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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

253くまりん:2005/12/14(水) 08:26:38
Libra さん、わめさん、Leo さん、おはようございます。
 先日は酔った勢いでの投稿失礼いたしました。そしてわたくしのつたない投稿に丁寧にご自身の仏教観を起承転結を以てご呈示下さった Libra さん、本当にありがとうございました。

1.縁起と業について
 わたくしの理解するところの初期仏教では物質というと当たらずとも遠からずでしょうが音や光や認識しうる表象はすべて地、火、風、水・四大で構成される「色(rupa)」と認識されるものです。その四大で構成される「色」のうち眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して認識しその認識を「因」として自ら変化していくものを生命(生命によっては5官すべてが揃うわけではない)として所謂生命ではない物体と峻別しました。すなわち人間は四大と五蘊で構成される故にブドガラです。生命には四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)が働きます。四大と五蘊はその意志を「因」として生滅と変化を連鎖のように続けます。その連鎖によって次の変化に影響を与える「縁」として形成されるポテンシャルが「業」。「業」は次ぎに生起する意志(sa#mskaara)に影響を与え「業」なしに生起する変化とは違う結果を生みます。そうして妄想を繰り返せば「わたくし」が造られその段階をちゃんと観察しありのままに見ることが出来ればそれは「わたし」ではないということになります。外界と内界の境界が眼、耳、鼻、舌、身の五境にあると認識してしまえば意志(sa#mskaara)に依って仮に集合(upacaya)したものを「わたし」とする「煩悩」ですが、その境界を常に時間の先頭の世界外存在としての認識主体である「わたし」とそれに連続して続く認識対象としての過去に置き、その時間軸の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が追認出来れば推測ですがそれは「さとり」の世界ではないでしょうか。「わたし」は此処にいるの「わたし」では無いという体験でもありますが、これは突き詰めますと方法論を異にするとは言え臨済宗で言うところの見性と非常に近い体験であると思います。ただし脳内麻薬が出てきて仏我一如の霊妙なる体験というものとは一線を画し自覚的に峻別しておく必要があると思いますけれども・・・これは最近の涅槃とは体験ですというわたくしの発言への Leo さんへのお返事でもあります。


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