなくなってしまった。

 それから、二十何年もつれそった、四十幾歳の家内が、非常にかわいくなって……(笑)

 E いやあ、すばらしいですね。

 F 私も、最近変ってきたんです。子供を見ていて、嬉しくてしようがないんです。女房を見ても、以前は子供の教育のしかたが不満で小言を言ったりしていたりしたんですが、それが全然なくなって、ただ嬉しい。庭の草花を見ても、ひじょうに嬉しい。何が嬉しいというのでもなく……あらゆるものが神なんですね。

 E なるほど。自分の奥さんを神さまと観て拝むことも顕斎ですよね。

 すべての人に、いのちの底から、そういう甦りが起ってくる。それは、生長の家に入っているとかいないとかの形の問題ではなく、空気も水も火も、花も草も木も甦ってしまう。

 F 住吉大神の“顕斎の気” が、大気の中に満ちてきて、それに包まれたというようなことなんでしょうか。

 O これは本当に、おどろくべきことだな。こうして人類全体が、なんとなくお互い同士いとおしくなり、なつかしくなって来るとしたら……どんなことになって行くんでしょうね。
 <つづく>

701復興G:2012/05/22(火) 23:11:50 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <4>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   住吉大神、宇宙を浄めたまう

 F 住吉大神は、古事記神話では、天照大御神がお生れになる前、イザナミの命のみそぎはらいの完成のときにお生れになった神さまですが、それは地上の人間ばかりでなしに、神々をも、一切を浄化される。住吉大神は浄化の神で、浄化とは秩序を正すということである。中心を中心として、中心に帰一した神々の世界がだから、神界においても浄化が行なわれる、つまり住吉大神が住吉大神として正しく祭られることによって、天照大御神以後の神々がみんな秩序あらしめられて、その御働きを及ぼされる。そうすると、八百万の神々、日本のいたるところ、津々浦々にある神社の神々も復活するんですね。生長の家は万教帰一で、一切の宗教を生かし、すべての教祖のいのちを現代に生かしてきた。聖書のコトバが生活に生きてきたとか、法華経の本当の意味がわかったとか……それは教えの復活、神々の復活ですね。

 E 万教帰一というのは、すべての教えが一つに帰るという意味がありますが、顕斎ということからいうと、つまり実相の側からいうと、すべての教えは一つから展開しているという宇宙の創造のすがたをいい表わした真理のコトバだと思います。そうして私たちは、その中心なる天照大御神のふところに抱かれて私たちのいのちがあるんですから、すべては自分のいのちの展開であると言える。

   自分の中に宇宙がある

 ぼくはね、以前はベートーヴェンの音楽をきいても、バッハの音楽をきいても、「これはベートーヴェンという人の体験した、ある生命体験を描写したものだ」あるいは「バッハの世界を表現したのもだ」と思っていました。それは他人事(ひとごと)だったんです。そして、ベートーヴェンの能力に嫉妬心を起していたんです。ところが、そうではなかった。これは、ベートーヴェンが、ぼくのいのちをまつってくれて、ぼくのいのちをたたえて、こうして顕斎してくれているんだ、という気持になってきたんです。ベートーヴェンが他人事じゃなくなったんですね。こういった大天才たちが自分のいのちの延長として出て来て、自分のいのちをたたえてくれている、という感じになってきたんです。そしたらもう、うれしくてうれしくて……

 O ベートーヴェンが自分のいのちの延長……すばらしい。

 E ぼくはね、住吉大神が宇宙浄化をされるというのは、浄化とは秩序だてること、秩序の回復だとおっしゃる、それはどういうふうに秩序づけるかというと、まず、自分のいのちの中に宇宙があると自覚して、自分が自覚的に宇宙にひろがって、宇宙というものを自分のいのちの中に秩序づけるということではないかと思っているんです。

 木間さんは、「祭りの形と心」(本誌七月号)の中で、時間・空間の発する一点、その一点を透過したすみ切りの妙境ということをお書きになっていますね。そこのところに尊師のいのちがあり、そこから尊師のおコトバが発せられて来ているんですね。そこは大調和にすみ切った世界ですね。私はそこを“聖なる今”と言ってもよいと思うんです。そこから「大調和の神示」が鳴り出している。その大調和の神示に、“汝が天地一切のものと和解したとき、そこに吾れは顕われる”と書かれていますが、ここに顕斎の道が示されているんですね。
 <つづく>

702復興G:2012/05/22(火) 23:12:29 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <5>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   神に無条件降伏して

 三月一日の立教記念日の祝賀式での谷口雅春先生のお話に、神に無条件降伏して天地一切のものと和解する、ここに住吉世界をもちきたす極意があると言われました。神に無条件降伏したとき、“もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにあって生くるなり”で、もはや、そこに神が生きていられる、神が顕われているんですね。

 神が顕われるとは、ある限られた、五官とか六感とかの感覚にふれるような限定されたすがたでとらえられるということではなく、実に全相をもってわがいのちと合一するということ。顕斎的にいうと――つまり、神の側からいうと、神がわが姿となって顕われるということですね。“人間神の子”から“神の子人間”への自覚だ。

 K 「神の子人間」の自覚から顛落して、実相の側に立たないで現象の側から自分を中心に教えを受けとって、「俺は今までこういう功績をあげた」とかね、あたかも自分が自分の力で光明化したような、とんでもない不遜の気を起すことがある。それで谷口先生は今、「顕斎」ということを言われるようになったと思うんです。人間が人間を指導したり、育成したりすることはできないと思うんですよ。神様のおはたらきで光明化ということは行われるんですねえ。

 だから、いろいろ奇蹟的なことが起きたりすると、癒された本人よりも、指導にたずさわったこちらの方がありがたくなるんですね。

 E 「吾が業は吾が為すにあらず」ですね。

 K そう。それでその時は、ただありがたいという素晴しい感動なんだけれども、しばらくたつと、「あれは俺が指導したんだ」とか、「自分が救ってやった」「自分が成績を上げた」と、そういった意識が残る……。

 本当は、バイブルの言葉じゃないけど、自分の力で身長一センチ伸ばせるわけじゃない。自分がしているわけじゃない、全部神様のおはたらきでしょ。それを、自分が何をしたというような功をほこる意識が残る、そんな未熟な、救いがたい、ニセモノの自分を去って、本来の神の子の姿にかえらしめ給え――と、そこで自分が死ぬわけだ。そういうことでないと、神のみもとへ行けない、ぼくは神想観できないですよ。

 神想観というのはね、吾々が祈るんじゃないんですよ。住吉大神が祈られる。それには、自分を捨て切らないと、祈りが始まらないんですよ。

 E 神想観というのが、神を想い観るのではなくて、もう一つ、生長の家の大神がここに坐し給うてなし給うのですから、神が想い観るということになるんですね。そうして、非常に強い神の光の放射する中に坐しているというような……それが顕斎ということなんですかねえ。

 K それは言葉で言ってしまえば簡単なことですけれども、大変なことで、死に切れるかどうかということによって、祈りに入らせていただけるかどうか、本当の顕斎に入らせていただけるかどうかということがきまる。
 <つづく>

703復興G:2012/05/22(火) 23:13:20 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <6>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   両刃(もろは)の剣(つるぎ)をうちふるえば

 E 住吉本宮の御神体は「護国の神剣」で「両刃の剣」になっているわけですが、「両刃の剣」というのは、相手がまちがっていれば相手も切るけれどこっちがまちがってればこっちも切るんだというところにすばらしい魅力があると思うんですね。ところが、今は「こっちに切るべきものがあったら切るけれども、今はない」というような感じになっていないかどうか。

 F 今年の青年大会のときの谷口雅春先生の最後の御講話で、「神の子無限力の真理」という題だったと思いますが、「どんなに神想観をしても、たとえば食膳で人の悪口を言ったりしている限り、無眼力は出ません」ということを言われましたね。私は自分自身をふり返ってみて、ショックを受けたんですがね。

 悪口をいうということは、物質の世界を見ているわけですね。自分自身も物の世界からしか物を言っていない。そこからは、限定された力しか出ないですよね。

「奇蹟の時は今」の「今」、感謝合掌礼拝して、物を観て、感じて、行動する。先生は最近、ラジオ放送でもそういうお話ばかりされていますよ。

 頭だけで教えを聞いていることがある、その姿勢が問題だと思います。頭だけで教義を理解してわかった気になっていると、いのちが無くなってしまう。それが、「顕斎」となると、神の子が神そのものの御姿をあらわす、そういう自覚の生れ変りが行なわれて来るんだと思うんです。「両刃の剣」ですから、まず自分が正しいすがたをあらわす――そうして、全世界が、神さまのつくりたもうた世界のすがたをあらわして来る……

 E 「三界は唯心の所現」と最初にスパッと説かれたときに、全宇宙は自分の心の影なんだという、これはすごい宇宙をひらく言葉だったんです。それが今は、「自分の心も影もあるけど、ほかの国の心の影もある」というふうに、なにか切れ味がニブくなってきたんじゃないか。つまり、世界を変えるには、自分だけが変ればよいということを忘れているのではないか。「自分の心が変れば世界が変る」これをひっくり返して、「世界を変えるには自分の心を変えるだけでよい」というところまで徹底することができなくて、いささかニブっていて、そのニブった部分、その誤差の部分に光明化運動論を成立せしめているようなまちがいをおかしていないか……

 O うーん、それは痛烈な反省ですね。

 E 運動が、「実相独在」の否定から始まってはいないか――両刃の剣で「切る」としたら、まずその辺がいちばん先に切られるべきこととして、あるんじゃないか。

 早い話が、神想観して「光明一元」と言っちゃったら、光明化運動の意義づけができなくなるというような――それでは、祈ろうとしても本当にすっと祈ることができない。神想観が、おかしな神想観になってしまう。

 O こわい、こわい。
 <つづく>

704復興G:2012/05/22(火) 23:14:00 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <7>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   「神ながら」の運動を展開しよう

 K 先日私の知合いが、「北方領土返還要求」ということで、九州の南端から北海道の現地まで日本全国縦断のキャンペーンをやるんだという連絡が来て、もうスタートしちゃったそうだけれども、ぼくは「ちょっと待て、出発する前に話し合おう」と言いたかったところです。この北方領土の問題は。「それは日本のものだ、返せ」と言えば、向うはすでに自分のものとして基地を作ったりして、地図にもソ連領として書かれているとなると、「何を言ってるか」ということになる。そうすると今度は、力づくで取り戻さないと戻って来ないことになる。今、こういう状態では、戻る可能性は百パーセントないと言っていいですよ。「戻せ」というと戻さない。「何を言うか」とひとひねりされたら、もうしようがない。では、どうすればいいか。私は、エトロフ、クナシリや千島の島の神様をお祭りすればいいと思うんです。それは日本書紀に書かれてあるんですよね。島の国魂神の顕斎を、本当に心を合わせてやるようになったら必ず返ってきますよ。ソ連の居心地が悪くなって、いられなくなってきますよ。それは、一人や二人が祈ったのではだめだけれども、日本人の百人に一人が真剣に祈ったら、筒単に実現すると思うんです。

 ところが、「返せ、戻せ」と言ったら、現象の次元での衝突になってしまう。それではかえって、「何をいうか」ということになって、憎まれて、反動が来るだけで、どうしようもないと思うんだね。

 E 一番確実な方法は何かということですね。

 F ぼくは、『生長の家』誌の「明窓浄机」等に谷口雅春先生が九州本山についてお書きになったものを最初から今日にいたるまでの全部をコピーして綴じて持っているんですが、さっきそれを最初からずっと読みかえしてみましたら、先生は実に「神ながら」なんですねえ。九州本山には百万坪の土地があるわけですが、最初はあまりに広大で、山は雑木ばかりで、いろんな構想はあっても、ちょっと手がつけられないでしょう、まあ孫の代のいい遺産になるのでは――というようなことをいう人もいた、その時に先生は、「人間の力ではほとんど手のつけようがない。しかし、神なら、これをすみやかに開拓して、本山にふさわしい土地つくり、道つくりもできる」とおっしゃっているんです。そうして、なさっていることが、あとで振り返ってみると、全然無駄がなく、みんな見事にぴしっとはまっているんですね。それは驚くべきことですよ。

 だから、私思いますのに、元号法制化でも憲法復元でも、神ならそれを実現する方法をちゃんと知っていらっしゃる。いや、憲法復元もすでに御心に成っている世界があるわけです。それを、み心のままに、最もふさわしい時に、最もふさわしいあり方で、それを神の子なる私にお授け下さいと祈る、そういうところから神ながらの働きかけが出てくる。

 K そうして、神ながらの運動をして行くには、青年会運動にも先輩からの継承がなくてはいけない。生長の家は「汝の父母に感謝せよ」が基本なんですから。一つには、今まで青年会運動の中で志半ばにして斃れた同志が全国では相当な数に上っていると思うので、その同志たちの顕彰感謝祭を行なうといいと思うんです。そうして、お祭りというのは全員参加、“村は総出の大祭り”で、みんなが一つ心になっておみこしをかつぐというところに大きな意義があるんですから、この顕斎を機会に、過去を捨ててみんな一つになって力を出し合うということが必要だと思う。今がそのチャンスなんです。
 ぼくは、これからおどろくべきすばらしいすがたが顕われてくると思う。
<完>

705復興G:2012/05/22(火) 23:28:52 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <4−1>

(<お詫び>これは<<688に入るべきものでしたが、うっかりミスで抜けておりましたので、ここに入れさせて頂きます。)

 三、吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

 このようにわれわれの「生命(たましい)」は死んでも死なない。ただ「無限生長の道」をあゆませていただいているのでありますから、どんな苦しみが来ようともただ安心して恐れる必要がないのであります。しかし何もわれわれは苦しみをことさらに来るように自分で招いて作るにはおよばないのであります。聖フランシスは「悪魔は主のつかわしたまえる獄吏である」と申されました。また神道の諸派では苦しみとか病気とかいうものを魂のけがれをきよめるために神から与えられた修祓(きよめ)とかお気づけ(注意)とか解釈してありがたくお受けしているのであります。婆羅門(ばらもん)教では苦行はさとりに達する唯一の方法だとして断食水行はもちろんいろいろの苦行の方法が案出されていました。釈尊も結局はただいまの「生長の家」と同じように、苦行は必ずしもさとり(大自在境)に達するために必要ではない、心の向き方を変えればよいのだとて、苦行をやめて尼連禅(ナイランジャナー)河に水浴して、施される一杯の牛乳を飲んでさとりを開かれたのでありますが、最初は婆羅門の教えにしたがって六年間苦行をされたのでありました。

 このように、苦しみはある期間にわれわれの魂の生長に必要なものでありますので、敬虔なキリスト教信者などのうちには「主の模倣」と申しまして、十字架にかかられたイエス・キリストの苦しみを自分の身にも受けて苦しむことを唯一の歓びにしているような方までできているのであります。しかし、それはイエス・キリストの御心を知らないものといわねばなりません。

 イエス・キリストが十字架にはりつけられて死の苦しみを受け給うたのは、われらのたましいの苦しみを救わんがために身代わりとなられたのでありまして、われわれを今後そんなに苦しませるためではないのであります。ふつう徒歩で行けば長時日苦しみなやんで東海道を往復しなければならぬのに、ここに偉大な発明家があって苦心惨憺の結果汽車が発明されたために、実に短時間でわれわれは東海道を往復することができると同じようにわれわれはあたり前ならば長期の苦しみを重ねて、やっとある段階の魂の生長がえられますところを大生命の親さまがその子イエス・キリストをわれわれの苦しみの身代わりに与え給うてそれから後はそんな苦しみもなしに魂の生長がえられるようにくださったのであります。それは仏教でも同じことでありまして自分の力だでの修行で再びわれわれの生命がこの地上に出て来ないでもよいほどに立派な十分の生長をするには、なかなか生命としての一代や二代の修行ではできないのであります。輪廻(りんね)と申しましていくたびも輪のめぐるように死んでは生まれかわって来なければならないのであります。それを大生命の親様はそのひとり子を法蔵菩薩としてこの世に遣わし給い、法蔵菩薩がわれわれに代わって数えきれぬほどの苦労と修行をなさった結果、ついに正覚(さとり)を得たまうて阿弥陀仏(あみだぶつ)となりたまい、ここに、阿弥陀仏におすがりさえしておれば、われわれの生命がそんなに苦しまなくとも、楽々と生長することができるようになって来たのであります。
 <つづく>

706復興G:2012/05/22(火) 23:29:29 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <4−2>

 このようにキリストも阿弥陀仏も、結局は大生命なる親さまからわれわれがそんなに苦しまないでも救われうるようにつかわし給うた救い主であって、あらわれは二つでありますが、元は一つなのであります。

 大生命なる親さまが耶蘇(やそ)キリストや、阿弥陀仏をわれわれの救い主としてつかわし給うたことから考えましても、親さまはわれわれ子供の苦しみや病を与え給うのでありますが、できるだけえ苦しまずに生長してくれることが、親さまの子に対する慈悲ぶかい親心に相違ないのであります。

 そこでこの大生命なる親様のみこころ、イエス・キリストのみこころ、阿弥陀仏のみこころを「生長の家」は受けつぎまして、人間の生命(たましい)が「生長の本道」を真っ直に向いて進んで行くならば、何もそんなに苦しみや病気で大生命(おやさま)から反省やお気づけを与えられなくとも楽しくいきいきと生活しながら自己の生命を生長させうるということを気づかせていただき、われわれが「生長の本道」をあゆむべき方法を研究しまして、(研究といいましても、実はわたしがペンをとる時に霊感的に教えられて自分の予想もしない真理がパッとわかってくる場合が多いのでありますが、)これを皆さまにお取り次ぎしまして、できるだけ病気や苦痛(くるしみ)等の、迷いの自壊過程をへずにわれらの生命の生長する道を皆さまにお伝えしたいと思うのであります。霊感的に真理を知るということについては、本書全体をお読みになっているうちに解ってきますが、当時『生長の家』第一集第三号の表紙裏にわたしが書いた一文がありますから、とりあえずその概念を得られるために、左(さ)にそれを収録します。
 <つづく>

707復興G:2012/05/22(火) 23:36:48 ID:84pogn5s


  <『生命の實相』第一巻(總説篇)より>は、すでに前にアップされていますので、以上で終わりです。

感謝 合掌 拝

708ハマナス:2012/05/23(水) 00:01:47 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。

悲しみはこらえず、これを転換せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.161)

 悲しみの感情から脱却すると云うことと、悲しみの感情をこらえて内部へ押し込んで
しまうこととは異なるのである。こらえて内部へ押し込んでしまった感情は、それが消え
ないで、所謂る「抑圧感情」と称せられるところのものとなって、それがある程度以上
蓄積されると具象化して病気を引き起こす原因となるのである。

 そこで悲しみの感情は、単にこらえて押し込むだけではなく、その感情を他の方向へ
誘導し光明化したものとしなければならない。即ち不幸が起こって来たときに、「この
不幸は不幸ではないのであって、幸福に到達するための途中の踏み石である」と思い返
すか、「この不幸は過去の業が形にあらわれて消え行く姿である。過去の業が消えたあと
には幸福が来るほかはないから有り難いのである」と念ずるがよいのである。

感謝合掌

709金木犀:2012/05/23(水) 06:39:19 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(5)

では、神とは何であるかというと、
「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である」とあります。従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」でなければならない。その「久遠の主宰者」たる自覚を「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。

そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く説く人もありますが、天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を要請する「人民の心」の反映として、日本民族の「生命の外延」として存在することを此の神示には次の如く示されているのであります。

「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」

この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、対象をそのように感ずるのでありますから、吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念があるからであります。人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する根本要求があるためであって、そのためにすべての造られたる物には「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。即ち原子には原子核があり、細胞には細胞核があり、樹木には幹があり、人間及び高等動物には脳神経中枢があり、太陽系統には太陽という「永遠に変わらざる中心」があるのであります。

このような宇宙万物を造った「大生命」の生命を宿し生れている人間の心の中に「変わらざる永遠の中心者」を求める要請が宿っているのは当然のことであります。だから、「観る心の要請が、身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」と示されているのであります。(つづく)

710金木犀:2012/05/23(水) 06:40:51 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(6)

この神示に於いて注目すべき点は「無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絕對」なのであります。他の国の色々な人間団体にも中心者や主宰者はあります。しかし「無にして絶對」なる中心者は殆ど全く存在しないのであります。だから常に権力争いが付き物であり、権力候補が選任争いをするか、実力闘争によって中心者の座を占めようとするのであります。ところが日本天皇に限り、権力争いというようなことがない。自己を主張しようとはせられないし、対立がないのであります。だから「無」なのであります。天皇は自分自身の幸福や利益を求められない。だから「無」なのであります。ただ全体の福祉と祥運を願われるばかりであります。それは脳髄及び脳神経系統が脳髄自身の幸福や利益を願うことなく、全身の、そして全細胞の健康のために奉仕しているのと同じであります。

この天皇が「無にして絶対者」であられるということは大東亜戦争の開始に際しても、その重職にある者の多数決に対して抗争することなく「無」の立場であられたことにも現れていますし、終戦直前の御前会議において阿南陸相と梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが戦争継続を主張したのに対し東郷外相、米内海相、平沼枢相が戦争終結を述べたほかは、重臣ことごとく自己の意見を述べることが出来ないから、多数決で国事を決することができなくなり、ついに天皇の御聖断を請うしか道はないということになったのであります。

「無にして絕對なる神」は、人間が迷っていても、御自分の意見を出して、それを止め給うことはない。しかし謙虚なる心になって「無」なる神に相対すれば其処に實相無限の智慧と愛とが呼び出され、その智慧と愛との導きに従うとき、一切の不幸が消滅し實相大調和の状態が実現することになるのであります。

それと同じく「無にして絕對なる天皇」は吾々が天皇に対して振り向くことなく、天皇をただ看板にして、「虎の威をかる狐」のように天皇をただ利用して軍閥が自分の権力の増大をはかっている限りは、天皇は神と同じく別に罰を与えられることもないが、その迷いを制せられることなく、その迷いの行くがままにそのまま委せていられるのでありますが、その迷いが行き詰まって、謙虚でいるしか仕方がなくなって天皇の方へ振り向くとき、其処に天皇の御心があらわれるのであります。日本の歴史は、常に時の権力階級が我の力が行き詰まっては、天皇の方に振り向き、そこから神智が実現して正しき道に帰るということが繰り返されているのであります。それですから、大東亜戦争の末期に於ける御前会議に於いて、誰も意見をのべる者がなくなった時、ついに天皇は「ほかに誰も意見を述べる者がないならば、私の意見を述べよう。私の身体はどうなってもよいから、この上国民を戦争の惨禍の中に苦しめるのは見るに忍びないからポツダム宣言を受諾して戦争をやめる」と仰せられ、その後、天皇はマッカーサー元帥を訪問せられて、
「戦争の責任は皆私にある。国民には責任はない。私は絞首刑をも覚悟している。皇室財産は司令部の処置にまかせる。私の一身はどうなってもよいから、国民をどうぞこれ以上苦しめないで頂きたい」と仰せられたのである。「無にして絕對であり、一切の主である」ということは、「無」でありながらも、責任を回避するということではない。「一切の主である」とは「一切の責任は自分にある」との自覚である。「無」であるがゆえに神聖であり、一切の責任を自己に背負って自己が一切の者に代って苦しもうとする愛の深さゆえに天皇は神聖であるのである。

711金木犀:2012/05/23(水) 06:42:30 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(7)

しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。傲慢に天皇を批判している者にとって、天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。だから、「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである」と示されているのである。紅緑色盲に於いては、紅や緑の色彩が実際そこにあっても、自己自身に内在する紅緑の感覚が目覚めていないために、其処に紅緑の色彩をみとめることが出来ない。それと同じく自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、天皇の神聖性は蔽われて発現しない。それ故に、「天皇の皇位を剥奪し、皇室費を停止して、天皇を唯のサラリーマン又は文教労働者となすべし」というような唯物論者の議論も生じて来るのであります。唯物論者にとっては、人間はただの“物質の塊”以上のものではないから、その価値や尊さを、その能率的エネルギーの量に一般化して、それを平等に取り扱おうとするのは無理もないことであるけれども、自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。

だからこの神示には、
「人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である」と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。

しかし、「民が主であり、君は客である」という表現をつかうと誤解を招くおそれがあり、「人民のほうが君主より偉いんだぞ、天皇は吾々の得た月給から納めた税金で養っているんだぞ」などというような間違った考えを懐くものも出て来る恐れがあるから、神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」と説かれ、天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、次のように示されているのである。
「民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。……」

このように神示によれば、政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。近頃の政治を観ると、政府と国民とは「拝み合い」どころか、「憎み合い」又は「争い合い」の様相を呈しているので、このような政府の要員や国民の代表にとってはこの神示は誠に好箇の反省資料だと思われるのであります。併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は残念ながらきわめて少ないのであります。それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を「基本人権」だなどと信じているのですから、「人民自身の絕對性の把握」など殆どない。そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。そのことを此の神示には、
「天皇は絕對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絕對性より來る。民が自身の絕對性の把握が破れるとき、その反映として國の絕對性と天皇の絕對性とは破れるのである。打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」という風に諭されているのであります。(完)

712うのはな:2012/05/23(水) 16:12:01 ID:???
 
  私たちは神の守りの中に包まれている

 神は普遍の霊であるから到る処に満ちみちていたまうのである。
私たちが何処にいようとも、常に私たちは神の普遍霊の中にいて生活しているのである。
だから私たちは常に神にまもられ、神から守護を受けることができるのである。
若し神からの守りがなく、守護を得けていないで不幸に見舞われたと見えるようなことがあるならば、
それは守護がなくなったのではなく、自分の心が神に振り向かず「心そこにあらざれば見れども見えず、
聴けども聴えず」式に、神と波長が合わなくなって、神の導きから、波長が外れてしまった結果にほかならないのである。
若し自分が神の方へ心を振向け、神の導きに心の波長を同調するようにするならば、たちまち
神の導きに触れることが出来、運命が好転してくるのである。

 『真理』 実相篇 第10巻  谷口雅春 先生著

713うのはな:2012/05/23(水) 17:45:14 ID:???

 生長の家はそれが地上に発祥したのは昭和四年十二月三十一日に『生長の家』
といふ雑誌が製本完成したときであり、その處は唯今、神戸市内に編入されていますが、
当時は兵庫県武庫郡住吉村八甲田と称された處で其処にささやかな家の門柱に“生長の家出版部”
といふ竪看板のような大きな檜の問標がその翌年掲げられたのであります。
その雑誌の創刊号の奥附けに昭和五年三月一日発行としてありまして、創刊号がひろまるのに、次の第二号発行まで
の間隔がひろまるのに、次の第二号発行までの間隔を三ヶ月間とってあったのであります。

第三号から第三種郵便物の認可がおりました。奥附の三月一日発行を、公式的な生長の家発祥の春の記念日としてあるのは、
時候が人々の集り易い陽春を選んだのであります。
しかし、生長の家は地上に発祥したときに始まったのではなく、「久遠の昔」からあるとこの神示に示されている通り、久遠の
昔から實在の世界にあって、時期が熟して、地上人類救済の瞬刻限に地上に出現したのであります。
それだから、既に何処かで書いて置きました通り、昭和十年のこと、天理中学の国語の先生、山村楢次郎氏は、
『生命の實相』の初版(註・黒布表紙の雲に三本金線のある装丁の本)を書店で求められたとき、突然十八年前に夢の中で白髪の神様から
黒いドッシリとした黒表紙金銭図案の本を頂いて、荘厳な感じがして有りがたさに目が覚めたことを思出だし、「この本だ!!」
という感じを受けられたのであります。
昭和十年の十八年前にはまだ生長の家は地上に出現していない。
それなのに既に十八年前に夢の中で見えたのは地上出現以前にそれが存在した証拠であります。

 山村楢次郎さんは既に故人でありますがお嬢さんは現在非常に熱心な誌友でありまして、先般、
生長の家本部の白鳩会に出席して体験談をお述べになったのであります。

『到彼岸の神示』 神示講義・自覚の巻 谷口雅春 先生著 P70

               ( 投稿者 現代漢字に変更書写)

714SAKURA:2012/05/23(水) 19:44:18 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
昨日から【〜♫ come on! come on!♫〜】と、強い言葉が流れて来ます…?
「生長の家」私も【come on!】と…私も自然と“口ずさんで〜♫”いましたが?
さて“今日の言葉”は…【合掌します。幸福なる“道印!〜〜〜ごま〜〜開け〜〜”】
今日の言葉は……

■【幸福を招く365章】
――――此処に天国浄土が実現するには――――

今日は人に是非とも深切を尽して見る一日としようではないか。何か人のために
させて頂くことを心掛けて一生懸命にやって見ようではありませんか。
それを真に実行して見たときにあなたの心に平和と感謝とが訪れるでしょう。
本当の悦びは人からして貰ったときよりも、人に対してしてあげた時の方に
それがあると云うことが体験として分かるのであります。
更に今まで何の気にもかけなかった風のそよぎを、樹々の緑を、小鳥の囀りを、
神の愛の表現であるとしてきいて見ようではありませんか。
あなたの周囲に別の幸福な世界が訪れます。
なるほど此処が神の国だとわかってまいります。そして、
あなたの周囲にある家族のよろこばしそうな笑顔を御覧なさい。
まだ笑顔があらわれていませんでしたら、笑顔があらわれているとして
優しい言葉をかけてやんなさい。本当に笑顔があらわれてまいります。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

“朝のめざめ”其の瞬間…一番に思い浮かんだのは“徳上の笑顔”にしなさいと…
めざめる瞬間の【夢…】でした?これって「正夢」なのでしょうか?
何のことか分からず〜〜〜“ボ〜〜〜ッ”としていますと…私の“ブレイン”が…
ようやく軌道し始めました…。ウフフ

■日本と海外の違いですが……日本の場合は、女性の方を例えますと…
若い時は“精神面”に拘らず、唯!“若さ”でしょうか〜〜〜?
海外の女性の方の場合は、もう〜〜〜〜〜〜〜大変!の様に見受けられます。
若い時の“感情”を〜〜“動作”を〜〜表現を訓練するのですが……><
どうしても、“感情表現”が……でも!“訓練”しながら、大人になっていきます…。
■逆に、日本の女性の方の場合は、若い時の“習慣?慣習?…そのままで大人“に
なり“50歳過ぎ”ても自覚がなく、そのままです〜〜〜ョネ!

それを“比較論” していきますと、やはり!【精神面…】でしょうかしら〜〜〜ン!
どんな時でも【表情を豊かにする】・【ボディティブに行動する】事が、
他人に対しての“深切”と今日は思えて来ました…。
今日の私は、どんないやな人??とすれ違っても【我が身の精神進歩向上】の為に
誰に対しても〜〜〜〜〜“特上の笑顔”を進呈しようと…

今日は、バカみたいに「笑顔の筋肉運動」再スタ−トしてきましたら、
今のこの時間でも、気持ちよく持続しています…。【ハイ!ニコ!ポン!!】
これなら、ズ〜〜〜ッと、がんばりがいが出来そうな感じなのですが〜〜〜?
「三日坊主にならない…」ように“精神集中”で〜〜〜す。
これも?もしかしますと“年”をとらない“秘訣”でしょうか?

■最後に!!【素敵な“笑顔”は、人様に“小さな深切”でしょうかしら〜〜〜ン】
                             再合掌

PS:
トキ様の“笑顔”は、素敵そう〜〜〜♫に、見えますが…
“文章”から、その様な「イメ−ジ」が致しますが……どうでしょうかしら〜〜〜ン?
「笑顔も小さな深切」なのです〜〜〜ョネ!唯今!!“鏡とニラメッコ〜〜〜☆”
トキ様は、女性の“笑顔”??リクエストありますか??

716SAKURA:2012/05/23(水) 23:38:32 ID:V.pKl3yA
管理人「トキ様」へ

大変恐縮ですが…間違って“投稿”してしまいましたので
(「WEB 誌友会」投稿ボ−ド…と間違いました…。ごめんなさい…。)
■715 『削除…』御願い申し上げます。

717a hope:2012/05/24(木) 08:37:12 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

金貨よりも時間は大切

ところが、この時間ぐらい目に見えないものはない。
目に見えないためにどうも粗末にされ易く、失われ易いのであります。
金はなくしたら人から借りる事もできますが、時間をなくしたら人から借りる事はできません。

仮りに金貨を握ってそれを捨ててあるいたら、
「ああもったいない」と言って拾って歩く人はありますけれども、
時間を捨てて歩く人の後ろからついて往って、
「ああったいない」と言って時間を拾って歩く人はないのであります。

時間は目に見えないから拾って歩くわけにはゆかないし、
時計で測って見て、眼に見えたからといって、時計の捻子(ねじ)を逆に廻して、
針を逆さまに廻してみても、時間そのものは後へ戻って来るものでもなく、
「あんた時間を落としてますよ」と言って拾って上げるわけにもゆかないのであります。

このように時間と言うものは生命(いのち)から二番目の金よりも大切で、
一番の一番の生命そのものでして、時間を失ってしまったらどうにも仕方がないのでありますから、
皆さんどうぞ一分間でも時間を生かして、良い事に、勉強に、仕事に、人に喜ばれることに、
自分をよくする事に、人をよくすることに、人のためになることに、使うことにいたしましょう。

(つづく)

718SAKURA:2012/05/24(木) 20:55:01 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…

毎日の“聖典板…”への投稿を、もう少し早く投稿しましたら〜〜〜(微笑)
そのように思いつつ〜〜〜「time is money〜♫〜」ですもの〜ネ!
この頃“時間”のたつのが、早く感じる次第です…。さて!今から〜〜〜♫
今日の課題は????

■【幸福を招く365章】
=====天地一切のものを祝福せよ=====

朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」
念じつつ呼吸を整え、さらに「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」と
云う思念を繰返すことは、天地一切のものと和解することを如実に
実践する上にきわめて善き方法善き方法である。
一切の不幸と病は、自己が天地一切のものと和解していないで、ある程度
又は或る意味に於いて敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念をおこなうときには心の中に、こちらから積極的に
天地一切のものと和解する以上に、天地一切のものを祝福することになるのである。
                            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「祈り」ます時は、“大調和の精神”です〜〜〜ョネ! ウフフ
これが【集中〜〜〜!集中〜〜〜“力”です〜〜〜ョネ!】
そして何度も「祈り」ながら、気が付きますと、もう〜〜〜【希望成就】!!
その気になりまして、成就したかのような気持ちに、
これがいけない様にも思います〜♫“継続する心”が必要でしょうかしら〜〜〜ン?

唯!「神様と一体…大調和の世界」に突入していく内に、【希望成就】が〜〜〜
叶えられますのでしょうかしら〜〜〜ン??
此処が?最近の私の“迷い心”でしょうか〜〜〜♫

つまり…
先ず!【希望成就】を先にして…【天地一切に和解】なんです〜〜〜ネ!〜〜〜
そうしますと{焦りの??祈り???}
【天地一切に和解…】が?此処に私の“心”が引っかかりまして、
これから先が〜〜〜><いつまでも〜いつまでも〜前に進めなく…><
「精神統一」がいつの間にか、ふらつき状態なのですモノ??
此の様な状態でしたので…出来なかったのが現状ですが……

■「イメ−ジトレ−ニング」で“瞑想”していきますと、
そうなのですョ〜〜〜ネ!もう〜〜〜【天地一切と和解】しているのです…。
【天地一切は“感謝”からの“スタ−ト”……“感謝”は、既に〜〜〜
和解!和解!−−−−−−−>和解!の“大調和”ですから…
“心”も“リフレッシュ”になり【和解=若い精神===>老化防止】でしょうか?
「神に祈る事」とは、【天地一切に感謝=若さの精神=神想観】です〜〜〜ネ!

                            再合掌

PS:トキ様 へ
本日の言葉…にての「天地一切への和解…」が先なのか?それとも…
「希望成就への祈り」が先なのでしょうか?…この頃悩みますのですが???
“アドバイス”頂きますと、幸いに存じますが…???
「卵が先???それとも鶏が先???」なのでしょうかしら〜〜〜ン!

719トキ:2012/05/24(木) 20:57:34 ID:glP3dfpk
>>718

 個人的には、和解の祈りが先だと思いますが、他の皆様、どうお考えでしょうか?

720SAKURA:2012/05/24(木) 22:24:37 ID:V.pKl3yA
>>719
トキ様 へ

“お返事”ありがとうございます…。「和解が…先?」なのです〜〜ネ!
“鶏”・“卵”〜〜〜〜〜どっちかしらん??考えこんでしまい〜〜〜><
今!私事なのですが?起きています…目の前の“大きな〜〜〜壁?”
“私も”“パ−トナ−も”…兄弟・姉妹の問題もありまして…?

そうなのです〜〜ネ!
「和解……神想観」させて頂きま〜〜〜す。ありがとうございます…。 再合掌

721a hope:2012/05/25(金) 07:09:17 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

一度失われた時間は帰らぬ


いつも午前八時には時計の針は一定の8の字を所を指しますけれども、
今日この「八時」という時間は永遠にやって来ないのであります。
午前八時というのは何回でもやってきますけれども、今日のこの時間、
自分の生きるこの時間という同じ時間はやって来ないのであります。

今日のこの自分の「生きるこの時間」というものを生かさなければ、
この私達の有する自分の生命(いのち)というものが全然ないわけであります。
ですから、いつでも、「今」が自分の生きるか死ぬかの正念場なのであります。
私達自身を生かすか殺すかの重大な時期、それが時々刻々の時間であります。

(つづく)

722ハマナス:2012/05/25(金) 18:07:42 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま

こんばんは。今週は仕事で毎晩遅く、投稿できませんでしたので、続けて謹写させて
頂きます。


難有り、有り難し  (『新版 生活の智慧365章』P.162より)

 不幸が来るごとに、これで過去の業が消滅し、今後好転の運命を刻む自分になったのであり、
謂わば、この不幸は、幸福への曲がり角だと観ずることができれば、どんな不幸がやって来ても、
失望落胆することはなくなる筈である。このように考えを転ずることに成功するならば、どんな
不幸や困難がやって来ても、もう大丈夫である。

 これは悲しみの感情を抑圧することではなく、その感情を方向をかえて光明の方へ誘導する
のであるから、もう悲しみが悲しみではなく、悲しみが光明に変質してしまっているのであるから、
それは将来、不幸を現象化する原因が消えたことになっているのである。だから黒住教祖は
「難有り、有り難し」という風に漢字をまじえて解り易く説明されているのである。

感謝合掌

723ハマナス:2012/05/25(金) 18:12:03 ID:u5mC.eb2

幸福の鍵は何処にあるか   (『新版 生活の智慧365章』P.163より)

若しあなたに「どんな幸福の扉でも開く鍵があるのですが、あなたはそれを欲しくありませんか」と
言われるならば屹度あなたは「本当にそんなものがあるならば、それを得たいものだ」と思われる
でしょう。その鍵は決して金属でできているものでも、楠(くすのき)や檜(ひのき)の板で出来
ているものではありません。そんな物質で出来ているものは結局はこわれるものであります。虫食い
錆びくさるものに幸福を求めてはならないと教えられました。

 その鍵は“霊的なもの”で出来ているのです。そして他物にそれを求めても得られるものではなく、
自分自身の内にその鍵があるのです。その鍵を『生命の實相』と呼ぶのです。それは必ずしも書籍の
名前ではありません。『生命の實相』の本はその鍵の在所(ありか)を示した本ですからそのように
名づけたのです。

 その鍵は全ての人が自己の内にもっている万人具有の鍵であります。人間の生命のうちには「無限」
が宿っているのです。その無限に気がついたとき、その人はその鍵を発見したのです。自分自身の
生命のうちに「無限」が宿っている、何という素晴らしい事でしょう。

感謝合掌

724SAKURA:2012/05/25(金) 19:14:09 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
【幸福を招く365章】は、発行が“最近版”なのです〜〜〜ネ!
「谷口雅春先生の晩年の御言葉」は、最近?深みを感じますのですが〜〜♫
先生の創立当時からの前半の“書籍”も、又!それなりに、グ−!!ですモノ〜〜!
やはり、私でも“ライティング・思考力”は???
若い時より多少?進歩しているのです〜〜〜ョネ
「人間は進歩向上!!」の過程で……「生長=成長」するのではと思います???
今日の“タイトル”は??神様からの“メッセ−ジ”にてオ−プン!!

■【幸福を招く365章】
====愛の想念を手紙に凝めよ====

あなたが手紙をかくときに唯、事務的に書かないで、
「この手紙を通して神が貴方を祝福したまう」と祝福の想念を
ペンに含ませながら書くときは、それを受け取った人の心に愛念を沸き立たせ、
著しくあなたに対する好感を起さしめるものである。
それに反して腹立ちながら書いた手紙は、どんなに丁寧に書いたつもりでも、
何処かに相手を憎む雰囲気が伴っているものであって、
屹度相手を不快にしてしまうのである。愛の想念は凡ゆるものに調和を惹起し、
憎しみの想念は凡ゆるものに不調和を惹起す。
愛は朗かさを招きよせ、憎しみは暗黒を惹起す。愛なるかな。愛なるかな。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

最近?思うのですが〜〜〜〜〜><
或る人が“パソコン”を、打った“投稿文”を、どうかしますと……??
スム−ズに?読めなくなる事が、あります…。「雅春先生の本」を“スル―”して、
そのまま“key  ボ−ド”を打つていますが…
不思議なのです〜〜〜ョネ!
「同じ言葉」なのに?此方からな〜〜〜の?どうかしますと、いつの間にか
“心”の中で“拒否反応”が、生じてしまう事もあるのですが……?
これは?本能?【念の法則…】かしら〜〜〜ンと、思っていましたが??? 

今日!さっそく「雅春先生の言葉」から、私なりに理解しました…。

■その人の“心が〜〜形に〜〜”あらわれた事なのです〜〜〜ョネ???

私も“感情”が入りますと…【ポジティブ?ネガティブ?】この感情の相違により、
【ライティングのアイデア…】も?出来なくなる事も〜〜〜><
これではいけないのです〜〜〜ョネ!
「雅春先生のお言葉」を、投稿する為に、打ちこみます時は…
此の“感情”は、なるべく?いえ!!冷静なる!そして、相手に対しての“愛念”…
其の厳粛なる感情にて“打ち込む”その様に本日は、気持ちの上で…
切り替えて“行”ずる事を…決めた次第です。今!!此の事が“勉強”なのです〜ョネ!

■そして“反省”の自覚にて“心が洗われる…自分自身”に気づきまして???
本当に【自分の心の影?】そのものの”感情“が、“文章に移入”される事…
それならば…「今日の言葉」より〜〜〜♫♫
モット〜モット〜【大調和の精神での…ライティング!!】させて頂きます…。
当に!!今から〜〜〜【実践…のみ】

■本当に【念の世界!!!!!!】なのです〜〜〜ョネ!!
                                再合掌
PS:
トキ様へ
今日の言葉【手紙…】一つでも、相手に対しての“念の具象?”なのです〜ョネ?
トキ様はライティグされます時は、“此の感情移入…”どのように対処?
されますのでしょうか??何か、具体的な事が、ありますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと幸いです…。
例えば…此の“服”を来ますと〜〜♪♪“ラッキ−“な事が多いとか?
確か「生命の実相」の中にも“セ−タ−のお話”がありましたです〜〜ョネ!

725トキ:2012/05/25(金) 22:25:17 ID:BQ0WW5TQ
>>724

 念の問題は確かにありますね。いつまでも他人に恨み、つらみの念を持っていると
自分にかえってきますから、要注意です。逆に言うと、仕事等で会う相手の幸せを祈るのも、
愛行だと信じます。小さな事から始めたいです。

726a hope:2012/05/26(土) 08:01:13 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

この境遇にこの時間


さて、すべての人は単なる「時間」という目に見えない流れの中に生きているだけではなしに、
ある具体的の境遇というものの中に住んでおります。
この具体的な境遇というものが、いわば横の広がりであります、時間という縦に続いているものと、
遇という横に続いているものとが交叉した十文字の一点に私達は生きているのであります。

時間は無形で形がありませんから、どの時間でもよく似たように見えておりますけれども、
この境遇、この自分の置かれた横の位置というものは、常に変わっているのであります。
たとえば昨日の午前八時、今日の午前八時、また明日の午前八時、時間は皆午前八時であっても、
自分のいる位置が変って、自分の生命(いのち)の波がかわっているのであります。

時々刻々私達は自分の生命が変っているのでありますから、いつも異う新しい自分であります。
常に新しい自分が、常に新しい境遇に於いて、常に新しい時間の流れに生きるというのが、
私達の時々刻々生きているところの生命であります。

ですから、常に私達は、「今」の時間と境遇とをできるだけ十分生きて、新しき生長をしなければならない。
そうしなければ私達は「今」の自分の生命がを捨てているわけであります。
「今」の自分の生命を捨てては、単に自分の生命が生長しない事になってしまうと同時に、
ニ度と掴む事の出来な千載一遇(せんざいいちぐう)尊い境遇機会というものを逃してしまう事になるのであります。

(つづく)

727a hope:2012/05/26(土) 08:08:03 ID:kcv2QXTk
訂正 

>>721タイトル

一度失われた時間は帰らぬ → 一度失われた時間は復(かえ)らぬ


726本文の上から4行目

遇という横に続いているものとが → 境遇という横に続いているものとが

728金木犀:2012/05/26(土) 15:37:22 ID:L0Ei6.zw
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則  欽山一鏃三關を破す

[垂示] 垂示に云く。諸佛嘗て出世せず、亦一法の人に與ふるなし。祖師嘗て西來せず、未だ嘗て“心(しん)”を以って傅授せず。自ら是れ時人了せず、外に向って馳求(ちぐ)す。殊に知らず、自己脚跟(きゃっこん)下、一段の大事因縁、千聖も亦模索不著なることを、只如今、見不見、聞不聞、説不説、知不知、なんの処よりか得來る。若し洞達すること能はずんば、且(しばら)く葛藤窟裡に向って會取(えしゅ)せよ、試みに擧(こ)す看(み)よ。

[解釈] この垂示は「諸仏嘗て出世せず」「祖師嘗て西来せず」という風に、一般に歴史的にあったと信じられている釈尊が出興せられた事実や、祖師達磨大師が天竺から支那へ仏心宗を弘めるために渡来せられた事実を正面から否定する“反語”であって、そういう歴史的事実は無かったということを主張するために書かれているのではないのである。

この垂示の中心は、真理は自己の脚跟(きゃっこん)下すなわち自分の今立っている脚の下にあるのに、「自ら是れ時人了せず、外に向って馳求する」愚を指摘せんがための反語であるのである。

「一段の大事因縁」という語は法華経に「吾一大事因縁を以ての故に世に出興せり」とあるのを引用したのであって、何も釈迦だけが一大事因縁を以ての故にこの世に生まれて来られたのではないのである。すべての人間各自が、みな“神の子”として神の万徳を具(そな)えて神の最高の自己実現として、この世に生まれて来たこと其の事が“一段の一大事因縁”なのである。

それなのに、その“一大事因縁”は釈迦のような、また達磨大師のような天才的な真理の達人にのみ付与されている特権であって、自分のような凡夫には、そんな天分は付与されていないのだと自己劣等感をもってはならないのだと、この垂示は指摘しているのである。

真理というものは釈尊や達磨大師のような特殊な宗教的天才にのみ与えられているのではなく、各人の脚跟下(きゃっこんか)に、各自の“生命の實相”そのものの中に、今現にあ’る’のである。それを外に向って諸仏にもとめたり、達磨大師に求めたりするものだから、そんなもとめ方をしていては、「千聖(せんしょう)もまた模索不著」で、どんな聖者があらわれても、彼らが外に真理を求めているようなことでは“模索不著”すなわち探し求めても、ついにその真理に到達することは出来ないのだ。

だから、そんな「真理は諸仏のサトリの中にある」とかいって外に真理を求める対象となる諸仏や祖師を抹殺してしまわねば、自己のうちにある仏性をさとることができないのだ。

それだから、吾々が外に真理を求める対象となる諸仏や祖師を抹殺するために、この垂示は、「諸仏嘗てこの世に出でず」だから、そんな諸仏から真理を授かろうと思っても、外にそれを求めたのでは「一法の人に與ふるなし」と、そんな諸仏から真理の一片を期待しても、決してそんな諸仏からは一つの真理も出て来ないぞと否定したのである。

また自己の脚跟下(きゃっこんか)にある真理を、天竺から西来した祖師達磨に求めても、未だ嘗てそんな外にある祖師から心をもって真理を伝えてもらえるなどと期待しても駄目だぞ、それなのに「時人」すなわち近頃の人間は、この事を了知せずして、釈尊や達磨に、外に向って真理を求めていて、自己内在の実相に気がつかないぞ、と指摘しているのである。

この人間各自が釈迦達磨とひとしくその実相は、“神の最高の自己実現である”という実相を知るには、只今のところ一般の人間には見不見、聞不聞、説不説、知不知であって、見て見ること能わず、聞くも聞えず、説いて説くこと能わず、“覚知”の知によっては知って知ること能わずである。何処からその真理を得たらよいか。

若しいまだその真理に洞然と到達することが出来なければ且(しばら)く先輩の人生の葛藤及び、その葛藤を描き出した本則について参究を重ねて会得して頂きたい、試みに本則に実例を擧げるから看よといって、愈々(いよいよ)本則に移るのである。

729SAKURA:2012/05/26(土) 19:59:56 ID:V.pKl3yA
>>725拝読させて頂きまして
トキ様 へ

“お返事”ありがとうございます…。
■>いつまでも他人に恨み、つらみの念を持っていると
自分にかえってきますから、要注意です。逆に言うと、仕事等で会う相手の幸せを祈るのも、愛行だと信じます。小さな事から始めたいです。<

そうなのです〜〜〜ョネ!“要注意〜〜〜〜〜”ですョネ!
“念…ネガティブな感情”これは、確かに?自分自身に戻ってきますよ〜〜ネ!
唯!悲惨な事ですが…その“想念”が〜〜〜“病気”を【引き寄せる!】事にもと…?
「雅春先生…」が…おっしゃつていらっしゃいました事を、思い出しました。

■>われわれの心の状態は肉体のみ反映するのあって、事業やら運命には
反映しないと思っているとまちがいであります。
多くの商店会社の不繁盛の原因は従業員の心の不調和であります。内部に働く人の
心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去り、繁栄の雰囲気が逃れ去れば、
注文は激減し、外部の注文が激減すれば不安は募り、内部の不安が募れば外部の
注文はさらに激減し、その商社の没落に拍車をかけることになるのであります。<
                      「雅春先生の言葉…一部抜粋」

仕事にも影響し…最悪状態になりますもの〜〜ネ!
「相手の幸せ」…祈れる“素直な自分…”…
このように“ネガティブ感情”を持つぐらいなら【神を想い…】
“光明思念”を繰り返し〜〜繰り返し〜〜思念しながら【大調和の世界!!】
日常生活に取り入れていきま〜〜〜す。ありがとうございます…。

■【小さな事から始め〜〜♫〜〜】そうなのです〜〜ョネ?
大きくふくらんで〜〜♫〜〜「トキ様の言葉」より〜〜〜 
只今…行動に〜〜〜♫〜〜〜(微笑)          
 再合掌

730SAKURA:2012/05/26(土) 20:36:02 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
「阪急のメガネコ−ナ−」に行きまして、“パ−トナ−のメガネレンズ”が〜〜><
外れていましたので、その「修理…」その間に、私のメガネまで“クリ−ニング!!”
して下さり、いろんな“レンズの知識”…頂きましたが…
更に!最近の最新情報内容…etc話している内に。【タイム・オ−バ−!!】なの?
あわてて“事務所”に戻り…ホット!!
此の様に「知識」を知らずにの“買い物”と……?「知識豊富な人」の買い物は??
かなりの隔たりがあります〜〜〜ネ!
“買い物”でも、この様な事が言えますから、ましてや〜〜〜><
【真理…】の勉強でも、豊富に受け入れて行く人の方が、早く!【大成…】します、
その様に、改めて思いました…。
【SAKURA…】も今から、新たに“モット〜モット〜”いろんな角度で読書…です。
その“第一歩”は〜〜〜“今日の言葉”から参りましょう!!

■【幸福を招く365章】

====相手の幸福のために祈れ=====

何か問題が起こって来ても、すぐ、「それは何某が悪いのだ」とその人を
呪うような考えを思い浮かべてはならない。
人を呪うような考えを起せば、その呪いの精神波動があなたを中心として
宇宙の中に必ず何等かの攪乱作用をおこすのである。すると、その派長に合う
乱れた精神波動があなたを中心として集まって来る。
それは結局、あなたの不幸を惹起することになるのである。
それよりも、その人を赦す思念をすべきである――「私はあなたを赦しました。
私はあなたを愛しております。幸福になるようにいのります」と静かに相手を
祝福する言葉をねんずるのである。すると神の秩序は回復されるのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「問題」が発生しますと…直ぐ!他人に“責任転嫁”される方が多いです〜ョネ?
そう云います??“私…?? ウフフ ”私“もその仲間かしら〜〜〜ン!
今!思いますと…“精神面??”正直申しますと“弱い”〜〜のでしょうか?

でも〜〜〜でも〜〜〜今回、初めて“観覧する立場”で見ていますと…
気が付きました事は、第三者から見ても「気持ちのいい会話?」は、
見ていても、此方も楽しいです〜〜〜ョネ!

今回!私もおおいに“反省”です…。先ず!他人に“責任転換”する前に、
私自身に“心”を振り向ける事でしょう〜〜〜かしらン?
自分自身を磨く……【プロ並みの人間!!!】でしょうかしら〜〜ン!
更に!相手を赦す【祈り…】をします事が…【心の向上…】に繋がるのです〜ョネ!

いろんな形でのいやな事が起きてますので……><
今日から〜〜更に“いやな人達への愛のメッセ−ジ”を投げかけます????

■今日から〜〜この瞬間から〜〜【SAKURA ===>wink!!】

此処は「生長の家〜〜〜〜〜家〜〜〜〜〜」
ネガティブ感情派??「アウト・サイド〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜」
ポジティブ感情派??「イン・サイド〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜」
                               再合掌
PS:s
トキ様へ
「人を呪うような考え方」つまりネガティブ感情…此の“感情のコントロ−ル”
どうかしますと“弱い自分自身”此の時は、ややもしますと
生じやすいモノと思いますが…?
「此の“感情コントロ−ル”そうです〜〜ネ!平常心を持つ…常に!常に!
何か“秘策??”トキ様に取りまして、ありますでしょうか??

731トキ:2012/05/26(土) 21:01:48 ID:48pxKCfs
>>730

 あんまり詳しい事を書くと身元が確定されるので、漠然と書きますが、ある時期、結構、意地悪をされた事がありました。
その時に思案をしたのですが、結論として「神様にお任せしよう」と決めました。つまり、相手が正しいか、自分が正しい
かは今は分からないので、神様がそのうち、教えてくれるであろう、と決めたのです。で、喧嘩はしないが、逆らいもせず、
自分の良心と信仰に任せて過ごしました。結果、意地悪をした偉い人は途中でどこかにいってしまいました。

 これが、小生のやり方でしたが、正しいか、どうかは不明です。

732ハマナス:2012/05/26(土) 21:27:59 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。

「コトバの力」の正しい使い方  (『新版 生活の智慧365章』P.164)

 自己の内に「幸福を開く鍵」が宿っていることを知っても、その鍵をどのように使えば
本当に「幸福の扉」が開くか、その使い道を知らなければ、鍵はありと知りながらも、
その扉を開くことができないでしょう。その鍵を動かす力は“コトバの力”によるものです。
その力をどちらへ回転するか、どの方向へ向けて動かすかによって、どのような大きな
幸福がおとずれるか、小さな幸福しか与えられないかの相違がでて来るのである。

 時には“コトバの力”を逆回転させると、そこから不幸が飛び出して来ることもあります。
“コトバの力”は諸刃の剣であり、自己が間違えば自己が斬られ、敵が間違えば敵が斬られ
るのです。それは十字であり、×(ななめ)となる時は「必殺」であり、正しく構えるとき
「復活」である。“コトバの力”を順に廻すということは、人を称(ほ)め讃(たた)える
称賛の言葉を使うことでり、自己の受けたる恩恵を感謝する言葉を使うことである。
称讃と感謝の方向に鍵を廻転する事が大切である。

感謝合掌

733金木犀:2012/05/27(日) 14:43:00 ID:6XLEmIgs
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則  欽山一鏃三關を破す(2)

[本則] 擧す、良禅客、欽山に問ふ。一鏃破三關の時如何。山曰く、關中の主を放出せよ看ん。良曰く、恁麼(いんも)ならば則ち過(あやまち)を知りて必ず改めん。山曰く、更に何の時をか待たん。良曰く、好箭(こうせん)放ちて所在を着けずと云いて便(すなわ)ち出づ。山曰く、且(しばら)く來れ闍黎(じゃり)。良首(かうべ)を囘(めぐら)す。山曰く、一鏃破三關は即ち且く止(お)く、試みに欽山が與(ため)に箭を發せよ看ん。良擬議す。山打つこと七棒して曰く、且く聽(ゆる)す這(こ)の漢、疑ふこと三十年ならん。

[解釈]  鏃は矢尻である。良禅客という僧が欽山和尚に問うた。「一矢を放って三関をを射貫いてこれを降伏するという語(一鏃破三關)がありますが、私は一本の悟りの箭(や)で以って貪瞋癡(とんじんち)の三つの関所を打ち破ることが出来ると思いますが、そのとき、本当に貪瞋癡の三関を打ち破れたということは如何にして、知ることが出来ますか」
「関中の主を放出せよ看ん」(関所には関所の司令官たる大将がいるであろう。それを探し出して見せよ。それを引きずり出して見せたならば本当に貪瞋癡の三つの関所を打ち破ったことがわかるであろう。貪瞋癡を部下にして人間をまどわしているその迷いの主将たる“根本無明”という奴の首実見(くびじっけん)をするから、その者を引出して見せよ)

と欽山和尚は追求する。良禅客は、一本の悟りの箭(や)をもって貪瞋癡の三関を打ち破ることが出来ると言って見たものの、その三つの関所を支配している司令官たる“根本無明”が何者であるかを知らず、それを射殺すことが出来ていなかったら、三つの関所を打ち破ったなどといっても、本当は打ち破ってはいないのである。そこを欽山和尚は追求して行ったのである。

だいたい貪瞋癡の三毒の兵隊に命令を下して、人間が悟りを得る道を遮蔽している司令官たる“根本無明”とは何者であるか、それを見つけ出して覘(ねら)い撃ちして倒さなければ、三関を破ったということはできないのである。だから、その関所の司令をここへ出して来いと欽山和尚はいうのである。

良禅客は『傳燈録』にもその名が出ている相当立派な僧で巨良和尚という名の人だそうだが、貪瞋癡の根元になっている“根本無明”を今直ぐ考え出そうとしたが、どうしても思い出せないので、「三関を一鏃で美事に破ったなどと軽率な事を申し上げて申し訳ございません。まことに過ちを犯しまして済みません。必ずこの過ちを改めまして本当の答えをそのうちに出しますから暫くお待ち下さいませ」といったのである。

欽山和尚は「それには何の時をか待たん」(どれほどの時を待ったら可いのか)と言う。

すると、良禅客は「好箭放ちて所在を着けず」(いくら好い覘(ねら)いをつけて箭を放っても、思う的に当たりそうにありませんから止めましょう)といって「便(すなわ)ち出づ」大急ぎで出て行こうとするのである。

「ちょっと待った、阿闍黎(あじゃり)よ」と欽山和尚は彼を呼び戻す。良禅客が振り返って戻って来ると、欽山は、
「一箭(いっせん)よく三関を破るという問題はまあ且く後のことにして、この拙衲(わし)の欽山を的にして一箭を放って見たらどうか、そのお手前を拝見したい。何とか汝言句を吐くとか、喝するとか、打つとか」と言った。

突然のことで「良擬議す」(良禅客は、“こうでもない、ああでもない”とまごまごしている)そこで「山打つこと七棒」(欽山は良禅客に七棒を食らわして)、
「しばらく聽(ゆる)す這漢(こいつめ)。こいつ、これでは三十年間もまごまごしているだろうよ」と歎息したというのである。これで本則は終っている。

734SAKURA:2012/05/27(日) 21:27:32 ID:JC2fkQZo
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA…】で〜〜〜す。五月晴れ??の一日でしたが〜〜♫
今日は“自宅”からの“メッセ−ジ”です…「空気清掃機の掃除!!」……
話は変わりますが“メ−カ−”によって「掃除のやり方」が?色々ですモノ?
今回「新しく買った品物…」なのですが……
“フイルタ−”が、“1年保証??”持つはずなのに〜〜♫〜〜><
も〜〜〜〜〜〜〜〜う!【真黒…黒?黒?〜〜〜苦労?】です…。
【掃除に〜〜掃除に〜〜と】次々と増えて行く【SAKURA】でした…。
そうなのです〜〜〜ョネ!!【灰かぶり〜〜〜♫〜〜〜の“私”】
“時計の針”が〜〜【キンコ〜〜〜カ〜〜ン〜♫〜】となり、気がつきますと?
【シンデレラ姫?=>なりそこねた“靴”もはけず…“お昼”抜き??><
さて!!「今日の言葉」を〜〜〜“本を両手”にはさんで…“神”に〜♫〜
「吾此の“書”を開き給いて〜〜〜☆〜〜」ペ−ジを“オ−プン”!

■【栄える生活365章】
――――真に幸福を得る言葉――――
真に幸福となるためには、自己の欲望を正しき方向に制御しなければならない。
制御なき欲望の飽くなき充足を求めるのは、恰もゴ―・ストップの信号なしに
十字街頭に無数の自動車を勝手に気儘に走らすようなものであって、
必ず自分自身が傷つくのである。“肉体的自己”の利己的欲望を適当に
制御した者のみ、“本当の自己”の自由を得るのである。
真に幸福となるためには謙遜で下の位置につかなければならない。
自己の現在の力量以上に高き位置につこうとするならば常に下に落とされる
危険を感じてその人は幸福になることはできないのである。
真に幸福になるためには寛大な心をもたなければならない。
人を憎んだり恨んだりしている限りに於て、その人は常に自分自身の心を
切りさいなんでいなければならない。本当に人を赦したとき、
あらゆる事件と事物とを感謝をもって受け取ったとき、
人は魂の解放を得るのである。            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆                       

■人は“幸福を探し〜求めて〜♫〜”【青い鳥…探しに??】
勿論!!私も“幸福”になりたいです〜〜〜ョネ!過去を振り返ってみますと…?
思い当たる節が、多々ありま〜〜〜すデショ? ><
やはり【 心の法則 】ですから…
間違った【法則…】に、そして、その方向に行った時は、矢張りそれなりの事が、
“時間・空間”を隔てて、それなりの事物が、必ず生じますモノ〜〜ネ?

■【感情…】の赴くままにての“行動”は、確かにその【瞬間…】は、良いかも??
しれませんが〜〜〜〜〜><
「良い種」を、蒔いていませんから…><「悪い種」が発芽して……><
結果は【幸福の種】を果たして?頂く事ができますでしょうかしら〜〜ン?
かの「ステラ・テリルマン女史」が、おっしゃいました様に…
必ず!必ず!〜〜〜〜【円環の法則…】私自身も身近な人で…その”円環“が…><
現在来ている人を知っております…。■【14年間の円環…】
「悪の種」を招いて【不幸…】になっていくのでしょうかしら〜〜〜ン!

■人を怨んだり!人をさげずんだり!は…“ネガティブ感情”ですから…><
私の【マインドコントロ−ルで“ボディティブ”モ−ドに切り替え……】
ここが〜〜〜〜〜そうなのです〜〜ョネ!【一押し?????】ウ・フ・フ!
私の【意志の強さ…】をと、思いますが〜〜〜?
やはり【祈り…】で“簡単”に行きます〜〜〜ョネ!
【簡単=最高】でしょうか???

■最高・最高〜〜〜〜〜〜〜〜最高!と唱えていましたら、本当に!
此の“現象世界=現実世界”に投影されまして…
本当に〜〜【最高の形〜〜!!】が現れてきますでしょうかしら〜〜〜ン?
最後は【心の世界】が、大事だと思います…。

■■【祈り…】は、“人の魂”を最高!最高!に導く【羅針盤…】です〜〜〜ョネ!

                           再合掌

PS:トキ様へ
本日は“神様からのメッセ−ジ”頂きまし時〜〜♫〜〜
【心の世界…心の法則】全てが作るものと思いますが…その時の“問題…”が?
「意志の強さ…思念」フラリ〜フラリ〜☆の時も、あります。〜〜><
トキ様は、失礼ですが、如何でしょうか??

735SAKURA:2012/05/27(日) 21:50:06 ID:MaFB3F2o
>>731
トキ様へ

ありがとうございます…。
ロ−マ字の【SAKURA】です。“メッセ−ジ”拝読させて頂きまして…
【力強いものを感じ〜〜〜〜〜!】させて頂きました…。

「トキ様」…大変でしたです〜〜〜ョネ!やはり!やはり!ですョ〜〜〜ネ?
どんな“境遇”に置かれても?「耐える精神」も大事なのでしょうか??
ここが【金剛心=精神状態】なんでしょうか〜〜〜〜〜♫
つかまえずに〜とらわれずに〜ただ【神様の御心を信じて“行”ずる事】です〜ネ!

私も“神様のアンテナ”に、方向を向けまして、その“電波受信”しました以上…
「神様」が必ず!私なりの“処遇”をして頂けるまで…【神の声】が〜〜
私の“心の中…メッセ−ジ”届くまで、頑張ります…。

■もしも?もしも?〜〜〜♫〜聞こえない様でしたら……「やまびこ」の様に…?
【大きな“声”で〜〜〜一人静かに“神様”に、届け〜〜〜♫〜〜】と
【送受信…】します…。――>【スイッチ・オン…】
きっと〜〜〜きっと〜〜〜“キャッチ”出来ます〜〜〜〜〜ョネ!
                       再合掌

736ハマナス:2012/05/27(日) 23:00:30 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

人の功績を認めよ  (『新版 生活の智慧365章』P.165)

 現象的には、まだ其の人が色々の善き徳や行いや善き性質をあらわしていないように見える時にも、
その人の生命の実相には無限の善徳や善き性質や善き行為が宿っているのである。それを引き出す
のが称讃の言葉の力である。讃められれば讃められた方向に、その人の行動力が動き出して活動を
始めるのである。それゆえに子供を教育する場合などには、特にその子供に欠けていると思われる
徳目が既に本当にあるかのように讃める言葉を使うならば、その子供にやどる実相の完全さが、
その讃められた方向に浮かび上がって来て、その子供が本当に立派になって来るのである。

 しかし子供ばかりではない。無数の大人が如何に称(ほ)められることを欲しているかは、文化
勲章や藍綬褒章(らんじゅほうしょう)や、黄綬(おうじゅ)褒章を貰うことを如何に光栄に考え
られているかで明らかである。人を使う秘訣も、従業員各員の功績をみとめて称める言葉を如何に
巧みに使うかにかかっているとも言い得るのである。

感謝合掌

737a hope:2012/05/28(月) 07:29:13 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

無限の値打の生み出し方


私達が、もし自分のすべての時間を本当に生かすという事ができますれば、
私達は恐らく、今生きている何倍、否、何十倍も生きられることになるでしょう。

単に時間的に考えると、一日に四時間雑談に使うところを、その四時間だけ何か勉強すれば、
ただそれだけでも、一つの事柄の大学者になることができるのであります。
人が出世できないのは時間の利用法を知らないからです。

その上、四時間を勉強すればその四時間だけ助かると思いますけれども、
それはそんな小さな問題ではないのであります。
そ四時間の時の流れの時々刻々を本当に生きてゆく事にしましたならば、
その四時間の中の時々刻々、一分一秒一瞬が又おのおの無限の価値をもってくるのであります。

そうなりますと、私達の時間の生かし方によっては、
計算のできない無限の価値がそこから生まれてくるのであります。

(つづく)

738金木犀:2012/05/28(月) 10:51:31 ID:6XLEmIgs
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則  欽山一鏃三關を破す(3)

[頌(じゅ)]  頌に云く。君が與(ため)に放出す關中の主。放箭の徒、莾鹵(ぼうろ)なること莫(なか)れ。箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(ふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一鏃破三關。的々分明なり箭後の路。君見ずや、玄沙言へること有り。大丈夫天に先だちて心の祖と爲る。

[解釈] 「君が與(ため)に放出す」という句の“君”というのは、この頌を書いた雪竇禅師が読者全体に対して呼びかけた語である。「さあ諸賢のために三関の司令官をしている“関中の主人公”をここに放り出して見せるぞ」というのである。「箭を放つ人よ、射損じないように箭を放つのじゃよ」というのが、「放箭の徒、莾鹵(ぼうろ)なること莫(なか)れ」である。眼で見る物質をそのままあると思い、耳で聞く“人々の言うもの”をその通りあると思う、そうして物質はあ’る’と思い、物質をあ’る’と思うから“貧”という関所に人から税をとり立ててたくさん我楽多(がらくた)を積んでいながら、“まだ足らぬ”などと思うのである。そして物質の奪い合いや、領土の侵略などに腹を立てて痴(おろ)かにも喧嘩は勿論のこと戦争までも惹き起こすのである。

この貪瞋癡の三関は人間に無限の税を課し、人間からすべての幸福を奪い去る税関の官吏であるが、その司令官たる「根本無明」は何処から生じたものであろうか。『大乗起信論』には「忽然念起」と示されているが、“忽然”とは“忽ち”ということではなくヒョッコリという意味である。ヒョッコリ出て来るというのは何処から出て来たのか判らないままにそこに姿をあらわすという意味である。

しかし唯物論が貪瞋癡の三関を生ずる根元たる最高司令であることはたしかである。人間が地上に生を享(う)けて、赤ん坊として出現したとき、彼は自分の存在及び他者の存在を、感覚を媒介として直感的に錯覚するのである。すなわち「触れる」ということを通して自分の存在が「肉体」という物質であると錯覚し、外界に存在するものも、母親の乳房をはじめとして物質であると錯覚する。つまり“触れ合う”という偶然の出来事を通して忽然ヒョッコリ「自分」も物質であり、母親の乳房をはじめとする外界の万物も物質であると錯覚的に認知する、そして大抵の初歩の人間・原始的人間は素朴的唯物論に陥る。そして物質をかき集めることが“得”だと思い、“貧”が生じ、物の争奪が起り、“瞋”即ち“怒り”が生じ、諸々の白痴的な愚行が全人類を餓鬼道的、修羅道的、地獄的な騒乱の断層に人類ぜんたいを陥れるのである。この三関の収税官吏を指揮している総司令は、こうして探査して行くと、たしかに、“唯物論将軍”なのである。人類解放のために箭を放つ者は、何より先づ、この“唯物論将軍”を斃(たお)さなければならないのである。

この唯物論将軍が出生したそもそもの根因は、眼耳鼻舌身の錯覚的認識を否定しなければならない。即ち『般若心経』がいみじくも説いているように、[無゜眼耳鼻舌身意」と宣告を下し、「五蘊」を引っ捕らえて「皆空」と判決を下し、これらを“無”と“空”との牢獄に閉じ込めて再びと出られないように封印をほどこさなければならないのである。放箭の徒よ、五官の眼にだまされて、ボンヤリするな。イエス・キリストは「汝らは“見ゆ”と言う罪は残れり」と肉の眼の存在を弾劾しているのである。「箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(ふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一鏃破三關。的々分明なり箭後の路」とはこの事である。敵将を斃(たお)すには、その箭がどっち向いて行くか、先づ放たれた箭の描く路線をハッキリ見なければならないのである。玄沙の岑(しん)和尚が言った言葉に「大丈夫、天に立って心の祖となる」というのがあるが、「祖師嘗て西せず、未だ嘗て“心”を以て傅授せず」と、垂示にある通りであるから、大丈夫たる者は、天が吾々にこの真理を示してくれるよりも、天に先立って、自分みずから“心”の眼をひらいて“心の祖師”となる自己に宿る“生命の實相”を知る位でなければならないのである。

739復興G:2012/05/28(月) 18:41:05 ID:84pogn5s

 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
 一月二十二日〜一月三十一日の金言を謹写投稿させていただきます。合掌 拝

     ○

 一月二十二日 九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日

  吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)

 金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。凡夫のはからいが「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、凡夫が如来になるのではない証拠である。仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると道元は『正法眼蔵』で喝破している。たとい吾等が汚れたように見えようとも、人間は本来汚れているものではあり得ないのである。
 発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、人間はその仏なる実相を露呈する。
 そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、打てばそれがあらわれる。
 打つのに色々な打ち方がある。
 昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 生長の家は「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」と言って打つ。どちらが効果があるかは既に実証済である。

     ○

 一月二十三日 寒菊競(きそ)い開く日

  十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示―神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)

 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇(ひとつのいえ)である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載(の)るものは幸である。
<つづく>

740復興G:2012/05/28(月) 18:42:05 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月二十四日 妙音囀(てん)ずる日

  「汝(な)と我(あ)と天(あめ)の御柱(みはしら)を行きめぐりて国生みなさんと思うは如何に?」と如何にも天地のいのちの交流の厳かさが見えるようではありませんか。これを誰も卑猥に感ずる者はない。(『生命の實相』第二十巻)

 鶯(うぐいす)が啼(な)いている。実に澄んだ声で啼いている。玲朧(れいろう)たる声だ。どこにも汚れの感じられない声である。それは雌雄呼び交す声であるのに何の卑猥も感じない。天地そのものの讃歌のように聞えるのは何故であろう。それは鶯には我が無いからだ。天地の生命と一枚になっているからだ。
 梅の花が香っている。清浄そのものの匂いよ! その一輪一輪の浄潔とでも、浄厳とでも言いたいような花びら、雌蕊雄蕊(めしべおしべ)の美しきには何らの卑猥の影もとどめない。
 それだのに植物学者はその花はやはり雌雄呼び交すための装(よそおい)でしかないと教える。
 人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずると云うのは、人間には我があって、天地の生命と一枚にならないからである。エデンの楽園を追放せられたのは、アダムとイヴとが智慧の樹の果を食べたからだと云う。
 天地の生命と一枚になり切らないで、色々と人間の理窟で考える、打算で考える、欲で考える。そこに純潔であるべき筈の恋愛が不浄なものとして感じられて来る。

     ○

 一月二十五日 光明充満する日

  自分の利益のために楽しもうと思って性欲を扱いますと、性欲が汚れたものに見えて来るのです。(『生命の實相』第二十巻)

「高天原(たかあまはら)に神詰ります」と実に朗々とした声で祝詞が響いて来る。朝の空気を動かし、霧を動かし、「高天原なる大宇宙に神が充満している」と云う観念が天地を動かす、実に荘厳だ。それを古代日本人は知っていた。常に古代日本人は「大宇宙に神遍在す」と誦(とな)え念じ、邪気を祓(はら)っていたのである。神が充満しているから、悪の存在はあり得ない。尽天尽地ただ神のみである。神光遍満、邪気不在である。その大宇宙を「家」と見たのが古代日本人である。吾々はそれを生長の家と名附けた。「生」の縦に生びる神漏伎(かむロギー)と、「長」の横に長びる神漏美(かむロミー)と、一つの中心普遍的神漏皇(かむロゴス)が陽陰の対偶と分化しあらわれて、陽陰の偉大な素晴しき交流となった家が「生長の家」である。私の家が生長の家ではない。大宇宙が「家」であり、生長の家の理で充たされている。生長の家の理を隠蔽することなく生きた時に、其の人が生長の人となり、其の人の家が生長の家となり、国家が生長の国家(いえ)となる。組合(クミ)と云う意味での国々は世界到るところにあるが、国家すなわち国がそのまま家族であるのは日本のみである。全世界を家族となし全世界動乱の因を断つのが日本の使命である。
<つづく>

741復興G:2012/05/28(月) 18:42:58 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月二十六日 万事和する日

  生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。(『一流の人・妻・子を作るには』)

 生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。生長の家は個人主義ではないのである。「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。肉体のないところに個人はあり得ないからである。個人は無いが全体は有る! 今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。過去の政治は個人を目標とする政治、又は対立国家を目標とする政治であったが故に全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、その全体とは神に在(ま)しますことを知り、その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、生命のひとつ流れを把握すべきである。

     ○

 一月二十七日 久遠皇位を胆(きも)に銘ずる日

  火にも焼けざる皇位の久遠無窮性を立証せんが為に、火を着けて皇子をお生みになったのです。(『驀進日本の心と力』)

 生命(いのち)のひとつ流れの実相を把握するとき、眼の色は異り、皮膚の色は異るとも、八紘は一宇であり、一家庭であり、すべての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが出来るのである。
 ナチスの血の哲学、民族の哲学はゲルマン民族の栄えのために把握されたる哲学であった。日本の哲学はそんな狭い精神でないのである。東洋民族よ聯合せよ! と云う東洋民族の哲学でもないのである。それはまだ血を見ている。血を見るのは皮膚の色を見ることであり、骨格を見ることであり、人種の差別を見ることである。人と人とを分割することである。
 外国の哲学はどんなに優れていても結局は分割に落着く。日本の哲学は包容帰一である。ヒトとは霊止(ひと)であり「理念止まる」である。全世界が一家庭たる理念降下し、義に於て君臣、理念に於て陛下の赤子である実相を知るとき、何人種と言えども既に日本人である。「日本を守る会」は他国と対立して、小さい現象日本国を守るのではない。天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。
<つづく>

742復興G:2012/05/28(月) 18:43:40 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月二十八日 一切人間を礼拝する日

  既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)

 善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。吾々の生命の本性が善なのである。吾々の生命の本性が善であるが故に、善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、吾々をして善を為すように強制する。この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。
 病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。
 すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

     ○

 一月二十九日 心朗かなる日

  病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。(『生命の實相』第五巻)

 心朗かなれば病はない。他を憎まなければ病はない。悲しまなければ病はない。物思いに沈むことなければ病はない。怒ることなければ病はない。気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。不平に思うことなければ病はない。呟くことなければ病はない。ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。病気になって都合よしと思うことなければ病はない。家に争いなければ病はない。仕事を嫌うことなければ病はない。隠す心なければ病はない。羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。
 心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。心暗ければ本当に善の資格はないのである。人を愛すれば病はない。すべての事物を愛すれば病はない。愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。
 心顛倒するは智慧が欠けているのである。智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。
<つづく>

743復興G:2012/05/28(月) 18:44:54 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月三十日 美点を見る日

  憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)

 心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。一局部だけを見ずに大局を見る。短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。冬のうちに春の兆していることを知ることである。陰極は必ず陽転することを知ることである。
 心朗かになる道はすべての人を赦すことである。憎しみを放ち去ること、憤りを含まぬこと。すべての人の美点を見ること。相手の立場に自分を置いて考えること。気にくわぬことは忘れること。呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。
 人生の戦いはその人の執る生活の角度で最初にきまるのである。負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って嘆き悲しみ呪い呟く。呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

     ○

 一月三十一日 絶対善を悟る日

  善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。(『生命の實相』第七巻)

 すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。吾が親または子を信ずること。吾が夫または妻を信ずること。兄弟姉妹の美しさを信ずること。すべて人の善さを信ずること。形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。
 阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。子を信ずるとは放って置くことではない。「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

744SAKURA:2012/05/28(月) 20:56:26 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜〜す。

“不穏な空気”でしょうか??【知らざるモノ〜あたわらずモノは〜】
先程“パソコン”を開いて見ますと“ビックリ・マ−ク”私の心模様は??
【騒ぐ…?】ようなもの???なのでしょうか???
先ず!【現象で物事…】を、見ているように、感じますが…
先生の本を開きます……【今日は!何と【法則】で〜〜す。】では……「スタ−ト!」

■【幸福を招く365章】
――――「法則」が全てを成就する――――

「私は健康である。私はけんこうである。私は健康である・・・・」
病人はこの言葉を暇のある毎に唱えよ。但し、その回数多きによって自分の言葉の力で、
健康になるのだと考えてはならないのである。そう引っかかると、唱える回数や、
思念の力の薄弱さなどを考えて、結局こんなことで祈りがきかれるだろうかと云う
不安と疑いとに導かれ、そのため効果がなくなってしまうのである。
吾々が善き言葉、健康の言葉を自分から出すことは、ビルディングのルーフから手を
突き出して風呂敷包を自分に手から放つと同じである。
あとは「法則」がその風呂敷を地上に必ず落下せしめる。汝の言葉が汝を健康に
するのではなく、汝の言葉が種となって、後は法則がそれを成就するのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【すべて法則…】で、成り立っているんでしょ〜〜〜ネ!
【宇宙〜〜〜〜〜は?“甘露の法雨でも…
”五感“を超越して…“六感”さへも超越…つまり二次元・三次元・四次元の世界へ…
全て!〜〜〜〜〜〜〜“宇宙…”に、生きんです〜〜〜ョネ!

さて【甘露の法雨…】を、もっと分かりやすくしたのが〜〜〜今回!
【雅宣先生の示されました“お経”…】その様にも思えますのです。

■■【奇蹟…】と云うのも、その人の【心の法則…】でショ!!
振り返りますと【成功された方達】を見ますと……
ほとんどの方は【信念・哲学…】があります…。
そして【法則…】に従がった方達ですが……!!
但し「成功も、少なくとも“15年以上”の方達…」を、私は指しています…。

■■話は“ブレイク”しますが……
あの「堀江貴文さん」は、確かに!“財…”を作られましたが〜〜〜><
【法則…法則!】に従わない!!そうですョ〜〜ネ!
神の御心にあった【法則】に!従わなかったのではないでしょうか??
■【法則に従った、正しい“理念”が必要です!!!!】…【成功の条件でしょうか】
“言葉の力”で唱える事は……【宇宙の潜在意識】に導いていくのです〜〜ョネ!
つまり!つまり!
【唱えるながら〜〜〜“宇宙に貫く事!宇宙に行かせる思い!此の事は”法則“】
なんです〜〜〜ョネ!!!その様に思います…。

それで「雅春先生」は【法則…】が…
■“風呂敷を地上に必ず落下せしめる”私自身の心“の奥に入る事!
これが落下せしめる……宇宙の法則に従うことが「成功のマイロ−ド」…!

私は此の様に“把握…”出来ましたが……今回!
【新聖経…??】と申しますか、今までの〜〜「聖経…」を分かりやすく“解説”
していますのでは〜〜〜?
今から「若い方達」を導いていく上では、「御教え」はすばらし〜〜イ !!
さて!これを一般の方々に広めるには?ついて行ける“内容=言葉”では?
又それが必要ではないのでしょうか〜〜〜〜??
                       再合掌

PS:トキ様へ
今回【新・聖・経…】と申しますか??正直話しなのですが……
聖経の唱えられている“言葉”現代人に取りまして?或いは、又!
若者達に取りまして【理解度…】如何なものでしょうか?
例えば…全くの「信仰心」のない方々であるならば…少し反発する?点もあるのでは?
そう云います私も?勉強中!!!!!ウフフ
今回の「新・聖・経…」と申しますか?先ず!!!【イメ―ジ】としては、
分かりやすいのではないでしょうか?どの様に思われますか…?
【害…】?とは別にして…“白紙”で唱えられました時〜♫〜どうでしょうか?

745ハマナス:2012/05/28(月) 23:10:38 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。ありがとうございます。

実相を礼拝して賞めよ (『新版 生活の智慧365章』P.166より)

 しかし、人を称(ほ)めるにしても、その人から善き行為や性質を引き出す方便又は
技術として称めるのでは効果も薄いし、また本当ではないのである。実際にすべての
人間には実相として「神の善徳」が宿っていることを信じ且つ知り、その実相を礼拝して、
誠心(まごころ)で賞め称えるのでなければ本当ではないのである。これを『法華経』に
於て常不経菩薩(じょうふぎょうぼさつ)がその模範を示し給うて、その相互礼拝によって、
人々が仏の実相をあらわして成仏することを釈尊が示し給うたのである。

 生長の家の教えは、「汝ら天地一切のものと和解せよ・・・和解するとは怺(こら)え
合っていることではなく、感謝し合ったとき本当の和解が成立する」との根本的教示によって
出発するのである。相互礼拝、相互称賛も、本当にそれが手段や技術でなくなるためには、
互いに感謝し合う心境になることが必要なのである。天地一切のものに感謝するとき、
天地一切のものの美点が自然にあらわれて来て其人を取り囲むようになるのである。

感謝合掌

746a hope:2012/05/29(火) 07:50:10 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時間を拝んで使え


ですから私達は常に時間をどう使ったらよろしいかというと、
拝んで使うようにするとよいのであります。
時間を拝む気持ちになるのであります。
私達は常になんでも拝む事を忘れてはならないのであります。

生長の家は人間を神の子として拝み合うのでありますが、
時間もやはり神の生命(いのち)の流れだと考えて拝むように使うのがいいのであります。
とにかく、時間は尊ばなければならない。

単に利益だけを考えて、「これだけ捨てたら惜しいものである」と思って、
時間を大切に使うのも結構ではありますが、もっと深く考えますと、
ここにこういう時間に生きているという事は、
これは神様の生命の流れの中に一日一日をこうして生かされているということで、
実にありがたい事である、と、こう思う事によって、私達は今この生きている事実に、
本当に掌(て)を合わして拝む気持ちが出てくるのであります。

そうして今までここにこうしてこの位置に生かされているという事、
それ自体が実にありがたい事であると拝めるようになりますと、
本当に時々刻々が捨てられないところの一つの尊いものになってきて、
自然に時間を無駄にしなくなるのであります。

(つづく)

747金木犀:2012/05/29(火) 13:12:34 ID:6XLEmIgs
復興G様、光明道中記謹写、有難うございます。素晴らしいご文章の力、
読んでいて、まさに心に響くような言葉の芸術と仰った通りの
霊感にあふれた言葉の力です。


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