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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

142永遠の行方「呪(54)」:2008/12/07(日) 12:38:07

 雲海上の一画にぽつんと浮かんだおぼろなしみは、見る見るうちに大きくな
り、ほどなく騎兵の一団であることが誰の目にも明らかになった。
 光州の令尹は、同じように主君の到着を待つ官らとともに安堵の思いをかみ
しめながら、王旗を翻す数百の騎兵を見守っていた。無能者の烙印を押されて
更迭されることを恐れる気持ちはあるが、今は王がじきじきに乗りだしてきた
ことに対する安堵のほうがはるかに大きい。何しろ幇周の件もあり、事態はも
はや自分たちの手に負えないと感じていたからだ。
 州城の高官ですらこのありさまだから、市井の民に至ってはかなりの不安を
覚えていただろう。しかし謀反人のたくらみによる病の発生という不気味な触
れは、行幸の触れと対になっていたためか、一般の民衆に混乱は生じていない。
もともとそんな事件があったことを知らなかった大多数の者は「主上がおいで
になるなら大丈夫だろう」とあっさり受けとめていたし、恐慌に駆られかけて
いた葉莱や幇周の近隣住民も、被害に心を痛めた王が人心を慰撫するために行
幸を決意したと聞き、とたんに落ち着きを取り戻したからだ。
 五百年の治世を誇る延王は、民衆にとって神そのもの。限りない尊崇の対象
であると同時に、雁の民としての誇りの源だ。主上がおでましになるのならも
う大丈夫、すべてお任せしておけば良いと、皆信頼しきっていた。
 むろんもし期待を裏切られた場合、それが大きかったぶん失望も大きく、事
と次第によっては国を揺るがす自体に発展するかもしれない。だがそんな結末
は誰も想定していなかった。そもそもこの事態を収められなければ国家の土台
が危ういとさえ思える深刻な事件なのだ。
 光州城の路門に次々と降り立った騎兵は、すぐに駆け寄った大勢の州夏官に
騎獣を任せ、王および州候に付きしたがって整列した。礼装でこそないが、形
や色調が統一された重厚な鎧をまとった禁軍五百兵の堂々たる威容はいかにも
頼もしく、統制の取れたきびきびとした振る舞いは、威圧感よりも州城の者に
対する礼節を感じさせた。先頭に立つ王自身は儀礼軍装である。もともと武断
の王という印象の強い延王だから、その軍装は彼によく似合っていた。
「このたびの不始末、申し開きのしようもございません。主上におかれまして
は――」

143永遠の行方「呪(55)」:2008/12/14(日) 23:16:00
「面(おもて)を上げよ、士銓(しせん)。そのようなやりとりで無駄にする
時はないぞ」
 平伏して王に詫びを述べようとした令尹に大股で歩み寄り、そのまま前を通
り過ぎた王が鷹揚に言った。新年の慶賀に州候の名代で関弓に出向いたことは
あるし、お忍びで帷湍の元にやってきた王に会ったことも一度あるものの、別
に親しく口を利いたわけではない。なのにまさか字を覚えられているとは思わ
ず、驚いた士銓は反射的に顔を上げていた。
 主君に従って目の前を通り過ぎた州候帷湍が「言い訳はあとだ。まずは現状
の報告を」と声を投げたため、士銓はあわてて立ちあがった。随行の禁軍兵士
のうち数名の護衛のみを従えて州城に入る王の後を追いながら、名目は行幸だ
が、確かに王自身が事件解決に乗りだしたのだと改めて実感する。
「触れを出したあと、民の様子は」
「大事ございません。何しろ謀反人が流行病を引き起こしているという信じが
たい出来事ですから、多少の混乱はあったようですが、主上のおでましを知っ
て皆安堵したようです。葉莱や幇周の近辺も落ち着いております」
「なるほど。幇周の病人は」
「隔離して手当てしておりますが、薬石のたぐいも効かず、残念ながら手の施
しようがない状態です。今朝までに死者が四名出ております」
 内宮に向かいながら、王から矢継ぎ早に投げられる質問に答える。王のきび
きびとした所作は、かつてお忍びでやってきたときののんびりした風情とはま
ったく異なっていたものの、鷹揚な雰囲気はそのままだった。もし王が焦燥を
見せていたのなら士銓も不安に駆られたろうが、どこか余裕のあるさまに彼は
力づけられた。
 かと言って王が事態の深刻さを理解していないわけではないだろう。そもそ
もそれなら、新年早々二千五百もの兵を従えてやってきたりはしない。むろん
公式の訪問ではあり、それなりの規模の護衛を揃えるのは権威を示すためのみ
ならず光州に対する礼儀としても当然で、派手好きな王ならもっと人員を割く
だろう。しかし普段は体面を気にしない主君がこれだけの兵とともに軍装でや
ってきたという事実は、事態を公にしたことと併せ、絶対に解決するという意
気を示すものと受けとめられ、令尹以下、州官は強く勇気づけられた。

144永遠の行方「呪(56)」:2008/12/23(火) 12:38:30
 とりあえず内宮の一室に落ち着いて軍装を解き、装束をあらためた王に、士
銓はさらに詳細な報告をした。
「まず青鳥でご指示いただいた呪具の探索についてですが、今のところ里の内
外からは何も見つかっておりません。しかしいざとなれば家屋をすべて取り壊
して調査することも考えております」
「くれぐれも慎重にな。呪具というものは、素人が下手に動かすとまずいもの
もあると聞くからな」
 横から口を挟んだ帷湍に、士銓はうやうやしく頭を下げて「心得てございま
す」と応えた。
「それからご承知のように冬官の聞き取り自体はさほどの成果はありませんで
したが、あらためて記録を整理させたところ、こんなものが出てまいりました」
 控えていた自分の府吏に数枚の書面を出させた士銓は、それを王と州候の前
の卓に広げてみせた。体裁が整っていないため正式の文書でないのは明らかで、
非公式の書類か、もしくは個人的な書き付けといったところである。
「これは写しでございますが、どうも梁興が重用していた冬官の助手の覚え書
きのようでして」
「ほう」
 王は興味深げな視線を投げるなり、士銓が捧げるようにして眼前に示した書
類の一枚を無造作に手に取った。別の一枚を帷湍も手に取る。
「原文も保存状態は悪くないのですが、散逸しているのと、自己流に省略して
いるらしい表現や専門用語がちりばめられているのとで、これだけでは詳細は
わかりかねます。しかしどうも梁興は呪詛系統の呪を作らせていたようでござ
います」
「呪詛だと?」
 はじかれたように書面から顔を上げた帷湍に、士銓は緊張を覚えながら説明
を続けた。
「今、原文を冬官に調査させております。それと同時に他に書き付けが残って
いないかどうか、冬官府の隅々まで調べさせております」
「やはり二百年前の謀反に原因があったのか……。俺にはどうも信じられんの
だが」

145永遠の行方「呪(57)」:2008/12/26(金) 19:02:27
 茫然としたような表情の帷湍に、王は大らかな口調で応じた。
「そうとも限らんぞ。今回の件とは無関係かもしれんし、関係があったとして
も、たまたま梁興の負の遺産を手に入れたまったくの第三者が、腹黒いことを
企んでいるという可能性もある」
「ああ――なるほど。それもそうだな」
 帷湍はうなずいたが、「しかし呪詛というのは気になる」と唸った。
 他の書類も手に取って順に目を通す帷湍の傍ら、王は士銓に、離宮のある崆 
峒山(こうどうざん)に立ち寄ってきたことを告げた。崆峒山は光州南部の凌
雲山で、梁興の乱のあと光州城の者が引き立てられてきた場所であり、比較的
罪は軽いとして、仙籍を削除されたものの斬首は免れた者の牢があった場所で
もある。
「州城に入る前に、地方の様子を見たかったのもあってな。それに崆峒山の獄
舎に二十年以上入っていた者も数名いたはずだ。その間に何か書き付けを残し
ていないとも限らん。もしくは牢番の中に、興味深い話を聞いた者がいたやも
しれん」
「は……。確かに」
 士銓は冷や汗を流しながら応えた。言われてみれば確かに何か手がかりが残
っている可能性はあるのに、崆峒山に調査の官を差し向けようとは思わなかっ
たからだ。書き付けを検分していた帷湍も暗い顔でうなだれたが、深刻な顔の
両名を前に王は笑った。
「そう固くなるな、士銓。おまえは州候も時折やりこめられる、やり手の令尹
ではなかったのか。まあ崆峒山の者には指示を出してきたゆえ、何かわかれば
早々に青鳥が来よう」
「は……」
「それより民の様子だが」
 そのとき房室の扉が開き、屏風の陰から小臣が顔を出した。
「失礼いたします。ただいま、幇周から急ぎの伝令が」
 帷湍は即座に「通せ」と命じた。件の小臣が後方に顔を向けてうなずくと同
時に、伝令の徽章をつけた兵士がひとり駆け込んできた。屏風の前で片膝をつ
いて頭を下げる。

146永遠の行方「呪(58)」:2008/12/26(金) 19:04:30
「幇周よりの伝令でございます。先ほど、病人を収容した仮小屋から抜けだし
た女を捜索したところ、幇周の里に戻っていることがわかりました。それもど
うやらその女は、病を引き起こした呪者から伝言を託されたようでございます」
「なに?」
「面を上げよ。詳しく話せ」
 帷湍と士銓からたたみかけられるように言われ、顔を上げたその兵士は、奥
で椅子に座っている貴人を見て一瞬わけがわからないような顔をした。ついで
装束から延王その人であると悟って驚愕に目を見開き、がばっと叩頭する。
「も、申し訳ございません! ご無礼を! しゅ、主上がおいでとは――」
 扉の外には州候や令尹の護衛のほか、州兵と異なる色の鎧をまとった禁軍兵
士もいたはずだが、それが目に入らないほどあわてていたらしい。
 緊張のあまり、平伏したまま可哀想なくらい震えているその兵士を前に、王
は椅子から立ちあがった。そのまま芝居がかった仕草で歩いていき、件の兵士
の側に膝をつく。その気配を感じたのだろう、何が起きるのかと緊張でこわば
っている兵士の肩に、王はそっと手を置くと声をかけた。
「面を上げるがよい。雁の民はすべて余が愛し子。子が父に話すのに、何の遠
慮があろう」
 促され、おずおずと顔を上げた兵士は、神に等しい貴人の尊顔を間近に見、
今にも気絶せんばかりであった。
「こたびの事件には、関弓の宰輔もたいそう心を痛めておる。だが余が参った
からには、これ以上の非道は許さぬ。安堵せよ」
 慈愛と威厳に満ちたそのさまは、まさしく民の間に流布しているとおりの賢
帝の姿に他ならない。今回のような非常時においてはさておき、日頃は朝議や
政務を怠けて官に小言を言われたり、市井で女遊びや賭博に興じている王だと
は誰も思わないだろう。
 感極まった兵士は、「ははーっ」とふたたび叩頭した。その傍ら、王は士銓
を振り返り、にやりとして片目をつむって見せた。
 ――相変わらず、芝居っ気も茶目っ気もあるかただ。
 士銓の顔に自然と笑みが浮かび、ようやく緊張がほどけた。逆に帷湍のほう
は天井を振り仰いで、「何を遊んでいるんだ」とでも言いたげな風情である。

147永遠の行方「呪(59)」:2008/12/26(金) 19:07:17
実際、玄英宮ではこんな茶番につきあってくれる近臣はさすがにもういないの
で、こうして地方に赴いたときくらいしか、王の遊び心を満たす機会はないだ
ろう。
「して、幇周よりの急使の内容だが。もっと詳しく話してはくれぬか」
 王は兵士の肩に手を置いたまま、慈愛のまなざしで先を促した。兵士は感激
にむせび泣きそうになりながらも、そこは訓練された州兵のこと、順を追って
要点を話しはじめた。
 いわく、病人を収容していた仮小屋から、病状の篤い女が姿を消したこと。
その前にも里に帰りたがった老人が脱走したこともあり、幇周に至る道を捜索
したところ、警備の目をかいくぐった女が里閭から中に入りこんだのがわかっ
たこと。
 さらに捜索したところ、女は里祠の門を閉めてそこに閉じこもっていた。里
木を擁する里祠は神聖な場所だ。万が一にも乱暴をしたくないと考えて自主的
に出てくるよう説得すると、女は自分の子供を助けてくれと、そうすれば呪者
に託された伝言を渡すと言いだしたのだという。
「子供?」
 眉根を寄せて問うた王に、伝令は説明した。
「騎獣に乗って、塀の上から中の様子を窺ったところ、里木の下で幼い子供を
抱いた女が座りこんでいたそうです。そもそも里祠に入りこんだのも、子の病
が治るよう、里木に祈るためではないかと。しかし実際には、子供は既に死ん
でおるのです」
 さらに仮小屋で前日に起こった騒ぎを説明する。自分の子供の死を信じず、
半狂乱になった女。埋葬を拒んだ彼女は、兵が目を離した隙に姿を消したが、
同時に子供の遺体も消えていたこと。おそらく子を恵んでくれた里木の慈悲に
すがるため、病の体に鞭打って遺体を運んだのだろう。
「哀れだな……」
 帷湍がぽつりとつぶやいた。伝令は続けた。
「呪者の伝言がどういったもので、誰に宛てた内容なのかはわかりませんが、
書状のようなものだとすると、下手に女を刺激して逆上された場合は処分され
てしまう危険があります。何しろ既に正気を失っているようでして、こちらが
何を言っても子供を助けてくれの一点張りで、まったく話が通じんのです。そ
れで早急にお知らせして、ご指示をあおごうと」

148永遠の行方「呪(60)」:2008/12/27(土) 16:10:39
 王は重々しくうなずいて、ねぎらうように彼の肩を叩いた。
「ご苦労であった。幇周の駐屯部隊の長に、懸命な判断であったと伝えよ。こ
の事件の調査は州候みずからが指揮を執ることになったゆえ、さっそく幇周に
向かうことになるであろう」
 そう言って座に戻り、あとは州候と令尹に任せる。帷湍はさらにいくつか問
いただし、呪者が女とどこで接触したのか不明ながら、少なくとも現在は里の
内外に怪しい者が潜んでいる様子はないことを確認した。その上で、自分が赴
くまで女を刺激しないよう指示を与えて伝令を帰した。
「出てきたな」
 王がにやりとする。考えこむ風情で「ああ」とだけ応えた帷湍に、王は軽く
笑った。
「なに、おまえの妻子が嘆くような目には遭わせんよ。禁軍の選りすぐりの兵
を十名つけよう。うち一名は相当な使い手をな。おまえの護衛もつわものぞろ
いと聞くし、何かたくらみがあったとしても、それで充分対応できるだろう」
「別に自分の命が惜しいわけじゃない」帷湍はむっとしたように答えた。「そ
れより呪者の意図が解せんのだ。気の触れた女に伝言を託すとは、いったい何
を考えている? 誰に宛てたものにせよ、伝言が伝わらずとも別に構わないと
いうような投げやりな感じじゃないか」
「ふむ。光州の地に描かれた環と同じだな」王は顎をなでながら答えた。「あ
れも考えようによっては、ここで何か不可解な事件が起きているぞと、わざわ
ざ知らしめる意図があるとも解釈できる。だからあのような、明らかに人為的
なものだとわかるお膳立てをしたのだと。しかしながらそう断じるには弱い部
分もある。誰かの注意を引く意図を持っているように見えながら、葉莱より前
の事件は辺境の里で病による死者が月にひとり出るだけだった。あまり派手で
はない。あれもまた、気づく者がいればよし、いなくても別にかまわないとい
うような投げやりな感じを受ける」
「いったい何が目的なのだろう?」
 帷湍は困惑のままに疑問を口にしたが、王は肩をすくめただけだった。

149永遠の行方「呪(61)」:2008/12/27(土) 16:12:44
「呪者の伝言の内容がわかれば、見当もつくかもしれん」
「ああ……そうだな」
 ふたたび考えこむように視線を床に落とした帷湍だったが、すぐに令尹に命
じた。
「幇周に行く。用意を」
「ただいま」
 その傍らで、王も「士銓。すまんが州兵の軍装を貸してくれ」と言った。先
ほどの話で出た、帷湍の護衛につける禁軍兵士に貸与するのだと受けとめて頭
を下げた士銓だったが、意味深な王の表情から真意をくみ取って驚愕に目を見
開いた。
「それは――危険では――」
「相当な使い手をつけてやると言ったろう。禁軍の兵にも州兵の鎧をまとわせ、
ともに帷湍の護衛に紛れこむ」
 事もなげに言ってのけた主君に、だが帷湍は一瞥を投げただけだった。そし
てしばらく沈黙したのち、しんみりとした調子でこう言った。
「俺が保証して済むことなら、里祠に立てこもっているという女の気の済むよ
うにしてやろう。残念ながら治療法がわからない以上、その女も長くはないだ
ろうからな。ならばせめて子供の遺体を引き取って、手厚く看病した結果、快
方に向かっていると言ってやろう。だが再感染を防ぐために会わせてはやれな
いと。子供のためにそこまでしたのだ、女は納得してくれるだろう。そして少
なくとも安らかな気持ちで最期を迎えられるだろう」
 いつになく同情するふうなのは、彼自身も人の子の親だからだろう。王もそ
んな帷湍の心中を思いやるように、「そうだな。そうしてやれ」と静かに応じ
た。

150永遠の行方「呪(62)」:2009/01/24(土) 21:01:33

 慶と接する南部の地域は温暖だが、雁は基本的に北国だ。その北方の里とも
なれば、冬の日はより短く、雪に埋もれる生活が待っている。
 しかし五百年の長きに渡る大王朝の存在は、そんな北国にも安楽な暮らしを
もたらした。どんな小さな里に向かう街道であってもきちんと整備されている
し、蝕でもない限りは天候もまず荒れないから、冬場の交通に多少難儀するこ
とを除けば、気候的には恵まれているはずの巧などよりはるかに住みやすい。
地域によっては石造りより木造の家屋のほうが多いが、建物がつぶれるほどの
大雪も降らない。静かにしんしんと雪が降り積もっていくだけの穏やかな情景
があるだけだ。
 州候を擁した騎獣の一団は、とっぷりと日の暮れた冷気の中を、滑るように
幇周へと向かった。月明かりの中、遠目に里が見える頃には夜も深まっており、
駐屯部隊がしつらえたとおぼしき篝火が、そこここに赤々と燃えているのがわ
かった。暖と明かりを取るためのものだろう。避難や発病騒ぎのせいもあって
か、幇周へと至る細い街道が綺麗に除雪されているのも見て取れた。
 今夜はここで泊まりだろうな、と州候帷湍は思った。病人を収容した仮小屋
には瘍医と疾医が派遣されているはずだから、ついでに彼らから状況を聞いて
おこうと考える。その内容次第では帰城が遅れるかもしれないが、出がけに令
尹にいろいろ指示を出しておいたこともあり、州城の者も多少の猶予がほしい
だろうから都合が良いかもしれない。いずれにせよ明日戻る頃までには、例の
書き付けに関する冬官府の報告もできあがっているだろう……。
 そんなふうに頭の中で段取りをつけながら、すぐ横で騎獣を並べ、何食わぬ
顔をしている主君をちらりと見やる。
 こうして州兵を装ってしまえば、尚隆はたちまちそれに馴染んでしまう。同
道の州兵らは、軍装を貸与された禁軍兵のひとりであることを疑ってもいない。
むしろ王の護衛として国軍の中でも高い地位にある軍人にしては、妙に気安く、
くだけた奴だと、親しみを覚えたり逆にあきれたりするだけだ。
 これでも昔に比べればおとなしくなったと朱衡などは言うが、はたしてそう
だろうか。頼るべき官が増え、少々のことでは政務が滞らなくなった。だから
王がふらふらと出歩いても支障は少なく、結果的に王の無軌道ぶりが目立たな
くなっただけだろうと帷湍は意地悪に考えている。

151永遠の行方「呪(63)」:2009/01/25(日) 15:06:16
 もっとも尚隆には底が知れないところがあった。これだけ長く仕えていると
すべてをわかった気になるが、実のところは臣下に心の内を容易く見せるたち
ではない。あけっぴろげに見えて、その実、本心では何を考えているのかわか
らない男だった。
 今は飄々として見えるこの男も、二百年前には闇の深淵を覗いたことがある
のだと、帷湍は信じている。
 混乱を招くだけの無謀な人事、意味もなく役夫を増やして民を酷使する勅令
の連発。光州の謀反が悪いほうへ転んでいたら、間違いなく王朝は終わってい
ただろう。
 帷湍の視線に気づいた尚隆が片眉を上げ、おどけた笑みを返してきたので、
顔をしかめて前を向く。そうして呆れた体を装いながら、果たして彼はさびし
くないのだろうかとふと思った。
 妻と娘を得、家庭団欒の温かさを知った身では、いかに王が気ままな生活を
送ろうと、どこかさびしいと思う気持ちはぬぐえない。だが尚隆は、市井で女
遊びはしても、宮城に后妃を迎える気はまったくないらしい。そういえば相変
わらず城下をふらふらと遊び歩いて官に小言を言われていると聞くが、それで
いて女官には一度も手を出したことはない。登極したばかりのころと同じく、
後宮は寵臣の私室として使われているが、彼ら彼女らとの関係はあくまで主従
にとどまっている。帷湍にはそれが、尚隆があえて自分の心に踏み込ませる相
手を作るまいとしているように思えてならなかった。
 もっとも王は子を持てないし、どう見ても家庭的とは言えない尚隆のような
男にとっては、妻もわずらわしいものなのかもしれないが……。
 幇周の里は周囲に街もなくこぢんまりとしていて、本当に廬人たちの冬の住
処といった風情だった。冬場の家は売ってしまうことが多いから、年ごとに異
なる家に住む場合もめずらしくないが、おそらくここはどの家も冬になるたび
に同じ民が住むのだろう。脱走したという老人も呪者の伝言を受けとった女も、
だから必死にここに帰ろうとしたのか。
 そういえば被害に遭った他の里の規模はどのくらいだったのだろうと、騎獣
を降下させながら帷湍は思った。郡や郷といった大きな府第のある場所でない
のは確かだが、ここと同じように小さな里だったのか、あるいは周囲に街が広
がり、そこそこ賑やかな地域だったのか。

152永遠の行方「呪(64)」:2009/01/31(土) 12:27:52
 雁は安定しているから、荒れた国と違って里の位置が数十年で変わるような
ことはまずない。むろん新しく里ができることはあるが、蝕の害に遭うといっ
た災難でもないかぎり、その逆は滅多にないだろう。おそらく光州の謀反のと
きにあった里は、今でも同じ場所にあるはずだ。里木がある以上、簡単に移動
するわけにはいかないのだから。
 ただし一般の家屋は木造も多く、従ってある程度の周期で立て直されること
になる。もし何らかの呪具が家の特定の場所に埋められている、または家自体
に仕込まれているなら、つい最近――とまではいかずとも、数十年以内に仕組
まれたことではないだろうか。少なくとも二百年前も昔に企てられた陰謀では
あるまい。
 里閭の前、篝火で赤々と照らされた空き地に、一行は次々と舞い降りた。既
に兵らが待ち受けており、騎獣から降りた帷湍を、数人の兵がうやうやしく迎
えた。
「女はどんな様子なのだ?」
 最前にいた卒長の徽章をつけた男に、同道の将兵を介さずに帷湍が直接問う。
卒長は「相変わらず里祠に立てこもっております」と緊張気味に答えた。彼に
導かれるまま、里の中に足を踏み入れる。護衛らもあとに続いたが、幇周側の
兵は帷湍のみに気を取られており、当然ながら誰ひとりとして尚隆に注意を払
う者はいなかった。
 里祠の前にたどりつくと、十数人の兵が建物を取り巻いていた。州候を認め
て一様に礼をした彼らの前で、帷湍は足を止めて里祠を見あげた。卒長が説明
する。
「日が落ちて急激に気温が下がりましたので、女が凍死してはいけないと、八
方で篝火を焚かせて何とか暖めようとしております。食料と一緒に衾を投げ入
れてやりまして、今はそれにくるまっているようです。お知らせしたように、
子供を助けるのと引き替えに呪者からの伝言を渡すと言っておりましたが、今
は里木の下でうずくまっているだけです。健康な者でもこの寒さはこたえます
し、もうあまり時間はないかと」
 帷湍はうなずくと、周囲に視線をめぐらせてから、あらためて里祠に目を戻
した。

153永遠の行方「呪(65)」:2009/01/31(土) 12:34:09
「伝言か。『教える』のではなく『渡す』というからには、口伝えではなくや
はり書状のたぐいか……」
「おそらく」
「では、おまえの望みをかなえるために州候がみずから足を運んだと、その女
に伝えてやれ。実際、そのつもりでやって来たのだ。少なくとも子供が助かる
と錯誤させて安らかに逝けるようにしてやろうと。しかしとにかく里祠から出
てきてもらわんとな」
 だが卒長は困惑の体で答えた。
「はあ。しかし、どうにもこちらの言うことに耳を貸してはくれませんので」
「そのようだな」帷湍は溜息をついた。「既に心を病んでいるようだから、こ
ちらが伝言を欲しがっていることには触れず、まずは子供を助けてやると言っ
て注意を引くのだ。早くしないと手遅れになるともな。女が出てきたら何とか
なだめて、子供の亡骸ともども州城に連れていく。なだめるのに時間がかかり
そうなら、伝言の内容だけでも聞きだす。もし本当に書状のたぐいとわかれば、
何としても渡してもらわねばならん。素直に州城に行ってくれれば一番面倒が
ないのだが」
 うなずいた卒長は里祠の門に歩みよった。大声を張りあげて、中にいる女に
呼びかける。
「聞こえるか? さっきも言ったとおり、州候おんみずから出向いてくださっ
たぞ。このたびの病に大変心を痛めておられ、おまえのことも憐れんでおられ
る。おまえの子供も州城に運んで手厚く看護をしてくださるそうだ。この寒さ
だ、子供にはつらかろう。体にも悪い。そこから出て、早急に医師に子供を診
せてくれ。早くしないと手遅れになってしまう」
 彼はいったん言葉を切って様子を窺った。しばらく待ってからふたたび呼び
かけを繰り返すと、一同が見守る中、里祠の門がわずかに開いた。それへ向け
て帷湍が軽く手を挙げ、声を投げる。
「州候はここだ。早く子供を医師に診せるがいい。むろんおまえのことも面倒
を見よう。もともとこたびの病を治すために奔走していたのだが、やっと治療
法がわかった。特殊な薬草を煎じて病人に与えたところ効果があったのだ。仮
小屋の者たちは病状が篤かったため予断を許さないが、少なくとも症状は落ち
着いているそうだ。じきに快方に向かうだろうと疾医は言っている。おまえや
おまえの子にも効くはずだ」

154永遠の行方「呪(66)」:2009/01/31(土) 18:43:20
 良心にちくりと痛みを感じながら、もっともらしい顔で嘘を口にする。
 警戒させないために兵らに手真似で指示をして後方に下がらせると、ほどな
く門の内から若い女がおずおずと姿を現わした。伝令から聞いて想像していた
より、ずっとおとなしそうな印象の女だった。しかし病のせいだろう、顔や手
は不気味な斑紋に冒されており、周囲を篝火が明るく照らしているせいで、広
範囲に渡って皮膚がただれているのがよく見えた。あるいは美しい女だったの
かもしれないが、今となっては容貌もよくわからないほどだ。若い女であるだ
けに痛ましさもいっそうで、明らかに事切れている二歳ほどの幼児をしっかり
抱きかかえたさまは、哀れ以外の何物でもなかった。
「俺が光州侯だ。帷湍という」
 努めてやわらかい声音で語りかける。女は茫然とした様子で立ちすくみ、帷
湍を凝視していたが、やがてその場にぺたんと座りこんだ。そして腕の中の小
さな亡骸をいっそう強く抱きしめながら、恨み言をつぶやいた。
「ひどいのよ。みんな、この子が死んだって言うの。死んだから埋めろってい
うの。あいつら、この子を殺す気だわ。そしてあたしのことも殺すのよ」
 気弱にすすり泣くならまだしも、憎々しげに吐き捨てる。姿を現わしたとき
は、さほど常軌を逸しているようには見えなかったが、精神の安定を欠いてい
るのは確かなようだった。
「それはすまなかった」
 帷湍は神妙に謝った。とにかく女の警戒心を解いて伝言を渡してもらわねば
ならない。
「何か行き違いがあったのかもしれん。だがもう大丈夫だ。おまえもおまえの
子も、州城に連れていって手厚く看護しよう。望みのものがあれば、何なりと
言うがいい。できるだけのことはする」
 女はじっと帷湍を凝視した。だがやがてその顔に浮かんだのは嘲りの表情だ
った。
「嘘つき」
 とっさに何を言われたのかわからずに、帷湍が戸惑っていると、女はさらに
言葉を投げつけてきた。
「知ってるわよ。あんたはあれが欲しいんでしょう。あの人が言ったとおりだ。
あれを渡したら、あたしもこの子も殺すんでしょう。知ってるんだから」

155永遠の行方「呪(67)」:2009/01/31(土) 18:46:20
 『あれ』とは呪者からの伝言のことだろうか。少なくとも他に思い当たるも
のはない。勝手に思い詰めているらしい女の様子に、帷湍は困惑した。この哀
れな女の頭の中では、何やら一方的な理由づけがなされてしまっているらしい。
「でもこの子は生きてるの。あたしも生きてるの。残念ね。ざまあみろ、だわ」
 女は勝ち誇ったように「ほら」と言うと、抱きかかえていた亡骸のぐにゃり
とした体を、目の前の石畳に横たえた。すると見守る兵らの、憐れみと嫌悪と
が複雑に混ざりあったまなざしの中、亡骸は幼児特有の大きな頭を不気味にぐ
らぐらさせながら、それでもしっかりと立ちあがった。瞬時に凍りついた空気
の中、州兵の何人かが、ひい、と息を吸いこんで後ずさった。
 帷湍の傍らにいた尚隆が一歩踏み出し、とっさに武器を構えた兵士らに「待
て」と鋭く声を投げて手で制した。州侯の護衛の言葉だから幇周側の兵も従っ
たものの、誰もが青ざめていた。
 子供は相変わらず頭をぐらぐらさせながら立っていたが、目を閉ざしたまま、
やがて口だけを開いた。
「今……ここに……王朝の……終わ……り……を……告げる……。雁は……滅
び……る……。救いは……他に……手立てはない……」
 途切れ途切れに発せられた、抑揚のない不気味な言葉。帷湍は微動だにせず、
子供の亡骸を凝視していた。その場でひとり女のみが、狂気をはらんだ目をき
らきらと輝かせた。
「ほら――ほら! 息子は生きているでしょう? 生きているわ!」
 母親と同じく病で黒ずんだ亡骸の小さな手が、差しだすように掲げられた。
そこに握られた、折りたたまれた紙片らしきもの。だが誰が動くより先に、女
がそれを横からかすめ取った。
「あげないわよ!」金切り声で叫ぶ。「誰にもあげない! これは主上に渡す
んだから! だってあの人にそう命令されたんだから! ほしかったらちゃん
と息子を治して!」
 彼女の傍ら、子供は操り手の糸が切れたかのように、どさりと地面に倒れ伏
した。それきり、ぴくりとも動かない。ようやく我に返った兵のひとりが女に
駆け寄り、紙片を取りあげようとしたが、女はその場にうずくまり、悲鳴を上
げて頑強に抵抗した。

156永遠の行方「呪(68)」:2009/01/31(土) 18:48:31
「いやよ、いや! あげないんだからぁ!」
 別の兵も駆け寄り、両側から女の二の腕をつかんで立たせようとしたが、女
は泣きわめきながら激しく上体を左右に揺すり、必死に彼らを振りほどこうと
した。
「おい、あまり乱暴をするな」
 あわてて声を投げた帷湍の肩に手が置かれた。はっとして傍らの主君を見や
ると、尚隆は黙ってうなずき、足を踏み出した。
「皆の者、控えよ! 主上の御前である」
 女のほうに歩みよる尚隆を見守りながら、姿勢を正した帷湍が鋭い声で周囲
を圧した。その威厳に、騒ぎにざわめいていた兵らもはっとなって州侯を注視
した。
 両側から女をつかんでいたふたりの兵も振り返ったが、彼らのほうは何が起
きたのかわかっていないようだった。州兵の軍装をまとってゆっくりと歩み寄
ってくる尚隆と、背後の州侯とを、惑うように交互に見やる。帷湍の後方にい
る禁軍兵らも、既に州侯と同じく姿勢を正して尚隆を見守っている。彼らをす
べて州侯の護衛としか認識していなかった幇周側が茫然となったのはもちろん、
州城から同道した州兵らも呆気にとられて尚隆を見つめた。
 帷湍は威厳を保ったまま、さすがにぽかんとしている女に重々しく言葉をか
けた。
「おまえを憐れんでおられるのは主上である。われらはお止めしたのだが、お
まえのため、州兵に身をやつしてまでおでましになられた。主上の慈悲におす
がりするがよいぞ」
 女の傍らにいた兵士は、ここに至ってあわててその場で叩頭した。彼らの数
歩前で立ち止まった尚隆は、安心させるように女にうなずいてから静かに言っ
た。
「俺が延王だ。おまえの子は、俺が責任を持って預かろう。おまえが望むなら
玄英宮に連れていこう。そこでゆっくり養生するがいい。おまえとおまえの子
をこんな目に遭わせた呪者には、必ず罪を償わせる。伝言とやらを俺に渡して
この悪夢のことは忘れ、玄英宮でもどこかの静かな離宮でも、望みのままに心
静かに過ごすがいい」

157永遠の行方「呪(69)」:2009/01/31(土) 18:53:45
 座りこんでいた女は、ぽかんとした表情のまま、尚隆を見あげた。
「主上……? 本当に……?」
「そうだ」
 女は迷うように周囲を見た。幇周側の州兵らはいまだ茫然としていたが、姿
勢を正して見守っている禁軍兵の何人かが真剣な顔でうなずくのを見て、尚隆
に目を戻した。
「あの……。じゃあ、息子を助けてくれる……?」
「俺の力の及ぶかぎり、何とかしよう。だからその紙をくれんか」
 やさしげな声に、女はまた周囲を見回した上で、ようやくおずおずと紙片を
差しだす仕草をした。だが尚隆が足を踏み出そうとすると、不安そうな顔で、
びくりとして手を引っ込めてしまった。
「大丈夫だ」
 励ますような声に、女はやっと腕を伸ばして紙片を差しだした。尚隆はゆっ
くりと歩み寄り、間近で片膝をついて女と目の高さを合わせてから、そっと紙
片に手を伸ばした。女の顔に緊張が走ったが、それでも先ほどのように手を引
っ込めることはなく、紙片は無事に尚隆の手に渡った。
 尚隆は折りたたまれた紙片をその場で開きながら相手にうなずいた。
「大変な目に遭ったな。だがもうこれがおまえを悩ませることはないだろう」
 そうして紙片に目を落とし、何やら眉根を寄せる。
「あ、あの……」
「俺が力になる。約束する」
 真剣な表情で身を乗りだした女に、顔を上げた尚隆が笑って答えた。女は目
を輝かせ、さらに何事かを口にした。叩頭していた兵士の耳に届いた、拍子の
良い五音の言葉。
 その途端。
 尚隆は苦しそうなうめき声を上げると、その場に昏倒した。予想外の光景に
周囲がとっさに動けず立ちすくむ中、女はすっくと立ちあがり、冷ややかな目
で王を見おろした。ついで正面を見据え、壮絶な笑顔を浮かべる。
「わが主よりの伝言、確かに伝えた」
 そう言うなりよろめいて膝をつき、それから石畳に倒れこむ。

158永遠の行方「呪(70)」:2009/01/31(土) 22:33:29
「主上!」
 血相を変えた禁軍兵がようやく王に駆けよった。そのうちのひとりが倒れた
女の上にかがみこみ、首に手を当てるとすぐ帷湍を振り返った。
「女は死んでおります」
 愕然として立ちつくす帷湍に、尚隆の様子を見ていた兵が血の気の失せた顔
で続けた。
「主上はご無事ですが、意識がありません……」
 それを聞いた帷湍は、主君によろよろと歩みよった。冷たい石畳の上で倒れ
ている尚隆の傍らに両膝をつき、何かの間違いであってくれと祈りながら顔を
のぞきこむ。かすかに眉根を寄せてはいるが、呼吸は正常。肩に手を置いて揺
すってみたが何の反応もなく、王の腕は力なくだらりと垂れたままだった。そ
の手の中にある紙片を認め、受けた衝撃のまま、何の躊躇もなくもぎとって紙
面に目を走らせる。
 香でも焚きしめられているのだろう、良い香りのする厚手の料紙だった。そ
こに書かれた文字はただ「暁紅」の二文字のみ。
「侯……」
「州城にお運びせよ。決して騒ぎたてず、人目につかぬように」
 蒼白な顔ですがるように声をかけてきた禁軍兵に、帷湍は厳しい顔で命令す
ると立ちあがった。茫然と立ちすくんだままの幇周側の兵を見回す。
 何が起こったのかはわからないが、尋常の出来事でないことは確かだった。
いずれにせよ、王の身に異状が起こったことを他の者に知られるわけにはいか
ない。事態が明らかになるまで、ここにいるすべての者に禁足を課すことにな
るだろう。

159永遠の行方「呪(71)」:2009/03/14(土) 16:10:51

 光州からの内密の報せを受けた高官らはまず茫然とした。そして次には騒然
となった。
 何しろ主君が禁軍を従えて出立してから何日も経っていないのだ。それなの
に今や王は意識不明の状態で、光州城の内宮の奥深く伏せっているのだという。
それも呪のせいで。
「帷湍どのはいったい何をしておられたのだ」
「まさか主上をおひとりでお出ししたのではあるまいな!」
 朝議の場は紛糾し、諸官は口々に光州侯を責めたてた。その急先鋒は夏官長
大司馬だった。次には光州侯による陰謀の可能性すら論じられるようになるだ
ろう。
 政治とはそういうものだと断じるのはたやすい。しかしもともと光州の地に
描かれた不気味な環のこともあり、王に万が一のことがあったらとの仮定も、
もはや恐ろしいほどに現実味を帯びてしまった。それゆえにさすがの官僚らも
内心でおののいてしまったと言ったほうが良いだろう。
 なぜならこの世界において、国というものは王がすべてだからだ。隆盛を極
めた大国が、失道や不慮の事故による崩御によって、ほんの十数年で荒れ果て
てしまうことなどめずらしくもない。何百年も続いた大王朝でさえ、国家の屋
台骨はそれほどまでにもろいのだ。
 光州からの報せは、緊急性と内容ゆえに青鳥ではなく密使が立てられていた。
休みもなしに騎獣を飛ばして数刻で玄英宮にたどりついた使者は、そのまま緊
急の朝議の場で引見され、冢宰を始めとする高官らに事件の顛末を語った。王
のためにすべての典医が呼ばれたが、通常の病や怪我ではないために対処のし
ようがなかったこと。とはいえ現在のところは、王はただ昏々と眠っているだ
けのように見え、脈も呼吸も正常であり、苦痛に類する兆候も窺えないこと。
 当初、州侯は幇周の里を封鎖することで、事件を知る幇周側の関係者を一時
的に里に軟禁しようとした。とにかく起きたことを余人に知られるわけにはい
かないからだ。

160永遠の行方「呪(72)」:2009/03/14(土) 19:34:10
 事態が事態の上に皆が愕然としていたこともあって、厳しい声で告げられた
州侯の沙汰に誰もが粛々と従った。幇周側の兵の一部は事情聴取のため、州侯
の帰城の際に伴われた。しかし結局のところ、それから半日も経たないうちに
幇周の封鎖は解かれることとなった。
 州城に伴われた兵のほうはまだ留め置かれているものの、あくまで事情聴取
のためであって、それが終わればふたたび幇周での任に戻ることになっている。
「特に令尹が、事件をとことん秘することに反対なさいまして」
 幾多の鋭い視線にさらされながら、急使は緊張の面持ちでそう説明した。い
くら流行病の問題があるとはいえ、州侯の訪問直後にあわてて幇周を封鎖、州
侯は即刻帰城したものの兵を里に軟禁して、外部とは書簡を含めていっさいの
やりとりをさせない。そんなことをしてしまえば、却って「何か重大な事件が
あった」との憶測を呼びかねないというのが理由だった。
「むしろ事件そのものは隠さず、大した事態にはならなかったふうを装ったほ
うが民も疑わないだろう、さらには呪者への憤りから、関心を主上から反らす
こともできると」
 州城内部ならいざ知らず、どう転ぶともわからないのに、この段階で王の健
康上の噂が市井に広まるのは好ましくない。むしろそのせいで事態が悪化する
恐れさえある。しかしそれを防ぐには幇周にいた兵のように、日頃から民と接
している市井の駐留軍の者からして自然に「大したことはなかったのだ」と納
得できなければならない。それでこそ「一時はどうなることかと思ったが、大
事に至らなくて本当に良かった」という安堵につながる。
 だがそんな演出は、まださほどの時間が経たず、当事者もよく事態を飲みこ
めずに茫然としている段階、余人にはまったく事件が知られていない段階でな
ければならない。状況が深刻であればあるほど、時間の経過とともに、秘匿の
ために州府が誤魔化しをするのではという疑念が生じてしまうからだ。そうな
ってからでは何を発表しても、一定の層は「実際には事態は好転していないの
ではないか」と疑心暗鬼に陥ってしまう。そしていったん疑いをいだいた当事
者の兵を解放することなどできないから、そのことがまた新たな疑念を呼ぶと
いう悪循環に陥りかねない。

161永遠の行方「呪(73)」:2009/03/15(日) 11:03:38
 かくして真相を知る者は州城でもごく一部に留めておき、よく似た背格好の
者を王の影武者に仕立てあげた。その上で外殿において壇上の玉座から冕服
(べんぷく)に冕冠(べんかん)を被った姿で幇周側の兵に謁見させ、神籍に
ある王に呪はまともに働かなかったこと、一時的に意識不明に陥ったものの、
典医の手当により何の問題もなく回復したことを伝えたのだった。
 身分の低い者に対しては王は珠簾を挟み、直答もしないものだが、尚隆はあ
まりそんな面倒なことはしない。それもあって玉座を囲む珠簾は上げさせたが、
確かにしきたり通りの礼冠礼服ではあったものの、五色の珠玉を連ねた長い飾
りを十二本も顔に垂らす冕冠を被っていては、よほど間近でない限り容貌は見
定めがたい。しかも典医と芝居を打って「まだ安静に」「この五百年の間、似
たようなことはあったが、その都度精神力で勝ってきた」等と言わせ、信憑性
があるように装わせたという。
「主上の影武者を……」
「何と勝手な」
 呆気にとられた諸官はざわめいた。だが少なくともそれで謁見した者たちは、
何の疑いもなく王の回復を信じたという。
「むろん侯も令尹も、主上がお目覚めになった暁には処罰を受ける覚悟はある
というわけだな?」
 大司馬の鋭い問いに、使者は冷や汗を流しながらも肯定した。それを冢宰が
取りなす。
「主上がこのままお目覚めにならないという事態などありえない以上、混乱を
防ぐためには有用な措置であったとは言えますぞ」
「確かにこういった非常時には即断即決が重要ですが……」
 別の官が、惑うように口ごもる。登極の当初から王に仕えている帷湍の忠信
を疑うわけではないが、王が宮城ではなく州城の内宮で伏せり、光州側の独断
で影武者を立てるという異常な事態に、不安定で危険な匂いを感じてしまうの
は仕方がない。これが州侯が宮城にいるというならともかく、彼は自分の城で
ある光州城で采配をふるっているのだから、その気になればいくらでも謀叛を
起こせてしまう。

162永遠の行方「呪(74)」:2009/03/15(日) 19:08:52
 いや、既にこれは謀反なのではないか、例の呪の環は王を光州に誘うための、
光州侯による巧みな演出だったのではないか。そんな疑念が諸官の脳裏に生じ
たのは当然だった。むしろ光州側の言い分を丸飲みするほうが、国府高官にあ
るまじきおめでたい思考と言えるだろう。危機意識のかけらもないことになる
からだ。そもそも王は意識もなく伏せっているというが、実際に呪によるもの
なのかどうかすら怪しい。
「とにかくこうなった以上、一刻も早く、主上に宮城にお戻りいただきません
と」
 蒼白な顔で言った大宗伯に諸官はうなずいた。
 使者および使者が持参した光州侯からの書状によれば、王に呪をかけた者は
死んだものの、誰かに命じられてやったことらしい。従ってこれで事態が収束
とは思えず、さらなる事件が起こると考えるのが自然だった。そのため影武者
に、王に危害を加えようとして果たせなかったという体を装わせただけでなく、
これで国に刃を向けても何にもならないことを知ったろうが、往生際悪くさら
に陰謀を続けてくる可能性が高い、まったくもって予断を許さない状況である
ことを強調させたという。王に呪が通じなかったことで皆が安心してしまい、
備えを怠ったり、別の里でまた病が発生したときに「すべて終わったのではな
かったのか」と王への信頼が揺らぐことを怖れたからだ。
 今頃は光州城は行幸の後続の部隊を迎えている時分で、それと同時に王の影
武者が謁見を開き、城の者を激励しているはずだった。その間、裏方では王を
宮城に運ぶべく、ひそかに準備を整えているという。玄英宮に密使を送ったの
は、その受け入れ体制を整えてもらうためでもあり、王を人質のような形で州
城に留めるつもりはないことを使者は暗に示した。
 ただし何も知らない大半の者の不審を招かないよう、州侯自身は州城に留ま
るとのことで、今さら玄英宮に来る気はないらしい。これはこれで当然とは言
えたが、またもや諸官の胸のうちにもやもやとしたわだかまりをためることと
なった。表向きは王も州侯も光州城にいることになるのは変わらないからだ。
しかもこちらは、王の状態を公にすることもできない。
 静かにざわめく官を前に冢宰が言った。
「光侯によれば、主上をこちらにお送りする際に、光州側のこれまでの調査結
果もすべて運ばせるとのことです。梁興の時代の官が遺した書きつけについて、
新たにわかったこともあるとか」

163永遠の行方「呪(75)」:2009/03/20(金) 19:06:39
「それどころではない!」大司馬が激昂のままに叫んだ。「そんなものはあと
で別途送ってくれば良い話だろう。今は何よりも主上をお迎えするのが先だ。
光侯は優先度を勘違いなさっているのではないか」
 他にもうなずく顔を見て、白沢は「そうとは思いませんな」と穏やかになだ
めた。
「調査結果をまとめるのに時間がかかるというならいざ知らず、既にできてい
るものをそのまま運ぶだけということですから。すべてがつながっている以上、
今はむしろ、主上のためにもどんな些細な情報でも重要かと」
「それは――」
「主上が光州に伴われた禁軍兵については、大半を州に留め置くそうです。主
上を雲海上からお運びするため、精鋭の空行師のみ、護衛として返すとか。内
々に事を運ぶためには、これも致し方ありません」
 大司馬が目を見開き、ふたたび諸官がざわめいた。それを抑えた白沢は、壇
上の空の玉座の傍らでたたずむ六太を見あげた。
 今回の朝議において六太は、最初に使者から状況を細かく聞き出したのちは、
硬い表情で黙りこんだままだった。もともと朝議の場で宰輔が率先して発言
することはあまりないのだが、今日はいつになく静かだった。
「台輔。光州城に差し向けるため、使令を十ばかりお貸しいただけないでしょ
うか。屈強である必要はありません」
 白沢の呼びかけに六太は、ぴく、と身じろぎして目を向けた。
「……間諜か。光州の動向を探らせるわけか」
 淡々とした声。白沢はうなずいた。
「使者や青鳥による通常のやりとりでは遅すぎます。しかし遁甲できる使令な
ら、大した時間をかけずに行き来できる上、州城内での行動範囲も制限されま
せん。これにより帷湍どのの身の潔白の証明も容易になります」
「なるほど」
「これから先、状況によっては光州侯の反意を疑う者も出てくるでしょうが、
主上が采配をふるえない今、疑心暗鬼によって臣下が分裂する事態は避けねば
なりません。帷湍どのにも使令を差し向けることは内々に伝えますが、侯のご
気性から考えて歓迎されることでしょう。裏表のないかたですし、今回のこと
で疑いを向けられても仕方のない状況であることは、ご本人が重々承知してお
られるはずですから。むしろ台輔の使令をおつけして疑いの余地をなくすこと
で、こちらが侯の潔白を信じていることの証になると考えてくださるでしょう」

164永遠の行方「呪(76)」:2009/03/21(土) 21:26:12
 六太は白沢をじっと見つめていたが、やがて足元に向けて何やらつぶやいて
から言った。
「今、向こうに使令を送った。尚隆の居場所を特定して二体で護衛し、他の八
体で州城を内偵するようにと。帷湍には使令から事情を伝えさせる」
「おそれいります」
 白沢はうやうやしく頭を下げ、諸官はこのやりとりでほっとした表情になっ
た。昏睡状態にあるというのはともかく、これで王にさらなる危害を加えるこ
とはほぼ不可能になったからだ。それに使令なら壁も通り抜けられるから、確
かに行動は制限されない。謀反人にとってこれほど厄介な相手はなく、逆に潔
白な者にとっては心強い味方となろう。
「良い考えですな」大司馬も感心したようにうなずいた。「台輔には多くの使
令がおありだから、小物を十ばかりあちらにやっても支障はない。おまけに本
質は妖魔だから、小物でも下手な者には手出しできない……。うむ、良い考え
だ」
 うんうんとうなずいた大司馬だったが、それでも禁軍兵を多く州城に残すこ
とには懸念を示した。何しろ徴用された民で構成されることも多い一般の兵と
異なり、禁軍ともなればすべてが職業軍人。それも王の護衛が任務とあって精
鋭が集まっている。中でも空行師は精鋭中の精鋭であり、むろん飛行する騎獣
を持った兵がすべてそうだというわけではないが、行幸で雲海上を王と先行し
た部隊のうち半数近くは空行師に当たる。指揮は同道の禁軍左将軍の采配にな
るから、直接的に光州の指揮下に置かれて自由に使われるはずもないが、それ
だけの戦闘力を持つ大軍がすべて光州城にあること自体が気がかりではあった。
「空行師のみ、主上とともに帰還させましょう」これまで意見を差し控えてい
た朱衡が口を開いた。「一刻も早く還御いただくためには、足の速い騎獣を持
つ空行師を使うのが一番です。同じ理由で、あまり全体の人数を多くして行程
の時間がかかりかねないようなことは避けたほうが良いのではないでしょうか」
 そう言って、意見を諮るように大司馬に目を向ける。大司馬はううむと唸っ
た。
「また禁軍と言えど現時点では、少なくとも州城にいる間は、主上のご様子を
知られるのは最小限に留めたほうがよろしいかと。その必要もないでしょうし」

165永遠の行方「呪(77)」:2009/03/22(日) 23:51:36
 考えこんだ大司馬は、やがて諦めたように溜息をつき、「致し方ない」と言
った。
「台輔が使令をお送りになった以上、向こうも勝手はできんだろう。それに主
上が禁軍をお連れになったのは、人心を慰撫し志気を鼓舞すると同時に、人数
面で州側の調査を助けるためでもある。ここですべての兵を呼び戻してしまえ
ば、何日あとかはわからないにせよ主上が気がつかれたとき、ご自分の意図が
台なしになったとぼやかれるだろうしな」
 その物言いに普段の尚隆の様子が浮かび、諸官は力なく笑った。
「こちらも迎えの空行師を出し、どこかの凌雲山の離宮ででも合流させるとし
よう」
「では一足先に俺が光州に行って、尚隆に付きそっている」
 静かに声をかけられ、一同はぎょっとなって壇上を見あげた。六太は相変わ
らず硬い表情をしていたが、内心の感情は窺えなかった。
「俺は遁甲はできないが、転変すれば光州城までいくらも経たないで着ける。
使令から帷湍に訪問を伝えて密かに入れてもらえば人目にもつかない」
 白沢は溜息をついた。
「お気持ちはわかりますが、台輔は宮城にお留まりください。この非常時に、
台輔まで宮城を空けることはお控えください」
「なぜ?」六太はおどけた顔になった。「危険なことは何もない。行くのは雲
海の上、着くのは帷湍が主を務める光州城だ。仮に光州に謀反の意図があった
としても、既に使令を送って見張っている以上、向こうは身動きが取れない。
それについさっきおまえ自身が、尚隆がこのまま目覚めないなどありえないと
言ったばかりだろう。俺が着く頃には、もう目覚めているかも知れないぞ?」
「万が一ということもございます。ご自分のお立場をお考えください」
「それは、このまま王が目覚めずに崩御した場合のことを言っているのか?」
 普通の官であれば憚って口にしない単語を、六太は何の躊躇もなく口にのぼ
せた。
 王に何らかの異状があれば、それが可能性としてどれほど低くても、崩御に
つながることへの危惧が頭の片隅に浮かぶものだ。そういった危機意識は、国
政に関わりが深い官ほど持っていなければならないのだから。

166永遠の行方「呪(78)」:2009/03/29(日) 13:28:01
 それだけに、実際に内心でその危惧をいだいていた諸官はぎくりとなったが、
白沢は動じたそぶりを見せず、まさか、と一笑に付した。そして「万が一と申
しております」と重ねて言った。
「では迎えの空行師に同道するというのは? 転変せずとも、騶虞を使えば空
行師についていくのは造作もない」
「台輔」白沢はやわらかく笑んだ。「主上をお連れするのは禁軍精鋭の空行騎
兵です。非常時ですから、行きと異なり少人数でいっさい休憩せずに騎獣を飛
ばせば、光州城から半日ほどで主上は還御なさいます。それをお待ちください」
 黙りこんだ六太に、白沢は続けて言った。
「むろん台輔がこうとお決めになったら、実際には拙どもにお止めするすべは
ありません。ですからお願いいたします。このまま宮城にお留まりください。
少なくとも関弓からお出になることのないように」
 六太は居並ぶ高官をじっと見据えていたが、不意に泣きそうな表情になるな
り顔を伏せ、「わかった」とつぶやくように答えた。
 麒麟は王を慕う生きものとされ、王の側を離れることが苦痛ですらあるとも
聞くが、普段の六太からはそんな性質はまったく窺えない。尚隆と示し合わせ
て仲良く城を抜け出すことはあるにしても、それ以上に単独行動のほうが多く、
王と離れることを何ら気にしないように見えるからだ。それどころか国政で厳
しい処断を下すことのある尚隆ときつい言葉で言い争うこともめずらしくない。
 しかし王が国の柱であり、失道や崩御が国土の荒廃に直結することもあろう
が、やはりいざというときには心配なのだ、非常時に駆けつけたくてたまらな
いのだと、その場の誰もが深く感じた。
 そんな六太からあえて視線をそらした朱衡は、つとめて冷静に「この上はと
にかく光州と連絡を密にせねば」と言った。光州侯にはどんな些細なことでも
報告してもらわねば、と。何があったにしろ、この場にいる者はまだ、何らか
の判断を下せるだけの詳細を得ていないのだ。

 むろん実際には、どれほど迅速に事を運んでも王の帰還まで半日とはいかな
かった。宮城で打ち合わせをし、その結果を使者が持ち帰るまで一日。それを
待ちかまえていた光州側が準備を整え、禁軍空行師を護衛に王を送り出すまで
さらに一日。途上の凌雲山で宮城からの迎えと合流、迎えに同道していた医師
団による王の診察を経てふたたび空路を辿り、一行が玄英宮に着いたときには
既に三日が経過していた。

167永遠の行方「呪(79)」:2009/04/12(日) 00:45:45
 王は昏睡状態のまま、数騎の騎獣に支えられた空行用の特別な輿に乗せられ
て到着した。普段の王ならせいぜい祭礼のときしか輿に乗ることはない。四方
の窓と帳がぴたりと閉ざされた陰鬱な輿は、騎獣を乗りこなし剣を振るう主君
の常の姿とはまったく結びつかず、見守る官は誰もがどこか茫然としていた。
 もともと正寝への昇殿の許しを得ている重臣らは、正寝は王の居宮・長楽殿
の正殿で言葉少なに主君の到着を待った。
 ほどなく王は殿舎内で使われる小型の輿に移され、錦の帳でうやうやしく玉
体を隠すようにして臥室に運ばれてきた。その光景を王を目の当たりにした高
官らは、今さらのように激しく動揺した。
「本当にこんなことが……」
 朱衡の傍ら、大司徒が震える声でつぶやいた。やはり実際に自分の目で見る
までは「まさか」という気持ちがあったのだろう。他の者も大なり小なりうろ
たえているのは変わらず、それは朱衡自身も同じだった。
 彼らの前で女官がかいがいしく働き、意識のない王の体を臥牀に横たえ、褥
を整える。重臣らは黙ってその様子を見守った。
「まあ、そう深刻になるな」黙りこんでしまった彼らを前に、腕組みをした六
太が肩をすくめた。「そのうち目覚めるだろう。尚隆のことだから、どうせ
『よく寝た』なんて言いながらのんきに起きてくるだろうよ。心配するだけ損
だぞ」
 一同は無理に愛想笑いを浮かべたが、いずれも力のない笑みにしかならなか
った。そもそも六太自身がこわばった顔をしているのだ。
 やがて付きそってきた典医のひとりが、王の診察を終えて牀榻から姿を現わ
した。
「お脈も正常、お体のどこにも異状はなく、ご不快のご様子もございません。
お目覚めにならないことを除けば、すこぶる健康体であらせられます」
「典医の意見は? 呪の仕業との話があるが、毒を盛られたとか、そういった
可能性は?」
 大司馬の問いに、典医は力なく首を振った。
「医師団内でも相談いたしましたが、神仙をこのような状態にする呪や毒に心
当たりはございません。いずれにしましてもご様子を拝見したかぎりでは、容
態が急変することはないかと存じますが、逆に処置の手立てもございません」

168永遠の行方「呪(80)」:2009/04/26(日) 13:11:00
 典医を無能呼ばわりすることは簡単だが、かと言って他の者に何か手立てが
あるわけでもない。官らは黙りこむしかなかった。白沢が言った。
「とはいえ、こうして無事に還御なされたわけで、その意味では一息つきまし
たな。早急にどうこういうものではないでしょうから、台輔は仁重殿でお休み
になられては。そのご様子では昨晩もよくお休みになっておられないようです
し」
 六太はちょっと苦笑するように口元を歪めたが、すぐにかぶりを振った。
「これから六官三公で内議を開くんだろ? 俺も出る。これでもいちおう宰輔
だからな。光州から運ばれた書類の吟味もあるし、尚隆がこうなった現場に居
合わせた禁軍兵からの聴取もある。王に罠をしかけた以上、謀反は確定だが、
こんなことをたくらむ輩だ。これに勢いを得て、次に何をしかけてくるかわか
ったもんじゃない」
 黙って視線を向けた白沢に、六太は疲れたように続けた。「何が起こったの
か知りたいんだ」と。

 空行師に託して王を送りだしてしまうと、光州城側はとりあえず一息ついた
格好になった。それでもこれからどうなるのかという不安はぬぐえない。今回
の咎に対する国からの直接的な処断を怖れるのはもちろんだが、何よりも雁が
どうなってしまうのかという、根本的な不安が彼らの頭を離れなかった。州侯
に対し、監視役として宰輔の使令が送られてきているとあってはなおさらだ。
「冢宰の要請により、台輔がわれらを派遣なさいました。これよりわれらが主
上をお守りいたしますので、ご安心を。何かあれば、関弓との取り次ぎもいた
します」
 何体もの使令が現われてそう告げたとき、州侯帷湍は重臣を集めて対応を錬
っていたところだった。唐突な出現のせいもあったろうが、滅多に妖魔を目に
することのない諸臣は文字通り震えあがった。何も言われずとも、監視役であ
ることは知れたろう。もとより今回の事件が光州側の企みであると疑われかね
ないことは承知していたものの、こうして使令が監視として派遣されるほどの
疑いを実際に抱かれていると知り、令尹も蒼白な顔で主を見やった。
「侯……」

169永遠の行方「呪(81)」:2009/04/26(日) 18:54:12
「うろたえるな」
 帷湍は顔をしかめて臣下を叱責し、おそろしげな外見ながら、おとなしく控
えている使令の群に向きなおってうなずいた。
「承った。台輔の命に従い、自由に行動してもらってかまわん。ただ、ここに
いる者以外には極力姿を見せんでもらいたい。内宮で主上に付きそっている典
医と女官にはおまえたちのことは伝えるが、州城内でもほとんどの者は事件を
知らんのだ。こんなことになっていると知れたら、却って事態を悪化させてし
まう」
「承知」
 使令はそれだけ答えると、床に沈むように溶けて消えた。臣下らはざわめい
て主君を見やったが、帷湍は意に介さなかった。
「うろたえるなと言ったろう」
「しかし……」
「むしろ使令を派遣してもらって幸いだ。いくら探られてもこちらに痛い腹は
ないし、使令の守る王に手を出せる無謀な輩もおるまい。おまけに青鳥より使
者より、はるかに早く関弓と連絡を取りあえる。良いことずくめだ」
 諸臣はあいかわらずざわめいていたが、帷湍のそれは虚勢でも何でもなかっ
た。正直、「疑われているのか」と気落ちする気持ちはあったものの、事件の
解決の前にはそんな個人的な矜持などどうでも良かった。ある意味で、帷湍は
それほど打ちのめされていた。
 登極当初からだから、尚隆とは長いつきあいだった。でたらめな王のやりか
たに呆れ果てたことは数え切れないし、王と宰輔の行状を改めるべく奔走した
ことも一度や二度ではない。
 それでも五百年という破格の治世は、尚隆が王たる器量を持ち、それを申し
分なく発揮したことの証左だった。主君の前で帷湍が認めることは絶対にない
だろうが、王者というものは凡夫の基準では計れないところがあるのだろうと
思うこともある。尚隆には欠点も多いが、臣下がそれを補える限り、それは大
した欠点ではない。
 王は国の舵取りができればいいのだ。方針が決まったあとの実務は、それこ
そ官吏の得意とするところであり、王の役目ではない。むしろ細かいことにま
で口を出されては、逆にうまくいくものもいかなくなってしまう。

170永遠の行方「呪(82)」:2009/04/26(日) 23:08:57
 未来を、国土を見据えて舵を取り、あとは臣下を信頼して任せること。その
意味では尚隆は申し分のない王だった。
 だが、その王を実質的に失ってしまっては。
 かつて、そんな尚隆もいずれは失道し、国を荒らすのかとぼんやり考えたこ
ともあった。だが、自分がまんまと謀反人に謀られ、国家を転覆させようとす
る企てに荷担した格好になるとは、夢にも思ってはいなかった。令尹の士銓な
どは、抗議するように「荷担とは違うでしょう」と言ったが、いくら尚隆自身
の望みだったとはいえ身分を伏せて彼を幇周に伴い、結果的に謀反人の一味と
相対させてしまったことは、痛恨の極み以外の何物でもなかった。

「呆けている暇はないぞ」
 王と空行師を送り出したあと、数日来の緊張が一気にほどけて腑抜け顔にな
った諸臣に、帷湍は叱責の声を投げた。中には、これ以上自分たちに何ができ
るのかと最初から諦めてしまっているような者もいて、戸惑うように主君に言
った。
「関弓ならば、主上の昏睡の原因もすぐにわかるのではないでしょうか。優秀
な典医も大勢いるでしょうし……」
「それならばそれでいい。だが最初から関弓を当てにしてどうする。事件はこ
の光州で起きたのだぞ。関弓は遠い。ここでしかわからないこともあろう。何
より謀反人のことが何ひとつわかっておらんではないか」
 そう言ってから、傍らの令尹に「例の女の身元はまだわからんのか」と鋭く
問う。
「益のある情報はまだ何も」
 令尹は頭を下げたまま、苦しそうに答えた。
 例の女とは、幇周で尚隆を罠にかけた若い母親のことだ。当初は誰もが子を
亡くして気が触れた幇周の民だと思い込んでいた。しかし実際のところは幇周
どころか近隣の里の者ですらなかったのだ。
 女がいつ呪者と接触したかを調べるため、里の者に聞き取りをしたところ、
明らかに女の容姿に食い違いがあった。渋る里人を説得して遺体と面通しさせ
てみると、果たして別人。そうこうしているうちに道端の、雪かきされた雪が
積み上げられていた中から本物の母親の遺体が見つかった。どうやら病人を収
容した仮小屋から抜けだしたあと、呪者に殺されたらしい。呪者は子の遺体を
奪い、さも自分が母親のような振りをして兵らを油断させ、王を罠にかけたと
いうわけだ。

171永遠の行方「呪(83)」:2009/05/02(土) 20:14:09
 夜だったこと、幇周には他に里人がいなかったこと、そして病で本物の母親
の容貌も多少変わっていたこと、呪者が気の触れた振りをしたこと。それらが
相まって誰も女に疑いを抱くことはなかった。まさか子を亡くして狂乱し、自
らの死も近い若い女が、謀反人の手先であるなどとは考えなかったのだ。
 これは逆に言えば、呪者が――少なくとも謀反を企んでいる者が――周到に
準備していたことを示していた。
 事件が起こったのちも帷湍らは当初、病に冒され子を失った女が、精神の安
定を欠いたところを呪者の一味に言葉巧みに取りこまれ、謀反人の手先となっ
て王に術をかけたのだと考えていた。しかしその推測は見事に外れたというわ
けだ。
「もう少し用心していれば……くそう」
 くやしそうに唇をかんだ帷湍に、令尹が言った。
「侯。こう申しては何ですが、今回の事件は普通の謀反のやり口ではありませ
ん。少なくとも我々が想定するたぐいのやり口では。たとえば年端もいかない
子供に無邪気に菓子を差しだされれば、誰もが疑わずに受けとってしまうよう
に、つい警戒を解いてしまうやり方はいくらでもあります。今回はまさにそれ
と同じたぐいの、我々の盲点を突いた計略だったと言えるのではないでしょう
か。むろん二度とこのような事態を引き起こさぬよう、反省は必要ですが」
「それはそうだが」
「強いて申しあげれば、何よりも主上を幇周にお連れしたことが過ちだったの
でしょう。しかし重大な事件に際してご自分の目でお確かめになる主上のご気
性のおかげで、五百年も王朝が続いてきたとも言えます。いずれにしろ通常の
謀反は、剣にしろ毒にしろ、直接的に主上のお命を狙うものです。しかし今回
はそうではない。それも力任せに押すのではなく、むしろこちらを罠に誘うよ
うな真似をした。そして昏睡しておられるとはいえ、主上のお命は無事です。
いったい何が狙いなのか、そちらのほうが気になります」
 すると他の官が口を挟んだ。
「呪者は、主上がおでましになることを予想していたのでしょうか。王という
ものは普通は宮城でさえ、外殿より先にお出になるものではありません。まし
てや余州の小さな里に出向くなど、通常は絶対に想定できないはずですが」

172永遠の行方「呪(84)」:2009/05/03(日) 10:50:46
 もっともな疑問に他の者も首を傾げる。帷湍は「ふむ」と考えこんだ。
「それはそうだが、今回は光州への行幸の触れを大々的に回していたし、地に
描かれた環や、全滅した葉莱のことがある。そろそろ本格的に国が乗り出して
くることくらいは普通に予想できたろう。ということは幇周で病が起きること
を知っていた呪者は、王はともかく、少なくとも州侯である俺が直々にそこに
出向く可能性ぐらいは念頭に置いていても不思議はない。そして州侯が来るな
ら、もしや王も……と考えることはできたかもしれん。そういえばあの女は、
呪者からの伝言を『主上に渡す』と口にしていたな。それが呪者の命令だとも
言っていたし、気が触れていると思えばこそ、さほどおかしいとも思わなかっ
たが」
「とはいえ、普通ならば突拍子もない望みです」
 しかしそこで別の官が、「雁では元州の謀反を題材にした、主上が単身州城
に赴いて台輔を救出なさるという活劇風の小説が広く知られています」と言い
だしたため、そのことを失念していた諸官をがっかりさせた。
「あれは小説なんだから」
 ひとりが呆れたように言えば、別の官が「いやいや、確かにあれは史実です
からな」とうなずく。帷湍は頭をかかえながらも、「なるほど」と答えた。
「謀反人は、みずから解決に乗りだそうとする尚隆の性格を知って罠を張った
のかもしれんし、逆に小説だの講談だので勝手に想像しているだけかもしれん
わけだ……」
「しかし侯。実際に大勢の民が死に、向こうの手の者もひとり死んでいるわけ
です。民が娯楽として小説を楽しむならまだしも、謀反の企てを起こそうとす
るような輩が、さすがにそんな不確かな根拠で計画を立てたりはしないでしょ
う。つまり敵が実際に主上のご気性を知っている可能性はあります。言い換え
れば官吏か、飛仙が関わっている可能性も高いということです」
「ふうむ」
 考えこんだ帷湍は、やがて令尹に命じて、使令に持たせる書簡を用意させる
ことにした。例の女が身元不明であることは、空行師に託した書類の中で報告
していたが、念のために仙籍を当たり、急に名前の消えた女がいないかどうか
調査することを関弓に進言しようというのだ。

173永遠の行方「呪(85)」:2009/05/03(日) 20:19:14
 官吏の場合は仮に行方不明にでもなればすぐわかるだろうが、何しろ雁にも
飛仙は多くいる。昔の時代からの累積の上に寿命が長いから、増えることはあ
っても基本的に減ることはないからだ。飛仙に仕える下僕も、国府が詳細を心
得ているわけではないという意味で飛仙のようなものだから、まだ仙籍にある
かどうか、つまり存命かどうかを頻繁に照合するわけではない。もしそういっ
た飛仙や下僕の中に今回の女らしき者がいれば、初めて首謀者につながる重要
な情報になる可能性があった。
 もっともこれまでその種の情報がまったくなかったわけではない。何しろ女
が尚隆に渡した紙片のことがある。「暁紅」とのみ書かれていたあれだ。
 心当たりと言えば梁興の寵姫だった女の名しかないし、それゆえ当初は誰も
が謀反人につながる重大な情報と考えていた。だがその後、こちらの推測を誤
った方向に導こうとする意図があるのではとの解釈が大勢となり、したがって
もはや重要な情報とは見なされていなかった。
 何しろ幇周の民と思っていた女が敵方であり、最初から罠だったという事実
はかなりの衝撃を官に与えた。そのため、その時点で諸官の意見の趨勢が変わ
ってしまったのだ。そして今や、これだけ準備していた呪者が不用意に自分た
ちにつながる情報を漏らすはずがない、あれはむしろ攪乱の意図があってのこ
とだという解釈が大勢になっていた。
 何が信頼できる情報か判断できなくなり、疑心暗鬼に陥って慎重になりすぎ
た結果とも言えるが、先ほどまでの臣下らとのやりとりで、帷湍はふと引っか
かるものを覚えた。
「今回の事件は、普通の謀反のやり口ではないと言ったな」
「は? はい」
 唐突な質問に怪訝な顔をした令尹に、帷湍は続けて言った。
「兵を挙げて攻めるわけでもない、武器を使って力ずくで押すわけでもない。
むしろ病を起こすことで相手の注意を引いて誘いこみ、実際に標的と対峙した
際も巧みに心理を突いて、誰もがうっかり油断するようなやりかたで罠にかけ
た。ただし命を奪うような乱暴な方法ではなく、昏睡状態に陥れただけ。これ
はどちらかと言えば男ではなく、腕力も度胸もない女のやり口だとは思わんか?」

174永遠の行方「呪(86)」:2009/05/04(月) 17:26:30
 だが令尹は首を傾げた。
「命を奪うような乱暴な方法ではないと言いましても、それは主上に限った話
で、この一年、光州の里や廬では大勢の民が病に斃れたわけですし……」
「それでも刃をふるったわけではない。奇妙な流行病のことは、おそらくどこ
かに呪具か何かを設置したのだろうが、呪を発動させたあとはいわば自動で病
にさせるだけだからな。呪者自身が近くにいる必要もないだろうし、罪悪感と
してはみずから他人に剣を突きたてるよりはるかに軽いだろう」
「それはそうですが」
「そもそも俺たちとしても、女の発想には慣れていない。特に謀反の場合、こ
れまでの首謀者はすべて男だったし、もともと武官に女は少ない。つまり男が
めぐらせた謀(はかりごと)に比べ、女の謀に対する経験が少ないからどうし
ても疎くなりがちだ。概論としては対応できても心の機微には疎いから、万全
の体制で臨んだつもりでも、おそらくは気づかないところで漏れが出る」
「はあ」
 今ひとつ納得できないような令尹をよそに、帷湍は使令に持たせる書簡に追
記させた。梁興の寵姫だった晏暁紅について、早急に調べを進めるよう進言す
る内容だ。
「俺自身はその女に会ったことはないが、例の謀反のあと、確か台輔は離宮で
光州城の者を引見したはずだ。籠城で心身ともにぼろぼろになった彼らを憐れ
んで助命嘆願をしたからな。ということは台輔にも、当時のことを何か覚えて
いないか確認したほうが良かろうな。謀反は計画しただけでも絞首、実行に移
せば斬首が慣例だが、結局寵姫らは事が起きるまで何も知らされていなかった
とわかり、助命は受け容れられた。台輔はその際、後宮の者と会うだけでなく
実際に言葉を交わしたかもしれん。それから武蘭珠と言ったか、所在がわかっ
たもうひとりの元寵姫のところへ、もう一度官を聴取に行かせろ。今度は晏暁
紅のことで覚えていることがないか尋ねるのだ。もちろん蘭珠自身についても、
何か怪しいそぶりがないか気をつけて観察し、少なくとも所在は常時把握して
おくように」
 そうこうしているうちに今度は冬官府から、例の書きつけや、それを残した
冬官の助手に関する新しい報告が上がってきて、どこか気が抜けたふうだった
官も、先の帷湍の叱責もあってきびきびと働きだした。通常の政務もこなしな
がらだから誰もが過負荷気味だったが、何しろ非常事態だ。それに関弓から疑
いをもたれているなら、その汚名を晴らすためにも懸命に働かねばなるまい。

175永遠の行方「呪(87)」:2009/05/04(月) 17:28:42
「ようやく書きつけの全容がわかりました」
 州司空は疲れた様子を見せながらも、報せに応じて内々に執務室を訪れた州
侯を笑顔で出迎えた。彼は奥の房室に主君を案内しながら説明した。
「散逸した書面をすべて回収できたわけではありませんし、そもそも紙の劣化
によって判読不能になっている箇所もありましたが、大勢には影響ありません。
いずれにせよ調査の初期段階でお知らせしたように、梁興が呪詛系統の呪を作
らせていたことは間違いなく、実際の担当者であった冬官は注意深く関連書類
を破棄して証拠隠滅を図ったと思われます。しかしせっかく開発した呪の喪失
を惜しんだ助手が、自分が覚えている事柄をこっそり書き残したということの
ようです」
「惜しむ?」帷湍は眉をひそめた。「呪と言っても今回のは呪詛なのだろう。
それを惜しむという感覚がわからんな」
 すると州司空は困ったように笑った。
「確かにそうですが、良くも悪くもそれが技官の性というものなのです。彼ら
が寝食を忘れて技術を追求するさまは、もともと文官だった拙官の理解も超え
ております。むろん俗物もおりますが、新しい技術を発見したり既存の技術の
改良法を見つけるということは、真に職人気質の冬官にとってはそれ自体が報
酬となるようです」
「まあ……気持ちはわからんでもないが」
「いずれにしろ今回は、件の助手のおかげで我々が情報を得られたことになり
ますし、助手自身はとうに故人ですので、ご寛恕をたまわりたく」
 帷湍が案内された先は、内密に調査を行なうために設けられた房室で、そこ
では選りすぐりの冬官が数名待ちかまえていた。州侯に礼をした彼らは、州司
空と州侯自身にうながされ、卓上に並べられていた書きつけを示しながら説明
を始めた。
「概略は既にご存じと伺っておりますが、これは呪詛系列の呪に関する覚え書
きです。書き手自身にとって自明のことは書かれていませんので、その辺はか
なり想像で補うしかありませんが、謀反の失敗を悟った梁興が籠城を始めてす
ぐ、冬官に命じて開発させたようです。つまり自分が処罰されるのは避けられ
ないとわかり、主上に復讐するために、ということです」
「なんと」帷湍は絶句した。

176永遠の行方「呪(88)」:2009/05/04(月) 17:30:56
「もっとも半年という短期間でそれほど大層な呪を開発できるとは思えません
から、おそらく基礎技術の開発はもっと前から内々に進めていたのでしょう。
幸か不幸か、呪本体の詳細な記録はほとんど遺っておらず、したがって再現は
できません。ただ、どのような意図を持って作られたものかということは、こ
の書きつけからわかりました。すなわち光州全体に呪の網を張り巡らせ、作物
が育たない不毛の地とする呪です」
 呆気にとられた帷湍はしばらく沈黙してから、やっとのことで問いを発した。
「……そんなことが可能なのか?」
「それはわかりません。ただ、梁興は可能だと思っていたのでしょう。それに
書きつけの内容から想像するかぎり、光州全体とは言わずとも、ごく狭い範囲
でなら不可能ではないと思われます。何よりも興味深いのは、国府の冬官府に
おける生長の呪の開発失敗例との相似です」
 怪訝な顔をした帷湍に、その冬官は説明した。
「かつて収穫量を上げるため、呪を使って植物の生長を促進できないものかと、
長期に渡って実験が行なわれたことがあります。残念ながら失敗に終わりまし
たが」
「ああ、そのことか。確かに聞いたことはあるな」
「北の地方である光州は雁で一番気候が厳しいですから、当時の光州冬官も興
味を持って実験のなりゆきを見守り、一部協力もさせていただいたようです。
今回の調査の一環で既存の呪に関する書類を確認した際、そのときの記録も調
べたのですが、失敗の型には二通りありました。ひとつは生長の速度を調整で
きず、植物本来の限界を超えて無理に生長させて枯らす結果となったもの。ひ
とつは生長の制御自体がうまくいかず、部位によって生長速度が異なった結果
枯れてしまったというもの。問題の書きつけを調べたかぎり梁興の呪は、国府
と意図するところは違えど、生長の呪の失敗型の後者と酷似しているように思
えるのです」
「なるほど。どちらにしても結果的に枯らすことは可能なわけだ。そういえば
確かに大司空がそんな話をしていたことがある」
「はい。そしてもし植物ではなく人間に対して同じことを行なった場合、体の
部位によって生長や老化の速度が異なるということですから、一部が壊死した
り麻痺したりする結果になるのではないかと。つまり昨年から発生している奇
妙な流行病と同じ症状を起こせるのではと」
「なに……」

177永遠の行方「呪(89)」:2009/05/04(月) 17:33:32
 帷湍は今度こそ仰天して目を見開いた。まさか例の流行病にまで発展する内
容の報告とは思っていなかったからだ。
 彼の驚きをよそに、冬官のほうは淡々と説明を続けた。
「呪具としては、いろいろな記載を鑑みると文珠が使われたと推定されます。
正式な記録と同様、呪具自体も残ってはおりませんが。またどうやら件の助手
は覚え書きを残すに当たり、自分でもこっそり実験してみたようです。呪に関
する記載の肝心要のところで、紙面が尽きたわけではないのに唐突に終わって
いること、落城の際の存命者一覧の中に助手の名がなかったこと、そして何よ
りも呪自体の危険性を併せますと、興味本位の実験に失敗して命を落としたと
解釈するのがもっとも自然ですから」
 帷湍はふたたび言葉を失い、ややあって「なんと、愚かな」とつぶやいた。
それには州司空も冬官らも無言で頭を下げただけだった。
 さらに彼らから詳細な説明を受けた帷湍は、国府に報告するために早急に書
類を作成するよう命じるとともに、助手の個人的な覚え書き以外に残っている
ものが本当になかったのか、書類はともかく、呪を施すために用意されたであ
ろう文珠も残っていないのかと質問したが、いずれもはかばかしい答えは得ら
れなかった。単に呪の開発が間に合わず、呪具の制作にまで至らなかったので
あればともかく、そうでないなら由々しいことだった。危険な呪言を刻んだ文
珠が、今もどこかに存在しているかもしれないからだ。
「そもそも梁興が王に復讐するというなら、その意を汲んだ家臣が遺っておら
ねばならん。当然ながらその者は、謀反とは無関係だったと見なされる人物で
なければなかろう。謀反は計画しただけでも死罪が慣例だからな。つまり呪の
開発が中断されたのではなく、万が一成功していたとしたら、関連する書類も
呪具もその者が所持している可能性がある。今回の病はそれが使われた結果だ
と。こうなるとやはり、暁紅という女が怪しいな」
「梁興の寵姫だった女のことですか。しかし閨で梁興を討ち、悲惨な籠城を終
わらせた女でしょう。主人に恨みはあっても、討った時点でもはや恩も情もな
かったのでは」
「そうかもしれん。だが王に渡した紙片に名前が書かれていたこと、今回の謀
反が男ではなく、むしろ女のやり口と思えることが気になる。むろん二百年も
の間、潜伏していたことは解せんが、それはこの際どうでもいい。とにかく呪
具を見つけることだ。それで可能性がさらに絞りこめるようになる」
 帷湍は険しい顔でそう言うと州司空に調査を命じた。いわく幇周の里を隅々
まで掘り返してでも、呪具を見つけだすようにと。

178名無しさん:2009/05/08(金) 23:19:57
連投キタ( ゚∀゚ )・∵.
姐さん待ってた!

179永遠の行方「呪(90)」:2009/06/13(土) 20:00:00

 とはいえ皮肉なことに光州側の発憤は、関弓における帷湍の評判をさらに落
とす結果となった。
 王を関弓に運ぶ際に託した種々の書類により、王を罠にかけた女が最初から
謀反人の一味だったこと。そして二百年前の謀反の際、冬官助手が書きつけを
遺していたことを知った諸臣は、里に紛れこんでいた敵方の女を見逃していた
ことに唖然としたのはもちろん、書きつけに関しても「どうして主上がお倒れ
になった今になって」という思いを強くした。特に後者は、要するに二百年も
の間、危険な呪に言及した書類が放置されていたことになるからだ。本来なら
ばとっくに回収され、今回の件とはまったく関係なく、とうの昔に調べがつい
ているべき事柄ではないのか、と。
 それから三日を経ずして、解読され丁寧に注釈がつけられた書きつけの詳細
が届けられ、さらにその翌日、幇周の里から呪具である文珠が発見されたとい
う急報を受けるに至っては、王の還御から間もないうちの出来事だっただけに、
多くの重臣が「今になって」「遅すぎる」という印象を憤慨とともにいだいた。
「確かに行幸の触れは大々的に回していたろうが、王たる者が御自ら辺境の小
さな里に赴くなど、そうそう予想できるものではない。これはやはり、どう考
えても州侯を狙った企みだったと見るのが自然だ」
「たまたま主上が幇周に出向かれ、ご身分を明かされたことで急遽狙いを変え
たのだろう。最初から光侯がきちんと処置をしていれば防げたはずだ」
「こうなるとやはり光州側に何らかの意図があるのでは」
 諸臣は憤慨とともにそんな言葉を口にした。
 もっとも声高々に帷湍を糾弾したわけではない。六太の使令は一部がまだ光
州城に残って監視役として働いているから心配はないし、何よりも今は誰に責
任があるかを問うのではなく、王を目覚めさせることが最優先かつ最大の課題
だったからだ。こんな状態のときに光州侯叩きに精を出すようでは、いくら思
いを同じくしていたと言っても、他の臣は咎めただろう。
 それでも臣下の間に、光州侯やその麾下に対する不審不満がたまっていくの
は避けられなかった。

180永遠の行方「呪(91)」:2009/06/14(日) 12:15:43

 宮城は静かだった。むろんもとから市井の喧噪とは無縁の場所だが、奄奚に
も禁足を課し、当分は下界と行き来できないようにすることで不用意に噂が漏
れないよう計らっている今、静寂の中にも張りつめた空気が漂っていると感じ
るのは諸官の気のせいではあるまい。
 当初、心のどこかで「この事件もすぐに解決するだろう。いや、解決してく
れ」と願っていた諸官も、いっこうに王が目覚める気配のないまま日数ばかり
が過ぎていくと本格的に焦燥に駆られざるを得なかった。表面上は以前と大差
ない生活が続いていたものの、互いに見交わす視線の中にある緊張が解けるこ
とはない。
 起きるだろう混乱を考えれば、とにかく事態を公にするわけにはいかなかっ
た。国内にかぎった話なら、自分たちが沈黙を守ってさえいれば、雲海の下に
は漏れないだろう。問題は他国の鳳だが、かつて泰王泰麒が行方知れずになっ
た際も鳴かなかったのだから、普通に考えれば他国にこの変事が漏れる心配は
ないと思われた。
 つまり王のことで鳳が鳴くとしたら次は崩御しかない。そして実際に事態が
そこまで進んでしまえば雁の官も諦めがつくから、そのことは考えなくて良い。
 現在のところ、昏睡状態にあるとはいえ王に健康上の問題はなく、神仙は飲
まず食わずでも、安静状態ならかなりの長期に渡って永らえることができるか
ら、とりあえずは事態を伏せておけるはずだった――謀反人たちが触れまわら
ないかぎりは。
 諸官の当座の心配はそこだった。謀反人が何を意図しているにせよ、国家を
脅かすことが目的なら触れまわらないはずはないからだ。
 そのことに懸念を覚えながらも、朱衡はひとり、正寝の王の元に見舞いに赴
いた。
 見舞いと言っても、つきっきりで詰めている女官らに異状はないかと尋ねる
くらいが関の山だったが、今日は先客がいた。延麒六太と地官長大司徒だ。
 何しろ正寝でのことだから、本来なら臣下が軽々しく王の臥室に入るもので
はない。だが今日は、以前から正寝も我が物顔で闊歩していた六太がいるせい
だろう、大司徒は彼とともに尚隆の臥室におり、女官にそれを伝えられた朱衡
もその場に赴いた。

181永遠の行方「呪(92)」:2009/06/20(土) 10:27:24
 沈黙だけが支配している王の臥室に入ると、そこにも重苦しい空気は漂って
おり、大司徒は折り戸が閉ざされた牀榻の前でぼんやりと立っていた。何か話
でもしているのかと思った朱衡だがそうではなく、六太のほうは、窓際の榻に
だらしなく座って窓の外を眺めているところだった。大司徒は朱衡を見て軽く
会釈をし、六太はちらと一瞥を投げて「よう」とだけ言った。
「何か変わったことは?」
 朱衡の問いに、六太は肩をすくめて「別に」と答えた。
「相変わらず、ぐーすか寝てやがる」
 にやりとしてそう言うと、六太は榻から飛び降りるようにして立ちあがった。
そうして手を無造作にひらひらさせながら、「またな」と言って去っていった。
どうしたものやらわからずに朱衡が大司徒を見ると、大司徒は曖昧な微笑を浮
かべ、おずおずとした調子で「そちらは何か変わったことでも……?」と逆に
尋ねてきた。
「いえ、何もないですね。少なくとも今日は、光州からも何も来ていませんし」
「そうですか……」
 いったん言葉を切った大司徒は、遠慮がちに牀榻をちらりと見てからこう言
った。
「あのう、大司寇」
「なんでしょう」
「もし――もし、ですが。このまま主上がお目覚めにならなかったとしたら、
雁はどのくらいもつのでしょう?」
 眉をひそめた朱衡が黙っていると、大司徒は放心したように続けた。
「主上以外に国の舵取りをできるおかたはおられません。わたくしども官は、
どのほど高位の者であろうとただの歯車です。方針が示され、進むべき道が示
され、それに基づいて執政を行なうだけ。今のままでも、しばらくは何とかな
るでしょう。でも舵を取り、国を適切な方向に導く主上がおられなければ、い
ずれ座礁するか転覆するか……。いったいわたくしどもはどうすれば良いので
しょう?」

182永遠の行方「呪(93)」:2009/06/21(日) 11:05:19
 この問いかけに対する答えはいくらでも考えられたが、朱衡はあえて答えな
かった。大司徒がただ動揺し、途方に暮れ、何か手堅い答えが示されるのにす
がろうとしているだけだとわかったからだ。それに王が関弓に戻って何日も経
たないというのにこれほど動揺してしまうのは、六官として褒められたもので
はない。先を見越して備えるのは当然としても、浮き足立つべきではなかった。
もともとこの大司徒は心配性なところがあったが、長たるもの、こういうとき
こそ泰然と構えねばならない。
「不測の事態に備えることと、いたずらに不安がることは違います。今の我々
が取るべき道は、一刻も早く謀反人を捕らえ、それによって主上にお目覚めい
ただくことです」
 きっぱりと言い放った朱衡に、大司徒は驚きの目を向けた。
「国の舵取りはむろん王の役目ですが、われら官吏はいわば実務の専門家です。
特に雁は、主上の長(なが)のご不在にも慣れています。一月や二月、主上の
お目が届かなかろうが、さしたる影響はありません。主上が新たな道を示され
るまで、われらは今まで通りに働けば良いのです」
「ええ――はい、もちろん、そうです」
 確信をこめた朱衡の言葉に、大司徒は慌てたように答えた。そして自分が長
たる者にふさわしくない言動を取っていたことにやっと気づいたのだろう、数
瞬の間、惑うそぶりはあったものの、すぐに苦笑してこう言った。
「莫迦なことを申しました。もちろんわたくしどもはいつもと同じように、い
え、それ以上に、せっせと働けば良いのですよね。つい不安になってしまって
……。ええ、もちろん働きますとも」
 大司徒は一気にそう言うと、朱衡に拱手してから慌ただしく退出していった。
 しかし見送る朱衡の心中は複雑だった。実際、大司徒に言った言葉に偽りは
ない。というより他に手立てがないのだ。
 誰もいなくなった臥室で、朱衡は長く息を吐くと、暗い目を牀榻に向けた。
「帷湍が何か有力な情報をもたらしてくれればいいのだが……」
 口の中でそうつぶやいた彼はしばらくそのまま立ちつくしていたが、やがて
牀榻に向かってうやうやしく一礼すると、静かに臥室から出ていった。

183永遠の行方「呪(94)」:2009/06/22(月) 19:48:42

「光州侯の進言にしたがって確認したところ、晏暁紅の下僕に梁興時代からの
側仕えである浣蓮(かんれん)という女がおり、先ごろ、その者の名が仙籍か
ら消えていることがわかりました」
 その日、朝議の冒頭で冢宰が行なった報告に諸官はざわめいたが、前日まで
と異なり、そのざわめきには力強さがあった。謀反人に繋がる有力な情報にた
どりついたと受けとめたからだ。仙籍を削除されたわけでもない者の名前が消
えたということは、すなわちその者の死を意味する。
「幇周で主上を罠にかけた女と同一人物ですかな」
「その可能性は高いのでは」
「するとやはり暁紅という女が怪しいな」
 官らは笑顔で見交わしてはうなずきあった。
「して、暁紅の行方は」
 この問いには大司馬が答えた。
「例の謀反以降、八十年ほどは貞州の州城で不遇をかこっていたそうだが、州
侯の代替わりと同時に、州城を辞して野に下っている。それから十年ほどして
行方もわからなくなったが、それは普通、飛仙の行方など捜さないからだ。し
かし今回は事情が違う。貞州侯に捜索を依頼するとともに、こちらも人員を割
いて潜伏先を突きとめる。暁紅は官吏でも何でもなく、単に梁興の寵を受けて
いただけの女だ。そんな女にこんな大それた企みを思いつけるとは思えん。お
そらく後ろ盾となる男がいるのだろう。暁紅を捕らえて誰の差し金かを吐かせ、
首謀者に違いないその男まで芋蔓式に引きずりだす」
 自信たっぷりに言いはなった大司馬を、諸臣は頼もしげに見やった。
「しかしその女はどういう女なのでしょう。先の謀反で赦されながら主上を脅
かすとは、恩知らずにも程がある」
 すると大司馬は肩をすくめて事も無げに答えた。
「もともとそういう女なのだろうな。梁興の寵姫でありながら、閨で、おそら
くだまし討ちのようにして主人を討った。赦されたあとは親族である貞州の州
侯を頼っていったものの、州城での評判は芳しくなかったようだ。官吏ではな
いから執政の役には立たぬし、おまけに謀反人の寵姫だった女だ。周囲も警戒
するし、当人も努力して周囲の役に立とうとする殊勝な心がけは見せなかった
ようだ。そのため州侯が代替わりすると居づらくなったようで州城を辞したら
しいが、そんな女がひとりで生きていけるはずもない。もともと謀反を企んで
いた男や呪者と、後ろ盾のほしい暁紅とで利害が一致したというところだろう」

184永遠の行方「呪(95)」:2009/06/23(火) 20:09:53
おそらく暁紅は、件の呪に関する資料や呪具を持っていただろうからな」
「なるほど。それで筋は通る」
 だが別の官は慎重な姿勢を見せた。
「今の段階で予断を差しはさまぬほうが良いのでは。確かに暁紅がこの件に関
わっている可能性は高いでしょうが、首謀者に利用されているというより、彼
女自身の企てである可能性もあります。何しろ先の謀反から二百年。行方知れ
ずになってからも百年以上です。その間に何があったかわかりませんし、暁紅
自身が呪を操り、すべての糸を引いていると考えても突飛な想像ではあります
まい。もともと梁興時代の光州では呪が盛んに用いられていたという話ですし、
敵を理由もなく軽んじて油断するようなことは控えたほうが良いかと。現在わ
かっているのは、主上を陥れた女が暁紅の下僕である可能性が高く、従って暁
紅が裏にいると考えられること。あとはこれからの調査次第でしょう」
 慎重な意見に朱衡も「そうですね」と同意した。
「それに市井にまぎれた飛仙を捜すのは、言うほど容易なことではない。何よ
り暁紅の形式上の身分は飛仙ですが、それは単に仙籍を削除されなかったとい
う結果によるものであって、別に彼女のための歳費が計上されているわけでも
ない。そのため界身から歳費を引きだすこともなければ、それによって居所の
見当をつけられるわけでもないのですから、あまり先行きを楽観視しないほう
がいいでしょう」
 勢いづいていた大司馬は多少気をそがれたようだったが、それでも「まあ、
それもそうだな」と冷静に応じた。さらに他の官もこう言った。
「考えてみれば、光州侯が言ってきたとおり確かに今回の事件は女のやり方に
思える。自分から攻めるのではなく、相手の気を引いて自分のほうに誘いこむ
のは、悪女が男をたらしこむのに似ているんじゃないか」
「なるほど……」
「仙籍から消えた下僕が本当に例の女だったとしたら、我々は確かに首謀者に
近づきつつある。だがこういうときこそ逆に慎重さが求められると思う。特に
今回はこんな不可解な事件を起こす輩なのだし、敵の真の目的がわからない以
上、気を引き締めてかからないと。それに主上を罠にかけた女は、『わが主よ
りの伝言』と言ったという。女が暁紅の下僕なら、主とは暁紅を指すはず」

185永遠の行方「呪(96)」:2009/07/02(木) 20:32:45
「うむ。確かにそうだ」
 大司馬は大きくうなずいて表情を引き締めた。
 そもそも光州全体を不毛の地とする大がかりな呪を施すことで、梁興の遺志
に従って間接的に王に復讐するというなら、弑逆を企てるならまだしも、王を
昏睡状態に陥れる必要はない。むしろひそやかに潜伏しつづけて呪の完成を待
ったほうが得策のはずだった。実際、葉莱と幇周から呪具たる文珠が見つかっ
たせいで、いまだ被害を受けていない他の里からも文珠が除かれることになる
だろうし、その結果第二の環が完成しないのならば、問題の呪は発動を免れる
のだろうから。
 要するに動機はわかったようでいてわかっておらず、謎が謎を呼んでいる状
況であるのは変わらないのだ。
 大司馬は壇上の空の玉座の隣に立っている六太を見あげた。
「当時のことで何か思い出されたことは? 特に暁紅ら寵姫のことで」
 たが六太は、少し考えただけで首を振った。
「前にも言ったように、俺はただ離宮に引き立てられてきた彼女らを見ただけ
だ。その打ちひしがれたさまに哀れに思ったことは覚えているが、名前も知ら
なかったし、誰が誰だと記憶しているわけではない。梁興を討った女について
も、そう聞かされて『この女が』と思っただけで、他に特に印象はないな」
「そうですか。まあ、二百年ですからな」
 大司馬は残念そうな顔をしながらも、自身を納得させるように何度か軽くう
なずいた。
 ついで、幇周の里から見つかったという呪具の報告に移ろうとしたとき、不
意に六太が提案した。
「手がかりらしきものにたどりついて何よりだ。しかし暁紅を捕らえるまで時
間がかかるかもしれないし、それがなくとも呪というものは厄介だ。この際、
蓬山に問い合わせてみるというのはどうだ?」
「蓬山、でございますか?」思いがけない提案に、冢宰も面食らって六太の言
葉を繰り返した。「それは、蓬山ならばわれわれの知らない呪に関する知識を
持っているかもしれない、という意味でしょうか? つまり主上の昏睡を解く
鍵が見つかるかもしれないと?」

186永遠の行方「呪(97)」:2009/07/02(木) 20:34:49
「そうだ。一般には知られていないことだが、蓬山は天の窓口みたいなものだ
からな。俺たちが知りえない知識もたくさん持っているはずだ。ただし普通の
女仙があの呪について何か知っているとは思わない。思わないが、碧霞玄君な
らあるいは、と思う」
「ふうむ。確かに可能性としては考えられなくもないでしょうが、どうでしょ
うな。そもそも蓬山となりますと、四令門が開く時期でないと行き来が――」
「雲海上を行けばいい。俺が転変して行けば、向こうでいろいろあったとして
も二日もあれば往復できる」
 六太が単身蓬山に赴くつもりでいるのを知り、冢宰は暫時沈黙してから静か
に首を振った。
「これが天の理に関わることであれば、確かに蓬山をお訪ねになるのも当然と
考えたでしょう。以前、泰台輔の捜索をなさったときもそうなさいましたな。
しかし今回の事柄と天が結びつくとは思えません。これはただの謀反です。前
にもお願いしたように、台輔には関弓にお留まりくださいと申しあげます」
「だが……」
「むろんいよいよ打つ手がないとなった場合は、あらゆる手を尽くすという意
味で蓬山行をお願いするかもしれません。しかし現在のところ、そこまで切羽
詰まっているわけではなく、むしろ解決に向けて事態が動きだしたというとこ
ろでしょう。違いますか?」
 これには六太は答えず、うつむいただけだったので、冢宰は何事もなかった
ように報告の続きに戻った。諸臣は壇上を気にしてちらりと目を向けたが、特
に反応のない六太に、彼らも報告に注意を戻した。
「予想されていたとおり、呪具は文珠だったわけですが、幇周では里の四方を
囲む形で四つの文珠が埋められており、葉莱でも同じ場所から発見されました。
それ以前の、一戸のみ被害に遭った廬里では、その家の四方を囲む形で、葉莱
や幇周よりずっと小振りの文珠が見つかったそうです」
 一連の文珠は、小振りのものもそうでないものも、すべて高価な宝玉が使わ
れていた。どんな呪であれ一般に、普通の石より宝玉を使うほうが効果が高い
と言われているが、第一の環と第二の環で、単純に考えれば総計で百個近い数
が必要になる。普通の庶民に手が出せるものではなかった。だが州侯のような
地位にある者が計らったことなら、それくらい造作もなかったろう。

187永遠の行方「呪(98)」:2009/07/02(木) 20:36:57
 問題はいつ埋められたかということだった。
 しかし雁は国が安定しているだけに、里や廬自体の位置は二百年前とさほど
変わっていないことがわかった。第一の環で被害に遭った家々についても、少
なくともこの五十年で場所を移したと思われる家屋はなく、したがってそれ以
降に埋められたのだろうと推測するしかなかった。
「いずれにせよ、諸々の状況を鑑みると、二百年前の謀反の際に既に埋められ
ていたとは考えられないそうです」
「するとやはり、あとで謀反の残党が埋めたと推測できるわけですか」
「おそらく」
「ならば、いつ、ということはそれほど気にしなくてもいいかもしれませんね。
家屋が別の場所に建て替えられて、せっかくの呪が効力を発しなくなる危険を
考えれば、比較的最近、多めに見積もっても十年から二十年程度の間に行なっ
たことに違いないのですから」
 それはもっともな推理ではあったが、敵方の人数を推しはかる材料とならな
いのが残念ではあった。何となればたとえ単独犯の行為であっても、ある程度
の時間をかければ、各地に文珠を埋めることは十分可能だからだ。
 光州からの報告によれば、念のために場を安定させる別の呪を施してから順
次文珠を取り除いているとのこと。おそらく第二の環の上にある他の里や廬に
も埋められているだろうから、発見次第、同様の手順で除いていくとのことだ
った。
 何か見落としていなければ、これでもう新たな被害は発生しないはずだから、
来月一ヶ月の間に何も起きなければ、光州への行幸の目的は達したと触れを出
すことができる。そうすれば光州城での王のふりをしている影武者も役目を終
え、実際に事件が収まった以上、たとえ謀反人が王の昏睡について噂を流した
ところで残党による流言飛語として片づけることも容易になると思われた。光
州の民は何の疑いもなく「すべて主上のおかげ」と喜び、被害に遭った里の者
もやがて事件を忘れて日常に戻り、諸官はしばらく時間を稼ぐことができるだ
ろう。
 その間に謀反人を一網打尽にし、王にかけられた呪を解くのだ。

188永遠の行方「呪(99)」:2009/07/04(土) 13:57:55

 朝議のあと、昼餉をはさんで大司寇府で執務に精を出していた朱衡は、仕事
の切れ目を見つけて仁重殿に赴いた。昔ならいざ知らず、王も宰輔も必要な執
務量はかなり減っているから、六太はいつも遅くとも午後の半ばには靖州府を
退いて自分の居宮に戻るようになっていた。
 夕刻の退庁を待たずに出向いたのは、朝議の際の六太の様子が気になったか
らだ。相変わらず静かな緊張が宮城を支配している今、彼も何か吐き出したい
こともあるのではないか。そんなふうに思う。
 ただの主従関係であってもこれだけの歳月をともに過ごせば、仲間意識も情
も自然と芽生えてくる。実際朱衡は口に出さないだけで、尚隆にも六太にも深
い親愛の情をいだいていた。一介の仙に過ぎない自分でさえそうなのだから、
六太はそれ以上に尚隆に情を持っているに違いないのに、王が昏睡に陥ってか
らこちら、あまりにも感情を見せないのが逆に気になった。
 むろん実質的に王が不在の今、臣下の筆頭である宰輔が取り乱してはいけな
いだろうが、普段率直に心中を吐露することが多いことを思えば、あまりにも
不自然だった。これだけ長く仕えると何とはなしに微妙な変化も感じ取れるよ
うになるものだ。
 六太は無条件で王を慕うとされる麒麟だが、普段の彼からはあまりそんな印
象を受けない。尚隆といると確かに嬉しそうな顔になるのだが、それでいて王
が示した政策を簡単に否定しては鋭くなじることも少なくないからだ。昔は他
に麒麟の知り合いなどいるはずもないからそういうものだと思っていたし、特
に不思議とも思わなかったが、長い間に接することになった他国の麒麟と、六
太はあまりにも違っていた。たまに仲良く揃って逐電するくせに、雁の王と麒
麟は互いに一定の距離を置き、そこから相手の側には決して足を踏み入れない
ように見えた。
 その昔、六太は「王なんて存在は民を苦しめるだけだ」と事もなげに言いは
なって、朱衡をびっくりさせたことがある。よくよく話を聞いてみれば、六太
は蓬莱で庶民として生まれ、戦乱を嗜むその土地の為政者に相当苦しめられた
らしい。当人が話したがらなかったため詳しく聞き出すことはできなかったが、
それで、と納得したことを今でも覚えている。

189永遠の行方「呪(100)」:2009/07/04(土) 14:00:23
 幼少時のつらい記憶は、確かになかなか忘れることはできないものだろう。
それを思えば、六太が尚隆に対して一定の距離を置くのも無理はないとも言え
た。
 しかし六太は麒麟だ。罪人にすら憐れみを覚え、眼前に困窮する者があれば
慈悲を施さずにはいられない神獣だ――いくら普段は普通の少年のように見え
るとはいえ。そんな彼が負の感情に支配され、天帝に本能として与えられてい
るはずの王への思慕を抑えるのは不憫なことではないだろうか。おそらくは葛
藤もあるだろうし、特に今の非常時においては、万が一にでも王が崩御するよ
うなことがあれば国が荒れるかもしれない。王への思慕と、国を、民を憂う気
持ち。少なくとも近しい臣下にはそれらへの不安を漏らしても不思議はないの
に、六太はあまりにもおとなしすぎないだろうか。それでいて蓬山に行くなど
と突拍子もないことを言いだし――。
 取り次ぎの女官に先導されて居室のひとつに赴くと、朱衡の懸念を知らない
六太はにやりとした笑みを向けてきた。その昔、よく政務を怠けて王とともに
逐電していた頃を彷彿とさせる、小ずるい笑み。
「別に怠けてはいないぞ。今日の政務は終わったんだからな」
 朱衡は一呼吸置いてから、穏やかに微笑した。確かに昔と違い、尚隆も六太
も随分とおとなしくなったと思う。だから王と宰輔が同時に姿を消すといった
ことがないかぎり、臣下らも彼らの出奔を大目に見るようになっている。
「何も台輔に小言を申しあげるために参ったわけではございませんよ」
「へえ? まあ、いいや。茶でも飲む?」
 六太は女官に言いつけて茶と菓子を出させ、朱衡にもくつろぐよう言ってゆ
ったりとした椅子を指した。女官らが下がって余人の目がなくなってから、朱
衡は話を切りだした。
「本日の朝議で、台輔は蓬山に行きたいとおっしゃいましたね。あれは何か当
てがあってのことなのでしょうか?」
「当て?」
 意味がわからないといった顔で問い返す。朱衡はうなずいた。

190永遠の行方「呪(101)」:2009/07/04(土) 14:03:28
「台輔は簡単におっしゃいますが、われらにとって蓬山はあまりにも遠く、困
難な道のりの果てにある仙境です。むろん台輔はそこでお育ちですし、これま
でにも何度か足を運んでおられることも存じております。しかしそれにしても、
いきなり蓬山にとおっしゃるからには、何か具体的な当てがおありになるのか
と。これまで拙が記憶しているかぎり、蓬山行はすべて目的が明確だったはず
ですから」
「いや、その意味じゃ、別に当てはないけど。でもあのとき言ったように碧霞
玄君なら……」
「当てもないのに蓬山まで、それも随従をいっさいお連れにならず、転変まで
して超特急で往復なさるおつもりだったと?」
「あのなあ……」
 六太は溜息をついた。朱衡の用向きがわかって取り繕う必要がないことがわ
かったのだろう、先ほどまで見せていた小ずるそうな笑みはとうに収めていた。
「そりゃ、そう思うかもしれないけどさ。仕方ないだろ? 何しろあの昏君が
大見得を切った挙げ句、まんまと敵の罠にかかって寝こけてんだから」
「しかし」
「悪いが、俺にはこの事件が簡単に解決するとは思えないんだ」
 思いのほか厳しい表情でそう答えた六太に、朱衡は驚いて目をみはった。
「暁紅とかいう女にしたって、自分で行方をくらました飛仙が、そう簡単に見
つかるもんか。これが昏睡に陥ったのが俺で、尚隆がぴんぴんしてたんなら話
は別だけどな。尚隆は自分を発信人にして鸞を飛ばせる。暁紅を名宛人にすれ
ば、鸞は一直線に彼女の居場所に飛んでいくはずだ。行動を封じたいなら、何
なら仙籍から削除して只人にしてしまうこともできる。大司徒もそう言ってい
たが」
「大司徒が?」
 朱衡は顔をしかめた。もしや先の見舞いの際のことだろうかと思う。いずれ
にせよ、そんな話を六太にするとは大司徒も分別のない。これでは暗に、尚隆
ではなく六太が呪にかかれば良かったと言っているようなものではないか……。
 そんな朱衡の心中を察したのだろう、六太はこう言って取りなした。
「大司徒は大司徒なりにあれこれ考えて悩んでいる。言葉として吐き出すこと
で逆に不安を収めたいという心理もあるだろう。あまり責めないでやってくれ」

191永遠の行方「呪(102)」:2009/07/04(土) 14:06:29
「ですが」
「それより俺は、晏暁紅が市井の飛仙だというのが気になる。宮城や州城、仙
洞で暮らしていると、周囲は不老不死の人間ばかりだから人の生き死にや老い
にも鈍感になるが、市井に紛れた飛仙はそうはいかない。多くの知り合いを死
出の旅に送りだす彼らはやがて、暁紅のように行方をくらますか仙籍を返上す
るのが常だ。地にあって只人と交わる飛仙は生に倦み、人生を諦観しやすい。
そんな彼らと、謀反のよくある動機である権力欲は結びつかない」
「なるほど」朱衡は相槌を打ちながら、単純に相手の言葉を否定しないよう気
を配って答えた。「しかしそれはあくまで一般論ではないでしょうか。お話は
理解できますが、飛仙にもいろいろな者がいるわけですし……」
 とはいえ彼は、六太が自分の考えを正直に語ってくれることにある意味では
安堵していた。今はとにかく心中をすべて吐きだしてもらったほうが良い。
「そうだな。だが俺は、帷湍が言ってきた、尚隆との話も気になるんだ」
「帷湍の話――とおっしゃいますと」
「最初、呪者が気の触れた女に伝言を託したと聞かされた帷湍は、呪者が随分
投げやりだと感じたという。伝言が伝わらずとも別に構わないように思えたか
らな。それに対し尚隆も、考えようによっては光州の地に描かれた環も同じだ
と答えたって話。何か不可解な事件が起きているとわざわざ知らしめる意図が
あるように見えながら、一方では事が露見してもしなくてもかまわないという
投げやりな感じを受けると言ったと」
 朱衡は記憶を探り、光州からの詳細な報告の中に確かにそんな内容があった
ことを思いだした。彼自身はさほど重要な情報とも思わなかったが。
「呪者が伝言を託したと思われていた女こそ、実は当の呪者だったわけです。
したがってそのことから受けた帷湍の印象がどうであれ、あれはあくまで演出
だったことになりますが」
「うん。確かに尚隆に呪をかけたのはその女だけど、光州で病を発生させた呪
とは別物だろう。だから女のことはそれとして、光州の地に描かれた環につい
てはどうだろうな。おまけにこっちは尚隆が受けた印象だ。あいつはあれでか
なり鋭いから、根拠のない『印象』とはいえ莫迦にできない」
 それはそうなので考えこんだ朱衡が黙っていると、六太は続けた。

192永遠の行方「呪(103)」:2009/07/04(土) 14:09:39
「俺は気になるんだ。今回の事件が尚隆や帷湍に恨みがある人間の単純な復讐
劇というならまだわかる。共感はできないが、動機をひもとけるという意味で
の理解はできるからな。でも野に下った飛仙がそこまで何かに執着するだろう
か。言いかたを変えると自分で事をくわだてるにしろ利用されるにしろ、行方
をくらまして百年も経ってから、謀反を起こしたり陰謀に加わるだけの『気概』
を持てるだろうか。俺は別に晏暁紅が無関係だと思うと言っているわけじゃな
い。むしろ単なる協力者より首謀者に近いかもしれないとさえ思っている。な
ぜなら生に執着しない飛仙の淡泊な印象は、尚隆が口にした、敵方の投げやり
な印象とも不気味に符合するからだ。そしてもし敵の動機が復讐でも権力の奪
取でもないなら、この事件の解決は相当難航するんじゃないか。おまえたちを
信頼していないわけじゃないが、俺は嫌な予感がして仕方がない」
 そう言われてみると朱衡も、六太の心配にも根拠がないとは言い切れないよ
うな気がした。いまだ敵方の真意が不明というのもあるが、少なくともこれま
でわかったことから想像するかぎり、確かに過去の例にあったような単純な復
讐や権力欲が動機と考えるには不自然な感触はあった。
 それでも六太が気にしているように、謀反人が事が露見してもしなくてもか
まわないというような投げやりな考えでいるかと問われれば、それも少し違う
気がした。何となれば広い光州中に呪具たる文珠をきっちりと置くなどという
行為は、相応の決意と計画性がなければできないことだからだ。
 むろん梁興は、文珠を設置する廬里の選定も慎重に行なっていたろうし、暁
紅が持ちだしたのだろう呪に関する書類の中に、そういった詳細な計画が載っ
ていた可能性も容易に想像できた。おそらく今回の謀反人は、それら梁興の負
の遺産を最大限に活用しただけだろう。しかし大した気概がないのであれば、
実際に光州中を巡って文珠を設置する段階で諦めるのではないだろうか……。
 それを言うと、六太はしばらく考えてから、はたと思いついたように「賭け、
かな」と言った。
「賭け?」
「そう。敵は闇雲に謀反の成就を狙っているわけじゃないかもしれない。俺た
ちに向けてあえて手がかりを提示し、それに気づいて対処すれば俺たちの勝ち、
そうでなければ自分たちの勝ち。不可解だが、そんな賭けをしていると仮定す
れば辻褄は合う」

193永遠の行方「呪(104)」:2009/07/04(土) 14:12:04
「そんな莫迦な」朱衡は思わず反論した。「他のことならいざ知らず、事は謀
反という大罪ですよ。光州では多くの民が病に斃れただけでなく、実際に主上
が狙われて昏睡に陥り、敵の手の者もひとり死んでいます。そんな大それた賭
けがいったいどこにあります!」
「……神をも恐れぬ無謀な賭けだな」
「では主上を陥れた女は、何のために自分の命を投げ打ったのです? 呪が跳
ね返されて報いを受けたのか、進んで病にかかったのかはわかりませんが、不
治の病に蝕まれてまでするほどの『賭け』なのでしょうか?」
 そう問うと、六太は「うーん……」と唸ったまま黙りこんだ。そのまま朱衡
が待っていると、六太は肩をすくめて「わからない。お手上げだ」と答えた。
「で、単刀直入に聞くが。もしこのまま尚隆が目覚めなかったとしたら、雁は
どれくらいもつと思う?」
 不意を突かれ、朱衡は答えに窮した。あのとき大司徒に問われたのと同じ言
葉だったが、まさか六太に尋ねられるとは予想もしていなかったからだ。だが
今の話の流れを考えれば、問われても不思議のない内容ではあった。
 朱衡は迷ったものの、結局は大司徒に返したのとは違う答えを慎重に口にし
た。
「この状況が外部に漏れないという前提でなら、何事もなければいくらでも、
と申しあげるしか」
「ふうん?」
「主上に御璽をいただかなければ各種政令も公布できませんが、国府としてで
はなく、各自治体の条例という形でしのぐことは可能ですので。ただしその結
果、首長が権力を持ちすぎてしまう危険がありますから、官吏の専横を招かな
いよう注意する必要があります」
 そこでいったん言葉を切ったものの、六太が目顔で先をうながしたので、朱
衡は仕方なく厳しい見通しも口にした。今の六太に口先だけのごまかしは利か
ないだろう。
「しかし一番問題なのは、実は官吏の登用や罷免、異動といった人事関係です。
とりわけ仙籍を更新できなくなるのが厄介です。たとえば拙官が部下を罷免し
ようにも仙籍から削除できず、新たな官を登用しようにも仙籍に載せられない
のでは、日常の業務に支障が生じるのはもちろん、主上に何かあったと気づか
れてしまいます。数ヶ月から半年程度ならともかく、正直なところを申せば、
主上には一刻も早くお目覚めいただきたいものです」

194永遠の行方「呪(105)」:2009/07/04(土) 14:15:15
「そうだな。俺たちでは収拾のつかない事件でも起きて民の生活に悪影響があ
れば、次の王をという声も自然と出てくるだろうし」
 さらりと言ってのけた六太に、朱衡は言葉を失った。それは目覚めぬままの
王の命を奪うことを意味しているからだ。
 今の段階で既に六太がそこまで覚悟しているのかと思うと、さすがの朱衡も
内心の動揺を抑えきれなかった。尚隆が暴君となり六太が失道したのならば、
弑逆もやむを得ないと覚悟を決めたかもしれない。しかし誰が手を下すにしろ、
こんな状況で王を弑するなど、到底耐えられるものではなかった。
 そんな彼の動揺をよそに、六太は淡々と続けた。
「そもそもたとえ謀反人を一網打尽にしても、尚隆にかけられた呪を解く方法
を簡単に吐くはずがない。謀反は計画した段階で死罪と決まっているからな。
今回の事件が敵の賭けだろうが野望だろうが、それが潰えたと悟った彼らは、
捕らえられた瞬間に貝のように口を閉ざすんじゃないのか。むしろ拷問を恐れ
て、捕まる前にみずから命を絶つことも十分予想される。そして彼らが死ねば、
呪を解く方法がわからないまま、尚隆はこのまま昏睡から醒めないかも知れな
い。そんな状態が長く続き、執政に滞りが出てくれば、民の間からは自然と不
満が出てくるだろう」
 あまりにも冷静な言葉に朱衡は愕然とした。そういった想像をすることも確
かに必要ではあったが、ようやく敵の姿が見えてきたかどうか、という今の段
階で口にする言葉では決してない。六太が一介の官吏なら、彼自身が混乱に乗
じて陰謀をたくらみ、王に危害を加えようとしているのではないかと疑われて
も仕方のないところだ
 朱衡は何とか取り繕って落ち着いたさまを取り戻し、口を開いた。六太も大
司徒と同じだ。あえて口に出すことで、逆に不安を解消しようとしている。そ
の相手が気心の知れた自分であるということは、内心を吐露すると同時に暗い
予測を否定してもらいたいと思っているはずだ。
「台輔がそんなことをおっしゃっては困りますね」
「困るか」
 六太は、自分こそが困るとでも言うかのようにほのかに笑った。その表情は
昔の、王は民を苦しめるだけだと暴言を吐いたり、長(なが)の出奔で朱衡ら
を手こずらせた頃の面影はなく、宰輔の顔だった。

195永遠の行方「呪(106)」:2009/07/04(土) 14:18:25
 そういえば六太が尚隆の命を受け、あちこちの国の情勢を探るようになった
のはいつごろからだったろう。先の慶での例を出すまでもなく、妖魔が闊歩す
る荒れた土地にも尚隆はひそかに六太を派遣した。使令を使い、使令に守られ、
人としては弱者である少年の姿を持つこの麒麟は、いろいろな場所に紛れこむ
のに都合が良かったからだ。
 普通の王なら危険な地に麒麟を派遣するなど考えもしないだろう。しかし使
令がいる以上、実質的に危険はないと言って尚隆は無頓着に六太を使い、六太
もその命に従った。それは単に勅命だったからだろうか。それとも主に信頼を
寄せ、心から彼の役に立ちたいと思うようになったからだろうか。あるいは宰
輔として、国外の情勢にも気を配るべきだと考えたからだろうか……。
「困ります、本当に。他の者には何もおっしゃっておられないようですからい
いですが、台輔こそは誰よりも主上がお目覚めになることを信じてさしあげな
ければならないお立場でしょうに」
 それを聞いた六太は、ふたたび困ったように笑った。その笑みがあまりにも
淋しげに見えて、朱衡はどきりとした。
 ――本当は王のことが心配でたまらないのだろうに。
 でなければ蓬山行など口にするはずもない。六太は明らかに他の臣下より焦
燥に駆られているのだ。もし王が目覚めなかったらと暗い仮定をするのも、そ
の焦りの現われ。こんな聞き分けの良い――良すぎる冷静な言葉ではなく、も
っと感情に走ってくれたなら、同じ内容の言葉を投げられても朱衡も落ち着い
ていられたろうに。
 だが六太は不意に考えこむとこう尋ねた。
「俺たちって困ってるよな?」
「は?」
 唐突な下問に意味が解らないながらも、自分をじっと見つめる六太に朱衡は
軽くうなずいた。
「本当に困っているよな?」
「いいえ、とお答えできる状況なら幸いなのですが。残念ながら非常に困って
いると言わざるを得ません」

196永遠の行方「呪(107)」:2009/07/04(土) 14:21:39
 正直に答えると六太は、うん、とうなずき、壁際の供案の上にある物を取っ
てくれと朱衡に頼んだ。それは封をした書簡らしきもので、言われるままに朱
衡は手に取り、確認するかのように六太を振り返って軽くかざした。
「そうそれ。ちょっと開けてくれないか。中に何か書いてあると思うんだけど」
「これは何ですか?」
「たぶん占文(せんもん)のたぐい。前に知り合いにもらったんだけどさ、本
当に困ったときじゃないと開けちゃいけないって言われて。もちろん信じてる
わけじゃないけど」
「占文……。斗母(とぼ)占文ですか? 運勢占いの? 開けると斗母玄君か
らの助言が記されているという?」
「うーん。たぶん」
 朱衡は意外に思いながらも薄い書簡の封を切った。その手のものは基本的に
庶民の娯楽なのだ。どうとでも解釈できる適当な文言が最初から記されている
のが普通なのだから。
「あれは子供の遊びのようなものですが」
「ま、そうなんだけどさ」
 中にたたまれていた料紙を取り出す。開いてみたが、そこには何も書かれて
いなかった。
「白紙です」
 六太に紙面を見せてから、開いた状態のまま傍らの大卓に置く。「信じてる
わけじゃない」と言ったわりに、六太は明らかに落胆していたが、すぐに自嘲
めいた笑みを浮かべて視線を伏せた。
「本当に困ったときに開けると、苦境を脱するのに助けになる言葉が浮き出る
はずなんだけど」
「はあ……」
 朱衡はあいまいに言葉を濁したが、普段はこんなものを当てにするほうでは
ないのにと思うと、さすがに胸が痛んだ。だが六太はすぐ顔を上げ、気を取り
直したように明るく言った。
「しかし意外だな。朱衡もこういうの知ってるんだ?」

197永遠の行方「呪(108)」:2009/07/04(土) 14:25:03
「知っていると申しますか……単に小学ではいろいろな伝説や物語をもとに字
を教えられましたので。信じる信じないではなく、そういった伝説や占いも数
少ない娯楽でした。もっとも当時は雁も厳しい時代でしたから、他には何もな
かったと言うべきですが。一番人気は降神術である紫姑卜(しこぼく)でした
が、斗母占文もそれなりに遊ばれていましたよ。何しろ人間の運命と寿命を司
る斗母玄君が与えてくれる助言です。それにませた女の子などは素知らぬふり
で、恋をしかける言葉を自分で書いて占文と偽って相手に渡したり。相手も心
得たもので、取っておくような野暮な真似はせず、人目のないところですぐに
開いてみたものです」
 朱衡は遠い昔を懐かしむように目を細めた。
 この世界では精神論に重きを置くたぐいの信仰は盛んではない。一般的なの
は「拝めばこういう得がある」という、具体的な現世利益をもたらしてくれる
神々への信仰だ。たとえば子供をくれる天帝や西王母がそれに当たる。良くも
悪くも自分の欲求に正直なのだ。
 碧霞玄君の人気もそこそこ高いが、それは彼女が、立身出世だの病気平癒だ
の恋愛成就だのといった、ありとあらゆる願いをかなえるとされる、いわば都
合の良い女神だからだ。紫姑や斗母玄君もそのたぐいとはいえ、碧霞玄君ほど
いろいろな願いを聞いてくれるわけではない。したがってそのぶん庶民の人気
は低いというわかりやすい構図だ。なのにそれなりに馴染みがあるのは、娯楽
の一種と思えば紫姑卜や斗母占文もおもしろい遊びだからだろう。
「そういえば朱衡の子供時代の話はあまり聞いたことがなかったな。おまえで
も幼い頃は――」
「――台輔!」
 顔色を変えて突然叫んだ朱衡に、六太は怪訝な顔で言葉を切った。朱衡は今
し方、大卓の上に置いたばかりの料紙を震える手で取り、表を六太に向けて見
せた。
「字が……」
 いつのまにか表面にくっきりと浮かびあがっていた文字。
「寄こせ!」
 六太は朱衡から引ったくるようにして料紙を手に取り、少なくとも墨で書い
たとは思えない不思議な茶色い文字をまじまじと見つめた。

198永遠の行方「呪(109)」:2009/07/04(土) 14:28:22
 そこにあったのは、ただ二文字。
 ――『暁紅』。
「さっきは確かに白紙でした」そう言いながら、朱衡は六太の手元を覗きこん
だ。「昔からいろいろな占文の話は聞いていますが、実際にこんな不思議を目
の当たりにするのは初めてです」
「俺もだ」
 六太は唸るように言い、紙をひっくり返したり斜めから見たり、難しい顔で
検分している。
「例の女が尚隆に渡した紙、あれにも『暁紅』とだけあったよな」
「でもあちらは普通に筆で書かれていました。拙官も実物を見ましたが、内容
は同じでも、筆跡も見た目もまるで違います」
「うん。不思議だな」
 ふと朱衡は思いつきで尋ねてみた。
「もしやこれをくれたのは蓬山の女仙ですか? だから台輔は蓬山に行きたい
とおっしゃったのですか?」
 すると六太は苦笑した。
「全然違う。そういうんじゃなくて――」
 だが彼は思い直したように真顔になり、「そうだな、聞いてみる価値はある
かもな。只人ではなく、意外と力のある女仙なのかも」とひとりごちた。
「ちょっと出かけてくる」
「えっ」
 唐突に言われ、朱衡はつい驚きの声を上げた。そんな彼に六太はまた笑い、
先回りしてこう言った。
「心配するな。関弓からは出ない」


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次の投下までしばらく間が開きます。

>>178
ありがとうございます。これだけ書いてももう少しこの章は続くので
気長にお付き合いください。

199永遠の行方「呪(110)」:2009/08/01(土) 00:06:23

 その日、夕餉を取るために寮の自室の扉を開けた鳴賢の前に、思いがけず六
太の姿があった。
「よう。久しぶり」
 片手を軽く上げ、気軽に挨拶をしてくる。最後に会ったのは例の「王は人柱」
の話のときだが、それも既に何ヶ月も前だ。気まずいようなそぶりもなく、以
前と変わらない様子に鳴賢は何となく安心した。
「本当に久しぶりだ。元気だったか?」
「まあまあってとこかな。――で、敬之か玄度、知らねえ? 房間と飯堂を覗
いてきたけどいなかった。そういや楽俊も見かけないな」
「敬之は帰省中だ。玄度はさっき藩老師と話をしているのを見かけたから、そ
のうち戻ってくると思うぜ」
 扉を閉め、外出のために財嚢を持ったか確認しながら答える。最近は飯堂で
はなく、気分転換のために外に夕餉を食べに行くことも頻繁な鳴賢だった。勉
強のためとはいえ、ずっと寮にこもっていると気が滅入るからだ。
「文張はたぶん図書府に本を返しにいったんじゃないかな。今の司書は奴にも
便宜を図ってくれる人だから、今のうちに借りておきたい本もあるらしいし」
「そっか……。どうすっかな」
 何やら考えこんだ六太に、鳴賢は「敬之と玄度に用か?」と尋ねた。
「用は用なんだけど……。あ、鳴賢も知ってんのかな? 倩霞の新しい住まい。
前に引っ越したとか言ってたじゃん?」
「ああ、それなら知ってる。一度だけ敬之につきあって、阿紫のところに行っ
たから」
「へえ。ちなみに奴の戦果は?」
 鳴賢は肩をすくめ、聞くな、と身振りで示した。六太は笑った。
「あいつも仕方ねえなぁ。でも、ま、いいや。鳴賢、すまないけど、倩霞の家
の場所を教えてくれないか?」
「阿紫に何か用か?」
「阿紫じゃなくて倩霞のほう。ちょっと聞きたいことがあって」

200永遠の行方「呪(111)」:2009/08/01(土) 00:08:32
「ふうん?」
「あ、別に倩霞にちょっかい出そうってんじゃないぜ?」
 おどけて言った六太に、鳴賢はふたたび肩をすくめて見せた。
「いちいち言わなくてもわかってるよ。玄度じゃあるまいし、俺はそれほど嫉
妬深くは見えないだろうが」
「どうだかなー」
「わかったわかった。どうせ外で夕餉を食おうと思っていたところだし、散歩
がてら案内してやる」
「そうか、悪いな」
 まったく悪いとは思っていない顔で、六太はにこにことして答える。
「――と。でももしかして玄度を待って、誘って一緒に行ったほうがいいかな?
あとでばれたら、あいつのことだから機嫌を損ねるかも」
「ほっとけよ」鳴賢は淡泊に答えた。「あいつ、最近はほとんど俺と口を利か
ないんだぜ。一緒に行ったって、今さらどうなるものでもないだろう」
「なんだ、まだごたごたしてたのか。いいかげん仲良くしろよ。友達なんだろ」
「あいつの頭が冷えるまでは無理だな。成績も落ちる一方だし、こうなったら
もう本人の自覚にまかせるしかない」
 閑散とした寮の廊下を先に立って歩きながら鳴賢はそう言い捨て、あまりそ
の話をしたくなかったので強引に話題を変えた。
「それより俺、海客の団欒所に行ってみたんだ。雁で官吏になるなら、海客の
ことくらい知っていたほうがいいって文張に勧められてさ。六太もあそこには
ちょくちょく行ってるんだろ?」
「え? うん、まあな」
 がらりと話題を変えられて、六太は少しだけ戸惑った様子を見せた。実のと
ころ鳴賢が団欒所に赴いたのは、新年の開放日を含めて二度だけだし、海客と
さほど親しくなったわけでもなければ、いまだに興味も薄い。単に、毛色の違
う話としてとっさに口をついて出ただけだ。だが六太のほうは頻繁に訪ねてい
るらしいだけに、戸惑った顔をしたのは一瞬のこと、思ったとおりすぐ話に乗
ってきた。

201永遠の行方「呪(112)」:2009/08/01(土) 20:48:23
「どうだった? けっこういい連中だろう?」
「うーん」鳴賢は頭をかいた。「実を言うと最初はうさんくさいやつらだと思
ったんだ。でも話してみたら、そう悪い連中でもないようだ。何て言うか――
良くも悪くも普通というか」
「そりゃそうだ。同じ人間なんだから」六太は苦笑した。「それに鳴賢は雁を
出たことがないだろ?」
「ん? それが海客と関係あるのか?」
「まったく意識してないと思うけど、雁はこれでかなり他国と違うんだよ。家
や橋みたいな大小の建造物の様式はもちろん、食べものも相当蓬莱に影響を受
けてる。王や宰輔が胎果だからというだけでなく、海客や山客を保護している
せいで、特に海客が他国からけっこう流れてくるからな。そいつらが伝える文
化や食習慣が、長いことかかって国内の隅々まで影響を与えた。たとえば酒も
麺も、茶でさえ、雁は他国と違うんだぜ。というか種類が豊富なんだ」
「……そうなのか?」
 こればかりは鳴賢も驚いて尋ねた。六太はうなずいた。
「たとえば蓬莱味噌ってあるだろ? 単に味噌とも言うな。一般的ではないし、
人によって好き嫌いもあるだろうけど、かと言って別にめずらしいわけでもな
いよな?」
「もちろん」
「あれは他の醤(ひしお)と毛色が違うからそう名付けたっていうんじゃなく、
本当に蓬莱風の穀醤(こくしょう)を再現したものなんだ。だから他国からや
ってきた海客はそれだけで感激する。基本的に他の国にはないものだから」
「へえー……」
「今思いつくだけでも、うどんに醤油に……蓬莱由来のものはたくさんある。
雁じゃ普通に食べられているから誰も意識はしてないだろうけど。つまり鳴賢
だって自覚してないだけで、実際には蓬莱の影響を相当受けてるんだよ。だか
らその意味では海客たちと、最初から大いに縁があるんだ」
 鳴賢にとっては初めて聞く話で、驚き以外の何物でもなかった。なんだかん
だ言っても海客は、自分たちのような普通の民とは本質的に接点などない存在
だと思っていたからだ。たまたま知り合った相手とだけ、ごく個人的なつなが
りができるだけの異世界人でしかないと。

202永遠の行方「呪(113)」:2009/08/01(土) 20:50:54
「それは、知らなかった」彼は素直にそう答えた。「六太は海客に聞いたのか?
それとも自分でも他国で、雁との違いを実感したってことか?」
 何となく六太が捨て子だったことを思い出しながら問う。捨てられていた国
――生まれた国――がどこだか知らないが、生きるだけで精一杯だったろうそ
の頃は、そんなことを考える余裕も知識もなかったはずだ。ということは雁に
来てから、それも団欒所に行くようになってから海客に教えられただけに違い
ない……。
 だが六太は意外にも「ああ」と肯定した。
「俺、これでもいろんな国に行ったことがあるんだ。もちろん民の日常を詳し
く知るところまで滞在した国は限られるけどな。それに実を言うと俺、胎果だ
から」
「えっ」
 今度こそ仰天して立ち止まった鳴賢に六太はくすりと笑い、すたすたと歩き
ながら答えた。
「前に言ったろ? 雁の生まれじゃないって」
「そりゃ――そりゃ、聞いたけど、さ――」
 あわてて後を追いながら、それ以上の言葉を紡ぎだせずに絶句する。胎果―
―不幸にして卵果の状態で蓬莱に流され、さらに何の因果かふたたび虚海を越
えて流されてきてしまった存在。
 そんな彼を尻目に、六太は笑顔で淡々と続けた。
「別に不思議はないだろ。何たって雁には海客が多い。俺が蓬莱生まれでも、
それ自体は大したことじゃない。それに海客の総数が増えれば、必然的に胎果
の割合も増えるはずだ」
「そりゃ――まあ――」
「団欒所にだって胎果はひとりいるしな。二年前に流されてきた女の子。それ
に比べれば俺はずっと小さい頃――四つの頃に戻ってきたから、彼女ほどの衝
撃はない。そもそも親に捨てられて山ん中で飢え死にしかけていた時に戻って
きたから、むしろ幸いだったと言うべきなんだろう」

203永遠の行方「呪(114)」:2009/08/02(日) 11:44:20
「じゃあ、もしかして……六太は蓬莱に流されただけで、元から雁の民なのか?」
 「王は人柱」の話の際、六太にいだいた反発を思いだしながら尋ねる。六太
がこれまたあっさり「ああ」と答えたので、鳴賢は押し黙った。
 そう、あのとき確かに六太は自分を「雁の民じゃない」とは言わなかった。
「雁の生まれじゃない」と言ったのだ――蓬莱生まれだから。
「すまない。俺、とんだ誤解をしてたみたいだ」
 あのとき感じた反発の片鱗はまだ残っていた。今でも六太の考えかたに同意
は到底できない。しかし目の前の少年が、生まれる前に異世界に流されて苦労
を重ね、ふたたび戻ってきたという重い事実は、そんなことを想像もしていな
かっただけに、残っていた反発などどこかへ失せてしまうだけの衝撃があった。
「六太は以前、自分のことを『浮民みたいなもの』って言ったろ。だからてっ
きり他国生まれで、雁に流れてきたんだと思ってた」
 一瞬きょとんとして鳴賢を見た六太だが、すぐに笑顔に戻った。
「なんだ、そんなことか。別に大した違いはないし、鳴賢が気にするようなこ
とじゃない」
「でもさ……」
「蓬莱では何しろ貧乏だったから、家族で浮民みたいな暮らしをしていたのは
本当だし、こっちに戻ってきて――その、生まれがわかってさ。そしたらけっ
こう裕福なところで、びっくりするくらい贅沢させてもらったんだ。蓬莱での
俺の両親は、生きるために子供を捨てなきゃならなかったってのに。おかげで
あまりの違いに、餓鬼の時分からいろいろ考えるようになっちまった」
「そうだったのか……」鳴賢は驚愕のままにつぶやいた。「六太はもともとそ
れなりの家の生まれだったんだな。なのに蓬莱に流されたばっかりにそんな目
に」
「だからもう昔の話だって」
「ああ……そうだな。何にしても良かったな、戻ってこられて」
 感慨をこめてつぶやいたものの、六太は本当にもう気にしていないのだろう、
何も答えずにすたすたと歩いている。鳴賢はこれまでたまに、六太の見慣れぬ
仕草に戸惑うことがあったのを思いだした。だがもしあれが蓬莱で培われたも
のだったとしたら納得がいく。

204永遠の行方「呪(115)」:2009/08/06(木) 20:54:53
「行方不明になった息子が思いがけず戻ってきて、両親も喜んだろう。実を言
うと俺、六太はどこかの富裕な官吏の養子にでもなっているんじゃないかと思
ってたんだ」
 これには六太は何も答えず、ちらりと鳴賢を見て微笑しただけだった。
「それにしても蓬莱は伝説の理想郷のはずなのに、実際には子供を捨てるほど
貧しい人々がいるのか。海客と話をして、それなりに蓬莱について知ったと思
っていたけど、こんな話を聞かされるとさすがに幻滅するなあ」
「向こうもこっちも本質は何も変わらないさ。こちら側にいろいろな国がある
ように、いろいろな世界があるってだけなのかも。俺たちが蓬莱と呼んでいる
異世界にも貧しい者も富める者もいて、戦乱があって平和があって、喜びも悲
しみもある。海客たちはそこで、俺たちと同じように懸命に日々を追い、つま
しい生活の中でささやかな幸せをつかもうとしていたんだ。ある日突然、何の
前触れもなく、着の身着のままでこちらに流されてくるまでは」
 団欒所で交わしたさまざまな話を思い起こし、鳴賢はふたたび黙りこんだ。
以前に比べれば、海客たちをそう遠い存在とは思わなくなっていただけに、さ
すがに重いものを感じざるを得ない。そして六太や海客たちに比べれば、いか
に自分が平和で平穏な生活を送ってきたのかがわかるのだった。かつては自分
なりに波乱のある人生を歩んできたと思っていたものだが。
 とはいえ六太は、海客たちへの同情に終始するかと思いきや、厳しい言葉も
口にした。
「いずれにしろこちらに来てしまったものは仕方がない。どうあがいても二度
と帰れないのは確かだからな。さっきも言った団欒所の胎果の女の子、あの子
は俺と違って生まれもわからないから、実質的に他の海客と変わらない。それ
に流されてきて二年しか経っていないせいか、いまだに周囲になじもうとしな
いんだ。現実を受け入れず、自分を哀れんでくれる同情の言葉以外は絶対に聞
こうとしない。でもそのうち嫌でも諦めるようになる。でないと結局は生きて
いけないから」
「……だよなあ。それって緑の髪の子だろ? 見たところ十五かそこらって感
じだったし、まだ親が恋しい頃だろうな。もっとも仏頂面だったから、悪いけ
ど俺はいい感じはしなかった」

205永遠の行方「呪(116)」:2009/08/07(金) 20:10:46
「そうか。でもつらい気持ちはわかるから、俺は何とかここになじんでくれれ
ばと思っていろいろやってる。結局は本人次第だから難しいだろうけど。それ
に他の連中も、表面上は蓬莱に帰ることを諦めたように見えても、実際にはそ
うとはかぎらない。何十年も経って、場合によっては息を引き取る間際になっ
て、諦めていなかったこと、悔いばかりの人生だったことを自覚する海客もい
るんだ」
 だがそれは仕方のないことだろう。あくまで帰還が不可能という厳しい現実
を突きつけられて諦めざるを得なかっただけで、ほとんどの場合は当人が割り
切ったわけではないのだろうから。そのこと自体は鳴賢も同情を覚えたが、と
はいえ雁にいる海客の扱いが、荒民や浮民よりずっと恵まれているのも事実だ
った。
「気持ちはわかる。ただこう言っちゃ何だが、雁では荒民と違って戸籍ももら
えるんだし、少なくとも他国にいるよりは恵まれた暮らしができるはずだろ。
文張が言っていたが、海客ってだけで殺される国もある。それを思えば相当恵
まれているんだがな」
 すると六太は「もちろんだ」と返した。
「でも最初から雁に流れついたり、海客を迫害しているわけじゃない国から来
ると、大して実感はできないだろう。比較の対象がないから。ただ確かに現実
に向き合うための手段として、他人より恵まれていると思うことができれば、
それまでとは違う思いをいだけるかもしれないってのはある。『自分はこの人
よりはましな境遇だ』と考えること自体は不遜かもしれないが、そういう思い
にすがらないと立ち直れないことはあるからな。それで気持ちが落ち着いて、
自立のきっかけになるなら悪いことじゃない」
「誰だって自分が一番不幸だとは思いたくないよな」
 そのことで何か特別な思いをいだけたり、得をするというならまだしも。
 それを言うと六太は、不幸にして荒れた国に流れ着き、海客を迫害する官吏
に追われるだけでなく妖魔にも襲われ、死と隣り合わせだった困難な旅路に関
する手記を匿名で記した人もいると答えた。それを団欒所に置いてあると。淡
々と事実を連ね、さらにその時々の心の動きを取り繕うことなく赤裸々に記し
てあるため、大抵の海客は手記を読んで落ち着くらしい。根本の部分で共感を
覚えるのはもちろん、他のどの海客より過酷な体験であり、その人物に比べれ
ば自分はましだと思えるからだろう。

206永遠の行方「呪(117)」:2009/08/08(土) 10:19:07
 鳴賢は興味を覚え、一度読んでみたいと口にしたが、蓬莱の言葉で書かれて
いると言われて諦めた。それと同時に団欒所で見せられた、自分には意味不明
のさまざまな書きつけを思い出した。
 要するに異世界に流されるなどという前代未聞の体験をした者は、誰であれ
吐き出したいことが少なからずあるということなのだろう。そしてあんなふう
に書き散らすことで心中を吐きだし、精神の安定を保とうとする者もめずらし
くないのだろう。
「しかしちょっと意外だったな」
 鳴賢がそう返すと、六太は怪訝な顔をした。
「意外って何が?」
「この手の話じゃ、六太は大抵、相手を同情するようなことばかり言うだろ。
なのに六太でも、こんなふうに悟ったことを言うんだなと思って。むろん今の
話も同情の範疇ではあるけど」
 すると六太は困ったような笑みを向けた。
「忘れてるかもしれないが、これでも鳴賢より長く生きてきたんだぜ。さすが
にいろいろ学んださ。口先だけで憐れみを施すのは簡単だが、それじゃあ何も
解決しないってこともよくわかった」
「そりゃ当然だ。たとえば当たり障りのない言葉より、厳しい言葉のほうが当
人のためになることだって普通にあるんだし」
「うん。俺もわかってはいるつもりなんだ。とはいえ、とっさのときにはなか
なかな……」
「そういえば何て名前だったかな、海客の団欒所で会った中年の女性。彼女は
末端の仙だそうだけど、それでも蓬莱には帰れないんだろ? てことは普通の
海客はもっと無理だよな。俺は単純に、仙なら向こうに渡れるのかと思ってい
たけど」
「……守真のことか」
「ああ、そんな名前だった」

207永遠の行方「呪(118)」:2009/08/08(土) 22:10:24
「官吏を目指しているんだから鳴賢は知ってるだろうけど、仙には位ってもの
がある。虚海は伯以上の仙でないと渡れない。守真は下士だから、どう転んで
も虚海を渡るのは無理だ」
 淡々としていながらも厳しい声音だった。格付けで言えば下士は最下位の仙
だ。虚海を渡ることについてはともかく、一般論として大した能力がないだろ
うことは納得がいく。
「たとえば王は、正確には仙じゃなく神だ。でもその神でさえ、虚海を渡れば
大災害が起きると言われている。ということはたとえ最上位の仙である公でも、
王よりさらに大きな災害をもたらすだろう。本来交わるはずのないふたつの世
界を強引につなげて渡る上に、王よりも力がないんだから。となれば結局のと
ころ、高位の者だろうと、よほどのことがないかぎり蓬莱へ渡るはずがない」
「なるほど」
 鳴賢は納得してうなずいたが、同時に、やけに六太がこの手の話題に詳しい
ことを不思議に思った。普通に考えれば、大学生である鳴賢のほうが詳しいは
ずなのに。それを問うと、六太は軽く笑った。
「これでもいろいろつてがあるんだ。それに今の話みたいに、一般の民が知ら
ないことでも海客なら知っている場合があるわけだろ。だから鳴賢が知らない
ことを俺が知っていても、それ自体は別に不思議なことじゃない。そもそも今
の話は、官吏でも普通に生活するぶんには必要のない知識だ」
「まあな。海客以外に、今の暮らしを捨ててまで蓬莱に渡りたいと思う雁の民
はいないだろうし」
「もっともそのうちおまえも偉くなって、普通の官吏が知らないことも知るよ
うになるかもしれないぜ」
 冗談とも本気ともつかぬ調子で六太が言ったので、鳴賢は溜息まじりながら
「だといいけどなあ」と軽く返した。
「――そうだな。もしおまえが偉くなっても、どこかで俺に会ったとき、態度
を変えないでくれよな」
 なぜか感慨をこめて言った六太に、鳴賢は「変えるわけないだろ」と呆れた。
「友達なんだから。だが、もちろん公私混同はしないぜ?」

208永遠の行方「呪(119)」:2009/08/09(日) 10:02:31
「わかってるって」
 六太は笑いながら鳴賢の腕を軽くたたいた。それで気持ちを切り替えたのか
彼は、団欒所でのもっと明るい出来事を話し始めた。
 国府を出、ぴりりと気持ちの良い冬の冷気の中、綺麗に除雪された広途をふ
たりしてのんびり歩いていく。倩霞の家まではまだ距離があったし、これまで
の内容には興味を覚えていたとあって鳴賢もおもしろく話を聞いた。たとえば
以前は海客にこちらの言葉を教えるのは大変だったらしいが、最近は蓬莱の童
謡をこちらの歌詞に直し、団欒所を訪れる皆で歌うことで悪くない成果を上げ
ているとのことだった。
「蓬莱にも童謡があるんだ?」
 鳴賢は戸惑いながら尋ねた。何しろ彼が知っている童謡の大半は、文字通り
の子供向けの歌ではない。意味のない戯れ歌もあるにはあるが、子供に歌わせ
る歌謡でこそあるものの、躾に重点を置いていたり、政治的な風刺や批判を含
んだ内容が多かった。躾以外の歌は、要するに表立って言えないことを童謡に
託して歌い、子供の戯れ歌だと誤魔化すわけだ。
 荒れた国はもちろん、これは雁のような安定した大国でも事情はさほど変わ
らない。卑近な言葉が使われる俗謡は程度が低いと見なされ、隠喩や暗喩をち
りばめ、韻を踏む「高度」な歌謡がもてはやされる傾向があるためだろう。い
かに平穏に、裏に意味のある言葉を持つ詞を作るかが腕の見せどころというわ
けだ。それだけに蓬莱にも戦乱や貧困があると知ってさえ、風刺を連想させる
童謡があると聞くのはやはり不思議な気がした。
 鳴賢の疑問を承知している六太は、蓬莱での童謡の基本はあくまで子供のた
めの、底意のない娯楽だと説明した。謎めいた伝承のような歌もあるが、他愛
のない内容だったり可愛らしいものが大半だと。
「蓬莱では童謡ってのは詞が短くて簡単なんだ。あくまで子供が楽しむものだ
から、身近でわかりやすく楽しい言葉が使われる。それをこっちの言葉に置き
換えても、生活に密着している卑近な表現ばかりって点は変わらないだろ。だ
から実生活ですぐ役立つ。何より節がついていると覚えやすいから、言葉の勉
強には最適なんだ。鳴賢も見たかもしれないけど、団欒所にはいろいろ楽器が
持ち寄られている。新年とか冬至とか、そういった大きな祭りがある際は関弓
の民もやってきて、蓬莱の童謡をこっちの言葉で一緒に歌ったりもする」

209永遠の行方「呪(120)」:2009/08/09(日) 22:02:03
 鳴賢は記憶をさぐったが、楽器らしきものを見た覚えはなかった。普段はし
まわれているのかもしれない。
「楽器のことは知らないが、文張も歌のことは言ってたぞ。変わった歌が聞こ
えてきて、それに引きよせられて団欒所にたどりついたって。実を言うと俺、
新年もちょっと覗いてみたんだ。でもすぐよそに行っちまったから、そんなこ
とをしてたとは知らなかったなあ。そう言えば守真だか誰だかが、歌のことは
言っていたような気もするけど」
「機会があったら、また行ってみてくれ。大勢で歌うのってけっこう楽しいも
んだぜ。蓬莱では気分や言動がぴったり合うことを『息が合う』と言う。確か
に歌を歌って呼吸を合わせると、なぜか互いに親しみを覚えやすくなるもんだ。
おまけに大声を出すと気も晴れる。だから簡単に覚えられる童謡をそこそこの
人数で歌って楽しむと、海客と関弓の民はいっぺんに仲良くなれるんだ。おか
げで団欒所に来たことのある民は、蓬莱の童謡もいくつか歌えたりする。それ
くらい簡単な歌なんだ」
 そう言うと六太は、蓬莱の童謡らしい歌を口ずさんでみせた。鳴賢には馴染
みのない曲だったため、雁が蓬莱の影響を受けていると言っても歌謡は違うの
かなと思ったほどだが、拍子が良くて単純で、すぐに覚えられそうなのは本当
だった。
 ただしひよこや子犬がかくれんぼという遊びをするとの歌詞には大いに戸惑
った。家禽や家畜を擬人化すること自体に馴染みがなかったし、さらにそれを
子供向けの歌にするという発想がなかったからだ。そのため「もしかして蓬莱
では家畜も言葉を喋るのか?」と尋ねて六太に笑われた。
「こういうのは蓬莱独特の感覚らしいな。向こうじゃ植物さえも擬人化する。
たとえば趣味で綺麗な花を育てている人が、毎朝水を遣りながら花に挨拶した
り、ねぎらったりするなんて話もめずらしくない。もちろんそんなことをしな
い人も多いんだろうけど」
「すごい世界だな」鳴賢は呆れた気持ちで相槌を打った。
「そうだ、鳴賢の字、本当は赤烏だったよな? 烏が出てくる童謡もあるぜ」

210永遠の行方「呪(121)」:2009/08/10(月) 20:44:22
 六太はそう言って別の歌を口ずさんだ。烏が鳴くのは、巣に残してきた子供
を可愛いと言っているのだという内容の歌。これまた烏を人に見立てているよ
うで、目を丸くした鳴賢は「へえー……」と返すしかなかった。
 蓬莱と同じくこちらでも烏は身近な鳥だから、関弓の民も馴染みやすいので
はと思い、早めに翻訳してみたと六太は説明した。烏は成長したのち親に食物
を運んで恩を返す孝鳥と言われるくらいで、その真偽はともかく縁起もいい。
鳴賢の本来の字である赤烏に至っては太陽に棲むという神鳥のことで、太陽の
異称のひとつともなっているくらいだ。まったく知らない蓬莱独特の鳥が出て
くる歌より、雁の民が馴染みやすいのは確かだろう。
 そんな興味深いことを話していたせいか、道中はあっという間だった。関弓
も他の大きな街と同じく、長い間に少しずつ外へ外へと拡張されてきた街だ。
そのため、ところどころにかつての隔壁の名残である城壁があり、鳴賢はそれ
を越えながら六太を街の南西へと案内した。
 大きな邸宅が立ち並ぶ一画に来たところで、六太は「今、団欒所でやりたい
と思ってるのは講談なんだ」と楽しげに語った。
「それも普通のやつじゃない。紙芝居って言うんだけど、紙に物語の絵を描い
て、場面ごとに差し替えて見せながら物語を語るんだ。演目は蓬莱の伝説や物
語でもいいし、俺たちの世界の物語でもいい。たとえば――海に棲む竜王の話
とか。子供は絶対喜ぶし、綺麗な絵で講談師がそこそこなら、大人だって楽し
んでくれると思う」
「そりゃ確かにおもしろそうだ」
「だろ? 蓬莱にもおもしろい話は山ほどあるから、娯楽として聞きに来る民
もいるだろう。そうやって交流を深めるのは互いのためにもなる。問題は絵を
描けるやつがいないってことなんだけど、鳴賢は心当たりないかなあ?」
「俺に聞くな。さすがに絵描きの知り合いなんぞいないって。しかし俺たちに
とっては蓬莱こそが伝説なのに、その蓬莱にも伝説があるってのは不思議な気
がする。いや、蓬莱もこっちと似たような世界だってことはよくわかったけど
さ」

211永遠の行方「呪(122)」:2009/08/10(月) 20:47:17
「実を言うと蓬莱にも異世界の伝説があるんだ。海のかなたに不老不死の人々
が住む理想郷があるって話。蓬莱人はそこを常世の国と呼んでる」
「へえ。俺たちの蓬莱の伝説と似てるな」
「どこでも現実は世知辛いものだから、今いる場所とは違う素晴らしい世界が
あるんじゃないかと夢想するのは、どの世界でもあるってことなんだと思う。
要するにさ、そういうことなんだ」
「そうか。そうかもな……」
 ふと考えこんだ鳴賢は、先ほどから気になっていたことを尋ねてみた。
「あのさ。俺って頭が固いかな?」
「え?」
「何て言うか……発想が貧困と言うか。文張や六太に蓬莱の――というか海客
の話を聞いても、良くない方向に驚いたり否定したり、後ろ向きのことばかり
言ってたような気がしてさ」
 六太のことも、雁の生まれではないと聞いて、はなから浮民と思いこんで反
発を覚えた。楽俊に海客のことを聞かされても、どうせ胡散臭い連中で、自分
たちとは無縁の存在だと頭から決めつけていた。
 それでも今までは特に意識してはいなかった。しかしこの道中で何となく、
自分は頭が固いんじゃないか、既成概念に囚われすぎているんじゃないかと、
鳴賢は思い始めていたのだった。
 だが六太は笑うと軽く流した。
「別にそうは思わないな。これまでの自分の経験や常識に照らして、まったく
異質のことを見聞きしたら、まずは懐疑的になるのは当然だろう。異世界から
来た異邦人に対して警戒を覚えるのだって仕方がない。むしろそれが大人の分
別ってものだ」
「文張もそうだったか?」
「楽俊? あいつは好奇心の塊だからなあ。――うん、蓬莱のことは単に目を
丸くして聞いているほうが多かったような気はするけど、団欒所に行ったとき、
海客とは積極的に話していたようだな」

212永遠の行方「呪(123)」:2009/08/10(月) 20:49:22
「だよな。少なくとも俺みたいに、はなから否定したり悪い印象を持ったりは
してないよなあ……」
「でも最後は大抵、『蓬莱ってえのは変わったとこだな』で一刀両断だぜ。確
かに、いいとか悪いとかじゃなく、そういうものだと単純に受け止めている感
じではあったけど」
「そうか。あいつらしいな」鳴賢はそう言い、ふと見えてきた大門のひとつを
指した。「あそこが倩霞の家だ」
 すると六太は妙な顔をした。かすかに眉をしかめて立ち止まる。
「どうした?」鳴賢も立ち止まる。
「いや……」
 何やら戸惑うように件の大門を凝視している。高い墻壁が連なり、その中に
穿たれた大門の意匠からしてかなり立派な邸宅であることが窺える。鳴賢はそ
れで気後れしているのかなと思い、ふたたび歩き出すと、六太は無言であとを
ついてきた。だが閉じている大門の前まで来ると、さっきまでとは打って変わ
って硬い声でこう言った。
「案内してくれてありがとう。ここから先はひとりで大丈夫だ」
 鳴賢は思わず「はあ?」と声に出していた。確かに案内するとは言ったし、
倩霞に用があるのは彼ではなく六太のほうだ。しかしこんなふうにそっけなく、
用済みと言わんばかりの言葉をかけられるとは思わなかった。少なくともいつ
もの六太なら、「鳴賢はどうする? せっかくだから一緒に倩霞に会ってくか?」
ぐらいは聞くはずだった。
「何だよ、そりゃ」
 さすがにむっとしたため、彼はさっさと通用門から中に入った。そのとたん、
生臭い臭いがかすかに鼻を突く。不審に思って見回すと、中門である垂花門の
前を過ぎた壁際の茂みに雪が積み上げられており、そこから漂ってくるのだっ
た。

213永遠の行方「呪(124)」:2009/08/10(月) 22:12:13
 近寄ってよく見れば、それは料理のためにさばかれた羊だの鶏だのの残骸だ
った。ほとんど雪に埋もれる形で放置されているため、近くに寄らないかぎり
大した臭いではないが、こういうことは家の裏手でやるものだ。主人である倩
霞が病弱で、外出もほとんどしないことはわかっているから、目が届きにくい
のをいいことに使用人が怠けて処置していないものと思われた。
「使用人のしつけがなっていないな。郁芳とか阿紫あたりが、こういうところ
までちゃんと気を配っても良さそうなものだが」
 何の答えもないため振り返って見ると、六太は門を入ったところで真っ青な
顔をして立ち尽くしていた。かなり気分が悪そうだ。鳴賢は、こいつはこうい
う動物の死骸も苦手なんだよなと思いつつも、普段より反応がずっと激しいよ
うに見えて不思議に思った。
「おい。大丈夫か?」
「……あ。うん」
 力なく答える六太。もはや笑みを浮かべようともしない。さすがに鳴賢は気
遣い、「中で少し休ませてもらえよ」と言った。
 そんなやりとりが聞こえていたのだろう、通常は門番の住まいである門房か
ら阿紫が出てきた。見知らぬ間柄ではないが、彼女は丁寧ながらもどこか警戒
するような面持ちで「何かご用でしょうか?」と尋ねてきた。
 鳴賢は六太を見やった。あれだけ道中で長話をしたのに、考えてみればここ
に来る理由を尋ねなかったことにやっと気づいた。
「倩霞に会いに来た。ちょっと聞きたいことがあって」
 六太は硬い声のまま静かに答えた。阿紫は黙って鳴賢と六太を交互に見てい
たが、やがて「どうぞ」と言って、垂花門の奥に案内した。広い院子を抜け、
回廊を経て正房に上がる。
 日没には間があるというのに、正房の中は暗かった。ほとんどの窓が鎧戸を
閉じている上、あちこちに衝立を立てて風だけでなく光も遮っているせいだろ
う。刺繍を凝らした重厚な緞帳を壁に巡らし、そこここに高価な飾り物を置い
てあるというのに、どこかひっそりと陰鬱な感じがした。足元が危うくならな
い程度の灯りはともっているものの、房全体を照らすにはほど遠い。何より、
しつこいほどに甘い芳香が漂い、鳴賢は息がむせそうになった。

214永遠の行方「呪(125)」:2009/08/10(月) 22:14:17
「何なんだ、この匂い。それに暗い。もっと明かりを足せばいいのに」
 思わず鳴賢が言うと、阿紫はつんとした顔で、「倩霞さまのご病気に、強い
光は目の毒ですから」とそっけないいらえを返した。
 鳴賢たちを客庁に通して椅子を勧めたのち、阿紫は主人に来客を伝えに下が
った。ふたりきりになると六太は、「鳴賢。悪いけどやっぱり帰ってくれない
か」と静かに言った。
「おまえ……」
 鳴賢は呆れた声を出したが、六太の顔がこわばっているのを認めて言葉を切
った。乏しい灯りの下でも蒼白になっているのがわかる。六太は硬い声のまま、
鳴賢がこれまで見たこともないほど真剣な表情で言った。
「取り越し苦労かもしれない。だが嫌な予感がする。おまえを危険な目に遭わ
せたくない」
「危険? 危険って何だよ。ここは倩霞の家で――」
 鳴賢が言い終わらないうちに扉が開いた。とたんに甘い芳香が強くなる。衣
擦れの音とともに、気遣わしげな阿紫に手を添えられた貴婦人が姿を現わした。
黒紗ですっぽりと全身を覆った倩霞だった。
 その異様な姿に鳴賢は思わず立ちあがっていた。ほのかな灯りが黒紗を透か
し、見慣れた麗人の面影を奥に認める。しかし美しかった肌はただれ、酷い有
様だった。
 姿なき男の声が「タイホ」と制すると同時に、六太が「おまえたち、手を出
すな」と低く呟いた。何が起きたのかわからず、とっさに周囲をきょろきょろ
した鳴賢の耳に、ふたたび「しかし」という男の声が届いた。
「ようこそ、延台輔」
 戸惑う鳴賢の眼前で、黒紗の麗人は異様な姿に反して音楽的で朗らかな声で
挨拶をした。以前と変わりのない倩霞の声。六太も立ちあがり、抑揚のない声
で「晏暁紅か」と尋ねた。それと同時に自分の頭に手をやり、巻いていた頭巾
の布を解く。豊かな長髪が光をはじいてこぼれ、肩に、背に、ふわりと落ちた。
その光景に鳴賢は呆然となって立ちつくした。
 それは真夏の太陽の色。神々しいまでに輝く、まばゆい黄金(こがね)色だ
った。

----------
次の投下までしばらく間が開きます。

215名無しさん:2009/08/10(月) 23:45:56
うおおお久々に覗いてみて良かった
続き楽しみにしてます!!

216永遠の行方「呪(126)」:2009/08/28(金) 21:29:34

「まあ、知っていたの?」
 鳴賢の驚愕をよそに、倩霞は鈴を転がすような声でころころと笑った。何か、
とても楽しいことがあったかのように。
 六太は「いや……」と力なく首を振った。
「だが中門のところで家畜の屠殺体を見たとき、もしやと思った。断末魔の苦
悶の痕跡が、いまだに邸の外からも窺えるほど苦しめて殺すなんて尋常じゃな
い。あんな――あんな酷い……」
 彼は視線を落とすと体を震わせた。だがすぐに敢然と顔を上げる。
「そしておまえのその姿を見てはっきりわかった。呪詛を行なう者は、みずか
らの心身をも損なう。他人を害する呪は呪者自身に跳ね返ってくるからな。ま
してや、あれほど大がかりな呪を行ない、大勢の人々を死に至らしめたとあっ
てはなおさらだ」
 黙って黒紗の中からほほえんでいる倩霞に、六太は厳しい顔で問いかけた。
「この謀反をたくらんだのはおまえだな。家畜の死骸は呪詛の痕跡か? それ
とも俺への警告のつもりか」
「痕跡? 警告? とんでもない」倩霞は朗らかに答えた。「おまえには使令
がいるじゃないの。危険を察知した使令の進言によって、眼前で引き返されて
はおもしろくないわ。いえ、別にそれでも構わなかったのだけれど、血や穢れ
に弱いというおまえの性質を試してみたの。そんなに青い顔をして、きっと使
令も影響を受けて弱っているのでしょうね」
「そんなことまで知っているのか。いや、当然か。光州侯の寵姫だったのだか
らな」
「昔のことよ」彼女は眉をひそめ、初めて不快な表情を見せた。
「では、おまえは謀反を認めるのだな。事件のあった光州ではなく、こんな近
くにいたとはまだ信じがたいが、他に首謀者がいて協力しているのでも何でも
なく、紛れもないおまえ自身がたくらみ、光州の人々に、そして王に害をなし
たと認めるのだな?」
 倩霞は答えず、艶然たる微笑を返した。六太は深く溜息をついた。

217永遠の行方「呪(127)」:2009/08/28(金) 21:36:08
「俺がここにやってきたのは、事件が起きる前におまえに渡された書簡を開い
たからだ。最初は白紙だった中の占文に、おまえの字『暁紅』が浮かび上がっ
た。その不思議に、おまえを疑っていなかった俺は力のある女仙かと思い、助
言を得られるかもしれないと考えた。だが今にして思えば、最初からそう仕組
んでいたんだな? 斗母占文を装ったあの紙片も、呪で演出しただけなんだな?」
「あれは光州の片田舎で自生する草の汁で書いただけよ。日に当てると文字が
浮かび上がってくる、それだけ。その地方では子供でも知っているというのに、
おまえは何も知らないのね」
「待って――くれ」
 置いてけぼりにされた鳴賢は、やっとのことでかすれた声を出した。だがそ
れきり言葉は続かなかった。このふたりはいったい何の話をしている? 呪―
―謀反――何の話だ? それに六太の髪……。
 対峙しているふたりを交互に見ながら、必死に状況を把握しようと努める。
そんな鳴賢にちらりと暗い目を投げた六太は、すぐ倩霞に視線を戻して言った。
「彼は無関係だ。おまえの新居を知らなかったから案内してもらっただけ。帰
ってもらってもかまわないだろうな?」
 わけがわからぬなりに冗談じゃないと思った鳴賢が口を開く前に、倩霞が
「だめよ」と言った。相変わらず朗らかに。だがすぐに言を翻した。
「――そう、それでもいいかもしれないわ。この者が国府から役人を連れて戻
ってくる頃には、すべてが終わっているでしょう。王はこのまま永遠に目覚め
ることはなく、五百年の長きに渡って続いてきた王朝はあっけなく終わる。―
―そうね、それがいいわね」
 ふと倩霞がよろめき、彼女の体に気遣わしげに手を添えて支えていた阿紫が、
女主人を傍らの榻に座らせた。その拍子に黒紗から手が覗き、指先から手首ま
で痛々しくも醜くただれているのがよくわかった。紗に隠れている他の部分も
似たようなものなのだろう。前に敬之と一緒に会ったときはこうではなかった
のに、どう見ても余命いくばくもないのは明らかだった。数ヶ月か――もしか
したら数日の命なのか。
 鳴賢はぞっとなった。倩霞も六太も、阿紫でさえ自分が知っていると思って
いた人物ではなく、何が起きているのかさっぱり理解できなかった。眼前で重
大なやりとりが行なわれているらしいことはわかるのに、彼だけはまったくの
蚊帳の外だった。

218永遠の行方「呪(128)」:2009/08/28(金) 21:48:21
「待ってくれ」鳴賢はふたたび声を上げた。「主上が永遠に目覚めないって―
―何のことだ。六太――」
 黙って彼を見つめる金色の少年に、言葉を切る。髪の色が指し示す真実はひ
とつしかない。だがそれは、茫然とした頭にひどく染みこみにくいものだった。
「――台、輔……? 延台輔……?」
「そう呼ばれている。五百年前、この国に王を据えて以来」
 静かな声だった。その声は鳴賢の脳裏にじわりと染み込んでいき、混乱して
いた頭はようやく秩序めいたものを取り戻していった。
 ――ああ。
 足元が崩れそうになりながら、彼はうめいた。そう、まったくもって六太は
嘘は言っていない。雁は王も麒麟も胎果であり、それは誰もが知っている有名
な事実だった。五百年も生きていれば、鳴賢より年上に決まっている。他国の
ことであれば自国のことであれ、鳴賢の知らないことを知っていても何の不思
議もない。
 ――ああ、まったくもって何の不思議もない。
 彼はよろめいて、力なく後ろの椅子に座りこんだ。
 がっくりと垂れた頭を両腕でかかえこんだ鳴賢の前で、六太はしばらく黙り
こんでいたが、やがて淡々と語り始めた。
「昨年末、光州の州侯から急使があった。原因不明の流行病により、ひとつの
里が全滅したという」
 のろのろと顔を上げた鳴賢の前で、六太は静かに話を続けた。調査の結果、
光州では一年前から奇妙な病死が相次いでいたのがわかったこと。場所は州城
を中心とする環を右回りに移動しつつ、計ったように月に一度の頻度で発生す
るという不可解なものであったこと。
 もろもろの状況を鑑み、国府は呪を使った謀反のくわだてと判断。新年早々
のふたつめの里の全滅を受け、王は行幸という名目で親征を決断、光州入りし
た。ところが狡猾な罠をしかけていた謀反人に呪をかけられ、昏睡状態に陥っ
てしまった……。
 触れがあったため、行幸のことは鳴賢も知っていた。光州で何か事件が起こ
ったせいであることも。しかし王を信頼しきっている民は、心配という名の関
心を寄せることもなく、それは鳴賢も同じだった。

2191:2009/08/28(金) 21:54:47
>>215
どうもです。今のところ一月弱に一度くらいは集中的に書き込めそうなので
この章が終わるまでは、そのくらいでたまーに覗いてもらえると
空振りはないんじゃないかと思います。

220永遠の行方「呪(129)」:2009/08/29(土) 00:06:25
「何しろ梁興の謀反から二百年も経っている。そのため当初は残党の仕業であ
る可能性は低いと思われていたが、王に昏睡の呪をかけて絶命した呪者が、梁
興の寵姫だった晏暁紅の下僕である線が濃くなった。そのため暁紅を首謀者も
しくは謀反の協力者と推定し、行方を追おうとしているところだった」
 六太はそう言って、険しい表情で倩霞を見やった。彼女に対し「晏暁紅か」
と問いかけ、それを倩霞が肯定したことを思いだした鳴賢は身を震わせた。
「なんで、そんな――」動揺のかけらも見せず、ひたすら倩霞を気遣って側に
侍っている阿紫に呼びかける。「――阿紫……」
 阿紫は鳴賢に一瞥を投げたものの、冷ややかなまなざしだった。女主人が座
る榻の傍らに膝をついたまま、ふたたび気遣わしげに倩霞を見あげる。
「まさか、この家の者すべてが知っているのか? ここは謀反人の根城だった
とでも言うのか?」
 倩霞の店は女向けの小物を扱っていただけに、従業員も若い娘ばかりだった。
それもほとんどが恵まれない境遇から倩霞の家に引き取られたため、一緒に住
んでもいたはずだと思い、鳴賢は信じられぬ思いで倩霞を凝視した。だが彼女
は相変わらず微笑を浮かべているだけ。その静かで妖しいほほえみに、鳴賢は
自分の発した言葉が真実であることを悟らずにはいられなかった。
「他の娘たちはどこだ? 郁芳とか……。頼む、話をさせてくれ」
 何かの間違いではないのかと祈りつつ、鳴賢は訴えた。しかし倩霞は答える
代わりに、傍らの阿紫の手にそっと自分の手を重ねた。
「もう誰もいないわ、誰も。残ったのはこの子だけ」
「逃げたということか……?」
「いいえ。みんなわたしに命をくれたの。あの呪を行なうためには若く健康な
命がたくさん必要だった。みんな喜んでわたしに命をくれたわ」
 ――狂っている。
 鳴賢はそんな言葉を飲みこみ、倩霞、いや暁紅を凝視した。言葉もない鳴賢
の前で、六太は悲痛な表情でしばし瞑目した。

221永遠の行方「呪(130)」:2009/08/29(土) 10:46:22
「おまえは賭けをしていた」六太の青白い顔色は変わらなかったが、それでも
しっかりとした声だった。「俺たちが気づいてたくらみを阻止するか、気づか
ぬまま光州を不毛の地にしてしまうか。少し遅かったかもしれないが、俺は気
づいた。賭けに勝ったのはどちらになる? おまえか? 俺たちか?」
 だが暁紅は榻の上で、相変わらずほほえんでいた。混乱しきりの鳴賢は、震
える声でやっと六太に尋ねた。
「それで主上は……」
「目覚める気配のないまま、宮城でこんこんと眠り続けている。もう半月にも
なる。このまま呪が解けなければ、王の眠りが覚めることはないだろう」
「そんな」
 目の前が真っ暗になる。以前楽俊に問われた、王が崩御したら――という仮
定が、突如として現実味を帯びたことに、彼は慄然となった。
「知らなかった――そんなことになっていたなんて――」
「箝口令を敷いているからな。今のところ雲海の下にはいっさい漏れていない
はずだ。だから下界で王の状態を知っている者がいるとすれば、謀反人の一味
でしかありえない」
 六太はそう言って、厳しい顔でふたたび暁紅を見やった。鳴賢は茫然と座り
こんでいるばかり。ついに六太は悲壮な声で、「いったいなぜだ!」と叫んだ。
「おまえは飛仙となり、下界にくだって百年以上経っている。宮城では今回の
謀反の首謀者に対し、さまざまな憶測がなされているが、いろいろな情報を見
聞きするにつれ、俺には単なる権力欲だの復讐だのとは思えなくなった。たと
えば梁興が没した直後なら、逆恨みとはいえ主人の仇討ちのつもりなのだろう
と解釈することもできる。しかし八十年も貞州城の片隅でひっそりと過ごし、
さらに市井に紛れて百二十年。王への恨みなど、あったとしても既に失せてい
るはずだ。あるとすれば――」
 六太はいったん言葉を切ってから続けた。
「――飛仙ゆえの、屈折した厭世感。違うか?」
 暁紅はほほえんだまま、快い楽の音を楽しむかのように少し首を傾げて聞い
ている。

222永遠の行方「呪(131)」:2009/08/29(土) 10:53:47
「聞けば貞州城に引きこもったおまえからは、梁興の謀反に結果的に関わるこ
とになったことへの悔悟の念は窺えなかったそうだ。むしろ冷遇されているこ
とへの反発があったとか。貞州での隠遁に等しい生活は、華やかだったろう光
州での寵姫としての毎日とは確かに雲泥の差だったろう。それで処遇に不満を
持ったのなら気持ちはわからないでもない。少なくとも梁興を討った功労者で
あるのは事実なのだから。
 だがおまえの面倒を見てくれた貞州侯が代替わりして居場所がなくなったと
き、おまえは市井に紛れることを選んだ。ならば少なくともそのときは復讐心
などなかったはずだ。復讐するつもりなら、その機会など二度と得られないだ
ろう市井に下るより、州城にとどまることを選ぶだろうからな。しかしおまえ
は市井に降り、やがて行方をくらました。それは心機一転、最初から出直すつ
もりになったからではないのか? だとすればおまえの動機は仇討ちでも復讐
でもない。単に、何かの理由で長い間に降りつもった不満のはけ口を求めただ
けだ」
 涼しい顔で聞き流している暁紅と異なり、鳴賢は愕然として聞いていた。謀
反をたくらむ輩がいること自体、信じがたいことだが、それが確たる動機のあ
るものではなく鬱屈した不満のせいだなどとは、到底信じられるものではない。
何かの間違いではないかと思いながら、彼は眼前で交わされるやりとりの意味
を必死に理解しようとした。
「飛仙の中にはたまにそういう不満を溜める者がいる。特に政争に敗れて位を
追われた高官が、仙籍を持ったまま失意の中で隠棲する場合などがそうだ。し
かし彼らと異なり、幸か不幸かおまえには手段があった。梁興が遺した呪の文
珠だ。かくしておまえは、普通の飛仙ならただ不平を口にして日々を無為に過
ごすしかないものを、文珠があったばかりに大それたたくらみをくわだてた―
―違うか?」
 だが暁紅は溜息をつくと、どこか小馬鹿にした表情で六太を見た。
「どうとでも好きなように捉えればいい。慈悲の生き物と言われながら、おま
えも情人の王と同じく、いつもそうやって高みから見下ろしているだけ。勝手
に推し量って理解した気になって、その実、地べたにはいつくばって暮らす者
の気持ちなどわかるはずもない」
「――待て」

223永遠の行方「呪(132)」:2009/08/29(土) 11:05:09
「何にしても既に手遅れよ。追いつめられた気持ちはどう?」
「待て、おまえは何を……」
 六太は驚愕の面持ちで「情人……?」とつぶやいた。その有様に鳴賢は今さ
らながらに、市井でなかば公然の事実として受け止められている話を思いだし
た。雁の王は麒麟と理無い仲であるという話を。
 実際、小説などでも普通に演じられているし、囚われた麒麟を王が単身救出
に赴いた斡由の乱などは、昔から人気の演目だ。庶民が思い描く麒麟は、慈悲
深いのはもちろん、美しくたおやかで性別を感じさせない夢幻の世界の住人。
雁の麒麟が少年の姿であることは知られているが、人間の女など足元にも及ば
ないほど美しいともされており、王の寵愛もさもありなんと思われていた。
 鳴賢は以前、楽俊や六太を無理やりその手の小説を見せに連れだしたことが
あった。しかしそれは、まさか六太が当の延台輔だとは思いもよらないからで
きたことで、さすがに恥じ入った。
 だが六太は、青ざめた顔はそのままに、少し困惑した体で低く笑った。
「何か誤解があるようだ」少し待ってから、誰も何の答えを返さないことに言
葉を続ける。「俺は王の褥に侍ったことはない。それを言うなら、誰の褥に侍
ったこともない。人は人を求めるものだろう。だが麒麟は人じゃない。おまえ
は今の俺の姿に惑わされているだけだ。俺が麒麟の姿になれば、自然と納得で
きるだろう」
「それを口実に転変するつもり? 転変して何をしようというのかしら」
 暁紅は冷笑した。六太は彼女の様子を窺い、諦めたように視線を落としては
かない笑みを浮かべた。
「市井の小説で、そういった演目があるのは知っている。だがたとえば元州の
乱の際に王が単身元州城に潜入したのは、実のところ謀反人の斡由と一騎打ち
をするためだった。それが一番被害の少ない方法だったというのが王の弁。俺
を助けたのはそのついでだ」
 六太はちらりと鳴賢に微笑を投げ、かすかにうなずいた。その表情に、鳴賢
はその話が真実であることを知った。小説はあくまで小説。庶民の娯楽でしか
ない。
「しらじらしいこと。光州侯でさえ、おまえたちの仲を知っていたというのに」

224永遠の行方「呪(133)」:2009/08/29(土) 11:12:59
「梁興のことか。だが俺はその男と実際に会ったことはないし、市井の者と同
じく、単なる噂に想像をたくましくしただけだろう。宮城で働く者に問えば、
俺と王はそんな間柄ではないと誰しも答えるはずだ。だいたい王と麒麟が異性
ならまだしも、雁の場合は男同士。一般的にも婚姻を結べるのは男女に限り、
同性同士の結びつきは倫理にもとるというのに、王と麒麟だけが例外であるは
ずがない。それ以前にさっきも言ったとおり、そもそも麒麟は人じゃないんだ。
人外の者を、人である王が欲するはずがないだろう。王の名誉のためにそれだ
けは言っておく」
 六太はほとんど感情を見せず、淡々と言ってのけた。その説明に鳴賢は納得
せざるをえなかったが、同時に傷をえぐられたような鋭い痛みを覚えた。
 ――人外の者を、人である王が欲するはずがない……。
 かつて六太は、想いを寄せる女性について鳴賢に語ったことがある。しかし
その想いが成就することはないとも言い切った。あのときは相手が年上で既婚
の可能性を考えたが、自分が人間ではないことをもって諦めたのだとしたら。
 確かに麒麟に愛を告白されても相手の女は困るだろう。人間ではなく、婚姻
もできず子も持てない相手と添おうとする女もいないだろう。そもそも第一に
王と国のことを考えるべき麒麟の恋など、少なくとも官吏は歓迎しないだろう
し、王自身も不快を覚えかねない。庶民も何となく釈然としないものを感じ、
そこまで麒麟が想う相手の女こそが真実の王ではないのかと、余計なことを考
えるのではないか。そうなれば相手の女にその気がなかったとしても、王に叛
意を持つ者に利用されないとも限らない……。
 そう、麒麟の恋など誰も歓迎しないのだ。
 俺はいつも考えなしだ、鳴賢は絶望のままに内心でうめいた。頭が固くて考
えが浅くて、いつも物事の表面しか見ていない。六太がさらりと語ったあのと
きの告白は、心の内に相当な覚悟と悲哀を秘めたものであったろうに。
 そんな彼の悲痛な思いをよそに、六太は暁紅に尋ねた。
「おまえが謀反をくわだてるに至った動機の中には、同じように誤解があるの
ではないか? もしそうなら誤解を解きたい。どうしてこんなことをくわだて
たのか、話してはもらえないか」
 だが暁紅は答えなかった。超然と沈黙を守っている彼女を前に、六太は迷う
ような表情を見せた。

225永遠の行方「呪(134)」:2009/08/29(土) 20:48:27
「それともやはり仇討ちのつもりなのか? 梁興を討ったのはおまえ自身だが、
それは籠城を終わらせるためにやむにやまれずやっただけで、主君への恩情は
いまだ残っているということか?」
「仇討ち?」ようやく口を開いた彼女はおかしそうに笑ったが、口調はそっけ
なかった。「仇討ちなどであるものか。あの男に恨みはあっても恩などない」
 とりつく島のない、冷ややかなまなざし。
「そうか。だが少なくともおまえは俺たちを試していたな。実際に賭けをして
いたかどうかはさておき、俺たちがたくらみに気づき、適切に対処をすれば、
被害を最小限に抑えられるようにしていた。ということは、本気で謀反を起こ
す気などなかったのではないか?」
「さあ。それはどうかしら」
「まぜっかえさないでくれ。これまでの短いよしみとはいえ、俺にはおまえが
そんなに残酷な人間とは思えない。いや、思いたくない。何を不満に思ってい
たにせよ、おまえには謀反に通じる確たる動機はなかった。だから八つ当たり
に等しい行為を完遂することに迷いがあった。どこかで自分を止めてほしいと
いう気持ちがあった……」
 鳴賢は懸命に話しかける六太を、それを聞き流す暁紅を、ただ見つめていた。
彼自身になすすべはなかったが、それでも倩霞こと暁紅に、六太の真摯な言葉
が届いていないことだけは見て取れた。無惨な姿になり果てていながら、彼女
からは恐れも迷いも窺えず、動揺のかけらさえ見て取れなかった。
 黒紗から覗いている指先を凝視し、酷くただれたように見える肌が、実は腐
りつつあるのではないかと思いついて吐き気をもよおす。房に蔓延するこの奇
妙な甘い匂いは、腐臭を隠すためではないのか……。
 ――いや。暁紅が身じろぎするたびに舞い上がるように思える甘い匂い、こ
れは腐臭そのものではないのか。
 鳴賢は酸っぱいものがこみあげるのを感じたが、何とか抑えこんだ。
「占文を装って俺に渡したあの書簡。あんな手がかりを与えては、一歩間違え
れば計画が頓挫しかねない。そんな書簡を俺に渡したのは、内心で止めてほし
かったのではないか?」
 暁紅は深く溜息をついた。
「麒麟というのは本当に莫迦な生き物なのねえ……」ひとりごとのようにつぶ
やいてから、「あれはわたしの運だめし。ただし同時におまえを、適切な時期
にここへおびきよせるための餌でもあった」
「なに……」六太は目を見開いた。

226永遠の行方「呪(135)」:2009/08/29(土) 20:53:14
「むろんうまくいく可能性はほとんどなかったけれど、もともとこのくわだて
は成功するほうが不思議なくらいだったのだもの、失敗しても諦めはつく。で
も蓋を開けてみれば運命はわたしに味方し、王は眠りに落ち、おまえはこうし
てわたしの元にやってきた。どうやら天帝は、王朝を終わらせることをお望み
のようね。誤算は唯一、王が出てくるのが遅かったというだけ」
 何の遠慮もなく謀反の根幹にからむ事柄を口にする。震える声で「待て」と
口を挟んだ尋ねた六太の傍ら、鳴賢はどんどん肝が冷えていくのを感じた。
 彼女がここまであけすけに語ることの意味はひとつ。既に目的を達し、国側
がどうあがいても事態が動かない、手遅れの段階にまで至ってしまったという
ことに他ならない。あるいはそれを装って、さらに罠をかけようとしているの
かもしれないが、いずれにせよ、のっぴきならない状況であるのは確かだった。
 そして今の彼が何よりも案じているのは、謀反人の首魁と対峙している六太
だった。麒麟は数多くの妖魔を下僕として従え、それにより身を守っていると
聞く。下僕となった妖魔が人語を操るとすれば、先刻聞こえた姿なき男の声が
そうなのかもしれない。しかし六太は「手を出すな」と制し、頼りない少年の
姿で対峙している。暁紅も彼女につきそっている阿紫もかよわい女人ではある
が、どこにどんな罠があるともしれない以上、麒麟に危害が及ぶ事態を鳴賢は
恐れた。王が意識不明に陥っているというのが本当なら、さらに麒麟にまで危
害を加えられてはたまらない。それこそ雁が滅びてしまう。
「おまえは王が出てくることを予想していたとでもいうのか?」
 鳴賢の焦燥を知らぬげに、六太は相手に問いかけた。そんな彼に、暁紅はた
だ莫迦にしたような視線を投げた。
 無言の返答に愕然とした表情で黙り込んだ六太は、蒼白な顔をいっそう白く
して暁紅を凝視した。
「――光州の地に描かれた環。月に一度、里で特定の方角の住む家族が呪によ
る病に斃れた――ひそやかで不可解な事件」
 微笑を取り戻した暁紅は、茫然とつぶやいた六太をじっと見つめていた。勝
ち誇ったような表情は、六太の推測が当たっていることを指しているのだろう
か。
「王は言っていた。事件を知られても知られなくともどうでもいいと思ってい
るような、なげやりな意思を感じると。だがその反面、ここで不可解な事件が
起きているぞと、しらしめる意図があるようにも思えると」
「その割には、ずいぶん遅いお出ましだったこと」暁紅はくすくすと笑った。

227永遠の行方「呪(136)」:2009/08/29(土) 20:56:47
「わざわざ一年をかけて最初の呪環を完成させたというのに。野次馬のように
ふらふらと出歩くあの下卑た王なら、人死にの出る怪異を目の当たりにすれば、
興味を引かれて即座に飛んでくると思ったのに」
「おまえ――」
「それでもやっと幇周で食らいついてきたとき、もうおまえたちに勝ち目はな
くなった。罠を張った郁芳は、さぞかし満足して逝ったことでしょう。あとは
おまえたちが、残された選択肢の中から自分の運命を選ぶだけ」
「郁芳……?」
 阿紫と同じく、暁紅の店で働いていた若い娘の名。鳴賢も六太も何度か会っ
たことがあった。
「――浣蓮。生まれたときから一緒にいた、わたしの乳兄弟」
「おまえはその彼女をも死に追いやったのか!」
 悲痛な叫びを上げた六太だったが、微笑を浮かべている相手にその思いが届
くはずもない。
「追いやるだなんて。あれは郁芳自身の望みだったというのに。わたし以上に
王を恨んでいたというのに」
「王を恨む? なぜだ。この謀反はやはり復讐だったとでもいうのか?」
「――だめだ、聞いちゃいけない!」
 やっとの思いで鳴賢は立ち上がると、膝に力が入らないながらも、何とか両
者の間に割って入った。頭の片隅で、こんな状況でも玄度なら暁紅をかばうの
だろうかと、ちらと考える。そうかもしれない、そうでないかもしれない。だ
が自分はもうごめんだ。こんな女などどうでもいい、何とか六太をここから遠
ざけなければ。安全な場所まで連れて行かなければ。
「こんなにぺらぺら喋るなんておかしい。こいつは何か罠をしかけようとして
いる。聞いちゃいけない!」
「鳴賢……」
 悲しそうな顔でつぶやいた六太の前、暁紅は傍らの阿紫の頭を優しくなでた。
「この子の父親はね、雁に流れてきてすぐ、窃盗の濡れ衣を着せられて往来で
なぶり殺しに遭ったの。母親のほうは妓楼に売り飛ばされるところを抵抗した
ために、その場で大勢の男に慰みものにされて舌をかんで死んだ。この子には
姉もいたのだけれど、まだ十になるやならずやだったのにどこかに売り飛ばさ
れてそれっきり。わたしが通りかからなかったら、やせこけた姿で物乞いをし
ていたこの子も数日のうちに命を落としていたでしょう。うちに引き取った娘
はそんな境遇の子ばかり。王を恨み、自分の無力さを嘆きながらも一矢報いた
いと思っている者は雁にも大勢いるのよ」

228永遠の行方「呪(137)」:2009/08/29(土) 21:00:14
 鳴賢は振り返ると、六太の代わりに暁紅に反論した。
「主上は浮民にも荒民にもできるだけのことはなさっている。慶はずいぶん良
くなったが、戴から、そして巧から、これまでどれだけの荒民が流れこんでき
たと思っているんだ。いくら雁が大国でも、限界ってものがあるんだぞ! 治
安が悪いと言いたいんだろうが、それは浮民や荒民自身が追いはぎだの強盗だ
のをやらかしているせいじゃないか。女を乱暴して売り飛ばすのも、手っ取り
早く金を稼ごうとする浮民がよくやる手口だ。おまけに仲間内でさえ、施しを
奪い合って喧嘩沙汰になるくせに、自分たちの無体を棚に上げてよくそんなこ
とを言うな!」
「鳴賢」
 六太がそっと後ろからそっとささやき、激昂した彼を穏やかに制した。鳴賢
はさすがに黙ったが、暁紅と六太の間で踏んばり、どくまいとした。
「王は眠りに落ちたが、本当に謀反をたくらんでいるなら弑逆を試みたはずだ。
それをせずに昏睡にとどめたのはなぜだ? 内心で止めてほしいと思っていた
わけではないなら、本当は何を狙っている?」
 六太の問いに、暁紅はふっと微笑した。彼女はしばらく思わせぶりに沈黙し
ていたが、やがて阿紫の肩に置いていた手を、ゆっくり持ち上げて六太に向け
た。
 鳴賢は緊張して、六太を指すただれた指先を見つめた。これも何かの罠かと
警戒する中、相手の爪が真っ黒に変色しているのを見て取り、先ほどの吐き気
が蘇った。
「おまえ」
 微笑を浮かべたまま、暁紅は静かに言った。意味をつかめないまま鳴賢が息
を殺していると、彼女は続けた。
「おまえが王の身代わりになれば、自然と王の眠りは覚める。あの呪は、その
ように定めてかけたのだから」
 鳴賢は血の気が引くのを感じた。これこそが罠だ。この女は王だけでなく麒
麟をも罠にかけ、雁を滅ぼそうとしている……。

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次の投下までしばらく間が開きます。

229永遠の行方「呪(138)」:2009/09/17(木) 20:32:58
 だが背後の六太はしばし沈黙しただけで、こう尋ねた。「それで王は助かる
のか?」と。
「おい、謀反人だぞ。こいつの言うことに耳を貸すな。嘘に決まっている」
 鳴賢は血相を変えて訴えたが、六太は超然とたたずんでいた。
「六太――い、いや、台輔」
 今さらのように気づいて言葉を取り繕ったものの、六太はふっと笑って「態
度を変えないでくれと頼んだだろ」と言った。喉元までこみあげた、それどこ
ろじゃないとの言葉を鳴賢は何とか飲みくだした。
 だいたい麒麟を昏睡に陥れることが目的だったなんて、それもおかしな話だ。
王を殺す、麒麟を殺す、王位を乗っ取る――どれも大罪とはいえ、人なら誰し
も持つ醜い感情、すなわち権勢欲、復讐心、嫉妬心などに立脚しているだけに、
理解することは可能だ。だが麒麟を王の身代わりに求める暁紅の本心がどこに
あるのか、鳴賢にはさっぱりわからなかった。
「し、使令で――そう、使令でこいつを捕らえてください。その間に俺が国府
に走って、衛士を呼んで――」
「鳴賢」
 興奮した鳴賢を、六太は静かにたしなめた。その控えめな威厳に、鳴賢は黙
らざるを得なかった。
「よく見てくれ。どう見ても、この女は余命いくばくもない。今だって命を永
らえているのが不思議なくらいだ。そんな女を捕らえて乱暴したら、その場で
絶命してしまうかもしれない。仮に捕らえたとしても、すぐ死ぬ者が脅しなど
に屈するとも思えないし、何より衛士が来る前に自害しない理由もない。そう
なれば王は助からない」
 六太の言うとおりだった。暁紅が最初から余裕のまなざしでふたりに相対し
ていたのがその証拠。今さら何をしようと事態は動かないと睨んでいるからこ
そ、彼女はいろいろなことを語ったのだろう。そんな彼女を捕らえることは、
すなわち王を見捨てること。
 だが。
「主上のことは残念です。でも台輔がいれば」
 王を見捨てても麒麟がいる。麒麟がいれば、新たな王を選ぶことができる。

230永遠の行方「呪(139)」:2009/09/17(木) 20:53:30
 そんな鳴賢の心中を察したのだろう、六太はゆっくりと首を振った。
「それはできない」
「台輔!」
 鳴賢は悲鳴に似た叫びを上げた。だが六太は「俺には王を見捨てることはで
きない」ときっぱり言い切ると、暁紅に向きなおった。
「おまえの真の狙いはわからないが、真実、俺が身代わりになることで王が助
かるのなら幸いというものだ。その意味では――そう、俺は間に合ったんだな。
あの書簡を開き、助言を求めておまえの元にやってきた。それ自体はおまえの
目論見どおりだったとしても、俺は最後の賭けに勝った」
「王を助けるとでも言うの? おまえに自分を犠牲にできると?」
 嘲笑った暁紅を尻目に、鳴賢は必死で六太に訴えた。
「そんな! 飲まず食わずで眠り続けたら死んでしまいます。そうなったら結
局は主上も死んでしまう。同じことだ!」
 一瞬きょとんとした六太だが、すぐに合点がいったようにひとりうなずいた。
「ああ、そうか。おまえはまだ神仙についてよく知らなかったな」そう言って、
笑みさえ浮かべて説明する。「只人と異なり、神仙は飲まず食わずでも相当も
つんだ。王が半月も眠っていながら生命に何ら危険が及ばないのがその証拠。
おまけに麒麟は天地の気脈から力を得ることができるから、安静状態ならおそ
らく何十年眠ろうがまったく問題ないだろう。そして意識の有無に関わらず、
俺が生きてさえいれば王の生命に別状はない」
「そんな問題じゃ――!」
「安心なさい」暁紅が楽しそうに口を挟んだ。「本当に身代わりになるという
なら、おまえが昏睡に陥ると同時に王は目覚める。それは保証するわ。それに
この呪は必ず解除条件を定める。だからおまえの眠りも永遠ではない」
 鳴賢は彼女を振り返った。光州の人々を害し、王を眠らせ、今また麒麟に身
代わりを迫りながら、その眠りはいつかは解けるという。いったい何を狙って
のことなのか、見当もつかなかった。狂人に論理を求めるのは無駄かもしれな
いが。
「――だからおまえの一番望まないことが起きたら、眠りから覚めるようにし
てあげる」

231永遠の行方「呪(140)」:2009/09/18(金) 20:14:15
 にこやかに告げた彼女に、呆気にとられた鳴賢はすぐ「おまえは狂ってる」
と吐き捨てた。
「あら。それとも――そう、いっそ王が死んだときに目覚めるほうがいいかし
ら」
 六太は顔をこわばらせた。頭を振った鳴賢は「話にならない」と言い捨て、
暁紅に指をつきつけた。
「おまえは詐欺師だ。大げさに言いたてて不安をあおり、もっともらしい嘘を
吐き、自分の望む方向に誘導しようとしている。だが残念だったな。そもそも
どうやって台輔の心の中を知る。台輔がもっとも望まないことを知る。だいた
い自分が真実、何を望んで何を望まないかなど、当人にだってわからないもの
だ。人の心はそれほど単純じゃない。なのにそんな不確実なことを眠りから覚
める条件にすると言い切ること自体、おまえが俺たちを騙そうとしている証拠
だ」
「……潜魂術か」
 つぶやいた六太をはっとして見やる。六太の顔は真っ青で今にも倒れそうだ
ったが、それでもしっかりと立っていた。
「そういう呪があることは知っている。他人の精神に忍びこみ心の内を探る、
危険で高度な術だ。なぜなら肉体であれ精神であれ、他人に干渉する術はすべ
て、相手の抵抗に由来する反動が生じるからな。だが潜魂術の場合、まず相手
が術を受け入れなければならないはずだ」
「そう。だからおまえはわたしを受け入れなければならない。受け入れて、心
の内をすべてさらけ出さねばならない」
「だまれ!」
 鳴賢はわめいた。なぜ自分は六太の求めに応じ、こんな女の家に案内してし
まったのだろう。これで麒麟にもしものことがあれば、悔やんでも悔やみきれ
ない。
「台輔、これも何かの罠です。謀反をたくらむようなやつが、自分の目的を正
直に言うはずがない。きっと嘘をついて――そう、何か、台輔しか知らない重
大な機密を握ろうとしている。それが目的だから、主上を眠らせて台輔をここ
へおびきよせたんだ!」

232永遠の行方「呪(141)」:2009/09/18(金) 20:29:15
「俺しか知らない国家機密などないよ……」六太は力なく笑った。「仮にそん
な機密があったとして、余命いくばくもない女が知ってどうする? どうにも
ならない」
「しかし、台輔」
「王朝を滅ぼすことが目的なら、このまま事態を放置すればいい。たとえ王の
命に別状がなくても、王が玉座にいなければ遅かれ早かれ国は傾くのだから。
それをせずに身代わりになれというのなら、この女の狙いは確かに俺なんだろ
う」
 まんまと相手の話に乗せられかけている六太の様子に、鳴賢は何とかせねば
と必死に考えた。なぜここまで素直に相手の言葉を聞いてしまうのだろうと、
憤りさえ覚える。
 もともと六太は相手を疑ったりしないほうだし、彼が麒麟であることを知っ
た今、それも慈悲の生き物の性分と考えれば納得はできる。しかしそれと謀反
人の言い分に耳を傾けることは話が別だ。
「すべてはおまえ次第。見てのとおり、わたしの余命は短いわ。光州の呪環を
完成させるまで永らえるつもりだったけれど、もしかしたら数日も保たないか
もしれない。このまま黙って立ち去るか、別の運命を選ぶか、早く決めなさい。
わたしはどちらでもかまわない。どんな形であれ、おまえと王が苦しみさえす
ればいいのだから」
 涼しい顔で言ってのけた暁紅を、六太は凝視した。
「俺と王を苦しめるために……?」
 沈黙。
「俺たちを――俺と王を恨んでいるのか?」
 投げられた問いには答えないまま、やがて暁紅はこう言った。
「でもわたしにも慈悲はあるから、おまえの苦しみを最小限にしてあげる。呪
の眠りは夢をもたらさない。おまえは何も感じず、何も考えず、ただ呼吸をし
ているだけの木偶(でく)になる。暗黒に呑まれ、時の流れから切り離されて
昏々と眠り続ける。悦びもない代わりに、悲しみも苦しみもない」
「狂ってる……」
 つぶやく鳴賢の傍ら、しばし考えこんだ六太は静かに問うた。

233永遠の行方「呪(142)」:2009/09/18(金) 21:03:38
「麒麟の生命は王の生命とつながっている。その呪が俺の生命を脅かさないと
約束できるか? 俺が昏睡に陥ると同時に王は目覚め、王の生命にも健康にも
害は及ばないと保証できるか?」
「そのように計らったと言ったでしょう。信じられないのなら、何よりも我が
身が可愛いのなら、黙ってここを立ち去ることね」
「俺には多くの使令がいる。そいつらはどうなる? 同じように意識を封じら
れるのか、それとも自由に動けるのか。ほとんどはこの場で俺の影に陰伏して
いるが、身辺から離れている者もいる」
「影の中の使令はおまえとともに封じられる。他はどうなるか試してみる? 
完全に意識を封じられ、息をしているだけの木偶と化した麒麟の使令が暴走し
ないかどうか」
 わずかな躊躇のあと、六太はうなずいて「わかった」と答えた。
「離れている使令もすべて呼び戻す。俺はおまえを拒まない。潜魂術でも何で
も使うがいい」
「台輔!」
 今度こそ悲鳴を上げた鳴賢に、六太はなだめるように言った。
「さっきも言ったとおり、人の身体や精神に干渉する術は呪者に相当な負担を
かける。何よりも人の心の中は、常に変化する迷路のようなものと聞く。だか
ら潜魂術は、術者を迷路で迷わせないために、受け手が術を受け入れる必要が
あるのだと。ならば目的の情報以外はほとんど読みとれないだろうし、俺の最
も望まぬことが何かくらい、すぐにでも死ぬ女に知られても大した問題じゃな
い。むしろ余力のある今のうちにやってもらわないと王が助からない」
「でも――でも――!」
「鳴賢……」
「夢も見ない眠りなんて――死と同じじゃないか!」
 ついに鳴賢は泣き声を上げた。顔も知らず姿を見たことさえない王は、むろ
ん尊崇の対象ではあるものの、彼にとって記号と同じだ。だが六太は違う。何
年も何年も、友人として過ごしてきた。ともに騒いで楽しい時間を共有し、さ
さいな喧嘩をし、悩みを語り合い――。
 しかもその大事な友人の危難に、自分は何の役にも立たないのだ。

234永遠の行方「呪(143)」:2009/09/19(土) 19:49:36
「いつかは目覚めるだなんて、本当にそのいつかはやってくるのか? 考えた
くはないだろうけど、もし主上が謀反や事故で逝去なさってしまったら! 眠
り続ける六太は次の王を選べない。主上がおられなくなり、眠る麒麟だけが残
されたら……」
 続く言葉はさすがに口に出せなかった。仮朝を預かる官吏たちは、悩みつつ
も国家のために非情な決断をくだすだろう。次の麒麟を得るために。
「だとしても、だ。今ここで王が助かるのなら、俺はそれでかまわない」
 六太はそう言って笑ってみせた。鳴賢は絶望と混乱に囚われたまま、もう何
も言うことができなかった。
 ほんの数刻前まで変哲のない日常の中にいたというのに、この違いはどうだ。
想像だにしなかった事件に突然投げ込まれ、力も知識もないまま、ただ成り行
きを見届けることしかできない。
 何か見落としがないだろうか。暁紅の言に、明らかな矛盾、罠の匂いはない
だろうか。
 ――あるに決まっている。自分が気づかないだけで。
 鳴賢は思ったものの、何をどうすべきなのか彼にはわからないのだ。限られ
た時間の中、それもこの場においてどうすれば最上の決断になるのかなど、一
介の大学生に判断できるはずもなかった。
「で。俺はどうすればいいんだ?」
 尋ねられ、暁紅は目の前の床を無造作に示した。
「そこに横たわり、目を閉じなさい」
「台輔に無礼だろう!」
 鳴賢は憤慨して叫んだが、六太は素直に床にあおむけになって目を閉じた。
暁紅は阿紫に支えられながら傍らに座り込み、黒紗の中からただれた片手を伸
ばすと、掌を六太の胸に置いた。その有様を間近で見守ることしかできない鳴
賢は、せめて何か重大なことを見落とすことがないようにと、懸命に目を凝ら
した。
 だが暁紅が一言二言何かつぶやいただけで、特別なことは何も起きなかった。
誰ひとり身じろぎする者のないまま、時間だけがひっそりと過ぎていった。
 そして。

235永遠の行方「呪(144)」:2009/09/19(土) 20:00:11
 さだかではないものの四半刻も経ったかに思われた頃、不意に暁紅がくずお
れた。伸ばしていた腕をだらりと垂らし、六太の傍らで完全に力を失って倒れ
こむ。ずっと彼女を介助していた阿紫が顔色を変え、それでも声は出さずに女
主人の体に手を添えた。
 鳴賢は息を殺して、その様子をじっと見ていた。床に倒れこんだまま微動だ
にしない暁紅に、もしかして死んだのかもしれないと考える。
 負担をかける術だと六太は言った。その術が、予想外に暁紅の体力を奪った
のではないか。だとしたら王を救うことはできないかもしれないが、六太は助
かる。
 そうは思ったものの、六太も目を閉じたまま動かないことに気づいてぞっと
する。
 人の心は迷路に似ていると六太は言わなかったか。もしや暁紅はその迷路の
中で迷ったのではないだろうか。そしてその干渉が、六太にも悪影響を及ぼし
たのではないだろうか……。
 だが、やがて暁紅がわずかに身じろいだ。同時に六太もかすかにうめいてぼ
んやりと目を開き、鳴賢を複雑な思いにさせた。
 見守る中、いったい何を思ったのか暁紅がくすくすと笑いだす。それはすぐ
に明らかな嘲弄となり、彼女はおかしくてたまらないとでも言うように、大声
を上げてけたたましく笑いはじめた。鳴賢は呆気にとられた。
「これが――これが麒麟……。なんてあさましい――!」
 堰を切ったように笑い続ける暁紅の傍ら、六太が悄然とした面持ちでゆっく
り体を起こした。暁紅は黒紗の奥に満面の笑みをたたえたままこう告げた。
「気が変わったわ。最も望まないことではなく、おまえの最も望むことがかな
ったとき眠りから覚めるようにしてあげよう。おまえの最大の願望の成就が、
昏睡の呪縛を解くようにしてあげよう」
 彼女の意図を理解できず、鳴賢は目をしばたたいた。これも何かの罠か。と
はいえ望まぬことではなく、望みがかなったときに呪が解けるというのなら少
しはましかもしれないとは考える。同時にどこか引っかかるものを覚えて妙に
気が急いたが、それが何かはわからなかった。
「――鬱蒼とした山林。草を踏みしだいて去っていく足音。二度と振り返らな
い背中。衣笠山」

236永遠の行方「呪(145)」:2009/09/19(土) 20:11:11
 上体を起こしたまま、頭痛でもするのか額を押さえていた六太が、はじかれ
たように顔を上げた。驚愕の面持ちで暁紅に目を向ける。
「待っているなんて嘘。死を受け入れたなんて嘘。おまえは父親が振り返って
駆け戻ってくるのを望んでいた。すまなかったと言って、ふたたび手を引いて
ともに帰ることを望んでいた。民意の具現? 慈悲の塊? とんでもない!」
 くっくっと笑った暁紅は阿紫に助けられ、よろめきながらも元の榻に戻った。
声の力強さとは対照的に弱々しい足取りだったが、それでも彼女は黒紗の奥で
目をきらきらと輝かせて六太を見た。
「この王朝が安寧のままに続くこと、それはおまえの第三の願いにすぎない。
そして王を選ぶ役目を負いながら、それこそがおまえの存在意義の最たるもの
でありながら、王が死ぬときはともに逝くことを願っている。王朝の安寧を願
うより王と麒麟を失った国を案ずるより、責任を投げ捨てることを望んでいる。
それが第二の願い」
「それがどうした」
 うつむいてしまった六太を尻目に、鳴賢は腹立たしい思いで吐き捨てるよう
に言った。暁紅が放った言葉の意味はよく理解できなかったものの、六太を貶
めようとしていることだけはわかったからだ。
「雁の民すべてにとって主上は大切なおかただ。おまけにこれだけ長く仕えて
きたなら、そのおかたに殉じたいと思っても何の不思議もない。民だろうと官
だろうとそれは同じだ」
 延王は五百年もの間この国に君臨している、神のごとき賢帝だ。想像力がな
いことを自覚している鳴賢でさえ、王の近臣らが主君に対していだいているだ
ろう尊崇と思慕の念くらい容易に想像できる。長く仕えていればいるだけ、最
期をともにしたいと考えるだろうことも。
 むろん実際には悲しみに暮れながらもやがて立ち直り、自分の人生をまっと
うしていくものだ。親を失った子供、伴侶を失った妻や夫が、涙のあとで新た
な生き方を模索するように。
 だが暁紅は彼を無視し、暗い顔でうつむいたままの六太を責めるように、さ
らに言葉を投げつけた。「あさましい」と。
「自国の麒麟の最大の望みが、王の長寿でも国の安寧でもないなんて誰も思わ
ないでしょうね。でもおまえはそれを知っている。どれほど自分が愚かしくて
あさましいか、聖なる神獣、慈悲の具現と言われながら、その実どれほど自分
が可愛いか。おまえの願ってやまないことが何かを知ったなら、民はどれだけ
失望するかしら。どれほど愚かしい望みを抱いているか知ったなら」

237永遠の行方「呪(146)」:2009/09/19(土) 20:33:00
 無礼な物言いに憤りを高める鳴賢とは逆に、六太は唇をかみ、沈黙を守った
まま一言も発しなかった。それをいいことに暁紅は次々とあざけりの言葉を投
げつけた。
「胎果というのはあわれなものね。蓬莱でのおまえはただの足手まといだった。
親にとっては遺棄するしかない邪魔な子供だった。でもそれがおまえの真の姿。
この世界で大切にされ、かしずかれているのは、ただ天帝から王を選ぶ役目を
負ったという一点のためだけ。おまえ個人が何を思おうと、そんなことは何の
価値もありはない」
「六太は六太だ」
 鳴賢はとっさに反駁しようとしたが、投げつけられた内容への理解が足りな
いのとあまりにも憤りが大きすぎるのとで、それ以上は言葉にならなかった。
 それでも蓬莱との連想から、六太が異世界で親に捨てられたと言っていたこ
とを思い出す。麒麟と言えど、蓬莱では普通の人間として生まれたということ
だろうか。金の髪を目の当たりにしながら、誰も彼が麒麟だと気づかなかった
のだろうか。鳴賢にはそれは不思議なことに思えたが、本来なら大勢の侍者に
かしずかれ、敬われつつ大切に大切に育てられるはずだったろうにと思うと、
偶然卵果が流されたばかりに辛酸をなめた六太が気の毒でならなかった。
 だが六太自身は何も言わず、責められるがままに甘んじていた。まるでなじ
られるのが当然だと思っているかのように。
 ひとしきり暁紅が責め、やがて気が済んだのか笑みを含んだ顔で口を閉じる
と、六太はようやく顔を上げた。しかしながら鳴賢の想像とは裏腹に、彼の表
情からは既に翳りは失せており、憤りも焦りも窺えないどころかむしろ穏やか
な様子だった。
 彼は相手に慈愛のまなざしとしか思えないものを向けて言った。
「まだよくわからないが、俺がおまえを傷つけたことがあるなら申し訳なく思
う。俺はこんなふうだからいつも考えが足りず、意図せずに誰かを傷つけてし
まうことがままある。何しろ王に対してさえもそうだからな。だからそれでお
まえの気が済むのなら呪でも何でもかけてくれ。ただ、あとで自分が後悔する
ようなことだけはしないでほしい。なぜならそれで苦しむのは俺ではなく、お
まえ自身だから」

238永遠の行方「呪(147)」:2009/09/20(日) 19:50:34
 鳴賢は呆気にとられた。それは暁紅も同じだったらしく、彼女は見るからに
唖然とした顔になった。
「紙と筆をくれないか」彼らの反応に大して注意を払わず、六太は頼んだ。
「俺が昏睡に陥ると同時に王が目覚めるなら、国政に関する心配はいらないだ
ろうが、官に伝言を残しておきたい。これでも一応宰相なんでな。その伝言を
鳴賢に託したいんだが、彼には手を出さないでくれるな?」
「六太!」
 本当に謀反人に言われるがままに呪にかけられるつもりなのか。鳴賢は今さ
らながらにぞっとなった。一方暁紅は、狼狽を取り繕おうというのか「勝手に
なさい」とそっけなく答えた。彼女に軽くうなずいた六太を見て、何とかしな
ければと必死に考える。何とか――。
「頼む、六太とふたりきりで話をさせてくれ」
 先ほど覚えた引っかかりの正体を悟った鳴賢はあわてて暁紅に頭を下げた。
 六太から、彼が最も望んでいることを聞き出す。どうやら彼はそれをはっき
り自覚しているようだし、それなら自分は聞いたままを国府に伝えるだけでい
い。本当に呪の解除条件がそれなら六太を助けることができる――そう考えた
のだ。
 小馬鹿にしたような視線を暁紅に向けられ、鳴賢は焦った。何しろ先ほどま
でなじっていた相手だ。もう少し手加減すれば良かったと後悔しながら、彼は
懸命に言い募った。
「六太には友達も多いのは知っているだろう。そいつらに向けた伝言も聞いて
おきたい。本当にこれが六太と言葉を交わせる最後なら、せめてそれくらい許
してくれ。何も知らなかったとはいえ、俺がここに六太を連れてきたんだ。そ
の後悔のまま一生を過ごすなんて耐えられない。麒麟が王の身代わりになるこ
とが避けられないなら、せめて最後に少しでも役に立ったと思えることをさせ
てくれ」
 すると暁紅は思いの外あっさりと「好きなようにすればいい」と答えた。こ
れで謀反人の裏をかけると確信した鳴賢は心の底から安堵したが、それを相手
に気取られないよう気を引き締めた。
 暁紅は阿紫に命じて紙と筆を取りに行かせ、戻ってきた阿紫は大卓にそれを
置いた。うなずいた六太を意味深な微笑とともに一瞥した暁紅は、阿紫の介添
えにすがって房室を出ていこうとした。

239永遠の行方「呪(148)」:2009/09/20(日) 19:54:29
「言伝は短い。すぐに書き終わる。出ていく必要はない」
 鳴賢の腹の内を知らない六太が彼女を引き留めた。鳴賢の希望を打ち砕く言
葉だったが、とうに覚悟を決めた彼が万が一を考えて言ってるのはわかった。
どう見ても暁紅が重病人なのは確か。席を外している間に彼女の息が絶えるこ
とを恐れているのだ。少なくとも時間が経てば経つほど、不測の事態が起きて
王を助けられなくなる可能性はあるのだから。
 鳴賢としては望むところだが、主君を限りなく尊敬し慕っているに違いない
六太にしてみれば確かにそれを懸念しても無理はない。
「俺も六太と最後に話したいんだ」
 敵が間近にいるとあって、目配せなどでほのめかすこともできない。鳴賢は
必死の思いで訴え、自分の意図が通じるよう念じた。さらに暁紅に向き直り、
再度頭を下げる。
「おまえは永遠の眠りではないと言うが、現実にはこれが台輔と言葉を交わせ
る最後の機会かもしれない。ならば台輔の言葉を他の者に伝えるのも、この場
に居合わせた俺の務めだ。余人を交えずに話したい。そんなに長くはかからな
い」
 幾度も幾度も必死に頭を下げる鳴賢を、何の感慨も窺えない顔で眺めやった
暁紅は、沈黙を守ったままあっさり扉の向こうに姿を消した。扉が静かに閉ま
ると、吐き気をもよおす甘い匂いが少し薄らいだ。
 扉に耳を当てて向こう側の様子を窺い、本当に大丈夫だと見極めてから六太
に向き直る。それから「すまない」と言って六太にも頭を下げた。
「台輔の――いや、六太の気持ちはわかる。でもあいつらのいないところで話
をする必要があったんだ」
 意味が分からないような顔をした六太に説明する。
「六太があいつの言葉を信じるなら、俺はもう何も言わない。俺なんかに口を
出せることじゃないから。でもあの女が確かに真実を語っているとしたら、主
上も六太も助かる方法がある」
「……どうやって」

240永遠の行方「呪(149)」:2009/09/20(日) 20:03:23
「あいつが言っていたことを教えてくれ。六太の最も望んでいることは何か、
こっそり俺に教えてくれ。そうすれば俺は国府に駆け込み、役人にそれを伝え
る。六太の望まないことが、王朝の滅亡だの民の困窮だのといった悲惨な事態
だろうことは想像がつく。でも最も願っていることなら。それならきっと誰も
傷つかないんだろう? むしろ良いことなんだろう? 多少の困難はあったと
しても、時間はかかったとしても、目指すべき結果がわかっていれば何とかな
る。そうすればいったんは呪にかけられたとしても、遠くない時期に確実に解
くことができる」
 だが六太は疲れたように笑っただけだった。怪訝な顔をした鳴賢の前で、彼
はいったん床に視線を落とし、何やら考えこんでから顔を上げた。その面を彩
るのは穏やかで淋しげな微笑だった。
「俺は俺の望みを知っている。あの女に言われたとおり、あさましい願い事だ。
そしてそれは絶対に成就しえないことだ」
「そんなの聞いてみなきゃわからないじゃないか」
 六太は深く溜息をついた。
「暁紅がなぜおまえの願いを聞き入れて俺とふたりきりにしたと思う? 俺が
絶対にそれを口にしないと知っているからだ。俺の最大の願い事が絶対に成就
しえないことをわかっているからだ。だから俺を苦しめるために、呪の解除条
件にすると言ったんだよ」
 鳴賢は言葉に詰まった。
「まさか、そんな」
「潜魂術をかけられたとき、俺にもあの女の思考が少し読みとれた。というよ
り勝手に流れ込んできた。あの術は両刃の剣だな。いずれにしろ、理由はとも
かく確かに暁紅は俺と王を恨んでいる。王が昏睡から覚めないことで俺が苦し
んでいることを喜んでいるし、逆に俺が昏睡に陥ったなら、実質的に麒麟を失
う前代未聞の事態に王が苦しむだろうと想像して喜んでいる。王を弑逆しなか
ったのは、おそらく昏睡の呪にかけるほうが簡単だったからだろう。単に成功
する可能性が高いほうを選び、実際に成功した。そしてどうやら肉体的により、
精神的に苦しめるほうを望んでいるらしい。
 もっとも俺が眠りに囚われても、実際には王はさほど苦悩しないと思う。麒
麟が生きてさえいれば王の生命に別状はないし、そもそも単に長く生きている
というだけで、実のところ俺は大して国政の役に立ってはいないんだ。だから
これからおまえに託す言伝さえ伝われば、この国は何の波乱もなく平和に続い
ていくはずだ」

241永遠の行方「呪(150)」:2009/09/20(日) 20:14:28
 声もない鳴賢に、六太は笑った。
「考えてもみろよ。俺はもう五百年も生きてきたんだぜ? 只人の何倍も生き
たんだから、たとえ今日命が終わったって恨む筋合いはないだろ。それに実際
には昏睡に陥るだけで死ぬわけじゃない。少なくとも暁紅が本当にそう考えて
いることはわかった。俺としては確証を得られてかなりほっとしたし、正直、
王が助かるならこういう目に遭うのもありかな、と思った」
 あまりにも淡泊な物言いに鳴賢は愕然とした。飛仙ゆえの厭世観と六太は言
ったが、もしや生きることに飽いているのは彼自身だったのだろうか。暁紅に
投げた問いは六太の本心でもあったのだろうか。麒麟の生命が王とつながって
いなければ、彼は死そのものさえも簡単に受け入れたのだろうか。
 だが六太はさらにこうも言った。
「蓬莱のある世界では、好機の女神には前髪しかないという言い方がある。出
会ったときすぐつかまないと女神は素通りしてしまい、好機をつかむことは二
度とかなわないんだとさ。ならば俺にとってこれこそが好機だ。たとえそうで
はないとしても、逡巡している余裕はない。機会を逃し、あとになって最初で
最後の好機だったことに気づいて生涯後悔するより、俺はこの機会を選ぶ」
 彼にとって、王は自分の命より大事な存在なのだろう。決して生に飽いてい
るのではないのだ。ただ王を救うためなら自分がどうなろうとかまわないのだ。
 黙り込んでしまった鳴賢を前に、六太は大卓の前の椅子に座ると筆を取った。
墨に穂先を浸し、いつもの達筆で紙の上にさらさらと文字を連ねる。傍らで見
るともなく見ていた鳴賢は、簡潔で残酷な文言がしたためられるのを目の当た
りにした。
 まず前提として、呪者との取引により王の身代わりになることを決断したと
いう事実、それを縁あって知り合った赤烏という青年に託すが、彼には何の落
ち度もないことが説明された。そして官への指示が淡々と記される。
 もし王が道を失った場合、国を荒らさないために早い段階で自分を殺すこと。
そして王が崩御した場合も、昏睡状態では新たな王を選べないので、次の麒麟
を得るために自分を殺すこと。
 ――それだけ。
 やはり六太は死を覚悟しているのだ。書面が言伝という名の遺言であること
をまざまざと感じた鳴賢は、彼の決意の度合いにもう何も言えなかった。

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次の投下までしばらく間が開きます(今回はそんなに長く開かないと思いますが)。




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