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倉工ファン Part2

1名無しさん:2020/07/18(土) 10:35:04
倉工関連、その他プロ野球、時事ネタなどをご記入ください。

2名無しさん:2020/07/18(土) 16:10:04
☆ 夏季岡山県高校野球が開幕  代替大会



夏季岡山県高校野球大会は18日、58校が出場してマスカットスタジアムなど4球場で開幕した。

新型コロナウイルスの影響で中止となった第102回全国選手権岡山大会に代わる舞台。
甲子園にはつながらないものの、夏の岡山王者を目指す球児による熱戦がスタートした。


感染リスクを考慮し、全校そろっての開会式は取りやめ、同スタジアムで開始式を実施。
昨秋の県大会を制した創志の斉藤主将が優勝旗を返還し、倉商の原田主将が「これまで培ってきた技術と精神力の全てを発揮し、
生涯忘れられない最高の試合ができるよう最後の一球まで全力でプレーする」と選手宣誓した。

引き続き行われた第1試合「光南―興陽」は、相手守備の乱れに乗じて得点を重ねた光南が8―2で快勝し、初戦を突破した。


大会は高野連の感染防止対策ガイドラインに基づいて行われ、選手や関係者は試合2週間前からの行動歴を記録し、
球場入りする際に検温結果を報告する。 無観客試合だが、控え部員と保護者は入場可能。
試合は基本的に土曜、日曜、祝日に行われ、順調に進めば8月10日が決勝となる。

3名無しさん:2020/07/20(月) 16:08:03
☆ 県岐阜商  校内クラスターで代替大会辞退 



保健体育を担当する男性教員4人、女子生徒3人の陽性が確認され、県にはクラスターが発生したと認定されている。
硬式野球部は24日の初戦に出場予定だった。 関係者によるとPCR検査を受けた部員に陽性はいなかったという。

県教育委員会はこの日、同校が29日まで臨時休校すると発表。 全部活動が禁止された。
硬式野球部は8月、甲子園で行われる交流試合の出場が決まっている。


鍛治舎監督は交流試合の出場について「高野連の判断になる。対戦相手のこともあるので簡単に欠場もできない」と説明。
「感染防止に努めてきたが、選手に説明の言葉が見つからない」とした。

高野連・小倉事務局長は交流試合への出場可否について「今後は当該校、岐阜県高野連と相談しながら
実行委員会の中で協議していきたい」と話した。 実行委員会は今月29日に行われる。

4名無しさん:2020/07/20(月) 16:17:03
☆ NPBと高野連が「プロ志望高校生合同練習会」開催を発表  甲子園と東京Dで実施



西日本会場となる8月29日と30日は甲子園、東日本会場となる9月5日と6日は東京ドームで実施される。

新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、第92回選抜高等学校野球大会と各都道府県の春季大会、
第102回全国高等学校野球選手権大会と地方大会が中止となった高校野球。
プロ入りを目指す高校3年生の進路活動の一環としてNPBと高野連が開催を決定した。


この合同練習会にはNPBのスカウト、関係者のほかに、視察機会の平等性を確保するため、大学、社会人、
独立リーグの関係者らも参加し、日本球界全体で現在の高校3年生をサポートするとしている。

参加資格は、高野連に登録する高校3年生の野球部員でプロ志望届および合同練習会参加届提出者となる。

5名無しさん:2020/07/23(木) 15:21:02
☆ 花火大会露店爆発で重傷の球児  最後の夏に思い込め「治療の恩返しに全力プレーする」



2013年に京都府福知山市の花火大会で3人が死亡し、55人が重軽傷を負った露店爆発事故で大やけどを負った野球少年が
高校球児として最後の夏を迎える。 今年の大会はすべて中止となったが、代わりとなる京都の独自大会で23日の初戦に挑む。

昨夏の京都大会で4強入りした京都共栄高の三木慶太投手(17)は
「やけどをしてお世話になった方々に、恩返しとなるプレーをしたい」と語る。


左腕の三木投手は緩急を付けた投球が武器。 同高では投手陣の一角で活躍する。
だが今季のチームはコロナの影響による長い休校期間を経て、6月に全体練習を再開したばかり。

「やっとみんなで野球ができて幸せ。当たり前のことが実は当たり前じゃないと、休みの期間に考えさせられた」と受け止める。
日常が突然奪われる経験は、7年前の夏にも味わった。


当時は下六人部小(福知山市)の5年生。 家族とともに由良川河川敷の花火大会に訪れた。
背後から「シュー」という音が聞こえてきたのを覚えている。 「何の音やろ」。

今思えば、ガソリンが携行缶から吹き出した音だった。振り返ろうとした瞬間、爆発が起きた。
懸命に逃げたが、炎に襲われた。 両腕、両脚など皮膚の4割で熱傷を負い、入院は半年間に及んだ。


同級生らに励まされてリハビリに努め、1年後には野球を再開した。大好きな野球を続けるため、地元の強豪に進んだ。
お世話になった看護師がグラウンドに訪れ、元気な姿を見て涙を流したこともあった。

報道で知った阪神のメッセンジャー投手からはユニホームや著書が贈られた。
体の痛々しい傷痕は消えないが、周囲の支えが野球を続ける原動力となっている。


ストレッチなど研究熱心で、後輩にも丁寧に指導する。 
神前監督(64)は「三木の頑張りがチームにいい影響を与えている」と見守る。

これまで公式戦の登板はなく、最後の大会に懸ける。
初戦となる23日の綾部高戦に向け、「後悔のないように、最後まで全力でプレーする」と強い決意を示した。

6名無しさん:2020/07/23(木) 15:27:01
☆ 打者には勲章、投手には屈辱… 「敬遠」をめぐる深い物語 ①



アメリカで生まれた野球用語は当然ながら、すべて英語だったが、我が国に到来すると日本語に置き換えられた。
ヒット(Hit)は「安打」、ホームラン(Homerun)は、「本塁打」。そんな日本語訳でも傑作といえるのが「敬遠」だろう。

敬遠は、投手が打者との勝負を避けてわざと四球を与え歩かせることを言う。
英語ではIntentional base on ballsまたは Intentional walk、つまり「意図的な四球」だ。 略称は「IBB」。


実は日本でも公認野球規則では「故意四球」という。「敬遠」は俗語に過ぎないが、
強打者を「敬して遠ざける」というニュアンスは、この記録のシチュエーションを絶妙に表現している。

投手が、打棒を恐れて勝負を避けて歩かせられるのは、打者にとっては不本意だが、
反対に言えばそれだけ恐れられる打者になったということであり「敬遠」は、強打者の勲章ともいえる。

しかし「敬遠」は、強打者以外でも見られる。 次打者が投手の場合などに、前の打者が歩かされることも多いのだ。
投手はほとんどの場合9番を打つので、8番打者に敬遠が増える傾向がある。 8番は捕手が打つことが多い。
さして強打者ではなくても、敬遠が多い捕手がいるのだ。


NPBの通算敬遠数10傑と通算本塁打数

1王貞治427 敬遠(868本塁打)
2張本勲228 敬遠(504本塁打)
3長嶋茂雄205 敬遠(444本塁打)
4野村克也189 敬遠(657本塁打)
5門田博光182 敬遠(567本塁打)
6落合博満160 敬遠(510本塁打)
7谷繁元信158 敬遠(229本塁打)
8田淵幸一125 敬遠(474本塁打)
9江藤慎一118 敬遠(367本塁打)
10中村武志112 敬遠(137本塁打)


NPB史上最強打者といわれる王貞治が通算敬遠数でもダントツだ。
王は1974年、2度目の三冠王の年にシーズン最多の45敬遠を記録している。

以下にもNPB史上に残る長距離打者の名前がずらっと並ぶ。 しかしその中に、谷繁元信、中村武志という2人の捕手の名前がある。
谷繁が229本塁打、中村も137本塁打だから長打力はあったが、他の顔ぶれと比べると見劣りする。

谷繁、中村の2人は投手の前の8番を打つことも多く、敬遠が増えたのだ。
現役最多も広島の捕手、石原慶幸の50敬遠だ。石原は通算66本塁打だ。

7名無しさん:2020/07/23(木) 15:33:02
☆ 同上  ②



指名打者制を敷き、投手が打席に立たないパ・リーグでは、捕手の敬遠はそれほど多くない。
指名打者導入以降、パ・リーグで最も多くの試合に出場した捕手は、西武一筋で2379試合に出場した伊東だが24敬遠に過ぎない。

昔は打者顔負けの打棒をふるった投手がいた。 NPB最多の400勝を挙げた金田正一は、
投手としては最多の38本塁打を打っているが、通算で8敬遠を記録している。金田は並みの打者よりも恐れられていたのだ。


ここまで見てきたように「敬遠」は、長距離打者や、次打者が投手の際の捕手との対戦を避けるために選択される作戦だ。
しかし例外的に、外野手で、本塁打もそれほど多くないのに「敬遠」が多い選手がいた。

イチローはNPBで118本塁打を打っているが、本塁打王にはなっていない。
しかし、1995年から2000年まで6年連続でパ・リーグの最多敬遠を記録している。通算98敬遠は歴代13位タイだ。
これは通算536本塁打の山本浩二(94敬遠)よりも多い。


またMLBでもイチローは117本塁打だが、歴代28位の通算181敬遠。 2002年、2004年、2009年にアメリカン・リーグの
最多敬遠を記録している。 通算563本塁打のレジー・ジャクソン(164敬遠)よりも多い。

イチローと勝負をしても、本塁打を食らう可能性はそれほど高くないが、内野安打やポテンヒットも含め、
安打を許す確率が極めて高い。 日米ともに、ピンチでイチローと対戦するのは得策ではないという判断が働いたのだ。
これもイチローならではの勲章と言えよう。


高校野球では星稜の松井秀喜が、1992年の夏の甲子園の明徳戦で「5打席連続敬遠」を食らった。
いくら「強打者の勲章」とはいえ、これはやりすぎ、と全国で議論が巻き起こったのも記憶に新しい。

「敬遠」は、打者にとっては「勲章」だが、投手にとっては「勝負を避けた」ということで、不名誉な記録だといえる。
そもそも「敬遠」は、投手の判断で行うことはほとんどない。 ほとんどの場合は、ベンチの指示で選択する。


投手の中には、ベンチの指示に従わず、勝負をさせてくれと抵抗することがある。
1999年10月5日、神宮球場のヤクルト戦で、巨人の先発、上原浩治は7回裏、ペタジーニとの対戦で、
ベンチから「敬遠」の指示を受けてマウンドで涙を流した。当時、ペタジーニは巨人の松井と激しい本塁打争いをしていた。
巨人ベンチは、ペタジーニに本塁打を打たせないために勝負を避けたのだ。

こうしたタイトルがらみの「敬遠」もNPBではよく見られるが、上原はこの試合で新人としては1990年の巨人、斎藤以来の
20勝がかかっていた。 またペタジーニとは前の2打席を凡退に打ち取っていただけに勝負がしたかったのだ。
上原浩治の涙は、投手としてのプライドの現われだった。

上原はこの試合を9回2失点で完投して無事20勝を挙げたが、投手が「敬遠」に対してどんな思いを抱いているかを
端なくも世間に知らしめる結果となった。 ベンチから投手に「敬遠」の指示をするときは、やはり気を遣うのだ。


NPBでは、2018年からMLBの方式に倣って、ボールを投げることなく「敬遠」することができる「申告敬遠」の制度を導入した。
導入前の2017年の敬遠数は、両リーグ合わせて「90」だったが、2018年は「285」、2019年は「300」と激増している。

監督にしてみれば、投手に「歩かせろ」と指示することなく、審判に告げるだけで「敬遠」が成立する「申告敬遠」は、
気を使わなくて済むので心理的に楽なのだろう。
しかし、「申告敬遠」が導入された2018年以降、野球はまた一つ昔とは変わってしまったといえるかもしれない。

8名無しさん:2020/07/23(木) 16:30:01
☆ 中国の「南シナ海人工島」をトランプが爆撃破壊する可能性



中国が発生源と思われる新型コロナウイルスの蔓延などによって、アメリカ人の対中感情は、1979年の米中国交正常化以降、
最悪と言えるほど悪化している。

そうした国内世論を受けて、共和党のトランプ陣営と民主党のバイデン陣営は、どちらが対中強硬派かという争いをしている。

7月19日にABCニュースとワシントンポスト紙が発表した最新の世論調査によれば、バイデン候補支持が55% 、
トランプ大統領支持が40% で、その差は15% まで開いた。


トランプ大統領としては、差を縮めていかねばならないのに、逆に開く一方である。
こうした傾向が続けば、11月3日の投票日前の9月か10月頃、トランプ政権が「最後の賭け」に出る可能性がある。
それが、「中国と局地戦争を起こすこと」だ。


そもそも、この2年あまりで、米中は全面戦争の様相を呈してきた。 具体的には、貿易戦争、技術戦争、人権戦争、
通貨戦争、疫病戦争といったものだ。
こうした流れが続けば、いずれは局地的な武力戦争が避けられなくなる。


武力戦争の可能性がある場所は、南シナ海と東シナ海(台湾近海や尖閣諸島近海も含む)である。
なかでも、習近平政権になって造った南沙諸島の人工島は、中国の民間人はほとんどいないし、常設仲裁裁判所が「違法だ」
と判決を下している。 アメリカ軍が攻撃しても、人道的もしくは国際法的に責任を問われるリスクは少ないのだ。

また、ポンペオ国務長官も述べているように、中国本土から1000kmも離れているため、中国との全面戦争にもなりにくい。
それでいてアメリカ国内では、「悪の中国の建造物をぶち壊した」とアピールすれば、支持率を上げるだろう。
大統領選挙には直接関係ないが、東南アジアの一部の国々も、喝采するかもしれない。


ちなみにアメリカ軍は、いまから21年前の1999年5月7日、B-2爆撃機でベオグラードの駐ユーゴスラビア中国大使館を爆撃した
ことがある。この時は大使館員ら3人が死亡し、20人以上が負傷したが、それによって米中が全面戦争に発展することはなかった。


「緊急ニュースをお伝えします。 先ほどアメリカ軍が、南シナ海に中国が建造した人工島を攻撃し、破壊した模様です…」
ニュースが現実のものとならないよう、日本としても注視していく必要がある。

9名無しさん:2020/07/24(金) 10:58:01
☆ 中学最後の打席、死球が頭に 3年ぶりに公式戦の打席へ  ①



埼玉県に近い東京都立高島高のグラウンド。 7月上旬、3年の橋本昇汰(18)は一塁の守備位置についていた。
内野からの送球を次々と受ける。 声を出し、仲間を鼓舞する。チームの主力選手だ。
2年ほど前までは、球拾いもできなかった。


2017年10月1日。

目覚めると、ぼんやりと病室の白い天井が見えた。枕元の医師や看護師から声をかけられた。記憶がなかった。
起き上がろうとした瞬間、左半身が動かないことに気付いた。

軟式野球の有望選手で中学3年だった橋本はこの日、東京選抜の一員として新潟での試合に出ていた。
「Kボール」という、軟式と硬式の中間のようなボールを使った大会だった。


「中学最後の打席だよ」。スタンドから母の恵(47)が声援を送った瞬間だった。左側頭部に死球を受け、意識を失った。

診断は脳振とう。 1日安静にしていれば治ると言われた。だが、何日たっても左半身が動かなかった。
握力はゼロ。 検査を繰り返しても脳や神経に異常はなく、原因は分からなかった。
新潟、そして転院した都内の病院での入院が続いた。


東北の甲子園常連校に野球留学する予定だった。 幼い頃から夏の甲子園での優勝が夢だった。
しかし今は、原因不明の半身不随。 病室の布団の中で恐怖に震えた。

看護師が毎朝、「大丈夫?」と聞きに来る。大丈夫じゃねえよ。叫びたい気持ちを抑え、「大丈夫です」と静かに答えた。
同級生らの見舞いも断り続けた。 誰とも会いたくなかった。


回復は突然だった。年明けのある朝。いつもと同じ医師の検診で、左手を動かそうとした時、プルプルと震えながら動いた。
「体の左側の筋肉にエネルギーが注入されていくような感覚」だった。

数日後、地元の高校の入試は病院から車いすで向かった。 左半身が少しずつ動くようになっていった。
1週間後の合格発表は杖をついて見に行った。退院。 やがて杖も必要なくなった。


元通りのプレーはできないかもしれない。 ただ、野球のそばにいたいと思い、硬式野球部に入部した。
久しぶりのグラウンドで、コロコロ転がる球に足がすくんだ。

教室で、同級生に「貸して」と頼んだ消しゴムを投げられると、全身が凍った。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)だった。 心のリハビリに取り組み、少しずつボールへの恐怖心を消していった。

10名無しさん:2020/07/24(金) 11:03:02
☆ 同上  ②



1年が過ぎた。 「代打、いくぞ」
昨年5月3日、母校のグラウンドでの練習試合で、監督から告げられた。あの事故から580日目の打席。突然の指名だった。

6―3の五回表、2死三塁。初球を振り抜いた。 差し込まれたが、右前に落ち、適時打となった。
バットの芯を外された硬球の衝撃が、両手に伝わった。 「野球をやっている」。ベンチに戻り、泣いた。


今春、都大会での「背番号3」が与えられた。真っ先に母に伝えた。「おめでとう」。電話の向こうで、母は号泣していた。
その春季大会はコロナ禍で消えた。 夏の選手権大会もなくなった。 代わりに東京の独自大会が決まった。

開幕2日前の今月16日。学校の柔道場にチーム全員が集まった。背番号の発表。監督の島修司(52)から名前を呼ばれ、
「3」と染められた布を再び受け取った。 縦横二十数センチ。「ただの布かもしれない。でもすごく重い」

25日に東東京大会の1回戦に臨む。あの日以来、3年ぶりに公式戦の打席に入る。



■ヘルメット着用義務、42回選手権大会から

高校野球では、1960年の第42回選手権大会から打者のヘルメット着用が義務づけられた。
数年後には走者も着用が義務化された。

95年には走者の安全を考え、これまでの片耳タイプから両耳にカバーのついたヘルメットとなった。
衝撃吸収性など安全性が保証された「SGマーク」の製品が使用されているが、事故の根絶には至っていない。

2018年11月には、練習試合で頭部に死球を受けた2年生部員が翌日に死亡する事故が起きた。

11名無しさん:2020/07/24(金) 17:20:01
☆ 元阪神、遠山監督「久しぶりに青春」初陣飾る/大阪  浪速9-1桃山学院(7回コールド) 花園中央公園野球場



プロで393試合に登板し、松井秀喜キラーの異名を取った浪速・遠山監督でも、高校野球の公式戦初采配初勝利は感慨深かった。
「久しぶりに青春じゃないけど、生徒たちとやれることが喜ばしい。初体験で気持ちいい。1勝はうれしい。
ワイワイ楽しくやりながら、僕らしいチームをつくってやろうと」。

ベンチの最前列中央で選手たちと並んで声を出し、時には熱くなり過ぎてベンチから飛び出しそうになるほど一緒に戦った。
9-1の快勝デビューに笑顔がはじけた。


知人に臨時コーチで誘われて昨年6月から指導を始め、11月から監督に就任した。
コロナの影響で2月末から6月中旬まで3カ月半活動停止。 選手たちとも会えなかった。
「今の3年生はなかなか野球ができなかった」と、就任初年度の3年生22人を思う気持ちは、特別強い。

大会前の練習試合は2敗1分け。「不安だった」と明かすが、この日は3番山本外野手(3年)が4打数4安打2打点の大当たり。
「投手寄りの右肩が打ちにいく時に浮いているぞ」。大会直前に授けたワンポイントアドバイスはばっちり。
山本も「プロの考えを教えてもらえる」と快音で応えた。


結野主将(3年)からウイニングボールを手渡された遠山監督は、「いらねえよ」と照れ笑いしながら受け取った。
ベンチ入りは20人。この日外れた2人は次戦でベンチに入れて戦う。「1試合でも多くやりたい」。
3年生との青春タイムはまだまだ終わらない。


◆遠山昭治: 1967年(昭42)7月21日生まれ、熊本県出身。
八代一(現秀岳館)から85年ドラフト1位で阪神入団。1年目に先発ローテ入りして8勝。90年オフに高橋慶彦との交換でロッテ移籍。

95年から野手転向。戦力外となった97年オフ、テストで中継ぎ投手として阪神へ。サイドスローに転向し、99年にカムバック賞。
02年限りで引退。通算393試合、16勝22敗5セーブ、防御率4・38。 05年から11年まで阪神2軍でコーチを務める。

12名無しさん:2020/07/25(土) 11:20:01
☆ 倉敷工の“ぽっちゃり左腕”福島  初戦で幕、岡山学芸館への雪辱ならず  最速146キロにスカウト注目

           岡山県大会2回戦  倉敷工1―4岡山学芸館(2020年7月24日 倉敷マスカット)


時折、小雨が降る中のマウンド。最速147キロを誇る倉敷工の“ぽっちゃり左腕”福島の高校最後の夏は初戦で幕を閉じた。
「この一年、やり返すつもりでやってきたんですけど」

昨夏の準々決勝で逆転負けした岡山学芸館が相手。 昨年10月に受けた左肘の手術を乗り越え、
序盤から最速146キロを記録した快速球を武器に力勝負を挑んだが、1―1の同点で迎えた6回、疲れが見え始めたところで2安打を浴び、
味方の野選も絡んで3失点。 失意の中でマウンドを降りた。


雪辱の夏はあっけなく終わったが、バックネット裏にはプロ10球団のスカウトが傘の花を咲かせ、
西武、日本ハムは球団首脳陣が現地入りしてする熱の入れようだった。 球速は手術前よりもアップ。
各球団が故障の影響はないことを確認するには十分な投球だった。


「球に力があるし、テークバックが小さいから球の出どころが見えづらい。左の高校生では中四国ではNo・1ちゃうかな。
横幅がある割には動きもいいしね」とは阪神・山本宣史スカウト。

初戦敗退にも評価が下がることはない。4回には1メートル76、86キロとちょっと太めの体形ながら
素早くマウンドを駆け下りてバントを処理し、相手走者を二塁で刺す、俊敏さも見せた。

「上の世界でこれからも野球を続けていくことには変わりはないので。 上の世界というのはプロです」



福島 章太: 2002年(平14)10月24日生まれ。岡山県備前市出身の17歳。 6歳から軟式野球を始める。
備前中時代は硬式の瀬戸内ボーイズでプレー。 倉敷工高では1年秋に背番号1でベンチ入り。

その後、故障もあり、昨夏は背番号13だった。最速147キロ。変化球はカーブ、スライダーなど4種。50メートル走6秒3。
1メートル76、86キロ。左投げ左打ち。 好きな球団はなし。 目標は横浜の左腕・今永昇太。 

いったん、気持ちを整理してプロ志望届を出す予定。 剛球左腕に涙はなかった。

13名無しさん:2020/07/25(土) 11:28:01
☆ スカウト注目の倉敷工・福島、六回途中4失点敗退  プロ入りへ「上の世界で頑張りたい」


        
倉敷工の最速147キロ左腕・福島章太投手が、岡山学芸館戦に先発し、5回2/3を4失点。
昨夏の準々決勝で敗れた相手にリベンジは果たせなかった。

初回、スクイズの処理をミスし先制点を与えたが、何度も146キロを計測するなど、持ち味の直球で押し、その後は無失点。
しかし同点の六回、スクイズで勝ち越され、続く打者に2点適時打を浴びて降板。


「負けてから学芸を倒すためだけに1年間やってきた。やり返すつもりだったが、
うまくいくことばかりではないんだな」と、悔しさをにじませた。 この日は9球団のスカウトが集結。

視察した西武の渡辺久信GMは「バランスが良くて、体幹もしっかりしている」と評した。
プロ志望届提出を明言した福島。「悔しさを忘れずに上の世界で頑張りたい」と、プロ入りの夢を語った。



146キロを連発したので十分にアピール出来たでしょう。

西武が指名するか? 球団社長の居郷氏は倉敷工出身だから、鶴の一声も期待できる。
渡辺GMが来たのも社長との繋がりを知っているに違いない。すでに鶴の一声があったのかも。

しかし、上位で指名しないと、他の球団が先に取ることも考えられる。

阪神の山本スカウトも中四国ではNo・1と評価が高い。個人的には甲子園でプロの雄姿を観たいが・・・。
福田公園野球場で色々と話をしてくれた少年が、プロで投げている姿を想像するとワクワクする。

14名無しさん:2020/07/25(土) 11:52:02
☆ 岡山学芸館、夏連覇へ難敵攻略  無死満塁で登板の久野、ピンチ脱し「抑えるつもりだった」



岡山学芸館が夏連覇へまた一歩前進した。
初回1死一、三塁で4番・溝上捕手(3年)がスクイズで先制点をもぎ取った。

同点で迎えた六回には、外間外野手(3年)のスクイズで勝ち越し、代打・赤木捕手(2年)の2点適時打で、
倉敷工の最速147キロ左腕・福島投手を攻略した。


守備では六回、安打、四球、失策で無死満塁とされると、先発の仲村投手(2年)に代わって、久野投手(2年)がマウンドへ。
「竜が我慢して投げてくれていたので、絶対ゼロに抑えるつもりだった」と、気迫の投球で三振、右飛、三振と点を与えなかった。
最大のピンチを抑えた久野は「チャレンジャーの気持ちで連覇を狙っていきたい」と、先輩たちと過ごす最後の夏へ気合を入れた。



六回の攻防は見応えがあった。 タダで貰ったチャンス、1死満塁で確実にスクイズを決めた学芸。 
タダで貰った無死満塁のチャンス、無策で無得点の倉工。

昨年もそうだったが、監督の采配、勝負勘、勝負運が勝敗にハッキリと繋がった。
毎度で恐縮だが、あのユニは選手が小さく貧弱に見えるよね。 伝統の格好いいユニを変えて、何かいいことがあったかい。

倉工の監督をやりたい人が他にいないとは思わない。 元プロはどうですか? 他にも適任者がきっといるでしょう。
甲子園で数々の名勝負を演じた、伝統の格好いいユニで、古豪復活を目指してもらいたい。

15名無しさん:2020/07/25(土) 12:07:01
☆ 親元離れ、スマホなしの2年半  「僕は最後まで野球を」 ①



週末の夜8時ごろ。石見智翠館(島根)の片岡竜玖(17)は、校舎と寮の間にある電話ボックスに向かう。
手には2カ月に一度、両親から送られてくる105度数のテレホンカード。

4台並んだ公衆電話は、外との数少ない連絡手段だ。時に順番待ちになる。
横浜市の自宅にかけると、たいてい母の陽子(47)が出る。「けがの具合は」「練習はやってる」。いつもそんなやりとりだ。


野球部は携帯電話禁止。 校舎とグラウンド、寮が徒歩数十歩の圏内に並ぶ。外出は近くのコンビニくらいだ。
全員が寮生活を送る。 一日の始まりは朝6時。グラウンドでの朝礼で「1日の目標」を叫ぶ。

3年生42人のうち、片岡を含む38人が県外から来た。 当初悩んだのは言葉だった。
PL学園出身の監督、末光章朗(50)をはじめ、多くは関西出身。 部内では関西弁が飛び交う。

「だよね」と言ったら、「気持ち悪いねん」と突っかかられた。 
「エセや」と言われながらも、関西弁を口にするうちに、仲間と打ち解けていった。 


小学4年で野球を始めた。中学で熱中し、寮がある進学先を考えていたとき、知り合いから石見智翠館のことを聞いた。
同じチームの仲間との2家族で車に乗り込み、見学に行った。

交通の便から「東京から一番遠いまち」と言われることもある島根県江津市だ。
来てみると、練習のレベルの高さに目を見張った。 学校の周りには何もなかった。

「他のことを考えず野球に打ち込める」と思った。
「学校数が少ない島根なら甲子園に出場できる可能性が高い」という思いもあった。


高1の夏。先輩たちが県大会の決勝まで進んだ。2年の夏は甲子園に出て、代打でヒットを打った。
次は自分たちの代でここに戻ってくる。 具体的な目標になった。

寮の自室にはテレビもパソコンもない。携帯も持たず、コロナはどこか遠い話だった。 
5月20日。グラウンドの一角で、末光から甲子園中止を伝えられた。 説明の途中から、末光の声が遠のいていった。

16名無しさん:2020/07/25(土) 12:11:01
☆  同上 ②



中止発表から3日間、練習に身が入らなかった。 バットを振るとき、グラウンドを走るとき。
「何で今こんなことやっているんだろう」と思った。

「最後までやりたい」「1、2年生中心でやった方がいい」。3年生の中で意見が割れた。末光は3年生一人ひとりと面談した。
片岡にはこう言った。「この状態で頑張りきることが、支えてくれた人への恩返しになる。最後まで全うすることが次につながる」


片岡は「僕は最後までやります」と返した。「大学でも野球を続けよう。さぼったらそこで終わりだ」と思った。
3年生全員が続けることになった。

午後9時。 夕食後、体育館での点呼を終えると、数十歩先のグラウンドへ向かう。ティーバッティング、素振り、体幹トレーニング。
2年半続けてきた日課だ。集中しようと、仲間に話しかけられないようにグラウンドの隅に移動することもある。
練習帽のつばには「実力の差は努力の差」と書いた。


野球だけに打ち込めた2年半で、気付いたこともある。 洗濯機が使えず、気を抜くと散らかる部屋。
これまで両親に支えられてきたことを実感した。 今では、実家でも自分から動く。

迎えた18日の独自大会初戦は、両親は仕事の関係で来られなかった。 24日の次戦には来る予定だ。
2年半分の成長を見てほしいと思っている。



野球のために親元を離れて遠方の学校に進むことは「野球留学」と呼ばれる。
高野連の調査では、2006年の大会登録メンバーのうち、隣接都府県以外の遠隔地から来たのは1260人。

18年には1770人に増えた。 流出人数の上位はどちらの年も大阪、兵庫。
流入は多い順に06年は愛媛、東京、山形で、18年には島根、静岡、山口に変わった。

1980年前後から、私学を中心に地元出身選手が少数になる学校が出てきて、過剰な勧誘などが議論になった。
少子化の影響で、島根県は近年、地元以外から公立学校の生徒を募集している。

17名無しさん:2020/07/26(日) 11:06:02
☆ 甲子園はひとつの光、みんなを照らす    あさのあつこさん ①



全国で独自大会が開かれる中、「バッテリー」「グラウンドの空」など野球を描いた作品がある
児童文学作家のあさのあつこさん(65)に、甲子園と高校球児への思いを聞いた。

若い人たちのスポーツには、プロとは違う、未熟だからこその魅力があります。
私は野球の経験がなく、運動も得意ではなかったけれど、異世界だからこそ魅せられました。


野球を小説の題材にしたのは、私たちの世代にとって身近だったから。
ポジションによって、同じ試合でも見える風景が違うような気がして、面白いなとも感じました。

特にピッチャーにひかれています。 1人だけ高いところに立って、キャッチャーと向かい合う。
そこに1人で立つというのがどういうことなのか、わからないからこそ描きたいなと。


「甲子園」は、ひとつの光だと思うんですよね。 誰もが行ける場所ではない。でも、行くか行かないかよりも、
甲子園を目指して野球をしている「今」や、3年間甲子園というのを合言葉にしてやってきた「今」を、
みんな照らしてくれる場所だろうなって。

今春、選抜高校野球が中止になって、甲子園に今までとは違う意味でスポットライトが当たりました。
他の大会も中止になる中で、野球だけ特別扱いするなという意見もあります。
でも1回戦からテレビで生中継され、世代を超えて人々の心を震わせる場所は、やっぱり特別だと思います。


私は2007年から、選抜高校野球の21世紀枠特別選考委員を務めています。 選ばれると地域が沸き立つ。
そのとどろきに生で触れて驚くと同時に、甲子園という場所のすごさに改めて気づきました。

春に続き夏の甲子園も中止になったときは、絶望感というか、すごい風景を見たなと思ったことを覚えています。
挑戦権すら与えてもらえなかった高校生がいることがやりきれなくて。 特に3年生の気持ちを考えたときに、
悲しいだろうな、悔しいだろうなって安易には口に出せない、わかったようなことはいえないと思いました。

18名無しさん:2020/07/26(日) 11:12:01
☆ 同上  ②



震災や豪雨の時も、大変な状況の人はたくさんいました。 ただ、周りから支え、球児を甲子園に送り出す道があった。
球児たちもランニングだけでもしよう、亡くなった人の思いを背負ってがんばろうと思考を積み重ねられた。
私もこういう状況でも野球ができる、やろうとする人がいることに力を感じました。


それが今回のコロナでは、どこかが壊れたわけでも流れたわけでもないのに、
誰も何もできない状況が世界的に広がって、無力感に襲われました。

泣きわめいたり怒りをぶつけたりできないとき、人は「諦めるしかないなら前に進むしかない」と平均的な言葉で
一律的な諦め方をする。そうするしかなかった十代のことを思うと心が痛みます。


そんな中、各県の独自大会開催が決まりました。諦めたままにしない、コロナへのささやかなあらがいだと思うんです。
球児たちは「支えてもらった人に感謝」と言いますよね。それを知っているのは良いことですが、
もう余計なことは考えずに、せっかく手に入れた野球ができるチャンスを精いっぱい生かして楽しんでほしい。

練習すらできない状況の中で、自分と野球について考えた人たちはこれまでいなかったのではないでしょうか。
目指してきた甲子園がなくなっても野球はある。


野球イコール甲子園だったのか、甲子園が抜け落ちた野球とは何なのか、俺にとって野球とは。
正しい答えがない中で、どう思考して、どんな答えを導き出したのかを大切にしてもらいたいと思います。

球児だけでなくこの特別な夏に十代を生きたみなさんには、何を奪われ、何を得たのか、音楽でも文章でも良いので、
自分たちの表現で残してほしいです。
自分にとって2020年の夏がどういうものだったのか刻み込んでおくことが、必ず後になって大きな糧になると思っています。



あさの・あつこ: 1954年生まれ。 小学校講師を経て91年に「ほたる館物語」で作家デビュー。
少年野球を題材にした「バッテリー」で野間児童文芸賞受賞。
甲子園に魅せられた中学球児の「グラウンドの空」、夏の甲子園を描いた「晩夏のプレイボール」など。

19名無しさん:2020/07/26(日) 11:16:01
☆  守屋が26日実戦復帰   平田2軍監督「楽しみ」



右肩痛で2軍調整を続けている阪神守屋功輝投手が、26日のウエスタン・リーグ広島戦(甲子園)で実戦復帰する。

6月25日に出場選手登録を抹消され、7月2日に鳴尾浜でキャッチボールを再開。

経過は良好な様子で、平田2軍監督は「状態は上がってきているんで、実戦でどうかっていうところが楽しみ」と話した。

20名無しさん:2020/07/26(日) 12:10:02
☆ 中国はトランプ米大統領の再選を熱望している



今年11月、4年に1度の米大統領選挙が行われる。 中国は表向きでは、外国の内政不干渉原則を表明しているが、
内心ではトランプ氏の続投を熱望している。

彼の続投は、米国内と世界の分断を加速させ、米国のリーダーシップを危険にさらし、中国の覇権争奪に有利に働くからだ。


トランプ政権の下、史上最大規模を記録した対中貿易戦争、国家の力を動員してのファーウェイ制裁、
中国の国民に屈辱を与えるファーウェイ幹部の逮捕、コロナ問題・香港問題・台湾問題・新疆ウイグル族問題・
チベット問題をめぐる一連のチャイナバッシングは、一見すれば、中国を窮境に追い込んだように見える。

しかし同時に、中国国民の愛国心を喚起し、習近平政権の求心力を強め、結果的には共産党政権の基盤強化を助けた。
だから、中国ではトランプ氏を「川普(トランプ) 同志」と呼んでいる。


旧ソ連崩壊後、共産主義の世界的な退潮が見られた。中国でも、共産主義のイデオロギーで13億人をまとめることが難しくなり、
その代わりに、愛国主義が台頭している。

習近平政権にとって、トランプ大統領は、愛国主義教育の絶好の反面教師だ 。 トランプ政権は「米国第一」を掲げ、
環太平洋連携協定離脱、気候変動パリ協定離脱、イラン核合意離脱、中距離核戦力全廃条約破棄、世界保健機構脱退など、
一方的かつ恣意的な行動が相次ぎ、日本や欧州連合をはじめ、関係各国は翻弄された。


アフガンでの米兵らの戦争犯罪を捜査する国際刑事裁判所当局者に対し、制裁の発動を可能にするトランプ氏の大統領令は、
欧州関係国を困らせている。
トランプ氏による唐突なロシアG7招待が示したように、米国の独善外交は、同盟各国との亀裂を生んでいる。

米中貿易戦争は、世界の分断をもたらし、製造業のサプライチェーンに混乱を招き、日本を含む各国企業を困惑させている。
いずれも、米国の国際的地位に修復不能な禍根を残す可能性が高い。


トランプ氏が続投すれば、米国の独善外交が継続し、世界分断の加速、および、超大国米国の威信と指導力衰退の加速を招きかねない。
結果的には、覇権を狙う中国の影響力拡大につながる。 トランプ政権の下で、米国はかつてないほど、国内の分裂と分断が進んでいる。

新型コロナへの対応の失敗、および、白人警察の暴力による黒人死亡事件に対するトランプ氏の常軌を逸した言動は、
国内分断・分裂を一層加速させ、彼の大統領としての資質さえ、疑わしいものにしている。

まさに、マティス前国防長官が今年6月に米誌に寄せた声明の中で指摘したように、
「私の生涯において、トランプは国民を団結させようとせず、団結させるそぶりすら見せない初の大統領だ」。


特に、抗議デモに伴う暴動の鎮圧に、連邦軍投入も辞さないトランプ氏の姿勢には、マティス氏、パウエル元統合参謀本部議長ら、
元軍最高幹部が公然と反旗を掲げ、エスパー国防長官、制服組トップのミリ―米統合参謀本部議長ら、
軍指導部もトランプ氏と一線を画している。 実に深刻な事態だ。 

トランプ氏が続投すれば、米国内の分裂・分断が継続し、超大国の凋落を加速させる。 一方で、習近平政権は喜ぶだろう。

21名無しさん:2020/07/26(日) 13:21:02
☆ 高校生、左腕事情  トップの高田琢登は盤石な投球  さらに急浮上した左腕2人も



ドラフト市場を握る高校生左腕。 7月から独自大会が開幕して立ち位置に大きな変動があった。

トップ 高田 琢登(静岡商)、トップ 松本 隆之介(横浜)、 急浮上 福島 章太(倉敷工)、急浮上 根本 悠楓(苫小牧中央)

プロ志望 辻垣 高良(学法福島)、プロ志望 下 慎之介(健大高崎)、プロ志望 榮 龍騰(津田学園)


トップの高田はここまでの3試合の13.1回を投げて、23奪三振の快投。わずか2失点と安定感も抜群。
変化球の精度も格段に向上し、速球、スライダーの単調なコンビネーションから脱したことが成長の要因となっている。

松本の登場は8月になりそうだが、最速152キロまで球速が伸びており、ストレートの威力そのものも大きくレベルアップ。
もともと強弱をつけるのがうまく、スライダー、チェンジアップの切れも良い左腕だったが、
圧力のあるボールを投げることができており、神奈川大会の投球内容次第ではナンバーワン左腕の評価をされていてもおかしくない。


また初戦敗退となった福島 章太(倉敷工)も最速146キロを計測。 10球団も詰めかけるほどで、注目度は大きく上がった。
また根本も最速145キロをマークし、評判は少しずつ上がっている。


また、プロ志望を表明している3名で、最も注目したいのが健大高崎の下。12日の作新学院戦での最速は140キロだったが、
何よりこの投手は質の良い真っすぐが投げられ、さらにスライダーの投げ分けも上手く、ただ速いだけの投手ではない。
完成度も非常に高く、群馬独自大会、交流試合で評価を高めることができるか注目したい。

22名無しさん:2020/07/26(日) 15:00:01
☆ 高校野球の美学、「主人公」が終えきること  重松清さん



全国で独自大会が開かれる中、「熱球」「アゲイン」など野球を描いた作品の多い作家の重松清さん(57)に、
甲子園への思いと球児へのメッセージを聞いた。 

高校野球を初めて球場で見たのは母校の応援に行った高校1年生のとき。 同級生がクリーンアップで、
こういうやつがプロに行くんだろうなと感じた。 中学生の時は野球部で、高校野球もテレビでよく見ていた。


中高時代に山口県に住んでいた僕は、この線路をずーっとたどっていった先にあこがれの東京があると思っていた。
同じように甲子園も、自分がたどり着けるかどうかは別問題として、毎日の練習の延長線上のはるか先にある、と。
それを信じていられるのは幸せだよね。

今年はコロナで甲子園がなくなり、夢を見ることも目標にすることもできなくなってしまった。
確かに、甲子園という夢はすごく大事だと思う。でも夢が一つしかないのは不安定で、寂しい。


ある種の中央集権的な、究極の目標としての甲子園を残したままで良いから、早慶戦のような定期戦や、レギュラーを目指す、
ヒットを1本打つという別の物差しでの夢や目標があっても良いと思う。

高校野球は「最後の夏」というように、タイムリミットがあるのが魅力だけれど、
今回のような問題が起きるとそこで終わってしまう。 やっぱりしっかり終わらせてあげたいよね。


なんで野球が好きかって「プレーボール」で始まるでしょ。 プレー。試合は楽しいものなんだよ、絶対に。
ゲームセットも、何かを全うした感じがして良い。 断ち切られ感があるジ・エンドじゃない。

だからグラウンドに立たせてあげたいし、試合をさせてあげたい。試合の勝った負けた、打った抑えたを味わわせてあげたい。
いろんな締めくくり方がある中で、やっぱり「終わるための締めくくること」はやっておいた方が良いと思うんだよな。

その点、世間の後押しがある野球は恵まれている。
他の部活も隣の学校との試合や発表会など、何かやってきたことの締めくくりはさせてあげたい。

23名無しさん:2020/07/26(日) 15:05:01
☆ 同上  ②



僕のデビュー作「ビフォア・ラン」は部活引退から卒業までの話。 短編「終わりの後の始まりの前に」の主人公は、
最後の試合で自信を持ってボールだと見送った球をストライクと判定され、三振で高校3年の夏を終えた。
終わったけれども次を始められない中途半端な状態を描きたかった。 


しっかりと終われなかった主人公たちに何か終わりの瞬間を与えたいというのが、僕の若い頃からの根っこにある。
親の都合で突然の転校が多かった。 修学旅行も行きたかったし、卒業式も出たかったという思いがあるのかもしれない。

でも、「しっかりと終わりきる」って意外と難しいよ、誰の人生の、どの場面でも。
現実の世界で僕たちがあまり上手に終われていないからこそ、高校野球の持っている終わりの美学にひかれるんだろうな。


独自大会の開催で、独自ルールもたくさんできた。 ベスト8まで、7イニング制、登録選手数を増やす、
タイブレークを導入するなど、期せずして都道府県に相当権限が移った。 

忘れがちだった地元や地域みたいなものを改めて教えてもらったし、「ふるさとの高校野球は俺たちが作る」と
独自のリーグ戦を始めるなど、新しい機運を高めるチャンスになるかもしれない。
そうすれば、2020年の3年生が新しい歴史を始めた1期生になる。


もちろん独自大会というのは不本意な終わり方だと思う。 でも君らがやってきたことは絶対無駄ではないし、
野球はそれ自体が楽しい。 好きだからやってきたということを確認するための試合であってほしいな。

自分が悪いわけではないのに、思い通りにならない。 生きることはそういうことの連続。
その中でなんとか光を見つけるために、締めくくりの舞台が用意された。 じゃあ、ぜひ、それを思いきり楽しんでほしい。
普通通りに甲子園を目指した年とは、またひと味違う、大きなものをつかんでくれるはずだと信じてる。



しげまつ・きよし: 1963年生まれ。作家。早稲田大学文化構想学部教授。91年に「ビフォア・ラン」でデビュー。
99年「エイジ」で山本周五郎賞、01年「ビタミンF」で直木賞。
「卒業ホームラン」「赤ヘル1975」「どんまい」など野球を描いた作品も多い。

24名無しさん:2020/07/26(日) 15:38:01
☆ 元中日・山崎武司さん今年も100万円寄付  大震災時に楽天に所属 仙台市、宮城県に恩返しの思いは続く



中日、楽天などでプレーした山崎武司さん(51)が26日、宮城県のスポーツランドSUGOで開催された自動車レースの
「86/BRZレース」に出場。 今年も「東日本大震災みやぎこども育英募金」へ100万円を寄付することを明かし、
レース後のパドックで宮城県教育庁の安住浩志総務課長を招いて寄付金の目録贈呈式を行った。


レーシングチーム「TN滋賀」に加入した2015年から当地でレースに出場するたびに同募金に寄付しており、今年で6年連続6回目。
総額で600万円になる。 山崎さんが楽天に在籍していた2011年に東日本大震災が起き、被災地の惨状を目の当たりにした。

宮城県によると、震災で親を亡くした遺児は1104人にのぼる。「仙台や宮城県の街はどんどん復興していくが、時が過ぎても
子供たちの傷は癒えない。 現役時代から仙台市、宮城県に恩返しをしたいとの思いを抱いており、寄付を続けている」と話した。


今年も山崎さんだけでなく、TN滋賀を運営する滋賀トヨタ、ネッツトヨタ滋賀からもそれぞれ5万円が寄付された。
寄付金は震災遺児の大学までの就学資金や心のケアなどに充てられる。
山崎さんはこの日、「86/BRZレース」のクラブマンシリーズ・オープンクラスに出場し、5位入賞を果たした。

25名無しさん:2020/07/26(日) 17:27:01
☆ 阪神2軍 雨天中止  大雨でグラウンドは一瞬で水浸し

                 ウエスタン、阪神-広島  (26日、甲子園球場)

阪神2軍は12時15分頃に降り出した大雨により12時半に雨天中止が決定した。
スタメン発表が行われる中、前日に降った雨の影響もあり、グラウンドは一瞬で水たまりができた。

阪神の先発は2軍降格後、初先発となる中田の予定だった。

また、右肩関節炎からの復活を目指す守屋が実戦復帰。

右肘痛からの復活を期す才木も6月14日・プロ社会人交流戦以来の登板が予定されていたが、
28日・ソフトバンク戦(タマスタ筑後)以降へ持ち越しとなった。

26名無しさん:2020/07/27(月) 17:12:02
☆ 東邦   試合当日に出場辞退  一般生徒がコロナ感染



昨春の選抜高校野球大会で5度目の優勝を果たした東邦が26日、
愛知県刈谷市で予定されていた半田との代替大会4回戦の出場を辞退した。

野球部員以外の生徒に新型コロナウイルスの感染者が出たためで、不戦敗となった。
東邦は地元保健所からの要請で8月7日まで休校。野球部を含めた部活動も禁止された。


辞退は26日朝に決まり、試合会場に向かっていた選手らは同校のグラウンドに集合。
この夏から指揮を執っている山田祐輔監督らから説明を受けた。

野球部の小嶋裕人部長は「力もつけていた。有終の美を飾りたかった」と話した。

27名無しさん:2020/07/27(月) 17:15:01
☆ 一関学院が10年ぶりV  花巻東&盛岡大付2強の壁破り



都道府県高野連が独自に開催する代替大会は26日、岩手で決勝が行われ、一関学院が盛岡大付を4-1で下して優勝した。

各地で雨天中止が相次ぐ中、茨城は中止が続いた影響で、最長でもベスト8決定での終了が決まった。


勝利を決めると、一関学院ナインはマウンドに集まって飛び跳ねた。その先に甲子園はなくても、岩手を制した喜びは格別。
2010年以来、10年ぶりの頂点だ。

「攻守にわたって自分たちの形で最高の試合ができました」と佐藤颯弥主将。三回に坂本、奥谷の適時打などで3点を先制。
菊池、小綿の両投手が盛岡大付打線を1点に抑え、七回には佐々木春の中前適時打で駄目押しした。


代替大会では、秋田大会を制したノースアジア大明桜に続き、全国で2番目の優勝。
各県の代替大会を制した代表校計6校による独自の東北大会(8月9〜11日、宮城県)に出場する。

「本当にうれしい。選手たちがすごい試合をしてくれた」と高橋滋監督。
岩手の夏の優勝校は11年以降、花巻東と盛岡大付の2校だけで占められていた。2強の壁を、10年ぶりに打ち破った。

28名無しさん:2020/07/27(月) 17:30:02
☆ 甲子園初、完全試合した監督 「野球は難しい。だから…」



8月18日に60歳になる。 甲子園で史上初の完全試合を達成し、現在は群馬県立中央中等教育学校の監督を務める松本稔さんだ。
教員として高校野球を指導して約35年。 経験したことのない特別な夏は初戦敗退に終わったが、
「野球は難しい。 だから、おもしろいんですよね」と、いつもと同じ口調で語った。


松本監督率いる中央中等は26日、独自大会の1回戦で高崎と対戦。 好機にあと1本が出ず、1―3で敗れた。
高崎が部員45人なのに対し、中央は17人しかいない。
「それは言い訳にならない。 確かに思うようにいかないこともある。 そこにおもしろさがある」


新型コロナウイルスの影響による休校が解除されたのは6月1日。 
当初は分散登校だったため、6月中旬まで全員そろって練習できなかった。「うちは集団より個を重視している。
生徒が自分の弱点を考え、それを克服する。 だから休校中も心配はしていなかった」

ただ、練習試合は7試合しかできなかった。 部員が少ないため、紅白戦もできない。
「いろんなことを詰め切れなかったという面はある。 そのあたりが今日の試合にも出た。 それはぼくの指導力不足です」


松本さんは1978年春の第50回選抜大会に前橋のエースとして出場。 1回戦の比叡山戦で、完全試合を達成した。
筑波大では主に外野手として活躍。 同大学院を修了後、85年に教員となった。

初任校の中央を87年夏の甲子園に導き、母校・前橋の監督としても2002年春に甲子園出場を果たした。
初任校に戻り、間もなく60歳を迎える。 今は中高一貫校になり、男子生徒は学年60人だけ。

1、2年生の新チームは7人しかいないから大会に出られないという。
「来春、中学3年生が5人入部してくれそうなので、秋は連合チームを組まないことにした」


再任用制度で指導を続ける可能性もあるが、「まだ決めていない」という。
「野球は難しい。 テクニックのスポーツだとぼくは思っている。 その難しさ、おもしろさを、
少年野球の指導者に伝える活動をしたいという夢もあるけど、生活しなければなりませんからね」と笑った。

29名無しさん:2020/07/27(月) 17:57:02
☆ 大腸がん克服の原口、「日本対がん協会」アンバサターに就任



2021年3月に開催予定の「東京マラソン2021」の「チャリティー寄付先団体」に選ばれた「日本対がん協会」は27日、
チャリティ・アンバサターの1人に、阪神・原口文仁捕手(28)が就任すると発表した。

原口は18年に大腸がんを患い、翌19年1月に手術を受けたが、3月には練習を再開。プロ野球選手として復帰し、
その後は自らの体験をもとに、がん患者やその家族を励ます活動を行っている。


原口は自身のツイッターで、「東京マラソン2021の日本対がん協会のアンバサターに就任させて頂くことになりました!
日本対がん協会は、がんで苦しみ悲しむ人をなくすための様々な活動をされており、僕も昨年インタビューをして頂きました。
がんを経験したプロ野球選手として今後も日本対がん協会の活動を応援します!」と投稿した。

このほか、17年に乳がんを発症した歌手の麻倉美紀、
乳がん検診の大切さを伝える活動をしているプロゴルファーの上原彩子らも就任する。

30名無しさん:2020/07/28(火) 16:51:02
☆ 甲子園優勝監督の“指導方針” 「人間性の豊かな子を育ててから」 名将・金城孝夫の“心を育てる野球”



子供たちの夏の甲子園の夢が絶たれた今、目指しているのは「心を育てる野球」です。
「甲子園が中止になったけど先生の方針は、チーム内競争でよりベストのメンバーを選んで戦いに行く。
甲子園が無くなったから、特別に3年生だけの大会にする、これ考えたこともありません」


甲子園という大きな目標を失った高校球児にこう話すのは、愛知黎明高校の金城孝夫監督、66歳。
沖縄尚学高校の監督として、甲子園優勝の経験もある名将。去年4月母校に戻った。
弥富市にある愛知黎明高校。 野球部では朝、掃除の時間を設けています。

野球以外のことでもしっかり細かいところに目を配りながら周りをみてやることで、野球にも生かしていけると思っている。
「そういうところに関して、掃除は大切だと思います」 さらに掃除の後は、図書室で読書や勉強の時間です。

「野球は感性のスポーツだから、感性を磨くために読書。
それがやっぱり、テストが近づくとテスト対策もしないといけないから、勉強会に置き換えているということですね」


金城監督は中京大学を卒業後、愛知黎明高校の前身、弥富高校で監督に就任し、20年にわたり指導。
あと一歩のところで甲子園出場を逃し続けていました。 「当時は夜11時、12時まで練習をしても勝てない…。
練習は嘘をつかないかもしれないけど、長時間練習すると練習をやる子供が嘘をつく、というか手抜きをする。

そうすると効果が上がらないということに気づいて、それだったら嘘をつかない、人間性の豊かな子を育ててから、
野球を教えたほうが早いんじゃないかなって」転機となったのは、故郷・沖縄での監督就任でした。
ここで今の指導の原点である「心を育てる野球」に重きを置いた指導に方針を切り替えました。


すると監督として初めてチームを甲子園へ。沖縄県勢初の優勝を果たし、これまで春夏あわせて6度、甲子園へ導いています。
65歳で引退しようと考えていた金城監督でしたが、ここ数年低迷したチームを立て直してほしいとOBから強い要請があり、
去年4月に監督に復帰しました。

メンバー選びにも強いこだわりがある。「選ばれたら責任を感じてそれをどう生かすか、外れたらその悔しさをバネにして
どう生かすか。 嫌な思い苦しい思いを経験することも、長い人生で大きくプラスに切り替えることができる。
全て、これからの人生に結びついてきますから」


数日後、メンバーから外れた3年生が下級生に交じってグランド周りの整備をしていました。その中の1人は…。
「全員のためにという気持ちをもって、環境を整えています。 この悔しさをバネにして、
社会に出てからもこういう場面があると思うので、その場面では勝てるように頑張っていきたいと思っています」。

31名無しさん:2020/07/28(火) 17:17:01
☆ 三浦春馬さん著書が重版決定  売上げ一部はラオスの小児病院へ寄付



出版社のワニブックスは27日、三浦春馬さんの著書「日本製」と
「日本製+Documentary PHOTO BOOK2019-2020」を重版すると発表した。


この本は今年4月5日に発売されたもので、月刊誌「プラスアクト」に掲載されたものを書籍化。
三浦さんが約4年をかけて全国47都道府県を訪れ、日本の文化、伝統、歴史、産業などを自ら取材した本だ。

同社は「この書籍を通じて1人でも多くの方に届けるべく、重版を決定いたしました」とし、
重版分は8月以降順次、書店に納入されるという。


売上げの一部は、認定NPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」を通じて
ラオスのラオ・フレンズ小児病院に寄付される。
三浦さんが実際にラオスに足を運び続けていた支援活動を「微力ながら応援させていただきます」としている。


この本は三浦さんが亡くなった直後、フリマサイトなどで高値で取引されていたが、
ワニブックスでは22日に「三浦さんの思いが詰まったこの作品を皆様に適正にお届けすべく
手を尽くしてまいりますので、お待ち頂けますと幸いです」としていた。

32名無しさん:2020/07/29(水) 17:13:03
☆ 2軍守屋、復帰登板1回0封 「1日1日大切に」

                       ウエスタン・リーグ:ソフトバンク2-5阪神  (28日、タマスタ筑後)


右肩痛で2軍調整中の守屋功輝投手が実戦復帰した。 ソフトバンク戦に8回から3番手で登板。
先頭の田城に中前打を許し、1死二塁とされたが後続の柳町、野村を連続三振に仕留めて1回を無失点。

「狙って三振を取れたことは大きかった」。 最速も150キロを3度計測するなど上々の復帰登板を飾った。
「ベストな状態で(1軍に)行けるように1日1日大切に」と復活へ意気込んだ。

33名無しさん:2020/08/01(土) 12:06:01
☆ 「きっちり10万円」子ども食堂に相次ぐ寄付  匿名で米300キロも



「特別定額給付金」を使ったとみられる子ども食堂支援の動きが、北九州市でじわりと広がっている。

市役所や市内の食堂でつくる「子ども食堂ネットワーク北九州」には3月以降、18件計180万円の寄付があり、
別に10万円分の米も届いた。
コロナ禍で先行きが見えない中、食事も満足に取れない子どもたちに一人一人の善意が寄せられている。


「10万円分の米を注文したので取りに行って」。
5月下旬、匿名の電話を受けた市職員が指定された同市戸畑区の米店を訪ねると、米約300キロの代金が支払われていた。
米は困窮家庭などに食べ物を届ける「フードバンク北九州ライフアゲイン」に託された。

現金の寄付は、特に政府が給付金支給を決めた4月以降、きっちり10万円ずつの振り込みが相次いだ。
「学校の臨時休校で給食がなくなり、ご飯が食べられない子どもがいると報道で知った」
と電話口で支援の理由を話す人もいたという。


市によると、イベントが中止になった企業などからも子ども食堂向けに米の寄付が相次ぎ、
4〜6月だけで昨年1年間の2倍超、約3・5トンが集まった。

同市内の約30カ所の子ども食堂はコロナ禍で活動を休止していたが、5月中旬以降、順次活動を再開。
3カ所で食堂が新規開設された。 市は届いた支援金や食料などを各食堂に分配中で、
市子育て支援課の担当者は「米も資金も食堂の運営には欠かせない。 支援はとてもありがたい」と話している。


素晴らしい。天晴!!

34名無しさん:2020/08/01(土) 12:51:01
☆ 「甲子園ないけど伝説つくったぞ!」  倉吉東が25年ぶり優勝  9連敗中の鳥取城北破り歓喜!

           鳥取大会決勝 倉吉東7-5鳥取城北(7月31日 コカ・コーラボトラーズスポーツパーク野球場)


倉吉東が甲子園交流試合に出場する鳥取城北に逆転勝ちし、1995年以来、25年ぶりの夏の大会優勝を飾った。

最後の打者を二飛に打ち取ると倉吉東のエース右腕・桑本(3年)は大きく両手を広げた。
昨秋の準決勝で7回コールド負けした鳥取城北相手に8安打を許しながらも128球で5失点完投。

1メートル70の大黒柱を中心に小さな輪ができたが、それもすぐに解けた。コロナ禍を象徴する優勝の瞬間だった。
「倉東(くらとう)で少しでも野球をやりたいと思ってくれる人が増えれば。それは見せられたと思います」。



倉工の伝統のユニホームに似た格好いいユニが眩しい。 伝統を大切に引き継いでいるとたまにはいいことがある。

35名無しさん:2020/08/01(土) 13:07:01
☆ 伝統校が32年ぶりの「夏の王者」 独自大会で見せた「新しい津久見」



31日、大分市の別大興産スタジアムで決勝があり、津久見が大分舞鶴を2-1で破って優勝した。

8回にスクイズで決勝点を挙げた。春夏各1度の甲子園優勝がある伝統校が「夏の大分王者」になったのは実に32年ぶり。
大分舞鶴は頂点にわずかに届かなかった。金メダルがカクテル光線でキラキラ輝いた。
九州で唯一春夏の甲子園を制している津久見が1点差の接戦を制した。


ヤクルトなどで活躍した川崎憲次郎を擁した1988年が最後だった昭和の伝統校が、令和の独自大会で復活した。
1-1で迎えた8回1死二、三塁。 3番柳生(3年)が2ボール1ストライクからスクイズで決勝点を奪った。


2012年に3校が統合して現在の津久見となったが、復活を願ってユニホームは変わらなかった。
地域も「野球のまち 津久見」を掲げて後押し。
新後援会も4年前に発足し、選手が暮らすシェアハウスを設立するなど強化を支えた。


「おじいちゃんたちが練習を見に来てくれて、温かい激励をしてくれます」。
全国的な強豪校として名前をとどろかせた昭和の時代を知らない柳生や選手たちも、地元の人々の熱い思いを感じている。



伝統のユニホームを変えず大正解。羨ましい限り。 伝統を大切に引き継いでいるとたまにはいいことがある。
おじいちゃんたちも不細工なユニでは見に行く気にもならんだろう。
倉工の伝統を無視する監督はまだやるのか? 吉報を待ち望んでいる。

36名無しさん:2020/08/01(土) 15:53:01
☆ 急性骨髄性白血病から復帰した仁川学院・槙原葵人

             兵庫代替大会 2回戦  武庫荘総合9―2仁川学院 7回コールド (1日・ベイコム)


急性骨髄性白血病から復帰した仁川学院の槙原葵人(あおと)が「4番・遊撃」で先発。
5回無死一塁で中前安打を放つなど3打数1安打1盗塁で好守も見せたが、チームは7回コールド負けで初戦敗退した。

槙原は昨年9月に急性骨髄性白血病と診断され、2月19日に退院した。


「プレーできていることが幸せ。かみしめながらプレーした。負けたけど、持っている力は十分、出し切れた。
入院中もお見舞いに来てくれて支えてくれた。『ありがとう』と言いたい」と、仲間に感謝した。

入院中は「見たことがないぐらいの足の細さでショックが大きかった。野球があったから、
最後の夏の大会は出てやろうと思った」。 


報徳学園や関西学院など阪神地区の高校のほか、オリックス・吉田や広島・小園からのビデオメッセージで励まされた。
辻元監督(45)は「グラウンドに立てていることが考えられないし、信じられない。うれしい」と、目を潤ませた。

37名無しさん:2020/08/02(日) 10:08:00
☆ 母を亡くした夏、マウンドから見た甲子園  “白山の奇跡”2年後のエピローグ 



2年前、部員5人の状態からわずか5年で甲子園出場を果たした三重・白山高校。
当時“白山の奇跡”とも言われた歓喜の輪のなか、一人、亡き母への思いを胸に聖地のグラウンドに立つ選手がいた。

ボールボーイとして1年生で甲子園の土を踏んだ木村偲生(しゅい)内野手は、夏の大会が始まる直前の5月、
母子家庭で女手ひとつで育ててくれた母を病で失った。


野球好きの母がつけてくれた偲生という名前は、“首位打者”からとってつけられたもの。野球を始めたきっかけも母だった。
小学校から中学に上がるまでの間は、毎年のように母に連れられ甲子園を観戦。
高校入学時には「親を甲子園に連れて行く」とグラブに刺繍を入れた。

「心の中で母に、甲子園の土は踏めたよと報告しました。
当時は投手で、審判の方から『君、投手だったらマウンドからの景色を見ておいで』とロジンバックを渡された。

幼いころから何度も母に連れてきてもらった甲子園ですが、外側から見る景色と中から見る景色って全然違うんだな、
次は自分の力でこの場所に立ちたいと思った」


肩の怪我で投手としての道は絶たれたが、その後も甲子園へ戻ることだけを目標に必死に練習を積んできた。
そんななか訪れた突然の大会中止発表。 気持ちの整理は簡単ではなかった。

「あの場所でもう一度野球がしたかった。 この3年間には何の意味があったのだろう」。
自粛期間は寮から祖父母が住む実家に帰省したが、一人部屋にこもり、泣いた。

それでも、野球を諦めることはできなかった。
「学校がなかった時間、ずっと家で友達と野球したい、試合がしたいなとずっとそんなこと考えていて。
野球がしたくてたまらなくて。 やってなかったら今何やってたんやろって。 野球に出会えて良かった」。


自粛開けにグラウンドに戻ると、代替大会へ向け練習を再開。
「お母さんのために打ってこい」。東監督からそう送り出された3回戦では、適時打を放った。

卒業後は消防士への就職を目指す。「親が亡くなって、すごく悲しかった。その思いを他の人には味わってほしくない。
困っている人がいたら助けられるような、立派な消防士になりたい」。

“白山の奇跡”から2年。 果たせなかった約束を胸に、人生の次の一歩へ足を踏み出す。

38名無しさん:2020/08/02(日) 10:20:02
☆ ソフトバンクの長谷川がコロナ陽性  2日の西武戦は中止



ソフトバンクは1日、福岡市のペイペイドームで2日に予定されていた西武戦を中止すると発表した。

長谷川勇也外野手(35)が、新型コロナウイルスの検査で陽性と判定されたため。
6月のプロ野球開幕後に、選手から感染者が出るのは初めてで、公式戦の中止も初。


長谷川は2013年の首位打者。 開幕から1軍で出場していたが、けがで7月上旬から2軍施設で調整していた。
球団によると、1軍の選手らと直近の接触は確認されていない。

ただ2軍施設の利用や、隣接する寮からペイペイドームに通う選手を介した感染が否定できないと、
専門家のアドバイスを受けて試合中止を判断。 2日以降に1軍の全員がPCR検査を受ける予定という。

球団によると、長谷川は7月31日にのどの違和感と微熱があり、翌日にPCR検査。 1日に陽性と判定されたという。

39名無しさん:2020/08/02(日) 11:10:03
☆ 父も目指した甲子園、消えた夢に涙  前を向く近江マネ



甲子園のベンチで、スコアを書く。 それが、近江のマネジャー角田美空(みく)さん(3年)のあこがれだった。
夢の実現は、コロナ禍で突然、消えた。 実は、父・慶弘さん(43)にも、あと一歩で甲子園を逃した経験があった。

長浜(現長浜北)の3年生だった1994年。 選手権滋賀大会で決勝まで進んだが、近江に敗退し、準優勝。二塁手だった。
そんなこともあり、美空さんは小さい頃から高校野球が好きだった。 甲子園や県大会に何度も行った。


中でも近江に魅了された。 秋の県大会、1球ごとに三塁コーチが大声で指示を送る姿に感動した。
「プレーしていない人に目を奪われたのは初めて。 近江でマネジャーをやりたい」

しかし、両親に言い出しづらかった。近江は、かつて父が決勝で敗れた相手。「私立はお金もかかるし、公立高校かな」と考えていた。
両親は気付いていた。 中学3年の進路を話し合う三者面談で、母が、教師に自分の気持ちを代弁してくれた。
隠していたつもりだったので、驚いた。 父も「近江で甲子園に行って」と後押ししてくれた。


念願の近江に入学し、野球部のマネジャーに。 チームは2年連続で甲子園出場を果たした。
でもスコアラーとしてベンチ入りするのは3年生だけ。 過去2年はアルプス席から応援した。

強豪校を次々に破る快進撃や、ツーランスクイズでの信じられない敗退を目にした。
「甲子園は、特別なことが起こる球場」。 自分もベンチで経験したい…との思いを募らせていた。
そこへ、選手権大会は中止の知らせ。 「覚悟はできていた。絶対、泣かない」 そう思っていた。


「甲子園に連れて行ってやれずごめんな」。 3年生の選手からLINEが来ると、涙があふれた。「久しぶり」
登校再開初日、落ち込んでいると思っていた選手から、声をかけられた。 みんなの元気な姿を見て、前を向こうと思った。

下級生が明るく活動できるよう、以前にも増して笑顔を心がけている。「大変なのは3年生だけじゃない」と思う。
甲子園の夢は、下級生のマネジャー11人に託す。書きためた監督の指示のメモをみんなに渡し、学んだ全てを伝えている。
「コロナで可哀想な世代なんて誰にも言わせない。楽しんで、輝く姿を見せたい」 最後まで、笑顔で駆け抜けるつもりだ。

40名無しさん:2020/08/02(日) 11:51:02
☆ 観戦中止「ひどい」保護者が涙声  県高校野球、感染拡大で制限強化



沖縄県が緊急事態宣言を出したことを受け、県高校野球夏季大会は1日の準決勝から、観戦制限をより強化し、
保護者にも認めない形で実施された。 急きょの変更でもあり、保護者からは会場などでの対応に疑問の声が上がった。


保護者の男性は、入場できなくともせめて近くで応援の思いを送りたいと会場に向かった。
選手の球場入りを見送り、保護者同士で立ち話をしていたところで注意を受けたという。

「球場に近づかないで解散してすぐ帰ってくれと言われた。長年、子どもと野球に打ち込んできた集大成の大会。
球場の外にいただけで、こんな対応や仕打ちはひどい」と涙声だった。


無観客だった春の大会ではフェンス越しに観戦する人もおり、県高野連は今回、会場外にも担当者を置き、声掛けしている。
場内の様子が少しでも見える場所や選手の声が聞こえる場所に人が集まってしまう可能性もあるという。

高野連の中村理事長は「保護者や一般のファンで対応を変えるということはしていない。
密を避けるために『会場には入れないので、来ないでください』という対応をしている」と理解を求めた。

41名無しさん:2020/08/03(月) 17:10:02
☆ 右肩痛の守屋 「ちょっと落ちてしまっている」



右肩痛で2軍調整中の守屋功輝投手がペースダウンを明かした。
鳴尾浜で体を動かし「ちょっと落ちてしまっている」とコンディションが芳しくないと説明。

7月28日のウエスタン・リーグ、ソフトバンク戦(タマスタ筑後)で実戦復帰したが
「試合と練習は全然違う。 試合で投げてみないと分からないことが分かった。ちょっと怖さがある」と話した。
今後は再発防止を念頭に慎重に調整を進める。

42名無しさん:2020/08/03(月) 17:13:02
☆ 「生徒審判」 連日奮闘  コロナ禍、試合運営の要に 



熱戦が続く今大会の塁審を見ると、二塁と三塁は高校球児だ。
新型コロナウイルスの感染対策で例年よりも会場数が多く、生徒審判が試合運営の要を担っている。

2日、明石商が七回コールドゲーム勝ちした3回戦。 小野の2年生前田さんは六回から三塁塁審に就いた。
「緊張感があった」。 公式戦初の大役に、暑さ以上に喉が渇いたという。


審判講習を受けたが、現場で分かる難しさも。 二塁塁審を務めた小野の小林さんは一塁走者がいる場面。
「視界で走ったのが見えたら構える」と、走者が動くたびに盗塁に備えたが、適切な体の向きを見つけるのに汗をかいた。

ほっともっとフィールド神戸では神港橘の生徒審判が公平に判定しつつ、選手目線で強豪の神戸国際大付を観察した。
二塁塁審の武居さんは外野手の連係に注目し「技術面はもちろん、野手同士の声かけが一番参考になった」という。
時に勝負を分けるジャッジ。 重責を担いながら、生徒審判は強豪校のプレーに目を凝らす。

43名無しさん:2020/08/04(火) 16:00:02
☆ 王貞治さんが高校球児にメッセージ 「挫折が強い気持ちにつながった。 常に自分にハングリーであれ」



高校球児たちは甲子園に出場することを夢に、毎日毎日苦しい練習に耐えてきたと思います。
特に今回の大会が最後だった3年生にとっては、本当に苦しい経験だったと思います。
この経験は今年の選手にしかわからないつらさでしょう。

だけど、起きてしまったことはどうしようもありません。 
同じ野球の道を通ってきた者からすれば、これをバネにして自分の人生をより強いものにしてほしいと思っています。


今回の甲子園中止は、他の球児が経験できないような大きな試練です。僕もこんなことが起こるなんて想像もしたことがなかった。
でも、逆に言えば、これを乗り越えれば、すごいバネになるはずです。
甲子園があるときよりも一層、羽ばたく人も出てくると僕は信じています。


僕も最後の甲子園は地方大会の決勝で敗れて、出場できませんでした。
それまでに4回も甲子園に出ていたから、当然出ることができると僕もチームも過信していたから、
出場の夢が断たれたときはものすごいショックを受けた。 僕はしばらく立ち直ることができませんでした。

だけど、振り返ってみると、この時の挫折があったから、「今度こそ絶対に夢を実現するんだ」という強い気持ちにつながった。
甲子園には出たかったけれど、それがかえって、いい刺激になったんだと思います。


まだ17歳、18歳でしょうから、人生はこれから70年、80年とあります。
今回の経験を糧に、自分の人生に不屈の闘志で向かってもらいたいです人生はわからないものです。

僕は当初、高校を卒業したら早稲田大学に進学して野球をやるレールの上に乗っていた。
最後の夏の甲子園に行っていれば、大学に進学していたと思う。 

だけど、甲子園に行けなかったことで、「本当にこの敷かれたレールの上を走っていていいのか」と考えるようになった。
プロ入りに気持ちが傾きました。 それがあったから、その後の僕の野球人生があるわけです。


大学野球であれば、すぐに結果だけを求められることはなかったでしょうが、いきなり大人の世界であるプロに
入ったわけですから、苦労しました。いろんな失敗をしながら、野球だけではなくて、さまざまな人生経験ができたと思っています。

高校時代に培った「勝つためにどうするか」というものの考え方は、卒業後も役に立ちましたね。
甲子園を目指していましたから、勝つためにいつも突き詰めて考えていました。


球児たちにとっても、高校野球で培ったものは人生の土台となるのは間違いありません。
どこの道を歩もうとも、絶対に役に立つ。 自信をもって、自分の道に進んでもらいたいですね。

3年生たちには卒業しても「自分にハングリーであれ」といいたいです。 自分に物足りなさを感じないといけない。
満足してしまって、それ以上頑張ろうとしなくなったらアウトです。


僕はプロ野球時代、3試合に1本、年間43本ホームランを打つことを目標にした。
これは自分の過去を振り返りながら「この数字を打てば自分の仕事をしたことになる」と決めた数字です。

本塁打王になろうがなるまいが、他人がどう評価しようが、関係ない。 自分としてよくやったと言える数字を設定しました。
こうした自分なりの目標を常に設定して野球をやってきました。
乗り越えられるか、乗り越えられないかは別にして、それをやらないと人間は成長できないと思っています。


3年生はこれからそれぞれの人生を歩んでいくと思います。 進んだ道によってその世界なり、自分なりに課題が出てくるでしょう。
そこでどういう方向に向かっていきたいか、自分なりの目標をしっかりと立てて、目の前の道を切り開いていってほしい。
今回の悔しさをバネにして、自分の信じた道を頑張ってください。 失敗を恐れず、これからもチャレンジし続けてほしいと思います。

44名無しさん:2020/08/04(火) 16:10:02
☆ 内田雅也が書く 野球ができる喜び  戦争に消えた3連覇への夏 ①



暑い夏の日だった。1941(昭和16)年7月15日、和歌山県海草郡宮村(今の和歌山市)の海草中(現向陽高)野球部は
10日から特別に校長許可を得て、校内の同窓会館で合宿中だった。

39年、全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で左腕・嶋清一が全5試合完封の偉業で初優勝。
前年40年は真田重蔵を投打の柱に連覇を達成していた。 真田は4年生で健在だった。 3連覇に挑む夏に向かっていた。


合宿に優勝旗を持ち込み、一緒に眠った。 房をちぎってお守りとした。
夏の県予選を前に「全員で優勝旗を返しにいこう」が合言葉だった。その日は期末試験が終わり、練習にいっそう熱がこもっていた。

練習後の同窓会館。監督の長谷川信義が集合をかけた。重い口調で「夏の大会中止」を告げた。 真田は最前列で聞いていた。
「唇が震えていた」と真田の回想が山室寛之『戦争と野球』(中公新書)にある。
「それを見たら、私も急に悲しくなって…。中止が本当だとわかると、体が浮き上がるような妙な気分がした。みんなが泣いた」

当時、大会中止の発表はない。 主催の朝日新聞も報じていない。 12月の日米開戦前で敵性競技の野球排撃が強まっていた。
7月の関東軍特殊演習で満州に70万人もの兵力を派遣。 

13日に不要不急の旅行や移動を禁止する文部省次官通達が発令され、大会は自動的に中止となった。防諜上、報道も規制された。
「不要不急」の移動制限とは、まるで今年の新型コロナウイルス禍での事態を思わせる。


42年夏、文部省主催で大会史には残らない全国大会、「幻の甲子園」があり、海草中も出場した。
だが真田は従来「20歳未満」だった年齢制限が「19歳以下」に変わり、出場できなかった。

秋の明治神宮大会には出場し3連覇を果たしている。12月3日、真田は主将として大阪朝日新聞社を訪れ、優勝旗を返還、
レプリカを受け取った。 カーキ色学生服にゲートル巻だった。


43年3月卒業後、プロ野球・朝日軍に入った。 勧誘は阪神と2球団。9人きょうだいの末っ子で朝日を選んだのは、
早く亡くなった父親の代わりを務めていた長兄、利一の判断と元スポニチ編集委員・小川卓の『職業野球の男たち』にある。
オーナー・田村駒治郎の肝いりで、甲子園の自邸「一楽荘」の離れに住まわせた。

長男・智之(68=大阪・堺市)が持っている数少ない戦前の父親の写真が目をひいた。
朝日軍入団当時で、撮影場所は今の甲子園警察署付近にあった野球塔だろう。 夏の大会前日には茶話会が開かれた。
歴代優勝校と選手名が刻まれた銘板がはめ込まれている。 真田は思い出の地でプロとしての一歩を記したのだ。


11月20日、和歌山市内で開かれた海草中全国優勝メンバーの出陣壮行会に6人が参加。
他5人は学生服、最年少の真田だけが背広で「武運長久」と書かれた日の丸をたすき掛けにして万歳で送られた。

45名無しさん:2020/08/04(火) 16:18:02
☆ 同上  ②



12月10日、海軍入隊。広島の大竹海兵団に配属され、嶋や同じく海草中先輩の古角俊郎と一緒になった。
嶋が出征前に結婚した妻・よしこに宛てた手紙にみんなで野球をやったとあった。

44年6月に移った横須賀の通信隊、9月に和歌山・由良町の紀伊防備隊でも真田は嶋と一緒だった。
真田は「休憩時間になると道端で昼寝したり野球もやりました。楽しかったです」と語っている。
戦時、死を覚悟しながら、やはり野球なのだ。


10月になり、真田に転属命令が来た。 特殊潜航艇の乗務だった。 水中を進んで敵艦に肉薄し魚雷を放つ。
体当たりの特攻兵器、人間魚雷「回天」とは異なるが、生還の確率は極めて低い。 石川県で訓練を受けた。

智之によると父親はあまり戦争の話をしなかった。 ただ「終戦があと数日遅ければ、この世にはいなかった」と聞いた。
45年8月15日は神戸で出撃に備えていた。


戦後、プロ野球に復帰し大活躍した。 2リーグ分立の50年には今もセ・リーグ記録の39勝をあげ松竹の優勝に貢献した。
晩年は阪神に移籍。 引退後はスポニチ評論家のかたわら明星高(大阪)監督として63年夏、全国優勝に導いた。

当時の本紙に手記を寄せ、友だちから「明星は弱いな」と言われた小学5年生の智之に向け、お父ちゃんはやったぞと記した。
智之は「子煩悩な父でした」と話し、家族で食事や旅行に行った思い出が残る。


90年に野球殿堂入りした際、海草中OB会から贈られた掛け軸「一期一会」を「気性に合う」と仏壇わきの壁に掛けていた。
先輩の嶋をはじめ、多くの球友を戦争で亡くした。 だからこそ、人との出会いを大切にしてきた人生だったのだろう。



真田 重蔵: 1923(大正12)年5月、和歌山市生まれ。 海草中(和歌山=現向陽高)で39年三塁手、
40年投手で夏の甲子園大会連覇。 43年朝日軍(後の太陽、松竹)入団。
出征後復帰し3年連続20勝、50年39勝(リーグ記録)をあげ沢村賞。

52年阪神移籍、56年引退。通算178勝、ノーヒットノーラン2度。57年スポニチ評論家。
明星高監督で63年夏、全国優勝。阪急、近鉄などでコーチ。90年野球殿堂入り。94年、71歳で他界。夫人と1男1女。

 
嶋 清一: 1920(大正9)年12月、和歌山市生まれ。海草中(和歌山=現向陽高)で春夏6度甲子園出場。
主戦左腕として39年夏、全5試合完封、準決勝・決勝連続ノーヒットノーランの偉業で優勝。

明大進学後の43年、学徒出陣で応召。 海軍に入隊。明大戦前最後の主将だった。
45年3月29日、海防艦に乗り、インドシナ半島沖を航行中、米軍の魚雷を受け沈没、24歳で戦死した。
出征前に結婚、子どもはいない。 2008年野球殿堂入り。

46名無しさん:2020/08/04(火) 16:25:02
☆ 内田雅也が書く 野球ができる喜び  特攻に散った野球人、最後の手紙



大阪・住之江にある大阪護国神社の一角に飛行服に身をまとった立像がある。「海軍大尉 粟井俊夫之碑」
神風特攻隊員として1945(昭和20)年4月16日、菊水三号作戦に参加、鹿児島・鹿屋から沖縄に向けて出撃し、
喜界島南東50カイリ(約93キロ)の海で散華した。 24歳だった。


大阪・天王寺商時代は捕手。 時に投手も務めた。 37年には夏の大阪予選で準決勝まで進出している。
39年春、立教大に進み、野球部に入った。 同期に戦後、阪急、西鉄で活躍した永利勇吉(62年、41歳で他界)、
1級上に阪急、近鉄などで監督を務める西本幸雄(2011年、91歳で他界)がいた。


資料によると、海軍・海兵団で試験の上、第14期飛行予備学生として44年2月、土浦海軍航空隊に入隊した。
さらに鹿児島・出水、茨城・筑波で飛行訓練を受けている。

45年2月10日、筑波隊に神風特別攻撃隊(特攻隊)編成の命が下った。120人から50人が選抜された。
4月に入ると、筑波隊は第一、第二…と順に前線基地の鹿屋に移動した。 俊夫は第三筑波隊だった。


俊夫が弟の賢文に宛てた手紙が残っている。 俊夫の遺品や写真はほとんど空襲で焼失してしまったが
「この手紙だけは父が大切に保管していた」。発信は4月4日。 筑波からか、鹿屋に移ってからか。
消印は読み取れない。 いずれにしても出撃間際である。


当時12歳の弟に賢文君、さらに賢坊(ぼ)んと普段通り呼びかけている。「ぼん」は大阪言葉で名前の下に付ける愛称だ。
3月13日深夜から14日未明にかけての大阪大空襲での避難と無事を喜び、ねぎらった上で賢坊んは大きくなったら
何になりますと問いかけ、兄さんは科学者かお医者様になって欲しいと望んでいる。

科学者になって立派な飛行機を造って欲しいですね。
兄さんは賢坊ん等が焼き出された、あの憎い米英を一氣に撃滅せんと一生懸命猛訓練に励んで居ります故、安心して下さい。


手紙に表現の自由はなかったと海軍飛行予備学生第14期会編『あヽ同期の桜 かえらざる青春の手記』のまえがきにある。
わずかに検閲の目をのがれて、秘かに遺家族にとどけられた。 出撃前の兄は特攻とは書いていない。

「では今日は此れ位にして又お便りします さようなら」と結んでいるが、もう次の手紙は届かなかった。
俊夫ら第三筑波隊は沖縄戦の菊水三号作戦に参加。 4月16日早朝、鹿屋を飛び立った。 同隊5機とも帰還しなかった。


筑波航空隊にはプロ野球・名古屋軍(現中日)の投手・石丸進一もいた。 佐賀商から41年入団。
42年17勝、43年はノーヒットノーランを含む20勝をあげた。
徴兵猶予のため日大夜間部にも籍を置いていたが学徒出陣で入隊。 特攻隊員となった。

第五筑波隊で45年5月14日、鹿屋から出撃。 出発前、親友の本田耕一(法大)と最後のキャッチボールを行った。
従弟・牛島秀彦の『消えた春』(河出文庫)。 同書を原作に映画『人間の翼』にもなった。
石丸は神風特攻隊員唯一のプロ野球選手。 他に陸軍特攻隊で戦死した朝日軍の渡辺静がいる。



◆特別攻撃隊(特攻隊): 爆弾を装着した航空機や潜水艇などで敵に体当たりするため編成された部隊。
太平洋戦争末期の1944(昭和19)年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で海軍の「神風特攻隊」が初めて出撃した。

人間魚雷「回天」、ボートに爆弾を積んだ「震洋」、爆弾を積み滑空して体当たりする「桜花」なども投入された。
特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると特攻による戦死者は6418人。

47名無しさん:2020/08/05(水) 17:00:02
☆ コロナ対策が支離滅裂の安倍政権   今こそ「落選運動」を



国民の間にかつてないほど政治へのフラストレーションが高まっている。
新型コロナの“第2波”が全国に広がる中、政府はGo Toキャンペーンで旅行を奨励しながら東京を除外したり、
巨費を投じてアベノマスクをまた配ると言ったそばから、批判が集まると取り消すなど、すべてが支離滅裂。

「いったい、政治家は何やっているのか」 政権への不信は頂点に近づき、各紙の7月世論調査では安倍内閣の不支持率が
朝日、読売ともに52%、毎日60%、日経50%と揃って半数を超えた。


それでも安倍首相は国会を閉じ、会見も開かずに人々の不安や疑問に“見ざる、聞かざる、言わざる”を決め込んでいる。
麻生副総理は感染拡大渦中に参加者1000人規模の盛大な政治資金パーティを開催してカネをごっそり集めた。

「下々が何を言おうが、政権はびくともしない」。どうせ国民には何もできないと舐めきっていることが態度から伝わってくる。
政権がコロナに苦しむ人々の声を無視し、政治を私するのは権力の暴走だ。それを止めるには国民が“武器”を取って立ち上がるしかない。
民主国家で国民に認められた最も強力な武器こそ、「落選運動」である。


憲法学者の上脇博之・神戸学院大学法科大学院教授が語る。

「落選運動とは問題のある政治家を当選させたくないという表現活動であり、憲法で保障されている表現の自由、
言論の自由に含まれる。 民主主義において権力の暴走に歯止めをかける方法として可能性を秘めている。

安倍内閣はお友達のためには何でもするが、国民が悲鳴をあげても助けてくれない。
多くの人が、お友達政治とはこういうことだったかと気づいた今こそ、落選運動という手段を有権者が繰り出すべきかもしれない」
8年間の安倍政治に審判を下す次の総選挙に向け、有権者が行動を起こす時ではないか。

48名無しさん:2020/08/06(木) 16:11:02
☆ 「映画館で甲子園を」 高校野球記録映画を公開  横浜隼人と花巻東に長期取材



新型コロナウイルスの影響で戦後初めて中止となった全国高校野球選手権大会。
「今年は映画館で甲子園を。」をテーマに、高校野球を題材とした記録映画2本の連続公開が決定した。

1本目は巨匠・市川崑監督が映画化した『第50回全国高校野球選手権 青春』を14日に、2本目は2018年の第100回記念大会出場を
目指す球児と指導者を追った『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』が21日に2週連続で公開される。


『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』は、「高校野球という日本独自の文化を海外に紹介したい」というニューヨークを
拠点にする女性映像作家・山崎エマ監督(31)と制作陣の願いから、日米国際共同制作作品として誕生。

アメリカの撮影クルーとともに、100回記念大会へ挑む激戦区・神奈川県の横浜隼人高校と、大谷翔平選手や菊池雄星選手を
輩出した花巻東高校の球児と指導者へ1年間にわたる長期取材を敢行した。


自称「昭和の頑固オヤジ」の横浜隼人・水谷監督は、勝つことだけでなくあいさつや掃除などを徹底して人間形成を重要視。
さらには、花巻東の佐々木監督の恩師でもある。 本作では、2人の監督の100回大会の年を追いながら、
純粋に青春のすべてをぶつける高校球児と教育の最前線に立つ指導者の葛藤と喜びを映し出す。


山崎監督は「甲子園のことを初めて知ったアメリカ人たちが『KOSHIEN』に興奮し語り合う様子に感銘を受けました。
そんな本作が、日本のみなさまにもお届けできる機会をいただき、感無量です」と公開に喜び。

「春と夏の甲子園が中止とされる特別な年に、高校野球が本来の姿を取り戻すまでの『繋ぎ』のひとつとして、
日本の風物詩を見つめ考える機会として、本作が役に立てばと願っています」と映画に込めた思いを語っている。
(東京・丸の内TOEIやアップリンク渋谷のほか、全国順次公開)



『第50回全国高校野球選手権 青春』では勿論、倉敷工が登場する。

いよいよ、第50回大会の開幕だ。 スタンドを埋めた大観衆。 割れるような拍手、大観衆が揺れ動く。
選手入場。 ああ、夢にまでみた甲子園。 大会旗の掲揚、国歌演奏。 舞上る数百羽の鳩。

一転して、解体された戦時中の甲子園球場。 戦死した野球人の面影。
第一球をワインドアップする投手。 享栄対倉敷工、かくして今大会四十七試合の熱戦の幕が切って落された。


「審判の右手が高々と上がりました・・・倉敷工業の小山投手 やや冷静に やや意気込んで 第一球を投げました・・・」

痛い肩と肘なれども気力を振り絞って投げる小山投手の勇姿ですね。

「バッターの中村君を呼んで監督が何か言っています・・・」 小沢さんも若い。


DVD化されている。(Amazonに在庫有り、3523円)

49名無しさん:2020/08/06(木) 16:27:02
☆ 金属バットが真っ二つ  球場騒然、今治西・越智の内角直球に打球と折れたバットが飛ぶ

            「愛媛大会・準々決勝、松山聖陵10-1今治西(7回コールド)」(6日、西条)


金属バットがポッキリと折れた。 五回2死三塁、今治西の越智投手(3年)が投じたインコースのストレート。
松山聖陵の2番・鎌倉(3年)が振り抜くと、ライナー性の打球は一塁方向へ飛び、同時にバットも吹っ飛んだ。

すっぽ抜けたのではない。 鎌倉の手元にはグリップの一部が残っていた。 金属バットが折れた。
見たことのない光景に球場はざわついた。


折れたバットは試合用で、使い込まれたものではなく、使用して半年ほどだという。
バットを折られた鎌倉は「結構しっかりと捉えたと思ったので…」と、言葉を失った。

折れたバットは審判部が持ち帰り、メーカーへ調査を依頼するという。

50名無しさん:2020/08/07(金) 15:33:01
☆ 白血病と闘う平塚江南・井上主将  神奈川代替大会



県立平塚江南高校に白血病と闘うキャプテンがいた。前日5日に退院したばかりという井上颯大(3年)は最後の夏をグラウンドで終え、
「家族よりも長い時間を過ごした仲間と、もう一度プレーできたことがうれしい」と実感を込めた。 


県立相模原弥栄高校との2回戦。 先攻めの初回に「1番・三塁」で先発起用された井上は、昨夏の神奈川大会以来、
約1年ぶりの公式戦出場だ。 「塁に出てみんなに感謝を伝えたい。そういう思いで打席に立った」。
細くなった腕でフルスイングしたが、バットが空を切る。 それでも粘って、最後は四球を選んだ。

全力で一塁に向かうと、体調面を考慮され、代走を送られた。ベンチに戻ると仲間が大きな拍手で出迎え、ハイタッチを交わす。
鈴木監督(25)に肩をポンとたたかれ「ありがとう。よく戻ってきたね」と優しく声をかけられ、左手で涙をぬぐった。


病気が分かったのは、新チームの主将になった直後の昨年8月中旬。練習試合後、自宅で容体が急変し緊急搬送された。
医師からは「急性リンパ性白血病」と告げられた。 髪の毛が抜け落ちる苦しい闘病生活に耐え、ことし3月に退院。

大会直前に肺炎を患って入院するアクシデントも乗り越え、最後の公式戦に間に合わせた。
試合は2─7で敗れたが、最後まで誰よりも明るくチームメートに接していた姿はキャプテンの立ち居振る舞いそのものだった。


「野球ができる日常のありがたさを知ることができた。先制点を取るのが僕たちの野球だったので、最後にそれができて良かった」
言い尽くせぬ達成感が大粒の涙となって、再びほおを伝った。

51名無しさん:2020/08/07(金) 15:51:01
☆ 「四十八願」ってなんて読む?  夏の甲子園に現れた“珍姓球児”たち



イチ押しの珍姓は、1973年に日大一の6番レフトとして春夏連続出場をはたした四十八願(よいなら)隆である。

14年に春夏連続出場した岩国の4番・二十八(つちや)智大も記憶に新しい。


沖縄県球児には珍姓さんが多い。 04年に中部商の一塁手として出場した阿波根(あはごん)直幸など。

かつて甲子園大会の審判も、西大立目(にしおおたちめ)、達摩(だるま)、郷司(ごうし)と個性的な名字が多かった。

52名無しさん:2020/08/08(土) 12:56:01
☆ 日本で学び 懸け橋役となる留学生野球部員たち



今夏限りでの休部が決まっている共生(岡山)には5人の台湾人留学生がいた。
01年に創部され、元ソフトバンク李杜軒、西武呉念庭らプロ野球選手も輩出。だが18年夏の大会後に森下監督(57)が
辞意を伝えたことを発端に、19年度からの部員募集を停止することになり、今年は3年生16人だけで戦った。


最後の夏は初戦に勝利したが、24日の2回戦で岡山工に1点差で惜敗し、歴史に幕を閉じた。
本来なら三塁を守るはずだった徐若斉(シュー・ローチー)内野手(3年)は3月に母親が死去したため帰国。

新型コロナウイルスの影響で再来日できず、残り4人が徐の思いも背負った。 彼らの両親も来日できず、
スタンドに来ることはできなかった。 3番打者として活躍した蘇翊(スー・イー)は19日の初戦後、
「試合に出られてよかった。スタンドには弟が来ていました」と日本語で話した。

弟のスー・ジン投手(1年)は、尾道(広島)に台湾から1人で留学した。
共生はなくなっても、受け皿となる学校があり、台湾の野球少年たちの夢の舞台への挑戦は続く。


15年夏に甲子園出場した大阪偕星学園には、高校球界史上初のドミニカ共和国からの留学生コンビがいる。
ダビット・バチスタ・モレノ外野手(2年)、ワーネル・マニュエル・リンコーン・デ・ラ・クルーズ投手(2年)の2人。

日本で野球を学びたいと18年11月に来日し、昨年6月に入学した。山本監督(52)は「2人ともドミニカ共和国で言うと普通か、
それよりも下くらいのレベル」と話す。 この夏、モレノはベンチ入りしたが代打で3球三振。リンコーンはベンチ外だった。


コロナ禍で寮が閉鎖になった時期は、徳島・鳴門市で社会人徳島アストロズなどを運営する鳴門プライベートジムの
室内練習場で個人練習を続けてきた。必死で練習する姿には、社会人の選手たちも驚いたという。

新チームになった現在、モレノは打撃フォームを改良し、苦手の変化球打ちに取り組んでレギュラー獲得を目指している。
投球フォームを固め、来日当初110キロ台だった球速が現在は140キロ台になったリンコーンも投手としての技術を磨く。

飛び抜けた才能がなくても、日本でチャレンジしようとやってくる。
プロになれずとも、彼らは3年間の野球部での生活を生かし、日本と各国、地域の懸け橋役になる。

53名無しさん:2020/08/08(土) 13:02:01
☆ 高校野球は生きるエネルギー  全身まひの男性からエール



僕にとって高校野球は「生きるエネルギー」です。 そこで、今までの感謝と恩返しの気持ちを込め、
応援メッセージと手紙をプレートにしました。 甲子園交流試合に参加する32校に今月初め、激励の手紙が届いた。
送り主は全身に運動神経のまひを抱えて生まれた26歳の男性だ。

神奈川県相模原市の保田(ほだ)健太さんが、パソコンを使って作成した。 新型コロナウイルスの感染拡大によって
春夏の甲子園大会が中止されたため、「全国の3年生の気持ちを想うと心が痛いです。皆さんには代表として思いっきり出し切って、
みんなに勇気と希望を与えられるような躍動感溢れる試合を期待しています」と手紙につづった。


保田さんは「相模原市シティセールスサポーター」として地域でボランティア活動をする傍ら、音読や腹筋運動など、
1週間に約30種類の機能訓練を続けている。 「訓練をしなければ指1本動かないからです。
それは真っ暗な太平洋を限りなく泳ぐような、とてつもない厳しさと苦しさがありました」と打ち明ける。

くじけそうになった時、「僕の心を熱く燃やしてくれたのは高校野球でした」という。母の初恵さんの影響で野球好きになり、
小学1年の時、テレビで甲子園を見た。 それ以来、地方大会や甲子園に出かけ、観戦数は1200試合を超えたそうだ。
「どんなに点差がついても、諦めなければ逆転の奇跡があり、想像もつかないドラマが待っている。感動で自然に涙があふれます」


渡辺・元横浜高監督(75)とも交流ができた。
渡辺さんは「保田さんは素晴らしい感性をお持ちで、私の方が勉強させていただいている」と言う。

今回の手紙も渡辺さんに相談し、32校に郵送した。 保田さん自身も甲子園交流試合をテレビで観戦するのを楽しみにしている。
手紙を読んだ磐城高の岩間主将は「保田さんをはじめ、色々な方々がそれぞれ頑張っている姿に、自分たちも刺激をもらっています。
感謝の思いをより強くもって、甲子園で精いっぱいプレーしたい」と決意を新たにしていた。

54名無しさん:2020/08/09(日) 12:10:02
☆ 米国は第3の原爆投下を計画していた  ①



米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。
だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。
次の原爆投下は間近に迫っていた。

長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはトルーマン大統領の
脅しだったとする主張が根強くある。 しかし、それは決して単なる脅しではなかった。


第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。
そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。

1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前に大統領は沈痛な面持ちで、
第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。
戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。


米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。
核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、
それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。

日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。
1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという
淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。


もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。
米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。

東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。
ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。
直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。

55名無しさん:2020/08/09(日) 12:15:02
☆ 同上  ②



米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。
科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。

候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり、東京と長崎の間にあって、戦略的価値が高いこと」
との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、
小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。


同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。
京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。

同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、
爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。


6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。
5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。 また、京都もそのすぐ後にリストから外され、
空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。

スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。
マンハッタン計画の軍部責任者だったグローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると
繰り返し主張したが、最終的にスティムソンが大統領を説得し、リストから外された。


1945年7月、ポツダム会談に出席していた大統領と陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で
原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。

それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、
ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。


京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。
長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。

最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、大統領が閲覧した後、陸軍長官と陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。
ハンディ参謀総長代行からスパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。


「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ。
投下はレーダーではなく目視で行うこと。 同行するのは観測用航空機数機に限ること。

さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。
初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。 準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。

56名無しさん:2020/08/09(日) 12:30:02
☆ 同上  ③



1回目の投下。

日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。
日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。

このテニアン島へ7月29日、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。
8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。

この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。


8時15分、原爆が投下された。 それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。
広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。 数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。

エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。


第2の攻撃。

ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。
ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。

8月6日時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。

日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は8月8日、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、
見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。


日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。
8月8日に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた10日の天気は思わしくなかった。

そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、
時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて、別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。


目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。 ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか
視界が悪かった。 ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。

1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。
ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。


日本の大本営は8月9日、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、
長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。

しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。

ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。
日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。

57名無しさん:2020/08/09(日) 12:50:02
☆ 同上  ④



米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取った大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。
グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。

ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。
8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。


トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。 マーシャルはグローブスへ
「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。

広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。
これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、
別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。


当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して
「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。
トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。

いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、
新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。

最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、
それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。


日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。
受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。
米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。

トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。
8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、
次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。

58名無しさん:2020/08/09(日) 12:55:02
☆ 同上  ⑤



「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力を
かけるほうが重要であると考える」

同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。
8月13日、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。
グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された。


マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。
本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、
第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。

8月14日、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、
テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。
グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。


その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、
「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。
もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。

トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。
日本がなぜ考えを変えたのか。 原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。
それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。


第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。
原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。

さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。
もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。

59名無しさん:2020/08/10(月) 16:20:03
☆ 大分商 プロ注目右腕 川瀬 「すごい所」敗戦も聖地感動

                          甲子園高校野球交流試合:花咲徳栄3-1大分商 (10日)


プロ注目の最速148キロ右腕、大分商・川瀬堅斗主将(3年)は8回8安打3失点で敗れた。
1回1死満塁から押し出し死球で先制点を献上。続けて141キロを右前打され、さらに2点を失った。

2回以降は「流れをつくろうと、出せるものを出した」と踏ん張り、無失点。ただ最速は142キロにとどまり、
7四死球とコントロールに苦しみ149球を要した。


それでも甲子園は格別だった。 スタンドは原則無観客で保護者や控え部員のみ、鳴り物応援もなし。
感染拡大の影響で異例の夏となったが「どこの球場より、甲子園はすごい所と実感した」と言い、全力を出し尽くした。

試合前の開会式では、花咲徳栄の井上朋也主将(3年)と2人で選手宣誓した。
7月の九州豪雨被災地へ勇気を届ける思いも力に変えて腕を振り続けて完投した。




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