したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

1煌月の鎮魂歌 prologue 1/2:2015/02/25(水) 09:03:07
PROLOGUE 一九九九年 七月


 白い部屋だった。
 彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
 ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、
それらはみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、
遠ざかり、近づいてはまた離れていった。
 自分は誰なのか、あるいは、何なのか。
 生きているのか、死んでいるのか。
 ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわから
なかった。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらは
すべて彼の知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど
変わりのない単なる事実でしかなかった。
 ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
 そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、
暗黒の中を駆け抜けていった。
 そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり
哀しげな蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
 夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、
小さなひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのか
どうかあやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
 何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。

2煌月の鎮魂歌 prologue 2/2:2015/02/25(水) 09:04:02
 ……光がさした。
 白い空虚の中に、一筋の、銀色の光が射し込んできた。
 彼はまばたき、自分に、目があったことに気がついた。まぶたがあり、顔があって、
顔には頬があり、その頬に、冷たく柔らかい銀色の月光が流れ落ちていた。
 夢の中の月が、自分を見下ろしていた。
 彼は口を開けた。
 何かが喉のすぐ下まで上がってきて、つかむ前に消滅した。苦痛と、それに倍する
どうしようもない胸の痛みが突き刺さってきて、彼は思わずうめき声をあげた。
「動かない方がいい」
 ごく低い声で、月は言った。その髪と同じく、やわらかく、ひやりとした、透き通る
ような銀色の声だった。
「お前はひどい傷を負った。命を取り留めたのが奇跡だと言っていい。自分の名は
わかるか? 言ってみろ」
 もう一度口を開けようとしたが、声は出なかった。彼の中には空虚しかなく、答えに
なるような何物も、そこには残っていなかった。
「――わ、から、ない」
 ようやく、そう言った。
 月の白い顔に、かすかな翳が走ったようだった。
「本当に、わからないのか」
 しばしの間をおいて、思い切ったように月は言った。
「──私の、名も?」
 わかる、と叫びたかった。わかる、あんたは月だ、夢の中でずっと俺のそばにいた。
 だがそれもまた、言葉になる前にこなごなにくだけて白い闇の中にのまれていった。
彼はただ弱々しく首を振った。
「……そうか」
 銀の月はつと視線を外した。
 長い髪からのぞく肩がかすかに震えているように思えて、彼は思わず手を伸ばそうと
したが、やはり身体は動かないままだった。全身が包帯に包まれ、ベッドに縛りつけ
られていることに、彼は突然気がついた。
 ここは病院だ。俺は生きている。そして怪我をしている。
 だが、何故だ。
 俺は、誰だ。
「あんた……は……誰だ」
 ようやく声を絞り出して、彼は言った。
 銀の月は目を上げ、彼を見た。その蒼い瞳に、夢の中と同じ哀しみが浮かんでいる
のを見て、彼の胸は貫かれるように痛んだ。
「そのことはあとで話そう」
 低い声でそれだけ言って、月の髪をした青年は立ち上がった。
「今はまだ眠れ。傷が酷い。考えるのは、身体が治ってからでも遅くはない。ゆっくり
養生しろ」
 違う。待ってくれ。
 そう声にしようとしたが、その前に、全身が砕けるような痛みが走った。白い闇から
あわてたように影が一つ走ってきて、肩を押さえてベッドに押し戻そうとする。
(だめですようごかないであなたはなんどもしにかけたんですよだれかちんせいざいを)
 うるさい。うるさい。
 俺はあいつを知ってる。俺はあいつを知ってるんだ。
 言わなければ。ちゃんと言わなければ。忘れたりなんかしていない、と。約束した、
俺はおまえを、おまえを、おまえ、を。
 腕に注射針が突きささり、流し込まれる薬液が視界に霞をかけていく。伸ばそうと
した手は無理やり下ろされ、点滴の管が突き立てられる。
 銀の月は哀しい目をして立ちつくし、闇のむこうから自分を見ている。
(……ア、ル、)
 引きずり込まれるように意識が暗闇に包まれる。
 ──最後まで見えていたのは、仄かに輝く銀色の月と、哀しみをたたえた、二つの
青い瞳。

3煌月の鎮魂歌 & ◆cog2T/Z1mk:2015/02/25(水) 09:13:48
 Ⅰ   一九九九年  一月

          1

 黒いリムジンは油のようになめらかに素早く、音もなく、ごみだらけの路地に
滑りこんできて停止した。
 ドラム缶に焚かれた火に集まった汚れはてた集団がわずかに身じろぎし、その場
で口を開けた。磨き上げられた車体が、ビル群の向こうで燃え尽きかけている陽光を
鈍く照り返していた。ちりひとつないスモークガラスの窓に、いくつかの黒い顔、
汚れた顔、なにもかもに疲れ果て荒みきった人々の、度肝を抜かれた顔が亡霊のように
映っていた。冬のさなかの寒風が切れた電線をかすかに揺らしていた。
 ドアが開いた。光があふれ出したようだった。
 魅入られたように固まっている住人たちの口から声にならないためいきが漏れた。
 曇天の下でも自ら光を放つような月の色の銀髪だった。氷河の底の青の瞳と抜ける
ように白い顔、通った鼻筋、小さく形のよい唇。
 それらが造化の神が自ら丹念に手を下したとしか思えない完璧さで、細面のなめら
かな顔に収まっていた。あわい睫毛が氷青の瞳の色をわずかに煙らせ、非人間的なまで
の美貌の近寄りがたさをかろうじてやわらげている。ゆるく波打った長い銀髪は上質な
黒いスーツの肩に背に散りかかり、均整のとれた長身が動くたびに霞のようになびく。
息の止まるほどの美貌はともすれば女性的とさえ見えるものだったが、おだやかな、
だが強い意志が結ばれた口もとと伏せた瞳に現れ、そのしなやかな体にはあなどり
がたい力が秘められていることを告げていた。
 青年は大型の猫のように優雅な一動作で路肩に降り立ち、振り向きもせずに低く
告げた。
「ここから先は一人で行く。お前たちはここで待て」
「しかし」
 運転席の男は困惑したように体をねじ向けていた。ほかにも数名の黒いスーツの男
たちがリムジンの座席に並び、困惑したように目と目を見交わしていた。
「ラファエル様からは、けっしてお一人にしないようにと──」
「彼には私だけで会う」
 青年ははっきりと言った。他人に命令することに慣れた者の口調で、ただ口にすれば
相手が従うことを知っている声だった。運転手は口をなかば開けたままの状態で
固まった。
「私は自分の身は自分で守れる。知っているはずだ。それに」
 ひと息おいて彼は言った。
「会わねばならない相手は、おそらく護衛をぞろぞろ連れた使者など信用しないだろう。
彼は私ひとりが対せねばならない相手だ。心配ない。私のことより、彼がこの要請を
受けてくれるかどうかを心配するといい」
「アルカード様、しかし」
 だがすでに会話は打ち切られており、青年はリムジンを離れて、ごみと汚物にまみれた
穴だらけの街路をすべるように歩き始めていた。

4煌月の鎮魂歌 1 2/10:2015/02/25(水) 09:15:25
 ──アメリカ、ニューヨーク、一九九九年。
 新しい千年紀を控えて、世界一の超大国は目に見えない経済と策謀、富と貧困の
高楼の上で揺れていた。
 陰謀好きの人々は古来から取りざたされる『一九九九年の魔王』に恐怖と期待の胸
をときめかせ、コンピュータ・エンジニアは迫る二○○○年問題に頭を悩ませ、信心
深い人々は祈り、そしてほとんどの人々はなにも気にかけることなく、普段通りの
生活を楽しんでいた。
 だが、この街には世紀の終わりなど関わりのないことだった。
 住人にとってはここが世界の始まりであり、終わりであった。
 ハドスン川を挟んだ対岸には、世界の経済と富を吸い込み吐き出す心臓であるマン
ハッタンがうずくまる。世界の冨の象徴であるツイン・タワーの影に見下ろされながら、
だが、ここにあるのは赤色砂岩の崩れかけた共同住宅、失敗したドミノ倒しのように
傾いたバラックの山、度重なる放火のために黒こげになったなにかの残骸だけだ。
 灰色のコンクリートやへこんだシャッターにはスプレーで卑猥な言葉や髑髏やスト
リート・ギャングの名前が殴り書きされ、下地などほとんど見えない。アスファルトは
ひび割れ穴があき、下水と糞尿の臭いが常に漂っている。ときおり姿を見せる住人
たちの目は一様にどろりと濁り、光を失っているか、逆に肉食動物のように飢えに
ぎらつき、油断なくあたりをうかがっている。
 赤黒い血だまりがまだ乾ききらずに、壁や地面に残っていることなど日常の一部に
すぎない。殺されたばかりの死体すらも例外ではない。そうした死体はすぐに衣服を
含めたすべてのものを身ぐるみはぎ取られ、時には死体そのものすらもどこかへ
運ばれて消え失せる。ここは都会の中のジャングルであり、住んでいるのはただ肉食の
獣と、その餌食となる者だった。弱肉強食がここでは法律の代理だった。光り輝く
高層ビルや、ネオンきらめくブロードウェイの夢とは、ここは無縁の別世界だった。
 ニューヨーク、サウス・ブロンクス。数あるニューヨークのスラムの中でも最悪の
ひとつに数えられる危険な一角。
 住民の多くは夜行性の生き物のように昼間は姿を隠しているが、夜の闇とともに、
街はゆっくりと目を覚ます。消えかける陽光に呼ばれるように、すでにいくつかの
バーやいかがわしい店にはけばけばしいピンクや蛍光イエローのネオンがまたたき
はじめていた。
 ヤンキースの帽子をまぶかに引き下ろした男たちが、だぶだぶのズボンのポケットに
手をつっこんで、所在ない様子を装いつつ客を待っている。ズボンのあらゆる場所には
粗悪な各種の薬物が隠されている。騒々しい音楽の流れてくるバーの入り口には、
すでに泥酔した男が陸揚げされた魚のように長々と延びている。街灯の下で落ちつき
なく身を揺すり、ブツブツとなにかを呟きつづける男の指には、カチャカチャと音を
たてる折りたたみナイフがせわしなく弄ばれている。

5煌月の鎮魂歌 1 3/10:2015/02/25(水) 09:16:04
 ゆっくりと降りてくる夕闇と同じように、青年は足音もたてずにこの夜のジャングル
へと踏み込んでいった。
 たちまち街が身じろぎし、数十の視線がいっせいに向けられた。
 ここでは侵入者は敵か、あるいは犠牲者のいずれかだ。この怖い者知らずはどちら
なのか、警戒の、あるいは貪欲な捕食者の目を向けようとした彼らは、次の瞬間、
まぶしすぎる光をあびた鳥のように凍りついた。
 崩れかけた戸口にもたれた飲んだくれは、安いジンの瓶を口まであげかけたまま
動きをとめた。ポケットの小型拳銃をさぐっていたストリート・ギャングはいつも
のように値踏みすることすら忘れて、ただぽかんと突っ立っていた。ぼろにくるまって
暗がりに寝転がっていた麻薬中毒者は、薬の夢に迷い込んできた光り輝く幻影にただ
恍惚とした。段ボールをかぶったホームレスは垢まみれの手をふるわせ、胸をさぐって、
ひび割れた唇で、長年忘れていた神の名を呟いた。
 派手な看板のポルノ・ショップや、割れた街灯の下で手ぐすね引いていた娼婦たちは
湯を浴びたように真っ赤になり、それから紙のように青ざめた。荒れた生活と薬物に
痛めつけられた顔を化粧でぬりこめた彼女たちにはとうてい太刀打ちできない、足もと
にすら寄れない美貌に、誘惑どころか嫉妬すら許されないことを知ったからだった。
 青年は静かに、美しい影のように街路を進んでいった。
 躓くことも、よろめくこともなく、アスファルトがはがれ凹み穴だらけの汚れきった
街路も、彼の歩みを邪魔することを恐れるかのようだった。
 黒人とヒスパニックとイタリア系移民がせめぎ合うこの地区で、まばゆいばかりに
白い彼の肌と輝く銀髪はそれだけで異質だった。一目で高級品とわかるスーツや靴も、
身ごなしにそなわる優雅さも、すべてが彼をこの世界から浮き立たせていた。またその
美貌も。
おそらくヨーロッパ系であろうとだけは思えても、それ以上はどことも見当のつけよう
がない。人間離れしたとさえいえる、あたりを圧倒するばかりの純粋な美だった。
 彼の周りだけは別世界のように、空気すら変わった。充満している腐ったごみの
悪臭や強烈な安酒の臭い、酔っぱらいの吐瀉物の酸っぱい臭気、汚れた人間の体や排泄物
がつまった、一息吸っただけで息の詰まりそうな空気も、彼には道をあけた。人間世界
のどんな汚穢も、この美しい生き物には指一本触れられないように思われた。晴れた日
の快い草原を進むかのように、彼の足は軽やかで着実だった。
 半壊し、錆びて煤けた鉄骨をさらした廃墟の前で、彼はふと思いついたかのように
足をとめた。
 氷青の瞳があたりを見回し、道の向かい側で、膝にビールがこぼれるのも気がつかずに
唖然としている老人の上で止まった。
 軽い一歩で陥没した道路をのりこえ、次の一瞬には老人の前に立っていた。歯も抜け、
ほとんど毛髪を失った頭をぼろぼろの毛糸の帽子で覆った老人は、いきなり天使の訪問
を受けた放蕩息子のように、のどの奥で息を吸う音を立てて身を引いた。
「訊きたいのだが」
 やわらかな、心地よい声音で天使は言った。
「ユリウス・ベルモンドという男を捜している。どこに行けば会えるか、知っていれば、
教えてほしい」

6煌月の鎮魂歌 1 4/10:2015/02/25(水) 09:16:53
「ユ、ユリウス・ベルモンド? ジェイ──あの〈赤い毒蛇〉の?」
 老人はあえいだ。
 その名を聞きつけた周囲からざわめきが波のように広がり、明らかな動揺と恐れが
確実にあたりに浸透していった。青年の美しさに対する畏怖にも似た沈黙ではなく、
あからさまな嫌悪と、それに倍する恐怖の輪が色を失った顔や身震いする肩となって
現れた。
「あ、あんた、あんたが何者かは知らんが、あの男には近づいちゃいかん」
 老人はしぼんだ風船のような顔をまじりけのない恐怖にこわばらせ、わななく手で
青年の袖をつかもうとした。手から放れたビール缶が転がりながら階段を落ちていく。
そちらへは目を向けもせず、すがるように、
「あいつは悪魔だ。本物の、地獄から這い出てきた悪魔なんだ。あんたみたいなよそ者
が会えるような相手じゃないし、会っちゃあいかん。もし会えたとしても、そいつは
悪魔の口に自分から頭を突っ込みにいくようなもんだ。あんたみたいないい服を着た、
金持ちの美人は特にだ。あっという間もなく一口に食われちまう。五体満足でここから
歩いて出て行きたかったら、あいつにだけは、会っちゃあいかん」
「どこにいる?」
 震える声で告げられた警告を風のように受け流して、青年は繰り返した。長い睫毛
の下の瞳が光の加減か、わずかな金色をおびてきらめいたと見えた。
 老人はびくっと身をひきつらせ、「聖クリストバル教会」と、何者かに背を押された
かのように答えた。
「四十一丁目の真ん中あたりにある、というか、あった。最後の司祭が逃げ出してから
もう何年も経つ。今じゃ見る影もない。その教会跡を根城にしてるんだ。神の家だった
ところが、最悪の悪魔の棲処になっちまってる。行っちゃあいかんよ、あんた、行っ
ちゃあいかん。自殺しに行くようなもんだ。あの男にはかかわらんほうがいい、本気で
言ってるんだ。あいつは悪魔なんだよ、あんた」
「悪魔の相手には慣れている」
 青年は老人が思わずびくっと背筋をのばしたほど、優美な笑みを片頬に浮かべて
すぐに消した。
「邪魔をした。感謝する。聖クリストバル教会、だな」
 いつのまにか手にしていた新しいビール缶をそっと老人の手に握らせ、青年は身を
ひるがえした。長い銀髪が翼のように宙に躍った。
 缶をにぎらされたことにも気づかないまま、老人は何か異世界の者に触れられた
ような魂の抜けた顔で、しなやかな背中を見送った。
「行っちゃあいかんよ、あんた!」
 ようやく我に返って、老人はしわがれた声をあげた。
 だがその時にはもはや青年の姿はなく、いつも通りの腐りはてた街の、悪臭と汚濁に
満ちた街路が怠惰に広がっているばかりだった。

7煌月の鎮魂歌 1 5/10:2015/02/25(水) 09:17:27
かぎりをつくした言葉がスプレーされ、骸骨や死神や尖った尻尾の悪魔が炎の中で踊り狂っていた。
 頭が割れんばかりの音量でラップ音楽が鳴り響いている。ちかちか光るLEDライトが崩
れ落ちた屋根から壁、外れたままの扉、地面のそこここにまで這い回って、あたり一帯
を狂人が飾りつけたクリスマス・ツリーのように極彩色に染めている。明滅する影の中
にひときわ大きく、念入りに縁取られた文字、〈RED VIPER〉が揺らめいた。
 かろうじて残った尖塔のてっぺんには、もぎとられたキリストの磔刑像がさかさまに
くくりつけられていた。同じくLEDライトにぐるぐる巻きにされた逆さまのキリストは、
蛍光ピンクに輝くLEDの冠を茨のかわりに頭に巻き、白目をむいて舌をつきだした嘲笑の
顔をさらしていた。腰布にはピンクの冠と同じく蛍光するピンクのディルドがとりつけら
れ、地面に向かってそそり立ったまま、うねうねと卑猥な動きを繰り返している。まるで
このキリストの戯画が、腰を動かして誘いをかけているかのように。
 にたにた笑いに裂けた口をゆがめる悪魔の、三つ叉フォークに突き刺された人間の稚拙
な絵を眺めて、青年はかすかに口もとをゆるめた。がんぜない子供の落書きを見るかのよ
うな、かすかな呆れと諦観のないまぜになった微笑だった。影から歩み出て、青年は最後
の通りを越えた。
 それまで息を殺していた者たちの間にたちまち緊張が走った。黒人、ヒスパニック、ニ
キビ面のイタリア系。おそらくざっと三十人。
 無関心を装って壁にもたれていたもの、階段に腰掛けて煙草をふかしていたもの、トラ
ンプ博打に精を出しているように見せかけていたもの、それら人の形の獣たちが、いっせ
いに警戒の牙をむいて立ち上がった。
「あんた、道をまちがえてるぜ。どこへ行くつもりだったんだか知らねえが」
 煙草を吸っていた男が痰といっしょに吸い殻を吐き捨てて言った。
「どこのもんだ? トニー・マーカスの奴か、〈ブラックシェイド〉のくそがきどもか、
それとも使命感に燃えた新米ソーシャルワーカーが、深夜のブロンクス訪問てとこか」
 一分の隙もないスーツとなんの動揺も浮かべていない美貌をなめるように見上げる。
「いや、違うな。あんたはどうもここに属するような人間じゃない。何しに来た? ここ
が〈赤い毒蛇〉のシマだとわかって来たんだろうな」
「それとも、俺たちのお楽しみに混ぜてもらいに来たのかい?」
 汚れた作業ズボンに片手をつっこんだ男が荒い息を吐いた。青年が近づいてきたときか
ら、男の目はその驚くべき美貌に釘付けだった。ズボンにつっこんだ手が股間のあたりで
せわしなく動いている。
「そんなら歓迎するぜ。あんたとなら楽しそうだ、いろいろとな」
 下卑た笑いが重なった。「べっぴんさんだ」トランプのカードを叩きつけた小男が黄色
い声を張り上げた。

8煌月の鎮魂歌 1 6/10:2015/02/25(水) 09:18:13
「べっぴんさんのお金持ちだ。お嬢ちゃん、ここはお散歩に向いてる場所じゃねえぜ。俺
たちと遊ぶ気がないんなら、早いとこ後ろを向いて逃げだしな。まあ、間に合うかどうか
は保証しねえがな」
 どっとまた笑いがあがった。LEDのまたたく光にちらつく暗闇から、じりじりといくつ
もの人影が近づきつつあった。どれも荒い息を吐き、手にナイフやメリケンサックをちゃ
らつかせ、飛び込んできた『お楽しみ』を隅から隅まで味わい尽くそうと手ぐすねひいて
いる。
「ここにユリウス・ベルモンドがいると聞いてきた」
 青年は澄んだ声で言った。水晶を叩いたように、揺らぎも曇りもない声だった。
 ちんぴらどもの動きが凍りついたように止まった。
「用のあるのは彼だけだ。彼と話がしたい。ここにいるのなら、会わせてほしい」
「……てめえ、死にてえのか」
 気圧されたような沈黙を破って、ようやく一言、顔面に傷のある黒人男がうめくように
言葉を吐き出した。
「ここじゃその名前は口にしねえことになってんだ。ジェイの野郎に聞こえてたら、てめ
え、どうなるかわかってんだろうな」
「ジェイ。ユリウスのことか」
 青年は氷河の青の瞳を相手に向けた。
 麻薬と酒で血走ったちんぴらは理由のわからぬ突然の恐怖におそわれ、息をのんで一歩
後ずさった。
「ここにいるのか、ユリウス・ベルモンドは?」
「……そ、その名前を、口に出すんじゃねえ、クソ野郎が!」
 男たちがいっせいに動いた。LEDライトにナイフがきらめき、懐から拳銃が次々と現れ
た。メリケンサックを両手にはめた男がわけのわからぬ叫び声をあげながら突進してきた。
 青年はそよ風を受けるようにそれを受け流した。ほとんど動いたとも見えなかったの
に、メリケンサック男は空を切った拳の勢いのまま、とっとっとよろめき、信じられぬ
ように後ろを振り返った。
 青年はさきほどとほとんど変わらない位置に、変わらない姿勢で立っている。冷たく整
った顔には、髪の毛一筋の変化もない。
「こ、コケにしやがって──」
 四、五人の男がいっせいにナイフを抜いて飛びかかった。背後でさらに拳銃を持った者
が引き金をひいた。連続する銃声とナイフの鈍い光が交錯した。硝煙がさかさまのキリス
ト像にまで立ち上った。

9煌月の鎮魂歌 1 7/10:2015/02/25(水) 09:18:47
「おう……!?」
 夢中で弾を撃ち尽くした男は、マガジンを手探りしようとして背筋に走った戦慄にはっ
と顔を上げた。
 天空の月の貌が間近にあった。かすかに金のきらめきを宿した瞳に見つめられ、男は自
分がはげしく勃起するのを感じた。白い指が手に添えられ、拳銃ごと指をつかむ。繊細な
指先の感触を夢のように感じた次の瞬間、すさまじい激痛が脳天を貫いた。
 女のような泣き声をあげて男はその場を転がり回った。拳銃ごと握りつぶされた手を胸
に抱き、恥も外聞もなく涙と鼻水を垂らしながらのたうちまわる。股間からじわりとアン
モニア臭のする染みが広がる。
 背後からやみくもに突きかかってきたナイフの嵐の前で、銀髪が優雅に翻った。
 目標を見失ったナイフ使いはお互い同士でぶつかり合い、相手の肩やら腕を突き刺すこ
とになってもつれ合って倒れ、呪いの声を上げた。
「う、撃て撃て! 撃ち殺せ! 蜂の巣にするんだよ!」
 やけになったような声が響いた。
 呆然としていた残りの男たちは、あわてて内懐をまさぐった。火線が集中してゆらめく
月の影をねらった。
 夢のように影は解けた。長い銀髪を光の靄のように一瞬まぼろしに残して、鉛弾の雨を
すり抜けた。
 男たちがぎょっとして息を吸い込む一瞬に、輝く姿は頭上にあった。ゆったりと、人魚
が泳ぐように身を翻して、軽く手を打ち払ったように見えた。あるいは指をひとつ曲げた
だけだったのか。
 正確なことは誰にもわからなかった。ただ、わかったのは次の瞬間に、その場にいた人
間の持っていた武器はすべて払い落とされ、ある者は腹部、別の者は頭部、頸部、背中、
手足とそれぞれ動きを封じる部分を痛打されて、その場に崩れ落ちていたことだけだった。
 青年はふたたびもとの場所に静かに立っていた。その場を動いたことも、襲われたこと
もなかったかのように。周囲に崩れ落ちて苦鳴をもらしている男たちだけが先と変わった
部分だった。
「ユリウス・ベルモンドに会いたい」
 穏やかに青年は繰り返した。
「それが私がここに来た目的だ。邪魔をしなければ何もしない。用があるのは、彼にだけだ」
「ジ、ジェイ! ジェーイ!」
 だらしなく四肢を広げてひっくりかえった男がわめいた。ぼさぼさの頭を狂ったように
振り立てて、
「ジェイ、来てくれ、ジェーイ! よそもんがお前を──」
「うるせえな。聞こえてるよ」
 崩れかけた教会の戸口で、うなるような声がした。
 もがいていてた男はぴたり動きを止めた。銀髪の青年はゆっくりと首をめぐらせてそち
らを見た。ゆるくウェーヴのかかった髪が雲のように広がる。

10煌月の鎮魂歌 1 8/10:2015/02/25(水) 09:19:23
 ひび割れた戸がまちに肘をよせかけて、若い男がだらしない格好でよりかかっていた。
 半裸で、ひきしまった上半身には何もまとっておらず、細いレザーパンツをはいているだけだった。ごついコンバット・ブーツを半分ずりさげるようにしてひっかけており、腰
の後ろに、たばねた縄のような輪が見えた。うんざりしたように髪をかきあげて、地面に
這った手下どもをあきれ果てた顔で見下した。
「せっかくいい気持ちで寝てたのに、バンバンドカドカ騒ぎ立てやがって。ぶちのめして
やろうと思ってたらこの始末だ。せめて俺が出てくるまで待てなかったのか、え、犬ども」
 そげた頬ととがった顎をした、剃刀めいた印象の顔だった。高い鼻の両側の目は青く冷
たく、深く落ちくぼんで燐光を放つように見えた。長い髪は赤く、まっすぐで、寝ていた
ことを明かすようにばらばらに肩から腰へと乱れかかかっている。
 やせていたが、むきだしの上半身は無駄のない筋肉にきっちりと覆われていた。穏やか
な表情であれば整った顔立ちといえただろうが、夜の中でも燃えているような、両目の冷
たい火がそれを裏切っていた。
「ご、ごめんよ、ジェイ、ごめんよ」
「さわるんじゃねえよ、クソ犬が」
 足もとへ這っていって手を伸ばそうとした男を蹴り飛ばし、無造作にコンバットブーツ
を踏みおろした。枯れ木を砕くような音がして、男はかぼそい悲鳴をあげた。
 踏み砕かれた手を抱えて苦悶する手下を見もせずに、ジェイと呼ばれた赤毛の男はさら
に一歩踏み出してすかすように前を見た。視線の先にはかわらず静かな、月色の銀髪の青
年が佇んでいた。
「ずいぶん毛艶のいいおぼっちゃんだな」
 あざけるように彼は言った。
「その格好で誰にも身ぐるみはがされずにここまで来たとは見上げたもんだ。しかし、あ
んたみたいな細っこいのに足もとすくわれてちゃ、こいつらも大したことはねえな。まあ
いいさ、こいつら腰抜けのことはあとで始末する。で」
 冷ややかな青い瞳がきつく細まった。
「あんた。何者だ」
「──おまえが、ユリウス・ベルモンドか」
 問いには答えず、青年は静かに言った。
 息のつまったような沈黙が落ちた。
 強い恐怖があたりにみなぎり、倒れて傷の痛みに悶えていた男たちも、一瞬苦痛を忘れ
て動きをとめた。
 赤毛の男はしばらく沈黙していた。垂れた前髪が表情を隠していた。薄い唇が笑みに似
てはいるが、それとはまったく違った何かを浮かべた。
「なあ、知ってるか、あんた」
 陽気と言っていい声で彼は言った。
「俺の耳にはいるところでその名を口にした奴は死ぬんだ。俺が特別、機嫌のいいときに
はな」
「では、悪いときには?」

11煌月の鎮魂歌 1 9/10:2015/02/25(水) 09:19:59
 あくまで静かに銀髪の青年は問い返した。
「──死んだ方がましだって目にあうんだよ!」
 悪魔の咆吼といっていい恫喝がとどろいた。
 とびかかる毒蛇のすばやさで赤毛の男は身をかがめ、腰の後ろに手をやった。常人の目
にはとまらない動きで、一筋の黒い影が飛んだ。
 空気を切る音はあとから響いたようだった。影は身じろぎもしない銀髪の青年をめがけ
てまっすぐ飛んだ。
 なにかが弾けるような音がした。
 息をのむ音が波のようにあたりに広がった。赤毛の男は、はじめて見る光景に愕然と目
を見開いた。
「悪くはない」
 青年の声はあくまで静かだった。姿勢もほとんど変わらない。
 ただ、あげた右の前腕に、ぎりぎりと巻き付いた鞭を素手でつかみ止めていた。まとも
に受ければ皮も肉も深々と裂く一撃を、子供が投げた縄のように、手袋もはめない手で受
け止めていたのだ。
「だが、やはり訓練ができていない。いらぬ動作が多い。それによけいなこけ脅しも」
 手を一振りして鞭を離した。鞭は生き物のようにはね戻って、赤毛の男の手に吸い込まれた。
 戻った鞭を輪にして、男は信じられぬ思いで鞭とほっそりした青年を見比べた。彼に
〈赤い毒蛇〉の異名を与えた鞭、これまで幾多の拳銃やナイフや、時には火炎瓶やダイ
ナマイトまでも使った出入りをこれ一つでくぐり抜けてきた無二の武器を、片手であし
らえる人間などこの世にいるとは思ってもいなかったのだ。
「私はお前を迎えに来た、ユリウス・ベルモンド」
 銀髪の青年はまっすぐに彼を見た。氷青色の双眸に鮮やかな金の炎が走り、ユリウス・
ベルモンドは背筋に、恍惚と畏怖の入り交じる衝撃が走るのを感じた。
「私は、アルカード」
 青年の澄んだ声は過去からの遠い鐘の音のように響いた。
「はるか昔からベルモンドと共に在った者。決戦の刻が近い。聖鞭ヴァンパイア・キラー
の使い手として、運命がお前を欲している。ユリウス・ベルモンド、ベルモンド家の血を
継ぐものとして、私と来てもらいたい」

12煌月の鎮魂歌 1補足:2015/02/25(水) 09:23:58
すいません4/10と5/10の間に次の数行が抜けてますorz

 数十分後、青年はすっかり暮れた街角の影の中に、ひそやかに佇んでいた。
 通りの向かいには発狂した神の家があった。少なくとも、中にいる者はそう装ってい
た。焦げ崩れた石壁には隙間なく、これまで見た中でもっともひどい涜神と冒涜と卑猥の

保管所収納の時はこちらを追加して入れてくださいまし……すみませんorz

13煌月の鎮魂歌 2 1/13:2015/03/11(水) 02:03:31
             2
 
 空虚な部屋だった。
 外のけばけばしさや騒々しさからは想像もつかないほど厳しいまでに簡素で、
本一冊、色のあるもの一つおかれていない。外の喧噪も地下へ下ったここからは遠い。
もとは石炭置き場だった名残が、天井や壁の隅に残った燃え殻やこびりついた煤に
感じられた。
 真四角なそっけないコンクリート造りの箱のような地下室。あるのは鉄製の枠の
シングルベッドと古びたマットレス、寝乱れたシーツと枕、どこかから拾われてきた
らしい小さなテーブルと、教会の備品だったらしい背もたれのまっすぐな木製の椅子
ひとつ。
 ユリウスがアルカードを導いたのはそんな部屋だった。裸電球が天井の片隅で
ぼんやりと灯っている。テーブルの上には三分の一ほどに減った安ウイスキーの瓶と
曇ったグラスが一つ。狭くて急な階段が地上との唯一の通路だ。むっつりとベッドに
腰をおろすユリウスに、左右を見回したアルカードは呟くように言った。
「こんなところに住んでいるのか」
「こんなところで悪かったな」ユリウスは歯を剥いた。
「あんたから見りゃ、そりゃ、薄汚れたあばらやだろうがよ」
 アルカードは黙ってユリウスを見返した。そのどこまでも静かな視線に出会うと、
続けようとしていたユリウスは口ごもり、逡巡し、忌々しげに舌を鳴らして再びベッド
に腰を沈めた。
 地面に転がったままうめいている手下どもの中に立って、銀髪の来訪者は平然とした
口調でユリウスとの二人だけの会談を望んだ。一瞬、屈辱が鋭く胸を噛んだ。だが
ユリウスも、必殺の鞭を片手で止められた以上、手下どもの前でこれ以上無様な様を
さらすわけにはいかなかった。
 本気で戦えば圧倒できるのではないかという気が頭をよぎりはしたが、危険は
犯さないほうがいいと貧民街を生き抜いてきた者の勘が告げた。

14煌月の鎮魂歌 2 2/13:2015/03/11(水) 02:04:34
 今はユリウスに従っている男たちも、もしユリウスが絶対の強者ではないと知れば、
たちまち反抗の牙を研ぎ出すだろう。競合する別のギャング、ベンベヌート一味や
マカヴォイ兄弟のもとに走る者も出るかもしれない。ユリウスとしてはあくまで威厳を
保ったまま、手下どもに手当と後始末をしておくように言いつけ、相手を内に請じ
入れるしかなかった。
 煤色に染まったコンクリートの壁に背をもたせ、顎をしゃくって座るようにうながす。アルカードはなんでもなさそうに粗末な、クッション一つついていない堅い椅子を引き
寄せて、腰を下ろした。服が汚れることも気にしていないようだった。
 アルカードの言葉の意味は悟っていた。「こんなところ」とは見下して言ったわけ
ではなく、「こんなに寂しいところにひとり住んでいるのか」という問いかけを含んで
いたのだった。
 哀れみは〈赤い毒蛇〉のもっとも嫌うところだ。それらは人を甘くする。苛立ちに
歯を噛み鳴らしながら、ユリウスは顎を胸につけ、刺すような青い眼でじっと銀髪の
麗人を眺めた。
 ベルモンド。ベルモンドとその〈組織〉。
 裏社会のみならず、表社会の権力者たちの中でもその名前は一種の禁忌であり、畏怖
とある種の恐怖をもってささやかれる存在だった。
 力を持つ者ほど迷信にすがりたがるのは今も昔も同じことだ。ギャングの大ボスたち
はそれぞれの特別な護符や習慣を身を守るためのまじないとして手放さないし、まつげ
を動かすだけで人を殺せるマフィアのグランドファーザーでさえ、毎週の礼拝出席と
教会への巨額の献金はかかさない。現米国大統領がお抱えの占星術師を頼ってスケ
ジュールを決めていることは周知の事実だし、験力が強いと評判の祈祷師のもとに、
政治家ややくざの組長が門前列をなすのは公然の秘密だ。
 だが、ベルモンド一族とその〈組織〉は違う。
 彼らは闇に属しながら、その中でもさらに深い闇にまぎれ、どんな権力にも従う
ことなく、ことあらば不意に姿を現して去っていく。時に世間を騒がせることがある
謎の殺人や奇妙な出来事、表に出ることのない怪異、それらの近くでは必ずベルモンド
の名がささやかれる。
s

15煌月の鎮魂歌 2 3/13:2015/03/11(水) 02:05:30
〈闇の狩人〉、それがベルモンド家の血筋につらなる者の異名であり、彼らが
どのようなまじない師とも祈祷師とも区別される点だった。彼らのみが抗しうる存在
がこの世の皮一枚の裏側にうごめいており、それが這い出てきたとき、彼らは現れて
それを狩るのだ。
 いっさいの区別が彼らには存在しない。権力におもねることもなければ金に従うこと
もなく、暴力ではなおさら彼らを従わせることなどできない。彼らは彼らのみの規範と
意志によって動く者たちであり、その前ではどんな国家権力もマフィアの最高ボスも
ひとしく無力だ。
 ベルモンドを頂く〈組織〉は影のような根をあらゆる場所にのばし、見えない網で
世界を囲い込んでいる。彼らのほんとうの目的は誰も知らず、正確なその姿を知るもの
もほとんどいない。知ろうとした者は例外なく影に飲み込まれ、永遠にこの世から
消え去ると囁かれている。同じことを数限りなくやってきたであろうギャングの元締め
たちさえ、ベルモンドの名を耳にしたときには、そのガラス玉のような眼にわずかな
動揺と畏怖を走らせるのだ。
「あんたのことは聞いてる」
 吐き捨てるようにユリウスは言った。
「ベルモンドのふたつの至宝。ひとつは聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉。そとてもう
ひとつは〈アルカード〉。裏社会じゃ知られた話だ。もっとも、鞭のほうも〈アルカ
ード〉のほうも、見た奴はほぼいやしない。特に、〈アルカード〉が人なのか物
なのか、なにかの象徴なのかさえ、知ってるやつには会ったことがない。それが今」
 ぐっと眉をひそめてユリウスは美しい青年の静かな面差しを視線で突き刺した。
「俺はじきじきにそのご当人と対面してるわけだ。光栄だね。〈アルカード〉がこんな
べっぴんのお嬢ちゃんだと知りゃ、欲しがる奴は星の数ほどいるだろうよ。ベルモンド
が隠したがるわけだ」

16煌月の鎮魂歌 2 4/13:2015/03/11(水) 02:06:13
「私は存在を秘匿されているが、お前が言うような理由からではない」
 アルカードは声音を変えずに穏やかに続けた。
「人は異質な者を怖れ、排除する。それだけのことだ。人の世では私は異端者だ。永遠
に生きる半吸血鬼の存在を受け入れる準備は、闇の存在に触れたことのない人間には
できていない」
「半吸血鬼……あんたが?」
 ユリウスは思わず問い返していた。
「私は吸血鬼であり魔王である父と人間である母の間に生まれた」
 なんでもないことのようにアルカードは言った。
 ほかの人間が口にすればたわごとにしか聞こえない言葉が、この青年の唇から漏れる
と異様な重みを帯びた。気の遠くなるような年月の積み重ねと、沈滞し凍りついて
しまった永い孤独が、短い言葉に真実の響きを与えていた。
「もう五百年も昔のことだ。私は父に反抗し、当時ベルモンドの当主でありヴァンパイ
ア・キラーの使い手であった男と協力して、父を討った」
 まるでおとぎ話か伝説のような内容が、この青年の静かな口調が語ると異様な真実味
を帯びた。
「その後私は眠りについたが、事情があって目覚め、再びベルモンド家に身を寄せる
ことになった。今のベルモンド家の血筋は、最初に父と戦った時のベルモンドの当主と
、その戦いの友であった女魔法使いのものだ。私は彼らの子孫を守り、彼らの使命
である闇の血の最終的、かつ完全な封印に手を貸すため、この二百年間を生きている」
 しばしユリウスは返す言葉を失って青年を見つめた。
 穏やかに見返してくる月輪のような顔にはしわ一つ、しみひとつなく、薄暗い裸電球
の光の下でも自ら光を放つように白い。雲のような銀髪が細い肩に散りかかり、聖者の
像を取り囲む光輪のように輝いている。
 閲してきた長い年月をうかがわせるのは、ただその瞳だった。氷河の底の青の瞳に、
ユリウスは五つの世紀を越えて生き続けてきた者の、もはや動かしがたいものとなって
いる孤独の堅い殻を見た。

17煌月の鎮魂歌 2 5/13:2015/03/11(水) 02:06:58
 この青年が見送ってきた人間たちの数の多さを知った。いつまでも若く美しいままの
彼の前で、どれほどの人間が生まれ、育ち、年老いて死んでいったことだろう。彼に
とって人の一生は蜻蛉にも似てはかなく、やるせないものだったに違いない。
「やめておくことだ」
 不意にアルカードが言った。
「なに?」
「人を哀れむことは」
 なめらかに彼は続けた。
「軽率に他人を哀れんだりするものではない。自分が哀れまれたくないのであれば、
ことに」
 ユリウスは動揺した。それから腹を立てた。自分の心を読まれたことと、ことも
あろうに自分が哀れみなどという感情を抱きかけたことを指摘されたこと両方に。
「誰が」
 ユリウスは乱暴に立ち上がるとテーブルからウイスキーの瓶をつかみ取り、歯で蓋を
開けて吐きとばした。ラッパ飲みで中身を飲み下す。焼けるような酒精が喉を下って
いき、怒りをさらにあおった。
「で?」
 ひと飲みで底が見えるほどに減った瓶を提げたまま口をぬぐい、脅すような視線で
銀髪の青年をねめつける。
「こんなところまでベルモンドの至宝の片割れがしゃしゃり出てきたのは、いったい
何の用だ。俺をわざわざあの名で呼んだ以上は、あんたは俺の名に用があるってわけ
だ。今まで放りっぱなしにしておいた私生児に、今さら何の意味がある」
「決戦の刻が迫っている」
 とげとげしい視線に貫かれながら、青年の顔は遠い月のように静かだった。
「一九九九年、七月。ベルモンド家が待ち望んだ、完全に魔王とその闇の血を封印
できる合の刻だ。魔王は現世に降臨し、すべてを破壊するだろう。その前にわれわれは
それを阻止し、永遠に彼を封じねばならない」

18煌月の鎮魂歌 2 6/13:2015/03/11(水) 02:07:40
 鼻を鳴らしただけでユリウスは横を向いた。
「……だが、鞭の使い手がいない」
 わずかに声のトーンが落ちた。長い髪が揺れ、けむるような睫毛が氷青の瞳に影を
落とした。
「現当主ラファエル・ベルモンドは先日、魔物の襲撃を受け、撃退には成功した
ものの、脊髄を損傷して下半身不随となった。もはや鞭を振るうことはできない。
前当主ミカエル・ベルモンドが急死し、当主を継いですぐのことだった。魔王封印には
〈ヴァンパイア・キラー〉、最初の戦いの時より魔王と闇を封じるために存在する
あの鞭と、その使い手が不可欠だ」
 ユリウスの眼が危険な色を帯びはじめていた。歯が牙のようにむき出され、薄い唇が
笑いににた形にひきつっている。ストリートの住人たちや、彼の手下どもが一目見た
とたんに震え上がる悪魔の微笑だ。
「それであんたが、俺を拾いに来たってわけだ」
 ほとんど陽気にすら聞こえる声でユリウスは言った。
「そうだ」
「使いもんにならなくなっちまったベルモンドの代わりに新しいベルモント、そういう
ことか? くそったれな魔王を封じるためにくそったれな鞭を使える別の人間が
必要だ、だからこのくそったれな街に放り出しておいたくそったれなあばずれに
生ませたガキを迎えに来たって?」
「そうだ」
 ユリウスは大きく腕を振りかぶると、ウイスキーの瓶をアルカードの白い顔めがけて
投げつけた。
 アルカードはまばたきもしなかった。瓶はぎりぎり彼の銀髪の先をかすめて飛び、
壁にぶち当たって砕けた。
 安いアルコールの臭いが立ちのぼった。飛び散ったかけらがアルカードのなめらかな
頬に赤い筋を一本つけていた。怒りに肩を上下させるユリウスの目の前で、その小さな
傷は溶けるように薄くなり、三秒とかからずに完全に消えてしまった。

19煌月の鎮魂歌 2 7/13:2015/03/11(水) 02:08:25
「ふざけるんじゃねえ」
 絞り出すようにユリウスは言った。
「今さら俺がベルモンドに何の用事があるってんだ。俺はこの街で一人で生きてきた、
いいか、一人でだ。おふくろは俺が三つの時に通りすがりのヤク中にめった刺しに
されて死んだ。誰も俺を助けちゃくれなかったし、頼るものなんぞ何もなかった。
泥水と腐った野菜で生き延びてたガキを、当主が使いもんにならなくなったからって
いきなり本家に迎える? お笑いだ。冗談もたいがいにしやがれ」
「おまえのことはいつも捕捉していた」
 壁際で砕けた瓶に、アルカードは目を向けもしなかった。
「母上のことも、境遇のこともミカエルは把握していた。何度かは迎えをやろうとした
こともあった。だが、彼の妻が拒否した。胎違いの兄弟の存在など、争いの元だと
言って」
 燃えるようなユリウスの視線を、揺るぐことなくアルカードは受け止めた。
「ラファエルは有能な使い手だった。十五歳の時にはすでに父親を凌駕する技量を
見せていた。彼がいれば決戦の刻も安泰だと誰もが言った。今さら後継者どうしの
内紛を招くような真似は不要だと」
「だから放っておいたと?」
 歯ぎしりの隙間からユリウスは問うた。
「そうではない」
 アルカードはゆっくりかぶりを振った。
「若い日とおまえの母上のことはミカエルも忘れたことなどない。おまえのことは
いつも把握していたと言ったはずだ。ベルモンドと〈組織〉は自ら表に出ることは
ない、それでも……できることはいくつかある」
 ユリウスの奥歯が大きくぎりっと鳴った。

20煌月の鎮魂歌 2 8/13:2015/03/11(水) 02:09:05
「つまり俺が生き延びてこれたのはベルモンドのおかげだってのか?」
 押し殺した声でユリウスは再び問いかけた。
「おふくろが挽き肉みたいになって道に倒れてたのもベルモンドのおかげか? 俺が
壁にかくれてそれを見てるしかなかったのも? 地面を這いずり回ってかじりかけの
ハンバーガーや泥みたいなジャガイモを拾い集めてたのも? 初めて武器を手に入れて
人を殺した時も? 全部あんたらの、ベルモンドの手の内だった、そういうこと
なのか?」
「……ミカエルは忘れてはいなかった」
 ただそう繰り返し、アルカードは目を伏せた。
「だが、彼は一私人である前に、ベルモンドの当主であり、〈組織〉の頂点に立つ
ものとして指揮を執らねばならなかった。彼にはなすべきことがあまりに多すぎた。
おまえの母上の死の直後に、すぐにおまえを引き取ろうとしたのだ。だがその時には
もうラファエルが産まれており、彼の妻とその一族が、こぞって反対した。〈組織〉
の分裂を防ぐために、彼は断念するしかなかった。彼にできることは、幼いおまえが
本当に危険な目にあわないよう、陰から守りつづけることしかなかったのだ」
 一瞬、目もくらむばかりの怒りと屈辱に、ユリウスは口もきけなくなった。
 これまで彼は、この弱肉強食の都市でたった一人で生き延び、道を切り開いてきた
のだと思っていた。汚辱の街で蛇と呼ばれ、悪魔と怖れられる彼の、それが誇りであり
矜持でもあった。
 だがそれが、実は顔も知らぬ父親の手がまわされており、憎み続けたベルモンドの
名によって庇護されていたのだと知らされた今、はらわたが怒りで痛みを感じる
ほどによじれた。
「そいつを聞いて俺にどうしろと?」
 声の震えを抑えられなかった。
「膝をついて感謝して、亡きクソ親父に祈りでもささげろってのか? それで言う
とおりにくそったれベルモンドの一員になって、魔王だかなんだか知らんがわけの
わからんたわごとに手を貸せと?」

21煌月の鎮魂歌 2 9/13:2015/03/11(水) 02:09:54
 アルカードは黙ってユリウスを見つめた。そこには何も映ってはおらず、どんな
意図も浮かんではいなかった。彼はただ真実を述べただけであり、それをユリウスに
対する担保として使おうとはしていないことが、ユリウスの鍛えられた目にはすぐに
理解できた。
 だが、感情は許さなかった。全身をめった刺しにされた母の死骸の上でジグを踊っ
ていたヤク中のぽっかり開いた口と、垢と母の血にまみれた裸足が目の前を行き来
した。異臭のするフライドチキンの骨からわずかな肉をかじりとった時の舌をさす味
をはっきりと感じた。
 ひとりスラムに放り出された幼い子供がたどる多くはない運命──狼どもの手で
さんざんおもちゃにされたあげく首をひねられるか、紳士面の変態趣味の奴らに
供される人肉になり果てるか、豚のように殺されて腑分けされ、あらゆるパーツを
金にするためばらばらにされて冷凍庫に納められるか──確かにそのどれも、
ユリウスには起こらなかった。だがそれ以上の幸運も起こらなかった。
 四歳で他人の懐を狙うことを覚え、六歳ではじめて自分のナイフを手にし、
七歳の時に最初の殺人を犯した。その時にはすでに当時一帯を支配するギャングの
使い走りとして働いており、殺人も日常の退屈な出来事のひとつにすぎなかった。
子供の手に正確に心臓をひと突きされ、何が起こったのかわからないまま死んでいく
相手の目を無感動に見つめていた。特別な感慨も衝撃もなく、ただわずかに手を
汚した返り血がわずらわしい感触を残した。相手が誰で、どういう理由で殺したのか
さえ覚えていない。たぶん密輸かヤク絡みの何かだろう。
 それから一年の間にさらに五人、二年目には八人殺していた。得物はナイフから
ロープに、そして自分で工夫した革をよりあわせた鞭に変わった。十五歳の時に
その鞭で、女を抱えてたるんだ体を震わせているボスを、女もろとも手下どもの
前で殺した。〈赤い毒蛇〉、生きているような鞭扱いで犠牲者をいたぶる、赤毛の
悪魔が誕生した瞬間だった。

22煌月の鎮魂歌 2 10/13:2015/03/11(水) 02:10:44
 ベルモンドという名前の持つ意味と影響力も知ってはいたが、自分には関係の
ないことだと思っていた。周囲とはまた別の意味で、その名前はユリウスにとって
禁忌だった。顔も知らない父親がつけたという名も、その姓も、ユリウスにとっては
吐き気をもよおすものでしかなかった。
 うっかり口にしたばかりに命を落とした者が十人を数えた時点で、誰もその名を
出さなくなった。ときおり抗争相手でこちらを怒らせるためにあえてその名を呼ぶ者
もいたが、彼らは例外なく自らの考え違いを呪いながら、じっくりと時間をかけて
地獄に送り込まれた。
 ただジェイとだけ呼ばれること、そう呼ぶことさえただならぬ恐怖を伴わせる
ことが、ユリウスの満足だった。〈赤い毒蛇〉。ブロンクスの悪魔。口にするだけで
凶運を呼び込む存在。
 遠い日、母親の死体を踏みにじっていた汚い裸足のかわりに、ユリウスはブロンクス
の汚辱の上で踊っていた。すべてを血まみれのブーツの下に踏みにじり、毒蛇の
ひと噛みのように一瞬で死を与える鞭を手にして、自分がくぐり抜けてきた暗黒を
足下に従えること。それがユリウスがやってきたことであり、これまでもやりつづける
だろうことだった。
 この銀髪の異邦人がやってくるまでは。
「魔王はたわごとなどではない」
 アルカードははっきりと言った。
「お前が信じるか信じないかは自由だ。だが魔王の降臨を止めないかぎり、人の世は
魔界に飲み込まれる。人は地獄を目の当たりにするだろう。生きたまま悪魔にむさぼり
食われ、玩具として扱われるだろう。人の築いてきた文明は崩れ去り、ただ血と殺戮が
大地と世界を覆いつくす」
「悪魔ならここにいる。地獄もここにある」
 毒々しい笑い声をユリウスはあげた。

23煌月の鎮魂歌 2 11/13:2015/03/11(水) 02:11:28
「悪魔は俺だ。地獄はここだ。魔王だと? 好きなようにすりゃあいい、構うもんか、
どうなろうと。くだらねえ、どいつもこいつもくだらねえ、めんどくせえ腰抜けの阿呆
ばっかりだ。文明なんてお綺麗な題目なんぞ最初から嘘の皮だ、ここで暮らしてる奴ら
なら全員そんなこと百も承知さ。食われる相手が同じ人間から本物の悪魔に変わるから
って、今さら何がどうなるってんだ」
「世界はここだけではない。ほかの場所で闇とも恐怖ともかかわりなく、穏やかに
暮らしている大勢の罪もない人々がいる」
「だからってなんで俺がそんな豚どものために力を貸してやるんだ?」
 牙のように歯をむいてユリウスは冷笑し、唾を吐いた。
「嫌なこった。そいつらは俺のためになにもしてくれなかった。だったら俺がそいつら
のためになにかしてやる義理はあるのか? なにもねえな。お生憎だ、俺は自分に関係
のない奴らのために動くほどお人好しでも暇でもねえ。帰んな、ベルモンドの犬」
 脇に置いていた鞭をとって突きつけ、ユリウスは目を細めた。
「ラファなんとかいう当主に言ってやれ、やりたきゃ自分でなんとかしろ、俺には関係
ねえってな。当主争いは起こしたくないってんだろ? 俺もそんなもんに関わる気は
ない。滅ぶなら勝手に滅びゃいい、自分が死ぬときだって俺は大声で笑ってやるさ。
このうんざりな世の中が本物の地獄に覆われるってんなら、その方がよほどさっぱりする」
 短い沈黙があった。
 青年は彫像のごとく静止し、自分が引き起こした静けさにもかかわらずユリウスは
ひどくいたたまれない心地になった。そんな自分にまた腹を立てた。もう一つ、酷い
罵声のひとつも浴びせかけてやろうと口を開きかけたとき、彫像の唇がかすかに動いて
か細い言葉をはいた。
「……私に、なにかできることはないか?」
 表情は変わらないまま、そこには変えられない壁を前にした嘆願と、ほとんど哀訴の
響きさえ込められていた。

24煌月の鎮魂歌 2 12/13:2015/03/11(水) 02:12:17
「ああ、そうだな」
 相手が沈黙を破ってくれたことに内心強烈な安堵を覚えつつ、ユリウスはベルトの
ないレザーパンツに手をあてて卑猥な仕草をしてみせた。
「あんたがそこに這いつくばって、俺のブツでもしゃぶってくれりゃ、少しは考えて
やってもいいかもな」
 アルカードはまばたきひとつせず、その言葉を受け止めた。
 青年が、その気になれば思いのままに人を従わせる能力を持っていることをユリウス
は本能的に察知していた。半吸血鬼という生まれが本当であることも。弱い者は
たちまち食い殺される場所で生きぬいてきた者は、強い者、異質な者、自分を
従わせることのできる者を一瞬で見分けるようになる。アルカードという青年は
そのすべてに該当した。
 地面に転がって呻いている手下どもの中に立つすらりとした立ち姿を見た瞬間から、
わかっていたのだ。鞭の一撃をとばしたのも、思い返せば禁忌の名で呼ばれたその事
より、自分よりもはるかに強力な者が現れたことに対する反射的な自衛のようなもの
だった。抵抗したところで効果などないことも、すでに知っていたように思う。
 だがアルカード、ベルモンドの至宝たる彼はそれをしないのだ。力で従わせることを
是とせず、あくまでユリウス自身の意志で、ベルモンドへの帰還と鞭の主となることを
求めている。
 苛立たしくてたまらなかった。他人を従わせる力を持つために、この腐りきった場所
でユリウスが積み上げてきた血と泥の足跡の一つ一つをかるく凌駕するだけの力を
持ちながら、それをふるおうとしない彼が。
 力で他人の意志を曲げさせるにはあまりに誇り高すぎる、とユリウスは思い、
まばゆいばかりの青年の姿を呪おうとした。他人を力で意のままにするという卑しい
行為には、自分は高貴すぎるとでもいうのか?
 だができなかった。青年はあまりに美しく汚れなく、どんな怒りも呪いもその大理石
のような肌に触れることもなくすべり落ちていくかのようだった。

25煌月の鎮魂歌 2 13/13:2015/03/11(水) 02:13:02
 人間の手には触れられない月、とユリウスは思った。天の高みで冴えざえと輝き、
こぼれるほどの光で冷たく青く地上を照らしながら、その面には誰も近寄せず、
どんなに手を伸ばしても届くことのない。
 さあ怒れ、とユリウスはわずかに目を伏せて動かないアルカードに向かって心で
叫んだ。
 無礼を怒って椅子を蹴れ、その綺麗な口から罵りの言葉を吐いてみせろ、遠い月の
顔の中にも触れられる感情があると見せてみろ。
 俺にも動かせる場所が、お前の中にあることを見せてくれ。
「……それが、お前の条件か」
 長い間に感じたが、おそらくほんの十数秒にすぎなかったのだろう。アルカードの
唇が動き、前と同じく澄み切った水晶のような声をこぼした。
「わかった。そうしよう」
 アルカードは立ち上がった。長い銀髪が雲のようにたなびいた。
 すべるように彼がきて足もとに膝をつく間、ユリウスは動けなかった。自分自身の
発した言葉に縛られ、声さえ立てられなかった。
 汚れた床にためらいもせず彼は這った。麻痺したようなユリウスの腰に手が伸ばさ
れ、レザーパンツの上を冷たい細い指がすべった。
 白く輝く顔が近づいてきた。夢の中の月のように。

26煌月の鎮魂歌 3 1/7:2015/04/06(月) 07:42:36
           3

 悪夢を見ている気分だった。それとも麻薬の夢か。
 コカインもヘロインもやったことはある。もっとキツいやつも。酷いやつも。
〈赤い毒蛇〉のもとにはすべてが集まってくる。悪魔のもとにご機嫌伺いに差し
出される中には人間もあればクスリもある。徹底的に最低なやつが。天使の顔と
身体を持ち、地獄の口と指とあそこを持った女や男。
 ベッドの端に腰かけて、ユリウスは足の間でゆっくり動いている銀色の髪を
見ている。ヴェールのように垂れかかっている髪をかきあげたくてたまらないが、
麻痺したように身体が動かない。
 部屋の中が急に熱くなった気がする。地獄の炎であぶられているかのように。
その中で白い顔と指だけが涼しげに音もなく動いている。たてているはずの音は
すさまじい耳鳴りに邪魔されて聞こえない。
 ときおりちらりと見える自分自身の肉──すさまじいばかりに怒張したペニスが
何か別の物体のように思える。自分とは切り離された異様なエイリアンの器官の一部。
だがそいつが伝えてくる感覚がユリウスの心臓を一秒ごとに絞り上げ、溺れた者の
ように喘がせ、罵りの言葉ひとつ発することができなくさせている。
 巧いわけではない。むしろ下手だ。この街では七歳の子供でももっとうまく男の
ものをくわえる。キャンディ・バーをしゃぶるより早くやり方を覚えるのだ。そうで
なければ生き残れない。ユリウスは子供は好みではなかったが、ポルノ・ショップの
前に立つ娼婦や男娼たちにしばしば十歳以下の少年や少女が混じっているのは常識だ。
 腐りかけたニンフェットたち。部下たちがときどきそうした子供を買っては殴り
つけ、楽しんでいるのも知っている。好きにさせておいた。誰でもみな生きなければ
ならない。あのガキどもも自分たちにできる仕事で稼いでいるまでだ。
 心臓の鼓動が激しすぎて目がくらむ。喉がかわく。
 ユリウスはまばたきして目に入る汗を払った。指一本動かせない今の状態ではそう
するしかなかった。
 銀色の髪がさらりと揺れて、青年の横顔が見えた。なんの動揺も、嫌悪感も見せず、
男のペニスに指をからめている。煙るような睫毛を伏せて、手のひらに乗せた肉塊を
撫でさすっている──恐ろしいまでに場違いに見えるそいつに唇をあて、慣れない仕草
でくわえこむ。

27煌月の鎮魂歌 3 2/7:2015/04/06(月) 07:43:31
 小さい口にはとても全部入りきらないものをせいいっぱい飲み込んで動かし、小さく
むせて吐き出す。呼吸をととのえてまた手をのばし、支えるように捧げ持って横に唇
と舌をあてる──フルートを吹くように。
 どれもこれも下手くそだ。その辺の娼婦ならそろそろ苛立った客にブーツを口に
たたき込まれてポップコーンのように前歯をまき散らしている。
 だが、くそっ、俺は興奮している、とユリウスは爆発しそうな頭でようやく思った。
 せんずりを覚えたての中学生みたいに興奮している。体中の穴という穴から血を噴き
出しそうに興奮している。最悪の変態趣味の乱交ポルノムービーも鼻で笑った毒蛇が、
この銀髪の青年のつたない指先と舌と唇に、身動きもできないほどにからめ取られて
いる。
 震える手を苦労してのばして相手の髪をつかむ。つかめたことに内心驚きながらぐい
と上向かせる。
 青年はわずかに驚いたようにまばたいたが、抵抗しない。髪をつかまれたままじっと
ぶら下げられ、喉を鳴らしているユリウスの凝視を受け止める。
 唇がぬれて赤い。乱れた髪が額に二筋三筋散り掛かっている。それだけだ。何も変化
はない。降り注ぐ月光に似た冷たさと透明さ。
 突然の凶暴な怒りにかられて、ユリウスは力任せに白い頬を殴った。二度。三度。
 拳が当たるたびに天使のような頭はのけぞって力なく揺れた。肩で息をしながら殴打
をやめると、静かに顔をあげた。一瞬残った赤みがすぐに引いていき、なめらかな
純白の肌が戻った。なんの動揺も痛みも表さない、氷の青の瞳が見返していた。
「まだ続けるか」
 声もまた純白で透明、なんの感情も怒りも痛みも現れていない。
「それとも、こちらのほうを続けるか」
 殴られていた間も離さなかったらしい手のひらを示す。そこに乗せられた赤紫色に
膨れ上がったなにか、自分の一部とは信じがたいほど巨大に膨張した器官を目にした
瞬間、ユリウスの目の裏で赤い光がはじけた。
 ほとんど意味をなさない叫び声をあげながら銀の髪を手いっぱいにつかみ取る。
頭の皮ごとはがれかねない強さで引っ張り、相手の頭をわし掴みにして、その驚く
ほどの小ささを感じながら、開かせた口に膨れ上がった器官を突っ込む。

28煌月の鎮魂歌 3 3/7:2015/04/06(月) 07:44:14
 突然のことに青年がむせ、反射的に顔をそむけようとするのを強引に引きつける。
小さい頭、片手で握りつぶしてしまえそうな繊細な頭に鉤爪のように指を食い込ませ、
前後にゆさぶり、腰を叩きつけんばかりに奥へ突っ込む。
 期待したような抵抗はない。青年の動きはまったく反射的なもので、抗おうとした
手からもじきに力が抜ける。喉の奥を突かれるたびに身体がひくつき、咽せる息が
わずかに漏れるが、うすく開いたままの目にうっすらと滲んだ涙以外、なにひとつ
変わりはない。
「くそっ」押し殺した声でユリウスは呻いた。「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ」
 全身を電流が走り、目がくらんだ。手を離し、ユリウスは溺れかけた者のように空気
を飲み込みながらベッドに身を沈めた。
 離された青年はその場に倒れ込み、両手をついて起きあがった。掴まれていいように
振り回された髪は雨のように散り、床に乱れて輝いている。美しく。何にも触れられる
ことなく。
「終わったのか」
 月が言う。天の高みの月が。何にも触れられない、孤高の月が。
「まだ、するか」
 その口もとにわずかにこびりついた白いものに気づいたとき、ユリウスの腹の底で
赤い潮が弾けた。
 獣のような叫び声をあげながら彼は相手を突き倒し、腕をひねりあげて床に這わせ
た。
「何を……」
 腰を上げさせられ、ズボンとベルトを引きちぎるように脱がされるのに一瞬の抵抗が
あったが、頬を数発張るとすぐに力は抜けた。光る海のような銀髪が汚れた床を
覆った。犬のような姿勢をとらされ、むきだしにされた臀を高く上げさせられても、
髪に覆われた白い顔はなんの感情も伺えなかった。
 慣らしもせずに突きいれたとき、背中がびくりと反り、手足がこわばったが、
それだけだった。そらせた白い喉は息をのむように一度上下しただけで、床の上に
ふたたび俯せた。
 狭くてきつい内部をユリウスは強引にかき混ぜ、突き上げ、揺さぶった。これまで
どんなクスリも酒も与えてくれなかった強烈な、吐き気のするような快楽だった。
熱くやわらかく、地獄の娼婦のあそこのように絡みついてくるそこは煮え立つ陶酔
の沼だった。

29煌月の鎮魂歌 3 4/7:2015/04/06(月) 07:45:04
 ユリウスは唸り、一度達し、また達した。欲望はまったく衰えなかった。それ
どころか、よけいに燃え上がった。中に出されるたびに短く息をのむ相手の身体が
目のくらむほど輝いて見えた。肘から先を床につき、はげしく揺さぶられながら
身体を支えている彼の動きを見て、ユリウスはあることに気づいた。
「お前。知ってるな」
 耳障りな呼吸音のあいだから、自分がそう言うのをユリウスは聞いた。髪で半分
隠れた相手の頬に、確かにかすかな震えが走った。
「犯られたことがあるんだろう。男に。それも何度も」
 青年は小さく息を吸い込み、何か反論しようとするかのように身を起こしかけた。
だがそれも一時のことで、すぐに唇を結び、あきらめたように力を抜いた。
「売女が」
 顔をそむけ、蒼白になりながら横たわる犠牲者に、ユリウスは毒のような言葉を
吐きつけた。毒は彼自身の舌も焼いた。喉を焼き、胸を焼き、一言口にするたびに
彼が相手に与えようと思う以上の傷を彼自身にも焼き付けていった。
「売女。淫売。牝犬。何がベルモンドの至宝だ。どうせ代々の当主様とやらと寝て
きたんだろう。それとも男なら誰でもいいのか。半分吸血鬼なんだったな。男と
やって、それから血を吸うのか。俺のことも、新しいミルクが欲しいってだけか。
この、淫乱が。牝犬。売女。売女」
「ちが……」
 あげた微かな声は小さな喘ぎにかき消された。これまでより強引に腰を叩きつけ
はじめたユリウスの動きで身体が揺さぶられ、声すらたてられないのだった。
 なめらかな内腿に精液と血が伝い落ちていく。上着が脱げ、乱れたシャツが
かろうじて引っかかっているだけの反った背中に爪を立てて、ユリウスは思いつく
かぎりの罵倒を嵐のように吐き続けた。売女や淫売はごく穏健なほうだった。
この地獄の街の最下等の娼婦でさえも顔色を変えるほどの悪罵が投げつけられた。
 呪詛にも似たそれを全身に浴びながら、青年はやはり動かなかった。苦痛に青ざめ、
大理石のような肌をいよいよ白くしながら、どんな罵倒にも屈辱にも殴打にも反応を
示さない。

30煌月の鎮魂歌 3 5/7:2015/04/06(月) 07:45:58
 それがいよいよユリウスを怒らせ、さらなる暴力に駆り立てた。上質なスーツの
上着の残骸がはぎ取られ、立てられた爪がいく筋もの赤い傷を作ってすぐに癒えて
いく。何度作っても消える傷に苛立ち、同じ傷をえぐるように爪を突き立て、噛み
つき、歯を立てる。
 血の味が甘く舌に溶けた。吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる。吸血鬼の血を
飲んだ者はなんになるのか。芳醇なワインのような数滴の血は味わったこともない
魔薬だった。夢中で腰を打ちつけ、毒の言葉を注ぎかけながら、ユリウスは甘い血と
肉をむさぼった。すぐに治ってしまう傷を舌でさぐり、食いちぎり、痛みと血を
そこから搾り取ろうとした。
 貫かれ、食われ貪られながら、青年はただ無抵抗に身を投げ出していた。うすく
開いた目にわずかに涙がにじんでいるほかは、ときおり震える息をついたり深々と
突かれて身をこわばらせたりするだけがすべてだった。人形同様に膝を立て、される
がままになっていることがよけいにユリウスを怒らせるのを知ってか知らずか、嵐の
吹きすぎるのを待つ花のようにじっと頭を伏せている。
 開いた喉もとになにか光るものがあった。血にくらんだ目でユリウスはそれを見た。
細い、古びた金の鎖。そう頭の端で思った。
 ぐいと大きく腰を進められ、声もなく青年は身をのけぞらせた。乱れたシャツの中
から鎖の先についたものが転がりだした。金色の、丸い、指輪のようなもの。男物の、
ごつい金の印章指輪──
 だがきちんと視界にとらえるより前に、さっと動いた青年の手がそれを隠した。
それまでの無抵抗が嘘のような素早い動きで青年は指輪をつかみ取り、手の内に
握りこんで引き寄せた。自分以外の誰の目に触れることも許さない、そんな動き
だった。
 握りこんだ拳を口もとに引き寄せ、唇がかすかに動いた。短い言葉が祈りのように
繰り返され、かたく閉じた目から涙がこぼれて落ちた。
 なんと言ったのかは聞き取れず、手の中に隠された何かを知らそうとしないことが
いっそうユリウスを激高させた。唇に甘い血をなめながら、ユリウスは獣と化して
責め立てた。

31煌月の鎮魂歌 3 6/7:2015/04/06(月) 07:46:44
 どんなにいたぶっても、殴られ抉られ痛めつけられても、拳はけして開かなかった。
ほとんどされるがままの青年の中で唯一力を持つもののように、かたくなにそれは
あった。汚れた床の上にたったひとつ残った、白く輝く意志。それはユリウスの、
こじあけて中を見てやろうという気持ちさえくじくほどの、強烈な拒絶を内包
していた。
 唸り、吠え、罵りながら、ユリウスは青年をただ犯した。銀色の月、天空にあって
ただ動かない、冷たい魔物の月を。

 
 汗と血と、──精のにおい。
 濁った空気の中に、ユリウスは手足を投げ出していた。指一本動かすのも億劫なほど
だった。肉体的にも、精神的にも。身体の下に汗で湿ったマットレスがあるのが
ようやくわかる程度だった。天井は霞がかかったように曇り、裸電球の光が橙色の
靄に見える。
 呼吸するのさえ一苦労だった。全身の力という力を使い果たしてしまったように
思える。
 長い時間だったのか、短い時間だったのかもわからない。朝なのか、夜なのかも
まったくわからない。外でいつのまにか百年が過ぎていたとしても、今のユリウス
なら受け入れたろう。
 頭が割れそうに痛む。たちの悪い酒を飲み過ぎたあとのような──だが、これまで
どんな酒だろうとクスリだろうと、バッドトリップの経験はなかったのだ。この美しい
魔に触れるまでは。
 きしむ首を無理に曲げて、ユリウスはベルモンドの使者のほうへ目を向けた。
 彼もようやく起きあがったところだった。いつまで続いたとも知れぬ激しい陵辱が、
さすがに彼の身体にもいくつかの痕跡を残していた。内腿にこびりついた血と精液の
跡、肩口や首筋に残る血、避けた服、透き通りそうなほど蒼白な頬。唇には噛み破った
あとがあり、朱い唇をいよいよ赤く染めている。
 むき出しの下肢をよろめかせつつ、壁にすがって立ち上がろうとするところだった。
今はかろうじて残骸が残っている程度のシャツの胸元、金鎖に通された何かをまだ
握りしめている。それが唯一の拠り所のように、しっかりと胸に押しつけて。

32煌月の鎮魂歌 3 7/7:2015/04/06(月) 07:47:28
 われ知らず、ユリウスは手をさしのべようとした。なぜ自分がそうしたのかわから
なかった。裸足の足の痛々しさに、むきだしの腰の細さに、引き裂かれた布に覆われて
いるだけの薄い肩に──手を触れて、支えてやりたいという闇雲な衝動がつきあげた。
 ゆっくりと顔がこちらを向いた。乱れた銀の髪の雲の向こうで、青い瞳が見つめて
いた。かすかな金色の光が奥で揺れていた。
「満足か」
 かすれていたが、言葉ははっきりしていた。ぎくりとユリウスは身を引いた。そして
自分が何をしようとしていたのかいぶかしんだ。
 青年は静かに、ただそこにいた。血と精液に汚され、血肉を食いちぎられ、服を引き
破られて体内までもさんざん蹂躙された直後にも関わらず、その声には一点の曇りも
なかった。
「私はお前の条件を飲んだ。今度はお前が私の申し出を飲む番だ」
 ユリウスは動けなかった。ブロンクスの悪魔、〈赤い毒蛇〉ともあろう彼が。
 悪罵も嘲弄も憤怒も、胸の中のすべてが死んでいた。酷い無力感と敗北感──普段の
彼であれば殺されようが認めなかったものが重くのしかかってきた。ユリウスは
はっきりと感じた。
 自分が敗北したことを。
「私とともに来てもらおう、ユリウス・ベルモンド」
 美しい声が弔鐘のように鳴り渡った。
「街の外に車を待たせてある。持ち物は要らない。すぐに出発する」

33<削除>:<削除>
<削除>

34<削除>:<削除>
<削除>

35<削除>:<削除>
<削除>

36<削除>:<削除>
<削除>

37<削除>:<削除>
<削除>

38<削除>:<削除>
<削除>

39<削除>:<削除>
<削除>

40<削除>:<削除>
<削除>

41<削除>:<削除>
<削除>

42<削除>:<削除>
<削除>

43<削除>:<削除>
<削除>

44<削除>:<削除>
<削除>

45<削除>:<削除>
<削除>

46<削除>:<削除>
<削除>

47<削除>:<削除>
<削除>

48<削除>:<削除>
<削除>

49煌月の鎮魂歌4 追記:2015/05/23(土) 19:08:19
すいませんあとから気づきましたがベルモンドの若当主くんの名前間違えてますねorz
ミカエルはお父さんのほうで息子くんはラファエルでした…うあああorz
申し訳ありませんが脳内で修正してお読みください
お恥ずかしい…orz

作品庫に収納の際はすみませんが修正お願いいたします……orz

50管理者@うまい肉いっぱい:2015/05/25(月) 01:05:03
お疲れ様です
こちらもついでに修正後を代理投稿させて頂きます

51煌月の鎮魂歌4 1/16:2015/05/25(月) 01:05:43
Ⅱ  一九九九年  一月 (承前)

            1


 おおまかに言って、最悪な旅だった。ほぼ誰にとっても。
 ニューヨークの最底辺から着の身着のままで連れ出されてぴかぴかのリンカーン・
コンチネンタルにつめこまれ、本物の牛革のシートの上に尻を下ろさせられた。身体に
まつわりつくようなしっとりとしたシート、車内に備えられたバーに並ぶグラスとシャ
ンパン、ワイン、コニャックにブランデー。足の下の敷物でさえ特注品の緋色の毛足の
長い絨毯だ。
 生まれてこの方地獄の彼方に幻のように見るだけだった贅沢品の数々が、今は手を
伸ばせばどれでも取れるところにある。上等な酒の全部をつかみ取り、窓からばらま
いてやりたくてうずうずした。だが、身じろぎしたとたん、サルーン・シートの向か
い側に座っているアルカードの静かな目にぶつかって動けなくなった。
「飲み物を?」
 穏やかにアルカードが言った。ユリウスはわめきちらす寸前であやうく踏みとど
まり、「ブランデー」と不機嫌に言った。アルカードはちょっと動きを止めていたが、
他の者がだれも動かないと、自分で身を乗り出してバーから琥珀色の液体のたたえら
れた優美な瓶をとった。
 ユリウスはグラスに注ぐ暇を与えず、アルカードの手から瓶ごとひったくると、
これ見よがしにラッパ飲みした。はっと息をのむ声が聞こえた。アルカード自身は
当然のような顔で黙っているが、お上品なSPどもにとってはかなりのショック
だったようだ。
 ダウンタウンの安ウイスキーとは似ても似つかない、神の小便のような味だった。
瓶に半分ほどあったナポレオンの最高級グレードを三口ほどで飲み干してしまうと、
瓶を床に放り出して唇を嘗めた。
 アルカードが彼を連れて街を出てきたときの、黒服のSPどもの顔は確かに見もの
だった。

52煌月の鎮魂歌4 2/16:2015/05/25(月) 01:06:17
「アルカード様!」「よくぞご無事で──」と我勝ちに駆け寄りかけた奴らが、後ろ
に佇む半裸に革のジャケットとパンツだけをひっかけた、どう見てもストリート・
ギャングのユリウスを見たとたん、蒼白になって足を止めたのだ。
「彼がユリウス・ベルモンドだ」
 アルカードが言った。
「彼は私の要請を受け入れてくれた。すぐに本家に戻り、ラファエルとの対面と鞭の
授受に入る。ドアを開けてやってくれ」
 運転手がぎくしゃくした動きでリムジンの扉に手をかけた。ユリウスはすばやく
そいつよりも先に取っ手をつかみ、大きくドアを引き開けた。
「おっと失礼」
 蒼白に加えてひきつっている相手の顔に牙をむく笑いを返してやる。
「上流のマナーって奴には慣れてなくてね。赤ん坊じゃないんだ、車のドアくらい
自分で開けるよ。気分を悪くしたんなら謝るぜ?」
「ユリウス」
 穏やかな叱責が飛んだ。自分に対するものか、それとも立ったままわなわな震えて
いる運転手の気を静めるためかどちらかはわからなかったが。
 なんとか気を取り直した運転手はアルカードのためにドアを開け、貴公子はそうさ
れることに慣れきった動作で滑り込んできた。ユリウスの腹の奥でまた黒い何かが
うごめいた。ほとんど振動を感じさせることなくリムジンが夜の街を走り始めても、
その何かは消えることなくユリウスのはらわたをつついていた。
 目の前のアルカードはあの暴行の跡すらとどめていない。黒いスーツも白いシャツ
も、ぴったりと身に沿った新品そのものだ。
 ユリウスは彼が、それらを闇の中から呼び出して纏うのを目の当たりにした。壁に
身を寄せ、肩で息をしている青年の身体に甘えるように闇がまつわりつき、みるみる
うちに、部屋に入ってきたときとまったく変わらない衣装ひとそろいを織り上げた。
乱れた髪さえも見えない手で整えられ、もつれて汚れた髪はみるみるうちに輝きと艶
を取り戻した。顔をあげたときのアルカードは、すでに、ユリウスの前に現れたとき
とまったく変わらない、遠く輝く虚空の月に戻っていた。

53煌月の鎮魂歌4 3/16:2015/05/25(月) 01:06:49
ナポレオンを片づけたあとは、カットクリスタルのカラフェに入ったヴィンテージ
・ワインを、グラスに注ぐ手間は抜きにしてちびちび啜った。なめらかで冷たいガラス
の感触は何かを思い出させた。
 あの臭い地下室であったことを、ユリウスは目の前の麗人にあてはめようとしてみ
た。何もかもが夢だったような気がした。すぐ手を伸ばせば届くところにいるのに
触れることもできない存在、あれだけ喰らい、血を啜り、身体の奥の奥まで蹂躙して
やったというのに、その痕跡すら見えないことがたまらなく苛立たしかった。
 いっそあのボロボロの状態でここへ連れてこられたら、と夢想した。生々しい噛み傷
も腿を伝う血と精液もそのままの状態で、青年に心服しているらしいSPどもに、
こいつをこんな風にしたのは俺だと見せつけてやれたら。こいつが俺に身を投げ出し
た、だから好きなだけ犯してやった、何度でもまたやってやるとあざ笑ってやれたら。
 年月に熟成された赤ワインは血のように甘く渋みがあり、時間によって醸し出された
えもいえぬ芳香が一口ごとに広がる。だが俺はこれより美味いワインを知ってる、と
ユリウスはひそかに思った。向かいの席で微動だにせず目を閉じているアルカードの
細い白い首筋を見つめる。あの首に歯をたてて、にじみ出る血を嘗めたときの目くる
めくような感覚はこの瓶詰めの偽の血にはない。
 衝動的にカラフェをさかさにし、貴重な赤い滴をみな床にぶちまけた。周囲に座って
いたSPたちが一瞬腰を上げた。からになった器を放り投げると、繊細なクリスタルは
ふかふかの絨毯の上に転がって、切られた花のように横倒しになった。
「静かに」
 誰かが怒鳴り出す前に、アルカードが制止した。
「しかし、アルカード様。こいつはあまりに」
「ワインは換えがある。鞭の使い手に代わりはない。好きにさせてやるがいい。床を
片づけてくれ」
 SPたちが床を這い回り、ワインでシャツを汚しながら絨毯を畳み、バーの紋章入り
ナプキンや自分たちのぴしっとした白いハンカチなどで必死に床をこするのを、薄笑い
をうかべてユリウスは見ていた。全身に浴びる敵意が心地よかった。慣れた感覚だ。ブ
ロンクスではもっと酷い敵意、むしろ殺意が空気のようにそこらじゅうを漂っていた。

54煌月の鎮魂歌4 4/16:2015/05/25(月) 01:07:20
(そら、お前もだ)
 目の前で黙しているアルカードに向かって、声に出さずに呟いた。
(調子に乗った愚か者だと思ってみろ。自分を犯したあげくに好き勝手な馬鹿騒ぎを
やらかす思い上がった奴だ。怒れ。軽蔑しろ)
 しかしアルカードはまた目を閉じ、自分一人の世界に沈み込んでいるようだった。
組んだ腕がかすかに動き、胸元をさぐったように思えたが、すぐにまた彫像のように
動かなくなった。
 ユリウスは低声で呪いの言葉を吐き、すぐに大声でわめき始めた。ブロンクス仕込み
の聞くに余る下品な言葉が次から次へと連発される。SPたちが耐えかねたように口々
に騒ぎ始めた。
「うるさい、黙れ、こいつ──」
「下品にもほどがある! こんな男が鞭の使い手になど」
「アルカード様、こんな男が本当に正統なベルモンドの血を継いでいるのですか!?」
 アルカードはやはり無言だった。
 ユリウスはますます声を張り上げ、より抜きの汚い言葉を吐き、仲間内でさんざん
歌った卑猥な替え歌を声を張り上げて歌って、床をどんどんと踏みならした。視線は
アルカードに据え、その呼吸の一つまでも見逃さないよう感覚のすべてをとがらせて
いた。彼が不快の表情のひとつ、苛立ちの兆候のかけらでも見せればと願った。
 こんな黒服どもはゴミだ。塵だ。俺が見たいのは月だ。月が俺自身を見ているという
証だ。遠い遠い月、だれの手にも触れられない、触れたと思えば消えてしまう、幻の
ようなあの月だ──
 だがいくら騒ぎ立ててもアルカードの静かな顔は動かず、その口も最後まで開か
なかった。空港に到着したときようやく「降りろ」という事務的な言葉が発せられた
だけだった。
「ここからは飛行機だ。ベルモンド家所有の自家用機がスタンバイしている。税関を
通る必要はない。そのままゲートへ進めばいい。ついてこい」

55煌月の鎮魂歌4 5/16:2015/05/25(月) 01:07:50
居並ぶ空港職員の最敬礼と怪訝そうな顔を同時に向けられながら、目立たない片隅に
止められた航空機へと導かれる。
 外見はそう大きくはなかったが、内部はリムジンと同じく、最高級品に満ちたラウン
ジになっていた。こちらにもSPと、加えてそろいの制服を着たスチュワードが揃って
いて、アルカードが連れて乗り込んできた場違いもいいところなブロンクスの不良に
そろって目をむいた。
 自家用機はほとんど振動も何も感じさせることもなく大地を離れた。離陸するが早い
か、ユリウスはリムジンでもやっていた馬鹿騒ぎを再会した。シートベルトを放り投
げ、救命具を片端から放り出して床に散らかし、いくつかは風船のように膨らまして
からナイフを突き刺して、ぺちゃんこになるのを見て声を上げて笑った。いろいろ
いじくり回したあげく、お上品な天井に収納されていた酸素マスクが飛び出してきて、
不格好な海草のようにシャンデリアの隣でぶらぶらするのをあざけった。困惑している
スチュワードに次から次へと用事を言いつけ、無理難題を吹きかけた。
 手の届く限りの酒とソフトドリンクを全部要求し、半分ほどは飲み、あとは床や座席
や人にひっかけて回った。頭からコカ・コーラとシャンパンをかけられても、黒服の
SPたちはよく訓練された犬らしくじっと身動きもしなかったが、相手の感情を読む
すべに長けたブロンクスの蛇には、ロボットのようなかたい顔の奥で彼らがどんなに
怒り狂っているか手に取るようにわかった。ユリウスは笑って、オレンジ・ジュース
をもう一杯、おまけとして追加してやった。
 空飛ぶラウンジには怒りと苛立ちが充満していたが、ここでもそれと無関係な者が
いた。アルカードだった。
 彼は彼のために用意された席にじっと座り、膝に手を組んで窓の外に視線を向けて
いた。機内のことにはまるで注意を払っておらず、ユリウスがたてる騒音にも気づい
ていないかのようだった。

56煌月の鎮魂歌4 6/16:2015/05/25(月) 01:08:33
ユリウスもまた、彼などいないかのようにふるまっていた。酸素マスクはアルカー
ドの頭上にだけはぶら下がらず、所構わずひっかけられるジュースやビールはアルカ
ードだけは注意深く避けられた。
 混乱の渦の機内で、アルカードの周りだけが静謐だった。野卑な言葉をわめき、下品
なジョークをとばして馬鹿笑いしながら脇を通り抜けるときも、ユリウスは彼を無視
した。その存在を痛いほどに意識していたにもかかわらず。
「ユリウス」
 とうとう客席でやることが尽きて、ユリウスが操縦席へつながるドアをこじ開けよう
としはじめたその時、ようやくアルカードが口を開いた。
「子供っぽい真似はよせ。あと三時間ほどで到着する。それまでは座って、おとなしく
していろ」
 まるで手足から骨を抜かれたように、ユリウスはその場に座り込みそうになった。
 そのまま、操られるようにふらふらと席へ戻って、豪華なソファめいた座席に転げ
込んだ。席は彼自身がぶちまけたジュースとビールでべとべとになっており、アルコー
ルと柑橘類の入り交じった匂いがした。尻の下から台無しにされた飲み物がじわりと
にじみ出てくる。
 見るからにほっとした顔のスチュワードがそそくさと動き回り、ぐしょぬれになった
床を拭き、散らかった救命具や酸素マスクをもとに戻し、使い物にならないものは
どこかに運び去った。
 濡れた座席には応急処置としてビニールのクロスが敷かれた(ユリウスの所には
敷かれなかった。ささやかな抵抗というやつなのだろう)。配られた濡れタオルで
SPたちが頭や髪を腹立たしげにこすり、二度と着られそうにないスーツの上着と
シャツを換えているのを、ユリウスは黙って眺めた。頭にあるのは、アルカードの
冷静な一言だけだった。
『子供っぽい真似はよせ』。

57煌月の鎮魂歌4 7/16:2015/05/25(月) 01:09:10
つまり、すべてお見通しだったというわけだ。俺がさんざんわめき散らし、飲み物を
四方にひっかけ、下品か卑猥かあるいはその両方の(たいていは両方だった)馬鹿話で
騒ぎ立てていたのは、全部、この月色の貴公子から、なんらかの反応を引き出すため
だけだったということを。
 アルカードは相変わらず窓から外の雲海と、その上にさす陽光を眺めている。夜が
開けかけていた。昇ってきた太陽が雲の上にまばゆい光をそそぎかけ、空を半透明の
蛋白石の青に染め変えようとしている。
 アルカードの横顔も金色に縁取られ、月の髪もうっすらと黄金の靄をまとっていた。
ふと、かつては大学教授だったという酔っぱらいに教えられたいくつかの詩句が、
ユリウスの記憶の底から浮かび上がってきた。長い間思い出しもしなかった言葉だった。

  アポロンよ、あなたへの祈りから歌を初めて古の武士たちの勲しを
  思い起こそう、王ペリアスの命により黄金の羊毛を求めて
  黒海の入り口からキュネアイの岩礁を通り抜け
  みごとな造りのアルゴ船を彼らは漕ぎ進めていった。

 その老いた酔っぱらいは母が殺された直後、まだ街での生き方を知らなかったユリウ
スの面倒を見、食事と寝る場所をくれ、読み書きと簡単な計算を教えてくれた。だが
ある日、ひと瓶のジンを盗もうとして撃ち殺されてしまった。殺した奴らが部屋まで
押し掛けてこないうちに、ユリウスは数冊の本とありったけの金を持ってその場を逃げ
出した。
 本はその後しばらく手元を離さなかったが、ギャングの使い走りをするようになって
からは手に取ることも少なくなり、やがてどこかに行ってしまった。本など読むのは男
らしくない行為だというのが新しい同僚たちの意見だった。ポルノ雑誌や三流ゴシップ
誌、品のないカートゥーン、人殺しや強姦が満載のダイム・ノヴェルならまあいい。
しかし文学、特に古典や詩などという女々しいものはもってのほかだ。

58煌月の鎮魂歌4 8/16:2015/05/25(月) 01:09:43
 金羊毛。黄金の羊を求めたアルゴ号の英雄たち。あの部屋にあったのは酒と、それか
らぼろぼろになった古典のペイパーバックの山だった。古代ギリシャの原文を老人は
驚くほど流暢に暗唱してみせ、それに該当する英語部分を震える指先で指し示した。
まだ人を殺したことのなかったユリウスはじっとそのかすれた声に聞き入り、遠い昔、
遠い場所で、神話の英雄たちが繰り広げる冒険譚に耳をすました。

  さあ今度はあなた方ご自身が、金羊毛をヘラスへ持ち帰ろうと望む
  われわれに力を貸していただたきたい。
  わたしがこの旅をするのも、アイオロスの裔に対する
  ゼウスの怒りの元、プリクソスの生贄をつぐなうためであるから。 

 物語の中では世界は輝いていた。天には神々が君臨し、怪物がそこらじゅうを闊歩
し、魔法と苦難が英雄たちに襲いかかったが、彼らは知恵と勇気でそれらを乗り越え、
ついには目的を果たして国へと凱旋する。
 そんなことはしょせんあり得ないのだと、それからの数年間で嫌というほど叩き込
まれたはずだった。天に神などおらず、怪物とは人間そのものだ。知恵と勇気など
なんの役にもたたない。必要なのはただ用心深さと狡猾さ、益不益をすばやく見定める
獣の嗅覚と、敵を殺すためのナイフか拳銃、それだけだ。
〈蛇〉と呼ばれるようになって少しして自分の姓と、それが他人の目にそそぎ込む恐怖
──あるいは畏怖の意味を知ったが、その当時には何の意味もなかった。魔王? 
怪物? 英雄? ディズニー映画じゃあるまいし、と彼は嘲ったはずだった。そんな
ものがこの世にいてたまるか。歴代続く魔狩人の家系? 愉快だ、まったく滑稽だ。
楽しいおとぎ話だ。スピルバーグにでも話してやれば、大喜びで十本か二十本のばか
ばかしい映画を作って大当たりをとるだろうよ。

59煌月の鎮魂歌4 9/16:2015/05/25(月) 01:10:13
 しかし今はいつの間にかそのおとぎ話に巻き込まれ、身動きがとれなくなっている。
何を言われても聞く耳を持たない蛇、言うことを聞かせようとすれば毒の牙ですばやく
相手を殺すブロンクスの赤い蛇が、何かに操られるように自ら巣を歩み出て、こんな
豪華な飛行機のビール浸しの座席に腰を下ろして、見も知らない場所へ運ばれている。
一生行くことも、見ることもないと思っていた、父親の血筋が生きている場所へ。
 ななめ後ろに座っているはずの人物のことは考えずにおこうと努力していたが、難し
かった。どんなに頭をほかのことに向けようとしても、揺れる銀髪と氷河の青の瞳が
思考に割り込んできた。彼こそは魔法の使者であり、文字通り伝説の中の存在であり、
一千年近くを存在し続けている半吸血鬼なのだった。
 他はどうあれ、ユリウスはそのことだけは疑っていなかった。これほど強烈に人の心
を呪縛するものがただの人間であるはずはない。暗い地下室で無心に奉仕を続けていた
白い顔と、小さな舌の動きがふいに鮮明に脳裏をよぎった。それから乱暴に貫かれて
のけぞる背のしなやかな曲線と、何かを必死に握りしめていた傷ついた拳。
 下腹に急激にこみあげてきた熱を、ユリウスはむりやり押し戻した。立ち上がって
相手につかみかかり、床にねじ伏せてもう一度とことんまで犯しぬいてやりたい衝動
と彼は格闘した。
 アルコールの匂いのする座席に背中を押しつけて、むりやり目を閉じた。瞼をすか
してくる陽光が眩しい。疼く手足を折り曲げて、無意識の奥へ逃げ込もうと身を縮め
る。たちこめる匂いが記憶を誘った。すえたビールとジンの臭いに満ちた屋根裏部屋
で、幼い自分が必死に唇を動かしながら指で文字を追っている。耳の奥であのアル中
の老人のしわがれた声が、古代の詩人による黄金の詩句を静かに呟いていた。

  冷酷な愛よ、人間の大きな禍、大きな呪いよ、
  あなたゆえ、呪わしい争い、呻きと嘆きが
  さらにかぎりなく多くの他の苦しみがはげしく起こるのだ。
  神よ、われわれの敵の子らに武器をとって起ちたまえ、
  メデイアの胸にいとわしい狂気を投げ入れたときのように!

60煌月の鎮魂歌4 10/16:2015/05/25(月) 01:10:46



「ユリウス」
 いつのまにか、本当に眠っていたらしかった。
 軽く肩に手をおかれて、彼はまさに驚いた蛇のようにとびあがった。反射的に
身構え、いつも腰につけていたはずのナイフと鞭を手探りする。
「到着した」
 相手は平然としていた。ユリウスが目を覚ましたことを確かめると体を起こし、
席から立つようにうながした。
「ここから屋敷まではまた車だ。半時間ほどでつく。もう連絡は行っている。お前の
来るのを待っているはずだ」
「へえ、そいつはありがたいな」
 声がかすれる。舌が乾いて口蓋に貼りついているようだ。二、三度咳払いして、
ユリウスはなんとか嘲笑するような口調を保った。
「歓迎パーティでもしてくれるってのかい? なんだったらもっと芸をしてやるぜ。
おまわりか? お手か? ちんちんか? あんたも手伝ってくれるんだろうな」
 アルカードが聞いたようすはなかった。彼はすでに席を離れ、おろされたタラップの
方へラウンジの出口をくぐっていた。呪いの言葉を吐いて、ユリウスは後を追った。
 深い森林の中にまっすぐ延びた滑走路に、飛行機は停止していた。小さな管制施設が
隅にある以外は、建物らしきものはなにも見えない。あたりは静かで、鳥の声さえ
聞こえなかった。タラップを降りたすぐ先に、ニューヨークを出る時に乗ったリムジン
よりほんの少し小型なだけの高級車が止まり、ドアを開けて乗客を待っている。
「おいおい、なんにもねえじゃねえか。ベルモンドの本家に俺をつれてくんじゃなかっ
たのかよ」
「ここはすでにベルモンド家の土地だ」

61煌月の鎮魂歌4 11/16:2015/05/25(月) 01:11:23
 先にするりと乗り込んだアルカードが言った。あまりに自然な動きだったので、
ユリウスも思わず後に続いていた。バーがないだけでほとんど豪華さは変わらない車の
内装を見てから、こんなに素直に乗ってやるのではなかったと悔やんだが、もうその時
には運転手が扉を閉め、車はゆっくりと滑走路を出て森の中の道路を走り始めていた。
「正確に言うならば〈組織〉が所有している土地の一部だ。この一帯は闇の種族の侵入
を許さない結界と精霊の加護に守られている。闇の者のみならず、ベルモンド家の
人間、あるいは〈組織〉の中でもごく限られた人間でなければ、ここに入ることも
発見することもできない」
「ご大層なこった。よく俺なんぞが入れたもんだな」
「お前はベルモンドの血を継ぐものだ」
 あっさりとアルカードは言った。
「それでなければ飛行機はこの滑走路に降りることはできなかったし、そもそもこの森
を見つけることもなかったはずだ。ここは地上の一部ではあるが、なかばは異世界に
隔離されている。〈組織〉の全貌が誰にも知られず、構成員のほとんどさえ自分が何に
属しているのか知らないのはそのためだ。〈組織〉は異界と現界のはざまにあり、ベル
モンド家はその架け橋であり、門番として存在する」
「あんたはどうなんだ。ベルモンド家が架け橋であり、門なら、あんたは何だ──番
人か?」
 アルカードは答えなかった。
 車は木々の間に切り開かれた舗装路を抜けていった。まっすぐではなく、わざと曲げ
てあるかのようにカーヴの多いその道路をたどるうちに、うなじの毛を引っ張られてい
るような妙な感覚をユリウスは覚えだした。
「やはり、わかるようだな」
 うるさそうに手をあげて首をこすっているユリウスを見て、蒼氷の目がわずかに笑った。

62煌月の鎮魂歌4 12/16:2015/05/25(月) 01:12:00
「この森にほどこされた結界は非常に強い。〈ヴァンパイア・キラー〉の使い手が事実
上不在な今はことに強化されている。闇の者の侵攻がもしこの中心部にまで及んだ
場合、〈組織〉の心臓部は壊滅する」
「中心、というのが、ベルモンド家か」
「そうだ。あれだ」
 ようやく、緑が切れた。
 手と手を組み合わせて空間を遮っているようだった黒みを帯びた木々の枝がとつぜん
途絶え、広々とした芝生の中を車は走っていた。真正面におそろしく古風な、まるで
中世の城か砦のような巨大な石の門がそびえている。
 鉄の箍と鋲で補強された木製の扉は見るからに時代を帯びていたが、多少の攻撃程度
では傷もつけられないことは明白だった。でなければ風雨にさらされた木が、一目で
わかるほどの精気を帯びて傷なくそそり立っているわけはない。
 扉は車が近づくとゆっくりと開いた。周囲に杭を植えた空堀と落とし格子のないのが
不思議なほどの石の城門を通り抜けると、そこには美しく整えられた広大な前庭と、
白い砂利の敷かれた車回し、冬支度をして丁寧に世話をされた、花壇の広がる庭があっ
た。今は真冬でなにもないが、季節になればここは天国の花園になるのだろう。
 黒みを帯びた緑の木々を背景に、城郭と呼ぶにふさわしい、広壮な石造りの館が
そびえ立っていた。
 左右の翼が前庭を抱くように広がり、数多くの窓がたくさんの目のように陽光を
反射している。隅々にツタや蔓薔薇が絡みつき、冬だというのにちらほらと白い花を
咲かせている。巨大な獣が眠りながら意識は醒ましているかのように、どこか異様な
力と、畏怖を否応なく感じさせる屋敷だった。後方の森はさらに深く、暗く、その前
に建つゴシック様式の多くの尖塔を持つ館は、まさに闇と光の間にうずくまる番犬の
風格だった。
 白い砂利と芝生が広がる前庭から優美な曲線を描くスロープが登り、重厚な玄関の
大扉につながっている。扉が大きく開き、屋敷から誰かが飛び出してきた。一人の
少年が、モーター音を響かせながら、猛スピードでこちらへ向かってくるところだった。

63煌月の鎮魂歌4 13/16:2015/05/25(月) 01:12:35
「アルカード!」
 声変わりの終わりきっていない、高くかすれた声だった。ふさふさした金の巻き毛を
汗で額に貼りつけた彼は、乗っている電動車椅子から飛び出さんばかりの勢いで突進
してきて、車から降りたばかりのアルカードに体当たりするようにしがみついた。
「ラファエル」
 アルカードの声は甘えん坊の子供への愛情と困惑とを半々にしたものだった。彼は
無意識のように手をあげ、少年の髪をなでた。
「ベルモンドの若当主のすることではないな。礼儀はどこへいった」
「そんなもの、どうでもいい」
 つんと鼻をあげた少年は実に整った顔立ちだった。
 むろん、アルカードの人ならぬ美には及ばないものの、美少年と呼んでさしつかえ
ないだろう。長年にわたって注意深く混ぜ合わされてきたさまざまな血統が、この
少年には最良の形で現れていた。
 大人びて見えたが、おそらく二十歳にはまだなっていまい。ベルモンドの者によく
現れる濃いブルーの目、白い肌、貴族的な鼻筋と高い額、泡立つような金髪としっかり
とした肩と腕、広い胸。
 だが、そこまでだった。電動の大きなソファのような車椅子が、彼の腰から下を
支えていた。
 膝の上にかけられた毛布で、下半身はほとんど隠れてしまっている。車椅子の足乗せ
に乗った足はいくら上半身が動こうともぴくりともせず、贅沢なムートンと紋織りの
部屋履きで、完全に人目から覆われていた。
「ぼくは最後まで反対したんだよ、なのに、黙って行っちゃうなんてひどい」
 アルカードの袖をひっぱりながら、少年は頬を膨らませた。
「急いであとを追わせて間に合ったからよかったけど、もしそうじゃなかったら、
あなた、また一人で行ってしまうつもりだったんでしょう」
「私は一人でするべき仕事は一人でこなす。知っていると思うが」
「だって心配だったんだもの」

64煌月の鎮魂歌4 14/16:2015/05/25(月) 01:13:16
 すねたように少年は唇をとがらせた。ふっくらとした薔薇の花びらのような唇に、
純粋ゆえの幼い脆さがかいま見えた。
「あなたはベルモンドの大切な宝物なんだよ、それを忘れないで。あなたがいなくなっ
たら、〈組織〉も、ベルモンドも、きっとどうしていいかわからなくなっちゃうよ」
「私はそれほどたいしたものではないよ、ラファエル。──ああ」
 車を降りたユリウスにむかって、アルカードは振り返った。
「紹介しよう。こちらはユリウス・ベルモンド、母違いの君の兄だ。ユリウス、これが
君の義弟、ラファエル・ベルモンドだ」
 ラファエルはしゅっと息を吸う音をたてて口を閉じた。
 空気が張りつめた。二対の青い瞳が出会った。確かに同じ血を引いていると一目で
わかる、鏡に映したような濃いブルーの目だった。
 魔狩人ベルモンド家の瞳、聖なる鞭の使い手として連綿と受け継がれてきた血の証。
ユリウスは一瞬何もかも忘れ、自分と同じ力を帯びた、同じ血を継ぐブルーの瞳に見
入った。
「──ぼくに兄なんていない」
 沈黙を先に破ったのはラファエルのほうだった。
 赤らんでいた頬が徐々に青ざめていき、笑みの形の唇は凍りついてひきつった。彼は
アルカードから手を離して、あとずさるかのように車椅子の上で背を反らせた。
「ラファエル──」
「ぼくには、兄なんかいな
い!」
 喉を絞って叫ぶと、ラファエルはアルカードの手を振り払った。車椅子のタイヤをきし
ませて向きを変え、砂利を弾き飛ばしながら来たとき以上の勢いで屋敷へ向かって走っ
ていってしまった。
 正面扉がすさまじい勢いで閉まった。まだ少年の頭の位置に手を泳がせたままのア
ルカードは沈んだ表情で立ち、かき乱された砂利と屋敷から続くタイヤの轍を見ていた。

65煌月の鎮魂歌4 15/16:2015/05/25(月) 01:13:50
「……ハハ」
 はじめあっけにとられていたユリウスの喉に、急激に笑いがこみ上げてきた。彼は額
に手を当て、車によりかかって、心ゆくまで笑った。
「ハハハ。ハ、ハ、ハハハ、ハ」
 こいつはいい。あのお坊ちゃんが俺の弟か。あのお綺麗な金髪と女の子みたいにすべ
すべの頬の。この世の苦労や汚穢や本物の世界のどん底がどんなところか知りもしない
だろう、あのかわいらしい坊やが。
 吐き気がする。
「ユリウス」
 笑い続けて息を切らしているユリウスに、アルカードが声をかけた。
「到着してすぐで悪いが、〈組織〉の上層部が君に会いたがっている。疲れているだろ
うが、案内させるから身なりを整えて、本館の大広間に来てもらいたい」
「そいつは強制か、それともお願いか?」
 まだ止まらない笑いに息を詰まらせつつ、ユリウスは鼻を鳴らした。
「身なりと来たね。その上層部ってのが今の坊やみたいなお歴々ばっかりだとすりゃ、
ずいぶん陽気なパーティになりそうじゃねえか。なあ、兄なんていないんだとよ、
聞いたか?」
 くく、と喉を鳴らして、ユリウスはアルカードの胸をつついた。
 それから一転して野獣の形相になり、しわ一つないシャツの襟をわしづかみにして
引き寄せた。いっせいにSPたちが動きかけたが、アルカードの一瞬の視線で止められた。

66煌月の鎮魂歌4 16/16:2015/05/25(月) 01:14:44
「後悔させてやるぜ。てめえら全員な」
 ブロンクスの毒蛇と呼ばれた牙をむき出しにして、ユリウスは囁いた。
「どうこう言ったって俺にすがらなきゃならない能なしどもに思い知らせてやるよ、
てめえらがいったい何を引っばりこんじまったのかをな。ああ、鞭なら使ってやるよ、
だがその代わりに俺が何をしようが何を欲しがろうが文句はつけられねえってことを
忘れるな。あの坊やが使いもんにならねえ以上、俺がいなきゃ、〈組織〉とやらが何
百年もかけて組み立ててきた計画はいっさいがっさいおじゃんになる、そうだろうが?
だとしたらあんたたちみんな、目的を果たすためなら、這いつくばって俺のケツを
嘗めろと言われてもしょうがないってことになる」
 アルカードは無表情のまま見返していた。蒼く輝く、ふたつの遠い月の瞳。
 ふいに締めつけられるような胸苦しさを覚えて、ユリウスは乱暴にアルカードを突き
放した。
「さ、やれよ、とっとと」
 いまいましげに唾を吐いて、ユリウスは腕を組んだ。
「ケツを嘗めるのはまた別の機会だ。とりあえずはあんたたちの言うとおりにしてやる
さ。案内しな。ついてってやるよ」

67煌月の鎮魂歌5 1/22:2015/07/19(日) 09:47:55
             2

 見るからにおびえた顔のメイドが先に立ち、強面のSP二人があとに続いた。
ユリウスはのんびりとベルモンド家本邸の広い廊下を歩き、配された美術品や調度、
複雑な細工の羽目板、彫刻、ドアノブや窓枠ひとつにもある時代の積み重なった
貴重さを、慣れた盗賊の目で吟味した。
 あれをポケットに押し込めればブロンクスじゅうの女どもを買いきりにできるな、
と壁の小龕に配された掌ほどの大理石像を見て思う。いや、ブロンクスどころか、
ニューヨークじゅうの女を買っても山ほどお釣りがくるかもしれない。あるいは
アメリカじゅうでも。
 贅沢な紋織りの壁にかけられた小さなイコンや絹のように薄い東洋の壷、明らかに
著名な画家の手になるものと思われる絵画の数々、〈赤い毒蛇〉にとってはよだれの
出そうなものばかりだ。びくびくと後ろを振り返ってばかりのメイドと、怪しい動き
をすればすぐにも掴みかかろうと身構えているのが伝わってくる屈強な男二人に
はさまれて歩きながら、ユリウスはレザーパンツのポケットに指をかけ、口笛を
吹いていた。
 恐怖も敵意も毒蛇にはおなじみだ。刺激があっていい。こちらを伺うメイドに
歯をみせてにやりとしてやると、彼女は飛び上がらんばかりに縮みあがり、小走りに
先へ進みだした。ユリウスは笑いをかみ殺した。
 案内されたのは浴室のついた客用寝室らしきひと間だった。この一部屋だけでも、
ブロンクスの標準的な住民の住処からすればインドのマハラジャの宮殿に相当する。
飾り気のない家具はすべてアンティーク、天蓋つきの古風なベッドに糊のきいた白い
シーツがかかり、絨毯はアラベスク模様の壁布とよく調和する冴えた青のやわらかな
中東風だった。

68煌月の鎮魂歌5 2/22:2015/07/19(日) 09:48:41
 さりげない歴史と富、贅沢ではあるが上品な趣味の中で、アルコールの臭いの
しみついたレザーパンツとジャケットのユリウスはいかにもな異物だった。浴室へ
送り込まれ、すでに満々と湯のたたえられた広いバスタブに入るように言われた。
身体を隅々までよく洗い、それから用意された服に着替えて出てくるようにと。
 何か愉快なことを言って挑発してやろうとしたが、涙目でおびえきっているメイド
と、今にも銃を抜きかねない様子で懐に手を入れかけているSP二人を見て、ここで
騒ぎを起こすのはあまりおもしろくないと考えた。泣き出しそうな小娘ひとりと、
頭から湯気を立てている筋肉男二人程度では観客が足りない。サーカスには大勢の
お客が必要だ。ユリウスは肩をすくめて両手をあげた。
「オーケイ、わかったよ、おとなしくする。そのへんのものをちょいと失敬したりも
しない。だから出てってくれないか。ガキじゃねえんだ、着替えくらいひとりで
できる。それとも俺がちんぽを洗うのを手伝いたいかい、そこのお二人さんよ?」
 SP二人の黒いスーツが弾け飛びそうに膨らんだが、ユリウスが騒がない限り
手出しはしないように命じられているらしい。太い首まで赤黒くしながら、青くなって
震えているメイドを先に立てて二人は出て行った。無言の怒りを示すようにドアが
叩きつけられる。ユリウスはにやりとし、でたらめな口笛の続きを吹きながら、
服を脱ぎはじめた。
 率直に言えば、べとつくビールとジュースの混合物の臭いには少々うんざりして
きていたところだった。裸になり、香りのいい浴用塩の入った湯に身を沈めると自然
とため息が漏れた。
 ブロンクスでは入浴は最高の贅沢だった。少なくとも、〈毒蛇〉と呼ばれるように
なるまでは。あの寂れた教会跡に巣を作り、暴力と恐怖で君臨するようになってから
はほとんど手には入らないものなどなかったが、設備の整った浴室や快適な温度の
湯の出る蛇口など、そもそもあの地獄の鍋底には存在しない。

69煌月の鎮魂歌5 3/22:2015/07/19(日) 09:49:20
 ほとんど身体を洗わない者も多い中で、ユリウスは例外的によくシャワーを浴び、
身なりにもそれなりに気を使っていたが、それもまた、力の誇示の一つだった。髪を
清潔に整え、血の臭いをコロンで消すこともまた、毒蛇の鱗を輝かせる。むさ苦しい
ならず者は素人を怯えさせるかもしれないが、本当に危険なのは、紳士の身なりに
爬虫類の心を宿している奴らのほうだとユリウスは知っていた。
 熱い湯と冷水を交互に浴び、バスブラシとタオルですみずみまで身体をこするのは
実際気分のいいものだった。しばらく嫌がらせのことも忘れて、ユリウスは長年の
スラム暮らしでしみついた根深い汚れをこすり落とすことに専念した。赤い髪はいよ
いよ炎のように真紅に冴え、筋肉を覆う皮膚には若さのしるしの艶と張りが戻って
きた。バスタブの湯を何度か張り替え、きれいな湯に浸って芯まで温まるころには、
人の心を裂くような鋭い目つきのほかは、すらりとした長身の、かなり人目を引く
精悍な顔立ちの青年ができあがっていた。
 髪を乾かし、用意されていたバスローブをひっかけてぶらぶらと出ていってみると、
ベッドの上に新しい服が一式広げられていた。脱ぎ捨てた元の服を探したが、なく
なっている。おそらく持ち去られたのだろう。ユリウスは肩をすくめて、またあの
ビール臭い服を着て出て行ってやる計画を放棄した。服がないのでは仕方がない。
それに、せっかくさっぱりした身体にまたべとつく汚れた服を着るのもぞっとしない。
 服を調べてみたが、ここにある調度品と同様、どれもこれも一級品のテイラーメイド
だった。ブランド物などという俗な名では呼ばれもしない、ほんの一握りの人間だけが
手にすることのできる本物の高級店のタグが、控えめながら誇らしげに刻まれている。
 つややかな生地のディナージャケットを手にとって、鼻を鳴らす。あいつらは
本当に、俺がこんなものをいい子に身につけていくもんだと思ってるのか? あきれた
話だ。

70煌月の鎮魂歌5 4/22:2015/07/19(日) 09:49:55
 いっそのこと全裸で出て行けばいい気味だとも思ったが、さすがにそれは自尊心が
許さなかった。結局、下履きとスラックスに靴を履き、上半身は裸にシャツだけを
はおって、前は開けたままにした。ご丁寧に蝶結びのボウタイまでつけてあるのを
手にとってにやりとする。あいつらは本当に俺がこんなばかげたものをくっつけた
ウサちゃんになると思ってるのか?
 だったら見せてやろう。
 真新しい革靴に裸足をつっこみ、踵を履きつぶしてぶらぶらと出ていく。わざと
足をひきずって騒々しい音をたててやると、部屋の前で待っていた筋肉男二人が瞬間
息をのみ、それから全身を怒りに膨れあがらせた。
「戻れ」
 語気するどく一人が言った。
「服を着るくらい自分でできると言ったな。その格好はなんだ。もっとまともな格好
を……」
 ユリウスはその鼻先に指を突きだし、ひっかけたボウタイをくるくると回してみせる
と、肩にかけていたディナージャケットを持ち上げた。上等な生地が張りつめ、糸が
はじけた。丁寧な職人仕事の結晶はあえなく二つに引きちぎられ、黒い布の塊になって
だらりと垂れ下がった。
「すまんな。どうも不器用で」
 明るくユリウスは言った。
「ごらんの通りのスラムの鼠なもんでな。こういうしゃれた衣装には慣れてないんだ。
まあ勘弁してくれよ。で、お待ちかねの皆さんはどこだい?」
 二人は視線を交わしあうと、一人が脇に寄って携帯端末を取り出し、怒った口調で
何か囁きはじめた。ユリウスの態度に関して、誰か権限を持つ相手に対処を仰いでいる
らしい。ユリウスはうす笑いを浮かべて指先でボウタイを回し、踵を潰した靴をきしま
せながら待った。また新しい服が持ち込まれてきたとしても、同じことをしてやる
つもりだった。

71煌月の鎮魂歌5 5/22:2015/07/19(日) 09:50:27
 この服は奇妙なくらいぴったりとユリウスの身体に合っている。つまり彼らとして
は、実際に接触する前からユリウスについて調べ上げ、文字通りスリーサイズから
尻の毛の数まで詳細に数えていたということだ。最初から特定の人物のサイズに調整
して作られていなければ、これほど身体に合ったものはできない。自分がベルモンド
家から無視されていると思いこんでいた長い間、彼らは一瞬たりとも目を離さずに
血族の物を監視していたのだ。ご丁寧にありがとうよ、クソ野郎ども。
 端末を切り、乱暴にポケットに押し込みながら男が戻ってきた。怒りと不満で今にも
はちきれそうになっている。
「ついてこい」
「このままでかい?」
 大げさにユリウスは驚いてみせた。
「こういう格好が上流の方々にゃ流行なのかい? そいつは驚きだね」
「いらん口をきくな。黙ってついてこい」
 二人は巨大な壁のような背中を向け、ぐんぐん廊下を進みだした。その膝を後ろから
蹴ってやる誘惑に屈しそうになったが、そんなことよりもサーカスを早いところ楽しむ
ことだと思い直して、ユリウスはことさら足を引きずって歩き、痛めつけられた子牛革
の靴が文句を言うように軋みながらバタバタ音を立てるのを楽しんだ。一方がちらっと
肩越しに睨みつけてきたが、それ以上構うなと指示されたらしい。ぐっと唇を引き
締め、意地のように前だけを見て、大股にさっさと進む。ユリウスは指先でくるくる
回る絹製の蝶のようなボウタイをもてあそびながら、調子外れな口笛を吹いてついて
いった。
 いくつもの扉を左右に見ながらかなりの距離を歩いた。少しばかりユリウスが退屈
しだしたころに、ひときわ壮麗な大扉の前で、二人は立ち止まった。
 扉の前には白い髪をきつくひっつめ、十八世紀の小説から抜け出してきたような
喪服めいた黒いドレスを着た老女がいた。相当な年齢のようだったが、その姿勢は
鉄棒のようにまっすぐで、あまりにもぴんとした背中は折り曲げることができるのか
どうか、ユリウスにも判断しかねるほどだった。皺だらけの顔の中で、二つの氷の
かけらのような目が、なんの感情も浮かべずに一行を見回した。

72煌月の鎮魂歌5 6/22:2015/07/19(日) 09:51:01
「ご苦労でした」
 たるんだ喉から出る声は木の葉のこすれる音に似ていた。
「お前たちは下がりなさい。わたくしはこちらのお屋敷の家政婦を任せられており
ます、ボウルガードと申します。皆様がお待ちです、ユリウス・ベルモンド様。
どうぞこちらへ」
「へっ、そいつはどうも」
 ユリウスは老女の鼻先でボウタイを振り回してみせたが、灰色の睫にとりかこまれ
た目はまばたきひとつしなかった。ぴんとした身体はきしみ一つあげずになめらかに
回り、ひそやかに扉を叩いた。
「皆様。ユリウス・ベルモンド様がご到着です」
「中へ」 
 誰のものともわからないくぐもった声が返った。老女はすべるように動いて扉を
開いて横に回り、頭を下げた。頭を下げてもまだ鋼鉄のガーゴイルのような存在感を
発する彼女をあえて無視して、ユリウスはゆっくりと扉の中に踏みいった。
 息苦しいほどの沈黙があり、それから、小さな生き物が騒ぎ出すように声を殺した
囁きとうめき声が四方からわきあがってきた。
 ユリウスは裸の胸にあたるシャツの襟をはじいて、歯を全部むいた最高に愛想のいい
笑みを見せてやった。ブロンクスではこれを見た人間で震え上がらない者はなかった
し、ほとんどの者は生き残りもしなかった。
「よう、ご一党」
 機嫌よくユリウスは言ってやった。
「はるばる来たってのにご挨拶もなしかい? 拍手の一つでもして迎えてくれても
いいんじゃないのかね」
「アルカード!」 
 年老いた震え声が憤然と叫んだ。
「これが本当にミカエルの落とし胤なのか? 間違いなく?」

73煌月の鎮魂歌5 7/22:2015/07/19(日) 09:51:36
「間違いない」
 耳をそっと撫でるようなやわらかい声が答えて、ユリウスの注意はいやおうなく
そちらに引きつけられた。
 ホッケーでもできそうなおそろしく広い部屋は何十人もの老若男女で埋まり、
ほとんどの顔が当惑や怒り、反感、困惑、嫌悪といった色に塗りつぶされていた。
その中心に、廷臣を従える幼王のように、車椅子に座したラファエル・ベルモンドが
青い瞳を憤怒に燃やしていた。
 そしてその隣に、銀色に輝く人型の月の影が、重みを持たない者であるかのように
静かに佇んでいた。
「彼がミカエルの息子であることは、この事態に彼を呼び寄せるにあたって徹底的に
再調査され、再検証された」
 淡々とアルカードは続けた。
「彼は確かにミカエルの息子であり、ベルモンドの血と能力を受け継いでいる。その
ことは、私自身も確かめた。ヴァンパイア・キラーの使い手となれる人間は、彼しか
いない」
「こんな……不良が、あの聖鞭の使い手になるだと?」
『不良』の代わりにもう少し不穏当な言葉を口に出しそうになったようだが、あやうく
踏みとどまったらしい。ユリウスは哀れみをこめて鼻を鳴らしてやった。お上品な奴ら
というのは面倒くさいものだ。もっとバリエーションのある呼び方を、ユリウスなら
いくつも知っているのだが。
「素質はある」
 アルカードの返答は動かなかった。
「むろん、未熟な部分はある。正式な訓練を受けていないし、人間相手はともかく、
人外の者との戦いは未経験だ。しかし、それはこれから習熟させればすむことだ。
私がやる」

74煌月の鎮魂歌5 8/22:2015/07/19(日) 09:52:10
「あなたが!?」
 ラファエル・ベルモンドが、殴られたようにぐらりと身体を傾かせて身をよじった。
かたわらのアルカードを見上げた顔は、衝撃で凍りついていた。
「あなたがあの……あの、野良犬の相手をするの? 訓練を? そんなことさせない、
僕は許さないよ! ベルモンドの当主として、あなたにそんなことはさせない、僕が
命令する!」
「われわれには時間がない、ラファエル」
 車椅子の少年を見下ろして、アルカードはさとすように言った。
「お前には師となる父がいた。だがミカエルはもういない。お前はまだ正式な鞭の
使い手ではない。私は五百年の昔から、代々のベルモンド達のそばにいた。彼らの
動きは熟知している。私がやるしかないのだ」
 それにそいつはそもそも立つことすらできない、とユリウスは声に出さずつけ加え
た。アルカードがあえてそれを口に出さなかったのはわかっていた。少年自身が、
そのことについて一番傷ついているのだから。ラファエルは豪華な革張りの車椅子の
肘掛けに爪を食い込ませ、身をこわばらせてただうつむいている。
「ここに集まっている者はみなわかっているはずだ。最後の戦いが近いことを」
 アルカードは一同を見回して少し声を張った。それだけでざわめきは静まり、人々の
視線は自然にこの銀の麗人に集まった。この座の本当の主人がラファエルではなく、
彼であることは一目でわかった。
 王者として生まれついた者の自然な威厳とオーラを彼はまとっていた。なかば吸血鬼
の血を引くだけではなく、人間離れしたその美貌や挙措の美しさだけでもなく、ただ
そこにいるだけでいやおうなく人々の魂をからめとってしまう、魔術にも、あるいは
呪いにすら似た力。ユリウスはふたたび月を思い、あのブロンクスの地下室で床に
広がっていた銀髪のきらめきを思った。自然に下腹に熱が集まり、呼吸が速くなった。

75煌月の鎮魂歌5 9/22:2015/07/19(日) 09:52:45
「あと半年で世界は終わる。われわれが何もしなければ」
 穏やかにアルカードは続けた。
「魔王の再臨。それだけは阻止せねばならない。そのためにわれわれは血を継ぎ、命を
重ねてこの時に備えていたはずだ。ヴァンパイア・キラーはこの計画の要だ。あの鞭
でなければ魔王を滅ぼすことはできない。鞭の使い手は、どんなことがあろうと存在
せねばならない。ほかならぬ彼が、魔王討伐の中心とならねばならないのだから」
「しかし、だからといってこんな──」
「選択の余地はない」
 弱々しくあがった抗議を、一言でアルカードは切って捨てた。
「われわれは最後の戦いに備えねばならない。そして必ず勝たねばならない。勝たねば
人間の世界は終わる。開けることのない夜と地獄が昼の世界に取って代わる。われわれ
には鞭の使い手が必要だ。ヴァンパイア・キラーを振るう人間が」
「ちょっと待ってほしいんだがな」
 アルカードの言葉にかぶせるようにユリウスは手を挙げた。氷河の蒼の瞳がゆらりと
こちらを向く。へその辺りがむずむずした。授業中にふざける生徒のように、ユリウス
はひらひらと手を振った。
「その選択の余地ってのは、俺にもあるのかい? 鞭の使い手ってのは」
「どういう意味だ」
 アルカードの視線がまっすぐこちらを見ている。心地よかった。腹の底の疼きが胸
まであがってきた。ユリウスははだけたシャツの前で腕を組んだ。
「つまり、俺が鞭を使いたくなかったらどうなるか、ってことさ」
 静まりかえっていた部屋がとつぜん息を吹き返した。「なんと不遜な──」「だから
雑種など迎えるべきではなかった」「本当にこの男しかいないのか? ほかに候補
は?」という囁きが矢のように周囲を回転した。ユリウスは片頬をゆがめて、アル
カードだけをまっすぐ見つめていた。

76煌月の鎮魂歌5 10/22:2015/07/19(日) 09:54:03
「俺があんたに了承したのは、ブロンクスを出てここまでいっしょに来ることだけだ。
鞭を使うかどうかはまだ訊かれてないぜ。俺の意見は聞いてもらえるのか? 鞭なんぞ
使いたくない、魔王なんぞくそくらえって、俺が言う権利も認めてもらえるのかい?」
「お前はヴァンパイア・キラーの持つ意味をわかっていない!」
 車椅子の上で、ラファエルが頬を紅潮させて身を乗り出した。
「あれがどれほど重要なものか、あれの使い手たることがどんなに──」
「静かに、ラファエル」
 アルカードが囁き、手を軽く叩くと、少年は悔しげに顔をゆがめたまま背もたれに
身を沈めた。足が動きさえすれば、椅子から飛び出してこの野良犬に思い知らせてやる
のにと思っているのがあまりに明白すぎて、ユリウスは思わず忍び笑いをもらした。
「ヴァンパイア・キラーは、自ら望んで手に取る者の手でしか力を発揮しない」
 歯ぎしりするラファエルをなだめるように肩を撫でながら、アルカードは言った。
「あれには意志がある。使い手を選び、鞭が認めた者にしか自らを振るうことを許さ
ない。使い手が自らの意志で鞭を手にすることはその第一条件だ。使い手たることを
望まない人間を、そもそも鞭は受け入れない。お前が鞭の使い手になることを選ばない
ならば、それまでだ。われわれに打てる手はなにもない」
「へえ、そうかい? ここにゃ色んなお歴々が集まってるんだろ、なんだか知らんが」
 ユリウスは肩をすくめて部屋を見回した。顔、顔、顔。どれもブロンクスでは天上で
仰ぎ見てきた人種の顔だ。裕福さと選ばれた人間の傲慢さが毛穴という毛穴からにじみ
出している輩だ。金と権力をちらつかせればなんでも思い通りになると思っている
やつらの顔だ。
「このご大層なお屋敷も、なにかの術で人目から隠してるんだろう。そんな力がある
んだったら、なんで俺を……そうだな、催眠術にかけるか、それともなにかその手の
魔法でも使って、言うことを聞かせないんだ? ご丁寧に迎えまでよこして」
「言ったはずだ。使い手は自らの意志で鞭を手に取る者でなければならない」

77煌月の鎮魂歌5 11/22:2015/07/19(日) 09:54:43
 アルカードがこちらを見ている。銀色に揺れる月の影だ。そうだ、彼は違う。彼
だけはこの世界から離れて、遠い天空に輝いている。汚れなく、孤高の空で、誰の手
にも触れられることなく。
「魔法や催眠術で意志を縛ったところで意味はない。心を持たない人形は鞭に触れる
こともできない。鞭の使い手はベルモンドの血を継ぐ者でなければならない。そして
その者は、あくまで自ら使い手たることを選んで鞭をとらなければならない。それが
ヴァンパイア・キラーの使い手に必要な、ただ二つの条件だ」
「で、俺はそんなものにかかわりたくないと言ったら?」
 息が苦しい。ユリウスは腕の下で早鐘のように拍つ自分の心臓の轟きを感じた。
部屋の広さが無性にいらだたしい。ほかのものはみなユリウスの視界から消え失せ、
見えているのはただ、有象無象の雲にかこまれて静かに立っている月の瞳だけだった。
「世界がどうなろうと俺には関係ない、ベルモンドの血なんぞ俺は知らん、鞭なんぞ
豚の餌にくれてやれ、と、そう言ったら?」
「──……どうも、しない」
 氷蒼の目が静かに伏せられる。
「私はお前をここへ連れてきた。しかし、それ以上のことを強制することはできない。
鞭の使い手は自らの意志で鞭を執らねばならない。お前があくまで拒否するのであれ
ば、もう手はない。鞭の使い手はもはや存在せず、魔王は復活し、この世は永遠の
闇に沈む」
 ふたたび周囲がさわがしくなった。とるに足らない顔どもの群れが何事かわめいて
いる。ふりそそぐ怒りと憎悪と軽蔑を快い雨のように感じながら、ユリウスの目は
ゆらめく銀色の髪と白い月の顔にしっかりと据えられて離れなかった。
「つまり、俺がうんと言わなければ世界が滅亡するってことだな?」
「そうだ」
「俺が自分の意志で頷かなければ駄目だと? 強制しても騙しても、操ろうとしても
無意味だと?」
「そうだ」

78煌月の鎮魂歌5 12/22:2015/07/19(日) 09:55:18
 大波のように笑いが込みあげてきた。身体を折って、吐き出すようにユリウスは
笑った。身体中が燃えるように熱い。どんなドラッグをやったときよりも意識が高揚
し、両耳から血を噴きそうなほど興奮していた。
 なんてこった。この偉そうな奴ら、俺を野良犬、雑種、混血と見下している阿呆ども
が、いずれにせよこの野良犬に頼るしかないとは。
 この全身に感じる怒りも憎悪も侮蔑も、すべてが快くてたまらない。この偉ぶった
奴らは、俺に頼らなくてはいずれ全員死ぬのだ。みんなそれを知っている。そして
怯えている。半年後には、どうしようもなく、みじめに魔王とやらの前に、下る闇に
呑み込まれてみじめに死ぬ、自分たちの運命に恐怖している。
 そしてその恐怖を打ち払う唯一の頼りが、ここにいる野良犬なのだ。
「──だから我々は、お前に頼むしかない」
 爆笑するユリウスをアルカードは静かに見つめていた。ひきつるような声であえぎ
ながらようやく顔をあげたユリウスに、月光の青年は変わらぬ静かな声で続けた。
「どうかヴァンパイア・キラーの新たな使い手として、最後の戦いに立ってほしい。
あの鞭でなければ、魔王を本当に封印することはできない。
 これまでベルモンド家の者は幾度となく魔王を封じてきたが、その度に封印は
破られ、繰り返し魔王は復活してきた。しかし、今回の降臨は違う。魔王は完全復活
をとげるが、同時に、完全にその闇の血脈を砕く機会も訪れる。この機会を逃せば、
二度目はない。人の世が滅びるか、それとも魔王を完全に滅して世界を闇から解放
するか、二つに一つだ。そのすべてがおまえの意志にかかっている、ユリウス・
ベルモンド」
「頼んでるんだな。この、俺に」
 アルカードは口を開かず、顎をひいてただユリウスを見つめた。 
「ブロンクスの蛇は何か見返りがないかぎり動かない。それをわかって言ってるんだな?」
 やはり無言。暗い地下室と荒い呼吸の音が耳の奥にこだまする。

79煌月の鎮魂歌5 13/22:2015/07/19(日) 09:55:56
「よし、わかった。それじゃあ──」
 ユリウスはずっともてあそんでいたばかげたボウタイを放り捨て、大股に部屋を
横切った。周囲があわてて誰も動くこともできずにいる間に、手を伸ばし、ぐいと
アルカードの手首をつかんで引きずり出した。車椅子の少年が顔色をなくして身を
乗り出した。
「アルカード!?」
「『こいつ』が、俺の条件だ、ご一同」
 手首をつかまれ、片腕に乱暴に抱き込まれたのアルカードをさらに引き寄せて、
ユリウスは勝ち誇った顔であたりを睥睨した。
「こいつを俺専用の牝犬にしてもらう。それが鞭を使う条件だ」
 おそろしく長く、肌に刺さるほどの沈黙があった。
「きさま……!」
 車椅子でラファエルが身震いして叫び、そのとたん火がついた。
 一気に急降下した部屋の温度は瞬時に沸騰した。椅子が倒れ、高価な酒や茶器が
あちこちで揺れてこぼれた。ガラスや陶器の割れる音があちこちで響いた。いたる
ところで人が立ち上がり、拳を振り回し、怒鳴り、わめいていた。
「なんということを……」「身の程を知れ、この雑種が!」「ベルモンドの名を継ぐ
者が、恥を──」「アルカード殿が何者なのか知っていて言っているのか、狂人
めが!」「汚らわしい──」
「言っとくが、ほかの提案なんぞ聞く耳もたないぜ」
 こいつらに俺が今まで聞いてきた罵声のひとつも聞かせてやりたいもんだ、と楽しみ
ながらユリウスは思った。お上品なこいつらの心臓はユリウスがため込んできたヴァラ
エティ豊かな罵りのかけらでも聞かせてやったら、その場で喉から飛び出して、心肺
停止の主人を後目にぴょんぴょん地球の果てまで青くなって逃げていくだろう。
「あんたらは俺を野良犬だと思ってるかもしれんが、俺は食い物は選ぶ主義なんだ。
投げられたものをガツガツ食うだけってのは気に入らない。それは蛇のやり方じゃ
ない。蛇は待って、飛びかかり、獲物を手に入れる。確実に。蛇に頼みごとをする
なら気をつけろ。思ってもいないことを要求されることがある。今みたいにな」

80煌月の鎮魂歌5 14/22:2015/07/19(日) 09:56:27
「アルカードから離れろ、この──雑種!」
 怒りのあまり、ラファエルは我を忘れて息を切らしていた。左右に控えていた
使用人が必死になって引き留めているが、そうしなければ今にも椅子から転げ落ち
そうになっている。
 足さえ動けば、と少年が焦げるほどに念じているのが脳味噌に突き刺さるほど
伝わってきて、ユリウスは笑った。足さえ動けば、この無礼な野良犬に当然の罰を
下してやるのに。そもそもこんな場所に、足を踏み入れさせることもしなかったのに。
アルカードに触れるなんて、そんな ──無礼な、汚らしい、そんなこと──
 ユリウスはそちらに牙をむいて笑うと、胸によりかからせたアルカードの顎を
つかんで上向かせた。氷蒼の瞳が驚いたように見開かれる。
「ユリウス? 何を──」
 有無を言わせず、ユリウスはその唇を塞いだ。
 腕の中でしなやかな身体が反射的に抗いかけたが、やがてだらりと力が抜けた。
抵抗しない甘く柔らかい舌を思う存分むさぼり、最後に濡れた唇に舌先を見せつける
ように走らせて、音を立てて離した。
「こいつは最高の牝だ。少なくとも、俺が見てきた中じゃな」
 呼吸も許されないほど手荒く口づけられたせいで息を乱しているアルカードを抱き、
朗らかにユリウスは宣言した。
「こいつを俺専用の牝犬にする。いつでもどこでも、俺の言うことならなんでも聞く
ペットだ。見た目もそう悪くない。まあ、しばらくは楽しめそうだ。味見もさせて
もらったしな。首輪と鎖は遠慮しといてやるよ。お上品なここじゃ、ちょいと場違い
だろうからな」
 車椅子の中でラファエルは身悶えしていた。
「アルカードを離せ、雑種! 出て行け、汚らわしい、こんな──」

81煌月の鎮魂歌5 15/22:2015/07/19(日) 09:57:01
「おいおい、お兄ちゃんにそんな言い方はないんじゃないか、兄弟」
 悲しげな顔をつくろい、ユリウスはラファエルに口をへの字に曲げてみせた。
「お前はずっとここで、この牝犬と遊んできたんだろうに。ちょっとくらい、
お兄ちゃんにわけてくれてもいいだろ?」
「アルカードをそんな風に言うな、犬はお前だ、雑種、野良犬!」
 本当に床に前のめりになりかけたラファエルを、使用人があわてて引っ張り上げる。
血の気をなくした顔の中で、ベルモンドの濃い青の瞳が憤怒のあまり鬼火のように
爛々と燃えていた。
「お前なんか兄じゃない、お前なんか認めない、兄弟だなんて、絶対に! 
アルカード、お願いだ、なんとか言ってよ」
 訴えるようにラファエルはアルカードに呼びかけた。
「こんな奴に好きなようにされるなんて許せない、あなたはベルモンドの宝なんだ、
ずっと僕たちを導いて輝いてきた至高の存在なんだ、なのに、こんな雑種の汚い手に
どうして捕まってるの、アルカード、お願いだからなんとか言ってよ、ねえ──」
 アルカードは聞いていたのかもしれないが、それに注意を払っているようすは
なかった。すでにあの澄んだ泉のような平静さを取り戻し、なめらかな白い顔で
じっとユリウスを見上げている。まだ濡れている唇が艶めいて光り、ユリウスは
もう一度ここで彼の服を引きはがして犯してやりたい衝動にかられた。青く澄んだ
瞳の奥に、わずかな金のきらめきが揺れる。
「……それがお前の条件か」
 ささやくように彼は言った。ブロンクスの地下室でと同じように。
 ユリウスの口の中が一気に干上がった。
「そうだ」
 口蓋に張りつく舌を動かしてやっと言った。周囲の喧噪も車椅子の少年も今はみな
遠かった。存在するのは自分と月、腕の中で長い銀髪を揺らし、遠い視線を送る白く
まばゆい月の顔だけだった。

82煌月の鎮魂歌5 16/22:2015/07/19(日) 09:57:36
「あんたを俺の物にする。それだけだ。ほかの条件は受けつけない」
「そうか」ユリウスの胸に手をつき、アルカードは視線を下げた。
「わかった」
「アルカード!」
「──ラファエル。そして皆」
 ユリウスに腰を抱かれたまま、アルカードは頭を上げて周囲を見渡した。
「私は、ユリウスの要求を了承する」
 室内の者がいっせいに息をのんだ。
「アルカード! いけない、そんなこと」
 ラファエルの声は今にも泣き出しそうな子供の金切り声だった。
「あなたがそんなことするなんていけない! そんなこと、あなたにさせられるわけ
ない、あなたがそんな奴に、そんな──」
「これは必要なことだ、ラファエル。皆も」
 人形のようにユリウスに抱かれながら、アルカードの言葉はなおも指導者の、王者
の気高い血を引く者のそれだった。
「われわれは魔王を封滅する。そのためには鞭の使い手が必要だ。そのためにはどの
ようなことであろうとせねばならない。彼の要求が私であるのならば、私がそれを
する。疑問の余地はない。鞭の使い手は存在しなければならない。彼が、その唯一
の者なのだ」
 視線をもどしてアルカードはひたとユリウスを見つめた。あまりにも深く強く遠い
まなざしにユリウスはめまいを感じた。それと同時に、自分がおそろしく間違った
選択をしてしまったような気がした。遠い昔に、街角で何一つ持たずに、母親の死体
を見下ろしていたときの空虚な感じ。
「私はお前のものだ」
 単なる事実を述べるように淡々とアルカードは言った。

83煌月の鎮魂歌5 17/22:2015/07/19(日) 09:58:15
「そしてお前には鞭の継承者としての教育を受けてもらう。ヴァンパイア・キラーの
使い手となるにはまず、人間の想像を超える相手に立ち向かうための手腕と、聖鞭
それ自身に認められるだけの精神が必要だ。私がそれを教える」
 これは違う、という言葉が喉元まであがってきたが、声に出すことはできなかった。
望んでいたのはこんなものではない。望んでいたのは、本当に欲しかったのは──
「魔王の城は魔物や悪魔の巣だ。そういったものへの対処法も学ばねばならない。
時間がない。お前は半年間ですべてを身につけ、その上で鞭に使い手として認めら
れねばならない」
 衆目の中で人形のように抱かれながら、アルカードは澄んだ泉のようだった。さざ
波一つ立たず、鏡のようになめらかな水面。ユリウスはいつかその氷青の瞳に映る
自分自身と目をあわせていることに気づき、ぎくりとして目をそらした。
「さっそく指図か」
 いつものような声が出せたのが不思議だった。口の中は砂漠を歩いていたように
乾ききっている。
「本当に俺がそんなことに我慢してつきあうと思うのか? 俺はあんたで遊びたい
だけで、ほかのことには興味なんかないかもしれないぜ」
 白い貝のような耳朶に囁き、腰から背を粘りつくようになで上げてやる。シャツの
裾から手を滑り込ませようとしたとき、初めてアルカードは身じろぎして抵抗する
素振りを見せた。
「ここでは──駄目だ」
「なに?」
「……あの子が見ている」
 ラファエル。
 少年は車椅子の上で石と化したようにかっと目を見開いていた。少女めいた甘さの
残る顔立ちは苦悶と焦燥にゆがんでいる。きっと俺を今すぐ殺したがっているだろうと
ユリウスは思い、心底愉快になった。

84煌月の鎮魂歌5 18/22:2015/07/19(日) 09:58:55
「ここじゃなければいいんだな?」
 素早く囁き、アルカードの手首をつかんで扉へ向かった。自分の中にうずくまる
正体のわからない逡巡から逃れたかった。いつの間にか背後にも回り込んでいた
人々が、悪臭を放つ獣にでも近づかれたようにいっせいに割れた。
「じゃあな」うなだれたまま後に従うアルカードをがっちりつかんで、ユリウスは
陽気に手を振ってみせた。
「まあ、せいぜい楽しませてもらうぜ、クズども。お前らが見下してる雑種の野良犬
にどんなことができるか、じっくりそこで見てな」
 最後の一言は奥で動かないラファエルに向かって投げつけられた。高らかにユリウス
は笑った。
 手の中のアルカードの手首は頼りないほどに細い。げらげら笑いながらユリウスは
アルカードを部屋から引きずり出した。黒い影のように立っていた家政婦の老女
ボウルガードが、何も見ていないかのようになめらかに頭を下げる。部屋から
噴き出してくる棘のような悪意と軽蔑と憎悪を快く感じながら、ユリウスは大股に
廊下を進み出した。


 世話係の手で部屋へ運ばれ、一人になるまでラファエルは泣かなかった。人前で
泣くというのは、誇り高いベルモンド家の当主としてあってはならないことだ。
「ご苦労」部屋着に着替えさせられ、ベッドの上に寝かされて羽布団をかけられて
から、尊大にラファエルは言った。
「時間になったら、ボウルガード夫人に食事を運ばせてくれ。今日は……食堂へ降りて
いかないから。少し疲れた。しばらく本を読むから、一人にしてくれ。用事があれば、
ベルを鳴らす」

85煌月の鎮魂歌5 19/22:2015/07/19(日) 09:59:31
 いかつい世話係の男は頭を下げ、顔をラファエルから隠すようにして出て行った。
そこに浮かんだ哀れみの表情を見られなくなかったのだろう。ラファエルはベッド
サイドに積み上げた本の一冊を手に取り、いいかげんに開いて読むふりをした。
 ドアがしまり、世話係の足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、少年は本を
投げ出し、枕の上にうつ伏した。
 枕に顔を押しつけて、声が漏れないように泣きじゃくる。足が動かなくなってから、
覚えたやり方だった。これまでにも深夜に、こっそり涙を流すことはあった。だが
今回は酷すぎた。あまりにも。
 アルカード。
 小さいころから、彼はラファエルにとって神のような存在だった。神以上だったかも
しれない。力を引き出す象徴として神のシンボルを利用するとはいえ、ラファエルは
真の信仰心を抱いたことなどなかった。そういった感情はすべて、五百年をこえて
老いることなく生きる、幻のような美貌の青年に捧げられていた。
 崇拝していた。アルカードは〈組織〉のために世界を飛び回ることが多く、ここに
戻ってくることはあまりなかったが、たまに戻ってきたときは全世界が光り輝くよう
だった。幼いラファエルの頭に手を乗せ、わずかに微笑するその顔ほど美しいものは
なかった。いつか彼の隣で鞭の使い手として、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
して魔王を封じる、それが自分の運命であり、使命だと信じていた。
 ある幸せな夏の日を思い出す。しばらく屋敷に帰ってきたアルカードが図書室にいる
と聞いて、取るものもとりあえずに飛んでいった。まだ十にもならないころだった。
アルカードは図書室のフランス窓のそばに腰を下ろし、何事か書類に目を通していた
が、おずおずと入っていったラファエルを微笑して迎えてくれた。
 大きくなったなと言ってくれた。アルカードはお世辞は言わない。彼は思ったとおり
のことを言う。誇らしかった。書類を仕上げるアルカードの足もとに座って仕事が
終わるのを待った。やがて仕上がったものを脇に置くと、勉強や修行の様子を尋ねて
くれた。懸命になって答えた。鞭の使い手として恥ずかしくないように。あなたの隣に
立つ者としてふさわしくなれるように。

86煌月の鎮魂歌5 20/22:2015/07/19(日) 10:00:16
 微笑しながら聞いていたアルカードは、それでもあまり根を詰めすぎるのはよくない
と諭して、蔵書の中では子供向きであると判断したらしい古い騎士物語を読んでくれ
た。彼自身がその物語の中から歩み出てきた者のようなのに。
 それ自体が音楽のような声が古雅な韻文を朗唱する。雄々しい騎士が数々の勲功を
あげ、竜を退治し、塔にとらわれた乙女を救い出す……それらはみないずれ、自分の
身に起こることの予言に感じられた。このたぐいなく美しい青年の隣で、伝説となる
べき戦いに身を投じるよう、運命づけられているのだと。歓喜に身が震えた。
 それなのに、あの野良犬が奪っていった。すべてを。
 兄だなどと呼びたくもない。考えるのもいやだ。あんな男の汚い手に、アルカードが
触れられると思っただけでも耐えられない。今はもういない父を呪った。なぜあんな
──もの──を生かしておいたのかと、胸ぐらをつかんでなじりたい気持ちだった。
 ぴくりとも動かない足など切り落としてしまいたい。どうしてこの足は動かないの
だろう。足さえ動けば、あの男が我が物顔にベルモンド家に踏み込んでくることは
なかった。聖鞭も、アルカードも、奪い去られることはなかった。腫れ物に触るように
接される日々はうんざりだ。誰もが自分はもうベルモンドとしては役立たずだと
知っていて、それでいて、必死にそう思っていることを隠そうとする。
 でもアルカードだけは離れてはいかないと、なぜか信じていた。それほどに、彼は
絶対の存在だった。
 なのにその彼さえも、あの男の薄汚い手にさらわれてしまった。
 守れなかった。ベルモンドの家長として、彼だけはどんなことがあっても守るべき
だった。守りたかった。
 ──守って、あげたかったのに。
 涙も声も白いリネンが吸い取っていく。力の入らない下半身を呪いながら、身を
よじって少年はむせび泣いた。握りしめた指がシーツに醜い皺を作っていく。カーテン
を締めきった部屋は薄暗い。
 家具の作る複雑な影の奥底で、何か小さなものが、ちらりと動いた。

87煌月の鎮魂歌5 21/22:2015/07/19(日) 10:00:51



「脱げ」
 屋敷から引きずり出して庭園の一隅までひっぱっていき、ユリウスは命じた。古い
屋敷の石壁に背を預けて、アルカードは動かなかった。
 じれて下の衣服だけをはぎ取り、壁にむかって手をつかせた。なめらかな臀が
あらわになる。ろくに慣らしもせずに突き入れると、白い背が一瞬弓のように反った。
喉の奥でかすかにうめき声をたてたようだったが、あまりに小さかったのでユリウス
の荒い息とベルトの音にかき消されてしまった。細い肩を砕かんばかりに掴んで、
ユリウスはきつく相手を壁に貼りつけた。
「あそこじゃ嫌だと言ったな。なら、ここでならいいだろう」
 激しく腰を使いながら、ユリウスは吐き捨てた。
「忘れるな。あんたは俺の牝犬になるんだ。そう言ったんだからな。俺がそう言えば
どこでも尻を差し出せ。ひざまずいてブツを嘗めろ。そういうことが大好きなん
だろう、え、この淫売、牝犬。何度もここに男をくわえ込んでるくせしやがって」
 ひときわ深く手荒く抉ると、シャツに包まれた肩がわずかにこわばった。
 蔦と苔におおわれた石壁に頬を押しつけ、強く目をつぶっている横顔からは、苦痛
に耐える以上のなんの表情も読みとれない。体だけが従順にユリウスに応え、熱く
狭く柔らかい肉で気の遠くなるほどの快楽をユリウスに返してくる。
 闇雲な怒りのままに、腰を動かしながら髪をつかんで顔を上げさせ、無理やり唇を
奪った。わずかな抵抗があったが、それも、すぐあきらめたように力が抜けた。その
無抵抗さがますます怒りを煽った。手を伸ばして、片手でへし折れそうな細い首を
つかむ。

88煌月の鎮魂歌5 22/22:2015/07/19(日) 10:01:21
 締めつけると、苦しげに身をよじり、むせた。
 開いた目がわずかに濡れていたが、涙ではなかった。瞳はあくまでも冷たく澄み渡
り、ユリウスの中に理由のわからない恐怖に似た何かをかきたてた。
 こいつは俺のものだ、とユリウスは繰り返した。
 俺のものだ。俺のものになった。俺だけの牝犬になることを承諾したんだ。
 なのに、なぜこれほど不安なのだ?
 さまざまなものが入り交じった感情が駆け抜け、ユリウスは呻いた。下腹部に疼いて
いた溶岩のようなものが一気に押し上げてきて、達した。
 脳天を雷に貫かれたような、目の前が白くなるほどの快楽だった。体内にぶちまけ
られたアルカードは小さく息を呑んで拳を握りしめたが、それ以外の反応は示さなか
った。溢れた精液が内股を汚して流れ落ちていく。
 俺の物だ。俺の物なんだ。
 手の届かない月。いや違う、そうじゃない、こいつはただの肉だ。俺をくわえこむ
牝犬だ。そら、こうして、俺のものをくわえ込んで喘いでいる。ああ、白い月の顔、
どんなに手を伸ばしても届かない、つかまえられない天空の月──
 二度三度と達しても、ユリウスに萎える気配はなかった。強姦は延々と続いた。
半身を血と精液で汚し、膝を震わせて壁にすがりながら、長く手酷い扱いの間、アル
カードは一言の声もあげなかった。悲鳴すら。

89煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:29:23
 Ⅱ   1999年 2月

           1

「触れ、だと?」
 ユリウスの声にはすでに危険なほどの怒気がこもっていた。
「そうだ」平然とアルカードは返した。
「どこでもいいから私に触ってみろ。指先をかすめるだけでいい」
「てめえ……俺をコケにしてんのか?」
 アルカードは平静な顔だった。冗談を言っている顔でもなかった。
 ベルモンド家の広大な敷地の一隅に設けられた訓練場は古く、広大で、石で張られた
床と壁はこれまで幾代ものベルモンド家の者の血と汗を吸い込んで黒光りしていた。壁
には鞭をはじめ剣や斧、短刀、鎖のついた鉄球、棍棒や杖、弓矢などあらゆる武器が
かけられ、そのどれもが使い込まれた道具の独特の精気を放っている。
 アルカードとユリウスはそこで向かい合って立っていた。両者とも武器は持ってい
ない。から手である。てっきり武器の訓練を始めるものだと思っていたユリウスは
不審に思い、そして、今は怒り狂っていた。
 アルカードは黒ずくめのスーツから妙に時代のかった、白い綿のシャツと膝丈の
スパッツに着替えていた。ぴったりした長い白靴下に、これまた博物館から持って
きたのかと思うような古風な短い革靴を履いている。シャツはひかえめに言っても
身体にあっておらず、もともと大きすぎるシャツを乱暴に着丈と袖丈だけひっつめた
ような妙なしろものだったが、アルカードはまったく気にしていないようだった。
だぶだぶのシャツにくるまれ、小さな短靴をはいたアルカードは、スーツ姿の時とは
うってかわってほんの少年のように、壊れやすくか細く見えた。
「俺がブロンクスで何をしてたか知ってんだろうが。その俺に、ガキの鬼ごっこを
やれってのか? ぶち殺すぞ、おい」
「それはまず、私に触れるようになってからやることだ」

90煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:30:10
 平然としたアルカードの返事に、一気に頭に血がのぼった。
「それじゃあお望み通り、そこに這いつくばらせてやるよ!」
 両足に力を込めて、ユリウスはまさに襲いかかる毒蛇の素早さでアルカードに突進
した。
 手は勢いよく空を切った。
 ユリウスはたたらを踏み、止まり、なんの手応えもなかった手を見下ろし、背後に
いるアルカードを呆然と振り返った。アルカードは何が起こったのかも知らぬ風で、
遠い目をどこかに向けている。
 ユリウスは唸り、わめき、猛然ともう一度つかみかかった。
 またもや空振り。そしてまた。三度。四度。
 よろめいて地面にぶつかり、ユリウスは唖然とアルカードを見上げた。
 彼は訓練開始からほとんど動いていない。立つ位置すら動かしていないのに、手は影
のようにそこを通り抜けてしまう。
「無駄な動きが多すぎる」
 四つんばいになったユリウスを見下ろして、あくまで淡々とアルカードは言った。
「勢いだけでとらえられるほど敵は甘くはない。相手の動きを予測し、必要最小限の
動きで正確に位置を定めるのだ。私に指一本ふれられないようでは、この先、魔物との
戦いはおぼつかない」
「この……」
 一気に跳ね起き、相手の腹にむかって突進したユリウスは、またも何もつかむことが
できずにバランスを崩して鼻から床に激突した。
「相手をよく見ろと言っているだろう」
 後ろからアルカードが言う。確かにそのどてっぱらにタックルする勢いで突っ込んだ
というのに、銀色の姿は幻のように通り過ぎて、前と変わらない位置に髪一本乱さず
立っている。
「力任せに動くだけでは無駄に体力を消耗するばかりだ。魔物との戦いは人間相手とは
わけが違う。素早く、正確に、相手の急所を一撃しなければそれはそのまま死につながる」

91煌月の鎮魂歌6 3/29:2015/08/27(木) 00:30:53
 ずきずき痛む鼻を押さえてユリウスはやっと起きあがった。鼻の頭を手ひどく擦り
むき、指の間からは血が垂れている。〈毒蛇〉が他人に血を流させられるなど言語道断
だ。ましてやスカったあげくの鼻血などと──
 野獣のような咆吼をあげてユリウスは突進した。両腕を振り回し、足を蹴り出し、
ブロンクスで身につけたなりふりかまわぬ喧嘩のあららゆる手を使ってゆらめく銀の
髪をつかまえようとする。
 そのたびにきらめきは影のようにすり抜け、何一つ動かず変わりもせずそこに立って
いる。ほんのすぐ指先にあるというのに、どうしてもその髪の先にすら触れることが
できない。まるで水に映った月をつかまえようとしているかのようだ。
 わめき声と罵りと荒い呼吸と派手な衝突音が二時間、三時間と続いた。
 身体じゅう擦り傷と埃と(自分の)血にまみれ、ついにユリウスは立ち上がる力も
なくしてその場に崩れ落ちた。動こうとして必死に唸るが、頭を持ち上げる力さえもう
どこにも残っていない。アルカードは訓練を始めたときとまったく変わらず、同じ場所
に静かに立っている。
「今日はここまでだ」
 起きあがろうと無様にもがいているユリウスを見下ろして、アルカードは穏やかに告げた。
「ボウルガード夫人が来る。彼女に着替えと昼食をさせてもらって、休憩のあとは東翼
の読書室に来い。午後からは魔物の種類とその対処法に関する座学を始める。まずは
魔物の名前を覚えるところからだ」 
 そのまましばらく──なんとも無様なことに──気が遠くなっていたらしい。我に
返るとアルカードの姿はなく、あの喪服めいた黒いドレスの老女、ボウルガード夫人が
古風な気付け薬の瓶の蓋をしめるところだった。鼻のまわりに強烈なアンモニアの刺す
ような臭いが漂っている。
「お立ちなさい」
 老女は仮面のような顔で告げた。

92煌月の鎮魂歌6 4/29:2015/08/27(木) 00:31:26
「アルカード様からのご命令です。離れの小食堂に昼食がご用意してごさざいます。
二時に迎えに参ります。そのあと、読書室へご案内します」
 ユリウスに言うことを聞かせられるものはほとんどいない。これまでいた少数の者は
いずれもユリウス自身の手で死んでいる。
 しかしこの鶏がらのような老女はいったいどういう手管を使ったのか、ふらふらの
ユリウスを起こし、浴室に放り込んで着替えさせ、食事をとらせ、時間通りに読書室に
送り込んだ。そこでは汗をかいた様子もないアルカードが、大きな分厚い樫材のテー
ブルの向こうで待っていた。
「来たか」
 ボウルガード夫人が一礼して下がると、アルカードは立ち上がり、テーブルを回って
ユリウスのそばに立った。白い指がそっと顎に触れ、魂までのぞき込むような瞳がまっ
すぐのぞき込んでくる。心臓が突き刺されたように震えた。
 だがそれも一瞬のことで、アルカードはつと視線をそらし、テーブルの向こうの椅子
にもどった。
「まずこちらの書物を暗記してもらう。本来なら一項目ずつ講義していきたいところ
だが、時間がない。暗記した上で、理解は訓練と実践の中でしてもらうしかない」
「おい、本気か?」
 ユリウスは思わず声を上げた。目の前に積み上げられた書物はどれも恐ろしく古く
分厚く、中にはばらばらになったページが紐で綴じられているだけの古文書とでも
呼ぶべきものもある。表紙に刻印されたかすれた金箔押しの表題は、古風すぎで判読
さえ困難だ。
「こいつをみんな暗記しろだって? 全部食っちまえと言われたほうがまだましだぜ」
「食べて覚えられるのなら、それでもいい」
 アルカードは動じなかった。
「ほとんどは羊皮紙だから動物性蛋白質ではある。しかし消化には悪いだろうし、効果
があるとは思えない。古英語や古典外国語の部分は私が書き直して現代英語の注を
入れておいた。読むのに支障はないはずだ。読み書きはいちおうできると聞いている。
質問は?」

93煌月の鎮魂歌6 5/29:2015/08/27(木) 00:31:59
 とっさに返事ができないでいるうちに、アルカードが最初の書物の一冊をとり、明瞭
な発音で読み始めた。
 授業は午後いっぱい、日が沈むまで休憩なしで行われた。途中でボウルガード夫人が
何か軽食を運んできたようだが、ユリウスはそれどころではなかった。アルカードが
読み上げる、ホラー映画や三文小説でしか聞いたことのない──または、それですら
目にしたことのない、異様な名前の魔物どもについての記述を復唱し、続いて自分でも
読み、与えられた紙に書きつづる作業で死にそうだったのだ。
「発音と綴りが違う」
 ちょっとした間違いでもアルカードは見逃さなかった。ユリウスの手元から紙を取り
上げ、さらさらと綴りと発音の間違いを美しい筆跡で書き込んで押し戻す。
「魔物は多かれ少なかれその真の名と本質に縛られる。彼らの名は彼ら自身でもある。
名の発音を誤っただけでも致命的な危地に陥る場合がある。いかなる場合でも正しい
名前を、正しい発音で口にせねばならない。魔物狩人としての基本だ」
「やかましい、くそっ、俺を誰だと思ってる」
 ペン軸(また古風なことにインクにつけて使用する羽ペンだった)を折れんばかりに
握りしめながら、ユリウスは歯ぎしりした。
「名前がなんだ。危地がどうした。俺はブロンクスで成り上がってきた赤い毒蛇だぞ。
致命的なんて言葉は本当に死んでから言えばいい。こんなものいちいち覚えなくても、
奴らが襲いかかってくる前にまとめてぶっ倒してやりゃそれで解決だ。イタリアの
パスタ食いとチャイニーズのオカマどもをまとめて相手にしてた俺をなめるな。こんな
蟻の行列なんぞ、奴らに比べりゃ朝飯前だ、くそっ、畜生」
 そう口にしたとたん、ユリウスは妙な空気を感じてふと手をとめた。アルカードが
手を本にのばしかけたまま、まじまじとこちらを見ている。
 これまでとはまったく違った目つきだった。ただ透明で美しく、冷たく澄み渡って
いた氷の青の瞳に、なにか別の色が現れていた。
 五百年を閲したその目の奥に見えたものは、およそ言語を絶するなにかだった。
終わりのない苦痛と悲しみ、それらに属するあらゆる感情の流す血が、凝縮された
ナイフのようになってユリウスの胸を切り裂いた。目まぐるしく変わるその色はときに
追憶、悲傷、哀惜、孤独──それらがとれるもっとも痛々しい姿がそこにすべてあった。

94煌月の鎮魂歌6 6/29:2015/08/27(木) 00:32:32
 片手が痙攣するように胸元にあがりかけ、力なく垂れた。一瞬にして瞳の色は消え失せた。
「……次はこちらだ」
 アルカードは目を伏せ、別の古文書を取り上げた。
「城に出没する中でも特に強力な混沌の一族について記されている。ただ徘徊するだけ
の下級の魔物どもとはわけが違う地獄の貴族たちだ。これらについては特に注意が必要
だ。私の発音をよく聞いて真似をしろ。くれぐれも綴りを間違えるな、いいな」

               2

「ユリウス・ベルモンドって、あんた?」
 寝椅子の上で怠惰に身じろぎし、ユリウスはうっすらと目を開けた。
 ガラスの天井からふりそそぐ陽光がまぶしい。ベルモンド家の広いサンルームは、
もっぱら滞在客たちの休息とレクリエーションの場とされていた。
 ユリウスがやってきた時も、数人の男女がテーブルを囲んで談笑したり、窓辺に
寄って何か秘密めいた話にふけったりしていたが、ユリウスが姿を見せるが早いか
全員が溶けるようにどこかへ消えていき、あっという間に誰もいなくなった。
 いつものように、ユリウスは気にもしなかった。ああいう連中はいちいち気にする
ときりがない。手近にあった寝椅子に寝転がって、置きっぱなしになっていたワインを
瓶ごと失敬し、ちびちびやりながら昼寝をきめこんでいたのだ。
 だらりとクッションに寄りかかりながら目の前のものをじっくりと観察する。
 見事なアンティーク・ドールが動き出したような少女だった。
 せいぜい十一、二歳といったところか。ほんの小娘だ。白い肌は陶器のように
なめらかで健康的なミルク色、波打つ髪はふさふさとした金髪。猫のようなつり上がり
気味の緑の瞳が目を引く。つんと上を向いた鼻先がちょっと生意気そうだが、小さく
ふっくらとしたかわいい唇は、咲き初めたばかりの薔薇のつぼみを思わせる。

95煌月の鎮魂歌6 7/29:2015/08/27(木) 00:33:10
 ワインカラーのベルベットにふんだんにフリルとレースをあしらったドレス、数える
のがいやになるほどのボタンとリボンと何枚ものペティコート、ぴかぴかの赤い革の
ブーツ。手にはいっぱしの貴婦人らしく、日除けの役にはたちそうにないレースと絹の
きゃしゃなパラソル。
 肩からはドレスとお揃いのちっぽけなポシェット。こちらもふんだんなレースと
ビーズで飾られ、肩紐は金の鎖と赤い革が交互に編みあげられた凝った細工、細い手首
には青いサファイアの輝きを放つ、シンプルなブレスレットがきらめきを放つ。
 肩の上には見たことのないインコほどの大きさの赤い小鳥。火のひとひらが羽に
なったような真紅の胸をつくろい、足もとには、白に黒の縞のはいっためずらしい柄の
子猫が金色の目でこちらを見つめている。どれもこれもが凝っていて、うんざりする
ほど愛らしい。
「ちょっと。人が話してるのに、返事しなさいよ」
 反応するほどの相手ではないと判断して目を閉じかけたとたん、ぐいとパラソルで足
をつつかれた。
 さすがにむかっ腹をたてて身を起こす。少女は気後れした風もなくまじまじと
ユリウスを見つめ、「ふうん」と鼻を鳴らして肩をすくめた。
「まあ悪くはないわね。とりあえずはだけど。アルカードが直接教えてるってことは、
なんとかものになりそうな素質はあるってことだし。ベルモンドの力は確かにある
みたいだから、あとは努力と、十分な精神力がそろってるかどうかってとこかしら」
「ひっぱたかれたいのか、クソガキ」
 ユリウスはうなった。
 この一週間ほど、アルカードはベルモンド家を離れている。
 何か理解できない理由で、世界の別のところに行く用事ができたらしい。出発の前日
に淡々とそのことを告げてから、自分の留守の間も訓練は続くと付け加え、山のような
課題図書と古風な字体でつづられた手製の問題集を押してよこした。さらに帰ったら
きちんと課題をこなしたかどうか口頭試験をすると宣言した。ユリウスはたっぷりと
文句と悪罵を並べたが、もちろんアルカードは聞く耳を持たなかった。

96煌月の鎮魂歌6 8/29:2015/08/27(木) 00:33:44
 初日には指をかすめることすらできなかったユリウスだったが、この半月で、
ようやくアルカードの衣服の端をつかむことに成功するようになっていた。ほんの
一瞬、それも十数回に一度という程度だったが、進歩は進歩だ。
 アルカードはそれを認め、戻ってきたら鞭の扱い方を初歩から再訓練すると言って
いた。から手での体術訓練も変わらず続ける。服だけでなく、中身にも触れられるよう
にならなければ魔物との組み討ちはままならない、ときれいな顔で言われた時には殴り
倒したくなったが、どうせ殴りかかってもまた空振りして無様にひっくりかえるだけだ
ともう理解していたので、我慢した。ブロンクスの連中が聞いたらツイン・タワーと
マンハッタンがまるごと崩れ落ちてくるかと思うことだろう。
 アルカードの代わりには、魔術と錬金術と科学の合体の産物らしい、金色に輝く奇妙
な球形の物体が相手をした。蜂の羽音のようなかすかな作動音をたてながら目にも
とまらぬ速度でユリウスの周囲を飛び交い、隙をねらって電撃や衝撃波、小さな矢や
自在に形を変える水銀のような刃で攻撃してくる。ユリウスは与えられた木剣で延々と
そいつらを払いのけ、はじき飛ばし、たたき落とした。
 アルカードの幻のような動きに比べたら、そいつらは実に退屈なしろものだった。
胸にこもった苛立ちをぶつけるように力任せに木剣をぶつけるとそいつらはほんの
しばらく停止して床に転がり、すぐに息を吹き返して浮かび上がる。金色の表面には
傷一つつかず、その球面に反射した自分の引き延ばされた顔を見ると、さらに苛立ちが
つのった。
 アルカードのことを思うと、また腹の底で欲望がうずいた。
 はじめの一週間はさすがに疲れ果ててそれどころではなかった。だが、訓練に慣れ、
ユリウスの若さと旺盛な体力が徐々に目を覚ましはじめると、ユリウスはアルカードに
約束を実行するよう要求した。自分の牝犬たること。呼べばすぐ這いつくばる自分の
ペットたること。
 アルカードは来た。
 来ないのではないかと半ば疑っていたユリウスの部屋の扉が真夜中、そっと叩かれ、
そこに、月光の精のような玲瓏とした美貌があった。

97煌月の鎮魂歌6 9/29:2015/08/27(木) 00:34:18
 昼間はいくらつかもうとしても幻めいて指先から逃げていった身体は、あまりにも
簡単に腕の中に倒れ込んできた。乱暴に引き寄せられ、唇をふさがれても抵抗はなかっ
た。ベッドに突き倒され、脱げと命令されても、アルカードは従順にそれに従った。
 どんな恥ずかしい姿態、淫らな格好をさせられても、彼は黙って言われたとおりに
した。猥褻な言葉を言えといわれればそうした。屈辱的な姿勢で犯され、どんな娼婦
でも泣いて許しを請うか、生命の恐怖を感じて逃げ出すほどの残虐な責め苦を受けて
も、悲鳴一つもらさなかった。
 半ヴァンパイアの肉体はどんな人間よりも強靱でしなやかだ。酷い傷をきざんでも
すぐに癒え、爪や歯で引き裂かれた皮膚は見るまに跡形もなく塞がる。普通の人間なら
骨が折れるか関節が外れるほどの無理な姿勢をとらせても、かすかに苦痛に眉をひそ
めるだけで抵抗はない。
 だがおそらくその気になればどの瞬間にでも、アルカードはユリウスを殺せるのだ。
象牙細工のように繊細な指先には、ヴァンパイア王の超自然の力が秘められている。
おそらくユリウスの身体のどこにでも指を当て、軽く押しつけるだけで、ユリウスの
骨は枯れ木よりももろく砕けるだろう。それなのにアルカードは何一つ抵抗せず、
牝犬になると言った自分の言葉を、忠実に守り続けている。
 なぜかその事実が、ユリウスの怒りをかき立てた。アルカードが従順であればある
ほど、苛立ちは膨れ上がり、行為は苛烈さを増した。
 幼い頃に、ホームレスの暗い部屋で低い声で語られたある物語を思い出した。その
男は自分の息子を殺して神々の食卓に肉として供した罪のために、顎まで水につけら
れているというのに、喉が渇いて飲もうとすると、水はたちまち引いてしまうのだ。
どんなに欲しても一滴の水も口にはいることはなく、満々とたたえられた清らかな水を
目の前にしながら、永遠の渇きに苦しまねばならない。
 あれはただの古ぼけた淫売だ、と数え切れないほど自分に言い聞かせもした。どんな
に美しくとも清純そうに見えても、彼が五百年生きているヴァンパイアであり、過去の
いつかどこかで、誰か男に愛されたことがあるのは明白だ。

98煌月の鎮魂歌6 10/29:2015/08/27(木) 00:34:55
 何をしようがほとんど反応を見せないアルカードだが、身体に刻まれた悦びの記憶は
そう簡単に消えるものではないようだ。ことに、その男を今でも想っているのなら。
教え込まれた反応を、身体は従順に思い出す。たとえ快楽自体は呼び起こすことが
なくとも、受け入れる側にかかる負担を減らしたり、手荒く突き上げられている最中に
なんとか息を継ぐ仕草のそこここに、かつて愛され、おそらくはアルカードも愛した
のであろう相手の痕跡が感じられる。その痕跡の一つ一つが、棘のようにユリウスの
心をひっかいていつまでもじくじくと痛む傷を残す。
(くそ)
 話によれば、アルカードがいつ帰ってくるかはまだはっきりしないらしい。最終決戦
が迫っている今、一年や半年というほどではないだろうが、無機質な球体相手の訓練を
終え、自室で唸りながら書物を読んでアルカードの古風な書体の質問に対する答えを
暗記していると、どうしようもない焦燥感に下からあぶられているような心地になる。
 俺のものになると誓ったくせになぜここにいないのかとわめき散らしたくなる。紙
の上の流れるような書体からアルカードの涼しい声がはっきりと聞こえてきて、あの
なめらかな月光の髪に、指をすべらせたくて身体中が震える──
 ぐい、とまたパラソルでつつかれた。今度は腹を。思い切り。
「レディが話をしてるときは、ちゃんと座ってきくものよ」
 憤怒の表情で飛び起きたユリウスに、少女は小さな女王のようにつんと顎をあげた。
「もう一度きくけど、あなた、アルカードにひどいこと言ったそうね? 中身はだれも
教えてくれないんだけど。まあ細かいことはいいわ、でも、アルカードをいじめる人は
あたし、許さないわよ。あの子はあたしの、大事な弟分なんだから。いいこと?」
「……へえ、そうかよ」
 十歳そこらの小娘が、五百歳のヴァンパイアにむかって弟分とは大した言いぐさだ。
 相手をするのも馬鹿らしくなって、ユリウスはだらっと寝椅子の背にもたれ、
ポケットから煙草を取り出した。一本くわえてライターを手探りする。
 ポシュッと音がして目の前が明るくなり、すぐ消えた。

99煌月の鎮魂歌6 11/29:2015/08/27(木) 00:35:29
 ユリウスは唖然として口先からぱらぱらとこぼれ落ちる、煙草だったものの残骸を
見下ろした。少女の肩にとまっている赤い小鳥が、まだちらちらと火の名残がゆれる
嘴を閉じたところだった。
「バーディーは煙草が嫌いなの。あたしも」
 少女は冷たく言った。
「少なくとも、あたしのいるところでその臭いものを振り回すのはやめなさい。禁煙
するのがいちばんいいわ。いったいみんな、なんだってそんな臭い上に身体に悪いもの
を吸いたがるのか、理解できないけど」
「鳥が火を噴いた」
 やっとユリウスは言った。
 言ってしまってからなんて間抜けな台詞だと自分の唇を縫い合わせたくなったが、
少女は意に介していなかった。
「そうよ」
 小鳥の真紅の喉をくすぐってやりながら、何でもないように彼女は言った。
「バーディーはスザクですもの。火はこの子の身体そのものだわ。火を噴いたくらいで
何を驚くことがあるの」
「スザク……?」
「東洋の四聖獣のひとつですよ」
 新たな声がかかった。ユリウスはぎょっとして振り向いた。誰かが入ってきた気配
などまったくなかったのだ。
 閉めてあったドアはいつのまにか開いており、そこに、穏やかな笑みを浮かべた
東洋系の男と、後ろに、ティーワゴンを押したボウルガード夫人が付き従っていた。
 男は長身で若く、せいぜい二十歳半ばに見えたが、東洋人の年齢はよくわからない。
丸眼鏡をかけ、細い目が見えなくなるほどの微笑をうかべているが、かえってユリウス
は警戒心を抱いた。まっすぐな黒い長髪を後ろへ流し、スタンドカラーの白いシャツと
くたびれたジーンズ姿はまるで高校生だ。焼きたての菓子と紅茶の香りが漂ってくる。

100煌月の鎮魂歌6 12/29:2015/08/27(木) 00:36:05
「スザクは赤い鳥の姿の神で、南方を守護し、火を象します。北方のゲンブは蛇を従え
た黒い亀で、土を象徴します。東方のセイリュウは青い竜で水の守護、西方のビャッコ
は白い虎で風を司ります。西欧人には、あまりなじみのない概念かもしれませんね」
「誰だ、あんたは」
 ユリウスは身構えながらゆっくりと寝椅子から立ち上がった。たとえ眠っていても、
髪の毛一本落ちる気配でもすればたちまち目を覚ますのが毒蛇の性だ。それをこの男
は、少女に気を取られていたとはいえいつドアを開けて入ってきたのか、まったく
気取らせずにいつのまにか部屋にいた。
「ああ、申し遅れました。僕はハクバ・タカミツと申します。ハクバが姓、タカミツが
名です。日本人です。こちらをどうぞ」
 シャツの胸ポケットから取り出されたネームカードは厚みのある上質の紙で、雲の
ような銀色の筋と艶のある表面に、『白馬崇光』と漢字が並んでいる。日本語の読め
ないユリウスにはただの模様にしか見えない。
「どうぞスウコウ、とお呼びください。こちらの方々には、僕の名前はどうやら発音
しづらいようですから」
「こういう時はレディの紹介を先にするものよ、スーコゥ」
 脇に立ってとんとんと靴を鳴らしていた少女がとがった声をたてた。崇光は「おや、
これは失礼」とのんびりと言って一礼し、
「こちらは、イリーナ・ヴェルナンデス嬢。僕やあなたと同じく、七月の最終決戦に
備えて集められた戦士のひとりですよ。あなたはユリウス・ベルモンド、そうでしょ
う? ラファエルは気の毒なことをしました。あなたは彼の異母兄に当たられると
聞いていますが」
「よくしゃべる野郎だな」
 ユリウスは唸り、用心しながらまた腰を下ろした。ネームカードを投げ捨てようと
したが、「あ、そのまま」と止められた。
「それは護符の力もこめてありますから、そのまま身におつけください。このベルモン
ド家の屋敷内で何かあるとは思えませんが、万が一の時の保険になります。あなたまで
魔物に襲われては困る」


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板