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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

21:2007/09/22(土) 09:49:39
夏の間、書き逃げスレでいろいろ投下させていただいた尚六ものは、
3Pのエロネタ以外、すべて同じ設定を背景に持つ話です。
最初は何作もこちらに上げるつもりはなかったのと (せいぜい三作くらいのつもりだった)、
My設定の説明をされてもうざいだけだろうと思って、これまで言及しませんでした。
何かとワケワカメで申し訳ない。

でもこのままではさすがに中途半端ですし、他にもエピソードはあるため、
この際なので書き逃げスレの邪魔にならないよう専用にスレを立てて、
片隅でひっそりやらせていただくことにしました。

もっとも最後まで書ききれるかどうかわかりませんし、
各話で主人公が一定していない上に時間軸も過去と未来を行ったりしますが、
それぞれの話でいちおうのオチはついているのでご容赦ください。
イメージとしては雁主従の想いが通じ合う「永遠の行方」という話を基軸に、
その前後を含めて描くという感じです。
「永遠の行方」本編を書き上げていないため、まだ「前後」のほうしかありませんが。

参考までに、今まで書き逃げスレに上げていた話は、
時系列順だと以下の通りになります。

 ・後朝
 ・続・後朝
 ・腐的酒場
 ・腐的酒場2
 ・体の相性

もしかしたらたまにコメディ的なものもあるかもしれませんが、基本は超シリアス。
投下ペースはかなりゆっくりめのつもりですが、年内にかぎり月一本は投下します。

3たゆたう岸辺(1):2007/09/22(土) 09:52:37
 路寝にある広大な園林のはずれ。雲海を臨むわびしい岸辺で数日ぶりに主の
姿を見かけた六太は、いったんはそのまま見なかったふりを決め込もうとした
ものの、立ち止まってもう一度主の遠い後ろ姿に目をやった。
 あんなふうに王宮で物思いにふける尚隆は珍しい。そんなときは大抵、市井
に降りて、名もない大勢の民に紛れることが常だと今の六太は知っている。
 ひとりになりたいのだ。しかし誰かにそばにいてもらいたいのだ。
 そんなことまで何となく感じ取れるようになってしまったのは肉体関係がで
きたからだろうか。わからない。これまで知らなかった彼のいろいろな顔を見
るようになったのは確かだけれど。

 しばらく雲海を眺めていた尚隆は、やがてその場に腰をおろすと、ついでご
ろりと仰向けに寝転がった。
 潮の香り、寄せては返す波の音。目を閉じれば、今でも遠い記憶がおぼろに
蘇ってくる。遮るものもなく降りそそぐ太陽の光を忌むかのように、閉じた目
の上に腕を置く。
 どのくらいそうしていただろう。草を踏み分けて近づく足音に気づいたが、
身じろぎもしなかった。
 ゆっくりとした足音は尚隆の頭のあたりで止まり、そのまま座りこむ気配が
した。腕をずらしてちらりと見やると、視界の端で金色の光が揺れた。別に尚
隆を見てはいない。両膝をかかえて静かに雲海を眺めている。
 尚隆はそのまま腕を投げだし、ふたたび目を閉じて潮騒の中に身をゆだねた。
 静かな時間が、ただ過ぎていく。
 ふと相手の気配が動いて、尚隆の閉じた目を温かな掌が優しく覆った。
「尚隆。悲しいときは泣いていいんだ。人は悲しいときに泣くことで慰められ
る」
 静かな言葉。見かけは年端もいかぬ少年のくせに、こいつはときどき誰より
も包容力があるところを見せる、と少しおかしく思う。
「王は人ではなかろう」
「人だとも。笑いも怒りもする、飲食できなければ飢えもする。王も人だ。た
だちょっと丈夫で長生きするだけで、心のありようは只人と何も変わらない」
 淡々と綴られる言葉は、不思議と心に染みいっていく。岸辺に寄せる波のよ
うに。
 それとも目を閉じているせいだろうか。闇は人を素直にする。互いの顔が見
えないときのほうが、思いを言葉に乗せやすく、受け入れやすいのは確かだ。
暗い閨での睦言のように。

4たゆたう岸辺(2):2007/09/24(月) 21:12:50
「泣けぬのだ。俺は」
 つぶやくように答えた声が、思いがけずかすれた。
 そうだ、俺は蓬莱にいた頃から、長らく泣いた記憶はない。こちらの世界に
来てからも五百年以上経つというのに、泣いたのはただ一度。
 俺の身代わりになって謀反人の呪を受け、永遠に意識を封じられたままで終
わると思われた六太が、長い眠りのあとで思いがけず目覚めた――それを目の
当たりにしたときだけ。
 お笑いぐさなことにあの事件が起きるまで俺は、自分が六太から離れること
はあっても、その逆の可能性を考えたことは一度もなかったのだ。こいつが殺
されるのでも幽閉されるのでもなく、肉体は側にありながら、心が永劫の彼方
に行ってしまうなどとは。
 この世界に来てからあれほど孤独を感じた時間はなかった。なのに自分は誰
の支えもなくひとりで立っているつもりだったのだ。
 六太こそは、遠い蓬莱での自分を知る唯一の存在だった。俺の根を知ってい
る唯一の。ひとりで蓬莱の亡き民を懐かしむよりも、ほんの一部とはいえ思い
出を共有する者がいると無意識に考えられることが、何よりの慰めだったこと
にやっと気づいた……。
 そんな彼の物思いをよそに、何を考えているのかしばらく沈黙していた六太
は、やがて言葉をつなげた。
「尚隆。人と人は支え合うことができる。助け合うことができる。ただしお互
いの距離は手を伸ばさなければ届かない程度には離れている。片方だけではだ
めなんだ。双方が手を伸ばさないと届かない。しかし手を伸ばしさえすれば何
かが触れる」
「……」
「后妃を娶ってもいいんだぞ」
「莫迦を言うな」
 尚隆は即座に言い返した。――こいつは包容力があるどころか、時折とんで
もないことを言い出すから困る。
「好いた女はいないのか? 偽名ではなく真の名前で呼ばれたいと思う女は?」
「後宮に女人を入れたらどうすると言ったら泣いたおまえがそれを言うか」
 沈黙がおりた。やりこめたと思った尚隆がほくそ笑む。しかしすぐに、絶句
したのではなく、溜息をついていたのだと悟る。まさか俺がこいつに憐れまれ
るとはな……。
「六太としての俺の気持ちは、麒麟としての俺が抑える。おまえが俺を気にす
る必要はない」

5たゆたう岸辺(3/E):2007/09/28(金) 00:25:23
 六太は静かに答えた。淡々と、それでいて優しく。
「俺はおまえが大事だ。麒麟として王が大事、六太として尚隆が大事。その前
には俺のことなどどうでもいい。俺ではおまえの悩みの役に立てないなら、役
に立てる人間をいくらでも側に置いていい」
「……」
「俺は想いを遂げた。僥倖みたいなもんだと思っている。おまえとこうなると
きが来るなんて思わなかった。これ以上は望めない」
「おまえは何も言わなかったな……。長い間、何も気取らせなかった」
 くすりと笑う気配がした。
「宴席で話の種にでもされたらたまらないと思ったからな」
「そこまで主を信用しないか」
「あいにく誰かさんは日頃の行ないが悪いから」
 おどけた調子が声音に混じる。こればかりは分が悪いので、尚隆は黙ってい
る。六太の反応がおもしろくてからかったことが多いのは事実だったから。
「なあ、尚隆。麒麟は王のもので、俺は尚隆のものだ。でも王は麒麟のものじ
ゃない。尚隆も俺のものじゃない。おまえは俺から自由でいていいんだ」
 ある意味では、恋人と距離を置け、と言ったも同然の残酷な言葉。淡々と告
げる六太は慈悲深いようでいて冷たい。冷たいようでいて優しい。
 なぜなら彼は知っているのだ、良きにつけ悪しきにつけ、人というものが変
わることを。変わるなと枷をつけて相手を縛るのではなく、変わってもいいの
だと許す。そうして自分は変わらずにそばにいると無言で慰める。そんな彼を
見る相手がどれほど切なくなるか知らぬげに。
 尚隆が沈黙していると六太も、もはや何も言わなかった。永遠に続く潮騒に
包まれて、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
 やがてうとうとし始めた尚隆の耳に、六太の声がひそやかに届いた。
「少し眠れ。眠って夢の中だけでも泣いて人に還るといい」
 尚隆の意識の中で、夢幻と現実の境目がにじんでいく。沈みゆく意識の中で
彼は、六太の掌がそっと離れるのを感じた。足音だけを残して、気配が遠ざか
る。
 まったく主を見捨てて行くとは薄情なやつだ……。
 完全に眠りに落ちる前の一瞬でぼやく。そうして苦さと切なさがないまぜに
なった思いをいだいたまま、二度とくだらぬことを言い出さぬよう今夜は仕置
きをしなければな、と意地悪に考えた。

6たゆたう岸辺(後書き):2007/09/29(土) 12:40:20
「体の相性」の少し前の話になります。
書き逃げスレ300-303の「王后」はこの話から派生した没ネタでした。

「後朝」あたりの六太と同一人物には見えませんが、
あの話の前後は一時的にかなり情緒不安定になっていましたので。
またあれからけっこう時間が経っているため、初々しさも失せています。

最初のイメージでは六太が尚隆を膝枕してあげていたのですが、
そんな甘々はさすがにあんまりだろうということで変更しました。
とはいえ、いつかどこかで膝枕もしてあげていると素で思っています。

7贈る想い(1):2007/10/22(月) 19:31:49
雁主従の想いが通じあったあとの「後朝」などのラブラブ話より数年ほど前の話です。
表面上の主役は鳴賢で、主題は彼のノーマルな失恋を慰める六太の図ですが、
副題は、長いこと片思いをしている六太の心中です。オリキャラあり (名前だけですが)。
-----


「まー、なんだな、女なんて星の数ほどいるさぁ。それに俺たちゃ、卒業して
高級官吏になりゃあ、色街でもモテモテだぞぉ」
「そーそー。そんなあばずれ、縁が切れて正解だぜぇ」
「どうせ最初から間男とよろしくやっていたに違いないって」
 深更の大学寮。すっかりできあがって、それでもいちおう慰めてくれていた
つもりなのだろう、失恋した鳴賢に何かとからんでいた悪友たちは、楽俊と六
太に引っ張られて千鳥足でそれぞれの房間に引き上げていった。
 そんなあばずれ。
 最初から間男とよろしく。
 幼なじみの娘の地味でおとなしい面影がよぎり、わずかに心が痛んだが、鳴
賢はそんな思い出を振り払うように頭を振った。誰もいなくなって静かになっ
た自分の房間で、ささやかな酒肴を載せていた懐紙や酒杯が散乱しているのを
片づける。さんざん飲んだはずなのに、まったく酔った気がしなかった。
 ふと扉が開く音がしたので振り返ると、そこに六太が立っていた。さっきま
で彼が使っていたものだろう酒杯を差し出し、「水だ。飲めよ」と言った。鳴
賢は「ああ……」と頷いて受け取り、書卓の椅子に腰をおろすと酒でひりつい
た喉を潤した。
「楽俊も自分の房間に戻ったぜ」
「ああ」
 六太はさっさと奥の臥牀に座りこんだ。組んだ足の一方の膝に頬杖をついて
鳴賢を眺める。悪友たちに劣らず、この少年も相当飲んでいたはずだが、酔っ
ているようにはまったく見えなかった。
 子供と言っても差し支えない年頃なのに、座りこんでいるその仕草自体が妙
に大人びているのを、鳴賢はあらためて不思議に思った。よほど家庭が荒れて
いて、すれてしまったのか――いや、六太からそんな無秩序でささくれ立った
気配を感じたことは一度もない。口は悪いし、この少年は一見、ただの悪ガキ
のように思える。しかし普段はふざけているようでも実際には真面目な気質だ
し、意外にも繊細で気配り上手でもあった。

8贈る想い(2):2007/10/22(月) 19:33:53
「あんまり気にすんなよな」
「え?」
「玉麗のことをあばずれだとか何だとか――あいつらはそれでおまえを慰めて
いるつもりだったんだよ。気にするな」
 鳴賢は絶句した。自分でさんざん玉麗を悪く言ったくせに、いざ悪友たちに
彼女を罵られてみれば不快だったことを悟られているとは思わなかったからだ。
動揺を隠すために、既に水を飲みほして空になっていた杯に誤魔化すように再
び口をつけ、そして言った。
「別に、つきあっていたわけじゃないんだ。単に幼なじみだったってだけで何
か約束をしていたわけでもないし、それが休暇でたまたま帰省したら結婚して
他の里に移っていて、それをあいつらが勝手に誤解して――」
 言い訳が勝手に口をついて出る。実際、それは本当のことだった。鳴賢は玉
麗と何の約束もしていなかった。内心でずっと、彼女が自分の卒業を待ってい
ると思っていたとか、向こうの態度の端々からもそれを感じ取れたとか、里で
の周囲もそういう目でふたりを見ていたというのは、鳴賢が知らないうちに玉
麗が他の里に移って結婚してしまった今となっては無意味だ。
 もっとも酔いに任せたとはいえ、さっきの飲み会でさんざん、彼女とは目と
目で通じ合う仲だったというようなことを言ってしまっていたので、相手が六
太でなくても誤魔化しにしか聞こえなかったろう。
 だんだん支離滅裂になっていく鳴賢の言い訳が、やがて尻すぼみになってお
さまったところへ、一言も口を挟まずに黙って聞いていた六太が言った。
「年末年始ってのは農閑期でもあるから帰省者も多いはずだけど、その娘は親
元に帰ってこなかったのか。普通、年始の祭りって親戚が集まるから賑やかだ
ろ」
「さあな。亭主のほうの親元にでも行ったんじゃないか」
 鳴賢は投げやりな態度で首をすくめた。六太は「そっか」とつぶやいて目を
伏せた。
「鳴賢は去年は帰省しなかったわけだから、それじゃあ今年はきっと帰ってく
るとわかるよなあ。とてもじゃないが顔を合わせられねえか」
 その言葉に、鳴賢は胸をえぐられたような気がした。実際、故意に避けられ
たと思っていたからだ。六太は目を伏せたまま淡々と続けた。

9贈る想い(3):2007/10/22(月) 19:36:05
「好きな相手を諦めて結婚してさ、でもその相手に会っちまったら、自分が惨
めだもんな……」
「そんなことあるもんか……」鳴賢は顔を背けた。「単に比べただけだろ。比
べて、将来性のあるほうを取っただけだ。俺は卒業も危ういし」
 脳裏に浮かんだ娘のはかなげな顔に、そんな計算高さはまったく似合わなか
ったが、鳴賢は吐き捨てるように言ってのけた。六太は目を上げて静かに彼を
見た。無言のままの様子に、何だか鳴賢は自分が責められているような気分に
なった。
「そりゃ、手紙も書かなかったけど。毎年帰省して会っていたわけでもないけ
ど。でもこっちは允許を取るのに忙しいし、大学に入ったからには卒業しない
と意味ないだろ」
「手紙、一度も書かなかったのか?」
 鳴賢は言葉に詰まった。
「その、つい面倒で――さ。どうせ帰省すれば会うし。でも会っても別に変わ
りはないようだったし」
「恨み言も何も言われなかったのか」
 鳴賢はうろたえて目を泳がせた。手紙のことにしろ、痛いところを突かれて
しまったからだ。
「最初の二年くらいは遠回しに言われたかな……。でも、何て言うか、そうい
うのうるさく感じてさ、適当に受け流して……。大学に入ったばかりの頃は関
弓での生活が楽しかったし。そしたらいつのまにか何も言われなくなってさ。
そうなるとそっちのほうが面倒がなくて」書卓に肘をついて、片手で目を覆う。
「―― 自業自得、か……」
 六太は黙っていたが、やがてつぶやくように言った。
「その子、鳴賢のことがとっても好きだったんだろうな」
「……」
「でも人の心なんて弱いもんだ。鳴賢のことが好きで好きで。鳴賢に会えない
のが寂しくて。それで耐えられなくなっちゃったのかな」
「……」
「それとも自分よりもっとふさわしい女性がいるって思ったのかな。首尾良く
卒業して官吏になったら、鳴賢は高級官吏だ。最低でも下士にはなれて仙籍に
載る。年も取らなくなるし、普通の民にとっては雲の上の存在になってしまう」

10贈る想い(4):2007/10/22(月) 19:38:12
 鳴賢は考え込んだ。はたしてそうだろうか。いや、玉麗はおとなしくて控え
めだが、芯の強い娘だった。自分が高級官吏になったからといって、それだけ
で尻込みするとも思えない。そもそも大学に入った以上、卒業して官吏を目指
すのは当たり前のことだ。単に身を引くなら自分が大学に入ったときにそうし
ただろう。
「幼なじみだったんだ。官吏になろうがなるまいが関係ない」
「それでも、さ。鳴賢が長いこと苦労しながら頑張っているってことは知って
いたわけだ。便りもない、帰省もしない。自分は寂しいけれど、そんなふうに
思うのは鳴賢のためにならないんじゃないだろうか、むしろこのままでいては
いけないんじゃないだろうかって――考えたことがあったのかもな、と思って。
ま、勝手な想像だけど」
「……」
「好きだから……寂しさに耐えられなくて。でも相手には幸せになってほしく
て、だからこそわがままをぶつけられなくて。そして他の男を選んで結婚して、
鳴賢に会わせる顔がなくて。悩んだのかな。鳴賢のことが好きだから。でもそ
のままじゃ鳴賢にも亭主になった人に申し訳がないから。だから故郷を去って
踏ん切りをつけようとしたのかな」
 鳴賢は黙り込んだ。あばずれだの何だのという悪友たちの罵りに比べれば、
はるかに玉麗に似つかわしい想像ではあったが、それが事実かどうかは別の問
題だ。それでも長年彼女を放っておいたという自覚はある鳴賢に、六太の言葉
はちくちくとした痛みをもたらした。
「まあ――何も約束してなかったしな……。別につきあってたわけでもないし」
「それでも八年待ったわけだろ」
「八年か。長いよなぁ……。さすがに卒業も危ういし、見捨てられても仕方が
ないよな……」
「正直に言ってりゃ良かったかもな。允許を取るのに苦労して、先行きどうな
るかわからない。手紙を書く暇もない。でもとにかく死にものぐるいでやって
いるから待っててくれって」
「そんなこと言えるか」
 鳴賢は力なく笑った。こんなことを言われたら普段なら腹が立ったに違いな
いが、今はその気力もなかった。むろん相手が年端もいかない子供にすぎない
せいもあったろう。ここで怒っては年長者の立場がない。

11贈る想い(5):2007/10/22(月) 19:40:14
「自尊心が許さなかった?」
 あっさりと尋ねた六太に、鳴賢は溜息をついた。いくら六太がませていると
はいえ、たった十三歳の少年に男の矜持を説いても無駄だろう。
「おまえにはまだわからないだろうが、男にはいろいろあるんだ。そう簡単に
弱音を吐くわけにはいかない」
「好きあった娘にも言えないのか?」
「だからこそ、だ。通りすがりの見知らぬ人間になら何でも言えるかもしれな
いけどな。知り合いだからこそ言えないってことがあるんだ」
 六太はまた目を伏せた。こういう仕草が妙に大人びている少年だった。
「そうだな。そうして人はすれ違っていくんだ……。身近にいても気持ちを通
じ合えるとは限らない。離れていればなおさらかもな」
 そのつぶやきの切々とした響きに、鳴賢は妙に胸を突かれて相手を見つめた。
ほのかな初恋くらいは経験しているかもしれないとしても、色恋沙汰と形容で
きるほどの経験は積んでいない年頃だろうに、なぜだかひどく心に迫るものが
あった。
「おまえ……。恋したことあるのか?」
「あるよ」
「ふーん……。いつ?」
「今」
「へえ?」鳴賢は途端に興味をそそられた。このこまっしゃくれた子供にも、
そんな相手がいたのだ。「どんな娘だ?」
「言えない」
「俺にばかり喋らせておいてそれはないだろ。内緒にしといてやるから教えろ
よ。何なら助言してやる。少なくともおまえよりは経験があるはずだからな」
 からかったつもりだったが、六太の目は穏やかで、それでいてひどく真摯だ
った。
「悪いけど言えない」さざ波ひとつない水面を思わせる静かな声。「これはお
まえだけじゃない、誰にも言えないことだし、実際、誰にも言ったことはない
から。そもそも片思いだし」
「餓鬼が、もったいぶりやがって」
「そのとおり。大の大人がこんないたいけな子供をいじめるものじゃない」
 六太がやっといつものようににやりと笑ったので、なぜか鳴賢はほっとした。

12贈る想い(6):2007/10/22(月) 19:42:26
「どこがいたいけだ。言っとくが、おまえは子供じゃないぞ」
「今さっき、俺を餓鬼だって言ったくせに」
「ああ、餓鬼だ。餓鬼のふりをしている、こまっしゃくれた餓鬼だ」椅子の上
で、六太のほうに身を乗り出す。「なあ、片思いって言ったよな。もしかして
相手の娘に言ってもいないのか? 言ってみれば案外、向こうもおまえに気が
あるかもしれないぞ?」
「それはありえない」
「へえ? 言い切ったな。もしかしてあれか? 同じ年頃ってわけじゃなく、
近所の姉さんとかか? まさか人妻ってことはないよな? おまえくらいの年
だと、年上の綺麗な女性に妙に惹かれることはあるが……」
「言わない」
「頑固だな」
「俺が死ぬ直前なら、教えてやってもいい」
 不意にほほえんで答えた六太があまりにもはかなく、そして遠く見えたので、
告げられた言葉の重さと併せて鳴賢はぎょっとなった。
「もしそのときおまえが生きていたら教えてやるよ。それで我慢しろ」
 まるで日々、生死を見つめているかのような物言いだった。からかわれてい
るわけではないのは明らかだったので、鳴賢は動揺した。まさか余命いくばく
もないというわけでもあるまいに。
「おまえ……。そのう、何か悪い病気にかかっているってわけじゃないよな」
「ああ。ぴんぴんしてる。普通に考えれば長生きするだろうな。実際にはどう
だか知らないけど」
「ふうん……」
 鳴賢は何とか相づちを打ったが、相手の突き放したような言い方に妙に心が
騒いだ。思春期にはやたらと自分の死について考える時期もあるが、六太の年
頃はまだちょっと早い。それとも以前、身内に不幸でもあったのだろうか。
「そのう――ずっと相手を思い続ける自信があるってことか。まあ、餓鬼の頃
は、そのときの自分の気持ちが一生続くような錯覚をするもんだからな……」
「うん、だからそう思ってろよ」
 六太は諦めたような優しい微笑を浮かべて鳴賢を見た。まるで聞き分けのな
い幼子に対し、あなたにはまだわからないことなのよ、と母親がほほえんでい
るような、やわらかい表情と声音だった。

13贈る想い(7):2007/10/22(月) 19:46:04
 はるか年上の相手に対するとは思えない言いように、鳴賢は「おまえさあ」
と呆れ顔で言いかけた。しかしすぐに「いや、いい」と手を振って口をつぐん
だ。確かに相手は自分の半分以下の年齢だったが、今までそんな年齢差を考え
ずに対等に話していたことに気づいたからだ。それを言えば楽俊の房間で出会
った当初はともかく、もはや日頃から特に年齢差を意識せずに話すようになっ
てしまっていたから、今さらとも言える。
 そもそも六太は子供らしくないのだ。いや、故意に子供っぽく振る舞うとき
もあるが、何しろ語彙と言い知識と言い、大学の悪友たち顔負けなので、普段
は年齢などまったく意識しないで話せてしまう。場合によっては六太のほうが
ずっと年上であるかのような錯覚を起こすくらいだ。そういえば外見に似合わ
ず、この少年は非常に達筆でもあった……。
 六太は淡々として続けた。
「おまえを信頼して言った。だからこのことは誰にも漏らすなよ。楽俊にもだ」
「このことって……。おまえに好きな娘がいるってことか? たったそれだけ
の話なのに?」
「それだけのことでも、今まで誰にも言ったことはないんだ」
「へえ……。そりゃ、六太の頼みなら言わないけど」
「ああ。何があっても、誰にも言わないでくれ。たとえ相手が天帝でも」
「天帝か。大きく出たな。もし言ったらどうする?」
「どうもしない。俺が壊れるだけだ」
「壊れるって……」あっさりと答えた六太に、鳴賢は言葉を失った。
「まあ、そうなっても気にするな。そのときはそのときだ。別に鳴賢を恨んだ
りはしない」
「おまえ……」鳴賢の背筋がぞくりとなった。穏やかな声音とは裏腹に、六太
の恐いほど真剣な心持ちが伝わったからだ。子供の戯れ言と笑い飛ばすには、
あまりにも重たい手触りだった。「言わない」必死に声を押しだす。「絶対に、
誰にも言わない」
「うん。ありがとな」
 六太はほのかに笑った。まるですべてを諦めているかのような……。焦った
鳴賢は必死に考えを巡らせた。

14贈る想い(8/E):2007/10/22(月) 19:49:17
 表沙汰になれば相手に迷惑がかかるというたぐいの話ではなかったため、人
妻やはるかに年上の女性といった、倫理的に問題のある相手に恋しているので
はないだろうか、と考える。もしかしたらこのませた子供は、妓女にでも想い
を寄せているのかもしれない。それなら相手は六太のような子供など歯牙にも
かけないだろうし、知られて恥ずかしい思いをするのは六太のほうだけだ。
 ただ、そこまで真剣な想いをいだいている六太の心情を汲み、せめてその恋
が良い思い出になればいいと鳴賢は願った。もっと成長して相応の相手に出会
ったとき、新しい恋が古い傷を癒すはずだから。六太はまだ幼いから、ある意
味で一途なだけだろう。
 ――そう、いずれ恋は終わるのだ。そして自分の恋も終わったのだ。
「つまんない話をした。そろそろ帰る。まあ、元気出せよな」六太はそう言っ
て立ち上がると、通りすがりざまに、座っている鳴賢の肩を軽くぽんぽんと叩
いた。「玉麗はおまえが幸せになることを望んでいたんだろうから」
 言葉もなく見送る鳴賢を残して、六太は房間から出ていった。楽俊のところ
に戻るのだろう。
 今度こそ誰もいなくなった房間で、やがて鳴賢は「手紙くらい、一度でも書
いてやれば良かったな……」とつぶやいた。相手をつなぎとめるためではなく。
結果は同じだったかもしれないが、少なくともいくらかは寂しさを紛らわせて
やれたかもしれないから。
 自分が本当に玉麗を想っていたかといえば、そうではなかったかもしれない、
と今にして思う。黙って結婚した話を伝え聞いたときは衝撃を受けたが、大学
にいて彼女が気になるというほどではなかったし、允許の問題を除けば、大学
生活を謳歌していたと言っていい。少なくとも賑やかな関弓での生活は楽しか
った。おそらく玉麗ほどには寂しくなかったのは確かだ。
 ――そう。きっと自分はそこまで彼女を想ってはいなかったのだ。
 もしかして黙って結婚したことで、妙な罪悪感を抱いているということはな
いだろうか。それで自分に会うことになるのが後ろめたく、新年だというのに
親元にも帰ってこられなかったということは。
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。もはや鳴賢にそれを知る手だ
てはない。でももしそうだとしたら、もういいんだ、と言ってやりたいと彼は
初めて思った。
 玉麗はきっと、自分の幸せを願ってくれただろう。昔からそういう娘だった。
控えめで優しくて、常に他人を気遣っていて。
 だから今度は自分が願おう。どうか幸せになってくれ、と。

15幕間(1):2007/12/02(日) 00:06:47
「後朝」と「続・後朝」の間の尚隆の様子です。
-----


 重要な書類のすべてに目を通して差し戻すべきは差し戻すと、認可を下すぶ
んの書類に署名をし、玉璽を押印する。決裁できる書類は既に幾度も官の吟味
を経て練り込まれ、あるいはいったん差し戻されてのち内容をあらためて奏上
されたものばかりだから、ここまでくればほとんど流れ作業となり造作もない。
おまけにしばらく王宮を抜け出すこともなかったとあって書類もたまっておら
ず、尚隆は午後の早いうちに面倒な作業から解放された。
 冢宰の白沢が、決裁済みの書類を所轄の官府に渡すべく指示を与える。その
様子を眺めながら尚隆はふと、今朝、腕の中の六太が、目覚めるなりおびえた
表情を見せたことを思い出していた。まるで――そう、まるで夢が覚めるのを
恐れるような。あるいは今にも尚隆が「実は冗談だった。からかってすまなか
ったな」とでも言い出すとでも思っているかのような。
 昨夜、想いを告げたときに見せた妙な恐慌と言い、五百年も連れ添ったとい
うのに、あそこまで動揺している六太を見るのは初めてだった。幼い外見に似
合わず、普段はふてぶてしいほど落ち着いている彼が、今朝はまともに尚隆を
見ようとしない。それどころか近づこうともしない。無理に顔を上げさせよう
とすれば、耳まで赤くして金色のまつげにふちどられた目を伏せる。
 むろん恥ずかしがっているのだろうが、その暁色の瞳に時折よぎるおびえの
表情を思い出すたび、尚隆は妙に切ない気分になるのだった。それほど不安な
のか、と。
 だいたい六太はいつも何かと考えすぎるのだ。それにもはや彼らは愛人同士。
好きなら好きで相手に甘えればいいし、人目を気にする必要もない。何と言っ
ても五百年の長きに渡って大国雁を支えた王と麒麟ではないか。それだけの確
固たる実績を築いた彼らに、国政を疎かにしないかぎり禁忌のあろうはずはな
い。

16幕間(2):2007/12/02(日) 00:08:55
 先ほど人払いしたときに六太に仕掛けた戯れを思いだした尚隆は、書卓に頬
杖をついて窓の外を眺めた。さすがの六太も理性が飛んでしまえば快楽に身を
委ねるということか。今夜はどんなふうに抱いてやろうかと考え、自然と好色
な笑みが口元に浮かぶ。むろんまだ無理をさせるわけにはいかないだろうが、
それでも……。
「主上?」
 白沢の怪訝そうな声が耳に届いたが、尚隆は頬杖をついたまま目も向けなか
った。透明な玻璃を通して窓の外を眺めていた彼は、やがて「宰輔の御座所を、
仁重殿から正式に正寝に移す」言った。白沢は一瞬だけ黙り込んだものの、す
ぐに何ら動揺の窺えない声でおっとりと尋ねた。
「正寝とおっしゃいますと……。もし長楽殿の近くということでございますれ
ば、太和殿か玉華殿となりますが。台輔のご身分ですと、規模を考えれば他の
建物というわけにはまいりませんでしょう」
「そうだな、玉華殿でいいだろう。どうせ普段は今のまま長楽殿で寝起きする
のだ。しかし万が一、俺が怪我でもすれば、血の穢れの苦手な六太は近づけん
わけだからな。御座所としては、形式だけでも長楽殿とは異なる建物を用意す
る必要がある」
「仁重殿はどうなさいますか?」
「広徳殿と同じく、靖州府の一部として扱えばよかろう。その辺は任せる」
「すぐに検討を始めますが、そうなりますと侍官や女官の異動も正式に必要と
なりますな。書類の準備に、二、三日、お時間をいただいてもよろしゅうござ
いますか」
「ああ、別にかまわん。どうせ俺と六太の生活は変わらんからな」
「ではすぐさま太宰に諮って詳細を煮詰めることにいたします。警護の問題も
ありますから、とりあえず大司馬には今日のうちに簡単な話を通しておきまし
ょう」

17幕間(3/E):2007/12/02(日) 00:19:39
「任せる」尚隆はそう言ってから、思いだしたように言葉をつなげた。「――
ああ、長楽殿と玉華殿の周囲の園林も整えさせろ。あの辺は仁重殿と違って大
きな花木が少ないから、今のままでは華やぎがなくて六太がつまらんだろう。
どの季節でもいろいろな花を見られたほうがいい。それも桃とか梅とか、あり
ふれたものがよかろうな。気取ったものはいらん」
「かしこまりまして」
「もっともさすがに冬に花は無理だろうが……。そうだな、長楽殿のそばに小
さな温室を作らせるか」
「温室……でございますか?」
「ああ、以前戴で見た。玻璃で作った建物の中で草木を育てるから、戴の厳し
い冬でも花が咲くのだ。慶の玻璃宮も似たようなものだが、あれほど豪勢なも
のになると逆に六太の好みではないだろう。それから後宮の梅林にあるような
小川と池も周囲に作ってくれ。そこに魚でも放して泳がせれば六太が喜ぶだろ
う。この季節は水遊びもできるしな」
「なかなか大がかりでございますな」
 さすがに呆れたのかと思って、ようやく尚隆が白沢の顔を見やると、白沢は
穏やかな微笑を浮かべていた。尚隆も笑って返す。
「なに、これまでほとんど手を入れてこなかったのだ、園丁たちも張り合いが
出よう」
「ではさっそく」
 白沢は丁寧に頭を下げると、こちらは状況がよくわからずに目を白黒させて
いた何人かの官を引き連れて、執務室を出ていった。そして一息いれるべく女
官に茶の用意をさせた尚隆は顎に手をやって、はてさて何か六太がほしがって
いる物があったかどうか、あれこれと記憶を探りはじめた。

18続・たゆたう岸辺(1/4):2008/01/20(日) 01:52:49
「たゆたう岸辺」の直後の話。
書き逃げスレ305に書いた台詞の話がこれです。牀榻編ですが、エロはありません。

王后ネタで投下したいとおっしゃってくださったかたがいらしたので控えていたのですが、
あれから半年経ったことでもあるし、そろそろいいかな、と。
(もしこれから投下する予定だったらすみません)
-----


 その夜、六太はわざと遅くに王の臥室に戻った。主と同じ臥牀を使うように
なってからしばらく経つ。燭台のひそやかな灯りがだけが揺れる中、被衫姿の
六太は、精緻な透かし彫りの折り戸が半分ほど閉じられた牀榻の帳の奥の気配
を窺った。
「お休みのようです」
 六太の影に潜んでいる沃飛が、やっと聞こえる程度の小さな声で答えた。六
太は足音を殺して牀榻に入りこむと、静かに折り戸を閉めた。奥で寝ている主
を起こさぬように注意して衾の手前を持ち上げ、そっと中に潜り込む。
 だが枕に頭をつけるや否や、強い力で手首をつかまれて奥に引っ張られ、狸
寝入りをしていた尚隆に乱暴に組み敷かれていた。呆気にとられて主を見上げ
る。
「二度とくだらぬことを言わぬように、仕置きをしてやろう」
 暗がりの中で主の顔はよく見えないが、意地悪な笑いが彩っているのは六太
にもわかった。
「何のことだよ?」
「后妃を娶っていいだと? そうしてまたおまえは誰もいない場所で泣くのか」
「尚隆……」六太は茫然とつぶやいた。
「おまえは何もわかっておらぬ」
 押し殺したような声。六太はむっとして答えた。
「ああ、わからない。言葉に出してくれないと、誰にも何もわからない。俺を
大事だと言ってくれないと、俺にはわからない」
 乱暴な物言いのようでも、昔と違って尚隆に返す言葉の扱いを決定的に間違
えることはない。それだけの長い歳月をこの主と過ごしてきたのだ。

19続・たゆたう岸辺(2/4):2008/01/20(日) 01:55:07
 尚隆は黙り込んだ。六太がそのままじっとしていると、やがてかすかな吐息
が聞こえて、主を包んでいた張りつめた気配が消えた。手首を痛いほどつかん
でいた手が離れ、片方の掌がそっと六太の頬に添えられる。
「……おまえが大事だ」
「うん……」
 優しく自分を覗きこむ顔を見つめる。六太は頬をなでる尚隆の温かい掌の感
触にぞくぞくするほどの歓喜を覚えたが、その反応の大半を反射的に押さえ込
んだ。これはもう習い性のようなものだ。何しろ想いを秘めていた時間が長す
ぎた。
 そんな彼の心中を知らぬげに、尚隆が諦めたように笑った。
「后妃を娶れ、か。寵姫に見捨てられるとは、俺も長くはないかな」
「誰が寵姫だ。俺は男だって言ってんだろ」
「何なら王后の称号をやろうか」
「阿呆。俺を十二国中の笑い者にする気か」
「なに、ふたり一緒に笑い者になれば良かろう」
「おまえなー……」
 六太は呆れて溜息をついた。しかしこんな冗談を言うくらいだ、とりあえず
はもう心配することもないのかもしれない。
 もっとも別の意味で油断は禁物。冗談だと思って放っておくと、この王は本
当に莫迦な勅命を出すことがあるからだ。おまけにその騒動から六太が無縁で
いられることはほとんど期待できない。
 六太は「この莫迦王」とつぶやいたが、そのままのしかかってくる尚隆に素
直に身をゆだね、深い接吻に応えつつ彼の首に腕を回した。そうしてとっくに
馴染んだ愛撫に溺れながら、いつものように頭の片隅で、泣きそうなほど深い
想いを自覚する。
 本当は后妃なんか娶ってほしくない。いつまでも自分だけを見ていてほしい。
でも。
 この尚隆の情熱が恐い。とことんまで彼を恋うる自分の弱さが恐い。そんな
自分がいつか尚隆の重荷になってしまうのではと考えてしまうことが恐い。
 尚隆と結ばれて以来、六太はいつか訪れるだろう破局を恐れずにはいられな
い。あまりにも深く激しい想いゆえに。

「大したことではないのだ」

20続・たゆたう岸辺(3/4):2008/01/20(日) 01:57:44
 仰向けになって牀榻の天井を眺めていた尚隆が、不意に低くつぶやいた。彼
の片腕に抱かれて寄り添い、頭をその広い胸に押しつけていた六太はわずかに
顔を上げ、尚隆の愁いを含んだ横顔を見やった。
「貞州の沿岸でな――」
 尚隆は上を向いたまま淡々と語った。青海沿いの里で漁師たちの手伝いをし
て漁に出たのだという。そうして彼らとともに数日を過ごして王宮に戻り、雲
海の波を見ていたら急に、いったいここで何をしているのだろうと自分がわか
らなくなった。故国と同じようにここにも波は打ち寄せるのに、何だかずいぶ
んと遠くに来てしまった、と。
 ――そういうことか。
 六太は目を伏せると、苦い思いを飲み込んでほのかに笑った。
「おまえは向こうで育ったんだから、ふとした拍子に思い出すのは当然だ。蓬
莱じゃ、三つ子の魂百までって言うくらいだろ。四つまでしかいなかった俺だ
って、いまだに向こうのことは忘れられない。両親のことも兄弟のことも、い
つだって俺の根っこにある。それに人間ってのは意外と、ちょっとしたことで
もすごく落ちこむもんだ。逆にちょっとしたことでめちゃくちゃ慰められたり
もする。おまえが惑っても不思議はない」
「そうだな……」
「とりあえず進歩だ」尚隆の顔を直視して、わざと明るく言う。
「うん?」
「以前のおまえなら、俺にだって何も話さなかった」
 尚隆はちらりと目だけを六太にやり、口の端に苦笑を浮かべた。
「その頃は別におまえは恋人ではなかったろうが」
「そりゃそうだ」
 六太も笑いを含んだ声で同意してから、すぐに「今は?」とからかうように
問うた。
 尚隆はやれやれといった態で体を傾けて向き直るなり、「俺の大事な伴侶だ」
と答えた。六太はにやりとして、彼の裸の胸に人差し指を突きつけた。
「王后の称号なんて俺に下すなよ。そんなことをしたらおまえを捨ててやる。
捨てられたくなかったら、俺と同衾するだけで我慢しとけ」
 尚隆は大仰に溜息をついて言った。
「つくづく思うのだが」
「何?」
「俺は恐妻家かも知れん。どうもおまえには頭があがらぬようだ」

21続・たゆたう岸辺(4/E):2008/01/20(日) 01:59:48
「へえ、それで? 何でも好き勝手やってるくせに?」
 上体を軽く起こして六太の顔を覗きこんだ尚隆は、困ったような微笑を浮か
べた。
「好き勝手やっているように見えるか?」
「見える」
「錯覚だ」
 そう言うと尚隆はふたたび六太の体を抱き寄せた。六太はわざと唇を尖らせ
て「そろそろ寝ろよ」と言ったが、抵抗はしなかった。

 尚隆が寝入ったのを見計らって、六太はそろりと体を起こした。傍らの主の
寝顔をそっと見つめる。声は出さない。先刻のように、眠っているように見え
てその実起きていることもあるから、こいつは油断がならないのだ。だから心
中で独白するに留める。
 后妃云々に対する尚隆の過剰な反応は、理無い仲になってからあまり経って
いないためもあろう。よく行為の最中に、何やら核心を突いた言葉を自分から
引き出そうともするが、そのときに自分が何を言っているのか、ほとんど覚え
てはいない。嘘をつく余裕も考える余裕もないから、きっと正直な心情を吐露
してしまっているとは思うけれど――とはいえ悦楽のさなかに発する言葉など、
その場の勢いのようなものだ。あまり深刻に受け取めても仕方がないとわかっ
ているだろうに、こいつは何を考えているのやら。
 六太は吐息を漏らして、衾ごと自分の膝をかかえた。そのまま頭を膝に押し
つけ、しばらく夜の静寂に身をゆだねる。
 いつまでもこの仲が続くとは限らない。というより寿命のない神仙において、
恋愛関係が長持ちすると楽観するほうがどうかしている、そう現実的に考える。
だから覚悟だけはしておく。誰のためでもなく、尚隆のために。決めるのは自
分ではなく尚隆だから。
 既に想いを遂げたというのに、なんて贅沢な物思いなのだろう。昼間、尚隆
を惑わせた潮騒が、六太にもひそやかに押し寄せる。幻の波の音に包まれて、
自分はいったいどこへ行くのだろうとぼんやり考える。
 ――あさましい。
 いつかの呪者の嘲りが、六太の脳裏を離れることは永遠にないだろう。民の
安寧を願うべき麒麟が、それこそが存在意義である麒麟が、第一にみずからの
幸福を願うなんて。永遠に王に愛されることを願うなんて。
 朝は、まだまだ遠い。

22永遠の行方:前書き:2008/01/26(土) 14:19:51
雁主従の想いが通じあうまでを描くシリアス長編です。
ある程度きりの良いところまで書き上げたら、
それごとにたまに投下させていただきます。

[時系列]
 ・贈る想い
 ★永遠の行方(時期的には「後朝」〜「続・後朝」も含む)
 ・後朝
 ・幕間
 ・続・後朝
 ・腐的酒場
 ・腐的酒場2
 ・たゆたう岸辺
 ・続・たゆたう岸辺
 ・体の相性

なるべくオリキャラを出さず、名無しのモブキャラで構わないところは
代名詞や役職名などでぼかしていくつもりです。
それでも長編とあって、全編をそれで乗り切るのは無理なので、
名前のあるオリキャラがけっこう出ばってくることになるかと思います。

それからこの話では、雁の三官吏は、とっくに三官吏ではなくなっています。
そのため三官吏好きには、ちょっとした表現でも抵抗があるかもしれません。
これまたはっきりとは書かず、ぼかすつもりではいるのですが、
人によってはそこから連想してしまうだけできついと思われるため、
ご覧いただける場合は充分にご注意ください。

23永遠の行方「序(1/10)」:2008/01/26(土) 14:25:16
ああ、間違ってageてしまった……すみませんorz
---

 彼は待っていた。決して来るはずのない者を。
 この郷に潜んで、はや八日。女を買うことも博打を打つこともなく、宿を点
々としながら、ただひそやかに逗留している。
 そんなふうに身を潜めていても、首都である関弓でならばとうに居所が知れ、
しびれを切らせた官たちが迎えを差し向ける頃合いだろう。しかしここは関弓
からは遠い。普段の彼が好むような、華やかな歓楽街もない。彼を捜そうとす
る官たちが捜索網から簡単に除外するようなありふれた町のひとつでしかなく、
彼を見つけるにはよほどの強運と機転が必要だろう――彼の第一の臣以外には。
 本当に火急の用件があるとき、官たちは第一の臣に頼みこんで彼を捜させる。
そうして彼は、臣の「毎度毎度、面倒をかけやがって」というぼやきとともに
宮城に戻ることとなる。
 「毎度毎度」というが、実際には長い治世の間にほんの数度のことでしかな
かった。それでも臣はぶつぶつと文句を言うのだ、「この昏君」だの「馬鹿殿」
だのという修飾をつけて。呆れ果てたように。今はもう、聞けなくなった懐か
しい声で。

 騎獣に乗った尚隆が禁門に降り立ったとき、官たちは十日に及ぶ不在に何も
言及せず、うやうやしく出迎えただけだった。
 最前にいた朱衡が、拱手して「お帰りなさいませ」と応ずる。尚隆は彼にち
らりと目を向けたのみで、足早に宮城内に入った。いつも通りの、何も変わら
ない情景。
 何の躊躇も見せずに正面を見据えて歩きながら、尚隆は低く「六太は」とだ
け問うた。彼の斜め後ろに従っていた朱衡が「お変わりございません」と答え
る。あるかなしかの空白ののち、尚隆は乾いた声で「そうか」と返した。その
空白の意味を汲みとれる者は、ここでは朱衡だけだったろう。
「主上に決裁を仰ぐ書類がたまっていると冢宰が。それから台輔のことで謁見
を求めている者が数名おります」
 事務的に淡々と報告する朱衡に、尚隆は短く「わかった」と答えた。
 着替えのため正寝に戻る前に、尚隆はひとり仁重殿に向かった。十日ぶりに
王を目にした仁重殿の女官たちだったが、いつものように静かに主君を迎えた。
尚隆が宰輔の臥室に向かうと、既に心得ている彼女たちは潮が引くように御前
から下がり、すぐに臥室には誰もいなくなった。

24永遠の行方「序(2/10)」:2008/01/26(土) 14:30:22
 目の前の牀榻の扉は広く開けはなたれ、帳は巻き上げられて、臥牀の様子が
よく見える。その奥に六太の小柄な体が横たわっていた。それはこの一年、ま
ったく変わらない光景だった。
 時折、ぼんやりと目を開きはするが、焦点は結ばず何も見てはいない。放心
しているだけとも思えるが、実際のところ六太の意識はなかった。肉体はここ
にあるのに、心が空っぽの状態。人形と何も変わらない。
 呪者が死に、蓬山からも芳しい返答がない以上、六太にかけられたこの呪が
解ける見込みはなかった。一年の間、玄英宮は手を尽くしてきたが、もはや万
策は尽きたと言える。
 だが、これこそが六太の意思なのだ。王の身代わりとなって呪を受け、死ぬ
まで眠り続けることが。
 天地の気脈から力を得る麒麟は、このような姿になっても生命に別状はない。
だから災いは尚隆には及ばない。それを確認した上で、六太はみずから呪を受
け入れた。呪者の術中に陥った尚隆を助けるため、その身代わりとして自分自
身を差し出したのだ。
 意識もなく横たわる六太を見つめる尚隆の目には、悲しみでも苦しみでもな
く憤りが宿っていた。うかうかと敵の術中にはまったおのれへの。そしてみず
からを贄として差し出した六太への。
「……阿呆めが」
 幾度つぶやいたか知れぬ言葉を、今度も無意識のうちに口にのぼせる。
 六太としては仕方のない選択だったのかもしれない。しかしそれはある意味
では、術中の尚隆を看過すること以上に、彼を見捨てることだった。
「長い生を、ひとりで生きろと抜かすか……」
 怒りに震えた低い声は、他に聞く者もなく、ただ房室の壁に吸い込まれて消
えていった。

 宰輔の実質的な不在は、それ自体は確かに大事件であったが、国家の安泰の
前には些末なことにすぎなかった。

25永遠の行方「序(3/10)」:2008/01/26(土) 14:36:08
 呪をかけられた六太が意識不明のまま国府に運びこまれたのが一年前。当初
こそ官の間に激しい動揺が見られたものの、六太の生命に別状がなく、従って
王にも王朝にも本質的な害を及ぼさないとわかると、彼らは一様に安堵した。
何しろ王も宰輔も呪に囚われ、すわ王朝の瓦解かと激震が走った直後だったの
だ。六太が意識不明に陥ると同時に尚隆の呪が解け、この事態が王の身にまっ
たく害をなさないとわかった以上、官が思わず胸をなでおろしたのは無理から
ぬことだったと朱衡も考えていた。
「確かに台輔はお気の毒だが、主上のため、ひいては国家のために台輔ご自身
が主上のお身代わりになると決意されたとのこと。われらとしては、そのお気
持ちにただ感謝を捧げるしかあるまい」
「国の安寧こそ台輔の最大の願いであられるはずだからな。ここは台輔のご厚
情に甘えても良いだろう」
 かなりの官が密かにそんなささやきをかわし、王朝にも、従って自身の身分
や生活にも支障がないことに安堵した。
 今回の一連の事件については玄英宮に箝口令が敷かれ、決して雲海の下に漏
れることのないよう細心の注意が払われていたこともあり、宮城内においてさ
え、表立って宰輔のことを口にすることは憚られた。噂をする者もなく、あえ
て話をそらして仁重殿のほうを見ないように過ごせば、だんだんそれが当たり
前になってくる。また一般の官に漏れ聞こえてくる王や側近の様子も以前と変
わりなく思えたため、それで安心してしまったということもあるだろう。
 それどころか朱衡の耳には、呪者も死んで回復の見込みがない以上、王は宰
輔を捨て置きたいのだが、外聞を考えてなかなかそれができずに困っているの
だというまことしやかな噂さえ聞こえていた。今は数日に一度程度、仁重殿に
見舞いに赴いている王だが、いずれ時期を見て取りやめるつもりだろうとも。
実際、当初は毎日のように宰輔を見舞っていた王なのだから、そのように受け
とめられても仕方がない面はあった。
 もともと雁の王と麒麟は、むろんこれだけの大王朝である以上、決して仲が
悪いはずもないが、かと言って私的な意味で仲が良いと思われていたわけでも
ない。むしろどちらも出奔好きで、ひとりで好き勝手に姿をくらますことが多
かったせいで、つかず離れず、それぞれがわが道を往く独立独歩の主従だと受
けとめられていた。そのため王には第一の臣下に対する通り一遍の感情しかな
く、それも使令さえ封じられて木偶同然となった今、ただそこにいて王の生命
を担保しているだけの存在でしかないと思われたのだ。

26永遠の行方「序(4/10)」:2008/01/26(土) 14:44:35
 下官ならまだしも、王と直に接する機会のある高官にもそう考える者が少な
くなかったから、真に王や宰輔と近しい側近たちは、怒りよりも脱力感に囚わ
れた。
 もともと延王は、くだけているようでいても実際は内心を容易く臣下に見せ
るたちではない。だからこそ事件の前後も様子が変わったようには思われず、
そのことが官たちに安心感をもたらした面はあるのだが、逆に宰輔を見捨てる
つもりなのだという噂にも一定の信憑性を与えたのだった。
 しかし日常的に王と身近に接する側近たちは、一般の官が安堵してすっかり
落ち着いてしまった今になって、むしろ焦燥に駆られることが多くなった。王
の人となりをよくわかっている彼らの目には、最近の王がどう見ても尋常では
ないように映ったからだ。
 誰の目にもわかるほどの明らかな変化ではなかった。しかし放心したように
座りこんでいたり、玻璃の窓の傍らに立ち、静かに遠くを眺めていることが多
くなった。何よりも自然な笑みを浮かべることがなくなり、めっきり口数が減
った。
 それだけに事件以来、短時間の外出以外は珍しく王宮に留まっていた王が初
めて行方をくらませたとわかったときは、冢宰の白沢以下、六官の長が雁首を
揃えてどうすべきかを内密で協議した。とはいえ結局、彼らにできることは何
もない。精力的に執務を行なって国家の安泰を保つことで影ながら王を助け、
これ以上主君の心にさざなみが立たないよう、気を配るのがせいぜいだった。
そのため、いつも通り王の還御を待つこと、ただし火急の用件がある場合には
鸞を飛ばすことを申し合わせただけで終わった。
 王と直接、声の親書をやりとりできる貴重な鸞は、むろん臣下が勝手に使っ
て良いものではない。しかし王が不意に姿を消すことの多い雁では、昔から時
折使われてきた。鸞は名宛人がどこにいても一直線に飛んでいく生き物だから、
行き先も告げずにふらふらと出歩く主君を持った彼らには、同時に宰輔も姿を
くらませていたりして当てにできないときは最後の手段になりうるのだった。
 それに王の心中がどうあれ、帰る場所はここしかないのだということもわか
っていた。

27永遠の行方「序(5/10)」:2008/01/26(土) 14:51:06
 王が姿を消して七日を過ぎる頃になると、朱衡はそろそろ戻ってくる頃合い
だと感じた。そして翌日から日に何度か、さりげなく禁門の様子を見に行くよ
うになった。だからそれから二日後に、何の連絡もなしに戻ってきた王を彼が
出迎えられたのは、決して偶然というわけではない。
 厳しい表情で足早に歩く王のあとに従いながら、朱衡は最低限伝えねばなら
ない事項のみを簡潔に奏上した。冢宰を始め六官の長を歴任してきたとはいえ
現在は秋官長にすぎない彼が、まるで冢宰のような振る舞いではある。しかし
この程度のごく簡単な奏上なら、むしろ数日ぶりに主君を迎えた側近として当
然の務めと言えるだろう。
 やがて衣服を整えた尚隆が、謁見を求めていた地官府の高官を引見したとき、
その場にいた白沢にも朱衡にも、一見しただけでは王の様子に変わりがないよ
うに思えた。尚隆が妙に静かな雰囲気さえまとっていなければ、彼らも特には
何も思わなかっただろう。
 しかしいつもの主君に不似合いな空気は、側近らの心に警戒心を呼び起こし
た。非常事態が続いていると言える今、できれば官からの雑音を主君の耳に入
れたくはなかったのだが、何しろ今回は小司徒以下、地官府の相応に有能な高
官たちが正式に謁見を求めていた。王自身が会うことを拒んだのならまだしも、
宮廷内の秩序を保つ意味でも、冢宰らの一存で簡単に握りつぶすわけにはいか
ない。
 普段なら王は「面倒だ」と言って、すぐ面を上げさせるのだが、今日は叩頭
した地官たちに何ら声をかけず、冢宰を通じて謁見の趣旨を述べるよう指示を
出すに留めた。小司徒たちは叩頭したまま、くぐもった声で奏上した。
「おそれながら、主上はもう充分に手をお尽くしなされました」
 開口一番、小司徒はそう言った。朱衡は思わず凍りついたが、玉座を見やっ
た限りでは、王は何の反応も見せなかった。

28永遠の行方「序(6/10)」:2008/01/26(土) 14:53:20
「こたびの台輔のご不幸、主上のお苦しみは臣めも重々承知してございます。
しかしながら台輔のお命さえご無事なら、王朝には大事ございません。何より
ここまで手をお尽くしなされたのですから、たとえ蓬山の尊き方々といえど、
主上をお責めになることなどできますまい。いえ、むしろこうなっては台輔の
ことは早々に諦めたほうがよろしいでしょう。国家のことを思えば、お目覚め
になる見込みのない台輔に、いつまでも主上がお心を砕いていてはなりません。
このようなことを申しあげる臣の不忠を、どうぞお咎めあそばして、首を切る
なり何なりお好きになされませ。しかしながら主上のため、ひいては国家のた
めにご自身を犠牲にされた台輔のお心を今一度お汲みあそばして、ここは心を
鬼にして、台輔はお捨て置きください。それこそが主上の王としての責務にご
ざいます」
 正論ではあった。国家のために苦渋の決断をし、自身の生命を顧みずに王に
諫言する忠臣の姿がそこにあった。小司徒たちに最近、汚職の疑いがかかって
いること、そして影で「王は宰輔を見捨てたいのだが、外聞が悪くてそれがで
きずにいる。適当な口実が必要だ」と言っていたことを朱衡が知らなければ、
この諫言には一理も二理もあると考えただろう。
 小司徒たちは、これで王におもねったつもりなのだった。おそらくこの諫言
を、宰輔を見捨てるための口実として王が飛びつくと思っているのだ。むろん
王が彼らに罰を与えるとは考えていないに違いない。
 玉座の上の尚隆は、相変わらず静かに座していた。もしや憤るのではと思っ
た朱衡だったが、むしろ逆に気力を萎えさせてしまったように見えた。
 しばらく不自然に沈黙していた王は、やがて大きく息を吐くと、力のない声
で「さがってくれ」と言った。叩頭したままの小司徒たちは、覇気のない王の
声調子に何を思ったのか逆に勢いづいた。
「蓬山でさえ手の施しようがないとのご回答なのですから、主上がお気に病ま
れる必要はございません。また台輔のお命に別状がない以上、王国の安泰は変
わらず。どうぞお心を安んじられて、国家のためにお尽くしくださいますよう。
それが台輔の最大の願いでもあらせられると存じますゆえ」
 最大の願い。それこそが鍵であることを知っていた朱衡らは、何も知らずに
不用意にその言葉を持ちだした小司徒に、今度こそ慄然となった。

29永遠の行方「序(7/10)」:2008/01/26(土) 15:00:04
 とはいえ王はまったく顔色を変えなかった。それどころか、やがて気力を取
り戻したようににこやかな声で言った。
「おまえたちの言い分はわかった。考慮しておこう。ご苦労だった」
 それを聞いた小司徒たちは「ははーっ」といっそう床に額をこすりつけた。
内心で「やった」と思っているだろうことが朱衡には容易にわかり、反吐が出
そうだった。王の苦しみを察しながらも真に国家を憂えて、断腸の思いで同種
の諫言をなそうかと思い悩んでいる官もいることを知っているからなおさらだ。
 王は鋭く目を細めて、壇上の玉座から彼らを睨みつけている。その有様に朱
衡は背筋が寒くなったほどだが、叩頭している地官たちは気づかない。
「すまないが、政務があるのでこれで失礼する」
 そう言ってさっさと退出した王のあとを、白沢と朱衡があわてて追う。その
彼らを振り返ることなく、尚隆は静かに、だが鋭利な刃物のような趣で冷たく
「あやつらを城から放り出せ。二度と俺の前に出すな」と命じた。
「それは」
 驚いた朱衡は反射的に言葉を返したが、それ以上は言えなかった。白沢に目
で制され、執務のため内殿に向かう王を黙って見送る。
 普段の王なら、自分の感情と官の任命や罷免の問題を完全に切り離す。少な
くとも冢宰や六官の長の任命はそれとして、それより下位の官については実績
のある長たちに任せてきた。しかし今の王には、それだけの精神的余裕がなく
なってしまったとしか思えない。余裕がないならまだましなほうで、万が一に
でも国の先行きを気にしなくなってしまったのであれば、遅かれ早かれ王朝自
体が傾いてしまう。
「確か小司徒には汚職の疑いがあるという話でしたな。その件はどうなりまし
たか?」
 内密に話を詰めるために引きこもった房室で小卓を挟み、白沢が朱衡に尋ね
た。朱衡はうなずいた。
「内偵を進めた結果、証拠固めはほぼ終わりました。それで視察に出ておいで
の大司徒が関弓に戻られ次第、処遇を諮る予定でした」
「なるほど。ではそれを根拠に、自然な形での罷免は可能ですな」
「しかし先ほどの謁見があった以上、今すぐというわけにはまいりませんよ。
あの諫言が原因だと考えて王を逆恨みしかねないのはもちろん、正論を述べた
忠義の官を私情で切る王に悪評がついてしまいます。いくらこれまで主上が好
き勝手やってこられたかただとはいえ、今回の件とは性質がまったく違います」

30永遠の行方「序(8/10)」:2008/01/26(土) 15:04:12
 白沢もうなずいた。
「決して王の威信に傷をつけてはなりませんぞ。大王朝も傾くときは一瞬です
からな。それでは何のために台輔がご自分を犠牲にされたのかわからなくなっ
てしまう」
「はい……」朱衡は唇をかんだ。「二ヶ月ほど様子を見て……。その間は大司
徒に、何とか彼らを王の目に触れさせないようにしていただいてしのぐしかな
いでしょう。それから内偵の情報を小出しにし、まずは汚職に関わった末端の
官を捕らえて小司徒を焦らせます。最終的には正当な諫言をした忠臣に対し個
人的に至極残念だという扱いで、拙官が小司徒らを捕らえさせるつもりです。
この際です、冢宰も何かあれば、拙官を盾に。宮城内が落ち着かない今、小司
徒に限らず、これから不心得者がはびこる恐れがあります。しかしこれでも六
官の長を歴任してきたのですから、大抵のことは拙で何とかなりましょう」
 すると白沢は眉をひそめた。
「大司寇。主上の登極当時からの側近中の側近が、いくらこのような内々の場
とはいえ、簡単に矢面に立たれるようなことを口になさるものではない」
「ですが」
「諸官の大半は王の健在が揺るがないことを知って安堵しているが、御身は違
う。元州を皮切りに、擁州、光州と、州規模の謀反は幾度もありましたが、首
謀者の人数は小規模ながら、ある意味ではこたびの事件はそれらとは比べもの
にならない。おそらくこれは王朝が始まって以来、最大の危機なのです。主上
のためには、そう過たず理解している者が常におそばにいて、お支え申しあげ
る必要がありますぞ」
「その役目は冢宰が」
 そう抗弁しようとした朱衡を、白沢はいつになく強い調子で遮った。
「元逆臣の拙と御身とでは、重きがまったく違いましょう」
「古い話を……」
 朱衡は困惑した。見た目も実年齢も白沢のほうが上なのに、この真面目な冢
宰は、何百年経っても朱衡に丁寧な態度をくずさない。朱衡の視線に気づいた
白沢は苦く笑った。
「何も拙は、不必要に自分を卑下しているわけではありません。ただ、主上の
お心に添おうと心がけると、自然とそういう結論になるのです。それにこうい
うときだからこそ、少しの傷でも命取りとなりかねません。どうぞ御身を大切
に。不心得者になど決して足をすくわれませんよう。王を支える重臣がひとり
たりとも欠けないことが重要です。何かあれば、必ず拙めにご相談ください」

31永遠の行方「序(9/10)」:2008/01/26(土) 15:09:28
 不承不承うなずいた朱衡は、少し考えこんだあとでこう言った。
「これは大司寇としてではなく、あくまで個人として行ないたいのですが……。
景王にご助力をいただき、今しばらく主上の気を紛らわせていただけるようお
願いするわけにはいかないでしょうか」
「それはどういうことで? 確かに景王は、他国で今回の事件のあらましを知
る数少ないひとりとして、定期的に台輔のご容態を問い合わせてくださってい
ますが」
「はい。景王はもともと台輔とかなり親しくしておいででしたし、主上のこと
も尊敬しておられるかたです。なかなか事態が進展しないことで、あのかたも
焦れておいでということもあり、しばらく玄英宮にご滞在いただき、主上の話
相手なりとしていただければと。少なくとも官の変わりばえのしない顔を見る
より、多少は主上の気が紛れるのではないでしょうか。むろん慶には迷惑なこ
とでしょうから、あくまで拙官が私人として景王に打診することとして、お礼
も拙の私財からということで。こう申しては何ですが、慶の財政状況はいまだ
に厳しい様子。大国である雁との結びつき自体は歓迎されるはずですし、何ら
かの見返りがあれば、景王の金波宮でのお立場もそう悪くなることもないので
はと。それに今、雁に斃れてほしくはないはずですから、景王もいろいろと考
慮してくださるはずです。むろん勝手な言い草ですが、今はとにかく少しでも
時間を稼ぎたいのです」
「なるほど……」
「それから光州候に、現在の状況を伝える書簡を送りたいのですが。こちらも
私信扱いで」
「光州候に、ですか」
 白沢の含みのある相槌に、朱衡は力なく笑った。
「おそらく州城でやきもきしているでしょうし……。何しろ今回の事件が光州
で起きたため、決してあからさまに疎まれているわけではないにしろ、王宮で
の光州候の評判は芳しくありません。もとともと光州は二百年前の謀反の件も
ありますから、州候が変わっても、何かあった折には思い出されるのでしょう」

32永遠の行方「序(10/E)」:2008/01/26(土) 15:13:28
 そこまで言って朱衡は言葉を切ったが、白沢は何も気にするふうはなかった。
 確かに白沢の言い分は正しい。いったんついてしまった汚点は、当時を覚え
ている者がいるかぎり、なかなか拭いされるものではないのだ。普段は忘れさ
られているようでも、きっかけさえあれば容易に人々の口にのぼる。
「それに当初は主上ではなく光州候が狙われたと思われていたわけですし、候
がきちんと事態を収めなかったのが原因と思っている官も少なくないようです。
そのこともあって、下手に事態を混乱させないためにも彼がこちらに赴くこと
はできませんが、少なくとも現状を伝える書簡くらいは定期的に送ってやりた
いのです。かつての朋輩への情けと思っていただいてもかまいません」
「ああ、いや」白沢は両手を上げて、朱衡を押しとどめた。「何も拙は、大司
寇を責めているわけではありません。むろん光州候に責があると思っているわ
けでもありません。ただ、どうでしょうな。そのような書簡を受け取って、却
って候がますます自責の念に駆られるというようなことは」
「それはあるかもしれませんが、関弓から遠く離れた光州城で実質的に謹慎し
ている身では、何も知らされないままというのが一番つらいでしょう。それに
事件のお膝元の州を束ねている以上、何らかの情報なり打開策なりをもたらし
てくれないともかぎりません」
「ふうむ」白沢は顎をなでさすった。「確かにわれらとしては、こうなっては
藁をもつかみたいわけですが」
「景王にも光州候にも、公人として、大司寇として書簡を送るつもりはありま
せん。この事件はあくまで内々に収めなければならないのですから」
 白沢は朱衡をじっと見たまましばらく考えこんでいたが、やがて「わかりま
した。くれぐれも内密にお願いしますぞ。事は国家の一大事ですからな」とだ
け答えたのだった。

- 「序」章・終わり -

33永遠の行方「予兆(前書き)」:2008/02/11(月) 13:34:57
これからは時間を少し遡って、事件そのものを描いていきます。
「予兆」章は、まだ平穏な時期の六太やその周辺の様子を描きます。
登場人物は、鳴賢(主役)、六太、風漢、楽俊あたり。

ただしこの章は、主役が鳴賢というせいもあって、
冒頭からオリキャラてんこ盛りの捏造注意報が大々的に発令です。
もしかしなくても物語全体の中で、一番オリキャラ度が高いかも。
そもそも鳴賢自体、原作でほとんど描かれていないとあって、
実質的にオリキャラみたいなものだし。

物語の進行につれて、捏造度はさておきオリキャラ度は減っていくのですが、
苦手なかたはご注意ください。

34永遠の行方「予兆(1)」:2008/02/11(月) 13:38:03
 始まりはひそやかだった。
 その年の十二月、光州城から見て真北にある辺境の里で、一人暮らしの老人
が死んだ。症状から悪性の流行病(はやりやまい)の恐れもあったが、他に罹
患する者がなかったため重要な病気とは思われず、したがって官府に届けられ
ることもなく、近所の人々によって丁重に葬られた。
 年があらたまった一月、今度は北北東にある里で、若い夫婦と幼い娘が病に
かかって死んだ。発症してからわずか十日あまりの悲劇だった。里宰は不気味
な斑紋が皮膚に生じて高熱を出すという症状に警戒心を抱き、党に届け出た。
そこからさらに上に届け出が行き、しばらく経って県から念のためにと調査の
者が送られてきた。しかし他に患者が出たわけでもなく、特に変わったことは
何も起きていなかったとあって、付近で簡単な聞き取りをしただけで早々に引
き上げていった。

「ったく、男だろ、敬之(けいし)! 押せ! 押しておしまくれ!」
 物陰から様子を窺っていた鳴賢たちは、先ほどからやきもきし通しだった。
玄度(げんたく)は拳を握りしめては意味もなく振りまわし、傍らの六太も
「ああ、もう!」と頭巾をかきむしりながら、共通の友人のふがいなさに頭を
かかえている。もっとも鼠姿の楽俊だけは、そんな彼らと途の向こうとに交互
に視線を向けながら、困ったように髭をさわさわさせ、ひっきりなしにしっぽ
を上下させているだけだ。
 目の前の途を挟んだ向こうには、立派なたたずまいの小間物屋があった。一
口に小間物屋と言っても、ここは装身具を中心に女性が使う身の回りの種々雑
多な品を手広く扱っている店である。そのため華やかな雰囲気で、当然ながら
客層は女ばかりだ。
 その店先で学生らしい痩身の青年が、売り子である十五、六の娘に懸命に話
しかけていた。客足が途切れた合間を狙ったため、目当ての娘にすんなり応対
してもらえたところまではいいが、目的は恋文を渡すことだったはず。しかし
ながら様子を窺っているかぎりでは、妹に似合う手頃な簪を探しにきたという
口実から脱せられていないようだ。娘が幾度か品物を見せては青年が迷い、や
がて首を振るのを繰り返している。

35永遠の行方「予兆(2)」:2008/02/11(月) 13:40:06
「だめだ、このままだといつもの流れだ……」
 鳴賢ががっくり肩を落とすと、玄度が「仕方がない、加勢に行くか」と言っ
た。六太がやけに気合いの入った声で拳を突きあげ、「おーっ」と応じる。
「えっと。そのう、おいらも……?」
 無理やり連れてこられた楽俊が、おずおずと三人を見回すと、鳴賢が「当然
だろ」と言った。玄度がうんうんとうなずく。
「おまえや六太がいると、男嫌いの阿紫(あし)でも受けが良くなるんだよ。
ま、倩霞(せんか)もだけどな。ほら、女ってのは子供や動物が好きだから」
 大学一の俊才をつかまえて、傲然と「動物」と言いはなつ玄度。悪気がまっ
たくないのだけが救いだ。六太は腕を組んで唸ったが、別に玄度の言葉に不快
になったわけではなく、まったく別のことを考えていた。
「やっぱりあれかなあ。阿紫くらいの年頃だと、男嫌いなのはけっこういるっ
て聞くし、単にそれじゃねえか? あの娘の場合は他に好いた相手がいるわけ
じゃなさそうだから、ここは紳士的に楽しくおしゃべりしながら徐々にうちと
けてって、男は恐くないんだってわかってもらえれば何とかなりそうな気がす
る。敬之は穏やかなたちだし、顔も悪くない。成績だってそれなりなんだろ?
年頃の娘に対する訴えかけとしちゃ、そこそこ行きそうな感じだしさ」
 十三歳の少年とは思えないほどませた口調だが、鳴賢たちはとうにそんな六
太に慣れてしまっているから、普段は何とも思わない。しかしこのような恋愛
沙汰についてとなると、さすがに苦笑せざるを得なかった。
 やがて彼らは一団となって途を横切ると、偶然を装って友人に声をかけた。
「敬之じゃないか。こんなとこでどうしたんだ?」
「よ、よう、鳴賢」
 普段は落ち着いている友人が、このときばかりはうろたえているのをおかし
く思う。売り子の娘を見た鳴賢は、わざとらしく驚いた顔をしてから、ぽんと
手をたたいた。
「あー、そうか。おまえ、阿紫のことを気に入ってたんだよな。それでかぁ」
「え……」
 今度は娘が目を白黒させた。しかし華奢で可愛らしい感じの娘が、頬を染め
るのならまだしも嫌そうに眉をひそめたので、鳴賢たちもさすがに「あ、まず
い」と焦った。ここで強引に話を進めると、却って拒まれてしまいかねない。

36永遠の行方「予兆(3)」:2008/02/11(月) 13:43:47
「ええと……。あ、そうだ。倩霞さん、いる?」
「いらっしゃいますけど。何かご用でも?」
 冷たい声に硬い表情。うちの美人のご主人に何の用よ、とでも言いたげな目
つきである。鳴賢は話をそらそうと懸命になった。
「前に話してもらった匂い袋、うちの大学の女学生もけっこう興味を引かれた
らしくてさ。手持ちの佩玉と一緒に帯につけられるような、洒落た匂い袋をい
くつかほしいって言ってた。この店を紹介しておいたから、もし来たらいろい
ろ便宜を図ってくれると嬉しいな、なんて」
 口からでまかせというわけではない。しかしそもそもここにいる面々で女学
生と親しく話した者はいないから、かなり誇張した内容ではあった。良家出身
の女学生が洒落た匂い袋を欲しがっていたのは本当だが、鳴賢が教えるまでも
なく彼女らはこの店のことを知っていたし、鳴賢は通りすがりに、そんな女同
士のにぎやかな雑談を小耳に挟んだだけだったのだから。
「そうですか……」
「それはどうもありがとうございます」
 おざなりに応えた阿紫の声にかぶさるようにして、凛として華やいだ声があ
たりに響いた。驚いた彼らが声の出所である店の奥に目を向けると、そこから
この店の若い女主人である倩霞が、別の娘をしたがえて出てくるところだった。
 豊かな髪を高々と結いあげて花を飾り、裾も袖もたっぷりとした美麗な衣装
に身を包んでいる。首元を飾る見事な連珠も、美しい倩霞によく似合っていた。
せいぜい二十二、三にしか見えないのに押し出しは立派で、見事な女主人ぶり
だった。そもそも大学で女学生たちがこの店のことを噂していたのは、むろん
扱っている品の趣味の良さもあるが、何よりも女主人の美貌が話題になってい
たのだ。どうも同じ買うのでも、小綺麗で小洒落た店で美しい女主人や可愛い
売り子ににこにこと応対されながら、気持ちよく買いたいということらしい。
「せっかくですから、奥でお茶でもいかが? 阿紫、皆さまをご案内して。ち
ょうどお客さまも途切れたようだし、おまえも疲れたでしょう。一緒に少し休
みなさい。そうね、蔡士堂(さいしどう)のお菓子をお出しして。郁芳(いく
ほう)、しばらく阿紫と代わっておあげ」
 何となくどぎまぎしてしまった鳴賢たちを尻目に、倩霞は娘たちにてきぱき
と命じた。

37永遠の行方「予兆(4)」:2008/02/11(月) 13:46:07
「はい、倩霞さま」
 先ほどまでの不快な表情はどこへやら、阿紫はにこやかに主人に応えた。美
しく優しい女主人に、すっかり心酔しているふうである。
 年頃の娘が美貌で凛とした年上の女性に憧れること自体はめずらしくはない
が、阿紫の場合は少々事情が違うことを鳴賢たちは知っている。まだ幼い頃、
浮民だった両親を亡くして乞食のような生活を送っていたところを倩霞に引き
取られたので、彼女にとっての倩霞は大げさでも何でもなく命の恩人なのだ。
男が苦手なのも、むろん六太が言ったような原因も考えられるが、もしかした
ら浮民暮らしの中で両親ともども荒くれ男たちに嫌な思いをさせられた経験で
もあるのかもしれない。そこまでいかずとも、たとえば汚い格好で商店の前で
たむろしていたところを店主にどやされたということならありうる話だ。
 豊かな雁に生まれ、実家も富裕な鳴賢にはどうしても実感できないことでは
あるが、浮民たちの厳しい生活についての漠然とした知識ならある。王が道を
失ったり失政をして荒れた国から流れてきた荒民を見たこともあるから、「大
変そうだな」と感じたこともある。
 もっとも彼らのせいで雁の治安が脅かされている面があるため、真剣に同情
したわけではない。むしろ鳴賢の大ざっぱな認識の中ではあくまで他人事であ
り、別の世界の厄介な連中というくくりでしかなかった。阿紫のように働き者
で可愛い娘に成長したというのでもなければ、本当の意味で興味をいだくこと
もないだろう。
「とにかくここは少しでも親しくなっておくことだ。顔なじみ以上になっちま
えば、何とでも理由をつけて会いに来られるからな」鳴賢は敬之に耳打ちして
から、他の面々にもささやいた。「みんな、今日は大人しく、あくまでも紳士
的に振る舞うんだぞ」
「よし。わかった」
 玄度もしっかりとうなずく。彼のほうは倩霞狙いだったから、似たような下
心を持っている鳴賢とは相容れない部分はあるものの、何しろ今のところはど
ちらも、異性としてはまったく相手にされていない。ここは足を引っ張りあう
より、協力して顔を売っておくほうが得策だった。

38永遠の行方「予兆(5)」:2008/02/11(月) 13:48:12
 店の奥の居室に案内された彼らは、勧められるままに榻に身を落ち着けた。
倩霞が手ずから茶を入れて客たちに振る舞う。高価そうな菓子も出されたが、
六太や楽俊はともかく、下心満載の他の三人に美味を味わう余裕があったかど
うか。
 倩霞は綺麗な端切れを見せた上で、これなら女学生たちが欲しがるだろうか
ら、いろいろな香を調合して匂い袋を作ってみるつもりだと言った。むろん先
ほどの鳴賢の方便を信じているのだ。とはいえ女学生がこの店の噂をしていた
のは事実だし、いずれ本当に匂い袋を買いに来る者もいると思われるから、あ
あ言ったことで彼女に迷惑がかかることはないだろう。
「そういうのもどっかから仕入れてるわけじゃなくて、全部ここで作ってんだ?
もしかして巾着や扇子なんかも、倩霞たちで作ってんのか?」
 六太が感心したように言った。鳴賢たちが緊張と下心とで固くなっている中、
六太については口調も態度もいつも通りだ。茶と美味な菓子のおかげでくつろ
いだというわけでもなかろうし、もっと小さな子供と違って粗雑な態度を大目
に見られるはずもないが、その意味ではこの少年はいつも堂々として強心臓だ
った。
 しかし倩霞は不快になる様子はなく、楽しそうにころころと笑った。六太の
反応に作為がなく、素直な感想を口にした以上のことは感じられなかったから
かもしれない。
「扇子はさすがに無理よ。簪や佩玉などもね。ああいうのはきちんと工房や職
人から仕入れます。でも郁芳はお針子だし、わたしも香の調合くらいはできる
し、巾着や匂い袋くらいなら自分たちで作れるわ」
「へえー。倩霞ってあんまりそういう感じはしないのにな。いいとこのお嬢さ
んって雰囲気だし、手を使う仕事はしないのかと思ってた」
「あらあら。喜んでいいのかしら、悲しんでいいのかしら」
 楽しそうに会話するふたりを前に、うまく話に加わるきっかけをつかめない
鳴賢と玄度は内心で歯がみするばかりだ。
 もともと倩霞は、言い寄ってくる男たちにはつれない女性だった。それに卒
業して官吏になれたのならまだしも、鳴賢たちはまだ将来がどう転ぶかわから
ない学生の身。それでも大学生であるというだけで、普通はそこそこの目を向
けてもらえるものだが、これだけ立派な店を構えている妙齢の美女を口説くに
は、充分な条件とは言えない。

39永遠の行方「予兆(6)」:2008/02/11(月) 13:50:16
 そもそもこうして話しかけてもらえるようになったのは、六太と楽俊のおか
げだった。あるとき、たまたま鳴賢がふたりを伴って店に行ったとき、倩霞は
まず半獣と実際に話すのは初めてだと言って楽俊を物珍しがり、ついでこまっ
しゃくれた感じの六太に興味を引かれたらしく自分からいろいろ話しかけてき
たからだ。鳴賢や玄度が、倩霞とまともに言葉を交わしたのはそのときが初め
てだったが、一筋の光明が見えた気がしたものだ。
 とはいえそれから何度かこの店を訪れたものの、倩霞はあまり体が丈夫では
ないらしく滅多に姿を見せなかった。だからこうして店の奥に通されてお茶を
ふるまわれるなど奇跡も同然で、いよいよ希望が見えたかと思ったものだが、
そううまくことは運ばないらしい。
 もっとも玄度はともかく鳴賢は、本当に倩霞を好きかと問われれば答えられ
なかっただろう。恋人だと思っていた幼なじみの娘が、さっさと結婚してしま
ってからずいぶん経つ。いいかげんで次の恋に踏み出さなければと自分を叱咤
していたところに、大学の悪友が何人も倩霞に懸想していると知って、自分ま
で何となくその雰囲気に影響されてしまったというのが本当のところかもしれ
ない。
 それに鳴賢がこの店を知ったのは以前、たまには幼なじみの娘に何か贈って
やろうかと思いたち、あちこちの店で品物を見繕っていたときだった。結局、
そのまま何も贈ることはなかったのだが、この店にはそういう記憶が付随して
いるだけに、手放しで倩霞への恋にのめり込める気はしなかった。もっともそ
のことも、女々しい自分を叱咤する原因のひとつではあったのだが……。
 六太は倩霞と楽しそうに喋っている。いくらなんでもこの年の差で恋だの何
だのという方向に発展することはなかろうが、六太としても綺麗な女性に親切
にされること自体は嫌ではないはずだ。そう考えると、少し複雑な気分になる
鳴賢だった。
 ふと、失恋して思いがけずこの少年に慰められたときのことが脳裏に蘇る。
そういえば六太も以前、苦しい恋をしていたのだっけ。
 あのときの恋は吹っ切れたのだろうかと何となく考えた鳴賢は同時に、その
恋が年上の女性に向けたものかもしれないと想像したことも思い出していた。

40永遠の行方「予兆(7)」:2008/02/11(月) 13:52:28
万が一その想像が当たっていたら、六太が今度は倩霞に懸想することもありう
る。しかしさすがに相手にはされないだろうと考えると、普段は元気な少年で
あるだけに、六太がしおれてしまうさまを想像して心が痛んだ。どうせなら自
分の年齢に近しい相手を好きになってくれればいいのに。
 そこまで考えたところで、鳴賢は初めて少し引っかかりを覚えた。
 ――六太は十三歳。
 年齢を知ったのは、確か出会ってまもなくの頃だった。十三歳にしては少し
小さい感じだが、体格などは個人差が大きいし、男というものは十代も後半に
なってからぐんと背が伸びたりもするものだ。今、小柄であること自体はおか
しくもなんともない。
 だが。
 玉麗が結婚したのは何年前だ? 楽俊が入学したのは? 大学寮の楽俊の房
間で、鳴賢が初めて六太に会ったのは何年前だった?
 ――あまりにも変わらなさすぎないか……?
 大学という環境は成人ばかりだし、ある意味で隔絶された社会だから、鳴賢
の日常は六太のような年頃の少年や少女とあまり接する機会はない。だから気
にならなかったし、気づかなかった。しかし少し考えてみれば、六太が今でも
十三歳のままであるはずはないのに、多少なりとも成長したようには見えなか
った。
 それで言えば倩霞も数年前から変わらないように見えるが、実のところ鳴賢
に異性の年齢はよくわからない。それに女性は髪型や化粧でがらりと印象が変
わるものだ。何しろ花娘などは夜と昼でさえ見目が変わるのだから、男にとっ
て女は可愛い化け物だ。また、美しいともてはやされる女性はその美貌を保つ
ために影ながら努力しているだろうから、そんな倩霞と六太を比べても意味は
ない。
 しかしたとえば、倩霞に引き取られた頃の阿紫は六太より幼かったはずだ。
その彼女が年頃になったというのに、六太だけは出会った頃とまったく変わら
ないように見える。変わらないというより――。
 ――時が止まっている。
 まさか、と思った鳴賢の鼓動が早くなった。

- 続く -

41永遠の行方「予兆(8)」:2008/02/16(土) 20:59:07
 そんな彼の心中をよそに、六太は倩霞とにこやかに談笑を続けている。いつ
の間にか話に加わったらしい楽俊も耳の後ろをかきながら、「おいらは別に信
じちゃいねえけど、そういう遊びがあるってのは知ってるから――」などと、
のんびりした様子で倩霞と話していた。
 そういえばもともと六太は楽俊の知り合いだ。ということは楽俊なら本当の
ところを知っているのではないだろうか。
「そう、ただのお遊び。でもこういうのって何となく楽しいものよ。だから、
せっかく来てくれたことだし、坊やには特別に」
 倩霞は六太にそう言うなり、傍らに控えていた阿紫に何やら手真似で指示し
た。阿紫は房室の隅の小卓の上にあった小物入れから、封をした薄い書簡のよ
うなものを取り出して主人に渡し、倩霞はそれをさらに六太に渡した。
「今、開いてはだめよ。これは時機が大切なの。いずれ坊やが本当に困ったと
きに開ければ、きっと助けになる言葉が紙片に浮き出ることでしょう。ただし
時機を失すると効力がなくなるから注意してね」
 すっかり自分の物思いに没頭していた鳴賢は、話の流れがまったくわからず
にぽかんとした。それに気づいたのだろう、倩霞は苦笑いのような表情になっ
た。
「そんなに呆れた顔で見ないでちょうだいな。そりゃあ、お偉い仙人が施すよ
うな呪とは違うけれど、こういう庶民的なまじないも、時にはほのぼのとした
感じになれていいものよ」
「ああ。せっかくだからもらっておくよ」
 六太は嬉しそうに答えると、その薄っぺらいものを懐にしまった。うまい食
べ物でもないし、綺麗な装飾品でもない。小さくて薄い、ただの封書。しかし
六太は他人から何か贈られると、気遣いからなのか、傍目にはどんなにつまら
ないものに見えても、必ず嬉しそうな顔をした。
 鳴賢の隣から、玄度が慌てて口を出した。
「お、俺は呆れてなんかないです。開いたときに浮き出てくる文言って、きっ
と倩霞さんの手跡なんでしょう? なら、ぜひ俺もほしいです」
 しかし倩霞は笑って首を振った。

42永遠の行方「予兆(9)」:2008/02/16(土) 21:02:40
「あなたは大人でしょう。これはいわば女子供のお遊びなの。子供の頃は、ど
んなつまらないことでも誰かに助言してもらえると心強いものよ。だからさっ
きの紙片はその代わり。困ったときにあれを見たこちらの坊やが、少しでも勇
気づけられるように。でも大人になったら何事も自分で解決しなければね」
 がっくりとうなだれた玄度は放っておき、鳴賢はずっと大人しく座っている
敬之の腕をこっそりつついた。また楽しそうに談笑を始めた倩霞たちをよそに、
小声で問う。
「六太がもらったあれ、何だ?」
「まじないだって。本当に困ったときに開くと、その苦境を脱する方法を暗示
する言葉が浮き出るんだとか。もっとも、どうせあらかじめ適当なことが書い
てあるんじゃないかとは思うけど」
「へえ。それじゃ確かにお遊びだな」
「でもきっと倩霞の手跡に決まってる。だったら俺もほしいのに。くそう」
 玄度がくやしそうに言った。隙を見て、六太がもらった封書を奪い取りそう
な雰囲気である。
 それに気づいていたのだろう、やがて阿紫が体の弱い女主人を気遣って「そ
ろそろお休みなさいませんと」と言ったのをきっかけに鳴賢たちがその場を辞
した際、倩霞は結局、六太に渡したのと同じような封書を玄度にもくれた。
「坊やにあげたものを、大の大人が取りあげてはだめよ」と笑いながら。
 しかし辛抱のできない玄度は、店の前から離れるなり封を開いてしまった。
もっとも香を焚きしめた上質の料紙には、いくら目を皿のようにして見ても何
も書かれていなかったので、玄度はまたうなだれてしまった。
「倩霞は時機が大事だとか言ってたよな。困ったときに開けなかったからじゃ
ないか?」
「本当にお遊びなら、もともと何も書かれていないってこともあるしな。ある
いは護符として持っているだけで、実際は開けることを前提としていないもの
なのかも」
 鳴賢と敬之はそう言って慰めたが、懲りない玄度は物欲しそうな顔で六太を
見た。六太はにやりと笑った。
「せっかくくれたんだから、お遊びにしろ相手に調子を合わせてやらなきゃ悪
いってもんだろう。俺はちゃんとこのまま取っておくことにする」

43永遠の行方「予兆(10)」:2008/02/16(土) 21:06:40
「そんなあ」
「次に来たときに、それをネタにでもしろよ。そうやってまた話のきっかけを
つかんで親しくなればいいだろ。倩霞みたいなのは、言い寄ってくる男をのら
りくらりとかわして手強そうだし、長期戦を覚悟して真面目に口説くんだな。
何でもそうだが、急いては事をし損じるぞ」
「ほう。おまえがそこまで女の扱いに詳しいとは知らなかった」
 年上に偉そうに助言した六太に、聞き覚えのある笑い含みの声がかけられた。
振り向いた鳴賢たちの前に、彼らと同年輩の男がひとり立っていた。
「風漢……」
「おう。なんだ、おまえたち、あそこの主人だか使用人だかに懸想しているの
か? 確かにさっき出てきたのはなかなかの美人だったが」
 顎をしゃくって、先ほど彼らが辞去してきた小間物屋を示す。
 鳴賢たちは風漢が六太の身内らしいこと以外は、何を生業にしているのかも
知らなかった。だが色街でよく見かけるから女遊びが盛んな男であることだけ
は確かだ。しかも遊び上手でそこそこ見栄えがするとあって、女たちの受けも
良い。その彼に倩霞に興味を持たれてはたまらないと思ったのだろう、玄度は
あからさまに警戒の目を向けて「おまえには関係ないだろうが」と言った。
 だが風漢は気にする素振りもなく、おもしろそうに笑っただけだ。今もそう
だが、割合に高価そうな装束を身につけていることも多いから、そこそこの家
の出なのだろう。その割にはざっくばらんで親しみやすいし、かと思えば妙に
飄々としてつかみどころのない男ではあった。
「そうつんけんするな、玄度。少なくとも女の前では余裕のあるところを見せ
ろ。さもないと、器の小さい男だと思われて損をするぞ。大抵の女は懐の大き
な男が好きだからな」
「で、おまえはそれを実践して女を口説いてきたのか? それともこれから口
説きに行くところか?」
 腕組みをした六太が、呆れたように口を挟む。風漢は片眉を上げるとにやり
とした。
「これからだ。何しろおまえがおらんと、小言が全部こちらに来てうるさくて
かなわん。それで抜け出してきたばかりなものでな」

44永遠の行方「予兆(11)」:2008/02/16(土) 21:09:25
「ったく、またかよ」
「そういうわけでおまえはそろそろ帰れ。少なくともどちらかひとりいれば、
あいつらも大目に見てくれる」
 六太は処置なしといったふうに天を振り仰いだ。そうしてから鳴賢たちに、
「なんか家の連中がうるさく言っているみたいだし、仕方ねえから帰るわ。ま
たな、敬之。次に会うときは阿紫とどうなったか、戦果を報告してくれよな」
と言って、途の向こうにすたすたと歩き去っていった。それを見た風漢も「で
はな」と言うなり、さっさと別の方向に歩み去る。おそらくまた色街にでも行
くのだろう。
「俺たちも寮に帰るか。何だか飲みたい気分だが、明日の藩老師の講義のこと
もあるし」
「そうだね。老師の一問一答はいつも厳しいから」
 そんな言葉を交わして歩き出した玄度と敬之に、楽俊もほたほたとついて行
こうとした。しかし鳴賢は後ろから彼の首根っこをつかんで乱暴に引き留めた。
「あわっ、わっ、鳴賢……?」
「俺、ちょっと文張と話があるからさ、おまえら先に帰っててくれよ」
 そう言って怪訝そうな玄度たちを先に帰し、途の隅に楽俊を強引に引っ張っ
て連れていく。そうして往来を行く人々の誰からも話を聞かれないと思える場
所まで行くと、単刀直入に「六太のことで聞きたいことがあるんだけど」と話
を切りだした。今の彼には倩霞のことより、六太に関する疑問を解くことが先
決だった。
「たい――六太、さんのことで?」
 楽俊はひっきりなしにひげをぴょこぴょこ動かした。今さっき後ろからいき
なり首根っこを掴まれたせいかもしれないが、かなり動揺している証拠だ。
「そういえばおまえ、いつも六太や風漢をさんづけで呼ぶよな」
「だからおいらはあのおふたりには恩があるんだって。前にも言ったろ」
「ああ。何の恩かは教えてもらえなかったけどな」
「それを言うわけにはいかねえんだ。いつもよくしてくれる鳴賢にはすまねえ
が……」

45永遠の行方「予兆(12)」:2008/02/16(土) 21:12:37
「いや、今はそんなことを聞きたいんじゃないんだ。今まで気づかなかった俺
も迂闊だったが、六太は会ったときから全然変わってないなと思って。逆算す
ると、どう考えても十六、七にはなってるはずなのにさ」
 楽俊がぎくりとなった。人型であれば誤魔化せたかもしれないが、ひげやし
っぽの動きで心中が丸わかりの今は、いくら鳴賢が注意力散漫だったとしても、
相手の動揺に気づかずにいることは不可能だったろう。
 鳴賢が黙って見ていると、楽俊はしきりにひげをそよがせて耳をぴくぴく動
かしている。長いしっぽも動揺を暗示して、左右に激しく振れている。
 やはりこいつは何か知っているんだ、そう思った鳴賢は思い切って口に出し
てみた。
「まさか……六太は仙か?」
 すると予想外なことに、楽俊は思い切りよく、対等の友人であるはずの鳴賢
にがばっと頭を下げた。
「鳴賢、すまねえ。おいらには何も言えねえ」
「あ……。いや……」
 深々と頭を下げられて、さすがに鳴賢もあわてた。だがその反面、自分の推
測が正しかったことを確信して愕然となった。
 頭を下げたままの楽俊を前にしばらく立ちつくしていた鳴賢は、必死に考え
を巡らせた。
「……官吏の子弟なら、身内が昇仙すると一緒に仙になることがあるよな」
 楽俊が何も答えないので、鳴賢は考えをまとめるために、推測を口に出して
ぶつぶつつぶやいた。足元の地面を意味もなく沓の先でつつき、いたずらに弧
を描く。
「普通はある程度の年齢に達するまで、親は子供を仙籍には入れないものだよ
な。でもそうではない親もいて、幼くても仙籍に入れられる子供もまれにいる
って聞くから、もしかして六太もそれか? でも前に六太は、自分を孤児みた
いなものだと言っていたことがあったんだよな……」
 とはいえ本当の肉親というのではなく、単に身よりのない六太を引き取った
のが高官という可能性もあった。先ほどの六太と風漢の話を考え合わせると、
風漢はその高官にでも仕えていて、だから六太と親しいのかもしれない。

46永遠の行方「予兆(13)」:2008/02/16(土) 21:15:43
 いずれにしろ六太が仙籍に入っているなら見かけ通りの年齢ではない。なら
ばあの知識量や見事な筆跡にも納得できるというものだが、それなら実際の年
齢はいくつなのだろうと疑問に思う鳴賢だった。
「なあ……。まさか六太が俺より年上ってことはないよな?」
 楽俊は相変わらず頭を下げたまま答えない。それはいっさい言うつもりはな
いとの無言の訴えに他ならない。鳴賢は楽俊を困らせるのは本意ではなかった
し、六太のことも好きだったから、今この場で追求するのはやめようと思った。
 神仙は雲の上の人々だから、普段は一般の民が明確に意識することはない。
そもそも自分たちとは住む世界が違うと思っているからだ。しかし目の前に年
端もいかない少年がいて、実際に彼が不老不死の仙だと知れば妬みもそねみも
するだろう。六太が滅多に自分のことを語らないのはそのせいかもしれない。
 だがもし鳴賢が以前と変わらずに普通に接するとわかれば、六太も素性を明
らかにしてくれるのではないだろうか。それに成績で苦労しているとはいえ、
大学生の鳴賢は官位に実際に手が届くところまで来ている。高級官吏になれば
昇仙し、神仙の仲間入りを果たすことになるのだから、それを目指している学
生が相手なら、一般の民よりは六太も気兼ねしなくてすむはずだ。
「何にしても深い事情がありそうだな。六太だって大人になりたいだろうに」
 そう、何か事情がある。鳴賢は確信した。なぜならしばらく仙籍から抜いて
もらえれば順当に成長するのだし、そうすれば六太も年頃になり、年上の女性
との恋に悩むこともなくなると思われるからだ。普段は悪戯めいた悪ガキの表
情だからそうは思わないが、よく見ると六太は綺麗な顔立ちをしている。あと
何歳かでも年を取れば、おそらく若い娘が放っておかないだろう。なのに相変
わらず幼いまま仙籍にあるのは、深い事情があるとしか思えない。
 それとも一時的に仙籍を抜けるのは、官吏の子弟であってもそう簡単ではな
いのだろうか。
「――ああ、そうか。仙籍に入ったり抜けたりするのも主上の裁可次第だから、
御璽が必要なんだよな。一官吏の子弟で、そんなことに主上のお手を煩わせる
のは不敬ってことなのかもしれないな。でもそれはそれで可哀想な話だよなあ
……」
 鳴賢はそうひとりごちたが、楽俊は相変わらず無言のままだった。

- 続く -

47永遠の行方「予兆(14)」:2008/03/23(日) 21:58:41

 毎月一回、光州の里や廬で原因不明の病による死者が出る。それは北の廬に
始まり、ちょうど州都を中心に右回りに少しずつ移動しながら発生していたが、
そんな事態に気づいた者は少なかった。
 ただし府第では、むろん届け出のあった場合に限られたが、点々と罹患地が
移動していっているように見えたため警戒はしていた。何百年もの間安定して
いた雁は、そういった官の仕組み自体は整っている。
 これが春や秋などの、人々が里や廬を移動する時期のことであれば、民とと
もに罹患地が移動しても不思議はない。しかしこの病についてはそういうわけ
でもないようだった。不審を覚えた官吏が簡単に調査したこともあったが、特
に人の出入りのない廬でも発生していることがわかり、いっそう困惑を深めた
だけだった。
 王が健在であっても流行病は起きるものだ。ただ自然災害が少ない上にしも
じもまで生活が安定し、社会の基盤も整っているから、乱れた国より予防も対
処もしやすく、結果的に大事に至らないにすぎない。したがって今回の病が真
に流行病かどうかはさておき、不気味な症状と相まって警戒をいだかせたのは
当然だった。
 担当の官吏はここ数ヶ月間の報告書に新たな付記をつけ、引き続き警戒の要
ありとして注意を喚起した。

 あれから何度か六太と会う機会はあったが、何も気づいていない他の友人た
ちと一緒だったこともあり、鳴賢は何となく、当人に仙かどうかを尋ねるきっ
かけをつかめないままだった。あらためて考えるまでもなく、尋ねてどうする
のだ、という根本的な疑問もある。
 第一、官吏を目指している鳴賢にすれば、一般の民と異なり、仙であること
自体は既にそう特別なものではない。それゆえ六太自身が積極的に自分のこと
を明らかにしようとしていないのに、あえて問うこともなかろうという気持ち
もあった。何より気づいた当初はともかく、しばらく六太と顔を合わせない日
々が続いたあとは、既に他人の私事に首を突っ込むのは面倒くさいという気持
ちになっていたことも大きい。もともとそういう細かいことに長く気を取られ
るたちではないのだ。

48永遠の行方「予兆(15)」:2008/03/23(日) 22:01:04
 ただ、仙になるとどうなるのかという感覚的なものについてはいくら考えて
もわからないので、以前からそういうことを親しい相手に聞きたいとは思って
いた。友達同士の雑談のような内容で、老師に根ほり葉ほり尋ねるわけにはい
かないからだ。なので機会さえあれば、それとなく六太に話を向けて聞き出し
たいものではあった。
 もし六太が官吏だったら、官吏生活についても尋ねて参考にしたいところだ。
しかし身内の昇仙によって仙になったのだろう六太の場合、鳴賢の興味を引く
話題を持ってはいないだろう。むろん六太の身内が高位の官なら、今のうちに
理由をつけて家に遊びにでも行って、顔をつないでおきたいところではあるが
……。
「えっ、今日は花巻(はなまき)残ってないの」
 夕刻近くという半端な時間とあって、大学寮の飯堂は人もまばらだ。そんな
中、久しぶりに楽俊を訪ねて来ていた六太は、好物の蒸し饅頭がなくなってし
まったことに至極残念そうな顔をした。仙ということはもしかしたら二十歳を
超えているかもしれないのに、こういうときの六太は仕草といい表情といい、
やはり子供にしか見えない。
「すまないねえ。ぼうやが来るってわかっていたら、ひとつくらい取っておい
たんだけど」賄い婦として働いている楽俊の母が、困ったように、だがにこや
かに答えた。「夜まで待てるんなら作ってあげたいところだけど、何しろもう
粉がほとんどなくなっちまったんで、これから買い出しに行くところなんだよ。
いつもみたいに届けてもらうまでもたないし、ちょうど夕餉の仕込みも終わっ
たからね。でもおやつにするんなら、糕(こう)ならまだあるから、蒸しなお
してあげようか?」
「ううん、俺、おばちゃんの花巻が好きなんだ。見た目も綺麗だし、ふわふわ
しててほんのり甘くて、あれだけ食ってもすごくうまいし。でもちょうどいい
や。買い出しに行くんなら付きあうよ。荷物持ちに」
 すると傍で聞いていた楽俊のひげが、あわてたようにぴんと立った。
「母ちゃんの買い出しにはおいらが付き添いますんで、その」

49永遠の行方「予兆(16)」:2008/03/23(日) 22:04:58
「いいじゃねーか、荷物持ちが多いぶんには」
 六太はそう言って、楽俊を気安くどついた。母親のほうは六太と気安くお喋
りしても、六太に恩があるという楽俊のほうは常に丁寧語で話す。いつもなが
らその落差が鳴賢にはおかしくもあった。
「おばちゃん、すぐ出る? 俺、外で待ってようか? あ、鳴賢も来る? 荷
物持ちに」
「ああ、いいぜ。ちょうど散歩がてら、その辺を歩いて来ようかと思ってたと
ころだ。少なくともおまえらよりは戦力になるだろうしな」
 鳴賢がにやりとして答えると、六太も笑いながら「あー、言ったな」と、手
を伸ばして彼の胸を軽く叩いた。
「あら、みんなすまないわね。これじゃあ粉を買ってきたら、さっそく花巻を
作ってふるまわないと」
「やった! おばちゃん、話せるぅ!」
 六太は手を叩いて喜び、鳴賢たちを急かして外に出たのだった。

 鳴賢には逆立ちしても真似できないことだが、ある種の女たちは新しくやっ
てきた街にすぐ溶けこんでしまうものだ。しかもどこそこの店の醤(ひしお)
は安くておいしいとか、あの舎館の女将は親切で頼りになるがいったん機嫌を
損ねると大変だとか、どうやって情報を収集するのだろうと思うくらい、妙に
細かいところに詳しい。
 楽俊の母もこの手合いのようで、決して無駄話をべらべらと喋る女人ではな
いために長らく気づかなかったものの、やがてふとした拍子に「あの界隈に行
くなら、春香楼の妓女にはたちが悪いのがいるらしいから気をおつけよ」だの、
「外に食べに出るんなら、昇陽亭の割包がおいしいらしいね」といったことを
さりげなく教えてくれるようになった。楽俊はもちろん関弓での暮らしが長い
鳴賢よりも、既にいろいろなことを知っているように思われた。
 もっとも大学寮の飯堂にはさまざまな店が品物を納めにくるから、その関係
であちこちの噂が耳に入りやすいだけかもしれない。

- 続く -

50永遠の行方「予兆(17)」:2008/04/27(日) 12:03:18
 いずれにせよ、一同が最初に粉屋に行って小麦粉の小袋を買い、残りは届け
てもらうよう算段していたところに、隣の豆腐屋やら薬問屋やらの奉公人から
親しげな声がいくつもかかったところを見ると、少なくとも楽俊の母が円満な
人間関係をそこそこ広く築いているのは確かだった。
 以前ちらっと聞いたところによると、楽俊を少学に入れるために田畑を売り
払ってしまったという話だから、息子ともどもこのまま雁で、もしかしたらず
っと関弓で暮らすつもりなのかもしれない。
 巧は半獣に冷たい国だし、これほど気だての良い働き者の女人が好んでひと
りで苦労することもないだろうから、雁で暮らすことは良いというよりも当然
の考えだと鳴賢などは思うのだった。彼がそんなふうに簡単に考えてしまえる
のはおそらく、豊かな雁の民にとって、故国を捨てる悩みも葛藤も無縁のもの
だからだろう。
「花椒(かしょう)のいいのが入ったんだよ。それと粗塩も仕入れてね。安く
しとくからどうだい?」
「せっかくだけど、花椒も塩もまだあるから。――ああ、それより学生さんた
ちの健康を考えて、たまには本格的に薬膳でも作ってみようかと思うんだけど、
いい献立を知ってる?」
「ほ、薬膳とね? そうだなあ。だがあまりきっちりと作るより、まずは何か
一品、汁とかあえ物を、さりげなく添えるところから始めてみたらどうだね?
 そのほうが気軽で食べやすいし、天候に合わせて献立を調整するのも楽だよ」
「ああ、それもそうね。豆鼓(とうち)がまだたくさんあるから、今度あれを
使って――」そう言いかけて待っている息子たちの顔に気づき、話を切り上げ
にかかる。「――でもまあ今日は、粉屋さんのところに、切らした粉を買いに
きただけだから。その話はまた今度伺うことにするわ」
 すると六太が、「おばちゃん、俺たちのことなら気にしなくていいぜ」と口
を挟んだ。
「何なら荷物を持って、先に寮に戻ってるし」
「あらやだ。ぼうやたちにそんなことはさせられませんよ。それに早く帰って
花巻を作らなきゃ」

51永遠の行方「予兆(18)」:2008/04/27(日) 12:05:38
「いいって、いいって。だいたい俺たち、最初から荷物持ちに来たんだぜ? 
それにおばちゃんがいい献立を教えてもらえたら、俺もまたご馳走になるつも
りだし。鳴賢もいいよな?」
「ああ、別に構わないぜ。どうせ散歩がてらつきあっただけだ」
「そうしたほうがよさそうだな。母ちゃん、店先で立ち話を始めるといつも長
いから」
「なんだい、おまえまで」
 困惑顔の母親をよそに、三人は顔を見合わせてくすくす笑うと、店で小分け
にしてもらっていた小麦粉の小袋をてんでに小脇に抱えた。楽俊の母親と話し
ていた薬問屋の主人のほうも、その様子を見て苦笑した。
「いい子たちじゃないか。せっかくだからお言葉に甘えたらどうだね。奥で簡
単な献立を手早く書いてみよう。滋養強壮に効く根菜を使う汁物と、胃腸に優
しい粥と。それなら明日にでも作って学生さんに出せる。そうそう、花椒を使
った炒めものもね。こいつは食欲がないときにいいんだよ」
 戸惑っているような楽俊の母親の背を、六太が笑いながら軽く押した。薬問
屋の主人はその彼女の前に立って歩き、「本当は山芋を使うといい献立がある
んだが、今は旬じゃないからねえ」などと言いながら店の中に入っていった。
 ふたりが店の中に姿を消すと、楽俊が溜息をついて言った。
「すまねえです、六太さん。母ちゃん、この界隈に知り合いが多くできたから、
いつも立ち話が長いんだ」
「いいって、いいって。それよりこれを持って、とっとと寮に戻ろうぜ」
 そうやって粉の小袋を軽く掲げた六太に、背後から「……六太?」という遠
慮がちな声がかけられた。彼らが何気なく振り返ると、往来に女連れの青年が
立っていた。三十歳近い鳴賢よりも、さらにいくつか年上のようだった。
「ああ、やっぱり六太だ」
「恂生(じゅんせい)じゃねえか。揺峰(ようほう)も」
 ほっとした様子の青年に、六太が笑顔で返した。その青年の印象は悪くない
のだが、話しかたに何となく奇妙なところがあったため、鳴賢は違和感を覚え
た。
「ええと……。六太にはどこで会っても驚かないけど、こんなところで何を?」

52永遠の行方「予兆(19)」:2008/04/27(日) 12:07:38
「ん? ああ、買い物の荷物持ち」
 そう言って、また小麦粉の袋を掲げて見せてから「あ、こいつら、俺のダチ」
と鳴賢たちに顎をしゃくった。すると恂生と呼ばれた青年は、一同を軽く見回
してから、また六太に目を戻して言った。
「もし時間があるなら、うちに寄ってお茶でも飲んでいかないか? そっちの
ふたりも一緒に。おかみさんと揺峰が胡麻団子と蒸し菓子を作ったんだ」
「蒸し菓子?」
「うん、黒糖の。好きだろう? それでちょうど、六太の噂話をしていたとこ
ろだったから、ここで会ってちょっと驚いた」
「うーん、心が揺れるけどなあ……」
 小脇に抱えた小袋にちらりと目を落として、六太は唸った。その小袋を受け
取ろうと手を伸ばした楽俊が、「どうぞ、おいらたちのことは気にしないで行
ってきてください」と丁寧に言った。しかし六太は軽く身をひねって、あっさ
りと楽俊の手をかわした。
「そういうわけにはいかねえだろ。俺は荷物持ちに来たんだぞ」
「まあ、六太じゃ、大して足しにならないけどな」
 鳴賢がからかうと、それまで黙って様子を見ていた恂生の連れの二十歳ほど
の娘が、にこやかに口を挟んだ。こちらは青年と違って、話しかたにどこも奇
妙なところはない。
「それならおみやげにすればいいわ。ここには三人いるけど、三人ぶんあれば
いいのかしら? でもきっと多めがいいわよね。他のお友達にもわけてあげら
れるし。胡麻団子の他にもいろいろ作ったから、一緒に来て、適当に好きなの
を持ってって」
 そう言って強引に六太の腕を引っ張ると、あれよあれよと言う間にふたりし
て往来の向こうに消えていった。鳴賢たちは、六太が持っていた袋を彼女に否
応なく渡された恂生とともに、ぽかんとしてその場に取り残された。鳴賢の顔
を見た恂生は、苦笑いしながらすまなさそうに言った。
「邪魔してごめん。でもすぐ戻ってくると思うから」
 ついで、楽俊に目を向けて「やあ」と挨拶をする。楽俊のほうも「どうも」
と軽く会釈をした。楽俊は大学以外の知り合いは少ないほうだと思っていたか
ら、初対面ではなさそうな様子に鳴賢は驚いた。
「あれ? 文張、おまえとも知り合いか?」

53永遠の行方「予兆(20)」:2008/04/27(日) 12:09:52
「知り合いってほどじゃねえ。前にいっぺん、国府にある海客の団欒所で会っ
たことがあるってだけだ」
「海……客?」仰天した鳴賢はあらためて恂生を見た。「あんた……。海客な
のか?」
「そうだよ」
 青年はあっさりと答えた。大学も大学寮も国府の中にあるが、鳴賢は似たよ
うな場所に海客の団欒所などというものがあることなど知らなかったし、楽俊
がそんなところに行っていたことも知らなかった。しかし今はそんなことより、
目の前に海客の実物がいることのほうがはるかに衝撃だった。
 それでか、と鳴賢は納得した。流暢に喋ってはいるものの、恂生の言葉にど
こか違和感を覚えたのはそのせいだったのだ。発音や言い回しが微妙におかし
いのだ。
 蓬莱も崑崙も、こちらの世界とは言葉がまったく違うらしい。だから海客や
山客は、運良く人里にたどりついても、まず言葉が通じなくて難儀するのだと
いう。
 こちらの世界では、北の果ての戴であれ、南国の漣であれ、言葉が違うとい
うことはない。だから鳴賢も、異なる言語という概念からして理解するのは難
しかった。犬や猫に言葉が通じないというのならわかるが、同じ人間同士で、
どうして言葉が違うのか。子供の頃にやった暗号遊びのように、ある語が別の
語に置き換わっているのだろうか。
「まあ、そりゃ……。大変だったな」
 何と言っていいのかわからずに、当たり障りのない言葉を返す。だが恂生の
ほうは屈託なく「そんなことはないよ」と明るく返した。
「俺は雁に流されたってだけで幸運だったんだから。何しろ海客というだけで、
殺される国もあるんだからね」
「ええ?」
 驚いた鳴賢が思わず聞き返すと、傍らの楽俊がうなずいた。
「それは本当だ。おいらも巧にいた頃、役人に追われて行き倒れてた海客の女
の子を拾ったことがあるからな。仮朝が仕切ってる今の巧の方針はわからねえ
けど、当時の主上は海客がひどくお嫌いだったんだ」
 それを聞いた恂生は、初めて表情を曇らせた。
「その女の子、今は……?」
「今は慶にいる。ときどき便りをくれるが、何とか元気にやってるらしい」
 楽俊が安心させるように言うと、恂生はほっとした顔になった。

54永遠の行方「予兆(21)」:2008/04/27(日) 12:12:23
「その子も幸運だったな。大抵の海客は虚海で溺れてしまうって聞くし、何と
か生きて流れ着いても国によっちゃ殺される。俺からも礼を言うよ。その子を
助けてくれてありがとう」
「そんな大層なことじゃねえ」楽俊は照れて、耳の後ろをぽりぽりとかいた。
「雁は海客に寛大だって聞いてたし、それでおいら、そいつを連れて雁に来て、
おかげで縁あって大学に入れたんだ。言うなれば持ちつ持たれつってとこだ」
「それで雁に? 呆れたお人好しだな」
 鳴賢は心底から呆れて言った。楽俊が雁に来たのは単に、巧と違って雁は豊
かで半獣も差別しないし、大学の質も高いからだと思っていた。だからこれま
で理由を聞いたことがなかったのだ。まさか行き倒れていたところを助けた海
客のために、遠路はるばるやってきたとは思いもよらないことだった。
「巧から雁へなんて、場合によっちゃ何ヶ月もかかるだろうし、向こうには妖
魔も出たって言ってたじゃないか。命だって危なかったろうに……」
 すると恂生がくすりと笑った。
「海客なんて厄介者を助けてくれる人はみんなそうなんだろうな。六太だって
相当なお人好しだし。俺なんか最初の数年は、言葉もわからないし世をすねて
ばかりでさ。六太が仕事先を世話してくれて、言葉も少しずつ教えてくれて、
何とかなじむのに十年以上かかったけど、すべては見捨てないでくれた六太の
おかげだ」
「十年……」
 鳴賢が繰り返すと、恂生はうなずいた。十年以上も前にこの男を助けたのな
ら、いったい六太は今、何歳なのだ?
「六太があんたを……?」
「ああ。流されたのが二十一で、今、三十六だから、正確に言うともう十五年
だな。早いものだ」
 どこか淋しそうに笑った恂生は、しみじみとつぶやいた。
 海客も山客も、ある日突然、蝕に巻き込まれてこっちの世界に流されてくる
だけだ。何の心の準備もなく着の身着のままで、しかもいったん来てしまった
ら二度と帰ることはできない。虚海を越えられるのは神仙と妖魔だけだからだ。
「あんた、恂生って言ったっけ? 俺は赤烏だ。通ってる大学じゃ、鳴賢って
呼ばれてるけどな」
「よろしくな。大学生なのか。楽俊と同じだな、すごいな」
「はは、こいつと違って落ちこぼれかけてるけどな。それにしても海客の名前
は珍しいって聞いたことがあるけど、あんたの名前は普通だ」

55永遠の行方「予兆(22)」:2008/04/27(日) 12:15:25
「ああ――そりゃ、蓬莱での名前は違うけど、もう意味のないことだから」
 恂生はわずかに言いよどみ、にこやかな顔から一瞬だけ笑みを引いて答えた。
その空白に、鳴賢もさすがに悪いことを聞いたなと思った。
「最初は六太が別の字(あざな)をつけてくれたんだけど、今は世話になって
る店の主人がつけてくれた字を名乗ってる。そこの娘さんと――さっきの彼女
だけど、今度結婚するんで」
 鳴賢は虚を突かれて、一瞬ぽかんとした。こんなところで引き比べるもので
はないのに、結婚どころか、もう何年も恋人もいないという現実が胸に重かっ
た。自分が大学を落ちこぼれかけている以上、色恋沙汰にうつつを抜かす暇な
どあるわけがないし、当然と言えば当然なのだが……。
 そんな身勝手な思いを振り切って、何とか言葉を続ける。
「そ、そりゃ、良かったな。きっと六太も喜んだろう」
「ああ、自分のことのように喜んでくれたよ。あんなふうに喜んでもらえて、
そういう人がいて、俺も嬉しかった。今じゃほとんど言葉に不自由しないけど、
六太が親身に世話をしてくれなかったら、これまで生きていられたかどうか
もわからないからな」
 そう言って、ふと鳴賢の肩越しに途の向こうに視線を投げる。鳴賢が振り返
ると、遠目に六太と揺峰が戻ってくるのが見えた。
「いろいろなことがあったけど、言葉が通じないってのが一番つらいよ。字体
がけっこう違うから、筆談もなかなか難しかったな。でも少なくとも六太は俺
の言葉をわかってくれたから心強かった。今から思うと八つ当たりばかりして
たけど、そうやって発散して、だから何とかやってこれたのかもしれない。下
位の役人は仙じゃないから、海客とは言葉が通じないんだ。その点、六太なら、
蓬莱の言葉を使おうが使うまいが、冗談も八つ当たりも普通に通じるもんな」
 その途端、楽俊のひげがぴんと立ち、しっぽがあわただしく左右に振れた。
だが恂生は何も気づかなかったらしく、そのまま話を続けた。
「仙ってのは便利だよな。蓬莱がある世界には何千もの種類の言語があるんだ。
でも俺がもし仙だったら、世界中の人と普通に会話ができるってことだもんな。
今じゃ、そんな空想をする余裕もできてきた。もっともこっちの世界じゃ言葉
はひとつだから、なかなか感覚をわかってもらえないみたいだけど――」
「やっぱり……六太は仙だったんだな」

56永遠の行方「予兆(23)」:2008/04/27(日) 12:18:29
「え?」
 きょとんとした恂生は、真剣な顔をしている鳴賢を見て、失言にやっと気づ
いたらしい。うろたえたように咳払いをすると、目を泳がせて六太たちのほう
に視線を投げた。
「楽俊、鳴賢! 餅もいっぱいもらっちまったぜ」
 大きな包みを抱えてぱたぱたと走ってきた六太は、周囲の微妙な空気に気づ
かず嬉しそうに言った。はしゃぐ六太に、恂生がしょげた顔で謝った。
「六太、ごめん……」
「え、何?」
「友達だって言ってたから、てっきり知っているのかと……。で、ばらしちま
った」
「え?」
「六太が仙だってこと」
 激しくまばたいた六太は、押し黙っている鳴賢を見たが、すぐに破顔した。
「ああ、そんなことか。気にするな。別に隠してたわけじゃねえ。何となく鳴
賢には話す機会がなかったってだけだから。楽俊のほうは最初から知ってるし」
「ごめん……」
 恂生はすっかり気落ちしてしまったが、六太のほうは本当に気にしていない
ようだった。鳴賢はあわてて口を挟んだ。
「いや、その、本当のことを言うと、何となくそうかなとは思ってはいたんだ。
でも面と向かって言われたものだから、少し驚いたっていうか。やっぱりそう
なんだって」
「あー、ばれてたかぁ」六太はぺろりと舌を出した。「ま、そろそろやばいか
とは思ってたからなあ。気ぃ悪くしたんならごめんな。でも別にわざわざ言う
ことじゃないと思って。鳴賢だって楽俊だって、官吏になったら仙になるんだ
しさ。それより栃餅に豆餅に、揚げ餅も薬味つきでもらってきたから、さっそ
く帰って分けようぜ。でも今からだと夕餉に障るから夜食か朝餉だな。どうせ
おまえたち、今夜も遅くまで勉強するんだろ?」そう言って恂生に、「こいつ
ら大学生なんだ。いずれお偉い官吏さまになって、雁をしょって立つってわけ。
頼りなさそうで、とてもそうは見えないだろうけどさぁ」

57永遠の行方「予兆(24)」:2008/04/27(日) 12:21:33
「あー、ひどいな」
 おどける六太に抗弁した鳴賢は、この少年が本当に、意図して仙であること
を隠していたのではなく、説明が面倒だとか、単に言う機会がなかったという
だけに思えてきた。いっとき真剣に考え込んでしまったことが馬鹿馬鹿しくな
ってしまったほどだが、それにしては楽俊がかたくなにそれについて話すのを
拒んだことが不思議ではあった。
「俺もこれで相当苦労してんだぜ」
「ああ、わかってる、わかってる」
「どうだか。そんなに言うなら、六太のほうは学校じゃどうなんだよ?」
「へ、俺?」一瞬、意外そうな顔をした六太だったが、すぐにまた笑顔になっ
た。「実は俺、そういうのに通ったことがないんだよなあ。だからちょっと憧
れてる。似たような年頃の連中とわいわいやったり、褒められたり叱られたり
とかさ。ま、実際に行ったからって、悪戯して老師たちを困らせるだけだろう
けど」
 こともなげに言った六太に、鳴賢はまたまた驚いた。
「学校に行ったことがないって……。まさか小学にも?」
 毎日を生きるのがやっとという傾いた国ならまだしも、雁にいてそんなこと
があるのだろうか。だが六太があっさり「まあな」と答えたので、鳴賢は仰天
した。
「でも勉強を教えてくれる人はたくさんいたから」
「それにしたって……」
 途中まで言いかけて、何かの拍子に六太が自分を孤児のようなものだと漏ら
したことがあるのを思い出してやめた。きっと幼い頃に親が亡くなり、勉強ど
ころではなかったのだろう。海客に知り合いがいることと言い、謎が多い少年
なのは確かだが。
 もっとも鳴賢の場合は他人の詮索より、何とか卒業できるよう頑張るほうが
先決ではあった。

 真北、すなわち子(ね)の廬に始まって、丑、寅、卯。点々と移動する罹患
地。光州の官吏にとって不運だったのは、そのすべてが府第に報告されていた
わけではないということだった。

58永遠の行方「予兆(25)」:2008/04/27(日) 12:23:35
 近隣の廬や里で起こったことならまだしも、問題の集落はそれぞれ、旅行す
ら滅多にしないこの世界の民の意識からすれば離れすぎていた。だから一般の
民でこの奇妙な事態に気づいた者は皆無だった。
 もっとも官も、罹患したすべての集落の情報が、少なくとも郡にまで報告が
上がってこなければ気づきようがなかっただろう。したがって誰もまさか、州
都から見て北を起点に、右回りに弧が描かれる形で病が移動しているなどとは
思いもしなかったのだ。
 地に描かれた弧は、このとき既に明確に環を形成しようとしていた。だが病
そのものの症状に警戒をいだきこそすれ、環がもうすぐ閉じられることに気づ
いた者はいなかった。

 その日の夕食後、鳴賢は楽俊に付きあって敬之の房間にいた。敬之が図書府
から借りている本を、何年経ってもこの面では相変わらず不遇を強いられてい
る楽俊に見せる約束をしていたからだ。又貸しは禁じられているが、楽俊の周
囲では必要に迫られて、こうしてちょくちょく行なわれている。
「そう、これ、これが読みたかったんだ。こないだ郭老師が言ってた解釈は、
ちょっと違うんじゃねえかと思っていたし」
 小さな床几にちょこんと腰掛けてあわただしく頁を繰る楽俊に、敬之は笑っ
た。
「だから貸すって。自分の房間に帰ってゆっくり読みなよ」
「でも、おいら、今晩は母ちゃんのところに泊まるから、ちゃんと見られるの
は明日以降になっちまうぞ」
「かまわないよ、その本の貸出期限はあと五日もあるんだから」
 そう言って敬之は別の書籍も一冊、押しつけるように楽俊に渡した。鳴賢自
身が小脇に抱えている数冊の本も、楽俊に貸すためのものだ。楽俊は「いつも
すまねえ」と言って、ぺこりと頭を下げた。
 これでも入学当初に比べれば、便宜を図ってくれるようになった司書もいる
から環境は格段に良くなったのだ。以前、延台輔が大学の視察に訪れた際、半
獣ながら成績優秀な楽俊に直々に声をかけたという椿事のおかげだろうが、こ
こ数日のように、相変わらず半獣に冷たい司書に当たってしまった場合は別だ。

59永遠の行方「予兆(26)」:2008/04/27(日) 12:26:49
「それにほら、こっちは献章(けんしょう)が持ってた本。これも楽俊に貸し
ていいってさ。その代わり、例の比較判例集のまとめを手伝ってほしいって」
「ああ、かまわねえ」
 そんな言葉を交わしながら、三人とも廊下に出て楽俊の房間に向かう。司書
に又貸しを告げ口する輩がいるので、本は袋に入れて見えないようにして、そ
れぞれが小脇に抱えている。
 楽俊が取るべき允許はあと三つ。卒業が具体的に見えてきたのも、こうして
日頃から本を融通してくれる相手が何人もいたことが大きいだろう。
「そういや、阿興(あこう)から手紙が来たんだって?」
「うん、結局里に帰るってさ。みんなによろしくって書いてあった」
「だから最近は献章も焦ってんだな。周りがこうぽろぽろ欠けてっちゃ。あい
つの同期は半分も残ってないんじゃないか?」
「それ言ったら、玄度も他人事じゃねえぞ。今日も外出してたようだが、大丈
夫なのか、あいつ」
「うーん。さすがにそろそろ色恋にうつつを抜かしている場合じゃないんだが
な……」
 そんなことをとりとめもなく話しながら、楽俊が自分の房間の扉を開ける。
すると、夕食前に確かに消したはずの灯りがぼんやりとともって室内を照らし
ており、閉めたはずの書卓の側の窓も大きく開いているのが見えた。
 一瞬警戒した三人だが、奥の臥牀にいた人影がむくりと起きあがったのを見
て、彼らは一様に安堵した。
「毎度毎度のことながら、びっくりさせないでくださいよぉ」
 がっくりと肩を落としてぼやく楽俊に、六太は「わりぃ」と力なく笑った。
こうしてよく訪ねてくるようだから、楽俊は頻繁に会っていたのかもしれない
が、鳴賢や敬之が六太の姿を見るのは久しぶりだった。
「気分が悪くてさ、ちょっと休ませてもらってた。それで空気を入れ換えよう
と思って窓も開けてたんだ」
 そう答える六太の声には、確かに張りがなかった。
「なんだ、てっきりおまえが窓から入ってきたのかと思ったぜ」

60永遠の行方「予兆(27)」:2008/04/27(日) 12:30:05
 拍子抜けした鳴賢がそう言うと、六太は「まさかぁ。ここ、何階だと思って
んだよ」と笑った。
「それと、ほい、これ。鳥の餌」
 懐をまさぐった六太が、取り出した小袋を楽俊に差し出した。
「ああ……いつもすんません」
「鳥?」
 話が見えずに、敬之がぽかんとしたので、鳴賢が言った。
「もしかしてあれか? 文張のところで何度か、綺麗な大きな鳥が窓枠に止ま
っているのを見たことがあるけど。餌づけでもしてるのか?」
 すると楽俊は、なぜか口ごもった。
「そのう。別に餌づけをしてるわけじゃねえ。もちろん飼ってるわけでもねえ。
勝手に飛んでくるんだ。おいら、大抵は今みたいに鼠の姿だから、人間と違っ
て鳥も警戒心が薄れるのかもな」
「へえ。で、その鳥の餌を六太が?」
「まあな。いつも楽俊には泊めてもらったりして世話になってるし、お礼とい
うか賄賂というか」
 六太がぺろりと舌を出して悪戯っぽく言ったので、鳴賢は敬之と顔を見合わ
せて「随分ささやかな賄賂だな」と苦笑した。
「で、こうして賄賂も渡したことだし、今晩泊めてくれねえ?」
 拝むような仕草をした六太に、楽俊は呆れたように言った。
「ご気分が悪いんでしょう? こんなとこで油を売ってないで、早くお帰りに
なったほうが」
「わかってねーな、楽俊」六太は唇を尖らせた。「気分が悪いから、まっすぐ
帰りづらいんじゃねーか。だいたい十日ぶりに帰ったら、連中の嫌味攻撃が待
ってるに決まってる。近場で休んで心構えをしとかないと」
「十日……またですか」
 ふたたび肩を落とした楽俊の横で、鳴賢も呆れて「それだけ遊び歩いていて、
よく小言で済むな」と言った。すると六太は不満げに頬をふくらませて抗弁し
た。
「俺なんか、しょ――風漢に比べりゃ可愛いもんさ。あいつと一緒なら俺も二、
三ヶ月行方をくらませたことはあるけど、あいつはひとりでも平気でそれくら
いいなくなることがあるんだから」




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