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死んだらどうなるの?

53メビウス@管理者:2012/04/26(木) 19:53:59
自我と他我には明確な「境界」があるとするのが素朴心理学的な見方ですが、
無主体論的な立場ではその境界は曖昧なものとみなせます。
またデレク・パーフィットなど、人格の同一性についての還元主義的な立場でも同様です。
サールの見解では、現代の心の哲学者は「人格」概念についてはヒュームのような還元主義
的な立場を取る者が多いそうです。

このような立場における「自我」のイメージはカントの統覚の概念とヒュームの観念論を
演繹すれば理解できます。

中島義道は、たとえば「私の痛み」などは反省的に理解されたもの、という見方をしています。
カントのいう統覚です。統覚される以前の状態はXという独特の刺激がそこに生じているだけであり、
それをあとで記述すれば「痛い」となる(Xは大森荘蔵のいう「立ち現れ」になります)。
ヒュームのいうように「印象」から「観念」への移行とは、世界から刺激を消し去り、
そのかわりに世界全体を刺激とは全く異なる観念によって埋め尽くすこと――
そうした操作をするものこそ「私」であり、「私」が痛みを感じているのではない。
痛みは世界の側にあるが、「われにかえって」「痛かった」と過去形で表すとき
過去と現在という両立しない時間をつなぐものとして「私」が登場する、と中島はいいます。

このような正統なカント――ヒューム解釈からは、「他者」イメージについての新たな
展望が開けると思います。
知覚というものが反省的に理解されて初めて「私」になるならば、理解される以前のXは
「他者」だと考えることもできます。
すなわち、統覚作用のみが「私」を出現させるとすれば、私以外の人物Bや人物Cなど
の「他者」と「私」の関係は、絶対的なものでなく相対的なものであるといえます。


以上のような他我論に加えて、時間と空間の非実在性(つまり時空を感覚の「性質」とすること)
を併せて考えれば、エレア派的な「一元論」は矛盾の無い、というよりむしろ自然な存在論で
あるとも思えます。


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