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自覚スレ
1
:
名無しさん
:2015/02/17(火) 19:05:39
自覚ワークや内観をしていて気がついた自分の観念について書いてみませんか?
306
:
慧空
:2019/05/19(日) 09:04:50
高橋さんへ
書き込みありがとうございます。
返事はブログコメントに書きました。
307
:
クスノキ
:2019/06/16(日) 23:06:41
客観的に見ると割と恵まれた状況にいるけれど、
つらいこともあるしまだまだ足りないと感じていた。
ある時気付いた。
割と恵まれた状況にいるのだから満足してもいいのではないか。
さらに気付いた。
あっ、満足って自分でしていかなきゃいけないんだな。
足りないと感じたら満足しようとする。
少しだけ心地よくなって手ごたえを感じる。
足りないと感じるたびに満足しようとする。
その分心地よくなる。
308
:
ヨツカ
:2019/09/02(月) 22:30:11
質問させてください。
生きていくには日常、やらなければいけないこともあります。計画性を持って先を見通しながらコツコツやって行くべきこともあります。
一方、毎瞬毎瞬訪れる、その時々の衝動ややりたいことがあります。やりたくないという感情もあります。
普通、自分の感情をコントロールしながらやるべきことをやっていくのだと思いますが、慧空さんは悟った後と悟る前とではそれがどのように変わりましたでしょうか?
私は自分をコントロールしなければいけないという欲求が強いのかもしれません。また、そうしなければまともに日常生活を送れない、そうでなければすべてを後回しにしてしまったり、頭の整理がつかなくなって葛藤が増えてしまうと感じています。
しかし、自分をコントロールしなければと、思えば思うほど体が動かないという葛藤、悪循環を何十年も繰り返してきました。
自分を上手くコントロールしなければいけないと言う考えにずっと苦しめられていながら、自分の子供にもそれを要求している自分がいます。とても放っておくことができないのです。同じ苦しみを子供にも与えようとしていかのような自分がいます。
自分にとってはコントロールする欲求を手放すという事が、ほとんど生きることや向上心を諦めたことに等しい感じなのです。全てを放棄したような。自分の夢も理想も希望も。
自覚をおこなうことや本心を大事にするというのは、感覚としてはそれに近い感じがしてしまうのです。
309
:
慧空
:2019/09/03(火) 17:34:26
ヨツカさんへ
書き込みありがとうございます。
>慧空さんは悟った後と悟る前とではそれがどのように変わりましたでしょうか?
私は悟る前は計画好きで(なかなか計画通りにはいかないのですが)、目標やそのためのやるべきことを定めてから、
日々の取り組みを行っていくということをやっていました。
そのために、自分を律して、邪魔な感情な欲をコントロールしていました。
悟った後暫くは、仕事も出来ず、何も手に付かず、日常の生活に最低限必要な事柄だけを何とかこなして、
あとは一日中ボーッと過ごすということを1年半くらい続けました。
悟る前は、私もヨツカさんのように、感情や欲を抑えるというか、コントロールしなければいけないという強く囚われというか、
思い込みのようなものがあり、必死にそれをやっていました。
しかし、そのような、これはダメとか、こうじゃなきゃいけないとか、こうあるべきなどの囚われや思い込みは、
悟る過程で、自覚(気づきを含みます)を通じて一つずつ手放していき、
最後にはそのような囚われが何もない状態になりました。
正確に申しますと、こうあるべき等の囚われはありませんが、「こうしたい」という欲求というか、
気持ちは残っています。
例えば、人に迷惑をかけちゃいけないという囚われは外れたのですが、人に迷惑をかけなくないという気持ちは
残っていますので、悟った後もできるだけ人に迷惑はかけないように行動しています。
まとまりませんねw
どうしましょうw
でも諦めずにもう一踏ん張り書き続けてみますね。
悟った後の私は、感情や欲が普通の人に比べて恐らく少なくとも半分以下に減っています。
どのくらい減っているのか明確に表現するのは難しいですが、間違い無くそうなのです。
減ってはいますが、感情も欲も残っています。
ですからその感情や欲が出てきます。
そのとき、今の私は、いつもじゃないですが感情や欲を自分も以外な程ストレートに外に出してしまう
ことがあります。
悟る前の自分ならあり得ないくらいストレートにそれらを出してしまうことがあります。
今は感情や欲を外に出してはいけないという囚われがありませんから、ストレートに出てしまいやすくなったのだと
思っています。
そうは言っても普段の今の私は、相変わらず感情や欲を余り外には出しません。
時々ストレートに出てしまうことがあるだけです。
なぜなら、感情や欲は余り外に出したくないと思っているからです。
どうしましょう、益々まとまらなくなってきましたw
一旦切ります。
310
:
慧空
:2019/09/03(火) 17:47:30
続きです。
>自分を上手くコントロールしなければいけないと言う考えにずっと苦しめられていながら、自分の子供にもそれを要求している自分がいます。とても放っておくことができないのです。同じ苦しみを子供にも与えようとしていかのような自分がいます。
それでいいんだと思いますよ。
私は悟ったから感情をコントロールしなくてもいいことを知っていますが、
人の成長過程には、感情をコントロールすることを学ぶ過程が必要なのだと思います。
私も自分の息子に、感情や衝動をコントロールすること、自分を律することを叩き込むように
徹底的に伝えています。
>自分にとってはコントロールする欲求を手放すという事が、ほとんど生きることや向上心を諦めたことに等しい感じなのです。全てを放棄したような。自分の夢も理想も希望も。
>自覚をおこなうことや本心を大事にするというのは、感覚としてはそれに近い感じがしてしまうのです。
仰りたいこと、分かります。
おそらく、今はまだ普通の人生を生きることに集中した方がよろしいのかも知れませんね。
ブログにも書いたことがあるのですが、
32歳くらいの頃、ひょんなことから明け渡しの悟りに入りかけたことがありまして、
これ以上進めば、取り返しが付かない状態に自分が変わってしまうような気がして、
またそれと共に、今の自分にやり残したことがあること(結婚と仕事)が分かり、
明け渡しの入口の前で引き返したことがありました。
殴り書きのまとまりのない文章ですみません。
お答えになりましたでしょうか?
何か気になられることがありましたら、遠慮なく書き込みください。
311
:
ヨツカ
:2019/09/04(水) 11:16:56
ご返事ありがとうございます。
このような質問をさせていただいたのは、最近心身の不調が続いており、かなり参っている状況もあってのことでした。(医者には自律神経の失調だろうと言われましたが。)
自分自身でも明らかに、身心の不安定感といいますか、身心の葛藤が体に来ているという自覚はあります。
自分をコントロールしなければと、思えば思うほど体が動かないという葛藤、悪循環があると書きましたが、それは元々そうだったのですが、最近特に、思考や体や心の衝動の間で葛藤がかなり強くなってしまった感じです。
恐らく、自分で結論は分かっていて、今の素直な感情や身体の衝動をもっと感じてやる、あるいはもっと先に進めてやればこの葛藤をいつかは手放せるのだろうということです。
現状は、感じれば感じる程、葛藤は増すような気がしますし、苦しみから逃げまわっている自分がいるのも分かっています。このまま葛藤の中にずっといたら生活ややるべきこともままならなくなる焦りもあります。
>これ以上進めば、取り返しが付かない状態に自分が変わってしまうような気がして、
またそれと共に、今の自分にやり残したことがあること(結婚と仕事)が分かり、
明け渡しの入口の前で引き返したことがありました。
その恐怖はとてもとても感じています。
>おそらく、今はまだ普通の人生を生きることに集中した方がよろしいのかも知れませんね。
私には普通の人生というのがよく分かりません。悟りよりも本心。本当にそう思います。でも本心を感じること自体も怖いのかもしれません。かといって葛藤を止めることもできません。
すみません。このようなことを書こうとすると、上手く思考が働かなくなってしまいます。自分でも何が言いたいのかわからない文章です。
慧空さんに愚痴を言いたいわけではありません。自分の中の葛藤です。
312
:
慧空
:2019/09/04(水) 17:05:34
ヨツカさんへ
お返事ありがとうございます。
>自分をコントロールしなければと、思えば思うほど体が動かないという葛藤、悪循環があると書きましたが、それは元々そうだったのですが、最近特に、思考や体や心の衝動の間で葛藤がかなり強くなってしまった感じです。
私にも過去に似たような状況があり、苦しみました。
自覚が深まるに連れ、何もできなくなり、仕事が全く手に付かなくなり、仕事が崩壊していきましたから。
>恐らく、自分で結論は分かっていて、今の素直な感情や身体の衝動をもっと感じてやる、あるいはもっと先に進めてやればこの葛藤をいつかは手放せるのだろうということです。
なるほどです。
ただ念のため申し上げますと、葛藤を手放すという現象が起こるのは結果であって、目的にはなり得ません。
無用な期待は持たずに、自覚、私と向き合うことに取り組んでください。
分かっておられうでしょうが、念のため。
>悟りよりも本心。本当にそう思います。でも本心を感じること自体も怖いのかもしれません。
本心に向き合うのは怖いものです。
本心に向き合った瞬間、全てが変わってしまうかも知れませんから。
でも、ヨツカさんは向き合わずにいられないのでしょう?
それなら、どこかで腹をくくって徹底的に向き合うしかないですね。
313
:
ヨツカ
:2019/09/05(木) 17:36:58
ご返事ありがとうございます。
>本心に向き合うのは怖いものです。
>本心に向き合った瞬間、全てが変わってしまうかも知れませんから。
ずっと自分自身と戦っている感覚。やりたくないことから目をそむけ、やりたいこともまた共に抑え込んでしまう。自分で自分を抑え込んで動けなくなり、それをまた意志の力で動かそうとする。
多分、そむけている恐怖や感じている抵抗感のなかに自分の本当にやりたいことがあるのかもしれません。
>でも、ヨツカさんは向き合わずにいられないのでしょう?
>それなら、どこかで腹をくくって徹底的に向き合うしかないですね。
その勇気が自分には足りないのかもしれません。でも苦しい状態からは抜け出したい。
ああ、でも、もっと苦しんだ方が良いのでしょうね。多分。
慧空さんが明け渡しの前に一度引き返されたのと同じ感覚かどうかはわかりませんが、
何か私にとっては、悟りとか本心とかいうものは、自分のやりたいことを放棄して身を任してしまう恐怖、自分のやりたいことがやれなくなってしまうのではないかという恐怖なのです。
でも、多分それは違うのでしょうね。
ありがとうございます。
自分なりにやってみます。
314
:
箱
:2019/10/30(水) 10:04:11
本心について思い違いをしていたようです。通勤中にふと気づいたのですが、今目の前でおこっている事がそのまま本心で取り組みたいことのようです。不本意だと考える節が強くありますが、これは間違いなさそうです。しかし、その事に気付いてとても気が抜けました。そして、めんどくささを感じずにはいられません....
好きな事や願望というのはいくらでもありますが、本心で取り組みたいという観点で観ていった時に、何もしっくり来るというか納得する事が何か分からなかったのはそれが理由だったのかもしれません。
315
:
慧空
:2019/10/30(水) 19:28:12
箱さん
お久しぶりです。
>今目の前でおこっている事がそのまま本心で取り組みたいことのようです。
それは素晴らしい気づきだと思います。(^^)
316
:
箱
:2019/10/30(水) 23:53:24
慧空さん
コメントありがとうございます。
生活を維持するだけでも中々辛いものがありますが、本心から目を背けずに自分の思考や感情を見届けて行こうと思います。
何をするかというのはそれほど重要な事ではなく、それを自分の意思で行なっている、引き起こしている、という事なのだと思います。改めてその事を自覚しました。
やはり?、私自身の思考や感情がどうなっていくか納得いくまで見届けたいという好奇心は割と強くあるようです。
317
:
慧空
:2019/10/31(木) 06:27:11
箱さん
>何をするかというのはそれほど重要な事ではなく、それを自分の意思で行なっている、引き起こしている、という事なのだと思います。改めてその事を自覚しました。
そうなんです。
少し補足しますと、本心との行動との乖離の問題がありまして、この乖離が小さい人、あるいは小さくなってきている人の場合は、行動内容の重要性が小さくなってきて、何をどうやっても問題にならなくなっていきます。
あるいは、こんな言い方もできます。
自分の本心と向き合えていれば、実は何をするかという行動の内容の重要性が小さくなります。
318
:
箱
:2019/10/31(木) 10:03:14
慧空さん
本心と行動の剥離に関してですが、アレコレ思考を作らずに素直に自分の行動を認めれば良いような気がしますがいかがでしょうか?
とはいえ、それが全てというわけではなくてきっかけというか入り口のような気もしますが...
例えば、普段の思考では「行動したい」と思っている事も、本心では「行動したくない」のが実際。だからこそ現状があるわけで、その点を素直に受け止めずに、思考をこねくりまわして「行動したいのに行動できない」事が本心だと、ややこしい形に考えてしまう。
そういった勘違いを何重にも繰り返す事で、本心から意識がそれていくように思います。
319
:
慧空
:2019/10/31(木) 16:44:14
箱さん
>本心と行動の剥離に関してですが、アレコレ思考を作らずに素直に自分の行動を認めれば良いような気がしますがいかがでしょうか?
自分の行動を認めるためには、その行動そのものだけでなく、その行動に至る過程の内面の動きや、その行動に関連して起こってきた思考とそれなりに向き合っている必要があると思います。
これはつまり、自身の内面、あるいは本心と向き合うということです。
本心の周辺には、往々にして種々の葛藤が渦巻いています。
行動したいのに行動できない、自分の本心は行動したい、行動したくないのどっちなのか?、という状況もよくあることだと思います。
>そういった勘違いを何重にも繰り返す事で、本心から意識がそれていくように思います。
内面に意識を向け続けていれば、仮に一時的に本心から遠ざかるようなことがあってもいずれ自ずと本心に接近していくものです。
自身の内面に意識を向け続ける、これが大事だと思います。
320
:
箱
:2019/11/01(金) 09:34:17
慧空さん
自分の本心と、その周辺に起こる葛藤などと向き合っているかは日々意識して行こうと思います。
ところで、自覚を行う時に起こってきた考えを自覚し、更に「私は〜を自覚している」という考えも自覚しています。そこまでやると、考えが止まって、何かつかもうとする衝動のようなものが微妙に自覚されます。
しばらくすると、また別の考えがまた現れて、また自覚をします。
ありがとうございます。
321
:
慧空
:2019/11/01(金) 19:03:41
箱さん
>そこまでやると、考えが止まって、何かつかもうとする衝動のようなものが微妙に自覚されます。
なるほどです。
その何かつかもうとする衝動、それはひょっとすると根源的な衝動に振れられている可能性があります。
ご自身でぜひ追求して頂きたいと思います。
322
:
慧空
:2019/11/01(金) 19:04:38
あら、誤字が。
×振れられている
○触れられている
323
:
箱
:2019/11/01(金) 19:33:49
>>321
慧空さん
コメントありがとうございます。
納得いくまで追求してみます。
324
:
箱
:2019/11/10(日) 13:42:34
幸せな人も、不幸そうな人も、どちらにしろ物事の因果関係に依存しているんだなと思いました。
不幸そうな人は、自分が不幸な原因は〜だ。と思って安心したい。
一方で、幸せそうな人についても、自分は〜したから幸せになった。と思って安心したい。
自我は、因果関係なしに、現状をそのまま受け止める事に不安や恐怖を感じるようです。
325
:
慧空
:2019/11/10(日) 22:01:22
箱さん
依存について、いい着眼だと思います。
しかし、「依存」て何なのでしょうね。
どうして人々に「依存」という現象が生じるのでしょう。
何が原因になって「依存」という現象が生じるのでしょう。
さらに追求して頂きたいと思います。
326
:
箱
:2019/11/12(火) 21:26:11
慧空さん
私自身の行動を見ていくと、日常生活で苦しい事があると、その苦しい状況から逃げようとすると同時に、苦しい感覚をなるべく感じないようにしようとする傾向があります。程度の差はあれ、同じ事は誰にでもあり得る事とは思います。
そういった場面で直接苦から逃れる事が難しい場面もあるかと思います。そこで、都合よく苦から目をそらしたり、苦に鈍感になるようにしてくれるような対象に依存するようです(お酒は分かりやすい例ですね)。
と、ここまで書いていて気付いたのですが、そもそも自分が認識できるもの全て依存の対象になりそうですね(場合によっては自覚する事自体も)....
327
:
慧空
:2019/11/12(火) 22:27:56
箱さんへ
そうですね、苦と依存は密接に関連しています。
また、あらゆる事柄(自覚も含めて)が依存の対象となり得ます。
さて、再度お聞きします。
そのような依存(執着と言ってもいいです)はどうして起こってくるのでしょう。
どうして人は何かに依存してしまうのでしょう。
328
:
箱
:2019/11/13(水) 08:48:27
慧空さん
自我が起こるとともに、自我を維持するために依存や執着が起こるのだと思います。
自我には実体がないため、常に何らかに依存しなければ存在できないのだと思います。
ただ、これが事実かどうかの前に、自分で確かめたという実感が薄いです。自分自身追及が甘いように思いますし、どこかで読んだような言葉に引きずられているようにも思います。
329
:
慧空
:2019/11/14(木) 09:15:30
箱さん
お返事が遅れて、すみませんでした。
>自我が起こるとともに、自我を維持するために依存や執着が起こるのだと思います。
>自我には実体がないため、常に何らかに依存しなければ存在できないのだと思います。
確かに自我の構成要素として、最低限の執着は必要でしょう。
しかし、その最低限の執着はあって当たり前のものであり、それは問題というか迷いを起こしません。
執着には階層があり、問題を起こさない当たり前のものと、そうでないものがあります。
ヒントはここまでとして、さらに追求を続けて頂きたいと思います。
330
:
箱
:2019/11/14(木) 19:17:26
慧空さん
コメントありがとうございます。
331
:
箱
:2020/10/13(火) 00:29:25
少し前の自分の発言をざっくり見返してみて、少し考えすぎだなと感じました。
内容はそこまできちんと読んではいませんが(というより読む気が起きないですね)。
あれこれ難しい事を考えずとも、自身が感情的に反応する物事に対して、
意識的になっていけば色々気づく事があるようです。
やり方はなんでも良い、というと極端かもしれませんが、
結局自分で観ていくぞ、と覚悟が決まらないとどうしてもやり方を探す方に逃げたくもなるものですね。
332
:
慧空
:2020/10/13(火) 21:01:52
箱さんへ
書き込みありがとうございます。
>結局自分で観ていくぞ、と覚悟が決まらないとどうしてもやり方を探す方に逃げたくもなるものですね。
確かに仰るような部分はあるのだろうと思います。
悟りの道も普通の人の歩みと似ていて、ああでもない、こうでもないと紆余曲折しながら歩むものだろうなぁと思います。
333
:
箱
:2022/04/24(日) 16:36:20
慧空さん
skypeありがとうございました。
「私が〜している」と自覚する事、改めて大切さだと気づく事ができました。
私は、自身の事を話す時に主語を省略する癖がありました。
この点些細な事と見落としていましたが、改めて振り返ってみると、
思考が薄いと感じたり、自我が薄いと誤解をする原因として
見過ごせない点だったと思います。
334
:
慧空
:2022/04/25(月) 18:58:24
箱さん
こちらこそ、ありがとうございました(#^^#)
335
:
箱
:2022/05/17(火) 10:54:32
私に意識を向ける取り組みを続けていますが、行動や認識の主体としての感覚はありますが、
そもそもの「私」の実体の感覚がありません。
例えますと、ドーナツのようです。
私が何か行動をしたり、認識をしているという主体的な感覚は周囲にあるけれども、
認識の中心にある筈の、私の実体が見つけられずにぽっかりと穴が空いているように感じ、
困惑しているという状態です。
主体的な感覚が湧いてくるならば、そもそもの実体だって存在する筈だし、明確に認識できるだろう!
という混乱があります。現状の自分の意識の集中?具合がまだまだ甘いだけなのかもしれませんが・・・
336
:
慧空
:2022/05/17(火) 19:50:54
箱さんへ
>行動や認識の主体としての感覚はありますが、そもそもの「私」の実体の感覚がありません。
主体としての感覚があれば十分です。
「私」の実体は、そもそも無いのです。
あるように感じるだけです。
>認識の中心にある筈の、私の実体が見つけられずにぽっかりと穴が空いているように感じ、
このぽっかりと穴が空いているような感じは、まさにその通りなところがありまして、
内面に集中してもそこには何もないのです。
集中すればするほど、何も無い感じになります。
ではどうすればいいかですが、
主体としての感覚がおわかりなら、そのままで大丈夫です。
一歩踏み込んで、その感覚を身体の中心線上で感じるようにしながら、
あるいは、その感覚を身体の中心線上で感じるようにしながら、自覚をやってみてください。
さらに具体的には、例えば目の奥の頭の中心でその感覚を感じながら自覚をするとか、
ハート(左右の乳首の間の中心の奥)でその感覚を感じながら自覚をしてみてください。
337
:
箱
:2022/05/17(火) 23:36:48
慧空さん
>集中すればするほど、何も無い感じになります。
そういうものなのですね。
この部分で長い間引っかかっていたので、コメントありがたいです。
一歩踏み込んだ自覚のやり方についても意識して取り組んでみます。
ありがとうございます。
338
:
慧空
:2022/05/18(水) 07:35:15
上の336の書き込みに誤記があったので、訂正しますね。
一歩踏み込んで、その感覚を身体の中心線上で感じるようにしながら、
あるいは、その感覚を身体の中心線上【に置くように(訂正部分)】しながら、自覚をやってみてください。
339
:
箱
:2022/05/18(水) 21:13:21
慧空さん
ありがとございます(^^
340
:
箱
:2022/06/19(日) 20:56:10
以前に比べると、日常の何気ない事に意識的に幸福を感じる事が増えたように思います。
一方で、そこで感じた幸福感の酔いから覚めた後の、困惑するような感じや、幸福感の渦中での自分の心の浮ついていた思考に辟易する事が多々あります。酒に酔った時の感覚と大差なとも思います。
そういったことから、進んで幸福感を感じたいという思いはあまりなく、シャープな意識状態でいたいなという思いが明確にあります。
341
:
慧空
:2022/06/20(月) 07:52:09
箱さんへ
自覚が進んでおられるようですね。
でも、ふと訪れる幸福感や高揚感も味わっていただきたいと思います。
自覚の悟り方は漸悟ですから、階段を一段ずつ上るようにして進んでいきます。
その道のりや景色を味わっていただきたいと思います。
342
:
箱
:2022/06/20(月) 09:12:53
慧空さん。こんにちは。
階段を一段ずつ上るように進んでいくのは、良い事なのかもしれませんね。
唐突に変化してしまうと、心のバランスが取れなくなりそうだとも感じました。
幸福感について補足します。
同じような事でも幸福を感じる時もあれば、全く何も反応しない時もあります。
何故?、と思うようなタイミングで幸福を感じる事も多いため戸惑うことがあります。
343
:
慧空
:2022/06/20(月) 13:15:30
>何故?、と思うようなタイミングで幸福を感じる事も多いため戸惑うことがあります。
わかりますよ、その感じ(#^^#)
味わっていただきたいと思います。
344
:
箱
:2022/07/06(水) 20:03:53
ここ最近、ハートのあたりに、そわそわするような、くすぐったいような、
緊張するような感覚が常にある事を自覚するようになりました。
なんとなくそれを感じている時に、意識的に感覚を味わってみると、
じっとしていられないような、叫び出したくなるような妙な気分になります。
説明だけ書いてみると、若干ネガティブな感覚のようにも見えますが、
その時の自分の気分で捉え方が変わってはいるものの、
その感覚自体には何の良し悪しの性質はないようです。
今までにも激しく動揺したり緊張してしまった時にも、
そういった感覚を体験するがあったような気はするのですが、
この感覚が常にあるというところまで自覚していませんでした。
ちなみに、自分の気質によるものなのか、ネガティブな気分と結び付いて、
悪い感覚として誤解して捉えている事が多かったように思います。
----
ちなみに、幸福感についてですが、自覚できる範囲では2通りの体験の仕方があるようです。
いずれの場合でも、意図的に作り出そうとは思っていないところで体験があります。
・私は今幸福だ、といった思考が先に現れて、感覚もそれにつられる(思考が先)
・思考の前に、幸福感を感じる(感覚が先)
345
:
慧空
:2022/07/07(木) 07:21:25
箱さんへ
書き込みありがとうございます。
ハートのモヤモヤに気づかれたようですね。
お陰で、今後の展開がまた楽しみになりました(呑気に花見気分みたいですみません)。
幸福感に二つの種類があるのは、気にしたことがなかったかもしれません。
確かにそうなのかもしれませんね。
346
:
箱
:2022/07/07(木) 20:41:17
慧空さん
自覚を続けているのも好奇心に依るところが大きいので、
そういった受け止め方でちょうど良い気もします。
347
:
箱
:2022/07/16(土) 18:09:38
気分の浮き沈みはありますが、幸福を感じる事が増えたように思います。
また、その感覚を味わってみると、ハートの感覚に敏感になるほど、今感じている事に対しての臨場感が高まるように感じました。
一歩踏み込んで、意図的に幸せを感じる事もできる事がわかりました。ただ、気分が大きく沈んでいるような時は難しいでのですが。
ちなみに、今こうして書き込みをしていて気付いたのですが、私は幸せになりたいというよりは、安心したい、という想いが強いようです。
とはいえ、安心も幸せも一時的なもののような気はしますが…
348
:
慧空
:2022/07/17(日) 07:07:16
箱さんへ
>私は幸せになりたいというよりは、安心したい、という想いが強いようです
自覚が進んでおられるようですね。
一旦の落ち着きどころとして、いいところに来ておられるのかもしれません。
さて、ここからどうされるか。
349
:
箱
:2022/07/17(日) 10:19:04
慧空さん
ハートの感覚は実際の行動に影響を与えるものだと感じていますので、
そのことを意識して、実生活で自分の取る行動を意識的に変えてみます。
自覚については、目標を達成するまで、といった事でなく、
自覚をしようとする衝動がなくなるまで続けていくことになると思います。
350
:
箱
:2024/09/07(土) 23:15:30
自覚に限らず、そのほか悟りや宗教的な物事を
特別視していたと最近思いました。
やりたいことをやれば良い、と言ってしまうと月並みな言葉ですが
本当にそうとしか言えないように思います。
351
:
名無しさん
:2024/09/08(日) 22:01:33
箱さん、お久しぶり(^O^)/
>やりたいことをやれば良い
いいですねぇ。
ホント、そうなんですよ。
それが本心です!!!
352
:
慧空
:2024/09/08(日) 22:02:29
あら、名無しになっていた^^;
上の351は慧空です。
353
:
箱
:2024/09/09(月) 18:33:15
慧空さん
やりたいことについて、自分だけでなく多くの人が迷走している様子を見て気づきました。
実は今まで「やりたいことを探さなければいけない」、という考えに囚われていました。
そもそも、日常のさまざまな行動を振り返ると、やりたいことが分からないだとか、
やりたいことはないと言いながらお店に寄ってコーヒーを飲んでいるのはどういうことか?
なぜ仕事が休みの日に映画を観に行っているのか・・・
あるいは、やりたくないと言いながらそれをやっているのか。
欲についても同じで、欲がない、欲が薄れた、欲しいものがないと言いながら、
日用品を購入する時ですらなぜ選り好みやこだわりがあるのか。
あるいは、生活に必要もない趣味の品物を購入しているのか・・・
単に無自覚なだけだったように思います。
表面的な思考と、実際の行動の食い違いというのは本心に気付く重要なポイントのように思います。
354
:
慧空
:2024/09/13(金) 20:50:26
箱さん
>単に無自覚なだけだったように思います。
なるほどですね。
私の場合、否応なく常に本心と向き合っているような状態なので、それが普通になってしまっているのですが。
>表面的な思考と、実際の行動の食い違いというのは本心に気付く重要なポイントのように思います。
これは本当にそうだろうと思います。
みんな気づいていないというか、目を背けているところがあるんだと思います。
355
:
箱
:2024/10/12(土) 20:44:27
囚われを手放していく事についてですが、我慢や忍耐によって行うというより、
その囚われにまつわる一連の事をやりきる事が大事なのだと気付きました。
やりきって納得もできていないのに表面的に、「自覚しました。手放しました。はい終わりです」
では終わりません。それでも確かに楽になる部分はあったのですが、
根本的な部分での手放しは起きないように感じました。
今の自分に必要なことは、悟りについて関心を向けたり、意識的に自覚に取り組むことよりも、
俗世間での欲求を満たすために、必死に生きることなのだろうということです。
やりたいことや欲しいものがあるならば、それに向かって必死に行動していくということです。
以前の私はそれが遠回りで無駄に感じまていましたが少し考えが変わってきているようです。
依然として物事は思い通りに進まず、生きるのは苦しいと感じる事は多いですが、
このような心境の変化が感じられて少し面白いと最近感じています。
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