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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

559永遠の行方「王と麒麟(171)」:2013/02/14(木) 21:12:40
 ついたしなめた朱衡を、尚隆は「そう硬いことを言うな」と軽くあしらった。
「麒麟だからその手の生々しい欲求がないのは当然としても、少しは女に興味
を示しても良いと思うのだがな。だが、まあ良い。それはそれとして男女を問
わず、よく遊びに行くような親しい相手は地方の州城あたりにおらぬのか。も
しいるならこの際宮城に配置換えをして、六太の側に仕えさせてやろう」
「確かにお目覚めになったときにすぐ会えればお喜びになるでしょうが、わざ
わざ私的にお訪ねになるほど親しい官は遠方にはいないと思いますよ」
 朱衡は答え、あえて言うなら帷湍がそれに当たるのではと指摘した。そもそ
も六太は、地方と言っても下界に遊びに出るならまだしも、州城を訪問するこ
とはほとんどなかったはずだ。むしろ官や政務から逃げようとして、官府のた
ぐいを極力避けていたと言っていい。
「ああ……そうか。そうだったな。ふむ、そういったところは俺と変わらぬ」
尚隆は笑ってうなずいた。
 やがて女官が六太を臥室に運んだあと、暫時、朱衡は人払いして尚隆とふた
りきりになった。
「主上」
「なんだ」
「台輔がお目覚めになったら、女官への口実でも何でもなく、台輔がお望みに
なるものを実際に差しあげてください」
「まあ、言われずとも、いくらでも何でも下賜するが」
 あくまで気楽な調子の主君に、朱衡は吐息を漏らして話題を変えた。
「ところで先ほど女官が読み聞かせた物語のうち竜王公主の話は、鳴賢による
と蓬莱の童話の焼き直しだそうです。元は半人半魚の姫の話で、台輔も知って
おられたとか。悲恋だったのをめでたしめでたしで終わるように変えたそうで
す」
「ほう」
「団欒所での催しに備えたためもあるでしょうが、台輔は蓬莱の伝説や物語に
そこそこ詳しかったようですね」
「ふむ。あれだけ遊びに行っていればな」
「それなのですが……」朱衡はわずかに言いよどんだあとで続けた。「もしや
台輔は、蓬莱に帰って暮らしたいとか、そういった願いを持っておられたので
はないでしょうか」

560永遠の行方「王と麒麟(172)」:2013/02/14(木) 21:16:36
「蓬莱に?」尚隆は意外そうに眉を上げた。
「はい」
「それはないな。六太が帰りたいとしたら、貧しくとも家族で暮らしていた頃
の蓬莱だろう。今の蓬莱ではない」
「そうでしょうか」
「今の蓬莱の様相はな、朱衡。泰麒を連れ戻しに行ったときに俺も見たが、俺
や六太がいた時代とはまったく違うのだ。もはやあそこは、この世界の他国よ
りも遠い遠い異邦だ。六太の帰りたい場所は、既にあれの心の中にしか存在し
ない」
「主上も、ですか?」
 思い切って尋ねると、尚隆は一瞬だけ驚いたような目をしてから、ふと笑ん
で「そうだな」と肯定した。
「帰りたいと思うのは、そこに懐かしい人々がいるからだ。少なくとも思い出
の景色の中で面影を偲ぶことができるからだ。だが今の大きく変貌した蓬莱で
は、六太とてそうはいくまい。そもそもこれまで遊びに行った際に個人的に親
しくなった者は何人かいたようだが、過ぎた歳月を思えば全員没しているだろ
う。たとえば何十年か前、親切な婦人の元にしばらく通って蓬莱語の読み書き
を教えてもらったようだが、その相手もとうにいない。時を遡るすべがない以
上、故人となった知人と再会する方法はなく、ならば少なくとも呪者が設定し
た解呪条件ではない。それにあれで六太はさびしがりやだからな。仮に懐かし
い景色が残っていたとしても、俺やおまえや、日頃から街で親しく触れあって
いた人々がいない場所で暮らしたいとは思うまい。あれはやはり雁を、雁の国
土や人々を愛している」
「そうですか……」
 朱衡はほっとしたような、それでいて手がかりではなかったことに残念なよ
うな複雑な気持ちだった。しばらく考えに沈んだ彼は主君にしみじみと語った。
「景台輔はいろいろ助言してくださいましたが、台輔の最大の願いとやらは、
やはり個人的な事柄なのでしょうね。でなければその場にいた鳴賢に、密かに
手がかりなりと伝えたはずですから。しかしそうなさることはなかった。むし
ろ逆に口を閉ざしてしまわれた。呪者も台輔を鳴賢とふたりにしておきながら、
手がかりを与えられるとは考えていなかった」
「個人的な願い、か……」

561永遠の行方「王と麒麟(173)」:2013/02/14(木) 21:23:16
「願ってはいても、誰にも知られたくないと考えておられた。晏暁紅にあさま
しいと嘲られても、一言も反駁なさらないどころか、むしろ逆に諦めてしまわ
れた。それほど恥じておられたのでしょう。そして実質的に生を放棄すること
になっても口にできないほど真摯な願いでもあった……。
 あらためて思い返してみると、台輔は本当に個人的な望みはまったくと言っ
て良いほど口になさいません。もちろん民に対する慈悲や、はたまた食事のお
好みといったささいなことはいくらでも気軽におっしゃいます。しかし今にし
て思えば、ご自身のごく個人的な事柄に関わるお望みを口になさったことはな
いように思います」
「よもやおまえがそんなことを言いだす日が来るとはな」尚隆はおもしろそう
に笑った。「あれだけ六太が好き勝手に下界を出歩くことに文句を言っていた
というのに」
「それは否定しません。しかしあれは言うなれば籠にこめられた鳥が外に出た
がるようなもので、普通に考えるところの個人的なわがままとは少し違うと思
うのです」
 真剣な顔で妙に理解を示した朱衡に、尚隆は肩をすくめた。
「その意味では、真に十三であった頃から、本当の意味でのわがままを言った
ことは一度もないかも知れぬな」
「そういうお望みがないのであればともかく、どうも台輔は慎重に隠しておら
れたようですね。何もそこまでご自分を軽んじることもないでしょうに。どの
ような内容であれ、台輔が真剣であれば誰も笑ったりしないでしょう」
「だが……もしその願いとやらが、他人の不幸を招くことだったら?」
「不幸、とおっしゃいますと」意外なことを問われ、朱衡は驚いた。
「それはわからん。だが考えてみれば二律背反になる事柄もありうるからな。
六太の性格からすれば、あれの願い自体は他愛のない内容である可能性は高い。
宮城を出て自由に出歩きたいという欲求のようにな。だがそれが明らかになっ
た場合、誰かの生命に深刻な危機を招きかねないとしたら」
 漠然としてはいるものの、まったく考えられない方向性の推測ではなかった
ので朱衡は反論しなかった。少なくとも六太の願い自体が突拍子もない事柄で
あると解釈するよりは、その成就のために邁進した結果、意図せずして他人の
不幸を招きかねない内容としたほうが想像しやすい。それなら六太が伏せるの
はわからないでもないし、むしろ慈悲の麒麟ゆえの動機にふさわしいと言えた。

562永遠の行方「王と麒麟(174)」:2013/02/14(木) 21:26:20
「……哀れだな」
 ふと尚隆がつぶやいたので、朱衡は首をかしげた。
「哀れ、ですか? しかしもし本当に台輔のお望みの結果、思いがけず他人に
害をもたらしかねないのでしたら、台輔が隠しておられたのは理解できます。
内容次第では、麒麟でなくとも躊躇するでしょう」
「そうではない」尚隆は苦く笑った。「元は王という存在を嫌っていたという
六太が、非常時には結局、躊躇せずに自分を犠牲にして俺を救った。麒麟の性
(さが)とはいえ哀れなものだと思ってな。突き詰めてしまえば王など官とど
こも変わらん。無理して救おうとせずとも、いよいよとなれば首をすげ替えれ
ばそれですむ」
 さらりとした調子で怖いことを言う。朱衡は動揺を表に出さないよう注意し
て答えた。
「台輔が主上を嫌っておられたのは昔のことでしょう。それも主上ご自身に責
があるわけではなく、単に蓬莱での幼い時分のご苦労によるもので、今では普
通にお慕いしておられると思いますよ。何より主上と一緒に下界に行かれると
きは、いつも楽しそうにしておられたではないですか」
「ふふ。麒麟は王といると嬉しく、離れているとつらい生きものだそうだから
な」
「それに鳴賢によれば、台輔は晏暁紅のことさえ哀れんでおられました。誰の
ことも哀れんでしまうのが麒麟の性と言えますし、仮に主上をお救いするため
でなくとも、それが雁にもたらされる災厄を避けるためなら、台輔はご自分を
犠牲にするに躊躇はなさらなかったでしょう。主上がおられなくなればすぐに
国が荒れかねませんが、台輔の生命さえあれば主上に障りはないのですから。
 それにしてもこうして振り返ってみると、人ひとりの考えることというのは
意外とわからないものですね。日頃から侍官女官に囲まれて生活なさっていた
台輔のことでさえ」
「そうだな」
「いくら言葉を連ねても、心情のほんの一端しか伝えることはできませんが、
かと言って口にしなければ誰にも何も伝わらない。難しいものです」
 そう言って穏やかに微笑んでみせる。尚隆もどこか困ったような微笑を返し
てきたが、その様子は特に疲れたふうもなく、自棄を起こしているようでもな
かったので、朱衡は杞憂だろうと自分に言い聞かせた。

563名無しさん:2013/02/14(木) 21:29:08
とりあえず今回はここまでです。

564名無しさん:2013/02/17(日) 22:33:17
更新ありがとうございます!
これから尚隆がどのように変化し自分の気持ちに気付いていくのか、先が知りたくてウズウズします。
緻密に伏線を立てておられるので執筆が大変だとは思いますが、
一読者としてwktkしながら、先を読めるのを楽しみにしております。

565名無しさん:2013/02/18(月) 03:42:57
お年玉に続きチョコよりビターかつスイートな物語を読ませて下さる姐さま…!

竜王公主、人魚姫の切ない恋物語とオーバーラップする六太の秘めた思い…、

鳴賢が主上の書状に打ち震える場面は高潔な雰囲気が伝わってきて、そこも好きです。
思えばいつも鳴賢が真実に気づかずに触れているシーンにはドキドキしています。
事実に気づいた時に起こる衝撃を妄想しつつ噛み締めて読んでます。

566書き手:2013/02/24(日) 17:38:10
感想ありがとうございます♥

伏線は……かなり回収したと思うんですが、
もう忘れている細かな部分とか、一部は置き去りになりそうな感じ。
その辺は軽く読み流していただければとw

昨年後半は投下できませんでしたが、実は書いたは書いたものの
またまた踏ん切りがつかずに長いこと寝かせていました。
でもおぼろに章の終わりが見えてきたこともあって、
少し気が楽になったので、さほど間をあけず、
これからちまちま投下していくと思います。
(もっとも実際に章が終わるのはまだまだ先)

とりあえず尚隆がぐるぐるし始めてる3レスを投下。

567永遠の行方「王と麒麟(175)」:2013/02/24(日) 17:41:29

 六太に関する陽子からの書状は膨大と言ってもいい量だった。しかも先ごろまた景麒が
新しく運んできたばかり。
 海客の軍吏による翻訳をしばらく併用した結果、最初はよくわからなかった現代の蓬莱
文も、尚隆なら何とか原文を読みくだせるまでになっていた。こちらの世界も五百年前の
蓬莱も、口語と文語は厳然と区別されていたが、今の蓬莱ではほとんど口語そのままに書
き記すものらしい。それがわかってみれば、そして蓬莱の現代語の特徴をつかんでみれば、
陽子の書状はかなり読みやすい部類だった。先方もその点に気を配って書いているのだろ
うが。
 そうやって必要に迫られたおかげで現代の蓬莱文に慣れた尚隆は、昼間の空いた時間や
夜間を精読や再読に充てることにした。多少手間取っても原文のまま読みくだせるとなれ
ば、他の者が携わるより作業は早い。何より陽子の目で描写された六太は、玄英宮での様
子とはまた違って興味深いものだった。
 ただそれに時間と意識を取られたせいで、毎日のように出向いていた仁重殿への訪問も
少し日が空くようになり、滞在時間そのものも短くなった。六太の近習たちが心細そうな
顔をしたので、政務が忙しい旨を言い訳にしたが、実際のところ尚隆は六太の顔を見るの
を避けていた。
 その日、仁重殿を訪れた尚隆は、久しぶりに人払いをして臥室から女官らを遠ざけた。
鳴賢から片恋の話を聞いた夜に訪れて以来、六太とふたりきりになったのは初めてだった。
 臥牀の傍らの椅子に腰をおろして六太を眺めやる。そのまま黙って半身の顔を見つめて
いた彼は、やがて口元に淋しげな笑みを浮かべた。
 六太の恋の話を聞かされたとき、まず感じたのは紛れもない驚愕だった。麒麟の思考は
本来、自王と自国が第一のはず。そもそも六太の幼い外見では色恋沙汰と縁がないように
思えたし、まさか永遠に覚めない眠りに甘んじるほど真剣な懸想をしていようとは思って
もみなかったのだ。
 実年齢を思えば恋愛経験がないほうがおかしい。しかし普段の六太に色恋に興味を覚え
ているそぶりはなかったため、尚隆は漠然と、その方面の心理は肉体同様幼いままにとど
まっているのだろうと思っていた。

568永遠の行方「王と麒麟(176)」:2013/02/24(日) 17:43:35
 ただし麒麟が恋をするはずがないとまでは考えてはいなかった。これまでいろいろな王
や麒麟と出会ってきたが、男女の場合は明らかに内縁関係に相当する主従もいたからだ。
何年か前に慶で話をした廉麟も、かぎりなく恋愛感情に近い気持ちを主君にいだいている
ようだった。それに実のところ麒麟は普通に喜怒哀楽の情を持っている。六太を見ていれ
ばわかるように、相手を責めたり恨んだりすることさえある。人々に対する慈悲の感情が
はなはだしいだけで、それ以外は浮世離れしているわけではないのだ。ならば異性を恋い
求めることも当然あるだろう。
 ――六太がそうだったとは、うかつにも尚隆が気づかなかっただけで。
 そして当初の驚愕が過ぎ去ったあとは、じわじわと淋しさが胸を占めるようになった。
漠々とした荒野でひとり、風に吹かれているような寂寥感とでも言うか。それは賑やかな
六太の姿が傍らから消えたことで感じた違和感とは比べものにならないほどのわびしさ
だった。
 普通の少年と同じように恋をしたことは、六太自身のためにもどこか安堵を感じていた。
麒麟とておのれのささやかな幸福を求めても良いはずだと思うからだ。だがこれほど長い
時をともにしながら、結局は彼に信用されていなかったという事実による衝撃は予想外に
大きかった。
 何といっても五百年以上を過ごした相手なのだ。臣下の筆頭である上、半身と言われ、
生命を分けあっていると言われ、時には各地を一緒に放浪して楽しく過ごした六太は、名
実ともに一番近しい存在だった。主君と臣下ゆえに一定の距離は置いているとしても、尚
隆はとうに六太を身内と見なしていた。外見の年齢の差による、そして騙されやすく万事
に見通しの甘い六太への自然な庇護心から、いつしか保護者めいた感情をいだくようにも
なっていたし、息子とは言わぬまでも腹違いの弟ぐらいには思っていた。互いに遠慮のな
いやりとりは親しさの発露でもあり、官と違って縁を切ることは不可能という関係は血縁
にも似て、家族のいない尚隆にとって間違いなく一番大事な存在だったのだ。
 だが六太のほうはどうか。彼の麒麟としての忠心を疑ったことはないが、おのれの恋を
秘して一言も語ることがなかったという事実は、尚隆を有象無象と同列に見なしたも同然
だった。六太が真剣に想っているなら他言など絶対にしなかったし、逆にいくらでも助言
し協力もしたろう。だが現実には六太は相談するより、とことん秘すことを選んだ。知り
あって数年しか経たない鳴賢に心の奥底を明かしながら、尚隆にはほのめかすことさえし
なかった。普段は話好きで開けっぴろげな六太が、言葉にも態度にもまったく出さなかっ
たということが、彼の想いの深さと決意の度合いとを物語っている。

569永遠の行方「王と麒麟(177)」:2013/02/24(日) 17:46:23
 鳴賢が指摘したように、相手の女性の生命にも関わる重大な問題であるのは確かだ。尚
隆の立場や、一方的に想いを寄せられて困惑する相手の心情を思いやった結果という解釈
もできよう。何より秘密というものは、いったん誰かに喋ってしまえばどうしても漏れる
ものだ。六太の片恋が鳴賢から尚隆に伝わったように。それを考えれば、本気で秘密を守
りたいなら誰に対してであれ口にしないに限る。
 だがそれならそれで、なぜ鳴賢には明かしたのか。ある意味では尚隆ほど秘さねばなら
ない相手もいないだろうが、生命を分けあっている半身として、主従ゆえではなく友情と
信頼から相談してくれても良かったろうにと考えてしまうのは仕方がない。
 六太にとって、王である自分は特別だとずっと信じてきた。それは紛れもない事実では
あったが、王と麒麟の枠を一歩も逸脱するものでないなら非常に淋しいことだった。主従
間で友情が成立すると考えるほどおめでたい思考はしていないつもりだったが、半身とさ
れる六太なら、それに近い関係を育めるような気がしていた――いや、実際に育んできた
と無意識に思っていたのだ。
 考えれば考えるほど、押しよせる現実に気が滅入ってきて、尚隆は声もなく笑った。思
いのほか打撃を受けているのがおかしかったし、そんな自分が哀れでもあった。鳴賢から
話を聞いた直後は驚きが勝っていたが、時間の経過とともに淋しさは増していった。考え
るほどに、自分が本当はいかに孤独であったのかを思い知らされた気がした。
「だが……おまえも孤独だったのだろうな」
 ふと声に出して六太に語りかける。
 仏教の五欲にかこつけて話を振ったものの、六太が苦しい片恋をしているなどと考える
官はひとりもいなかった。むしろ色欲を否定していた。仁重殿の女官が六太に、海客の娘
が書いた物語を読み聞かせたが、その中に恋物語が一編あった。だが一緒に聞いた朱衡が、
六太が男女の恋模様そのものに興味を持っていたわけではなかろうと考えているのは明ら
かだった。
 想像してもいないということは、その種の事態を歓迎していないことの表われでもあろ
う。麒麟の恋など誰も歓迎しないという鳴賢の指摘は正しい。
 尚隆が孤独なら、人知れず片恋に苦しんでいた六太もまた孤独だったのだ。

570永遠の行方「王と麒麟(178)」:2013/02/26(火) 19:07:56

「しばらく光州に連絡していませんでしたが、そろそろ現状の詳細を知らせる使者を立て
てはどうでしょう。目立った成果はありませんが、向こうは事件の発生地でもあります。
あまり連絡を疎にするのもどうかと」
 六官と次官とで打ち合わせをしていた際、朱衡はさりげなく提案した。内容の性質にも
よるが、余州とのやりとりも基本的に秋官の担当だから、提案すること自体は不自然では
ない。
 尚隆が朱衡と連れ立って仁重殿を訪れた先日、尚隆ははっきり「帷湍のせいではない」
と口にしていた。それを伝えるだけでも帷湍の気持ちは違うだろう。
 だが大司馬や太宰は顔を見合わせ、やれやれといった風情で頭を振った。
「何も今、光侯を慮る必要はなかろう。だいたい光州からの情報もとうに大した内容では
なくなっているのだ」
「そうだな。台輔をお救いする目処が立ったならまだしも、それどころではない状況だ」
「いえ、だからこそ、ある程度の配慮は必要ではないでしょうか。国難の折、諸侯諸官は
一丸となって事に当たらねばなりません」
 言葉を選んで答えた朱衡だが、ふたりは肩をすくめて見せた。それへ朱衡はあえて話を
続けることはせず、やわらかく微笑んだ。
「ではとりあえず現状のまま様子を見るということでよろしいでしょうか」
「いいのではないかな。まあ光侯と親交の深い大司寇にしてみれば、何かと便宜を図りた
いのだろうが」大司馬はそう言って鼻を鳴らした。「もし光州から有益な情報が上がって
くるようなことがあれば、そのときに考えれば良かろう。ところで大宗伯。先ほどの占人
の件だが――」
 議題が移る中、六官の様子を鑑みた朱衡は内心の失望を隠しつつ、何か目立った成果が
上がるまで、光州については話題にすることも控えたほうが良さそうだと判断した。向こ
うで手がかりが見つかる可能性は残されている。しかし六太が昏睡状態であることを知る
者は帷湍と令尹だけだし、今に至るまで有望な情報が出てきていない現実を考えると望み
薄だろう。成果がないのに帷湍と親しい自分が話題に出したり連絡を密にすると、主君が
襲われたときの衝撃による光州侯への反感を容易に思い出されるのみならず、内朝六官の
不和のもとになりかねない。

571永遠の行方「王と麒麟(179)」:2013/02/26(火) 19:09:57
 もっとも朱衡自身は、今回の事件でも帷湍に対する信頼を損なわなかったし、むしろ光
州侯が帷湍で良かったと安堵さえしていた。そもそも誰が州侯でも、おそらく今回の事件
は防げなかった。仮に朱衡が州侯位にあったとしても同じように後手に回っていた可能性
は高い。気短な自分の性格を考えると、もっと下手を打っていたかもしれない。他の者な
ら言わずもがな。ならば気心の知れた、信頼できる帷湍が当事者であったことは、彼には
気の毒だが不幸中の幸いだった。何より少しぐらい連絡を取らなくても謀反の心配をしな
くてすむのは大きい。冢宰白沢や尚隆自身もそう考えているはずだ。
 ただ、それどころではないとの大宰の言にも共感はしていた。なぜなら朱衡は今、光州
の帷湍よりはるかに王の様子が気にかかっていたからだ。
 いろいろ考えた末、朱衡は内々に白沢を訪ねて主君の様子を伝えた。もともと尚隆を心
配していたのは白沢のほうだったからだが、相手は意外にも「そうですか」と軽くうなず
いただけだった。
「冢宰? 主上が心配ではないのですか?」
「もちろん心配しておりますよ。しかしながら以前にもそういった話をしましたが、今回、
主上が大司寇にお心の一端を垣間見せたこと自体は悪くありません。台輔もそう思われる
でしょう」
「台輔が?」
「そうです。拙官が、そしておそらく台輔も恐れておられるのは、主上が心の奥底に闇を
かかえながらも周囲にそれを悟られず、ある日突然乱心するという事態だからです。それ
に比べれば、誰かに愚痴や弱音を吐くこと自体は悪い兆候ではありません。助けてほしい
という心理があればこその言葉ですからな」
 決心している者は何も言わず、淡々と実行するのみ。惑う者だけが周囲に救いを求めて
心中を漏らすのだ。
 だが朱衡は、平然とした顔で「王など首をすげ替えればすむ」と言い放った尚隆が良い
傾向だとは思えなかった。少なくとも平素と同じではないだろう。むろん二百年前の梁興
の謀反の頃に比べれば、今のところは言うほどの変化ではないが、なかなか状況が進展し
ないことで、さすがに少し苛立ってきたのではないだろうか。

572永遠の行方「王と麒麟(180)」:2013/02/26(火) 19:13:12
「しかし、そうすると拙官を含めてどう対処すれば良いのでしょう。見通しが立たないの
に根拠なく励ましても説得力に欠けますし、かと言って主上のおっしゃることに迎合して
も悪い事態になりそうです」
「さよう、やたらと励ましても逆効果でしょうな。しかしここはとにかくお心を語ってい
ただけるように努力するしかありますまい。口に出せば、それだけで気が晴れるというこ
ともあります」
「いたずらに迎合せず、かと言って頭から否定もせず、ですか。難しいですねえ」朱衡は
嘆声を漏らした。
「――そう。たとえば台輔が心から主上を信頼しておられたとか、そういう心情がわかる
証言でもあれば良かったのですが」
「信頼?」
「台輔なりのお考えあってのこととはいえ、主上に何の言伝もなかったのは非常にまずい
やりかたでしたからな」
 自分を見捨ててほしいとの六太の伝言は、極論すれば王にも官にも解決できないと、彼
らを役立たずだと言ったも同然だった。むろん皆が気に病まないようにとの配慮によるこ
とはわかっている。しかしあれはむしろ、何年かかろうと呪を解いてくれると信じている
とでも伝えるべきだった。それなら信頼に応えるべく歯を食いしばって粘り強く解決に当
たれるし、何より伝言自体が心の支えになる。
 しかし肝心の六太が諦めてしまっていては。麒麟なしでも主君の治世に何の陰りもない
との確信が、彼にとって王や諸官に対する究極の信頼のつもりだったとしても。

573永遠の行方「王と麒麟(181)」:2013/02/28(木) 19:32:02

 政務を終えて長楽殿の私室にさがった尚隆は、夕餉を済ませると早々に人
払いをし、用意させてあった酒に口をつけた。
 ふと杯を持ったまま傍らの卓に顔を向け、そこに積まれていた陽子からの書
状の山を眺めやる。
 六太は陽子と親しく交流していたとはいえ、付き合いとしてはたかが数年、
おまけに普段は離れて暮らしている。したがって持てる情報自体は限られてい
るはずだが、そのぶん記憶も残りやすかったのだろう。直接会って話した内容
については、いつ頃どのような話をしたのかかなり具体的に書き連ねてあった
し、書簡によるやりとりについても、六太からの返信も添付して詳細に説明し
ていた。中には慶の内情を推察できる言及もあり、さすがに無用心すぎるだろ
う、浩瀚は承知しているのだろうかと、若さゆえのまっすぐな気性に苦笑する
しかない尚隆だった。
 鳴賢に片恋の告白をした六太は、陽子にも、尚隆とはしなかった深い話をい
ろいろしていた。
 たとえば蓬莱の知識や技術を国政に生かせないかと陽子が相談した折、天の
理についても深く言及する形で助言していた。互いに蓬莱について詳しいから
こそだろうが、知り合って数年しか経たない他国の王相手にずいぶんと突っ込
んだ話をしたものだと思った。同じようなことを主である尚隆とはもっと話し
てもいいはずだが――考えてみれば、六太とはそこまで深刻に委細を話し合う
ことはなかったかもしれない。そもそも尚隆は、国政に生かすべく蓬莱の情報
を得させたことこそあるが、六太自身の助言を必要としたことは一度もなかっ
た。
 いずれにせよ書状を見るかぎり、陽子もまさか六太が恋に悩んでいたとは
思っていないようだ。このぶんでは鳴賢に教えられなかったら尚隆自身も気づ
かないままだったろう。
(ただ、六太の最大の願いが本当に恋の成就だったとしても、それは現実に国
が平らかに治まっているからだろうがな)

574永遠の行方「王と麒麟(182)」:2013/02/28(木) 19:35:40
 鳴賢は麒麟も人間だと言い、恋をして個人的な幸せを求めても不思議はない
と言った。だがそうなったのはやはり今の雁が平和だからだろうと、ずっと六
太を見てきた尚隆は思うのだ。
 幾度か謀反が起きたとはいえ、国土は豊かだし基本的には平和に治まってい
る。だからこそ六太もとりあえず民の幸せを脇にのけ、自分の恋情を育むこと
ができたのだろう。多くの民が難儀していれば、六太の関心は彼らを助けるこ
とに向くはずだし、それが麒麟という生きものに天帝が与えた性質だからだ。
つまり皮肉にも六太の望む太平が、結果的に片恋という苦しい状況を招いたと
も言える。
 しばらく酒杯をあおっていた尚隆は、六太の恋の相談に乗りながら酒を酌み
かわしてみたかったとしみじみ思った。男同士の腹を割った親密な対話ができ
たろうに。時にお互いをからかいながらも、恋の悩みを語りあい慰めあう。そ
のまま酒を過ごして、ふたりして酔いつぶれてしまってもいい。そういった光
景を思い描いてみると、そこには紛れもない憧憬があった。王は孤独で当たり
前だと割り切ってきたはずなのに。
 それにしても、六太の周囲に女の影がまったく見えないのが腑に落ちなかっ
た。いったい六太がここまで完璧に自分の心を隠せるとは。
「つくづく使令が残っておれば、な」
 ふとつぶやく。本質は妖魔である使令は、人の心の機微に鈍感なほうだ。し
かし六太の日頃の言動を見知っているのだから、いろいろと有益な手がかりを
得られたろうに。
 いったいどんな相手かと、尚隆は想像をめぐらせてみた。六太の性格。女の
影がまったく見えないこと。鳴賢に語った告白の内容……。
 只人なら相手は日ごとに老いていくし、尚隆の王朝に陰りがない以上、死ぬ
直前なら教えてもいいなどと言う必要もない。そこまで待たずして、相手のほ
うで人生を全うして去っていくからだ。
 ならば片思いの相手は仙で、それも正式な婚姻にせよ野合にせよ伴侶がいる
のだ。少なくとも六太に脈があるはずはない。脈があったなら麒麟の慈悲の性
(さが)としても想いの成就という動機からしても、自分ひとりで秘すことは
ないだろう。おそらく相愛になった上でふたりで秘するのではないか。

575永遠の行方「王と麒麟(183)」:2013/02/28(木) 19:39:59
 相手に寿命がなく、六太の想いは一方通行に過ぎない。しかし麒麟である以
上、その恋は王朝に混乱を招きかねない。だからこそ六太は、しっかりと口を
つぐんできたのだろう。
 もちろん相手の女性を守るためもある。民にとって現人神である尚隆が采配
すれば、六太の恋による混乱も即座に収められるだろうが、問題の女性は肩身
の狭い思いをするはずだし、相当悩みもするだろう。六太を恨む結果になるか
もしれない。何より望みのない自分の想いを知られる惨めさを何としても避け
たかったのだろう。
 だがその相手はどこにいるのか。鳴賢の想像もあって最初は地方の州城かと
も思ったが、朱衡の言うとおり、普段の六太が府第のたぐいに近寄らなかった
ことを考えると可能性はまずない。それに恋情というものは、相手が遠方に去
れば自然と冷めていくものだ。望みのない片恋ならなおさら。日々、顔を合わ
せてこそ、相手の姿や言動に刺激を受けて想いが持続するのだから。
 ということは、女の影がないという不思議はさておき、遠方ではなくこの近
辺、意外にも宮城にいるのではないか。突出して寵愛されている者はいないと
の仁重殿の女官の言がある以上、近習ではないと思われるが、逆に身辺近くに
いる相手だからこそ恋情を押し隠してきた可能性もある。とにかくまったく接
触がないことはなかろうから、ちょっとぐらい一緒にいて多少親しくしても、
周囲の目には不思議とも何とも映らない役職であるはずだ。
 それにしても六太は、いつから懸想を隠していたのだろう。開けっぴろげな
彼は基本的に隠しごとに向かない性格をしている。もしずっと年若い時分だっ
たら、尚隆にもうっかり漏らしていたはずだ。少なくとも誰か好いた女がいる
のではと、尚隆が感づく程度には言動に現われただろう。ということは、尚隆
にさえ自分の心を隠しとおせる擬態を身につけた年齢になってから――外見の
変わらない仙ばかりに囲まれていると精神的な成長の度合いも遅いものだから、
仮に市井の民の倍はかかるとして――分別のある四十歳の倍の八十歳くらいだ
ろうか。
 だがそれから四百年以上も懸想したまま押し隠してきたと仮定した場合、あ
まりの報われなさにさすがに哀れになった。相手が誰であれ、せめてここ数年
以内の話であってほしいものだ……。

576永遠の行方「王と麒麟(184)」:2013/03/02(土) 10:15:45

「主上。差し出がましいとは存じますが」
 ある晩、いつものように陽子の書状を繰っていた尚隆に、長楽殿の女官がお
ずおずと進言してきた。
「なんだ?」
「最近、御酒(ごしゅ)の量が多すぎるのではないでしょうか。あまり過ごさ
れますと、お体のほうが」
「そのことか」尚隆は苦笑した。「見てのとおり、陽子からの書状を遅くまで
読んでいるからな。単純に起きている時間が長くなったせいだろう。何か見落
としがないかと幾度も同じ書状を検分するし、それでいて紙をめくるだけでは
手持ち無沙汰になって、つい酒杯に手を伸ばすことになる」
 だが女官たちの心配そうな顔を見れば、その弁明を額面どおりに受け取って
いないのは明らかだった。尚隆は彼女らの懸念を軽く茶化して下がらせ、ふた
たび目の前の書状に取りかかった。
 口語調で親しみやすく書かれていたせいか、書状を読み進めるほどに、そこ
に記されている六太の様子が鮮やかに浮かびあがっていった。彼がこう言った、
ああ言った、金波宮でこんなことをやりたがった、こんなふうに助言してくれ
た――。六太の好みなど個人的な望みにつながりそうな事柄を中心に、起きた
こと、話したことが淡々と連ねてあるだけなのに、そのときの姿が眼前に甦る
ようだった。
 それはまるで――二度と会えない懐かしい人物の足跡を振り返るかのようで。
 やがて尚隆は吐息を漏らすと、疲れたように目頭を押さえた。実際、文面に
現われる六太の生き生きとした言動とは裏腹に、彼自身はここ数日でひどく疲
れた気がしていた。
 途中まで読んだ書状を傍らに投げ出した彼は、軽く頭を振ると椅子の背もた
れにもたれた。
 既に深更。疲労とともに眠気が訪れるかと思えば、逆に眠りから覚めたよう
な奇妙な気分だった。長い夢から覚めたというか、ふと我に返ったというか…
…。

577永遠の行方「王と麒麟(185)」:2013/03/02(土) 10:19:55
 がむしゃらにやってきた五百年。尚隆は今ようやく立ちどまり、六太の思い
出とともにみずからの足跡を振り返っている気がしていたのだった。
 陽子の書状には、ところどころ彼女の感想めいた記述もあり、六太が相手だ
と蓬莱の話題も少々の説明だけで普通に通じるから楽だった、延王がうらやま
しいと思っていたとも書かれていた。以前、援助の礼のために陽子が玄英宮を
訪れた折、六太に連れ出されて一度だけ海客の団欒所に行ったのだという。開
放日ではなかったため無人だったが、陽子はそこで六太と一緒に蓬莱の楽器を
懐かしく弾いた。普段は金波宮で蓬莱にからむ話を口にしないよう気をつけて
いる彼女だったから、知らず知らずにたまっていた鬱憤を発散できてかなり嬉
しかったらしい。
 説明不要で、もしくはちょっとした補足だけで故郷の話題が通じる六太は、
確かに尚隆にとっても楽な相手だった。だが今、陽子がうらやんだ半身は尚隆
の傍らにいない。
 そもそも麒麟は天帝から王への贈りものでもあるのではないか。治世が続く
かぎり、傍にいることが保証されている半身。決して裏切らない臣下。寿命を
知らず権力の頂点に立ちつづけねばならない者にとって、有能であると否とを
問わず、そんな存在は得がたくもありがたいものだ。どんな場合においても、
絶対的な孤独に陥ることは避けられるのだから。
 だがこのまま六太の目が覚めないとなれば、尚隆はひとり遺されたも同然
だった。他国の王が当たり前のように持っている半身がいないのだ。
 もし六太が逆の立場だったらどうしたろうと考える。言伝のひとつもなく、
半身を失ってひとりで国を治めることを強制されたら簡単に受け入れられただ
ろうか。
 そうではないだろう、と思う。六太とて多大な衝撃を受けるはず。だが彼は
尚隆に対してそれをやったのだ。
「見捨てられたか……」
 力のない声でつぶやく。六太がそんなつもりではなかったのはわかっていた
が結果は同じことだ。要は愛する女性を守るために呪者に屈したのだから。
 自分は今、切実にひとりだと尚隆は思った。

578永遠の行方「王と麒麟(186)」:2013/03/03(日) 10:06:29

 秋の雨季が終わり、冬が到来した。年が明ければすぐ、幇周の事件から一年
が経ってしまうというのに、六太に関しては相変わらず進展はなかった。
 もっとも主君は大して気にするふうもない。この際だから六太の周囲を綺麗
どころで固めてやれと言いだすなど、少なくとも表面上は相変わらずのんき
だった。六太自身も悪い気はするまいとのことで、これまでの近習はそのまま
に、ちょっとでも六太と私的なやりとりをしたことがある女官を日替わりで侍
らせてやれと。そうやって美女にちやほやされれば起きてくるかもしれないと
気楽そうに笑い、「良い考えだろう」と胸を張っていたが、自分が見舞いに行
く際も目の保養になると口を滑らし、どうやらそちらが本音のようだった。今
さら女官に手を出して後宮に美女を蓄える気になったわけでもあるまいが。
 害になることではないため王の意向を受ける形で処理し、加えて先日からは
春官府の占人や筮人も冬官らの作業に加わり、呪を解く鍵がどういった性質の
ものか、神意にすがる形で探るべく試行錯誤を続けている。解呪に関わってい
る冬官、春官の大半は六太の望みが鍵であることを知らされていないが、この
種の呪の基本的な考え方として「何らかの解除条件が設定されているはず」と
の想定自体はなされていたからだ。今のところ結果は芳しくなかったが、それ
でも手がかりが得られる可能性はあった。
「新年の各式典ですが、どうしたものでしょう。主上は例年通りでいいとおっ
しゃっておいでですが」
 朝議のあと、立ち話のついでにそんなふうに溜息をついた大宗伯に、朱衡は
「今はそれでいいのではないでしょうか」と答えた。
「下界はとうに謀反の件を忘れていますし、宮城でも、明日にも台輔がお目覚
めになるかもしれない。お気持ちはわかりますが主上がお望みである以上、努
めて普段どおりにふるまうことです」
「あまり新年を祝う気にはなれませんがねえ……」
 頭を振り振り立ち去った大宗伯を見送った朱衡は、みずからもつい溜息を漏
らした。自主的に謹慎している体の帷湍の上洛はないことが確定したので、州
侯の送迎や接待も役目である秋官府の負担はそのぶん減る。しかし正直なとこ
ろ、かつての朋輩と遠慮のない愚痴話をして発散したかったという思いもある。

579永遠の行方「王と麒麟(187)」:2013/03/03(日) 10:10:39
 何しろこのままでは、元会儀礼という元日の重要な儀式に麒麟の姿がないこ
とになってしまう。下界で大々的に式典を行なう節目の年に当たらないのが幸
いだが、長々とした儀礼の中には各地に現われた瑞祥を奏上して王の治世を讃
える部分もある。竜の形をした彩雲が現われただの白雀が現われただのを数え
あげ、吉祥として祝うのだ。だが麒麟の不在は、どんな瑞祥があろうとすべて
を打ち消す。
 それともこの状態が長く続けば慣れて何とも思わなくなるのだろうか。既に
下位の官たちが、意識的にせよ無意識にせよ宰輔の不在を忘れているように見
えるのは確かだが……。

 陽子によれば、これまで六太が雑談がてら彼女に助言したことは多岐に及ん
でいた。たとえばかつて陽子が提案した『大使館』に関連して、各国が交流す
ること自体は良いことだと言ったらしい。
 なぜなら自然と王同士も交流できるようになるから。麒麟はしょせん次点で
あって、国の頂点に立つ王の気持ちはわからない。わかるとすれば、同じ立場
の他国の王だけ。むろん相性もあろうが、同じ立場で話せる相手と交流するこ
と自体は悪くない。少なくとも刺激にはなるだろう。王が精神的に追い詰めら
れるのは、そういったはけ口がないからではないか――そんな話をしたのだと
いう。
 いつものように手がかりが隠れていないかと書状を再読していた尚隆は、そ
んな逸話に苦笑を禁じえなかった。自分の主のことは突き放すくせに、相変わ
らず陽子には親身なやつだとおかしく思う。
 六太がその種の気遣いを尚隆に示したことはない。おそらく麒麟の甘い考え
は、まだまだ国政というものの厳しさを知ったとは言えない未熟な陽子のひた
むきさと相性がいいのだろう。
 六太が海客の団欒所によく出向いていたことを彼女が知っていたのも親しく
つきあっていたせいだ。もちろん靖州侯として認可して設置した場所だから、
官も尚隆も団欒所の存在自体は認識していた。しかし詳細までは気にかけてい
なかった。ところが陽子は六太に連れられてこっそり出向き、一緒に蓬莱の楽
器を弾くようなこともした。よく入り浸っていることは尚隆にも秘密だと六太
に悪戯っぽく念を押されて。

580永遠の行方「王と麒麟(188)」:2013/03/03(日) 10:13:48
「秘密、か」
 ふ、と笑う。鳴賢や陽子といった、うち解けて年数の浅い者たちが六太に口
止めされるほどの秘密を打ちあけられていたというのに、自分は一度もそんな
ことはなかったなと、一抹の淋しさとともに振り返る。むろん陽子の場合は親
しい者同士の内緒話程度の軽いものだ。何しろ理由は、宮城から逐電したはず
の六太が国府にいる可能性を知られたくないという単純なものだったのだから。
だからこそこの事態に陽子も隠さず伝えてきたのだろう。
 それでも六太が「秘密だ」と言い、尚隆にも話すなと口止めしたのは事実。
 ――おまえにとって俺はいったい何だったのだろうな。
 尚隆は慨嘆した。
 自分たちには五百年の絆があるはずだった。だがこうなってあらためて考え
ると、本当にそうだったろうかと疑問を感じた。
 他国の王と麒麟に比べ、多少の問題はあっても総じて仲良くやってきたつも
りだったし、周囲からもそのように見られていた。何と言ってもこれだけの歳
月を一緒に過ごしてきたのだ。
 しかし実のところは単に契約と麒麟の本能で縛られた主にすぎなかったのか
もしれない。六太と自分の距離は、尚隆が考えていたよりずっと遠かったのか。
 六太のことは何でも知っているつもりだったが、海客の団欒所での話と言い、
蓬莱の楽器のことと言い、実際は知らないことばかりだった。単に相手のこと
を知っていると思いこんでいただけだった……。
 その昔、蓬莱にいた頃、行き倒れているのを拾った子供に、問われるまま自
分のことを頓着なしに語ったことを思いだす。逆に子供は自分のことを一切話
さなかった。この世界に来て蓬山に赴き天勅を受けてさえ。
 だが……思えば尚隆のほうも、あえて六太に事情を尋ねなかった。だから相
手のことを知っているようで知らなくても当然だし、そのことで六太を責める
のはお門違いだろう。
 これまで六官らも六太の望みについて思い当たることをいろいろ述懐したわ
けだが、その機会に朱衡は初めて、以前、六太が「王なんて存在は民を苦しめ
るだけだ」と言い放ったのを聞いて驚いたことがあると口にした。そして蓬莱
で庶民として生まれ、戦乱を嗜むその土地の為政者に相当苦しめられたことを
簡単に打ち明けられたと。翻って尚隆も六太に「俺は王が嫌いだ」と言われた
ことこそあるが、軽く受け流してそれ以上問わなかった。だから庶民の生まれ
であることも知らなかった。

581永遠の行方「王と麒麟(189)」:2013/03/03(日) 10:16:55
 要はその差だな、と冷静に分析する。朱衡は尋ねた、尚隆は尋ねなかった、
単純にそれだけの話だが、そのこと自体が尚隆と六太の距離感と互いへの執着
のなさを示していた。結局、自分たち主従は遠いところにいたのだ。事実、尚
隆には六太の真の望みなど思い当たらず、鳴賢に言われて初めて色恋の可能性
を考えたではないか。
 正直なところ、どこの誰とも知れぬ女性への想いについて、なぜ自分に相談
しなかったのかと問い詰めたい気持ちはある。しかし六太のほうでは主君とし
て以外に尚隆を認識していなかったのなら、私的な相談事を持ちかける対象か
ら外れても当然だ。同じ王でも、陽子にはあれだけ親身に接していたのだから、
差は歴然としている。
 それに――。
 おそらく仮に相談されていたとしても淋しさは覚えたに違いない。いつまで
も子供だと思って庇護していた存在が、いつのまにか大人への階段を上ってい
たことへの保護者の平凡な感慨のたぐいだろうが……。それとも王の半身とさ
れる麒麟でさえ生命を賭けた恋情を赤の他人に向け、国と主君をないがしろに
しかねない現実に直面して、だろうか。
 勝手に裏切られた気分になっていたことに気づき、尚隆は自嘲気味にまた低
く笑った。これまで私人としての六太に理解を持っていたつもりだったのに、
深層心理では麒麟の思考のすべては国と王に向かうべきとの意識があったのか。
 彼は膝の上の書状を脇にのけた。そうして酒を満たした杯に手を伸ばそうと
し――ふと自分でもわからない引っかかりを覚えて書状に目を戻した。何か…
…今、気になることがなかったか? 眉根を寄せ、先ほどまで何を考えていた
かを思いだす。朱衡のこと――陽子のこと。そうだ、尚隆にはそっけないのに、
陽子には親身だった六太……。
 そのとたん、靄か霞のようにおぼろだったものが不意にくっきりと輪郭を
持った。
「まさか……」
 ここに至って彼は、六太に女の影がないというのが思いこみに過ぎないこと
に気づいた。なぜなら頻繁に書簡をやりとりし、時には実際に慶に訪ねてさえ
いた陽子も女だからだ。それも妙齢の。相手は他国の王だし、いくら親しくて
も単なる友人、せいぜい擬似姉弟としか思わなかったが……。

582永遠の行方「王と麒麟(190)」:2013/03/03(日) 20:42:32
 尚隆はめまぐるしく思考を回転させ、これまでの六太の言動と鳴賢の話、さ
まざまな事実から導きだした推測を逐一照らし合わせた。そしてまったく矛盾
しないこと、むしろすべてが符合することに愕然とし、冷水を浴びせられた気
がした。
「――待て!」
 先走る思考を咎めるように鋭い言葉を発する。酒杯の代わりに書状を手に
取った尚隆は、しかし文面に目を走らせることなく、そのまま力をこめて握り
つぶした。気づいてみれば、女の影がないどころではない。単に尚隆が見逃し
ていただけではないか。きっと同じように見逃していることもたくさんあるの
だろう。
 ――もし六太の懸想の相手が陽子ならば。
 他国の王への麒麟の片恋……。
 ――確かに口をつぐんでいるしかなかろうな……。
 長い時間が経って大きく息を吐いた尚隆は、ふたたび書状を脇にのけると椅
子の背もたれに力なく寄りかかった。静寂の中で疲れたように片手で目を覆う。
自分が六太でもそうしただろうと納得し、初めて六太の決意と絶望を理解でき
た気がしたのだ。
 陽子の書状には友人の危難を気遣う思いこそあふれていたものの、色恋どこ
ろか、恋情に育ちそうな甘い感情はかけらも見当たらなかった。だからこそ尚
隆もこれまでその可能性に気づかなかったのだが、要は六太の想いが報われる
見込みはないということなのだろう。
 相手は他国の王であり、それも片恋にすぎない。明かしたとて先方は困惑す
るだけだろうし、雁の官はといえば動揺は避けられない。尚隆とて、自分の主
にはそっけない麒麟が他国の王に恋の激情を向けて慕ったら、さすがに複雑な
気持ちになったはずだ。
 一目惚れという言葉もあるくらいだから、過ごした時間の長短と恋の芽生え
とは関係ない。しかし六太が尚隆に心を許すまで何十年もかかったことを思う
と、数年のつきあいしかない陽子にすぐに打ち解けたことと言い、尚隆はこれ
まで以上にやるせない気持ちになった。それは鳴賢に話を聞いたときの驚愕と
も、傍らに六太の姿が見えなくなったことへの苛立ちめいた淋しさとも違う。
限りなく絶望に近い静かな衝撃だった。

583永遠の行方「王と麒麟(191)」:2013/03/03(日) 20:44:38
 ある意味で愚直な陽子は、麒麟の好みだとは言えるかもしれない。かつての
泰麒探索の折、臣下の前ですら、王位に執着していない態度を見せた彼女はま
だまだ配慮が足りない。官や民にとって王位は至高のものなのに、それを軽ん
じているように見えれば反感が生じるからだ。しかし何かと配慮が足りないの
は六太も同じ。若いだけに純粋で、誰に対しても誠実であろうとする陽子の言
動は、為政者としては足をすくわれかねない危険なものだが、それゆえに麒麟
にとっては好ましかったのかも知れない。
「ふふ……」
 尚隆はつい笑いを漏らして天井を仰いだ。
 結局は誰も王としての尚隆しか求めていないのか。一番近しい存在だと思っ
ていた六太でさえ、尚隆に求めるのは王としての価値だけだったのだろうか。
 だがそもそも尚隆のほうでも他人と距離を置いてきた。王としてならともか
く個人としての彼は、誰かの懐に飛びこんだこともなければ、本気で誰かを受
けとめたこともない。だからこそ誰にも頼らず自分の足だけで立っているつも
りだったのだが……。
(本当は違ったのかもしれんな)
 ひとりで立つどころか、傍らに六太がいないだけで、六太が陽子に懸想して
いたかもしれないと考えただけでひどく淋しかった。
 他国の王と麒麟と異なり、年がら年中一緒にいたわけではないし、そもそも
別々に逐電することの多いふたりだった。それでも、いずれ必ずあの悪戯めい
た笑みを見られることを疑わなかったからこそ、安心して出奔できていたのだ
ろうか。
 互いの意思とは無関係に六太が尚隆から離されたのは、考えてみれば遙か昔
の斡由の乱で人質にされたときだけだった。あのとき誰に心中を明かさずとも、
内心ではここが正念場だと覚悟していた。ただ元州が黒幕だとわかり、六太の
生存を確信できたから息をつけたに過ぎない。玄英宮の諸官は斡由との一騎打
ちが目的だったと考え、六太自身も自分の救出はついでだったと捉えていたよ
うだが、尚隆にとってはどちらも自分の生命をかけた大勝負だったのだ。
 斡由の乱から過ぎ去った歳月をしみじみと振り返った尚隆は、ずいぶん遠く
まで来たものだなあとぼんやり考えた。

584名無しさん:2013/03/04(月) 09:54:32
投下乙!

てっきり陽子はチョイ役(雰囲気作りの顔出しだけ)と思っていたら・・・!
てか尚隆鈍すぎるよw

585永遠の行方「王と麒麟(192)」:2013/03/05(火) 20:17:52

 新年の慶賀の儀式は無事に執りおこなわれた。諸官がまとう礼装の色彩は重
厚かつ華やかで、一見しただけでは昨年との違いは何も窺えなかった。
 その一方で、春官府の占人らにより仁重殿にひっそりと小祭壇が築かれ、新
年に先立つ七日間の潔斎ののち、元日の祭祀と時刻を合わせる形で種々の占卜
が行なわれた。解呪条件を突き止めるためだ。
 占人が占うのは普通は吉凶であり、それゆえ不明の事柄を特定する目的に用
いるのは少々無理があった。しかし重要な神事である新年の祭祀と同時に行な
うことで天帝の加護を得られるのではと期待したのだ。
 公式の式典において冢宰や大宗伯が顔を見せないわけにはいかず、比較的手
の空いていた大司空と大司徒が占卜に立ち会った。筮竹や亀甲、鹿の肩骨と
いった占具に現われた占形(うらかた)に春官らは頭を寄せて小声でささやき
あい、ああでもないこうでもないと協議した。
「『明白な事実に留意せよ』ですか。意味深ですね」
 儀式の合間に結果の報せを受けた朱衡は眉根を寄せた。その場にいた冢宰や
大宗伯らも考えこむ。
「しかし何やら期待が持てそうな占形ではある。ちょうど主上も次の典礼のた
めの着替えで退出しておいでになりましたから、さっそくお知らせに上がりま
しょう」
 そう言った冢宰と連れ立ち、朱衡はあわただしく主君のもとに向かった。
 だが尚隆の反応は薄かった。奏上された短い占文にちらりと目を遣り、「な
るほど」と言っただけ。
「もちろん解呪の条件そのものがわかったわけではありません。しかし眼前に
ある明白な事実をそれゆえにうっかり見逃しており、それに気づきさえすれば
いいという意味なら期待が持てます」
 朱衡が補足したが、大仰な祭服に肩が凝ったらしい尚隆は別の装束を調える
女官らに目をやり、うんざりといった様子で溜息をついていた。
 そもそも年が明ける前から、解呪に対する尚隆の反応は明らかに淡白になっ
ていた。焦燥に駆られていないのはむしろ結構なのだが、六官に任せきりで、
既に関心を寄せていないとさえ見える。

586永遠の行方「王と麒麟(193)」:2013/03/05(火) 20:35:06
「まあ、せっかくの新年だ、あまり根を詰めるなと言ってやれ。――ああ、そ
この酒でも占人に持っていくといい」
 極彩色が施された儀典用の華麗な酒壷を顎でしゃくった主君に、朱衡は内心
で拍子抜けしながらも「はい」と応えた。
「主上は我々を信頼してくださっているのですよ。気ばかり焦っても仕方あり
ませんから、ああして泰然と構えてくださるのが一番ありがたい」
 御前を退出して仁重殿に赴く途中、白沢はそう言って笑った。朱衡は釈然と
しないながらも、「とりあえず様子を見ましょう」との言にうなずいた。確か
に下手に首を突っ込まず、すべて臣下に任せてくれるなら面倒がない。それに
ここに至るまで、尚隆自身もいろいろ推測や案は出していたのだ。下界での聞
き取りは言わずもがな。もしかしたらそうやって手を尽くしたことで真に長期
戦の覚悟を決め、一時の苛立ちが治まったのかもしれない。
 王から銘酒を下賜された春官らは感激し、いっそうの意欲を示した。その様
子を見て、朱衡はこれはこれでうまく回っているということだろうと考えた。

 しばらくは平穏な日々が続いた。いろいろと危惧していた朱衡だったが、新
年の儀式に麒麟が不在でも結果的に不都合が起きなかったという事実は、下位
の官をかなり安堵させたようだった。各地に現われた瑞兆の奏上もきちんとな
されたし、占卜でも凶兆は現われていない。少なくとも天帝は王を見放しては
いないのだ。
 そう考えると、もともと六太の「自分を見捨ててくれ」との伝言や蓬山のお
墨付きの件もあり、このまま平穏無事に過ぎていくのではと、何とはなしに
ほっとした空気が漂うようになった。
 まだ禁足は解かれていないが、もともと雲海の下で常勤する下吏はそう簡単
には宮城に来られない。事情を知らない外朝の諸官からすれば、謀反があった
せいか、まだ警戒が厳しいようだ、程度の認識だったかもしれない。
「『明白な事実』というからには、既に周知の材料の中に手がかりがあるはず
だ。聞き取りした内容は膨大なものだが、端から当たっていけば、遅かれ早か
れ大当たりを引き当てるだろう」

587永遠の行方「王と麒麟(194)」:2013/03/05(火) 20:56:39
 仁重殿での占卜の結果について六官はそう分析し、作業の冬官らをねぎらい
つつ発破をかけた。その様子に王は特に口出しをせず、鷹揚な笑みでもって臣
下らに任せた。
 そうこうするうちに関弓にも遅い春がやってきて、玄英宮諸官の禁足も解か
れることになった。執務室の玻璃の窓ごしに、やわらかな陽光を眺めやった尚
隆は、「春だな」とぽつりとつぶやいた。ちょうど御前に侍っていた朱衡は
「はい」と答え、主君の言葉の続きを待ったが、尚隆は黙って書類に視線を戻
し、政務を続けた。
 それからまたしばらく経ったある日。
 秋官府が担当する朝議の草稿の奏上のため、朱衡は執務の合間に内殿に赴い
た。そして諸事に主君の了承を得、大司寇府に戻るべく退出しようとした。
「五百年」
 ふと主君の静かな声が響いた。朱衡が振り返ると、尚隆は窓辺に立って背を
向けていた。
「よくもったと思わんか?」
 一瞬凍りついた朱衡は、それでも平静を装うことに成功し、「まだまだこれ
からでございますよ」と返した。尚隆は振り向き「そうか」と苦笑した。
 そうして余裕の態度で退出した朱衡だったが、大司寇府に向かいながら眉を
しかめ、「まずいな」と口の中でつぶやいた。
「思ったよりこたえておいでだ……」
 尚隆が官に弱音を吐くなど滅多にあることではない。愚痴や弱音を吐くこと
自体は悪くないと白沢は言ったが、これは明らかに悪い兆候だろう。以前の、
王の首をすげかえるという話のときはまさかと思ったが、その後は落ち着いた
ように見えていたのに。
 しかし考えてみれば、あの主君にしては最近は妙に静かだった。相変わらず
宮城に留まってはいるものの、仁重殿への訪問は間遠になっているらしく、先
日朱衡が訪ねた際は六太の近習が嘆いていた。かといって解呪に努力する官ら
の元に赴き、首を突っ込むわけでもない。政務以外はじっと正寝の奥深く鎮座
するという、これまで諸官が王に望んで果たせなかった品行方正な態度でいる。

588永遠の行方「王と麒麟(195)」:2013/03/05(火) 21:20:11
 何かあったのだろうかと、朱衡は首をひねりつつ記憶を探った。しかし六太
が臥せって以来、尚隆はほとんど宮城に留まっていたわけで、変わった出来事
は聞こえてきていなかった。外出したとしても、市井や大学で心当たりに聞き
取りをするためのものだったし、それも最近は絶えていた。思い当たるのはせ
いぜい、以前に鳴賢が深刻な語調の書簡を寄越したことぐらいだが――あとで
尚隆が笑いながら、詳しく聞いたところ彼の思いこみだったと言ってきた。六
太を助けられなかったことで自責の念に駆られ、失恋の痛手もあって、些細な
ことを深刻に悩んでくよくよしていたらしい。おかげで時間をかけてたっぷり
慰めなければならなかったとぼやいていた。
 また白沢に相談しなくては、と朱衡は暗く考えた。相談しても何にもならな
いかもしれないが、少なくとも六官を統べる冢宰には主君の状態を把握してお
いてもらわねばならない。
 それにしても当初から、数年、最悪の場合は数十年もの長丁場さえ覚悟して
泰然としていたと思われる主君なのに、一年も経たないうちに悪い兆候が現わ
れたことは意外だった。むろん麒麟の不在自体は一大事だが、幸いなことに緊
急性はないし、占卜の結果を信ずるなら見通しも暗くない。
 ――いや。
 その考えが楽天的に過ぎることにようやく気づいた朱衡は、表情を引き締め
ると厳然と認識を正した。
 占卜というものは大抵どうとでも受け取れる内容であるものだが、あの占形
も同じだ。身のあることを言っているようで、実際は何も言っていない。有力
な情報が俎上に上がっているかどうかはもちろん、方向性が正しいのか誤って
いるのかもわからない。何となく悪くない印象を受けただけで根拠は何もない
のだ。
 そもそも「お告げ」のたぐいで事件が解決するなら苦労はないだろう。それ
くらいなら蓬山の女神・碧霞玄君が早いうちに有用な助言をしてくれたはずだ。
むしろ占形に囚われることで調査に予断を与えてしまい、悪い結果を導く可能
性を懸念すべきかもしれない。

589永遠の行方「王と麒麟(196)」:2013/03/05(火) 21:31:37
 それどころか――。
 占文にあった『明白な事実』とは、六太を目覚めさせる方法はないのだから
諦めよという冷酷な宣告としても解釈できるではないか。
 朱衡は愕然とした。主君が関心を寄せなくても当然だ。
 いずれにせよ六太を助けたいという心情や、一年に渡って力を尽くしてきた
以上、少しずつでも真実に近づいているはずだという期待をいったん脇に置い
て冷静に考えると、何が解呪条件か皆目わからないのが現状だった。進展した
ように見ても、あくまで作業に携わる諸官の願望でしかない。厳然と事実のみ
を並べた場合、事態は当初からまったく動いていなかった。
 冬官たちがいろいろ試行錯誤しているため、手立てが尽きたとは言えない。
しかし解決に向かっている保証がまったくない以上、冷笑的な者なら、見切り
をつけるまでの単なる時間稼ぎだと言うだろう。すべては「六太の最大の望み
がわからなければ打つ手はない」という厳しい現実に帰結するが、いまだに見
当さえついていないのだから。なのに先の占形の件は、実質的に毛の一筋ほど
も事態が改善していないのに、根拠のないまま楽観的な見通しを主君に報告し
たことになる。
 それで尚隆は、逆に先行きに期待が持てないと悟って滅入ってしまったのだ
ろうか。単なる願望でしかないものを嬉々として報告するほど救いがない状況
なのだと。
 しかしそうすると、もともと内心でかなりの打撃を受けていたということだ。
だがあの主君がそこまで繊細だろうかと考えると、どうにも朱衡にはしっくり
こなかった。政治は綺麗事ではない。王として冷静に割り切ることも厳しく断
罪することも限りなくこなしてきた尚隆だったのだから。
(他に何かあるのだろうか……)
 朱衡は動揺のままにあれこれ考えたが、むろん心当たりはなかった。

590書き手:2013/03/05(火) 21:33:42
今回の投下はこんなところで。
「尚隆はこんなにぐるぐるしない!」という人ごめんなさい。
次回以降、もっとぐるぐるします。

591名無しさん:2013/03/06(水) 03:09:57
連日沢山投下ありがとうございます&乙です姐さま!
しみじみ孤独なのだと悟ってしまった尚隆、切ない…
そしてまさかの陽子ラブ、たしかに点と点を繋げると!
王様まできただけ大分近いとみるべきでしょうかな……。

592名無しさん:2013/03/08(金) 23:47:11
序章が丁度この頃、という感じでしょうか?
ぐるぐるする尚隆・・・精神的に追い詰められる尚隆・・・イイ!!
尚六いちゃいちゃが早く見たいけど孤独に苛まれる尚隆も見ていたいジレンマ
次回のぐるぐる悶々な尚隆楽しみにしています!!

593書き手:2013/03/10(日) 13:10:20
>序章が丁度この頃、という感じでしょうか?
そうですね、もうちょっと尚隆がぐるぐるして、「序」章はその後という感じです。
あえてきっちりつなげることはしませんけど。
にしても書き始めたときは、まさか五年もかかるとは思いませんでしたw

次回は、早ければ今月中、遅くても来月には投下します。

594永遠の行方「王と麒麟(197)」:2013/03/20(水) 09:32:38

 眠る六太の傍らで、ひとり静かに腰かけた尚隆は、ふう、と小さく息を吐い
た。
 彼には鳴賢が楽観したような、「お慕いしています」程度の言葉を聞かせれ
ば解ける呪とは考えられなかった。何を恨んでいたにせよ、長い時間をかけて
周到に準備した呪者が、偶然解ける可能性のある条件を採ることはないだろう。
少なくとも何らかの能動的な行為、おそらく身体的な接触は必要なはずだ――
性交かどうかはともかく。
 陽子は生娘だろうな、と尚隆は重い気持ちで考えた。あの六太が生々しい行
為を望んでいたとは思わない。とはいえこのまま他に心当たりを思いつけない
なら、可能性を完全に除外するわけにはいかないのではないか。
 鳴賢との約束もあり六太の懸想を明かすつもりはないが、もっともらしい言
い訳さえ考えられれば、生真面目な陽子は逆に覚悟を決めて同衾してくれる可
能性はあった。今、雁に何事かあれば、慶も共倒れしかねないからだ。
 だが慶の諸官に話が漏れたら大変なことになる。景麒への恋着から暴君と
なった予王の記憶のせいで、ただでさえ女王の色恋沙汰に厳しい国柄だ。また
もや相手が麒麟、それも今度は他国の麒麟となれば、民や官の幻滅と反感を招
くのは必至。そうなればまだまだ足元が固まっていない赤楽王朝にとって致命
傷となりかねない。目覚めた六太自身、罪悪感に駆られて苦しむだろうし、
却って陽子と疎遠になるかもしれない。計らった尚隆との関係に至っては、想
いの深さの反動から言っても確実に悪くなるだろう。そうなればたちまちのう
ちに歪みが蓄積し、雁の王朝もきしみを上げ始めるに違いない。
 そして――それでも呪が解ければまだしも、見込み違いで解けなかったらそ
れこそ悲惨だ。
 こればかりは単なる試みや、だめでもともとという考えでやっていいことで
はない。必ず呪が解けるという確証が必要だった。
 だがあれからずっと考え続けていた尚隆にはわかっていた。慶を、他国を巻
き添えにしてはいけないことを。王としての決断を下すなら、このまま口を閉
ざして語らず、陽子はもちろん誰にもほのめかすことさえせず、六太自身の望
みどおり彼を放置すべきであることを。だがその選択を脳裏に浮かべた尚隆は、
即座に嫌だと思ったのだった。

595永遠の行方「王と麒麟(198)」:2013/03/20(水) 09:45:21
 このまま六太を見捨てる。半身を切り捨てる。何もかもを――諦める。
 一緒に出奔した日々。楽しかった道中。喧嘩と仲直り。
「なぜ、俺に言わなかった」
 昏々と眠り続ける六太に、尚隆は吐き捨てるような口調で問いかけた。せめ
て六太の想い人が陽子だという確実な証拠があれば、誰の心情も傷つけない方
法を模索できるかもしれないのに。
 だが今の状況では、あまりにも繊細な事柄ゆえに、六太の片恋にからむ話題
は何であれ考えることさえ危険だった。第一、六太の生命が危ういならまだ言
い訳のしようもあるが、まったく問題はないのだ。
 鳴賢が口にした、蓬莱で親に捨てられたという経緯を思い出す。捨てられた
ことを恨みもせず、家族が生きながらえるために、みずからの死を受け入れた、
たった四歳の子供。
 二度と目覚めないという呪を受け入れた六太は、そのときと同様、死を甘受
したのと同じだ。肉体的な死がありえないことを術者にしつこく確認したのは、
単にそれが王の命とつながっているがため。王の死は簡単に国の荒廃につなが
るため。仮にそうでなかったとしたら、真の死すらあっさり受け入れたのだろ
う。見知らぬ他人の命さえも哀れんでしまう彼は逆に、自らの安全や命に対し
て、ある意味では非常に無頓着だった。しかし。
 たとえ六太が陽子に懸想していたとしても。
「俺にとって、おまえ以上に大切な者などおらんのがわからんのか……!」
 ついに尚隆は苦悩の声を上げた。
 答えはなかった。

 草木が瑞々しく萌えいずる春だった。宮城の殿閣も華やかな色彩に飾られて
いるはずだった。
 なのにこの褪せたような風景は。
 窓辺でひとり園林を眺め渡していた尚隆は、不思議だな、とぼんやり考えた。
最初は必ずや呪を解く方法を見つけると意気込んでいたし、確信してもいた。
しかし六太の覚醒は望めないかもしれないと覚悟せざるを得なくなった今、傍
らに彼がいないだけですべてが無彩色になったようだった。
 冬官たちが日々努力しているのは承知している。しかし現実には事件以来、
何の進展もないのだ。そして誰も六太の懸想を想像してもいない。相手が陽子
かもしれないということも。元日にもたらされた占形とて、実際には身のある
内容はまったく示されていなかった。

596書き手:2013/03/20(水) 09:52:36
こんな感じで、またしばらくちまちま投下していきます。

597永遠の行方「王と麒麟(199)」:2013/03/23(土) 00:37:00
 だが尚隆は官の精勤に水を差すつもりはなかった。解決に向けて努力し続け
る限り、彼らが真に絶望に駆られることはないだろうからだ。そしてそのうち
自然と、誰にとっても六太の不在が当然の状態になる。
 いや、既に宮城でも、解呪に携わらない大半の者にとってはそうなっている
と言えるだろう。それでも新年の慶賀を一区切りとして、王に障りがないこと
を確信したらしい官の多くが安堵して見えるのは幸いだった。あるいは水面下
では、万が一のために不正に蓄財をもくろむ輩も出てきているかもしれないが、
明らかな傾国の兆候が見えるまでは大事に至らないはずだ。
 尚隆は毎日機械的に政務をこなしていた。冢宰や六官の働きには不足もなく、
尚隆の決断を必要とする事態も起きていない。吟味され、奏上された書類を承
認すればそれで済む。その陰でほとんどの官は、主君の鬱屈の度合いが静かに
進行していることに気づいていなかった。
 尚隆は時折、ふらりと仁重殿を訪れて六太を見舞った。冬官たちが詰めてい
たり黄医による診察の時間帯は避け、最近では女官たちと談笑することもなく
すぐに人払いをし、ただじっと半身の眠る姿を見つめて過ごした。
 ――本当に陽子なのか。
 心の中で幾度も問いかける。そしてもしや自分を見捨てろとの伝言は、今の
尚隆の状況を見越してのことだったのだろうかと考えた。陽子のために。慶の
ために。呪にかけられる直前、六太が気遣ったのは、果たして隣国の女王のこ
とだけだったのか。
 だとしても、尚隆ならひとりでも大丈夫だと信頼してのことだったのだろう。
しかし買いかぶりすぎだと思うのだ。これまでどれほど後悔を重ねて生きてき
たか、尚隆自身が一番よく知っていた。
 ある晩、数日ぶりに仁重殿を訪れると、六太は横たわったまま薄目を開け、
放心しているように見えた。だがその目は何も映しておらず、焦点が結ばれる
ことはないのだ。頬に掌を添わせても反応はない。普通なら額を触られるのを
嫌がるのに、これまた無反応だった。呪者の残した言葉通り、人形と何も変わ
らない。しかしながら温かな血の通う肉体を前にして、たとえ心はここになく
とも人形だと思うことは難しかった。
「何が望みだ」
 ぽつりとつぶやく。しかしその言葉は空しく牀榻の壁に吸い込まれて消えた。
尚隆は椅子に座ったまま、伏せた顔を片手で覆い、苦悩の吐息を漏らした。

598永遠の行方「王と麒麟(200)」:2013/03/23(土) 10:38:58
 決断、というほどのことはない。このまま手をこまねいていれば、おのずと
六太は見捨てられる。しかしそうすべきだという王としての理性と、個人とし
ての感情はいまだに折り合いがつかなかった。
 それでいて焦りがあるかと言えば、不思議なことに逆なのだ。理性と感情の
狭間にあって、どちらにも行けない今、心中はむしろ凪いでいた。それは平静
というより、亡国もやむなしとする諦めの境地に近い。これからの人生を半身
たる麒麟なしで孤独に生きることを考えると、王朝に対する未練は自分でも意
外なほど感じなかったからだ。
 積極的に死にたいわけではない。しかしあらためて終わりのない生と王の重
責を思うと、いかに雁を愛していても気が重いだけだ。ここまで国を繁栄させ
るのも相当な苦労だったのだから。
 そもそもこれだけ長く生きたのだ、いつ死んでも文句のあるはずはない。そ
ういえば六太も同じことを鳴賢に語ったのだったか。
「五百年、か」
 乾いた声でふとつぶやく。われながらよくぞここまでもったものだと、尚隆
はしみじみ思った。
 潮時なのか、とも考える。これは寿命のない王に対する運命からの宣告の一
種なのか。
 決して国を滅ぼしたいわけではなかった。だが孤独をかかえたまま重責を担
い続けなければならないとしたら、この際、風のように消えていくのも悪くな
いように思えた。第一どの道を選んだとて、終焉自体は必ずやってくるではな
いか。
 いずれにしろ、このまま日々を漫然と過ごしていても遠からず王朝は傾くだ
ろう。王が迷いに囚われるようになったら最後なのだから。毎日の政務を機械
的にこなす程度では、国が徐々に疲弊していくのは避けられない。だがそのこ
とに諸官が気づいたときには遅いのだ。
 もちろんすぐには影響は出ないだろう。雁の体制はそれほど脆弱ではない。
仮に尚隆が政務を放棄したとしても、祭祀さえ行なっていれば数十年程度はも
つと思われた。しかし王の乱心による亡国が犯罪によるむごたらしい即死のよ
うなものとしたら、職務放棄による消極的な傾国は、みずから望んだ断食によ
る緩慢な衰弱死だという程度の違いしかない。

599永遠の行方「王と麒麟(201)」:2013/03/23(土) 19:49:24
 これまで滅亡への暗い思いをいだいたことは幾度となくあると自覚している
尚隆は、そのときでも妙な気概はあったなと過去を振り返った。今の腑抜けた
気持ちとは全く違う。国を滅ぼそうと考えるのにもそれなりの覇気がいるもの
らしいが、それでも亡国という結末は同じだ。とはいえ、雁に頼っている慶に
とっては猶予期間があるほうがありがたいだろう。
 ――そう、陽子を巻き込むわけにはいかないのだ。
 彼は孤独に笑った。そして心の中で六太に、俺がいなくなってもおまえは平
気なのかと問いかけた。麒麟は王といると嬉しく、離れているとつらい生きも
のだと六太自身が語ったのではなかったか。
 確かに意識はない。しかしこうして尚隆が見舞うたび、奥深いところでは主
君の来訪を喜んでくれていないだろうか。もし王気が遠く離れたら、麒麟とし
ての本能ゆえだろうが何だろうが、王を探しに赴きたいとの強い欲求が芽生え
ないだろうか。
 淋しげな笑みを浮かべながら、尚隆は半身の髪に指を通し、そっと頭をなで
た。そしてしばらく押し黙ったのち、決然とした表情になると静かに立ち上
がった。
「王を探すのは麒麟の役目だ」
 低いつぶやきを残して六太の牀榻から立ち去る。彼はいったん正寝に戻ると、
そのまま宮城から姿を消した。

「主上が?」
「禁門の閹人(もんばん)によると、昨夜遅く外出なさり、まだお戻りではな
いようです」
「また大学にでも聞き取りに出向いておられるのだろうか」
「だとしても、これまでは夜中のうちに戻っておいでだったのに」
 主君の逐電の報を聞いた六官は、早朝あわただしく会合を持った。そのまま
主君なしで朝議を済ませたものの、午(ひる)になっても尚隆が戻ってくる気
配はなかった。大司馬などは最初「そろそろ主上も息抜きしたかったのだろ
う」と悠然と構えていたが、白沢と目配せした朱衡の「実はこんなことが」と
いう話にさすがに不安をあらわにした。
「王など首をすげ替えればすむと、本当にそうおっしゃったのか? 五百年も
よくもったものだ、と?」

600永遠の行方「王と麒麟(202)」:2013/03/23(土) 22:07:33
「はい」
「不吉な」大司馬は難しい顔で唸った。
 そのまま丸一日が過ぎても尚隆は戻らず、彼らは本格的に不安に駆られた。
何ヶ月も行方をくらますこともあった以前と違い、この一年、姿が見えないと
してもせいぜい半日程度だったのだ。それも遊興ではなく、市井での聴取のた
めとわかっての不在だった。
「さて、どうしたものか」
「しかし現実問題として、このままお帰りを待つしか」
「うむ……」
「とにかく我々が動揺を見せては、部下たちに悪影響を及ぼしかねません」
「そうですな。しばらくお姿がなかったとしても、主上は以前のように気楽に
出奔なさったのだという体でいるのが一番良い。実際、そのうち何事もなかっ
たようにお戻りになるはずだ」
 ――でなければ永遠に姿を消すか。ついそんなことを考えてしまった朱衡は
身震いした。
 いずれにしろ、やはり悪い兆候だったのだ。一見すると些細な事柄だったゆ
えに、まさかまさかと思いつつも打ち消してきた。しかしよくよく考えてみれ
ば、以前にも似たようなことはあった。
 あれはいつだったか。光州の、梁興の謀反の少し前だったように記憶してい
るから――二百年以上は昔の話だ。
 まだ、主君の滅入る気配がはっきりとしなかった頃。ある日、尚隆がぽつり
とつぶやいたことがある。宮城にいてばかりでは「息が詰まる」と。
 冗談交じりに、あるいは単にぼやいただけなら聞き流しただろう。しかしそ
の疲れたつぶやきは妙に朱衡の心を捉え、不安にさせた。彼が主君の出奔をあ
る程度まで大目に見ていたのはそのためだ。宮城を離れて息抜きをしなければ、
おそらくあの王は窒息してしまうのだろう。
 こうしてあらためて考えると、尚隆には意外ともろいところがあるように思
えた。何よりこれほど長い治世を敷いても、心の内を臣下に見せることなど滅
多になかった。どんなにいい加減に見えても、臣下との間には明確に一線を設
けていた。それは言い換えると、素の自分を誰からも慎重に隠して孤立してい
るということではなかったか。

601永遠の行方「王と麒麟(203)」:2013/03/24(日) 12:44:40
 主君にも心の支えが必要だ、と朱衡は初めて強く考えた。何事かあったとき、
少なくとも気を紛らわせる人なり物なりがなければならない。だが……。
 難しい問題だった。平素なら尚隆は自分で適当に市井で発散してくれるから、
その意味では面倒がなかったのだが。

 そうして宮城で六官が内々に打ち合わせていた頃、肝心の尚隆は騶虞を駆り、
既に関弓から遠く離れた場所にいた。市井の様子を見聞するときは妓楼だの賭
場だのに入り浸り、表面に表われない民の本音をさぐることが多かった。そう
いったいかがわしくも賑々しい場所では雑多な人間が集まる上、素性を詮索さ
れにくかったからだ。
 しかし今回ばかりは目立たない町を選んで逗留し、何の変哲もない地味な舎
館で息を潜めるようにじっとしていた。そして騎獣を預けたまま時折ぶらぶら
と食事に出るのみで、無為に時を過ごした。
 毎晩舎館を変えていた彼は、ある安宿で話好きの使用人の少年と暫時言葉を
交わした際、問われるまま、待ち合わせをしていると簡潔に答えた。だが本気
で六太が探しにくることを期待していたはずはない。この程度で目覚めるもの
なら、とうに目覚めていたろう。
 それでも尚隆は昼間、ふと往来で空を見上げては、どこかに金色の光がない
かと探した。
 目に映る春の空の色はまだ淡い。そしてその空と下界とを隔てているはずの
雲海はここからでは視認できなかったが、決して通り抜けられない障壁として
確かに存在する。それは尚隆と六太を隔てる障壁でもあった。
 一人部屋に泊まっていたものの、安宿は壁も薄いものだ。特に外の静まる夜
間は、他の房間の話し声やいびき、廊下の足音といった雑多な騒音が耳につい
た。しかしそうやって他人と完全に切り離されなかったことは、却って今の尚
隆には良かっただろう。夜の静けさは人を物思いにふけさせるものだ。そして
明るい陽の下では平気だったことが、不意に耐えられなくなってしまう魔の刻
でもあるのだから。
 それゆえ普段の尚隆は、夜間は市井でも宮城でも決断を要することは考えな
いようにしていた。哲学めいた思索には向いているかもしれないが、夜の闇と
静寂の中でひとり考えたことは概して悲観的になる傾向があるからだ。

602永遠の行方「王と麒麟(204)」:2013/03/24(日) 12:51:53
 だが今の彼はみずからを追いつめるように、折りたたんだ衾褥に寄りかかり
ながらじっと考えに沈んでいた。夜が更けるにつれ隣室の話し声もやみ、遠く
で聞こえるいびきだけになっていく。
 平和だ、と彼は思った。平凡で穏やかで――何百年も彼が守ってきた市井の
暮らしがここにあった。
 だが安らぎではなく懐かしいような切なさを感じるのは、この平穏が終わり
つつあることを知っているからだろうか。今この時代が、すぐに過去形で語ら
れることになるかもしれないと知っているからだろうか。
 ――五百年の昔、蓬莱にあった小松家のように。
 口に出したことこそないものの、尚隆は自分の根がいまだに蓬莱にあると感
じていた。彼にとっての故郷は今でも瀬戸内のあの小さな所領なのだ。既にい
ろいろな記憶はおぼろになり、親兄弟の名前さえ忘れてしまったというのに。
 もちろん雁にも愛着はあるし愛してもいる。自分で試行錯誤してここまで育
て上げたのだ、雁も確かに彼の故郷だった。小松の領地でのことは、おそらく
思い出の中で美化されてもいるだろう。時々無性に懐かしくなるのは二度と帰
れない場所だから。雁も記憶の彼方で懐かしむだけの存在になれば、尚隆は
きっと雁が恋しくて仕方がなくなるに違いない。
 だが王たる彼にはそのときは絶対に訪れない。王でなくなれば死あるのみな
のだから。
 そんなことをつらつらと考えていた尚隆は、ふと六太に思いを馳せ、ああ、
とすべてが腑に落ちた気がした。
 ずっと胸中を蝕んでいた奇妙な苛立ち。淋しさ。自分でも正体のわからない
もやもやとした焦燥感。
 それは王として麒麟を失うからではない。六太が陽子に懸想していたからで
も、身内と見なしていた親しい者を失うからでもない。それらの理由も決して
小さくはないが、六太との別れは、尚隆が生まれ育った時分の蓬莱、懐かしい
瀬戸内との永遠にして完全なる決別だからなのだ。
 陽子に指摘されるまでもなく、六太相手なら蓬莱の話は普通に通じた。それ
も異世界のような現代の蓬莱ではなく、尚隆が生まれ育った時代の蓬莱だ。泰
麒を迎えにいったときのあちらの夜景は無機質で、灯りだけは豊富だったもの
の不思議と温かみは感じられなかった。直線ばかりの灰色の町並みはそっけな
く、その見知らぬ風景は既に完全な異邦だった。だから尚隆にとって懐かしい
と感じる時代の蓬莱を知る者はもう六太だけなのだ。

603永遠の行方「王と麒麟(205)」:2013/03/24(日) 12:57:13
 この世界に来た当時は、むしろ六太を見ると過去を思い出してつらい思いも
したような気がする。だが瀬戸内で出会ったがゆえに、そこにいるだけで六太
は今はもうない故郷の存在を証だてていた。
 何しろ数百年を経た今、蓬莱の記憶はもはや雲をつかむように曖昧だ。そも
そも身ひとつでこちらの世界に渡ってきた尚隆には、その記憶以外に、既にお
のれの故郷を確認するすべはない。しかし一部とはいえ思い出を共有する六太
がいたことで、故郷が夢の産物ではないことを無意識のうちに確認できていた。
王が孤独であるのは当たり前だと、ずっと冷めた思いで突き放しているつもり
だったのに、本当は六太が傍らにいたことで救われていたのだ。たとえその自
覚がなかったとしても。
 これがたとえば臣下に蓬莱出身の者がいない陽子なら、早い段階で克服しな
ければならない事柄だろう。しかし尚隆は六太がいたことで、良くも悪くも故
郷との完全な決別の機会を失った。ときには蓬莱の話をするだけでなく六太を
派遣して、いろいろな情報を得させることさえした。そうして五百年もの長命
の王朝を築いた今になって初めて、本来ならば登極直後に克服すべき現実と対
峙することになったのだ。
 六太こそは尚隆の根、尚隆に残された唯一の蓬莱の形見だった。なのにその
彼を失ってしまっては、いくら枝を伸ばし葉を茂らせようとしても無意味とい
うもの。
 自分はひとりだ。尚隆は今度こそ明確にその意味を理解した。小松の領地も
あの時代も、蓬莱では既に歴史の彼方に消えてしまっている。単に年代的なこ
とを言うだけなら当時から仕えている官もいるが、彼らはあくまでこちらの世
界の人間だ。故郷で同じ時間を共有した人間は、とうの昔から六太しかいない。
 なのに。
「――おまえが!」
 突如としてこみあげた激情のままに、尚隆は思わず声に出していた。拳を握
り、心中を吐露する。
「おまえが俺を連れてきた。おまえが俺を王にした。なのに――なのに、今さ
ら見捨てるのか!」
 彼は両手で顔を覆い、魔の刻の中で日頃の無意識の自制が決壊するに任せた。
 このまま六太を失いたくなかった。たとえ彼が自分を主としてしか見ていな
いとしても、尚隆にとっては唯一無二にしてかけがえのない存在だったのだ。

604書き手:2013/03/24(日) 13:04:01
今回はここまでです。
次回……は慶サイド(陽子)の視点に変わるかな?
投下するまでちょっと時間がかかるかもですが。

605名無しさん:2013/03/27(水) 01:03:44
必須とはいえ小松が切ないですなぁ…
二人が笑い合えるのを願うばかりです。

606永遠の行方「王と麒麟(206)」:2013/04/04(木) 19:14:04

 陽子の元に雁から知らせが来ること自体はおかしくない。しかし鸞や青鳥で
はなく使者が書状を携えてくるのはめずらしかった。おまけにいちおう面識が
あるとはいえ、さほど親しくもない朱衡からの私的な使者。雁からの良い便り
を待ちわびていた陽子とて首を傾げたのは当然だろう。
 外殿の一室で、彼女は景麒を同席させた上で使者を招き入れた。先方は特に
人払いを願ったわけではないが、六太のことがあるので念のために官は下がら
せた。景麒の使令がいれば陽子の安全は確保されるから、護衛の小臣もうるさ
いことは言わずに御前を辞した。
「花見?」
 使者の用件は花見の宴への招待だった。予想外のことに陽子はぽかんとして
問い返した。それを肯定した使者は、朱衡からの書状をうやうやしく差しだし
た。
「景王におかれましては、昨年は見舞いに景台輔を派遣してくださるなど、つ
ねづねわが国へのご配慮に感謝しております。つきましてはちょうど玄英宮の
桜が見頃になりますので、ぜひ景台輔とともに花見の宴にお越しいただき、日
頃のご政務のお疲れを癒していただければと」そこで使者はいたずらっぽい顔
で少し声をひそめた。「実はわが主上がかなり退屈しておられまして、大司寇
は景王をお招きして主上を驚かせたい趣向なのです」
 使者から書状を受け取った景麒が文面を確認し、陽子に招待の詳細を説明し
た。件の桜は現在の蓬莱で一般的な染井吉野ではなく山桜や八重桜の一種らし
い。しかしそれでも蓬莱出身の陽子には懐かしいだろうとの誘いだった。この
世界で花見と言えば普通は梅だ。桜で花見の宴を開くなど、王と宰輔が胎果で
ある雁ならではだろう。
 陽子は少し迷ったのち、返事をするのでしばらく待ってほしいと告げ、女官
に使者のための房室を用意させた。その後、冢宰府まで急いで浩瀚を呼びにや
り、景麒と三人で話しあった。
「何だか唐突な感じなんだがどう思う? 延台輔の事件と無関係とは思えな
い」
 書状を読んだ浩瀚はこう答えた。

607永遠の行方「王と麒麟(207)」:2013/04/04(木) 19:16:11
「これがもともと主上が親しくしておられる延王ご自身のお招きなら不思議な
ことではありません。しかし慶を後援してくださっているとはいえ、相手はた
かが六官。個人的な交友があるならまだしも、そうではないということは、何
か主上においでいただきたい用件があるのでしょう。花見の宴は口実です」
「やはりそうか。書状には訪問の際に渡したいという贈りものの目録もあるけ
ど」
 陽子は貴重な陶磁器やら玉石やらの一覧を指した。かなり高額な金銭の提示
もある。日頃の交流のお礼にしてはおかしいが、先方は陽子たちが不審に思う
ことは織り込み済と思われた。表面的には友邦国からの非公式な宴の招待だが、
これは取り引きの申し出なのだ。陽子が雁を訪ねてくれればこれだけの援助を
するとの。それも一日程度ではなく、少なくとも数日は滞在してほしいのだろ

「朱衡さんと話をしたことはあるけど、とても礼儀正しい人だった。いくらこ
ちらが小国でも、いたずらに他国の王を呼びつけるとは思えない。わたしがな
かなか慶を離れられるはずがないこともわかっているはずだ」
「だからこその好条件なのでしょうね。雁の大司寇の領地がいかほどかはわか
りかねますが、慶の国力との対比で考えれば、一年ぶんの収入以上と考えても
おかしくない額です」
「年収丸ごとか。領地の経営にもいろいろ必要だろうに思い切ったな」陽子は
感嘆した。「ということは、どうしてもわたしに来てほしいということか」
「おそらく」
「延台輔に何事かあったんだろうか」
「確かなことは申せませんが、延王が退屈しておられるという話が気になりま
す。どうやら延台輔ではなく延王に何事かあったようです」
「延王に」陽子はさっと顔色を変えた。
「この様子では使者も詳細は知らされておらず、本当に宴への招待だと思って
いるのでしょう。どうやらあらかじめ理由を説明するわけにはいかないが、雁
としては主上のご助力で何か確実に助かることがあると考えているようです。
少なくとも雁の内紛に主上を利用するといった陰謀の一端とは考えられません」
 陽子は眉根を寄せ、書状の細目を眺めた。しばらく考えこんでから「でもこ
れはこれで悪くない」とつぶやく。

608永遠の行方「王と麒麟(208)」:2013/04/04(木) 19:18:15
「ほら、この間わたしが提案した奨学金制度の計画、予算を捻出できるまで棚
上げになったけど、これだけあれば賄えるんじゃないか? それから時計塔の
建設と」
 彼女が期待をにじませて相手の反応を窺うと、浩瀚は苦笑した。
「とりあえず奨学金の件なら。あとは時計塔より里家の助成に回したほうが良
いですね。正直なところを申せば、主上にはあまり金波宮から出ていただきた
くはありません。ましてや国外になど。しかし台輔がご一緒であれば万が一の
危険もないでしょう。隣国ですし、数日から十日ほどでしたら、その間は拙官
が何とかしますよ」
 物分りの良い態度を見せた浩瀚だが、これは延王もしくは延麒に何事かあっ
たらしいと推測されるためだろう。陽子の安全さえ確保できるなら、彼も早急
に現状を把握したいのだ。
「ああ、頼む」陽子はほっとして眉を開いた。
「主上は延台輔のこともご心配なのでしょう?」
「うん。ちゃんと自分で見舞いに行きたいと思いながらなかなか行けなかった
けど、いい機会だ。ついでに直接延王に日頃の後援のお礼も言える」
「先方からの招待ですし、何よりこれだけの援助があるとなれば他の官も納得
しやすいですね。延王ご自身のお招きではないとはいえ、堅苦しいことのない
よう形式的に官からの非公式の招待になったという話にしておきましょう」
「景麒も特に問題はないよな? 何日か瑛州を留守にしても?」
「はい、かまいません。わたしも延台輔が心配です」
「よし。それならおまえとふたりだけで行くことにしよう。そのほうが却って
面倒がない」
 非公式とはいえ、他国への訪問で王が仰々しい供を引き連れないとは異例だ
が、登極直後、雁に遊学するふりをして固継で暮らしていたときも陽子はひと
りで、供を連れて遊学しているという体裁も取り繕わなかった。もともと堅苦
しいことを嫌っている彼女だから、今回もそれで通せるだろう。
 返信を持たせた使者を帰した陽子は、青鳥でも先方と簡単な打ち合わせをし
たのち、さっそく雲海上から雁に向かった。下界から行っても良かったのだが
旅程が余分にかかるし、何が起きたのだろうと気が急いたのだ。もちろん、よ
く雲海上を気軽に行き来していた延王延麒の影響を受けたというのもある。

609永遠の行方「王と麒麟(209)」:2013/04/04(木) 19:20:18
 高岫を越えてすぐ、雁の最初の凌雲山で、陽子と景麒は朱衡が差し向けた迎
えと合流した。そのまま彼らに護衛される形で玄英宮に入ったふたりは、内々
での訪問とあって目立たないよう数人の下吏を従えただけの朱衡に出迎えられ
た。
「お久しぶりです、朱衡さん」
「遠路はるばるおそれいります。景王、景台輔にはお変わりなく」
「桜を見せていただけるとか。金波宮にはないので楽しみにしてきました」
 当たり障りのない挨拶をにこやかに交わしたのち、掌客殿ではなく朱衡の私
邸に案内された。非公式の訪問であるのみならず、今回は朱衡の私的な招きに
よるものだからだろう。
 もっとも雁の大司寇の住まいとあって相応の格式を持った建物で、一国の王
を招いても礼を失するものではなかった。
 陽子はまず汗と埃を落とすための湯浴みを勧められて好意に甘えた。先方は
現代の蓬莱では毎日入浴する習慣なのを知っているのだ。久しぶりの長時間の
騎乗でこわばった筋肉を入浴でほぐした彼女は、用意されていた豪華だが楽な
衣裳に着替えたのち、奥まった一室で軽食を供されるのに任せた。そうして朱
衡が人払いをし、側仕えの下吏も下がらせて三人だけになってから、ようやく
彼女は口を開いた。
「このたびはお招きありがとうございます。ただ、提示してくださった金額は
大国雁の六官としても高額ではないでしょうか。うちの冢宰によると、年収相
当としてもおかしくないとか。慶としては助かりますが、朱衡さんは大丈夫で
すか?」
 ぶしつけではあるが、やはりはっきりさせておかねばなるまいと陽子は思っ
たのだ。財政の厳しい慶にとってありがたい申し出とはいえ、そのことで万が
一にでも朱衡が難儀するようなことがあれば、それも心苦しい。
 すると朱衡は少し驚いたように目を見張ってからほほえんだ。
「確かに高額ではありましょうが、さほど無理をしたわけではありませんので
どうかお気遣いなく。拙官は独り身ですし、金のかかる趣味も持ってはおりま
せんので、ありがたいことに自然と財はたまる一方なのです。何しろ定期的に
領地の者に還元しているくらいで。それより景王にはこちらの無理を聞いてく
ださったのですから、万謝の印としてぜひお納めいただきたく」

610永遠の行方「王と麒麟(210)」:2013/04/04(木) 19:22:21
「そうですか。では遠慮なく」ほっとした陽子もほほえんで応じ、さっそく本
題に入った。「ところで延台輔のご様子はいかがでしょう。それからそちらの
使者によると、何でも延王が退屈しておられるとか」
 朱衡は数瞬だけためらうそぶりを見せてから、こう答えた。
「台輔のご様子にお変わりはございません。相変わらず眠り続けておいでです。
景王は率直なお人柄ですから、この際、拙官も打ち明けて申しましょう。冬官
は日々努力しておりますが、正直なところ手詰まりの状態です」
 陽子は緊張とともに、傍らに座る景麒と顔を見合わせた。
「もちろん最悪の場合は解呪に何十年もかかるかもしれないと、口には出さな
いまでも可能性は頭の片隅に置いておりました。おそらく主上もそうだったに
違いないのですが、最初のうちは泰然としておられたのに、どうも最近の主上
は苛立っておられるようなのです」
「苛立つと言うと……」
「政務を放擲するわけではありませんが、何事にも以前より反応が薄いのです。
どこか投げやりとでも申しますか。それでいて万事に執着がないわけでもなく、
常日頃は官に対して鷹揚であられるかたが、先日、台輔のことはもう諦めたほ
うが良いと進言した官に怒って即座に罷免しようとしたほどで」
「それは」陽子は絶句したのち、何とかこう続けた。「しかしその官が悪いの
では? わたしだってもし景麒が似たような事件に巻きこまれて見捨てろと言
われたら憤慨する」
「わかっております。しかし今まででしたら、主上はあからさまな態度は取ら
なかったと思うのです」
「つまり精神的な余裕がなくなってしまった、と?」
「はい」
 溜息とともにうなずいた朱衡に、陽子は顔を伏せてしばし考えこんだ。確か
に尚隆らしくない言動だし、臣下が心配するのも理解できた。わざわざ陽子を
呼ぶような真似をしたということは、他にも彼らが懸念する材料が多々あるに
違いない。彼女は顔を上げ、状況が状況だけに単刀直入に尋ねた。
「それで、わたしは何をすれば? 延王を励ますとか? ただこういうことは、
下手な慰めや励ましは逆効果だと思いますが」

611永遠の行方「王と麒麟(211)」:2013/04/04(木) 19:24:25
「申し訳ないながら、主上が気晴らしになるような話でもしていただければと。
景王も主上と同じく胎果であらせられる。もし主上が興味をお持ちになれば、
現代の蓬莱の話などはいかがでしょう」
 陽子は押し黙った。蓬莱のことは、陽子にとってもまだ思い出になってはい
ない。そんな状態で、なりゆきで自然と話が及んだならともかく、意識的に話
を振るのは気が進まなかった。そもそも励ましのための話題としてふさわしい
だろうか。そのときはお互いに楽しいかもしれないが、あとになって空しくな
らないだろうか。
 彼女はふと、自分が五百年後にその時点で流されてきた海客と蓬莱の話をし
た場合を想像してみた。懐かしいというより――ちょっとした拍子に切ない気
持ちのほうが大きくなって気鬱になるかもしれない。公私ともに充実して精神
的に満たされているときならまだしも、少なくとも苛立ったり暗くなっている
ときにしていい話ではないだろう。
 むろん六太となら現代の蓬莱の話もたくさんしたが、彼はいくらでも蓬莱と
自由に行き来できた。陽子にとってもまだ自分の記憶と乖離しない情報だから、
郷愁の念を覚えるのはさておき、彼がもたらす話を興味深く聞くことも可能
だった。どちらも尚隆とは条件が違う。
「延王がお望みになればいくらでも話はしますが」彼女は慎重に答えた。「た
だ、気晴らしといっても、正直なところ若輩者のわたしにうまくできるとも思
えません」
「何でもいいのです。少なくとも変わりばえのない官の顔を見、変わりばえの
ない話を聞くよりはずいぶんと違うはずです。それに麒麟が昏々と眠り続ける
などという事態は前代未聞で、そうなると同じ王としてのお立場を持つ景王か
らのお言葉は、我々のような臣下が何を言うよりはるかに重みがあります」
「しかし……お役に立てるかどうか」
 そう答えながら、陽子は六太とかつて話した内容を思い出していた。
 彼は言ったのだ、国同士が交流するのはいいことだ、自然と王同士も交流す
ることになるからと。王の気持ちは王にしかわからない、だからそういった日
頃の交流があれば、いざというときにも孤独に陥らず、王の支えになるだろう
と。

612永遠の行方「王と麒麟(212)」:2013/04/04(木) 19:26:29
 六太自身はそこまで語らなかったものの、彼が麒麟である以上、主である尚
隆を念頭に置いた発言だったはずだ。陽子の目から見ても、普段の尚隆が麒麟
の助言を必要としているようには見えなかった。だからこそ万が一の場合を考
え、主に頼りにされない自分ではなく、他国の王という同じ立場の人間と交流
させることで凶事を遠ざけたいと願ったのだろう。
 ならば実際に尚隆を力づけられるかどうかはさておき、陽子が彼といろいろ
な話をすることは、それだけで六太の希望に沿う行動ではあった。
「今さらこう申しても何ですが、どうか気楽にお考えください」黙りこんでし
まった陽子に朱衡は微笑した。「景王にはいろいろご苦労もおありでしょうし、
何かとお疲れもありましょう。今回のことはたまの休暇とでも思し召して、単
に骨休みのために玄英宮においでになったとお考えください。明日は主上をお
招きして内々で花見の宴を催します。景王は今回、台輔のお見舞いと花見のた
めにおしのびでいらしたということにしますので、まずは主上を驚かせていた
だき、そのまま普通に歓談していただければ」
「そうですね……」陽子は考え考え口を開いた。「では、すべては延王にお目
にかかってからにします。単に話を聞くのと自分の目で確かめるのとでは違い
ますから。それから延王をお誘いして、延台輔のお見舞いにも伺わせていただ
きます」
 昨年、最初に景麒が玄英宮を訪問した際は、尚隆みずから仁重殿に案内した
という話だった。六太のことが尚隆の苛立ちの原因だとすれば、眠りつづける
麒麟を前にした彼の様子も見ておいたほうがいいだろう。
 朱衡は礼を述べ、重要な話はとりあえず済んだので、三人はそのまま軽食を
つまみながら雑談した。いい機会ではあり、陽子は政治について朱衡にいろい
ろ質問し、慶でやりたいと内心で温めている二、三の計画について意見を求め
た。朱衡はそのすべてに丁寧に答え、考えうる限りの利点や難点を挙げ、過去
に雁で似たような試みがあれば、率直にその成功例や失敗例を示した。数百年
に渡って王を支え、六官を歴任してきた彼の実務知識は豊富で、経験の浅い陽
子にとって非常にありがたく、それだけで今回の訪問の甲斐はあったと思える
ほどだった。

613書き手:2013/04/04(木) 19:28:33
陽子視点でさらっと。

次回は朱衡視点。あまり空けずに投下できるかと思います。

614永遠の行方「王と麒麟(213)」:2013/04/06(土) 11:37:59

 相変わらず生真面目な陽子の人柄は、朱衡にとって好ましいものだった。
気取らず臆さず、それでいて他国の官にさえ謙虚に教えを受ける。それゆえに
軽んじる者も出るだろうことを考えると危険な側面はあれど、慶にはそんな若
き女王を支える忠臣も順当に育っているに違いない。
 しばらく陽子や景麒と歓談したのち、ふと朱衡は、六太が尚隆を信頼してい
たと思える逸話がないだろうかと尋ねてみた。陽子は驚いたように彼を見つめ、
「信頼、ですか?」と聞き返した。
「はい。官が主上に何を申しあげようと、日頃からお側に仕えている以上、目
新しい話にはなりえません。しかし普段は遠く離れておられる景王の口からそ
ういう逸話が出たとなれば、多少は主上の気も晴れるように思うのです。何し
ろ台輔は主上に何の言伝も残してくださいませんでしたし、それどころか見捨
てろとまでおっしゃいました。それはうがった見方をすれば誰にも呪を解ける
はずがない、解決できるはずはないという、不信と諦めの現われと解釈するこ
ともできてしまいますから」
 彼は以前白沢と話した内容を手短に説明し、だからこそ六太の信頼を確信で
きれば、それ自体が励みになりうると告げた。すると陽子は、話を聞くうちに
苦笑してこう答えた。
「延台輔が延王を信頼しているなど、当たり前じゃないですか」
「え?」
「日頃からあれだけ親しく遠慮のないやりとりをしていて、信頼していないは
ずはないでしょう。見ていればわかります。何かと言い争うこともあったよう
ですが、そんな真似ができたのも逆に確固たる信頼があればこそです」
 力強く断言され、朱衡はまじまじと相手を見た。陽子の傍らで黙って控えて
いる景麒も、朱衡と目が合うなり、同意を示すかのように軽くうなずいた。
「失礼ですが、そこまで玄英宮の皆さんが疑心暗鬼に陥るほど状況が悪いので
しょうか」
「は、まあ……」
「ではわたしからはっきりと申しあげます。延台輔は延王を信頼しておられま
す」
「それはわかっているのですが、しかし」

615永遠の行方「王と麒麟(214)」:2013/04/06(土) 11:40:04
「逸話が必要なのは、延王ではなく朱衡さん自身が確信できないからでは?
だから延王にもはっきり進言できない。でもそんな疑いをいだく必要がどこに
あります? ずっとおふたりを見てきた皆さんに、新たな根拠など今さら必要
ないでしょうに」
 ぶしつけとも思える大胆な物言いに朱衡は呆気に取られた。これまで彼女と
話をしたことは何度もあるが、その印象では気遣いのある、どちらかと言えば
控えめな女性だった。事実、今しがたまで謙虚に朱衡の助言を聞いていた彼女
なのだ。だが無心になってみれば、言われた内容にうなずける部分はあった。
 なるほど、と彼はすぐ気を取り直した。いくら国主たる身分に慣れてきたと
はいえ、彼女が普段からこのような物言いをしているとは思えない。そもそも
六太とは数年の付き合いしかない陽子だ、五百年も仕えてきた朱衡に対し、普
通ならここまで強い調子で言えるものではないだろう。
 これは故意の態度であり、激励の一種でもあるに違いない。何しろ事態が動
かない以上、あとは気持ちの持ちようと言うしかない。だとすれば万事を明る
く捉えたほうが好ましいに決まっている。皆で難しい顔を寄せ合って鬱々とし
ても得るものは何もないのだ。
「は――い。そうですね……」
「たぶん皆さんは、ずっと事件の渦中におられるだけに滅入ってしまったんで
しょうね。誰の目にも明らかなことさえ、つい疑いを差し挟んでしまうほど不
安になっていらっしゃる。わたしは当事者ではありませんし、最近の玄英宮の
様子も知りませんから、いくらでも無責任な言葉を吐けますが、だからこそわ
かることもあります。延台輔は延王を慕っておられますし、信頼してもおられ
ます。そもそも呪の眠りを受けいれたのは延王を助けるため。全部、延王のた
めなんです。延王にもそう申しあげて、どうか延台輔の誠心を疑わないようお
願いしてください」
「はい……」
「もちろん雁という国のためでもあるでしょうが、ここまで長命の王朝となる
と、たぶん国と王を明確に分けて考えるのは難しいと思います。わたしだって
雁と延王を切り離して考えることなんてできません。それを――そうですね、
たとえば国さえ安泰なら延王の気持ちはどうでも良いと延台輔が考えていただ
ろうとか、そういった薄情な解釈を皆さんや延王がなさっているとしたら延台
輔が可哀想です」

616永遠の行方「王と麒麟(215)」:2013/04/06(土) 11:42:07
 他に聞く者があれば、いくら王とはいえ、後援する大国の高官にこれほど遠
慮のない物言いは無作法だと思ったかもしれない。当事者ではないから気楽に
言えるのだと反論したかもしれない。だが荒削りながら素直な確信に満ちた彼
女の言葉は力強く、国官としてまっとうな誇りを持ちこそすれ驕りを戒めてい
る朱衡にとって、嫌悪を感じさせるものではなかった。むしろ勇気づけられる
気がした。
 実際、日頃の六太の様子を思い起こすまでもなく、主君を好いていることは
明らかなのだ。政務上の方針における衝突は、民への慈悲がすべてに優先する
麒麟と現実的な王との問題だから別の話としても、私的な時間における周囲が
はらはらするほど遠慮のないやりとりは確かに信頼があればこそだろう。
「今回の件は、自分の命か延王の命かという究極の選択を迫られた延台輔が延
王の命を選んだ、そういう単純な話だと思うんです。時間だってそんなにあっ
たようではないし、状況が状況だけに、延台輔自身動揺してもいたでしょう。
後になって延王がどう受けとめるかなんてじっくり考える余裕もなかったん
じゃないでしょうか。だからその時点で最善と思える決断をした。自分の望み
を鳴賢に明かさなかったのも、きっと聞いたら誰もが納得するような深い事情
があるんでしょう。延王に言伝を残さなかったのだって、もしかしたら別れの
言葉を言いたくなかっただけかもしれない。またいつか絶対に会える、そう思
いたかったからこそ何も言わなかったと解釈することも可能じゃないですか。
鳴賢への説明はさておき、延台輔の本心がどうだったかなんて誰にもわからな
いんですから」
 畳みこむように言われて朱衡はうなずいた。確かに六太の本心を知ることが
できない以上、いくらでも好ましい方向での解釈は可能だ。
 納得した朱衡は、穏やかにほほえんでみせた。それに晴れやかに笑い返した
若い女王の顔はまぶしかった。
 不意に、これも若さというものの発露かもしれないと考える。いくら仙は外
見が変わらないと言っても、年を重ねればどうしても考えかたが硬直してくる
し、疲れも見えてくるものだ。そうして今回のように余計なことまで気を回し、
たったひとつの確信に至るまでに延々と遠回りをしてしまう。しかし後から振
り返ってみると、真実は意外と単純だったりするのだ。

617永遠の行方「王と麒麟(216)」:2013/04/06(土) 11:45:54
 思えば長いこと膠着状態が続いているがゆえに、尚隆のみならず自分たちも
思惟の迷宮に入りこみ、無意識のうちに考えすぎていたかもしれない。主君に
対して不用意な励ましは逆に事態を悪化させかねないと危惧して自制していた
し、陽子自身も先刻似たようなことを口にしたが、言った当人が心から信ずる
言葉であればおのずと説得力を持つだろう。そう考えると、疑念を差し挟む余
地がないほど確固たる態度で接していたら、意外と尚隆もすんなり受け入れて
前向きな態度のままだったかもしれないのだ。なのにいつの間にか腫れものに
触るような対応をすることで、知らず知らずのうちに主君を追いつめてしまっ
たのか。
 これではとても王を支える重臣とは言えないと、朱衡は反省した。そしてよ
どんだ空気を払う一陣の風が吹いたような印象を感じ、陽子を雁に招いたこと
は間違いではなかったと確信したのだった。
 もちろん今の尚隆の精神状態は常と異なるし、もし陽子が同じような態度で
接した場合、一歩間違えれば彼を憤激させかねなかった。そもそも当人は配慮
しているつもりでも、若い時分は無意識に相手の心に切りこんで頓着しないこ
とがままあるものだ。その結果、事態の悪化を招くことも。しかしだからこそ
逆に成せることもあるのではないか。
 正直なところ不安もないではなかった。しかし陽子が真に傍若無人に振舞う
はずもなし、最近の主君の様子をあらためて思い返した朱衡は、この際、少し
気持ちをかき乱されるくらいでちょうど良いのかもしれないと考えた。何より
これまで彼女が書き送ってきた大量の書類を思えば、心から六太の心配をして
いるのは明らか。そんな相手と懇談することで、尚隆の気が少しでも晴れるこ
とを彼は願った。

 朱衡は翌日、楽俊と引き合わせる手はずを整えていたため陽子は望外に喜ん
だ。首尾よく大学を卒業した楽俊が、結局雁の国府で任官することになり、朱
衡の引きで秋官府に登用されたことは知っていたらしい。それで今回、もしお
互いに時間が取れるようなら会う心積もりはあったようだが、尚隆や玄英宮の
状況がわからないだけに訪問の予定も伝えていなかったとのことだった。

618永遠の行方「王と麒麟(217)」:2013/04/06(土) 11:47:57
 何しろ任官したばかりの下っ端の新人官吏だ、本人の意思だけではそうそう
融通が利くはずもない。おまけに周囲の目を考えれば、楽俊自身のためにも、
まさか景王であることを明かして強引に面会の時間を作るわけにもいかないだ
ろう。
 朱衡は過去の書類の整理という名目で楽俊を大司寇府の一室に呼び出し、自
分が朝議に出ている間、彼らだけで歓談できるよう計らった。その後、ちょう
ど午(ひる)に、久しぶりに旧友に親しんで気分が高揚している陽子と景麒を、
花見の宴を催す場所に案内した。そこは宮城の園林の奥まったところにある場
所で、山桜や桃、早咲きの八重桜などが咲き誇る美しい一画だった。むろん大
司寇とはいえ朱衡が自由に占有できる領域であるはずもないが、他の六官にも
白沢から話を通した上で、景王を歓待するためとして了解を得てのことだった。
 ただし大々的な酒宴ではなく、あくまで内輪の催しである。給仕をしたり楽
器を演奏したり華やかな舞を添える女官は幾人も侍っていたが、客としては陽
子と景麒、冢宰の白沢、そして尚隆だけだった。
 護衛の夏官を数人引きつれ、白沢を伴って現われた尚隆は、それまで何やら
興味の薄そうな様子で白沢と言葉を交わしていたのが、出迎えた陽子と景麒に
気づくなりさすがに驚いて目を見張った。
「お久しぶりです、延王。楽俊からこちらで桜が見ごろと聞き、延台輔のお見
舞いに伺うついでに、朱衡さんに無理を言ってお邪魔してしまいました」
 尚隆は陽子の傍らに控えていた朱衡にちらりと目を遣った。彼女の言を鵜呑
みにせず、朱衡が計らったことだと直感したのかもしれない。が、「なるほど」
と言ってわずかに苦笑したのみで、少なくとも追求はしなかった。
 用意されていた席に皆が座り、ひととおり料理と酒が並べられたあと、延王
ならびに景王の長寿を祈念して乾杯する。あまり酒を飲みなれていないという
陽子に、朱衡は弱い果実酒を中心に勧めた。彼女は範から取り寄せた繊細な玻
璃の杯の美しさに感嘆していた。おまけに山桜の花びらの一片が杯に落ちると
いう椿事が起きたものだから、風流だと大喜びだった。
「金波宮には桜がないとおっしゃっていましたね。蓬莱では梅よりも桜が愛で
られているという話ですから、この際、何本か植えてみてはいかがですか?」
 そんなふうに話を向けると、陽子は困ったように「正確に言えば、桜の一種
はあります」と答えた。

619永遠の行方「王と麒麟(218)」:2013/04/06(土) 11:50:00
「でもわたしが見慣れていた淡い色合いの品種と違って、鮮やかな寒緋桜なん
です。下界には薄い色合いのものもあるそうですが、宮城にあるのは赤みが強
くて。むろんあれはあれで綺麗ですが、残念ながら桜を見ている気にはなれま
せんね。だからこうして山桜や八重桜を見ると嬉しいんです。ここにはないよ
うですが、枝垂桜なんかも好きですよ」
「桜と言えば六太が言っていたな……」興味を引かれたらしい尚隆がふと口を
挟んだ。どこか遠くを見るようなまなざしでつぶやくように言う。「今の蓬莱
では、葉が出る前に花が咲く品種が主流だと。だから満開になると花だけで枝
が覆われて、かなり見ごたえがあると。もっとも色が淡いため、どぎつくはな
いらしいが」
「そうです。よくご存じですね」
 昨日の様子では、蓬莱の話をすることに抵抗があるふうだった陽子だが、自
然な会話の流れであるためか微笑んで普通に相槌を打っていた。
「染井吉野という品種です。同じ場所にあるものは皆一斉に満開になるため、
そりゃあ見事で。ただ満開になったあとは数日程度しかもたないし、風や雨に
すぐ散ってしまうのが難点ですが。それに比べると山桜や八重桜はいろいろ種
類があるので長く楽しめていいですね。同じ場所にある同じ品種でも、開花の
時期まで揃うわけではないようですし」
 陽子と歓談する主君の様子は、多少の疲れは窺えるものの、内心で朱衡が危
ぶんでいた苛立った気配は今は薄れていた。一時はどうしたものかと思ったも
のだが、少しは気持ちが浮上したのかもしれない。だが陽子はどう見ているだ
ろう。何しろ女性は一般的に、男性より他人の顔色やちょっとした所作の変化
などを敏感に見分けるものだ。彼女の目にも、尚隆は以前と大差ないように
映っているだろうか。
 陽子は午前中に会った楽俊の話題も出し、新米とあって覚えることが多くて
大変だと、だが忙しいながらも充実しているようだと話した。尚隆は笑みを浮
かべたまま鷹揚に聞いていたが、そうやって親しく語らい、皆で華やかな舞い
や楽曲の美しい旋律を楽しむうちにすっかり酒を過ごし、朱衡が気づいたとき
には主君は完全に酔っ払ってしまっていた。

620永遠の行方「王と麒麟(219)」:2013/04/06(土) 11:52:04
 陽子も多少は酔ってはいたようだが、量としてはさほど飲んでいないためだ
ろう、頬が上気する程度で、受け答えもはっきりしていた。翻って尚隆は最後
には呂律が回らなくなり、話すというよりもはや唸る感じで、途中で陽子は何
度も聞き返さなければならなかった。それも神仙であればこそで、もし彼女が
只人だったら一言も聞き取れなかったに違いない。
 過去、尚隆が酔う場面など朱衡は無数に見てきたが、ここまでひどいのは初
めてだった。少なくとも、内々の宴とはいえ屋外で正体がなくなるまで酔った
ことなど一度もない。せいぜいふざけて周囲にからむ程度だった。
「これは……まだ夕刻にもなっていないが、主上にはそろそろお休みいただい
たほうが良さそうですな」
 節度を持ってちびちびと酒を味わっていた白沢が苦笑いとともに言った。朱
衡も動揺を隠して「そうですね」と同意した。
「とりあえずそこの殿閣の一室にお運びしましょうか」
「わたしが手伝います」
 くすりと笑った陽子が茶目っ気のある仕草で軽く片手を挙げた。宴の間、離
れて警備していた夏官を呼び寄せるべく頭をめぐらせた朱衡を押しとどめる。
「素敵なご招待をいただいたのですから、お礼にサービスします。それにして
も延王もこんなに酔っ払うことがあるんですね。意外とわたしのほうがお酒に
強いのかな?」
 おどけたように言った彼女は、半ば眠っている尚隆の様子を窺うように顔を
近づけるなり、なんとぺちぺちと頬をたたいた。
「ほら、延王、しっかりして。もうお年なんだから、そろそろお酒は控えない
と」
 周囲を唖然とさせる台詞を吐いた彼女は、輿を用意しようかとざわめきだし
た女官らを気にせず、尚隆の片腕を取って肩を貸そうとした。だが体格の差か
ら言っても力の差から言っても支えられるはずはなく、見守っていた面々に対
しばつが悪そうに笑った。
「ごめん、やっぱり重くて無理だ。景麒、ちょっと手伝ってくれ」
「主上……」

621永遠の行方「王と麒麟(220)」:2013/04/06(土) 11:54:07
 呆れた顔をした景麒だったが、溜息をひとつついたあと、諦めたように尚隆
の反対側の腕を取って肩を貸した。それでもかなり難儀していたが、陽子が尚
隆を軽く揺すりながら「ほらほら、延王、ちゃんと立って」と声をかけると、
幸いにも完全には酔いつぶれていなかったらしい。重く頭を垂れていた尚隆は
何やら唸りながらもふらふらと立ちあがり、それを景麒が必死で支えた。女官
たちも尚隆の装束の袖や長い裳に手をかけて、主君が少しでも歩きやすいよう
に手助けした。
 やがて一番近い殿閣の臥室のひとつに案内されたあと、臥牀に腰を下ろした
尚隆は額を押さえながら、先ほどよりは随分とはっきりした声で「水……」と
つぶやいた。女官たちが、水の用意やら正寝への連絡やらで暫時あわただしく
姿を消すと、陽子は張りのある声で「延王、しっかりしてくださいね」と言葉
をかけた。呼応するかのようにひとつ大きな息を吐いた尚隆は、のろのろと顔
を上げ、弱々しい笑みを浮かべて相手を見た。
 だがつられた朱衡も陽子に目を遣ると、彼女のほうはとうに笑顔を消してお
り、それどころか厳しい表情をしていたので彼は驚いた。
「今、あなたに斃れられては迷惑です」
 突き放すような鋭い語気に、一瞬、室内に緊張がはらんだ。朱衡も白沢も息
を呑み、傍らの景麒があわてて「主上!」と小声でたしなめた。しかし尚隆は
呆気に取られたかと思うと、すぐに顔を伏せておもしろそうにくっくっと笑い
だした。
「新米の王が言うようになったな。恩人の俺に」
「仕方ありません。今雁が斃れたら、間違いなく慶には大打撃です。わたしに
支えきれるかどうかわかりませんし、それどころか周辺諸国が共倒れになる危
険すらあります。それを許すわけにはいきません」
「なるほど」
 尚隆はもう一度低く笑うと、「では英気を養うために、今日はこの辺で休ま
せてもらうとしよう」と言った。そうして陽子を追い払うかのように、手の先
をひらひらと振った。陽子は肩をすくめて退出しかけ、ふと振り返った。
「そうそう、明日は延台輔のお見舞いに伺いたいのですが。案内していただけ
ますか?」
「ああ、いいぞ」
「ではまた明日」

622永遠の行方「王と麒麟(221)」:2013/04/06(土) 11:56:11
 それだけ言うと、彼女はあっさり臥室から出て行った。それを景麒が追い、
あわてた朱衡も白沢にうなずいて、彼とちょうど戻って来た女官たちに後を任
せて陽子の後を追った。
 朱衡が房室を出ると、景麒が小走りに主に追いつき、周囲をはばかるように
「主上!」と呼んだところだった。扉の外で控えていた夏官たちが驚いたよう
に彼らと朱衡を交互に見た。
「あれではあまりにも延王に無礼ではないですか」
 だが陽子は歩調を落としもせず、顔を正面に向けたまま足早に歩きながらこ
う返した。
「耳に心地好い言葉をかけるばかりが激励ではない。特に王にはな。わたしな
ら難局に直面したとき、優しい言葉で場当たり的な慰めをかけられるより、厳
しい言葉で奮い立たせてもらったほうがありがたい。自分で自分を奮い立たせ
られないならなおさらだ」
「しかし」
「何なら引っぱたいてもらってもかまわない。だがさすがに他国の王に暴力を
振るうわけにはいかないからな」
「景王」
 朱衡がようやく追いついて声をかけると、陽子はにこっと笑って「失礼しま
した」と返した。
「いえ、あの……」彼女の前に出て殿閣の出口に先導しながら、めずらしく言
うべき言葉を見つけられずに朱衡は口ごもった。
「今日は桜を見せてくださり、ありがとうございます。それにしても今からお
休みになったとしたら、明日は延王も随分早くお目覚めになるでしょうね」
「は、まあ、そうですね」
「では明朝お目覚めになったら、朝食のあとでさっそく仁重殿に案内していた
だきたいのですがよろしいでしょうか。それともやはり朝議には出ていただい
たほうが? ならば午後からでも結構です」
 朱衡は考えるまでもなく、即座に「いえ」と首を振った。
「急ぎの案件はないはずですし、今は何より台輔のことが最優先ですから。も
ともと頻繁に朝議にお出になるかたではありませんので、官もご不在に慣れて
おります」
 陽子はまたにこっと笑い、「わかりました」と答えた。

623書き手:2013/04/06(土) 11:58:15
今回はこんな感じ。
陽子は叱咤激励担当ということで。

前回は思ったより早く投下できましたが、
次はちょっとかかるかもしれません。

624永遠の行方「王と麒麟」(218):2013/04/12(金) 19:27:11
 彼女は景麒と尚隆を幾度も交互に見たのち、緊張とともに立ち上がった。無
駄だろうことはわかっていた。だが戯れとはいえ可能性を示してしまった以上、
この場で白黒つけるしかあるまい。
 彼女は枕元に立ち、穏やかに眠っている六太を見おろした。童話に倣えば頬
や額ではなく、やはり唇に接吻するのが順当だろう。
 陽子に恋愛の経験はなかった。当然、接吻を交わしたこともないから、これ
がファーストキスになるわけだ。もちろん国主の地位にある今、そんなことに
こだわったり動揺するほど純情なつもりはない。しかし無垢な様子で寝入る六
太には、勝手なことをして申し訳ないと思った。
 六太の背に腕を差し入れて抱き起こすのは何となくためらわれたため、枕の
両端に手をついて顔を近づけた。一瞬躊躇したのち、花の香りの中でそっと唇
を押し当てる。温かな体温を感じるとともに穏やかな寝息が顔にかかり、ああ、
本当に眠っているだけなんだと、ほんの少しだけほっとする。
 陽子は体を起こすと、つい息をつめて効果のほどを見守った。期待していな
いつもりだったが、それでも何事も起きないことを見定めるとかすかな失望を
禁じえなかった。
 振り返ると、尚隆は床に座り込んだままこちらを凝視していた。陽子は無言
で首を振った。
「そう、か……」
 尚隆はつぶやくと、疲れたように息を吐いて顔を伏せた。明らかな落胆の様
子に、結果的に期待をいだかせてしまった陽子は罪悪感を覚えたが、童話に
倣ったとしても接吻の相手は絶対に自分ではないだろうとは思った。
「あの。わたしより、どうせなら延王が接吻したほうがいいんじゃないでしょ
うか。延麒は麒麟です。物語で王女に配されるべきが王子だとしたら、麒麟に
配されるべきは王だと思うんですが」
 すると尚隆は力ない笑みを浮かべながら大儀そうに立ち上がった。
「接吻か。接吻なら俺は何度もしたぞ」
「えっ」
「正確には口移しだがな。そうやって何度も水や果汁を飲ませた。いくら神仙
でも喉の渇きはつらいものだからな」

625書き手:2013/04/12(金) 19:32:39
す、すみません、>>624は忘れてください。
他の場所に投稿しようとして誤爆しました。
見なかったことにしてもらえると助かります。
申し訳ない。

626書き手:2013/04/17(水) 22:52:10
予定ではきりのいいところまで書いてから投下するつもりだったため、
まだしばらくかかるはずでしたが、ポカをやってしまったので
途中までですが6レス投下します。

627永遠の行方「王と麒麟(222)」:2013/04/17(水) 22:54:18

 夜の静けさの中で考えこんでいると、深い深い海の底にいるようだった。
一切の物音は絶え、空気はしんとして動かない。
 だがもともと宮城というものは静謐で、立ち並ぶ殿閣の威容もあって謹厳な
雰囲気が漂っているものだ。騒々しくも活気のある市井とは違う。朱衡にいろ
いろ言われたこともあり、陽子の意識そのものが常と異なっているだけに違い
ない。
 用意してもらった臥室でひとり臥牀に座っていた彼女は吐息をもらした。景
麒は隣室をあてがわれているが、使令は彼女の傍にもいるはずだ。
「班渠」
 呼びかけると、姿のないまま「ここに」という静かないらえのみが返ってき
た。
「延麒の使令の気配はないか?」
「はい」
「そうか。やはり完全に封じられているのか……」
 今さらではあるが、ありうべからざる異状に陽子はしばし瞑目した。
 彼女の目から見ても状況が良いとは言えなかった。おまけに宴席で尚隆のあ
んな醜態を見るはめになるとは思いもせず、少なからず動揺もしていた。陽気
に酔うならまだしも、あれはやはり鬱々とした心情の現われによる泥酔だろう。
 だが救いようのないほど悪いわけでもなかった。打つ手がないほど事態が悪
化していたら、そもそも朱衡は陽子を呼ぶことはしなかったろうし、尚隆もま
ともに彼女の相手をしていないはず。尻にまだ卵の殻がついているようなひ
よっこの王の言葉など、実績のある大国の王にとって何ほどのものでもないの
だから。
 そんな前兆の段階で朱衡が動いたのは、タイミングとしては非常に適切であ
るように思えた。だが自分の態度が、期待されているように尚隆に良い影響を
及ぼすか否かはわからなかった。陽子には心理学の素養などない。ただ、朱衡
たちが気遣う一方らしいのを見て取り、誰か叱咤する役の者もいなければなら
ないと即座に思った。もし自身が同じ立場に陥ったら、慰めと同時に、景麒に
言ったように引っぱたいてでも奮い立たせてくれる相手もほしいだろうと思う
からだ。

628永遠の行方「王と麒麟(223)」:2013/04/17(水) 22:56:22
 とはいえ臣下という絶対的に弱い立場の者にそれを望むのは酷だろう。第一、
朱衡をはじめとする重臣たち自身、現状に動揺している。ならば身分的には同
等である陽子が引き受けるしかない。雁の諸官は当事者ではあるが、麒麟を持
つ王の心情に添えるのは同じ王しかいないのだから。
 もっとも気分は滅入っているとしても、尚隆はちゃんと王として自身を律し
ていた(六太のことは諦めろと言った家臣に憤ったのは大いに同情の余地があ
る)。ならば少しぐらい自分が無礼な物言いをしても大丈夫だろう。慰め、気
遣う役は、大勢いる雁の諸官に任せておけばいい。
 厳しい表情でそんなことを考えていた陽子は、ふと目元をなごませた。尚隆
の憂鬱が六太の不在によるものなら、彼女が感じていたよりはるかに麒麟を大
事に思っていたということだ。普段の彼は六太をからかったり適当にあしらっ
たりと、どうかすると麒麟を軽んじているふうだったが、やはり半身同士の結
びつきは何物にも代えがたいということだろう。六太のほうも表面上は尚隆を
気遣う態度を見せなかったが、折にふれ陽子に語った言葉には、おそらく主を
想定しているのだろうな、と察せられるものが多々あった。何より彼らは同時
代に生まれ育った胎果だ。日頃の態度がどうであれ、その関係には余人に計れ
ないものがあるに違いない。
 それを思うと雁の主従を襲った不幸な事件に心が痛むのはもちろんだが、主
従愛というか男同士の友情というか、その絆に憧憬を覚える陽子だった。女同
士だとついついすべてを言葉に乗せて伝えようとするが、男同士である彼らは
単に余計なことを口にしないだけなのだろう。
 大丈夫、と彼女は自分に言い聞かせた。第一、今回の事件は尚隆にも六太に
も非はないのだ。なのに麒麟を奪われ、このまま雁が沈むような理不尽があっ
ていいはずはない。
「おやすみ、班渠」
 そう言って臥牀に身を横たえた陽子は、すぐに穏やかな眠りに引き込まれて
いった。

 翌朝、陽子は朝餉を済ませると、朱衡の案内で景麒とともに尚隆を迎えに
行った。尚隆はあのまま正寝に戻らずに寝(やす)んだらしく、昨日の殿閣で
は近習らが主君の着替えやら食事の世話やらで忙しく立ち働いていた。

629永遠の行方「王と麒麟(224)」:2013/04/17(水) 22:58:26
 出迎えた女官に陽子の案内を任せ、朱衡は礼をすると朝議のためにその場を
辞した。
「おはようございます、延王」
「おう」
 陽子に応えた尚隆に昨日の泥酔の名残はなかった。しかし目元には疲れた様
子が漂っており、気力が満ちているとは言いがたい。
 やがて彼女と景麒は、尚隆や彼の護衛とともに仁重殿に向かった。内々に景
王の訪問を伝えられていた仁重殿の女官たちは大層な喜びようで、大人数でい
そいそと出迎えた。
「延台輔にこれを」陽子は出迎えの女官のひとりに一通の書簡を差し出した。
「お見舞いを何にしようか迷ったのですが、延台輔が喜びそうなものを考えつ
かなかったので手紙を書いてきました。延台輔の枕元に差しあげてください」
「ありがとうございます。台輔もさぞやお喜びになると存じます。いつも景王
からの鸞や青鳥に楽しそうにしていらっしゃいましたもの」
 そう応じて六太の臥室に案内する。陽子たちが護衛を扉の外に待たせて中に
入ると、そこは景麒が報告したとおりの花の楽園だった。春とあって花などめ
ずらしくないとはいえ、すがすがしい朝日の中、華麗な装飾が彩る宮城の室内
で花々が咲き乱れるさまは桃源郷以外の何物でもなかった。陽子は室内をぐる
りと見回し、感嘆の声を漏らした。
「景麒から聞いてはいたが、確かに見事だ」
「台輔がはやくお目覚めになるように、またお目覚めになったとき、お目を楽
しませられるようにしております」
 褒め言葉に女官は嬉しそうに答え、さらに奥にある牀榻へと導いた。牀榻の
折り戸は完全に開け放たれており、臥牀を隠す帳も巻き上げられていた。これ
また花で飾られた臥牀には小柄な体が静かに横たわっているのが見え、陽子の
体にわずかに緊張が走った。女官は先ほどの陽子の書簡を枕元に置いて「台輔。
景王がお見舞いにいらしてくださいましたよ」と優しく声をかけた。
「延麒」
 女官と入れ替わるようにして臥牀の傍らに立った陽子は、あたりをはばかる
ようにそっと呼びかけてみた。反応があるはずはないとわかってはいたが、間
近で見ても単にぐっすり眠っているだけとしか思えなかった。

630永遠の行方「王と麒麟(225)」:2013/04/17(水) 23:00:30
 普段の六太は明るくにぎやかで、物静かなどという形容は絶対に当てはまら
なかった。しかしこうして見る彼は静謐そのもの。常ならばくるくるとよく動
く親しみやすい表情は、外見の幼さもあって悪戯小僧という印象ばかり強かっ
たが、何の表情も浮かべていない今、美しいと言ってもいい顔立ちをしている
ことに陽子は気づいた。まるで六太ではなく、性格の違う双子の兄弟と対面し
ているようだった。何より咲き乱れる美しい花々に囲まれて眠る様子はメルヘ
ンの世界そのもので、とても現実とは思えなかった。
「眠り姫みたいだ……」
 静謐な美しさに目を細めた彼女は、ほのかな微笑とともにつぶやいた。その
まま黙り込んでいると、彼女と並んで立っていた尚隆が「眠り姫、とは?」と
尋ねてきた。顔を上げた陽子は尚隆にも微笑を向けた。
「蓬莱――いえ、外国の童話です。いばら姫とも眠りの森の美女とも言います
が、悪い魔女に呪われて百年の眠りについた王女の話です」
「童話……」
 何やら考えこんだ尚隆はすぐ「六太も蓬莱の童話には詳しかったらしい」と
言った。さらに話を聞いた陽子は、海客の団欒所で六太の発案を元に上演され
たという人形劇の話を聞いて驚いた。竜王公主の恋物語が明らかにアンデルセ
ンの人魚姫の焼き直しだったからだ。陽子自身の経験から言うと、男の子はこ
の手のロマンチックな童話に詳しくないことが多かった。中学のとき、文化祭
の出しものをクラスで検討した際、シンデレラや白雪姫のようなディズニーが
アニメ化した物語でさえ筋を知らない男子が多くおり、常識だと思っていた女
子は当惑したものだ。
「なのに延麒は知っていたんですね」
「実際に脚本を書いたのは海客の娘という話だから、六太が提案したとは限ら
んがな。知っていたとしても、もともと劇の題材を探していたようだからその
せいもあるだろう。あるいは海客たちと親しく交わる過程で彼らに教わったの
かも知れん」
 それにうなずいた陽子は六太に視線を戻し、ならば眠り姫の物語も知ってい
たかもしれないと複雑な思いをいだいた。まさか六太も、自分が同じような呪
いの眠りに囚われるときが来るとは想像もしていなかったろう。

631永遠の行方「王と麒麟(226)」:2013/04/17(水) 23:02:33
「……で。件の話の姫は眠りから覚めたのか?」
「はい」
 尚隆の問いに、陽子は六太を見おろしたまま応えて簡単に説明した。
「姫の眠る城はいばらに囲まれて誰も近づけなかったのですが、ある日噂を聞
いた王子がいばらを切り開いて城に乗り込み、姫の美しさに思わず接吻したと
ころ、呪いが解けて目覚めたんです。そしてふたりは結婚していつまでも幸せ
に暮らしたと。王子や王女の接吻で相手の呪いが解けるというのは、童話でよ
くあるパターンのひとつかもしれません。魔女の毒りんごで命を落としたと思
われた白雪姫も、王子の接吻で息を吹き返しますから」
 彼女が話したのはあくまで眠り姫や白雪姫として語られる物語の類型のひと
つだったが、大筋としてはこんなところだろう。
 尚隆の応えはなく、しばらく沈黙が続いた。ふと複数の衣擦れの音を聞いた
陽子が不思議に思って振り返ると、女官たちがしずしずと臥室から退出すると
ころだった。何か合図をしたのだろうかと眉根を寄せて尚隆を見ると、すべて
の女官が退出してから、彼はようやく口を開いた。
「陽子。頼みがある」
「何でしょう」
「六太に接吻してはくれまいか」
「えっ……」
 驚いた陽子は彼に向き直った。まさか今の童話のパターンの話を真に受けた
わけでもあるまいにと、混乱のままに相手の顔を凝視する。
「あの」
「頼む」尚隆はその場で膝を折ると、両手を床について頭を垂れた。「このと
おりだ」
「や、やめてください、延王!」
 焦った陽子もあわてて膝をつき、土下座している尚隆の肩に手をかけて起こ
そうとした。しかし彼は深く頭を垂れたまま頑として動かなかった。
「延王!」
 再度呼びかけた陽子が弱りきって顔を上げると、後ろで控えていた景麒も茫
然とした体で立ちすくんでいた。今回の訪問で、今までになく感情を覗かせる
尚隆に不安を覚えてはいたが、童話のよくある演出にさえすがりたいと思うほ
ど追い詰められていたのかと、予想外の反応に陽子は激しく動揺した。だが…
…。

632永遠の行方「王と麒麟(227)」:2013/04/17(水) 23:04:37
 彼女は景麒と尚隆を幾度も交互に見たのち、緊張とともに立ち上がった。無
駄だろうことはわかっていた。だが戯れとはいえ可能性を示してしまった以上、
この場で白黒つけるしかあるまい。
 彼女は枕元に立ち、穏やかに眠っている六太を見おろした。童話に倣えば頬
や額ではなく、やはり唇に接吻するのが順当だろう。
 陽子に恋愛の経験はなかった。当然、接吻を交わしたこともないから、これ
がファーストキスになるわけだ。もちろん国主の地位にある今、そんなことに
こだわったり動揺するほど純情なつもりはない。しかし無垢な様子で寝入る六
太には、勝手なことをして申し訳ないと思った。
 六太の背に腕を差し入れて抱き起こすのは何となくためらわれたため、枕の
両側に手をついて顔を近づけた。一瞬躊躇したのち、花の香りの中でそっと唇
を押し当てる。温かな体温を感じるとともに穏やかな寝息が顔にかかり、ああ、
本当に眠っているだけなんだと、ほんの少しだけほっとする。
 陽子は体を起こすと、つい息をつめて効果のほどを見守った。期待していな
いつもりだったが、それでも何事も起きないことを見定めるとかすかな失望を
禁じえなかった。
 振り返ると、尚隆は床に座り込んだままこちらを凝視していた。陽子は無言
で首を振った。
「そう、か……」
 尚隆はつぶやくと、疲れたように息を吐いて顔を伏せた。明らかな落胆の様
子に、結果的に期待をいだかせてしまった陽子は罪悪感を覚えたが、童話に
倣ったとしても接吻の相手は絶対に自分ではないだろうとは思った。
「あの。わたしより、どうせなら延王が接吻したほうがいいんじゃないでしょ
うか。延麒は麒麟です。物語で王女に配されるべきが王子だとしたら、麒麟に
配されるべきは王だと思うんですが」
 すると尚隆は大儀そうに立ち上がりながら自嘲気味に言った。
「接吻か。接吻なら俺は何度もしたぞ」
「えっ」
「正確には口移しだがな。そうやって何度も水や果汁を飲ませた。いくら神仙
でも喉の渇きはつらいものだからな」

633永遠の行方「王と麒麟(228)」:2013/04/25(木) 19:11:05
「はあ」
 あやふやな調子で応えた陽子は、何となく接吻と口移しとでは違うのではな
いかと思った。だがそんなふうに感じてしまうのは、彼女にこの手の経験がな
かったせいだろうか。確かに口を触れ合わせるという行為自体は同じなのだか
ら。
 やがて三人は牀榻を出、臥室にあった小卓を挟んで向かい合うように座った。
黙り込んでいる尚隆に、陽子はここ最近考えていたことを口にした。
「延王。わたしは呪の仕組みについては何も知らないし、そもそもこの世界の
理(ことわり)に疎い以上、市井の只人より物を知らないとは思いますが」
「ああ……。それが?」
「だから割り切って、この際、蓬莱人として考えてみました。延麒がずっと目
を覚まさないのは、要するに昏睡状態が続いているということですよね」
「そうだな……」
「そんなふうに怪我や病気で意識が戻らない状態を、今の蓬莱では俗に植物状
態と言います。とはいえ最近の進んだ医学でも人体についてまだまだ解明でき
ていないことが多く、医者が絶望を宣告した患者が奇跡的な回復を見せること
もあります。十人の医者が十人とも回復不可能と断言したとしても、必ずしも
一〇〇パーセント見込みがないわけじゃないんです。
 たとえばこんなことがありました。当時は感動の夫婦愛として大きなニュー
スになったそうですが、植物状態から絶対に回復しないと言われていた老人に
奥さんが毎日頬ずりしていたら、奇跡的に意識が戻ったんです。目を覚まさな
い奥さんに旦那さんが毎日話しかけ、音楽を聞かせたり、手足をさすったりと
刺激を与え続けていたら目覚めたなんて話も聞いたことがあります。夫婦のよ
うな親密な間柄の相手による継続的なふれあいは、地道に続けると病状を改善
させることもあるんです」
 陽子の知識の元は、ある日の保健の授業における教師の雑談だった。それを
記憶の底からさらいながら懸命に説明した。当時は、その時点で随分過去の出
来事であったのと、赤の他人ゆえの平凡な感嘆をいだいただけとあって細部は
あやふやだったが、医者に回復を絶望視されていた患者が、配偶者による触覚
的聴覚的な接触の継続のおかげで奇跡的に意識を取り戻したという基本的な構
図は覚えていた。

634永遠の行方「王と麒麟(229)」:2013/04/25(木) 19:13:12
 最初はいぶかしんでいた尚隆も話が進むにつれ興味を示し、真剣な表情で耳
を傾けた。
「景麒から呪について説明してもらったとき、どの方面からも破れない鉄壁の
守りをめぐらすのは難しいし、まず不可能と考えていいと言われました。誰に
も絶対に解けない完全無欠の術などない、だからこそあえて弱点たる解呪条件
を設け、解呪の試みによって生じるエネルギーがすべてそちらにそれるよう誘
導した上で、その部分のみを過剰に防御するのだと。正直なところその説明を
理解したとは思いませんが、要はどれほど堅牢に見える術でも解く方法がある
ということでしょう。それに何であれ、人間のやることに『絶対』はありえな
いはず。おまけに延麒の場合は自分の望みがかなったかどうかを知るための部
分は起きていると、少なくとも待ち受けている部分があると考えられるそうで
すね」
「らしいな」
「だったら延麒の体に毎日刺激を与え続ければ、もしかしたら条件を満たさず
とも意識が戻る可能性もあるとは思いませんか? 蓬莱で回復した患者の奇跡
の例にならって、親しい相手が毎日地道に話しかけたり頬ずりをしたりすれば、
時間はかかるかもしれないけれど延麒の反応を引き出せるかもしれないと思い
ませんか? だって延麒はもともと目覚めを待っているんだから、解呪条件に
合致しなくても外部からの刺激に反応する可能性がないとは言えない」
 陽子はそんなふうに意気込んだが、尚隆は難しい顔でこう答えた。
「話はわからぬでもないが、六太の近習はもともと毎日きちんと世話をしてい
る。床ずれが起きぬよう寝返りを打たせたり、関節が固まらぬよう手足を動か
したりさすったりしているぞ。美しい楽の音も聞かせている。だが今に至るま
で何の反応もない」
「もしかしたらまだ時間がかかるのかも。蓬莱での奇跡の例は、少なくとも何
年もかかったように記憶していますから。それにしょせん女官です。官は家族
じゃありません。少なくとも夫婦のように親密な相手というわけでは」
「……麒麟には家族も配偶者もおらぬだろう」
「王がいるじゃないですか!」陽子はここぞとばかりに身を乗り出すと畳みか
けた。「麒麟は王の半身、生命を分け合っている存在です。ある意味では夫婦
や親兄弟より近しい関係と言えるはず。ならば延王が毎日声をかけ、手足をさ
すったりすれば、延麒も反応するかもしれない。――そう、少なくともこんな
ふうに離れた宮殿で暮らすのではなく、正寝に連れて行って一緒に暮らすとか。

635永遠の行方「王と麒麟(230)」:2013/04/25(木) 19:15:23
景麒によると、麒麟は王といると嬉しく離れるとつらい気持ちになるそうです。
だったら毎日延王の近くに置けば、眠っているとはいえ延麒も嬉しく感じ、そ
れが良い作用を及ぼす可能性も――」
「確かに麒麟は王を慕う生きものと聞くが、果たしてどうかな。特に六太の場
合は、必要以上には俺に近づかなかったからな。つきあいの長さを思えば互い
に相手のことを知りつくしていてもいいはずだが、現状はほど遠い。というこ
とは実際のところ、あまり親しいとも近しいとも言えないのかもしれん」
 陽子の言葉を遮った尚隆はそう言い、同意を求めるかのように、同じ麒麟で
ある景麒を見た。
「慕う――というのとは違うと思いますが」ややあって、景麒は慎重な様子で
答えた。
「ふん?」
「王のそばにいると嬉しいという麒麟の感情は好悪とは無関係なのです。した
がって延台輔が延王を個人的にどのように思っておられようと、主上がおっ
しゃったように近くで生活なさるほうが望ましいのは確かです。王とともにあ
ることを切望するのは麒麟の本質ですから」
「好悪と無関係というのがぴんとこないな」陽子は首をかしげた。「だって王
の近くにいたいと思うわけだろう?」
「そうです」
 景麒はうなずいたものの、口下手な彼はそれ以上うまく説明できないよう
だった。だがさらに聞き出すうちに、ふと思いついたらしい尚隆が尋ねた、
「水のようなものか?」と。水は人が生きるのに不可欠だ。それがある場所に
住みたいと思うし、断たれれば苦しいが、自身の好悪の感情とは何の関係もな
い。せいぜいまずい水よりはうまい水を欲する程度だ。
 景麒は即座に「王と麒麟の関係に比するものなど存在しません」と否定した
ものの、最終的に部分的な比喩としては認めたのだった。
「なるほど、王は麒麟にとっての水か……」
「つまり生命の源にも等しいということですね」
 視線を床に落とした尚隆が低く笑うのへ、陽子は彼が皮肉な考えに囚われぬ
よう即座に言った。目を上げて彼女を見た尚隆に微笑して続ける。

636永遠の行方「王と麒麟(231)」:2013/04/25(木) 19:17:26
「だからこそ誰が王を見捨てても麒麟だけは味方です。麒麟だけは絶対にわた
したちを裏切らない。それが麒麟の性(さが)だと言ってしまえばそれまです
が、それゆえに忠誠が保証されているとも言えます。ならばそういう存在を与
えられたことはとても幸せなことではないでしょうか」
 もちろん即位して数年しか経たない陽子にそこまで実感できているはずがな
い。そもそもまだ景麒と信頼関係を構築できたとは言いがたく、親しさで言え
ば、彼より後に知り合った桓?や祥瓊のほうが勝るだろう。
 だが彼女は、遠い遠い未来の自分にも伝わるようにと、どこか祈るような気
持ちでそう言ったのだった。
 尚隆は静かに彼女を見つめ、やがて「そうだな」と彼も穏やかに笑った。
「では六太も、麒麟である以上、王たる俺のそばに置けば良い作用を受けるか
もしれぬな」
「ええ」
 尚隆はわかったとうなずき、女官を呼ぶと急いで黄医を召しだすよう命じた。
そうして何事か起きたのかとあたふたとやってきた黄医に陽子の提案を吟味さ
せた。
 詳しい内容を聞いた黄医は驚いたものの、迷うことなく「景王のご提案は一
考の余地がございます」と答えた。
「何しろ前例のないことですので、正直に申しまして呪に対する効果のほどは
わかりかねます。しかし少なくとも台輔に悪い影響があるとは思えません。む
しろ良い案であることは間違いなく、となれば台輔を主上のおそばにお移しに
なるのは拙官としても賛成いたします」
「そうか。害がないことがわかっているなら試しても損はない」
 尚隆は少しの間考えをめぐらせてから、期待をこめて控えている女官らを見
回した。
「六太を長楽殿に移す」
 主君の宣言に、女官たちは了解のしるしとしてうやうやしく頭を垂れた。
「毎日、俺のそばで過ごさせることで良い影響があるなら、多少なりとも術が
解けやすくなる可能性はある。そうなればあるいはふとした拍子に目が覚める
かもしれん」
 尚隆はそう続け、いつも六太の世話をしている面々が引き続きそばにいたほ
うが良かろうと、彼女らにも一緒に長楽殿に移るよう命じた。

637書き手:2013/04/25(木) 19:22:04
あう、桓魋が化けました。失礼。
いつもは数値文字参照に変えるのですが、うっかりそのままコピペしました。

きりがいいので、今回はこの辺で。

638永遠の行方「王と麒麟(232)」:2013/05/10(金) 19:07:51

 それからは大忙しだった。衣類を中心に六太の身の回りの物をまとめなけれ
ばならないのはもちろん、近習も大勢正寝に移動しなければならない。
 だが六太を長楽殿に移すとしても、侍官や女官、護衛といった面々が控える
房室も用意する必要があり、それとの位置関係も鑑みて具体的にどの房室をあ
てがうか決めなければならなかった。場所としてはとりあえず主君の臥室の近
くでいいのではという案が女官から出たが、彼女らと黄医や尚隆の話を横で聞
いていた陽子が口を挟んだ。
「近くでもいいでしょうが、この際ですから延王の臥室に延麒のための臥牀を
運びこむわけにはいきませんか?」
「俺の臥室に?」尚隆が聞き返した。
「そうです。どちらにしても昼間は政務がある以上、一日中一緒にいられるわ
けじゃありません。だったらせめて夜くらい、延王の目の届く場所に延麒がい
てもいいと思うんです。もちろん臥室は狭くなってしまいますが」
「それは別にかまわんが、わざわざ臥牀を入れることもあるまい」
「でも……」
「もともと俺の臥牀は広い。片側に六太ひとり寝かせておいても邪魔にはなら
んだろう」
「ああ――なるほど」
 意表を衝かれた陽子は瞬いたが、言われてみればその通りだった。金波宮で
もそうだが、ただでさえ王の牀榻は広い。臥牀そのものもキングサイズのベッ
ドより大きいと思われ、大の男がふたりで寝てさえ狭くはないだろう。一方が
小柄な六太ならなおさら。おまけに雁の主従は男同士であり、その点でも問題
のあろうはずはなく、新たに臥牀を運びいれるより遥かに手軽だった。何より、
わざわざそのための時間を作らずとも毎晩王のすぐそばにいることになるため、
陽子の提案に端を発する今回の目的にはむしろ都合が良い。
「とはいえ、俺の臥牀まで大量の花で飾られても何だがな。その辺は手加減し
てくれ」
 からかうように言った尚隆に、傍らの女官も苦笑いしながら「はい」と応え
た。

639永遠の行方「王と麒麟(233)」:2013/05/10(金) 19:09:55
「ではこちらで準備している間に、先に何人か長楽殿に遣りましょう。それか
ら台輔を輿でお連れいたします。本日中がよろしいでしょうか、それとも占卜
で吉日を占って――」
「そう大仰にすることもあるまい。どうせ帰るついでだ、今、俺が連れて行く」
 尚隆は女官がきょとんとしたのを尻目に臥牀に近づき、手早く衾で六太をく
るむと軽々とかかえあげた。そのまま「行くぞ」と周囲に声をかけてさっさと
歩き出す。我に返った女官らがあわてて身振りで指図しあって分担を決め、数
人が王につき従った。陽子も景麒にうなずいて後に続こうとしたが、黄医に声
をかけられて立ち止まった。
「恐れ入ります。しばらく長楽殿もこちらもばたばたするでしょうし、その間、
先ほどの昏睡状態からの回復例について今少し詳しくご教示いただけましょう
か。蓬莱で行なわれている介護の方法についても教えていただけると参考にな
るのですが」
「いいですよ」
 陽子は快く応じ、傍らの景麒には「延王とご一緒してくれ」と言って送り出
した。何しろ今は六太の使令がいない。房室の外で待っている護衛とともに戻
るとはいえ、万が一のためにも用心するに越したことはなかった。玄英宮にい
る間、陽子には常に景麒の使令がつくことになっていたから、ひとりでいても
彼女の安全には何の心配もない。
 黄医は残っている女官にも「景王からいろいろご助言をいただけることに
なった」と声をかけ、何人か一緒に話を聞くよう促した。陽子はあわただしい
雰囲気になった六太の臥室を出、近くにある落ち着いた小部屋に案内された。
「わたしは医療の専門家ではないため、あくまで伝聞による素人の私見になり
ます。それから先ほど延王や黄医にご紹介した蓬莱における回復例ですが、も
ちろん滅多にあることじゃないでしょう。だからこそ奇跡だと騒がれたのだと
思います」
 最初に陽子はそう断って、彼らが過剰な期待をいだかぬよう釘を刺した。希
望を持つのはいいが、効果がなかった場合の落胆の大きさを思えば確実視され
ても困るのだ。何だかんだ言っても尚隆はその辺の区別を冷静につけられるだ
ろうが、臣下がどうかとなると心もとない。仮に効果が出るとしても、少なく
とも数年はかかると思われればなおさらだ。

640永遠の行方「王と麒麟(234)」:2013/05/10(金) 19:11:59
「心得ております」黄医はうなずいた。「そもそも呪に強制された眠りと、怪
我や病による昏睡とはやはり性質が違いましょう。しかし実際に台輔がお目覚
めになるか否かはさておき、良い影響があるらしいとわかればお世話をするほ
うも安心して取り組めます。意識はなくとも快く感じておられるかもしれない
と思えば張りも出ます」
「わかりました」
 陽子もうなずき、意識が戻らなかったり、肢体が不自由になった患者の介護
に関する話題を懸命に思い起こして話した。女官たちも熱心に聞き、六太のた
めとあって幾度となく質問もし、時にはこれまでの介護方法を実演して陽子の
助言を仰いだ。
 そうやって彼らの相手をしながら、陽子は先ほど六太を抱きあげて歩き去っ
た尚隆の姿を思い浮かべた。所作がきびきびとしていたせいか、どこか気持ち
に張りが出たように見えた。少なくとも気がまぎれたことは間違いなく、これ
で朱衡も少しは安心するだろうかと思う。日頃の後援の礼は、昨日の花見の宴
で同席の三人に既に述べていたのだが、やはり具体的に役に立てたと思えるほ
うが嬉しいものだ。
 午(ひる)になり、長楽殿の尚隆から昼餉の誘いが来たのを機に陽子が立ち
あがると、女官のひとりが「本当に景王には何とお礼を申しあげて良いか」と
しみじみと感謝を述べた。
「最近では官の中にも公然と台輔を見捨てるべきだと放言する不埒な輩がいる
上、このところ主上もあまりお見舞いにいらしてくださいませんでした。でも
景王のおかげで台輔を主上のおそばにお連れすることもできましたし、これで
わたくしどもも少しは溜飲が下がります」
「これ、景王に申しあげることではありませんよ」
 別の女官が朋輩の軽はずみな発言を叱責した。陽子は一瞬だけ迷ったものの
「朱衡さんからお聞きしています」と答えた。
「何でも、延王に延台輔を見捨てるべきだと進言した官がいるとか」
 注意したほうの女官に尋ねると、相手は少々ためらいを見せたのち慎重に答
えた。

641永遠の行方「王と麒麟(235)」:2013/05/10(金) 19:14:02
「確かにおるようです。わたくしどものところまで詳細が聞こえてきたわけで
はありませんが、解呪が難しいと思われる以上、無駄な努力は放棄して政務に
勤(いそ)しむべきだと。それが結局は雁を案じていた台輔に報いることにな
ると」
「そうですか」陽子は少し考えてからこう続けた。「仁重殿の皆さんもいろい
ろ苦労があることでしょう。進言した官も雁のために心を鬼にしたのかもしれ
ない。ただ、延王が延台輔のことを気にかけているのは確かです。皆さんも延
台輔を心配しているでしょうが、あえて言いますと、一番衝撃を受けているの
は延台輔の半身である延王です。ただそういった内心を容易に明かす人ではな
いというだけ。何かと雑音も聞こえてくるでしょうが、延王を信じて引き続き
延台輔のお世話をしてあげてください。物事というものは、何であれ疑おうと
思えばいくらでも疑えます。でも今必要なのは、延王を信じ、どれほど時間が
かかろうと延台輔が目覚めることを信じることだと思います。そのこと自体が
延王を支えることになりますから」
「承知いたしました。お言葉を肝に銘じていっそうの忠勤に励みます」
「申し訳ございません。つまらぬことを申しまして」
 女官たちは礼と詫びとで頭を下げ、陽子も「皆さんが不安に思うのもわかり
ますから」と優しく応じたのだった。

 昼餉の場は尚隆の臥室の近くにある、広く気持ちのよい露台だった。仁重殿
からついてきた女官たちが、長楽殿の尚隆の近習と協力して六太のためにいろ
いろ整えているのが遠目に見えた。
 案内されてきた陽子はそれを一瞥し、促されるまま卓についた。献立は、彼
女のためだろう、蓬莱ふうの料理を取りまぜた繊細かつ美味なものだった。
「身体を動かしているせいか、女官たちも良い気分転換になったようだ」
 果実酒を勧めながら言う尚隆自身、気がまぎれたらしく、今朝より格段に明
るい顔をしていた。陽子はにっこりして杯を受けた。
「何ならわたしが玄英宮にいる間だけでも碧双珠を貸しましょうか? 延麒が
怪我でも病気でもないことはわかっていますが、身につけさせれば良い作用が
あるかも。それに多少は飢えや渇きがやわらぎます」

642永遠の行方「王と麒麟(236)」:2013/05/10(金) 19:16:05
「主上」さすがに景麒が咎める声を出した。彼は主が碧双珠を身体から離すこ
とに良い顔をしない。
「ここにいる間だけだ」陽子はなだめるように言った。「心配ならその間、延
麒におまえの使令をつけておくといい。延麒の護衛にもなる」
「すまぬが、そうしてくれ。呪に対する効果までは期待せぬが、飢えや渇きが
少しでもやわらぐならありがたい。意識がなくとも身体は苦しんでいるかも知
れぬでな」
 尚隆も丁寧に景麒に頼んだ。景麒は逡巡ののち「わかりました」と答えた。
 食事を終えて尚隆の臥室に赴いた彼らは、碧双珠につけた紐を六太の首から
下げた。ちょうど女官たちがひとまず房室のしつらえを終えたところで、三人
はそのまま人払いをして臥室の片隅で椅子に座った。
「冬官の作業で進展と言えるものは本当にないのですか?」陽子が尋ねた。
「正確には判断がつかぬといったところだ。何しろ実際に大当たりを引き当て
るまで、何が解呪条件かわからぬわけだからな。新年に春官府の占人が手がか
りを求めて占卜を行なったが、身のある内容が得られたとは言いがたい。ああ
いうものはたいてい、どうとでも解釈可能だ」
「そうですか……」
「長丁場は覚悟している」
「はい」
 陽子はうなずいた。

 一方、朝議を終えた朱衡は、六太の見舞いに赴いた陽子と主君のやりとりは
どうなったろうと気にしながら、陽子を昼餉に招くために仁重殿に使いをやっ
た。そこで急遽六太を長楽殿、それも尚隆の臥室に移すことになったと聞いて
驚いた。しかも既に尚隆自身が六太を連れていったという。
 そのまま主君は陽子と景麒を昼餉に招く意向との話だったので、自分も食事
を済ませて時間を計ってから長楽殿に赴いた。人払いがなされている最中だっ
たが入室を許され、朱衡はひとりで主君の臥室に向かった。房室に入ると、仁
重殿の六太の臥室がそうだったように牀榻の扉は開け放たれ、帳は巻きあげら
れていた。臥牀の奥では六太が穏やかに眠っているのが見えた。

643永遠の行方「王と麒麟(237)」:2013/05/10(金) 19:18:09
「これはまた、急なことで」
 驚きのまま、拝礼もそこそこに言うと、尚隆が「善は急げというからな」と
笑った。
「蓬莱で意識が戻らず疾医(いしゃ)に見放された病人に対し、伴侶が声をか
けたり手足をさすったりする献身的な看護を続けていたら目覚めた例があるそ
うだ。それを思えば、麒麟は王といると嬉しい生きものゆえ、俺のそばに置い
て俺が声をかけたり手足をさすったりすれば良い効果がもたらされて呪が解け
ぬとも限らぬ。まあ、蓬莱の例はあくまで病の話だし、奇跡とも騒がれた稀有
な例だそうだから安易に期待はできぬが、何もせずに手をこまねいているより
はましだろう」
 朱衡は、なるほどと納得した。そうしてから、これほど好ましい措置もない
だろうことに気づいて、提案したという陽子に感謝した。これで玄英宮で一部
に広がりつつある、王はもう宰輔を見捨てたいのだという見当違いの噂を抑え
ることができようからだ。六太を王の臥室に寝かせること以上に、尚隆の関心
と気遣いを示す行為はない。しかも王みずから運んだとあっては。主君の見舞
いが間遠になっていたことを憂(う)いていた六太の近習にしても、これで力
づけられるに違いない。
 さらに朱衡は、六太の胸元を飾る碧双珠の青い輝きを認めていっそう驚いた。
玄英宮に滞在している間だけとのことだったが、いかに後援である雁を頼りに
しているとはいえ、慶の大事な宝重なのだ。まことに景王は情に厚い人柄だと、
彼は感服した。
 尚隆が言った。
「六太の世話の勝手がわかっているだろうから、六太の近習もこちらに移す。
それ以外はもともと人手が足りぬでなし、正寝の者で何とでもなろう。殿閣の
手入れもあるから、仁重殿を完全に空けるわけにもいかぬしな。六太が目覚め
れば、また戻ることになるのだし」
「冢宰へは」
「先ほど使いをやった。あとのことは白沢が適当に計らうだろう」
 主君の声音には張りがあり、朱衡は安堵した。油断はできないにせよ、気分
が浮上したらしいことは単純に喜ばしい。
(やはり景王においでいただいて良かった)

644永遠の行方「王と麒麟(238)」:2013/05/10(金) 19:20:12
 尚隆がいったい何に滅入っていたのかはわからない。しかし在位年数という
決定的な差があるとはいえ、同じ王という立場にある者との交流は良いほうに
転んだようだった。
 陽子に招待の使いを送ったのと同じ時期に朱衡は帷湍にも個人的に青鳥を送
り、宮城の近況を報せていたが、こちらも感触は悪くなかった。自主的に謹慎
している体の帷湍であり、いくら親しい朱衡からとはいえ、私的なやりとりは
先方も歓迎してはいなかった。しかし困難な状況にあるのは確かだが、だから
こそ地方州がしっかり支えねばならないこと、帷湍が治めるがゆえに多少光州
と連絡をせずとも安心していられることをはっきり伝えると、あちらも気を取
り直したらしい。朱衡への青鳥の返信で、光州は任せろ、こちらはこちらで
しっかり国を支えるときっぱり伝えてきたのだった。何だかんだ言っても、や
はり激励は必要だったのだ。
 朱衡は尚隆とともに、蓬莱における介護の例も陽子から興味深く聞いた。尚
隆が言うように呪に対する効果のほどはわからないとはいえ、六太が少しでも
心地よく過ごせる可能性があることならありがたいことだった。
 尚隆の指示で、陽子と景麒は正寝に房室を用意されて朱衡の私邸から移り、
それからさらに四日滞在した。せっかくの機会ということで、陽子は朱衡以外
の六官とも交流を深め、おしのびで各官府の見学までした。そして日に一度か
二度、必ず六太の見舞いに訪れてくれた。
「次はぜひ延麒の快気祝いに駆けつけたいですね」
 最後の日、朱衡が約束の贈りものを運ばせるためにつけた騎獣や従者ととも
に帰国の準備をしながら、陽子はにこやかに言った。明るい表情で確信をこめ
て言われると、それだけで勇気づけられる思いだった。
 贈りものについては話を聞いた尚隆が色をつけてくれたのだが、十数頭もの
大柄な騎獣に分けて積載された高価な品や金貨の山に彼もさすがに驚いたらし
い。朱衡を一瞥して「大盤振る舞いだな」と苦笑していた。
「拙官もそのように願っております」
「ではまた」
「道中、お気をつけて」
 朱衡は深々と拝礼し、主君や冢宰、他の六官とともに隣国の王と麒麟の出立
を見送った。

645書き手:2013/05/10(金) 19:22:15
慶サイド(陽子)の登場はたぶん、全編を通して今回でおしまい。
仮に出てくるとしてもイレギュラーです。

次回は再び、ぐるぐる尚隆で、六太が目覚めるまであと少しかかります。
とはいえ陽子訪問がこの章のひとつの区切りだったので、
終わりも何となーく見えてきました。
地の文でさらりとすませるか、実際にシーンを描写するかにもよりますが、
あと数回の投下でけりがつくんじゃないかと。


ところで今、完全版(新装版)の『東の海神 西の滄海』を読んでいるんですが、
蓬莱において六太が尚隆を呼ぶ場面で、「なおたか」とルビのある箇所はなさそうですねぇ。
それどころか地の文とはいえ、六太視点で「しょうりゅう」というルビが出てきちゃってる。
完全版はやたらとルビが振られており、「もしかして?」とちょっと期待しただけに残念。

646名無しさん:2013/05/12(日) 22:31:56
乙ですー
尚隆の追い詰められていっぱいいっぱいな感じが新鮮で素敵ですなw

647名無しさん:2013/05/14(火) 01:04:34
陽子ありがとう!という気持ちになりますなぁ。

新装版はまだきちんと読めてないけど
なおたかはないっぽい気がする。

648永遠の行方「王と麒麟(239)」:2013/05/24(金) 22:35:52

 陽子と景麒が去って、玄英宮に日常が戻った。尚隆の目には不思議に色褪
せて見える、自分と六太の周囲だけ時が凍結しているような日常が。
 突然の陽子の訪問には驚いたが、朱衡が私財を投じて招待したことを知って
さらに驚いた。どうやらそれによって主君の気を紛らわせようとしたらしく、
そこまで真剣に心配されていたのかと苦笑した。確かに我ながら気分が滅入っ
ているのは自覚していたし、それでいてさほど言動を取り繕ってはいなかった
から、長年の側近である朱衡が懸念したのは当然ではあった。
 内心で、さてさて悪いことをした、と茶化すように考えながらも、六太を唯
一の蓬莱の形見と悟ったあとでは、やはり完全な平常心は取り戻せなかった。
このまま六太を失うようなことがあれば、きっと自分は心の拠りどころを失う、
そんな予感がした。
 近臣の中には、主君の気持ちを推して慮っている者もいよう。だが、二度と
帰れない異世界を故郷に持つ者の気持ちは、おそらく実際に経験した者にしか
真に理解はできまい。
 むろんこの世界にも故郷を失った者は大勢いる。特に遥か昔に昇仙した古株
の官は、生まれ育った里そのものがなくなっている場合さえある。だがそれで
も彼らには、里や国は違えど、同じ理(ことわり)に支配され、同じ時代の空
気を吸っていた同胞(はらから)がこの世界に大勢いるのだ。
 六太でさえ、親に捨てられたという悲運はさておき、今では蓬莱にさほど執
着していないかもしれない。特に彼はあちらと自由に行き来できたのだから、
そのぶん執着心が薄くても当然だろう。だが蓬莱ゆえに半身にこだわっている
のは尚隆のほうだけだったとしても、彼にとって六太がかけがえのない存在で
あることに変わりはなかった。

 六太の近習は日中は六太の世話をし、夜は尚隆に任せて臥室をさがる。通常
の不寝番は隣室で、護衛は扉の外で常に控えているため、特に問題はなかろう
と、夜間は詰めておらずとも良いと尚隆が言い渡したからだ。実際、昏々と
眠っているだけの六太だから、寝所を移してからこれまでの数日で不都合なこ
とは何も起きていない。

649永遠の行方「王と麒麟(240)」:2013/05/24(金) 22:37:55
「それでは主上、台輔。お休みなさいませ」
 その夜も一礼して退出する女官らを笑顔で見送ってから、尚隆は牀榻の帳を
開けた。臥牀の奥では六太が横たわっていたが、日に何度かそうなるように、
今もうっすらと目を開けて放心した風情を見せていた。
 臥牀の上、すぐ傍らであぐらをかいた尚隆は、そんな六太をぼんやり見おろ
した。
 不思議だな、と切ない気持ちでつくづく思う。麒麟は必ず王の近くに侍るも
の。その心も、景麒が言ったように好悪の別はさておき、常に王とともにある
と言えるだろう。たとえば乱心した王が麒麟を遠ざけることはあっても、麒麟
が自分の意志で王から離れることは決してない。だから六太も傍らにいて当然
だと思ってきた。もしも心が遠く離れるなら、王である自分のほうだろうと。
 だが現実には今、身体はあるものの六太の心はここにない。夢も見ない眠り
に囚われたままなのだから完全な空白であり、王に対する関心すらないわけだ。
尚隆はこうしてそばにいて彼を気にかけているというのに。
「陽子と景麒は慶に帰ったぞ。おまえが目覚めたら、くれぐれもよろしく伝え
てくれと言っていた」
 静かに話しかける。王がそばにいて声をかけることで、少しは良い影響があ
るだろうかと考えながら。それから不意に口の端に笑みを浮かべ、からかうよ
うな声を投げた。
「おまえ、陽子に接吻されたのだぞ。わかっておるか?」
 だがそのからかいにも淋しげな色は禁じえない。
 陽子が眠り姫の話題を出したとき、もしや、と彼は期待した。六太の懸想の
相手が彼女であるなら、陽子に接吻されれば目が覚めるのでは、と。
 六太が恋の成就を望み、それが最大の願いだった可能性は高い。ならば呪者
は皮肉を込めてその意を汲み、相手の女性との何らかの接触を解呪条件にした
に違いない。しかしながら神獣であり性的に幼いと思われる六太と、普通の男
のような生々しい欲望は結びつかない。ならば――。
 ところが実際には解呪は果たせず、落胆した尚隆は、ごくごくわずかな時間
の間に自分がいかに激しい希望をいだいたのか思い知った。

650永遠の行方「王と麒麟(241)」:2013/05/24(金) 22:39:59
 しかし他国の王にこれ以上のことは望めない。望んでいいことではない。ど
んなに滅入ろうと、それがわからないほど道理を見失ってなどいない。余裕の
ない国の国主が、大量の贈りもので乞われたとはいえはるばる雁にやって来て、
他国の麒麟に接吻までしてくれた。それでもう十分だ。
 遠くに思いをはせるようにふと牀榻の天井を仰いだ尚隆は、彼にあえて厳し
く接した陽子の言動を思い浮かべた。なんだかんだ言っても実際のところは、
別段、それを不快に感じたわけではない。尚隆を力づけようとしているのはわ
かっていたし、むしろ若さゆえの大胆な言動に、かつての泰麒捜索の折、玉座
などいらないと臣下の前で言い放ったときの浅慮をなつかしく思い出しさえし
た。
 彼女は若い。若すぎてまだまだ自分の感情を抑えることができない。しかし、
だからこそ成せることもある。それに以前は言動の影響を慮るところまでいか
ないことも多かったが、さすがに今回はそれなりの予測をもって行動したのだ
ろう。
 六太に視線を戻した尚隆は、彼女と文をやり取りしていた六太の言を思い出
した。
 六太は、陽子にはあまり先行きが暗くなりそうな話題を振らないように配慮
していると軽口で言ったものだ。既に五百年以上を生きている自分たちとは違
う、老爺の繰り言は若い心にはそぐわない、と。
 確かに蓬莱の稀有な回復例を引き合いに出しての励ましなど、生きることに
倦んだ者にはとても思いつかないだろう。あれはどんな低い可能性にも希望を
失わない、生命力に満ちたまっすぐな心ゆえに口にできた言葉だった。おまけ
にまだまだ彼女はこの世界の理に通じたとは言えず、天帝の思惑よりも自分の
信念のほうを無意識に信じている。
 ならば、この際それに賭けてみてもいいだろう。
 もちろん陽子の提案に過剰な期待をいだいたわけではない。この世界は蓬莱
とは違う理に支配されている。あらためて考えるまでもなく、しっかり施され
た呪が解呪条件以外に解ける可能性はほとんどないと思われた。
 ただ、もしかしたら、ということはある。ほんの毛筋ほどでも可能性がある
ならば、諦める前にあがいてみるのもいい。

651永遠の行方「王と麒麟(242)」:2013/05/24(金) 22:42:03
 それに尚隆は天意を享(う)けた王だ。国内の状況から言っても、各種占卜
に凶兆が現われていないことを鑑みても、決して天命を失ったわけではない。
ならば天運は王に味方するはずだ。
 そう考えるのは別に彼が天帝を信じているからではない。少なくとも尚隆に
は天帝に対する「信頼」や「信仰」といった情緒的な感情はなかった。ただ経
験則から導きだした論理的な考えから、創造神に類する存在の確信があっただ
け。だからこそ天命を享けた王の運の強さを含め、この世界が天意を反映する
ように作られていることを納得して、ある意味では突き放すような冷静さで受
け入れてきた。条理の大いに異なる別世界からやってきただけに、いったん作
為の存在を得心すれば、世界の成り立ちをも含めた全体を俯瞰する視点に立っ
て割り切りやすかったのかもしれない。
 それゆえ、これまで謀反が起きたときの大胆な対処法も、天運を味方にして
いる王としてのおのれは必ず念頭に置いていた。もし天が尚隆にまだ雁を治め
てもらいたいと考えているなら、この危機も乗り越えられるだろう――尚隆自
身が諦めさえしなければ。
 問題はそこだった。
 六太が唯一の蓬莱の形見だと自覚し、なのに彼に見捨てられて一時的に憤り
に似た絶望に駆られはした。それはある意味では感情のほとばしりであり、負
の方向にとはいえ生の躍動感の発露でもあった。
 ところが今はそうではない。尚隆は不思議と覇気を失ってしまった自分を明
確に自覚している。食事をして初めて空腹だったことを自覚するように、立ち
止まって初めて歩き疲れていたことを自覚するように、ふと歩みを止めて進ん
できた道を振り返ってしまった尚隆は、これまで感じなかった疲労を、再び同
じように歩き出すには億劫だと思うような倦怠感を覚えてしまったのだった。
 おそらく、とどこか物憂い気分の中でも冷静に分析する。治世の最初の数十
年のようにやることが山積みで、国そのものも貧しかったらここまで迷いに捉
われはしなかったろう。そんなことに意識を割かれるほどの余裕はないからだ。
たぶん六太の望みどおり、彼を捨て置いても国政に力をそそいだに違いない。
余裕ができるのは喜ばしいことだが、暇がありすぎると得てして余計なことを
考えてしまうという見本かもしれない。

652永遠の行方「王と麒麟(243)」:2013/05/24(金) 22:44:07
 そもそも最初の百年で雁の全土はいちおうの復興を遂げた。続く百年で安定
した発展を続けてきた。つまり国を平和に豊かに治めるという目標は何百年も
前に達成できているのだ。進むべき段階的かつ具体的な目標と、最終目標に対
する未来像を描けているうちは気が張っているからいい。だが実際にそこに到
達してそれなりの達成感を得たあとは、ただ後戻りしないよう、少しずつでも
歩み続けるだけのゆるやかな現状維持だ。そこにもはや大局的な目標はない。
 人間というものは贅沢や便利さにすぐ慣れてしまうものだ。その上いったん
慣れると、少しでも後戻りすると不満を感じてしまう厄介な性質があるのだか
ら、国の安寧を保つためには決して立ち止まるわけにはいかなかった。だがだ
からといって既にどこへ行けるというものでもない。
 ふと尚隆は、自分はどうしたいのだろうかと考えた。ただ前に進むだけの、
永遠に続く重責の連続をこれからも続けるのか――たったひとりで。
 何を達成しても、傍らで共に喜ぶ者がいなければ張り合いはない。そしてそ
れは尚隆が意のままに罷免でき、いくらでも余人に代えられる官では物足りな
かった。
 むろん麒麟も王の臣下だが、王の選定という役目を負った神獣で、王の生命
も握っている特殊な立場にある。それゆえに玉座の象徴とされ、王の半身と呼
ばれる。いわば共同で王位を守っているようなものだ。主従ではあり、本気の
勅命を拒否することはできないとはいえ、王に対して真に強い態度を取れる唯
一の存在だった。
 だからこそ、このままむざむざと六太を失うことを認めてはだめだ、とは思
う。きっと天命ある王の終焉は、王自身が諦めるか否かにかかっている。諦め
さえしなければ、どんな困難も克服できるのではないか。たとえ間一髪で命を
失うような危険の連続にさらされてさえ。この世界に連れてこられた陽子の過
酷な放浪の旅 がそうだったように。
 そもそも尚隆はこれまで何事も諦めたことはなかった。暗い滅亡の誘惑に駆
られてさえ、その動機はどうあれずっと前を見据えていた。しかしいったん立
ち止まって足跡を振り返ってしまうと、既に目標を達成してしまっただけに、
これまで感じなかった疲労による誘惑は甘美だった。そろそろ荷を降ろして休
んでもいいのではないか、という魔のささやきは甘露のごとく甘く優しい。

653永遠の行方「王と麒麟(244)」:2013/05/24(金) 22:46:10
 何しろこの世界の王に老衰による自然死はない。天命を失っていないならな
おさら、禅譲にしろ弑逆にしろ、どこかの時点で王なり臣下なりが決断するし
か王朝の終焉はありえない。
 その上、彼は永遠など信じていなかった。武士は散り際が肝心だ。むろん王
の心構えとしては永遠を目指すべきだろうが、同時に終焉のことも想定してお
かねばならない。見たくないものを見ない、考えたくないことを考えないとい
うのは、市井の民なら許されるかもしれないが、王たる者の精神ではない。
 だが六太のことが原因で尚隆が王の位を退くことは、きっと六太を裏切るこ
とだ。たとえ愛する女性のために呪者に屈したのだとしても、尚隆がいれば国
の安寧は保たれると信じればこそ、覚めない眠りを受け入れたのだろうから。
 なのにこんなふうに惑っている主君を見たら、六太はいったい何と言うだろ
う。「なに、柄にもなく深刻に考えこんでんだよ」と呆れるだろうか。
「深刻にもなろう。半身に見捨てられたとなれば」
 ふと苦笑まじりにつぶやいたものの、六太は時に凍結されたように静謐をま
とったまま、実際に声が届くはずもない。しかし尚隆は脳裏で彼がわざとらし
く顔をしかめたのを感じた。
(ひねてんなー。見捨てるも何も、いつも俺を無視して勝手にやるくせに)
 確かに、と続けて苦笑する。万事に見通しの甘い六太の諫言や進言を聞き入
れたことは一度もないのだから。
(じじいになると繰り言が増えるんだよなぁ。やだねー、愚痴っぽくて)
 幻の六太は呆れたように肩をすくめている。尚隆は手を伸ばして、眠る六太
の頬をなでた。
 今にも起きあがって、幻聴ではなく本当に以前のような憎まれ口をたたかな
いだろうか、と夢想する。しかし現実にはただ横たわっているだけ。
 尚隆は六太が、王には何も悪影響がないことを呪者にしつこく確認したとい
う鳴賢の言を思い出した。王がいなければ国が荒れるのはすぐだから、と説明
したという。おそらく尚隆が王でなければ、この少年にとって何の価値もない
のだ。

654永遠の行方「王と麒麟(245)」:2013/05/24(金) 22:48:14
 だがそれは当たり前だ。六太は麒麟だ。麒麟が王を求めるのは本能であり、
それ以上の意味を求めるものでもない。おそらくは麒麟でなければ、尚隆の存
在に意識を向けることさえなかったに違いない。
 それでも少しは王としてではなく、個人としての小松尚隆を気にかけたのだ
と思えたらどんなにいいだろう。五百年もの間、苦楽をともにし――少なくと
も同じ時代の蓬莱に生まれ、同じ時を過ごし、ここまで来た。彼を玉座に据え
た当人とはいえ、いや、だからこそ、六太にとって尚隆が王でなければ一片の
価値もない存在だとは思いたくなかった。
 だが真実を知ることは尚隆には永遠にできない。彼が王でなくなるのは死ん
だあとなのだから。何より、ふたりは出会ったときから王と麒麟でしかなかっ
た。
 ――そう、王と麒麟だからこそ出会った。
 半身の顔を眺めながらそんなことをつらつらと考えていた尚隆は、徐々に心
の中に何かがしみいるのを感じていた。
 たとえ六太が陽子に懸想をしていようと、尚隆には天に強いられた忠義しか
なかろうと、そのこと自体は大した問題ではないのかもしれない……。
 ――なぜなら。
 なぜなら彼らは最初から王と麒麟だったのだから。だからこその出会いだっ
た。でなければ尚隆はあの瀬戸内の海で討ち死にしていたはずだし、そもそも
六太はそのずっと前に飢えて死んでいたのだろう。
 王と麒麟だからこそ出会った。そこへ、もし王でなかったら麒麟でなかった
らと仮定することは意味がない。
 ならば。
 それこそが自分たちの絆だ。王と麒麟であること、それ自体が。
 陽子に対するようなこまやかな気遣いを示されずとも、個人としての尚隆に
など六太がいっさい関心を寄せていなかったとしても。尚隆との間にも余人と
の関係に代えられない培ってきたものはあるはずなのだ。
 ――ならば。
 ならば王としてできるだけ長く六太の前にあること。それができれば。
 尚隆は拳を握りしめた。その目に一瞬、強い光が蘇る。
 このまま諦めてしまうことはできなかった。

655書き手:2013/06/03(月) 19:25:00
また海客などのオリキャラが多少関わってしまうこともあり、
ちまちま小出しにするのではなく、
この章の終わりまで書き上げてから一気に投下したいと思います。
そのためしばらく……というか、おそらく今度はかなり間が開きます。

尚六的承&転となる次章に突入してしまえば、
宮城における尚隆と六太のやりとりが主体になるため、
少なくとも下界のオリキャラはほとんど出ないんですけど。

656名無しさん:2013/08/19(月) 21:01:31
この作品に会えてよかった(*´∀`)

657名無しさん:2013/08/23(金) 10:45:28
応援してます

658書き手:2013/10/27(日) 20:43:56
章の終わりまで書いて一気に投下、と予告しましたが、
しばらく二次創作から離れていたので全く進んでいません(汗)。
と言っても十二国記から離れていたわけじゃないんですが。

当初は書き溜めていた部分も含めて推敲するつもりでそう予告したんですが、
時間が経って、別にこのままでもいいかぁと思ってしまったので少しだけ落とします。
ただ本格的に続きを投下するのはまだ先になります。




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