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尚六幾星霜

1名無しさん:2017/12/18(月) 19:25:09
9,10月に、書き逃げにいくつか投下した者です。
私も尚六の初夜話を書きたいなあと色々妄想した結果、ちょっと長くなりそうなので別スレ立てます。まだなんとなくの流れしか決まっていないんですが、とりあえず書き始めたので投下します。
最初はごく普通の主従関係で、互いにそういう意識もしていない状態です。

65「人を模した神獣」27/E:2018/03/15(木) 22:50:38
六太は咄嗟に逃げようと身を引いたが、強い力で引き寄せられて、尚隆の腕の中に捕まってしまった。
尚隆の言葉の真意を深く考える間もなく、大きな手に顎を掴まれた。上を向かされ、目の前に尚隆の顔が迫る。硬直しているうちに、暖かい感触に口を塞がれた。唇の間から柔らかいものが侵入してきて、生き物のように六太の口腔内を這う。思わず頭を引こうとすると、後頭部を掴まれた。
何をされているかを理解するのに要した時間は一瞬だったが、その間に六太は完全に動きを封じられた。
教えてやろうか、という言葉を脳内で反芻して、そんなの知りたくないと叫びたくなる。きつく抱擁されて自由にならない身体を必死に捩り、尚隆の腕から逃れようとした。
息が苦しくて、強く抱き締める腕が痛くて、何故だか怖くて逃げ出したかった。この行為の意図が全く分からず、頭の中は混乱していた。

抵抗が功を奏したのかは分からない。だが不意に抱擁の力が緩んだ。六太は尚隆の腕を振りほどく。
六太は混乱の中で、尚隆の左頬に向かって右の平手を全力で振り抜いた。ばしっと鋭い音が響き、右の掌から肩まで衝撃が走る。
痺れた右手を左の掌で押さえながら、尚隆を睨みつけた。六太の軽い腕で打った平手など、たいした打撃でもないだろうに、尚隆は顔を背けたまま暫く動かなかった。
六太も身動きできず、声も出せない。自分自身の荒い呼吸と、常よりも速い心音と、雲海の波音が、耳の奥で混じり合う。

「……冗談が過ぎたな。悪かった、忘れろ」
幾ばくかの沈黙の後、静かな声で尚隆が呟いた。
六太は震える喉を叱咤して、掠れた声を絞り出す。
「……忘れろって、なんだよ。……命令してんのか」
いや、と言って尚隆は笑った。どこか自嘲するように。
背けていた顔をこちらに向け、尚隆は六太を正面から見つめる。笑みを消した彼は、低く囁いた。
「すまなかった。……忘れてくれ」
いつになく真摯で切実な声音が耳を打ち、六太は再び言葉を失って硬直した。

尚隆は足元に落ちていた袍を拾い上げると、ばさっと六太の頭の上から掛けた。六太の視界は遮られたが、それを除ける気にはならなかった。
「悧角」
使令を呼ぶ尚隆の声が聞こえる。
「正寝まで乗せろ」
御意、と悧角の応じる声。
それから王を乗せた悧角が地面を蹴る音がして、王気は瞬く間に遠ざかっていく。

急速に脚の力が抜けて、六太はその場にへたり込んだ。目の前を覆う袍からは、尚隆の匂いがした。
のろのろと手を動かして袍を肩まで引き下ろす。まばゆく滲んだ赤橙色の光がまともに射し込んで、六太は反射的に目を閉じた。頰の表面を雫が滑り落ちる感触がして、自分が泣いていることを悟った。
息を吸い込むと、甘い花の香りがした。

六太は左手の甲で強く唇を拭った。そんなことをしても、尚隆の唇と舌の感触は消えてくれない。背筋を滑った大きな掌の感触も。
六太は膝を抱えてそこに顔を埋めた。
すまなかった、なんて詫びる言葉が欲しかったわけじゃないのに。
忘れてくれなんて言うくらいなら、なんであんなことをした。
涙が膝を濡らしていく。何故泣いているのかは自分でも分からない。分からないほうがいいと思った。この涙が止まるまでに、全部忘れることができたらいいのに。
少年の姿をした麒麟は、その場にうずくまったまま、長い間動けなかった。

赤い夕日は雲海の彼方へ沈んでいく。鉤爪のように細い月が、それを追いかけるように落ちていく。
やがて陽光も月光もない濃藍の空に、散りばめられた貴石のように星が瞬き始めた。


第三話「人を模した神獣」終わり

66書き手:2018/03/15(木) 22:53:27
やっと第三話終わった……
元はといえば初夜が書きたかっただけなのに、なんでこんな面倒くさいことになっているのかww
ここまでの流れは割とはっきり決まってたのでそれなりのペースで書けたんですが、この先はまだきっちりとは決まってないので次の話まで間があくと思います

67名無しさん:2018/03/18(日) 00:03:15
更新お待ておりました!なんて冷静で不器用な尚隆…六太の鈍感さがいい効果を出してハラハラして読んでしまいました!いや〜尚六っていいですねえ…(*´ω`*)

68名無しさん:2018/03/21(水) 17:13:50
獣形で宮城中好き勝手に飛び回ったりとか
二階の窓から覗き込んだりとか
六太いちいち可愛いなw
官はビックリしただろうけど

69書き手:2018/05/22(火) 19:37:38
二ヶ月ちょいあきましたが、ようやく第四話書き始めたので投下します。
第四話は尚六的には膠着状態
第三話ラストの翌日から。最初は朱衡視点

70「二つの道」1:2018/05/22(火) 19:39:41
第四話「二つの道」

朝議というものは、冢宰以下六官の長をはじめ高官が一堂に会して国の大事を話し合う、王朝にとって重要度の高い会議であり、当然のことながら王と宰輔も毎回出席するものである。
しかしここ雁州国では、王と宰輔の両方もしくは片方が朝議をすっぽかすのは、現王朝始まって以来日常茶飯事であった。

朱衡はその日の朝議に向かう途中、王は昨夕また出奔したため今日も朝議には出ないようだ、と下官から連絡を受けた。
またですか、と呆れ声と溜息を同時に吐き出しながら、尚隆らしくない、という感想が朱衡の胸中に浮かんでいた。
これで王は三晩続けて出奔したことになる。
数日ずっと戻らないというのなら珍しくもなんともないが、こんなに短期間に出奔と帰還を繰り返したことは、これまでにあっただろうか。三日前に主従揃って出奔したのを数え合わせると四度目にもなるのだ。

尚隆は好き勝手に遊びに行っているようでいて実はそうではなく、自分がいなくても政務が回るような状況を作り出し、時機を見計らって出奔している節がある。だからこそ、外で悶着を起こさぬ限り、ある程度は大目に見ておくかという暗黙の了解––––この境地に達するまでには長い年月を要した––––が諸官の間にはあるのだ。
だが三日前からの王の行動には、どうもそういった計画性が見えない。喧嘩の直後など、衝動的に王宮を飛び出したようにさえ感じられる。

やはり三日前のあの喧嘩はいつもと違う。朱衡は直感したが、では何があったのかという疑問には全く答えが思い浮かばなかった。
そもそも喧嘩の原因は何なのか。状況を考えると、主従揃って出掛けた時に何かがあったと考えるのが妥当だろう。
朱衡は考え込みながら朝議の間へと向かった。


意外なことに、六太は朝議に出席していた。
交わされる議論に耳を傾けながら、朱衡は六太の様子を窺う。いつものように時折あくびを咬み殺すような表情をしつつ、空の玉座の傍らで官の言葉を聞き流しているようだった。

一昨日に話した時は獣型だったこともあり、六太の感情を推しはかるのが難しかったが、今日は人型なので表情も読みやすい。尚隆はいつ戻ってくるか分からないうえ、喧嘩のことを訊いてもあの王からまともに答えが返ってくるとは思えない。ならば六太に訊いてみよう、と朱衡は決意した。

朝議が終わると、六太はさっさと堂室から立ち去っていく。朱衡はすぐに追おうとしたが、今日の議題の担当案件について冢宰に話しかけられてしまった。さすがに無視するわけにもいかずそれに応じているうちに、六太の後ろ姿は大扉の向こうに消えていった。
その後、冢宰との話を出来るだけ手短かに済ませ、朱衡も足早に堂室から退出した。伴っていた下官には先に官府へ戻るよう指示してから、朱衡は六太の後を追うべく回廊をひとりで歩いて行った。

71「二つの道」2:2018/05/22(火) 19:41:57
外殿から内殿へ向かう回廊に差し掛かったところで、ようやく金色の後ろ姿を視界の先に捉え、朱衡は声を上げて呼び止める。
「台輔!」
六太は足を止めて振り返った。朱衡は裾の長い官服で出しうる限りの最高速度で歩み寄って行く。その姿が可笑しかったのか、六太は軽い笑い声をたてた。
「珍しいな、朱衡が走って追いかけて来るなんて」
笑顔を見せる六太になんとなく安堵を覚え、朱衡は微笑みを浮かべながら少しの間呼吸を整えた。
六太は首を傾げて朱衡を見上げる。
「で、何か用か?」
「ええ、用といいますか、少々お訊ねしたいことがございまして……」
朱衡はそこで言い淀む。明らかに差し出がましい問いであることを自覚しているからだ。一昨日は、喧嘩は二人の問題だから二人の間で解決するように、と尚隆に説教したというのに、舌の根も乾かぬうちに首を突っ込もうとしている。
三日前の喧嘩の原因はいったい何だったのか、王からの謝罪はあったのか。いま人型に戻っているということは、尚隆は出奔前に六太に会い、勅命を解いたということだが……。

「尚隆の行き先なら、知らないぜ」
朱衡が逡巡している間に、先手を打って六太が言った。王の行き先も気になるところではあったが、いま訊きたいのはそのことではなかった。
そうですか、とだけ朱衡が呟くと、
「ま、少なくとも関弓にはいねぇよ。どこか遠くに行ったみたいだ」
六太は肩を竦めてそれだけ言うと、話は終わったとばかりに踵を返そうとした。
「お待ちください、台輔。伺いたいのは主上の行方ではございません」
「……じゃ、なんだよ」
六太は笑みを消して、怪訝そうな顔をする。
遠慮するなど自分らしくない、と朱衡は内心で呟き、改めて正面から六太の顔を直視した。
「昨日、主上にお会いになりましたね」
「うん」
「主上からの謝罪はあったのですか」
「あった」
六太の返答は極めて簡潔で、束の間、朱衡は言葉の接ぎ穂を失う。観察するように六太の表情をじっと見つめた。
凝視された六太は、ほんの僅か顔をしかめた。
「訊きたいことは、それだけか?」
「いえ。––––それで、台輔は主上のことをお許しになったのですか」
「うん」
「そうでしたか……。結局、喧嘩の原因は何だったのですか?主上が難癖つけてきた、と台輔は一昨日仰いましたが」
「あいつが難癖つけてきた理由なら知らねえよ。尚隆に訊けって、一昨日も言ったろ?」
「あいにくあれから主上と顔を合わせておりませんので、お訊きする機会もなく」
「あっそ。まあなんにしても、おれに訊いても無駄だから。––––じゃあな」

72「二つの道」3:2018/05/22(火) 19:43:59
また踵を返しかける六太を、再び朱衡は引き止める。
「お待ちください。台輔ともあろう方が、難癖つけてきたことに対して何の文句も言わなかったわけではないでしょう」
「文句は言ったけどさ、そしたら尚隆はわけ分からんこと言っただけ。––––もういいだろ、喧嘩の話なんか」
六太はあからさまに面倒くさそうな様子でそう言った。埒があかないので、朱衡は少しだけ質問の角度を変えてみる。
「三日前に主上とお出掛けになった時、何があったのですか」
「……別に。何もない」
六太はそっぽを向いた。
「何かがあったから半日もせずにお戻りになったのでしょう。それが原因で主上が台輔に難癖つけたのではありませんか」
「知らない。それも全部尚隆に訊けってば。そもそも、なんでそんなこと気にしてんだよ。朱衡には関係ないことじゃん」
「いつもの喧嘩なら何も申し上げませんが、今回は少し事情が違うように感じましたので、差し出がましいことを承知でお訊きしているのです」
「……」
六太はそっぽを向いたまま沈黙している。
「王と麒麟の仲違いは国の一大事ですので」
朱衡が畳み掛けると、少しの間をおいてから六太はやや不機嫌そうな声を出した。
「……仲違いとか、そんなんじゃない。許してやったって言ったろ」
「喧嘩の原因も分からないのに、ですか」
朱衡が問うと、六太は憮然とした表情で、半歩引いて身体ごと横を向く。庭院のほうに目をやりつつ黙り込んでしまった。
朱衡も無言のまま返答を待つ。微かに潮の匂いを含んだ風が吹き渡り、金色の髪をなびかせるさまを、じっと見つめていた。
やがて、六太は低く呟いた。
「……すまなかった、って言われたんだ。だから、忘れてやることにした。……それだけだよ」
そう言った六太の横顔が不意に歪んだように見えて、朱衡は一瞬どきりとした。六太が泣き出すのではないかと思ったからだ。だが朱衡がその表情をはっきりと確認する前に、六太はくるりと背を向けた。
「台輔」
朱衡が呼びかけた途端、六太の後ろ姿が揺らいで溶け、次の瞬間、金色の獣の姿となった。呆気にとられているうちに、麒麟は軽く蹄を鳴らして飛び上がる。
「台輔⁉︎」
唖然と見上げる朱衡の頭上に、六太が着ていた衣服が落ちてきた。
「それ、仁重殿に届けといて」
それだけ言い残して今にも駆け出しそうな麒麟に、朱衡は慌てて声をかける。
「どこへ行くのです」
「心配すんな、園林で昼寝したいだけだから。昨日昼寝しすぎて夜あんまり眠れなかったから、いま眠いんだ」
いま寝たらまた今夜眠れなくなるでしょう、とどうでもいいことを思ったが、何も言えないうちに麒麟は駆け出してして、あっという間にその優美な姿は見えなくなった。

73「二つの道」4:2018/05/22(火) 19:46:02
宰輔の豪奢な礼服を両手で抱え、呆然と麒麟の消え去った方向を眺めていると、背後から誰かが歩み寄って来た。朱衡は足音を聞いただけでそれが誰だか分かった。その人物は朱衡の脇まで来ると、回廊の床に落ちていた六太の帯を拾い上げた。
「なんだ、あれは」
朱衡は隣を見やる。帷湍が手にした帯を差し出してきたので、それを受け取った。
「……目の前で転変するのを見たのは初めてですが、見事なものですね」
「俺も転変するのを見たのは初めてだが、見事とか、そんな感想を聞きたいんじゃない。どうして台輔は転変したんだ?」
「一刻も早く仁重殿に戻りたかったんじゃないですか。昼寝するために」
「なんだ、そのふざけた理由は」
「台輔がそう仰ったんですよ。いま眠いから、と」
「お前が散々小言やら嫌味やら言うから、嫌になって逃げ出したのかと思ったぞ」
「小言や嫌味を言ってたわけではありませんよ。……まあ、逃げ出した、というのはその通りかもしれませんが」
逃げ出した理由は涙を隠そうとしたためではないか、と朱衡は考えたのだが、推測にすぎないことだし、いくらなんでも六太の内面に踏み込み過ぎる内容なだけに、相手が帷湍であっても軽々しく言うことはできなかった。

怪訝そうにする帷湍に向き直り、朱衡は軽く首を傾げて問いかけた。
「ところで、あなたが昨日主上を連れ戻しに行った時のことですが」
ああ、と帷湍は瞬く。
「主上が仰ったそうですね。そんなにあの餓鬼の姿がいいのか、と」
「ああ……そう言ってたな、確かに。面倒くさそうに溜息ついてな」
「主上はどういうつもりでそんなことを仰ったのでしょう」
「––––どういうつもりで?」
帷湍は何度か瞬いてから首を捻った。
「さあ、なあ……。あいつの考えていることなど分からんし、さして意味があって言ったとも思えんが」
「そうですか……」
朱衡は顎に軽く指を当てながら考える。
確かにただの軽口とも取れる発言だ。特に何事もない時にそれを聞いたのなら、気にも留めなかっただろう。しかし今の朱衡にとってその言葉は、一昨日に王が発した不可解な問いを思い起こさせるのだ。
「––––麒麟が獣の姿だけでなく人の姿も持っているのは、何故だと思いますか?」
そのままの姿勢で、朱衡は帷湍に問いを投げてみた。
「それはもちろん、人の姿がないと政務ができんからだろう」
昨日と一昨日の騒ぎが頭の中にあるからだろう、帷湍の答えは単純明快だった。朱衡は思わず笑い、帷湍の顔を見返しながらしみじみと言う。
「あなたはいいですねえ……」
単純で、という言葉を続けるのはやめておいたが、それが聞こえたかのように帷湍は憮然と顔をしかめた。
「……お前、莫迦にしてないか?」
「滅相もない。本当に心から羨ましいと思っているのです」
嘘をつけ、と言いたげな視線を返されたが、朱衡は柔和に微笑んでそれを受け流し、回廊の先を見やった。
「さて、私はこれを仁重殿に届けに行かねばなりませんので」
「そんなもの、下官に言いつければよかろうに」
「いえ、仁重殿の官に用がありますので、ついでですよ」
それでは、と言って朱衡は踵を返した。

74「二つの道」5:2018/05/22(火) 19:48:07
朱衡は仁重殿に向かいながら、三日前からの一連の出来事を一つひとつ思い出していく。どれかひとつだけを見てみれば些細なことと思える事柄だが、それを並べて俯瞰してみると違和感を禁じ得ない。
特に先程の六太の泣き出しそうな横顔は、朱衡にとってかなり衝撃的だった。なにしろ六太の泣き顔を見たことはこれまで一度もないのだから。
すまなかった、と尚隆は言ったという。まともな謝罪の言葉を口にすることは殆どない王がそう言ったのは、朱衡にとっては意外だった。それだけ反省した証であり、尚隆が難癖つけてきた、という六太の言い分は決して一方的なものではないのだろう。しかし、尚隆からきちんとした謝罪があり、許してやったというのなら、普段喧嘩のあと和解した時のように、晴れ晴れとした顔をしていてもいいはずだ。泣く理由などないだろうに。
それとも、泣き出しそうに見えたこと自体が朱衡の勘違いだったのだろうか。


仁重殿に到着すると、朱衡はある女官を呼び出して、事情を話して六太の衣服を手渡した。受け取った女官は恐縮し、何度も頭を下げた。
朱衡は微笑みを浮かべ、意識的に温和な声を出す。
「あなたにお詫びいただくことではありません。台輔に言いつけられただけですから。––––それよりも、主上が昨日こちらにおいでになった時のことを伺いたいのですが」
六太の近習である彼女は、一昨日朱衡に助けを求めてきた女官であり、その恩義もあるため朱衡の質問に出来る限り答えてくれるだろう、という読みがあった。
「はい。私に答えられることなら何なりと」
生真面目に応じた女官に、まずは順を追って王が仁重殿を訪ねて来たところから話してもらい、朱衡は幾つか質問を挟みながら耳を傾けた。
どうやら園林で二人きりで会ったらしい、ということと、王はその後主殿には姿を見せず、直接正寝に戻ったらしい、ということが判明した。
六太が主殿に戻ってきたのは日没からかなり経ってからで、尚隆から借りた袍を羽織っていたという。つまり、二人で会っている時、尚隆から袍を借りて転化したということだ。
「主殿に戻ってきた時、台輔は何か仰ってましたか?」
「特に変わったことは……。主上の袍だから返しておいてくれ、とは仰いましたね。あとは……やはり心配でしたので、主上とは仲直りなさったのですか、とお訊きしたところ、うん、と頷いておられました」
「その時はどんな様子でしたか?例えば、嬉しそうだった、とか」
「ええと……そうですね、少しぼんやりなさっているように見受けられました。どうなさったのかと思っておりましたら、昼寝しすぎてまだぼーっとしてるんだ、と仰ったので皆で笑ってしまいましたが」
「それは、実に台輔らしいですね」
朱衡が笑うと、女官も頷きながら控えめな笑顔を見せた。
その後の六太は喧嘩の話も尚隆の話も全くしなかったらしい。少なくともこの女官は聞いていないという。もちろん彼女たちは朱衡ほど無遠慮に聞き出したりしないだろうから、六太が自主的に話さなければ、それ以上の細かいことは分かるはずもないのだ。
一通り話を聞いた朱衡は、女官に丁寧に礼を述べてから辞去した。


仁重殿の回廊を歩きながら、朱衡は頭の中で状況を整理する。
尚隆が昨日出奔したのは日没の前後だと聞いていたのだが、六太が主殿に戻ったのは日没後かなり経ってからだという。
この時間差の意味するところは何だろうか。
外が真っ暗になってから戻って来た六太は、星を見ていた、と言ったらしい。髪に草がついていたから園林で寝転んで夜空を眺めていたのだろう。時々あることなんです、と女官は笑って言っていた。
朱衡はふと足を止め、秋の陽光が柔らかく射す広い園林を眺めやった。
転変して逃げ出した六太は、自分で言った通りに今頃この園林のどこかで昼寝をしているのだろうか。
そうではないだろう、と朱衡の勘が告げる。
だが、さすがにこれ以上は立ち入れない。
第三者から見た状況は一通り把握した。あとは当人達しか知り得ぬことであり、六太からあれ以上のことを聞き出すのは無理だろうし、かといって尚隆から何かを聞き出せる可能性は皆無に等しい。
王が帰還して主従が揃っているところをそれとなく観察すれば、何か分かるだろうか。
いずれにせよ、これは自分の胸の内だけに留めておこう––––朱衡はそう考えながら、改めて踵を返して仁重殿を後にした。

75名無しさん:2018/05/22(火) 20:40:08
新章ありがとうございます!朱衡視点で謎がどこまでとけるか楽しみです^_^

76名無しさん:2018/05/22(火) 23:29:47
姐さん待ってました!!

77「二つの道」6:2018/06/09(土) 21:42:37
慶東国との国境近く、虚海を臨む高い崖の突端に六太は立っていた。瑠璃色の天頂から視線を下げていくと、空の色調は徐々に変化して、海との境界線は細く朱に染まっている。間もなく夜が明けるのだ。
崖の下を見下ろせば、そこは暗い濃紺の海。星のように瞬く光が見えた。じっと見つめていると、それらはゆっくりと動いているのが分かる。深い虚海の底に住む妖魚の群れだ。
波濤が崖に打ち寄せて砕け散る音を聞きながら、雲海の波音と全然違うな、と六太は思った。
雲海の波は穏やかで、荒れることがない。玄英宮全体を包み込むように、いつでも一定の間隔で静かな波音が聞こえている。

ふと気がつけば、六太の右手の指先は唇に触れていた。無意識のその動作は、強いて考えないようにしていることを、身体が勝手に思い出しているようだった。六太は手を離して唇を強く噛んだ。まだそこに残っている感触を、痛みで上書きするように。
あの時と同じように崖から海を見渡しているから、思い出してしまうのだろうか。六太は振り返って海に背を向けた。
十歩ほど離れた木の根元には、騶虞のとらが身を伏せて休んでいる。

昨夜遅くに六太は玄英宮から抜け出した。ごく僅かの近習にだけ、出掛けてくると言い残してきた。どこへ行くのか、という問いには答えず、
「二、三日で戻るから心配すんな」
と笑ってみせて、騶虞で一晩東へ向かって飛んできた。
王の気配は遥か西方にある。関弓から東に向かったのは、目的地があったからではなく、王気と逆方向に進んだだけのことだった。

一昨日、玄英宮の崖に六太を残して去った尚隆の気配は、程なくして王宮から出て行った。六太は岩棚の上で膝を抱えながら、西の方へ離れていく王気を感じていた。

尚隆が忘れてくれと言ったから、忘れる。––––忘れたふりをしてやる。
王気がずっと遠くへ去ってから、六太はそう決意して、ようやく立ち上がった。とうに日は沈み、あたりが真っ暗になってからのことだ。
あれはいつもの喧嘩だったし、和解もちゃんとしたんだ、と六太は思うことにした。周囲にもそう思わせたかったから、努めていつも通りに振る舞った。尚隆がまた出奔してしまったため、自分まで姿を消すのは拙劣な行動だと思い、王宮に留まることにしたのだ。

翌朝、また寝不足でぼんやりしていた六太は、侍官に促されるままに朝議に出た。
そして朝議が終わった後に朱衡が追いかけてきて、喧嘩のことを問われたのだ。
朱衡は何故あんなに突っ込んだ質問をしてきたのだろう。普段通りにしているつもりだったが、朱衡から見たら様子がおかしかったのかもしれない。
不覚にも涙が出そうになって、咄嗟に転変して逃げてしまった。朱衡は驚いただろうし、何かあったのでは、という疑念は確信に変わっただろう。それでも涙を見られるよりは余程ましだ。
泣くほど引きずっていたなんて、自分でも想定外だった。忘れたふりくらいは出来ると思っていたのに。
また何か訊かれるかもしれないと思い、朱衡を避けるようにして王宮から出てきた。万が一にも尚隆を迎えに行けなどと言われては堪らない。今はまだ、尚隆には会いたくないから。

78「二つの道」7:2018/06/09(土) 21:44:41
そもそもあの時、ひとり残った岩棚で、泣いてしまったのは何故だろう。少なくとも怖かったからではない、と思う。
尚隆に抱擁され唇を塞がれて、確かに怖いと思った。その時は何故だか分からなかったが、怖いと思った理由は、尚隆の言葉の真意も行為の意図も全く分からなかったからだと、今なら分かる。
しかし尚隆の意図はもう明白だ。
冗談が過ぎたな、と彼は言ったのだから。
ちょっとからかってやろうと、おそらく軽い気持ちでした行為に、六太は全力で抵抗して平手打ちまでくらわせたのだ。六太の過剰な反発に、さすがに尚隆も悪いことをしたと思ったのだろう。
また王宮から出奔したのは、六太が落ち着くまで離れておこうと思ったのか。それとも少しは気まずい思いを抱いたからだろうか。

教えてやろうか、と言った尚隆の低い声がまだ耳に残り、その表情が瞼に焼き付いて離れない。まっすぐ六太に向けられていた瞳が、今までに見たことのない光を湛えているような気がして狼狽した。尚隆があんな顔をしていたから、余計に意図が分からなかったのだ。
普段六太をからかうときのように、にやりと笑っていたなら、あんなふうに狼狽したりせずに「知りたくねーよ、莫迦」とか、反射的に言い返せただろう。そうしたら、尚隆のその後の行動も違っていたかもしれないのに。

六太は俯いて、溜息をひとつ落とした。目を閉じると、寄せて返す虚海の波音と潮の匂いに包まれる。ほのかに甘い花の香りが、どこからか風に乗って届いた。
その香りを嗅いだ瞬間、不意に尚隆の手の感触を鮮明に思い出し、あの時と同じように寒気に似た感覚に襲われた。六太は思わず両腕で自分を身体を抱え込む。
指先で背骨をなぞるように、背筋を滑っていった大きな掌。
獣型の時にも同じように背を撫でられた。それは単純に、心地良くて嬉しい感覚だった。尚隆に問われて答えたように、騎獣を撫でてやると喜ぶのは、同じように感じているからだろうと思う。
だが人の姿をしている時は全く違ったのだ。鳥肌が立つような感覚がして、思わず身を強張らせた。誰かに素肌を直接撫でられることなどないから、慣れない感覚に戸惑い、うろたえてしまった。

尚隆が言った通り、六太が身をもって知っていることなど何もなかった。
男達に絡まれた時には毎回逃げてきたし、色事に興味もなかったので、自分には無縁のことだとずっと思っていた。だから経験による裏付けのない、僅かな知識があっただけだ。
それなのに、本当は怖かったんだろう、と尚隆に訊かれた時、怖くないと意地を張った。でもそんな子供じみた意地は、尚隆には見透かされていた。きっと、二百年前に泣いてしまったあの日から。
何も知らないくせに、本当は怖かったくせに、強がって平気なふりをした。本当に自分は、意地っ張りで世間知らずな、ただの子供だ。尚隆が呆れてからかいたくなるのも当然かもしれない。

79「二つの道」8:2018/06/09(土) 21:46:50
尚隆が去った後、甘い花の香りのする岩棚で、膝を抱えて泣きながら思った。詫びる言葉が欲しかったわけじゃない、と。
ではいったい、どんな言葉が欲しかったというのだろうか。あの時の自分がそう思った理由が分からない。
二百年前もそうだった。尚隆に嘘をついた理由が、数日後にはよく分からなかったのだ。
自分の考えたことなのに、何故分からなくなるのだろう。
六太はきつく目を瞑ったまま、長い吐息をついた。
忘れると決めたのに、また思い出している。考えても仕方がないことを、また考えている。
無理に答えを求めることは、多分意味のないことだ。きっと正しくない解に辿り着いてしまう、そんな気がするから。

思考を振り払うように、六太は軽く頭を振った。目を開けて、自身を抱え込んでいた両腕をほどき、俯いていた顔をぐっと上げる。木の根元で寝そべる騶虞までの十歩の距離を、背筋を伸ばして歩いた。
見晴らしの良いそこからは、立ちこめる朝靄の中に一面に広がる農地が見渡せた。薄明の空の下、収穫を目前に控えた田畑は、まだぼんやりとくすんだ黄色に見える。
寝そべっていたとらが身を起こし、問うように六太の顔を見て、小さく喉を鳴らした。
「朝日が昇ったら出発だ」
その言葉に納得したように、とらは再び喉を鳴らす。その頭と首筋を、六太は撫でてやった。
騶虞と並んで眼前の景色をじっと見つめるうちに、やがて背後から今日最初の曙光が射した。それが田畑を黄金色に輝かせる光であることを、六太は知っている。

刻一刻と日は昇る。力強さを増した日差しが朝靄を薙ぎ払い、視界が透き通っていく。
海のように広がる黄金色と、その向こうに見える深い緑の山々は、豊かな雁国を象徴する景色だ。
それは六太が望んだもの。そして尚隆がくれたもの。
この風景を見るたびに、あの日の約束を思い出す。六太のための場所をくれると言った、尚隆の約束を。大喧嘩をした時でも、どんなに腹が立つことがあっても、それで全てを許せるような気がした。少なくとも、これまではそうだった。

今日はとらの背に乗って黄金色の大地の上を飛び、緑の山々を越え、尚隆がくれた豊かな国を見て回ろう。
そうすればきっと前を向ける。全部許せる。
だから、今日一日だけ時間が欲しい。
明日にはもう忘れるから。

六太は目を閉じて、大きく息を吸う。清涼な朝の空気を胸に満たしてから、ゆっくりと吐き出した。そして目を開けた六太は、手綱を手に取り、とらの鞍上に飛び乗った。
「行くぞ、とら。黄金の大地の上を飛ぼう」

80書き手:2018/06/09(土) 21:49:20
短いですが六太視点はここまで。
会話や動作が殆どなくて心情を描写するのは難しいですね…
次回は尚隆視点ですが、こっちも苦戦しそうです…(ー ー;)

81名無しさん:2018/06/12(火) 10:51:03
更新ありがとうございます!六太健気…守ってあげたいけど尚六がみたく、続きをお持ちしております…!

82名無しさん:2018/06/13(水) 22:15:19
六太にも少しずつ自覚の兆しが…
すでに自覚している尚隆には辛い展開ですが、この先どう出るか楽しみです!

83「二つの道」9:2018/06/19(火) 15:30:33
それは真冬のことだった。尚隆は六太と二人で旅をしていた。その晩泊まった安宿には、狭い寝台が二つあった。
酒を飲んでほろ酔いの六太は、ほんのり上気した顔をして、寝台の上で胡座をかいて枕を抱えている。向かいの寝台に腰掛けている尚隆と他愛ない話をしながら、明るい笑い声を立てていた。

––––夢を見ているのだ、と尚隆は自覚した。しかもこれは昔の記憶だ。実際にあったことを、夢の中で思い出しているのだ。
数十年前か、あるいは百年近く前かもしれない。夢の中の六太の表情がこんなに鮮明なのは、それだけはっきりと記憶に刻まれているということだろうか。

そろそろ寝るかという段になって、六太は自分の寝台を見て軽く溜息をつき、それから再び尚隆に顔を向け、小首を傾げて訊ねた。
「前から不思議だったんだけど。お前さ、そんなにでかい図体してんのに、なんで狭い寝台から落ちないんだ?」
六太は寝相が悪く、旅先の狭い寝台からよく落ちる。寝台の寝心地に関する不満を六太が言うことは一切ないが、自分が寝台から落ちてしまうこと、それなのに尚隆が落ちないことがどうやら気に食わないらしい。
文句をつけるような六太の問いに、尚隆は軽く笑って答えた。
「六太と違って俺は寝相が良いからな」
「おれだってそんなに悪くねえよ。たまにしか落ちないし」
「たまにか?これくらいの幅の寝台からはほぼ毎回落ちとるだろうが」
「毎回じゃない。八割がた朝まで寝台の上で寝てるって」
「自覚がないようだから教えてやろう。お前はいつも床に転げ落ちている。寝呆けながら寝台に戻っているのを、覚えてないだけだ」
「でたらめ言うな」
「でたらめではない。お前が床に落ちる音で俺は毎回目を覚ましているんだからな」
「お前の言うことなんか信用できねーな」
「信じる信じないはお前の勝手だが、真実は変わらんぞ。まず間違いなく、今夜も落ちるだろうな。賭けてもいい」
「無意味な賭けするんじゃねえ。おれは絶対落ちないからな」
「ほう、言い切ったな。では夜中に落ちたら起こしてやろう。でないとまた寝呆けて寝台に戻るだろうし、朝になったら全部忘れて、落ちてないと言い張るだろうからな」
にやりと笑って言うと、枕が飛んできた。尚隆はそれを顔に当たる寸前で受け止める。
六太が寝台から飛び降りて灯りをふっと吹き消したので、室内は暗闇に包まれた。
「返せ」
という六太の声と同時に、尚隆の手から枕が奪い取られた。自分で投げつけてきたくせに、と尚隆は可笑しくて仕方なかったが、笑うのはやめておいた。ごそごそと衾褥に潜り込む六太に向かって声をかける。
「落ちないよう使令に支えてもらうのは、なしだぞ」
「そんなズルしねえよ!莫迦にすんな」
六太の声が勢いよく返ってきて、尚隆は吹き出しそうになるのを抑え、喉の奥だけで笑った。

実際のところ、六太は毎回のように寝台から落ち、自力で戻る時とそのまま床で眠っている時がほぼ半々だった。尚隆は物音で必ず目を覚ます。そして六太が起き上がる気配のない場合には、尚隆が抱き上げて寝台に戻しているのだった。まったく手の掛かる餓鬼だ、とぼやきながら。
だが六太は自力で戻った時ですら、半分は覚えてないらしい。尚隆が戻してやることもあるのだと言ったら、六太はどんな顔をしただろうか。

尚隆も寝台に横たわり、掛布を被って目を閉じる。ふと、夢の中なのに眠るのか、とどうでもいいことを考えた。

84「二つの道」10:2018/06/19(火) 15:32:37
真夜中、どさっという物音で目を覚ました尚隆は、二つの寝台の間の床に視線を落とす。床の上には、丸くなっている小さな身体があった。小窓から仄かな月明かりだけが射す中、床に広がった金髪は、その僅かな光を弾いて淡く輝いていた。
やはり落ちたな、と尚隆は内心だけで笑って、それを少しの間見つめていた。
六太が起き上がる気配がないので、尚隆は起き出して寝台から降り、床に落ちた金色の塊の傍らに片膝をついた。
落ちたら起こすと言ったものの、熟睡している六太を見るとそんな気にはならなかった。無理に起こしたら不機嫌になるのも確実だ。だがこのまま元に戻しては、六太は自分が落ちたことに気がつかない。さてどうしたものかと尚隆は思案する。
束の間の思案の末、尚隆は六太の身体を抱き上げて、自分の寝台にそっと下ろした。尚隆もその脇に横たわる。狭い寝台に並んで寝るのは不可能で、六太を腕の中に抱き込むようにしてから掛布を被った。
寒い冬の夜、小さな身体の温もりが心地良い。すやすや眠る寝顔は、あどけないほど幼く見えた。目を瞑ると、六太の寝息だけが至近距離から耳に届く。尚隆の胸中は、名状しがたい暖かさに満たされた。
六太が目を覚ましたら驚くだろうと思うと、自然と頰が緩んだ。

冬の長い夜が明けた翌朝、腕の中の六太の身動きで尚隆は目を覚ました。暖かくて心地良いのか、六太はもぞもぞと動いて体勢を変えてから、また寝息を立て始めた。
尚隆は微笑して、その無防備な寝顔を暫く観察してから、六太の肩を揺すった。
「六太、起きろ。朝だぞ」
「んー……」
六太の瞼が少しだけ上がり、また閉じた。かと思ったら再びぱっと開いて、驚愕の眼差しで尚隆の顔を凝視した。
「やっと目が覚めたか」
唖然とした顔をして、全く状況を飲み込めてなさそうな六太に、尚隆はにやりと笑ってみせた。
「なん……で、お前……」
「言っておくが、侵入者はお前のほうだぞ」
「……へ?」
六太は何度か瞬いてから、がばっと起き上がり、隣の寝台を見た。そちらが自分の寝台であることを認識したのか、尚隆に視線を戻してから、
「……なんで、おれ、こっちにいんの」
と、呟くような声で訊いてきた。
「お前が夜中に寝台から落ちたから、こっちに拾い上げたんだが。起こしても起きんのでな」
「……」
六太は何かを言いかけたが、結局口をつぐんで視線を逸らした。尚隆は身を起こして寝台の上に胡座をかくと、金色の頭をぽんと叩いた。
「まあ、そういうわけで予想通りお前は落ちたから、賭けは俺の勝ちだな」
「……そんな賭け、おれは乗ってねえぞ」
「賭けには乗っとらんが、絶対落ちないと宣言しなかったか?」
わざと意地悪げな言い方をすると、六太は憮然とした表情でそっぽを向き、少しの間沈黙した。
「……落ちたら起こすって言ったくせに。ちゃんと起こさなかったら、落ちたかどうかおれには分かんないじゃん」
そっぽを向いたまま、六太はぶつぶつと文句を言う。尚隆は笑い出したくなるのをこらえた。
「嘘だと思うなら、沃飛に訊いてみるといい。六太が落ちたと証言するだろうよ」
「やだ。そんな証言させるために使令がいるわけじゃねえもん」
拗ねたような声に、尚隆はこらえきれず吹き出した。声を上げて笑う尚隆を、六太は睨みつけてきた。

85「二つの道」11:2018/06/19(火) 15:34:43
ひとしきり笑ってから、尚隆は右手を六太の肩に置いた。
「六太。……黙っておこうと思うていたが、お前が落ちたことを認めたくないのなら、本当のことを教えてやろう」
「––––本当のこと?」
六太は胡散くさいものを見るような目つきになった。尚隆はことさら真面目な表情を作り、真面目くさった声を出した。
「お前は寝台から落ちたわけではない。夜中に自分で起き出して、寂しいから一緒に寝てくれ、と俺に泣きついてき––––」
言い終わらぬうちに、尚隆は顔面に枕を叩きつけられた。距離が近すぎて腕で受け止められず、敢えてよけることもしなかった。
「嘘つけ!そんなこと言うもんか!」
六太は大声でそう言うと、寝台から飛び降りた。ぱっと自分の寝台に駆け寄り、そこの枕も掴んで投げつけてきた。尚隆は難なく腕で受け止める。
「お前が落ちたことを認めんからだ。まあ、どちらの話が真実か、信じたいほうを信じるがいい」
「お前の話なんか、ぜんっぜん、ひとっつも、信用できねえ」
怒ったようにそう言うと、六太は尚隆に背を向けて部屋の隅に置いてある荷物のところまでずかずかと歩いて行った。荷物の中から袍と布を取り出して、身支度を始める。尚隆は寝台の上で胡座をかいたまま頬杖をついて、その後ろ姿を眺めていた。
六太は衣服を整えると、最後に布を頭に巻き付け始める。慣れた手つきで髪をまとめ、それを布の中に隠した。
金色の髪が隠れてしまうのが勿体ない、と尚隆はいつも思う。隠さねばならない事情は重々承知しつつも。
身支度を終えた六太は、尚隆を振り返った。
「おれは先に下行って朝餉食ってるからな」
「ああ、分かった」
「尚隆もさっさと支度しろよ。早くしないとお前の分も食うぞ」
「それは困る」
尚隆が笑って答えると、六太もちらりと笑みを浮かべた。それから六太はくるりと踵を返し、扉を開けて部屋から出て行った。
廊下を駆けていく軽い足音を聞きながら、尚隆は微かに笑い、寝台に仰向けに転がった。
見上げた天井が急速にぼやけて、身体の感覚が失われていく。
––––ああ、夢が終わってしまうのか。
そう思いながら目を閉じた。

86「二つの道」12:2018/06/19(火) 15:37:04
何か鈍い音が聞こえて、尚隆は目を覚ました。
六太が寝台から落ちた時の音に似ている、と莫迦げたことを考える。まだ夢が続いているのか、それとも現実に目が覚めたのだろうか。
顔だけ向きを変えて床に視線を落とす。そこに金色の塊が見え、尚隆は思わず跳ね起きた。上半身を起こしてよく見れば、それは床に落ちた月の光。明るい満月の金色の光が、小さな玻璃窓から射していた。
尚隆は目を閉じて大きく息を吐き出した。次いで、声を立てずに笑った。まったく阿呆らしい。六太が落ちているはずなかろうに。
先程の鈍い音は、おそらく隣の部屋からの物音だろう。薄い壁の向こうからは、今はいびきが聞こえてくる。ひとつだけ寝台のある部屋の中にいるのは、尚隆ただひとりだった。

玄英宮を出奔して半月になる。あの夜、鉤爪のように細かった月が、今宵満ちていた。
尚隆は寝台から足を下ろして座り直し、宙に向かって右手を差し出した。小窓から射す月光をその掌に受ける。何の感触も暖かさもない、冴え冴えとした光。
尚隆は金色に光る掌をじっと見つめた。いつも撫でていた金髪の、しなやかな手触りを思い出しながら。
暫くの間そうしてから、不意に我に返って莫迦莫迦しくなり、尚隆は寝台に身を投げ出した。なんて無益で感傷的な行為だろう。

満月の位置はまだ高く、夜明けまで時間がある。尚隆もう一度寝ようと掛布を被り直して目を瞑った。
しかし、すぐに眠りが訪れないことは確実だった。完全に覚醒してしまった意識は、簡単には鎮まらず、瞼の裏には先程の夢の場面が浮かんでは消えていく。
他愛ない会話、些細な言い合い。六太の笑顔、拗ねたような声。
懐かしいあの夢は、どこまでが真実の記憶だろう。六太は実際にあんな表情をしていたのか、それとも尚隆の脳内で補完され再構築された記憶だったのか。
いずれにせよ、ああして六太と共に旅をすることはもう二度とない。すべきではないと思っている。なんの邪念も下心もなく六太と添い寝していた夢の中の自分とは、もう違うのだから。
二度とないと思うからこそ、今になってあんな夢を見たのだろう。
未練がましいことだ、と尚隆は自嘲した。

あの頃の自分は、どんな想いを抱いていたのだろうか。心の表層ではなく、もっと深いところで。もちろん六太に対してある種の好意は持っていたし、それは自覚していた。だがその感情の種類がいったい何なのか、深く考えたことはなかった。
––––いや、考えることを避けてきたのだ、おそらく無意識のうちに。自覚してしまえば、六太との関係は変わらざるを得ない。だから見ないようにしてきたのだ。
六太には子供のようでいて欲しいと思ったのも、誰かが六太を性欲の対象とする可能性を全く考えてこなかったのも、その理由を突き詰めれば、己の奥底に潜む欲望から目を背けたかっただけなのかもしれない。

これがただの気の迷いなら、どんなに楽だろうか。だがそうではないことを尚隆は理解していた。
長い年月をかけて、意識の奥の深いところで知らぬ間に育ってきた想いは、深く強く根を張っている。臓腑を侵す病のように、気づいた時には手の施しようがないほど蝕まれていて、死ぬまで治りはしないのだと。

87「二つの道」13:2018/06/19(火) 15:39:33
尚隆は長い溜息をついてから瞼を上げ、寝台上で身体の向きを変えて床を見下ろした。月光の塊は位置を変え、足元の方向へ遠ざかっていた。
いま関弓では、月は出ているだろうか。
雁は間もなく雨期に入る。そろそろ雲海の下に雨雲が広がり始め、月を覆い隠しているかもしれない。

あの日、逃げるように関弓山を後にした尚隆は、高岫山を越えて隣国へ入った。それからこの国を一巡りして、現在は国境近くの黒海沿いの街にいる。この街からすぐ東の高岫山を越えれば、そこは雁。騶虞で駆ければ半日で玄英宮に帰れる距離だ。
さすがにそろそろ戻らねばと思う。雨期が始まる前に訪ねたいところもあるのだ。
それなのにぎりぎりまで帰還する日を引き延ばしているのは、六太と顔を合わせることを未だに躊躇しているからだった。

あの日の自分の行動は、愚かとしか言いようがない。獣型の六太に会い、言うべきことを言ったら、すぐに別れるつもりだったのに。乗せてってやる、と六太に言われたのが嬉しかったからといって、隔絶された場所で二人きりになるなど、軽率に過ぎる。
早く仁重殿に行け、と朱衡に促されてから更に一晩時間を置いたのは、いったい何のためだったのか。平常心で六太に会うためではなかったか。
結局のところ、自分は完全には冷静さを取り戻せていなかったのだ。だから不意打ちのような突然の転化に狼狽し、六太に触れたいという衝動が抑えられなかった。
甘い花の香りのする岩棚で、六太の髪を撫で、肌に触れ、腕の中に抱き寄せた時、眩暈がするほどの興奮を覚えた。熱に浮かされたように、強引に唇を奪って舌を絡めた。もっと深いところまで触れたい、全て自分のものにしたい、という欲望が溢れて、理性を押し流そうとしていた。
しかし六太の全力の抵抗と、尚隆の中にかろうじて残っていた僅かな理性が、抱擁する腕を緩めさせた。
六太の平手打ちなど軽いもので、頰の痛みはどうということはなかった。そもそもよけるつもりがあれば簡単によけられただろう。
むしろ尚隆は安堵したのだ。六太が抵抗してくれたことに。自分の暴走を止めてくれたことに。
尚隆の目の前で、六太は袍を羽織りもせずに人型に戻って素肌を晒した。男達に襲われそうになったことがあるというのに無防備すぎる、と思ったが、あれは尚隆に対してある意味での信頼があったことの証左だ。つまり、尚隆は絶対に自分に手を出すことはない、と六太は信じていたのだ。というよりは、手を出すとか出さないとか、そういったことは一切念頭になかっただろう。
それを裏切るような真似をしたのだ。平手打ち程度では罪滅ぼしにもならない。

すまなかったと言った時、六太は傷ついたような表情で絶句した。見上げてくる紫色の瞳は、今にも泣き出しそうに揺らいでいた。尚隆はそれ以上見ていられずに目を逸らし、六太の頭に袍を掛けて隠した。
あの後、六太は泣いたのだろうか。
泣かないでいて欲しいと思う。尚隆の愚かな所業など、早く忘れて欲しいと。
その一方で、泣いていて欲しいと思う自分もいる。あの行為が六太の心をかき乱していればいい、いつまでも深く記憶に刻み込まれていればいいと、心のどこかで願っている。
尚隆は微かに、苦く笑った。
まったく始末が悪い。まさか己の感情がこんなに度し難いものだったとは。

じっと見つめていた金色の光が、床の上からふっと消えた。雲が月を隠してしまったのだ。
不意に訪れた深い闇の中で、尚隆は再び目を閉じる。明日こそは高岫を越えようと、心を決めた。

88書き手:2018/06/19(火) 15:41:33
今回はここまでですが、もう少し尚隆視点が続きます。

言い訳
ラブラブ尚六はもちろん大好物なんですが、デキてないのに距離が近くて仲の良い二人というのも非常に好みなんですよね…
なので過去エピソードとしてそういう話を書きたかった。自己満足。そのために六太の寝相が悪いことにしてしまいましたσ^_^; すいません…

89名無しさん:2018/06/21(木) 23:08:50
わー更新ありがとうございます!!そうですよね、尚隆と六太の距離感もなかなか独特で悶えるものがありますよね!子供と大人、男と少年、主従、文字だけ見れば色気のない単語なのに何故かそこにエロさを見出してしまうのは尚六者だからでしょうか…(*´ω`*)

90書き手:2018/06/22(金) 22:29:11
エロ見出してしまいますよね分かります。
ほんと二人の距離感て他に無いし。
王と麒麟の関係性&五百年も一緒にいる、というだけでめちゃくちゃ萌えるので、もうデキてなくてもいい一緒に生きてるだけでいいよ…と思う賢者タイムの自分と、
でもやっぱりくっつけたい絶対デキてるこいつらと思う完全腐モードの自分と、
行ったり来たりしてますw
今はくっつけるために頑張ってるので、絶賛腐モードですがw

91「二つの道」14:2018/07/17(火) 19:39:44
翌日の午後、尚隆は国境の街にいた。
高岫山の峰に位置する、二つの国に跨る大きな街。その中央にある高い隔壁の向こう側が雁国だ。隔壁には大きな門があり、そこを通過するには旌券の検分を受けねばならない。旌券のない者は脇の建物に通され、官の尋問を受けることになっている。
そちらへ流れていく人々の列を、尚隆は見やった。彼らの大半は疲れ切った表情を浮かべ、足取りは重い。故郷を捨てて逃げてきた荒民だろう。

ここ半月で一巡りした隣国で尚隆が見たものは、妖魔に襲われ無人になった廬、収穫期にもかかわらず荒れ果てた田畑、洪水で決壊したまま放置されている堤。困窮した民は盗みを働き、捕まれば見せしめのような厳罰を受けていた。
––––この国は傾いているのだ、もう誰の目にも明らかなほどに。
最初にその兆候が見えたのは数年前になる。首都を訪れた時、どことなく不安げで、憂鬱そうに不満を漏らす民の様子に、尚隆は傾きつつある国特有の僅かな軋みを感じた。そして一年程前に来た時には、もう止まらないだろうと悟った。そして台輔失道の報が入ったのは半年前。もはや手の施しようがない段階まで来ている。
隣国の王と言えど、他国の内政に関して尚隆は殆ど無力だった。何か手助けできないかと親書を送ってみても、それを黙殺されれば延王としてできることは皆無だ。せいぜい隣国の様子を見に行って国境の警備を増やし、妖魔と荒民に対応する程度のことしかできず、雁まで自力で逃げて来ることのできない民を救う術はなかった。
王朝の死を見届けるのはいったい何度目だろう、と無意味な疑問が頭をよぎる。それを数えるのは、とうの昔にやめていたのに。
死にゆく国、故郷を捨て逃げてくる荒民。
それを目の当たりにするたびに、自分の肩に載っているものの重みを否応なく再認させられる。自ら望んで背負ったその重みは、己の存在意義であるはずなのに、時にひどく煩わしくもあった。

たまの手綱を引き、門を通る。旌券を検めた門卒は、裏書きを見て驚いたような表情を浮かべ、丁寧な礼をして尚隆を通した。
重苦しかった街の空気は、門を通過して雁に入ると一変する。整った石畳の広途も両側に並ぶ高い建物も、行き交う民の表情も、全てが明るく見えた。

尚隆は立ち止まり、門の脇の建物へ目を向けた。そこから出てきた人々の多くは、すぐ隣に建つ役所へ誘導されている。そこで荒民であることを申告すれば、当面の生活支援を受けられるようになっているのだ。
安全な場所へ辿り着いたことで、安堵するような表情も見られる。しかし将来への不安は拭い切れないだろう。家も土地もない彼らが雁で生きていくのは容易ではないのだから。
これから間違いなく荒民の数は増える。もう少し対応する人員を増やす必要がありそうだった。
荒民の列から視線を逸らして、尚隆は歩き出した。
雁の内政に大きな問題はなくとも、隣国が荒れれば悪影響は避けられない。時折それが、この上なく理不尽で不毛だと感じることがある。本音を言えば自国民のことだけを考えたいのだ。
だが六太はいつも、荒民を救えと言う。出来る限りのことをしてやりたいと。麒麟が慈悲を与える相手は雁の民だけに限らないのだ。全ての命が救われることを願う生き物だから。

92「二つの道」15:2018/07/17(火) 19:42:14
尚隆の数歩先には、年老いた男がふらつきながら歩いていた。日も高いうちから酒を飲んで酔っ払っているようだ。危なっかしい足取りだと思っていると、その老人は壁にぶつかり、そのままずるずると崩れ落ちた。尚隆はそばに寄って片膝をつき、老人の肩に手をかける。
「おい、爺さん、大丈夫か」
老人の濁った瞳が尚隆に向けられた。酒臭い息を吐き出しながら彼は言う。
「……大丈夫なものか」
老人は酔っているようだが、その声は意外にも明瞭だった。
「随分飲んだようだな。立てるか?」
苦笑して問いかけたが、老人はそれには答えず、尚隆の顔と傍らの騶虞を交互に見やった。
「……あんたは雁の民か。立派な騎獣を持っているし、さぞかし良い暮らしをしているんだろうな。延王の治世は長いし、まだまだ安泰だろう。……羨ましい限りだ」
殆ど独り言のように言いながら、老人は視線を落とした。
治世が長いことと今後が安泰であることは何の関係もあるまい––––尚隆はそう思ったが、もちろん口には出さない。
「……何があったか知らんが、こんなところで倒れていても碌な目に遭わんぞ。とにかく帰ったほうがいい。肩を貸そう」
老人の言った内容には触れずに、尚隆は彼を助け起こそうと腕を伸ばしたが、老いて痩せた手に弱々しく払い除けられた。
「儂は柳から来たんだ。帰るところなどありゃせんよ」
「だが、どこか滞在先があるだろう」
尚隆が推測していた通り、老人は隣国から逃げてきた荒民のようだ。だがここに家はなくとも、役所に申告すれば荒民ための避難所に暫く滞在できるようになっているはずだ。
しかし、老人は首を振った。
「あそこに戻っても仕方ない。……儂を待ってくれてた子は、もうおらんのだ」
老人は低く呟いた。大切なものを失った者の悲哀と寂寥が、その声音に滲んでいる気がした。尚隆が無言で見つめていると、老人は僅かに顔を上げて苦い笑みを佩いた。
「放っておいてくれていい。儂に関わっても何の得にもならんぞ」
自虐めいた言葉に対し、尚隆は敢えて軽薄そうに笑ってみせた。
「俺は人が良すぎるのでな、倒れている奴を放っておいたら寝覚めが悪くて仕方ない。だから爺さんをこのまま放っておくのは、俺のためにならんのだ」
「そうか……」
老人は失笑気味にそう言って、また俯いた。
そのまま黙り込んでいた老人は、暫くしてから不意に口を開いた。
「……なあ、あんたは分かるかい?––––王は不老不死なのに、なぜ王朝は滅ぶのか」
「さあ……考えたこともないな」
無論それは嘘だった。尚隆以上にそれを考えている者は、この世にそう多くはない。

93「二つの道」16:2018/07/17(火) 19:44:25
老人は、そうだろうな、と呟いた。
「雁の民なら空位の時代を知らんだろうが、そりゃあ酷いもんだ。儂はそういう時代に生まれた」
それから老人は訥々と語り始め、尚隆は黙って耳を傾けた。
玉座に王がいなければ、大雨、大雪、蝗害、疫病、渇水、そして妖魔。あらゆる災厄が人々を襲う。それが当たり前の時代に老人は生まれた。民は王の登極を待ち望んだ。そして現王が践祚すると途端に天候が安定し、妖魔は全く出なくなったという。少しずつ豊かになっていく国で、彼は成長し、そして平穏に年老いていった。
だが昨年の夏、状況は一変した。見たこともない程の大雨が降り、川の堤が切れて周辺の廬も農地も全てが濁流に飲み込まれた。元々さほど雨の多くない土地だったから、洪水への備えは殆どなかったのだろう。
生き延びた人々に、更に追い討ちをかけるようなことが起こった。今から数ヶ月前、台輔失道の噂が広まった頃に、里に身を寄せた民を妖魔が襲ったのだ。大人も子供も、何人もの犠牲が出た。
「……だがな、それ以上に堪えたのは、妖魔に襲われた直後の里を強盗に襲われたことだ。妖魔は金目のものを盗んだりせんからな、人がいなくなって盗むのに好都合だと思ったんだろう。実際は盗む価値のあるものなど、殆どなかったがな。……最後に奴らは里に火を放っていった。儂は里家の子供と一緒に逃げて、命だけは助かった。その時……逃げる途中に見てしまったんだ、強盗の顔をな。一人はよく知っている男だった。奴も儂に気づいてな、慌てて顔を隠しおった……」
老人は重く溜息を落として、痛ましい笑みを浮かべた。
「天災も怖い、妖魔も怖い。だがそれ以上に恐ろしいのは、人の心が惑うことだ……。これから国が荒れて、益々酷くなるだろう」
正鵠を得ていると尚隆は思ったが、肯定も否定も言葉には出さなかった。

一緒に逃げた里家の子は、妖魔に襲われた際に腕に重傷を負ったという。その子供と二人で近くの里に身を寄せたが、そこも困窮していることに変わりはなく、老人と大怪我をした子供は厄介者でしかなかった。しかも子供の怪我は、治るどころか悪くなる一方だった。老人は、瘍医に診せようと少し離れた大きな街まで子供を連れて行ったのだが、なかなか瘍医が見つからない。
「探し回っているうちに、瘍医を紹介してやると言って、とんでもない大金を要求してくる奴らが現われた。無論そんな金はなかったし、そういう連中が紹介するのは藪医者か偽者に決まってる。……どうせ里に戻っても厄介者なら、いっそのこと雁へ行こうと決意したんだ。雁のほうが、ずっと腕の良い瘍医がいるだろうと思ってな」
日に日に体調が悪くなっていく子供を連れて、老人は雁を目指した。そしてひと月ほど前にようやくこの街に辿り着いた。役所に申告すると、病人や怪我人を収容する施設に入所することになった。
そこの瘍医は親身になって診察してくれたというが、突きつけられたのは残酷な現実だった。––––もはや手遅れだったのだ。怪我をした子供の腕は壊死し、その毒素が全身に回っていた。もっとずっと早い段階で腕を切り落としていれば、あるいは助かったかもしれない。

94「二つの道」17:2018/07/17(火) 19:46:31
「十になったばかりの聡くて優しい男の子だった。……儂はあの子を助けてやりたかった。助けたくて雁まで来たのに……間に合わなかった。あの子は長く苦しんで––––二日前に死んだ」
感情を押し殺した低い声音で呟いて、老人はうなだれた。
それはよくあることではあった。命からがら逃げて来て、精根尽き果ててこの街で死んでしまう荒民は少なくない。
老人と死んだ子供に対して憐憫を抱かずにおれないが、陳腐な慰めの言葉など、この老人には響くまい。おそらく彼は苦しみを吐き出したいだけなのだから。
「それは……つらかったろう」
誰が、とは言わなかった。もちろん二人ともだ。
「……そうだ、あの子にはつらい思いをさせてしまった。柳にだって、まともな瘍医の何人かはいただろう。諦めずに探せば、見つけられたかもしれん。そうしたら間に合ってたかもしれんのにな……。結局、雁の瘍医に診せるなんてのはただの言い訳で、儂は逃げたかっただけなんだ。これから国を覆う荒廃が恐ろしくて、早く逃げ出したかった。……あの子は、儂のせいで死んだも同然だ」
「––––爺さんのせいではないだろう」
自責の念に駆られた老人に対し、その言葉は殆ど反射的に尚隆の口をついて出た。
しかし老人はうなだれたまま首を振った。
「儂のせいではなかったとしてもだ。雁に着けば絶対に治してもらえるから頑張れ、と言って、無理をさせてここまで来たんだ。だが余計にあの子を苦しませただけだ……」
老人は握りしめた両手の拳で顔を覆った。
「もう柳は終わりだ。もうすぐ空位の時代が来る。儂は老い先短いから、どうせ次の王が立つまで生きられん。だがあの子はまだ十だったんだ。大人になる頃には、故郷に帰れるようになったかもしれんのに……儂より先に、死んでしもうた……」
最後には嗚咽が混じり、ついに老人は泣き崩れた。尚隆は無言のまま、老人の痩せた背をそっと撫でてやった。かける言葉は何も持ち合わせていなかった。
暫くの間、老人は肩を震わせて泣いていたが、やがて落ち着きを取り戻したようで、しゃがれた声が尚隆の耳に届いた。
「……すまなかった。年寄りのたわごとを長々と聞かせてしまったな……」
いや、と尚隆は軽く首を振る。
「迷惑ついでに、肩を貸してくれんか。……儂を待つ子はいなくとも、今はあそこに帰るしかない」
尚隆はそれに頷き、半ば担ぐような状態で老人に肩を貸して立ち上がった。歩き出すと、老人は操り人形のようなぎこちない動きながらも、なんとか足を進め始めた。

95「二つの道」18:2018/07/17(火) 19:48:37
「儂が生まれたのは空位の時代で、このままだと、死ぬのも空位の時代だろう。……人の短い一生よりも不老不死の王の在位のほうが短いなんて、おかしいと思わんか」
俯いて歩きながら、老人は冗談のような口調でそう言い出した。
「おかしいな、確かに」
尚隆も軽く応じる。
「そうだろう?」
老人は笑ったが、尚隆は頷くだけにとどめた。
笑いを収めて少し沈黙した後、老人は声を落として問うてきた。
「––––あんたは、劉王は禅譲なさると思うかね?」
「……さてな」
尚隆はそう答えたが、禅譲しないだろうと確信していた。その気があればとうにしているはずだ。失道から既に半年、無為に玉座に居座り続けている王が、今更禅譲するとは思えなかった。
だがこの老人は、王朝の終焉が避けられぬのなら、せめて禅譲して麒麟を残して欲しいと願っているだろう。それが彼にとっての最後の希望であろうことを、尚隆は理解していた。
麒麟が残されれば空位は長く続かない。ひょっとしたら生きているうちに故郷に帰れるかもしれない。だがこのまま麒麟が死ねば、次王が立つまでどれだけの年月を待てば良いのか。十年か、二十年か。老いた彼には遥か遠い未来に思えるだろう。
老人は、微かに笑ったようだった。
「……なあ、あんた。儂と賭けをせんか?」
「賭け?」
「王が禅譲するか、しないか。あんたはどっちに賭ける?」
咄嗟に言葉を返せず尚隆が黙っていると、老人は苦笑した。
「こんな賭け、柳の民とはできん。……儂はな、禅譲しないほうに賭けるぞ。台輔はもうすぐ亡くなる。王は自ら玉座を下りる気はないんだろう。天に引きずり下ろされるまで、しがみついてるつもりなんだ」
その通りだろうと尚隆も思う。だが老人の言葉には、諦観とは程遠い何かが含まれているように感じられた。
尚隆は僅かに逡巡した後に、
「……俺は賭け事は好きだが、しょっちゅう大負けするんだ。だから、こういうことに賭ける時は、自分の望みとは逆に賭けることにしている」
老人は少しだけ顔を上げて、怪訝そうな視線を向けてきた。
「爺さんは禅譲するほうに賭けたほうがいい。それが望みなんだろう?俺もそう望んでいるんだ。––––だから、俺が禅譲しないほうに賭ける」
「……それで、あんたが大負けするってわけか?」
「そうだ。––––この騎獣を賭けてもいいぞ」
笑って、傍らに従う騶虞をちらりと見やると、たまは抗議するように小さく唸った。
老人がくつくつと笑い声をたてた。
「そりゃあ、いい。故郷へ帰るにも便利だろう。……だが儂には賭ける騎獣も金もないから駄目だ。賭けるものの釣り合いが取れんと不公平だろう」
「俺は構わんよ。もし爺さんが負けたら、うまい酒の一杯でも奢ってくれればいい」
「欲がないな、あんたは。……だがやはり駄目だ。そもそも騎獣の乗り方も知らんし、世話をするのも難儀だろう」
だから、と言って老人は顔を上げて尚隆と視線を合わせて笑った。
「もし儂が勝って台輔が残されて……そしてすぐに新王が践祚したら、その立派な騎獣で儂を故郷まで送ってくれないか」
「……ああ、分かった」
「じゃあ、賭けは成立だ」
老人はどこか吹っ切れたように笑って、街路の前方に顔を向けた。
「ああ……見えてきた、あの建物だ」
老人は痩せた腕を上げ、少し先の白い壁の建物を指差した。

96「二つの道」19:2018/07/17(火) 19:50:52
一年程前、隣国の王朝の死を確信した尚隆は、荒民の受け入れ態勢を整えるよう各官府に指示を出した。老人が指した建物は、その一環として新設されたもので、瘍医が常駐し怪我人や病人を受け入れる施設であった。尚隆が実際に見たのは初めてだったが、この真新しい建物の眩しいほどの白さは、何やら能天気で、荒民が入所するにはそぐわないような気がした。
門までゆっくりと歩いて近付き、門前にいる守衛に老人を任せると、老人に別れを告げて尚隆は踵を返した。
「世話になったな。……本当に、ありがとう」
背後から老人の声が聞こえ、尚隆は肩越しに振り返る。
「礼を言われる程のことをした覚えはないな」
笑ってそう言って、老人に片手を軽く上げてみせてから、尚隆はまた前を向き騶虞の手綱を引いて歩き出した。

病人でも怪我人でもない老人は、間もなくこの施設から出なければならない。何かしら仕事を斡旋してもらうのか、それとも里家に入るのか。いずれにせよ、賭けの結果が出る頃にはどこか別の場所に移っているはずだ。それを承知しているだろうに、老人は名乗りもしなかった。尚隆の名も訊いてこなかった。つまりあの賭けは、この場限りの戯れ言のつもりだろう。
だが尚隆がその気になれば、荒民の行き先を調べるのはそう難しいことではない。万が一老人が賭けに勝ったら、約束通り騶虞で送ってやろうと思っていた。尚隆はそうなることを願っているのだ。

王朝の終焉が避けられぬなら、せめて禅譲して欲しいと願っているのは、あの老人だけではない。柳の民はもちろんのこと、尚隆自身もそれを願っている。もう天意を失ったのだから早く麒麟を手放してやれ、と。
そうすれば残された麒麟は、程なくして次の王を選ぶ。民にとっても麒麟にとっても、それが最も幸福な形だろう。

この世界で一番穏やかな王朝の死は、禅譲だ。国土を荒らし尽くす前に、民を殺し尽くす前に、麒麟を手放してやり、王はさっさと死ねば良いのだ。
己の死に際は具体的に想像できるものではない。だが漠然と、六太には美しいままの雁を残してやろう、と思っていたような気がする。いつか全てを天に返すのだと。元々全てを失ってここに来たのだから、ためらう理由などないはずだ。玉座の重みに耐えかねたら、もしくは背負うことに飽いたら、緑の山野が欲しいと言った子供に約束通り一国を返そう––––そう思っていたはずだ、かつては。

麒麟が失道に罹れば、王の命運は尽きたと言っていい。手をこまねいていれば麒麟は死に、そして王も死ぬ。それは定められたこの世の摂理だ。禅譲せずとも己の死が不可避なのに、禅譲を選ぶ王は少ない。往生際悪く最期まで玉座にしがみつくのは何故なのか、昔の尚隆には不可解だった。
だが今は分かるような気がする。
王が最期までしがみついているのは、おそらく玉座ではなく己の麒麟なのだ。その身勝手な執着心が数多の民を災禍へ投げ込むと承知していながら、それでも手放すことができないのだろう。

––––翌日、尚隆が玄英宮に帰還した夜、鳳が隣国の台輔の死を鳴いた。

97書き手:2018/07/17(火) 19:53:44
萌えどころのない暗い話ですみません…
やっと玄英宮に戻ってきました。
次回は朱衡視点の予定です。

98名無しさん:2018/07/19(木) 06:22:21
更新お疲れさまです!
絡みはなくとも、ああ尚隆かっこいいなぁと改めて思える台詞の応酬に
萌えさせていただきました。
寝床から落っこちる六太もかわいい!
続き楽しみにしております。

99名無しさん:2018/07/20(金) 21:20:37
今回のお話とても素敵でした!本当に十二国記の世界観で不自由なく読めて尚隆の人柄と王の器を改めて感じ、惚れ直した感じがしますw 王は麒麟を手放したくないから、の説納得です。
次回の更新楽しみにしています!

100書き手:2018/07/21(土) 07:17:25
>>98 >>99
ありがとうございます。
尚隆かっこいいとか、惚れ直したとか言っていただけるとは思わなかったので、望外の喜びです(T ^ T)
王朝の終焉に関する尚隆の思いを書きつつ、荒民との会話の中で尚隆らしさを見せたいな、と思っていました。うまく表現できたか自分ではよく分からなかったので、本当に嬉しい……
続きも頑張ります!

101「二つの道」20:2018/07/30(月) 19:44:46
朱衡が喧嘩のことを問い詰めた日の深夜、六太は玄英宮を抜け出してしまった。
もしや自分を避けるために出奔したのではないか、と朱衡は思ったが、たとえそうだったとしても今更言ったことを取り消せるはずもない。誰かに相談するわけにもいかず、少々落ち着かない気持ちで六太の帰りを待っていた。
二、三日で戻る、と近習に宣言した通り、六太は二日後の夕刻には戻ってきたので、朱衡は密かに安堵した。

翌日内宮で顔を合わせると、六太は普段通りの悪戯めいた笑みを浮かべて「よう」と声をかけてきた。
あっけらかんとした様子の六太に些か虚をつかれながら、朱衡も笑顔を作って拱手する。
「どちらへ行ってらしたのですか?」
「雁のあちこち見て回ってた。今年の小麦も稲も豊作だなー。内陸部では刈り入れが始まっててさ、みんな忙しそうに働いてた」
嬉しそうに六太は言って、各地の様子を話してくれた。
六太は毎年この時期に、黄金色に実った田畑を見て回っているようだった。そして今年も豊作だったと嬉しそうに戻ってくる。そういう時、朱衡はこの少年の仁獣らしさを垣間見る思いがするのだ。
ひとしきり話を聞いたところで、何気ないふうを装って尚隆の話題を振ってみた。
「主上はまだ遠くへ行っておられるのでしょうか?」
六太は特に表情を変えることなく、少し遠くを見るように顔を上げた。
「うん。––––方角から考えて、柳じゃねえかな」
「柳?またですか」
「多分な」
「一年程前と、つい数ヶ月前にも行ったばかりでしょうに」
やや呆れた声で朱衡が言うと、六太は視線をこちらに戻して軽く肩を竦めた。
「ほんと、あいつも物好きだよなー。傾いた国に何度も行って、見て回るなんてさ」
「何か気になることがあって見に行ったのでしょうか」
「さあ?」
六太は首を傾げる。
「ま、雨期に入る前には帰ってくるんじゃねえの?」
軽い口調で言う六太に、そうですね、と朱衡は頷いた。

六太の様子は、拍子抜けするほどいつも通りだった。尚隆の話題になっても別段変わった反応を見せるわけでもない。
それから十日余り、六太は朝議に出たり出なかったり、政務をしたりしなかったり、ふらりと王宮から姿を消したりしていた。つまり平常通りに振る舞っているように見えた。
仁重殿の女官にそれとなく探りを入れてみたが、やはり近習から見ても特に気になることはないようだった。
朱衡は肩透かしをくらったような、狐につままれたような、妙な気分になった。先日転変してまで逃げ出したのはいったい何だったのだろう。もちろん六太が落ち込んだりしているよりは余程いいのだが。
どこか釈然としない思いを抱きながらも一応ほっとした朱衡は、今度は尚隆のことが気になりだした。心配という程のことではない。あの王はいつも周囲の予想を斜め上だったり斜め下だったり、とにかく思いもよらぬ方向へ裏切ってくれる人だ。今回の件も、真相はおそらく朱衡の想像の埒外にあるのだろう。
とりあえず王が帰還したらすぐ報告するよう、禁門の門番に申しつけることにした。私邸に退がった後でも構わないので知らせて欲しいと。普段はそんなことはしないのだが、やはり出奔前の尚隆の様子はずっと朱衡の中で引っかかったままだった。

102「二つの道」21:2018/07/30(月) 19:47:36
やがて関弓山を取り囲む雲海の下に張り付くようにして、雨雲が垂れ込め始める。雨期はもう目前だった。
雲海上の東の空に欠け始めた月が浮かぶ夜、王は玄英宮に帰還した。

その夜、私邸で書物を読んでいた朱衡に王の帰還の知らせと共にもたらされたのは、隣国の台輔登遐の報だった。朱衡は一瞬絶句したが、ひとつ息を吐き出してから、伝達の任を果たした使者に労いの言葉をかけて退がらせた。
これで王朝の死が確定し、空位は長くなることが予想される。台輔失道の報が入った頃から覚悟していたこととはいえ、実際にそうなってみると、嘆息を漏らさずにはいられなかった。明日の朝議では荒民対策が緊急の議題になるだろう。
暫くはその対応に追われるだろうから、主従の様子だけを気にしている場合ではなさそうだった。

それから数日の間、朱衡を含め官吏達は忙殺された。普段は隙あらば怠けようとする王と宰輔も、この時ばかりはさすがに真面目に朝議に出席し、荒民への対応についての議論を交わした。
一年程前から荒民に備えて様々な施策を打ってきたので、大筋の方針は変わらない。だが空位が長くなると確定した今、荒民対策も十年、二十年の単位で長期的に考えていかねばならないため、計画の修正を余儀なくされることも多々あった。

朝議や政務の場で主従が共にある姿を、朱衡は何度も目にした。荒民への対応について意見が対立し、軽く言い合うような場面も見られた。
六太はなるべく手厚く支援してやるよう進言するのだが、尚隆は大抵それを却下する。
最低限の支援はするが、人助けは身を削ってまでするものではない、と王は言う。そんなものは長続きするはずがないからだ。延王としてまず第一に考えるべきは雁国民のことであり、長期的視点に立てばなおさら、荒民を優先しすぎるような策を講じるべきではない。
王と麒麟の意見が対立するのはいつものことであり、当然のことでもあった。そもそも物の見方も考え方もまるで違うのだから。両者ともそれを承知の上で、六太は進言し、尚隆はそれを却下するのだろう。
何はともあれ、仕事をする上では二人の間になんら問題があるようには見えなかった。

王の帰還から数日が過ぎ、ある程度の目処がついた頃、朱衡は内殿の執務室へ王を訪ねた。すると王は別室で宰輔と共に休憩中だという。
仕事中以外で主従が一緒にいる様子を見たいとここ数日ずっと密かに願っていた朱衡は、急いでその房室へ向かった。

103「二つの道」22:2018/07/30(月) 19:49:37
扉の前にいた大僕に訊ねてみると、人払いをしているわけではないらしい。朱衡は僅かな緊張感を抱きながら、中に声をかけて入室した。
衝立の陰から出ると、主従が広い部屋の奥、窓の近くで小卓を挟んで向かい合って座っているのが見えた。
「もう無理だって。おれの優位は動かねえよ。さっさと投了しろ」
六太の面倒くさそうな声が聞こえ卓上をよく見れば、碁盤が置かれており白黒の碁石が並んでいる。
碁を打つとは珍しい、と思いながら朱衡は二人の傍らへ歩み寄って行く。六太が頬杖をついて朱衡の方に目を向けた。
「なあ朱衡、これどう考えても白の勝ちだろ」
「……ええ、一目瞭然ですね」
朱衡が盤面を見て頷くと、尚隆はやれやれと溜息をついた。
「仕方ない。––––投了だ」
言いながら尚隆は手の中の黒石を碁笥に放り込み、椅子の背に凭れた。
「あー終わった終わった」
せいせいした、という風情で六太は言い、盤上の碁石を仕分けて白石を碁笥に戻し始めた。
「珍しいですね。お二人で碁を打たれるとは」
「こいつが打とうって言ったんだよ。だから少しは強くなったのかと思ったらさ、全然強くなってねえの」
「今更強くなるわけなかろう。碁石に触ったのも久しぶりだ」
「じゃあなんで勝つまで打つとか言い出したんだよ?もうずっとおれに勝ってないくせに」
「昔は六太のほうが弱かったろうが」
「何百年前の話だよ、それ。おれが碁を覚えてすぐの頃だけだろ?尚隆に負けたのって」
「そうだったか?」
「そうだよ。今は負ける気しねえな。尚隆が勝てそうな相手ってさ、帷湍くらいじゃねえ?」
「あいつは弱いな、確かに」
「お前といい勝負だと思うけど」
尚隆と六太はそんな会話を交わしながら碁石を片付けていく。朱衡は卓の傍らに立ち、二人の表情をさりげなく観察しながら黙ってそれを聞いていた。
さっき緊張しながら入室してきたのが莫迦莫迦しくなるほど、二人の様子は至って普通だった。気まずそうな気配とかぎこちない雰囲気とか、そういったものがほんの少しでもあるのではと気を揉んでいた朱衡は、またもや肩透かしをくらった気分だった。

「じゃあ交代な、朱衡」
石を碁笥に戻し終わった六太が、にっと笑って朱衡を見上げ、椅子から立ち上がった。
「台輔の代わりに主上のお相手をせよ、と?」
「うん、おれはもうやめる。三局打ったもん。あ、もちろんおれの三連勝な」
六太はそう言いながら朱衡の腕を引っ張って、自分が先程まで座っていた椅子に朱衡を座らせた。
「朱衡には勝った覚えがないな」
「私も主上に負けた覚えはございませんね。––––いくつ石を置きますか?」
「置き石は無しだ」
朱衡は瞬いてから、少し首を傾けた。
「勝負になるとは思えませんが」
「だよなー。おれとも置き石なしでやったんだぜ。置碁で勝っても意味ないとか言ってさ。おれより朱衡のほうが強いんだから、尚隆に勝ち目ないよな」
「石を置かせてまで俺に勝たせたいのか、お前達は」
「違うって。実力差がありすぎてつまんない碁になるって言ってんの」
「なるほど、そうかもしれんな」
尚隆は鷹揚に笑った。六太は呆れたような顔で肩を竦める。
「……まあ、いいでしょう。では主上が黒をお持ちください」
朱衡はそう言って、盤上に置かれた白石の碁笥を自分の手元に引き寄せる。尚隆の先番で、最初から結果がほぼ見えている碁の対局は始まった。
「じゃ、おれは戻るわ。手加減せずにやっつけてやれよ、朱衡」
数手打つところまで見てから、六太はそう言って踵を返した。
「承知いたしました」
朱衡が微笑んで請け合うと、向かい側で尚隆が苦笑した。

104「二つの道」23:2018/07/30(月) 19:52:01
六太の姿が衝立の向こうに消え、扉の閉まる音がしてから、朱衡は室内に控える侍官に聞こえない程度に声を落とした。
「台輔とは和解なさったようで、安堵いたしました」
尚隆は意外そうな表情で朱衡を見返してから、笑った。
「なんだ、心配だったか。喧嘩など珍しくもなかろうに」
「ええ、喧嘩自体は珍しくありませんね」
言いながら朱衡は碁石を打つ。それから視線を上げ尚隆の顔を直視して、おもむろに言葉を続けた。
「ですが台輔がお泣きになったようなので、少々驚きまして……」
そう言った途端、尚隆の顔からすっと笑みが引き、両眼が朱衡を射抜いた。そこに一瞬だが剣呑な光が閃いたような気がして、朱衡は声を途切らせた。
王が低い声で訊く。
「––––六太が泣いているのを見たのか、お前は」
「……いいえ」
軽く息を飲んでから、朱衡は努めて平静な声を押し出した。
「泣きそうな顔をなさったように見えただけです。……ですので、主上が台輔を泣かせるようなことを仰ったのかと」
尚隆は笑った。いつも通り、暢気そうに。
「俺との喧嘩くらいであの餓鬼が泣くものか」
「ええ、ただの喧嘩なら、そうでしょうね」
朱衡は意識的に微笑みを浮かべ、敢えて含みのある言い方をした。尚隆は軽く眉を上げて朱衡を見返す。
「なんだ、何か知っているような口振りだな。六太が愚痴をこぼしたか」
「いえ、台輔は何も仰いませんでした。喧嘩のことは全て主上に訊け、と」
「ほう」
それだけ言うと、尚隆は手にしていた碁石を打った。それから互いに無言のまま、十数手が進む。
尚隆は自分からは何も話す気はないのだろう。朱衡も無論そんなことははなから期待していない。
「喧嘩の前お二人でお出掛けになった時、何があったのですか?」
唐突に沈黙を破り、単刀直入に朱衡は問うた。
「別段、変わったことはなかったな」
「では何故すぐにお戻りになったのです」
少しばかり咎めるような口調になった。
尚隆は盤面から目線を上げて、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「いつも早く戻れと喧しいくせに、早く帰ったら帰ったで小言を言うのか?まったく、報われんな」
「小言ではございませんよ。単なる疑問です」
それに対して、尚隆は笑っただけだった。
それから幾つか角度を変えて質問を投げかけてみたが、朱衡の予想していた通り、まともな答えは一切返って来なかった。
そのうち隣国の話題になり、朱衡は王の執務室の訪ねた本来の目的を思い出した。碁を打ちながら、ここ数日の仕事の報告を行う。事務的な会話を交わすうち、朱衡の白石は着々と地を広げ、あっさりと尚隆は投了した。
碁石を片付けてから「そろそろ仕事に戻らねばならん」と溜息をつき、尚隆は立ち上がった。
朱衡も官府に戻ってやるべき仕事があったため、立ち上がって拱手し、辞去の言葉を述べた。

官府へ戻る道すがら、主従が共にいた時の屈託ない様子を朱衡は脳裏に思い浮かべた。
結局あの喧嘩は何だったのだろう。二人の間で無事解決したのなら、それは臣として喜ばしいことではあるが、果たして本当にそうなのか。朱衡は疑念を拭い切れずにいる。
先程ほんの一瞬だけ垣間見た、どこか不穏な王の表情は、朱衡の印象に強く残っていた。

105「二つの道」24:2018/07/30(月) 19:54:02
翌日の午後にまた内殿へ向かった朱衡は、官府へ戻る途中の帷湍と行き合った。帷湍は見るからに上機嫌で、鼻唄でも歌い出しそうな雰囲気だった。
「何かいいことがありましたか」
「まあな」
思い当たる節は二つあったが、そのうちのひとつを朱衡は口に出してみる。
「主上と碁を打って勝ったのでしょう?」
帷湍は驚いたように朱衡の顔を見返した。
「よく分かったな。––––ああ、そういえばお前も昨日打ったらしいな。だからか」
ええ、と微笑んで頷くと、帷湍は満面の笑みを浮かべた。
「あまり手応えがなかったなあ。あいつ以前より弱くなったんじゃないか?」
「あなたといい勝負だと思いますが」
帷湍が軽く顔をしかめたので、朱衡は笑って言葉を継いだ。
「––––と、昨日台輔が仰ってました」
「ああ、台輔がな。……まあ、俺より台輔のほうが強いから言われても仕方あるまい。今日も王と打って連勝したらしいぞ」
「今日も打ってらしたんですか」
「明日も打つそうだ。なんの気まぐれか知らんが、妙にやる気を出しとるようだな」
「……そうですか」
そんなに急にやる気を出したのは何故だろう、と朱衡は少し気にかかる。突然とんでもないことを言ったりやったりする王のことだから、連日碁を打つくらいは単なる気まぐれかもしれないが。
「久々に碁で勝ったし、一昨日言われた仕事も片付いてひと息ついたし、今日は気分がいい」
「急に仕事を増やされましたからね。お疲れ様でした」
朱衡が労いの言葉をかけると、帷湍は晴れやかに笑った。

ここ数日最も忙しかったのは、地官長である帷湍だろう。
まずは現在の義倉の備蓄量と、ここ十年の収穫量の平均値を基に、今後十年間で荒民のために供与できる穀物の量を試算した。一昨日それを報告したところ、凶作だった年の収穫量に基づいた試算もせよ、と王は命じたのだ。雁はここ十年以上毎年豊作だったが、ずっと続く保証はないと。
確かにそれは一理あった。だが一部の地域、一部の農作物の出来が悪いことは多々あれど、雁全域で凶作になるようなことはないはずだ。––––王が玉座にいる限りは。
かなり昔の記録を洗い出さなければならず、仕事を増やされた帷湍は、こんな試算意味あるのか、とぶつぶつ文句を言っていた。
「結果的に意味がなくなることを祈っておきましょう」
朱衡はそう言って帷湍を宥めたのだった。

その翌日、尚隆の碁の相手をさせられたのは、禁軍将軍成笙だった。
隣国が傾けば、国境の警備は光州の州師だけでは荷が重い。そのため妖魔がうろつき始めた頃から、禁軍より人員を割いて国境へ派遣していた。今後長期にわたることを考えれば、一部の兵士に負担がかかりすぎないよう、一定の期間で交代させる必要があるだろう。成笙はそのための警備兵の編成を命じられていた。人員配置、行軍日程、兵の交代時期、兵糧の配分、様々なことに目処をつけ、大司馬を通して奏上し王の裁可を待っていた。
その時に呼び出されたのである。
何か計画に不備があるのかと内殿に駆けつけてみれば、主従が暢気に碁を打っている。
「あーやっと来た。成笙、交代な」
そう言って立ち上がった宰輔に引っ張られ、王の向かい側に座らされた。
この時成笙は軽く顔をしかめただけだったが、どうやら些か立腹していたらしい。くだらないことで呼び出されたからだろう。手加減なしの成笙に手も足も出なかった尚隆は、投了するまでの最短記録を更新した。

それから約十日間、尚隆はほぼ毎日六太と碁を打っていたようだった。
雨期に入った関弓では、雨が降り続いている。いつもふらりと下界へ降りる主従も、さすがに雨期は出奔が減るのが常だった。時間を持て余し気味になる時期なので、今年は碁で暇つぶしをしているのだろう、というのが周囲の官達の見解だった。
一部の碁好きの侍官達は主従の対局をいつも見物し、王が一手打つたびに密かに溜息をついていたとかいなかったとか。
結局六太には一度も勝てなかった尚隆だが、ある日帷湍に接戦の末に勝利した。見物していた周囲の官達はどよめき、帷湍は地団駄踏んで悔しがっていたという。
それからぱったりと王は碁を打たなくなった。

「主上は碁を打たなくなりましたね」
何日か経った頃、ふと朱衡が言ってみると、
「一勝して気が済んだんじゃねえの」
興味なさげに六太はそう言ったのだった。

106書き手:2018/07/30(月) 19:56:47
三官吏と六太の碁の強さは、私の勝手なイメージです。
成笙>朱衡>六太>>>帷湍=尚隆
みたいな。

107名無しさん:2018/08/02(木) 23:42:53
碁石きた
破滅への道を進み出した尚隆さん
このお話ではきっかけとなるのも引き止めるのも六太、というところでしょうか
三官吏が赤子の手をひねるように碁で尚隆を打ち負かす様は実年齢差(人生経験差)を思い出させますね
あ、帷湍は違うかw

108名無しさん:2018/08/11(土) 18:16:05
更新ありがとうございます!碁石の話も絡めての展開ですね、わあ不穏な先行き…でも尚六的にドキドキと胸を高めて続きを待っています!(*´ω`*)

109書き手:2018/08/24(金) 19:24:45
お二方、コメントありがとうございました。

107 >>このお話ではきっかけとなるのも引き止めるのも六太、というところでしょうか
↑そうなんです。要はそういう妄想からスタートして書き始めた話です。
碁石集めに関しては、尚六好きなら何かしらの妄想はするかと思うんですが、初夜と絡めて書こうとしたらなんか長くなってしまったんですよ…

というわけで第四話の続きの六太視点です。
ついに第三話より長くなりました。書き始める前は、この辺はもっと短くさらっと書く予定だったのに(~_~;)

110「二つの道」25:2018/08/24(金) 19:27:51
ある日の午後、六太は雲海に面した広い露台の手摺に座り、下を覗き込んでいた。雲海の底に張り付いている雨雲にところどころ切れ間があり、そこから下界が見える。これから雨雲の切れ間は徐々に広がり、雨期は終わりを迎えるはずだ。
毎年雨期が終わるのが待ち遠しかった。雨が嫌いなわけではないが、下界へ出掛けるには、やはり晴れているほうがいい。
それなのに今の六太は、待ち遠しい気持ちよりも、もうすぐ雨期が終わってしまう、という焦りのようなものが強かった。そんなことを感じてしまうのは、雨がやんだら尚隆もまた出奔してしまうと確信しているからだ。
これまではそれを寂しく思ったとしても、焦燥感など抱いたことはなかった。
六太は足をぶらぶら揺らして欄干を蹴りながら、尚隆が隣国から帰還した後、ここひと月の出来事を思い出していた。

尚隆が帰還した夜に隣国の台輔登遐の報が入り、翌日の朝議の場で六太と尚隆は半月ぶりに顔を合わせた。
喧嘩とその後のあれこれは、六太の私的な問題であり、国の大事の前には些事に過ぎない。皮肉なことに隣国に不幸があったがゆえに、あの一連の出来事を意識の外に置いておくことは予想していたより容易だった。
尚隆の態度も特に喧嘩の前と変わらない。政務のことで色々と意見を交わしているうちに、顔を合わす前に密かに抱いていた妙な緊張感は、やがてなくなっていった。
以前と何も変わらぬ王の振る舞いに、六太はほっとした。尚隆の態度が変わらないなら自分も以前と同じように振る舞える、ちゃんと忘れたふりができると思ったからだ。

碁に誘われた時はかなり意外で驚いたが、碁は何かと好都合だと思った。二人で向かい合って座っていても、ほぼずっと盤面を見ているので相手の顔をあまり見なくても済むし、特に会話も必要ない。
尚隆は十日余りの間、毎日六太と打った。その後に他の官と日替わりで打ち、帷湍に勝利したのを最後にそれきり打たなくなった。
突然碁を打ち始めたのも、ぱったりやめたのも、ただの気まぐれだろうと特に理由は考えなかった。
それとは別に六太は自分の中で引っかかるものがあったからだ。何かが物足りないと感じるのに、それが何なのか分からなくて、六太は僅かな苛立ちを感じていた。

そんな中、碁を打たなくなって何日か経った頃、王の執務室で尚隆が書類の処理をする様子を、少し離れた卓上に座って眺めていた時のことだった。
書類の内容を確認してから署名し、筆を置いて御璽を押す。その一連の動作をする尚隆の手を、六太はじっと見つめていた。
そうして何通かの処理を終えてから、傍らに控えていた侍官に各官府に届けるよう指示を出すと、尚隆の手はその侍官の上腕を軽く叩いた。
それを目にした途端に心臓が跳ねて、不意に六太は理解した。なぜ物足りないと感じていたのかを。
尚隆が六太に全く触れてこないからだ。帰還してから二十日以上、毎日顔を合わせているというのに、肩を叩くとか頭を撫でるとか、以前は当たり前のようにあった接触が今は一切ない。
気づいて六太は愕然とした。そんなくだらないことで自分は苛立っていたというのか。
しかしそれを自覚したことで、目の前にかかっていた靄が消えて視界が晴れたような感じがする。その「くだらないこと」が苛立ちの原因であったと認めないわけにはいかなかった。

111「二つの道」26:2018/08/24(金) 19:30:25
尚隆が椅子から立ち上がり、軽く伸びをしながらこちらに背を向け窓の方へ歩いて行った。その広い背中を見やりながら、六太は考える。
いつも尚隆は、どんな場面で触れてきただろうか。改めて思い出そうとしてみてもありふれた場面しか浮かばなくて、尚隆が敢えて触れてこないのか、それともたまたま触れる機会がなかっただけなのか、よく分からなかった。
やがて侍官が全ての書類を文箱に収めて、それを携え執務室を退出して行く。六太はそれを漫然と目で追って、衝立の陰に消えるのを見送った。
「尚隆……」
扉が閉まる音が聞こえてから、六太は殆ど無意識に呟いた。はっとして視線を振り向けると、尚隆は窓のそばに立ったまま振り返ってこちらを見ている。
「なんだ」
「……」
何を言おうとして名を呼んだのだろう。
なんで触れてこないんだと訊くつもりか。それとも、頭を撫でてほしいとでも言うつもりなのか。
冗談じゃない、まるで幼子のような要求ではないか。何百年も生きているくせに、あまりにも幼稚な甘えだ。そもそも他国の成獣した麒麟達は、王に頭を撫でられたりするものだろうか。

「六太?」
訝しげに呼ぶ声で我に返り、一瞬のうちに頭の中を駆け巡った思考を脇へ押しのけて、六太は全く関係ないことを口に出した。
「……最近、珍しく真面目に仕事してんな」
ああ、と言ってから尚隆はにやりと笑った。
「今のうちにある程度片付けておいたほうが、雨がやんでから好き勝手できるからな」
「やっぱりそういう魂胆か」
六太も笑った。正確に言えば笑顔を作ることに成功した。
「お前は靖州侯の仕事は片付いているのか?あまりサボっていると、下界が晴れているのに出掛けられぬ苦痛を味わう羽目になるぞ」
「そんな羽目にならねーよ。おれは尚隆が外でふらふらしてる間も真面目に仕事してたし」
「ほう、真面目にな」
疑わしいな、と尚隆は笑みを浮かべた。
六太は座っていた卓から、すとんと降りた。もっと尚隆に近付きたくなった。すぐそばに寄れば触れてくるかもしれないと思って。
六太が傍らに歩み寄る前に、尚隆は再び窓に向き直り、腰高窓の枠に両手をかけて外へ目をやった。その隣に立った六太は、窓枠に肘を載せて頬杖をついた。
ほんの少し手を動かせば触れるくらいの僅かな距離をおいて、二人は窓際に並んで立つ。
外を見やりながら、六太は視界の片隅に尚隆の手をとらえる。その手は窓枠に載ったまま全く動かなかった。

六太は窓の外に意識を向けた。見上げれば晩秋の空はいつも通り晴れ渡っているが、見下ろすと雲海の下は雨雲が覆い尽くしている。晴れていれば下界の豊かな色彩が透けて見える海は、今は日の光を反射した雲の白一色で塗り潰されていた。
「下界、全然見えないな」
「見えんな。まだまだ雨雲が厚い」
「雨期が終わるまで、あと十日くらいかなぁ」
「まあ、それくらいだろうな」
他愛ない会話を交わしながら隣を見上げると、雲海を見下ろす尚隆の横顔が、手を伸ばせば届く距離にある。
よく考えたら、こんなに近付いたのはあの時以来だ。そう思いついたら急に、胸の奥をぎゅっと掴まれたような痛みを覚えた。
思い出したくない、と反射的に強く思い尚隆の横顔から視線を逸らす。
それと同時に、ある考えが閃いた。
ひょっとしたら、六太が思っていた以上に尚隆はあの日のことを気にしていて、悪いことをしたと反省しているのだろうか。触れてこないのは、尚隆なりの気遣いなのかもしれない。
もしそうだとしたら、そんなのもう気にしないでほしい。以前と同じようにしてくれたらいいのに。
でもそれを口には出せなかった。
忘れてくれと言われて、忘れると決めたのだ。気にするな、などと言ってしまえば、六太が忘れられずにいるとわざわざ白状するようなものではないか。そもそも本当に尚隆が気にしているのかどうかだって分からないのに。

112「二つの道」27:2018/08/24(金) 19:32:37
「失礼いたします。––––台輔」
六太が悶々と考えているうちに、背後から声をかけられた。人払いをしているわけではないので、王の執務室は何人もの官吏が出入りしている。
振り返ると下官が膝をついて畏まっていた。
「なに?」
下官が一礼してから告げたのは、靖州令尹からの伝言だった。内殿での用事が終わり次第、広徳殿に戻ってほしいと。
それを隣で聞いていた尚隆が軽く笑った。
「呼び出しか。やはり靖州侯の仕事が全然片付いてないんだろう」
「そんなことない。ちゃんとやることやってたって」
尚隆に言い返してから、六太は下官に問う。
「火急の用件か?」
「いいえ、今日中であれば良いようです。台輔のご都合がつき次第お戻りくだされば、結構でございます」
「あーそう。都合がつき次第、ね。じゃあ……戻るかな」
無論六太とて王の執務室まで遊びに来ているわけではない。宰輔という立場上、王の政務を補佐する役目があり、尚隆の政務内容を把握し、進言諫言を行うのが六太の仕事でもある。––––というのは理由の半分に過ぎず、残りの半分は、単に尚隆のそばにいたいだけなのだが。
改めてそう考えると自分がひどく尚隆に甘えているような気がして、あまりの子供っぽさに嫌気がさしてきた。
なんだか尚隆の顔を再び見上げる気にはなれずに、ちらりと彼の大きな手に視線を向けた。今は片手だけが窓枠に載っていた。
じゃあな、と言って、六太は窓のそばから離れて行く。ああ、と尚隆の声が返ってきた。
尚隆に背を向けて歩き出す時、やはり何か物足りなく感じた。そしてその理由を六太は分かってしまった。
––––以前はこういう場面で、肩とか背中とかを尚隆に軽く叩かれたりしてたんだ。
六太は下官を伴って扉の方へ向かいながら、やっぱり尚隆は敢えて触れてこないんだ、と確信を持った。

あれから数日以上経過したが、特に状況に変化はなかった。一見、尚隆の態度は以前と全く変わらないのに、一指たりとも触れてこない。
それどころか若干距離を取られているような気さえする。六太が手を伸ばしても届かない、でも尚隆の長い腕なら届きそうな、そんな距離感。
そして尚隆は手を伸ばしてこない。

露台の手摺に座った六太の踵は、寄せて返す波音と呼応するように、何度も繰り返し欄干に当たる。見下ろす雨雲の切れ間がさっきより広がっているような気がした。
あと二、三日で雨期が明けて冬が到来するだろう。そして尚隆はどこかへ行ってしまうのだ。
現在六太の精神は、焦燥と逡巡に大部分を占拠されている。
––––獣の姿なら、尚隆は撫でてくれるだろうか。
ふと何日か前に思いついてから、その考えがずっと六太の頭から離れない。
そうまでして撫でてもらいたいのか、と自分の甘えにうんざりするのだが、その考えを無視することはどうしてもできずにいた。

113「二つの道」28:2018/08/24(金) 19:35:03
眼下の雲が風に流されていく。切れ間から、関弓の街に久しぶりの陽光が射しているのが見えた。下界から見上げれば、雨雲の切れ間に蒼穹が覗いているだろう。
六太は意を決して、僅かに顔を仰向けた。目を瞑って額に気を集める。全身の感覚が一瞬だけ消えて別の回路に切り替わり、身体がふわりと軽くなった。
目を開けた六太は、身体を揺すって背中に掛かる衣服を振り落とし、蹄を鳴らして跳躍する。
「台輔⁉︎」
背後から驚いたような声をかけられた。振り返ると女官が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ちょっと散歩してくる」
「え、散歩?––––どちらへ?」
その声を聞き流し、六太は王気のある方へ駆け出した。

内殿の広い庭院に面した回廊に、六太はその姿を見つけた。傍らには朱衡と、数人の官がいる。周囲の官のうち一人が最初にこちらに気づき、目を見開いて口をぽかんと開けた。
その様子に気づいたのか、尚隆もこちらに視線を向ける。驚いたように目を瞠り、それから破顔した。
「なんだ、六太か」
朱衡も振り向いた。
「––––台輔、どうなさったのです。転変なさるなんて……」
まさか、と言って朱衡は尚隆を見る。
「俺のせいではないぞ」
心外だ、と言いたげに軽く顔をしかめて尚隆は朱衡を見返した。
「別に妙な勅命出されたわけじゃないって。ただの散歩」
「散歩、ですか」
「心配すんな、内宮からは出ないから」
「当たり前です。よもや先月の騒ぎをお忘れではございませんね?」
「忘れてないって。また帷湍に怒鳴られたくないし。––––でも、この姿で散歩したり昼寝すんのは悪くないなぁって思ってさ」
言いながら六太は回廊に降り立ち、尚隆のすぐ脇まで歩み寄って行った。
「散歩や昼寝をするほど暇なのか、六太」
「いや、さっきまで仕事してて休憩中。だから今は散歩だけ。昼寝するほど暇じゃねえよ」
尚隆の手が伸びてきて神獣の頭に載った。その動作はごく自然で、遠慮もためらいもなかった。そのまま手が滑って鬣を撫でられる。その手の暖かい感触は、心地良くて嬉しかった。
「尚隆は?朱衡から小言くらってたのか?」
「まさか。近頃の俺は品行方正だからな。小言などくらうはずがなかろう」
「へえ、品行方正?それってお前に一番似合わない言葉じゃねえの?」
六太が揶揄すると、まったくです、と朱衡が深く頷いた。
「まだたったのひと月です、主上。これが向こう百年くらい続けば、品行方正と申し上げるのもやぶさかではありませんが」
「百年か。––––朱衡も案外気長なことを言う。お前はもっと気が短いと思っていたがな」
「気が長いとか短いとか、そういった問題ではごさいませんよ。永く諸官の模範となるような王であっていただきたいという、拙めのささやかな願いです」
若干嫌味な朱衡の物言いを、尚隆は笑っただけで受け流した。

訊けば二人は共に執務室へ向かうところだという。
「台輔も一緒にいらっしゃいますか?」
「おれは行かない。休憩中って言ったろ?もう少し散歩したら戻る」
にやりと尚隆は笑って、麒麟の首筋をぽんぽんと叩いた。
「お前も品行方正な宰輔と言われるよう、政務に励むことだ」
「尚隆にそういうこと言われると、なんか腹立つな」
尚隆を見上げて言い返してから、六太は回廊の床を蹴って飛び上がる。じゃあな、と言い残して駆け出した。

宙を疾走して仁重殿へ向かう。主殿の臥室に露台から侵入し、驚く近習を室外に追い出してから六太は牀榻に入った。政務に戻る気にはならなかった。
獣型を解いて人の姿に戻ると、すとん、と身体が重くなる。そのまま何も着ずに衾褥に潜り込んだ。
六太は掛布の下で身体を丸め、両手で胸を押さえた。肺が上手く機能してないような気がした。
撫でてもらえたという安堵感と、訳の分からない虚脱感が、胸の内で交錯している。尚隆の手の感触は嬉しかったのに、同時にひどく寂しかった。

114名無しさん:2018/08/25(土) 10:14:19
ああん、尚隆のイケズ!w 六太の意地っ張り度がロマンスを演出してとてももえます…(*´ω`*)

115名無しさん:2018/09/02(日) 22:32:00
獣型になっていそいそと尚隆のそばに寄ってく六太せつないけどかわいい
転変・転化の描写がたくさんあってうれしいです!
美しい獣と少年が姿を変える様子って神秘的で好きです

116書き手:2018/09/12(水) 19:21:50
転変転化の描写私も好きなんで、つい何度も書いてしまいました。原作小説では六太転変しないですしね。
原作で獣型の泰麒を「優美窮まりない獣」て表現するとこ好きなんですよ。やんちゃな六太も転変すれば優美窮まりないんですよ…!
素敵すぎる…(*´꒳`*)

それでは第四話の続き、尚隆視点です。

117「二つの道」29:2018/09/12(水) 19:25:14
関弓山周辺の雨雲が晴れると、待ちかねていたように六太は玄英宮から姿を消してしまった。
それは尚隆も予想していた通りであり、毎年恒例のことだった。雨期の間にある程度真面目に仕事をこなしておけば、諸官も別段苦言を呈することはない。昔は出奔を阻止しようと躍起になっていたこともあったが、今では諦め顔で見逃すようになっている。

本音を言えば、六太にはどこにも行かずに王宮内に留まっていてほしかった。また不逞の輩に目を付けられないとも限らない。使令がいるから実際に危害を加えられることはないと分かっていても、そういった連中の存在自体が尚隆にとっては不愉快だった。
だがそれを理由に六太の行動を縛りたくはなかった。無論、王である尚隆には六太の出奔を禁ずる権限がある。しかし権限を有する者が感情的な理由でそれを濫用することは、暴君への第一歩に他ならない。尚隆は暴君になるつもりはなかった。––––少なくとも、今はなかった。
喧嘩した夜、尚隆は六太に転変を命じ出奔を禁じた。あの時は思いつくまま命じただけで、その意図を自分でも理解できていなかった。だがあの瞬間の心の動きを今は分かっている。
尚隆は人の姿をした六太を見ていたくなかった。それだけなら自分がその場を離れれば済む話だが、他の誰かの目に映るのさえ嫌だった。
つまりは独占欲によるただの我儘に過ぎないのだ。そう悟った時に、ああいう身勝手で感情的な命令は二度とするまい、と尚隆は自戒したのだった。

その夜、尚隆は正寝の一室で夕餉を済ませた後、酒杯を片手に雲海を臨む露台に出た。東の水平線の少し上に、十六夜の月が昇っていた。
僅かに欠けた月を眺めながら、隣国から玄英宮に戻ったのは丁度ひと月前だったな、と尚隆は思いを馳せた。

帰還する際に尚隆が己に課したのは、一つはなるべく以前と同じように振る舞うこと。もう一つは六太に触れないことだった。触れてしまえば、そのまま掌中に収めてしまいたい、という欲が深くなるだけだと分かり切っていたからだ。
だが六太の方から近付いてくるのは止めようがない。窓辺ですぐ隣に立たれた時は、触れたい衝動を抑えるための思わぬ努力を強いられた。それからは意識的に少しの距離を取るよう心掛けた。
完全に二人きりになるのも避けていた。特に人払いを命じなければ複数の官が周囲にいるのが常なので、これはそれほど困難でも不自然でもなかった。

手摺に凭れて酒杯を傾けながら、尚隆は帰還した翌日からのことを思い返した。
半月ぶりに六太と顔を合わせたのは、朝議の場だった。前夜に台輔登遐の報が入ったこともあり、半月ぶりに聞いた六太の第一声は「柳の様子はどうだった?」というものだった。状況から考えれば想定通りの台詞ではあった。尚隆は隣国の様子を簡潔に話し、早急に荒民対策をせねばならん、と溜息をついた。
それから数日は互いにあまり無駄口を叩くことなく、自分達にしては珍しく仕事の話ばかりしていた。六太は以前と変わらず生意気な態度で、遠慮のかけらもなく進言を行う。尚隆と意見が対立しても、臆せず自分の主張を言ってのける。
何事もなかったかのように振る舞う六太を目にして、尚隆は安堵感と共に、ほんの僅かの不満を抱いていた。六太はためらう様子もなく尚隆に近付いてきたが、多少は警戒されるかもしれないと思っていた尚隆は些か不意を突かれたのだ。
あの時のことを、六太はもう気にしていないのだろうか。尚隆の言葉を額面通りに受け取って、ただの冗談だったと忘れてしまったのだろうか。
ふと己の矛盾した思考に苦笑して、尚隆は酒杯を煽る。流れ落ちる液体が喉の奥を灼いた。
––––忘れてくれと言ったのは自分だろうに、いったい何が不満なのだ。
こんなことを思い煩うくらいなら、いっそあの時、忘れろと言ったのは命令だ、と言ってしまえばよかったのに。

118「二つの道」30:2018/09/12(水) 19:27:35
尚隆はひとつ溜息をつきながら、空になった酒杯を置いて手摺の上に右手を載せた。その硬くて少し冷たい感触の上に掌を滑らせる。手摺に腰掛ける少年の姿が、尚隆の脳裏に鮮やかに浮かんだ。
この露台で時折六太と共に酒を飲んだ。最初は卓に付いて飲んでいても、六太はそのうち酒杯を片手に立ち上がり、手摺にひょいと腰掛けてしまう。毎回そうだった。潮風に煽られた金髪を煩わしげに払い除けながら街の灯りを見下ろしたり、足を揺らして欄干を蹴りながら月や星を見上げたり。酔って身体がふらふらしていることも多く、はたから見ると危なっかしい。落ちるなよ、と尚隆はいつも笑って声をかけた。実際に転落などしないことはもちろん承知していたが。
共に生きてきた長い年月の中で、二人きりのささやかな酒宴はいったい何度あったろうか。思い出せるはずもなく、数え切れる回数でもないはずだ。しかしその回数が今後増えることはないだろう。

右手を手摺から離し、その掌に視線を落とした。六太の金髪のしなやかな手触りと、麒麟の鬣の柔らかい感触と。どちらもこの手に残っている。

先日六太が転変して散歩していたのには驚いたが、むしろそのほうが気が楽だと思った。ずっと獣の姿のままでいればいい。そうすれば、六太は人ならざる生き物であり、天のものであると、己の感情を納得させられるような気がした。
たまを撫でる時と同じような気分で麒麟の頭を撫でたが、六太はどう感じたのだろうか。獣と人では撫でられた時の感覚が違うと言っていたから、嫌ではなかっただろうと思うが、本人に訊くつもりは全くなかった。
もちろん人型の六太が、尚隆に触れられることを本気で嫌がると思っているわけではない。
この手を伸ばしたら六太は拒みはしないだろう。それどころか尚隆が本気で求めれば、たとえ六太の本意ではなくとも、全てを捧げてくれるだろう、とすら思っている。だがそれは言うまでもなく、尚隆が王であり六太が麒麟だからだ。王への思慕か、それとも慈悲か。いずれにせよ天に与えられた麒麟の本能に過ぎない。
玉座を背負う者に天より贈られる麒麟という生き物は、王が手を伸ばせば届く絶妙な位置にぶら下げられた甘美な餌のように思える。
ひとたび喰らいつけば離れることはかなわず、王の責務を蔑ろにして耽溺すれば、忽ちそれは毒餌となる。そして最終的には王は麒麟に見放される。お前はもう王として役に立たぬ、と断罪される。その時になれば、王への思慕など儚い幻のように雲散霧消してしまうだろう。

尚隆は目を瞑って右手を握った。爪が食い込むほど強く。この手に残る感触を、早く忘れてしまいたかった。

119「二つの道」31:2018/09/12(水) 19:29:39
翌日の早朝、尚隆も玄英宮を抜け出した。
最初に向かった先は青海沿岸。尚隆は小さな湾に面した小さな街を見下ろす丘の上に立った。雨期が開けて晴れ渡った空の下、視線を巡らせて眼前に広がる景色を眺めやる。
紺碧の海に臨む丘と、湾を囲む砂浜と岩場。港の船だまりと、沖合いに浮かぶ小島。

この場所に初めて立ったのは、もうかなり昔のことになるが、この風景を目にした瞬間に尚隆の胸に込み上げて来たものを、今でも鮮明に思い出せる。それは紛うことなき郷愁だった。
似ている、と思った。最初の国を亡くしてから既に百年以上が過ぎ去っていた。少しずつ曖昧になっていくと思われた故郷の記憶が、この景色を見た瞬間、鮮烈に甦ったのだ。
尚隆はその場に立ち尽くしたまま、長い間動けなかった。
しかし尚隆は、感傷に浸るのも郷愁にふけるのも、あまり好きではない。自己憐憫に陥りそうな気がするからだ。暫くその風景を眺めやった後、海辺へ降りることなく丘の上から立ち去った。

それでも一度甦ってしまった故郷の鮮烈な記憶は、簡単には薄れなかった。十年程が経過した頃、尚隆は再びその地を訪れた。
今度は海辺まで降りて丘を仰ぎ見た。故郷では、その丘の上に屋形があったのだ。沖に視線を向けると、湾の先に小島がある。それは海賊城のあった島と似ているように思えた。
街の方を見やると、建物の形状や街並み、そこに住む人々も、何もかもが故郷とは違う。それなのに尚隆は、そこに故郷の面影を重ねた。
それから時折––––とは言っても十年か二十年に一度だが、尚隆はその風景を見に行った。無性に行きたくなる時があった。

何度目に訪れた時だったか、尚隆の脳裏にふと疑問がよぎった。
––––ここは本当に故郷と似ているのだろうか?
ただ単に、郷愁に駆られた己の心がそう思い込んでいるだけなのではないか。百年以上も昔の記憶など、脳内で改竄されていてもおかしくはないのだから。
確かめる術があるとしたら、その唯一の方法は六太を連れて来ることだった。だが、本当にそれで分かるのだろうか。六太は小松の土地のことなど、もう殆ど忘れてしまったのではないか。あの海辺の街は六太にとっては故郷でもなんでもなく、短期間身を寄せていただけだ。むしろ麒麟が厭う戦乱に巻き込まれた、忌避すべき場所かもしれないのだ。
そもそも本当に似ているかどうかを確認することに、何の意味があるのだろう。
尚隆は暫し逡巡した末に、六太を連れて来る案を自分の中で却下した。
怖かったのかもしれない。小松領の景色なんか覚えてないと言われるのも、全然似てないと言われるのも。

120「二つの道」32:2018/09/12(水) 19:31:42
それから数十年後の夏のことだった。共に玄英宮を抜け出した時、海が見たい、と六太が言い出した。
「虚海じゃなくて、内海がいい。黒海か青海」
そう言われて、尚隆は青海沿岸の小さな街を思い出す。
「––––では、青海に行くか」
尚隆が提案すると、うん、と六太は頷いて、嬉しそうに笑った。
その笑顔を目にして尚隆は決めた。あの風景を六太に見せようと。見せるだけでいい、何かを訊くのも言うのもやめておこう。

騶虞で駆けて半日、目的地の丘の上に立つと六太は歓声を上げた。
「眺めいいな、ここ。お前いい場所知ってるじゃん」
無邪気な子供のように目を輝かせて、六太はそこからの景色を見渡した。
尚隆は海を眺めるふりをしつつ、六太の表情を窺う。単に綺麗な景色を見て喜んでいるようにしか見えなかった。
「海辺まで降りようぜ」
言いながら六太は、海辺に続く道へと駆け出した。尚隆はたまの手綱を引き、その後ろに続いて下り坂を歩き出す。
ここからの景色を見ても、六太は明らかに何も感じていない。それがほんの少しだけ、寂しいような気がした。

六太の姿はすぐに見えなくなったが、何度か折れ曲がりながら浜に続く道を、尚隆は足を早めることなく歩いた。やがて潮風に向かう道の先、砂浜に佇む六太の後ろ姿が見えてくる。
尚隆が近付いて行って脇に立つと、
「……おれ、お前と一緒にここに来たことあったっけ?」
海の方を見つめながら、六太が問うてきた。
「いや……ないな」
「そうだよな……」
六太は黙り込み、顎に手を当てて考えるようにしながら、暫くの間あたりを見回していた。
やがて顎から手を離すと、
「……あの岩場で拾われて、あっちの港で釣りをして……。小舟に乗って海に出たこともあった」
指先を動かし周囲に視線を巡らせながら、六太は独り言のように呟いた。尚隆は思わず息を飲んで瞠目し、その横顔を凝視した。
「あの小島には……出城があった」
それから六太は先程いた丘を振り仰ぐ。
「ああ……そうか。あそこには屋形があったんだ」
納得したように、六太は頷いた。
「尚隆、お前さ……」
言いながら六太は振り返る。その紫色の瞳が尚隆の顔に定まったのと同時に、六太の声は途切れた。少し驚いたように六太は目を瞠り、尚隆と視線を合わせたまま口をつぐんだ。
尚隆は、自分が今どんな表情をしているのか分からなかったうえ、どんな表情を作るべきか咄嗟に判断に迷った。数瞬の沈黙の後に、ようやく笑みを浮かべることに成功する。
「なんだ」
尚隆が言うと、六太は瞬いてから視線を逸らし、海を眺めやった。
「……お前、よくここに来るのか?」
「いや……。何十年かに一度くらいだ」
「ふうん……」
六太はそれ以上、何も言わなかった。

海岸を暫く散策してから、もう一度丘に登った。西に傾いた夏の日差しがやけに眩しかった。丘の上から海を眺める少年の横顔は、先刻その場所に立った時とは違っているように思えた。
尚隆も眼下の街と海を見渡した。よく考えたら、六太は城下の漁師の家に世話になっていたのだから、屋形のあった場所からの景色など元々知らなかったのだ、と今頃になって気づいた。

121「二つの道」33:2018/09/12(水) 19:34:18
六太が一歩の距離を詰めてきたので、袖が触れ合った。丘の下から潮風が吹いてきて、金髪を隠した布の端が揺れる。
尚隆の背の真ん中あたりを軽く叩く感触があった。それはそのまま留まって、夏物の袍の薄い布地を通して六太の掌の暖かさが伝わってくる。何故だか分からないが、尚隆は笑みを誘われた。
少年の細い肩に腕を回して少しだけ引き寄せると、再び背を軽く叩かれた。
「……腹減ったな。何か奢ってやろうか?」
「––––ほう、珍しいな。いつも俺に奢れと言うくせに」
「あ、なんだよそれ。せっかく気が向いたのに、そういう言い方されると奢る気なくすなー」
ばん、と背中を強く叩かれる。
「やっぱやめた、尚隆の奢りな」
言いながら六太は尚隆から離れて、たまの手綱を手に取った。
「その代わり、お前の食いたいもんでいい」
「全然代わりになっとらんぞ」
尚隆は笑って言い返したが、奢るとか奢られるとか、そんなことはどうでも良かった。
尚隆の故郷のことを、今でも六太は詳細に覚えている。もう二百年も昔に亡くした国のことを。それがどれだけ尚隆にとって価値のあることか、おそらく六太にも分かるまい。
その丘から離れる前に、尚隆はもう一度海を振り返った。夏の日差しを受けて輝く青海は、記憶の中にある瀬戸内の海よりも美しいような気がした。


––––あの夏の日から、ずっとここには来ていなかった。あの風景を見に行きたい、とあれから一度も思わなかったから。
街はあの頃より少し大きくなった。民も増えているだろう。冬だからか、漁に出ている船はさほど多くない。
海に向かって冷たい条風が吹き抜けていく。
寒いな、と尚隆は微かに呟いた。まだ初冬なのに、やけに寒いと感じる。それはおそらく尚隆の主観に過ぎず、心理的な要因によるものだろう。

この風景に故郷の面影を重ねることは、過去に囚われることだろうか。
たとえそうだとしても、最初に託され喪った国の人々の願いと、それを返してやれなかったという悔恨の念は、これまでずっと朽ちることなく尚隆の心の奥にある。それが己を王たらしめるものであり、決して忘れてはならぬものであると、尚隆は確信している。
もう二度と自分の国を滅ぼしたくないという思いと、六太に一国を返すという約束は、尚隆の内で矛盾することなく両立していた。
だが己の奥底でいつの間にか育っていたもうひとつの想いが、それと相反する。禅譲などしたら、六太はいずれ他の誰かに跪く。ずっとそばを離れず決して背かないと忠誠を誓うのだ。それが尚隆には耐え難く、それならばいっそこの手で殺したいのだ。
六太を護り望むものを与えたいと思う一方で、己だけのものにしたいと渇望している。こんな矛盾を抱えたくはなかった。自国の民を愛するように、親が子を慈しむように、穏やかな愛情であれば良かった。
この世から自分が消え去っても六太には幸せに生きてほしいと思えたなら、迷わず禅譲を選べただろうに。
––––麒麟を手放すか、それとも殺すのか。
それは王が最期に必ずどちらかを選ばなければならぬ二つの道。その選択の権利と責任は、全て王の掌中にあるのだ。

122「二つの道」34:2018/09/12(水) 19:36:38
海辺の街には降りずに丘を後にして、尚隆は騶虞を西へと向かわせた。これから二十日ほどかけて雁の国土を一巡りするつもりだった。
例年この時期は雁の各地を見て回ることにしている。大河の下流域では雨期が終わった後も更に水嵩が増すため、氾濫の危険性が最も高い時期であった。
各地の治水は基本的に州の管轄ではあるが、複数の州に跨る大河の場合は国がある程度の調整をする必要がある。王に奏上される内容のみに基づいて判断を下すのを、尚隆は好まなかった。やはり現状を実際に見ること、民の声を直接聞くことは、尚隆にとっては不可欠だった。

今年はもう一つの目的がある。下界で碁を打つことだ。娯楽が少ない冬なので、人が集まる里に行けば暇な誰かが碁の相手になってくれるだろう。
先日帷湍に辛勝した時、碁石をひとつ掠め取っておいた。無論収集癖などではなく、碁に勝った回数を数えるためだ。
目指すところは百勝––––自他共に認めるほど碁が弱い自分が、碁石を百集められるか。同じ相手から取るのは一度に限ること、期限は治世が三百年を迎えるまで。その二つを決め事とした。
何故そんなことを始めたのか、と仮に誰かに問われたとしても、明確な返答など出来はしない。単なる気まぐれだとか、思いつきだとか答えるかもしれない。

こちらの世界を理解するため、各国の史書を読み漁った時期がある。どうやら王朝には幾つかの節目があるようだと感じたのはその時だ。それからの長い年月、傾きかけた国へ行き、死にゆく王朝を幾つも見届けて、それは概ね正しいと確信した。
最も大きな山は、治世の三百年頃に来る。
それが分かった時に抱いた率直な感想は、三百年も続けば充分だろう、というものだ。それだけ長く玉座についていれば、王もさすがに飽きるのではないか、と確たる根拠もなく考えたのだった。
あの時は遥か先の未来だった三百年が、気がつけば十数年後に迫っている。飽いたのかと問われれば、否、と答えるだろう。煩わしいことはいくらでもあるが、投げ出したいとまでは思わない。
では永遠に玉座を背負い続けるのかと問われれば、それも答えは否だった。いつか終焉が来るならば、いつどのように幕引きするか、決定権を握っているのは自分だ。だが禅譲が最善の道であると承知していても、六太を手放す決心はつきそうになかった。

そんな葛藤を裡に飼っていたからだろうか。国境の街で出会った老人の戯れ言は、妙に尚隆の心をとらえた。
––––王が禅譲するか、しないか。あんたはどっちに賭ける?
それも悪くない、と尚隆は思った。自分で決断できぬのなら、いっそのこと賭け事で決めるのも悪くない。治世が三百年を迎えるまでの十数年の間に、尚隆が百回碁に勝てたら六太を手放してやろう。
弱い相手とやれば、さすがの尚隆も勝てなくはない。要は勝てる相手と対局できるかどうか、という運次第だ。これは天を試すようなものだろうか。あるいは、愚かで子供じみた挑発か。
碁が弱い自分を勝たせてみろ、そうすれば麒麟を返してやる、と。

123書き手:2018/09/12(水) 19:38:41
今回は以上です。
これで尚隆の心情はだいたい書けたかな…
次の投下で第四話終わると思います。多分。

124名無しさん:2018/09/15(土) 17:22:52
更新ありがとうございます!( ´∀`)
尚隆らしく淡々と冷静に己の感情を見つめる姿、カッコいいです。

125書き手:2018/09/16(日) 16:07:48
ありがとうございます。カッコいいと言ってもらえてなんだかほっとしてます。
自分で書いといてなんですが、グダグダ考えずにやっちまえよ尚隆!みたいに思ったりしてたものでw
でもこの辺きちんと書かないと自分の中で納得して先に進めないので難しいです…

第三話の尚隆は感情的かつ衝動的な言動が多かったので、第四話では冷静に自分に向き合ってもらいました。
尚隆は基本的には自分をちゃんと客観視できるタイプですよね。

126名無しさん:2018/09/23(日) 11:58:12
瀬戸内の海を覚えていた六太と尚隆のやり取り、心情が動く様子に思わず涙しました
物語として盛り上がりのシーンではないのに、こういった細かい場面の描写が本当に素敵です
尚六好きで良かった

127書き手:2018/10/03(水) 22:55:08
>>126
ありがとうございます。
早く進めたいと思いつつ細かい場面も書きたくて、ちょっとしたジレンマだったんですが、そこの部分を褒めてもらえると書いて良かったと思えます。
私も尚六好きで良かった…

そして続きなんですが…
すいません、次で第四話終わると言っておきながら終わりませんでした(ー ー;)
三官吏の話をちょこっと書いてから尚隆+六太を書く予定でしたが、意外と長くなったので三官吏の話だけで切って投下します。
この三官吏は結構のんきです。

128「二つの道」35:2018/10/03(水) 22:57:36
雨期が明けるのと同時に宰輔が、翌日には王が、相次いでどこかへ出奔したものの、宰輔は十日後に、王は二十日後にそれぞれ玄英宮へと帰還した。
王が戻った頃には既に冬至が近くなり、郊祀の準備が着々と進められていた。毎年行われる王の祭礼のうち、最も重要なものが冬至の郊祀である。それからいくつかの祭礼が続くので、この時期の王宮内には浮ついた雰囲気が流れるのが毎年恒例であった。
新しい年が明け長い冬の終わりが近づいた頃、隣国の末声を鳳が鳴いた。無論それは凶事ではあったが、主従も諸官も至って冷静にその報を聞いた。麒麟が死んだ時点で王の死は必然だったのだから、今更誰ひとりとして動じるはずがなかった。

やがて凍えるような北東からの条風がやみ、雁国にようやく遅い春が訪れた。

「奴らがいなくなって今日で何日目だ?」
ある春の宵、朱衡宅にて酒杯を傾けながらそう言ったのは帷湍であった。
「十五日目かと思いますが」
朱衡が即答すると、帷湍は溜息をついた。
「まったく、毎年春になると出奔が増えるな」
「ある程度は仕方ありませんよ。人も獣も虫も春になると活動的になるものですから、王と麒麟とて例外ではないでしょう。……まあ、そうは言っても、そろそろお戻りいただきたいものですがね」
まったくだ、と頷いたのは成笙である。
「今回はどこへ行ったのやら。また柳にでも行ったのか。何を好きこのんで傾いた国を見に行くのか、全く理解できんが」
「主上の行き先は柳かもしれません。ですが台輔はおそらく別のところでしょうね」
帷湍が意外そうに朱衡の顔を見やった。
「どうしてそんなことが分かる。あいつら同じ日にいなくなったろう?」
「行方をくらましたのは同じ日ですが、一緒に出て行ったわけではないようですよ。台輔が先に出掛けたそうです」
「よく知っているな」
「それくらいの情報は集めておきませんと、あの方々の行動予測ができないでしょう」
朱衡がにっこり笑うと帷湍は渋い顔をした。
「まあ、確かにそうだな……。だがあいつらの行動を逐一調べていたら、いちいち腹が立って仕方ないだろうな。俺には不向きだ」
そうでしょうね、と朱衡は笑った。
「行動予測と言えば……。あなた方は、台輔の転変と出奔の関係に気づいてましたか?」
「……関係?」
帷湍は僅かに眉をひそめて首を捻り、成笙は無表情のまま朱衡の顔を見返した。二人とも気づいてないらしい、と察して朱衡は続ける。
「昨年の秋以降、台輔は時々転変なさるでしょう?その後、一両日中に必ず出奔するんです。しかもそういう時は、当日お帰りになることはありません」
「本当か、それは。しかし……どういう関連があるんだ?そもそも、台輔が最近時々転変するのは何故なんだ。以前は滅多に見なかったが、ここ半年ほど、月に一度くらいは見かけるぞ」
怪訝そうに帷湍が言い、成笙は無言で頷いた。抱いて当然の疑問ではあるが、朱衡にも答えが分かるはずがなく、苦笑するしかない。
「さあ……どういう関連があるのかは分かりませんが、転変の後に出奔するのは事実です。もちろん、それ以外でも出奔することは多々ありますが。––––転変なさる理由については、ご本人にお訊きください」
「理由を訊いてみたことはあるが、獣型で散歩や昼寝をするのがいいんだ、とか、そういうふざけたことしか言ってなかったぞ」
「ええ、そう仰っているのは私も聞きました。実に台輔らしい理由じゃありませんか」
朱衡は軽く笑って言ったが、帷湍は顔をしかめた。それを見やって、成笙が口を開く。
「台輔が時々転変するようになったのは、あの妙な勅命を出されて以降だろう。あれがきっかけで、獣型で過ごすのも悪くないと思ったんじゃないのか」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」
「なんだ、それは……」
朱衡の不明瞭な返答に呆れたのか、帷湍は気の抜けた声を出した。

129「二つの道」36:2018/10/03(水) 23:00:09
ともかく、と成笙は朱衡に視線を向ける。
「理由はさておき、転変は出奔の前触れというわけか」
「ええ、ここ半年に限ればそういう法則があるようです。もし出奔されたくなければ、転変後は見張りを強化することですね」
「なるほど……」
帷湍が思案顔で腕を組む。
「まあ、そういう法則があることを念頭に置いておくのは悪くないな。ここぞという時は逃がさぬように厳戒態勢を敷くことにしよう。––––あいつら、普段からあまり締め付けると反撃が強烈だからな。かと言って、ずっと緩めていては増長するし、まったく手に負えん」
嘆きつつも、帷湍は半ば諦め顔である。酒杯を煽って大きな溜息をついた。
「あの勅命騒ぎ以降は、台輔も獣型のまま外殿の外に出てはいないようだが、油断しているといつ羽目を外すか分からん。転変をやめさせるよう王に言ってみたがな、ずっと獣の姿でも俺は一向に構わん、とか暢気に笑ってたぞ、あの昏君は。……まあ、いかな台輔といえど、獣の姿で関弓に降りたりはせんだろうが」
その発言により、関弓の街を駆け回る神獣の姿が脳裏に思い浮かんで、朱衡は戦慄を覚えた。そんなことになれば、天地を揺るがす大騒動であろう。おそらく六太もそんなふうに騒ぎになることを基本的には望んでないだろうが、場合によっては、帷端たちに対する嫌がらせのため敢えてそうする可能性は否定できない。だが断じてそんなことをさせてはならない。
「そうなる前に禁軍の総力を挙げて阻止する」
断固たる決意を込めて宣言する成笙に、頼もしげな眼差しを向けて朱衡と帷湍は頷いた。

三人の間に沈黙が降りて、酒杯を傾けながら各々思案にふける。
庭院の向こうに寄せて返す波音を聞きながら、朱衡は傾いた弦月を眺めやった。
六太が時折転変するようになったのは何故なのか、改めて考えてみても理由が思い当たらない。成笙が言うように、単に獣型で過ごすのが気に入っただけかもしれない。だが朱衡は、そんな単純なことではない気がしている。根本的な原因を辿れば、明確な因果関係は分からずとも、全ての発端はあの喧嘩にあるのではないかと思う。
もうひとつ朱衡の頭の片隅に引っかかっているのは碁だ。因果関係でいえば更に希薄だろうが、ごく短期間ではあるが尚隆が連日碁を打っていたのも、あの喧嘩の少し後だ。あれには何か意味があったのだろうか。

「……そう言えば昨年の秋、主上は連日碁を打ってましたが、近頃見かけませんね」
頬杖をついていた帷湍が心持ち顔を上げて朱衡を見返す。
「確かに俺も見てないな。あの時だけだ。––––あれも何だったんだろうな。期間としては半月くらいか。毎日打っていたが、ぱったり打たなくなったな」
「帷湍に勝って気が済んだんじゃないか」
冷ややかに言う成笙を、帷湍は睨みつけた。だが反駁する言葉は出てこないようで、朱衡は思わず笑う。
「台輔も同じように仰ってましたね。まあ、おそらくその通りなんでしょう。––––主上は台輔に勝つつもりで打ち始めたようですが、結局勝てませんでしたから」
「台輔に勝つ気でいたのか」
成笙の声音に驚きの色が含まれている。いつも淡々と話す成笙にしては珍しいことだった。
「百局打っても百敗だろう。腕前に差がありすぎる」
「でしょうねえ……」
朱衡は心底同意したが、帷湍は憮然と黙り込んでいる。それほどまでに弱い王に負けてしまった悔しさを思い出したのだろう。
「主上に負けたのが悔しいのでしたら、成笙に鍛えてもらったらいかがですか」
半分冗談で朱衡が言ってみると、意外にも成笙のほうが乗り気になったようだった。
「そうだな、あの王に負けるようでは恥だと思ったほうがいい。では今から打つか」
話が思わぬ方向へ急展開して、帷湍はあからさまに狼狽した様子で首と手を同時に振った。
「いや、今はいい。酒が入ってるし、まともに打てるとは思えん」
「素面でもまともに打てん奴が何を言う」
帷湍の下手な言い訳は、成笙にばっさりと切って捨てられた。かなりきつい言われようだが、返す言葉もない帷湍である。
「それでは碁盤を準備いたしましょう」
笑って朱衡は立ち上がった。

130「二つの道」37:2018/10/03(水) 23:02:21
それから碁盤と碁石が卓上に準備され、それを挟んで成笙と帷湍は向かい合った。朱衡は酒杯を片手に二人が打つのを傍らで見物しながら、時折口を挟んだ。
成笙による碁の指導は厳しいうえ、帷湍はどう贔屓目に見ても優秀な生徒ではなかった。
こう打ったほうがいい、と成笙に言われれば帷湍はなるほど、と素直に頷くのだが、暫くして同じような局面になっても相も変わらず悪手を打つ。
「この手はなんだ。こういう局面ではここに打て、とさっき言ったろうが」
「あ、ああ……。そうか……よく見たら、さっきと同じような局面だな」
「気づかなかったのか?常に盤面全体をよく見ろ」
「いや、見ているつもりなんだがな……」
「俺は敢えて同じような局面を作っているんだぞ。ちゃんと学び取れ」
「ああ……そうなのか。いや、それは、その……すまん」
成笙の容赦ない指導に、帷湍はしどろもどろである。
最初は笑って見ていた朱衡だが、帷湍が次第に意気消沈していくので、さすがに少し可哀想になってきた。
「もう夜も更けましたし、そろそろお開きにしましょうか」
朱衡が言うと、帷湍はあからさまにほっとした表情を浮かべた。
「そうだな、これ以上遅くなると明日に差し支える」
帷湍の声が若干弾んでいたのに成笙は気づいたのかどうか、眉ひとつ動かさずに淡々とした声を出した。
「––––分かった。今日のところはこれで終わりだ」
今日のところは、とはいったいどういう意味か、という愚問は、とりあえず朱衡も帷湍も口には出さなかった。

その夜はそのまま解散したものの、どうやら成笙は帷湍を鍛えることを決意したらしい。翌日以降、成笙は暇を見つけては帷湍を捕まえ、毎日のように碁を打つようになったのである。
その他には例年と変わったことも特になく、ごく平穏に春は過ぎ去っていった。

初夏のある日の昼下がり、朱衡が帷湍を訪ねると、またしても成笙と碁盤を挟んで向かい合っていた。その近くにある腰高窓の窓枠には金髪の少年が腰掛けて、その様子を見物している。
朱衡が歩み寄って行くと、六太の呆れ声が聞こえた。
「だからさー、なんでそんな見え透いた手に引っ掛かるんだよ。どういう魂胆か分かるだろ?そこは気にせずこっちに打てばいいんだよ」
「ああ……そうか。いやしかし……」
「お前、本当に主上に勝つ気があるのか?この前も言ったろう、奴はこういう奇手で翻弄しようとしてくるが、そんな思惑に付き合ってやる必要はないんだ」
「そうそう、尚隆はとんでもない手を打ってくるけど、ただ単にとんでもないだけの手しか打てねーから。惑わされずに定石通りに進めれば絶対勝てる」
「いや、そうは言ってもだな……」
将軍と宰輔から助言を受ける帷湍の顔には、これっぽっちも覇気がない。二人の助言をありがたく思う心の余裕は、もはや一欠片も残っていないようだった。
朱衡が三人の傍らまで行くと、帷湍が情けない顔で見上げてきた。つい苦笑を漏らして、
「あまり根を詰めても仕方ないでしょう。お茶が冷めてますよ。せっかく淹れてもらったのですから、飲みながら一息ついたらいかがですか」
卓に置かれた二つの湯呑みには全く手がつけられないまま、淹れられた茶が冷めていた。ちなみに宰輔だけは茶を全部飲み、茶菓子まで召し上がっていたようである。
朱衡の提案に対する心からの賛意を示すように、帷湍は大げさに頷いた。一方の成笙は軽く息を吐いてから、
「いや、俺はもう戻らねばならん」
と言って、湯呑みを手に取ると一気に飲み干し、それを卓に置きながら立ち上がった。
「明日また同じ過ちを繰り返したら承知せんぞ」
帷湍を見据え至って冷静な口調でそう言うと、成笙は颯爽と立ち去って行った。

131「二つの道」38:2018/10/03(水) 23:04:44
成笙の姿が見えなくなると、帷湍は全身で息を吐き出して椅子の背に凭れかかった。
「……なんだか大変そうですねえ」
朱衡が苦笑すると、帷湍に恨みがましい目つきで睨まれた。
「元はと言えば、お前のせいだろうが。成笙に鍛えてもらえ、などと無責任な提案しおって」
「冗談のつもりだっだんですが、思いのほかやる気になってしまいましたね。––––まあ、成笙にこれだけ毎日打ってもらえば、あなたも少しは強くなったんじゃありませんか?」
「どうだかな」
憮然とする帷湍を見て、六太が笑った。
「いま見てた感じじゃ、ぜーんぜん、変わってなさそうだったけど」
「それはそれは、お気の毒に」
「誰がお気の毒だ」
「そりゃあ、気の毒なのは成笙だろ。せっかく教えてんのに帷湍が全然上達しないんだから」
「そうですね、本当にその通りだと思います」
朱衡はにっこり笑う。あのな、と帷湍は不満げに言いかけてから、大きな溜息をついた。
「いや……もういい。言い返す気力もない」
肩を落とす帷湍を、六太が面白そうな表情で見やる。
「だいぶ参ってんなあ」
「毎日毎日休憩時間になると成笙がやってきて碁を打つんだぞ。そのうえ近頃では夢の中にまで碁盤や碁石が出てくるんだからな、全く休んだ気がせん」
ぼやく帷湍は、確かにどことなくやつれている。
「ま、人には向き不向きがあるからな。尚隆に負けるほど碁が弱いなんて恥ずかしいけど、仕方ねえよ。別に負けてもいいじゃん、どうせ滅多に打たないんだし」
慰めているのか貶しているのか、六太はそう言って帷湍の肩を叩いた。
「確かに、主上と打つ機会はそうそうないでしょう。––––台輔は昨年の秋より後、主上と打たれましたか?」
「いや、打ってない。誰かと打ってるのも見ないし、あの一時期だけだな」
「何だったのでしょうね、あの頃の妙なやる気は」
「さあな。––––ま、気にすんな。あいつのやることなすこと理由をいちいち気にしてたら身が持たねえぞ」
「お気遣いなく。さして気にしておりませんので」
「あ、やっぱり?」
六太は軽い笑い声をたて、ひょいと窓枠から飛び降りた。湯呑みを片手に悄然としている帷湍の顔を覗き込むようにして、
「さっき成笙に教わったこと、ちゃんと復習しとけよ。忘れてたら明日こそ切れられるかもしんないぜ?」
と言い、六太は意地悪げな笑みを浮かべた。
「分かっとるわ、それくらい」
不機嫌そうに帷湍が言うのを笑って、六太は踵を返した。
「広徳殿に戻られるのですか」
「え? ––––んーと、まぁ……そうかもな」
六太は曖昧な笑みを浮かべて曖昧な返答をしながら手を振ると、軽い足取りで部屋から出て行った。
少年の後ろ姿を見送っていた帷湍が、軽く溜息をついた。
「……ありゃ絶対に関弓に降りる気だろう」
「でしょうね」
「いいのか?」
「まあいいんじゃないですか、少しくらい。州候の政務が滞って困っているという話は聞こえてきませんし」
そう言ってから、朱衡は帷湍に視線を移した。
「あなたこそ、いいんですか?出奔を止めようと躍起になっていたのは、私よりも帷湍のほうだったでしょう」
「もう諦めた。いちいちあいつらに構ってられん」
疲労の色が滲んだ帷湍の声音に、朱衡はくすりと笑った。
確かに近頃では、ここぞという時こそ主従の出奔を阻止するが、普段は殆ど見逃している。放し飼いの家畜のようなものかもしれない。王はここ数日行方が知れないが、そろそろ戻ってくるはずだ、となんとなく予想がつく。
長い年月をかけて、ようやく折り合いがついてきたと言えるだろう。


成笙による帷湍の碁の特訓は、暫くの間続いた。しかし夏の終わりが近づいた頃、特訓の日々も突如として終わりを迎えた。
具体的にどんなやり取りがあって終局に至ったのか、朱衡が何を訊ねても頑として口を割らなかった二人だが、
「金輪際、成笙とは打たん」と帷湍は言い、
「あんなに教え甲斐のない奴は初めてだ」と成笙は言った。

「帷湍が我慢の限界で切れたんじゃねぇの」
「私もそう思います。成笙のほうがずっと忍耐強いですからね。……まあ、二人が口を割らないので追及はいたしませんが」
「けど、よく何ヶ月も続いたよな」
「ええ、むしろここまで続いたこと自体に驚嘆いたしました」
部外者二人は完全な他人事として面白がり、そんな噂話をしたものである。

そういった些細な悶着があったものの、夏も概ね平穏に過ぎ去って、雁州国にまた秋が巡ってきた。

132名無しさん:2018/10/06(土) 13:17:55
更新ありがとうございます!この先の予想が全然つかないのですが楽しみに見守っています!^^

133名無しさん:2018/10/30(火) 04:34:04
どんなやり取りがあって、スパルタ碁教室は終わったのだろ?
わくわくするなあ!

134「二つの道」39:2018/12/14(金) 21:11:29
雲ひとつない秋の蒼穹の下、緑の山々に囲まれた広い平野は一面が鮮やかな黄金色に色づいている。吹き渡る風に波打つさまは、陽光を弾いて輝く大海原のようだった。
六太は中空を飛翔する騶虞の鞍上から、収穫目前の農地を眼下に見渡していた。感嘆の溜息に続いて口元には笑みが零れる。この時季にだけ見られる特別な色彩。どんなに高価な絹織物も、どれほど希少な宝玉も、この風景の美しさと貴重さには遠く及ばないと六太は思う。
玄英宮を出奔してから今日で五日目。国土の各地に拡がる黄金色の田畑を六太は見て回っていた。雁全域において今年も穀物は概ね豊作であり、既に刈り入れが始まっている地域もある。内陸部から始まる雨期は、あと半月ほど先だろう。


四日前の早朝に六太はひとりで王宮を抜け出して、騶虞のとらに騎乗して南へと進路を取った。どこにも目的地はなく、ただ関弓から遠くへ行きたかった。尚隆のいる玄英宮から離れたかったのだ。
薄明の空にとらを飛翔させながら、六太は少しだけ唇を歪めて自分を笑った。––––こうなることは分かっていたのに、と。
尚隆に撫でてもらいたくて転変したのは、昨年の雨期が明ける間際が初めてだったが、あれから六太は何度も同じことを繰り返しているのだ。
相変わらず尚隆は、六太が人型の時には全く触れてこない。だが獣の姿で近くに寄ればいつも手を伸ばしてくる。ごく自然に、当たり前のように。
そうやって撫でられた後は、何故だかいつも無性に寂しくなる。それが分かっているのに時折転変してしまうのは、獣の姿で撫でてもらうのが嬉しいからという単純な動機だ。
その一方で、人としての感覚はそこまで単純ではない。意識的に考えたことはこれまでなかったが、人の姿で頭を撫でられた時は単に嬉しいだけではなく、もう少し複雑で微妙なものを感じていたように思う。言葉でそれを的確に表現するのは難しいけれど。ひょっとしたら、成獣のくせに子供扱いされている、と気恥ずかしく感じていたのだろうか。
王の手の感触が嬉しくて、時折それが欲しくなるのは、麒麟という獣の性なのか。寂しいと感じるのは、六太の中にある人としての感情なのか。
二つの感覚がせめぎ合って心が混沌として、自分の本当の感情はいったいどちらなのか分からなくなる。嬉しいのに寂しいなんて。人と獣とで感じ方が少し違うのは、昔から自覚していたけれど、ここまで乖離してはいなかったはずなのに。

鬱々と考えながら、六太はとらの鞍上で俯いて小さな溜息をこぼした。
何度同じことを繰り返すのだろう。どうしたら尚隆は、以前と同じようにしてくれるのだろう。もしあの日のことが原因なら、六太が忘れたふりを続けていれば、そのうち尚隆も気にしなくなるのだろうか。
転変して自分から近寄って行くくせに、その後はいつも感情が落ち着かなくて、尚隆から離れたくなってしまう。そしてひとりで出奔するのだ。
下界に降りて数日間、王の気配から遠く離れて雁の風景を見て回るうちに、人と獣と、乖離した二つの感覚の境界は次第に曖昧になっていき、どうにか折り合いがつくようになるのだった。

六太は玄英宮から出奔して五日間、緑に覆われた山を越えて黄金色の田畑の上を飛び、刈り入れの準備で忙しく働く民の様子を見た。これまで幾度となくそうしてきたように。そして六太は雁が豊かで平和な国であることを実感し、これが自分の望んでいたものなんだ、と心の底から思うのだ。
––––この豊かな国がずっと続くこと。麒麟にとって、それ以上の幸福はないはずなのに。六太個人の、悩みとも言えないような些細な不満など、取るに足りないことなのに。
王宮から抜け出した日には混沌に支配されていた六太の心は、五日経ってようやく平穏を取り戻していた。

135「二つの道」40:2018/12/14(金) 21:17:21
とらを飛翔させ、六太は北へと向かっていく。目の前に連なる山脈を越えれば、蒼天を貫く関弓山が見えてくるはずだ。王気は前方から感じられるが、玄英宮にいるのか街にいるのか、ここからでは判断できない。
王の気配に近付くにつれて、徐々に心が高揚していくのを六太は自覚する。麒麟の本能なのだろう、今は尚隆に会いたかった。早くそばに行って声を聞きたかった。

一路北へと飛行すると、やがて視線の先に関弓山の姿がはっきりと見えてくる。この距離からは、王気は山頂ではなく麓の街にあることが分かった。
既に太陽は西に傾いて、進行方向の左から斜めに差している。秋の日は落ちるのが早いが、駿足の騶虞なら日没の閉門前には街に着くはずだ。

それから半刻ほど経過した頃、六太は関弓の街にいた。とらは街に入る前に外に放してきた。
王気を辿り、六太は広い通りを歩いていく。大勢の人々が行き交う夕刻の街は喧騒で溢れかえっている。関弓は活気があって騒々しい。その雰囲気が六太は好きだった。
軽快な足取りで、人の波間を縫うように六太は進む。尚隆の気配はもうすぐ近くにある。もし花街にいるならもちろん引き返すつもりだったけれど、今は商店の並ぶ街路のあたりにいるようだった。
自然と早まる足を抑えながら四辻を曲がる。その先が明るい気がするのは、六太だけが感じる光があるからだ。その光源に近付いていく。食堂の建物前に小さな人だかりが見えた。あの中にいる。
六太は人垣のそばに寄って人と人との間から覗き込み、そこに探していた姿を見つけた。尚隆は卓を挟んで年配の男と対面に座り、碁を打っていた。
珍しいな、と六太は驚いた。王宮では尚隆が碁を打つのを近頃全く見なかったが、こんなところで打っているなんて。
盤面を見てみると、もう終盤だった。尚隆の黒石は珍しくも優勢のようだ。
後ろから軽く肩を叩かれて六太は振り返る。中年の男が笑顔を向けてきた。ここの食堂の店主だった。
「久しぶりだな。碁を打ちに来たのかい?」
この店主は碁が好きで、誰でも打てるように店先に碁盤を置いているのだ。六太も以前ここで打ったことがあり、見た目が子供の割に強いせいか、すぐに顔を覚えられてしまった。
「いや、打ちに来たわけじゃなくて……。あいつ、知り合いなんだ」
言って六太は尚隆のほうをちらりと見やる。
「ああ、風漢か?––––今日は珍しく勝ちそうだな」
店主の男も尚隆を見やって、軽く笑った。その口振りから、尚隆がここで打つのは初めてではないのだと六太は察する。
「あいつ、よくここで打ってんの?」
「よく、という程ではないな。今年の春先に初めて来て、それから時々来るな。しかし一度も勝つのを見たことがない」
それから店主は少しかがんで、六太の耳の近くで笑い含みの小声を出した。
「相手の爺さんは常連なんだが、下手の横好きでな。あの二人はこれまで何度もいい勝負をしてきたが、爺さんの連勝だったんだ」
「へえ。––––風漢といい勝負なんて、よっぽどだな」
六太も小声で言って、忍び笑いをもらした。

そうこうするうちに相手の老爺はついに投了し、尚隆は好敵手から初めての勝利をもぎ取った。周りを囲んでいた数人が、よく勝てたな、とか、やっと初勝利か、とか、揶揄するように言葉をかける。
六太の脇に立っていた店主が前に出て、尚隆に初勝利おめでとうと言ってから、
「もう碁の時間は終了だ。片付けてくれ」
と対局していた二人に向かって言った。
夕刻は食堂のかき入れ時なので、碁盤に占領されている卓を食事に来た客に明け渡さねばならない。
尚隆と老爺は店主に頷き碁石を片付けていく。六太はそれをじっと見ていた。斜め後ろの少し離れた場所に六太は立っていたため、尚隆の視界には入っていないようで、彼は六太に気づいた様子はない。一方で、こちらからは尚隆の手元が見通せた。
––––だから六太には見えたのだ。尚隆が碁石をひとつ掠め取り、袖の中に隠すのを。
なんでそんなことを、と六太は軽く眉をひそめたが、その場では何も言わずにただ尚隆の手の動きを見ていた。
碁盤上に碁石の収まった碁笥を二つ載せると、店主はそれを持って店の奥へ戻って行った。尚隆は立ち上がりながら、袖に隠していた碁石を懐に移した。それは何気ない動作で、ずっと注視していた六太以外は、何をしているか分からなかっただろう。
立ち上がった尚隆が振り返り、六太に視線を止めた。

136「二つの道」41:2018/12/14(金) 21:23:32
尚隆が振り返ると、思いがけずそこに六太が立っていた。もの問いたげな視線をまっすぐこちらに向けている。一拍だけだが、柄にもなく鼓動が跳ねた。見られた、と思った。
しかし見られたところで、その意味までは分からないだろう。別段不都合があるわけでもない。次の瞬間にはそう思い直し、尚隆は笑みを作ってみせた。
すると六太は安堵したように表情を緩めて、
「珍しく勝ったんだな」
と、からかうように言った。
「ああ、珍しくな」
尚隆は笑って、六太の脇を抜けて歩き出した。六太もすぐに体の向きを変えてついてくる。小走りに隣まで来て、尚隆を見上げた。
「店の主人から聞いたけどさ、お前、時々ここで打ってるんだろ?」
周囲の喧騒のせいで声が届きにいからだろう、六太は距離を詰めて話しかけてくる。近すぎる、と尚隆は思った。
王宮にいる時はもっと距離があっても声は聞こえるし、ここ一年、六太と共に下界へ降りたことはない。だから近頃はこんなに近い距離では話すことがなかった。もちろん、この騒々しい場所で話すならこれくらい近付くのが自然なのだと、尚隆とて頭では理解している。
だが尚隆は普段意図的に距離を取るようにしているのだ。それなのに能天気に近付いてくる六太に対し、人の気も知らずに無神経な奴だ、と若干の苛立ちを感じる。無論この理不尽で一方的な苛立ちは、完全なる八つ当たりに過ぎないが。

四日前に六太は玄英宮から姿を消した。例年通り、雁各地で収穫目前の田畑を見て回ったのだろう。
麒麟は王の気配を感じ取れるから、六太は当然ここに尚隆がいると分かって来たはずだ。騶虞に騎乗していたのなら、そのまま飛んで目の前にある王宮に帰るほうが早いのに、そうせずにわざわざ街へ降りたのだ。––––尚隆に会うために、だろうか。

「まあな」
六太のほうを敢えて見ずに、尚隆は答えた。
「お前も碁の特訓か?」
「特訓にならんよ。あの爺さん相手ではな」
「だよなぁ。特訓するつもりなら、成笙にしてもらうのが一番だろ。帷湍みたいに」
そう言って六太は軽い笑い声をたてた。

今年の春から夏にかけて、成笙が帷湍に碁の特訓を施してたことは、もちろん尚隆も知っている。「あの王に負けるのは恥だと思え」と成笙は言ったらしいが、それに対して反論しようとは全く思わなかったし、帷湍が強くなろうが弱いままだろうが、どちらでも構わなかった。既に一度勝利して碁石を取ったのだから。

「帷湍は特訓の甲斐が全然なかったけど、尚隆だったらどうだろうな。やっぱり似たようなもんかな?」
「だろうな。まあ、そもそも碁の特訓なんぞやる気もないが」
「あー、またそういうこと言う。だから長生きしてんのに弱いままなんだよ」
「俺が今更努力して強くなると思うか?」
「え?……うーん、まあ、本気でやれば……ちょっとは強くなるんじゃねえの?」
「ちょっとか」
「うん、ほんのちょっと」
心なしか弾んだ六太の声は、周囲の雑音を押しのけて尚隆の耳に飛び込んでくる。聞き慣れた声だからか、それとも別の理由によるものか、その声は喧騒に紛れることがなかった。
人通りの多い街路を二人並んで歩きながら、他愛ない会話が続いていく。六太はいま笑顔だろう。見なくとも声音で分かる。だから尚隆は、六太の顔を見なかった。

「あのさ、尚隆」
広途に出たあたりで、六太に名を呼ばれた。
「なんだ」
尚隆が応じると、ためらうように間が空いてから、六太は少し声を低めて問うてきた。
「さっき……なんで、碁石取ったんだ?」
やはり見ていたか、と思う。問われたこと自体に動揺はない。むしろ見られたとはっきり分かったほうがいい。
「碁に勝った記念だ。滅多に勝てんからな」
尚隆は前を向いて歩きながら返答した。
「そりゃお前弱いから、滅多に勝てないってのはその通りだけどさ。……これまでも、ずっと取ってたのか?」
「ずっとではないな。これで七つか八つか、それくらいだ」
「どうしてそんなこと始めたんだよ」
「ただの気まぐれだが。––––理由が必要か?」
「別にそんなの必要ないけど。……去年の秋、おれと何回も打ったじゃん。あれは、おれから取ろうと思ったからか?」
「まあ、そういうことだ。記念すべき最初のひとつは、六太から取ろうと思ってな。だが全く勝てんから諦めた。––––帷湍が最初だな」
「ふうん……」
尚隆のいい加減な説明に納得したのかどうか、六太はそれだけ呟いて、少しの間黙り込んだ。

137「二つの道」42:2018/12/14(金) 21:28:26
六太の沈黙は、さして長くはなかった。
「……お前、いつから下に降りてんの?」
「一昨日だが」
「関弓で遊んでただけか?」
「まあ、そうだな」
「おれは南の国境近くまで行ってきたんだ」
「ほう」
それから六太は、ここ数日見て回った雁南部の様子を話し始めた。田畑は見事な黄金色で、今年の穀物も豊作だった、と六太は嬉しそうな声で言う。民意の具現たる麒麟のそれは、五穀豊穣を喜ぶ民の声だろうか。

民意を体現しているのか、天意を受けているのか、それとも六太個人の意思なのか。六太の言動がどれに起因しているのか、尚隆にはいつも判断がつかない。しかし本来そこには区別などないのだろう。麒麟はそういう生き物だ。
六太が笑顔を向けてくるたび、慕う態度を見せるたび、所詮これは天与の本能に過ぎないと自分に言い聞かせる。詮無いことを考えるくらいなら、六太の意思など一切ないと断じてしまえばいいのだ。

適当に相槌を打ちながら、視線を前だけに向けて尚隆は足を進める。六太がついてきた瞬間から目的地は決めていたが、本心では別段そこに行きたくはなかった。
「なあ、尚隆––––」
呼びかける声と同時に、左腕に軽い抵抗を感じた。六太の手が尚隆の左袖を引っ張ったのだ。
視線を僅かに動かして、尚隆はその手を見る。少年らしい華奢な手だ。自分はそれを振り払いたいのか、捕まえたいのか。一瞬、二つの衝動が尚隆の内で錯綜した。
だがどちらの行動も取るべきではないと心得ていた。だから尚隆は、左手を強く握って動かさぬよう制御しながら立ち止まり、六太に向き直った。
六太も立ち止まり、尚隆の袖から手を離して驚いたような表情で見上げてくる。
「六太」
名を呼ぶと、六太は瞬いて小首を傾げる。尚隆は意識的に薄く笑んだ。
「どこまで付いてくるつもりだ」
「––––どこまで?」
言ってから六太は周囲を見回した。緑色の柱の楼が立ち並ぶ通りと交叉する角に、二人は立っている。その事実にたったいま気がついた、という様子で花街の方向を見つめてから、六太は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「あー……お前、ここに用があるんだ」
「もし一緒に行きたいなら、お前も連れて行ってやってもいいが」
「冗談じゃない、誰が行くか」
軽く睨まれて、尚隆は笑った。
「なんだ、行かんのか?」
「行くわけないだろうが。……だいたいさ、お前は女と約束あるんじゃねえの?ひとりで行けよ、莫迦」
六太はそっぽを向いた。あからさまに機嫌が悪そうな横顔。もちろん尚隆は、六太が機嫌を損ねると分かって言っている。
「約束などない」
「へえ……」
「だが約束はなくとも、遊んでくれる女はいくらでもいる」
「あー、そう……」
おざなりに六太は言って軽く息を吐き出すと、片頬だけで笑った。
「……ほんと、お前って節操ないのな。女なら誰でもいいのかよ」
「まあ、概ねその通りだが、誰でもいいというわけでもない。いくら無節操な俺でも相手に求める条件はある」
へえ、とだけ六太は呟いた。
「条件は二つだな。俺の素性を知らぬこと、後腐れがないこと。––––それだけだ」
敢えて軽口のように尚隆が言うと、一呼吸の間を置いてから、六太は背けていた顔をこちらに向けた。少年の両眼が尚隆の顔をまっすぐ見つめた。笑うでも怒るでもなく、意外なほど真剣な表情で、ただ尚隆に向けられた紫色の瞳。それは言葉の真意を探る眼差しのように感じられた。自分の中に見透かされたくないものがあるから、そう思っただけかもしれない。
––––何故そんな顔をする。どうせなら、呆れたように軽蔑したように、罵倒されたほうが余程気が楽なのに。
尚隆は表情を消して、ただ六太を見返した。
やがて六太は視線を逸らすと、僅かに口元を歪めて皮肉げに微笑んだ。
「……やっぱり最低だな、お前」
低く言って、六太は尚隆に背を向けた。
「じゃあ適当に楽しんでこいよ。––––後腐れない女と」
六太は軽く手を上げて歩き出した。

少年の小柄な後ろ姿が、少しずつ街路を遠ざかる。一歩ごとに二人の距離は広がっていく。俯きもせず走り出しもせず、いつも通りの歩調で小さくなっていく姿。六太はいま、どんな表情をしているのだろうか。

その姿が見えなくなる前に、尚隆は視線を引き剥がして逆方向に顔を向けた。
––––本当に最低な男だ。ひどく幼稚で、そのうえ卑怯だ。
自嘲を込めた独白と共に尚隆は歩き出す。もう二度と街で六太に会いたくないと思った。

138「二つの道」43/E:2018/12/14(金) 21:31:41
顔を上げ、前だけを見て、六太は努めて普通の足取りで歩き、尚隆との距離を広げていった。はたから見たら平静に歩いているように見えるだろうか。だが六太の内側には、全力で走り出したいような、その場にしゃがみ込みたいような、相反する衝動が同時に湧き上がっていて、ただその中間の行動を取ったに過ぎなかった。

どうして尚隆はあんなことを言ったのだろう。尚隆がどんな女と遊んでいるかなんて、相手に求める条件なんて、聞きたくなかった。そもそも六太には全く関係ないことなのに。別にそんなのどうだっていいから、何も言わずに勝手にすればいいのに。
考えてみれば、尚隆が女遊びのことを具体的に六太に話したことは今まで殆どなかった。妓楼に行っていることを隠そうともしなかったが、六太が女遊びを揶揄すると、否定はせずにただ笑うだけだった。
これまでと同じように、ただ笑って花街に消えて行ってくれたら、自分は何も感じなかったのだろうか。こんなふうに息苦しさを感じずにいられただろうか。

尚隆について行ったこと自体を六太は後悔していた。何故ついて行ってしまったんだろう。夕餉を奢ってやる、と言われることを期待していたのだろうか––––以前よくあったように。

この一年、尚隆と六太の間には微妙な距離が空いている。尚隆は相変わらず六太に触れてこないし、一緒に出奔することもない。だが仕事をする上での問題は何ひとつないし、政務とは関係ない無駄話もたくさんする。だから周囲からは何の変化もないように見えるだろう。
きっとこの「些細な状況の変化」は一過性のものだろう、と六太は思っていた。
いや––––違う。思っていたのではなく、思い込もうとしていたんだ。
六太が以前と同じように振る舞っていれば、そのうち尚隆も以前のようにしてくれる、と楽観的な予測をしたかったのだ。
そこまで考えたところで、はっとした。
––––以前のように、とは具体的にはどういうことだろう?
一緒に下界に出掛けたいのか、頭を撫でてもらいたいのか、それとも二人きりでささやかに晩酌をしたいのか。
おそらく全部当てはまる。しかしそれらは「王と麒麟」という主従関係において、果たして必要なことだろうか?答えは、考えるまでもなかった。
「……そうか」
六太は俯いてぽつりと独りごちた。
自分達の関係は、結局のところ主君と臣下に過ぎないのに、それ以上の何かを無意識に求めていたんだ、とようやく気がついたのだ。

互いにひとりでいる時に街で顔を合わせれば、大抵尚隆は昼餉か夕餉を六太に奢ってくれた。本当はどこかに––––妓楼や賭場に遊びに行くつもりだったのかもしれないが、そういうことは一切言わず、六太に付き合ってくれた。
だから、自分は優先されている、と思い上がっていたのだろうか。今日も自分を優先してくれるはずだ、と思ったのだろうか。

さっきの尚隆の言葉の真意は、平たく言えば「ついてくるな」ということだ。六太が妓楼に一緒に行くはずがないのに、連れて行ってやると言ったのは、ただの嫌がらせだろう。あるいは、からかわれたのか。六太はいつまでも子供のままで、妓楼での遊びなんて永遠に縁がないから。
尚隆との間に、明確な境界線を引かれたような気がした。お前には関係ないからこっちに入ってくるな、と。
花街の入り口につくまでの間、尚隆は話に付き合ってくれたけれど、隣を歩く六太のほうを一度も見てくれなかった。鬱陶しかったのかもしれない。妓楼に行こうとしているところに纏わり付かれたら、そう思うのは当然だろう。
そういうことなら、尚隆の望み通り六太から近付くのはもうやめる。街で王気を感じても、今後は一切近付かない。
王宮の中だけでもそばにいられたら、それで十分だから。

気がつけば六太の歩みはのろのろと遅くなっていた。
何故だろうか、瞼が熱くて喉が塞がったように苦しい。込み上げるものをこらえて拳を握りしめ、六太は再び顔を上げて歩調を早めた。 広途から小路に入り、騎獣の待つ街の隔壁の方へ向かう。
行く先から秋の柔らかい風が吹いてくる。それに乗って六太の鼻腔に届いたのは、ほのかに甘い花の香り。思わず六太は息を止めて立ち竦んだ。
玄英宮の断崖の岩棚で、あの日咲いていた丹桂の花だ。あの時と同じ甘い香りが記憶を刺激する。忘れたいのに何度も鮮明に思い出す、尚隆の抱擁する腕の強さ、唇と舌の生々しい感触。
たまらず六太は踵を返して走り出した。甘い香りを振り払うように––––あの日の記憶から逃れるように。

第四話「二つの道」終わり

139書き手:2018/12/14(金) 21:33:46
前回の投下からだいぶ空いてしまいましたが、ようやく第四話終了です。
この話書き始めてからもう一年も経ってしまいました。最初は勢いに任せて書けたんですが、長くなるとなかなか同じテンションでは書き続けられませんね(-_-;)
更新の間隔が不定期で、すみません。マイペースですが最後(初夜)まで頑張りたいです。

来年ついに新作出るみたいですね!めっちゃ楽しみです♪( ´▽`)
無事に戴の主従が再会できますように!

140名無しさん:2018/12/15(土) 23:23:05
更新ありがとうございます!
普段元気な六太が健気に寂しさを紛らわせているさまは彼の幼少期を思い起こさせて切なくなりますが
約束された初夜と200年後の彼らを思えばおいしいですw
新作嬉しいですね!発売の日を楽しみにしながら、こちらの次章もまったりお待ちしています!

141sage:2018/12/16(日) 17:40:54
私からも更新ありがとうございます!
健気なろくたんをなぐさめてあげたくて仕方がありませんでした。でもろくたんに必要なのは私のではなく尚隆の慰めなので、私はおとなしく姐さんがお書きになる続きを待っています。無理せず頑張ってください。

142名無しさん:2019/01/08(火) 20:36:37
更新ありがとうございます!十二国記も風が吹いて今年は楽しみですね!
更新も続けて楽しみにお待ちしております♡
自覚した六太と尚隆、悶える様子がそれぞれ魅力的でした。

143書き手:2019/02/14(木) 20:32:22
また二ヶ月あいてしまいましたが、ようやく第五話書き始めましたので少しだけ投下します。冒頭部分どうやって書き出すか、いつもなかなか決まらず時間がかかります…(ー ー;)
一悶着あってから第五話の最後にはくっつける予定なので、気長にお待ちくださると幸いです。

144「幾星霜を経て」1:2019/02/14(木) 20:34:56
第五話「幾星霜を経て」

その数が五十を超えた頃からだったろうか。
碁石を一つ集めるたびに雁の終焉の夢を見た。状況はその都度異なっているのだが、六太はいつも同じ台詞を言う。
––––もうやめてくれ、尚隆。
苦しげな眼差しで哀願する病み衰えた麒麟を見ると、尚隆は妙な満足感を覚える。六太の命を握っているのは自分なのだという事実が、尚隆を高揚させるのだ。
もっと苦しませて死なせようか、それともひと思いに首を刎ねてやろうか。
そう考えながら薄笑いを浮かべる己自身に、次の瞬間耐えがたい憎悪が湧く。
––––俺はこの世界で何のために生きてきた。任せておけと言ったのは誰だ。この麒麟に一国を返すと約束したのではなかったか。
目覚めはいつも最悪だ。

それほど手放し難いなら、いっそ碁石集めなどやめてしまえばよかろうに、と他人事ならば言うだろう。だが、自分で決断できぬからと始めた賭け事だ。途中で投げ出すのは二重の意味での逃避でしかない。
時折、何かが自分の命を絶ちに来ないかと、夢想することがある。逆賊だろうと通り魔だろうと何だって構わない。無論、殺されたいわけではないし、実際そんなことになれば間違いなく返り討ちにするだろう。愚かで莫迦げた単なる妄想に過ぎない。
しかし自分の掌中にある数多の命の生殺与奪の権––––それをひとつだけ放り出したくなる瞬間が確かにある。なるようになれ、と己の命運を何かに委ねてみたくなるのだ。

※※※

145「幾星霜を経て」2:2019/02/14(木) 20:37:59
雁州国北部、高岫山の峰に北路という名の街がある。
隣国との国境にあるこの街には、十年前の台輔登遐より後、次々と荒民が押し寄せてきていた。黄旗は三年前に揚がったが、新王は未だ践祚していない。国土を跋扈する妖魔の数も天災の回数も、年々増加している。当然、故郷の里廬を失って逃げてくる荒民の数もそれに比例して増えていくのだ。

雁国に雨期が訪れる前の秋の日、北路の街の中央にある高い隔壁の門には長い列ができていた。大半が雁への入国を待つ荒民だ。厳しい冬を越せそうにないと判断して逃げて来る者が多いのだろうか、秋は例年荒民が増える時期だった。
昼下がりの風は穏やかで、青く澄んだ天から柔らかい日差しが降り注いでいる。
雁国夏官の兵士が荒民の列を警護し、旌券のない者を脇の建物へ誘導する役目を与えられていた。本来であれば国境よりこちら側は柳国の兵士が担うべき役割だが、何年も前から慢性的に人員が不足しており、それを雁国の兵士で補っているのだった。
長蛇の列は朝から伸び続ける一方だ。日没までにこの人数を捌き切れるのだろうか、と兵士の男は考えながら、押し寄せる荒民に対応していた。
「旌券があるのか?それなら門卒に見せればすぐに通れる。こっちの列に並ぶ必要はない」
荒民の一人に向かってそう言いながら、ちらりと門のほうを見やると、騎獣を連れた背の高い男が門を通過してきたところだった。
あの門卒の所へ行け、と荒民に指示しながら、兵士の視線はその騎獣に釘付けになっていた。素晴らしく尾の長い白黒の虎––––騶虞だ。
滅多にお目にかかれない最高の騎獣に、兵士の男の滅入っていた気分は瞬時に消えて、憧憬の念が湧き上がる。一兵卒にとっては、騶虞はおろか騎獣を持つことすら高望みというものだった。
まじまじと見入ってしまったからか、騶虞の手綱を持つ男は近くまで歩いて来ると軽く笑って立ち止まった。
「これがそんなに珍しいか?」
「あ、ああ……」
兵士は瞬き、少々きまりが悪くて頭をかいた。
「いや、じろじろ見てすまん。騶虞など滅多に見ないもんでな。––––お前は柳の民か?」
「いや」
「では、雁の民か」
「関弓から来た」
「……わざわざ柳まで何の用だ?」
兵士の問いに、男は軽く眉を上げてから笑った。
「––––それは尋問か?」
兵士は慌てて手を振って否定する。
「いやいや違う、単なる疑問だ。荒れた国に行って何をするのかと。柳は国中あちこちで妖魔がうろついていると聞くし、危険だぞ。物見遊山のつもりなら、やめておいたほうがいい」
男は声を上げて笑った。
「忠告痛み入るが、俺はわざわざ荒れた国を見に行くんだ」
「なんでまた、そんなことを」
「まあ、心配するな。危険を感じたらすぐ逃げればいいのだ。騶虞は足が速いからな、妖魔など簡単に振り切れる」
暢気に笑う男に対し半分呆れつつ、そんなふうに言える図太さが羨ましくもあった。自分も騎獣を持てばそんな心境になれるのだろうか。
それから男は荒民の列の後方にちらりと目をやると、
「––––荒民の数は増えているのか?」
と訊ねてきた。
「そうだな、かなり増えている。やはり年々増えているし、時期的にもな、秋は多いんだ。春から夏に田畑を耕してはみたものの、天候不順やら蝗害やらでどうにもならずに逃げてくる。柳の冬は厳しいから、越冬は無理だという判断だろう」
その時幼子の手を引いた女が、兵士さん、と声をかけてきた。
「旌券がなくても雁国に受け入れてもらえるの」と問うてくるのに対し、
「大丈夫だ、この列に並んで順番を待ってくれ」と返答する。女は安堵したように笑みを浮かべ、軽く頭を下げてからまた歩き出した。
その母子が少し離れてから、兵士は隣の男に向かって声を低めた。
「……しかし、ここまで辿り着いた者はまだましだ。本当に困窮して身動きすらままならない連中は、里の中で飢えて死ぬか、凍えて死ぬか。……あるいは妖魔の餌食か」
そこまで口に出してから、余計なことまで言ったかと思ったが、聞いている男のほうはさして気にした様子もない。
「この辺りには妖魔は出んのか?」
「街の中は今のところ大丈夫だ。だが街の外は危ない。特に暗くなってから街道を歩くと襲われる可能性は高いぞ」
「なるほどな」
男は笑みを佩いて軽く言う。近くで妖魔が出ると聞けば、大抵の者は恐怖か嫌悪の色を浮かべるものだが、彼の反応には一片の気後れすらも感じられない。なんだか妙な男だな、という感想を兵士は抱いた。

146「幾星霜を経て」3:2019/02/14(木) 20:42:18
ぴくり、と騶虞が耳を動かし、列の続く街路の先に顔を向けた。毛並みを逆立てやや頭を下げ、低い唸り声を上げる。明らかな警戒態勢だ。
「たま、どうした」
男の発した声にはあまり緊迫感はなかったが、街路の先を見やる眼光は鋭い。獣の鋭敏な感覚が何かを捉えたのだろうか、と考えながら兵士も同じ方向を眺めやったその時、鋭い悲鳴が視線の先から響いた。
はっとして兵士が一瞬硬直する間に、隣の男は動いていた。騶虞に飛び乗るや否や、
「民を全員門の中へ入れろ!」
と叫ぶなり、男は騎獣を跳躍させた。騶虞が飛んで行く先に見えたのは、巨大な、翼の生えた生き物の影。いくつも滑空し、人の列に突っ込んでいく。
「妖魔だ!門の向こうへ逃げ込め!早く!」
大声を上げると、ようやく兵士の男は動いた。すぐさま抜刀できるよう腰に帯びた剣の鞘を左手に握り、列の後ろへ向かって駆け出した。
絶叫のような悲鳴は続いている。人々の群れは雪崩を打って門へ向かう。最初遠かった悲鳴はあっという間に周囲に広がり、今や阿鼻叫喚の声が両耳をつんざく。
民の警護が兵士の任務だ、最後の一人を逃がすまでは自分が逃げるわけにはいかない。
先程の男を乗せた騶虞が妖魔の群れに突撃していくのが見えて、無茶だ、と思わず呟いた。いかに勇猛果敢な騶虞と言えど、そんなに何頭もの妖魔を同時に相手できるはずがないだろう。
そもそもあの男は、危険を感じたら逃げると言ってなかったか。騶虞は足が速いから、と。妖魔に反応していち早く動き出したあの男、最初から逃げるつもりなど毛頭なかったのだろう。とんだ嘘つきだ。
罵る言葉が頭の中を駆け巡るが、もちろん本気であの男を責めているわけではない。ただ無茶をしないでほしかった。さっきまで話していた相手が妖魔に食われるところなど見たくはないから。

巨大な鳥と、狼に似た獣。何頭いるのか咄嗟に把握できない数の妖魔の群れだった。白昼の街中で、これほどの規模の襲撃はこれまで経験がない。
騶虞の動きは俊敏かつ果敢で、騎乗する男の剣の腕は確かだった。騶虞が飛び、男が剣を薙ぐ。妖魔の首から吹き出した鮮血を躱し、倒れた巨体に男が躊躇なくとどめの斬撃を繰り出すと、すぐさま騶虞は地を蹴って次の獲物へ跳躍する。
兵士の男は、もちろん彼に加勢して妖魔と戦うつもりでいた。だが彼らの戦いぶりのあまりの凄まじさに、駆け寄って行く足は次第に勢いを失っていく。周囲を見渡せば、街路に倒れた人々の間に同僚の兵士が何人も抜刀したまま立ち止まっている。自分と同様に躊躇しているのだ。
あの中に入っても自分は何もできないだろう。それどころか足手纏いになりかねない。だが、このまま遠巻きに眺めているわけには––––。

147「幾星霜を経て」4:2019/02/14(木) 20:44:18
「お前達は怪我人を助けろ!」
また一頭の妖魔にとどめを刺しながら、こちらを振り向きもせず、男は良く通る明瞭な声で指示を出した。
弾かれたように兵士達は動き出す。街路のあちこちにうずくまっている怪我人を助け、門の方へ連れて行く。自力で走れる者たちは次々に門へ駆け込んだ。何人かの怪我人を雁国側まで避難させてから兵士が振り向いた時、柳国側の街路で動いているものは、妖魔と騶虞と鞍上の男だけだった。
妖魔には、果たして仲間意識というものがあるのだろうか。仲間を何頭も斬り殺した男に、妖魔たちの敵意は集中しているようだった。凶悪な鳴き声を上げながら、妖魔たちはただひとつの標的に向かって鋭い爪を光らせ牙を剥き、次々と襲いかかっていく。
その攻撃を躱しながら、男が騶虞の鞍上から地に左手を伸ばして何かを引き上げ、それと入れ替わるように自分は地面に降り立った。戦いを見守っていた兵士は息を飲む。
自殺行為だ、妖魔との戦闘の最中に騎獣から降りるなんて。
行け、と男が言うと騶虞はこちらへ向かって飛んで来る。背に乗せているのはどうやら怪我人だ。門の近くに降り立った騶虞の背から急いでその怪我人を降ろし兵士が顔を上げると、街路に立つ男がこちらを振り向いた。
「門を閉めろ」
彼の言葉に、兵士は耳を疑った。
確かに門を閉めればこちら側は安全になるだろう。隔壁を飛び越えてまで雁国側へ来る妖魔はほぼいないからだ。空位の国と安定した国にはそれほど歴然とした違いがある。––––しかし、柳国側に妖魔と共に残される男はどうなる。
お前も逃げろ、と兵士は言い返そうとしたが、その前に男の声が再び鼓膜を打った。
「早く閉めろ!」
怒鳴るわけではなかったが、有無を言わさぬような命令だった。半分だけ開いていた門から騶虞が飛び出して行くのと同時に、門卒が門扉を閉め始める。
扉が閉まり切る直前の僅かな隙間に駆け寄り、そこから兵士は男の姿に目を凝らす。彼は再び妖魔に向き直り、剣を持つ右手を下げて無造作に左腕を上げた。まるで、この腕を食ってみろ、と挑発しているかのように。

重い音を響かせて、門扉が完全に閉ざされる。断末魔の咆哮が遠くから微かに聞こえた。

148名無しさん:2019/02/17(日) 11:24:13
尚隆カッコいい…!!新章ありがとうございます!くすぶる尚隆が柳でどうなるのでしょう?楽しみです!

149「幾星霜を経て」5:2019/03/02(土) 23:20:19
台輔、と影の中から呼ばう使令の声がした。その声が誰のものであるか認識するよりも先に、ざわりとした寒気が全身を駆け抜けて、六太は軽く身を震わせた。
その声を聞いたのは何百年か振りだったが、六太はすぐに誰の声かを思い出す。同時になぜ寒気がしたのか、その理由も自ずと知れた。六太は座っていた椅子からほぼ無意識に立ち上がり、扉へ向かって歩き出しながら呟くように影に問うた。
「––––尚隆に何かあったのか」
それは愚問だと自分でも分かっていた。何かがなければこの使令が六太の元に戻ってくるはずがないのだ。

それはもうずっと昔に尚隆に無理矢理押しつけた使令で、普段は声を発するどころか一切の気配すら消して尚隆に付いている。妖としての格も戦闘力も低く、知能も高くないが、遁甲できるため瞬時に六太のところへ戻れるのが唯一の取り柄だった。

「そんなものいらん」
最初に六太が使令を付けることを提案した時、そう言って尚隆は拒否した。
「なんでだよ。別に困らないだろ、使令が一匹付いてたって」
尚隆の剣の腕が立つことを六太は知っていたが、傾いた他国までひとりでふらりと出掛けてしまうので、いつ危険に晒されるかと心配で使令を付けておきたかったのだ。
「せっかくひとりで遊びに行くのに、付いてこられては迷惑だ」
「気配は普段消してるから付いてたって気にならないって。もちろんお前がどこで何してたかなんて使令は喋らないし、おれも訊かない。尚隆の身に危険がある時に出てきて守るだけだよ」
「必要ない。第一、使令というものは戦えない麒麟が身を守るためにいるんだろうが。お前の身の回りから離すな」
「麒麟だけじゃなくて王も守るためにいるんだよ、使令は」
「自分の身くらい自分で守れる、と言っとるだろう」
「これまで守れてたかもしんないけど、この先どうだか分からないだろ」
「それを言うならお前のほうはどうなんだ。俺に一匹付けたら、そのぶん六太を守る戦力が減るんだぞ」
「そんなの言われなくても分かってる」
「分かっているなら話は早い。六太に付いている使令を減らすのは却下だ」
尚隆は手を振って話を終わらせようとしたが、六太は引き下がらなかった。
「……それじゃ、弱い使令ならいいのか?」
「弱い使令?」
「そう、弱くて碌に戦えない使令もいる。そういう奴はおれに付いてても戦力にならないから、おれのそばから離れても問題ないだろ」
「そんなもの俺に付けてどうする」
「尚隆が怪我したとか、そういう緊急時だけおれに知らせに戻ってくる。それならいいだろ?お前から連絡取りたい時にも使えるし」
「出奔中に連絡などせん」
「連絡に使わなくても、お前が怪我しなければいいだけの話じゃん。そしたら気配もないし、おれのところにも戻ってこないし、いないのと一緒だよ」
それでも難色を示す尚隆に六太は食い下がり、渾々と説得を続けて最終的に尚隆は渋々了承したのだった。
本当は尚隆を守り戦える使令を付けたかったが、六太は妥協することにした。あまり役に立たない使令でも、とにかく付けておけば尚隆は怪我をしないよう気をつけるだろう、と思ったからだ。

その使令の声は、あれから一度も聞くことがなかった。尚隆はひとりで出奔した時に怪我をして戻って来たことはなかったし、連絡のために使令を使うこともなかった。
それが今日初めて戻って来たのだ。
今までになかったことが尚隆の身に起きた。––––それだけは確かだ。

150「幾星霜を経て」6:2019/03/02(土) 23:25:14
「台輔?––––どうなさったのです」
侍官が怪訝そうに声をかけてきた。ここは宰輔の執務室であり、六太は一応仕事中だった。だが宰輔の仕事など、この際どうでもいい。
「ちょっと出掛けてくる」
振り返ってそれだけ言うと、侍官の制止する声を無視して六太は房室から飛び出した。回廊を走り抜け、禁門へ続く階段を駆け上がる。人の姿では足が遅くてもどかしい。
「沃飛、服を頼む」
言ってから六太は一瞬目を閉じる。身体がふわりと軽くなるのと同時に目を開き、四肢で石段を蹴って飛翔した。落ちた衣服を沃飛が抱えて影に戻るのを待ち、麒麟は全力で駆け出した。
宙を駆ける神獣を目にした官たちが口々に何かを言っている。だがその内容は六太の耳には一切入らなかった。
禁門を駆け抜けて、六太は秋の空を疾走する。関弓山は瞬く間に遠ざかる。王気は北の方角、柳国との国境付近にいるのだろうか。麒麟の脚なら半日もかからず着くはずだ。


その街に到着したのは日没から間もない頃だった。さすがに麒麟の姿を民に見られるわけにいかないので、街の外で転化してから悧角に乗って隔壁を越えた。
本能に従って王の気配を追い、六太は街路を走った。やがて一軒の舎館に辿り着き、六太はためらうことなく門をくぐり建物の中へ入って行く。一階の食堂を足早に抜けて、奥の階段へ向かった。
階段の下まで行き着くと、そこにいた宿の従業員らしき男に声を掛けられた。
「ひとりで泊まる気かい、坊ちゃん」
上階に行けるのは部屋を取っている客だけだから、引き止められるのは当然だ。
「上に連れがいるはずなんだけど」
「連れって誰だ?」
「風漢っていう、背の高いやつ。二階の部屋だろ?」
「ああ……」
ちらりと階段の上を見やってから、その男は視線を六太に戻した。
「それなら二階の一番奥の部屋だが……」
逡巡する素振りで言い淀んでから、彼は声を低めた。
「……風漢の旦那、どうやら怪我をしているようだが、何があったんだ?騎獣も血に汚れていたし」
六太は全身から血の気が引くような感覚がした。騎獣に付いていた血は、果たして尚隆のものだろうか。
咄嗟に何も返せずにいると、男は困ったような顔で話を続けた。
「騎獣を厩に預けて、洗っておいてくれ、とだけ言って部屋に入って、それきりだ。怪我をしているんだろう、瘍医を呼ぼうか、と訊いてみたんだが、必要ないと断られてしまった」
「……怪我したってことは聞いたけど、事情はおれも知らない。––––でもあいつ結構頑丈だから。大丈夫だよ、多分」
「そうかい?」
「どこ怪我してた?」
「左腕だ。袖に隠れてたから傷口は見てないんだが。まあ平然とした顔で普通に歩いていたから、大怪我ではないのかもしれん」
「分かった。––––ありがとう」
言って六太が彼の脇を抜けて階段を上ろうとすると、心配そうに顔を覗き込まれた。
「随分顔色が悪いけど、お前さんは大丈夫かい?」
「……大丈夫。おれも結構頑丈だから」
笑ってみせてから、六太は二階へと向かった。

151「幾星霜を経て」7:2019/03/02(土) 23:29:17
二階の廊下を歩き、一番奥の扉の前で六太は立ち止まった。耳を澄ましても中からの物音は全く聞こえないが、尚隆が扉の向こう側にいるのは気配で分かる。
拳を扉に当てて数瞬、六太は躊躇する。勢いでここまで来たけれど、下界で尚隆に会うのは久しぶりだ。今更その事実に思い至って緊張感が増した。
気を落ち着かせるため小さく息を吐いてから、扉を軽く叩いた。
「––––尚隆」
返事はない。三つ呼吸を数えてから六太は再び口を開いた。
「……入るぞ」
扉を開けると最初に漂ってきたのは血の臭い。それは予想通りだったから、怯むことなく部屋の中へ入った。
扉を閉めて衝立の陰から出る。いくつもあるはずの燭台のうち、ただひとつにだけ灯りが点されている、薄暗く広い室内。中央付近の榻に尚隆は座っていた。窓のほうに顔を向けたまま、彼は振り向かない。
「尚隆……」
衝立の脇に立ち六太は呼びかけた。
「––––何をしにきた」
返ってきたのは、感情の窺えない淡白な声だった。尚隆はこちらを見ない。
「使令が知らせにきた。お前が怪我したって」
「……それで?」
「それで、って……」
微かに、尚隆の失笑が聞こえた。
「お前が来てどうする。怪我を治せるわけでもなし。血に酔うだけだろうが」
「……そうだけど」
王が怪我するなんて本来あってはならないことだ。王の非常事態に麒麟が駆けつけて何が悪いのか。
そもそも使令を付けると決めた時点で、怪我をしたら六太が来ることは当然承知していただろうに、どうして今更こんな言い方をするのだろう。
だが反駁の言葉は六太の頭の中を巡るだけで、口から出てこない。
「……たまも血に汚れてたって、聞いた」
「たまは無傷だ」
その口調はひどく素っ気ない。
「……」
たまが無傷なのはもちろん嬉しい。でも今は、そんなことを聞きたいんじゃないのに。
「尚隆は……」
思いの外かぼそい声が出て、六太は一旦言葉を切った。尚隆は何も言わず、身じろぎもしない。
「……お前の怪我は、大丈夫なのか?左腕だろ、見せてみろよ」
言いながら、尚隆のそばに行こうと一歩を踏み出した。
「近寄るな。血の臭気で酔うぞ」
語調は強くなかったが、六太はその場で立ち止まった。血の臭気のせいではなく、命じられたからでもない。尚隆の声音には明確な拒絶が滲んでいて、それを感じて立ち竦んだ。
尚隆は左腕を上げて右手で無造作に袖を捲った。前腕部には布が巻きつけられており、そこに赤黒い染みが見えて六太は反射的に目を背けたくなる。ぐっと堪えて唇を噛んだ。
「傷口を見たいか?」
どこか面白がるような声で問われたが、六太は返答できない。おそらく自分は直視できないだろう。血の流れ出る傷口を見るのは怖いのだ。
「……妖魔に咬まれたのか」
「そうだ」
「傷は、深いのか」
「かすり傷だ」
「––––妖魔に咬まれたのに?」
尚隆は笑った。いったい何が可笑しいのだろう。
「思っていたより王の身体は頑丈だぞ。食いちぎられるかと思ったが、牙で抉られただけだった」
冗談のように言いながら尚隆は左腕を振り、榻の上に投げ出した。
六太は軽い眩暈を覚えた。血の臭気だけではない理由で。
ひょっとしたら尚隆は、わざと怪我をしたのではないだろうか。妖魔に咬まれたらどうなるか、敢えて試したのではないか。
––––何のために。

152「幾星霜を経て」8:2019/03/02(土) 23:36:07
投げ出された尚隆の左腕を、六太はじっと見つめた。今は袖に隠れて血の染みは見えない。
六太は逡巡し、ためらいながら問うた。
「お前……なんで怪我した?……妖魔と戦って怪我するなんて、今までなかったのに」
「数が多かったからな」
「––––理由は、それだけか?」
低く訊くと、返答までに少しの間があった。
「……何が言いたい」
「……」
六太は沈黙した。どう言ったらいいのか分からなかった。
わざと怪我したのか、と直截に訊けばいいのか。その問いに対して尚隆は本音を語ってくれるだろうか。きっとそれはない、と六太は思う。尚隆は適当に誤魔化したり嘘をついたりして、本音を見せてくれないだろう。
「……瘍医に診せて、ちゃんと手当てしてもらえよ」
「瘍医に診せなくとも、この程度の傷はすぐ治る。王は不老不死の神だからな」
そういう問題じゃない、と思うが言葉に出せずにいると、
「お前がそうしたくせに、忘れたのか?」
呆れたように尚隆が笑った。
「……忘れるわけないだろ」
尚隆を王にした時のこと––––誓約の瞬間の絶望と、歓喜と諦念、船の揺れと血の臭い––––全て鮮明に覚えている。
お前がそうした、と言われたらもちろんその通りだ。だが玉座を望んだのは尚隆だろう。国が欲しいとあの時尚隆が言い切らなければ、自分は決断できたかどうか、今でも分からない。
尚隆の横顔だけを、六太は見る。尚隆がこんなことを言う意図も怪我をした理由も、その表情からは読み取れず、言い知れぬ不安だけが増幅していく。
ふと尚隆の横顔から笑みが消えた。
「……お前は何故俺を王にした」
「何故……?」
「––––二つ目の国を失わせるためか」
「莫迦なこと言うな」
あまりの言いように、咄嗟に返した声は情けないほど震えた。怒りと、恐怖に似た激情が同時に湧き上がり、頭の中が真っ白になる。言葉を継ごうにも何も思い浮かばない。
「お前に何故と問うことは無意味だな、延麒。全ては天意か」
淡々と尚隆は言い、それから初めて六太に顔を向けて唇に仄かな笑みを浮かべた。冷笑か、それとも自嘲か、六太には判別できない。
「帰れ」
短く命じると、尚隆はこちらに背を向けた。
六太は凍りついたようにその場に立ち尽くした。二人の間に沈黙だけが流れて、それは拒絶の色をしていた。
尚隆はほんの数歩先にいるのに遥か遠くにいるようで、どうしたらその距離を詰めることができるのか分からない。一歩も前に踏み出すことができなかった。
やがて六太が重い足を動かして部屋を出て行くその時まで、尚隆はこちらを一瞥もしなかった。まるで六太の存在を忘れたかのように。


どこをどう歩いたのか分からないまま、六太は街のはずれに辿り着いていた。辺りに人影がないことを確認し、悧角を呼び出した。
街の灯りは瞬く間に後方に流れ去り、六太は暗い夜空を悧角の背に乗って飛行する。寒くはないのに全身が震えた。尚隆の言葉の真意を考えるのが怖かった。
あんなに冷淡な態度を取られたのも、露骨に追い払われたのも初めてで、自分がひどく傷ついているのを自覚する。だが六太にとっての衝撃はそれだけではなかった。
––––延麒、と尚隆に呼ばれた。尚隆は、六太の名を一度も呼んでくれなかった。
その些細な事実が、意外なほどに六太の心を揺さぶっていた。他者に対して話す時、六太のことを称号で呼ぶことはあっても、二人きりでいる時にそう呼ばれたことはなかったのに。

九年前の秋の夕刻、関弓の花街の入り口で引かれた尚隆との間の境界線。六太には踏み越えられないその境界線を、尚隆は更に明確にしようとしている。あれから一向に縮まらない二人の間の距離を、更に広げようとしている。そんな気がした。
全身の震えが止まらない。
尚隆との関係は、こうして亀裂が深まったまま終わってしまうのだろうか。そんなことがあってはならない。––––絶対に。
そう六太は思うのに、自分がどうすればいいのか分からない。尚隆が何を考え何を望んでいるのか、何ひとつ分からなかった。

153書き手:2019/03/02(土) 23:39:19
今回は以上です。
次回も引き続き六太視点

154名無しさん:2019/03/08(金) 23:33:43
更新ありがとうございます!ああ何かが変わる出来事が起きてしまった…ガチに拒絶する尚隆怖い。続き楽しみに待機しております!

155「幾星霜を経て」9:2019/03/14(木) 18:55:27
禁門前の広い岩棚に悧角が降り立ったのは、東の空が僅かに白み始めた頃だった。六太が背から降りると即座に悧角は影に戻る。門番に軽く手を上げただけで、六太は声を発することなく門を通過した。
階段を上った先の扉を開けて雲海を望む露台に出たところで、
「お帰りなさいませ、台輔」
と声をかけられた。聞き慣れた声、だがこんな時刻にこんな所で聞くとは思わなかった声に驚いて、六太は俯いていた顔をぱっと上げた。
「……お前、こんなとこで何やってんの」
柔和に微笑んだ朱衡の顔。何故だか六太は少しだけほっとした。
「散歩でございますよ」
「散歩って……まだ日も出てないけど?」
「私は早起きなんです。ご存知ありませんでしたか?」
「おれより早起きなのは知ってたけど、ここまでとは思わなかったな」
六太は笑う。いくらなんでも日の出前に散歩なんておかしい。六太を待ち伏せしていたと見て間違いないだろう。
朱衡が歩み寄ってきて、顔を覗き込まれた。
「顔色が優れないようですが、どうなさったのですか?」
「ああ……うん」
血に酔ったせいだろう。だが今は事情を説明したくない。
「……寝てないからじゃねえかな。––––ま、そういうわけでいま眠いから、仁重殿に戻って寝るわ」
六太は出来るだけ軽い調子で言ってみたが、朱衡は少し首を傾けて、じっと六太の顔を見つめた。
「……では、仁重殿までお供いたします」
「いや、お供とかいらないから」
「いいえ、お供いたします」
微笑みながらきっぱりと言われ、六太は嫌な予感がする。もしや道中で小言を聞かされるのではなかろうか。そういえば今の今まで忘れていたが、昨日は政務を放り出して飛び出したのだ。
「今は小言を聞きたい気分じゃないんだけど」
「––––おや。今は、と仰いましたか?では聞きたい気分の時もあるのでしょうか」
朱衡らしい嫌味な言いように、六太は笑った。
「あるわけねえじゃん」
言いながら六太が歩き出すと、朱衡は斜め後ろに半歩だけ下がった位置にぴったりと付き従った。

この時刻に起きている官は他に殆どいないようで、周囲には人の気配もなく、しんと静まり返っている。点々と灯火の並んだ回廊に、二人の足音だけが響いていた。
六太は無言で前だけを見て歩いた。朱衡も暫く何も言わなかったが、やがて穏やかな声で問うてきた。
「––––主上のところに行ってらしたのでしょう?」
いきなり図星を突かれた六太は、思わず振り向いて朱衡の顔をまじまじと見た。朱衡は至って平静にいつもの微笑みを浮かべている。
「……よく分かったな。おれ何も言わずに出て行ったのに」
「もちろん分かります。麒麟が転変して全力疾走で禁門から飛び出して行ったのですから、行き先は王のところ以外あり得ませんでしょう」
ああ、と六太は少し笑った。
「……言われてみれば、そうかもな」
さすがにこれまで転変して禁門から飛び出して行ったことはなかった、と思う。
六太はまた視線を前に戻し、歩きながら朱衡に訊ねた。
「おれが出て行った後、みんな怒ってたか?」
「帷湍は頭の血管が切れそうな様子でした」
「あー、やっぱり……」
「ですが、他の官は怒っているというよりは、驚いていたり戸惑っていたり……どちらかというと面白がっている官達が多かったようですね」
「あ、そう?」
「神獣の優美なお姿を拝めて幸運だった、と喜んでいる者もおりましたよ」
「幸運ね……」
「帷湍はそうして皆が面白がって騒いでいるのが余計気に食わなくて、怒り心頭だったようですが」
「へえ」
「そうやって噂話が飛び交っておりましたが、どこへ向かったか気づいている者は、殆どいないようでした。––––帷湍も含めて。……まあ、今更台輔の出奔先を気にしても仕方ない、と思っているのかもしれませんね」
「ふうん……」
皆が気づいているわけではないと聞いて、六太は安堵した。麒麟が王のところへ駆けつけたと皆が知れば、これは一大事と騒ぎになりかねないし、事情を問い詰められたら厄介だ。
何があったかなんて誰にも話したくないから。

156「幾星霜を経て」10:2019/03/14(木) 18:57:37
「主上と喧嘩なさったのですか?」
唐突に突っ込んだ質問をされたが、今度は朱衡を振り向かず、前を向いたまま六太は答える。
「いや……別に、喧嘩じゃない」
喧嘩にならなかった。尚隆に冷たく拒絶されて、六太は一歩も踏み出せずに引き下がっただけだから。喧嘩するほど二人の距離は近くなかった。もっとずっと離れたところに、自分達はいる。
「––––ここ十年ほど、主上と喧嘩なさってませんね」
「……そうだっけ?」
「ええ、そうです」
「……よく覚えてんな、お前」
「十年前の喧嘩と一連の出来事は、印象的でしたから。––––喧嘩の腹いせに勅命で転化を禁じるなんて、前代未聞でしょう?」
「ああ……そういや、そんなこともあったな」
言われて思い出した、という素振りで六太は言ってみたが、その嘘が朱衡に通用したかどうかはあやしいところだ。
「あれ以来、主上と台輔の喧嘩は一度もございません。ご自身の事ですのに、お忘れですか?」
「さあ、どうだったかな……。尚隆との喧嘩なんか、いちいち覚えてねえし」
これも嘘だ。もちろん昔の喧嘩はいちいち覚えてないが、十年前の喧嘩は詳細に覚えているし、あれから喧嘩していないのも事実だ。
政務に関する意見の対立で多少の言い合いはするが、あれは喧嘩ではない。単なる意見交換であり、仕事の一環でしかない。喧嘩は、もっと私的な繋がりが強くなければ出来ないものなんだ、と六太は今になって思う。

「本当に覚えておられないのですか?あの喧嘩の三日後、私が根掘り葉掘り訊こうとしたら台輔は転変してお逃げになりましたね」
「いや、あれは––––」
うっかり反駁しかけてから、六太は口を閉ざす。くすり、と朱衡の笑う声が聞こえた。
「やはり覚えていらっしゃる」
返す言葉もなくて、六太はただ苦笑した。
「––––あの時の喧嘩は、何かがいつもと違いましたから。絶対にお忘れではないと思っておりました」
「……」
六太は沈黙する。朱衡の言う通りだ。
忘れたいのに、いつまでも忘れられない。忘れたふりさえ、うまく出来ない。
だからあの日、転変して朱衡から逃げてしまった。
六太は足を止め、園林を眺めやる。すぐ隣で朱衡も立ち止まった。広い園林はまだ薄暗く、遠くまでは見通せない。微かに潮の匂いを含んだ柔らかい風が、視線の向こう側から吹いてきた。
「……朱衡」
「はい」
「……あの日の朝、おれの様子おかしかったか?」
「いいえ、朝議では普段通りのように見受けられました」
「じゃあ、なんでわざわざ追いかけてまで喧嘩のこと訊いてきたんだよ」
「主上の様子が気になったからです」
「––––尚隆の?」
意外な答えに驚いて、六太は朱衡を見た。
「ええ、喧嘩の翌日主上にお会いした時、どことなくいつもと違うご様子でした。それが気になっておりましたが、主上をつついても何も出てこないでしょうから、台輔から聞き出そうと考えた次第です」
「おれをつついたら何か出てくると思ったのか?……まあ的確な判断かもしれないけどさ、それって性格悪いぞ、朱衡」
「存じております」
朱衡はにっこりと優しげに笑った。こんなに柔和な笑顔で自分が性悪であると認める者は、そういないだろう。六太は毒気を抜かれて、それ以上の文句をつけるのをやめた。
「……で、尚隆の様子がいつもと違ったって、どういうことだ?」
「ええ……」
朱衡は言い淀み、少しの間、思案顔をした。
「––––麒麟が獣の姿だけでなく人の姿も持っているのは、何故だと思われますか?」
「……へ?」
六太はぽかんとして朱衡の顔を見た。
蓬山生まれの麒麟は獣の姿で生まれるが、胎果の六太は生まれた時から人の姿だった。そのせいもあるのだろうか、人の姿を持っているのは六太にとっては当たり前で、理由など考えたこともない。

157「幾星霜を経て」11:2019/03/14(木) 18:59:43
「えーと……。政務をするため、とか?」
六太が適当に答えると、朱衡は可笑しそうにくすりと笑った。
「帷湍と同じことを仰いますね」
「––––え、帷湍と同じ?……それは、あんまり嬉しくないな」
六太は少し笑ってから、そもそもなんでこんな話をしているんだっけ、と考える。––––そうだ、喧嘩の翌日の尚隆の様子がおかしかった、という話だったはずだ。
「……その質問、尚隆にもしたのか?」
「いえ、むしろ言い出したのは主上です。言い方は違いましたが。––––天は何故、麒麟に二形を与えたのだと思う、と」
「そう、朱衡に訊いたのか?」
「さあ……。訊かれたのかどうか、私には分かりかねます」
「なんだ、それ」
「ひょっとしたら、独り言だったのかもしれません。––––ただ、その時部屋には主上と私しかおらず、答えられるのは私だけでしたので、個人的見解を申し上げました」
「……なんて?」
「王が人型の半身を欲したからではないでしょうか、と」
ずきりと胸の奥が鋭く痛み、一瞬六太は目を閉じる。
絶対にそんなことはない。だって尚隆は、人型の六太に触れてもくれない。
「……なんで朱衡がそんな見解を持ったのか知らないけど、尚隆には当て嵌まんねえだろ」
「そうでしょうか」
「うん、絶対当て嵌まらない。……で、それ聞いて尚隆はなんて言った?」
「なるほどな、とだけ仰いました」
「ふうん……」
もちろん尚隆は同意を示すためにそう言ったわけではなく、適当に相槌を打っただけだろう。六太にはそうとしか思えなかった。
––––本当に、どうして麒麟は二形を持っているんだろう。もし獣の姿だけならば、二つの感覚の間で揺れ動いて心が混乱することはなかった。十年前の喧嘩だってなかったはずなのに。

俯いて、六太は再び歩き出す。朱衡もすぐ後に続いた。
「……あの時主上の仰ったことで、他にも印象に残っている言葉があります」
「……」
六太は振り向かず、返事もしなかった。
「転化を禁じたことで女官達が困っておりましたので、今後は周囲に類が及ぶような勅命は慎むよう、喧嘩は二人の問題だから二人の間で解決するようにと、私はそう申し上げました。––––それに対して主上は、事はそう単純ではない、と仰ったのです」
「……それ、どういう意味?」
「さあ……。どういう意味か、私には分かりかねます」
「またそれか」
思わず六太は笑った。
「––––台輔」
呼ばれて振り向くと、思いがけず朱衡は真剣な表情をしていて、六太はやや戸惑う。
「……なに?」
「お二人の間で、あの喧嘩はきちんと解決なさったのですか?」
「……」
六太は咄嗟に返答できない。
どうなったら解決したことになるんだろう。尚隆が謝罪して、六太は許した。それで解決したことにはならないのだろうか。
そう考えてから、あの日の尚隆の言葉をふと思い出す。
あれは怒りではなく別のものだ、と尚隆は言った。そしてその「別のもの」は解決しない問題だと。
「……解決しない問題って、なんだと思う?」
呟くように問うと、朱衡は首を傾げた。
「随分、漠然とした質問をなさいますね。––––それは台輔にとって解決不可能な問題、ということでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて。……尚隆の問題」
「主上の問題でしたら……ああ見えても一国の王ですから、やはり雁の事。––––あるいは、台輔との関係」
「おれ?」
「ええ」
「……なんで?」
「そこで理由をお訊きになりますか?当たり前のことでしょう。他の人間––––例えば官のことなら更迭すれば解決、下界の人間なら会わなければ解決です。主上にとって解決できないのは台輔との関係だけです」
「……極論だなあ」
「極論ですが、概ね正しいでしょう。––––主上が仰ったのですか?解決しない問題があると」
「……」
少し迷った。やっぱりなんでもない、忘れてくれ、と言おうかと思った。暫し逡巡した末、結局六太は頷いた。
「……うん」
「昨夜お会いになった時に?」
「いや……。十年前に」
「喧嘩の時ですか」
「んーと……。正確に言うと、あいつが詫び入れに来た時」
「……」
朱衡は沈黙した。顎に手を当てて何やら考え込む風情である。

158「幾星霜を経て」12:2019/03/14(木) 19:01:52
六太は朱衡から視線を逸らし、再び前方に目を向けて歩いた。
朱衡に訊ねたのは、正解を出してくれると期待したからではない。尚隆は周囲にあまり本音を見せない男だから、朱衡にも分かるはずがないだろう。
それでもずっと記憶の底に沈めたまま思い出さないようにしていたことを、初めて口に出した。それは意外にも、六太の心をほんの僅かだが軽くする行為だった。しかし朱衡の返答は予想外過ぎて、却って六太を混乱させた。
尚隆にとっての解決しない問題。それは今でも解決していないのだろうか。
昨日の尚隆の冷淡な態度と、言い放たれた言葉を思い出すと、また身体の芯から震えそうになる。
––––何故俺を王にした、と尚隆は言った。
解決しない問題とは、やはり雁の事だろうか。国政には常に何かしらの問題があり、ひとつ解決すればまた別の問題が浮上する。延々と続くその繰り返しに倦んでしまったのだろうか。
––––二つ目の国を失わせるためか、とも言った。
ひょっとしたら、亡くした故郷の事かもしれない。だとしたら本当に解決する術はない。全ては過去のことだから。
尚隆が瀬戸内の故郷に思いを馳せている、と感じることは時折あった。それは、あの喧嘩以前のことだけど。以前は尚隆の考えていることがなんとなく分かることがあったのだ。たとえそれが六太の思い込みだったとしても、そういう瞬間が確かにあったのに、今では全くそれがない。それだけ自分達は互いに遠ざかってしまったんだろう。

「台輔」
朱衡の声で我に返る。斜め後ろに従っていたはずの朱衡はいつの間にか前にいて、六太の顔を覗き込むように少し身をかがめていた。
六太は立ち止まり、朱衡を見上げた。真剣な眼差しが返ってくる。
「あの時台輔は主上のことを許したと仰いましたね」
「……うん」
「喧嘩の時に主上が台輔に仰った事、なさった事、その全てに納得した上でお許しになったのですか?」
「……」
尚隆に言われた事––––された事。
今まで何度思い出しただろう。そのたびに胸が痛んで、いつも即座に振り払った。あの喧嘩も、その後の何もかもが納得できないことばかりだ。自分は尚隆を本心から許しているのだろうか。
朱衡の問いに六太が返答できずにいると、
「双方が納得しない限り、お二人の問題は解決しないのではないでしょうか」
「……二人の問題?」
「ええ、二人の問題です。––––事はそう単純ではない、と主上は仰いましたが、そんなことはございません。事は至って単純なのです」
確信に満ちた口調に気圧されて、六太は若干身を引いた。
「えーと……なんかいきなり断言してるけど、根拠あるのか?」
「勘です」
「え、勘?」
「勘も侮ったものではございませんよ。––––特に、何百年も仕えている者の勘は」
「あ、そう……」
朱衡の言いようが可笑しくて、六太は微かに笑った。
今日の朱衡はなんだか変だ。どうしてこんな話をするんだろう。六太が落ち込んでいるのを察して、励ましてくれているのだろうか。それとも、ちゃんと問題を解決なさい、と叱咤しているのだろうか。
目の前に立ち塞がっていた朱衡は、どこか満足そうに微笑んで、六太を先へ促すように一歩脇によけた。六太が歩き出すと再び朱衡は斜め後ろに従って、静かな回廊を二人は無言で歩いた。

仁重殿の門前まで辿り着いたところで、朱衡は丁寧に礼を取った。
「それでは台輔、今日は一日ゆっくりとお休みくださいませ」
「……政務は?」
「台輔は体調が優れないようだと、冢宰と靖州令尹にお伝えしておきます」
「朱衡って意外と優しいんだな」
「今頃になって、ようやく気づいてくださいましたか?」
朱衡はにっこりと、今日一番優しげな笑顔を見せた。六太も笑って、じゃあな、と言いながら踵を返した。
門を通って数歩進んでから六太は空を見上げた。天頂は薄い藍色、東の空は茜色––––もうすぐ夜が明ける。

159「幾星霜を経て」13:2019/03/14(木) 19:04:05
その日と翌日、六太は自室の牀榻から殆ど出なかった。微熱が続いて怠く、浅い睡眠と覚醒を繰り返した。目が覚めている間はずっと、尚隆のことを考えて、朱衡の言葉を反芻した。
––––尚隆に会いたい、会うのが怖い。でも会わなければ。
––––言いたいことがある、訊きたいこともある。だけど答えを聞くのが怖い。
本能と感情と理性と、六太の中で幾つもの思いが交錯する。
二日間考えても、尚隆の問題が何なのか、正解など分かるはずもなかった。それでも、六太が自ら動かなければきっと事態は好転しない––––それだけは分かった。

翌々日に起き出した六太は正寝に向かった。回廊を歩き、迷うことなく長楽殿の臥室に辿り着く。何度となく訪れた尚隆の臥室への道順は、たとえ十年ぶりでも目を瞑ったまま歩けそうな気がした。
「主上はおられませんが」
「知ってる。ちょっと部屋に用があるだけ」
警護すべき王がおらず手持ち無沙汰の大僕にそう言って、六太は臥室に入った。
広い室内を見回す。部屋の主がいなくとも毎日清掃されていて、塵ひとつない。久しぶりに入った尚隆の臥室は、なんだかひどく懐かしかった。
六太は榻にすとんと座り、それから寝転んでみた。高い天井を暫く眺めてから、ごろりと寝返りを打った。
視線の先、壁際の低い棚の上には幾つか小物が載せてある。その中のひとつに六太は目を留めた。それだけが異質なもののように思えたのだ。
六太は起き上がり、棚に歩み寄る。それは木製の円筒形の小箱だった。市井の民が普通に使っているような、ありふれた安物に見えるその箱は、王宮の豪奢な調度品の中にあるのが妙に不釣合いだった。
六太の両手に収まる程度の大きさだったが、持ち上げてみると案外重い。中のものが動いてぶつかる硬い音がした。
蓋を開けると、そこに入っていたのは碁石。白と黒とが混じり合い、よく見れば石の材質も均一ではないようだった。
––––尚隆が碁に勝った記念に集めている石だ。
六太は不意に思い出した。最後に関弓で尚隆と会った日、老爺に勝った尚隆が碁石を掠め取るのを目撃したことを。今まで一度も思い出さなかったのは、その後花街の入り口で言われたことのほうが衝撃が強かったせいだろう。
十年前の雨期、つまりあの喧嘩の少し後、尚隆はひとつ目の石を帷湍から取った。碁石を集め始めたのはただの気まぐれだ、と彼は言ったが、本当はそうではないだろう。
六太は箱を手にしたまま移動し、榻の前にある卓の上で箱を傾けて、碁石を卓上に撒いた。一つひとつを指差して数えていく。八十二だった。あれほど碁の弱い尚隆が十年で八十二勝もしたということだ。
「どうしてそんなに頑張ってんだろ……」
何か目的があって集めているのだ、と六太は直感する。ひょっとしたら、解決しない問題を解決するために尚隆は碁石を集めているのだろうか。

王気が近づいてくるのを感じたのはそれから三日後のことだった。
夕刻、六太は悧角に乗って断崖の岩棚に向かった。十年の間、一度も行くことのなかったあの場所へ。
西の空に傾いた夕日、甘い香りの小さな花が咲く木、地面を覆う橙色の無数の花弁。あの時と何も変わらない。
ひとり岩棚に立って雲海を眺めた。低い位置から射す陽光が揺れる水面で散乱されて、一面が黄金色に輝いている。十年前と同じ、綺麗な景色だった。ずっとこの場所を避けていたけれど、惜しいことをしたな、と六太は思った。
目を閉じて花の香りを吸い込むと、あの日の記憶が鮮明に甦る。尚隆の手が、六太の髪を撫でてくれた最後の日。すまなかったと言われ、座り込んで泣いてしまった日。
嗅覚と記憶は深く結びついていると六太は思う。あの時と同じ香りが嗅覚に届くたび、いつも強引に記憶を呼び起こされる。心の深いところにある繊細な部分を鷲掴みにされて揺さぶられるようで、そこにある大切な何かが壊れてしまいそうな気がして、記憶の底に沈めて忘れようとした記憶。
だから六太は、花が咲く秋には丹桂の木に近づくのを避けていた。思い出したくなかったから。
でも今は、その花の香りを振り払おうとはしなかった。
忘れたふりは、もうしない。あれからずっと一歩を踏み込めずにいた。尚隆の心にも、自分自身の心にも。踏み込んで傷つくのが怖かった。
でもいま踏み込むのを躊躇したら、取り返しがつかなくなる。尚隆は絶望的に遠ざかってしまう。それは予感というよりも、殆ど確信だった。
ああそうか、と六太は笑う。
これが朱衡の言ってた「何百年も仕えている者の勘」ってやつかもしれない。

160書き手:2019/03/14(木) 19:06:13
六太の方は準備完了
尚隆が戻ったら直接対決です

161sage:2019/03/14(木) 20:21:36
おお、いよいよ!?

162書き手:2019/03/15(金) 19:16:07
はい、いよいよです
こういう詰めの部分って書くの難しくて。ちゃんと辻褄合わせて納得できる感じにできるかなあ…
頑張ります
そしてもうすぐエロ書くのかと思うと、今から緊張してます。書けるのか私…
今更ですがw

163名無しさん:2019/03/16(土) 17:57:00
更新ありがとうございます!六太が碁石持ってカチコミに…!エロ展開も期待してお待ちしております!

164「幾星霜を経て」14:2019/03/25(月) 19:48:43
王が帰還したのは夜更け。青白く光る弦月が天頂に差し掛かっていた。
正寝までの回廊を、尚隆は殆ど誰とも言葉を交わすことなく歩く。やがて辿り着いた臥室の扉の前、そこに控えていた下官が畏まって礼を取った。
「中で台輔がお待ちです」
尚隆は、ああ、とだけ言って、手を振って下官を退がらせた。表面上はほぼ無反応でいられたが、内心は平静ではなかった。

先日の舎館での六太とのやり取り、一つひとつの言葉が一瞬のうちに脳裏を巡る。あの態度は愚かで無様で最低だったと自覚している。冷静さを取り繕うことができなかった。
あの日、宿の部屋に入って少し眠ったら夢を見た。碁石が増えるたびに見るいつもの夢だ。最悪な気分で目が覚めると、左腕の傷が痛んでひどく苛立った。その痛みは、自らの愚行の当然の結果でしかないのに。
六太の声が扉の外から聞こえた時、咄嗟に自分が怪我をしてからの経過時間を計算した。騶虞でもこの時刻には着かないから、転変して駆けてきたのだろうと察しがついた。そこまでして急いで駆けつけたのかと思うと、胸の奥が熱く締めつけられるように疼いた。麒麟が王を案じその無事を願うのは、本能に過ぎないというのに。そんなことで感じ入る単純な己を心底莫迦だと思った。
自分はもっと理性的な人間だと以前は思っていた。だが今は己の感情が不意に制御不能に陥ることがあり、それが苛立たしくてならない。
だからあれは、ただの八つ当たりだ。苛立ちを六太にぶつけただけだ。余計なことまで口に出した。六太が傷つくと分かっていて––––いや、分かっていたからこそ言ったのだ。
帰れと命じた時の六太の表情が、今でも鮮明に焼き付いている。あんなに傷ついた顔をしていたくせに、王の臥室で帰りを待つなんてどうかしている。いったいどういう思考回路をしているのだろう。

扉に手を掛けて数瞬、尚隆は躊躇する。部屋の中に入りたくなかった。今は六太の顔を見たくない。しかし麒麟は感じ取っているだ、王が扉の前にいることを。逃げるわけにもいかなかった。
軽く手に力を入れて扉を開けると、風が吹き抜けた。窓が開いている証拠だ。その風に乗って甘い香りが届き、尚隆は思わず足を止める。あの日の記憶を鮮明に呼び起こす、丹桂の花の香り。香を焚いているわけではない、花そのものの香りだ。
尚隆は臥室に一歩を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めた。そのまま尚隆は立ち止まる。衝立の向こうに六太がいると分かっているから、そちらに行きたくなかった。
花を持ち込んだのは六太だろう。どういうつもりで、そんなことをしたのか。だが六太の真意がどうであれ、この事態を招いたのは舎館での自分の言動なのだろうと、薄々分かっていた。

「尚隆」
雲海の微かな波音に混じって、六太の声が尚隆の耳に届いた。
「怪我、もう治ったんだろ」
あまり抑揚のない、落ち着いた口調だった。
このまま無言で背後の扉から出て行ったら、六太はどうするだろう。追いかけてくるかもしれない、今日こそは本気で。そして麒麟が本気で追えば、必ず追いつかれる。
「……尚隆」
再び、六太の静かな声が届く。尚隆は一瞬瞑目し、軽く息を吐いて衝立の陰から出た。
灯りは普段の半分も点されていない。薄暗い室内の中央付近の榻に六太は座っていた。その前の卓上に散らばっているのは、橙色の小さな花弁と、白と黒の碁石。


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