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本迹関連の部屋

1美髯公:2009/07/18(土) 14:25:22
 「本迹」と一応銘を打ちましたが、「本迹」に限らず「教義一般」も

こちらで、お願いいたします。

話が入り組んでくれば、その時は分割も考えますのでm(__)m

2沖浦 克治:2009/07/18(土) 14:30:15
 ここに書かせていただきます。
 内容は私の板に書いたものですので、マルチポストと判断なさるなら削除くださいませ。
 本当は本迹にスレッドが立ってから書きたかったのですが、何方もお立てにならないのでここに書かせていただきます。

 曼荼羅は、虚空会に建った宝塔を書き写したもの。
 御書にあります。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 『すりかたぎ』とは、書き写すとの意味ですね、現在の印刷やコピーです。
 お曼荼羅は虚空の宝塔を書き写したもの。ですので、宝塔が本来の姿で本、お曼荼羅は書き写されたもので迹です。
 双方の対比では必然的にこうなります。
 
 では、虚空の宝塔は何を書き写したものか?
 先生のご指導にありますね。

 『この宝塔は、衆生己心の妙法を虚空に写し取ったものですから迹です。
 衆生己心の妙法が本です。』(趣意)

 これではっきり致しました。
 お曼荼羅は、宝塔に対して迹。
 宝塔は、衆生己心の妙法に対して迹。
 ですので、衆生己心の妙法は双方に対して本。
 お曼荼羅は他の二つに対して必ず迹。

 物凄く単純なんですよ。
 所が複雑にして飯食ってた人がいるんです。
 日蓮正宗という宗派のボンさんですよ。
 以下に彼らの邪義を貼っておきます。
 天城さんや、恋さん、その他の眺め人が、この通りの意見を何度も何度も書いていますね。

 【破邪顕正】創価教義検証館 から、抜粋引用。

 池田名誉会長と教学部幹部は、「如来神力品第二十一」における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、
仏と九界の衆生との垣根を取り払い、「凡夫でしかない」という従属的な信仰的立場から、
「凡夫こそ仏なのだ」「人間こそが最高に尊貴なのだ」という主体的な信仰への変革こそが法華経の心 であるとしている。
その文証として日蓮大聖人御書全集から『諸法実相抄』の 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(全集P1358)
同じく、『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(全集P1359)を、その究極の表現として挙げ、
 「信仰実践者である衆生・凡夫こそ本仏であり、教えを説く仏は衆生の影(迹)の役割となる。
であるから、仏は我等衆生にとって主師親三徳を備えているのではなく、実は我等衆生が主師親三徳を被らせることによって仏を尊貴たらしめているのである。」
 「凡夫こそ本仏。仏は迹仏にすぎない。」
という、まさに「仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言」であると宣揚している。
 さらに、「絶対者と思われている神仏は、 実は凡夫=人間の影であり、用(働き)であり、人間のための手段にすぎない」として
「人間のための宗教」の大宣言であるとし、「人間が上、仏が下」とする創価学会独自の法義解釈を展開している。

3沖浦 克治:2009/07/18(土) 14:31:54

 命の顕れ方です。

 大聖人様の人としてのお姿は迹ですね。
 少し微妙な問題ですが整理いたしましょう。

 『下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。』
 (百六箇抄)

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 この御文が本物かどうか?
 ひとまずおきます。
 人として生きる姿は、命の永遠性から見ると、迹です。
 命そのものが己心の妙法で本で仏。
 私はこのように思います。
 ですので、私共も、大聖人様も現世は仮の姿で迹。
 命そのものが本です。

 『故聖霊は此の苦をまぬかれ給いすでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、』
 (上野殿後家尼御返事)

 命そのものは火にも焼けない。
 このように仰せですね。

 方便現涅槃。と言いますが、死ぬ事は方便だと説かれます。
 ですので、生きる事も方便です。
 命が、死んだり生きたりする事自体が命の性質の現われで、本質は更に深いところにある。
 これが仏法です。

 若退若出が命の本性です。

 『生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり』
 (御義口伝巻下)

 ですので、大聖人様も私共もこの世は仮の姿です。
 そして、仏と衆生も仮の姿なんですよ。

4管理人:2009/07/20(月) 22:19:26
沖浦さん、貴殿はその仮の姿をどう現じていくのでしょうか。
それによって、貴殿が仏にもなれば、四悪趣の衆生にもなる。
この信心は現世で成仏をするための信心であるのは言うまでもありませんが、例えば今が臨終の時であるならば貴殿は健やかに臨終を迎えられるでしょうか。
遣り残していることはないか、明日死んでもいいのか。
それぐらい今日を悔いなく戦ったのか。
ご本尊に申告できる唱題をお互いに心がけて行きましょう。
南無妙法蓮華経、臨終正念。

5沖浦克治:2009/07/21(火) 07:35:52
 仮の姿をどう現じて行くのか??

 考えもしませんね。
 明日死んでも、今この瞬間死んでも、思う事は一つだけなんですよ。

 この次も創価で行くぞ!!

6管理人:2009/07/21(火) 16:05:32
沖浦さん、すごいですねそれは。
まだお若いです、負けそうです。

7沖浦克治:2009/08/01(土) 06:15:01
 信じる宗教や思想、信条の如何を問わず、人を憎めばいくら創価の御本尊様にお題目を唱えても功徳はありません。
 怨嫉謗法を言う大謗法ゆえです。

 『何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、』
 (曾谷殿御返事)

 仏敵だとして、人を憎めば怨嫉謗法です。 
 ですので、この御文の通り功徳はありません。
 人を憎んでいるかどうか?
 簡単に見分ける方法があります。
 希望と夢を語るか?
 嫉妬と、恨みを語るか?
 この差を見れば簡単に判明致します。
 
 仏敵は自分の命のなかにある。

 これを知っているか?
 しらないか?

 敵が命の中なら、仏も同じ所にいるのです。
 曼荼羅の中にいるのではありません。

 人が本、仏が迹。
 曼荼羅は迹。
 拝む人が主体で本。

8造素 ◆9LvDHshvXI:2009/08/02(日) 21:55:19
沖浦様、はじめまして。よろしくお願いいたします。
謗法があれば功徳は無い。おっしゃるとおりです。
怨嫉についてもう少し詳しくご教授いただけますでしょうか。

9沖浦克治:2009/08/03(月) 07:16:42
 造素 さん、おはようございます

 怨嫉は、十四謗法の最後の四ッです。
 十四謗法は以下の通りです。

憍慢(きょうまん) - 増上慢と同義。慢心。おごり高ぶり仏法を侮ること。
懈怠(けたい) - 仏道修行を怠ること。
計我(けいが) - 我見と同義。人間我に執着し、自分考えで仏法を判断すること。
浅識(せんしき) - 自身の浅はかな知識によって正法を否定すること。
著欲(じゃくよく) - 欲望に執着して仏法に不信すること。
不解(ふげ) - 仏法を理解しようとせず自己満足すること。
不信(ふしん) - 仏法を信じないこと。
顰蹙(ひんじゅく) - 顔をしかめて仏法を非難すること。
疑惑(ぎわく) - 仏法を疑い惑うこと。
誹謗(ひぼう) - 仏法を謗(そし)り悪口を言うこと。
軽善(きょうぜん) - 仏法の善を信受する者を軽く見る・蔑視すること。
憎善(ぞうぜん) - 仏法の善を信受する者を憎むこと。
嫉善(しつぜん) - 仏法の善を信受する者に嫉妬すること。
恨善(こんぜん) - 仏法を信受する者に対して恨みを抱くこと。

 このうちの十までは御本尊様に自行化他のお題目を唱える事で、チャラになります。
 所が、最後の四種類はいくら創価でがんばっても犯すと罰が出ます。
 ここで注意すべきは、この四種類の但し書きです。

 仏法の善を信受する者を。

 とありますね。 
 私もそう習ってきました。 
 でも、大嘘なんですよ。
 御書にあるでしょう。
 身子(舎利弗の過去世の名前)がバラモンに目をあげて、臭いからいらないと踏み潰されました。
 その時身子は、

 こう言うどうしようもない奴は救わなくてもいい。

 こう、思って菩薩の行をやめたんです。
 それで地獄に堕ちたと説かれます。
 自分が折角目を上げたのに、踏み潰した。
 憎んだんです。
 軽んじたんです。
 恨んだんですよ。
 妬んだかどうか?
 わかりませんね。

 バラモンは正法(仏法)なんかやってませんよね。
 だから、バラモンじゃないですか。
 目をくれと言うから、自分の目を繰り抜いてあげた。
 痛いですよ、麻酔だってありません。
 世界中で、今出来る人10人い無いと思います。
 それを、これは菩薩の修業だから。と実行したんです。
 すると、もらったバラモンは、

 こう言う臭い目はいらない!

 踏み潰したんです。 
 これ、普通許せますか?
 この話聞いて、それは身子がいけない。と思いますか?
 私は思えません。
 所が、大聖人様は、それが退転だ。と、仰せです。
 仏法はね、修業する側には物凄く厳しい教えなんです。
 救われる側には物凄く甘いんです。
 開目抄のこの御文は、私には、

 一切衆生が本来仏だから、誰でも彼でも、憎んだり、恨んだり、軽蔑したり、嫉妬すれば、即、怨嫉謗法なんだよ。

 と、大聖人様がご指南だと思えます。
 一昨年、気が付きました。
 それまで45年ほど、気付かないでいたんです。
 法華講の方々との、法論と、3度の質問会でお教えいただきました。
 ですので、法華講の方々には感謝申しております。
 開目抄です。

 『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』

10管理人:2009/08/03(月) 18:50:12
沖浦さん、大変勉強になる貴重な体験を書き込んでくださり感謝します。
そうですよね、人は人の中でしか成長することはできない。
現実の世界が本当の仏道修行の場であります、NETがその現実における修行の掛け橋になれればこれほど有益な手段はないと確信しております。
沖浦さんにはその率先の一人になって頂いて、これからのNET界を変えて頂きたいと思います。
わたくしも微力ながら、後に続いて行きたいと決意しております。
貴重な体験をありがとうございます。

11沖浦克治:2009/08/03(月) 22:51:08
 管理人さん

 ネットは布教の有効な武器になると存じます。
 然しながら、現在、ネットの創価を名乗る人の大半がレベルが低すぎます。
 現実社会で頑張ってこそのネットです。
 それが、眺め人は反対なのですね。

 お互い頑張りましょうよね。

12造素 ◆FuMfqbppQY:2009/08/04(火) 00:18:57
沖浦様。ご丁寧にありがとうございました。
早朝からスラスラとご解説すばらしいですね。
知識が身についていないと出来ない事ですね。
眺め人らが本棚をひっくり返して書物を散らかして
あーでもないこーでもないといいながら
書き込みするのと大違いですね。

13沖浦克治:2009/08/04(火) 05:40:31
 造素 さん、おはようございます

 御書は一編を深く読むことが大切何です。
 丸暗記するまで読みふける。
 寺子屋教育と同じなんです。 
 生徒にテキストを丸暗記させるのです。

 音楽と同じです。
 オリジナルを作りたがるアマチュアはトップには昇れません。
 面白い事に、個性が出ません。

 言葉と同様ですね。
 日本語発明した人いませんでしょう。
 私共は言葉を覚える時、徹底した模倣から入ります。
 赤ちゃんと、幼児期です。
 でも、いつの間にか、隣の部屋で一言聞いただけで、今誰が喋っているってわかるじゃないですか。
 徹底した模倣が、本物のオリジナルの基礎なんです。

 ルイ・アームストロングという、トランペット奏者がいました。
 一世を風靡された方でした。 
 彼が田舎から出て、プロになるべく出発する時、心に秘めた言葉がありました。
 トランペットの先生に教わった言葉です。

 基本を学びそれから外れろ。
 自分以外の誰をも目指すな。
 
 御書も同じなんです。
 読んで読んで読みふけって、その上で現実社会で戦って、同苦して、初めて読めます。
 私も少しだけ読めるようになりました。
 眺めててもわかりません。

14佐藤義徳 ◆TxJTOsA7Go:2009/08/10(月) 22:46:50
こんばんは。佐藤です。

宇宙の森羅万象すべてが、衆生を取り巻く全ての環境が衣報でもあるが、妙法であり御本尊でもあります。 肉眼で見ることができます。曼陀羅も同じく肉眼で見ることができます。

衆生己心の妙法も御本尊であり正報にも例えられます。
勿論、肉眼で見ることができません。

日本古来では、主にアイヌ民族が先住民族であると、政府は認め始めています。
アイヌ民族の前身は縄文人であり、日本人の祖先なのです。

大陸からの北方系渡来人とは違いますが、どちらも日本人であることは間違いありません。

アイヌ民族は人間を取り巻く環境全てに感謝をし、【本】と捉え、祈りを捧げてきました。
衆生の生命には神は内在しないという考え方です。
これを一応は、多神教、偶像崇拝、宗門曼陀羅崇拝と類似しています。

原理主義、外道信仰とも言います。

私たち衆生己心の妙法そのものが御本尊です。
肉眼では見えませんが、正報にも例えられます、衆生己心の妙法【本】の仏界を喩現させるには、お題目をあげることです。
これを内道信仰と言います。

日蓮正宗の原理主義、外道信仰との違いを、スタンスの違いを明確にしなければならないと考えられます。

15沖浦克治:2009/08/15(土) 06:38:34
 本迹を,最も世間で納得を得られる捉え方は、目的が本、手段が迹。でしょう。

 何のため、の、何が本、ためが迹。
 一言の中に本迹があります。
 そして、分割は不可能です。
 セットですね。

 行為と、目的です。
 目的があっても、行為がないと達成は不可能ですし、目的がなければ正しい行為は起こせません。
 衆生救済。という目的があって、はじめて菩薩の行が可能です。
 衆生が本で、菩薩は迹ですが、菩薩の中だけでは、四弘誓願と言う誓いが本、そのための行動が迹。
 然しながら、行動にも本迹があります。
 誓願にそった行動が本、外れた行動が迹。
 本迹はいくらでも細かく判定可能です。

 仏法と衆生では、衆生のための仏法ですから、人が本、仏法全体が迹ですね。
 仏は仏法の中に含まれますので、

 仏が迹、衆生が本。
 衆生のみにかぎると、本来は仏様ですので、仏としての立場が本、人としての立場は迹になります。
 人は本来仏様ですので、自身の命が全て備えた仏であり、三大秘法も全て自身に備わったものだ。
 こう決める事が本覚です。
 虚空会とか、御本尊様はその説明です。
 これが、仏法の基本原則です。
 これを外すと、外道になります。

 『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
 (一生成仏抄)

 素直に拝すれば簡単に理解が出来ますね。
 所が、複雑に読む職種の人がいます。
 日蓮正宗の僧侶と言う生業の方です。
 この人たちは、一切衆生と仏を別次元にし、その次元の狭間で受け渡しをすることがご商売です。

 イタコですね。
 霊界と現世の橋渡し役です。
 仏法では霊界はありません。
 若退若出が命の本質です。

 『又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、』
 (御義口伝巻下)

 イタコは不要です。
 同じく、凡夫のことを人間と言い、仏が本来で衆生が仮の姿。
 これが仏法ですから、ご本仏様と、法と、お曼荼羅があれば、誰でも成仏可能です。
 すると、僧侶は不要になります。
 指導者は必要ですが、僧侶と言う職業にはこだわる必要がありません。
 過たず方向を示せるコーチングが必要ですが、仏法は現実社会で開く教えなので、在家しかいりません。
 出家は不要です。

 曼荼羅至上主義の眺め人は、出家待望論ですね。
 邪義です。

 サ〜〜、眺め人はどう言い返すかな〜〜??
 とにかく私が何か言うか、現世でアクションを起こすと、何が何でも難癖つけないと、ネットで住み場所なくなる人たちです。
 反沖浦グループ。
 ネットの眺め人ですね。
 屁理屈楽しみにして待っていましょうね。
 笑ってあげましょう。

16管理人:2009/08/17(月) 18:49:53
佐藤義徳さんこんばんは。

もうすでに明白ですね、創価学会は今もなお広宣流布し続けておりますが、宗門は衰退の一途をたどっております。
結果の伴わない宗教など邪宗と言えるでしょう。

17管理人:2009/08/17(月) 18:57:43
沖浦さん、こんばんは。

わたくしはこの掲示板を開設するにあたり、もろもろの掲示板管理者に開設のご案内メールをしております。
でもいまだにこられない所を見ますと情けなくなります。
NETでしか批判できない日蓮仏法を下げる輩がこの世界には蔓延しているようです。
どうか、現実の世界で戦わせてさしあげましょう。
それが慈悲というものです。

18沖浦克治:2009/08/17(月) 21:33:20
 管理人さん

 たまには私の板にもどうぞ。

 お互いに現実社会で勝利いたしましょうね。

19管理人:2009/08/31(月) 11:15:54
沖浦さん有難うございます。

お気持ちだけ受け取っておきたいと思いますので、お互いに現実で戦って参りましょう。

20taka:2009/11/11(水) 16:16:27
沖浦克治さん
本迹論について教えてください。
私の「本迹」の認識は、
①、本地と垂迹
②、本門と迹門   の二つと認識していますが、沖浦さんは、この二つから展開されていると理解しても良いのですか?

21美髯公:2009/11/12(木) 15:35:28
 おや、「幸」の常連のtakaさん?

おはつでんなァv(^^、こないな辺境な板まで巡回されておますのか?

今後とも、この板盛り上げてやってな。よろしゅうに

23taka:2009/11/12(木) 19:57:07
沖浦克治さん
本迹論について教えてください。
私の「本迹」の認識は、
①、本地と垂迹
②、本門と迹門   の二つと認識していますが、沖浦さんは、この二つから展開されていると理解しても良いのですか?

24美髯公:2009/11/13(金) 12:34:26
 >>22
 おはつでおます。無名人はんm(__)m

チクッと、お尋ねいたしますが この >>22 っちゅうのはミスリでっか?

それとも、ワザと、でしゃろか?ミスリなら管理人はんに削除要請を

出そうか思っとりますよってに。どないなんでしょ?

25無名人:2009/11/13(金) 17:52:11
ごめんなさい。ミスです。

26taka:2009/11/13(金) 17:58:07
美髯公さん
沖浦さんをここに呼んでくださいませんか。

27美髯公:2009/11/14(土) 11:04:10
 というこで・・・・・と思ってたら、早ァ〜削除されとりますがなァ(^^;

手際よい処置、お手数かけよりましたm(__)m

 >>26
 おはようさんです、takaさんm(__)m

ヘッ!(゚o゚; なして、そうなりますねん(^^;ゞ

と言う、弄りは止めときまっさ(笑

一応、メ−ルは打っておきましたが、条件は「手隙な時」と

入れておりますよってに、焦らず気長に待ちまひょ。ねv(-_^

28taka:2009/11/14(土) 18:01:37
ありがとう

29沖浦克治:2009/11/15(日) 21:44:49
 takaさん

 やって来ましたよ。
 本門と迹門は私は意識していませんね。

 どっちが目的に適うか?
 どっちが手段か?
 こう言うたてわけが主ですね。

30taka:2009/11/16(月) 01:59:40
沖浦克治さん
私の拙い教学力での質問ですが。
目的が本、手段が迹。とのことですが、世界平和が本、広宣流布が迹でいいのでしょうか。

31沖浦克治:2009/11/16(月) 06:42:47
 広宣流布は民衆救済が目的ですね。
 世界平和はそのための必須条件です。
 すると、広宣流布の中に含まれます。
 ですので、広宣流布が本で世界平和が迹となります。
 然しながらこれは立場と見かたで反対になりえます。
 平和が欲しくて信心する国民が多数いれば、そこでは平和が本で広宣流布は迹になります。
 法華経の本迹は絶対的な真理での優劣です。
 多くの人はこの本迹に惑わされています。
 真理は価値ではございません。
 認識の対象です。
 牧口先生は真理を価値から外されて、利益を入れられました。
 どっちが利を生むか?
 創価の価値観ですね。
 すると、爾前経で救われる衆生がいるなら、その衆生はその教えが本です。 
 後の教えは全て迹です。
 ニュートン力学より、相対性理論が真理として優れます。
 然し私共の生活はニュートンで問題ありません。
 ですので、相対性理論は真理として優れていても、一般化致しませんね。
 同じ理屈です。

32taka:2009/11/16(月) 14:10:29
沖浦克治さん ありがとうございます。
広宣流布と世界平和の、本迹の関係理解できます。つまり、「必要条件」「十分条件」「必要十分条件」という考え方がありますが、その考え方でいいのでしょうか?

それから「法華経の本迹は絶対的な真理の優劣です」と言われるのはどういう意味でしょうか?
是非教えてください。

33沖浦克治:2009/11/16(月) 17:25:00
 taka さん
 爾前経では、釈迦は弟子達に言うんです。
 お前達とはこのインドではじめて会ったんだ。
 そして今化導をしている。
 それが、法華経迹門では、三千塵点劫と言う大昔に、お前達と私は一緒に修業したんだ。
 その縁で自分はインドに生まれて仏になった。
 そしてお前達を化導している。
 と、過去世からの弟子達との関係を明かしました。
 本門では、それを否定して、自分はインドに生まれる前から仏だったんだ。
 五百塵点劫と言う物凄い昔に実は仏になった。
 その後あらゆる娑婆世界で説法教化してきた。
 その時お前達もズート教えて来たんだよ。
 と、自分がインドで仏になったんではなくて、遥か以前から仏だったと明かすんです。
 始成正覚を破るといいます。
 始めてインドで正覚(正しい悟りで成仏を示します)を得た。と言う立場を破ったんです。
 それまでは、インド応誕の釈尊と言って、インドで生まれてインドで修業をして、インドで仏になった釈迦。
 ところが本門寿量品では、インドに生まれる遥か昔から仏だった。
 すると、16歳で出家して、30歳で明の明星が光る瞬間悟りを開いて成仏したのは一体なんだろうy?
 こうなりますね。
 だって、インドに生まれる以前から仏だったんですから、30以前も当然仏じゃないですか。
 でも、30歳以前と以後では全く違う立場なんです。
 現実にはそうなんですよ。
 以前は法は説けません。
 以後は仏法を説きます。
 この差は何か?
 30歳で思い出したんです。
 悟りは、俺は元々仏だったんだ。ですね。
 すると、一切衆生も忘れているだけじゃないなのかな?
 と言う可能性が出ます。
 でも、釈迦はここまでなんです。
 その後は大聖人様の法になります。
 ここまでおわかりいただけましたでしょうか?

34taka:2009/11/16(月) 17:51:50
沖浦克治さん
解ります。何度も、教学試験で勉強してきました。
つまり、「如我等無異」をおっしゃりたいのですね?

35沖浦克治:2009/11/16(月) 21:51:31
 takaさん、今晩は

 如我等無異ですね。
 元々人は仏様で大聖人様と何一つ変わりがないのです。
 ですが、借りにこの世ではさまざまな姿と境涯を現じています。
 こう言うと、元々仏なら、仏道修行はいらない。と、文句を言う人が必ずいます。
 人は人として生まれますが、キチンと人間社会で育たないと人にはなりません。 
 同じくチンパンジーを人間と同じ環境で育てても、人にはなりません。 
 元が猿ですから。
 人が成仏すると言うことは、元が仏だからです。
 御書には、日蓮が弟子檀那等。と書かれてあります。
 日蓮だけで言い場面でもしばしば出ますね。
 仏様の慈悲、如我等無異が顕れたお言葉です。

36taka:2009/11/17(火) 11:05:32
沖浦克治さん
「人」と「仏」が、「如我等無異」であることを「本迹」で理解するのは、少し無理があるのでは?
私は、「人」と「仏」が、ともに「本地」は同じで、この地に「垂迹」したと解釈していますがいかがでしょうか?

37沖浦克治:2009/11/17(火) 17:17:00
 takaさん

 仏と衆生の本迹は一つではないのです。

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 『本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。』
 (御講聞書)

 最初の御文は、人は迹で本は仏。
 後のものは、反対ですね。
 どうしてでしょうか?

38taka:2009/11/17(火) 23:56:01
沖浦克治さん
 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』 (百六箇抄)

下種…下種仏法
寂照…悟りの境地
実事…真実
体用…体は法の本体、実相。用は、体にそなわる働き。
無上…最高・最上
生仏一如…「生」は迷いの衆生、「仏」は悟りを得た仏陀の事、「一如」は全く等しく差別がないこと。
事…事相・事法のこと。理に対する語。
本覚…本仏の正覚

通解;下種仏法における真実無上の悟りの本迹は、事の上での生仏一如であるという悟りである。それは「本地は仏」であり、「垂迹は人」である。

『本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。』
 (御講聞書)

本末究竟等のこと。相・性・体は凡夫の姿であるが、南無妙法蓮華経の実践により、用である、力・作・因・縁・果は仏になる。

すみません、日ごろ馴染のない御書なので、かなり、己義を交えてしまいました。教えてください。

39無名人:2009/11/18(水) 11:54:55
沖浦克治さん
 最初の御文は、人は迹で本は仏。
 後のものは、反対ですね。
 どうしてでしょうか?・・・・・・・

「私の己義」をあえて言わせてもらえば、この2文に矛盾はないと思います。
「法性の淵底・玄宗の極地」が地涌の菩薩の住所であり、目指すは、「九識心王真如の都「です。
御本仏日蓮大聖人が凡夫の姿でこの娑婆世界にお生まれになり(本迹)、我々弟子とともに目的地まで進んでいく(本末)。
だけれど、勿体ないことですけれども、この世に、「仏・菩薩」が存在しなければ、「悩める衆生」は、成仏しない、又「悩める衆生」がいなければ、「仏」の存在意義がない。まさしく、「仏の使命は、衆生救済にある」と。沖浦さんは、仰りたいのだと思うのですが、いかがでしょうか?
私も、そう考えます。

40沖浦克治:2009/11/18(水) 23:05:16
 人と生まれるのは仮の姿で、本地は仏だ。
 こう、考えると人が迹仏が本。
 ですね。

 然しながら、仏は人の幸福のために法とを説きに出現する。
 この捉え方では人が本、仏が迹です。

 捉える側のスタンスの相違です。
 ですから、どっちでも正解でしょう。
 要するに、

 一切衆生の本地は仏で、あらゆる仏達はそれを気付かせる為に出現し法を説く。

 これをキチンと理解すればいいのだ思います。

41taka:2009/11/19(木) 21:23:18
沖浦克治さん
ここまでは、分かったような気がします。
ここでは、「仏」と「人」の二つに分けての本迹ですが、「仏」にも、優劣といいますか、上下はないのでしょうか?
もちろん、「人」にもですが?

42沖浦克治:2009/11/20(金) 07:15:54
あると思いますよ。
 あくまでも現象面ですが。
 どの仏も全て南無妙法蓮華経如来ですね、本地は。
 私共も同じです。
 本地は差別が全くありません。
 然し現実社会では差別があるでしょう。
 お金持ちだったり、貧乏だったり。
 持てる人持てない人。
 天才と鈍才。
 一杯あります。
 でも、これは世間と言う所での仮の姿ですね。
 経文にはとあります。
 方便で死ぬ、ですから生きるのも方便です。 
 生死不二が仏法ですから。
 ですので、この世の姿は全て方便です。
 生きても方便死んでも方便。
 本地は南無妙法蓮華経如来。
 この世の姿がそのそれぞれの命の垂迹。

 優劣も上下もあっていいんじゃないでしょうか?
 
 『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
 (百六箇抄)

 この御文をお互いに思索致しませんか?

43沖浦克治:2009/11/20(金) 07:17:35
 抜けていました。

 経文にはとあります。〜経文には方便現涅槃とあります。

44taka:2009/11/20(金) 19:36:05
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
 (百六箇抄)

久遠自受用報身の本迹…本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮=日蓮大聖人
男は本女は迹知り難き勝劣なり…勝劣などあってはならない
能く能く伝流口決す可き者なり…伝えていきなさい。

通解;我々大聖人門下は、男女の差別、勝劣は一切ないということを、伝えていきなさい。(迷約)

申し訳ありません。「百六箇抄」に関しては、全然参考書もなければ、先生の指導も私の周りには見当たりません。ゆえに沖浦さんとの対話が成り立たないのではないかと思われます。よろしく御賢察ください。


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