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避難用作品投下スレ5

1管理人★:2009/05/28(木) 12:49:59 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

240末期、少女病:2009/08/28(金) 15:01:51 ID:yHwYMvpU0
認識が、臓腑の奥底から悲鳴を運んでくるよりも早く。
奔るものが、あった。
千鶴の目に映るそれは、漆黒の拳。
一直線に千鶴を目指して駆ける、その軌道には、黒髪と、虚ろな瞳とがあって。

だから、その一瞬。
妹の首を抱き締めるように庇った、柏木千鶴の心には。
確かにそれを、柏木楓を護ろうという意志が、あったのだろう。

そうして。
撃ち出された、漆黒の拳。
来栖川綾香の放つ、拳には。
庇護の概念を穿ち貫く、魔弾の異能が、宿っていた。


―――意志の悉くが、貫かれる。

241末期、少女病:2009/08/28(金) 15:02:07 ID:yHwYMvpU0
 
闇を纏うような拳が、柏木千鶴を穿った。
その無防備な背を易々と貫いた一撃が、肋骨を粉砕し脾臓と膵臓とを抉り横隔膜を引き裂き、
消化器系の左半分を喰らい尽くして桃色の合挽き肉へと変えた後、腹側から抜けた。
そこには、何も残らない。
大型の肉食獣に一息に噛み破られたような、無惨な傷痕から、ばたばたと止め処なく鮮血が流れ落ちる。
既に誰のものかも判らぬ血溜りが、新たな潤いに波立った。
ばたばたと、ばたばたと止め処なく。
柏木千鶴の命が、流れ落ちていく。
それ以上は、立っていることも、叶わなかった。
そこだけは無事でいられた両の腕に小さな首を一つ抱いて、千鶴がゆっくりと、倒れ伏す。

「……かえ、で」

顔を上げることもできないままに呟いた、その眼前。
ふつ、ふつと。
蜀台の焔が、消えていく。
広い、広い岩窟に灯された、何を焚き付けに燃えているかも分からぬ、奇妙な焔が、
一つ、また一つと、消えていく。
それはまるで、絶叫の音色を以て奏でられる、か細い慟哭に吹き消されるように。
闇が、広がる。



***

242末期、少女病:2009/08/28(金) 15:02:38 ID:yHwYMvpU0
 
 
否。
最後の焔が消えた後も、岩窟を真の闇が支配することは、なかった。
漆黒に近い闇の中、立ち昇る一筋の光があった。

ゆらゆらと。
今にも途絶えそうに、ゆらゆらと。
煙のように立ち昇るのは、金色に近い、ひどく物悲しい色。

光は、一つではない。
目を凝らせば、闇に沈んだ岩窟のそこかしこに、それはあった。
いつからあったものかは判然としない。
或いは、焔の消える前から、それは立ち昇っていたものかも知れなかった。

光っているのは、指だ。
或いは骨片であり、爪だった。
肉の欠片や、髪束や、皮膚や目玉や腕だったものや脚だったものや腹だったものや、
そういうものの全部が、ほんの微かな光を放っているのだった。

一際強い光は、柏木千鶴の抱く、柏木楓の首から立ち昇っていた。
まるで、命や魂や、そういう名前で呼ばれる何かが、ゆらゆらと漏れ出して、天へと昇るように。

昇る光は中空、遥かな高みに集まっていく。
高みは、光の坩堝だった。
互いに手を取り合うように融けあい、その輝きを増した光が、やがて金色の光珠へと変じていく。
それはさながら、闇を打ち払う小さな日輪。
或いは、天へと続く、光の門のようにも、見えた。

「―――」

金色の光の下、柏木千鶴は動かない。
妹であったものを抱き締めて、ただ緩慢に死を待つように倒れ伏し、
ぼんやりと光の坩堝をその深紅の瞳に映している。

243末期、少女病:2009/08/28(金) 15:03:09 ID:yHwYMvpU0
 
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ、瀕死】

柏木楓
 【状態:死亡】

→1087 ルートD-5

244鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:17:19 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――来栖川綾香・1



ゴングは鳴らない。
レフェリーは止めに入らない。
観客のブーイングも、セコンドからのタオルもない。
それでも。

―――最後まで、やるかい?

綾香は声に出さず、問う。
問いながら、答えなど聞くまでもないと、笑う。
この女に、柏木千鶴に、或いは自分に、来栖川綾香に、否やのあろう筈がない。
これは、そういう闘いだ。
否。自分は、自分たちは、そういう生き物なのだ。
続き続く生の、残りの全部を焼き尽くしたとしても。
振るうべき拳と、追い立てられるような焦燥と、胸を焦がすような高揚が、この身を衝き動かす。
来栖川綾香の、それは決意であり、確信であり、或いは既に遠いどこかへの、訣別でもあった。

―――最後までやろうよ。

その、最後まで。



.

245鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:17:45 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――柏木千鶴・1



そこには風が、吹いている。


無色透明な風だ。
からからに乾いていて、肌を切るように冷たくて、
そうしてどんなに微かな音も立てない、それは無音の風だ。

無音の風が吹く光景は、それ自体が音を吸い込まれてしまったように静かで、
まるでヘッドホンのジャックが刺さったままのテレビの画面みたいだった。
深夜、うたた寝から眼を覚ましたときの、暗く沈んだ部屋にぼんやりと白く浮かび上がる四角い画面。
その中に映る古い洋画の、牧歌的で鷹揚な人々の歩き回る、無音の世界。
時計の針に目をやっても、闇に沈んで何も見えない。
体を預けた三人がけのソファーの、広く空いた隣に誰がいたのかも、思い出せない。
薄暗く、寂しくて、ほんの少しだけ、懐かしくなるような。
そんな風が、吹いていた。

音のない世界はひどく虚構じみている。
晴れた空の青は書き割りのようで、談笑は脚本の段取りのままに進行する一幕芝居。
作り物。何もかもが安っぽい作り物で、そんなことは分かっていて、それでも。
それでも、そこにあるのは今でも夜毎に夢にみる、どれほどに手を伸ばしてももう届かない、
大切な、本当に大切な、光景だった。

246鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:18:06 ID:bWAxO1UY0
それは柏木の家だった。
夏には暑く、冬には寒い、歩けば軋みの響くような旧い造りの家。
透明な風の吹く、音のない世界の真ん中にあるのは、がらんとした居間だ。
微かに黄ばんだ襖はいつも開け放たれて、続きの部屋と中庭とを吹き抜ける風の通り道になっていた。
背の低い箪笥の上には湯呑みと急須。
がたがたと安定の悪い、小さな丸い卓袱台を囲むように座るいくつかの背中。
―――いくつかの? 
いいや、いいや。
私の目に映る背中は、ずっと昔から、たったひとつだった。
居間の奥まった一角、上座に置かれた座椅子に腰掛ける、大きな背中。
いくら手を伸ばしても届かない、遠い、遠い背中。

ああ、どうして音が、聞こえないのだろう。
あの場所には、ゆっくりと、本当にゆっくりと時間が流れていくあの暖かい居間にはきっと、
小さなラジオから流れるノイズ混じりの掠れた音が満ちているはずだというのに。
それは、あのひとが好きだった音。
テレビは忙しなくて嫌だと笑って、いつもラジオの音楽とニュースばかりを聴いていたあのひとの、
だからそれは、思い出の音だ。
だけど大切な音が、私には聞こえない。
聞こえないから私はいなくて、それで談笑は安っぽく、空は薄っぺらい書き割りで、
そんな作り物の思い出にも、私は届かない。

ぴしり、と。
もどかしさに歯噛みする私の目の前で、世界に罅が入る。
いや、それは傷だった。
風呂上りの肌を爪で引っ掻くような、薄く小さく、鈍い傷。
そんな傷が、何本も、何本も入って音のない世界を汚していく。

247鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:18:27 ID:bWAxO1UY0
だけどそれは、仕方のないことだ。
無音の風に音は融けて、音のないその居間には、だから大切なピースが欠けている。
不完全な構造の光景は、初めから軋みを上げていて。
まるで壊れたデッキに入れたビデオテープが絡まって何度も何度も同じシーンを再生するように、
安っぽい作り物の談笑を、書き割りの空を、私の大切な光景を、がりがりと掻き毟るように傷つけながら、
繰り返しているのだ。

傷が、疾った。
おおらかに口を開けて笑う誰かの影が、首の辺りから千切れるように、傷に引き裂かれた。
それを寂しいと、思う。
だけど涙は流れない。

―――考えるな。

傷が増えていく。
困ったように相槌を打つ小さな影は、細かい傷に覆われて、いつの間にかもう見えない。
それを辛いと、思う。
だけど涙は流れない。

―――考えるな。

傷が、色々なものを塗り潰す。
凍りついたような無表情のまま箸を動かしていた影の、その箸を持つ手が、傷に掻き潰されていく。
それをやるせないと、思う。
だけど涙は、流れない。

―――考えるな。

寂しくて、辛くて、やるせなくて切なくて、だけど涙は流れない。
どうしてだろう、と問うまでもなく。


―――気付くな。認めるな。


答えなんて、初めから分かっていた。


―――理解するな。認識するな。自覚するな。


ああ、私は。
何もかもが塗り潰された世界の中で、たったひとつ。
たったひとつの大きな背中だけが、そこに残っているのなら。
それだけが、色褪せずにいるならば。
他の何が消えたって。


―――気付いてしまえば、


悲しくなんか、ないのだ。


―――もう、


もうどこにもいない、大切なひと。


―――戻れない。


柏木賢治の、思い出だけが、あれば。




.

248鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:19:06 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――来栖川綾香・2



誰の心にも、棘は刺さっている。
来栖川綾香に刺さるそれは、細く短く、しかし確実にその身を蝕む毒を秘めた、硬い棘だった。
あるとき、それは視線だった。
またあるとき、それは冷笑だった。
あるときはあからさまな蔑みの言葉であり、またあるときは呆れたように首を振る仕草であり、
そしてそれは常に、声だった。

何故戦うと、問う声だ。
その問いは幼い頃から幾度も、幾度も繰り返され、しかし綾香は一度も、その問いに答えたことはなかった。
回答など返すまでもないと、綾香は確信していた。

逆に問い返したかった。
何故そのような、愚かな問いを発し得るのかと。
ただ在るべくして在ろうと志すならば、戦うよりないと。
抗うよりないと、切り開くより他に道などないと、それが何故分からないのかと。

ならば、在るべくして在るとは何だ。
重ねられる問いに、来栖川綾香は、拳を握る。
拳を握って、歩を踏み出す。
それが、返答だった。

ただ一点、ただの一点。
来栖川綾香が来栖川綾香であるためのただ一点。

来栖川綾香はただ来栖川綾香であるのだと、他の何者でもないのだと、
或いは、私は私であり、誰かが誰かであり、他の何者でもないのだと。
何故、誰もが全ての外側に在るのだと気付けずにいるのか、
何故、そうではなくなった自らに目を瞑っていられるのか。

それは詰問であり回答であり、慟哭であり絶叫であり、悲鳴であり希求であり、
そして同時にまた、宣戦でもあった。

自らを彼岸を蠢く死者に非ずと、ただそれを証し立てる術の、その悉くが。
闘争という名で、呼び習わされる。
故に来栖川綾香は拳を握り歩を踏み出し。
故にそれをして、来栖川綾香は―――或いは柏木千鶴は―――己が道を、生と呼ぶ。

249鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:19:30 ID:bWAxO1UY0



「―――こんな、最後か?」



問いは、誰に発したものか。
金色の光の坩堝の下、踏み出した足に力を込めれば、眼下には敵。
剥き出しの臓物を微かに震わせて動かぬ、柏木千鶴がそこにいる。
握った拳を、胸元まで引き寄せた。

「……、」

と。
ほんの僅か、立ち昇る光が、揺らいだ。
それは静かな問いの、此岸と彼岸との境にも、届いたものであろうか。

「……は、」

初めに聞こえたのは、囁くような声。
ぴくりと、千切れた横隔膜が震えるのが見えた。

「はは、あはははは、」

声はやがて、弾けるように拡がる。
ぐらりぐらりと、合挽き肉のように潰れた大腸が揺れていた。

「あはははは、あはははははははははははははははは、」

そして爆ぜるように、哄笑が、響いた。
柏木千鶴が、抉れた腹とひしゃげた骨と崩れた臓腑を捩って、血を吐きながら哄っていた。

「あはははははははははははははははは、あはははははははははは、はははははははははははははは、」
「―――」

見下ろす綾香の瞳には、細波の一つも立たず。
断ち切るように、拳を振り下ろした。




.

250鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:20:22 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――柏木千鶴・2



肌を刺すような冷たい雨が好きだった。
そんな雨の降る日には一日中、あの背中が書斎の文机に向かっていて、
私はそれをずっと静かに、見ていられた。
それが、私の幸福だった。

愛している。
柏木梓を愛している。
あの家に響く笑い声やどたばたと喧しい足音を、愛している。
それが喪われたことが、こんなにも寂しい。

愛している。
柏木初音を愛している。
あの家の台所から響く包丁の音や風呂桶を磨く音と一緒に聞こえてくる控えめな鼻歌を、愛している。
それが喪われたことが、こんなにも辛い。

愛している。
柏木楓を愛している。
あの家に満ちる笑い声を凍りつかせる一言や食後にいつも駆け込む洗面所から漂う胃液の臭いを、愛している。
それが喪われたことが、こんなにもやるせない。

ああ、今こそ。
欺瞞なく、誇張なく、はっきりと告げよう。
私が護りたかったのは、私の妹ではない。
柏木楓という名の少女でもない。
それは柏木梓という名前でも、柏木初音と呼ばれるものでもなかった。

柏木千鶴がその心から、その身を捧げて護ろうと誓い、殉じたのは―――柏木の家、そのものだ。
血筋ではなく、家族でもなく。
愛おしく夢想する柏木の家を構成するすべてを、私は護りたかった。
柏木の家に笑う梓を、柏木の家の台所に立つ初音を、柏木の家の洗面所を汚す楓を、私は愛していた。

251鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:20:46 ID:bWAxO1UY0
それは、思い出の入れ物。
化粧台の抽斗の中に仕舞われた小さな飾り箱、その煌く宝石に彩られた箱の中の、一枚の写真だ。
写っているのは輝いていた頃の世界。
心から、笑っていられた頃の。
懐かしい、色褪せない、一枚の写真。
柏木賢治の穏やかな笑顔が写る、それこそが、私がすべてを投げ打って護りたかった、思い出のかたちだった。

梓も。楓も。初音も。
その写真を形作る、大切な、大切な、歯車だったのに。
今、私の目の前で、その最後の欠片が光になって、




『―――こんな、最後か?』




声が、聴こえた。


.

252鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:21:15 ID:bWAxO1UY0
 
それは、水面に落ちたひと滴。
微かな波紋はやがて漣となり、漣はうねりを呼び、うねりは波濤となって、私の中の、一番奥に打ち寄せた。
押し寄せては引き、引いてはまた押し寄せる奔流が、ずっと底の方に沈んでいた何かを呼び覚ましていく。
それは、鋭く、細く、手を触れることもできないほどに熱く灼けた何か。
止まりかけた心臓と、痙攣するだけの肺と、弛緩した筋肉の全部をいっぺんに叩き起こすような、
それは紅く、紅く、激流を染め上げてなお紅い、名前のない感情だった。
感情が、目を覚ます。
感情が、立ち上がる。
感情が、拳を握って。
感情が、口を開いた。

感情が、叫ぶ―――赦さない、と。

赦さない。
赦せない。
大切な写真のフレームが、歪んでいくのが、赦せない。
柏木の家を形作る何もかも、私の夢想する大切な何もかもが穢されていくのが赦せない。
私の抱く無上の幻想に、来栖川綾香は土足で踏み込んだ。
ただ、それだけだった。
それだけで、十分だった。
柏木の血を、嘲笑うように。
柏木の家を、踏み躙るように。
奪い盗んだに違いない鬼の手を翳す、あの女を。
柏木千鶴は、赦さない。

梓の笑顔が、楓の視線が、初音の微笑が脳裏を過ぎる。
最後にほんの少しだけ、柏木耕一の顔を思い浮かべた。
柏木耕一。あのひとの影。
あのひとがいなくなって、ふわふわとどこかへ飛び去ってしまいそうな私を縛り付ける、あのひとのかたちをした楔。
その死は、辛い。辛く、寂しく、やるせない。
だけどそれはきっと、指で傷口を無理やりに押し広げて血を流すような、そういう類の痛みだ。

253鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:21:34 ID:bWAxO1UY0
かたかたと鳴る歯を、食い縛る。
漏れる吐息にはもう、温度が感じられない。
構わなかった。
生きるも死ぬも、既に問題ではなかった。
復讐でも報復でもなく、赦せないから、殺す。
そうあらねばならない。
私は、来栖川綾香を殺し尽くさねばならない。
台無しにされた、思い出のフレームの代わりに。
それが公正で、正当で、真っ当な―――あるべきこの世のかたちに、他ならない。
そうでなければならないのだ。
柏木千鶴の夜ごとに愛おしく抱き締める、甘やかな思い出を捧げる飾り棚の如き世界は。
そういう風にできていなければ、それはつまり、間違っているということだ。
間違っているのならば―――それは、正されなければならない。
殺し尽くされるべき来栖川綾香が生きているのならば、それは殺し尽くされねばならないのだ。
他の全部は些細なことだ。
他の誰が生きて死のうが、そんなものは些細なことだ。
私の如きが生きて死のうが、そんなものは些細なことだ。
ただ私は、私の大切な思い出が歪められた、そのことだけが赦せない。
それだけが、唯一にして絶対の罪業。
だから私は、ただ一つのことを、それだけを、思う。

お前を赦さない。
故に、死ね。

「―――はは、あはははは、」

口の端から漏れたのは、溢れ出した鮮血か、それとも余分な感情か。
げたげたと、けたけたと、からからと漏れ、響き、私を揺らす。
箍の外れたような、けたたましい笑い声の中、私は胸に抱いた楓の首を引き寄せて、
その青白い唇に、キスをした。



.

254鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:22:14 ID:bWAxO1UY0
 
*** ―――ふたり



振り下ろされた一撃の先に、柏木千鶴の姿はない。
空しく大地を割った拳をゆっくりと引きながら視線を上げた、来栖川綾香の眼前。

血の色の鬼が、ゆらりと、立ち上がる。
その身を染める深紅は、返り血と己から流れ出したそれとが混じり合って昏く。
漆黒の両腕の先端、爪刃の朱と爛々と燃える焔色の瞳だけが、辺りを満たす金色の光を圧して鮮やかに煌き。

鬼は、哄っていた。
視界の欠けた右の眼と、抉り裂かれた左眼と。
両の目から血涙を流しながら、すすり泣くように姦しく、咆哮の如く密やかに、哄っていた。
その手の中にはもう、柏木楓の首はなかった。
十の爪はそのすべてが薙いだものの命を奪う凶器としての本性を取り戻したように研ぎ澄まされて美しく、
眼前の敵へと振るわれる時を待っている。

抉られた腹は桃色の腹膜と動脈血に濡れた臓腑とが蠢く様を隠そうともせず、
左の腹側筋と腹直筋を千切り取られた脊柱が立位を可能とする筈がなく、
消化器系と循環器系との半分方を喪失して生命活動が維持される道理もなく、
しかし、その何もかもを無視して、鬼は、柏木千鶴は、立っていた。
そう在ることが当然だと、傲岸に言い放つが如く、その両足は地を踏み締めている。

「―――」

視線が、交錯する。
鬼の瞳に燃える焔を、来栖川綾香は、真っ直ぐに見据える。
見据えて、哂った。
愉しそうに、心の底から幸福そうに、牙を剥いて、哂った。

す、と。
綾香の両手の爪が伸びて、交差するようにもう一方の腕へと、添えられる。
左の爪は右腕に、右の爪は左の腕に。
腕を組むような姿勢は一瞬。
真紅の刃が、漆黒の腕に静かに食い込んだかと見えるや。
ぞぶりと、寸分違わぬ間を以て、両の爪が、両の腕を、引き斬った。

255鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:22:26 ID:bWAxO1UY0
濡れた、重い音が足元から響く頃には、傷の断面から先を争うように伸びた桃色の肉糸が、絡み合い、
骨を造って肉を盛り神経を張り巡らせて薄皮を貼り、瞬く間に白い手指の再生を完了していた。
生まれたばかりの長い、しかし拳胼胝だらけの節くれ立った指が、地に落ちた黒い腕を、拾い上げる。
己が切り落とした己の腕を、弄ぶように手に取って、硬く罅割れた黒い皮膚の感触を確かめるように
指の腹でそっと撫で回し、

「これはもう―――」

おもむろに握って、力を込めた。
音はない。
主を喪った漆黒の腕は、ただ花の枯れるが如く、灰のように砕けて散った。

「―――いらないな」

舞い散る灰が、金色の光に照らされてきらきらと輝いている。
きらきらと舞う光の渦の中、小指から一本づつ折り畳まれていく指が、やがて白い拳を形作る。
裸身を這うように伸びた紅の紋様が絡み付いて、固めた拳を彩った。

ゆらりと、金色の光が揺らいだ。
まるでそれが、合図であったかのように。
二人が同時に、地を蹴った。



.

256鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ:2009/09/09(水) 14:22:43 ID:bWAxO1UY0
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】


→1091 ルートD-5

257ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:13:57 ID:np6NvLE.0
 
振り乱された長い髪が、深紅の霧を切り裂くように弧を描く。
黒髪の薄幕の向こうから襲い来る爪刃を、来栖川綾香が大きく身を反らして躱す。
真横に薙がれた爪の通り過ぎざま、重心は後傾姿勢から更に後ろへ。
入れ替わり、弾けるように跳ね上がったのは綾香の白い左脚である。
顎を縦に射貫く軌道は、しかし僅かに半歩を踏み込んだ柏木千鶴の頬を掠めて宙を舞う。
振り抜かれると同時、綾香の脚からぶつりと響いたのは肥大した筋繊維が遠心力に耐えきれず断裂した音だった。
盛り上がった肉の爆ぜた拍子に皮膚が破れ血の霧を撒き散らす。
頭上から鮮血の霧雨を浴びた千鶴はひうひうと奇妙に擦れた呼吸音を穴の開いた肺腑から漏らしながら追撃。
体勢の流れた勢いをそのままに空中で後転しようとする綾香の軸足を掴むや、力任せに引き抜いて振り回す。
掴み潰された腓骨の砕ける鈍く重い音が千鶴の手の中から聴こえた。
屠殺された獣の肉が叩いて伸ばされるように、片足を掴まれた綾香の体が無造作に振り上げられる。
そのまま無防備に岩盤に向けて振り下ろされるかと見えた寸前、千鶴の右側頭部を直撃したのは
綾香の空いた蹴り足、右の踵である。
こめかみを真横から打ち抜かれた千鶴の手が僅かに緩む間に、綾香の砕けた左脚が拘束を脱した。
中空、浮いた姿勢から千鶴の肩口を足場にして蹴りつけるように後ろへ跳ぶ。
着地の瞬間には、砕けた左の腓骨は既に半ばまで再生を完了している。
代わりに脹脛を構成する腓腹筋が着地の衝撃に耐えかねたように爆ぜて、粘り気のある血を周囲にばら撒いた。

258ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:14:16 ID:np6NvLE.0
ぐらりとたたらを踏んだ綾香の隙を見逃さず、千鶴が距離を詰める。
刹那の間、数歩分の距離を一足に踏み越えて迫るその速度は先刻までのそれとは比較にならぬほどに鋭く、速い。
綾香が迎撃に放つ左の逆突きを鎖骨に受け、折れ砕ける鈍い残響を残しながらも千鶴の加速は止まらない。
爛と煌く瞳の焔が、夜空に星の流れるように、金色の光の中に軌跡を残す。
視力など、そこにはもう殆ど残ってはいない筈だった。
しかし千鶴の眼は赤黒い涙を流しながらも見開かれ、一直線に綾香を捉えている。
宿る深紅の光に、躊躇の色はない。
ただ身体の内に燃え盛る焔にのみ衝き動かされるかのような、迷いの無さ。
それこそが千鶴の肉体をして限界をとうに越え、或いは生死の境を踏み越えてなお加速を続けさせる原動力であった。
その血の色の瞳には危険に対する防衛本能、被弾に対する恐怖というものが存在しない。
ただ己が目に映る獲物を掴み抉り引き裂く、原初の生を具現化したかのような、闘争の牙。
それだけを研ぎ澄まして、柏木千鶴は死線に臨んでいる。

259ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:14:32 ID:np6NvLE.0
深紅の軌跡は右下から袈裟懸けを逆さに辿るような爪の切り上げ。
咄嗟に肘を引き半歩を退いたその右腕と肝臓と第十二肋骨から下三本までを輪切りにして抜けた、
致死の斬撃にしかし、裸身の綾香は舌打ち一つ。
噴出す血潮に眼もくれず、左半身の構えから正拳で打つのは体の流れた千鶴の空いた顔面、鼻筋である。
一発、真後ろに弾けるようにのけぞった千鶴の突き出された顎にもう一撃。
三発目を放とうと引いた左の腕が、二の腕から爆ぜて血と肉を撒き散らした。
それでも綾香は流れを止めず、骨に纏わりついた肉の塊のような腕を伸ばす。
突きではない。拳を開いたその手が鷲掴みにしたのは千鶴の長い黒髪である。
ぐずぐずと赤黒い筋が泡立って糸を引く腕が千鶴の頭部を引き寄せ、強引に押し下げる。
同時、寸分の狂いもないタイミングで右膝が跳ね上がっていた。
来栖川綾香必殺の、顔面へ突き刺すような膝。
鼻梁と頬骨と眼窩とを粉砕せんとする鉄槌を一撃、二撃、今度は三撃までを叩き込んで、
四撃目が着弾すると同時に膨れた綾香の大腿筋が破裂した。
瞬間、流れるような打撃のリズムが止まる。
掴んだ髪を放り投げるように突き放すのが、一瞬だけ、遅れた。

爪が薙がれ、
黒髪が流れ、
金色の光の下、幾筋もの真紅が興を競うように舞い散った。
互いに二歩、三歩、たたらを踏んで距離を開けた、その姿は凄惨を極めている。

260ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:14:49 ID:np6NvLE.0
柏木千鶴の整った顔立ちは今や見る影もない。
鼻筋は折れ曲がって濁った血を垂れ流し、血涙を流す右の目の周りは青黒く腫れ上がり左眼は醜く落ち窪み、
どちらも眼窩の骨が砕けているのが一目瞭然だった。
或いは砕けた欠片が眼球にも刺さっているのかも知れない。
窪んだ左眼はびくりびくりと時折あらぬ方へ痙攣するように視線の向きを変えていた。
前歯は上下とも半ばまでが折れて見当たらず、ぽっかりと虚ろな穴の開いたような口腔からは
掠れた喘鳴だけが響いている。ひ、ひ、と奇妙な音と共に片肺が膨らみ、萎む。
もう片側の肺腑は刻まれた傷から裂け目が拡がって既に機能を止めていた。
震えるように蠢く心臓が送り出す血液が、どれほど残されているものか。
吹き曝しの臓物は既に震えてすらいない。
十の爪と瞳の奥の真紅だけが、辺りを満たす金色に抗うように、澄んでいる。

対峙する来栖川綾香もまた、その裸身を余すところなく血に染めていた。
五体はかろうじてその呈を留めている。
形を留め、しかしそれだけだった。
千切れかけた右腕はずるずると桃色の糸を引き、皮膚という皮膚の剥がれた左腕はぶつぶつと血の色の泡を噴いて止まらず、
爆ぜ飛んだ左の脹脛は肉が剥き出しのまま、右の腿は子供が傷に匙を突き込んで無邪気に掻き混ぜたようにぐずぐずと崩れ、
胴には既に薄皮が張っている右の腹部の代わりとでもいうように、真新しい創傷がざっくりと口を開けている。
腰の左側から切り上げるように腹膜を裂いた、それはたった今、離れ際に千鶴の爪が抉り去ったものであった。
垂れ落ちる鮮血が、なだらかな曲線を描く下腹部と腰とを伝って足元へ流れていく。
それは癒えるよりも速く、傷が増えていくものであったか。
否。先刻までは舐め取るように血を掬っていた、肉の糸の動きが鈍い。
傷の癒える速度は、明らかに落ちていた。
肉の爆ぜる度に撒き散らす真紅の霧に混じって鬼と仙命樹の血の次第に流れ出たものか。
或いは人体の許容量を遥か眼下に見下ろすように過剰投与された薬物の無理が、遂に治癒の限界を超えた結果か。
いずれ、不死の加護を受けたかとすら見えた女の、それは落日の兆候であった。

自身の全身を覆う致命の傷の数々を見下ろして、それでも悠然と笑んだ綾香の、
細めた左眼が、唐突に爆ぜた。
爆ぜて、しかしその速度を緩めながらも回復を始める左眼の、裂けた水晶体から垂れ落ちる血とも体液ともつかぬ
薄紅色の雫を、笑んだ綾香が、べろりと舐めた。

261ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:15:05 ID:np6NvLE.0
転瞬、距離が詰まる。
仕掛けたのはやはり千鶴。
突撃は極端な前傾、右の爪を内から外へ薙ぐ姿勢。
ガードの気配、或いはその意識自体がない千鶴へ綾香が迎撃に放つのは左の横蹴り。
赤い網目模様の血管が張り巡らされた桃色の腓腹筋が張り詰め、凝固し、打撃を構成する。
タイミングは十全、吸い込まれるように伸びた脚が千鶴の顔面へと直撃する。
残った前歯の根を砕き折って、ざくりと刺さった歯の欠片を足裏に残したまま引き抜かれようとした
綾香の左脚を、真紅の爪が薙いだ。
薄皮も張らぬ肉に直接食い込んだ刃が、ぶちぶちと音を立てて筋繊維を千切っていく。
加えて、もう一撃。
千鶴の空いた左の爪が、綾香の伸ばされた姿も艶かしい、無傷の太腿に突き込まれる。
刺さった爪刃が、ぐじゅりと濡れた音と共に、円を描くように肉を抉った。
白い肌に走る紅の紋様が寸断され、噴き出した鮮血に塗り潰されていく。
脚の一本を縦横に刻まれて声一つ上げぬ綾香の対応は簡潔。
軸足から体幹ごと捻るように重心を移動させれば、遠心力は伸びた左脚を真横へと振る。
真っ赤に染め上げられた血みどろの脚が、刃の刺さったまま強引に移動を開始。
ぶづぶづと、何本かの腱と筋とが断末魔の悲鳴を上げて切り裂かれていくのを完全に無視して、
綾香が体を左へと捻っていく。
塞がらぬままに攀じられた腹の傷からごぼりと粘つく泡の塊が撥ね散った。
肉を裂き骨に食い込んだ刃が引き抜ける刹那、僅かに引きずられるように流れた千鶴の右腕を、
綾香の桃色の薄皮の斑に張った手が、掴む。
べしゃりと濡れた音と共に綾香の左脚が大地に着いたその瞬間、互いのベクトルは共に
左回りで回転する体側に沿った円軌道。
軸は綾香。縁は千鶴。
正しく流れるように、綾香の手に引き寄せられた千鶴の身体が、加速する円の渦に巻き込まれる。
密着は一瞬。
釣り込む腕と体躯を捌く腰、崩れた重心を掬うように払われる足。
三点が連動し、ただの一瞬、回転という運動に破壊的な力を付与する。
変則の、しかし恐るべき威力を内包して放たれた、体落とし。
釣り手の制動は存在しない。千鶴の、剥き出しの肋骨と脊柱とが加速の頂点で岩盤に叩きつけられ、
受身を許されぬまま、鈍い音と共に幾本かが砕けて飛んだ。

262ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:15:39 ID:np6NvLE.0
仰向けに倒れびくりと震えた千鶴から、しかし見下ろす綾香は引き手を離さない。
間髪入れず、掴んだ腕を捻り上げるように内側へと捩じる。
同時、狙い澄ました打撃が奔った。
千鶴の肩関節と肘関節の回転可動域が、限界に達した瞬間である。
捌いた右足を引き戻しざまの、叩き付けるような綾香の下段蹴りが、
伸びきった千鶴の肘を裏側から正確に撃ち抜いていた。
ぐづゅごぐり、と。
尖った石を擦り合わせたような耳障りな音が、破壊された関節の絶叫だった。
千鶴の右腕が、あり得ぬ方向に、くの字を描いた。
真紅の爪刃を生やした五指が、見えない何かを掻き毟るように痙攣した、その直後。

鈍く重い音が、もう一つ。
咲いたのは真紅の霧の華である。
綾香の左脚が、蹴り足の衝撃を支えきれなかったとでもいうように、爆ぜていた。
肥大した筋繊維が、一瞬だけ奇妙なオブジェのように重なり合い、膨れて、弾ける。
千切れた腱が撥条仕掛けのように縮み、支える筋を失った骨がぐらりと揺らぐ。
肉の糸がふるふると細い手を伸ばし、しかし間に合わない。
軸足の支えを失い、血の霧の中に崩れるように倒れ込んだ綾香が一声、吼えるように息をついて
立ち上がろうとした、それを許さぬ、ものがある。
鬼の手だった。

263ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:16:05 ID:np6NvLE.0
漆黒の、罅割れた分厚い左の手が、しっかりと綾香の腕を掴んでいた。
掴んだ腕を骨ごと握り潰す怪力が、その胸で抱き止めるように綾香を引き寄せた。
視線の交錯は、ほんの一瞬。
千鶴の濁った紅い瞳が、弓形に細められる。
吐息のかかるような間近、笑むように、千鶴が口の端を上げた。
折れた前歯の残滓と切れて爛れた歯茎の向こう側は奇妙に暗い。
底知れぬ深淵を思わせる笑みが、拡がる。
裂けていく千鶴の口の端の、青黒い唇の中から、赤が、覗いた。
切歯を喪失し、臼歯の多くは砕かれて、しかし、そこにはまだ、残るものがあった。
鋭く、太い、犬歯。
乾きかけた血に汚れ、なお鋭利を以て己を誇示する、肉食の根源。
それが元来、牙と呼ばれていたことを見る者すべてに思い出させる、獣の刃。
がぱりと、笑みの形のまま、顎が開いた。

音と飛沫が、金色の光を真紅に染め上げる。

濡れた音は、牙が綾香の鎖骨の僅か上、きめの細かい肌を刺し、その張力の限界を超えて体内を侵す音。
重い音は、牙が綾香の身体を縦横に走る血管の、その最大の一本を探り当て、千切り、食い破る音。
びちゃびちゃと。
ぐちゃぐちゃと。
地面に広がる血の海に、新たな飛沫が上がった。
綾香の頚動脈から噴き出した鮮血が、千鶴の口腔から溢れて流れ出し、止め処なく垂れ落ちていた。

264ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:16:41 ID:np6NvLE.0
ひゅうと漏れた悲鳴じみた吐息は、動脈と共に綾香の気管までもが裂かれた証だった。
首筋に食い込んだ牙を引き剥がそうと、綾香の手が宙を掻く。
がり、と。
爪の食い込む柔らかい感触は、千鶴の眼窩に食い込んだものであったか。
見えぬまま、指の掛かるに任せて無理やりに引いた、綾香の左手が、その半ばから、喪失する。
首から離れた千鶴の牙が、その手に喰らいつき、細い骨と薄い腱とを咀嚼していた。

転瞬、鈍い重低音。
骨と肉とを噛んで含んで、鮮血を垂らしながら笑むように歪んだ鬼の貌が、弾かれるように真横へ流れた。
叩きつけられていたのは綾香が固めた右の裏拳、横殴り。
鬼の頬骨と己が中手骨とが同時に粉砕される手応えにも、綾香の拳は止まらない。
拳を止めず、しかし振り抜かず、肥大した筋力に任せて綾香は強引に打撃のベクトルを下へと向けていく。
二の腕が、爆ぜた。
舞う血の霧は激しく、しかしその霧の勢いに押されるように軌道を変えた綾香の拳が、千鶴の頭部を
大地に叩き付けた。
血溜まりが、撥ねる。

265ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:17:04 ID:np6NvLE.0
仰向けに倒れ伏した千鶴に、綾香がずるりと裸身を引き摺るように圧し掛かる。
同時、拳を、振り下ろす。
一撃。鬼の貌が奇妙に歪んで血を吐いた。
二撃。叩き付けた岩盤の罅割れに、薄紅色の何かが流れ出す。
三撃。拳を振るう綾香の背筋が膨れて弾けた。
四撃。硬い音はもうしない。
五撃。拳は砕けて五指の形を保てず。
六撃。綾香の腹に開いた傷からどろりと粘つく肉の塊が零れ落ちた。
七撃。癒えぬ脚がぐずぐずと融けるように真っ赤な泡を吹き。
八撃。塞がりかけた綾香の左眼が、再び血の霧を咲かせた。
九撃。肩が爆ぜ。
十撃。二の腕が爆ぜ。

千鶴はとうに動かない。
飛び散る血潮すら、既にない。
剥き出しの腹の中に、乾いた赤黒い臓腑が覗いていた。


 ―――最後までやろうよ。


だらだらと、赤い血と薄黄色の体液とを垂れ流す綾香の瞳が、
動かない千鶴の、動かない腹の中の、動かない臓腑を、見つめる。
横隔膜の向こう、肺腑の間に、命の根源が、見えた。

砕けて癒えぬ、震える手が、伸びた。
だらりと力なく絡みつく血管や神経束や筋を引き千切り、
粘つく肉を掻き分けて、
終に辿り着いたその手の中の、
もう動かない心臓は、
それでも生温く。


 ―――その、最後まで。


傲、と吼えて。
引き摺り出した。

 
.

266ラストダンスは私に:2009/09/19(土) 20:17:20 ID:np6NvLE.0
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:死亡】


→1091 ルートD-5

267感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:53:14 ID:w7rQ/C/M0
 どうも、こんばんは。古河渚です。
 ちょっと体がガチガチです。周りの景色なんて見えません。だって目をつぶってますから。
 バイクの二人乗りって案外怖いです。運転手さんの舞さん曰く安全運転らしいですが、揺れます。早いです。

 ヘルメットもつけていないわたしはハラハラしっ放しでした。
 舞さんを信じていないわけじゃないですけど……その、防衛本能というか。
 色々お話したかったですけど、緊張と怖さの余り言葉も出ませんでした。
 必死にしがみついていたのでもうへろへろです。運動下手なのって損ですね……
 それでも、舞さんの言うとおりかなり低速だったみたいで、わたし達が一番遅いみたいでした。

 後で舞さんに聞いたところによると、ふぅちゃんは悲鳴を上げていたみたいです。
 まーさんは相当かっ飛ばしていたみたいです。正直な話、舞さんの後ろで良かったと思っています……
 なんだか、わたしも自分に正直になっているみたいです。言い訳をするのも少なくなったり、はっきりと結論を出すようにしたり。
 わたしも何だかんだでお父さんの娘なのかもしれません。お父さん、神経が図太かったですから。

 あ、悪いことだなんて思ってないです。凄く羨ましいと思ってたくらいですから……嬉しい、というよりも、安心しています。
 わたしだって少しはまともになれるんだ、って分かりましたから。
 岡崎さんは自信を持っていい、といつだったか言ってくれましたよね。
 わたしは今でも自信はありません。まだわたしは何もしていない。宗一さんや他の皆さんの後ろにくっついているだけです。

 でもわたしには戦える力なんてない。無理にそうしようとしてもどうにもならないのが自分だというのも分かっています。
 だから、今のわたしには『安いプライド』しかないのだと思います。
 変わっていけるかもしれない。マシになれるかもしれないって、現在のわたしを肯定するだけの『安いプライド』です。
 でもそれがあるから、わたしはここにいられる。たったそれだけで、坂の上を目指せる力になるのだと思っています。
 ですから、わたしはしがみ続けるのだと思います。『安いプライド』に。『誇れる自信』に変わるときまで。

「……」

 つんつん、とわたしの頬を何かがつつきました。
 そういえば、揺れが収まっています。そもそもバイクが停車していました。
 目を開けると、少し困った顔をした舞さんがこちらを見ていました。

268感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:53:33 ID:w7rQ/C/M0
「ついたから、降りて欲しい」

 ぎゅーっと、力いっぱいしがみついていることに気付き、慌てて腕を離しました。

「わっ」

 焦っていたわたしは話した拍子にぐらりと後ろに傾き、そのまま落馬……もとい、バイクから落下しました。
 したたか腰を打ちつけ、にべもなく地面に転がってしまいました。何をやっているのでしょうか……
 笑うしかなかったわたしに、舞さんが手を差し伸べてくれました。

「ありがとうございます……」

 恥ずかしさがありましたが、すぐに手を取って起き上がることが出来ました。
 どうやら、わたし達が一番最後みたいです。他の皆さんの車やバイクが見えました。
 目的地の小学校。ここに宗一さんの知り合いの方がいらっしゃるとか。
 多分、電気がついているところにいるのでしょう。
 ぼーっと眺めていると、舞さんが先を行くように促しました。

「早く。遅刻、良くないと思う」

 そういえばそうかと思い至り、そうですねと返して、小走りに昇降口まで向かうことにします。
 遅れてしまうのは、あの時から変わらないのだな、と思うと、少し可笑しく感じました。

「遅れてばかりなのは変わらないですね」
「……そうなの?」
「遅刻魔だったんです、わたし」

 あまり表情の変わらない舞さんが、ぱちぱちと物珍しそうに瞬きするのが新しい発見のように思えました。

269感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:53:48 ID:w7rQ/C/M0
「私も、そう。不良生徒だった。生徒会から目を付けられてた」

 窓ガラスとかよく割ってたから、と付け足した舞さんに、今度はわたしが絶句する番でした。
 そういうことをするような人には全然思えなかったので……
 お互いの意外すぎる一面を知って、自然と笑みが零れていました。

 奇妙な共通点に、舞さんも笑っていました。
 昔のことだって、全部が悪いことだけじゃない。
 そんな思いを抱えながら、わたし達は校舎の中に入っていきました。

     *     *     *

「いいかゆめみよ、まずお茶を出すときには心得ておかねばならぬものがある」
「はい」
「とりあえずお湯を入れることからはじめよう、な?」

 引き攣った笑顔で高槻さんはそう言いました。わたしは首を傾げました。
 お茶を出してみろ、というお言葉に従ったまでのことなのですが……

「もう一度聞こう。お茶っ葉をカップ一杯に注いで何をしろと」
「はい! 美味しく召し上がってください!」
「牛になれと」
「眠いのですか?」

 お腹がいっぱいになってすぐに寝ると『牛になる』そうです。
 量が多すぎたのでしょうか。
 メイド修行とは難しいものですね……

270感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:04 ID:w7rQ/C/M0
 ところで、どうしてコンパニオンロボのわたしがメイドになるのでしょうか。
 メイドロボの基本行動様式は既に削除されてしまっているのですが。
 高槻さんのなさることなのできっと深い理由があるのでしょう。
 ですからわたしは何も言わずについていったのですが。

「もういい。俺がやるからよく見ていろ。そして覚えろ」
「はい。見て、覚えます」

 覚えることは大得意です。じっと高槻さんを注視すると、コホンと咳払いをして、まずは空のカップを手に取りました。
 次にカップにお湯を注ぎます。なるほど、あの粉だけではいけないのですね。
 それからさっきわたしが入れていた粉をお湯に投入しました。あ、お湯の色が変わってます。

「これがお茶の淹れ方だ!」
「なるほど! そうなのですね!」

 ……と思う、と小声で付け足したのが聞こえましたが、高槻さんが言うのです、間違いありません。
 手順は既にインプットしましたから完璧に行えます。わたしがぐっ、と拳を握ると、
 高槻さんはぽりぽりと頭を掻きつつも、「まあいいか」と言ってくれました。

「あとはこいつを人数分入れて、みんなのところに持って行ってやれ」
「承知しました」
「それと、もう一つだけ覚えておけ」
「はい」

 再度インプットモードに入ります。このモードのときはじっと教授してくださる方の挙動を窺うのですが、
 高槻さんはいつも最初に苦笑します。そういうことで、わたしもそれらしい表情を浮かべることにしています。
 鏡がないのできちんと実践できているかどうかは分かりませんが。

「人間、疲れたときに暖かい食べ物や飲み物を出されるとホッとするもんだ。大抵はな」
「そうなのですか」
「そうだ。そしてありがたみを忘れてしまった奴もいる」

271感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:20 ID:w7rQ/C/M0
 どういう意図があって言ったのかは分かりませんでした。曖昧に頷くわたしは、適当という挙動を実践しているのかもしれません。

「お前は、疲れている奴にすっと茶を出せるような優しさを学べよ。
 誰かそのものじゃない、参考になることだけ学べばいいんだ。駄目なところも学んじゃいけない」

 それについては万事完璧です。人間として素晴らしい行動規範をお持ちになっている方が目の前にいらっしゃるのですから。
 そういうことだ、と付け足して、高槻さんはお茶を淹れろと促しました。
 わたしはお茶を飲めないので、この場合三人分必要ですね。
 苦笑を浮かべて、わたしはお湯を注ぎ始めました。

     *     *     *

 遅いな、と思いながら振り返ってみるが、川澄と渚の乗ったバイクは見当たらない。
 相当ゆっくり走っていたのだから、まだしばらく時間はかかるのかもしれない。
 そんなことを思いながら、俺は車に体を預け、溜息をついた。
 リサからは学校で、と指定されたが、具体的にどこの部屋でとは指定されなかったのでとりあえず外で待ってはいるのだが……
 現れやしねえ。遅刻だろうな、こりゃ。

「俺達はいつまでこうしてればいいんだ」

 車の助手席から身を乗り出して尋ねてきたのは国崎さんだった。
 後ろの席ではルーシーが退屈そうに腕組みをして足を荷物に乗せている。
 まーりゃんと伊吹は相変わらず仲良くケンカしている。今回の理由は『運転が乱暴すぎるから』というものだった。
 寿命が縮んだだとか肝が潰れたとか文句を言う伊吹に対してまーりゃんはそんなんだからチビ助なんだぞー、とからかっている。
 取っ組み合いにならないのは単純に伊吹が限界だからだろう。乗り物酔い的な意味で。

「誰かがいそうなんだけどな。ひょっとしたら先にいるのか……」
「俺達が先行してもいいんじゃないか」

272感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:38 ID:w7rQ/C/M0
 校舎の中では明かりが点いていることから、誰かがいるのかもしれないと予測はできるが、果たしてそれがリサ達のものなのかは分からない。
 俺達がいる場所も、明かりのあるところからはギリギリ死角になるような場所だ。
 誰かが出て行けば応じて出てくるのかもしれないが、安全が保障されているわけではない。
 完全に参加者間での殺し合いが途絶えたと確信できる理由はないのだ。

 行くにしても、のこのこと出て行くのだけは避ける。
 人を疑い続ける職業である俺の癖と言うべきものであるが、必要なことだと分かっている。
 疑うことは決して悪ではない。身を守るための最善の手段なんだから。
 渚は信じることで知ろうとしている。俺は疑うことで知る。方法は違えど、人間を知るということにおいては変わりない。
 ただ、そういう俺を、渚は知って受け入れてくれるのだろうか……

「いい加減行ってみてもいいかもな……リサも同じ立場だ。こっちを窺ってるのかもしれない」
「行くのか?」

 顎を上げてルーシーが反応する。頷くと、「じゃあ、携行武器がいるだろう」と拳銃を寄越した。
 形状からしてM1076だろう。ルーシーはどちらかと言えば俺の側に近い存在だ。
 もっとも、それは対外的な存在に対してであって、身内には少々甘いところがある。
 それはそれでいいと思っていた。人と人を繋げるきっかけでもあると言えるのだから。

「俺も行こう。……邪魔か?」
「あまり大人数だと困るけどな。国崎さんがいればいいか」

 単独行動で仕事することの多い俺だが、チームプレイも得意だ。伊達にエディと組んでいたわけじゃない。
 ただ、ひとつのグループをまとめるのは苦手だ。精々が三人までというところだろう。
 俺自身の疲労も考えれば二人が一番いい。見ていたルーシーに首を振ると、やれやれという風にまた車のシートに身を預けた。
 違うのは、膝の上にマシンガンを乗せていることだったが。

 国崎さんを選んだのは怪我の度合いから見てのことだ。一番傷が浅く、なおかつ男だ。見た感じタフそうでもあるし。
 まあそれに……まーりゃんや伊吹だと、絶対に話がスムーズに行かない。断言できる。

273感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:54:55 ID:w7rQ/C/M0
「むむっ! あたしを呼ぶ声が聞こえたような気がした!」

 考えた瞬間にまーりゃんが鋭敏に反応していたが、俺と国崎さんが揃って首を振ると「ありゃ」と首を傾げて、ぽりぽりと頭を掻いていた。
 なんて鋭い奴だ。まーりゃんにミステリの探偵役を任せたら、たちまち解決してくれるかも。
 伊吹は疲れたのか、バイクのシートでぐったりとしていた。大丈夫なんだろうか。

「行くか」
「なるべく慎重にな」
「言うまでもない」

 お互いに牽制し合いながら、俺達は学校へ向けて歩き出した。

     *     *     *

 存外に時間がかかってしまった、と思った。
 急激に曲がりくねった道が多かったのと視界の悪さのせいなんだけど。
 まさか激突の衝撃でライトが壊れてるなんて気付かなかった……
 星明かりに感謝したことは初めてかもしれないわね。

 もし雨が降り続いて空が雲に覆われたままだったら、もっと時間がかかっていたでしょうね。
 まあそれを抜きにしてもあのトンネルが一番時間がかかったでしょうけど。
 一寸先は闇、という日本語を思い出したわ。本当、何も見えないったらありゃしない。
 ガリガリと車を壁にこすりつけてしまったのは一生の不覚だわ。今度は暗闇でも運転できるように訓練しないと。

 意外とムキになっていることが可笑しかった。やっぱり、私は車が好きなのだろう。
 何故、と考えてみても理由に繋がる思い出が浮かばない。

 任務のために運転技術を習得する必要があった? 違う。
 対人関係の上で、上手な方がイニシアチブを取れると考えたから? 違う。
 広い道で車を最速で飛ばすことを楽しみに感じられるようになったのも、より速い車を好むようになったのも、
 全ては私自身の意思で、そのためにかけた時間も私が選択したことに他ならない。

274感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:55:11 ID:w7rQ/C/M0
 なんだ、と思った。任務遂行の歯車、復讐に徹するだけの機械かと思えば、実は新しい自分を見つけ出していたってわけね。
 気付かなかったし、気付こうともしなかっただけで、奥底にある私そのものが変わろうと努めていたのかもしれない。
 そう思うと今まで靄がかかって想像さえできなかった未来の自分がふっとその姿を見せたように思えた。
 想像することに関しては幼稚でしかない私は、
 レーシングドライバーになればいいかもしれないなんて馬鹿げたことを考えているみたいだけど。

 ……いや、きっとそれは私が軍人の道を歩まなかったときのIfなのでしょうね。
 復讐に身をやつさずとも、やさしさで絶望を乗り越えられるような、そんな人間だったなら。
 凡俗で、憎悪の炎を燃やして消費するだけでしかなった私が前を向けるようになったのには、
 相応の時間と出会いと別れを繰り返さなければならなかった。

 私にはまだ、思うままに任せて暮らすというようなことが出来そうになかった。
 不実を清算しきれていない。だから軍人を続ける必要がある。そう結論して。

「おっと、先客がいるみたいね」
「先客?」

 顔を真っ青にしたことみが言う。先ほどからの運転のせいだ。ちなみに、後ろの二人はまだすやすやと寝ている。
 いい寝つきね。別に責めているわけじゃないけれど、図太い神経だって思うわ。
 ……いや、張り詰めていたものが切れたから、か。
 私なんかは切れては繋いで、切れては繋いでいたからもう簡単なことじゃ切れなくなっちゃったけど。

「あそこ」

 思考を払って、ことみの質問に答える。学校へと歩いている二つの棒があった。間違いなく人影でしょうね。

「クラクション鳴らしたら?」
「危なくないかしら? 誰かに感づかれたら」
「今さらだと思うけど……」

275感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:55:27 ID:w7rQ/C/M0
 それは今の14人という人数のことを言っているのか、車という存在感のある乗り物に乗っていることを言っているのか。
 蒼白な顔をして溜息をつくことみの顔色は先程より悪くなっているように感じられた。
 ひょっとしたら、乗り物酔いの気があるのかもしれない。
 我慢しているのは偉い。言ってくれても良かったのにとも思うけど。

「そうかもしれないわね。一応、二人を起こして」

 首を振って促すと、ことみはシートベルトを外して後ろの席へと身を乗り出していた。
 その間に私は思い切りクラクションを鳴らし、前方の二人へと向かってアピールを開始した。
 今まで気付かれなかったのは単にライトが点いていなかったからなのかしら。
 音でようやく気付いた二人組は素早く拳銃を取り出し、いつでも構えられるようにしているようだった。

 一瞬迂闊だったか、という思いが過ぎりつつも、この状況ではそれも当然と冷静な軍人の頭が告げ、
 このまま速度を緩めて接触を図ることにする。ライトが点いていればもう二人組の正体は判別できていたのでしょうけど、
 生憎と濃すぎる暗闇の中ではまだ顔までは判別できなかった。

 暗視スコープなどという文明の利器を駆使してきたお陰で夜目が少々利かなくなっているようね。
 それとも、単に疲れているからなのかしら……
 眠らなくとも保つ体だとはいえ、限界というものはあった。

「ん……着いたん……?」

 眠そうな声に欠伸を混ぜた様子の瑠璃の声が届いた。緊張感の欠片もない、と思ったけど、
 「アホか、準備しろ」と慌てた浩之の声が続き、「すいません、寝てました」と言ったことで、チャラにしてやろう、と思った。
 瑠璃も言われて、自分の発言の迂闊さに気付いたようで「ご、ごめんなさい」と上ずった声で謝罪した。

「油断だけはしないようにね」

276感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:55:42 ID:w7rQ/C/M0
 釘だけを刺しつつ、私はようやく見えた二人組の顔にホッと一息ついた。
 宗一がいる。こちらにも気付いた宗一は目に見えるくらいに安心した表情になって挨拶するように手を振っていた。
 どうやら、お互いここまで無事に引っ張ってこれたことに安堵しているみたいね。
 私はともかく、宗一が牽引役までやっていたことは意外だったけど。
 あの子、キャプテンではあってもリーダーじゃないもの。

 車を降りると「久しぶりだな」という相変わらずの溌剌とした様子で、宗一が手を差し出した。
 挨拶代わりに手を捻ってやろうと、緩みかけた気を引き締める意味合いも兼ねて宗一に手を伸ばす。
 けど素早く捻られるはずだった宗一の手は私の手を弾き、代わりに私の腕を搦め取ろうと反対の手を伸ばしてきていた。

 同じことを考えていた。奇妙な嬉しさが溢れてくるのを感じながら、一歩引いてそれを躱す。
 軽くジャブを打ち込んでみるが、器用に捌かれ、ラッシュが止まったところにカウンターのキックが入れられる。
 私だってそう単純じゃない。足を取って投げてやろうと掴んだが、もう片方の足が蹴りかかっていた。
 舌打ちして掴んでいた方とは反対の手で蹴りを止める。
 その間に掴まれていた足をほどき、トントンとバランスを取るように二歩、下がった。

 私と宗一以外の人間は突如始まった格闘に唖然としている。
 もっと続けたかったが、いらぬ誤解を招きかねないので「もういいでしょ」と手をかざした。
 ふむ、と宗一も応じて構えを解く。「一泡吹かせてやろうと思ったのに」と悪びれもせず言う宗一に、私は不敵な笑みだけを返した。
 どうやらお互いの考えはそう変わっていないらしいということを理解して、私達は今度こそ普通の握手を交わした。

「お前ら、それが普通なのか」

 ようやくといった感じで宗一の連れが呆れたような声を出したが、別にいつもやってるわけじゃないのに。
 あ、そう言えば宗一との初体面でもこんなことやったっけ。

「ワケわかんねえ」
「うん」

 乱闘だと思ったらしく、武器を抱えて車から飛び出していた浩之と瑠璃に、私は肩を竦めるしかなかった。

277感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:00 ID:w7rQ/C/M0
     *     *     *

 まあ、こうして色々あったようななかったようなわけなんだが、とにかくおれ達は無事学校に着いたってことだ。
 ……道中、寝てたけどな。気が緩んでたのは認めざるを得ない。
 こんなんで瑠璃を守れるのかよ、と思ったが、寝て鋭気を養ったということにしておこう。

「ところで、宗一側はそれだけなの?」
「ああ、俺達が先行してただけだ。残りは別にいる」

 宗一というその人は一見俺と変わらないくらいの年に思える。だがあのリサさんと互角に戦っていたんだから実は凄い人なんだろう。
 リサさんが本気ではないのは分かっていたが、それは相手にしたって同じことだろうし。

「どこに?」
「ま、着いてくれば分かる」
「ふむ、相変わらずガードは固いわね」
「悪いね。習い性なんだ」

 仲間だと分かっているはずなのに、なかなか手の内を見せようとしない。
 習い性だと言っているから、そうポロポロ喋るということじゃないんだろう。
 リサさんもそれを試していたらしく、合格という風に頷いていた。
 おれだったら嬉しさの余りついつい喋っちゃうんだろうな。そんで怒られるんだろう。
 ……元々、おれに合流の喜びを分かち合える奴なんていなくなったようなもんだけど、な。

「浩之」

 ぼーっと二人を眺めていたおれに、瑠璃がぽんと肩を叩いてくる。

「荷物、下ろそ」

278感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:18 ID:w7rQ/C/M0
 優しく微笑んだ瑠璃には、感傷に浸りかけたおれを気遣ってくれるものがあった。
 ああ、俺は一人じゃない。そんな気持ちが込み上がり、底に沈んでいたはずの自分、
 かったりぃと言っていたころの自分が浮き上がってくるのを感じる。

 自分で手放して、二度と掴まないと決めていたはずのものだったのに。
 迷っているのだろうか。もう肩肘を張る必要はないと心のどこかで分かっているのだろうか。
 おれでは決められず、結論を出すことはできなかった。

 そうするだけの自信がない。結局のところ何だってしてこれず、
 みさきを振り切ったおれには自分の判断だけで自分を肯定なんてできなかった。
 甘え、弱さだと言えば、そうなのかもしれない。
 それでもおれは、自分ひとりだけでは決めることが出来ないものがあり、誰かに依存する術を知ってしまった。
 だから……おれは、誰かに肯定してもらいたいのだろう。

「手伝おう」

 横から現れた男が瑠璃の持っていた荷物を肩代わりしてくれた。確か、宗一って人の隣にいた人だ。
 切れ長の細い瞳、少し痩せた頬という顔つきにも関わらず、体はがっしりとしていて、屈強の一語を即座に連想させた。

「あ……すまねえ。えっと、名前は」
「後でいい。どうせ集合した後にでもするだろうからな。それに俺は生憎物覚えがいい方ではないんでね」

 はあ、と生返事すると、男は踵を返してさっさと歩いていってしまった。
 親切なのか無愛想なのか分からず、おれは瑠璃と顔を見合わせて苦笑した。

     *     *     *

 しばらく休んでいると、また体の傷が疼きだしたのか、全身に鈍い痛みがじわりと浸透してきていた。
 或いは一時でも安心する時間を貰ったからなのかもしれないけど、少し辛いのには変わりなく、あたしはより深く椅子に身を委ねた。
 長い溜息が漏れ、それを疲労と察してくれたのか、芳野さんが救急箱から鎮痛剤を渡してくれた。

279感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:33 ID:w7rQ/C/M0
 ありがとうと会釈を返しつつ、錠剤を飲み込む。水がないので緩やかにしか喉を通らなかったが、
 体が一生懸命奥へ運ぼうとしているところからは、あたしもまだまだ生きているのだなと実感する。
 生きていたい、という言葉に置き換えてもいい。こんなに辛いのに、苦しいのに、命は前にしか行こうとしない。

 きっと、あたしはゆめみさんに憧れている。
 正確にはゆめみさんの中にある人の意思、理想と言ってもいい。
 人のやさしさを詰め込んだ、在るべきひとのかたちに、あたしは惹かれている。
 だから妹の死を究明してみようと思ったし、今のあたしをどうにかしたいとも思った。

 ゆめみさん自身はただのプログラムを積んだロボットでしかないのかもしれない。
 それでも、プログラムを設計したのは人であり、根幹は人の善意を信じて作られたと思わせるようなものが随所にある。
 ひとの理想であるからこそ、あたしはそこを目指そうと思ったんだろう。
 現実は少しずつしか変わらず、一足飛びに実現できるものではないと分かっていても、いつかは同じ位置に辿り着けると信じて……

「皆さん、お茶をお持ちしました」

 と、そこで憧れの対象であるゆめみさんがトレイに湯飲みを数点乗せて帰ってきた。
 どこに行っていたのかと思えば、お茶を淹れてきてくれたというわけだ。
 なるほど流石は気の利くロボット……とか思ってたら、
 その後ろから「ワシが育てた」とでも言わんばかりに偉そうな表情を浮かべた高槻がやってきた。

 そう言えばメイド修行だとかなんだとか言っていたような気がする。
 メイド服を着せていないあたりは評価してやってもいいかもしれないけど。
 あたしはそこで自分の発想の貧困さに気付き、少し愕然とした。
 苦々しい気持ちを打ち消すために、飲んで落ち着こうと思い、お茶を受け取る。

「ありがと……って」

280感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:56:52 ID:w7rQ/C/M0
 湯飲みを口に運ぼうとしたあたしの手が緊急停止をかけた。芳野さんも湯飲みの中を見て固まっている。
 それもそうだ。お茶っ葉がこれ見よがしにぷかぷかと浮いていたのだ。
 あたしは即座に池にびっしりと広がるアオコを想像してしまい、げんなりとした気分になった。
 茶柱がどうとか、そういうレベルではなかった。適当もいいところに淹れられたお茶は、きっと濃すぎる味に違いなかった。
 なまじ家庭科のスキルがあるあたしとしては口を開かずにはいられない状況だった。

「これ、お茶の淹れ方が違うんだけど」
「え?」「何だって?」

 既にぐいぐいと中身を飲み干していた高槻がお茶っ葉を口元に張り付かせながら反応し、ゆめみさんも頭を傾げた。
 気にしていないところを見ると、間違ったお茶の淹れ方を指図したのはあいつであるらしいと推論したあたしは、ジロリと睨んでやる。

「お湯にそのままお茶の葉を突っ込んだでしょ」
「違うのか」
「あのね……」

 あまりの知識のなさに怒る気にもなれず、あたしは閉口するしかなかった。
 こいつが妙に知識の偏りがあることは前々から承知の事柄だったが、ここまで適当だとは思わない。
 ざっくばらんの一言では括れないフリーダムぶりに、どう返したものかと思っていると、芳野さんが助け舟を出してくれた。

「間違っちゃいない。だけどな、お茶の葉は濾してから淹れるもんだ。葉をそのまんま突っ込むのはどうかと思うぞ」
「マジでか」
「飲めなくはないがな……礼儀としての問題だ」

 言いたいことを見事に言ってくれた芳野さんにあたしはただ感服する思いだった。
 この人はいい意味で大人だと思う。さっきだって、気配を察して薬をくれたし。
 落ち着いているだけじゃない、色々なことで気を配れる芳野さんの姿に、わけもなく心が昂揚するのを感じた。

「あの、淹れたのはわたしです。至らなかったのはわたしにも非があると思います……申し訳ありませんでした」
「いいのよ。どうせ適当に教えられたんでしょ」

281感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:57:09 ID:w7rQ/C/M0
 いつものように過剰なくらいに詫びるゆめみさんに対して、あたしは苦笑しながら言う。
 今回ばかりは返す言葉もないらしい高槻はぐうの音も出ないという感じで、「悪かったな、世間知らずで」と珍しく非を認めていた。

「まあ世間知らずというよりは、単に知識不足なだけな気がするがな」
「うっせ。理系脳なんだよ」
「理系だろうがなんだろうが、簡単なお茶の淹れ方は常識の範疇だと思うが?」

 ぐっ、と声を詰まらせる高槻に、あたしは声を押し殺して笑った。
 芳野さんも悪意があるわけではないのだろうけど、本能的に突っ込みを入れずにはいられないのだろう。

「常識に囚われてなくて悪かったな」
「ああ。早く現実に戻って来い」

 憎まれ口を叩き合う二人は、きっとここじゃなければ悪友と呼べる間柄なのかもしれない。
 不意に朋也と陽平の姿が思い出され、感傷が心に広がってゆく。
 ああ、あたしはもっと、あんな風景を見ていたかったんだな……

「あ、あの、お二人とも、ケンカは……」
「大丈夫よ、分かっててやってるから。ケンカにはならない」
「そうでしょうか……?」
「そうよ。あたしには分かるから。それより、今度からはあたしが教えてあげるから、その時はあたしに言ってね」
「……はあ。分かりました」

 ゆめみさんの目にはケンカにしか映っていないのであろう二人の言葉の応酬を目にしながら、
 あたしはこいつらも好きなんだな、と認識が新たになるのを感じていた。

「わーったよ! 責任取って見回りに行って来る! 覚えてろよ芳野!」

282感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:57:30 ID:w7rQ/C/M0
 逃げの口上か、それともまだ疲れているあたし達を察したのか、高槻は唐突にそう言うとずかずかと出て行った。
 まあきっと前者なんだろうけど。
 それを見たゆめみさんが「あ、待ってください!」と慌ててついてゆく。そうしてここにはあたしと芳野さんだけが残される。

 高槻がいなくなったことで、今まで抑えていた笑いの衝動を抑えきれなくなり、「バカよねぇ、本当」と言いながらあたしは笑った。
 釣られるようにして芳野さんも「近年まれに見るバカだな」と言いつつ微笑していた。
 お茶の淹れ方ひとつでここまで盛り上がれるあたし達もバカだった。

     *     *     *

 藤林の笑った顔を見るのは、これが初めてかもしれなかった。
 今まではずっと緊張を巡らせていて、触れれば壊れてしまうガラス細工のようにしか見えなかったのに。
 傷だらけの体。全身あちこちに包帯を巻かれ、歩くことさえままならない彼女の身体は、闊達な言動とは裏腹にひどく華奢に思える。
 それだけではない、傷ついた心、もう二度と取り返せなくなった日常に打ちのめされた心であるはずの藤林は、
 しかし今は、どこにでもいる少女のようで、俺と同じ位置にいる少女のものとは考えられなかった。

 一体何が彼女の心境に変化をもたらしたのかは分からない。ただ言えることは、この集団に身を置くことで変質したものらしいということだ。
 俺にしてもそれは同じで、もっと自由に物事を考えてもいいと思えるようになった頭しかり、
 変質を受け入れて身を委ねられるようになったある種の余裕しかりだった。
 公子さん……俺はきっと、あなたと出会った頃の俺に戻っているのかもしれませんね。

 何も知らず、現在を全力で駆け抜けることしか考えていなかった過去の俺が思い出される。
 どこまでも真っ直ぐで、挫折や絶望なんて視野にも無く、ただ希望だけを信じられた昔。
 大人として最低限の分別を身につけたとはいえ、茫漠とした未来に期待を寄せ、
 自らそこへ歩んでゆくという意思を持っているという点では、俺は昔と何ら変わりのない人間だった。
 だからだろうか、先程から笑っていたことと合わせて、俺は珍しく雑談の口を開いていた。

「どうする? お茶はまだ大量に残ってるんだが」

 藤林は俺の意外な言葉に少し目を丸くしたようだったが、すぐに生来の会話好きな気質を刺激されたのか、すぐに応じてくれた。

283感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:57:48 ID:w7rQ/C/M0
「まあ、残すのも悪いですし、飲んじゃいましょう」
「そうだな、冷める前に一気に……お、茶柱だ」
「えっ、本当に?」

 これだけお茶っ葉があればひとつくらいはあってもよさそうなもので、俺の湯飲みにもぷかぷかと控えめに浮く一本の茶柱があった。
 藤林が興味を持ったのか、体を俺に寄せて覗き込んできた。
 不意に女の香り、有り体に言ってしまえば普段彼女が使っているだろうシャンプーの匂いが土臭さを突き破って俺の鼻を刺激する。
 あまりにも久しぶりすぎる感覚に、俺は思わず石になってしまった唾を飲み干していた。
 言っちゃ悪いが、公子さんとは健全すぎる付き合いしかしてこなかったからな……

 いやそもそも結婚前提の前の付き合いという段階で、しかもある事情のお陰で恋愛を楽しむ暇なんてなかったから、
 実質俺は恋愛に初心なのと同然なのかもしれなかった。
 いや、別に公子さんに恨みを抱いてるわけじゃないんですよ。ただもう少し色々やっておきたかったなというだけで。
 俺の言い訳に、仕方ないなぁと苦笑を浮かべた公子さんが、じゃあ思うようにやってみて、と一歩身を引いたのが感じられた。

「あーホントだ。あたし、一つもないんですけど……」

 スッと差し出された湯飲みには、確かに茶柱はなかった。言ってしまえば確率でしかないのだが、それほど低そうな確率でもないだけに、
 俺は「運が悪いな」、と率直な感想を口に出してしまっていた。

「何それ、勝者の余裕ですか?」
「あ、いや、すまん」

 口を尖らせた藤林に咄嗟に謝罪すると、今度は藤林が慌てたような顔になる。

「いや、そんな真っ正直に謝られても」
「今のは俺の口が悪かった」
「あたしだって、別に悪気があったわけじゃ……」

284感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:58:07 ID:w7rQ/C/M0
 そこで藤林が破顔した。互いに謝りあうということが可笑しかったらしく、「なんで茶柱一本で謝りあってるんだろ」と続けた彼女は、
 笑うことで体に痛みが走るのも構わず腹を抱えていた。
 こうなるとほしのゆめみが間違えたお茶の淹れ方をしたのも寧ろ正しかったように思え、
 そう考えられるのだから人間現金なものだと思ってしまう。ただ、心地良いことだけは疑いようがなかった。

「……ん?」

 ふと、視界の隅に人影らしきものが横切った。正確には職員室から見える、さらにその先の廊下の窓から見えたという方が正しい。
 高槻かと思ったが、外に出るとは思えず、俺は湯飲みを机に置き、藤林に耳打ちする。

「外に誰かいるぞ。……侵入者かもしれない」

 敢えて侵入者という不穏当な言葉を使ったせいなのかもしれなかったが、
 藤林の顔が女の子のものから殺し合いを潜り抜けてきた人間の顔になり、身構えるのが分かった。

「ことみ達かもしれませんけど」
「確かに。だが、そうじゃない可能性もある」
「……電話してみます? リダイヤルを使えば」

 とりあえず自分が見てこよう、と提案しかけたのを制して藤林が言った。電話するという発想は頭になく、
 虚を突かれる思いで俺は藤林を見ていた。なるほど、そういう手もあるのか。

「頼む。俺は一応警戒しておく」
「任せてください」

 素直に自分の提案が受け入れられたことが嬉しかったらしく、藤林はほんの少し誇らしげな表情になって電話を取った。
 しばらくして、電話が繋がったのか、受話器越しに藤林と誰かが会話を始めた。

「あ、もしもし? 今どこ?」
「え? もう来てる? ああ、ここが見えてるんだ」
「……うん。分かった。それじゃあ迎えをあげる。あたし? 大丈夫、動くと痛いだけだから。死にゃしないわよ」

285感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:58:30 ID:w7rQ/C/M0
 藤林の声だけ聞いてると、どこにでもある、友達同士での会話のようにしか思えなかった。
 まあ、迎えというのは多分俺のことなんだろう。高槻とほしのゆめみは出払ってるしな。
 あいつらは気付かなかったんだろうか。……タイミングの問題だと思うことにしよう。

「ということで芳野さん、お願いできますか」
「どこに行けばいい?」
「とりあえず、職員室廊下の窓を開けてもらえば」
「……何故窓を?」
「さぁ? 正面から堂々と入るのはある意味危険だとかなんだとか」
「面倒くさいだけなんじゃないのか」
「……ああ。モノは言い様ですね」

 そういう解釈もできるらしいと気付いた藤林は苦笑し、まあいいじゃないですか、と付け加えた。
 確かにトラブルがあるよりはずっといい。そもそも、規格外なら高槻とほしのゆめみで慣れている。
 なら俺も規格外なのか、と考えて、それでもいいかもしれないと思う自分が可笑しかった。
 どうやら俺も毒されてしまっているらしいと結論して、強くなりすぎないように藤林の肩を叩いた。

「行って来る。……また、無駄話にでも付き合ってくれ」

 言わなくてもいいはずの言葉を付け加えてしまったのは、吹っ切った部分があるからなのかもしれなかった。
 想像外の言葉だったのだろう、面食らった顔になった藤林はしかしすぐに「いいですよ」とだけ言ってくれた。
 短すぎるその声は、俺でも照れることなくすんなりと受け入れることが出来た。

     *     *     *

「うん、それじゃまた」

 子供っぽい髪飾りの女が携帯を仕舞うのを確認した俺達は、先導されるようにしてついていった。
 最初はひどい怪我だと思っていたが、案外平気で行動しているので、大した怪我ではないのかもしれない。
 荷物持ちは俺と那須、さっき少しだけ会話したやつを中心に、後は女性陣が少しずつだ。

286感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:58:46 ID:w7rQ/C/M0
 それにしてもこんだけ大量の荷物を何に使う気なのだろうか。
 説明もない以上、俺には想像ができるはずもなく、黙って後をついていくしかないのが現状だった。
 こんなことならあいつと自己紹介でもしておくべきだったかと考えたが、今さら後の祭りだ。
 それに、俺は話題を作って話し続けられるだけの技量もないしな……精々聞き役に回れるくらいだ。

 舞の誘いを断ってから、どうも煮え切らない何かが渦巻いている。
 あの状況ではそうするのが妥当だと思えたし、正しいとも頭では理解していたのだが、舞のどこか残念そうな顔が頭から離れない。
 普段から無表情なのだから、気のせいだと思うことだって出来たのだが、俺の直感はそうは思ってくれていないらしかった。
 なら、俺はどうすれば良かったのか。仮に受け入れていたところで冷やかされ、無言になるのは目に見えていた。

 ……いや、なんで無言にならなきゃいけないんだ?
 当たり前のようにそう思っていたことに俺自身わけが分からず、あの時の舞の顔をもう一度思い返してみる。
 俺に確認を取ってきたときの、いつも通りの真っ直ぐな視線。

 ……本当に、いつも通りだったか?
 記憶とは曖昧なもので、そのいつも通りさえ思い出せず、俺は何をやってるんだという思いだけが募った。
 逆に、どうしてここまで舞のことを考えているのかと自答する。
 既に知り合いが悉く死に絶えてしまったからだろうか。霧島姉妹を亡くし、晴子と観鈴を失い、美凪とみちるの死を知ったからか?

 それならそれで考えるべきことはいくらでもあった。彼女らの最期はどうだったのか。
 幸福に逝けたのだろうか。何かを伝えて生き抜くことができたのだろうか。
 ここにいる連中にでも、尋ねてみてもよいはずだったのに、そうしようと考えるだけの頭はなかった。
 どうでもいい、とは思っていない。ただそれ以上に今のことで頭が一杯だった。
 その『今』の象徴が舞であり、それについて思索を巡らせている俺なのかもしれなかった。

 ……『今』か。
 俺の目標はと言えば、人を笑わせるために生きると言ったはいいものの、肝心の相棒である人形がいないということだった。
 そのせいで俺は荷物運びだとかをすることが多くなり、結果的に会話から遠ざかっているのも頷けた。
 つまりは人形劇ができないと俺は何もできないということなのだろうか。

287感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:04 ID:w7rQ/C/M0
 人を笑わせることも……

 そう考える俺の頭にはやはり舞の姿があって、彼女もまた笑っているのだった。
 ……そういえば、俺は舞の笑った顔って、見た事がないような。
 想像はしてみたものの、今まで以上に靄がかかっていて、表情の細部まで想像することができていなかった。
 泣き笑い、微笑、苦笑という、別の感情が入り混じった笑いなら見てきたが、喜び一色の笑いは見た事がなく、俺はひとつの納得を得ていた。
 そうか。俺は、舞の本当に笑った顔が見てみたいのかもしれない……

 全ての疑問が解消される答えを見つけた瞬間、同時に舞に惹かれているのかもしれないとも自覚し、俺も男か、という思いが実を結んだ。
 決心を固めてから、最初に人形劇を見せたから、というのも理由のひとつではあるのかもしれない。
 徐々に寄せられる信頼に応えたいという気持ちもあるのだろう。
 一緒に死地を潜り抜けてきたという連帯感だってあるはずだった。
 惹かれているという表現はそれらが一緒くたになったものであり、川澄舞という女の子に対する総括なのだろうと思える。
 好き、だとかそういうものには少し遠いのかもしれない。
 それでも今まで共に生きてきたという経験を通して、もっと繋がりを深めたいという思いは事実だった。

「こっちだ」

 ふと聞き覚えのある声が俺の耳に止まり、奇妙な懐かしさが込み上げる。

「久しぶりだな」
「そっちこそ、元気で何よりだ」

 声を返してやると、全員がこちらに寄ってくる気配があった。
 子供っぽい髪飾りの女が挨拶するように手を上げると、半日ぶりに会った芳野が会釈で応じた。

「とりあえず、荷物からだな。こっちに渡してくれ」

 芳野の指示に即応して、一人ずつが順番に荷物を渡してゆく。中には重たい荷物もあったので、それは俺と那須で協力して持ち上げる。

288感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:22 ID:w7rQ/C/M0
「さっき話してたけど、知り合いかよ?」
「多少話した仲だ」

 那須はふうん、と頷き、荷物の大半が校舎の中に入ったのを確認すると、金髪の女に向き直る。

「外で待ってる奴らを連れてくる。先に入ってていいぞ」

 他の連中が頷いて三々五々窓から侵入してゆくのを尻目に、俺と那須は仲間の待っているところまで歩き出す。
 舞と古河は遅れているようだったが、もう着いているだろうか。

「……ひょっとして、ここには今の生き残り全員が集まってるのかな」

 行きすがら、那須がぽつりと漏らした声に「ひょっとしなくても、全員集まってるだろう」と返す。

「どうして? まだ不確定組はいる」
「……最後の一人は、以前会ったことがあるんだ。名簿では高槻、って奴だったか」

 会ったのが一日目のことだから、もう随分と前になる。あの時は俺と一緒に罠にハマって往生してたっけな。
 散々間抜け面を晒していたが、一応悪い奴ではなさそうだった……気がする。
 だが、単に小悪党ならとっくの昔に死んでいてもおかしくない。よほどの狡猾ぶりとも思えなかったし、
 恐らくはあの調子のまんま殺し合いに乗ることもなく生き延びてきたんだろう。
 そういやポテトが随分懐いているようだったが、あいつは今どうしてるんだろうか。

「なるほど。国崎さんと話してた人も含めて、これで完全に敵はいなくなったってわけだ」
「どうだかな……油断はしない方がいいんじゃないのか」

 ここに集まった連中を疑うわけではないが、簡潔に過ぎる主催組の動きが気になる。
 もう殺し合いを続ける気がない連中ばかりだと知ったら何をするか分かったものではない。
 そういう俺の意識を敏感に感じ取ったのか、那須は「それもそうか」と短く返事した。

289感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:41 ID:w7rQ/C/M0
 まだ正体不明もいいところの殺し合いの管理者。
 俺達の目的は脱出で、出会わないに越したことはないのだが、どうしても障害になる可能性は高かった。
 しばらく歩いて、正門前まで辿り着いたとき、俺達は一組の男女が睨み合っているのを目撃した。
 一人はまーりゃん。そしてもう一人は……今しがた話題にしていた男だった。

     *     *     *

 旅の恥はかき捨て、というが、これからも行動を共にしなきゃならん俺にとっては恥は投げ捨てるもの、というわけにはいかなくなった。
 そうだ旅に行こう。イスラエルの若者は兵役につく前の一年間旅に出るというじゃありませんか。
 ところがどっこい俺が旅に出るためにはまず島を脱出せねばならんわけで。
 結局のところ俺は名誉挽回という言葉に縋らねばならず、せめてもの見栄にとニヒルにフッと溜息をつくしかなかった。

「あの、高槻さん」

 遠慮がちにちょこちょことカルガモの子供みたいについてきていたゆめみさんがこれまた遠慮がちに声をかけてくる。
 そういや、なんでこいつもついてくるんだろう?
 恥をかいたのはお茶の誤った淹れ方を教えた俺であり、別に俺みたくすごすごと退散する必要はなかったのに。

「申し訳ありません、わたしが知識不足なばかりに」
「いいんだよ、元はと言えば俺がアホだったせいだ」

 普段ならささくれたっているはずの気持ちは不思議と穏やかで、自然にゆめみをフォローする言葉が出ていた。
 ゆめみが俺に毒されているのと同様、俺もゆめみの能天気に毒されているのかもしれなかった。
 ったく、なんで俺は変なのにばかり好かれるんだろうな。
 ロボットに地球外毛玉生命体に……

「ぴこー」

290感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 03:59:59 ID:w7rQ/C/M0
 そんな俺の目の前に噂をすればの地球外毛玉生命体がやってきた。
 俺はいつものようにポテトを肩に乗せると「お喋りは終わったのか」と尋ねていた。
 言葉が理解できるはずもないのに、と思いながらも。

「ぴっこり」

 ……まあ、古代の生命体と地球外の生命体同士気があったのだろう。
 そう思うことにする。

「ゆめみもいつまでも離れてないで、こっちに来い」
「あ、はい」

 少し躊躇するような素振りを見せたが、とことこと意外に可愛らしい動作で俺の横に並ぶ。
 いつもの陣形の完成だった。この一人と一匹と一体になるのも久しぶりな気がする。
 なんだかんだでこいつらとの付き合いも長くなったもんだ。ポテトはここに来て以来の相棒だし、ゆめみも寺以来の付き合いだ。
 よく映画や小説では人間と地球外生命体やロボットとは折りが悪くなって争ってたりしてるが、
 現実は案外そうでもないのかもしれないって思えてくるわな。

 少なくとも、種族からして違うこの一人と一匹と一体がトリオ漫才を繰り広げている時点で、俺はそう思う。
 縁は異なもの、とはよく言ったもんだ。
 しかし俺の人間受けが悪いのはどうしたもんかねえ。しょうがない部分はあるんだが、そろそろ素敵な出会いのひとつでも欲しいもんだ。
 てめーには無理だ天パ、という風な視線がポテトから向けられたような気がした。

「ぴ、ぴこぴこっ」

 ギクリと身を硬直させ、ポテトが必死に頭を振る。

「ほう、久々にいい度胸しているようだな」

 ここまで来てあんまりひどいことをするのも躊躇われたので、俺はソフトなお仕置きを実行してやることにする。
 ポテトをむんずと掴むと、ボーリングの容量でポテトを廊下の彼方へと転がしてやった。

291感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:00:14 ID:w7rQ/C/M0
「ぴこ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜………………」

 妙なエコーを響かせながら転がってゆくポテトに「決まったな」と言ってみる。

「あの……」
「ロスではよくあることだ」
「はぁ、そうなのですか」

 きっとゆめみの中では新しい知識として『ロスの住民は毛玉犬でボーリングするのが日常』という事項が追加されているのだろう。
 疑うことを知らないのはロボットの特性であり、欠点と同時に人間が決して持ち得ない美点でもあった。
 人が嘘をつけない種族なのだとしたら、きっとロボットは生まれなかったに違いない。

 そんな感想を抱きながら、ふと窓の外に目を移したときだった。
 思わず絶句してしまう光景があった。
 髪をサイドでまとめた変わったポニーテール、小学生と言っても差し支えない体型。
 忘れるわけもない、憎いあんちくしょうが俺の目の前を横切っていきやがった。
 事実を飲み込んだ頭はすぐに白熱し、俺は武器を装備するのも忘れて外へと続くドアを押し開けていた。

「高槻さん!?」

 ゆめみの叫ぶ声が聞こえたが、気の利いた冗談を返せる余裕はなかった。
 あいつら……河野貴明、観月マナ、久寿川ささらに対して義理立てしているわけじゃない。
 正義感で行動できるほど人ができていないのは自分でも先刻承知だ。
 ただ、そいつらを犠牲にしてまで生き延びてのうのうとしている根性が許せないだけだ。
 守りたいと言っておきながら責任を取るそぶりも見せず我が物顔でのさばっているあの女からは、俺の匂いがするんだよ。

 ……ああ。なんだ、つまり、自己嫌悪か。これも結局は自分のためでしかない。
 俺でも汚点というものを、清算したいのかもしれなかった。
 次第に腹の底が冷えてゆくのを感じながら、俺の存在に気付きもしていない連中に対して大口を切った。

292感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:00:31 ID:w7rQ/C/M0
「見つけたぞ……まーりゃんとやら!」

 そういや、こいつと遭遇したのもここだったんだよな。は、奇特な縁というやつのようで。
 いきなり現れた俺に対する驚愕と、出し抜けに自分の名前を呼ばれたことに戸惑いを隠せない様子でまーりゃんが振り向いたが、
 次第にその顔が平静なものへと変わってゆくのが分かった。来るべきときが来たとでも言うように。
 俺はそんなまーりゃんがますます憎らしく感じ、冷えが全身へと伝播してゆくのを自覚していた。

「まだ生きてたとはな。どうだ、今の気分は」

 河野と久寿川のことを言ったつもりだった。引き合いに出す自分に一瞬嫌気が差したが、憎らしく思う気持ちが先立っていた。
 どんな取り繕いの言葉にも対応できるように、俺は罵倒する言葉を引き出しからいくつも用意する。

「……分かってる。あたしをやっつけに来たんでしょ? 
 そりゃ、あたしがあんたの相棒だったさーりゃんとか、たかりゃんとかを間接的に殺したも同然だもんな。
 許せないのは分かってる。どうしてくれてもいいよ。いつか、こういう時が来るのは分かってたから、さ」
「な……」

 開いた口が塞がらない。あれだけ殺しに回っていた人間が今は自分の非を認め、罪を受け入れようとしている。
 あまりに変心ぶりに準備していたはずの言葉が抜け落ち、変わってそんなことをしようとしていた自分に対する羞恥が沸き上がり、
 俺は何をしているんだという冷めた思考と、ならどうしてあのときに心変わりしなかったんだという疑問とがない交ぜとなって、
 わけの分からない感情が渦を巻き始めたのが分かった。

 俺と同様、責任を取ろうとしている女に、自己嫌悪をぶつける大義名分を失ったからなのかもしれなかった。
 惑わされるな、という俺の意地、落とし前をつけようとする男としての心理が声を上げる一方、
 正体不明の別の感情はやめろと言っているように思え、俺は交差する短い感覚の中で、うるさいと声を大にした。
 感情だけでなく、体の自由も制御できなくなった俺は走るやいなや、まーりゃんの胸倉を掴みあげていた。

「てめぇ、そんなことで落とし前がつけられると思ってんのか……! 何をしてきたか分かってモノを言ってるのか、ああ!?」

293感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:00:46 ID:w7rQ/C/M0
 宙に浮いたまーりゃんは苦悶の表情を浮かべる一方、制御できなくなった俺を真正面から見据えるようにして、
 もう隠す必要もお為ごかしの言葉もいらないというように搾り出す。

「分かってる……何人も殺してきたよ。最初からこうしていれば死ぬ必要もない人たちばかりだった。
 取り返しのつかないことをしたってことも、あたしがこうしてることであの人たちの死が無駄になってしまったのも分かってる」
「だったらお前は何をしてるんだよ! こうしてのほほんとしやがって、何様のつもりだっ!」

 言葉を重ねるたびに俺自身言えることなのかと疑問が突き上げたが、面子を立たせなければならない、
 決着をつけねばならないと頑なになっている俺の意識は岩のように硬くなって動かず、
 資格はないはずだと分かっているのに止めることが出来ずにいた。
 自分の正しさを証明することでしか生き様を見せられないという男という生き物が、ひどく無様に見えた。

「だから、生きたいって思った。逃げちゃダメなんだって、誤魔化してちゃダメなんだって分かったから、
 正直に事実を全部受け止めて、どんな償いでもする。一生奉仕しろというなら、そうするよ。
 でも、あたしは絶対に死ねない。死にたくないんだ」

 逃げない、誤魔化さないという言葉が突き刺さり、そこにいるのが敵ではなく、俺と同じ種類の人間に変わったことを告げ、
 決定的な敗北感が炸裂した。もうこの女には、男のちっぽけな論理なんて通じるわけがない。
 なら、俺のこの自己嫌悪はどこに行き渡らせればいい? クソったれた俺の残りカスはどうすればいいんだ?

 既に清算を終えてしまったまーりゃんと、未だに清算できず、抱えてしまったままの俺。
 正しさを証明できなくなって、俺はどうすればいいんだ?
 そんな俺が辿り着いた結論は、暴力を振るうという情けない男にピッタリの帰結だった。

 論理で勝てないなら、力で勝てばいいという単純でクソ喰らえな思考。
 今の俺が吐き気がするほど嫌いであるはずのそれが、今は最善の手段に思えてしまった。
 手を振り上げ、拳に力を込めた瞬間、がしっと掴むものがあった。

「ダメです!」

294感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:05 ID:w7rQ/C/M0
 パンク寸前の俺の頭を弾けさせたのはゆめみの腕だった。
 その瞬間にはまーりゃん以外見えなかった視界が明瞭になり、俺達の近くにはゆめみやまーりゃんだけではなく、見知らぬ連中も何人かいた。
 恐らくはまーりゃんの仲間なのだろうと理解した瞬間、ふっと体の力が抜けた。

 それは俺が郁乃の遺体に対して「利用した」と告白してもなお着いて行くと言ってくれたゆめみの姿に重なったからなのかもしれなかった。
 やり直して、自分の悪さを愚直なまでに認めて、それでも付き従ってくれる仲間がいる。
 そんな奴を一方的に殴れる理由がどこにある?
 がっくりと膝を折る俺の硬くなった拳をほどいてくれるゆめみの指が、あまりにもやさしく思えて、俺は泣きたくなった。

「ぴこ」

 最後にポテトが俺の肩を叩いた。もういい。そう言ってくれているように思え、俺はここでようやく強張った顔が崩れてゆくのが分かった。
 ほんの数分前まであったはずの憎らしい思いが霧散し、あれほどぶつけたがっていた自己嫌悪もなりを潜めてくれたようだった。
 まだ清算できないというのが、ある意味では俺らしいのかもしれない。
 苦笑が浮かび、俺は少ししわがれた声で「すまなかった」と口にしていた。
 見れば向こうもいっぱいいっぱいだったらしいまーりゃんも仲間に支えられていて、「殴ってもいいよ」と言っていた。

「あたしだって、けじめをつけたいし、さ」

 あんたもそうだろ、と告げる瞳が俺に向けられ、その通りだ、と正直に頷いておいた。
 殴ったところで俺は何も清算できないし、付き合わされるまーりゃんだって痛いだけだろう。
 それでもつけなければならないけじめというものは存在する。まーりゃんが分かって言っていることは理解できた。
 これは俺の約束ではなく、殴ってくれと言っていた河野の約束だった。
 幾分かほとぼりの冷めた顔になったのを自覚して、俺はまだ握っているゆめみに「大丈夫だ」と伝えた。

「はい。信じます」

 微笑を浮かべたゆめみに今の心の機微を見抜かれたような気がして少し悔しく感じてしまったのか、
 あえてゆめみの助けも借りずに立ち上がった。まーりゃんも仲間と一言二言交し合って、俺の前に立った。

295感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:21 ID:w7rQ/C/M0
「悪いが、思いっきりいかせてもらう」
「どうぞどうぞ。……あーでも、歯は折らないで欲しいかな? 乙女の命だし?」

 ふざけろ、と笑って、俺はまーりゃんの横っ面を思いっきり殴ったさ。
 少しだけ清々としたのは、中々面白い具合の表情をしてノックダウンしたまーりゃんが可笑しかったからなのかもしれなかった。

     *     *     *

 鋭い男の声を聞いた私は、すぐに伊吹に声をかけて現場へと急行した。無論、武器は持って。
 各々で周囲を警戒しよう、ということにしたのが仇になったかと舌打ちする。
 これ以上私の前で死なせてたまるか。うーへいや美凪の姿がまーりゃんに重なり、私の中の強い意思を呼び覚ます。

 現場は近く、まーりゃんはすぐに見つかった。
 見れば、まーりゃんの胸倉を男の腕が掴んでおり、その後ろではメイドロボらしいのと犬っぽいのが黙って見守っていた。
 なぜ止めない、と心中に憤りつつまずは伊吹と一緒に二人を止めようと走り出そうとすると、「待ってください」と静止の声がかかった。
 後ろに控えていたメイドロボのものだった。既に目前に回りこんでいた彼女は、遮るように両手を広げる。

 男は血が上っているのか、今もまーりゃんに激しい言葉を浴びせており、今にも傷つけかねない勢いだった。
 こちらの存在にすら気付いていない。なぜ邪魔をすると目を細めて凄んでみたが、メイドロボは一歩も引かない様子だった。

「いま少しだけ待っていただけませんか。万が一になりそうなら、わたしが止めます。ですが、今止めると仰るのならこちらも退きません」
「どういうことか知ってるんですか」

 伊吹が前に出て問い質す。メイドロボはちらりと周囲を確認しつつ「あの人の……高槻さんの、敵です」と言った。

「話に聞いただけですが、わたしの、引いては高槻さんの仲間だった方が、あの女の方に殺されました」

 私と伊吹が絶句する。だとしたら、こいつらにとってまーりゃんは仇敵ということか?
 復讐という言葉が頭を掠め、なら尚更止めるべきだという思いが持ち上がり、私は一歩踏み出そうとした。

「やめろ。ここは俺達が口出ししていいところじゃない」

296感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:37 ID:w7rQ/C/M0
 その声と共に私の肩が掴まれた。振り向くと、そこにはいつの間に戻ってきたのか那須と国崎の姿があった。
 振りほどこうとしてみたが、那須の腕力は強く、私が解けるものではなかった。「やめるんだ」と国崎の声が重ねられる。

「人にはな、どうしてもけじめをつけなきゃならない時があるんだ。まーりゃんは、今がその時なんだ」
「だが……!」
「水瀬名雪とけじめをつけたお前になら、分かるだろ?」

 その名前を持ち出した那須に体の動きが止まり、抵抗する力が抜けてゆくのが分かった。
 よく見れば、まーりゃんは何ら抵抗することなく、男の言葉を受け止め続けている。決して、目を逸らすことなく。
 名雪と決着をつけ、渚と一緒に自分の気持ちを再確認したときの情景がそこに重なり、
 私はとんでもないことをしようとしていたのではないかという恐れが浮かび上がった。

 そこで水を差されてしまえば、私だって自分を許せなくなってしまう――
 落ち着きを取り戻した私の心を感じ取ったのか、那須がゆっくりと私を掴んでいた腕を解く。

「あんた、高槻の連れだな」

 国崎がメイドロボに問うと、彼女は首肯した。

「知り合いですか?」
「そんなところだ」

 伊吹の質問に国崎は頷いた。
 後からやってきたはずの那須と国崎が妙に物分りがよかったのは国崎が男……高槻を知っていたかららしい。
 既にメイドロボは二人の様子をじっと窺っていて、一瞬たりとも見逃さないという風情だった。

297感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:01:55 ID:w7rQ/C/M0
 もう私にできることはないという確信が浮かび、けじめという言葉の中身を反芻するしかなかった。
 少しはまーりゃんのことについては分かっていたつもりだったが、全然そうではなかった。
 彼女について思い出せるのは騒いでいる姿ばかりで、何をしてきたかについては殆ど知らない。
 隠していた、とは思わなかった。本当に隠しているなら国崎や那須だって知らなかっただろう。
 まーりゃんはただ、自分の思うように振る舞っていただけなんだ。

 だから自分自身のことは自分だけで決着をつけるべく、最低限以外の人には喋らなかった。
 人とはそういうものなのかもしれない、と私は奇妙な納得を得ていた。
 私にしろ、渚にしろ、美凪にしろ、本当に大切なことに終止符を打つためには自分で考え、自分の意思のみで答えを導き出そうとする。
 そうしなければ誰かに甘えることを覚え、ずるずると引き摺ってゆくのが分かっているから……

 人の在り様がそうだとすれば、私は『みんな』の中に入ってゆけたということなのだろうか。
 言葉だけの『るー』の誇りでもない、形だけの思想や目的に動かされるということでもない、意思を持ったひとつの命として。
 沈思していた私の意識を揺り戻したのは、メイドロボの叫んだ声だった。
 殴りかかろうとしていたらしい高槻の腕を、しっかりと押さえているメイドロボの姿があった。
 私を止めた那須と、全く同じように。

 どうやらそれで高槻は私達の姿に気付いたらしく、がっくりと膝を折って項垂れていた。
 まーりゃんもそれまで気張っていた糸が切れたのか、ふらりとよろめいたところを伊吹と国崎が支えていた。
 へへへ、としわがれた声を出すまーりゃんの顔は、少しだけ辛酸を乗り越えた表情になっていたが、
 まだ終わったと安堵している顔ではなかった。

 私が渚に名前で呼ぶと確約したように、まーりゃんもこのまま締めるつもりはないのだろうと予感した。
 数分後、まーりゃんは高槻のパンチを受けて盛大にノックダウンしていた。
 妙に晴れやかな様子だったのが、かえって可笑しかった。

     *     *     *

 いたた。あんちくしょー、思いっきり殴りおって。
 じんじんするほっぺたをさすりつつ、あたし達は学校の職員室へと向かっていましたとさ。
 それにしても殺されるかと思ったね。胸が縮んじゃうかと思ったぞ。もう縮む胸なんてないけどね! あっはっは。

298感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:02:14 ID:w7rQ/C/M0
「笑えるかーっ!」

 セルフ突っ込みを大声で叫んでしまったがために周囲の人達がぎょっとしてあたしを向く。
 特に高槻っちはジロリと睨む目を寄越しおったが、すぐに目を逸らした。気に入らないんだろーね。
 そりゃ、さーりゃんやたかりゃんがあれほど大事だって言ってたのに、今こうしてるんじゃね。
 あたしが夢で見たことを言ったって納得できることじゃないだろうし。

 でも、別にいいんだ。あいつはあたしを殺さなかった。生きてる。だからそれでいい。
 後はちょっとずつ進んでけばいいんだ。生きてれば、きっとまだやりようがあるはずだよ、ね?

 これまで逃げっぱなしで誤魔化しの連続でしかなかったあたしの人生。
 自分の居場所は学校にしかないんだって諦めてて、醜くしがみつくことしか出来なかったあたしの人生。
 でも皮肉なことに、間違ったことをして、『あたしの学校』から追い出される羽目になって、初めて色々なことを考えることができた。
 あたしを殺さなかった高槻っちがいるように、あたしが生きることにただ黙って頷いてくれた往人ちんやまいまいがいるように、
 世界は厳しくても、案外見捨てはしないってこと。
 その気さえあれば、白紙には戻せなくてもページの続きを埋めることはできるんだってこと……

 ただ、あたしはまだまだ一人でしかない。往人ちんに寄り添うまいまいしかり、バカップルななぎそーいちしかり。
 やさしさを分けてもらったように、やさしさを返してあげられる相手がいない。まだ、伝えるどころか見つけることだってできてない。
 多分、あたしは怖いんだろうな。一度間違ったからそんな資格はないのかもってどっかで思ってて、
 昔みたいにバカやって、とりあえず取り繕うくらいのことしかやれていない。
 のほほんとして、何様のつもりだ、って感じなんだよね。まじでまじで。
 臆病だな、あたしはさ……

「おい、本当に大丈夫なのか」

 むつかしい顔でもしてたんだろね。隣からるーの字が心配そうに声をかけてくれましたよ。
 どーやら一番後ろの方を歩いているみたいで。前では往人ちんを中心に高槻っちが軽口を叩いてたり、
 宗一っつぁんが横から口出してたり、チビ助が色々聞いてたりしてたね。

299感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:02:37 ID:w7rQ/C/M0
 そーいやチビ助にはお兄さんがいるそうで。ここにいるみたいだし、安否が気になってるんだろうな。
 きれーなメイドロボさんは黙ってそいつらの話を聞いてる。このコが高槻っちを止めたんだよね。
 今から思えばうっそまじ、って感じの可愛いメイドロボさんだ。いいなー、あたしもこれくらいスタイルよけりゃーなー。
 まあおっぱいはそれほど大きくもないし? 別に嫉妬しないけど。これでおっぱいが大きかったら噛み付いてたね。
 相手がメイドロボだって話は聞かない、聞こえない、聞き流す!

「モーマンタイ!」
「ならいいが」
「あ、突っ込みナシっすか」
「それだけ軽口が叩けるなら大丈夫だろう? それでこそ、お前だよ」
「むむ」

 励まされた。それに、取り繕っているだけのはずなのに、それでもいいと認めてくれてるやさしさが切ない。
 どうしてみんな、こんなに自然にやさしくなれるんだろ。あたしは、一番身近な人にだってやさしくなれなかったのに……

「ところで、結局渚と川澄は見なかったが」
「そういやそうだね。……まーいいんじゃない? まいまいがいりゃ何とかなるっしょ」
「それは分かってるが……場所、分かるだろうか?」

 誰かが残った方がいいんじゃないか、と言下に告げるるーの字だけど、あいつらだって迷子になるような方向音痴でもなし。
 るーの字は案外心配性なんだな。口調はぶっきらぼうだけどさ。

「あれだよ、ちょっと往人ちんと会わせたくないじゃんよ」
「あー……そうだな。どうせ会わせるならゆっくりと話させてやる機会を設けた方がいいだろうな」
「おっ、分かってるじゃないの」
「馬鹿にするな。これでも私だって、恋のひとつやふたつは……いや、ひとつはある」

 なぬ? あまりの驚愕の事実にあたしは声にならない声でなんだってー!
 あ、あたしはこのトウヘンボク朴念仁みたいな外人に負けていたというのかっ! クソックソッ美人さんめ!
 これでおっぱいが大きかったらちゅーちゅーしていたぞっ!

300感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:02:52 ID:w7rQ/C/M0
「もっとも、失恋だけどな」

 そう続けたるーの字の背中を、あたしはぽんぽんと叩いてやった。
 苦笑するのがあまりに女らしかった。いい女だ。誰だこんないい子を振ったのは。出て来い成敗してやろうぞ。
 はぁ、それにしてもなんと砂糖の多い時代であろうか。こんな殺伐としたところで恋愛なんて。

 お決まりの吊橋効果っていやあそーなんだろーけど、それにしたってあちきは寂しくなるわけですよ。
 なんつーか、あたしは半端者の偏屈者だったかんね。学校にしか居場所を見出せなかった女だし。
 学校じゃあ権力振りかざして色々やれたから。今にして思えば、楽しくしようと思う反面、
 自分だけの世界にして人が従ってきたのを楽しんでた優越感ってのも確かにあった。
 人より上に立ってる。あたしがいなくちゃ成り立たない。誰かに必要とされたいって、そんな幻想を欲望に変えて……
 今でも、そうなんだろうけど。

「まーそれはそれとしてだ。あちきとしてはドキッ! ゆき×まいラヴラヴ大作戦☆のひとつでも立案したいところなのさ」
「お前のネーミングセンスはともかくとしてだ。中途半端なままでこの先まで進めたくない、というのでは私も同じだ」

 お節介だろうけどな、と続けたるーの字には、恋愛先達者としての余裕があるような気がした。
 なんとなく悔しい気分を味わいながら、あたしたちはどうすれば二人っきりで話し続けられる機会ができるか話し合った。
 のうのうとこんな事にうつつをぬかしてられるあたしは、やっぱ馬鹿なのかもしれない。
 でも、俯いてばかりよりは……ほんの少しだけマシな気がした。

     *     *     *

 伊吹風子です。ここ最近まーりゃんさんに弄られっぱなしで風子の体は汚されっぱなしです。
 もうお嫁に行けないと嘆いていたところに吉報が飛び込んできました。

 なんと、祐介さんがここにいるそうです。国崎さんからの情報です。
 おねぇちゃんの婚約者のひとです。風子のお見舞いに何度も来てくれてたりしてました。
 当時風子はシャイだったのであまり話しませんでしたが、おねぇちゃんが選んだ人です。悪い人じゃないはずです。
 今の風子にとってはたった一人の家族です。だから、いっぱいいっぱい話し合って、今の風子を余すところなく伝えるつもりです。

301感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:03:09 ID:w7rQ/C/M0
 それで約束するんです。
 全部が終わったら、二人でおねぇちゃんのお墓参りに行きましょう、って。
 実は皆さんには内緒の話なのですが、風子にはこれから先の人生設計図があるのです!

 まずここから出たら一生懸命勉強します。
 大学に入ります。
 びゅーてふるなキャンパスライフの後に教職員の免許を取ります。
 学校の先生になります。
 もちろん教科は、美術です。

 志望としては小学校か中学校がいいです。
 理由は、まあそうですね、高校生に風子の大人の魅力にメロメロになってイケナイ道を歩まぬようにさせるためです。
 きっと将来はぼんきゅっぼんのナイスバディになっているでしょうし。
 なかなか完璧な人生設計だとは思いませんか?

 教科は美術といっても絵画とかではなく彫刻専門という手もありますし、
 このリアルなヒトデを彫る技術を習得済みの風子なら案外美術大学にすんなりと入れるかもしれませんし。
 もちろん、教職員になるために猛烈な勉強をする必要がありますが。

 ですがこれはおねぇちゃんも通った道! 姉にできて風子にできないはずはありません!
 その気さえあればいくらだって勉強できるだけの時間はありますし、祐介さんだって応援してくれるでしょう。
 しばらくは祐介さんに御厄介になりそうですが、出世払いということで許してもらいましょう。

 おっと。そうこうしているうちに職員室までついてしまったようです。
 国崎さん曰くもうここには渚さんと川澄さん以外の人全員が集まってるらしいです。
 すごいです、大集合ですね。
 三人寄れば文殊の知恵という言葉がありますから、今は大体ダイアモンドくらいの輝きの知恵になっていることでしょう。

302感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:03:25 ID:w7rQ/C/M0
 風子も人生設計モードから真面目モードに切り替えましょう。
 あ、いえ、いつだって風子は本気の真面目ですけど。

     *     *     *

「ことみっ! なにやってんのよ、この天然っ!」
「きょ、杏ちゃんだって似たような状態なの」

 私の姿を確認するやいなや、杏ちゃんは目を見開き、怒りと心配の両方を含んだまま抱きついてきた。
 抱きしめる力が強くって結構痛かったけど、それ以上に私の身を案じてくれてることが心地良く、また申し訳ない気持ちにもなる。
 当然かも。久々に会ったと思ったら、大怪我しての再会なんだから。

「全く、もう……あんたはいつもいつも心配させて……無茶しないでよね」
「生きてるから、問題ないの」
「あんたは……」

 呆れたように苦笑して、杏ちゃんは私の頭をぽんぽんと叩いてくれた。
 生きて、それなりに体が動かせるなら何だってできる。
 杏ちゃんもそれを理解してくれているのか、必要以上に私のことを心配することもなかった。

 向こうも向こうで、私と離れていた間にまた少し変わったなにかがあるのだと思う。
 どこか楚々とした芳野さんの顔もそうだし、凛々しさを増した杏ちゃんだってそう。
 私だって自分の進むべき道を見出し、やるべきことではなくやりたいことを見つけ、そのために一歩を踏み出せる程度の勇気を手に入れた。
 払った代償は大きく、私の中にも大きな傷を作ってしまったけど、言い換えれば一生忘れられないものを刻んだとも解釈することができる。

 曖昧で、何に支えてもらっているのか、何を支えているのかも分からない宙ぶらりんよりはその方がいい。
 聖先生だって、自分の人生は腐ってるって言ってたけど、本当はやりたいことだっていっぱいあることを分かってたはず。
 資格を失ったっていってたけど、そんなことはないって言ってもらいたかっただけなんだと思う。

303感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:03:44 ID:w7rQ/C/M0
 だから、私が引き継ぐ。霧島聖の弟子として。
 私の『やりたいこと』には、聖先生の『やりたかったこと』も含まれているんだから。
 無理なんてしてないの。だから笑って、ね? 先生……

「うん、私は大丈夫。聖先生から、パワーを貰ったから」
「……そうなんだ」

 深くは何も言わず、杏ちゃんはただ私を肯定してくれた。
 この懐の広さ。ある意味では無責任さと表裏一体になったやさしさがあるから、人は依存せずに人と付き合ってゆけるのだと思う。

「一ノ瀬」

 会話が終わったのを見計らったようにして芳野さんが呼びかける。「はいな」と応じて、私は一旦杏ちゃんの元を離れる。
 一瞥すると、杏ちゃんは笑って私を見送ると、暇そうにしていた浩之くんと瑠璃ちゃんへと寄っていった。
 闊達な杏ちゃんのこと、きっと挨拶と自己紹介を済ませておくつもりなのだろう。

 私が来るのに合わせてリサさんも合流する。私達の間にある匂いを敏感に感じ取ったのかもしれない。
 リサさんに聞かれて支障のある話ではないし、そろそろ聞かせても構わないはず。カードをいつまでも取っておいても仕方がない。
 芳野さんもちらりと横目でリサさんを見たが、私が無言でいると意図を理解したのか、そのまま話を始めた。

「こちら側は指定されたものは全部揃えた。そちらは?」
「こっちも全部集めたの。……これで下ごしらえはできたかな」
「何の料理かしら?」
「とびっきりのスパイスを利かせた、激辛大爆発料理」

 鋭いリサさんのこと、それだけで私達の計画を悟ったようで、ニヤと口元を歪める。
 私も笑い返すと、「材料はいまどこにあるの?」と重ねた。

「体育倉庫に保管してある。……この分だと、全員集めた後に話したほうがいいかもしれんな」
「少なくとも、宗一は混ぜて欲しいところね」
「高槻……俺の仲間だが、あいつもな。一応科学者だし、頭も切れる。言動に少々問題があるが」
「マッドサイエンティスト?」
「当たらずも遠からずだ。役に立つのは間違いないところなんだが」

304感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:04:02 ID:w7rQ/C/M0
 嘆息を含ませながら言う芳野さん。そんな人がいるんだ……
 半ば冗談で言ったつもりなのに。マッドドクターだった先生といい、世の中には不思議がいっぱいなの。

「ことみも是非参加して欲しい、というか、人材不足のこの状況じゃ参加してもらわなきゃ困るけど……
 いいかしら? 友達とかと積もる話もあるだろうけど」
「うん。まあ、ちゃちゃっと済ませればいいだけだし」

 本当は杏ちゃんとかといっぱいお話したかったけど、今はそれより大事なことがある。
 杏ちゃんだって、私が仕事を投げ出すのをよしとしないだろうし。それに時間なら、まだたくさんあるから。

「頼もしい言葉ね」
「リーダーシップは大人の方々にお任せなの」
「頼むぞリーダー」

 会って間もないはずのリサさんにさらりと押し付ける芳野さん。意外と図々しい。
 予想外の無茶振りだったのか、リサさんは「あなた、いい根性ね」とにこやかな……聖先生の浮かべる笑いの形にしていた。
 怯むことのない芳野さんは「世の中は男女平等だ。なら実力のある奴に任せるまでだ」と軽やかに受け流す。
 ……本当に図々しい。こんな人だったっけ?

 都合のいいことを、と呆れ果てていたリサさんだったが、結局断ることをしなかった。
 ひょっとしたら最初からその気で、芳野さんで遊びたかっただけなのかもしれないと、
 車の中で交わした会話を思い返して、私はどっちもどっちだと苦笑した。
 ふと耳をすますと、扉の向こう側から声が聞こえてくる。どうやら外で待機していた人たちを連れて戻ってきたらしい。
 さて、ここにどれだけの人数が揃うのかな。

     *     *     *

305感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:04:20 ID:w7rQ/C/M0
「ということで、藤林杏です、よろしく」

 藤林、という名字の響きに、ウチは心臓が凍りつきそうになった。多分、顔も硬直してたと思う。
 すぐに反応できへんかったウチに代わって、浩之が先に名乗りをあげてくれたのが嬉しかった。

「で、こっちが姫百合瑠璃だ」

 言った瞬間に、ちらりと浩之が目配せする。せやけど、ウチは何も応えられへんかった。
 きっとその時には、ウチ自身も言わなきゃあかんいうことは直感的に理解してたんやと思う。
 あなたの妹を殺したのはウチです、って。

 目の前の藤林さん……杏さんは、真っ直ぐで、少し大人びた微笑を浮かべてる。
 きっと『この中の誰かが自分の妹を殺した』て疑ってるんやないんやと当たり前のように信じることができて、やからこそ言い出せへんかった。
 あまりにも真摯でありすぎる目の前の人に対して、ウチは後ろめたいものが多すぎたから……
 敵討ち、無念を晴らす。そんな綺麗な言葉で語れるほど殺人は正当化できるもんやないし、復讐や恨みという言葉で塗り潰すのともまた違う。
 ただ、どうしようもなくって、どうしようもなかった。
 それをはっきりと伝えられる自信がなくって、今はただ事実しか告げることしか出来ひんような気がして、口が開かんかった。

「いや、あっちのゴツイのとは大違いだな。あっちは自己紹介は後回しにしやがってさ」
「ああ……そうなんだ。なんかおっかないって思ってたけど」
「怖いっつーより、合理的って感じの人だったな。言い方がストレート過ぎてちょっとだけムッと来たけどさ」
「あはは。その点あたしは合格ってところかな……いつつ」

 笑った拍子にどこか傷が痛んだのか、杏さんが笑いに苦痛を滲ませてよろける。
 ウチが咄嗟に支えると「ありがと」という素直な言葉が耳に入って、またウチの心を揺らした。

「……ひどい怪我。大丈夫なん?」
「まあ生きてるわよ。ひどいって言うなら、ことみなんてもっとひどいわよ」

306感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:04:36 ID:w7rQ/C/M0
 杏さんが一ノ瀬さんを指差す。確かに、全身を包帯で巻きながら大人組と何事かを話している一ノ瀬さんの方が一見ひどく見える。
 せやけど一ノ瀬さん独特のあののんびりした口調やと、そうは思えへんのやけどなあ……不思議や。

「でもあの子、なんかケロッとしてるし」
「あ、そりゃ同感ね。何かネジがずれてるというか」

 随分と遠慮のない言い方だったが、杏さんと一ノ瀬さんの会話を聞く限りやとそのくらいの関係なんやって改めて思うことが出来た。
 ウチなんてさんちゃん以外にはこれといった付き合いもあらへんしなあ。あの頃はさんちゃんだけおればええって思とったし。
 ……そんなことを思えるくらいには、ウチも成長したんやなって思ってええんかな。

 そうやないのかもしれへんか。今は浩之がいて、浩之がいない人生なんて考えられへんし。
 極論で言えば、『浩之だけおればええ』って奥底では思てるのかもしれへんな。

 せやけどそうだとして、ここからツケを支払ったるって気持ちも確かにあるんや。
 ウチに限らず、人はひとつの気持ちだけ抱えて生きとるわけやない。
 恨む気持ちも許す気持ちも、憎む気持ちも好きになる気持ちも、時と状況によっていくらでも持ち合わせるし、変わる。
 免罪符にするわけやないけど、今のウチだって浩之だけが今のウチの全てやない。
 どれだけの割合を占めてたって、100%やない。

 そうでも思わんかったら、ウチはきっと、ウチを許せなくなる。さんちゃんやイルファとの誓いを破ってまう。
 せやからこうする。精一杯やってこれかもしれへんけど、な。
 少しずつ強張った気持ちが薄れてきて、自然と頬を緩めることが出来た。

「ま、あれでも頭良さそうやしな……人は見かけによらへんなぁ」
「頭良いってか……全国模試で一番、外国の大学からもお呼びがかかってるらしいわよ。物理学のなんたら研究とかで」
「「……は?」」

 ウチと浩之が同時に声を上げ、一ノ瀬さんの方をバッと振り向いた。そして同時に言うた。

「嘘や」「嘘だ」
「天才となんたらは紙一重って言うけどねえ」

307感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:04:53 ID:w7rQ/C/M0
 さりげなく三人ともひどいことを言うてるような気ぃしたけど、本物の天才を目にすれば口も軽くなってまうのは、しゃーないことやった。
 それくらいビックリ仰天や。世界って不公平なんやな。
 しばらくウチらは、公式天才の一ノ瀬さんの話題で盛り上がった。多分聞こえてはなかった思う。
 ここにたくさんの人が集まったのは、驚くくらいすぐのことやった。

     *     *     *

 私は、これからどうしよう。
 通い慣れた夜の校舎。渚の手をとって、二人で廊下を進んでいる。
 職員室から光が見えたので、今はそこを目指している。遠くもないから、すぐ着くはず。
 私にとって考えるべきことは……何だろう。

 私には戦うしか能がない。でなければ、待ち続けることしかできない。
 いつだって受け身でいることしかできない。
 でも、どうして……? 私は、なんで、待ち続けていたんだろう。

 ずっと待って、夜の校舎を歩き続けた日々、白いティーカップのような月光を浴びながら眺めた校舎の外を、私は覚えている。
 でも、始まりが分からない。なぜ、どうして、私は何を、誰を待っているのか、思い出せない。
 すっぽりと何かが抜け落ちてる。それは、何……?

「あの、舞さんっ」

 ぼんやりとしていたからか、渚の声に気付くまでに数秒の時間をかけてしまっていた。
 もし戦いなら、取り返しのつきかねないミスだったかもしれない。
 反省を覚えながら振り向いた私の顔は、ちょっと固かったのだろうか。渚は苦笑していて、言葉を続けた。

「ええと、きっと、話し合いがあると思うんです。宗一さんとか、他の人とかで」
「うん」
「だから、わたし達はですね、ちょっと休憩もあると思うんです」
「うん」
「ええっと……」

308感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:05:16 ID:w7rQ/C/M0
 渚が口ごもる。頬のあたりがほんのりと熟れた果物みたいになってて、美味しそうだ、とか思ってしまった。
 そういえば美味しいもの食べてない……

「み、皆で過ごしませんか? いえ別にその、遊ぼうとかサボろうとかそういうんじゃなくて」

 渚の言葉の内容はあやふやで、具体的にどうしたいのかよく分からなかったが、渚もよく分かってないんだろう。
 きっとのんびりしたいんだと勝手に納得して、私はこくりと頷いた。そういう時間、嫌いじゃない。
 渚のはにかんだ顔がいい表情で、こうして良かったと思える。

 勿体無いって言う人もいるかもしれないけど、私は何もしていない時間というのが一番安心できる。
 遊ぶのも悪くはないけど、それ以上に誰かと一緒にいられるというのが、直に感じられるから。
 でもそれは二人以上ありきだということにも気付いて、私は案外孤独が苦手らしいとも気付き、心の中で苦笑した。

 人との距離の取り方も知らないくせに、いないと安心できない。
 このジレンマは、果たして生来持っていたものなんだろうか。
 それとも、私が知らないどこか。すっぽりと抜け落ちた期間で形作られたものが原因だったりするのかもしれない。
 自分でも知らない自分いることが恐ろしいと感じる部分もある一方、それを知りたいと強く願う自分も生まれている。
 或いはそうしなければ往人とこれ以上距離を詰められないと本能が分かっているからなのかも。

 どうであるにしても、私は以前に比べて色々なことを指向するようになっていることは真実だった。
 待っていても、望むようにはならない。そう理解できているからなのだろう。
 私はようやく人並みの欲望を持つようになって、それを埋め合わせるだけの努力を怠ってきたから苦しんでいる。

『そういうときは、話してくれればいいんですよ』

309感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:05:28 ID:w7rQ/C/M0
 佐祐理の声が虚空から聞こえたような気がして、私はきょろきょろと周りを見回した。
 渚がどうしたんですかと尋ねてくる。いや、と首を振って、そういう選択肢もあったんだ、と意外な気持ちで佐祐理の言葉を受けた。
 誰かといられればいい。
 それは私の一つの望みでもあるけど――望みは、一つじゃない。

 だって私も、人並みに欲望を持っているのだから。
 渚と一緒に、辿り着いた職員室の扉を開ける。実に何分の遅刻だろうか。
 開けた先では、実に十三もの面々が雁首揃えて私達を待っていた。

 思えば。

 待たせるのは初めてだったかもしれない、と。

 そんなことを考えた。

310感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:05:47 ID:w7rQ/C/M0
【時間:3日目午前03時00分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、投げナイフ1本、鉈、H&K SMGⅡ(30/30)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(6/6)とその予備弾丸9発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。鎌石村小学校に移動し、脱出の計画を練る】 

311感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:06:05 ID:w7rQ/C/M0
古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】
支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:とりあえず渚にくっついていく】 

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×4:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【所持品3:何種類かの薬、ベレッタM92(10/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:車で鎌石村の学校に移動。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

312感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:06:19 ID:w7rQ/C/M0
姫百合瑠璃
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。瑠璃とずっと生きる】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、ポリタンクの中に入った灯油】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【持ち物3:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー9割、全施設の番号登録済み)】
【持ち物4:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)】
【目的:生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

ネゴシエイター高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、コルトガバメント(装弾数:7/7)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、P−90(50/50)、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:全身に怪我。主催者を直々にブッ潰す】

313感情の摩天楼/へっぽこ楽団:2009/09/23(水) 04:06:39 ID:w7rQ/C/M0
ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(5/5、予備弾2発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾30/30)、予備マガジン×2、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:休憩中。思うように生きてみる】

藤林杏
【所持品1:ロケット花火たくさん、携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)】

ウォプタル
【状態:待機中】

ポテト
【状態:光二個】


その他:宗一たちの乗ってきた車・バイクは裏手の駐車場に、リサたちの乗ってきた車は表に止めてあります。

→B-10

314インターセプト2:2009/09/25(金) 19:19:16 ID:D27maBM60
「……っ、きゃああああ!!!!!!」

上がった甲高い悲鳴は、恐らく広瀬真希のものだろう。
しかしそれも、すぐ銃声によってかき消されてしまう。
誰よりも反応が遅かった相沢祐一は、この騒音で今の異常にやっと気づいた。
はっとなった祐一の嗅覚を、火薬の嫌な臭いが満たしていく。
それは花火を遊んだ直後の様子を彷彿させるが、勿論そんな暢気な現場であるはずがないことはさすがの祐一もすぐに理解できた。

祐一は保健室の中でも奥まった場所である、少し埃臭いベッドに腰掛けている。
ベッドの内側を隠すように立て付けられたカーテンは開いているものの、やはり視界を狭めている感は否めない。
中々に広い保健室、争いは入り口付近で行われているらしく、その様子を祐一が正確に読み取ることはこの場所だと難しそうだった。

「うわっ?!」

身を乗り出そうと腰をあげたタイミングで、祐一は側面から強い打撃を受けた。
祐一を押し出そうとする力は、思いのほか強い。
突き飛ばされたような形で、祐一は受身も取れぬまま座っていたベッドの上から、転がるように落とされる。
肩口から床に放り出された衝撃は祐一の背中にも容赦なく襲い掛かり、その鈍痛は彼の負った腹部の傷にも走り抜けた。
臓腑を鷲掴みされたような圧迫感は想像以上で、祐一はちかちかする視界から逃げるように目を瞑ると静かに激痛と戦おうとする。

自然と伸ばしてしまった患部は傷が開いている様子もなく、恐らく異常はないだろう。
ただじくじくとした違和感だけは拭えず、その気持ち悪さに祐一は吐き気を覚えていた。
思わず身じろぐ祐一の手に、暖かくも柔らかな感触が伝わる。
それが何なのか確かめようともせず、祐一はその熱をまるで焦がれるかのように、ごく自然と強い力で掴んでいた。

「っ!」

ふにゃふにゃと気持ちの良いそれに触れているだけで、祐一の心はどんどんと静まっていく。
思いがけない心地良さ、その感覚に酔うような形で祐一は痛みに歪んでいた瞳をもとろんとさせてしまう。
この正体は、一体何なのだろう。
そっと開いた祐一の目に広がったのは、鮮やかな赤だった。

315インターセプト2:2009/09/25(金) 19:19:55 ID:D27maBM60
「こう、さか……?」

見覚えのあるピンクのセーラー服が、今祐一の目の前に存在する。
祐一が掴んでいたのは、そのセーラー服を着用していた人物の二の腕に当たる部位だった。
そこで祐一は、自分を庇うように覆いかぶさっていた人物がいたことにやっと気づく。

「馬鹿、ぼーっとしてたら死ぬわよ!」

祐一を見下ろすような体勢のまま、向坂環が叱咤する。
彼女の表情は厳しかった。
事態の大きさをそこまで認知していない祐一は、その環の様子にまず呆気にとられてしまう。

「それと。腕、力抜いて。痛いから」

四つん這いになっている環は祐一の顔の横に手を置き、そこで自身の体重を支えている。
彼女の二の腕にしっかりと自身の指が食い込んでいたことに気づくと、祐一はそっとその戒めを解いた。

その間も誰かがベッドの向こうで争っているとしか思えない、不穏な物音は断続的に続いている。
人の声もする。あれは誰の声だろうか、祐一は上手く捕らえることができなかった。
音声は、祐一が発せられた言語の意味を噛み砕く前に、光の速度で彼の右耳から左耳へと抜けていってしまう。
勿論それは錯覚だ。
しかし実際、祐一の処理能力が追いついていないのが現状である。

祐一の頭には、まだ様々な混乱が渦巻いたままであった。
読めない現在の状況、それに加え先ほど環から聞いた現実に対するショック。
藤林杏が、神尾美鈴が。柊勝平が。
感覚的にはさっきまで同じ時を過ごしていたはずの仲間に、何があったのか。
祐一にはそれが、全く分からない。分かることができていない。

316インターセプト2:2009/09/25(金) 19:20:29 ID:D27maBM60
二手に別れることになり、杏と勝平に手を振り一端離れたこと。
腹部をカッターナイフで刺され、ボロボロになった少女に観鈴を連れ去られてしまったこと。
薄れる意識の中、再会した勝平と話したこと。

結果を知ってしまったから故の、後悔。
精神を侵す闇は祐一の気力を削ぎ、彼の思考回路を鈍くさせていた。

「ちょっと。相沢君!」

環がまた叫ぶけれど、祐一の視線は虚ろなままだ。
環の声が正しく伝わっているのか、それすらも怪しいものがある。
苛立たしげに小さく舌を打つと、環は姿勢を崩しながらも祐一の右肩を掴み、再び声を荒げ力強い言葉を放つ。

「しっかりしなさい! 藤林さん達の二の舞を起こしたいの?!」
「?!!」

ビクンと。
大きく体を震わせた祐一が、ゆっくりとした動作で環に恐る恐ると視線を合わせる。
祐一の揺れる瞳を射抜くよう、環はしっかりと彼を睨み付けていた。
ただでさえ鋭い目の環には、拍車がかかった迫力がかかっていただろう。
そうして環の意志はしっかりとした主張となり、祐一の脳髄を駆け抜けていく。
彼の混乱も、じわじわと収まっていた。
自分が取り乱していたことをここに来てやっと自覚した祐一は、自分が作ったロスタイムを一人恥じる。

「悪い……俺、こんな時に……」
「御託はいいわ。まずは、ここを切り抜けるわよ」

先に体を起こした環に手を差し出され、祐一も慌てて起き上がる。
と同時、横になっていた体勢では全く確認できなかった光景が、祐一の視界に広がった。
唖然となる。
至近距離で行われていた争いは、祐一の予測を裏切る勢いがあった。

317インターセプト2:2009/09/25(金) 19:20:52 ID:D27maBM60


     ※   ※   ※


「……っ、きゃああああ!!!!!!」

続けざまに放たれた銃弾は、扉に最も近かった真希達二人を狙っていた。

「真希さん!」

真希の隣に寄り添っていた遠野美凪が、抱きつくような形で真希にタックルをかける。
二人して床に倒れ、そのまま扉とは逆方向へと転がっていく様を一ノ瀬ことみは冷静に見ていた。

「そのまま窓から逃げろ!」

二人に向かって霧島聖が叫ぶと同時に、乱入者である一人の少年が保健室の中に躍り出る。
その手に握られた黒光りする凶器は、保健室を照らしている蛍光灯の光を反射しながら、恐ろしい程の存在感を主張していた。
窓を開け逃走を図ろうとする真希と美凪を狙おうとする少年だが、ふと何かに気づいたように視線を逸らすと、そのまま視点を固定する。

「やあ。さっきは世話になったね」
「……」
「どうやら、僕の弾は誰にも当たらなかったみたいらしい。勿体無い、無駄弾を使っちゃったよ」

彼の目線の先には、相変わらずぽーっとはしているものの、しっかりと自身への支給品である十徳ナイフを握ったことみの姿がある。
にこにこと笑みを絶やさない少年の表情は、躊躇なく引き金を引くことができる彼の性分とはどこか遠い印象を受けるものがあった。
少年の静かな残虐性に、ことみが困ったように眉を寄せる。

318インターセプト2:2009/09/25(金) 19:21:10 ID:D27maBM60
一方、聖は少年の放ったその言葉で、彼が先程ことみが話していた怪しい相手だと察知する。
ことみの勘は当たったということだ。
一見人のよさそうな容姿をしているにも関わらず、こんなにも大胆なことを仕出かす少年の度胸に、聖は部の悪さを実感するしかなかった。
そもそも飛び道具を所持している以上、少年の方が優勢なことに変わりないのだ。

ちらりと。
目だけを動かし、聖はこっそり外に続く窓の様子を確認した。
どうやら真希と美凪は、無事に脱出を果たしたらしい。
血の跡なども見当たらなかったため、多分二人は大きな怪我を負ってないはずだ。
もし少年がこうしてことみに気づかなかったならば、彼は逃げようとする真希と美凪を集中的に狙っただろう。
その場合彼女達二人が大事に至らない可能性というのも、限りなく低くなってしまう。

照準をことみに固定させたままであるとはいえ、少年が発砲する気配がないということは、聖達にとっても幸いなことだった。
今在るこのロスタイムは、聖に与えられた反撃に出るチャンスである。
視線を戻し少年の様子を窺うとする聖の瞳には、まるで捜し求めていた獲物見つけられたと言ったような溢れる歓喜が眩しく映っている。
聖はそれに、おぞましさが隠せなかった。

やろうと思えば、今この場で彼はことみの命を奪えるはずである。
しかし少年は、そうしない。
ことみの動きを封じ、楽しそうに笑っている。
そこには一種の、弄ぼうとするような色すら垣間見えるようだった。

これは、少年からの完全な宣戦布告なのかもしれない。
少年の心に火をつけたのはことみだけれども、当の本人はその事実など知る由もないだろう。
聖もだ。
ただ、聖だって黙ってこのまま狩られる気はない。毛頭ない。
だから彼女は、少年にとって蚊帳の外であろう立ち位置にいるにも関わらず、ずけずけと彼の敷居を跨いで行こうとする。

「君か。ことみ君がパソコンルームで会った少年というのは」

319インターセプト2:2009/09/25(金) 19:21:39 ID:D27maBM60
一つ大きく深呼吸をし、、そう言って聖は少年とことみの間にゆっくりと割って入って行った。

「そういうあなたは、その前に彼女と一緒にいた人だよね」
「……見ていたのか」

まぁね、と鼻で笑う少年に対し、聖の脳裏を虫唾が素早く走り抜けていく。

「目的は何だ。私達の殲滅か?」
「勿論それもあるよ。でも僕は、彼女に興味があるんだ」
「……?」

聖の後ろ、少年に指を差されたことみが軽く首を傾げる。
彼の様子を見ていれば、ことみのことを気にかけているというのは一目瞭然だろう。
それでも自覚が生まれていないのか、ことみの様子は相変わらずであった。

「ひらがなみっつでことみちゃん、だっけ。彼女みたいなタイプ、ここに来て初めて見たからびっくりしたよ」
「何が言いたい」
「こうして僕が乗り込んできても、飄々として悲鳴も上げないし。どこにでもいる、ただの学生だと思ったら大間違いだったみたい」
「……」

関心するように言葉を紡ぐ少年は、やはり笑顔を湛えたままである。
敵意を剥き出しにし、視線で刺し殺そうとする聖のそれをいなしながら、ぽつりと少年は呟いた。

「でもね、思い出したんだ。君、ブラックリストに載ってるよ」
「何?」
「?」

ブラックリスト。
分かりやすい単語ではあるものの、しかしこの場では何を指しての言葉なのか、聖にもことみにも伝わっていない。
醸し出されている微妙な空気を理解しているのかしていないのか、少年はそれを無視したまま解答を口にした。

320インターセプト2:2009/09/25(金) 19:21:55 ID:D27maBM60
「下手な動きしたら、殺されるかもねってこと。それこそ、首輪でも何でも使われて」

少年のストレートな言葉に、場が凍る。
絶句。リアクションを取ることもできなければ答えを返すこともできず、聖はぽかんと口を開けた。
さすがのことみもぱちくりと数回の瞬きを繰り返し、その驚きをそこはかとなく表面に出している。

「ほんとはこういうの、言っちゃいけないんだろうけどさ。惜しいんだよ、君が」

さすがに後で怒られるだろうけどね。
嘲笑を交える少年の言い回しは、至って軽い。
何気ないその様子こそが不自然であるにも関わらず、さも当然といった少年の態度の不気味さに聖は辟易した。

「悪いが……私もことみ君も、君の言ったことが理解できていないのだが。説明してもらおうか」
「時間の無駄じゃない? 説明しても、分からないよ。きっと」
「ことみ君を狙っているのは誰だ、答えろ! ……貴様、何者だ。ただの参加者でじゃないな」
「君に伝える義理はないかな」

生まれた隙を帳消し、再び攻撃的な姿勢を取った聖の声色には、さらなる警戒が含まれている。
しかしそんな怒気を孕んだ聖の声にも、少年は余裕を崩そうとしない。
いや、彼はここに来ても聖をまず見ていなかった。
目の前を聖を透過させじっとことみだけを見つめている少年の作った空間に、聖が漬け込む余地はない。

「ことみちゃん。君、何か神的な凄い力を持ってるんだってね。見てみたいな」
「……?」
「藤林椋って、分かる? 君とその子を絶対引き合わせるなって指令が降りてるんだよ」
「椋ちゃん?」
「見てみたいなぁ、僕は話でしか聞いていないから。そして」

321インターセプト2:2009/09/25(金) 19:22:13 ID:D27maBM60
一つ。少年が、息を吐く。
仕草で影になった面に再び光が当たった時、そこにはぞくっとするぐらいの禍々しさが存在していた。
びりりと震える大気の螺旋が、聖の背中に突き刺さる。
悪意ではない。ではそれが何なのか。
聖が認識する前に、少年が言葉を紡ごうとする。
口を開こうとする。
そこに良い予感というものを、聖は一切感じなかった。
だから、その前に。

「本気で、君を潰してみたくなったんだ。ことみちゃん」

少年の唇が再度開かれ、その台詞が言い終わる前に。
聖は世界から、姿を消した。





瞬間凪いだ風の流れに沿うように、長い聖の髪が這っていく。
それは彼女が残した、確かな軌跡だ。
ベアクローが装着された自身の右手に勢いを乗せ、聖は少年に向けてその拳を振り下ろす。
狙うは、少年の顔面だった。

「おっと」

鋭い爪は、少年の取った最低限の動きでかわされた。
鼻先すらも掠らない。
揺れる柳を髣髴させる、軽やかさが垣間見える小さなステップを踏む少年の目は、そこでやっとことみから離れることになる。
ことみに向けられたいた銃口も、ずれる。
聖からすれば、それだけで充分だった。

322インターセプト2:2009/09/25(金) 19:22:36 ID:D27maBM60
続けざまに突きを放ち、聖はさらに少年とことみの距離を開けようとした。
聖の攻撃に迷いはなく、彼女の爪は明らかに少年の急所を狙っている。
手加減なんてできない。
手加減をしたら、どうなるか分からない。
本気で、相手を傷つけるぐらいの勢いでいかないと、こちらがどうなるかたまったものではない。
聖の持つ最上級の警戒は、しっかりと彼女の行動に反映されていた。

しかしそんな聖の猛攻にも、少年が動じる気配はない。
先程とは違い素早く後ろに下がった少年の前方を、聖の気迫が通り過ぎた。
連続で繰り出されていた聖の突き、ちょうど彼女の腕が伸びきった瞬間を狙って少年が手套を放つ。
水平に振られた掌は、空気を切り裂きながら聖の顔面……いや。聖の首に、向かっていった。

(ふざけた真似を!)

肩をずらし半身を回すことで、聖も回避を試みる。
聖と同じく一撃で相手を地に静めることも可能であっただろう少年の手套は、よけ損なった聖の右肩に食い込んだ。

「ぐっ……!」

致命傷を外すことができたと言っても、側面からの打撃では体勢が崩れやすい。
そのまま薙ぎ倒れ、マウントを取られてしまったら少年の思う一方になってしまうという不安が、聖の脳をちりちりと焼く。
痺れる半身にふんばりをかけ、聖は腰に体重を乗せるよう意識しながら少年との距離を作ろうとした。
そんな聖の目に、銃を持ち変えようとする少年の様子が入る。

……ここで飛び道具を出されたら、ひとたまりもない。
少年の準備が整うまでの刹那に何かをしなければいけないという焦りが、容赦なく聖を襲った。

「せんせ、伏せて」

そんな暗雲立ち込めかけていた聖の脳裏に、一筋の光が差し込む。
聖にとって、最早聞きなれたと言ってもいいことみの声は、相変わらずゆったりと、ボソボソとしたものだった。
それでも今は、無条件でそれを頼りに思う自分が在ることを聖はじんわりと自覚する。
迷う暇などない。迷う気持ちもない。
ことみの指示に反射的に従った聖は、地へ伏せるよう保健室の床へと自ら転がり落ちていく。
聖が床に辿り着いたのと、彼女の頭上を火がついた小瓶が通り過ぎたのは、ほぼ同時だった。

323インターセプト2:2009/09/25(金) 19:22:59 ID:D27maBM60


     ※     ※     ※


「なっ?!」

背後を襲う爆発音に、祐一は反射的に振り返った。
聖達が少年の足を止めている間に保健室を脱出した、祐一を含む四人の少年少女の目に驚愕が宿る。
それは広いトラックが描かれている校庭の先、緑の多い中庭からでもよく見く分かった。
少し距離はあるものの、確かに保健室は轟々と赤い炎を咲かせている。

「そんな、先生達がまだ……っ」

うろたえる真希を支えている美凪も、戸惑いが隠せないらしい。
彼女もいい案を思いつくことがないのだろう。美凪は俯き、しょんぼりと眉を寄せている。
今、保健室で何が起こっているかを彼女等は全く理解していない。
どのような争いが繰り返されているかも、分かっていない。
それに真希も美凪も、丸腰に近い状態だった。
喧嘩慣れしているわけでもない彼女等が、あの場に戻っても囮くらいにしかならないのは明白だ。
それはここにいる参加者の半数以上が当てはまるだろうが、それでも真希や美凪が脆弱であることには変わりない。

「美凪」
「……」

そんな、人と争うのに達したレベルを保持していない二人が、小さな目配せを軽くする。
二人の表情には、同じ意志があった。

「行こう。先生とことみ、フォローしなくちゃ」
「はい……」

324インターセプト2:2009/09/25(金) 19:23:16 ID:D27maBM60
怯え、震えるだけのか弱い乙女に成り下がることを認めない決意がそこにはある。
短い間だが馴れ合ったメンバーだ、そんな仲間を放置できる程彼女等は非常ではない。
それに。
彼女等は、まだ殺し合いという大前提の恐ろしさを理解していない。

「何をしようって言うのかしら」

駆け出そうとする二人の前、立ちはだかったのは環だった。
長身の環から見下ろされ、怯んだように真希が一歩下がる。環の目は冷たい。

「あなた達二人が行っても、足を引っ張るだけじゃないの?」
「な、何よその言い方!」
「守る人間が増える分、残った人達が動けなくなるんじゃないかってことよ」

言い返そうとする真希だが、それもある意味難なく想像できる事実故ぐうの音も出なくなってしまう。

「それでも放っておける訳ないでしょっ!」

苦し紛れの真希の台詞を、環は一笑する。
鼻につく環の動作で頭に血が上る感覚に翻弄されかける真希だったが、隣の美凪の大人しさを察知すると自身の鼓動も落ち着かせようと努力した。
激情家で力任せの言葉を吐きやすい真希にとって、いい意味で美凪はストッパーになっている。
その様子は、自己紹介をし合うこともなくこの状況に巻き込まれた環にも、すんなりと伝わっていた。

「残ったあの人達が、何のためにあなた達を先に逃がしたと思ってるの?
 巻き込まないためでしょ。これであなた達に何かあったら、悲しむのはあの人達よ」
「で、でも……っ」
「死ぬわよ」
「え?」
「断言してあげる。戻ったら、あなた達死ぬから」

325インターセプト2:2009/09/25(金) 19:23:31 ID:D27maBM60
きっぱりとした物言いの迫力、環のそれに真希が固まる。
死ぬという表現は、あまりにも大げさだ。
少なくとも、真っ先に真希が思ったのはそれである。
多少の怪我なら覚悟の上、それを言葉にするのは真希にとっても容易いはずだろう。
しかし。
何か口にしようとした時、真希の記憶が数時間前の現実を呼び起こす。

―― それは、血に塗れた一人の少年の姿だった。

フラッシュバックしたその光景は、すぐにまた真希の瞼の裏に還って行った。
掠れる真希の喉から、声は生まれない。
あの時浴びたショックが、再び真希の後頭部を殴り倒していく。

その少年、祐一はと言うと、環のすぐ後ろで黙ってこの場を見守っていた。
命に別状はない。
それは医者である聖も口にしていたことだから、確かであろう。
確かである。
それでもあのグロテスクな場面は、真希にとって一種のトラウマとしてこうして残ってしまっている。

「真希さん……」

そっと、隣で静かに佇んでいた美凪が、真希の片手に自分のそれを合わせた。
軽く汗ばんだ真希の左手を、なんの嫌な顔もせず包み込む美凪の仕草はあくまで優しい。

「真希さん」

もう一度、真希の名前を美凪が口にする。
その囁きには、真希を裂く棘というものが存在しない。
抉れてしまった傷の上を、柔らかな羽が撫ぜていくような心地よさを真希が実感した所で、彼女の高鳴っていた鼓動のスピードも平常なものに戻っていた。

326インターセプト2:2009/09/25(金) 19:23:52 ID:D27maBM60
「ありがと、美凪」
「いえ」

ふるふると首を振る少女に申し訳なさ気な笑みを浮かべた後、真希は改めて環と目を合わせた。
堂々と仁王立つ環は、先程と同じ姿勢のまま真希達に阻みをきかせている。

「あんたの言う通り、確かにあたし等は足手まといね。それは認めるわ」

一つ息を吐き、真希は自虐交じりの事実を口に出した。
腕っ節が強くもなければ、役に立つ武器も所持していないということ。
ことみのように頭が切れるわけでもない、真希も美凪もごくごく普通の女の子だ。
そんな真希に対し環はと言うと、一度ぴくっと眉を揺らしただけで、後は特にリアクションを取っていない。
だんまりのまま、真希が出すであろう言葉の続きを待っているらしい。

「でも、だからと言って先生やことみが見殺しになっちゃうかもっていうこの状態は、耐えられないから。無理、絶対無理」

ぎっと、強くなった真希の睨みが鋭い環の視線と交錯する。
凄む環の迫力はさらに増したものの、それでも真希は引こうとしなかった。
それだけではない。
にやりと口を歪め生意気さを顔の表情全体で表した真希は、環を挑発するようにその言葉を口にした。

「死んでもお断りね」

環の眉がぴくりと震える。
嫌味がたっぷり含まれた挑発には、底意地が決して良くはない真希の性格がよく現れていた。
してやったりとさらに口角を上げる真希、これで先ほどの返しは出来たようなものであろう。

対峙する両者の間、ぴんと張られた緊張の糸が緩む気配は全くない。
どちらも譲る気がないのか視線を逸らそうともしないため、傍にいる美凪や祐一も手が出せなかった。

327インターセプト2:2009/09/25(金) 19:24:17 ID:D27maBM60
それがどれくらい続いたのか。
ふっと、表情を取り戻したのは、環の方が早かった。
ため息をつき、ふるふると頭を揺すった環が顔を上げると、そこには呆れたような笑いが浮かんでいる。
それは悪意というものが秘められているようには到底見えない、朗らかなものだった。
環の豹変、真希もそれが不思議だったのだろう。
環の様子を探るよういぶかしげに見やってくる真希に対し、環はその笑みを湛えながら口を開いた。

「お人よし」
「はぁ?」

まるで友達をからかうような、環のその口調。軽さ。
真希の口からはストレートな疑問符が飛び出ていた。

「随分と優しいのねって。そう思っただけよ」
「べ、別にそんなんじゃないわよ! ただ、あたしはことみと先生が……」
「天邪鬼。でも、嫌いじゃないわ」

環の語尾には、先程あった冷徹さはすっかり抜けている。
いきなり向けられた好意の言葉に、さすがの真希も戸惑いが隠せなかった。
どうすればいいのか分からないといった様子で、真希は慌てたように隣の美凪へとアイコンタクトを送る。

「……?」
「ちょっと、首傾げてないで美凪も一緒に考えてよ!」
「考える……?」
「そう! この人が何企んでるのか、一緒に考えるのっ」

わたわたとする真希の姿が余程ツボに入ったのか、環は大きく肩を震わせ声にならない笑いを上げている。
環の一歩後ろで佇む祐一も訳が分からないようで、ひたすらきょろきょろと彼女達のやり取りを見やっていた。

「ふふ……ごめんなさい、からかったとかそういうのではないの。
 ほら、私あなた達のこと知らないから。どういう子なのかなって、気になっちゃって」
「な、何よ。それ」
「まぁ、余計な心配だったみたいだけど」

328インターセプト2:2009/09/25(金) 19:24:37 ID:D27maBM60
そう言って髪をかきあげながら真希達二人に背を向けた環の目線が、祐一のそれとぶつかる。
勢いに飲まれ言葉が発せないままである祐一にウインクを一つ投げると、環はそのまま彼の横を通り抜けた。
つかつかと、迷いのない環の足取りが進む先。
そこに赤い教室が待ち構えているのは、周知の事実である。

「向坂、どこに……?」
「ちょっとあんた、待ちなさいよ!」

真っ先に気づいた祐一が、思わず声を張り上げる。
そのすぐ後、はっとなった真希は一直線に環へと駆け寄り、自分より少し高い位置にある彼女の肩に手をかけた。
瞬間響いた、乾いた打撃音。真希の瞳が見開かれる。
力が込められていなかったためか鋭い痛みや腫れ等と言った症状は出ていないものの、環は容赦なく真希の手を叩き落としていた。

「痛かった? ごめんなさいね」

思ってもみなかったのだろう。
余程ショックだったのか、すぐさま入った環の謝罪にも真希はすぐの反応が返せなかった。
軽くじんじんとしている部分に自身のもう片方の手のひらを重ね、困惑で塗り固まった真希が呆然と立ち竦む。
それでも環は、真希を見ようともしない。ひたすら前だけを向いていた。
真希に向かってすかさず駆け出した美凪の足音を気にすることもなく、環はそのままの状態で口を開く。

「さっきのだけど」
「ぇ……?」
「あなた達が死ぬっていうのは、はっきり言って本気のつもり。
 あの二人を助けたいって気持ちは分かるけど、実際に何ができるかを明確な上で行動しない限り……やっぱり、邪魔なのよ」

環の言葉は、真希達の誠意にきっぱりとした否定を突きつけている。
それが侮辱に取れたのだろう、真希の形相が再び険しくなった。
悔しさで思わず握りこぶしを作り指を赤と白に変色させる真希の頭、そこでふと、ピンとひらめいたことがあった。

329インターセプト2:2009/09/25(金) 19:24:55 ID:D27maBM60
それならば、戦場である保健室に向かおうとする環には一体何が出来るのか、である。
自分に比べれば確かに体格は良いものの、一介の女学生である環が何故ここまで自分達をこけにするのかが、真希は気になった。
そこが、環への効果的な反論に値するヒビの一種とも、考えられる。

これはしめたと、浮いた疑問をすぐさま聞くために真希が唇を震わせる、しかし。
そこから声は、生まれなかった。
問う前に、真希は結果を目にしてしまっていた。

いつの間にやら真希達を無視する形で歩を再開させていた環は、ごそごそとスカートのポケットに手をつっこんでいたのだ。
そこから彼女が取り出したのは、彼女自身への支給品であった一丁の銃器である。
コルトガバメント。
重い鉄は朝陽に反射し、キラキラと輝きを放っている。
その凶器のリアルさに、真希の視線は釘付けとなった。
軍用の大型自動拳銃の持つ殺傷能力は、真希にとって未知数だろう。

「下がってて。援護には私だけが向かうから」
「そんな……っ」
「勘違いしないで。別にあなた達を守ってあげるとか、そういう訳でもないの。
 ……少しでも関わりがあった人が死ぬなんて、もう真っ平なのよ。私が嫌なの」

一瞬だけ俯かせた瞳に暗い藍色を光らせた環が、独り言のように小さく呟く。
後半、それは真希達に向けられたのか、それとも本当に環にとってはただの独り言だったのか。
真希が問おうとする前に、環はもう走り出していた。

「相沢君をお願い、腐ってもその子怪我人だからね」
「ま、待ちなさいよ!」

環も今度は止まらない。一晩熟睡し休んだ結果、彼女の体調は万全に等しかった。
このように全力疾走しても保健室までの距離くらいだったら息が上がることはないだろうと、環自身自負できる。
恵まれた体調に、恵まれた支給品。
生き残るための知恵も、賢い環には備わっていただろう。

330インターセプト2:2009/09/25(金) 19:25:08 ID:D27maBM60
しかし彼女は失った。
大切な仲間を喪った。
妹分に、共に宿を取っていたはずの明るい少女達。
そして。淡い恋心を抱いていた、一人の少年。

誰もが優しい人間だった。
そんな優しい人間達が、たった一夜で掻き消えた。
それも環の知らない時に。環の知らない場所で。
環にはそれが、耐えられなかった。

冷静さを奪う勢いで構成された秘めたる激情、それは彼女の内にびっちりとこびりついてしまっている。
刺激された環の正義感は、どのような状況に陥っているか読めることができない保健室へと一心に向いていた。





そんな、だんだんと遠くなっていく環の背中を、真希は黙って見つめ続ける。
真希は動けなかった。
動くことが出来なかった。ただそれを見送ることしか、出来なかったのだ。

「真希さん……」

美凪が再び、優しく真希の手を自身のもので包みこむ。
ずっと作られていた真希の握りこぶし、痛々くも頑なな固い拘束を美凪は一本ずつ解いていく。
そっと解かれた戒めに、美凪は真希を安心させるようにと彼女の指と自身のを絡め合わせた。
温い人肌に少女特有の柔らかい肉質、本来それは心を穏やかにさせる成分が含まれているはずであろう。

「……じゃない」

331インターセプト2:2009/09/25(金) 19:25:33 ID:D27maBM60
真希の口から零れた言葉、気づいた美凪が面を上げる。
真希の表情は、険しい。
噛み締められた彼女の唇には、きっとしっかりとした跡がついてしまうだろう。
真希は震えていた。
全身に力を込め、とめどなく溢れ出てしまう感情に翻弄されてしまっていた。

「結果は一緒じゃない!」

小さくなっていく環の背中を見やりながら、真希が低い叫びを放つ。それはまるで呪詛だった。
結局真希は、守られたのだ。
環の動機というものなど関係なく、結果として真希は戦場から隔離された。

「何よ、何なのよ! あの女、あの女……っ」

美凪の慈愛に気がつかないのか、真希は先ほどまでと同じ調子で手に力を入れてしまっている。
それに気づく様子も、今の真希にはない。

(せんせい、ことみ……っ!)

泣きそうな顔で保健室を睨み付ける真希の横顔を、美凪は心配そうに見つめている。
立てられた真希の爪は彼女の柔肌にきつく食い込んでいったが、美凪は何も言わなかった。
敢えて、何も口にしなかった。

332インターセプト2:2009/09/25(金) 19:27:45 ID:D27maBM60
【時間:2日目午前7時50分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:少年と対峙】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:少年と対峙】
【状況:少年と対峙・右肩負傷】

少年
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、グロック19(15/15)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、・MG3(残り10発)・予備弾丸12発】
【状況:ことみ、聖と対峙・効率良く参加者を皆殺しにする】




【時間:2日目午前7時55分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:20)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:保健室へ戻る】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:環を見送る・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:環を見送る】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:環を見送る】

(関連・1041・1064)(B−4ルート)

333FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:05:39 ID:xbN82L8I0

『FOR OUR MUTUAL BENEFIT AND UNDERSTANDING (Who stealed "The Card" ?)』


 
ゆらり、ゆらりと。
金色の光が立ち昇り、闇の中に浮かぶ小さな日輪へと吸い込まれていく。
ぼんやりとそれを眺めながら、来栖川綾香は岩壁に背を預けている。

ぐずぐずと爛れたように桃色の肉を晒す四肢は既に崩壊を始めていた。
肉の糸は弱々しく絡み合い、しかしその殆どは癒合できずに力尽きて赤い血潮へと還っていく。
息を吸い込めば焼けつくように熱く、吐き出せば血と痰と、或いは何かの塊とが混ざり合った
どろどろとしたものが喉の奥からまろび出てくる。

拳は砕け、立ち上がる足もなく、だから綾香はぼんやりと光を眺めていた。
柏木千鶴の躯から立ち昇る金色の光は、中空に浮かぶ小さな日輪へと吸い込まれていく。
光を吸い込むたびに、日輪はその輝きを増していくように思えた。
その光景がまるで死者の魂を喰らって肥え太る冥府の獣のように見えて、小さく笑った瞬間、
光が消え、闇が落ちた。

否。
そうではない、と綾香はすぐに理解する。
消えたのは、日輪の光ではない。
光を受容する、瞳だ。
爆ぜたのは眼球か、視神経か。
既に痛覚も触覚も失われて久しく、故に損傷の箇所も程度も認識できず、
しかしいずれ日輪は今も視線の先に輝いているのだろう。
単に目が見えなくなっただけだ。

334FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:06:03 ID:xbN82L8I0
 
―――これが、最期か。

大きく息を吸い込んで、咳き込み、しかし綾香は笑う。
暗闇の中、浮かぶのは幾つもの煌きだった。
それは、たとえば松原葵の、命の向こう側で立ち上がった瞳の奥の、透き通った炎。
それは、柏木初音の漏らした、猛るような息遣いに潜む悦楽の色。
それは、坂神蝉丸の、日輪に照り映える白銀。
それは、柏木千鶴の爪刃の、光と霧とを裂いて奔る、真紅の軌跡だった。

幾つもの煌きが、視界を覆った一面の暗闇に散りばめられて星空のように輝いていた。
それはきっと、坂下好恵が高度二十五メートルの鉄柵を越えた先で目にした光景と、よく似ている。

それは充実。
それは快。

それは、完結だった。

そこに付け加えることはなく。
そこから差し引かれるものもなく。
それは正しく、来栖川綾香の望んだ、終焉だった。


それでいい。
それが、最期なら。
それでいい。



***

335FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:06:25 ID:xbN82L8I0

 
 
 
 
 
それでいい―――はずだった。






***

336FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:06:41 ID:xbN82L8I0
 
 
来栖川綾香の世界から、暗闇が払われていく。
代わりにそれを満たしていたのは、ゆらゆらと揺れる光だった。

「―――」

その目に映るものが、中空に浮かぶ金色の光の坩堝であると気付くまで、僅かに間が空いた。
ぼんやりと光が映るのは、視界の半分、左側。
綾香の身体に残った治癒の力の、その最後の意地がせめて片目だけを癒したものか。
切断された視神経か、割れて砕けた水晶体か角膜か、或いはその全部かが修復されて、
薄ぼんやりとした視界が、綾香に戻っていた。

「―――」

ゆらり、ゆらりと。
光の坩堝は、輝いている。

「―――、」

輝いて、淡い光で辺りを満たし、
来栖川綾香の安息を、侵していく。

「―――あ、」

ゆらり、ゆらりと。
淡く輝く光の中に、音もなく降りてくるものがある。

「ああ……」

金色の光を練り固めて、人の形の鋳型に流し込んだような。
長い髪をさらさらと揺らし、ゆらゆらと、金色の羽衣を纏ったように輪郭を揺らしながら、
何かを抱き寄せるように大きく手を広げた、それは。

「姉、さん……」

来栖川芹香と呼ばれていた女の、形をしていた。


***

337FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:07:07 ID:xbN82L8I0
 
「来るな……」

じり、と。
後ずさろうとした綾香の背を、岩壁が阻む。
見上げれば、そこには光。
来栖川芹香が、手を伸ばしている。

誘うように、導くように。
ゆらり、ゆらりと。
降りてくる。

「来ないで、姉さん……!」

懇願するように、首を振る。
来栖川芹香は、止まらない。
ただ綾香の記憶にあるのと同じように、ほんの微かな笑みだけを含んで凪いだ表情のまま、降りてくる。

「あんたはもう、関係ない……!」

それは、一点の光明だった。
来栖川綾香の最期を満たす暗闇の、そこに映る星空のような煌きを侵す、ほんの小さな滲み。
しかし光は次第に強くなる。
点のようだった光明はすぐに面へと変じ、面は空間となって、瞬く間にその領土を拡げていく。
代わりに喪われていくのは、闇だった。
目映い光に照らされて、居場所をなくした暗闇が、そこに映る星々が、一つ、また一つと、消えていく。
来栖川芹香の齎す、それは無情な夜明けだった。

「あんたの居場所なんて……どこにもない……!」

夜が明けて、星が消えていく。
煌きが、見えなくなっていく。
松原葵が、霞んでいく。
柏木初音が、坂神蝉丸が、薄れていく。

「これは私の世界なんだ……!」

柏木千鶴が、光に呑まれて消えていく。
日輪の輝きに照らされて、夜の闇は、もう見えない。
坂下好恵の目にした高度二十五メートルの残像が、もう、見えない。

「これは私の戦いなんだ……!」

夜を穢し。
闇を踏み躙って。
来栖川綾香を満たそうと迫るのは、光。


「これは……!」


来栖川芹香の形をした光が手を伸ばし、
拒むようにそれを払った綾香の、砕けた拳が硬く握られ、
光が抱き締めるように綾香を包み、


「これは私の……」


嗚咽を堪えるような言葉と、
咽び泣くような拳とが、


「私だけの物語だ―――」


来栖川芹香を、貫いた。




******

338FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:07:31 ID:xbN82L8I0

 
 
 
理の外にある護りを穿ち貫く、魔弾の拳が、
光の坩堝を、撃ち砕く。

どこかで、何かの、底が抜けるような、音がして。


光が、溢れた。




******

339FOR OUR MUTUAL BENEFIT:2009/10/02(金) 15:07:55 ID:xbN82L8I0

 
 
 
網膜を灼くような目映い光が、広い岩窟の隅々までを照らしていた。
それはまるで、金色の坩堝を逆さに振って蓄えられていた中身の全部をぶち撒けるような、光の爆発。
その、闇の存在を赦さぬかのような光の中で、来栖川綾香は一つの声を聞いていた。

「―――   、」

ほんの微かな、そよ風にもかき消されてしまうような、か細い声。
来栖川芹香の、紛れもない、それは声だった。

「え……?」

綾香の耳は、確かにその声を捉えていた。
聞き取って、しかしその意味が、すぐには分からず。
聞き返そうとしたときには、来栖川芹香の姿は薄れかかっていた。

「姉さ……、」

思わず引き止めようと伸ばした手をすり抜けるようにゆらりと揺れた芹香が、
胸に空いた穴から、辺りを満たした光に融けて、薄れていく。
やがて、ふつりと。
音もなく消える、その最後の瞬間。
綾香の目に映ったのは、その生涯で一度も見せたことがないような、満足げな笑顔だった。

「は……はは……」

乾いた笑いが、漏れる。
けふりと吐いた咳には、もう混じる血も薄い。
流れ尽くして、癒えもせず。

「何だよ、それ……」

ぐるぐると回るのは、芹香の言葉。
姉のかたちをした光の遺した、最後の言葉。
来栖川芹香の、来栖川綾香に遺した、遺すべき、言葉。

それは、ありがとう、でも。
或いは、さようなら、でもなく。
ただ一言、

―――よくできました―――

と。

「何なんだよ、それ……」

燃え尽きた。
やり遂げた。
何もかもに、満足していた。

「畜生……」

燃え尽きた、筈だった。
やり遂げた、筈だった。
何もかもに、満足していた、筈だった。

「畜生……畜生……」

来栖川芹香の光に満たされて、夜が明けて。
目を閉じても、暗闇はもう、どこにもない。
星空のような煌きは、もう、見えはしない。


―――これが、最期か。


来栖川芹香の望んだ何かに侵されて、
来栖川綾香の望んだ終焉は、訪れない。

大きく息を吸い込んで、咳き込み、

「畜生―――」

光を見上げて呟いた、その瞬間。
来栖川綾香の心臓が、爆ぜた。

.


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