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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

97永遠の行方「呪(10)」:2008/09/22(月) 00:05:41
「何にせよ普通に考えれば、先ほどの冢宰のお言葉どおり、光州で起きたこと
は光州に原因があると考えるのが自然ですが」
 太師の言葉に天官長太宰もうなずき、「不気味な事件ではあるが、だからと
言って物事を複雑に取らないほうがいいかもしれない」と言った。大司馬も同
意する。
「単純に考えてみよう。今回の事件は州都を狙っているように見える。そして
この二百年、光州が平穏だったことを考慮すれば、やはり梁興の謀反の残党が
いて、かつての主人と同じ位にある現州候を逆恨みしていると考えるのが、も
っとも無理のない解釈だと思う。それでその位を奪うか州都を荒らすかするた
めに呪を企んでいるのだとな。大司寇がおっしゃったように、大がかりになれ
ばなるほど、呪をかけるには準備がいるだろうから、それでこれまで時間がか
かったのではないだろうか」
「光州候に恨みを持つ者の仕業と言うことですか? あれから州候は二度も代
替わりしているのに?」
 大司徒は相変わらず納得できないようだった。太保も考えこみながら、「そ
れもそうですねえ」と首を傾げる。大司徒は続けた。
「逆恨みで謀反の残党が何か企んでいるとしても、それなら狙いは主上に向か
うのが自然ではないでしょうか。なのに主上ではなく州都、すなわち州候を狙
っているかのように見えるのは、ちょっとおかしいように思えます」
「なるほど。確かにそうかもしれませんな。まあ、最終的には主上を狙った謀
反であるものの、外堀を埋めるためにまず州候を狙っている可能性もあるわけ
で。特に帷湍どのはもともと、主上の古くからの側近でもありますからな」
 大司空がそう言うと、他の面々も考えこんだ。朱衡が言った。
「拙官も、別に謀反の残党による仕業と確信しているわけではありません。た
だ可能性としては十二分に考えられるため、判断材料の少ない現段階で除外す
るのは不適当ではないかと申しあげただけです。この事件は光候を狙ったもの
かもしれない。そう思わせておいて、実は主上が狙いかも知れない。あるいは
まったく別の意図があるのかもしれない。いずれにせよ、もっと情報を集めた
上で、さまざまな角度から分析する必要があるでしょう」

98永遠の行方「呪(11)」:2008/09/22(月) 00:07:50

 さらにいろいろな可能性を検討したのち、いったん休憩となったため、重臣
たちは座を移した。光州候と冢宰だけは、王および宰輔とともに別室にこもっ
たが、別の者たちは茶を飲んでくつろぎ、まだしばらく時間がかかりそうとあ
って、部下に担当の官府への指示を出したりして過ごした。
 それでもひとしきり茶を飲み、出された軽食で腹を満たしたあとは、今回の
事件に自然と言及してしまうのは仕方のないことだった。
「大司寇、大変なことになりましたなあ」
 その割にはのんびりとした口調で太師に声をかけられ、朱衡はうなずいた。
「すべてが終わってから、実は大したことのない事件だったと笑い話にできれ
ば良いのですがね。残念ながら、そういうわけにはいかないでしょう」
 何しろ現実に大勢の死者が出ているのだ。もし謀反の残党による逆恨みとい
う、動機からすれば安っぽい感情が原因だったとしても、今回の事件は相当の
重みを持ったものになるだろう。
 太師は、少し離れたところで茶杯を持ったままぼうっと座っていた大司徒に
も声をかけた。
「大司徒、お疲れになりましたかな?」
「あ、いいえ」大司徒はあわてて首を振った。「ちょっと考え事をしていまし
て。何しろあまりにも不可解な事件ですから」
「わかります。光候が困惑しておられたのも無理はない」
「皆さまは、本当に二百年前の残党の仕業だと……?」
 朱衡は首を振った。
「どうでしょうね。ただ、今のところ他に心当たりがないだけに、そういう可
能性を考えておいて損はないだろうということです。先ほどお話ししたとおり
ですよ」
「はあ……。そうですね」
 大司徒は相変わらず納得できない様子だったが、やがて思い切ったように尋
ねた。
「梁興という者は臣下には慕われていたのでしょうか? というのも、もしこ
れだけ長いこと恨みをかかえていた残党がいた場合、彼らが単に利をむさぼる
ために州候の周囲に群がっていた輩だとは思えませんから」

99永遠の行方「呪(12)」:2008/09/22(月) 00:09:57
 朱衡はしばし考えこんだあとで、こう答えた。
「そうですね。平穏なときにはそれなりに慕われていたと思いますよ」
「それなり……」
「州を治める手腕には相当なものがあり、腰も低く、礼儀正しい男でした。し
かし今となっては卑屈だったと申しあげたほうが正確でしょう。ひたすら主上
に礼を尽くしていましたが、後から思えばこちらを油断させるためにおのれの
本性を偽っていたのでしょうね。長いこと各地の州城への行幸を仰ぎ、念願が
かなった際はその誉れある一番手に光州がなるべく、熱心に主上に働きかけて
いましたが、それまでの彼の態度から推して、誰もそれを不自然だとは思いま
せんでした。当時は主上も少しお疲れだったようで、ご政務どころか、それま
でひんぱんだった下界への外出にも大して興味をお持ちにならず、万事になげ
やりだった頃でしたから、拙どもはむしろ主上の気晴らしになればと、喜んで
送りだしたものです。
 あとで聞いたところ、梁興は自分の選りすぐりの寵姫を何人も主上の臥室に
はべらそうとしたらしいのですが、さすがにそれは主上がお断りになったそう
です」
 大司徒が目を丸くしたので、太師が笑った。
「これこれ、大司徒。いくら主上でも、無条件で女性(にょしょう)を歓迎す
るわけではありませんぞ。少なくともご自分で美女を開拓されるならまだしも、
勝手に選別された女性をあてがわれるのは不本意なのではないですかな」
「あ、はい、それは想像ができますが……。その寵姫たちは喜んで王に侍ろう
としたのでしょうか。それとも梁興に命じられて仕方なく従ったのでしょうか。
聞いただけではかなり酷いことのように思えます」
「どうでしょうなあ。事件が解決したあと、彼女らを憐れんだ台輔の嘆願もあ
って後宮の者は全員許され、仙籍からも削除されませんでしたが、ま、いろい
ろだったのではないですかな。仕方なく従った者もいれば、あわよくば主上に
乗りかえられるかもと期待した者もいたでしょう。いずれにしろ梁興は結局、
そのうちのひとりに首を斬られたわけです」
「とはいえ主上が彼女らの奉仕を断ったのは幸いでした。主上には台輔がひそ
かに使令を一体つけていましたが、それでも閨で寝首をかかれないとも限らな
かったのですから。もっとも梁興は当初、そこまでは目論んでいなかったと思
われますが、少なくとも身動きできないような毒を盛られたり軟禁されたり、
といった危険はありましたからね。

100永遠の行方「呪(13)」:2008/09/22(月) 00:12:02
 実際、そのあとで企てがことごとく失敗した梁興は結局、直接主上を襲わせ
るような暴挙に出ました。随員のひとりだった当時の禁軍将軍が落命したのは
その際です。主上をかばって襲撃者の攻撃を受け、彼の部下たちが脱出路を死
守していた間に、主上は使令で州城から脱出なさいました。長年の側近であっ
た将軍が一命をもって主上を守ったことが堪えたようで、さすがに元州でのと
きのように謀反人との一騎打ちを目論むことはありませんでしたね」
 遠い目をして淡々と語る朱衡に、大司徒は感じ入ったように言った。
「元州に囚われた台輔を単身救出に赴いたというあれですね」
 すると朱衡は太師と顔を見合わせて笑ったので、大司徒は不思議そうな顔に
なった。
「なにか?」
「あ、これは失礼。あれはですね、市井の小説などではそういうことになって
いるようですが、主上の目的は、本当に謀反人との一騎打ちだったのですよ。
こう申しては何ですが、台輔を救出なさったのはそのついでです。実際、台輔
ご自身もあとでそうおっしゃっていました。それに元州の乱のときは主上もお
若かった。むろん身体的なことではなく、精神が、という意味ですが。当時は
何かと無茶をなさったものです。あれでも今は随分とおとなしくなったのです
よ」
「そうだったんですか……」
「いずれにせよ、梁興は州候としては優秀な男でしたが、主上を軟禁して自分
が取って代わろうと考えた時点で、それだけの器量でしかなかったということ
だと思います。自分の寵姫たちを物のように扱って主上に侍らせようとしたり、
投降するよりは奄奚を餓死させるほうを選んだ。たとえば仮に、梁興に個人的
に恩のある者がいたとして、そういった者は結果的に主上を恨んだかもしれま
せん。しかし大抵の者は、半年の籠城のあとでも梁興に良い心証をいだいたま
まということはなかったでしょう。救援の当てのない籠城ほど、悲惨なものは
ありませんからね」
「実際、開城後は地獄絵図が展開されていたわけですしね……」
 大司徒はそう言って恐ろしそうに身を震わせ、気を落ち着かせるためか茶杯
を口に運んだ。

- 続く -

1011:2008/09/23(火) 12:12:28
見てくださるかたもおられるようなので、こっそり注意書き。
(シリアス長編で、途中で舞台裏を書くとか書き手が出てくるのは
いくら二次創作でも興ざめだと思うので、これで最後にします)

何となくそれっぽい感じで書いてはいますが、捏造てんこ盛りで、
原作に明記してあることも勝手に改編してあったりするので、
軽く読み流してくださるのが精神衛生的にもよろしいかと。

実はこれ、女好きの尚隆が自然に六太ラブになるとは思えなかったため、
「どうして尚隆が六太に執着するようになったか」という
理由づけのためだけに考えた話です。
したがって事件そのものは大したことありません。
期待してると肩すかしを食らうと思うので……。
そんなに深い話が書けるほどの力量はないです。すいません。
そもそも本当に書きたい部分はずっとずっと後の、六太の呪が解けてからだし。
(つまりそれまでは、いくら長くてもただの前書き)
こういう妄想なんだなと適当に受け流していただけると幸いです。

またここまで長編だと、そろそろ引っ込んで
自分のサイトでやるのがマナーのような気がしますが、
始めてしまった以上はそれは無責任だと思うので、
この別館がある限りは続けさせてください。

102永遠の行方「呪(14)」:2008/09/23(火) 21:00:35
 その後、しばらく太宰やら太師やらを相手に、光州候の近況などを穏やかに
語っていた朱衡だったが、やがて後ろから「あのう、大司寇」と声をかけられ
て振り返った。そこにいた大司徒が相変わらず緊張した面持ちで言った。
「わたし、いえ、拙官は呪には不案内ですし、心配性なだけかもしれませんが、
何かおかしいとは思われませんか?」
「何か、とは?」
「まるで円を描くかのように病が移動していって、それが呪によるものと思わ
れるというお話でしたが。何だか随分まだるっこしいような気がして。それに
あんなふうにしたら、遅かれ早かれ誰かに気づかれるでしょうに。実際、光州
の官が気づいたわけですし、何というか――もうちょっと意図を隠すとか何と
か、首謀者はそういうことを考えなかったのかと思って。北の里を滅ぼすだけ
が目的ではないのだったらなおさら、真の目的を果たすために、行動を邪魔さ
れないように隠れるのではないでしょうか」
「なるほど。その意味では、確かに目立ちすぎますね」
 朱衡は同意したが、そこへ大司空が言葉を挟んできた。
「意図を隠すとは言っても、呪には普通、定まった手順や形式というものがあ
って、それを踏襲しないと効果がないものですからな。これを目論んだ者にし
てみれば、どうしてもああいうふうにしなければならなかったのでしょう。そ
れに光候の関弓への報告自体は迅速で慎重でしたが、既に最初の事件と思われ
る罹患から一年が経過している以上、結果的に長期間事態を放置していたこと
になります。今さら警戒されるとは思っていないか、あるいは既にそれを気に
しなくても良い段階に入っているのかもしれません。あ、いや、これはあくま
で首謀者がそう捉えているということですが」
「それはそれで物騒きわまりないが」
 渋面を作った太宰に、太保が取りなすように言った。
「おそらくその呪とやらは完成していないのですよ。わたしも何となく、首謀
者――謀反人は意図をあえて隠していないように感じました。それでもこのま
まわれわれが気づけばよし、気づかなくてもかまわない程度の投げやりな関心
しか向けていないような不可解な印象を感じて不思議でしたが、呪が完成して
いないのであれば納得できます。大がかりな呪をしかけているだけに、準備に
も発動にも時間がかかるのではないですか。そして途中である現段階の状態し
か見ていないわれわれは、何であれ中途半端に感じるのでしょう。本当は謀反
人も、われわれに気づいてはほしくないはずです。そう願ったまま、目論見を
続けているのでしょうよ」

103永遠の行方「呪(15)」:2008/10/04(土) 19:09:25
「途中……。確かにそうですな。実際、葉莱の件は中間地点に過ぎないのでし
ょうから」
 太師が応えると、大司徒が青ざめた。
「姑陵から始まった環は閉じたのですよね。もしや葉莱が、第一の環と同心円
を描く第二の環の始まりということはないでしょうか。また一巡して第二の環
が閉じたとき、さらに恐ろしい何かが起きるのかも」
「莫迦な」ずっと黙って聞いていた大司馬がいらいらした口調で言った。「大
司徒、憶測で最悪の事態ばかり想像して恐れても何にもならないだろうが」
「いや、為政者たるもの、常に最悪の事態を想定して心構えをなすことは必要
でしょう」
「しかし大司寇」
「いずれにせよ、もうこの場で話すことではないでしょうね。気になることが
あれば休憩が終わってから、主上や台輔が臨席なさる場で正式に意見として申
しあげるべきでしょう」
 朱衡がそう言ったので、さすがに大司徒も大司馬も黙りこんだ。そうしてし
ばらく居心地の悪い沈黙が流れたのち、ひとしきり咳払いだの、ひとりごとめ
いたつぶやきだのがもれ、その場にいた者たちは席を立ったり、隣の者と無関
係な雑談を始めたりしたのだった。

 内議が再開されると、最初に冢宰がこう告げた。
「先ほど光州候から、状況次第で他の者に州候位をお任せしても良いとのお申
し出がありました。もし帷湍どの個人が狙いだった場合、それで事件が収束す
る可能性もありますからな」
 ざわめきが起き、とたんに眉をひそめた太宰が言った。
「それは……こう申しあげては僭越ながら、少々無責任に過ぎるのでは?」
 他の者もうなずく中、冢宰は答えた。
「むろんそれは重々ご承知の上でのお申し出でしたが、いずれにせよ主上がお
認めになりませんでしたので」
「当たり前だろう」尚隆は肩をすくめた。「ここまで事態が進めば、万が一、
帷湍が狙いだったとしても容易に事が収まるとは思えん。となれば、他に落ち
度のない州候の首を今の時期にすげかえると、いざというときに光州側の指揮
系統が混乱して使い物にならず、却って事態を悪化させる恐れがある。頭が変
われば、全体の勢力図も否応なく変わるものだからな」

104永遠の行方「呪(16)」:2008/10/04(土) 19:11:29
「承りましてございます」
 冢宰は王に対し丁寧に頭を下げ、帷湍も神妙な顔でそれにならった。尚隆は
続けた。
「とはいえ光州城内では既に動揺が広がっているとのことなので、王師から兵
を割いて、州師とともに調査に当たらせることにした。これは事が起こった場
合に備えるのと同時に、敵方に揺さぶりをかける意味もある。相手が隠れてい
るなら、こちらが動くまでだ。とはいえ州師の数は十分だし、とりあえずは王
が背後に控えていることを示せば良いから、まずは一卒、そのあとは状況次第
だな。もっとも州候が不在の折りに王師だけを派遣するわけにもいかんだろう
から、年明け早々、帷湍の帰城につきそわせる形で州城に向かわせる」
 大司馬は「けっこうですな」とうなずいた。
「それ相応の規模の謀反なら、動向というものは多少なりともどこからか漏れ
るものです。しかし今回は、少なくとも現時点ではそれがない。このまま座し
て手をこまねいているわけにはいかない以上、さらなる人命が失われる前にこ
ちらから動くべきです」
「そういうことだ。ここ百五十年ほどは雁全体もまあ平穏だったが、そうそう
平和ぼけもしていられんだろう」
「五百年を越える治世となれば落ち着いて当然です。むしろ何百年も謀反だの
反乱だのが絶えなかったほうがおかしいのです」
 朱衡がすまして答えると、尚隆は大仰に嘆息を漏らした。
「こうしてちくちく嫌味を言われ続けて五百年。よくぞ失道しなかったものだ
と、俺は自分を褒めたくなるぞ」
 そう言って一同の笑いを誘ったあと、彼は「いずれにしろ、いつもとは勝手
が違うので要注意ではあるな」と続けた。
「武力がどうの、ということならいくらでも計れるが、呪が相手ではさすがの
俺も手も足も出ん。こういうことはむしろおまえのほうが得意だろう」
 尚隆が傍らの半身に声をかけると、六太は肩をすくめた。
「そりゃまあ、ある程度の経験を積んだ麒麟は呪の専門家みたいなもんだから
な。だがこういう、人に害をなす呪は専門外だ。冬官府のほうがはるかに詳し
いだろう」

105永遠の行方「呪(17)」:2008/10/04(土) 19:14:03
 しかし大司空は困惑したように首を振った。
「我々とて、確かにたとえば冬器は作っておりますが、あくまで武具の威力や
耐久性を増すというだけで、直接人に危害を加える呪というのは……。むろん
門外不出の危険な禁呪はありますし、書庫を調べさせれば、あるいは昔の記録
などに今回の事件に関係のありそうな内容が書かれている可能性もありますが、
今の段階では何とも申しあげられません。
 何にしてもこれほど規模の大きな呪を仕掛けるには、準備だけでも相当かか
るでしょう。そして先ほど台輔がおっしゃったように、他人に害をなす呪は当
人にも災いをもたらすはず。その割には一向に相手の姿が見えず、見当もつか
ない、そもそも目的がわからないというのは解せませんな」
 朱衡も「脅しにしては接触がありませんしね」と同意した。そして王に向か
ってこう言った。
「先ほどの休憩時にもこの話題が出たのですが、大がかりな呪ということで、
目的に必要なすべての用意が終わっていない可能性があります。そのため少な
くとも何らかの区切りがつくまでは、謀反人は身を潜めているつもりなのかも
しれません」
「確かに大層な仕掛けなら時間もかかろうし、その作業を終えるまで疑いの目
を向けられたくはないだろうな」
「はい。しかし毒殺魔のたぐいもそうですが、知識なり技術なりを駆使して悪
事をたくらむ者は、一般的にうぬぼれが強い傾向にあります。そのため無意識
に自分の知性を誇示しようとして、つい墓穴を掘ったりもするのですが、残念
ながら今のところそのような気配はありませんね」
「だがひとつの里が全滅したというのは大事件だ。ということはこれまではそ
れとして、こちらが陰謀の存在に気づいたという前提で行動してくる可能性も
高い。それに騒ぎが大きくなれば、よしんば呪者が民の間に紛れて潜んでいた
としても、いつまでも身を隠し通せるものではない。したがってそろそろ動向
が漏れてくるか、何らかの接触があると考えていいだろうな。とりあえずは年
明け、一月に丑の方角で何かが起きるかどうかだが……」
 考えこんだ尚隆に、帷湍が反射的に「頼むから宮城でじっとしていてくれ」
と声を上げた。尚隆はにやりとしたが、彼の口から出たのはもっと堅実な言葉
だった。

106永遠の行方「呪(18)」:2008/10/05(日) 20:04:02
「そんなことより、もっと先に心配することがあるだろうが」尚隆は言い、目
の前の卓の地図を指し示した。「姑陵から始まった環と同じように、もし葉莱
の件が、そこから始まる第二の環の起点だとしたらどうする。さらに一年後に
何が起きるかはさておき、年明け早々、一年前の一月に死者が出た明澤の近く
の里が全滅する恐れがある。姑陵と葉莱の位置関係から推して、目標となる里
はだいたいしぼりこめるだろう。この際、多少の誤差はかまわん。むしろ念の
ために近隣の里も含めたほうがいい。とにかく早急に特定し、そこの住民を一
ヶ月間別の場所に避難させろ。新たな死者が出てからでは遅い」
「そ、それはそうだが……」
 帷湍が口ごもったのをよそに、先刻の休憩で同じ話題に接した重臣たちは顔
を見合わせた。彼らの懸念など王はとうに見通しており、単にその懸念の是非
を論じていた彼らとは違って既にその先を考えていたのだ。
「報告によれば病の発生日は固定ではないが、だいたい月中あたりが多いとの
ことだったな。それを考えれば数日の猶予はあるかもしれんが、万が一という
こともある、年が明ける前に避難させろ。呪だの何だのと言われてもわけがわ
からんだろうし、新年の祝い事は特別だから民は嫌がるだろうが、もっともら
しい理由をでっちあげるんだな。とはいえ田畑のことを考えずにすむ冬だった
のが不幸中の幸いだ。それなりの理由を挙げた上で住処を用意し、生活費の支
給なり補償なりを持ちだせば避難してくれるだろう。ただし病の原因がわから
んだけに、避難先でも他の里の住民とは接触させるな」
「しかし……」
「なんだ、帷湍」
「第二の環という懸念はうちの官も指摘していたのだが、何にしろ葉莱の場合
はそれまでの規則性が当てはまらんわけだ。ということはそこが新たな起点だ
ったとしても、たとえば今度の環は前回と逆に左回りに描かれるのではないか
とか、いろいろな推測が――」
 すると尚隆は呆れたように言った。

107永遠の行方「呪(19)」:2008/10/05(日) 20:06:38
「新たな法則性が現われるかどうかもわからんではないか。しかもその法則性
とやらがわかるとしたら、葉莱の次の里で被害が起き、民が死んでからだ。だ
がそんなことは許さん。ならば単なる心配や憶測は除外し、これまで明らかに
なった材料からのみ推測を導くしかなかろう。姑陵から始まった環が閉じたな
ら、その少し内側にある葉莱も、それを起点として同じように一年を費やして
環を描くことは十分に考えられる。となれば次は、州都から見て明澤の少し手
前、姑陵に対する葉莱と同程度の距離関係にある里が狙いと考えるのが順当だ
ろう。環が逆順に描かれることを懸念するなら、十一月に被害のあった亥の伯
昌(はくしょう)についても、その近隣の里を警戒すれば良い。何なら十二方
位すべてにおいて、第二の環の上にあると懸念される里の民を避難させること
だ。民には迷惑だろうが命には代えられんし、それで少なくとも一ヶ月は時間
を稼げる。その間に敵のあたりをつけ、打開策を練ることだ」
 被害が懸念されるすべての里の民を避難させるという考えに、六太がほっと
した様子を見せた。帷湍のほうは難しそうな顔で考えこんでいだが、やがて
「何とかしてみよう。あとで令尹に緊急の青鳥を飛ばしてみる」と答えた。尚
隆はうなずいた。
「優先順位としては、まず丑、次に亥、他の十方位の里はそのあとだな。特に
一月が懸念される丑は、年明けまであまり日数もないだけに早急に避難させる
必要がある」
「わかった」
 次に尚隆は冢宰に向かい、「他の州でも既に同様の事件が起きていないかど
うか、これも早急に確認する必要があるな」と言った。
「光州と違い、事件が起きていても単に気づいていないだけという可能性もあ
る」
「ではこれから朝議を招集いたしますか」
 冢宰が問うた。

108永遠の行方「呪(20)」:2008/10/05(日) 20:08:52
 朝議はもともと毎朝の定例だけに、何よりも官に対する王の謁見という意味
合いが大きい。むろん討議も行なわれるが、前日に官府で行なわれた各種業務
に関する奏上や、当日以降の王の政務予定の発表など、通常は事件性のない内
容が扱われる。特に雁では、大抵の国より朝議に参加できる官位は低めに設定
されていて朝官の数自体が多く、今回のように不可解で影響の大きな事件の対
応をいきなり諮るには不向きだった。だからこそこうしてまず内議で煮詰め、
それなりの方向性や基本的な対応を模索することになるわけだが、ある程度の
段階になれば朝議で公にするのが筋だった。
 ちなみに朝議は午前中に行なわれることが多いが、だから「朝」議というわ
けではない。朝廷会議という意味だからだ。したがってたとえ夕刻や深夜に行
なったとしても「朝議」と称されるし、緊急時は一日に複数回招集されること
もある。
 冢宰の問いに、尚隆は「いや」と答えた。
「朝議は明日で良い。それより各州に確認の青鳥を飛ばせるのが先だ。とりあ
えずはこういう流行病が発生しているからと、各州においても現状を確認して
早急に報告を求める旨の青鳥を今日中に送れ。その後、上関の予定のない州候
には使者を立てて今回の件の詳細を報せる。まあ、州候がぼんくらでなければ、
そして今回の企てと無関係なら、最初の青鳥で迅速に対応するだろう。仮に州
候もしくは側近が首謀者と関係があったとしても、彼らを通じて揺さぶりをか
けることができるはずだ」
「ではさっそく」
 冢宰は頭を下げると、控えていた自分の部下に指示を与えて下がらせた。
 その後、重臣たちはそれぞれが懸念している事柄を王に伝えた。そして差し
あたって疑いから除外する理由もない上、考えようによっては首謀者との関連
が最も疑われる二百年前の謀反について、光州と関弓の両方で記録を当たった
り当時の関係者に聞き取りをすることになった。特に聞き取りに関しては、呪
に詳しいと思われる冬官や、梁興の日常を知っていた元寵姫を重点的に当たる
ことになった。

109永遠の行方「呪(21)」:2008/10/25(土) 17:58:46
 先の休憩時、既に尚隆が指示を出して仙籍を調べさせていたため、人数の多
い冬官はともかく、寵姫が二人しか残っていないことはすぐわかった。謀反の
あと、尚隆は彼女らを許して仙籍もそのままにしたが、みずから仙籍削除を願
いでた者も多く、ほとんどは数十年後に只人として没したと思われたからだ。
とはいえ生きている二人も光州を出ているため、すぐには居場所をつかめず、
かなりの時間がかかるように思われた。
「それでももし今回の件があの謀反と関係があるなら、何か呪者なりに心当た
りがないとも限りませんしな、早急に手配いたしましょう」
 そう言うと冢宰は、内議の場に届けられた報告の書面を確認しながら続けた。
「ふむ、冬官は十名近くいるが、仙籍に残っている寵姫は確かにふたりだけ。
この晏暁紅(あん・ぎょうこう)という女が梁興を討った者ですが、謀反のあ
と、親類である当時の貞州候を頼って光州を出たことはわかっております。さ
っそく貞州に問い合わせてみましょう。もうひとりの武蘭珠(ぶ・らんじゅ)
という女の行方はどうでしょうな。こちらは光州で調べたほうが早いかもしれ
ません」
 冢宰が書面を王に手渡すと、その傍らで六太が「可哀想にな」とぽつりとつ
ぶやいた。怪訝な目を向けてきた冢宰に、六太は沈んだ声でこう答えた。
「あの籠城は悲惨だった。開城したあと、生きのこった官はほとんど腑抜けの
ようになっちまってて……。俺は州城に近づけなかったから、離宮に引きたて
られてきた彼らを見ただけだけど、みんな心身ともに疲れきって座りこんでい
た。そう、後宮の女たちが、よれよれになった装束をまとい、他の者と肩を寄
せあったり泣いたりしていたのを覚えている。官と同じように、ひたすら茫然
と座りこんでいたのもいたっけな。今どこでどうやって暮らしているのかは知
らないが、あんな事件は忘れたいと思い、実際に忘れて暮らしているんじゃな
いだろうか。なのに当時のことを聞かれたらつらいだろうな」

110永遠の行方「呪(22)」:2008/10/25(土) 18:00:56
「あれから既に二百年経っております、台輔」太師が穏やかに口を挟んだ。「
それだけの時間があれば、すべては思い出になったはず。今さらいろいろ聞い
ても、つらい思いをさせることにはなりますまい」
「ああ……。そうだな。そうだといいが。何しろ生きのこっているひとりは、
実際に梁興を討った者だという。武人ではなく、暴力とは無縁の後宮のなよや
かな女が、籠城をやめさせるためとはいえ慣れない剣をふるって主人を手にか
けたんだ。つらかったろうな……」
 六太は苦しそうな表情でつぶやいた。しかしそれは彼が慈悲の本性を持つ麒
麟だからで、他の者はむしろ梁興の側仕えが生き残っていたことに安堵する思
いだった。何しろ謀反に荷担したと見なされた者は、罪が最も軽い者でも仙籍
を削除され、したがって既に没している。他の主だった臣下も、かなりの者が
梁興の怒りを買って籠城中に殺されていたから、日常的に梁興に接して彼をよ
く知っていた者はあまり残っていなかったのだ。
 しかし正式な妻ではなかったにせよ、梁興のすぐ側で仕えていた寵姫なら何
か知っているかもしれない。重臣たちはそう期待した。

111永遠の行方「呪(23)」:2008/11/01(土) 18:45:53

 年末年始は帰省する学生も多く、例年この時期になると、街だけでなく大学
の中も何となくあわただしい雰囲気になる。何しろ二ヶ月もの長期休暇となる
と、特に遠方から来ている学生の場合、年に一度の帰省の機会だからだ。
 もっとも鳴賢は帰らずに勉強するつもりだった。同じような理由で寮にとど
まっている学生も少なくない。
 楽俊もいつものように大学寮にとどまっているが、むろん彼の場合は事情が
異なる。唯一の家族である母親も今や寮の飯堂で働いているし、そもそも母親
は故国の家を引き払ってやってきたので、楽俊が帰省する先など既にないのだ。
 しかしそのことをどう思っているのか、当人はのほほんとしており、すっか
り人気のなくなった飯堂の席で無駄話をしている鳴賢と敬之とよそに、今も母
親を手伝ってせっせと卓の上を布巾で拭いてまわっていた。椅子の上に乗って
小さな鼠の体を懸命にのばし、均衡を取るようにしっぽをゆらゆらとさせなが
ら大卓を拭く姿はなかなかほのぼのとしているが、奄のようだと相変わらず陰
で笑い者にもなっている。そのことを知らない楽俊でもないのだが、当人は
「体を動かしたほうが気分転換になって調子も上がるからな」とあっさりした
ものだ。
 もし六太あたりがこの場にいたなら、おそらく彼も気軽に楽俊を手伝ってま
わっただろう。「早く片づけちまって、街に遊びに行こうぜ」と明るく誘いな
がら。だが鳴賢たちはのんびりと椅子に座り、働き者の友人をぼけっと眺めて
いるだけだ。
「そういえば、あれから六太を見ないね」
 敬之が言った。「あれ」というのは、王が人柱だという不穏な話をしたとき
のことだ。確かにあれから鳴賢も六太の姿を見かけていなかった。
「そうだな。でもまあ、年末は誰も彼も忙しいから」鳴賢はそう答え、なまっ
た体をほぐすように首をゆっくりと回した。これから自室に戻ってまた勉強三
昧だ。「それに考えてみれば、あんな話をしたあとで少し気まずいのかもしれ
ない」
 すると敬之は少し黙りこんだあとでこう言った。
「実はあれからちょっと考えてみたんだけど」

112永遠の行方「呪(24)」:2008/11/01(土) 18:48:10
「うん?」
「六太の話。あのときは最初は民の話、次に官、そして王と焦点がぶれていた
からわかりにくかったけど、よくよく思い返してみると、六太の言いたかった
ことはたったひとつなんだなあって思ったんだ」
「へえ?」
「民であれ官であれ、はたまた王であれ、それぞれが最大限に他者を思いやり
ながら、懸命に本分をまっとうすること。そういうことなんじゃないかな。要
するにさ、それに尽きるんだ」
「なるほどな。まあ、そう言われればそんな気もするが」あまり楽しい話題で
はなかったので、鳴賢はおざなりにつぶやいた。そして面倒くさそうにこう続
ける。「というかさ、やっぱり六太は育ちが良いんだよ。三十を過ぎても、本
気でそんな理想を夢見ていられるほど苦労していないんだろう。確かに捨て子
で死にかけたことがあるのかもしれないが、良い人に助けられて、今は富裕な
官吏の養子にでもなっているんじゃないか」
「そうだね。僕もそう思う。まあ何にしても、僕が帰省している間に六太に会
ったら、よろしく言っておいてくれ」
「ああ」
「おーい、ふたりとも茶ぁ飲むかぁ?」
 卓を拭きおえて奥の厨房に引っこんでいた楽俊が、陰からぴょこんと顔だけ
出して大声で尋ねてきた。敬之は、これまた大声で「いや、僕はそろそろ房間
に戻って荷造りをしなけりゃ。またな」と返した。
 いったん厨房に引っこんだ楽俊は、ほどなく茶杯をふたつ盆に載せてやって
きた。そしてひとつを鳴賢の目の前に置き、向かいの、さっきまで敬之が座っ
ていた席に落ち着くと、のどかにずずっと茶をすすった。
「やっぱり鳴賢は家に帰らねえのか?」
 何気なく問われ、鳴賢も茶をすすりながら答えた。
「ここまで来ると、さすがにそれどころじゃないからな。何が何でも今度こそ
卒業しないと。それより文張はどうするんだ?」

113永遠の行方「呪(25)」:2008/11/01(土) 18:50:57
「おいらも今回は寮で缶詰になってようかと思ってる。自信はあるっていやあ、
あるんだが、もしもってこともあるしな。万全を期さねえと。早く卒業して官
吏になって、できるだけ早く一人前になって、母ちゃんに楽をさせてやりたい
んだ」
 ちらりと厨房のほうを見やった楽俊に、鳴賢は身を乗りだして「雁の官吏に
なるんだよな?」と念を押した。すると楽俊は耳の後ろをかきながら、困った
ようにこう答えた。
「といっても、ここじゃ結局おいらはよそ者だからなあ。本当は巧に帰ってみ
たいんだが、巧じゃいまだに半獣の登用はないらしい。それでも経験を積んで
使える人材だとわかってもらえれば、もしかしたら使ってもらえるかもしれね
え。今はそれを励みに頑張るしかねえなあ」
「雁の民になればいいじゃないか」
「土地を買う金がねえもん」
 しょんぼりとした様子の楽俊に、鳴賢は「雁で官吏になれば、雁の民になれ
るだろうが」と呆れた。楽俊は「うーん」と唸ると、「実を言うと、自分がど
うしたいのか、よくわからねえんだ」と意外な答えを返した。
「よくわからないって……」
「そうだなあ、巧にいた頃は、自分を生かせるところならどこでもいいと思っ
てた。何しろ選択の自由もなかったからな。だけども実際に雁で暮らすように
なると、そう簡単に割り切れるもんじゃねえってことに気づいたんだ。むろん
最初は無我夢中だったけど、最近じゃ余裕も出てきて、そうすると父ちゃんが
死んでからは巧にいい思い出なんかねえのに、やたらとあっちが気になるよう
になってなあ。何を言っても、結局は生まれ育った故国だ。雁で官吏になって、
もし重要な仕事でも任せてもらえたら、そりゃあ嬉しいしやりがいもあるだろ
う。でも巧に帰って巧が良くなるために尽くせるんなら、それもまたやりがい
だろうと思ってな。もうちっと半獣が暮らしやすい国にできたらとも思うし」
「まっとうに正丁扱いもしてくれず、土地もくれなかった国にそこまで未練を
残すこともないだろうが」
 鳴賢が溜息をついて言うと、楽俊はこんなことを言いだした。
「なあ、鳴賢。これはあくまでたとえ話だから、怒らないで聞いてほしいんだ
けど」

114永遠の行方「呪(26)」:2008/11/01(土) 18:53:05
「なんだ?」
「もし、もしも、だ。今の主上が乱心なさって雁を荒らし、台輔を道連れに崩
御されたとする。そうすると少なくとも何年かは新王の登極はありえないし、
国は荒れる一方だ。鳴賢も他国に逃げて、幸いにもそこで重用されたとして―
―すぐその国の民になる決心がつくか?」
 仮定とはいえ、いきなり王の崩御の話を持ちだされて驚いた鳴賢は、まじま
じと目の前の友人を見つめた。だが以前六太が言った「王は人柱」という話の
ときと違い、あくまで鳴賢が楽俊の気持ちを推し量るためのたとえでしかない
とわかったから、かすかな不快感こそ覚えたものの憤りまでは感じなかった。
それにもともと楽俊は、鳴賢の感覚からすれば突拍子もないことを言いだすこ
とがあった。
「――急に、そんなことを言われてもなあ……」ようやくそれだけ答える。
「それに俺はおまえと違って土地ももらえたし、国から理不尽な扱いを受けた
こともない。条件はかなり違うと思うぞ」
 だが楽俊が黙ったまま彼の反応を見ていたので、鳴賢はさらに考えて言葉を
つなげた。
「正直なところ、よくわからないな。そんなことは想像すらしたことないし―
―雁は俺が生まれるずっと前から大国で繁栄を続けていた。今だって主上の治
世に陰りはまったく見えないし、何となく、このまま俺が死ぬまでずっと平穏
に続いていくような気がしているからな」
「だけど歴史には、ほんの数年で国を荒らして崩御しちまう元名君もめずらし
くねえぞ」
「わかってるさ、それは。確かに可能性としてなら、雁だってそうなることも
ありうるだろうさ。でも俺にはどうしても、自分の国のこととして想像するこ
とはできない」
「そうか」
 楽俊はうなずくと、ふたたび茶杯に口をつけて、のんびりとすすった。そし
て「そうかもしれねえな。何たって奏と雁は別格だからな。変なたとえをして
悪かったな」と詫びた。

115永遠の行方「呪(27)」:2008/11/02(日) 22:52:35
 その様子に、鳴賢はふと、楽俊が大学に入ったばかりの頃のことを思いだし
て言った。
「そういえば前、頼まれ物を届けるとか何とかで、柳のほうへ旅に出たことが
あったよな。入学して最初の新年だったか。俺は帰省していたから後で知った
けど、かなり長い間いなかったんだってな。今じゃ文張がお人好しなのはよく
知っているが、当時は随分のんきな奴だと呆れたものだ。でもさ、もしかして
そうやって他国に行ったり、海客と会ったりしているのも、将来どうするかを
考えてのことだったのか? いろいろな場所を見たり、変わった奴と会ったり
して、何かを目標のようなものを見つけようとしているとか?」
「そんなんじゃねえ」楽俊は笑った。そして苦笑まじりにこう答えた。「柳に
行ったのは本当に頼まれたからだ。前にも言ったと思うけど、大学の入試を受
けるのに便宜を図ってくれた人がいて、その恩人に頼まれただけだ。引き受け
れば、母ちゃんを巧から呼ぶのにも力になると言ってもらったしな。おまけに
旅の費用は持ってもらったし、もともとおいらは雁以外の国にも興味があった
から、お互いの利害が一致したってとこだ」
「それにしたって……」
「海客のことは、入学したばかりの頃、道に迷って海客の団欒所に偶然行った
のがきっかけだ」
「道に迷ったぁ?」
 鳴賢は素っ頓狂な叫びを上げた。楽俊は照れたように、耳の後ろをぽりぽり
と掻いた。
「迷ったってのは正確じゃねえな。うん――何かと物珍しくて、こっちには何
があるんだろうとふらふら歩きまわっていたら、変わった音楽が聞こえてきて
な。何だろうと思ってずんずん歩いていったら、そこが団欒所だった。聞こえ
てきていたのは海客の音楽だったんだな。まあ、帰りは本当に迷ったというか、
帰り道がわからなくて、通りがかった官吏に途中まで送ってもらったんだけど」
「おまえ……」
 普段はしっかりしているのに、たまに抜けているところがある楽俊だから、
鳴賢は呆れながらもおもしろく思った。当人にその気がなくとも、遠慮のない
物言いのせいで、楽俊は優秀な成績を鼻にかけているかのように誤解されるこ
とが多々ある。それでもこうしてひょんなところで抜けているところを見せる
から、嫌味にならないのだろう。

116永遠の行方「呪(28)」:2008/11/02(日) 22:54:39
「鳴賢も、聞いてみりゃあ、すぐわかる。海客の音楽ってのは、それぐらい奇
妙な曲だから。そうじゃねえのもあるけど」
「へえー……」
「何なら行ってみるか?」
「え?」
「団欒所っては月に数回しか開かないんだが、確か明後日か明々後日がその日
じゃなかったかな。その日は海客だろうとなかろうと、誰でも自由に行ってい
いんだと。もっとも昔は何の制限もなかったのに、仲間内で閉じこもって問題
を起こした海客がいて、それから回数制限をするようになったらしいけどな」
 問題を起こした輩がいると聞いて、鳴賢は眉をひそめた。なぜだかとっさに
浮民や荒民を連想したのは、この国の民でもないのに助けてもらっていながら
問題を起こすという構図が似ていたせいかもしれない。
 そんな鳴賢の心中をよそに、楽俊はのんきに話を続けた。
「房間に閉じこもって勉強ばかりしてても能率は上がらねえから、気分転換に
いいと思うぞ。ええと、大学寮からだと、どう行くのが一番わかりやすいかな」
「えっ、おまえも行くって話じゃないのか?」
 ひとりで訪ねるほどの興味は覚えなかったものの、楽俊が行くなら付きそっ
てもいい程度に考えていた鳴賢はびっくりした。すると楽俊は事もなげに、そ
もそも団欒所に行ったのは数えるほどしかないこと、最後に行ったのは二年ぐ
らい前だということを説明した。ひんぱんとは言わないまでも、普通に訪問し
ているのかと思いこんでいた鳴賢はますます驚いた。
「海客の女の子がいて、おいら、その子に気味悪がられてるから。仲間内のた
まの団欒を邪魔したら悪いだろ」
「気味悪がられてる? 蔑むとか莫迦にするのではなく?」
 半獣は劣った存在として、昔から各国で蔑まれてきた。むろん雁では制度上
の差別はないし、なんら負の感情を持たない者も多いだろう。しかしながらそ
んな雁でさえ半獣を蔑む者は普通にいるから、そういう相手として軽んじられ
るというのなら想像はできた。実際、大学で楽俊が他の学生からやっかみを受
けたり、教官から冷たい仕打ちをされていたのは、「半獣のくせに」という蔑
視のせいもあるのだ。しかし気味悪がられるというのは初耳だった。

117永遠の行方「呪(29)」:2008/11/21(金) 18:06:53
「そもそも蓬莱には半獣ってもんがいねえんだと。だから不気味に思うんだろ
うな。それに鳴賢も知っているかも知れねえけど、海客はみんな黒い髪に黒い
目だ。おいらたちと違って、いろんな色があるってこともねえから、何かと感
覚が違うんだろう」
「そういえば前に会った海客も、確か黒髪に黒い目だったな……」鳴賢は女連
れの海客のことを思いだして相槌を打った。「蓬莱じゃ、みんなそうなのか。
俺にはそっちのほうが気味が悪いように思えるぞ」
「こことはまるっきり違う世界の話だからな。そこの民なら、それが普通なん
だろう」
 楽俊はあっさりそう言って片づけてしまった。そして「もし団欒所に行くん
なら、途中までで良ければ案内するぞ」と言った。
「いや、いい。別に興味ないし」
 鳴賢は答えた。それは嘘ではなかったが、むしろ得体の知れない連中と関わ
り合いになりたくないという、無意識による自衛の心理のほうが強く働いてい
た。
 だから「海客が恐いのか?」と事もなげに問われたとき、図星を指された鳴
賢はとっさに言葉が出てこなかった。
「本当に興味がねえならそれでもいいけどな。でも違う世界の話はおもしろい
し、海客が持っている知識には役立つものも多い。気分転換じゃなくても、行
って損はねえと思うぞ。それに雁は海客を優遇しているだろ。雁で官吏になる
なら海客の扱いぐらいは知っておいたほうが、何かと役に立つんじゃねえか?」
 それはその通りだったので、なるほどと思った鳴賢は少し迷った。その様子
を見て楽俊はさらに続けた。
「鳴賢は単に官吏になるのが目標じゃねえんだろう? 官吏になるのはむしろ
出発点で、それからずっと国を支えるための仕事を一生涯続けるんだろう?」
 そう問われて、鳴賢はこれまで官吏登用をひとつの終着点として見、それ以
降はほとんど具体的な想像をしてこなかったことに気づいた。せいぜい重用さ
れて出世して――と、おぼろな期待をいだいていただけだ。本当は官吏になっ
てからが大変なのだろうに。

118永遠の行方「呪(30)」:2008/11/21(金) 18:09:04
「そりゃ――まあ――」
 言いかけて、結局何も言葉が出てこずに口をつぐむ。そんな鳴賢に楽俊は言
った。
「ま、無理にとは言わねえけどな。もし気が向いたら、母ちゃんに聞いてくれ
れば、団欒所の開放日はわかるはずだ。母ちゃん、海客のとりまとめ役をして
る人とも話したことがあるらしいから。雁に来たばかりのとき、母ちゃんもあ
ちこち出歩いて団欒所に迷いこんだんだと」
 そう言って笑った楽俊は、鳴賢の茶杯が空になっているのに気づき、「もっ
と茶、飲むか?」と問うた。

 とはいえ鳴賢自身に、海客にほとんど関心がないのは確かだった。そもそも
大学を落ちこぼれかけている今の彼はそれどころではない。だから翌々日に団
欒所なる場所に出向いたのも、当人にしてみれば、友人たちが帰省してしまっ
て閑散とした寮の中で、ふと気まぐれを起こした以上の意味はなかった。
 もっとも楽俊にも彼の母親にも開放日を確認せず、こっそり出向いたことを
思えば、無意識に気になっていたということなのかもしれない。あるいは楽俊
に「行ってみたけど、別にどうってことなかったな」と事もなげに言い、以後
の勧めを封じるためのものだったのか。
 いずれにしろ鳴賢は、久しぶりに街で食事でもしようと思って小銭を持って
出、そのついでという感じで国府の役人に海客の団欒所について尋ねてみた。
するとかなり奥まった場所にある堂室がそれだと教えられた。
 一口に国府と言っても文脈によって意味はいろいろで、広義では王宮を含め
た凌雲山全体を指すし、狭義では凌雲山の入口である皋門から雉門付近にある
官府のこととなる。役人が言った場所は皋門と雉門の中ほどにあり、広途から
はずれた建物のさらに奥だった。鳴賢はぶらぶらと歩きながら、確かに目的を
持って歩かないかぎりはわかりにくい場所かもな、と思った。
 だが件の建物に入っても別に音楽らしきものが聞こえてくる気配はなかった。
すれ違う官吏たちの雑談めいた声が耳を通りすぎる程度で、むしろ静まりかえ
っていると言ってもいいくらいだ。先ほどの役人は確かに今日が開放日だと言
っていたのに、と鳴賢は訝しんだ。

119永遠の行方「呪(31)」:2008/11/21(金) 18:11:19
「あの、海客の団欒所って……」
 向こうからやってきたふたり連れの女性官吏に声をかけると、ひとりが自分
がやってきた方向を指し示して「そこを右に曲がって突き当たりね」と答えた。
そうしてすぐ連れと「だから今日中に書類を出してもらわないと困るのよ。年
明けまでいくらもないのに」と会話の続きに戻り、忙しそうに去っていった。
 鳴賢が教えられたとおりに歩いていくと、大きく開けはなたれた扉の向こう
に堂室があったが、人気は感じられなかった。扉のあたりで立ち止まり、躊躇
しながらも覗いてみる。物置のように雑多なものが置かれてはいるものの、天
井が高いせいもあって全体としてがらんとした印象のある広い堂室の奥で、そ
れでも三人が座って話していた。
 若い娘と青年、中年の女。娘は緑色の髪だったから関弓の民だろう。阿紫と
同じ歳か少し下くらいか。残りのふたりが海客なのだろうかと思ったところへ、
こちらに向いて座っていた中年女が顔をあげて鳴賢に気づき、人の好さそうな
笑みとともに「あら、いらっしゃい」と声を投げてきた。おかしいところは
何もなく、普通の言葉遣いだった。
「ええと……」
 とっさに、もしかして場所を間違えたのだろうか、そもそも誰かと間違えて
声をかけられたのではないだろうかと焦った鳴賢だったが、迷いながらも手招
きされるままに彼らに近づいた。すると女は「今、お茶を煎れるわね。そこに
座って」と青年の隣を指した。
 彼らはそれぞれ、木箱に厚い敷布を敷いて椅子代わりにしていた。鳴賢が勧
められたのもそれで、目の前の大卓は、ところどころ塗りの剥げた古いものだ
った。
 鳴賢が腰をおろしながら青年に会釈をすると、相手は中年女と同じようにに
こやかに「やあ、こんにちは」と返してきた。それだけでなく「大学はもう休
みなのかい?」と尋ねてきたので、鳴賢は仰天した。その様子に、相手の青年
は目をしばたたいた。
「あ、ごめん。六太の友達じゃなかったっけ? 間違えちまったかな。人の顔
を覚えるのは得意なほうなんだけど」

120永遠の行方「呪(32)」:2008/11/21(金) 18:13:28
「そういえば、あんた……」
 以前一度だけ会った海客だと、鳴賢はやっと気づいた。あのとき、ものめず
らしさもあって顔をじろじろ見たはずなのに、大して記憶に残っていなかった
のだ。
 そのとき緑の髪の娘が無表情のまま黙って立ちあがり、自分の茶杯を手に、
堂室のさらに奥の隅に座を移して背を向けた。何だろうと目で追った鳴賢の前
に、新しく茶を煎れた杯と、菓子らしいものが載った小皿が置かれた。
「どうぞ、召し上がれ。甘いものが嫌いじゃなかったら、だけど」
 中年女が言い、奥に引っこんだ娘をちらりと見やって、今度は小声で「あの
子のことは気にしないで。まだこっちの世界に慣れていないのよ」と言った。
「彼女も海客? 黒髪じゃないのに?」
 海客はみんな黒髪に黒い目だと楽俊は言ったのに、と鳴賢が戸惑って聞くと、
女はこう答えた。
「胎果なの。海客の中にたまにいるらしいわね。こっちでは本来の姿に戻るか
ら、蓬莱にいるときとは顔かたちも髪や目の色も変わってしまって、他の人以
上に現実を受け入れられないの。まあ、気にしないでやって」
 それだけ説明すると彼女は普通の声に戻り、「わたしは守真(しゅしん)よ」
と自己紹介した。
「恂生とは会ったことがあるのね」
「前に一度だけ。六太と一緒にいたとき、往来で少し」
「鳴賢、だっけ? 彼は大学生なんだよ、守真」
 やはり別字の「鳴賢」のほうが印象深かったのだろう、恂生は守真にそう紹
介した。
「まあ……。それはすごいわ。蓬莱にも大学はあるけど、たくさんありすぎて
大学生は山のようにいるしねえ」
「大学生が山のようにいる?」
 鳴賢が面食らって問うと、恂生が笑ってうなずいた。

121永遠の行方「呪(33)」:2008/11/21(金) 18:15:44
「国公立――つまり官が作る大学もあれば、私学もあるから。実を言うと、俺
も大学生だったんだ。でも三流の私立だったし、鳴賢とはまったく違うな。こ
っちじゃ基本的に大学は一国にひとつだろ。学生だって百人か二百人かそこら。
国中から選りすぐりの人材が集まってくる中にいるわけだからなあ」
 よく聞いてみると、蓬莱には義務教育という制度があり、国や保護者は、子
供に一定の教育を受けさせねばならないと定められているという。しかも義務
教育自体は無償で受けられるらしい。さらにその上の高校は上庠か少学に当た
るのだろうが、進学する割合が多すぎて、蓬莱人の意識では半ば義務教育化し
ているとのことだった。
「だから大学生も多いんだ。そりゃ、ここの大学に相当するような難関校もあ
るけど、大学の数自体が多いだけに、大した成績じゃなくても進めるところは
あるから。それだけに蓬莱では、大学を出たからといって即優秀だとは思って
もらえない。どの大学を出たのか、まで言わないと」
「へえー……」
「でもまあ、おかげで国民全体の教育水準は高いけどね。教育ってのは無形の
財産だと思うし、金や物がない国こそ、民の教育に力を入れるといいんだろう
な。たとえ家を失っても国を追われても、それだけは当人の教養として残るか
ら、身を立てる役にも立つと思う。俺も身ひとつでこっちに流されてそれを痛
感した。俺がいた頃の蓬莱はかなり豊かだったけど、貧しい時代もあったんだ
よ。豊かになったのは国や国民自身が教育に力を入れたおかげもあったんじゃ
ないかな」
 こちらの世界では、蓬莱すなわち理想郷という意識がある。なのに貧しい時
代もあっただの、普通の国のように語られるのは不思議なことだった。それに
どう見ても守真も恂生も普通の民だ。離れたところに座っている緑の髪の娘も、
背を向けたままで鳴賢を見ようともせず不機嫌なのは明らかで、いろいろ苦労
してきたのかもしれないにせよ、子供が八つ当たりをしているようにしか見え
ない。
 実際に海客が流されてきている以上、鳴賢も蓬莱が伝説の理想郷であるなど
とは信じていなかった。したがって一般に流布されているように蓬莱人に神通
力があるとは決して思っていなかったが、あまりにも普通で少しがっかりした
のは事実だった。

122永遠の行方「呪(34)」:2008/11/21(金) 22:00:39
 そもそも尋常ではない能力を持っていたら、こちらに来たからといって言葉
に難儀することもないわけで……。
「ところで蓬莱じゃ、ここと言葉が違うって言ってたよな」
 鳴賢は恂生に聞いてみた。すると恂生は口を開いたが、そこから発せられた
言葉らしきものを鳴賢が理解することはできなかった。
「今の……言葉か?」
 名詞ひとつさえ聞き取れず、一言も理解できず、抑揚も何もまったく異なる
「言葉」。からかわれたのだろうかと思いつつも尋ねてみると、恂生はうなず
いた。
「今のが蓬莱で使われている『日本語』。そうだ、いいものがある」
 恂生はそう言うと立ちあがり、いったん奥に引っこんだと思うと、簡単に綴
じた冊子のようなものを持って戻ってきた。茶杯を脇にのけて大卓の上で広げ
て見せる。ここを訪れたことのある海客たちが、書き散らした文章だというこ
とだった。
「言葉が通じないぶん、自分の気持ちを書いて気を紛らわせたりする人もいる
んでね、こういうのが自然とたまっていくんだ。これも日本語で書かれている」
 それは筆の手跡もあったが、何で書かれたのかわからない不思議なものもあ
った。いずれにせよ鳴賢にはまったく読めなかった。ところどころ何となくわ
かる字もあったが、文章どころか単語すら読みとることができない。おまけに
横方向に書かれているものもあり、文章は縦に書くものと思ってそれ以外の形
態を想像すらしたことのない鳴賢は大きな衝撃を受けた。むろん扁額などで街
の名前を横書きにすることもあるが、それにしたって右から左に書かれていて、
この海客の文章のように左から右へ書かれたものはないはずだ。
「蓬莱のある世界には言葉がたくさんある。日本語は蓬莱人しか使わないけど、
世界的に使われているのは『英語』。これが英語だな」
 そう言って恂生は冊子をめくり、奇妙な「文字」が書かれた別の頁を示した。
そこにはうねうねとねじ曲がった文様のようなものが書かれていた。
「これ……。これも言葉なのか?」
「そうだよ」

123永遠の行方「呪(35)」:2008/11/21(金) 22:02:43
「本当に言葉が違うんだ……」
 鳴賢は心の底から衝撃を受けてつぶやいた。そうしてやっと、こちらに流さ
れた海客が言葉に苦労するという意味を理解したのだった。
「もし俺が蓬莱に流されたら、絶対に言葉はわからないな。おまけに字も読め
ないんじゃ何もできないな……」
 そうして恂生を見、「あんたも相当苦労していろいろ覚えたんだろうな」と
心からの言葉を口にした。すると恂生は礼を言った上で、確かに苦労はしたが、
今ではむしろ蓬莱のことを忘れないようにするのが大変かもしれないと答えた。
「何しろ俺はこっちにきてもう十五年だろ。言葉であれ何であれ、使っていな
いと忘れるものだからな。むろん戻れないとなれば、故郷での記憶は持ってい
ても苦しいだけだ。でもだからといって忘れてしまったら、海客としての価値
もなくなる。雁が海客を保護してくれるのは、主上や台輔が胎果だというのも
あるかもしれないけど、海客が進んだ技術や知識を伝えることがあるという実
利的なものも大きいんだ。実際、海客仲間にもいるからな、能力を買われて国
府に勤めている人が。それを考えると未練かもしれないけど、自分のためにも
他の海客のためにも、蓬莱でのことは忘れちゃいけないと思ってる。それが雁
のためにもなれば、利害の一致ってことで、どちらにとっても良い目が出るだ
ろうし」
「なるほどな」鳴賢は相槌を打ったが、いろいろ蓬莱の噂は聞いていたのでこ
う尋ねてみた。「でも蓬莱には、ここにはない便利な技術がいろいろあるって
聞いたぜ。そういうのを小出しにしていけばいいんじゃないか?」
 すると恂生は渋い顔になった。
「三流大学の学生だった俺に、そんな技術も知識もあるもんか。数学は比較的
得意だったけど、今じゃ公式のいくつかを覚えている程度だし何にもならない。
もっと体系だてて覚えていたら、建築とか土木とか、そういう方向に生かせる
ものがあったかもしれないけど」
「ふうん。よくわからないが、そういうものなのか」
「それに知識があったって、ここで受け入れてもらえる内容かどうかというの
も重要よ。文化の違いもあるし」

124永遠の行方「呪(36)」:2008/11/21(金) 22:05:19
 それまで黙って聞いていた守真が口を挟んだ。先ほどの冊子をもう一度開い
て、海客たちが書き散らした文章のひとつを鳴賢に示す。
「たとえばこれ。これは筆じゃなく、鳥の羽根の根元を削って作った『ペン』
で書いたものなの。たとえるなら――細い棒の先に墨をつけて書いたもの、と
いう感じね」
「鳥の羽根? 棒の先? 何だってそんな変なもので」
 鳴賢は戸惑った。すると守真は、今の蓬莱では筆はあまり使われないため、
筆の扱いに慣れている海客がいないのだと説明した。だから彼らにとってはペ
ンのほうがはるかに書きやすいのだと。
「実際、昔は羽根ペンを日常的に使っていた国もあったから、少なくともその
国のその時代の人々にとっては、羽根ペンがここでの筆に相当するくらい普通
の筆記具ということになるわね。でもだからと言って、こちらの世界の人たち
が羽根ペンを使いたいと思うかしら? 優劣とか善し悪しじゃなく、文化の違
いというのはそういう意味」
「そりゃ――確かに使いたいとは思わないだろうなあ」鳴賢自身もそういう欲
求は覚えなかったから、素直にそう答えた。それでも何となく彼らが言いたい
ことの想像はできるような気がした。「それに官吏になるには筆跡も大事だか
ら、学生にとって筆の扱いは基本中の基本だ。『ペン』で書かれた書類なんて、
それだけで読むのに値しないと思われるだろうな。公的な文書ならなおさら。
意識もそうだし、しきたりもそうだ」
 長期間保存する書類の中には、保存性を考えてあえて木簡や竹簡を使う場合
があるとも聞いているが、それにしたって書くのは筆だ。もしかしたら小刀で
刻むようなこともするのかもしれないが、少なくとも官府で日々処理される膨
大な書類のほとんどは、普通に紙に筆で書かれたものだろう。
 実は蓬莱にはいろいろな種類の筆記具があるのだと恂生は言った。
「いったん書いた文字を消すこともできるペンもあれば、金属にも書けてなか
なか字が消えないペンもある。簡単なものなら、材料さえあれば再現すること
はできるだろう。でもこっちの世界で受け入れてもらえないんじゃ、自己満足
にしかならない」

125永遠の行方「呪(37)」:2008/11/21(金) 22:07:47
「書いた文字を消すことができるってのは便利そうだけどな」
 驚いた鳴賢がそう答えると、恂生は「でも筆跡が筆とはまったく違うよ」と
答えた。
「そういえば蓬莱では本は安価なんだ。紙も墨も安く大量に作れるから。それ
もあって印刷技術は発達しているけど、そんな世界でも大量印刷の本が出た当
時は、『こんなものは本じゃない』という富裕層の反発もあったと聞く。『本
というものは見事な手跡の者が豪華な書体で丁寧に書き、上等な革の表紙をつ
けた手作りでないと』とね。こっちの世界でも、もし蓬莱と同じように安価に
印刷できたら本を大量生産できるけど、やっぱり同じ反発を感じる人はいるん
じゃないかな。むろんこれくらいの話なら頑固者の笑い話程度だけど、人間っ
て基本的に保守的なものなんだよ。だから変化も普通はゆっくりだ。そして進
歩も変化の一種だから、急激な進歩は同じくらい反発も生むだろうし、反発は
それをもたらした者に向かうかもしれない。そのために混乱も起きるかも知れ
ない。俺たちは俺たちで一生懸命やっているつもりだけど、管理する政府の側
から見るといろいろと難しい問題もあるんだろうな」
 そう言って彼は溜息をついたが、すぐ気を取り直したように鳴賢に向けて笑
って見せた。
 雁では、各地の府第に配布される共通の資料の中に木版で印刷されたものも
あるから、鳴賢も印刷技術の重要性はわかる気がした。しかしだからといって
すぐに高度な技術を取り入れたいという欲求はなかった。実際に官吏になって
その種の技術の有用性を実感したならまだしも、少なくとも今は何も切羽詰ま
っていないからだ。
 恂生は「でも乱れた国ではそもそもそれどころじゃないだろうけど、雁にい
れば少なくとも蓬莱の技術に興味は持ってもらえる」と続けた。
「安定した豊かな国なら、官も民も便利さや進歩に目を向けて受け入れる余地
があるから。それに雁は主上が胎果だけあって、建物も食べ物も、蓬莱風のも
のが入り交じって融和しているだろ。俺は雁以外の国は知らないが、他の国に
流された海客が雁にやってくると、特に関弓では風景とか食べ物に少しほっと
するらしいな。おまけにこうやって国府に団欒所もあるし、最初の三年は無料
で公共施設を使えるなどの優遇もされてる。かなり条件はいいんだから、何と
かやっていくさ」

126永遠の行方「呪(38)」:2008/11/22(土) 12:45:39
 そう言って彼は冊子を片づけ、守真は冷めてしまった茶を煎れなおしてくれ
た。勧められるままに守真の手作りだという菓子を鳴賢が口にすると、それは
香ばしくて、そっけない外観に反してなかなか美味だった。
「今日はあまり人が来ないようね」守真は残念そうに言って、ちらりと入口の
ほうを見た。「この焼き菓子、まだたくさんあるのよ。作りすぎちゃったみた
い。もし邪魔でなければ、少し持って帰らない? 日持ちするから、勉強の合
間の休憩にでもどうぞ。良かったらお友達のぶんも」
「じゃあ、いただきます」
「助かるわ」
 にっこりとした彼女に、鳴賢は「普段はもっと人がいるんですか?」と尋ね
た。
「そうねえ……」守真は少し考えこんでから答えた。「多いときは三十人くら
いかしら? 海客はあともうひとりくらいだけど、関弓の人たちが来てくれる
から。みんなで歌ったりおしゃべりしたり、大勢いるときはけっこうにぎやか
よ。でもまあ、年末はこんなものかもね。何かとばたばたするし」
「もしかして六太に会えるかな、とも、ちょっと思ったんだけど」
 最初に話したときの感触から、守真も六太の知り合いらしいと踏んだ鳴賢が
言ってみると、守真は「そうねえ、来ないかもねえ」と残念そうに答えた。
「彼も普段はわりと顔を出してくれるほうだけど、年末年始に見かけたことは
ないから。この時期は誰も彼も何かとあわただしいことだし」
「新年の拝賀の儀式のときも、六太は見かけないからね」
 そう恂生が口を添えたので鳴賢は仰天した。元日に行なわれる王の拝賀は雲
海上での儀式だから、鳴賢だって行ったことはないのだ。首尾良く官吏になれ
たとしても、せいぜい、顔かたちがわかるどころか、人が豆粒のようにしか見
えない場所からの遙拝がかなう程度だろう。
「あんた……。主上に拝謁したことがあるのか?」
 驚愕の面持ちのまま、やっと、といったふうに問う。恂生は一瞬、きょとん
としたかと思うと、すぐにあわてて首を振った。

127永遠の行方「呪(39)」:2008/11/22(土) 12:47:50
「ち、違う、違う。ほら、拝賀に合わせて、新年のご祝儀として広途の辻々で
菓子やら酒やらがふるまわれるだろう。この国府でもそうだから、けっこうな
人出になって知り合いと出くわすこともあるけど、そういうときでも六太を見
かけたことはないなってこと」
「ああ……そういう意味か。びっくりした」
 鳴賢が胸をなでおろすと、恂生も「こっちこそびっくりだよ」と笑った。
「一介の海客が主上にお目通りできるはずないじゃないか。なあ、守真」
「わたしも仙になって長いけど、残念ながら主上にお目にかかったことはない
わねえ」
「えっ」鳴賢は驚いた。「あんた、いや、守真さんは仙なんですか?」
「守真、でいいわ。そう、昇仙して、もう三十年になるかしら」
 彼女の外見は、せいぜい四十代半ば。大目に見積もっても五十歳ほどと思わ
れた。しかし昇仙して三十年ということは、実年齢は八十歳ほどということに
なる。
 道理で、と鳴賢は思った。だから発音や言いまわしが不自然なところのある
恂生と違い、彼女の喋る言葉に不自然さを感じなかったのだ。
 よくよく話を聞いてみると、面倒見の良い彼女が新参の海客の世話をしてい
るうちにそれが認められ、海客のまとめ役のようなものとして官吏になったら
しい。だから海客と一般の民との通訳もするし、仕事の相談にも乗ったりして
いるのだとか。この場に恂生しかいなかったせいか、問われるままに守真はさ
らに詳しい話を語ってくれた。
 彼女は蓬莱では平凡な主婦で、近所に買い物に出かけようとしたところで蝕
に巻きこまれたらしい。幼い子供がふたり一緒にいたそうだが、彼らがどうな
ったのかはわからない。一緒に蝕に巻きこまれて虚海で溺れたか、それとも蓬
莱で無事でいて、迷子として保護されたか。何十年経っても当時のことを思い
だすと苦しい。きっと自分は死ぬまで子供たちのことを案じつづけるだろうと
守真は言った。
 だが彼女は、我が身の不幸を嘆いたり自分の殻に閉じこもるのではなく、同
じ境遇である海客の面倒を見ることで気を紛らわせることを選んだ。それは彼
女の性格もあろうし、子供らに伝えられない情愛を他に向けることで、代償行
為の一種としている面もあろう。

128永遠の行方「呪(40)」:2008/11/22(土) 12:50:00
 こんなふうにして、いったい何人の海客――山客も――が、この、彼らにと
っての異世界で生きているのだろうと思うと、さすがに鳴賢もある種の感慨を
覚えざるを得なかった。
 守真は言った。こうやってがんばって他人のために尽くしていれば、もしか
したらいつか褒美として蓬莱の様子を教えてもらえるかもしれない。むろん無
理かもしれないが、そうやって希望を持つことで生きる気力が出てくるのだと。
「昇仙させてもらえるって聞いたとき、最初は喜んだの。だって神仙は虚海を
越えられるって聞いていたから、これで蓬莱に戻れるんじゃないかって」
「でも違った?」
 鳴賢が尋ねると、守真はうなずいた。
「神仙が虚海を越えられるというのは、蝕のような空間のひずみを通り抜けら
れる体になるというだけで、ふたつの世界の間に自分で道を開けるわけではな
いんですって。それも高位の神仙でなければ自分の命さえ危ういし、おまけに
位が低ければ低いほど周囲に甚大な被害をもたらすそうよ。聞くところによる
と神である王でさえ、もし蓬莱と行き来したなら大災害を引き起こすとか。ふ
たつの世界は本来交わってはならないものだから、どうしても無理が生じるん
ですって。いつの時代の話かは知らないけど、やむにやまれぬ理由があってあ
る王が向こうに渡られたときは、蓬莱で二百人もの人が亡くなったそうよ」
「そんなに……」
「それでももしかしたら官府で一生懸命頼めば、あちらに渡してくれるのかも
しれない。でも万が一それで発生した災害のせいで家族が死んだら? 自分は
どうなってもいいけど、そう思うととても踏ん切りなんかつかない」
 でも、と彼女は続けた。人ではない麒麟なら、災害を起こさずに蓬莱と行き
来できるのだと。
「なぜなのかはわからないらしいけど、王を見つけなければならない役目と関
係しているのかもしれないわね。何にしても麒麟なら自分で道も開けるし、蓬
莱へも渡れるんだとか。だから一生懸命がんばって、何とか台輔の目にとまっ
て、台輔がわたしの家族の消息を尋ねてきてもいいと思えるような人になれた
ら……」

129永遠の行方「呪(41)」:2008/11/22(土) 12:52:37
 そんな守真を、鳴賢は複雑な思いで見やった。確かに気持ちはわからないで
もないが、何しろ延台輔にもしものことがあれば雁が滅ぶのだ。たとえ災害を
起こさずに蓬莱と行き来できるのだとしても、異世界に行くこと自体に危険が
ないとも限らない。守真は少なくとも仙になれて、一般の民より特権を与えら
れている。こちらに流されてしまったこと自体は気の毒に思うが、諦めてほし
いというのが正直な気持ちだった。
 もっともさすがに口には出さなかった。そもそも言っても仕方のないことだ。
いずれにせよこんな場所に台輔が注意を向けることなどありえないから、実際
問題として心配はないだろうが。
 微妙な表情の鳴賢に気づいたのだろう、守真は無理に笑って「つまらない話
をしてごめんなさいね」と詫びた。
「鳴賢は関弓の人? 帰省は?」
 話題を変えるためだろう、恂生が尋ねてきたので、鳴賢は勉強のために残る
ことにしたことを説明した。
「ああ、そうなんだ。でも元日くらいは息抜きしてもいいんだろ? もし特に
約束がないんなら、ここに来ないか? 元日は特別開放日で、一日中開いてい
るから。今は模様替えの最中でここはかなり雑然としているけど、それまでに
は綺麗になっているだろうし、元日は何かとにぎやかだよ。さっきも言ったよ
うに国府でもご祝儀がふるまわれるから、そのついでに顔を見せてくれる人も
いる」
「そうだな、考えておくよ」
 寮に帰ったら、ここで聞いた話をもう少しよく考えてみようと思いながら、
鳴賢は当たり障りのない応えを返した。そして奥に座ったまま相変わらずこち
らを無視している緑の髪の少女を見、おそらく楽俊を気味悪がったのはこの子
だろうなと見当をつけた。


 開けて新年。
 華やかな鉦(かね)や太鼓が鳴り響く中、関弓中が慶賀の空気に包まれた。
広途では辻々で祝儀がふるまわれ、このときばかりは浮民や荒民も明るい顔を
して新しい年を祝った。王の治世には何の陰りもなく、今年も来年も同じよう
に平和な日々が続いていくのだと、誰もが無邪気に信じこんでいた。

130永遠の行方「呪(42)」:2008/11/22(土) 17:29:27

「叩頭拝礼!」
 冢宰の号令は、要所要所に配置されていた儀仗兵によって高らかに復唱され、
広場を埋めつくした数多の臣下の間を荘厳に駆けぬけていく。それと同時に臣
下らは、はるか高殿から見おろしている王の前に叩頭し、忠誠と敬意とを示し
た。
 王の傍らに控える宰輔はもちろん、広場の最前にいる州候やその使者、三公
や六卿といった高官から、遠く最後列でかすんでいる府吏まで、国府に仕える
者たちが順に膝を折り頭を地につけていく様子は、さながら王の御座(ぎょざ)
を起点に広がる波紋のようで、重々しくも見事な眺めだった。新春のぴりりと
した冷気も心地よく、日頃、自国の王を「昏君」呼ばわりしている側近らです
ら、厳かな感動に打ち震える瞬間である。
 この拝賀の儀式が終わっても、王の長寿を言祝(ことほ)ぐ賀詞の奏上やそ
れに対する王からの返礼、各地に現われた瑞祥の奏上、酒礼を始めとする典礼
としての祝宴等々があり、しばらくは祝賀続きとなる。節目の年には下界でも
拝賀の儀式が行われるから、さらに大がかりになるが、それがなくとも忙しい
日々には違いない。
「とはいえこういう忙しさなら、拙官は大歓迎ですよ」
 王から幾度目かの酒杯の返礼を賜り、高官らは上機嫌だった。いくら典礼で
も、銘酒に親しみ佳饌(かせん)にあずかれば、誰しも舌がなめらかになるも
のだ。特に新年三日目ともなれば、宮城での形式張った祝宴もただの大がかり
な宴会と化してしまい、特に元日の元会儀礼からこちら、「あれだけ威儀を見
せたのだから、もういいだろう」とばかりに王がくだけた様を見せてしまうと、
あとはもうなし崩しだった。
 もっとも要所さえ押さえていれば重臣たちも大目に見ている。何しろ新年の
慶賀は特別だし、重要な儀礼や祭祀を済ませてしまえば、好きなようにくつろ
いで騒ぎたくなる気持ちもわかる。そもそもこの大らかな気風も既に雁の国風
であった。
 その祝賀気分に水を差すどころか、人々を慄然とさせるような事件が起こっ
たのは、新年五日目のことだった。

131永遠の行方「呪(43)」:2008/11/24(月) 20:43:51

「どういうことだ?」
 内議に臨席した王の声は穏やかだったが、臣下たちは緊張した。主君はくつ
ろいで椅子に座っているように見えるが、こういうとき逆に頭の中では目まぐ
るしく思考が回転していることを、長年の経験で彼らは知っている。
 光州候帷湍は悲愴な面持ちで主の前に頭を垂れた。
「俺の落ち度だ」
「今度はどこの里だ」
「幇周(ほうしゅう)という。州都から見て明澤(めいたく)の手前、明澤か
らは距離にして二、三十里離れているそうだ。位置関係から推して、姑陵(こ
りょう)に対する葉莱(ようらい)と同じと考えていいだろう」
 光州で発生した不気味な病については、既に朝議を通じて朝官に周知されて
おり、それが謀反を企んだ輩による陰謀である可能性も伝えられていた。その
ため今回の内議は極秘ではなく、既に公のものだった。
 周知以後、宮城で特に混乱は生じていない。当事者である光州の者と違って
実感に欠けるせいもあるだろうが、王の失道による災害のたぐいとは異なるこ
とが示されたため、むしろよくあることとして済ませられた感がある。現王朝
のもとで確かに反乱のたぐいは多かったが、麒麟が王を選ぶこの世界でさえ、
そもそも偽王だの謀反だのはどの時代でも尽きない話からだ。他州で同種の病
が発生していないことが確認されたことも大きいだろう。
 何しろ元州の乱の頃の、足元が不安定だった時代とは状況がまったく違う。
今や押しも押されもせぬ大王朝なのだ。こうして謀反を起こす不心得者がたま
に現われたとしても、迎合して国家の転覆を目論む輩が多いはずはない。とな
れば、遠からず事件は収束すると思われた。そうである以上、一般の官の関心
は、どのように事態を収束させるか、それに当たって予想される被害はどれく
らいかということだけであり、あとはせいぜい首謀者は誰か、敵方に与(くみ)
している者は誰かということくらいだった。

132永遠の行方「呪(44)」:2008/11/24(月) 20:46:04
 光州の令尹は州候の指示どおり、被害が懸念されるいくつかの里の民を他に
移す命を下した。しかし問題の深刻さが、命令を遂行する末端の夏官にまで徹
底されていなかったことが悪い目を出した。
 もともと新年の祝いの時期ということで、事情を飲みこめない民は仮住まい
への移動を嫌がっていた。それでも半数以上の民は、しぶしぶながらも指示さ
れた場所に移動したのだが、特に幇周では今月末に赤子が生まれる予定があっ
たため、両親が里木のそばを離れることを拒んだ。そういった民の心情を汲ん
だ夏官が「温情」を示し、新年の祝いが一段落つくまでという条件で見逃した
のだという。
 幇周でも年末までに三戸ほどは避難していたが、五日目に移動の勧告に訪れ
た夏官らは、残っていた家の者がことごとく病に冒されているのを発見した。
その夏官らも感染を恐れて一時恐慌に陥ったものの、他の里の者には感染しな
いらしいと瘍医が保証して何とか混乱は収まった。罹患した民を他に移して隔
離し、手当を施しているものの、回復の見込みはないという。まだ死者が出て
いないことが救いだが、はたして助かるものかどうか。
「あらかじめ避難していた者たちに別状はないそうだ」
 帷湍の報告に、重臣たちは「やはり第二の環だったか……」とざわめいた。
また一巡したとき、今度は何が起こるのだろう。まさか環の内側すべてが滅す
るのでは。それも光州は始まりに過ぎず、他州にも飛び火し、ついには雁が滅
びるのでは。そんな不安が座に満ちた。
「どうやって病を発生させていると思う?」
 尚隆の隣で蒼白な顔をして座っていた六太が、冬官長大司空に問うた。大司
空は少し考えてから答えた。
「どんな呪かはさておき、遠方から呪をかけることはできないはずですから、
普通に考えれば里の中か周囲のどこかに、呪言を刻んだ呪具でもあるのではな
いでしょうか」
 六太はうなずき、今度は帷湍に「そういった物を発見したという報告は?」
と問うた。

133永遠の行方「呪(45)」:2008/11/24(月) 21:02:20
「いや……ない。そもそもそういう観点からの調査はしていないはずだ。何を
見つけたらいいのかもわからんし」
「ほう。呪具で病にかからせることができるのか?」
 肘掛けに頬杖をついた尚隆が、傍らの六太に興味深げな視線を投げた。六太
は力なく首を振った。
「そういう話はついぞ聞かないし、俺にはそうは思えない。だがこれが本当に
呪のせいなら、それぐらいしか考えられないからな。だが他人に害をなす呪は
普通、術をかけた本人にも跳ね返るものだ。他人をひとりふたり呪ってさえ、
能力の低い呪者だった場合は命に関わるとされているのに、ここまで無謀なこ
とをする輩がいるとはとても……」
「ならば、ある程度の能力がある呪者なら?」
「それでも、おのずと限界というものがある。ひとつの国、いや、ひとつの州
を滅ぼせる呪など絶対にかけられない。かけられるはずがないんだ」
「台輔。これはあくまで素人の私見ですが」
 冢宰がそう前置きした上で、「呪者が既に没している可能性はありますか?」
と問うた。
「没している?」
「そうです。たとえば呪者が例の光州の謀反の一派で、罰されて既に死んでい
るものの、密かに組まれた呪だけは発見されずに見逃されていて、何かのきっ
かけで発動してしまったというような可能性ですが」
 六太はまた首を振った。そしてこう答えた。
「何でもそうだが、物事をあるべき姿からねじ曲げようとするほど大変なんだ。
たとえば動いている舟を止めるのには力が必要。日々生長している生物の成長
を止めたり枯れさせるにも力が必要。そして命あるものに害をなすことで生じ
た反発は、かならず原因である呪者へ向かう。呪者がそれを受け止めて無効化
しなければ、術も完全には効力を発揮しない。だから死者による、他者に害を
なす呪は、大がかりなことはできない――そうだな?」
 六太が大司空に確認すると、大司空はうなずいた。

134永遠の行方「呪(46)」:2008/11/24(月) 21:05:20
「確かにそのように言われております。呪というものは施しただけでは効果が
発生しない場合もあります。また一定の時間を経過したあとに効果を発揮する
よう計らうこともできます。発動までに時間差を施した呪なら、すぐ影響があ
るわけではないでしょうが、術の対象となった相手から生じた反発に抗しきれ
なくなった段階で呪者は死ぬでしょう。他者に害をなす呪とはそれほど恐ろし
く、かつ相当の力と覚悟がないと組めないものなのです。そして呪者が死んだ
場合、既に呪に冒されてしまった者は無理としても、反発がある程度たまった
ところで事態は止まり、新たな被害者は出ずに落ち着くと思われます。翻って
光州の事件では現在進行形で大勢の民が死傷し続けているわけですから、呪者
はどこかで生きていると考えるのが妥当でしょうな。これが反発の少ない方向
に効果のある呪を利用して、結果的に害をなすというなら、まだわからないで
もないのですが」
「反発の少ない方向とは?」
 冢宰の問いに、大司空はこう説明した。
「たとえば作物を枯らすより生長を促進させるほうが、相手の反発が少ないぶ
ん術的には簡単なのです。負の方向に作用させるより害が少ないから抵抗も少
ないのでしょう。むろんそれにも限界はあり、生物本来の能力より早く生長さ
せることは不可能ですし、下手をしたら無理をさせて枯らしてしまう危険はあ
りますが。しかし逆に枯らすことが目的だった場合、無理に生長させることで
結果的に目的を達せられることになります。そういうことです」
 冢宰が「なるほど」とうなずいたところで、朱衡が思いだしたように言った。
「そういえば昔、冬官府でそのような生長の呪具を研究をしていたことがあり
ましたね。収穫量を増やすために」
「失敗に終わりましたがね。まあ、人が手を出してはならない天帝の領域だっ
たということなのでしょう」
 大司空は苦い笑いを返した。
 いずれにしろ里を出ていた民に被害がないのなら、今後は避難命令を徹底さ
せれば、とりあえずの被害は防げると思われた。しかしいまだ呪者の姿が見え
ないだけに、いったいどこで事態が収まるのか見当をつけることは困難だった。

135永遠の行方「呪(47)」:2008/11/24(月) 21:10:04
それに民をよそに避難させて一人の罹患者も出さなければ環が途切れることに
なるのかもわからない。もし環が途切れ、そこで呪が不完全なまま立ち消えに
なるならよし、だがそうでないならば。
「何にしても呪者は複数いるのではないですか?」
 大司徒が言った。それならひとりより大がかりな呪を施せるだろうし、ひと
りが斃れても他者が引き継げるのだから。だが大司馬は疑わしそうな顔を向け
た。
「それなら彼らが命を投げうつだけの動機はどこに。それにひとりふたりの呪
者ならひっそり潜伏もできようが、大勢になればなるほど動向はもれやすくな
るものだ。大がかりな呪は長期に渡る準備も必要だということだし、呪者にと
って動向が漏れる危険がさらに増す。なのにいまだにこれだけ姿の見えない相
手だ、それほどの集団とは思えんのだが」
 そう言うと彼は王に向きなおり、こう奏上した。
「おそらく敵は少数精鋭かと。たとえば呪者がひとりだけなら、逆恨みでも何
でもいい、標的となる人物を強く激しく恨んでいれば、その恨みから、自分の
生命すら頓着せず何でもする可能性はあるでしょう。その者に忠実な部下がい
れば、数人程度なら徒党を組めるかも知れない。しかしそれが四十人、五十人
となったらどうか。それだけの人数がみずからの生命を捨てて呪を行なうには、
逆恨みなどではない相応の強い動機が必要になります」
「なるほど」
 尚隆はあごをなでて、何やら考えこんだ。そのまま一同が王の反応を待って
いると、やがて尚隆は冢宰に命じた。
「白沢、朝議を招集せよ」
「かしこまりました」
「大司馬、禁軍左軍から少し出せ。そうだな、一師でいい」
「はっ――は? 禁軍左軍、でございますか?」
 いったん頭を垂れた大司馬は、ぽかんとして主君を見あげた。すると尚隆は
「王の護衛にはそれなりの数はいるだろうからな、仕方がない」と事もなげに
笑ったので、臣下らはあわてた。

136永遠の行方「呪(48)」:2008/11/24(月) 21:15:13
「なりません! なりませんぞ!」
「主上は宮城にお留まりを。呪者の狙いが主上である可能性もあるのですぞ!
あるいは国を傾けること自体が目的ということも……」
「当初は光州候が狙いだったとしても、敵の真の目的がわからない以上、標的
を主上に変えてくることも十分考えられます」
 だが尚隆のほうは「それならそれで、標的が出向けば相手も動くだろう」と
平然としていた。
「こういうときはおとりを使って揺さぶりをかけるものだろうが。それもどう
せなら、おとりは大きければ大きいほどいい。そのぶん効果が高いからな」
「そんな無茶な……」
 絶句する重臣らを前に尚隆は笑った。
「なに、俺もそう無茶はせん。おまえたちは俺に単身ふらふらと出歩かれては
困ると思っているのだろうが、この事態ではひとりで出歩かせてなどもらえま
いよ」
「それは、むろん」
 帷湍が、やっと、と言ったふうに答える。尚隆はにやりとした。
「むしろおとりはおまえだ、帷湍」
「えっ?」
 虚を衝(つ)かれた帷湍を前に、尚隆は表情を引き締めた。
「民を心配した王が光州に行くのだと触れを出せ。さらに勅命を受けて光州候
みずからが指揮を執り、謀反の調査のため、今回被害に遭った幇周に赴くとも
な。これでふたつの里が被害に遭ったのだ、何が起きているのか事件が伝われ
ば、他の地域の民も動揺する。少なくとも葉莱や幇周の近辺は既に動揺が広が
っているだろう。そういった民衆の恐慌を防ぐのがひとつ。何しろ一般の民に
とって、王の威光というものは絶大だからな。それにそれだけ触れまわれば、
出てくるものなら出てくる」
「出てくる……」
「謀反人とやらがな」
 ふたたびにやりとした尚隆に、重臣らは顔を見合わせた。

137永遠の行方「呪(49)」:2008/11/29(土) 12:41:55

 急遽、招集された朝議で、幇周で起きた出来事の詳細が報告され、光州での
事件のあらましがあらためて告げられた。葉莱に続く第二の里であるだけに、
結果的に大した事件にはならないだろうと高をくくっていた官も、さすがに気
を引き締めた。
 それと同時に光州への行幸が発表された。被害にあった民の慰問と州官の叱
咤激励が名目だが、王がみずから事件解決に乗りだしたと見ない者はいないだ
ろう。それでも反乱の鎮圧に赴くわけではないから、随行の禁軍はあくまで護
衛。親征ではなく行幸である。日頃は不行状を側近になじられている王とはい
え、その慧眼といざというときの決断力を疑う者はおらず、これで事態は一気
に解決への流れに向かうものと諸官は確信した。
 なお、この頃までに謀反当時の光州冬官の聞き取りはほぼ終わっていたが、
特に注意を引く点はないように思われた。梁興の寵姫のひとりだった武蘭珠の
行方も早々に知れ、さっそく調査の官が差し向けられたが、こちらもさしたる
成果はなかった。
 蘭珠は二十数年前に他州から光州に戻ってきており、州境の庠学で主に礼儀
作法を教えていた。しかし当初は何を尋ねても黙して語らなかったという。物
腰の柔らかな女性だったが、何か勘違いしたのか、はたまた担当の官が無礼だ
ったのか、梁興のことを尋ねにきたと知ったとたん態度を硬化させたのだ。あ
るいは官位の低い者を差し向けられたため、元寵姫としては誇りを傷つけられ
たのか。おまけにそれを件の官が、もしや何か心当たりがあるのではと疑って
さらに強く追求したため、相手は完全に機嫌を損ねてしまった。
 いずれにせよ、さんざんもめたあとで別の、もっと高位の官が赴き、礼を尽
くした上で、あくまで内密の話だと念を押して光州に不穏な動きがあることを
説明し、理解を求めた。すると蘭珠はそんな事態だとは想像もしていなかった
らしく、本当に驚いた様子だった。そして物事を飲みこんだあとは拍子抜けす
るくらい素直に、問われるがまま当時の様子を答えたという。
 しかし大した収穫がなかったのは前述のとおり。そもそも彼女は関係者の顔
も名前もほとんど忘れてしまっており、梁興が冬官を重用していたことはおぼ
ろに覚えていたものの、そんなことは当時の記録や家臣の証言からとうにわか
っていたからだ。
 最後に蘭珠は、どうか主上によろしく伝えてくれと言ったという。当時の寛
大な処置には今でも感謝している、何より雁は主上あってのもの、今回の事件
が丸く収まり人心が安らぐことを心から願っている、と。

138永遠の行方「呪(50)」:2008/11/29(土) 12:45:15

 行幸が発表された翌日、早くも禁軍左軍の一師二千五百兵が、王および光州
候とともに光州城に向けて出発した。
 ただし基本的に全行程を地上から行く通常の行幸とは異なり、五百騎が王や
光州候と雲海上を先行、残り二千が雲海の下から追う。行幸にしろ巡幸にしろ、
普通なら往路や復路で壮麗な行列を民に見せるのも行事のうちだが、今回は何
よりも当地に赴くことが急務と判断されたからだ。
 また平和な雁国内で、それも雲海上の行程で護衛はほとんど必要ない。だか
ら二手に分かれても何の問題もないし、王を守る五百騎とて、実際は州城に着
いたときの効果を考えてのもの。いくら現人神である君主でも、たとえば単騎
や数騎でのお忍びでは無理だが、それなりの威容を見せれば、不安に駆られて
いるという州官も落ち着くだろうからだ。後続の二千の兵も同様。
 それだけに出立に際して行事のたぐいはなかった。冢宰ら高官の見送りを受
けて、兵らが次々と路門から飛び立っていっただけ。
 その見送りのどこにも宰輔六太の姿はなかったが、誰も気にしなかった。首
都州候でもある六太だが、あくまで名目上の話。おまけに禁軍であれ州師であ
れ、具体的に兵をどこにどのくらい派遣するといった話になると彼の領分では
ないから、口も出さない代わりに姿も見せずにすべてを任せるのが常だった。
 何にせよ路門から飛び立った一行が宮城の上空で旋回し、光州城の方向に騎
獣の首をめぐらせたとき、尚隆は園林の一画で陽光をきらりとはじく黄金のき
らめきを視界の隅に捉えた。それが控えめな見送りにせよ屋外でのうたた寝に
せよ、この距離から見定めることはできない。尚隆は口の端にほのかな笑みを
浮かべて一瞥を与えただけで、あっさり光州に向けて飛び去った。
 互いの半身と言われる王と麒麟だが、この五百年、彼らはこうしてつかず離
れずといったふうにやってきた。たまに共謀して仲良く宮城を脱走することも
あるが、それぞれ勝手に出歩くことのほうが多い主従である。昔からのその流
儀のまま今回も、別れの挨拶も激励も何もない。
 まさかそれが互いの元気な姿の見納めになるとは、そのときはどちらも夢に
も思っていなかったのだから。

139永遠の行方「呪(51)」:2008/11/29(土) 13:04:21

 幇周の里の病人は、数里離れた場所に建てられた三棟の仮小屋に運びこまれ、
手当を受けていた。しかしいずれも症状は重く、日を追うごとに容態は悪化し
た。
 隣の里に住んでいた珱娟(ようけん)という三十がらみの女が、避難先で報
を聞いて幇周の父親の元に駆けつけたのは昨夕のこと。一人暮らしだった老い
た父親は力なく仮小屋の臥牀に横たわっていた。
「父さん」高熱にあえぐ父親の枕元で、珱娟は必死に励ました。「主上が光州
に来てくださるんだって。主上ならきっと助けてくださるわ。それまでがんば
って」
 みずからの命の短いのを悟ったその父親は、住み慣れた家に帰るためにこっ
そり仮小屋を抜けだした。護衛と監視のために仮小屋に留まっている兵士らが
捜索し、すぐに近くの草地で倒れているのを発見したが、無理をしたせいか老
人の容態は急激に悪化した。珱娟が仮小屋に着いたのはその頃で、元気だった
頃の面影のない父親の姿を見た彼女は兵士に食ってかかった。
「どうして! どうして無理にでも避難させてくれなかったの! 聞いた話じ
ゃ、この病は神をも恐れぬ謀反人の企みのせいだっていうじゃない。お上はそ
れで避難させようとしたっていうじゃない。なのになんで父さんがこんな目に
遭うの!」
 兵士にしてみれば、正月の祭りがあるから、子供が生まれる予定があるから
待ってくれと頼まれたのはこちらのほうだとなる。どうしてもと頼みこまれて
温情を示した結果の悲劇。むろん兵士らが命令にそむいたことになるのは明ら
かで、当の判断を下した両長は処分を待つ身だ。その点での非は疑いないし、
部下たちも起きた事態の深刻さに愕然としたが、こんなふうに一方的に責めら
れてはいい気分はしなかった。
 だが既に他の病人とも険悪な雰囲気になっていたため、彼らは民の相手をす
るなと厳命されており、珱娟になじられた者も黙殺を通した。
 珱娟の父親の隣の臥牀で、同じように横たわっていた閭胥(ちょうろう)が
弱々しい声をかけた。

140永遠の行方「呪(52)」:2008/11/29(土) 13:06:45
「すまんな、珱娟。すべてはわしと里宰の責任じゃ。わしらの判断が甘かった。
恨むならわしを恨んでくれ」
「閭胥、そんな……」珱娟は顔をゆがめて涙を流した。
「里は、卵果はどうなっとる……?」
 閭胥の問いに、珱娟は首を振った。
「わかりません。来る途中で里門が半分閉じているのは見たけど、衛士が中に
入れてくれなくて。でも卵果が病にかかったなんて話、聞いたことはないし、
無事だと思います」
「そうか」
 だが産み月である卵果の両親も、別の棟で伏せっている。実の親以外に卵果
をもげる者がいない以上、もし両親とも死んだら赤子はこの世に生を受けるこ
とはないだろう。
 診察をする瘍医と違い、兵士らは仮小屋の内外で病人から離れて見守ってい
るだけだ。それも珱娟には不愉快だった。もっとも病人の身内や、避難してい
て無事だった同じ里の住民でさえ、怖がってここに近寄らない者が多いのだか
ら無理もないのだが。
「州師なら仙なんだろうに。仙は病にかからないってのに、うつるんじゃない
かってびくびくしてばかり。こんなに腰抜けぞろいで、お役目が果たせるのか
しらね」
 これ見よがしに嫌味を言うが、返ってくるのは黙殺だけだ。末端の兵士は只
人にすぎないという事実など、今の珱娟には何の意味もないだろう。
 彼女の父親はもう手が麻痺してしまって器も杯も持てないので、珱娟が口に
吸い飲みをあてがって白湯を飲ませてやる。父親は娘の顔をじっと見、「里に
帰りたいんだ」とつぶやいた。
「父さん。主上が助けてくださるから……」
「頼む、珱娟」
 父親の手や顔には不気味な斑紋が浮かんでいる。被衫に隠れている部分はも
っと深刻で、斑紋はただれてあちこちが腐りはじめていた。それの意味すると
ころを悟りながらも、珱娟は必死に父親を励ましたが、内心では既に覚悟して
いた。

141永遠の行方「呪(53)」:2008/11/29(土) 13:09:04
 正月のめでたい飾りつけをしたままの里で、住み慣れたわが家で命を終えた
いのだと、父親はつぶやいた。そんな彼のすがるような視線に、ゆがて珱娟は
座っていた床几から立ちあがった。病み衰えた老人ひとりとはいえ、彼女ひと
りで抱えることはできない。
「父さんを里へ連れていって」
 仮小屋の隅で見張っていた兵士らに頼む。だが彼らは無言でかぶりを振った。
何度頼んでも同じだった。
「人でなし!」
 珱娟は金切り声でわめいたが相手にされず、つかみかかろうとして取り押さ
えられた。
 その騒ぎの中、別の兵が仮小屋に入ってきて同僚に告げた。
「おい、病人がひとりいなくなったそうだ。捜索隊を組むぞ」
「またか」
 応えた兵は、溜息とともに珱娟の父親が横たわる臥牀をちらりと見た。あの
老人がこっそり仮小屋を抜けだしたときも捜索隊を組んだからだ。おそらくま
た里に戻ろうとして抜けだしたのだろう。
 無人となった幇周の里は別の兵士らが警備しているが、正直なところ近づき
たくはなかったから誰もが舌打ちをした。それにもう日暮れだ。病人の足では
さほど遠くへはいけないだろうが、探すのに難儀するかも知れないと思うと億
劫だった。
「昨日、子供を亡くした女がいたろう。その女が子供の亡骸ともども消えたら
しい」
「ああ、あの女か」
 子供の死を信じず、半狂乱になって騒ぎを引き起こしたから、話を聞かされ
たほうもうなずいた。自暴自棄になって当てもなくさまよい出たか、里へ戻っ
たか。
 いずれにしろその女も病が重いから、里にたどりつくことはできないかもし
れないが、病に感染した者を放置するわけにはいかない。いくら他の里の者に
はうつらないようだと瘍医が言ったとて、万が一ということもある。
 兵たちは舌打ちとぼやきとともに、当番をひとり残して仮小屋を出ていった。

142永遠の行方「呪(54)」:2008/12/07(日) 12:38:07

 雲海上の一画にぽつんと浮かんだおぼろなしみは、見る見るうちに大きくな
り、ほどなく騎兵の一団であることが誰の目にも明らかになった。
 光州の令尹は、同じように主君の到着を待つ官らとともに安堵の思いをかみ
しめながら、王旗を翻す数百の騎兵を見守っていた。無能者の烙印を押されて
更迭されることを恐れる気持ちはあるが、今は王がじきじきに乗りだしてきた
ことに対する安堵のほうがはるかに大きい。何しろ幇周の件もあり、事態はも
はや自分たちの手に負えないと感じていたからだ。
 州城の高官ですらこのありさまだから、市井の民に至ってはかなりの不安を
覚えていただろう。しかし謀反人のたくらみによる病の発生という不気味な触
れは、行幸の触れと対になっていたためか、一般の民衆に混乱は生じていない。
もともとそんな事件があったことを知らなかった大多数の者は「主上がおいで
になるなら大丈夫だろう」とあっさり受けとめていたし、恐慌に駆られかけて
いた葉莱や幇周の近隣住民も、被害に心を痛めた王が人心を慰撫するために行
幸を決意したと聞き、とたんに落ち着きを取り戻したからだ。
 五百年の治世を誇る延王は、民衆にとって神そのもの。限りない尊崇の対象
であると同時に、雁の民としての誇りの源だ。主上がおでましになるのならも
う大丈夫、すべてお任せしておけば良いと、皆信頼しきっていた。
 むろんもし期待を裏切られた場合、それが大きかったぶん失望も大きく、事
と次第によっては国を揺るがす自体に発展するかもしれない。だがそんな結末
は誰も想定していなかった。そもそもこの事態を収められなければ国家の土台
が危ういとさえ思える深刻な事件なのだ。
 光州城の路門に次々と降り立った騎兵は、すぐに駆け寄った大勢の州夏官に
騎獣を任せ、王および州候に付きしたがって整列した。礼装でこそないが、形
や色調が統一された重厚な鎧をまとった禁軍五百兵の堂々たる威容はいかにも
頼もしく、統制の取れたきびきびとした振る舞いは、威圧感よりも州城の者に
対する礼節を感じさせた。先頭に立つ王自身は儀礼軍装である。もともと武断
の王という印象の強い延王だから、その軍装は彼によく似合っていた。
「このたびの不始末、申し開きのしようもございません。主上におかれまして
は――」

143永遠の行方「呪(55)」:2008/12/14(日) 23:16:00
「面(おもて)を上げよ、士銓(しせん)。そのようなやりとりで無駄にする
時はないぞ」
 平伏して王に詫びを述べようとした令尹に大股で歩み寄り、そのまま前を通
り過ぎた王が鷹揚に言った。新年の慶賀に州候の名代で関弓に出向いたことは
あるし、お忍びで帷湍の元にやってきた王に会ったことも一度あるものの、別
に親しく口を利いたわけではない。なのにまさか字を覚えられているとは思わ
ず、驚いた士銓は反射的に顔を上げていた。
 主君に従って目の前を通り過ぎた州候帷湍が「言い訳はあとだ。まずは現状
の報告を」と声を投げたため、士銓はあわてて立ちあがった。随行の禁軍兵士
のうち数名の護衛のみを従えて州城に入る王の後を追いながら、名目は行幸だ
が、確かに王自身が事件解決に乗りだしたのだと改めて実感する。
「触れを出したあと、民の様子は」
「大事ございません。何しろ謀反人が流行病を引き起こしているという信じが
たい出来事ですから、多少の混乱はあったようですが、主上のおでましを知っ
て皆安堵したようです。葉莱や幇周の近辺も落ち着いております」
「なるほど。幇周の病人は」
「隔離して手当てしておりますが、薬石のたぐいも効かず、残念ながら手の施
しようがない状態です。今朝までに死者が四名出ております」
 内宮に向かいながら、王から矢継ぎ早に投げられる質問に答える。王のきび
きびとした所作は、かつてお忍びでやってきたときののんびりした風情とはま
ったく異なっていたものの、鷹揚な雰囲気はそのままだった。もし王が焦燥を
見せていたのなら士銓も不安に駆られたろうが、どこか余裕のあるさまに彼は
力づけられた。
 かと言って王が事態の深刻さを理解していないわけではないだろう。そもそ
もそれなら、新年早々二千五百もの兵を従えてやってきたりはしない。むろん
公式の訪問ではあり、それなりの規模の護衛を揃えるのは権威を示すためのみ
ならず光州に対する礼儀としても当然で、派手好きな王ならもっと人員を割く
だろう。しかし普段は体面を気にしない主君がこれだけの兵とともに軍装でや
ってきたという事実は、事態を公にしたことと併せ、絶対に解決するという意
気を示すものと受けとめられ、令尹以下、州官は強く勇気づけられた。

144永遠の行方「呪(56)」:2008/12/23(火) 12:38:30
 とりあえず内宮の一室に落ち着いて軍装を解き、装束をあらためた王に、士
銓はさらに詳細な報告をした。
「まず青鳥でご指示いただいた呪具の探索についてですが、今のところ里の内
外からは何も見つかっておりません。しかしいざとなれば家屋をすべて取り壊
して調査することも考えております」
「くれぐれも慎重にな。呪具というものは、素人が下手に動かすとまずいもの
もあると聞くからな」
 横から口を挟んだ帷湍に、士銓はうやうやしく頭を下げて「心得てございま
す」と応えた。
「それからご承知のように冬官の聞き取り自体はさほどの成果はありませんで
したが、あらためて記録を整理させたところ、こんなものが出てまいりました」
 控えていた自分の府吏に数枚の書面を出させた士銓は、それを王と州候の前
の卓に広げてみせた。体裁が整っていないため正式の文書でないのは明らかで、
非公式の書類か、もしくは個人的な書き付けといったところである。
「これは写しでございますが、どうも梁興が重用していた冬官の助手の覚え書
きのようでして」
「ほう」
 王は興味深げな視線を投げるなり、士銓が捧げるようにして眼前に示した書
類の一枚を無造作に手に取った。別の一枚を帷湍も手に取る。
「原文も保存状態は悪くないのですが、散逸しているのと、自己流に省略して
いるらしい表現や専門用語がちりばめられているのとで、これだけでは詳細は
わかりかねます。しかしどうも梁興は呪詛系統の呪を作らせていたようでござ
います」
「呪詛だと?」
 はじかれたように書面から顔を上げた帷湍に、士銓は緊張を覚えながら説明
を続けた。
「今、原文を冬官に調査させております。それと同時に他に書き付けが残って
いないかどうか、冬官府の隅々まで調べさせております」
「やはり二百年前の謀反に原因があったのか……。俺にはどうも信じられんの
だが」

145永遠の行方「呪(57)」:2008/12/26(金) 19:02:27
 茫然としたような表情の帷湍に、王は大らかな口調で応じた。
「そうとも限らんぞ。今回の件とは無関係かもしれんし、関係があったとして
も、たまたま梁興の負の遺産を手に入れたまったくの第三者が、腹黒いことを
企んでいるという可能性もある」
「ああ――なるほど。それもそうだな」
 帷湍はうなずいたが、「しかし呪詛というのは気になる」と唸った。
 他の書類も手に取って順に目を通す帷湍の傍ら、王は士銓に、離宮のある崆 
峒山(こうどうざん)に立ち寄ってきたことを告げた。崆峒山は光州南部の凌
雲山で、梁興の乱のあと光州城の者が引き立てられてきた場所であり、比較的
罪は軽いとして、仙籍を削除されたものの斬首は免れた者の牢があった場所で
もある。
「州城に入る前に、地方の様子を見たかったのもあってな。それに崆峒山の獄
舎に二十年以上入っていた者も数名いたはずだ。その間に何か書き付けを残し
ていないとも限らん。もしくは牢番の中に、興味深い話を聞いた者がいたやも
しれん」
「は……。確かに」
 士銓は冷や汗を流しながら応えた。言われてみれば確かに何か手がかりが残
っている可能性はあるのに、崆峒山に調査の官を差し向けようとは思わなかっ
たからだ。書き付けを検分していた帷湍も暗い顔でうなだれたが、深刻な顔の
両名を前に王は笑った。
「そう固くなるな、士銓。おまえは州候も時折やりこめられる、やり手の令尹
ではなかったのか。まあ崆峒山の者には指示を出してきたゆえ、何かわかれば
早々に青鳥が来よう」
「は……」
「それより民の様子だが」
 そのとき房室の扉が開き、屏風の陰から小臣が顔を出した。
「失礼いたします。ただいま、幇周から急ぎの伝令が」
 帷湍は即座に「通せ」と命じた。件の小臣が後方に顔を向けてうなずくと同
時に、伝令の徽章をつけた兵士がひとり駆け込んできた。屏風の前で片膝をつ
いて頭を下げる。

146永遠の行方「呪(58)」:2008/12/26(金) 19:04:30
「幇周よりの伝令でございます。先ほど、病人を収容した仮小屋から抜けだし
た女を捜索したところ、幇周の里に戻っていることがわかりました。それもど
うやらその女は、病を引き起こした呪者から伝言を託されたようでございます」
「なに?」
「面を上げよ。詳しく話せ」
 帷湍と士銓からたたみかけられるように言われ、顔を上げたその兵士は、奥
で椅子に座っている貴人を見て一瞬わけがわからないような顔をした。ついで
装束から延王その人であると悟って驚愕に目を見開き、がばっと叩頭する。
「も、申し訳ございません! ご無礼を! しゅ、主上がおいでとは――」
 扉の外には州候や令尹の護衛のほか、州兵と異なる色の鎧をまとった禁軍兵
士もいたはずだが、それが目に入らないほどあわてていたらしい。
 緊張のあまり、平伏したまま可哀想なくらい震えているその兵士を前に、王
は椅子から立ちあがった。そのまま芝居がかった仕草で歩いていき、件の兵士
の側に膝をつく。その気配を感じたのだろう、何が起きるのかと緊張でこわば
っている兵士の肩に、王はそっと手を置くと声をかけた。
「面を上げるがよい。雁の民はすべて余が愛し子。子が父に話すのに、何の遠
慮があろう」
 促され、おずおずと顔を上げた兵士は、神に等しい貴人の尊顔を間近に見、
今にも気絶せんばかりであった。
「こたびの事件には、関弓の宰輔もたいそう心を痛めておる。だが余が参った
からには、これ以上の非道は許さぬ。安堵せよ」
 慈愛と威厳に満ちたそのさまは、まさしく民の間に流布しているとおりの賢
帝の姿に他ならない。今回のような非常時においてはさておき、日頃は朝議や
政務を怠けて官に小言を言われたり、市井で女遊びや賭博に興じている王だと
は誰も思わないだろう。
 感極まった兵士は、「ははーっ」とふたたび叩頭した。その傍ら、王は士銓
を振り返り、にやりとして片目をつむって見せた。
 ――相変わらず、芝居っ気も茶目っ気もあるかただ。
 士銓の顔に自然と笑みが浮かび、ようやく緊張がほどけた。逆に帷湍のほう
は天井を振り仰いで、「何を遊んでいるんだ」とでも言いたげな風情である。

147永遠の行方「呪(59)」:2008/12/26(金) 19:07:17
実際、玄英宮ではこんな茶番につきあってくれる近臣はさすがにもういないの
で、こうして地方に赴いたときくらいしか、王の遊び心を満たす機会はないだ
ろう。
「して、幇周よりの急使の内容だが。もっと詳しく話してはくれぬか」
 王は兵士の肩に手を置いたまま、慈愛のまなざしで先を促した。兵士は感激
にむせび泣きそうになりながらも、そこは訓練された州兵のこと、順を追って
要点を話しはじめた。
 いわく、病人を収容していた仮小屋から、病状の篤い女が姿を消したこと。
その前にも里に帰りたがった老人が脱走したこともあり、幇周に至る道を捜索
したところ、警備の目をかいくぐった女が里閭から中に入りこんだのがわかっ
たこと。
 さらに捜索したところ、女は里祠の門を閉めてそこに閉じこもっていた。里
木を擁する里祠は神聖な場所だ。万が一にも乱暴をしたくないと考えて自主的
に出てくるよう説得すると、女は自分の子供を助けてくれと、そうすれば呪者
に託された伝言を渡すと言いだしたのだという。
「子供?」
 眉根を寄せて問うた王に、伝令は説明した。
「騎獣に乗って、塀の上から中の様子を窺ったところ、里木の下で幼い子供を
抱いた女が座りこんでいたそうです。そもそも里祠に入りこんだのも、子の病
が治るよう、里木に祈るためではないかと。しかし実際には、子供は既に死ん
でおるのです」
 さらに仮小屋で前日に起こった騒ぎを説明する。自分の子供の死を信じず、
半狂乱になった女。埋葬を拒んだ彼女は、兵が目を離した隙に姿を消したが、
同時に子供の遺体も消えていたこと。おそらく子を恵んでくれた里木の慈悲に
すがるため、病の体に鞭打って遺体を運んだのだろう。
「哀れだな……」
 帷湍がぽつりとつぶやいた。伝令は続けた。
「呪者の伝言がどういったもので、誰に宛てた内容なのかはわかりませんが、
書状のようなものだとすると、下手に女を刺激して逆上された場合は処分され
てしまう危険があります。何しろ既に正気を失っているようでして、こちらが
何を言っても子供を助けてくれの一点張りで、まったく話が通じんのです。そ
れで早急にお知らせして、ご指示をあおごうと」

148永遠の行方「呪(60)」:2008/12/27(土) 16:10:39
 王は重々しくうなずいて、ねぎらうように彼の肩を叩いた。
「ご苦労であった。幇周の駐屯部隊の長に、懸命な判断であったと伝えよ。こ
の事件の調査は州候みずからが指揮を執ることになったゆえ、さっそく幇周に
向かうことになるであろう」
 そう言って座に戻り、あとは州候と令尹に任せる。帷湍はさらにいくつか問
いただし、呪者が女とどこで接触したのか不明ながら、少なくとも現在は里の
内外に怪しい者が潜んでいる様子はないことを確認した。その上で、自分が赴
くまで女を刺激しないよう指示を与えて伝令を帰した。
「出てきたな」
 王がにやりとする。考えこむ風情で「ああ」とだけ応えた帷湍に、王は軽く
笑った。
「なに、おまえの妻子が嘆くような目には遭わせんよ。禁軍の選りすぐりの兵
を十名つけよう。うち一名は相当な使い手をな。おまえの護衛もつわものぞろ
いと聞くし、何かたくらみがあったとしても、それで充分対応できるだろう」
「別に自分の命が惜しいわけじゃない」帷湍はむっとしたように答えた。「そ
れより呪者の意図が解せんのだ。気の触れた女に伝言を託すとは、いったい何
を考えている? 誰に宛てたものにせよ、伝言が伝わらずとも別に構わないと
いうような投げやりな感じじゃないか」
「ふむ。光州の地に描かれた環と同じだな」王は顎をなでながら答えた。「あ
れも考えようによっては、ここで何か不可解な事件が起きているぞと、わざわ
ざ知らしめる意図があるとも解釈できる。だからあのような、明らかに人為的
なものだとわかるお膳立てをしたのだと。しかしながらそう断じるには弱い部
分もある。誰かの注意を引く意図を持っているように見えながら、葉莱より前
の事件は辺境の里で病による死者が月にひとり出るだけだった。あまり派手で
はない。あれもまた、気づく者がいればよし、いなくても別にかまわないとい
うような投げやりな感じを受ける」
「いったい何が目的なのだろう?」
 帷湍は困惑のままに疑問を口にしたが、王は肩をすくめただけだった。

149永遠の行方「呪(61)」:2008/12/27(土) 16:12:44
「呪者の伝言の内容がわかれば、見当もつくかもしれん」
「ああ……そうだな」
 ふたたび考えこむように視線を床に落とした帷湍だったが、すぐに令尹に命
じた。
「幇周に行く。用意を」
「ただいま」
 その傍らで、王も「士銓。すまんが州兵の軍装を貸してくれ」と言った。先
ほどの話で出た、帷湍の護衛につける禁軍兵士に貸与するのだと受けとめて頭
を下げた士銓だったが、意味深な王の表情から真意をくみ取って驚愕に目を見
開いた。
「それは――危険では――」
「相当な使い手をつけてやると言ったろう。禁軍の兵にも州兵の鎧をまとわせ、
ともに帷湍の護衛に紛れこむ」
 事もなげに言ってのけた主君に、だが帷湍は一瞥を投げただけだった。そし
てしばらく沈黙したのち、しんみりとした調子でこう言った。
「俺が保証して済むことなら、里祠に立てこもっているという女の気の済むよ
うにしてやろう。残念ながら治療法がわからない以上、その女も長くはないだ
ろうからな。ならばせめて子供の遺体を引き取って、手厚く看病した結果、快
方に向かっていると言ってやろう。だが再感染を防ぐために会わせてはやれな
いと。子供のためにそこまでしたのだ、女は納得してくれるだろう。そして少
なくとも安らかな気持ちで最期を迎えられるだろう」
 いつになく同情するふうなのは、彼自身も人の子の親だからだろう。王もそ
んな帷湍の心中を思いやるように、「そうだな。そうしてやれ」と静かに応じ
た。

150永遠の行方「呪(62)」:2009/01/24(土) 21:01:33

 慶と接する南部の地域は温暖だが、雁は基本的に北国だ。その北方の里とも
なれば、冬の日はより短く、雪に埋もれる生活が待っている。
 しかし五百年の長きに渡る大王朝の存在は、そんな北国にも安楽な暮らしを
もたらした。どんな小さな里に向かう街道であってもきちんと整備されている
し、蝕でもない限りは天候もまず荒れないから、冬場の交通に多少難儀するこ
とを除けば、気候的には恵まれているはずの巧などよりはるかに住みやすい。
地域によっては石造りより木造の家屋のほうが多いが、建物がつぶれるほどの
大雪も降らない。静かにしんしんと雪が降り積もっていくだけの穏やかな情景
があるだけだ。
 州候を擁した騎獣の一団は、とっぷりと日の暮れた冷気の中を、滑るように
幇周へと向かった。月明かりの中、遠目に里が見える頃には夜も深まっており、
駐屯部隊がしつらえたとおぼしき篝火が、そこここに赤々と燃えているのがわ
かった。暖と明かりを取るためのものだろう。避難や発病騒ぎのせいもあって
か、幇周へと至る細い街道が綺麗に除雪されているのも見て取れた。
 今夜はここで泊まりだろうな、と州候帷湍は思った。病人を収容した仮小屋
には瘍医と疾医が派遣されているはずだから、ついでに彼らから状況を聞いて
おこうと考える。その内容次第では帰城が遅れるかもしれないが、出がけに令
尹にいろいろ指示を出しておいたこともあり、州城の者も多少の猶予がほしい
だろうから都合が良いかもしれない。いずれにせよ明日戻る頃までには、例の
書き付けに関する冬官府の報告もできあがっているだろう……。
 そんなふうに頭の中で段取りをつけながら、すぐ横で騎獣を並べ、何食わぬ
顔をしている主君をちらりと見やる。
 こうして州兵を装ってしまえば、尚隆はたちまちそれに馴染んでしまう。同
道の州兵らは、軍装を貸与された禁軍兵のひとりであることを疑ってもいない。
むしろ王の護衛として国軍の中でも高い地位にある軍人にしては、妙に気安く、
くだけた奴だと、親しみを覚えたり逆にあきれたりするだけだ。
 これでも昔に比べればおとなしくなったと朱衡などは言うが、はたしてそう
だろうか。頼るべき官が増え、少々のことでは政務が滞らなくなった。だから
王がふらふらと出歩いても支障は少なく、結果的に王の無軌道ぶりが目立たな
くなっただけだろうと帷湍は意地悪に考えている。

151永遠の行方「呪(63)」:2009/01/25(日) 15:06:16
 もっとも尚隆には底が知れないところがあった。これだけ長く仕えていると
すべてをわかった気になるが、実のところは臣下に心の内を容易く見せるたち
ではない。あけっぴろげに見えて、その実、本心では何を考えているのかわか
らない男だった。
 今は飄々として見えるこの男も、二百年前には闇の深淵を覗いたことがある
のだと、帷湍は信じている。
 混乱を招くだけの無謀な人事、意味もなく役夫を増やして民を酷使する勅令
の連発。光州の謀反が悪いほうへ転んでいたら、間違いなく王朝は終わってい
ただろう。
 帷湍の視線に気づいた尚隆が片眉を上げ、おどけた笑みを返してきたので、
顔をしかめて前を向く。そうして呆れた体を装いながら、果たして彼はさびし
くないのだろうかとふと思った。
 妻と娘を得、家庭団欒の温かさを知った身では、いかに王が気ままな生活を
送ろうと、どこかさびしいと思う気持ちはぬぐえない。だが尚隆は、市井で女
遊びはしても、宮城に后妃を迎える気はまったくないらしい。そういえば相変
わらず城下をふらふらと遊び歩いて官に小言を言われていると聞くが、それで
いて女官には一度も手を出したことはない。登極したばかりのころと同じく、
後宮は寵臣の私室として使われているが、彼ら彼女らとの関係はあくまで主従
にとどまっている。帷湍にはそれが、尚隆があえて自分の心に踏み込ませる相
手を作るまいとしているように思えてならなかった。
 もっとも王は子を持てないし、どう見ても家庭的とは言えない尚隆のような
男にとっては、妻もわずらわしいものなのかもしれないが……。
 幇周の里は周囲に街もなくこぢんまりとしていて、本当に廬人たちの冬の住
処といった風情だった。冬場の家は売ってしまうことが多いから、年ごとに異
なる家に住む場合もめずらしくないが、おそらくここはどの家も冬になるたび
に同じ民が住むのだろう。脱走したという老人も呪者の伝言を受けとった女も、
だから必死にここに帰ろうとしたのか。
 そういえば被害に遭った他の里の規模はどのくらいだったのだろうと、騎獣
を降下させながら帷湍は思った。郡や郷といった大きな府第のある場所でない
のは確かだが、ここと同じように小さな里だったのか、あるいは周囲に街が広
がり、そこそこ賑やかな地域だったのか。

152永遠の行方「呪(64)」:2009/01/31(土) 12:27:52
 雁は安定しているから、荒れた国と違って里の位置が数十年で変わるような
ことはまずない。むろん新しく里ができることはあるが、蝕の害に遭うといっ
た災難でもないかぎり、その逆は滅多にないだろう。おそらく光州の謀反のと
きにあった里は、今でも同じ場所にあるはずだ。里木がある以上、簡単に移動
するわけにはいかないのだから。
 ただし一般の家屋は木造も多く、従ってある程度の周期で立て直されること
になる。もし何らかの呪具が家の特定の場所に埋められている、または家自体
に仕込まれているなら、つい最近――とまではいかずとも、数十年以内に仕組
まれたことではないだろうか。少なくとも二百年前も昔に企てられた陰謀では
あるまい。
 里閭の前、篝火で赤々と照らされた空き地に、一行は次々と舞い降りた。既
に兵らが待ち受けており、騎獣から降りた帷湍を、数人の兵がうやうやしく迎
えた。
「女はどんな様子なのだ?」
 最前にいた卒長の徽章をつけた男に、同道の将兵を介さずに帷湍が直接問う。
卒長は「相変わらず里祠に立てこもっております」と緊張気味に答えた。彼に
導かれるまま、里の中に足を踏み入れる。護衛らもあとに続いたが、幇周側の
兵は帷湍のみに気を取られており、当然ながら誰ひとりとして尚隆に注意を払
う者はいなかった。
 里祠の前にたどりつくと、十数人の兵が建物を取り巻いていた。州候を認め
て一様に礼をした彼らの前で、帷湍は足を止めて里祠を見あげた。卒長が説明
する。
「日が落ちて急激に気温が下がりましたので、女が凍死してはいけないと、八
方で篝火を焚かせて何とか暖めようとしております。食料と一緒に衾を投げ入
れてやりまして、今はそれにくるまっているようです。お知らせしたように、
子供を助けるのと引き替えに呪者からの伝言を渡すと言っておりましたが、今
は里木の下でうずくまっているだけです。健康な者でもこの寒さはこたえます
し、もうあまり時間はないかと」
 帷湍はうなずくと、周囲に視線をめぐらせてから、あらためて里祠に目を戻
した。

153永遠の行方「呪(65)」:2009/01/31(土) 12:34:09
「伝言か。『教える』のではなく『渡す』というからには、口伝えではなくや
はり書状のたぐいか……」
「おそらく」
「では、おまえの望みをかなえるために州候がみずから足を運んだと、その女
に伝えてやれ。実際、そのつもりでやって来たのだ。少なくとも子供が助かる
と錯誤させて安らかに逝けるようにしてやろうと。しかしとにかく里祠から出
てきてもらわんとな」
 だが卒長は困惑の体で答えた。
「はあ。しかし、どうにもこちらの言うことに耳を貸してはくれませんので」
「そのようだな」帷湍は溜息をついた。「既に心を病んでいるようだから、こ
ちらが伝言を欲しがっていることには触れず、まずは子供を助けてやると言っ
て注意を引くのだ。早くしないと手遅れになるともな。女が出てきたら何とか
なだめて、子供の亡骸ともども州城に連れていく。なだめるのに時間がかかり
そうなら、伝言の内容だけでも聞きだす。もし本当に書状のたぐいとわかれば、
何としても渡してもらわねばならん。素直に州城に行ってくれれば一番面倒が
ないのだが」
 うなずいた卒長は里祠の門に歩みよった。大声を張りあげて、中にいる女に
呼びかける。
「聞こえるか? さっきも言ったとおり、州候おんみずから出向いてくださっ
たぞ。このたびの病に大変心を痛めておられ、おまえのことも憐れんでおられ
る。おまえの子供も州城に運んで手厚く看護をしてくださるそうだ。この寒さ
だ、子供にはつらかろう。体にも悪い。そこから出て、早急に医師に子供を診
せてくれ。早くしないと手遅れになってしまう」
 彼はいったん言葉を切って様子を窺った。しばらく待ってからふたたび呼び
かけを繰り返すと、一同が見守る中、里祠の門がわずかに開いた。それへ向け
て帷湍が軽く手を挙げ、声を投げる。
「州候はここだ。早く子供を医師に診せるがいい。むろんおまえのことも面倒
を見よう。もともとこたびの病を治すために奔走していたのだが、やっと治療
法がわかった。特殊な薬草を煎じて病人に与えたところ効果があったのだ。仮
小屋の者たちは病状が篤かったため予断を許さないが、少なくとも症状は落ち
着いているそうだ。じきに快方に向かうだろうと疾医は言っている。おまえや
おまえの子にも効くはずだ」

154永遠の行方「呪(66)」:2009/01/31(土) 18:43:20
 良心にちくりと痛みを感じながら、もっともらしい顔で嘘を口にする。
 警戒させないために兵らに手真似で指示をして後方に下がらせると、ほどな
く門の内から若い女がおずおずと姿を現わした。伝令から聞いて想像していた
より、ずっとおとなしそうな印象の女だった。しかし病のせいだろう、顔や手
は不気味な斑紋に冒されており、周囲を篝火が明るく照らしているせいで、広
範囲に渡って皮膚がただれているのがよく見えた。あるいは美しい女だったの
かもしれないが、今となっては容貌もよくわからないほどだ。若い女であるだ
けに痛ましさもいっそうで、明らかに事切れている二歳ほどの幼児をしっかり
抱きかかえたさまは、哀れ以外の何物でもなかった。
「俺が光州侯だ。帷湍という」
 努めてやわらかい声音で語りかける。女は茫然とした様子で立ちすくみ、帷
湍を凝視していたが、やがてその場にぺたんと座りこんだ。そして腕の中の小
さな亡骸をいっそう強く抱きしめながら、恨み言をつぶやいた。
「ひどいのよ。みんな、この子が死んだって言うの。死んだから埋めろってい
うの。あいつら、この子を殺す気だわ。そしてあたしのことも殺すのよ」
 気弱にすすり泣くならまだしも、憎々しげに吐き捨てる。姿を現わしたとき
は、さほど常軌を逸しているようには見えなかったが、精神の安定を欠いてい
るのは確かなようだった。
「それはすまなかった」
 帷湍は神妙に謝った。とにかく女の警戒心を解いて伝言を渡してもらわねば
ならない。
「何か行き違いがあったのかもしれん。だがもう大丈夫だ。おまえもおまえの
子も、州城に連れていって手厚く看護しよう。望みのものがあれば、何なりと
言うがいい。できるだけのことはする」
 女はじっと帷湍を凝視した。だがやがてその顔に浮かんだのは嘲りの表情だ
った。
「嘘つき」
 とっさに何を言われたのかわからずに、帷湍が戸惑っていると、女はさらに
言葉を投げつけてきた。
「知ってるわよ。あんたはあれが欲しいんでしょう。あの人が言ったとおりだ。
あれを渡したら、あたしもこの子も殺すんでしょう。知ってるんだから」

155永遠の行方「呪(67)」:2009/01/31(土) 18:46:20
 『あれ』とは呪者からの伝言のことだろうか。少なくとも他に思い当たるも
のはない。勝手に思い詰めているらしい女の様子に、帷湍は困惑した。この哀
れな女の頭の中では、何やら一方的な理由づけがなされてしまっているらしい。
「でもこの子は生きてるの。あたしも生きてるの。残念ね。ざまあみろ、だわ」
 女は勝ち誇ったように「ほら」と言うと、抱きかかえていた亡骸のぐにゃり
とした体を、目の前の石畳に横たえた。すると見守る兵らの、憐れみと嫌悪と
が複雑に混ざりあったまなざしの中、亡骸は幼児特有の大きな頭を不気味にぐ
らぐらさせながら、それでもしっかりと立ちあがった。瞬時に凍りついた空気
の中、州兵の何人かが、ひい、と息を吸いこんで後ずさった。
 帷湍の傍らにいた尚隆が一歩踏み出し、とっさに武器を構えた兵士らに「待
て」と鋭く声を投げて手で制した。州侯の護衛の言葉だから幇周側の兵も従っ
たものの、誰もが青ざめていた。
 子供は相変わらず頭をぐらぐらさせながら立っていたが、目を閉ざしたまま、
やがて口だけを開いた。
「今……ここに……王朝の……終わ……り……を……告げる……。雁は……滅
び……る……。救いは……他に……手立てはない……」
 途切れ途切れに発せられた、抑揚のない不気味な言葉。帷湍は微動だにせず、
子供の亡骸を凝視していた。その場でひとり女のみが、狂気をはらんだ目をき
らきらと輝かせた。
「ほら――ほら! 息子は生きているでしょう? 生きているわ!」
 母親と同じく病で黒ずんだ亡骸の小さな手が、差しだすように掲げられた。
そこに握られた、折りたたまれた紙片らしきもの。だが誰が動くより先に、女
がそれを横からかすめ取った。
「あげないわよ!」金切り声で叫ぶ。「誰にもあげない! これは主上に渡す
んだから! だってあの人にそう命令されたんだから! ほしかったらちゃん
と息子を治して!」
 彼女の傍ら、子供は操り手の糸が切れたかのように、どさりと地面に倒れ伏
した。それきり、ぴくりとも動かない。ようやく我に返った兵のひとりが女に
駆け寄り、紙片を取りあげようとしたが、女はその場にうずくまり、悲鳴を上
げて頑強に抵抗した。

156永遠の行方「呪(68)」:2009/01/31(土) 18:48:31
「いやよ、いや! あげないんだからぁ!」
 別の兵も駆け寄り、両側から女の二の腕をつかんで立たせようとしたが、女
は泣きわめきながら激しく上体を左右に揺すり、必死に彼らを振りほどこうと
した。
「おい、あまり乱暴をするな」
 あわてて声を投げた帷湍の肩に手が置かれた。はっとして傍らの主君を見や
ると、尚隆は黙ってうなずき、足を踏み出した。
「皆の者、控えよ! 主上の御前である」
 女のほうに歩みよる尚隆を見守りながら、姿勢を正した帷湍が鋭い声で周囲
を圧した。その威厳に、騒ぎにざわめいていた兵らもはっとなって州侯を注視
した。
 両側から女をつかんでいたふたりの兵も振り返ったが、彼らのほうは何が起
きたのかわかっていないようだった。州兵の軍装をまとってゆっくりと歩み寄
ってくる尚隆と、背後の州侯とを、惑うように交互に見やる。帷湍の後方にい
る禁軍兵らも、既に州侯と同じく姿勢を正して尚隆を見守っている。彼らをす
べて州侯の護衛としか認識していなかった幇周側が茫然となったのはもちろん、
州城から同道した州兵らも呆気にとられて尚隆を見つめた。
 帷湍は威厳を保ったまま、さすがにぽかんとしている女に重々しく言葉をか
けた。
「おまえを憐れんでおられるのは主上である。われらはお止めしたのだが、お
まえのため、州兵に身をやつしてまでおでましになられた。主上の慈悲におす
がりするがよいぞ」
 女の傍らにいた兵士は、ここに至ってあわててその場で叩頭した。彼らの数
歩前で立ち止まった尚隆は、安心させるように女にうなずいてから静かに言っ
た。
「俺が延王だ。おまえの子は、俺が責任を持って預かろう。おまえが望むなら
玄英宮に連れていこう。そこでゆっくり養生するがいい。おまえとおまえの子
をこんな目に遭わせた呪者には、必ず罪を償わせる。伝言とやらを俺に渡して
この悪夢のことは忘れ、玄英宮でもどこかの静かな離宮でも、望みのままに心
静かに過ごすがいい」

157永遠の行方「呪(69)」:2009/01/31(土) 18:53:45
 座りこんでいた女は、ぽかんとした表情のまま、尚隆を見あげた。
「主上……? 本当に……?」
「そうだ」
 女は迷うように周囲を見た。幇周側の州兵らはいまだ茫然としていたが、姿
勢を正して見守っている禁軍兵の何人かが真剣な顔でうなずくのを見て、尚隆
に目を戻した。
「あの……。じゃあ、息子を助けてくれる……?」
「俺の力の及ぶかぎり、何とかしよう。だからその紙をくれんか」
 やさしげな声に、女はまた周囲を見回した上で、ようやくおずおずと紙片を
差しだす仕草をした。だが尚隆が足を踏み出そうとすると、不安そうな顔で、
びくりとして手を引っ込めてしまった。
「大丈夫だ」
 励ますような声に、女はやっと腕を伸ばして紙片を差しだした。尚隆はゆっ
くりと歩み寄り、間近で片膝をついて女と目の高さを合わせてから、そっと紙
片に手を伸ばした。女の顔に緊張が走ったが、それでも先ほどのように手を引
っ込めることはなく、紙片は無事に尚隆の手に渡った。
 尚隆は折りたたまれた紙片をその場で開きながら相手にうなずいた。
「大変な目に遭ったな。だがもうこれがおまえを悩ませることはないだろう」
 そうして紙片に目を落とし、何やら眉根を寄せる。
「あ、あの……」
「俺が力になる。約束する」
 真剣な表情で身を乗りだした女に、顔を上げた尚隆が笑って答えた。女は目
を輝かせ、さらに何事かを口にした。叩頭していた兵士の耳に届いた、拍子の
良い五音の言葉。
 その途端。
 尚隆は苦しそうなうめき声を上げると、その場に昏倒した。予想外の光景に
周囲がとっさに動けず立ちすくむ中、女はすっくと立ちあがり、冷ややかな目
で王を見おろした。ついで正面を見据え、壮絶な笑顔を浮かべる。
「わが主よりの伝言、確かに伝えた」
 そう言うなりよろめいて膝をつき、それから石畳に倒れこむ。

158永遠の行方「呪(70)」:2009/01/31(土) 22:33:29
「主上!」
 血相を変えた禁軍兵がようやく王に駆けよった。そのうちのひとりが倒れた
女の上にかがみこみ、首に手を当てるとすぐ帷湍を振り返った。
「女は死んでおります」
 愕然として立ちつくす帷湍に、尚隆の様子を見ていた兵が血の気の失せた顔
で続けた。
「主上はご無事ですが、意識がありません……」
 それを聞いた帷湍は、主君によろよろと歩みよった。冷たい石畳の上で倒れ
ている尚隆の傍らに両膝をつき、何かの間違いであってくれと祈りながら顔を
のぞきこむ。かすかに眉根を寄せてはいるが、呼吸は正常。肩に手を置いて揺
すってみたが何の反応もなく、王の腕は力なくだらりと垂れたままだった。そ
の手の中にある紙片を認め、受けた衝撃のまま、何の躊躇もなくもぎとって紙
面に目を走らせる。
 香でも焚きしめられているのだろう、良い香りのする厚手の料紙だった。そ
こに書かれた文字はただ「暁紅」の二文字のみ。
「侯……」
「州城にお運びせよ。決して騒ぎたてず、人目につかぬように」
 蒼白な顔ですがるように声をかけてきた禁軍兵に、帷湍は厳しい顔で命令す
ると立ちあがった。茫然と立ちすくんだままの幇周側の兵を見回す。
 何が起こったのかはわからないが、尋常の出来事でないことは確かだった。
いずれにせよ、王の身に異状が起こったことを他の者に知られるわけにはいか
ない。事態が明らかになるまで、ここにいるすべての者に禁足を課すことにな
るだろう。

159永遠の行方「呪(71)」:2009/03/14(土) 16:10:51

 光州からの内密の報せを受けた高官らはまず茫然とした。そして次には騒然
となった。
 何しろ主君が禁軍を従えて出立してから何日も経っていないのだ。それなの
に今や王は意識不明の状態で、光州城の内宮の奥深く伏せっているのだという。
それも呪のせいで。
「帷湍どのはいったい何をしておられたのだ」
「まさか主上をおひとりでお出ししたのではあるまいな!」
 朝議の場は紛糾し、諸官は口々に光州侯を責めたてた。その急先鋒は夏官長
大司馬だった。次には光州侯による陰謀の可能性すら論じられるようになるだ
ろう。
 政治とはそういうものだと断じるのはたやすい。しかしもともと光州の地に
描かれた不気味な環のこともあり、王に万が一のことがあったらとの仮定も、
もはや恐ろしいほどに現実味を帯びてしまった。それゆえにさすがの官僚らも
内心でおののいてしまったと言ったほうが良いだろう。
 なぜならこの世界において、国というものは王がすべてだからだ。隆盛を極
めた大国が、失道や不慮の事故による崩御によって、ほんの十数年で荒れ果て
てしまうことなどめずらしくもない。何百年も続いた大王朝でさえ、国家の屋
台骨はそれほどまでにもろいのだ。
 光州からの報せは、緊急性と内容ゆえに青鳥ではなく密使が立てられていた。
休みもなしに騎獣を飛ばして数刻で玄英宮にたどりついた使者は、そのまま緊
急の朝議の場で引見され、冢宰を始めとする高官らに事件の顛末を語った。王
のためにすべての典医が呼ばれたが、通常の病や怪我ではないために対処のし
ようがなかったこと。とはいえ現在のところは、王はただ昏々と眠っているだ
けのように見え、脈も呼吸も正常であり、苦痛に類する兆候も窺えないこと。
 当初、州侯は幇周の里を封鎖することで、事件を知る幇周側の関係者を一時
的に里に軟禁しようとした。とにかく起きたことを余人に知られるわけにはい
かないからだ。

160永遠の行方「呪(72)」:2009/03/14(土) 19:34:10
 事態が事態の上に皆が愕然としていたこともあって、厳しい声で告げられた
州侯の沙汰に誰もが粛々と従った。幇周側の兵の一部は事情聴取のため、州侯
の帰城の際に伴われた。しかし結局のところ、それから半日も経たないうちに
幇周の封鎖は解かれることとなった。
 州城に伴われた兵のほうはまだ留め置かれているものの、あくまで事情聴取
のためであって、それが終わればふたたび幇周での任に戻ることになっている。
「特に令尹が、事件をとことん秘することに反対なさいまして」
 幾多の鋭い視線にさらされながら、急使は緊張の面持ちでそう説明した。い
くら流行病の問題があるとはいえ、州侯の訪問直後にあわてて幇周を封鎖、州
侯は即刻帰城したものの兵を里に軟禁して、外部とは書簡を含めていっさいの
やりとりをさせない。そんなことをしてしまえば、却って「何か重大な事件が
あった」との憶測を呼びかねないというのが理由だった。
「むしろ事件そのものは隠さず、大した事態にはならなかったふうを装ったほ
うが民も疑わないだろう、さらには呪者への憤りから、関心を主上から反らす
こともできると」
 州城内部ならいざ知らず、どう転ぶともわからないのに、この段階で王の健
康上の噂が市井に広まるのは好ましくない。むしろそのせいで事態が悪化する
恐れさえある。しかしそれを防ぐには幇周にいた兵のように、日頃から民と接
している市井の駐留軍の者からして自然に「大したことはなかったのだ」と納
得できなければならない。それでこそ「一時はどうなることかと思ったが、大
事に至らなくて本当に良かった」という安堵につながる。
 だがそんな演出は、まださほどの時間が経たず、当事者もよく事態を飲みこ
めずに茫然としている段階、余人にはまったく事件が知られていない段階でな
ければならない。状況が深刻であればあるほど、時間の経過とともに、秘匿の
ために州府が誤魔化しをするのではという疑念が生じてしまうからだ。そうな
ってからでは何を発表しても、一定の層は「実際には事態は好転していないの
ではないか」と疑心暗鬼に陥ってしまう。そしていったん疑いをいだいた当事
者の兵を解放することなどできないから、そのことがまた新たな疑念を呼ぶと
いう悪循環に陥りかねない。

161永遠の行方「呪(73)」:2009/03/15(日) 11:03:38
 かくして真相を知る者は州城でもごく一部に留めておき、よく似た背格好の
者を王の影武者に仕立てあげた。その上で外殿において壇上の玉座から冕服
(べんぷく)に冕冠(べんかん)を被った姿で幇周側の兵に謁見させ、神籍に
ある王に呪はまともに働かなかったこと、一時的に意識不明に陥ったものの、
典医の手当により何の問題もなく回復したことを伝えたのだった。
 身分の低い者に対しては王は珠簾を挟み、直答もしないものだが、尚隆はあ
まりそんな面倒なことはしない。それもあって玉座を囲む珠簾は上げさせたが、
確かにしきたり通りの礼冠礼服ではあったものの、五色の珠玉を連ねた長い飾
りを十二本も顔に垂らす冕冠を被っていては、よほど間近でない限り容貌は見
定めがたい。しかも典医と芝居を打って「まだ安静に」「この五百年の間、似
たようなことはあったが、その都度精神力で勝ってきた」等と言わせ、信憑性
があるように装わせたという。
「主上の影武者を……」
「何と勝手な」
 呆気にとられた諸官はざわめいた。だが少なくともそれで謁見した者たちは、
何の疑いもなく王の回復を信じたという。
「むろん侯も令尹も、主上がお目覚めになった暁には処罰を受ける覚悟はある
というわけだな?」
 大司馬の鋭い問いに、使者は冷や汗を流しながらも肯定した。それを冢宰が
取りなす。
「主上がこのままお目覚めにならないという事態などありえない以上、混乱を
防ぐためには有用な措置であったとは言えますぞ」
「確かにこういった非常時には即断即決が重要ですが……」
 別の官が、惑うように口ごもる。登極の当初から王に仕えている帷湍の忠信
を疑うわけではないが、王が宮城ではなく州城の内宮で伏せり、光州側の独断
で影武者を立てるという異常な事態に、不安定で危険な匂いを感じてしまうの
は仕方がない。これが州侯が宮城にいるというならともかく、彼は自分の城で
ある光州城で采配をふるっているのだから、その気になればいくらでも謀叛を
起こせてしまう。

162永遠の行方「呪(74)」:2009/03/15(日) 19:08:52
 いや、既にこれは謀反なのではないか、例の呪の環は王を光州に誘うための、
光州侯による巧みな演出だったのではないか。そんな疑念が諸官の脳裏に生じ
たのは当然だった。むしろ光州側の言い分を丸飲みするほうが、国府高官にあ
るまじきおめでたい思考と言えるだろう。危機意識のかけらもないことになる
からだ。そもそも王は意識もなく伏せっているというが、実際に呪によるもの
なのかどうかすら怪しい。
「とにかくこうなった以上、一刻も早く、主上に宮城にお戻りいただきません
と」
 蒼白な顔で言った大宗伯に諸官はうなずいた。
 使者および使者が持参した光州侯からの書状によれば、王に呪をかけた者は
死んだものの、誰かに命じられてやったことらしい。従ってこれで事態が収束
とは思えず、さらなる事件が起こると考えるのが自然だった。そのため影武者
に、王に危害を加えようとして果たせなかったという体を装わせただけでなく、
これで国に刃を向けても何にもならないことを知ったろうが、往生際悪くさら
に陰謀を続けてくる可能性が高い、まったくもって予断を許さない状況である
ことを強調させたという。王に呪が通じなかったことで皆が安心してしまい、
備えを怠ったり、別の里でまた病が発生したときに「すべて終わったのではな
かったのか」と王への信頼が揺らぐことを怖れたからだ。
 今頃は光州城は行幸の後続の部隊を迎えている時分で、それと同時に王の影
武者が謁見を開き、城の者を激励しているはずだった。その間、裏方では王を
宮城に運ぶべく、ひそかに準備を整えているという。玄英宮に密使を送ったの
は、その受け入れ体制を整えてもらうためでもあり、王を人質のような形で州
城に留めるつもりはないことを使者は暗に示した。
 ただし何も知らない大半の者の不審を招かないよう、州侯自身は州城に留ま
るとのことで、今さら玄英宮に来る気はないらしい。これはこれで当然とは言
えたが、またもや諸官の胸のうちにもやもやとしたわだかまりをためることと
なった。表向きは王も州侯も光州城にいることになるのは変わらないからだ。
しかもこちらは、王の状態を公にすることもできない。
 静かにざわめく官を前に冢宰が言った。
「光侯によれば、主上をこちらにお送りする際に、光州側のこれまでの調査結
果もすべて運ばせるとのことです。梁興の時代の官が遺した書きつけについて、
新たにわかったこともあるとか」

163永遠の行方「呪(75)」:2009/03/20(金) 19:06:39
「それどころではない!」大司馬が激昂のままに叫んだ。「そんなものはあと
で別途送ってくれば良い話だろう。今は何よりも主上をお迎えするのが先だ。
光侯は優先度を勘違いなさっているのではないか」
 他にもうなずく顔を見て、白沢は「そうとは思いませんな」と穏やかになだ
めた。
「調査結果をまとめるのに時間がかかるというならいざ知らず、既にできてい
るものをそのまま運ぶだけということですから。すべてがつながっている以上、
今はむしろ、主上のためにもどんな些細な情報でも重要かと」
「それは――」
「主上が光州に伴われた禁軍兵については、大半を州に留め置くそうです。主
上を雲海上からお運びするため、精鋭の空行師のみ、護衛として返すとか。内
々に事を運ぶためには、これも致し方ありません」
 大司馬が目を見開き、ふたたび諸官がざわめいた。それを抑えた白沢は、壇
上の空の玉座の傍らでたたずむ六太を見あげた。
 今回の朝議において六太は、最初に使者から状況を細かく聞き出したのちは、
硬い表情で黙りこんだままだった。もともと朝議の場で宰輔が率先して発言
することはあまりないのだが、今日はいつになく静かだった。
「台輔。光州城に差し向けるため、使令を十ばかりお貸しいただけないでしょ
うか。屈強である必要はありません」
 白沢の呼びかけに六太は、ぴく、と身じろぎして目を向けた。
「……間諜か。光州の動向を探らせるわけか」
 淡々とした声。白沢はうなずいた。
「使者や青鳥による通常のやりとりでは遅すぎます。しかし遁甲できる使令な
ら、大した時間をかけずに行き来できる上、州城内での行動範囲も制限されま
せん。これにより帷湍どのの身の潔白の証明も容易になります」
「なるほど」
「これから先、状況によっては光州侯の反意を疑う者も出てくるでしょうが、
主上が采配をふるえない今、疑心暗鬼によって臣下が分裂する事態は避けねば
なりません。帷湍どのにも使令を差し向けることは内々に伝えますが、侯のご
気性から考えて歓迎されることでしょう。裏表のないかたですし、今回のこと
で疑いを向けられても仕方のない状況であることは、ご本人が重々承知してお
られるはずですから。むしろ台輔の使令をおつけして疑いの余地をなくすこと
で、こちらが侯の潔白を信じていることの証になると考えてくださるでしょう」

164永遠の行方「呪(76)」:2009/03/21(土) 21:26:12
 六太は白沢をじっと見つめていたが、やがて足元に向けて何やらつぶやいて
から言った。
「今、向こうに使令を送った。尚隆の居場所を特定して二体で護衛し、他の八
体で州城を内偵するようにと。帷湍には使令から事情を伝えさせる」
「おそれいります」
 白沢はうやうやしく頭を下げ、諸官はこのやりとりでほっとした表情になっ
た。昏睡状態にあるというのはともかく、これで王にさらなる危害を加えるこ
とはほぼ不可能になったからだ。それに使令なら壁も通り抜けられるから、確
かに行動は制限されない。謀反人にとってこれほど厄介な相手はなく、逆に潔
白な者にとっては心強い味方となろう。
「良い考えですな」大司馬も感心したようにうなずいた。「台輔には多くの使
令がおありだから、小物を十ばかりあちらにやっても支障はない。おまけに本
質は妖魔だから、小物でも下手な者には手出しできない……。うむ、良い考え
だ」
 うんうんとうなずいた大司馬だったが、それでも禁軍兵を多く州城に残すこ
とには懸念を示した。何しろ徴用された民で構成されることも多い一般の兵と
異なり、禁軍ともなればすべてが職業軍人。それも王の護衛が任務とあって精
鋭が集まっている。中でも空行師は精鋭中の精鋭であり、むろん飛行する騎獣
を持った兵がすべてそうだというわけではないが、行幸で雲海上を王と先行し
た部隊のうち半数近くは空行師に当たる。指揮は同道の禁軍左将軍の采配にな
るから、直接的に光州の指揮下に置かれて自由に使われるはずもないが、それ
だけの戦闘力を持つ大軍がすべて光州城にあること自体が気がかりではあった。
「空行師のみ、主上とともに帰還させましょう」これまで意見を差し控えてい
た朱衡が口を開いた。「一刻も早く還御いただくためには、足の速い騎獣を持
つ空行師を使うのが一番です。同じ理由で、あまり全体の人数を多くして行程
の時間がかかりかねないようなことは避けたほうが良いのではないでしょうか」
 そう言って、意見を諮るように大司馬に目を向ける。大司馬はううむと唸っ
た。
「また禁軍と言えど現時点では、少なくとも州城にいる間は、主上のご様子を
知られるのは最小限に留めたほうがよろしいかと。その必要もないでしょうし」

165永遠の行方「呪(77)」:2009/03/22(日) 23:51:36
 考えこんだ大司馬は、やがて諦めたように溜息をつき、「致し方ない」と言
った。
「台輔が使令をお送りになった以上、向こうも勝手はできんだろう。それに主
上が禁軍をお連れになったのは、人心を慰撫し志気を鼓舞すると同時に、人数
面で州側の調査を助けるためでもある。ここですべての兵を呼び戻してしまえ
ば、何日あとかはわからないにせよ主上が気がつかれたとき、ご自分の意図が
台なしになったとぼやかれるだろうしな」
 その物言いに普段の尚隆の様子が浮かび、諸官は力なく笑った。
「こちらも迎えの空行師を出し、どこかの凌雲山の離宮ででも合流させるとし
よう」
「では一足先に俺が光州に行って、尚隆に付きそっている」
 静かに声をかけられ、一同はぎょっとなって壇上を見あげた。六太は相変わ
らず硬い表情をしていたが、内心の感情は窺えなかった。
「俺は遁甲はできないが、転変すれば光州城までいくらも経たないで着ける。
使令から帷湍に訪問を伝えて密かに入れてもらえば人目にもつかない」
 白沢は溜息をついた。
「お気持ちはわかりますが、台輔は宮城にお留まりください。この非常時に、
台輔まで宮城を空けることはお控えください」
「なぜ?」六太はおどけた顔になった。「危険なことは何もない。行くのは雲
海の上、着くのは帷湍が主を務める光州城だ。仮に光州に謀反の意図があった
としても、既に使令を送って見張っている以上、向こうは身動きが取れない。
それについさっきおまえ自身が、尚隆がこのまま目覚めないなどありえないと
言ったばかりだろう。俺が着く頃には、もう目覚めているかも知れないぞ?」
「万が一ということもございます。ご自分のお立場をお考えください」
「それは、このまま王が目覚めずに崩御した場合のことを言っているのか?」
 普通の官であれば憚って口にしない単語を、六太は何の躊躇もなく口にのぼ
せた。
 王に何らかの異状があれば、それが可能性としてどれほど低くても、崩御に
つながることへの危惧が頭の片隅に浮かぶものだ。そういった危機意識は、国
政に関わりが深い官ほど持っていなければならないのだから。

166永遠の行方「呪(78)」:2009/03/29(日) 13:28:01
 それだけに、実際に内心でその危惧をいだいていた諸官はぎくりとなったが、
白沢は動じたそぶりを見せず、まさか、と一笑に付した。そして「万が一と申
しております」と重ねて言った。
「では迎えの空行師に同道するというのは? 転変せずとも、騶虞を使えば空
行師についていくのは造作もない」
「台輔」白沢はやわらかく笑んだ。「主上をお連れするのは禁軍精鋭の空行騎
兵です。非常時ですから、行きと異なり少人数でいっさい休憩せずに騎獣を飛
ばせば、光州城から半日ほどで主上は還御なさいます。それをお待ちください」
 黙りこんだ六太に、白沢は続けて言った。
「むろん台輔がこうとお決めになったら、実際には拙どもにお止めするすべは
ありません。ですからお願いいたします。このまま宮城にお留まりください。
少なくとも関弓からお出になることのないように」
 六太は居並ぶ高官をじっと見据えていたが、不意に泣きそうな表情になるな
り顔を伏せ、「わかった」とつぶやくように答えた。
 麒麟は王を慕う生きものとされ、王の側を離れることが苦痛ですらあるとも
聞くが、普段の六太からはそんな性質はまったく窺えない。尚隆と示し合わせ
て仲良く城を抜け出すことはあるにしても、それ以上に単独行動のほうが多く、
王と離れることを何ら気にしないように見えるからだ。それどころか国政で厳
しい処断を下すことのある尚隆ときつい言葉で言い争うこともめずらしくない。
 しかし王が国の柱であり、失道や崩御が国土の荒廃に直結することもあろう
が、やはりいざというときには心配なのだ、非常時に駆けつけたくてたまらな
いのだと、その場の誰もが深く感じた。
 そんな六太からあえて視線をそらした朱衡は、つとめて冷静に「この上はと
にかく光州と連絡を密にせねば」と言った。光州侯にはどんな些細なことでも
報告してもらわねば、と。何があったにしろ、この場にいる者はまだ、何らか
の判断を下せるだけの詳細を得ていないのだ。

 むろん実際には、どれほど迅速に事を運んでも王の帰還まで半日とはいかな
かった。宮城で打ち合わせをし、その結果を使者が持ち帰るまで一日。それを
待ちかまえていた光州側が準備を整え、禁軍空行師を護衛に王を送り出すまで
さらに一日。途上の凌雲山で宮城からの迎えと合流、迎えに同道していた医師
団による王の診察を経てふたたび空路を辿り、一行が玄英宮に着いたときには
既に三日が経過していた。

167永遠の行方「呪(79)」:2009/04/12(日) 00:45:45
 王は昏睡状態のまま、数騎の騎獣に支えられた空行用の特別な輿に乗せられ
て到着した。普段の王ならせいぜい祭礼のときしか輿に乗ることはない。四方
の窓と帳がぴたりと閉ざされた陰鬱な輿は、騎獣を乗りこなし剣を振るう主君
の常の姿とはまったく結びつかず、見守る官は誰もがどこか茫然としていた。
 もともと正寝への昇殿の許しを得ている重臣らは、正寝は王の居宮・長楽殿
の正殿で言葉少なに主君の到着を待った。
 ほどなく王は殿舎内で使われる小型の輿に移され、錦の帳でうやうやしく玉
体を隠すようにして臥室に運ばれてきた。その光景を王を目の当たりにした高
官らは、今さらのように激しく動揺した。
「本当にこんなことが……」
 朱衡の傍ら、大司徒が震える声でつぶやいた。やはり実際に自分の目で見る
までは「まさか」という気持ちがあったのだろう。他の者も大なり小なりうろ
たえているのは変わらず、それは朱衡自身も同じだった。
 彼らの前で女官がかいがいしく働き、意識のない王の体を臥牀に横たえ、褥
を整える。重臣らは黙ってその様子を見守った。
「まあ、そう深刻になるな」黙りこんでしまった彼らを前に、腕組みをした六
太が肩をすくめた。「そのうち目覚めるだろう。尚隆のことだから、どうせ
『よく寝た』なんて言いながらのんきに起きてくるだろうよ。心配するだけ損
だぞ」
 一同は無理に愛想笑いを浮かべたが、いずれも力のない笑みにしかならなか
った。そもそも六太自身がこわばった顔をしているのだ。
 やがて付きそってきた典医のひとりが、王の診察を終えて牀榻から姿を現わ
した。
「お脈も正常、お体のどこにも異状はなく、ご不快のご様子もございません。
お目覚めにならないことを除けば、すこぶる健康体であらせられます」
「典医の意見は? 呪の仕業との話があるが、毒を盛られたとか、そういった
可能性は?」
 大司馬の問いに、典医は力なく首を振った。
「医師団内でも相談いたしましたが、神仙をこのような状態にする呪や毒に心
当たりはございません。いずれにしましてもご様子を拝見したかぎりでは、容
態が急変することはないかと存じますが、逆に処置の手立てもございません」

168永遠の行方「呪(80)」:2009/04/26(日) 13:11:00
 典医を無能呼ばわりすることは簡単だが、かと言って他の者に何か手立てが
あるわけでもない。官らは黙りこむしかなかった。白沢が言った。
「とはいえ、こうして無事に還御なされたわけで、その意味では一息つきまし
たな。早急にどうこういうものではないでしょうから、台輔は仁重殿でお休み
になられては。そのご様子では昨晩もよくお休みになっておられないようです
し」
 六太はちょっと苦笑するように口元を歪めたが、すぐにかぶりを振った。
「これから六官三公で内議を開くんだろ? 俺も出る。これでもいちおう宰輔
だからな。光州から運ばれた書類の吟味もあるし、尚隆がこうなった現場に居
合わせた禁軍兵からの聴取もある。王に罠をしかけた以上、謀反は確定だが、
こんなことをたくらむ輩だ。これに勢いを得て、次に何をしかけてくるかわか
ったもんじゃない」
 黙って視線を向けた白沢に、六太は疲れたように続けた。「何が起こったの
か知りたいんだ」と。

 空行師に託して王を送りだしてしまうと、光州城側はとりあえず一息ついた
格好になった。それでもこれからどうなるのかという不安はぬぐえない。今回
の咎に対する国からの直接的な処断を怖れるのはもちろんだが、何よりも雁が
どうなってしまうのかという、根本的な不安が彼らの頭を離れなかった。州侯
に対し、監視役として宰輔の使令が送られてきているとあってはなおさらだ。
「冢宰の要請により、台輔がわれらを派遣なさいました。これよりわれらが主
上をお守りいたしますので、ご安心を。何かあれば、関弓との取り次ぎもいた
します」
 何体もの使令が現われてそう告げたとき、州侯帷湍は重臣を集めて対応を錬
っていたところだった。唐突な出現のせいもあったろうが、滅多に妖魔を目に
することのない諸臣は文字通り震えあがった。何も言われずとも、監視役であ
ることは知れたろう。もとより今回の事件が光州側の企みであると疑われかね
ないことは承知していたものの、こうして使令が監視として派遣されるほどの
疑いを実際に抱かれていると知り、令尹も蒼白な顔で主を見やった。
「侯……」

169永遠の行方「呪(81)」:2009/04/26(日) 18:54:12
「うろたえるな」
 帷湍は顔をしかめて臣下を叱責し、おそろしげな外見ながら、おとなしく控
えている使令の群に向きなおってうなずいた。
「承った。台輔の命に従い、自由に行動してもらってかまわん。ただ、ここに
いる者以外には極力姿を見せんでもらいたい。内宮で主上に付きそっている典
医と女官にはおまえたちのことは伝えるが、州城内でもほとんどの者は事件を
知らんのだ。こんなことになっていると知れたら、却って事態を悪化させてし
まう」
「承知」
 使令はそれだけ答えると、床に沈むように溶けて消えた。臣下らはざわめい
て主君を見やったが、帷湍は意に介さなかった。
「うろたえるなと言ったろう」
「しかし……」
「むしろ使令を派遣してもらって幸いだ。いくら探られてもこちらに痛い腹は
ないし、使令の守る王に手を出せる無謀な輩もおるまい。おまけに青鳥より使
者より、はるかに早く関弓と連絡を取りあえる。良いことずくめだ」
 諸臣はあいかわらずざわめいていたが、帷湍のそれは虚勢でも何でもなかっ
た。正直、「疑われているのか」と気落ちする気持ちはあったものの、事件の
解決の前にはそんな個人的な矜持などどうでも良かった。ある意味で、帷湍は
それほど打ちのめされていた。
 登極当初からだから、尚隆とは長いつきあいだった。でたらめな王のやりか
たに呆れ果てたことは数え切れないし、王と宰輔の行状を改めるべく奔走した
ことも一度や二度ではない。
 それでも五百年という破格の治世は、尚隆が王たる器量を持ち、それを申し
分なく発揮したことの証左だった。主君の前で帷湍が認めることは絶対にない
だろうが、王者というものは凡夫の基準では計れないところがあるのだろうと
思うこともある。尚隆には欠点も多いが、臣下がそれを補える限り、それは大
した欠点ではない。
 王は国の舵取りができればいいのだ。方針が決まったあとの実務は、それこ
そ官吏の得意とするところであり、王の役目ではない。むしろ細かいことにま
で口を出されては、逆にうまくいくものもいかなくなってしまう。

170永遠の行方「呪(82)」:2009/04/26(日) 23:08:57
 未来を、国土を見据えて舵を取り、あとは臣下を信頼して任せること。その
意味では尚隆は申し分のない王だった。
 だが、その王を実質的に失ってしまっては。
 かつて、そんな尚隆もいずれは失道し、国を荒らすのかとぼんやり考えたこ
ともあった。だが、自分がまんまと謀反人に謀られ、国家を転覆させようとす
る企てに荷担した格好になるとは、夢にも思ってはいなかった。令尹の士銓な
どは、抗議するように「荷担とは違うでしょう」と言ったが、いくら尚隆自身
の望みだったとはいえ身分を伏せて彼を幇周に伴い、結果的に謀反人の一味と
相対させてしまったことは、痛恨の極み以外の何物でもなかった。

「呆けている暇はないぞ」
 王と空行師を送り出したあと、数日来の緊張が一気にほどけて腑抜け顔にな
った諸臣に、帷湍は叱責の声を投げた。中には、これ以上自分たちに何ができ
るのかと最初から諦めてしまっているような者もいて、戸惑うように主君に言
った。
「関弓ならば、主上の昏睡の原因もすぐにわかるのではないでしょうか。優秀
な典医も大勢いるでしょうし……」
「それならばそれでいい。だが最初から関弓を当てにしてどうする。事件はこ
の光州で起きたのだぞ。関弓は遠い。ここでしかわからないこともあろう。何
より謀反人のことが何ひとつわかっておらんではないか」
 そう言ってから、傍らの令尹に「例の女の身元はまだわからんのか」と鋭く
問う。
「益のある情報はまだ何も」
 令尹は頭を下げたまま、苦しそうに答えた。
 例の女とは、幇周で尚隆を罠にかけた若い母親のことだ。当初は誰もが子を
亡くして気が触れた幇周の民だと思い込んでいた。しかし実際のところは幇周
どころか近隣の里の者ですらなかったのだ。
 女がいつ呪者と接触したかを調べるため、里の者に聞き取りをしたところ、
明らかに女の容姿に食い違いがあった。渋る里人を説得して遺体と面通しさせ
てみると、果たして別人。そうこうしているうちに道端の、雪かきされた雪が
積み上げられていた中から本物の母親の遺体が見つかった。どうやら病人を収
容した仮小屋から抜けだしたあと、呪者に殺されたらしい。呪者は子の遺体を
奪い、さも自分が母親のような振りをして兵らを油断させ、王を罠にかけたと
いうわけだ。

171永遠の行方「呪(83)」:2009/05/02(土) 20:14:09
 夜だったこと、幇周には他に里人がいなかったこと、そして病で本物の母親
の容貌も多少変わっていたこと、呪者が気の触れた振りをしたこと。それらが
相まって誰も女に疑いを抱くことはなかった。まさか子を亡くして狂乱し、自
らの死も近い若い女が、謀反人の手先であるなどとは考えなかったのだ。
 これは逆に言えば、呪者が――少なくとも謀反を企んでいる者が――周到に
準備していたことを示していた。
 事件が起こったのちも帷湍らは当初、病に冒され子を失った女が、精神の安
定を欠いたところを呪者の一味に言葉巧みに取りこまれ、謀反人の手先となっ
て王に術をかけたのだと考えていた。しかしその推測は見事に外れたというわ
けだ。
「もう少し用心していれば……くそう」
 くやしそうに唇をかんだ帷湍に、令尹が言った。
「侯。こう申しては何ですが、今回の事件は普通の謀反のやり口ではありませ
ん。少なくとも我々が想定するたぐいのやり口では。たとえば年端もいかない
子供に無邪気に菓子を差しだされれば、誰もが疑わずに受けとってしまうよう
に、つい警戒を解いてしまうやり方はいくらでもあります。今回はまさにそれ
と同じたぐいの、我々の盲点を突いた計略だったと言えるのではないでしょう
か。むろん二度とこのような事態を引き起こさぬよう、反省は必要ですが」
「それはそうだが」
「強いて申しあげれば、何よりも主上を幇周にお連れしたことが過ちだったの
でしょう。しかし重大な事件に際してご自分の目でお確かめになる主上のご気
性のおかげで、五百年も王朝が続いてきたとも言えます。いずれにしろ通常の
謀反は、剣にしろ毒にしろ、直接的に主上のお命を狙うものです。しかし今回
はそうではない。それも力任せに押すのではなく、むしろこちらを罠に誘うよ
うな真似をした。そして昏睡しておられるとはいえ、主上のお命は無事です。
いったい何が狙いなのか、そちらのほうが気になります」
 すると他の官が口を挟んだ。
「呪者は、主上がおでましになることを予想していたのでしょうか。王という
ものは普通は宮城でさえ、外殿より先にお出になるものではありません。まし
てや余州の小さな里に出向くなど、通常は絶対に想定できないはずですが」

172永遠の行方「呪(84)」:2009/05/03(日) 10:50:46
 もっともな疑問に他の者も首を傾げる。帷湍は「ふむ」と考えこんだ。
「それはそうだが、今回は光州への行幸の触れを大々的に回していたし、地に
描かれた環や、全滅した葉莱のことがある。そろそろ本格的に国が乗り出して
くることくらいは普通に予想できたろう。ということは幇周で病が起きること
を知っていた呪者は、王はともかく、少なくとも州侯である俺が直々にそこに
出向く可能性ぐらいは念頭に置いていても不思議はない。そして州侯が来るな
ら、もしや王も……と考えることはできたかもしれん。そういえばあの女は、
呪者からの伝言を『主上に渡す』と口にしていたな。それが呪者の命令だとも
言っていたし、気が触れていると思えばこそ、さほどおかしいとも思わなかっ
たが」
「とはいえ、普通ならば突拍子もない望みです」
 しかしそこで別の官が、「雁では元州の謀反を題材にした、主上が単身州城
に赴いて台輔を救出なさるという活劇風の小説が広く知られています」と言い
だしたため、そのことを失念していた諸官をがっかりさせた。
「あれは小説なんだから」
 ひとりが呆れたように言えば、別の官が「いやいや、確かにあれは史実です
からな」とうなずく。帷湍は頭をかかえながらも、「なるほど」と答えた。
「謀反人は、みずから解決に乗りだそうとする尚隆の性格を知って罠を張った
のかもしれんし、逆に小説だの講談だので勝手に想像しているだけかもしれん
わけだ……」
「しかし侯。実際に大勢の民が死に、向こうの手の者もひとり死んでいるわけ
です。民が娯楽として小説を楽しむならまだしも、謀反の企てを起こそうとす
るような輩が、さすがにそんな不確かな根拠で計画を立てたりはしないでしょ
う。つまり敵が実際に主上のご気性を知っている可能性はあります。言い換え
れば官吏か、飛仙が関わっている可能性も高いということです」
「ふうむ」
 考えこんだ帷湍は、やがて令尹に命じて、使令に持たせる書簡を用意させる
ことにした。例の女が身元不明であることは、空行師に託した書類の中で報告
していたが、念のために仙籍を当たり、急に名前の消えた女がいないかどうか
調査することを関弓に進言しようというのだ。

173永遠の行方「呪(85)」:2009/05/03(日) 20:19:14
 官吏の場合は仮に行方不明にでもなればすぐわかるだろうが、何しろ雁にも
飛仙は多くいる。昔の時代からの累積の上に寿命が長いから、増えることはあ
っても基本的に減ることはないからだ。飛仙に仕える下僕も、国府が詳細を心
得ているわけではないという意味で飛仙のようなものだから、まだ仙籍にある
かどうか、つまり存命かどうかを頻繁に照合するわけではない。もしそういっ
た飛仙や下僕の中に今回の女らしき者がいれば、初めて首謀者につながる重要
な情報になる可能性があった。
 もっともこれまでその種の情報がまったくなかったわけではない。何しろ女
が尚隆に渡した紙片のことがある。「暁紅」とのみ書かれていたあれだ。
 心当たりと言えば梁興の寵姫だった女の名しかないし、それゆえ当初は誰も
が謀反人につながる重大な情報と考えていた。だがその後、こちらの推測を誤
った方向に導こうとする意図があるのではとの解釈が大勢となり、したがって
もはや重要な情報とは見なされていなかった。
 何しろ幇周の民と思っていた女が敵方であり、最初から罠だったという事実
はかなりの衝撃を官に与えた。そのため、その時点で諸官の意見の趨勢が変わ
ってしまったのだ。そして今や、これだけ準備していた呪者が不用意に自分た
ちにつながる情報を漏らすはずがない、あれはむしろ攪乱の意図があってのこ
とだという解釈が大勢になっていた。
 何が信頼できる情報か判断できなくなり、疑心暗鬼に陥って慎重になりすぎ
た結果とも言えるが、先ほどまでの臣下らとのやりとりで、帷湍はふと引っか
かるものを覚えた。
「今回の事件は、普通の謀反のやり口ではないと言ったな」
「は? はい」
 唐突な質問に怪訝な顔をした令尹に、帷湍は続けて言った。
「兵を挙げて攻めるわけでもない、武器を使って力ずくで押すわけでもない。
むしろ病を起こすことで相手の注意を引いて誘いこみ、実際に標的と対峙した
際も巧みに心理を突いて、誰もがうっかり油断するようなやりかたで罠にかけ
た。ただし命を奪うような乱暴な方法ではなく、昏睡状態に陥れただけ。これ
はどちらかと言えば男ではなく、腕力も度胸もない女のやり口だとは思わんか?」

174永遠の行方「呪(86)」:2009/05/04(月) 17:26:30
 だが令尹は首を傾げた。
「命を奪うような乱暴な方法ではないと言いましても、それは主上に限った話
で、この一年、光州の里や廬では大勢の民が病に斃れたわけですし……」
「それでも刃をふるったわけではない。奇妙な流行病のことは、おそらくどこ
かに呪具か何かを設置したのだろうが、呪を発動させたあとはいわば自動で病
にさせるだけだからな。呪者自身が近くにいる必要もないだろうし、罪悪感と
してはみずから他人に剣を突きたてるよりはるかに軽いだろう」
「それはそうですが」
「そもそも俺たちとしても、女の発想には慣れていない。特に謀反の場合、こ
れまでの首謀者はすべて男だったし、もともと武官に女は少ない。つまり男が
めぐらせた謀(はかりごと)に比べ、女の謀に対する経験が少ないからどうし
ても疎くなりがちだ。概論としては対応できても心の機微には疎いから、万全
の体制で臨んだつもりでも、おそらくは気づかないところで漏れが出る」
「はあ」
 今ひとつ納得できないような令尹をよそに、帷湍は使令に持たせる書簡に追
記させた。梁興の寵姫だった晏暁紅について、早急に調べを進めるよう進言す
る内容だ。
「俺自身はその女に会ったことはないが、例の謀反のあと、確か台輔は離宮で
光州城の者を引見したはずだ。籠城で心身ともにぼろぼろになった彼らを憐れ
んで助命嘆願をしたからな。ということは台輔にも、当時のことを何か覚えて
いないか確認したほうが良かろうな。謀反は計画しただけでも絞首、実行に移
せば斬首が慣例だが、結局寵姫らは事が起きるまで何も知らされていなかった
とわかり、助命は受け容れられた。台輔はその際、後宮の者と会うだけでなく
実際に言葉を交わしたかもしれん。それから武蘭珠と言ったか、所在がわかっ
たもうひとりの元寵姫のところへ、もう一度官を聴取に行かせろ。今度は晏暁
紅のことで覚えていることがないか尋ねるのだ。もちろん蘭珠自身についても、
何か怪しいそぶりがないか気をつけて観察し、少なくとも所在は常時把握して
おくように」
 そうこうしているうちに今度は冬官府から、例の書きつけや、それを残した
冬官の助手に関する新しい報告が上がってきて、どこか気が抜けたふうだった
官も、先の帷湍の叱責もあってきびきびと働きだした。通常の政務もこなしな
がらだから誰もが過負荷気味だったが、何しろ非常事態だ。それに関弓から疑
いをもたれているなら、その汚名を晴らすためにも懸命に働かねばなるまい。

175永遠の行方「呪(87)」:2009/05/04(月) 17:28:42
「ようやく書きつけの全容がわかりました」
 州司空は疲れた様子を見せながらも、報せに応じて内々に執務室を訪れた州
侯を笑顔で出迎えた。彼は奥の房室に主君を案内しながら説明した。
「散逸した書面をすべて回収できたわけではありませんし、そもそも紙の劣化
によって判読不能になっている箇所もありましたが、大勢には影響ありません。
いずれにせよ調査の初期段階でお知らせしたように、梁興が呪詛系統の呪を作
らせていたことは間違いなく、実際の担当者であった冬官は注意深く関連書類
を破棄して証拠隠滅を図ったと思われます。しかしせっかく開発した呪の喪失
を惜しんだ助手が、自分が覚えている事柄をこっそり書き残したということの
ようです」
「惜しむ?」帷湍は眉をひそめた。「呪と言っても今回のは呪詛なのだろう。
それを惜しむという感覚がわからんな」
 すると州司空は困ったように笑った。
「確かにそうですが、良くも悪くもそれが技官の性というものなのです。彼ら
が寝食を忘れて技術を追求するさまは、もともと文官だった拙官の理解も超え
ております。むろん俗物もおりますが、新しい技術を発見したり既存の技術の
改良法を見つけるということは、真に職人気質の冬官にとってはそれ自体が報
酬となるようです」
「まあ……気持ちはわからんでもないが」
「いずれにしろ今回は、件の助手のおかげで我々が情報を得られたことになり
ますし、助手自身はとうに故人ですので、ご寛恕をたまわりたく」
 帷湍が案内された先は、内密に調査を行なうために設けられた房室で、そこ
では選りすぐりの冬官が数名待ちかまえていた。州侯に礼をした彼らは、州司
空と州侯自身にうながされ、卓上に並べられていた書きつけを示しながら説明
を始めた。
「概略は既にご存じと伺っておりますが、これは呪詛系列の呪に関する覚え書
きです。書き手自身にとって自明のことは書かれていませんので、その辺はか
なり想像で補うしかありませんが、謀反の失敗を悟った梁興が籠城を始めてす
ぐ、冬官に命じて開発させたようです。つまり自分が処罰されるのは避けられ
ないとわかり、主上に復讐するために、ということです」
「なんと」帷湍は絶句した。

176永遠の行方「呪(88)」:2009/05/04(月) 17:30:56
「もっとも半年という短期間でそれほど大層な呪を開発できるとは思えません
から、おそらく基礎技術の開発はもっと前から内々に進めていたのでしょう。
幸か不幸か、呪本体の詳細な記録はほとんど遺っておらず、したがって再現は
できません。ただ、どのような意図を持って作られたものかということは、こ
の書きつけからわかりました。すなわち光州全体に呪の網を張り巡らせ、作物
が育たない不毛の地とする呪です」
 呆気にとられた帷湍はしばらく沈黙してから、やっとのことで問いを発した。
「……そんなことが可能なのか?」
「それはわかりません。ただ、梁興は可能だと思っていたのでしょう。それに
書きつけの内容から想像するかぎり、光州全体とは言わずとも、ごく狭い範囲
でなら不可能ではないと思われます。何よりも興味深いのは、国府の冬官府に
おける生長の呪の開発失敗例との相似です」
 怪訝な顔をした帷湍に、その冬官は説明した。
「かつて収穫量を上げるため、呪を使って植物の生長を促進できないものかと、
長期に渡って実験が行なわれたことがあります。残念ながら失敗に終わりまし
たが」
「ああ、そのことか。確かに聞いたことはあるな」
「北の地方である光州は雁で一番気候が厳しいですから、当時の光州冬官も興
味を持って実験のなりゆきを見守り、一部協力もさせていただいたようです。
今回の調査の一環で既存の呪に関する書類を確認した際、そのときの記録も調
べたのですが、失敗の型には二通りありました。ひとつは生長の速度を調整で
きず、植物本来の限界を超えて無理に生長させて枯らす結果となったもの。ひ
とつは生長の制御自体がうまくいかず、部位によって生長速度が異なった結果
枯れてしまったというもの。問題の書きつけを調べたかぎり梁興の呪は、国府
と意図するところは違えど、生長の呪の失敗型の後者と酷似しているように思
えるのです」
「なるほど。どちらにしても結果的に枯らすことは可能なわけだ。そういえば
確かに大司空がそんな話をしていたことがある」
「はい。そしてもし植物ではなく人間に対して同じことを行なった場合、体の
部位によって生長や老化の速度が異なるということですから、一部が壊死した
り麻痺したりする結果になるのではないかと。つまり昨年から発生している奇
妙な流行病と同じ症状を起こせるのではと」
「なに……」

177永遠の行方「呪(89)」:2009/05/04(月) 17:33:32
 帷湍は今度こそ仰天して目を見開いた。まさか例の流行病にまで発展する内
容の報告とは思っていなかったからだ。
 彼の驚きをよそに、冬官のほうは淡々と説明を続けた。
「呪具としては、いろいろな記載を鑑みると文珠が使われたと推定されます。
正式な記録と同様、呪具自体も残ってはおりませんが。またどうやら件の助手
は覚え書きを残すに当たり、自分でもこっそり実験してみたようです。呪に関
する記載の肝心要のところで、紙面が尽きたわけではないのに唐突に終わって
いること、落城の際の存命者一覧の中に助手の名がなかったこと、そして何よ
りも呪自体の危険性を併せますと、興味本位の実験に失敗して命を落としたと
解釈するのがもっとも自然ですから」
 帷湍はふたたび言葉を失い、ややあって「なんと、愚かな」とつぶやいた。
それには州司空も冬官らも無言で頭を下げただけだった。
 さらに彼らから詳細な説明を受けた帷湍は、国府に報告するために早急に書
類を作成するよう命じるとともに、助手の個人的な覚え書き以外に残っている
ものが本当になかったのか、書類はともかく、呪を施すために用意されたであ
ろう文珠も残っていないのかと質問したが、いずれもはかばかしい答えは得ら
れなかった。単に呪の開発が間に合わず、呪具の制作にまで至らなかったので
あればともかく、そうでないなら由々しいことだった。危険な呪言を刻んだ文
珠が、今もどこかに存在しているかもしれないからだ。
「そもそも梁興が王に復讐するというなら、その意を汲んだ家臣が遺っておら
ねばならん。当然ながらその者は、謀反とは無関係だったと見なされる人物で
なければなかろう。謀反は計画しただけでも死罪が慣例だからな。つまり呪の
開発が中断されたのではなく、万が一成功していたとしたら、関連する書類も
呪具もその者が所持している可能性がある。今回の病はそれが使われた結果だ
と。こうなるとやはり、暁紅という女が怪しいな」
「梁興の寵姫だった女のことですか。しかし閨で梁興を討ち、悲惨な籠城を終
わらせた女でしょう。主人に恨みはあっても、討った時点でもはや恩も情もな
かったのでは」
「そうかもしれん。だが王に渡した紙片に名前が書かれていたこと、今回の謀
反が男ではなく、むしろ女のやり口と思えることが気になる。むろん二百年も
の間、潜伏していたことは解せんが、それはこの際どうでもいい。とにかく呪
具を見つけることだ。それで可能性がさらに絞りこめるようになる」
 帷湍は険しい顔でそう言うと州司空に調査を命じた。いわく幇周の里を隅々
まで掘り返してでも、呪具を見つけだすようにと。

178名無しさん:2009/05/08(金) 23:19:57
連投キタ( ゚∀゚ )・∵.
姐さん待ってた!

179永遠の行方「呪(90)」:2009/06/13(土) 20:00:00

 とはいえ皮肉なことに光州側の発憤は、関弓における帷湍の評判をさらに落
とす結果となった。
 王を関弓に運ぶ際に託した種々の書類により、王を罠にかけた女が最初から
謀反人の一味だったこと。そして二百年前の謀反の際、冬官助手が書きつけを
遺していたことを知った諸臣は、里に紛れこんでいた敵方の女を見逃していた
ことに唖然としたのはもちろん、書きつけに関しても「どうして主上がお倒れ
になった今になって」という思いを強くした。特に後者は、要するに二百年も
の間、危険な呪に言及した書類が放置されていたことになるからだ。本来なら
ばとっくに回収され、今回の件とはまったく関係なく、とうの昔に調べがつい
ているべき事柄ではないのか、と。
 それから三日を経ずして、解読され丁寧に注釈がつけられた書きつけの詳細
が届けられ、さらにその翌日、幇周の里から呪具である文珠が発見されたとい
う急報を受けるに至っては、王の還御から間もないうちの出来事だっただけに、
多くの重臣が「今になって」「遅すぎる」という印象を憤慨とともにいだいた。
「確かに行幸の触れは大々的に回していたろうが、王たる者が御自ら辺境の小
さな里に赴くなど、そうそう予想できるものではない。これはやはり、どう考
えても州侯を狙った企みだったと見るのが自然だ」
「たまたま主上が幇周に出向かれ、ご身分を明かされたことで急遽狙いを変え
たのだろう。最初から光侯がきちんと処置をしていれば防げたはずだ」
「こうなるとやはり光州側に何らかの意図があるのでは」
 諸臣は憤慨とともにそんな言葉を口にした。
 もっとも声高々に帷湍を糾弾したわけではない。六太の使令は一部がまだ光
州城に残って監視役として働いているから心配はないし、何よりも今は誰に責
任があるかを問うのではなく、王を目覚めさせることが最優先かつ最大の課題
だったからだ。こんな状態のときに光州侯叩きに精を出すようでは、いくら思
いを同じくしていたと言っても、他の臣は咎めただろう。
 それでも臣下の間に、光州侯やその麾下に対する不審不満がたまっていくの
は避けられなかった。

180永遠の行方「呪(91)」:2009/06/14(日) 12:15:43

 宮城は静かだった。むろんもとから市井の喧噪とは無縁の場所だが、奄奚に
も禁足を課し、当分は下界と行き来できないようにすることで不用意に噂が漏
れないよう計らっている今、静寂の中にも張りつめた空気が漂っていると感じ
るのは諸官の気のせいではあるまい。
 当初、心のどこかで「この事件もすぐに解決するだろう。いや、解決してく
れ」と願っていた諸官も、いっこうに王が目覚める気配のないまま日数ばかり
が過ぎていくと本格的に焦燥に駆られざるを得なかった。表面上は以前と大差
ない生活が続いていたものの、互いに見交わす視線の中にある緊張が解けるこ
とはない。
 起きるだろう混乱を考えれば、とにかく事態を公にするわけにはいかなかっ
た。国内にかぎった話なら、自分たちが沈黙を守ってさえいれば、雲海の下に
は漏れないだろう。問題は他国の鳳だが、かつて泰王泰麒が行方知れずになっ
た際も鳴かなかったのだから、普通に考えれば他国にこの変事が漏れる心配は
ないと思われた。
 つまり王のことで鳳が鳴くとしたら次は崩御しかない。そして実際に事態が
そこまで進んでしまえば雁の官も諦めがつくから、そのことは考えなくて良い。
 現在のところ、昏睡状態にあるとはいえ王に健康上の問題はなく、神仙は飲
まず食わずでも、安静状態ならかなりの長期に渡って永らえることができるか
ら、とりあえずは事態を伏せておけるはずだった――謀反人たちが触れまわら
ないかぎりは。
 諸官の当座の心配はそこだった。謀反人が何を意図しているにせよ、国家を
脅かすことが目的なら触れまわらないはずはないからだ。
 そのことに懸念を覚えながらも、朱衡はひとり、正寝の王の元に見舞いに赴
いた。
 見舞いと言っても、つきっきりで詰めている女官らに異状はないかと尋ねる
くらいが関の山だったが、今日は先客がいた。延麒六太と地官長大司徒だ。
 何しろ正寝でのことだから、本来なら臣下が軽々しく王の臥室に入るもので
はない。だが今日は、以前から正寝も我が物顔で闊歩していた六太がいるせい
だろう、大司徒は彼とともに尚隆の臥室におり、女官にそれを伝えられた朱衡
もその場に赴いた。

181永遠の行方「呪(92)」:2009/06/20(土) 10:27:24
 沈黙だけが支配している王の臥室に入ると、そこにも重苦しい空気は漂って
おり、大司徒は折り戸が閉ざされた牀榻の前でぼんやりと立っていた。何か話
でもしているのかと思った朱衡だがそうではなく、六太のほうは、窓際の榻に
だらしなく座って窓の外を眺めているところだった。大司徒は朱衡を見て軽く
会釈をし、六太はちらと一瞥を投げて「よう」とだけ言った。
「何か変わったことは?」
 朱衡の問いに、六太は肩をすくめて「別に」と答えた。
「相変わらず、ぐーすか寝てやがる」
 にやりとしてそう言うと、六太は榻から飛び降りるようにして立ちあがった。
そうして手を無造作にひらひらさせながら、「またな」と言って去っていった。
どうしたものやらわからずに朱衡が大司徒を見ると、大司徒は曖昧な微笑を浮
かべ、おずおずとした調子で「そちらは何か変わったことでも……?」と逆に
尋ねてきた。
「いえ、何もないですね。少なくとも今日は、光州からも何も来ていませんし」
「そうですか……」
 いったん言葉を切った大司徒は、遠慮がちに牀榻をちらりと見てからこう言
った。
「あのう、大司寇」
「なんでしょう」
「もし――もし、ですが。このまま主上がお目覚めにならなかったとしたら、
雁はどのくらいもつのでしょう?」
 眉をひそめた朱衡が黙っていると、大司徒は放心したように続けた。
「主上以外に国の舵取りをできるおかたはおられません。わたくしども官は、
どのほど高位の者であろうとただの歯車です。方針が示され、進むべき道が示
され、それに基づいて執政を行なうだけ。今のままでも、しばらくは何とかな
るでしょう。でも舵を取り、国を適切な方向に導く主上がおられなければ、い
ずれ座礁するか転覆するか……。いったいわたくしどもはどうすれば良いので
しょう?」

182永遠の行方「呪(93)」:2009/06/21(日) 11:05:19
 この問いかけに対する答えはいくらでも考えられたが、朱衡はあえて答えな
かった。大司徒がただ動揺し、途方に暮れ、何か手堅い答えが示されるのにす
がろうとしているだけだとわかったからだ。それに王が関弓に戻って何日も経
たないというのにこれほど動揺してしまうのは、六官として褒められたもので
はない。先を見越して備えるのは当然としても、浮き足立つべきではなかった。
もともとこの大司徒は心配性なところがあったが、長たるもの、こういうとき
こそ泰然と構えねばならない。
「不測の事態に備えることと、いたずらに不安がることは違います。今の我々
が取るべき道は、一刻も早く謀反人を捕らえ、それによって主上にお目覚めい
ただくことです」
 きっぱりと言い放った朱衡に、大司徒は驚きの目を向けた。
「国の舵取りはむろん王の役目ですが、われら官吏はいわば実務の専門家です。
特に雁は、主上の長(なが)のご不在にも慣れています。一月や二月、主上の
お目が届かなかろうが、さしたる影響はありません。主上が新たな道を示され
るまで、われらは今まで通りに働けば良いのです」
「ええ――はい、もちろん、そうです」
 確信をこめた朱衡の言葉に、大司徒は慌てたように答えた。そして自分が長
たる者にふさわしくない言動を取っていたことにやっと気づいたのだろう、数
瞬の間、惑うそぶりはあったものの、すぐに苦笑してこう言った。
「莫迦なことを申しました。もちろんわたくしどもはいつもと同じように、い
え、それ以上に、せっせと働けば良いのですよね。つい不安になってしまって
……。ええ、もちろん働きますとも」
 大司徒は一気にそう言うと、朱衡に拱手してから慌ただしく退出していった。
 しかし見送る朱衡の心中は複雑だった。実際、大司徒に言った言葉に偽りは
ない。というより他に手立てがないのだ。
 誰もいなくなった臥室で、朱衡は長く息を吐くと、暗い目を牀榻に向けた。
「帷湍が何か有力な情報をもたらしてくれればいいのだが……」
 口の中でそうつぶやいた彼はしばらくそのまま立ちつくしていたが、やがて
牀榻に向かってうやうやしく一礼すると、静かに臥室から出ていった。

183永遠の行方「呪(94)」:2009/06/22(月) 19:48:42

「光州侯の進言にしたがって確認したところ、晏暁紅の下僕に梁興時代からの
側仕えである浣蓮(かんれん)という女がおり、先ごろ、その者の名が仙籍か
ら消えていることがわかりました」
 その日、朝議の冒頭で冢宰が行なった報告に諸官はざわめいたが、前日まで
と異なり、そのざわめきには力強さがあった。謀反人に繋がる有力な情報にた
どりついたと受けとめたからだ。仙籍を削除されたわけでもない者の名前が消
えたということは、すなわちその者の死を意味する。
「幇周で主上を罠にかけた女と同一人物ですかな」
「その可能性は高いのでは」
「するとやはり暁紅という女が怪しいな」
 官らは笑顔で見交わしてはうなずきあった。
「して、暁紅の行方は」
 この問いには大司馬が答えた。
「例の謀反以降、八十年ほどは貞州の州城で不遇をかこっていたそうだが、州
侯の代替わりと同時に、州城を辞して野に下っている。それから十年ほどして
行方もわからなくなったが、それは普通、飛仙の行方など捜さないからだ。し
かし今回は事情が違う。貞州侯に捜索を依頼するとともに、こちらも人員を割
いて潜伏先を突きとめる。暁紅は官吏でも何でもなく、単に梁興の寵を受けて
いただけの女だ。そんな女にこんな大それた企みを思いつけるとは思えん。お
そらく後ろ盾となる男がいるのだろう。暁紅を捕らえて誰の差し金かを吐かせ、
首謀者に違いないその男まで芋蔓式に引きずりだす」
 自信たっぷりに言いはなった大司馬を、諸臣は頼もしげに見やった。
「しかしその女はどういう女なのでしょう。先の謀反で赦されながら主上を脅
かすとは、恩知らずにも程がある」
 すると大司馬は肩をすくめて事も無げに答えた。
「もともとそういう女なのだろうな。梁興の寵姫でありながら、閨で、おそら
くだまし討ちのようにして主人を討った。赦されたあとは親族である貞州の州
侯を頼っていったものの、州城での評判は芳しくなかったようだ。官吏ではな
いから執政の役には立たぬし、おまけに謀反人の寵姫だった女だ。周囲も警戒
するし、当人も努力して周囲の役に立とうとする殊勝な心がけは見せなかった
ようだ。そのため州侯が代替わりすると居づらくなったようで州城を辞したら
しいが、そんな女がひとりで生きていけるはずもない。もともと謀反を企んで
いた男や呪者と、後ろ盾のほしい暁紅とで利害が一致したというところだろう」

184永遠の行方「呪(95)」:2009/06/23(火) 20:09:53
おそらく暁紅は、件の呪に関する資料や呪具を持っていただろうからな」
「なるほど。それで筋は通る」
 だが別の官は慎重な姿勢を見せた。
「今の段階で予断を差しはさまぬほうが良いのでは。確かに暁紅がこの件に関
わっている可能性は高いでしょうが、首謀者に利用されているというより、彼
女自身の企てである可能性もあります。何しろ先の謀反から二百年。行方知れ
ずになってからも百年以上です。その間に何があったかわかりませんし、暁紅
自身が呪を操り、すべての糸を引いていると考えても突飛な想像ではあります
まい。もともと梁興時代の光州では呪が盛んに用いられていたという話ですし、
敵を理由もなく軽んじて油断するようなことは控えたほうが良いかと。現在わ
かっているのは、主上を陥れた女が暁紅の下僕である可能性が高く、従って暁
紅が裏にいると考えられること。あとはこれからの調査次第でしょう」
 慎重な意見に朱衡も「そうですね」と同意した。
「それに市井にまぎれた飛仙を捜すのは、言うほど容易なことではない。何よ
り暁紅の形式上の身分は飛仙ですが、それは単に仙籍を削除されなかったとい
う結果によるものであって、別に彼女のための歳費が計上されているわけでも
ない。そのため界身から歳費を引きだすこともなければ、それによって居所の
見当をつけられるわけでもないのですから、あまり先行きを楽観視しないほう
がいいでしょう」
 勢いづいていた大司馬は多少気をそがれたようだったが、それでも「まあ、
それもそうだな」と冷静に応じた。さらに他の官もこう言った。
「考えてみれば、光州侯が言ってきたとおり確かに今回の事件は女のやり方に
思える。自分から攻めるのではなく、相手の気を引いて自分のほうに誘いこむ
のは、悪女が男をたらしこむのに似ているんじゃないか」
「なるほど……」
「仙籍から消えた下僕が本当に例の女だったとしたら、我々は確かに首謀者に
近づきつつある。だがこういうときこそ逆に慎重さが求められると思う。特に
今回はこんな不可解な事件を起こす輩なのだし、敵の真の目的がわからない以
上、気を引き締めてかからないと。それに主上を罠にかけた女は、『わが主よ
りの伝言』と言ったという。女が暁紅の下僕なら、主とは暁紅を指すはず」

185永遠の行方「呪(96)」:2009/07/02(木) 20:32:45
「うむ。確かにそうだ」
 大司馬は大きくうなずいて表情を引き締めた。
 そもそも光州全体を不毛の地とする大がかりな呪を施すことで、梁興の遺志
に従って間接的に王に復讐するというなら、弑逆を企てるならまだしも、王を
昏睡状態に陥れる必要はない。むしろひそやかに潜伏しつづけて呪の完成を待
ったほうが得策のはずだった。実際、葉莱と幇周から呪具たる文珠が見つかっ
たせいで、いまだ被害を受けていない他の里からも文珠が除かれることになる
だろうし、その結果第二の環が完成しないのならば、問題の呪は発動を免れる
のだろうから。
 要するに動機はわかったようでいてわかっておらず、謎が謎を呼んでいる状
況であるのは変わらないのだ。
 大司馬は壇上の空の玉座の隣に立っている六太を見あげた。
「当時のことで何か思い出されたことは? 特に暁紅ら寵姫のことで」
 たが六太は、少し考えただけで首を振った。
「前にも言ったように、俺はただ離宮に引き立てられてきた彼女らを見ただけ
だ。その打ちひしがれたさまに哀れに思ったことは覚えているが、名前も知ら
なかったし、誰が誰だと記憶しているわけではない。梁興を討った女について
も、そう聞かされて『この女が』と思っただけで、他に特に印象はないな」
「そうですか。まあ、二百年ですからな」
 大司馬は残念そうな顔をしながらも、自身を納得させるように何度か軽くう
なずいた。
 ついで、幇周の里から見つかったという呪具の報告に移ろうとしたとき、不
意に六太が提案した。
「手がかりらしきものにたどりついて何よりだ。しかし暁紅を捕らえるまで時
間がかかるかもしれないし、それがなくとも呪というものは厄介だ。この際、
蓬山に問い合わせてみるというのはどうだ?」
「蓬山、でございますか?」思いがけない提案に、冢宰も面食らって六太の言
葉を繰り返した。「それは、蓬山ならばわれわれの知らない呪に関する知識を
持っているかもしれない、という意味でしょうか? つまり主上の昏睡を解く
鍵が見つかるかもしれないと?」

186永遠の行方「呪(97)」:2009/07/02(木) 20:34:49
「そうだ。一般には知られていないことだが、蓬山は天の窓口みたいなものだ
からな。俺たちが知りえない知識もたくさん持っているはずだ。ただし普通の
女仙があの呪について何か知っているとは思わない。思わないが、碧霞玄君な
らあるいは、と思う」
「ふうむ。確かに可能性としては考えられなくもないでしょうが、どうでしょ
うな。そもそも蓬山となりますと、四令門が開く時期でないと行き来が――」
「雲海上を行けばいい。俺が転変して行けば、向こうでいろいろあったとして
も二日もあれば往復できる」
 六太が単身蓬山に赴くつもりでいるのを知り、冢宰は暫時沈黙してから静か
に首を振った。
「これが天の理に関わることであれば、確かに蓬山をお訪ねになるのも当然と
考えたでしょう。以前、泰台輔の捜索をなさったときもそうなさいましたな。
しかし今回の事柄と天が結びつくとは思えません。これはただの謀反です。前
にもお願いしたように、台輔には関弓にお留まりくださいと申しあげます」
「だが……」
「むろんいよいよ打つ手がないとなった場合は、あらゆる手を尽くすという意
味で蓬山行をお願いするかもしれません。しかし現在のところ、そこまで切羽
詰まっているわけではなく、むしろ解決に向けて事態が動きだしたというとこ
ろでしょう。違いますか?」
 これには六太は答えず、うつむいただけだったので、冢宰は何事もなかった
ように報告の続きに戻った。諸臣は壇上を気にしてちらりと目を向けたが、特
に反応のない六太に、彼らも報告に注意を戻した。
「予想されていたとおり、呪具は文珠だったわけですが、幇周では里の四方を
囲む形で四つの文珠が埋められており、葉莱でも同じ場所から発見されました。
それ以前の、一戸のみ被害に遭った廬里では、その家の四方を囲む形で、葉莱
や幇周よりずっと小振りの文珠が見つかったそうです」
 一連の文珠は、小振りのものもそうでないものも、すべて高価な宝玉が使わ
れていた。どんな呪であれ一般に、普通の石より宝玉を使うほうが効果が高い
と言われているが、第一の環と第二の環で、単純に考えれば総計で百個近い数
が必要になる。普通の庶民に手が出せるものではなかった。だが州侯のような
地位にある者が計らったことなら、それくらい造作もなかったろう。

187永遠の行方「呪(98)」:2009/07/02(木) 20:36:57
 問題はいつ埋められたかということだった。
 しかし雁は国が安定しているだけに、里や廬自体の位置は二百年前とさほど
変わっていないことがわかった。第一の環で被害に遭った家々についても、少
なくともこの五十年で場所を移したと思われる家屋はなく、したがってそれ以
降に埋められたのだろうと推測するしかなかった。
「いずれにせよ、諸々の状況を鑑みると、二百年前の謀反の際に既に埋められ
ていたとは考えられないそうです」
「するとやはり、あとで謀反の残党が埋めたと推測できるわけですか」
「おそらく」
「ならば、いつ、ということはそれほど気にしなくてもいいかもしれませんね。
家屋が別の場所に建て替えられて、せっかくの呪が効力を発しなくなる危険を
考えれば、比較的最近、多めに見積もっても十年から二十年程度の間に行なっ
たことに違いないのですから」
 それはもっともな推理ではあったが、敵方の人数を推しはかる材料とならな
いのが残念ではあった。何となればたとえ単独犯の行為であっても、ある程度
の時間をかければ、各地に文珠を埋めることは十分可能だからだ。
 光州からの報告によれば、念のために場を安定させる別の呪を施してから順
次文珠を取り除いているとのこと。おそらく第二の環の上にある他の里や廬に
も埋められているだろうから、発見次第、同様の手順で除いていくとのことだ
った。
 何か見落としていなければ、これでもう新たな被害は発生しないはずだから、
来月一ヶ月の間に何も起きなければ、光州への行幸の目的は達したと触れを出
すことができる。そうすれば光州城での王のふりをしている影武者も役目を終
え、実際に事件が収まった以上、たとえ謀反人が王の昏睡について噂を流した
ところで残党による流言飛語として片づけることも容易になると思われた。光
州の民は何の疑いもなく「すべて主上のおかげ」と喜び、被害に遭った里の者
もやがて事件を忘れて日常に戻り、諸官はしばらく時間を稼ぐことができるだ
ろう。
 その間に謀反人を一網打尽にし、王にかけられた呪を解くのだ。

188永遠の行方「呪(99)」:2009/07/04(土) 13:57:55

 朝議のあと、昼餉をはさんで大司寇府で執務に精を出していた朱衡は、仕事
の切れ目を見つけて仁重殿に赴いた。昔ならいざ知らず、王も宰輔も必要な執
務量はかなり減っているから、六太はいつも遅くとも午後の半ばには靖州府を
退いて自分の居宮に戻るようになっていた。
 夕刻の退庁を待たずに出向いたのは、朝議の際の六太の様子が気になったか
らだ。相変わらず静かな緊張が宮城を支配している今、彼も何か吐き出したい
こともあるのではないか。そんなふうに思う。
 ただの主従関係であってもこれだけの歳月をともに過ごせば、仲間意識も情
も自然と芽生えてくる。実際朱衡は口に出さないだけで、尚隆にも六太にも深
い親愛の情をいだいていた。一介の仙に過ぎない自分でさえそうなのだから、
六太はそれ以上に尚隆に情を持っているに違いないのに、王が昏睡に陥ってか
らこちら、あまりにも感情を見せないのが逆に気になった。
 むろん実質的に王が不在の今、臣下の筆頭である宰輔が取り乱してはいけな
いだろうが、普段率直に心中を吐露することが多いことを思えば、あまりにも
不自然だった。これだけ長く仕えると何とはなしに微妙な変化も感じ取れるよ
うになるものだ。
 六太は無条件で王を慕うとされる麒麟だが、普段の彼からはあまりそんな印
象を受けない。尚隆といると確かに嬉しそうな顔になるのだが、それでいて王
が示した政策を簡単に否定しては鋭くなじることも少なくないからだ。昔は他
に麒麟の知り合いなどいるはずもないからそういうものだと思っていたし、特
に不思議とも思わなかったが、長い間に接することになった他国の麒麟と、六
太はあまりにも違っていた。たまに仲良く揃って逐電するくせに、雁の王と麒
麟は互いに一定の距離を置き、そこから相手の側には決して足を踏み入れない
ように見えた。
 その昔、六太は「王なんて存在は民を苦しめるだけだ」と事もなげに言いは
なって、朱衡をびっくりさせたことがある。よくよく話を聞いてみれば、六太
は蓬莱で庶民として生まれ、戦乱を嗜むその土地の為政者に相当苦しめられた
らしい。当人が話したがらなかったため詳しく聞き出すことはできなかったが、
それで、と納得したことを今でも覚えている。

189永遠の行方「呪(100)」:2009/07/04(土) 14:00:23
 幼少時のつらい記憶は、確かになかなか忘れることはできないものだろう。
それを思えば、六太が尚隆に対して一定の距離を置くのも無理はないとも言え
た。
 しかし六太は麒麟だ。罪人にすら憐れみを覚え、眼前に困窮する者があれば
慈悲を施さずにはいられない神獣だ――いくら普段は普通の少年のように見え
るとはいえ。そんな彼が負の感情に支配され、天帝に本能として与えられてい
るはずの王への思慕を抑えるのは不憫なことではないだろうか。おそらくは葛
藤もあるだろうし、特に今の非常時においては、万が一にでも王が崩御するよ
うなことがあれば国が荒れるかもしれない。王への思慕と、国を、民を憂う気
持ち。少なくとも近しい臣下にはそれらへの不安を漏らしても不思議はないの
に、六太はあまりにもおとなしすぎないだろうか。それでいて蓬山に行くなど
と突拍子もないことを言いだし――。
 取り次ぎの女官に先導されて居室のひとつに赴くと、朱衡の懸念を知らない
六太はにやりとした笑みを向けてきた。その昔、よく政務を怠けて王とともに
逐電していた頃を彷彿とさせる、小ずるい笑み。
「別に怠けてはいないぞ。今日の政務は終わったんだからな」
 朱衡は一呼吸置いてから、穏やかに微笑した。確かに昔と違い、尚隆も六太
も随分とおとなしくなったと思う。だから王と宰輔が同時に姿を消すといった
ことがないかぎり、臣下らも彼らの出奔を大目に見るようになっている。
「何も台輔に小言を申しあげるために参ったわけではございませんよ」
「へえ? まあ、いいや。茶でも飲む?」
 六太は女官に言いつけて茶と菓子を出させ、朱衡にもくつろぐよう言ってゆ
ったりとした椅子を指した。女官らが下がって余人の目がなくなってから、朱
衡は話を切りだした。
「本日の朝議で、台輔は蓬山に行きたいとおっしゃいましたね。あれは何か当
てがあってのことなのでしょうか?」
「当て?」
 意味がわからないといった顔で問い返す。朱衡はうなずいた。

190永遠の行方「呪(101)」:2009/07/04(土) 14:03:28
「台輔は簡単におっしゃいますが、われらにとって蓬山はあまりにも遠く、困
難な道のりの果てにある仙境です。むろん台輔はそこでお育ちですし、これま
でにも何度か足を運んでおられることも存じております。しかしそれにしても、
いきなり蓬山にとおっしゃるからには、何か具体的な当てがおありになるのか
と。これまで拙が記憶しているかぎり、蓬山行はすべて目的が明確だったはず
ですから」
「いや、その意味じゃ、別に当てはないけど。でもあのとき言ったように碧霞
玄君なら……」
「当てもないのに蓬山まで、それも随従をいっさいお連れにならず、転変まで
して超特急で往復なさるおつもりだったと?」
「あのなあ……」
 六太は溜息をついた。朱衡の用向きがわかって取り繕う必要がないことがわ
かったのだろう、先ほどまで見せていた小ずるそうな笑みはとうに収めていた。
「そりゃ、そう思うかもしれないけどさ。仕方ないだろ? 何しろあの昏君が
大見得を切った挙げ句、まんまと敵の罠にかかって寝こけてんだから」
「しかし」
「悪いが、俺にはこの事件が簡単に解決するとは思えないんだ」
 思いのほか厳しい表情でそう答えた六太に、朱衡は驚いて目をみはった。
「暁紅とかいう女にしたって、自分で行方をくらました飛仙が、そう簡単に見
つかるもんか。これが昏睡に陥ったのが俺で、尚隆がぴんぴんしてたんなら話
は別だけどな。尚隆は自分を発信人にして鸞を飛ばせる。暁紅を名宛人にすれ
ば、鸞は一直線に彼女の居場所に飛んでいくはずだ。行動を封じたいなら、何
なら仙籍から削除して只人にしてしまうこともできる。大司徒もそう言ってい
たが」
「大司徒が?」
 朱衡は顔をしかめた。もしや先の見舞いの際のことだろうかと思う。いずれ
にせよ、そんな話を六太にするとは大司徒も分別のない。これでは暗に、尚隆
ではなく六太が呪にかかれば良かったと言っているようなものではないか……。
 そんな朱衡の心中を察したのだろう、六太はこう言って取りなした。
「大司徒は大司徒なりにあれこれ考えて悩んでいる。言葉として吐き出すこと
で逆に不安を収めたいという心理もあるだろう。あまり責めないでやってくれ」

191永遠の行方「呪(102)」:2009/07/04(土) 14:06:29
「ですが」
「それより俺は、晏暁紅が市井の飛仙だというのが気になる。宮城や州城、仙
洞で暮らしていると、周囲は不老不死の人間ばかりだから人の生き死にや老い
にも鈍感になるが、市井に紛れた飛仙はそうはいかない。多くの知り合いを死
出の旅に送りだす彼らはやがて、暁紅のように行方をくらますか仙籍を返上す
るのが常だ。地にあって只人と交わる飛仙は生に倦み、人生を諦観しやすい。
そんな彼らと、謀反のよくある動機である権力欲は結びつかない」
「なるほど」朱衡は相槌を打ちながら、単純に相手の言葉を否定しないよう気
を配って答えた。「しかしそれはあくまで一般論ではないでしょうか。お話は
理解できますが、飛仙にもいろいろな者がいるわけですし……」
 とはいえ彼は、六太が自分の考えを正直に語ってくれることにある意味では
安堵していた。今はとにかく心中をすべて吐きだしてもらったほうが良い。
「そうだな。だが俺は、帷湍が言ってきた、尚隆との話も気になるんだ」
「帷湍の話――とおっしゃいますと」
「最初、呪者が気の触れた女に伝言を託したと聞かされた帷湍は、呪者が随分
投げやりだと感じたという。伝言が伝わらずとも別に構わないように思えたか
らな。それに対し尚隆も、考えようによっては光州の地に描かれた環も同じだ
と答えたって話。何か不可解な事件が起きているとわざわざ知らしめる意図が
あるように見えながら、一方では事が露見してもしなくてもかまわないという
投げやりな感じを受けると言ったと」
 朱衡は記憶を探り、光州からの詳細な報告の中に確かにそんな内容があった
ことを思いだした。彼自身はさほど重要な情報とも思わなかったが。
「呪者が伝言を託したと思われていた女こそ、実は当の呪者だったわけです。
したがってそのことから受けた帷湍の印象がどうであれ、あれはあくまで演出
だったことになりますが」
「うん。確かに尚隆に呪をかけたのはその女だけど、光州で病を発生させた呪
とは別物だろう。だから女のことはそれとして、光州の地に描かれた環につい
てはどうだろうな。おまけにこっちは尚隆が受けた印象だ。あいつはあれでか
なり鋭いから、根拠のない『印象』とはいえ莫迦にできない」
 それはそうなので考えこんだ朱衡が黙っていると、六太は続けた。

192永遠の行方「呪(103)」:2009/07/04(土) 14:09:39
「俺は気になるんだ。今回の事件が尚隆や帷湍に恨みがある人間の単純な復讐
劇というならまだわかる。共感はできないが、動機をひもとけるという意味で
の理解はできるからな。でも野に下った飛仙がそこまで何かに執着するだろう
か。言いかたを変えると自分で事をくわだてるにしろ利用されるにしろ、行方
をくらまして百年も経ってから、謀反を起こしたり陰謀に加わるだけの『気概』
を持てるだろうか。俺は別に晏暁紅が無関係だと思うと言っているわけじゃな
い。むしろ単なる協力者より首謀者に近いかもしれないとさえ思っている。な
ぜなら生に執着しない飛仙の淡泊な印象は、尚隆が口にした、敵方の投げやり
な印象とも不気味に符合するからだ。そしてもし敵の動機が復讐でも権力の奪
取でもないなら、この事件の解決は相当難航するんじゃないか。おまえたちを
信頼していないわけじゃないが、俺は嫌な予感がして仕方がない」
 そう言われてみると朱衡も、六太の心配にも根拠がないとは言い切れないよ
うな気がした。いまだ敵方の真意が不明というのもあるが、少なくともこれま
でわかったことから想像するかぎり、確かに過去の例にあったような単純な復
讐や権力欲が動機と考えるには不自然な感触はあった。
 それでも六太が気にしているように、謀反人が事が露見してもしなくてもか
まわないというような投げやりな考えでいるかと問われれば、それも少し違う
気がした。何となれば広い光州中に呪具たる文珠をきっちりと置くなどという
行為は、相応の決意と計画性がなければできないことだからだ。
 むろん梁興は、文珠を設置する廬里の選定も慎重に行なっていたろうし、暁
紅が持ちだしたのだろう呪に関する書類の中に、そういった詳細な計画が載っ
ていた可能性も容易に想像できた。おそらく今回の謀反人は、それら梁興の負
の遺産を最大限に活用しただけだろう。しかし大した気概がないのであれば、
実際に光州中を巡って文珠を設置する段階で諦めるのではないだろうか……。
 それを言うと、六太はしばらく考えてから、はたと思いついたように「賭け、
かな」と言った。
「賭け?」
「そう。敵は闇雲に謀反の成就を狙っているわけじゃないかもしれない。俺た
ちに向けてあえて手がかりを提示し、それに気づいて対処すれば俺たちの勝ち、
そうでなければ自分たちの勝ち。不可解だが、そんな賭けをしていると仮定す
れば辻褄は合う」

193永遠の行方「呪(104)」:2009/07/04(土) 14:12:04
「そんな莫迦な」朱衡は思わず反論した。「他のことならいざ知らず、事は謀
反という大罪ですよ。光州では多くの民が病に斃れただけでなく、実際に主上
が狙われて昏睡に陥り、敵の手の者もひとり死んでいます。そんな大それた賭
けがいったいどこにあります!」
「……神をも恐れぬ無謀な賭けだな」
「では主上を陥れた女は、何のために自分の命を投げ打ったのです? 呪が跳
ね返されて報いを受けたのか、進んで病にかかったのかはわかりませんが、不
治の病に蝕まれてまでするほどの『賭け』なのでしょうか?」
 そう問うと、六太は「うーん……」と唸ったまま黙りこんだ。そのまま朱衡
が待っていると、六太は肩をすくめて「わからない。お手上げだ」と答えた。
「で、単刀直入に聞くが。もしこのまま尚隆が目覚めなかったとしたら、雁は
どれくらいもつと思う?」
 不意を突かれ、朱衡は答えに窮した。あのとき大司徒に問われたのと同じ言
葉だったが、まさか六太に尋ねられるとは予想もしていなかったからだ。だが
今の話の流れを考えれば、問われても不思議のない内容ではあった。
 朱衡は迷ったものの、結局は大司徒に返したのとは違う答えを慎重に口にし
た。
「この状況が外部に漏れないという前提でなら、何事もなければいくらでも、
と申しあげるしか」
「ふうん?」
「主上に御璽をいただかなければ各種政令も公布できませんが、国府としてで
はなく、各自治体の条例という形でしのぐことは可能ですので。ただしその結
果、首長が権力を持ちすぎてしまう危険がありますから、官吏の専横を招かな
いよう注意する必要があります」
 そこでいったん言葉を切ったものの、六太が目顔で先をうながしたので、朱
衡は仕方なく厳しい見通しも口にした。今の六太に口先だけのごまかしは利か
ないだろう。
「しかし一番問題なのは、実は官吏の登用や罷免、異動といった人事関係です。
とりわけ仙籍を更新できなくなるのが厄介です。たとえば拙官が部下を罷免し
ようにも仙籍から削除できず、新たな官を登用しようにも仙籍に載せられない
のでは、日常の業務に支障が生じるのはもちろん、主上に何かあったと気づか
れてしまいます。数ヶ月から半年程度ならともかく、正直なところを申せば、
主上には一刻も早くお目覚めいただきたいものです」

194永遠の行方「呪(105)」:2009/07/04(土) 14:15:15
「そうだな。俺たちでは収拾のつかない事件でも起きて民の生活に悪影響があ
れば、次の王をという声も自然と出てくるだろうし」
 さらりと言ってのけた六太に、朱衡は言葉を失った。それは目覚めぬままの
王の命を奪うことを意味しているからだ。
 今の段階で既に六太がそこまで覚悟しているのかと思うと、さすがの朱衡も
内心の動揺を抑えきれなかった。尚隆が暴君となり六太が失道したのならば、
弑逆もやむを得ないと覚悟を決めたかもしれない。しかし誰が手を下すにしろ、
こんな状況で王を弑するなど、到底耐えられるものではなかった。
 そんな彼の動揺をよそに、六太は淡々と続けた。
「そもそもたとえ謀反人を一網打尽にしても、尚隆にかけられた呪を解く方法
を簡単に吐くはずがない。謀反は計画した段階で死罪と決まっているからな。
今回の事件が敵の賭けだろうが野望だろうが、それが潰えたと悟った彼らは、
捕らえられた瞬間に貝のように口を閉ざすんじゃないのか。むしろ拷問を恐れ
て、捕まる前にみずから命を絶つことも十分予想される。そして彼らが死ねば、
呪を解く方法がわからないまま、尚隆はこのまま昏睡から醒めないかも知れな
い。そんな状態が長く続き、執政に滞りが出てくれば、民の間からは自然と不
満が出てくるだろう」
 あまりにも冷静な言葉に朱衡は愕然とした。そういった想像をすることも確
かに必要ではあったが、ようやく敵の姿が見えてきたかどうか、という今の段
階で口にする言葉では決してない。六太が一介の官吏なら、彼自身が混乱に乗
じて陰謀をたくらみ、王に危害を加えようとしているのではないかと疑われて
も仕方のないところだ
 朱衡は何とか取り繕って落ち着いたさまを取り戻し、口を開いた。六太も大
司徒と同じだ。あえて口に出すことで、逆に不安を解消しようとしている。そ
の相手が気心の知れた自分であるということは、内心を吐露すると同時に暗い
予測を否定してもらいたいと思っているはずだ。
「台輔がそんなことをおっしゃっては困りますね」
「困るか」
 六太は、自分こそが困るとでも言うかのようにほのかに笑った。その表情は
昔の、王は民を苦しめるだけだと暴言を吐いたり、長(なが)の出奔で朱衡ら
を手こずらせた頃の面影はなく、宰輔の顔だった。

195永遠の行方「呪(106)」:2009/07/04(土) 14:18:25
 そういえば六太が尚隆の命を受け、あちこちの国の情勢を探るようになった
のはいつごろからだったろう。先の慶での例を出すまでもなく、妖魔が闊歩す
る荒れた土地にも尚隆はひそかに六太を派遣した。使令を使い、使令に守られ、
人としては弱者である少年の姿を持つこの麒麟は、いろいろな場所に紛れこむ
のに都合が良かったからだ。
 普通の王なら危険な地に麒麟を派遣するなど考えもしないだろう。しかし使
令がいる以上、実質的に危険はないと言って尚隆は無頓着に六太を使い、六太
もその命に従った。それは単に勅命だったからだろうか。それとも主に信頼を
寄せ、心から彼の役に立ちたいと思うようになったからだろうか。あるいは宰
輔として、国外の情勢にも気を配るべきだと考えたからだろうか……。
「困ります、本当に。他の者には何もおっしゃっておられないようですからい
いですが、台輔こそは誰よりも主上がお目覚めになることを信じてさしあげな
ければならないお立場でしょうに」
 それを聞いた六太は、ふたたび困ったように笑った。その笑みがあまりにも
淋しげに見えて、朱衡はどきりとした。
 ――本当は王のことが心配でたまらないのだろうに。
 でなければ蓬山行など口にするはずもない。六太は明らかに他の臣下より焦
燥に駆られているのだ。もし王が目覚めなかったらと暗い仮定をするのも、そ
の焦りの現われ。こんな聞き分けの良い――良すぎる冷静な言葉ではなく、も
っと感情に走ってくれたなら、同じ内容の言葉を投げられても朱衡も落ち着い
ていられたろうに。
 だが六太は不意に考えこむとこう尋ねた。
「俺たちって困ってるよな?」
「は?」
 唐突な下問に意味が解らないながらも、自分をじっと見つめる六太に朱衡は
軽くうなずいた。
「本当に困っているよな?」
「いいえ、とお答えできる状況なら幸いなのですが。残念ながら非常に困って
いると言わざるを得ません」

196永遠の行方「呪(107)」:2009/07/04(土) 14:21:39
 正直に答えると六太は、うん、とうなずき、壁際の供案の上にある物を取っ
てくれと朱衡に頼んだ。それは封をした書簡らしきもので、言われるままに朱
衡は手に取り、確認するかのように六太を振り返って軽くかざした。
「そうそれ。ちょっと開けてくれないか。中に何か書いてあると思うんだけど」
「これは何ですか?」
「たぶん占文(せんもん)のたぐい。前に知り合いにもらったんだけどさ、本
当に困ったときじゃないと開けちゃいけないって言われて。もちろん信じてる
わけじゃないけど」
「占文……。斗母(とぼ)占文ですか? 運勢占いの? 開けると斗母玄君か
らの助言が記されているという?」
「うーん。たぶん」
 朱衡は意外に思いながらも薄い書簡の封を切った。その手のものは基本的に
庶民の娯楽なのだ。どうとでも解釈できる適当な文言が最初から記されている
のが普通なのだから。
「あれは子供の遊びのようなものですが」
「ま、そうなんだけどさ」
 中にたたまれていた料紙を取り出す。開いてみたが、そこには何も書かれて
いなかった。
「白紙です」
 六太に紙面を見せてから、開いた状態のまま傍らの大卓に置く。「信じてる
わけじゃない」と言ったわりに、六太は明らかに落胆していたが、すぐに自嘲
めいた笑みを浮かべて視線を伏せた。
「本当に困ったときに開けると、苦境を脱するのに助けになる言葉が浮き出る
はずなんだけど」
「はあ……」
 朱衡はあいまいに言葉を濁したが、普段はこんなものを当てにするほうでは
ないのにと思うと、さすがに胸が痛んだ。だが六太はすぐ顔を上げ、気を取り
直したように明るく言った。
「しかし意外だな。朱衡もこういうの知ってるんだ?」




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