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死んだらどうなるの?
1
:
ななし
:2011/05/13(金) 00:14:35
死んだらどうなるんでしょう?
サイト内全部読んでないですが、それだけ知りたいです。
52
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:51:08
次に空間的な問題、was a beeさんが疑問に思われた以下の部分です。
>「私やあなたはいない、たったひとつの意識だけがある」
>みたいなことを書いてました。これを読んでなんとなく「そういうものかな?」と思ったんですが、
>でも「で、それって具体的にどういうことだよ?」とハテナマークが残ります。
実はこのような問題について、以下のページで考究しています。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/128.html
#id_6d771e16
仮に「私」を人物Aとし、スワンプマンのような複製体を人物Bとして、Aには心的現象A-mindがあり、
Bには心的現象B-mindがあるとします。A-mindと B-mindが、例えば同質の「私こそが本物の私である」
という心的現象だとするならば、「A-mind = B-mind」の等式が成り立つのか、と問うことができる
はずで、私は回答が三つありうると考えました。
①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。
②全ての性質は同じだとしても、両者の唯一性によって両者は異なる存在だと解釈する。
③心的現象が二つあるようにみえても、実は一つである。
私の立場は③になります。上記ページで詳細に論じているのですが、
①では独我論的問題が抜け落ちており、②ではパーフィットのスペクトラムの思考実験に答えられません。
私は創発説・汎経験論ともナンセンスだと考えます。時空上に記述できる物理状態と時空上に
記述できない心的状態を存在論的に調和させるのは無理であり、従って消去法的に③となります。
しかし論理的に③が正しいとはいっても、「で、それって具体的にどういうことだよ?」とwas a beeさんが
いうように具体的イメージを描くのは困難です。
しかしイメージの断片を得ることはできるかもしれません。
まず他の人が怪我をしても、この私は痛くないという単純な事実があります。それこそが
「一つの肉体には一つの心が宿っている」という素朴実在論的な思い込みを生じさせます。
しかし実は、その場合の「私は痛くない」というのは実証された事実とはいえません。
その場合ほんとうに事実なのは、「私と思える肉体に痛みを感じた記憶が無い」ということ
のみです。
53
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:53:59
自我と他我には明確な「境界」があるとするのが素朴心理学的な見方ですが、
無主体論的な立場ではその境界は曖昧なものとみなせます。
またデレク・パーフィットなど、人格の同一性についての還元主義的な立場でも同様です。
サールの見解では、現代の心の哲学者は「人格」概念についてはヒュームのような還元主義
的な立場を取る者が多いそうです。
このような立場における「自我」のイメージはカントの統覚の概念とヒュームの観念論を
演繹すれば理解できます。
中島義道は、たとえば「私の痛み」などは反省的に理解されたもの、という見方をしています。
カントのいう統覚です。統覚される以前の状態はXという独特の刺激がそこに生じているだけであり、
それをあとで記述すれば「痛い」となる(Xは大森荘蔵のいう「立ち現れ」になります)。
ヒュームのいうように「印象」から「観念」への移行とは、世界から刺激を消し去り、
そのかわりに世界全体を刺激とは全く異なる観念によって埋め尽くすこと――
そうした操作をするものこそ「私」であり、「私」が痛みを感じているのではない。
痛みは世界の側にあるが、「われにかえって」「痛かった」と過去形で表すとき
過去と現在という両立しない時間をつなぐものとして「私」が登場する、と中島はいいます。
このような正統なカント――ヒューム解釈からは、「他者」イメージについての新たな
展望が開けると思います。
知覚というものが反省的に理解されて初めて「私」になるならば、理解される以前のXは
「他者」だと考えることもできます。
すなわち、統覚作用のみが「私」を出現させるとすれば、私以外の人物Bや人物Cなど
の「他者」と「私」の関係は、絶対的なものでなく相対的なものであるといえます。
以上のような他我論に加えて、時間と空間の非実在性(つまり時空を感覚の「性質」とすること)
を併せて考えれば、エレア派的な「一元論」は矛盾の無い、というよりむしろ自然な存在論で
あるとも思えます。
54
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 20:00:09
以上、解答としては不十分なのは承知していますが、いかんせんカントがいうように時空は知覚の
形式として常に伴っているものですから、われわれは「時空の無い世界」を「感じる」ことはできません。
ただ論理的に可能性が示され、イメージの断片を想うことができるだけでしょう。
ここで重要なことですが、実はこのスレッドのタイトル「死んだらどうなるの?」という問いの
核心部分が、その点にあるのだと思います。
われわれは「自分」が「在る」と素朴心理学的に思っていて、その「在る」ものが「無い」ものに
なるのが「死」だと素朴に思っています。
しかし、
>>2
でも書いたのですが、そのように「在る」ものが「無い」ものになるという死の
イメージは論理的に間違っています。
ならば、人間は今「在る」状態のまま永遠に在り続けるのかといえば、そうではないのです。
上述したように時空の実在性を否定して、それを観念の「性質」とする一元論の立場からは、
そもそも人間の「在り方」のイメージ自体が根本的に変わってきます。
つまり、デカルトが述べたように、確かに「想う我」は在るのですが、われわれは
その「我」の「在り方」について大きな勘違いをしているのだと思います。
われわれは自分が常に変化しているように感じているけれど、その変化は「我」の性質であり、
自分の本当の「在り方」はエレア派の哲学者が考えたように不生不滅で、変化もしないものだと考えます。
55
:
すてまーす
:2012/04/28(土) 04:38:57
最近この場所を知りました。良くまとまっている感じで、良いですね。
堆積の矛盾についてですけど、
現象的意識やクオリアに対してもメビウスさんが適用した
パーフィットの混合スペクトラムの思考実験についてのメビウスさんの考えについて、
物理主義的に「同じ」現象的意識やクオリアが人物Aと人物Bにあるとみなしても、「私」についての堆積の矛盾はないと思います。
矛盾や逆説であると感じた原因は、人物Aを「私」をした場合、
100%交換した場合に、自分を、人物Aにとっての人物Bであると、想像してしまうことだと思います。
ちゃんと想像するなら、100%交換した後の自分は、交換する前の自分にとっての、人物Bにとっての人物Bです。
だから、普通に、物理主義的に、それぞれの脳や状態がそれぞれの現象的意識やクオリアや唯一の自分を作っているだけとの考えは、有効だと思います。
ただ、自己の同一性や継続性については、まだ考えがまとまっていません。
56
:
was a bee
:2012/04/28(土) 12:44:59
>>52-54
返答ありがとうございます。
>いかんせんカントがいうように時空は知覚の
>形式として常に伴っているものですから、われわれは「時空の無い世界」を「感じる」ことはできません。
>ただ論理的に可能性が示され、イメージの断片を想うことができるだけでしょう。
これを聞いて逆に納得できました。
理屈から導かれるけれども、具体的なイメージとしてはうまく描けないもの、そういう位置で理解していくことで
良いなら、自分にも少しは理解できそうな気がしました。
20世紀以降の物理学が提示する世界モデルなんかも、まさにそういうもの「理屈としてこうだが、具体的にどういうことか、うまくイメージできないもの」の典型と思います。
たとえばアインシュタインが作った方程式に基づいて「時間の進み具合の差」を計算してGPSの精度を上げる、といったことは
現代では技術的な問題として普通に行われてるようです。
しかしそういう計算をしている技術者であっても、おそらく誰一人として、相対論的な時空というのが
具体的にどういうことなのか、というのはイメージできてないでしょう。
シュレディンガーが作った方程式も、ナノスケールの世界の現象を理解するために
あらゆる領域で使用されている式です。
たとえば今この私達のネット世界を支えている半導体という部品、この部品の設計と制御も、最終的な所はシュレディンガー方程式に基づく計算で行われます。
しかしシュレディンガーの式が提示する世界観が、具体的にどういうことかをイメージできるかと言われると、おそらく誰一人としてそれを想像することはできていないでしょう。
理論物理の世界でモデル化される、5次元の宇宙とか26次元の宇宙とかも似てますね。
理屈としての要請からそうしたモデルが現れる、または作ることが出来る。けれども、それがどういうものなのかは
人間には具体的にイメージすることができない。
なぜなら時間・空間という人間の知覚の形式に当てはめられないから、ですね。
57
:
was a bee
:2012/04/28(土) 13:19:18
そういえば、カントがいったことの延長線でしょうが、ドーキンスが何かこんな講演をしていました。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/richard_dawkins_on_our_queer_universe.html
そこでホールデンの言葉が引用されています。
「宇宙は我々が想像しているよりも奇妙なのはもちろんのこと、我々の想像する能力を越えて奇妙なのではないだろうか」
私達の認知の能力がある特定の形式を持っている、ということの現代哲学での扱いは
進化論的認識論とか身体化された認知とかのキーワードの元で議論されてるようです。
58
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 00:24:56
>>55
すてまーすさん、
>100%交換した場合に、自分を、人物Aにとっての人物Bであると、想像してしまうことだと思います。
>ちゃんと想像するなら、100%交換した後の自分は、交換する前の自分にとっての、人物Bにとっての人物Bです。
これはどちらでもいいんです。
問題なのは、何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのか、という問題に合理的に答えられないということです。
59
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 00:43:41
>>56
認知的閉鎖の壁があるでしょうね。
量子力学の描く世界は日常的な世界観とあまりにかけ離れているので
イメージするのが困難なのですが、私などは逆に、その点にこそ心身問題
が発展する可能性を感じています。
アプローチの方法は全く違いますが、ペンローズなども量子力学に可能性を
見出そうとしているみたいですね。
彼の量子脳理論についての著作はほぼ理解不能でしたが。
60
:
すてまーす
:2012/04/29(日) 02:17:15
>> 58
メビウスさん。
人格の同一性のページの説明だと、物理主義的な考えを否定する根拠として、堆積の矛盾を挙げていたと思います。
ところで、100%交換した場合の、俺が示した考え方は、合っていると思いますか?
100%交換した場合でも、「私」と「他者」が入れ替わるのかを合理的に答えられないと考えているのでしょうか?
もし、そう考えているなら、そのことは物理主義的な考えを否定する根拠にはならないと思います。
物理主義的(社会心理学的?)な考えだと、100%交換したら、俺の先の投稿で示した考えのように入れ替わっているとの考えだと思います。
で、100%以外だとどうなるかは、もう思考実験では確かめられません。でも、そのことは物理主義的な考えを否定する根拠ではありません。
それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけとの考えですから。
それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
どれ程の交換の比率でどんな自分になるかは興味深い題ではありますけど、物理主義的な考えを否定することにはなりません。
100%の交換で堆積の矛盾がないのですから、100%までの比率であっても、矛盾がないでしょう。
つまり、物理主義的な考えを堆積の矛盾で否定するなら、100%交換した場合の俺が示した考え方が合っているのかなどを具体的に答えることが要ると思います。
「これはどちらでもいいんです。」って、全く根拠になっていません。
61
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:02:52
>>60
すてまーすさん、100%交換した場合は「私」と「他者」が入れ替わるとみなせます。
>それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけとの考えですから。
>それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
この考え方には存在論的独我論の問題意識が欠如しています。
私の示した思考実験は心の哲学に独我論的問題を持ち込んだものです。
ちなみにトマス・ネーゲルも独我論的問題意識によって汎経験説を否定しています。
いわく「多数の自我が集まって単一の自我が作られるというのはありえない」と。
この問題は独我論的問題意識が有していなければ全くわからないでしょう。
もし、あなたが例えば大庭健のように独我論的問題意識をもっていないのであれば、
私がどう説明しようと大庭健と永井均の議論のように全くかみ合わないものになると思います。
62
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:15:31
とりあえず、独我論的問題を示してみます。
私を人物Aとし、別の人物Bがいるとします。
人物Bに「腹が痛い」という現象的意識・クオリアがあるとします。
でも、当然ですが「私」は全く痛くありません。
これが、人物Bが「他者」であり、人物Aが「私」であることの意味です。
独我論的問題意識の出発点です。
では仮に、人物Bに「腹が痛い」という現象的意識があり、同時に私である
人物Aにも同様の「腹が痛い」という現象的意識があったらどうでしょう。
「私」は「他者」と同一になるかといえばそうではありません。
私にとっては、ウィトゲンシュタインがいうように「ほんとうに痛いのは自分の
痛みだけ」です。
しかし、上で示した絶対的に相互排他的な関係にあるような「私」と「他者」が、
物理的状態――脳の状態に対応しているという物理主義的前提から堆積の
パラドックスが生じます。
物理状態は空間的に規定できるため何%というような分割が可能です。
しかし「私」や「他者」はそのような分割は不可能です。
63
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:35:26
たとえば「私」の3%と言うのは簡単ですが、そのような言葉は単純にナンセンスです。
SFの転送装置のようなもので人物Aと人物Bの脳細胞を少しずつ交換することは
「論理的」に可能ですが、「私」は常に論理的に「一つ」でなければなりません。
なお、上で私が述べた「私」とは、問題性を個別の現象的意識やクオリアにまで還元しており、
>それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけとの考えですから。
というような現象的意識・クオリアそのものを指標する語として「私」を理解してもらって結構です。
その個別の現象的意識やクオリアにも堆積のパラドックスは成り立つというのが私の論旨です。
64
:
メビウス@管理者
:2012/04/29(日) 14:46:35
あと、
>100%の交換で堆積の矛盾がないのですから、100%までの比率であっても、矛盾がないでしょう。
この考えがわかりません。
そもそも堆積のパラドックスとは、何%の置き換えで概念が変化するのか
論理的に解答できないという主旨のものです。
ひょっとしてテセウスの船と勘違いしているのではないですか?
65
:
すてまーす
:2012/04/29(日) 23:55:14
>>61-64
メビウスさん。
もちろん、独我論的問題意識をも理解して踏まえて、考えを示していましたよ。
メビウスさんの最後の投稿に論点が綺麗にまとまっていますね。
> ひょっとしてテセウスの船と勘違いしているのではないですか?
いえ、テセウスの船と同じだと言っているんです。で、何%の置き換えで概念が変化するのか論理的に解答できると言っているんです。
つまり、少しでも置き換えたら、もう元のテセウスの船じゃないんです。少しでも置き換えた後に、また元の木材と全て置き換えたら、元のテセウスの船です。2回100%交換した例に相当しています。
色のグラデーションで考えると、分かりやすいですね。端からの端までの間の色はそれぞれの比率毎に確実に変わっていますよね。
で、なぜテセウスの船で考えると勘違いしやすいかと言うと、別の木材を用いても同じ効果(=形や性質など)を得られることが在るからです。
でも、少しでも置き換えたら、元のテセウスの船とは確実に別物です。効果がほとんど同じだけです。元のテセウスの船であるということは、効果だけでなくて、材料もが同じであることを表しているんです。
効果が同じだけど、材料が同じでないことは、双子の例や自分の複製体が自分でない例に相当しています。
つまり、効果だけで考えるから、勘違いするんだと思います。色のグラデーションの例は、効果と材料が同じ例だったということです。
だから、堆積の矛盾はありません。先の投稿で俺が言ったように、
それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけなんです。
それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
少しでも置き換えたら、常に、どの比率であっても、その比率に応じて、入れ替わっているんです。
で、脳を交換した比率が近いと、それぞれの比率でのそれぞれの脳の効果(=現象的意識や私など)もが近いんです。似ているんです。それは物理的な特徴によっているのでしょう。
細胞は日々少しずつ入れ替わっていますし、現象的意識などと脳に因果関係もが在ります。物理状態は空間的に分割できることは、関係がありません。
なので、物理主義的に考えても、現象的意識などの堆積の矛盾はありません。
で、それを踏まえても、特に感覚的にまだ勘違いしやすいことが在ると思って投稿したのが、俺が最初にした投稿です。その勘違いが原因で、堆積の矛盾が在ると考えているのかなと思ったので。
66
:
すてまーす
:2012/04/30(月) 00:13:47
>>65
勘違いしやすそうな部分を思い付いたので、書いておきます。
> 効果が同じだけど、材料が同じでないことは、双子の例や自分の複製体が自分でない例に相当しています。
その「材料」を「状態」と読み替えると、勘違いすると思います。読み替えるなら、「物体」です。
つまり、物体は状態を持っています。で、それぞれの物体はそれぞれの状態を持っています。
つまり、別の物体が同じ状態になることも在るというだけです。
67
:
メビウス@管理者
:2012/04/30(月) 13:25:04
すてまーすさんは
>>60
で私の「人格の同一性」のページを読まれたと書かれてましたが、
論点が違っています。あなたが強調される以下の文、
>それぞれの比率で交換したそれぞれの比率の脳に応じている、それぞれの現象的意識などが生じるだけなんです。
>それこそ、具体的に何%の交換で「私」と「他者」が入れ替わるのかは、問題でないです。
これはデレク・パーフィットの、人格の同一性問題についての還元主義の主張そのままです。
パーフィットは堆積のパラドックスを応用して「人格」概念を個別の心理現象に還元するしかないといいます。
私の立場はそこから更に先に進み、個別の現象的意識やクオリアはそれ以上は他の何かに還元できない、と考えます。
そして、その個別的なクオリアなどを独我論的なデカルトの「私」と捉えます。
その「私」は他の何かに還元不可能にも関わらず、空間的に規定できる物理現象と対応しているため、
なお堆積のパラドックスが適用できるというのが私の主張です。
これが
>>63
で書いた、
>「私」の3%と言うのは簡単ですが、そのような言葉は単純にナンセンスです。
という言葉の意味です。
「人格の同一性」の「派生問題」で私が書いたのはそういう主旨のことです。
68
:
ななし
:2012/04/30(月) 17:48:00
>>65
堆積のパラドックス分かってないね。
これは論理的な問題ではないから論理的に答えたら駄目なの。
69
:
すてまーす
:2012/04/30(月) 18:14:04
>> 67
メビウスさん。
パーフィットは堆積のパラドックスは、非還元主義的に考えたら矛盾するってことですよね。
俺が示してきた考えは、非還元主義でないと思います。(一般的に言うと、現象的意識などを脳に還元している物理主義と言うのでしょうか?)
なので、俺が最初から示してきたように、物理主義的に考えても、堆積の矛盾はないと思います。
> パーフィットは堆積のパラドックスを応用して「人格」概念を個別の心理現象に還元するしかないといいます。
人格の同一性のページを見ましたけど、非還元主義を否定したのは分かりましたけど、(物理的還元をも否定して、)心理現象に還元するしかないと言っているのは、どこに書いてあったのでしょうか?その根拠は何なのでしょうか?
70
:
メビウス@管理者
:2012/05/01(火) 21:42:16
クオリアを物理現象に還元できるという心の哲学における「還元主義」と、自己や自我というものは
個別のクオリアに還元できるという人格の同一性問題における「還元主義」は全く意味が異なります。
このことは「心の哲学全般」「人格の同一性」のページで書いてありますが、この点を理解していな
いと私の思考実験とパーフィットの思考実験の違いはわかりません。
人格の同一性問題における還元主義的立場は、物理主義者でなく二元論者でも取ることができます。
たとえばデイヴィッド・ヒュームは自我の存在を否定しますが、徹底した観念論者です。
パーフィットは人格の問題については還元主義者ですが、心の哲学における還元主義については
否定も肯定もしていません。
なお、タイプ同一説やトークン同一説、またそれらを前提とした機能主義の多くは物理主義であり、
心の哲学における還元主義です。
それらの主張は、それ以上何かに還元できないクオリアを空間的に規定できて分割可能な脳状態と
同一視していることから、堆積のパラドックスが生じるというのが私の思考実験の意味であり、
これはパーフィットの思考実験の手法を借りてはいるものの、分析対象が「人格」ではなく「クオリア」
であることが違う点です。
71
:
すてまーす
:2012/05/02(水) 03:40:15
>>70
メビウスさん。
確かに、私は、心の哲学についての還元主義と、人格の同一性問題についての還元主義の、区別がはっきりしていませんでした。
そのことを踏まえて人格の同一性のページを見てみると、確かに、堆積の矛盾によって物理主義を否定してはいないみたいですね。
で、そのことで一応解決ということで終わろうとも思いましたけど、様々に関係しているので、もう少し続けたいと思います。
まず、人格の同一性のページに書かれている、人格の同一性問題についての還元主義の説明は、なぜか、心の哲学についての物理的還元主義が考慮されていないと思います。
人格の同一性問題についての還元主義的に考えても、観念論みたいだけになるとは限りませんよね。俺が示してきたように、人格の同一性問題についての還元主義的に考えて、さらに、心の哲学についての還元主義のような考えも成り立つと思います。
また、それとは別に、この掲示板でのメビウスさんの投稿では、人格の同一性のページと違って、「物理状態は空間的に規定できるため何%というような分割が可能です。しかし「私」や「他者」はそのような分割は不可能です。」などと、物理的還元を否定しているようです。
なので、今度はメビウスさんの考えについて矛盾していると思ったことを直接に否定してみたいと思います。それは最初から思っていたことなのですけど、全部が関係していたようです。
先に言ったように、なぜか、メビウスさんの人格の同一性問題についての還元主義の説明には、心の哲学についての還元主義が含まれていません。で、そのことが矛盾している結論を生んでいると思います。
人格の同一性のページの文章
> ①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。
> ②全ての性質は同じだとしても、両者の唯一性によって両者は異なる存在だと解釈する。
その①や②について、メビウスさんはこの掲示板で「①では独我論的問題が抜け落ちており、②ではパーフィットのスペクトラムの思考実験に答えられません。」と答えていますけど、そう結論してしまう原因は、物理空間的な性質を考慮していないことや軽視していることだと思います。
そもそも、物理空間的な性質が反映している視覚内容などもが心的現象の1つなので、完全に同じ複製は作れません。なので、独我論的問題は抜け落ちていなくて、既に物理空間的な性質に含まれています。
なので、パーフィットのスペクトラムの思考実験に合理的に解答もできます。そのように独我論的問題は抜け落ちていないので、人格の同一性問題についての還元主義的に合理的に解答すると、それぞれの比率に応じているそれぞれの「私」になるだけです。
> ③心的現象が二つあるようにみえても、実は一つである。
との考えについては、(完全に同じ複製を作れたとしても、)複製した瞬間だけに成り立つだけであって、その後はそれぞれの脳がそれぞれに知覚したりしていくので、そのような物理的な整合性とも合い続けるためには、物理的な還元をもする考えが自然だと思います。③の考えは、絶対に可能性がないとは思いませんけど、かなり無理気味だと思います。
> 「物理状態は空間的に規定できるため何%というような分割が可能です。しかし「私」や「他者」はそのような分割は不可能です。」
については、不完全ではありますけど、神経網を真似したニューロネットが在って、ニューロネットは、1つのニューロンがなくなっても、そのニューロネットの全体が持っている情報は突然に失われません。そんな構造によって、非空間的な性質を得ています。なので、そう対比する考えは関係がないと思います。
後、念のために言っておくと、脳には同一性や継続性などを判断する知性の機能(=統覚?)もが在ります。
72
:
メビウス@管理者
:2012/05/02(水) 22:32:09
あなたは物理主義による還元主義をよく理解せずに書いています。
>メビウスさんの人格の同一性問題についての還元主義の説明には、心の哲学についての還元主義が含まれていません。
私が書いた「①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。」というのが心の哲学の還元主義です。
>物理空間的な性質が反映している視覚内容などもが心的現象の1つなので、完全に同じ複製は作れません。
これは心の哲学における還元主義ではありません。タイプ同一説、トークン同一説、それらを前提とした
機能主義においては、仮に二人の人物がいて、両者の脳の物理構造が完全に同一であれば、それらの「機能」
であるクオリアもまた同一であるとみなします。
空間的位置が異なっていようと関係ありません。「自然の斉一性原理」があるからです。
脳がどこにあろうと、同一構造の脳の機能は同一とみなします。これが物理主義です。
73
:
メビウス@管理者
:2012/05/02(水) 22:33:35
なお、
>それぞれの比率に応じているそれぞれの「私」になるだけです。
これは、意識の超難問は意識のハードプレブレムに論理的に還元可能だとする三浦俊彦や大庭健のような
主張であり、全く独我論的問題意識が欠如しています。
「可能世界論」という分野があります。たとえば双子地球の思考実験があります。
パラレルワールドの地球でもう一人の私がいると考えてください。
そのもう一人の私は物理特性がこの私と同一ですが、それにも関わらず彼は「私」ではありません。
このような思考実験から、端的に「私」であるという事実は、物理特性やクオリアによっては同定
できないというトマス・ネーゲルや永井均の存在論的独我論の問題が生じます。
参考までに、以上のような双子地球のような思考実験は『転校生とブラックジャック』のような永井均の初期の
著作に頻繁に出てきます。存在論的独我論の良書です。一度読まれたらいかがかと思います。
74
:
すてまーす
:2012/05/03(木) 12:18:40
つまり、メビウスさんの考え方や考えの結論は、「物理空間的な性質が反映している視覚内容などは、心的現象の1つでない。」ことが、前提の1つだったんですね。
確かに、そう前提すると、メビウスさんの考え方に俺も納得や同意します。
そう考えていって、矛盾したから、例えば③のような考えを考えていったってことですよね。
因みに、俺は、そう考えていって、矛盾したから、「物理空間的な性質が反映している視覚内容などは、心的現象の1つである。」と考えているって感じだと思います。(正確に言うと、順序は違っていますけど。)
元々は、「俺が示したような(一般的な物理的な考えだと思っている)考えも、在りだと思っていて、そんな考えを、どんな根拠で否定しているのかや、なぜ考慮していないのか。」という感じに思っていたんですけど、そのことについてはっきり分かったので、自分の中で納得や解決しました。
この遣り取りの前半で俺が「還元主義」との言葉について勘違いしていたことによって、余計な手間を掛けてしまって、すみませんでした。
そして、このサイトやメビウスさんとの遣り取りのおかげで、様々なことを吸収できました。ありがとうございました。また機会が在った時は、よろしくお願いします。
76
:
メビウス@管理者
:2012/06/15(金) 02:08:31
>>50-54
で書いたことを「一元論の合理性」としてまとめてみました。
「パルメニデス」と併せて読んでもらえると私の考え方がわかりやすいかなと思います。
パルメニデス
http://www21.atwiki.jp/p_mind/96.html
一元論の合理性
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/14.html
#id_e9f8d93e
77
:
アルキ猫
:2012/06/30(土) 04:59:42
はじめまして。
単純な疑問ですが寝ている間(夢をみていない時)や気を失っている間はクオリアは発生しないと思いますが、これは死んだ時と違うのでしょうか?
78
:
メビウス@管理者
:2012/07/01(日) 00:32:36
アルキ猫さん、こんばんは。
夢を見ていないとされるノンレム睡眠時は、まさに死んでいる時と同じでしょうね。
一般的な「死」の概念との違いは、眠りから醒めると「自分」が再生されると推定
されていることでしょう。
でもその推定は哲学的には大変疑問のある点です。
なぜなら眠る前の私と、覚醒した時点の私は、はたして同一の存在なのかと
疑うことが出来るからです。
でもそのように疑うことができるなら、今たとえば自分に「我思う」というクオリア
(現象的意識)があったとして、5分後にやはり「我思う」のクオリアがあったとします。
ならば、この「我思う」は5分前のと同じクオリアなのか、別のものなのかと同一性を
疑うことが出来るのです。
そのような懐疑は死生観にも適用できます。
自分が死んで50年後、ある人が「我思う」のクオリアを持ったとします。
そのクオリアは今の自分の「我思う」と同じでは無い、ということもできないし、
その逆であるとも証明できないんです。
このように眠りと死の違いをクオリアの観点から考えると、哲学的疑問と可能性は
際限なく広がっていきます。
79
:
アルキ猫
:2012/07/01(日) 04:58:03
メビウスさん、レスありがとうございます。
やはり意識を失う=クオリアの喪失=死(または死と同等の状態)なんですかね。
意識の連続性という点では過去の記憶が元になっていることは確かだと思いますが、記憶を失ったとしても実体としての意識があればそれは自分自身であることは確かです。
仮に事故で記憶喪失になった人を他人はその人を別人とは見なさないですしね。
ただ50年後に生まれ変わった人については何とも言えません。
超心理学でいういわゆる「生まれ変わり」研究も本人の過去世の記憶と歴史上の記録の一致をもって生まれ変わりを実証しようという試みですので、記憶が断絶してしまえば50年前の人物と50年後の人物が同一人物かどうかはもはや実証不能です。
80
:
メビウス@管理者
:2012/07/01(日) 20:52:02
>記憶を失ったとしても実体としての意識があればそれは自分自身であることは確かです。
>仮に事故で記憶喪失になった人を他人はその人を別人とは見なさないですしね。
このような考え方はパーフィットがいう、人格についての「非還元主義」の立場ですね。
つまり自我や自己そのものという「主体」を想定し、その主体がクオリアを知覚するという
認識論です。でもこのタイプの認識論にはデイビッド・ヒューム以来、「無主体論」という
立場から批判があります。
ジョン・サールの見解では、現代の哲学者の多くはヒュームに同意し、個別のクオリア以外に
人格や自己そのものを想定する哲学者は少数派だそうです。
ちなみにパーフィットは「非還元主義」に対して、「自己」の概念が堆積のパラドックスに似た
問題を生じさせることを思考実験で示しています。
パーフィットの思考実験や、そこから派生する様々な問題は以下のページで詳述しています。
よろしければ参照して下さい。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/128.html
81
:
アルキ猫
:2012/07/02(月) 06:50:20
分かりました。
少し勉強させて下さい。
82
:
アルキ猫
:2012/07/04(水) 18:43:15
>メビウスさん
すみません、また質問させて下さい。
「意識がクオリアという最小単位に還元でき、その知覚の束が意識を産み出す」ということは、死んだ場合、肉体を構成する元素と同じように意識は分解されて個別のクオリアに分解される(可能性がある)と言うことでしょうか?
クオリアは残ってもバラバラになって別のそれぞれ別の知覚の束=別人の意識に再構築されるならば、死ねば自分の意識は消失し、この世から無くなるということになるかと思います。
またノンレム睡眠時のクオリアはどうなっているのでしょうか?無意識状態の人のクオリアは消失し、別の人の意識の元になっているのでしょうか?
83
:
メビウス@管理者
:2012/07/04(水) 21:21:06
>死んだ場合、肉体を構成する元素と同じように意識は分解されて個別のクオリアに分解される
これは性質二元論の立場の一つで「汎経験説」という主張ですね。
この立場では自分が死んで無くなるか否かはパーフィットが結論した
通り恣意的な判断だと思います。
なお、それと対立する立場に物理主義の立場の「創発説」というのがあります。
この立場ではクオリアは物質から生成されると考えているので、死ねば自分は
消滅します。
ちなみに、私の考えでは上記の二つの立場はともにナンセンスだと思っています。
私の考えをここで簡潔に説明することはできませんが、もし興味ありましたら
まとめサイトのTOPページに私の見解を記述したページを表記してありますので、
のんびりと読んで頂ければ嬉しいです。
84
:
was a bee
:2012/07/21(土) 18:38:19
>>76
おお、ありがたいです。
あまり咀嚼できてはないですが、何となく雰囲気は分かるような気がします。
とはいえ
「「「今・私にクオリアがある」というクオリアがある」というクオリアがある」・・・
的な無限後退が発生しそうな気もします。しかしそれもまた面白そうですが。
85
:
メビウス@管理者
:2012/07/23(月) 23:41:05
>>84
おや、お久しぶり。
確かに無限後退的な部分があって、その点をどう解決するかが課題だと感じています。
アイデアのひとつは、ゼノンのパラドックスを逆用して、存在は無限分割が可能だと認めることでしょうね。
もう一つは、今まとめているのですが、大森荘蔵の「立ち現われ一元論」のような立場で、
デリダが「差延」としたものに対して、「過去自体」を措定することだと思います。
しかし、いずれにしても永井・入不二両氏が問題にしている「現実性」について上手く説明でき
ないのが難点で、そこが今の私の最大の関心事です。
was a beeさんに何かいいアイデア、あるいは私の問題提起の仕方そのものについての疑問や批判が
あればぜひ伺いたいと思います。
86
:
メビウス@管理者
:2012/07/26(木) 21:05:50
あと一つ、まだまとまっていないアイデアなんですが、
「無限に分割する」というのは論理的には可能でも、自然的には不可能だろうと
考えたことがあります。
自然数を全て数えるというのは不可能です。またたとえば、自分は無限の言葉の
組み合わせを行うことができると考えていても、実際には有限の組み合わせしか
行えません。
つまり宇宙にあるクオリアの数は有限個かもしれないという可能性があるわけで、
実際には無限分割はできないという可能性です。
この考え方は決定論と自由意志の否定に繋がる問題なので、複雑ですが。
87
:
was a bee
:2012/07/30(月) 17:57:26
>>85
メビウスさんの考え、少しずつ読ませてもらってます。
非常にざっくりと考えると、時間も空間も意識へと還元する、意識一元論みたいなものと言って良いのかなと思いました。
そして堆積のパラドックス(人間→馬→ミミズ→微生物→・・・)を考えると独我論的な私という考えを維持しがたい、
この批判は、私もそう思います。
ただそう思いつつも、それでも独在論的な問題設定は形を変えてやはり存続するように思えます。
バラバラに散らばった変化も運動もすることなき、意識トークンの集まりの全体が、この世界であったとして、
それでもなお、やはりまだ問えることが残るように思います。
「なぜこの意識トークンが体験されており、別の意識トークンが体験されているのではないのか?」
太古の人々が導入した霊魂といった概念、デカルト的な我の概念、またカント的な統覚の概念、永井的な<私>の概念、
これらの概念が導入されたことの背景には、常にこのような問い、現に在る経験があまりに非対称的であるという事、があったように思えます。
そしてこのことは「一つである全体的意識」を導入してもなお、「なぜこの意識トークンか?」と形を変えてなお存続するよう思えます。
このことを「覚えている経験」と「覚えていない経験」という記憶に訴える形の議論を導入して、解決するか?
ここは何か自分の中でモヤモヤしてますが、微妙に解決しないような気がしてます。
この「なぜこの意識トークンか?」というのが、何かやはり最後に残る大きい問いのような気がします。
88
:
was a bee
:2012/07/30(月) 18:19:19
最近この論文を読んでちょっとおもしろいと思ったのですが、
「温度計に意識はあるか?」 by 大泉 匡史、土谷 尚嗣
http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/Naotsugu_Tsuchiyas_homepage/papers_for_download_files/12%20Mar%2030%20LiSa%20Oizumi%20Tsuchiya.pdf
麻酔は本当に「痛み」を消しているのか?それとも「痛み」は消しておらず、ただ「麻酔時の記憶」を消しているだけなのか、
みたいなことが少し書かれてました。
これは身近だけど、深い問題のように思います。経験と記憶。
89
:
was a bee
:2012/07/30(月) 18:38:32
ちなみに、今のところ自分は意識についてハッキリとした立場は持ってないのですが、
立場についての立場、どういう考え方がありえそうか、については
Crazyism (キチガイ主義?)とかいう考えに共感を覚えます。
http://www.consciousentities.com/?p=1068
意識の問題についてどういう答えが最終的に普及するにせよ、
そうした理論は必ずどこかしらキチガイじみた内容を含まざるをえない、と。
90
:
メビウス@管理者
:2012/07/31(火) 21:58:32
>>87
>そしてこのことは「一つである全体的意識」を導入してもなお、「なぜこの意識トークンか?」と形を変えてなお存続するよう思えます。
これは最もな疑問で、
>>85
でも書いた「現実性」の問題だと思います。
「現実性」と言っても永井均、入不二基義ではニュアンスが微妙に違ってますし、
そもそもこの問題はエレア派の時代からあったものだと思います。
ヒュームが主著『人性論』を封印しようとした事情は宗教的な問題かもしれませんが、
ひょっとしたら現実性の問題に気づいていたからかもしれません。
現在まとめている大森荘蔵の「立ち現われ一元論」も類似の問題に苦悩した形跡があります。
大森哲学はヒュームと同型の「無主体論」といえるものであり、was a beeさんが指摘されたのと
同様の指摘を大森に対してしている人がいます。
http://www.geocities.jp/toryon33/tokinagarezu.html
91
:
メビウス@管理者
:2012/07/31(火) 22:06:10
なお、現実性の問題に対する私の解答ですが、was a beeさんの以下の文、
>「なぜこの意識トークンが体験されており、別の意識トークンが体験されているのではないのか?」
このような捉えられ方をされるのは仕方ないのですが、私が構想したのは、
言語によって分節され、多数あるように見える意識トークンが、
実はひとつらなりの「唯一の」意識トークンではないかというものです。
この点、現段階では説明に苦慮していますが、いくつかアイデアが
ありますので、いずれ「一元論」のページに自分の見解として書くつもりです。
92
:
メビウス@管理者
:2012/07/31(火) 22:18:35
>>89
>Crazyism
確かにそうでしょう。
性質二元論の立場から主張されてる汎経験説では、原意識というものを
想定せざるを得ず、トースターにも何らかの意識があると考える人もいます。
対して物理主義の創発説では、脳を構成する素粒子の中にクオリア製造装置が
あるというようなものです。
上の二つの立場を拒否するなら、時間の実在性を否定する私のような一元論の
立場を取るしかないように思われます。
いずれも日常的感覚からかけ離れているのでクレイジーと思われて当然でしょうね。
でも、それは哲学なら当然のことでもあります。
哲学には日常的な世界の全てを転倒させる「力」があるのだと、私は信じてます。
93
:
アルキ猫
:2012/08/03(金) 20:38:33
こんばんは。
確かに意識が実は無主体であって個人固有のものでないというのは現代の常識や唯物論的科学観からすると主客転倒していて一般の人にはにわかに理解し難いものがありますね。
私も未だに分かったような分からないような…
まさに天動説が地動説になったような感がありますが逆に世の常識が逆転してるとも言えるのかも知れませんね。
94
:
メビウス@管理者
:2012/08/04(土) 22:32:32
>>93
アルキ猫さん、実は逆なんですよ。
近代以前の心身問題では素朴心理学が前提となっていたため、
「私」という自己が「痛み」などの感覚を知覚するという構図で
心的現象を理解していました。
しかし現代の心の哲学は自然科学の知見を前提として出発しており、
物理主義も性質二元論も同様に無主体論なんです。
すなわち物理的な実体のみを認める立場でも、それと対応して心的な
ものがあるする立場でも、物理的でもクオリアでもない「私」や「魂」
のようなものは認めないのが、大半の心の哲学の立場なんです。
ペンローズみたいな人は少数派ですね。
でも、それだけではどうしても上で書いたような「現実性」の問題が生じます。
その点はジョン・サールもチャーマーズも気づいていて、何かしら特別な原理が
あるかも知れないことを示唆しています。
95
:
メビウス@管理者
:2012/12/06(木) 21:27:24
>>76
では自分の見解をふたつのページに分けてましたが、
atwikiの仕様が変わって容量制限が緩和されたので、パルメニデスのページにまとめました。
なお空間の実在性については別の見地から考究してみました。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/96.html
#id_3812eb7c
97
:
ある唯物論者(異邦人)
:2013/10/12(土) 21:35:06
私は唯物論者です。
クオリアや現象的意識を含めおよそあらゆる現象は物理的現象であると考えます。
将来のレベルアップしたアシモであればクオリアや現象的意識を持つことが出来る可能性はあります。
それが可能であるのはクオリアや現象的意識が純粋な物理的現象であるからです。
98
:
メビウス
◆4lggoO1oV6
:2013/10/13(日) 21:55:58
>>97
スレ違いなので該当のスレにレスします。
99
:
名無しさん
:2013/11/16(土) 11:44:41
twitterやwikiを見るにメビウスさんのお考えも細かい変化があるように思われますが
ここで改めてスレッドの題について現在のメビウスさんはどのようにお考えですか?
100
:
メビウス
◆4lggoO1oV6
:2013/11/17(日) 19:33:49
個々の人間と時空の実在性を否定して、「宇宙に本当に存在しているのはただ一つである」とする
エレア派の立場を取る点で私は一貫しているのですが、「何が存在しているか」という問題
については考え方が変わってきました。
以前は自分が見たり思ったりする心的「現象」が自分の理解した通り存在するのだと大森荘蔵同様に
思っていたのですが、最近は時間の問題を考究した末に、人間は「現象」を正しく理解できない
のだと思うようになりました。
この問題は11月1日に①〜⑩と連続ツイートしているのですが、
https://twitter.com/mobius774
いずれまとめwikiにも自分の見解として書くつもりです。
101
:
名無しさん
:2014/09/27(土) 23:13:37
まず、死んでも意識は続くと思う。霊体になっても人間や物などは見えてると思うし、もしかしたらあの世に行かなくても良かったりしてね。死んでもこの世に留まる霊はネガティブな思い100%で生きてきた霊だとどこかに書いてあった、よくいう成仏してないってやつだね。
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