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倉工ファン Part2
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☆ 同上 ④
米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取った大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。
グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。
ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。
8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。
トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。 マーシャルはグローブスへ
「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。
広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。
これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、
別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。
当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して
「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。
トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。
いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、
新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。
最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、
それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。
受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。
米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。
トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。
8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、
次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。
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