1.縁起と業について
わたくしの理解するところの初期仏教では物質というと当たらずとも遠からずでしょうが音や光や認識しうる表象はすべて地、火、風、水・四大で構成される「色(rupa)」と認識されるものです。その四大で構成される「色」のうち眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して認識しその認識を「因」として自ら変化していくものを生命(生命によっては5官すべてが揃うわけではない)として所謂生命ではない物体と峻別しました。すなわち人間は四大と五蘊で構成される故にブドガラです。生命には四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)が働きます。四大と五蘊はその意志を「因」として生滅と変化を連鎖のように続けます。その連鎖によって次の変化に影響を与える「縁」として形成されるポテンシャルが「業」。「業」は次ぎに生起する意志(sa#mskaara)に影響を与え「業」なしに生起する変化とは違う結果を生みます。そうして妄想を繰り返せば「わたくし」が造られその段階をちゃんと観察しありのままに見ることが出来ればそれは「わたし」ではないということになります。外界と内界の境界が眼、耳、鼻、舌、身の五境にあると認識してしまえば意志(sa#mskaara)に依って仮に集合(upacaya)したものを「わたし」とする「煩悩」ですが、その境界を常に時間の先頭の世界外存在としての認識主体である「わたし」とそれに連続して続く認識対象としての過去に置き、その時間軸の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が追認出来れば推測ですがそれは「さとり」の世界ではないでしょうか。「わたし」は此処にいるの「わたし」では無いという体験でもありますが、これは突き詰めますと方法論を異にするとは言え臨済宗で言うところの見性と非常に近い体験であると思います。ただし脳内麻薬が出てきて仏我一如の霊妙なる体験というものとは一線を画し自覚的に峻別しておく必要があると思いますけれども・・・これは最近の涅槃とは体験ですというわたくしの発言への Leo さんへのお返事でもあります。
Leo さんへのお返事になりますが、わめさんも仏教の歴史ということでお読みください。これは僕の思想ではなく、仏教観ではなく仏教学のお話です。マハー・デーヴァのエピソードで「座談会」を思いだされるというのは良くわかります。エントリでも触れましたがマハー・デーヴァへの批判というより2段と連結ではほとんど非難です。ちょっと余談なんですが仏教史的な話をしますと説一切有部の拠点はカシュミーラやガンダーラの北西インドです。この地域はクシャン王朝の時だけが例外であとは異民族の侵入とそれに伴う政変が多くほとんど戦闘状態です。そのせいか三蔵を除く他の仏典(アヴァダーナ、ジャータカ、教団史のたぐい)をパーリ仏教圏の同様のものと比較するとパーリ語のほうは動物を主人公にしたほのぼのとした物語が多いのに北西インドの方は人間の生々しい描写や殺人などが目に付くのです。なんとなく人間が好戦的だったのでしょうか。非大乗系の部派文献はそれでもまだ律蔵の戒を守ることを前提に記述されていますが、大乗文献になれば戒など関係なく例えば大乗涅槃経には武器を取って闘うことも勧めるテキストが顕れます。ご承知のように法華経もある意味好戦的な要素を持っています。日蓮もそうですね。好戦的なオリジンは意外やカシュミーラやガンダーラにあるのかも知れません(笑)。