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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

1わめ@管理人 ◆TJ9qoWuqvA:2005/06/17(金) 12:30:37
 生命とは生体の生存維持活動に必要不可欠な意識(自意識・自己「エゴ」)である。
この自意識は実在ではない。脳が創り出す生存維持に不可欠な要素である。
この意識はおそらく動植物にも備わっているものと推測する。
この意識の主体が死亡(脳死含む)することで消滅する。
自らの意識と他者の意識は互いに影響を与え合う。
 しかしこのことにより、影響(他者・他物「書物・メディア等」)を受け合う対象たる生物は、その影響の度合いに応じて自らの行動・言動に変化が現れる。そしてその行動・言動が連鎖的に他の生物に影響を与え、また影響を受けて行く。この意味において、一人の人間の死は、そのものが生存中に他の人間を含むあらゆる生物の意識に影響を与え、この影響の連鎖を、影響を与え合うすべての生物の死滅を除いて止めることはできない。また、その生物の生存中に残した遺物が、後の世の生物の意識にも影響を与えるものである。一人の人間の意識は、ある意味宇宙やすべてのものが消えてなくなるまで消滅することは無いのかもしれない。
 またこの意識は、生存中の様々な経験を、脳かあるいは何らかの器官を通じ、物質(生化学的)的に記録しているものとおもわれる。これは遺伝的要素として子孫にも影響を与えていくものである。
これらを総括して、
・1個の生物としての生命(自意識)の永遠性はない。
・1個の生物としての生命(自意識)は、他の生物に永遠に受け継がれていく。

私は現在、釈尊の説かれた縁起の法・空・無我を、このように理解している。

※読まれた方、ご意見(ご批判大歓迎)を頂けましたら幸いです。

274わめ:2005/12/21(水) 17:33:57
>>273
 「アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。- p201」

 とあり、これがブッダの正当な教えの「修行者のための哲学・マニュアル」なのか、あるいは他に「修行者のための哲学・マニュアル」があるのか、またこの修行者と言うのが出家者のみを指していて在家者向けにも「修行者のための哲学・マニュアル」があるのか、その辺はよく分かりませんが、ブッダの教えがそのまんま修行者のための「アビダンマ」そのものであるとすることは、在家者にもブッダが教えを説いていることからまた、最終的に在家のままではだめで出家者になることがすべての人々にその目的から必要であると説いていないのなら、ブッダの教えから「修行者のための哲学・マニュアル」として発展させていったひとつの仏教の形となるのではないかと思うのですが。
 そのひとつの仏教の形のアビダルマとしてそれがブッダの教えと矛盾しないのかどうかと、ブッダの教えの中心思想を縁起の思想とした場合、その(暫定)真理でもある縁起の思想を信仰と切り離して自己の中心思想として日々生きて行くことは、ブッダの教えと矛盾するのかしないのかをわめは知りたいと思っております。

275わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 17:49:21
>>273-274

 「瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いています」とありますが、これがブッダの教えの実践として正当であるかが疑問に感じているのですが、それは論理的にではなく(わめには論理的に無理w)わめからはその修行者の言動が創価学会の盲信バリバリ学会員と非常に類似して見えるからなのです。

276とゆーか:2005/12/21(水) 20:18:58
また、相変わらず妄想していますね。

ひとことで言えば、ヴィパッサナーを行うときの認識対象を用語化グループ化しているのです。
辞書です。用語です。ラベリングの言葉です。
ヴィパッサナーで観たときに、観えない対象をいくら用語定義しても意味はないのです。
瞑想者にとってのみリアリティのある話です。

また、新しい現象を観るのですから、普通の日常用語ですむ話でもありません。
だったら辞書があったほうが良いのです。

ヴィパッサナーが進むにつれて、そういう風に分類していけるのですが、そこには用語(言葉)の個人印象の問題があり、
複数名で同じものについて同じものを見ていることを確認しないといけないのです。

悟りに必要なのは、辞書ではありませんから、その意味で上の辞書は無意味です。
しかし、お互いのお話を通じさせるためには、辞書は必要なのです。
上の辞書を読み、仏教共通言語を用いて、会話していけば、どこの認識ができていないかがチェックできるのです。

いずれにせよ、阿羅漢を目指す修行者には必要ですが、預流果についてはそこまで必要ではないとされますので概ね無駄です。
読んで面白いところを楽しんで捨てるべき本です。

仏法僧に帰依しないかぎり、これで行こうという決心(サッダー)は生まれませんから、
だから無駄です。やめなさいとブログに書いたのです。

再び、それなりの修行を行った比丘を誹謗していますから、二度目の聖者非難罪です。
このまま放置すると、預流果の悟りも無理ということになるので、
とにかくその妄想の言動をやめてください。
悪業を積んでいるだけです。これは、忠告です。

菩薩にしろ沙門にしろ、助けたくとも、帰依していないものは助けられません。
どちらも奉仕者ですから、別にあなたが何かしていなくても、帰依していれば助けられますが、
反発しているものは無理です。

邪教に帰依した業(習気)は簡単に消えないようですね。
残念です。

279わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 20:41:28
とゆーかさん、いらっしゃい。^^ こちらでもよろしくです。

 ご気分を害されたのなら申し訳ありませんが、わめが >>273-276 で書いていることは何ものをも誹謗しているわけではありません。
創価学会と言う組織において、アンチからよく盲信バリバリ学会員との指摘を受ける方々がいるのですが、そのような方達と言動が非常に類似していると言っているだけです。
 何を信じるかが違うわけで、その信じるものが正しいか間違っているかを論じているわけではなく、その姿勢がよく似ているわけですがそれも果たしていいことか悪いことかも断じてもいませんので誤解なきようにお願いいたします。

 ただあなたの信念から、またそれが仏教上の教義として正しいとしても、他者に対して妄想しているなどと断じることはわめの管理するサイト上では今後お止めいただきたいと思います。
 人にはいろんな考え方があり、それが間違っている場合も多々あるでしょう。
 可謬性のない人間はいないと思いますし、わめやとゆーかさんとて例外ではないと思います。

280わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 20:59:06
 とゆーかさん、誤解があるといけませんので補足しておくと、わめが指摘している盲信バリバリ学会員と言動が非常に類似していると言いますのは、とゆーかさん個人を指して言っているわけではないのです。
 チャット仲間の中にもテーラワーダの瞑想行などを実践されている方がおられるのですが、その方もやはり自分の信じていることが絶対に正しく思いそのような言動に出ることが多々あるのを、他の方がやさしく色々な考え方の人があるんだからと諭したりしたのですが、諭してくれた方を浅はかだとか何も分かってないなどと非難したりするのです。
 そのチャットを管理しているわめとしては以後もそのような発言を続けるのならチャットに参加させないようにすると勧告しました。
 このような経緯などから盲信バリバリ学会員と言動が非常に類似していると指摘しているわけです。
 わめももう少し配慮して盲信を外してバリバリ学会員と表現したほうが良かったのかもしれないと少し反省はしているのですが、自らが信じることのみが正しいとの感覚は盲信の言葉を外すと表現が難しかったこともお察しください。

281わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 22:05:36
 とゆーかさんは、とゆーかさんが正しいと信じる教えから、わめを良い方向へと導いてあげたいとの温かい心で言っておられることは重々分かるのですが、前述の学会員の姿とまるでそっくりなんですよ。(^^;;

 LeoさんやLibra師匠や他の学会経験者がどのようにお感じになるかも興味があるのですが、わめはその点に強い抵抗感を持っているわけで、とゆーかさんがご指摘の「邪教に帰依した業(習気)」とわめが映るように、前述の学会員からはとゆーかさんが邪宗の害毒が深いなどと言いそうなこととこれもまたよく似ています。自身の信じる教えを、信じない人に対して哀れと思うなどの共通性が高く思います。

 わめのこのような意見が、今後のとゆーかさんにとって多少なりともよい意味での参考になれば幸いです。

282とゆーか:2005/12/21(水) 22:42:00
サッダーというのはそれほどのものだとご理解ください。
サッダーです。決心です。狂信と紙一重のものです。
それほどの決心がないと、広すぎる瞑想世界は、目的地につけないのです。
本当に命綱です。

一度、チベットの死者の書(中沢新一著)を読んでみて下さい。
テーラワーダでは否定されている部分があるのですが、臨死、瞑想者の心理状態をそれなりに表現しています。

われわれ瞑想者は、眼前に広がる妄想の海から、灯台をひとつずつ見つけ、次の灯台へと進むのです。
瞑想者にとっての命綱です。あなたには関係のない話なのです。
だから、わたしはその本に触れるなといったのです。

大学生の教科書を小学生が読む必要がないように、仏教初心者には意味のない教えです。

あなたが野良猫だとします。
餌やりばーさんが、なんとかわいそうな猫だろうと、餌をあげようと、近づきます。
野良猫は、人は怖いものだと思っているので全力で逃げ、餌はもらえませんでした。

わたしも野良猫だったとします。
おなじように近づいてきました。
わたしは、餌やりバーさんをくれる人であると認識して、餌をもらえました。

そういうことなのです。
あなたは、餌やりばーさんを怖いと思う訓練をやっているだけです。

波動を読み取る力、そういう力がないと、精神世界は渡りきれません。
同じ波動同士が一緒に進むのです。
あなたの行動を見ていると、慈悲というか愛に反応はしますが、智慧、悟りには反発する性質のようです。

この世界が愛であふれているならば、ライオンがシマウマを食べる必要などないでしょう。

仏教者はそういう状況を見て、この世界は、本質的に苦であると認識します。
宇宙が愛だなんていうのは、大嘘だという事実をみます。
仏教というのはそういう教えです。

ついでだから、あなたの性格テストを行ってみます。

問題
おなかをすかせたライオンが一週間ぶりでシマウマを見つけました。
ライオンはシマウマを襲います。

そこにあなたと数人の人間が一緒でこの状況を見かけます。

1.目をつぶる
2.おもしろがってみているだけ
3.平静に観察する
4.シマウマを助けようとする
5.ライオンに手助けする
6.シマウマの代わりに身代わりになる。

あなたはどういう行動をとりますか?
あなたはどういう行動をとるひとを尊敬しますか?
師匠をその行動だけで選んでください。

それがおそらくご自身の思考パターンを表現することになるでしょう。
解説は、くまりんさんにおまかせしちゃいましょうか。
私が説明するより信用するでしょうから。

283わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 23:56:30
 とゆーかさん、こんばんは。^^

 う〜ん、何て言ったらいいのか困ったな・・・w汗
 どう言っていいのか難しくて失礼があったらすいません。m(_ _"m)ペコリ
 とゆーかさんの信じる瞑想世界も、とゆーかさんの信じる仏教も、それはそれでとゆーかさんの中である内や同じように思う方達の中では何も問題ないと思いますし、それをとやかく言う気はないのです。
 そしてわめはとゆーかさんから見れば現実社会で貪瞋痴にまみれた人達と同じく貪瞋痴にまみれて生きているのです。でもこれが悲しい現実の世界じゃないのでしょうか。それを認めるのも認めないのもとゆーかさん次第でありますし、そのわめのテキストに触れ妄想してると思ったり哀れと思ったりすることも”ここまで”なら何の問題ないと思います。しかしそれ以上は難しくこの貪瞋痴にまみれた人達が作った矛盾に満ちた社会の常識や良識やルールがあったりするわけで、どれだけとゆーかさんが正しい、素晴らしい教えや実践法を語ったとしても、貪瞋痴にまみれたわめには理解もやってみようとも思わないのです。何故ならこの貪瞋痴にまみれたこの世界やそこに住む方達が大好きだからです。とゆーかさんの目指す目的地は果てしなく遠く、わめはこの貪瞋痴にまみれた世界の人達と一緒に良い方向にたとえ一歩、或いは半歩進めれば、否、その方向に向って死ねれば大満足なんです。それ以外は覚悟で乗り切るつもりです。歴史が物語るように限られた方しか現実世界で身に付けることができない智慧や辿り着けない悟りなら興味がないのです。それよりは「赤信号(でも)、覚悟を持って渡れば怖くない」って感じです。怖w
 いずれ未来に、あの時にとゆーかさんの言うことを聞いていればよかった、餌を貰っていればよかたって後悔するかもしれません。でもそれも仕方ないですよ、自業自得です。
 この世界はこんな貪瞋痴にまみれた人達が一杯で愛も溢れてないですよ。^^
 とゆーかさんもこんなわめに関わっているとロクなことがないかもしれません。涙
 ブッダが出家を薦めるのもこんな理由も含まれるのじゃないでしょうか?

 あ、正確テストは面白そうなのでやってみました。(*゜▽゜*)
 でも誰がどれを選んでもその方を師匠だなんて思えませんがwヽ(・∀・)ノ アヒャッ!!
 わめが目の当たりしたら選ぶのは「1の目をつぶる」でしょうかね。

 失礼しました。<(_ _)>

284わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/22(木) 00:26:15
> 歴史が物語るように限られた方しか現実世界で身に付けることができない智慧や辿り着けない悟りなら興味がないのです。

 これは誤解を生みそうですね。(^^;;
 可能性が限られているとの話じゃなくて、過去からの結果を見てということです。^^

285とゆーか:2005/12/22(木) 03:03:25
困りましたねぇ。仏教なんて信仰しなくて良いよと言ったはずですけど。
捨てなさいといっているぐらいですよ。
トンジンチに酔っ払っている人に、仏教を伝道できると思っている初期仏教者はいないのです。

では、私がしつこく何を問題にしているのか、餌やりを例にとってもう少し説明しときましょう。

A)怖いので近づかない。安全な距離程度にちょっと離れる。
そしたら、餌やりばーさんは、足元に餌をおいて、どこかにいくでしょう。
いなくなってから食べればよいから、ほかの猫にとられなければ無問題です。

B)怖いので全力疾走で逃げる。絶対ちかづかない。
これだと足元に餌をおいても仕方ないのですから、どうにもなんないでしょう。

あなたは、Bの練習を一生懸命しているのです。
私から見ると完全にそう見える。

仏法僧の三宝に帰依さえしていれば、トンジンチに酔っ払っていても、どこかでなにか最悪な不幸なときに会うことがあっても、
助けが入るのです。
仏法僧を誹謗、中傷、批判、反発、いずれにせよそういう習慣を続けていると、その最悪の不幸のときに助けようがないのです。
例えば死ぬときビジョンで乞食坊主と天使と悪魔と天女と仏陀と菩薩がお迎えにきたときに良い道を選べなくなるのです。
(妄想に取られるでしょうけどね)
つまり、三宝帰依してれば、トンジンチによっぱらって遊んでても何もいいませんよ。
でも、仏法僧を否定する訓練を続けているとダメです。どうにもなりません。

その練習のために仏教勉強しているならはっきり悪行です。やめたほうがいい。
疑問程度はかまいません。反発してはいけないのです。ほうっておけばいいんです。
お布施しなきゃいいだけです。悪態ついてしまうと大変な悪業です。
関係ないでしょ。余計なエネルギー使って悪業積んで何がしたいのかよくわかりません。

日本で天皇陛下の悪口を言うことがどれだけ危険かはご存知でしょう?
同様に仏法僧の悪口を言ってよいことはなにひとつもありません。
キリスト教の神の悪口言うことだって命がけですよ。よーいいません。
大作氏の悪口だって周りを注意しなきゃ、大変なことになります。
たとえ不徳の僧に見えても、僧、比丘をしているだけで、それなりの善業があるのです。
有徳の僧は言うに及びません。僧、比丘というのは、現在は仏陀の代理なんですよ。
間違ってはいけません。不徳ゆえにその後、地獄に行く僧、比丘がいたとしても、
あなたの問題ではありません。

さて、悟りを開いた人ですが、
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/thread.cgi?user_id=QZV00171&amp;disp_no=2399&amp;log_no=2399&amp;msg_per_page=10&amp;def=10
仏陀の時代はこの程度ですね。
大体は無名で終わるのです。ひっそりと悟りひっそりと寂滅します。

在俗の人間にとって預流果はかなり現実的な目標です。
日本のように現在平和で物質的に豊かで教育水準の高いところに生まれた人間の場合は、
善業としては十分だというのが一般的理解です(たとえ貧乏で不細工で頭が悪くても)。
時間さえ作れれば問題はないでしょう。
幸いなことに、観法がやっと伝わり八正道の八支分が全部揃いました。
単なる禅定ではなく行捨智で業を完全に滅ぼす条件が整ったのです。

いずれにせよ、トンジンチで遊んでいたいというのなら、
命綱の三宝帰依だけは確認しておいたほうがよろしいでしょう。

だから、仏教捨てて、命綱きってどうなるか自分で確かめれば、
三宝帰依のありがたみがわかるのにと思ってお勧めしたのに、
くまりんさんはどうしても仏教に結びつけるからね。

命綱つけるなら、その命綱に切れ目入れる馬鹿は普通はいないんです。
あなたはそれをしています。

286わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/22(木) 08:41:25
 とゆーかさん、おはようございます。^^

 くまりんさんにほとんど同じ仏教の理解者と言われるように、瞑想者であられるとゆーかさんのその修行の妨げになってはいけないと思い書かせていただいた >>283 もさすがに歯が立ちませんね。(^^;;
http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

> 困りましたねぇ。仏教なんて信仰しなくて良いよと言ったはずですけど。
> 捨てなさいといっているぐらいですよ。

 同じく上記URLのコメント欄でとゆーかさんは、『信仰を捨てよというのはまったく正しいですから。ただし、阿羅漢になってからという前提がつくだけです。』ともおっしゃっておられますが、貪瞋痴の塊のわめが阿羅漢であろうはずもないし一見矛盾しているようにも思えるのですが、しかしこれもきっとパラダイムを変えた視点で述べられているのでしょうけど、わめのような浅はかな者には理解できません。涙
 こんなわめなので >>285 のお返事を全部書いちゃっていいものか、と言うかそれ以前のコメントにもお返事してないところがいくつかあるのですが・・・、でも理解できないことで皮肉っぽく反発して書いちゃいそうなので(既に書いてるなw汗)、とりあえずここまでで控えさせていただきますね。^^

287Leo:2005/12/25(日) 21:49:19
Libraさん、くまりんさん、わめさん こんばんは。

『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』を便宜のため抜書きしました。

アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(1)

○アビダンマと対象とする入門テキスト『アビダンマッタサンガハ』について。
および(スマナサーラ長老が語るところの)仏教の考え方。

「仏教心理学というタイトルで、ここではアビダルマを勉強するつもりなのです。
 経・律・論の三蔵経典の三番目のアビダルマ(論蔵)は、七つのテキストで
 構成されています。」(p.4)

「正直なところ、論蔵は本棚を立派に飾るという役割だけを果たしています。」(p.4)

「上座仏教では、三蔵経はまことの仏説だと徹底的に信仰しているので、こんなことを
 言ったら破門されてしまうかもしれません。しかし、論蔵は分かりにくいということは
 まぎれもない事実です。」(p.4)

「これから勉強する『アビダンマッタサンガハ Abhidhammattha-sangaha』なら、私たちにも
 いくらか分かる可能性はありますが、本物のアビダンマのテキストは、本当にわかりません。
 いきなり、心はこれ、などと説明が書いてあるだけです。ですから仏説ではないだろうという
 感じはあります。」(pp.27-28)

「我々の俗的レベルで聞きたいことは何も説明しません。その代わり解脱の必要なことは言って
 います。アビダンマは、修行者のために必要な論理・心理学なのです。」(p.33)

「仏教、特にアビダンマには、簡単に「全知」になって「ああ、もう勉強は完全に済んだ、
 楽になった」と重荷を下ろしてもらおうという狙いがあります。」(p.55)

「atmanとかpursaとは、普遍的な、全てを支配している精神的なエネルギーだと言うのですけど、
 我々がどこまで探し求めても、そんなものはどうしても見つかりません。見つからないのですから、
 捨てて忘れてしまえばいいのです。仏教が他のどんな宗教、哲学、思想とも違うところは、
 見つからないものは、考えから外すというところです。」(p.110)

288Leo:2005/12/25(日) 21:50:26
アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(2)

○大乗仏教の空論への批判

「逆に「自も他もあらず、一切は空」などと言ってみても、現に私が他者を認識して
 煩悩を作っていることに変わりありません。人が勝手に「真実には自も他もない」と
 言っても、私の煩悩は消えません。だから哲学を振り回しても何の意味もありません。」
(p.134)

「簡単に「すべては空だ空だ」という人に「ではどこで煩悩が生まれるのですか」と聞いても、
 「煩悩はない、輪廻もない、解脱もない。全部空だ。」と答えます。それでは、煩悩を
 断ち切って解脱の達する仏道が全部否定されてしまうのです。このような、真理ちそれに
 至る道について何の説明もしてくれない単純な空論は、結局、哲学でもない、実践もない、
 ただの言葉の遊び、概念の空回りだけです。」(p.135)

「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色がある」と言います。
 大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸命批判しています。どちらが正しいか、
 ちょっと考えればすぐに分かります。」(p.182)

「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴まえられるものはない」
 と言い、それをsunnata(サンスクリット語ではsunyata)と言います。一部の人は、ただその
 「空」という言葉だけを取って、「全ては空である」と拡げて、一生懸命宗教システムを
 作って「これが大乗です」とまで言いますけど、ただ言葉の遊びだけです。こちらは、
 「では頑張って下さい」と言うしかありません」(p.183)

「「一切皆空」などと言葉とか哲学だけでいろいろ言いますけど、それでは現象の問題は何も
 解決しません。そんなものに何の意味もありません。ただの言葉遊びです。哲学は、ものこと
 をただいじるだけです。」(pp.183-184)

289Libra:2005/12/28(水) 02:58:25
 Leo さん、こんばんは。抜書きありがとうございました。

 「関係性」の問題のほうにもコメントしたいので、こっちのほうは簡潔に書
いてみます。不明な点がありましたら、またおっしゃってください。

 長老は「本物のアビダンマのテキスト」について「仏説ではないだろうとい
う感じはあります」といわれています。龍樹の批判対象は「本物のアビダンマ
のテキスト」だろうとおもいます。わたしは『アビダンマッタサンガハ』は見
ていませんので評価できません。

 「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色
がある」と言います。大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸
命批判しています。どちらが正しいか、ちょっと考えればすぐに分かります。」
と長老はいわれています。たしかに、長老がおっしゃるような大乗仏教がある
とすれば、そんなものが正しくないことは考えればすぐに分かります。しかし、
少なくとも、龍樹やチギの大乗仏教がそのようなものではないことは、龍樹や
チギの書いたものを読みさえすればすぐに分かります。たとえば、チギの「三
諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有していな
い(空)けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有してお
り(仮)、しかも空であることと仮であることとが一なる存在において統一さ
れている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示されうることを明かす教説」[*1]
です。

 「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴
まえられるものはない」と言い、それをsunnata〔中略〕と言」うという長老
のご理解は正しいとおもいます。ところが、「本物のアビダンマのテキスト」
では「現象の中に実体はある」といっています[*2]。龍樹は、この「現象の中
に実体はある」という考えを論理的に批判しています。この龍樹の批判を「言
葉の遊びだけ」といわれているのだとすると、長老にとっては「論理的な批判」
も「言葉の遊び」ということになるのでしょう。こうなりますと、わたしとし
ても「では頑張って下さい」と言うしかありません。わたしが長老のお考えを
論理的に批判したところで、それは「言葉の遊び」ということになるだけでし
ょうから。


  [*1] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
     http://page.freett.com/Libra0000/122.html

  [*2] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

290Libra:2005/12/28(水) 05:55:32
 わめさんへ

 さきほど以下の拙文をブログのほうに投稿しようとしましたが、うまくいき
ませんでした。もしかしたら何重にも投稿してしまったかもしれません。適切
なご処置をよろしくおねがいいたします。

 睡魔と戦いながら書いたので内容的にも表現的にもおかしいところが多々あ
るとおもいます。

291Libra:2005/12/28(水) 05:56:16
 わめさん、こんばんは。

 関係性の問題について、以下に私見をのべてみます(わめさんに理解してい
ただけるように書く自信はあまりありませんが)。


1.関係の不可逆性

 「ナーガルジュナの縁起思想を関係性で理解」してしまうと常に仏教ではな
くなってしまうということはないとわたしはおもいます。問題は、関係性をど
のように理解するかだろうとおもいます。

 たとえば、松本先生は、ダルマキールティが〝関係の不可逆性〟を論証した
ことを高く評価され、「彼に至るまでは、〔中略〕ナーガールジュナの論法を
別にすれば、〝関係〟というものは、相互的なものと考えられ、関係者である
二項の間に漠然と存在すると考えられていた。しかるに、ダルマキィールティ
は、〝関係〟というものは、関係項を離れては存在しないこと、従って、関係
項Aから関係項Bを見たときの関係は、BからAを見たときの関係と全く逆で
あることを論証したのである。〔中略〕即ち、彼は、〝関係の不可逆性〟を説
くことによって、〝縁起〟と〝時間〟そのものを論証したのである。従って、
彼は、仏陀とナーガールジュナを継ぐ〝縁起論者〟であると見るべきであろう」[*1]
といわれています。

 松本先生のこのようなダルマキールティ評価が現在も維持されているのかを
わたしは知りませんが、少なくとも、松本先生は「〝関係の不可逆性〟を説く
ことによって、〝縁起〟と〝時間〟そのものを論証」できるとお考えなのだと
おもいます。

292Libra:2005/12/28(水) 05:56:50
2.存在論と認識論

 わたしは、関係性を論じるさいには、存在論と認識論を区別して論じるべき
であると考えます。松本先生は主として存在論を論じておられ、佐倉さんは認
識論のみを論じておられるというのがわたしの印象です。

 存在論と認識論を区別して関係性を論じるということは、《概念》を関係項
として論じる場合と《具体的な存在》を関係項として論じる場合を区別して関
係性を論じるということです。

 たとえば、「男」という概念と「女」という概念は、まさに相互否定の関係
にあるといってもよいとおもいます。「男」という概念がないのに、「女」と
いう概念のみがあるということはありえません。佐倉さんが「第二章」[*2]で
論じられているように、たしかに龍樹もこういった議論を展開して、概念に自
性などはないと主張しているとおもいます。

 これにたいしまして、ある具体的な男の子(太郎)と女の子(花子)がいた
として、この太郎と花子の関係性を論じる場合を考えましょう。この太郎と花
子の関係を、「男」という概念と「女」という概念の関係と同じにように考え
るのは馬鹿げているとわたしはおもいます。

 松本先生は、《具体的な存在》を関係項として、〝関係の不可逆性〟をいわ
れているのだとわたしは理解します。

293Libra:2005/12/28(水) 05:57:25
3.松本先生の存在論──危機的存在──

 松本先生の存在論をもっとも特徴づけているのは「危機的存在」という言葉
です。たとえば、松本先生は、「法は確固不変なるものではなく、反対に実に
不安定な中ぶらりんな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこ
にもない。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ存在
しているのだ。」[*3]といわれています。この言葉以上に仏教の縁起説を的確
に表現する文章をわたしはしりません。

 空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
とわたしは理解しています。

294Libra:2005/12/28(水) 05:58:07
4.龍樹の認識論──概念に自性などはない──

 《概念に自性などはない》という龍樹の主張についても、認識論として優れ
た視点を提供してくれるものであるとわたしは高く評価します。この龍樹の思
想は、《概念もまた危機的である》ということを含意します。すなわち、「概
念の体系」は plastic である[*4]ということです。このような考えは、ポパー
の以下の議論にみられるような意味での自由をわれわれに教えてくれるように
おもいます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われ
  われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示
  唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれ
  われは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢
  獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢
  獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによ
  って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、
  母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
   その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広
  い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであ
  ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれには
  つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由が
  あるのだ。
 
  (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
    『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
     会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

295Libra:2005/12/28(水) 05:58:50
5.時間と場所

 「場所」というのは、ある時点において切り取られた(静止した)世界をイ
メージしてみるとわかりやすいのではないでしょうか。現実の世界は「危機的
な諸法の時間的因果系列としてのみ存在している」のですが、われわれの認識
というのは、その現実の世界をある時点における「概念の体系」で切り分けま
す。その結果として、諸法が危機的でないものに見えてくる場合もあるのでは
ないでしょうか。その典型が、諸法を支える(それ自体は変化しない)基体の
存在を信じる、いわゆる基体説だとわたしはおもいます。

 

  [*1] 『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
     http://page.freett.com/Libra0000/087.htm

  [*2] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

  [*3] 松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 27。

  [*4] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33

296わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/28(水) 16:28:11
 Libra師匠こんにちは。^^

 >>290

 年末でメンテでもしてたのか、トラフィックが上がっていたのか分かりませんが、ブログに投稿できなかったようで申し訳ありません。
 ブログの該当記事のコメント欄からリンクさせていただきますね。
『自性・無自性について』
http://wame.seesaa.net/article/10864702.html

>  睡魔と戦いながら書いたので内容的にも表現的にもおかしいところが多々あ
> るとおもいます。

 わざわざありがとうございました。<(_ _)>
 しっかり読ませていただきまして上記ブログのコメント欄でお返事させていただきます。

297Leo:2005/12/29(木) 08:00:42
Libraさん おはようございます。

コメントありがとうございます。
龍樹(とそれをもとにする大乗仏教)は現在批判に耐えうると思いました。
(またむしろポパーの有用性を再認識してます...)

できればくまりんさん紹介の別の龍樹に関する書籍も読んでみようと思います。

298Leo:2005/12/30(金) 21:46:22
>できればくまりんさん紹介の別の龍樹に関する書籍も読んでみようと思います。

これですね。

『ブッダ論理学五つの難問』 ISBN4-06-258335-6
http://homepage1.nifty.com/manikana/buddhalogic/buddhalogic.html

**************************************************************************

近頃の感想です。

龍樹は龍樹を理解される方、理解しようとする者には有益ですが、少なくとも
テーラワーダの修行者と修行にとっては妨げということなのですね。
(テーラワーダの大乗批判はやや不満ですが修行の達成が主眼であれば仕方ないです)

あとアビダンマは大乗にも影響与えているのですね(北伝仏法ではもっぱら倶舎)。
創価で聞いたことのある(日蓮正宗系の教義で)「三世」とか「法体」とかアビダンマ
起源なのですね。(アビダンマは部派と大乗の接点ということなのですね)

299くまりん:2005/12/31(土) 01:30:36
こんばんは。お久しぶりです。
 年内最後の書き込みになると思います。
『ブッダ論理学五つの難問』の著者マニカナエムさんと仏教思想のソフトランディングの方向性について拙サイトとマニカナエムさんのサイトで意見交換をしています。よろしかったらご覧下さい。

http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=891#comment-12406
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2005/12/post_4fba.html

 僕は拙サイトで大乗仏教を批判していますが、基本的なスタンスとしては大乗仏教が非大乗を小乗というモノイイで論じている点についてのみ大乗を批判しています。実際のインド仏教の流れの中では部派と大乗は連続しているんです。14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』 において仏教徒は〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉 〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説くと仏教を解説しています。実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。

 実際仏教の中に大乗、小乗などと区分を設けたのは中国での話であって実際には議論の中である意図〈vivak.saa〉の元に発せられたナーガルジュナの叫びを実際の議論と流れを理解できなかった智ギ、神会、宗密などが大乗、大乗と小乗を蔑んだだけでしょう。少なくともインドにおいては六波羅蜜ですら大乗と小乗を区別するキーワードにも成りませんし、名称としての菩薩行はともかく、実際の仏教上の呼び名で言えば慈悲行は原始仏教の時代から苦行の一種としてブッダに推奨もされ部派においても仏塔信仰とともに大いに為されたものです。

 ナーガルジュナは優れた思想家ですが彼の卓越したところは論理であって無自性は議論における意図〈vivak.saa〉でしかありません。仏教という豊かな思想の流れのなかでは1/4に過ぎないんです。それを智ギ、神会、宗密がそれぞれのやり方で引き継いだからといってなんか意味がありますか?それは単に仏教の中国的変容という視点で検討するべきテーマで、なにが正しい仏教かの俎上にのせる話ではありません。ブッダの体験としての「さとり」を排除したような仏教は仏教ではなくなってしまいます。ナーガルジュナの思想とて一緒です。彼は明らかに「さとり」の体験をしています。だから涅槃がないと言えるんです。つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

では、お幸せでありますように。

300Leo:2005/12/31(土) 06:32:33
くまりんさん、おはようございます。

『ブッダ論理学五つの難問』を読んで、仏教は論理だ(釈迦は論理を表出さないでしっかり論理的だった)、
と龍樹も肯定的印象を受けたのですが、龍樹(とその系譜)は仏教の1/4というご指摘ですね。ううむ。

それに龍樹は「論理」で(を表に出して)仏教の防波堤を設けたのかもしれないのですね。

>つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

(他の方へのご指摘もあるのかもしれませんが)
私は創価仏教を捨てて仏教を白紙から見直しているつもり(つもりというところが曲者?)なのですが、
龍樹にひっかかって(拘って)しまったということなのでしょうか?(自問自答中)

301Leo:2005/12/31(土) 07:33:17
(自分的宿題は多いですが...)
皆様、よいお年を!

302Leo:2005/12/31(土) 12:01:55
>龍樹にひっかかって(拘って)しまったということなのでしょうか?(自問自答中)

ちょこっとだけわかりました(!)。
「中観派」だけだと「中観学派」、「実修行派」、「典拠学派」、「選別学派」の4学派のうち1つ
だけということですね(で1/4と)。

龍樹は「中観学派」、アビダンマは「選別学派」、世親は経量部の思想が入っているから
「選別学派」+「典拠学派」...

これら4学派はお釈迦様の仏教を中心とした(源流とする)仏教の四天王(?)のような存在ですね。

くまりんさん曰く:
「14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』において仏教徒は
〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉
〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説く
 と仏教を解説しています。
 実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。」

303わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 14:56:08
 くまりんさん、Leoさん、こんにちは。^^

 くまりんさんが >>299 で書かれた『ブッダの体験としての「さとり」』とはどのようなものでしょうか?仏教用語はわめには難し過ぎw つい神秘的なことを想像しがちになってしまいます。汗

 わめ的な勝手解釈では、この世界の有り様が分かることは分かり、分からないことは分からないと”分かる”ことがさとりなのかなってイメージしちゃったのですが大外れを予想しています。(>▽<;; アセアセ

 わめは仏教にはそれほどのこだわりを持っていませんので、大乗とか非大乗とかを区別して考えたりもできないのですが、ブッダも自分の教えがこんなにも分析され複雑化されるとは思ってもいなかったと思います。
 またブッダの時代に西洋論理学なるものが身近にあったとしたら、ブッダはどのような教えを説いていたのか想像して楽しくなりました。^^

 今年の総括、抱負になってしまいそうですが、いいとこ取りのわめですから仏教からはブッダの思いと、この世のものはすべて依存関係にあり「すべて危機的存在」であること(これも縁起かな?)を知り、実体はないけれどすべては関係性によって成り立っていることからの関係性重視思考に至り、わめにとってはこの実世界が現実であり関係性であるように思います。あ、実世界と言っても多数が思い描く縮図的イメージのこの世界のことですから妄想世界とも言えなくもないなw汗
 その妄想世界の住人として、互いに楽しくよりよい方向に進むための微力となっていきたいな。

304Leo:2005/12/31(土) 15:48:21
わめさん、こんにちは。

>またブッダの時代に西洋論理学なるものが身近にあったとしたら、ブッダはどのような教えを説いていたのか
>想像して楽しくなりました。^^

(全然宣伝ではないですが...(^^;)くまりんさんのご紹介の
『ブッダ論理学五つの難問』 ISBN4-06-258335-6
http://homepage1.nifty.com/manikana/buddhalogic/buddhalogic.html

によるとブッダの論理は明白で、21世紀の西洋論理を超えるそうですよ(^^;
(うまく説明されていて目からウロコだったですが私としては若干慎重に捉えてます)
(少なくとも私にとってはですが)色々な疑問の解決の糸口になる情報がまた増えました。

(もしかすると既にご存知かもしれないですが)著者の方のHP。
MANIKANA=HOMEPAGE
http://homepage1.nifty.com/manikana/

従来インド(ヒンドゥー)風味と勘違いして敬遠してたんですが(失敬!)、良く見るとウマーなページが。
○心にしみる原始仏典
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/canonindex.html
○龍樹大好き
http://homepage1.nifty.com/manikana/love!ryuju/love!ryuju.idx.html
○『方便心論』
http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya/upayahrdaya.html

(インド嫌いならカレー食べるな!なんていわないでねカレーがないと生きていけないですー)
最近は部派もヒンドゥー教も抵抗感少なくなくなりました。

師匠方先生方はそれぞれ一理あってためになるというか面白い世界を提供されてます。
自分は自分なりにちょこっと飛べたらよいなーと。

ものごとをこっちから眺めたりあっちから眺めたりすると色々違って見えるわけで、
コロコロ話がかわって私は節操のない人間かって?
ものごとは眺める方向が違うと違って見えるってことで勘弁して下さーい(^^;

305わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 16:36:06
 Leoさん、こんちゃ。^^

> 師匠方先生方はそれぞれ一理あってためになるというか面白い世界を提供されてます。

 >>289 でLibra師匠が書かれているチギの三諦説も同じようなことを言っているのではないかと思うのだけど、仮諦だって仮諦としっかり捉え、仮諦に拘るなだけではバカみたいに思えてくるし、だからって仮諦のみに拘る生き方もバカみたいに思えるし、とにかくすべてが危機的状況にあることを実感として持ち、過去を反省し未来を予測選択し、今を生きることが大切なんじゃないかと思うのだけどな・・・
 それがなきゃ空でも仮でも中でも、また自性があろうがなかろうが何にもならないと思うんだけどな。

306Leo:2005/12/31(土) 17:32:21
わめさん、こんばんは。

ちょこっと勉強した方面のパワーでちょこっとLeo流コメントしてみます。
(Libraさんはご多忙といのことでひとまずの結論はよいとしてちょっと遊びましょう)

> >>289 でLibra師匠が書かれているチギの三諦説も同じようなことを言っているのではないかと思うのだけど、

チギの三諦説は龍樹の中論にないから中論の誤読でしょうということもいえるし、
そういう意味でチギの三諦説も危機的状況にあることを実感として持ち、
過去を反省し未来を予測選択し、今を生きることは大切というか、それしか
できないかもしれないです。

人間だから多少拘っているものがあってもよいのではないではないでしょうか。
拘りすぎたら俺って拘りすぎてるかもなと思えれば拘りすぎを制御し自由に
拘ったり拘らなくなったりできればこれは拘らないに似て拘らないより自在に
なれると気づきました。

307わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 17:49:26
> 人間だから多少拘っているものがあってもよいのではないではないでしょうか。

 Leoさん(・∀・)イイネ!!
 多少なんて言わずおもっきり拘ることもいいんじゃないでしょうか。^^
 そういうものもなければ世の中発展や発達や解明などないかもしれませんもの。
 そういった拘りも「危機的状況にあることを実感」することは大切だと思います。(*´∇`*)
 結局「過去を反省し未来を予測選択し、今を生きる」というのも一種の拘りかもしれませんし。笑

308わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 18:40:37
 >>294 のポパーの『十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。』のテキストにみられるような、牢獄に気付き牢獄を超越していくっていい感じかなと。^^
 ただわめの場合はこの「十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって」ということさえほとんど理解できていないし、非常に怠慢でもあるような気がしますが。(>▽<;; アセアセ

309Leo:2005/12/31(土) 19:32:11
> >>294 のポパーの『十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、
>われわれの牢獄を超越できるのである。』のテキストにみられるような、牢獄に気付き牢獄を超越していくって
>いい感じかなと。^^

「文化衝突」なので、「言語」でなくとも、部派やアビダンマのお知らせ、龍樹や大乗の否定なども
刺激になるのかもしれませんです。カウンターパンチってことで。

たとえ話ですが、「牢獄」って別の角度から見ると隙間があったり、牢獄でなかったりするかも
しれません(映画などで脱獄人の話もありますし...根性さえあればということもあります)。
逆に「牢獄」と思わない場所が実は牢獄だったりするんです。

全然関係ない話ですが、Libraさんからの又聞きで、私知らんかったんですが、阿部日顕氏って退座
したんですね。本幹でもその話が出たという話も別方面から今日聞きました。
(聖教をひっくりかえしてみて寸鉄にもありましたが最高裁が関係するのはさだかでないですが(^^;)

あと東洋哲学研究所のHPが出来たとのことで。
http://www.totetu.org/

雑誌の第三文明に小林さんが何か書いたってご存知でしょうか。

310Leo:2005/12/31(土) 19:39:27
>Libraさんからの又聞きで

Libraさんの許可無く、この表現を書いてしまいました。すみません。> Libraさん
(内容がある程度一般的に知れるものなので問題はないと思いますが...)

311わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/01(日) 01:08:55
 Leoさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^

 えへへ、2006年初カキコでごじゃります。(*´∇`*)

> 「文化衝突」なので、「言語」でなくとも、部派やアビダンマのお知らせ、龍樹や大乗の否定なども
> 刺激になるのかもしれませんです。カウンターパンチってことで。

 それはLeoさんだからでしょ。笑
 わめは仏教から >>303 のようなことを抜き出しちゃったのでカウンターパンチにはならないかもです。(⌒▽⌒)アハハ!
 牢獄と言うのも概念ですからね。あまり拘る必要も無いと思います。

 Libra師匠の >>293 に、

>  空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
> いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
> せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
> とわたしは理解しています。

 とありますが、大乗とか非大乗とか越えて菩薩行(慈悲行)、と言うか仏教も超えてわめも皆さんもこの世界もすべて「危機的存在」であることを当たり前のように自覚できれば、わめにはうまく言葉に出来ませんが、そこから湧き起こる思いを共有できるような気がします。
 自他じゃなく実体のない関係性に身を置くって感覚は悪くないように思います。^^

312くまりん:2006/01/01(日) 14:08:14
明けましておめでとうございます。
昨年は思いも掛けぬ出会いからご批判、ご指導有り難うございました。

Leo さん。
>>龍樹(とその系譜)は仏教の1/4というご指摘ですね。ううむ。
相手にこう思わせてしまうやり方こそ、龍樹の得意技なんですね(笑)
「ダルマに自性なんてねぇぞ!」ってね。
「悟り」了れば「悟り」はないんですね。
アイルランドのフィドルチューンをフィドル(ヴァイオリン)でそのまま奏でればそのままありのままに聞いて体験するしかあり得ません。「ことば」でそれを伝えることは難しい。しかしそれをギターで弾いたらどうでしょう。緻密に連続する一つ一つの音は音符に記号化されるままに一つ一つの音として、ありのままにではあるけれど、一つ一つ聞こえて来るでしょう。その時始めて「ことば」にして他者に伝えることが出来る。

わめさん。
「悟り」はあらゆる煩悩が滅し尽くされた境地、欲望を捨て去りきった境地、神秘でもなんでもありません、それを知り尽くしたブッダだからこそニヒリズムに陥らず、恐怖もなくただ楽しむことが出来るし、その涅槃への道を語ることが出来る!「悟り」を知るには口伝で伝承された教えが記述された経典を読むしかありません。あらゆる仏教の解説書よりパーリ経典を読むことが仏教を知り、「悟り」を知る近道でしょう。

 そしてより詳細にヴァイオリンの音をギターで弾くように明瞭に聞きたければ是非アビダルマも!但し一点で立ち止まって執らわれると真っ逆さまに地獄に堕ちてしまいますぞ。その流転こそ輪廻的生存そのものですが、そういうときは龍樹の「ダルマに自性なんてねぇぞ!」をしっかり思い出してください。

「仏教を超えて」ということは過去に仏教徒たちによって語られたことの一切を超えたときにのみ始めて有効です。それを超えなければ仏教の中でもがいているか、仏教に対する誹謗でしかありません。Libra さんのホームページのサイトの冒頭にはわたくしも大好きな以下の丸山真男の書簡集からの引用があります。

「日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。」(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)

本年も皆様のご活躍をお祈りしております。

********
- お幸せでありますように -

313わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/01(日) 15:03:48
 くまりんさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^
 昨年は、くまりんさんやLibra師匠やLeoさん他皆さんから多くを学ぶことが出来て感慨無量です。
 本年もよろしくお願いいたします。

 音楽、ギターの縦えがでてきましたのわめはちょっとうれしい。♪
 同じ曲を忠実に弾いても弾き手で音色や曲調が大きく変わるように思います。同じ人が同じ曲を弾く場合にも、その時々で音色や曲調は変わってくるようにも思いますし、また聴き手によっても変わってきます。

 これはブッダの悟りのご説明での縦えと思いますが、体験主義的に捉えることは非常に危険を感じてしまいます。ブッダの悟りとはブッダ一人のものだと思いますし、ブッダの悟りを他の方がそっくりに体験することは不可能に思いますし、一人ひとりの体験を悟りとするなら悟りは悟りを開いたと”思う・言う”人の数だけあるように思います。また仏教徒でもなく悟りを悟りと知らないまま体験する人もいるかもしれません。(悟ったかどうか、あるいはその悟りのレベルを判定する方法はあるのかもしれませんが、それもあるひとつの概念での判定法でしかないように思いますし。)

 「仏教を超えて」との表現はちょっとまずかったかもと反省していますw汗
 仏教の枠を超えてと言うのがわめ的には正しい表現であったように思いますので訂正させてください。 ってことで仏教を誹謗する気など毛頭ありませんのでご容赦ください。<(_ _)>

 但しブッダご自身があるひとつの方法でしかこの悟りを得ることができないなどともしも言ったとしたら、あるいはこれが一番の近道だと言ったとしたら、それは悟りを開いたはずのブッダ自身がその方法に固執してしまって矛盾するように思いますので、その場合はわめの「仏教を超えて」との表現もまんざらまずくないかもとも思います。

 いずれにしましても悟りや涅槃が目標でないとしたならば悟りや涅槃に拘る必要などないように思いますし、それが目標だとする方には頑張ってくださいとしかわめには言う言葉が見当たりません。

314わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/01(日) 16:04:42
 >>313 を書いてて、ふっと思ったのがわめはこの現実の世界に起こることをおもっきり享受しているんだなということです。
 それはたまに嫌なこともありますし、人命が奪われていく事件や事故や天災などが起こると悲しくもなりますし、地球のどっかじゃ自分じゃどうしようもない災禍に包まれた人達もいるでしょう。それは微力ながらわめもどうにかしていく努力をしていきたいと思っていますし、それが自身に振りかかることもあるかもしれませんが元々「危機的存在」なわけで、そのようなことにも覚悟を持って対処するつもりです。

 それはそれとして今こうして毎日過ごしていることが楽しいし、さっき大晦日の紅白歌合戦をキャプったのを視聴てたのですがやっぱり歌っていいですねぇ。^^ その歌の切なさや悲しみや願い等々、表現できないほその色々な思いが溢れてきます。これは自身の経験の中にその歌や歌い手の表現する思いと同じようなことがあったからなのかと思ったりもしますが、あぁわめもTVの向うの方達も過去から現在に至るまで色んなことを経験し精一杯生きているんだなって感じちゃってとても感慨深いです。

 また、そんな思いもこうして掲示板やブログに書いて他の方にも読んでも貰えるわけで、人間は愚かでバカなのかもしれないけれどこのようなことのできる世界を作ってくれて感謝だな。

 悲しく切ない離別もあり、また人生を揺さぶる出会いあり、生きていると色々なことがありますよね。

 泣いたり笑ったりむっつりしたり人はその時々で豊かな感情に溢れこの世の生を謳歌し、また謳歌していきたいと思っているんじゃないかと思ったりしています。

 わめはこの現実のこの世界や自分自身を否定する気がまったくないわけで、これを違った角度で見る場合にもそれはこの世の生を謳歌できていない方へのメッセージ作りに役立てたいだけなのかもしれないと感じています。
 このように考えてみると、仏教を志すということとはもしかしてまったく異質な考え方なのかもしれないと思ったりもするのですが、皆さんはどう思ってられるのか聞いてみたくなりました。

315Leo:2006/01/01(日) 16:23:14
くまりんさん、わめさん、皆さん 明けましておめでとうございます。

私は昔テレビを観るものがないときぼーっと放送大学を眺めていたら中世の哲学とか中世の古楽とか見かけて
意外に面白いと思いました。東洋にも匹敵するものがないかと思ったら(昔はないと思っていました...)仏教を
はじめとする東洋思想・哲学なんですね。面白さだけに拘泥してはいけないのかもしれませんが...
(昨年末あたりからなんか私のスイッチONになったかなと...)

316Leo:2006/01/01(日) 19:52:13
>やっぱり歌っていいですねぇ。

龍樹についての警告を替歌にするとこんな感じでしょうか。
オー、ベイビー、ベイビー い・け・な・い 龍樹・マジック♪

317Leo:2006/01/01(日) 22:12:22
わめさん、こんばんは。

>このように考えてみると、仏教を志すということとはもしかしてまったく異質な考え方なのかもしれないと
>思ったりもするのですが、皆さんはどう思ってられるのか聞いてみたくなりました。

私は仏教の修行者でないので仏教を語ることはおこがましいのですが(おこがましいんですが
イッパンピープル(自分を含む)に必要なものを想像するにあえて語ると)、
仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり
(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の必要ない方は忘れていて必要になったときにふと思い出すというのも
アリかなとも思います。

318Leo:2006/01/05(木) 07:48:37
>仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり
>(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

そういう意味においては、(仏教学的には承認され得なくとも)創価仏教も効用が十分あると思いますが、
他者とのかかわりや人格形成において疑問点があります。そういう点を確認したいなと。

319わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/06(金) 00:52:37
 Leoさん、こんばんは。^^

> 仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

 やっぱ人それぞれ違いますね。
 わめ的には”諦観を持つ”とは日常も含めて覚悟を持つってことかな。(^^;
 年末年始、わめは結構のんびりしてますが、こののんびりがこんなことしてていいのか?って自問自答が出てきて落ち着かないんだよねw汗

> そういう意味においては、(仏教学的には承認され得なくとも)創価仏教も効用が十分あると思いますが、
> 他者とのかかわりや人格形成において疑問点があります。そういう点を確認したいなと。

 創価仏教もオウムも道具として活かすなら効用はあるのじゃないかな。
 わめの中では創価仏教はもう死んじゃってますが。笑

320Leo:2006/01/06(金) 22:13:30
わめさん、こんばんは。

>わめ的には”諦観を持つ”とは日常も含めて覚悟を持つってことかな。(^^;

私的には「諦観を持つ」と「覚悟を持つ」と同じで、「危機的存在」と初期仏教でいう「苦」は
同じかなと思っています(厳密には違うかもしれませんが)。

>年末年始、わめは結構のんびりしてますが、こののんびりがこんなことしてていいのか?って
>自問自答が出てきて落ち着かないんだよねw汗

フツーイッパン的に(正しい?)年末年始はのんびりと思います。
年末年始別に「戦(?!)」ったり「決意表明(?!)」必要もないのですということで。

>創価仏教もオウムも道具として活かすなら効用はあるのじゃないかな。
> わめの中では創価仏教はもう死んじゃってますが。笑

そですか。有益じゃない話の方向はやめておきます。
ひとつの「輪廻」から「解脱」できたと思えばOKなんではないでしょうか。
わめさんの嫌い系の話をしてもしょうがないのでこのカキコを最後に創価系はLeo的には
特に要請がない限り話題に出さないようにするということで。あとテーラワーダ
もかな。それから宗教色も出さないという感じでしょうか。
なにか発見があったら紹介するとか前向きな話だけにしましょう2006年。

321わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/07(土) 14:34:49
Leoさん、こんにちは。^^

> 私的には「諦観を持つ」と「覚悟を持つ」と同じで、「危機的存在」と初期仏教でいう「苦」は同じかなと思っています(厳密には違うかもしれませんが)。

 Leoさんの「苦」の捉え方はいい感じですね。
 でもそうだと「日常的危機」もいつだってそうなっちゃって、この後の世俗一般的な”年末年始はのんびり”はやっぱできませんよ。(^^;;

> 年末年始別に「戦(?!)」ったり「決意表明(?!)」必要もないのですということで。

 わめはのんびりしながらも昨年多く学んだことで、今後の指針を決めたいと模索中です。

 あ、学会話もいいですよ〜 思うことは何でも書いて欲しいです。^^

 もちろん有益・前向きな話は大歓迎ですが。

 話は戻って「今後の指針を決めたいと模索中」と書きましたが、わめには何も出来ないように思うのだけど、それでも何かをやっていきたいという矛盾を抱かえてしまっているようです。涙

322Leo:2006/01/08(日) 21:23:37
わめさん、こんばんは。

最近数年ぶりに自分のホームページをいじれるようになりました(^^;
http://page.freett.com/leo020503/

Libraさんに連絡してわめさんのBBSとBLOGのLibraさんのご発言の書写を行いました。
(他にわめさんの掲示板などでLibraさんのご発言が他にありましたらお知らせいただけるとありがたいです)

あと、わめさんの掲示板へのリンクを貼ってよいでしょうか。

323わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/08(日) 23:03:54
 Leoさん、ε=(ノ‥)ノ ただいまっす。実家日帰りで先程帰宅しました。^^

> 最近数年ぶりに自分のホームページをいじれるようになりました(^^;
> http://page.freett.com/leo020503/

いっ、いじれなかったのかw(>▽<;; アセアセ

> Libraさんに連絡してわめさんのBBSとBLOGのLibraさんのご発言の書写を行いました。

 お疲れ様でした。(*´∇`*)

> (他にわめさんの掲示板などでLibraさんのご発言が他にありましたらお知らせいただけるとありがたいです)

 今のところ新ブログだけ調べてみましたが、下記にもコメントを頂いております。(⌒〜⌒)ニンマリ
『日蓮(大聖人)も真っ青』 http://wame.seesaa.net/article/9692959.html#comment
『輪廻転生について』 http://wame.seesaa.net/article/10504051.html#comment
 

> あと、わめさんの掲示板へのリンクを貼ってよいでしょうか。

 うれしっす。o(^^o) (o^^o) (o^^)o キャアキャア♪


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