したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

129よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/11(水) 09:07:26 ID:POE.Zl6Y0
継がれる「白雪」 住吉大社で神馬代替わり 大阪
2011.5.11 02:11
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110511/osk11051102110001-n1.htm

 祈願のために奉納される白い馬「神馬(しんめ)」。住吉大社(大阪市住吉区)で、約25年間、神馬を務めてきた白雪に代わり、新たに2歳の雄の子馬が白雪の名と神馬を引き継いだ。

 住吉大社の神馬は代々、純和種で真っ白な毛並みを持つアルビノ種とされる。頭数が少ない珍しい馬だ。「神馬が衰えると、次の神馬が必ず見つかる」という言い伝えがあり、待望の子馬が見つかり、関係者は胸をなでおろしている。

 住吉大社では「正月に白馬を見れば邪気を払う」という信仰から白馬(あおうま)神事などに神馬が参加している。

 先代の白雪は昭和61年生まれ。高齢となり足腰が弱り神事への参加が困難になっていたが、後継探しが難航。今年1月、ようやく北海道で見つかった。新たな神馬は体長1メートル50センチ、体重300キロ。9日に命名式を行い、めでたく神馬に。現在、境内の「神馬舎」で過ごし、16日まで参拝者も対面できる。その後は和泉市の牧場で先代の白雪とともに暮らしながら神事に参加する。

 高井道弘権宮司は「鎮座1800年にあわせて新しい神馬が見つかったのは不思議としか言いようがない。大切にしたい」と話している。

130よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/11(水) 12:29:24 ID:u6OcHqbg0
2011年5月11日
「ニッポン猪飼野」実態に迫る 郷土史家ら論文など集め本出版
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/11/20110511-052620.php

 大阪市生野、東成両区にまたがる地域は長らく猪飼野(いかいの)と呼ばれた。かつては「日本国猪飼野」の住所表記で朝鮮半島から郵便が届いたとされ、最近ではコリアタウンとして人気を博す。そんな特徴ある街に愛着を寄せる住民や郷土史家らが、著名人らのエッセーと論文などを集めた本「ニッポン猪飼野ものがたり」を刊行した。古代からの歴史を探求し、地域にゆかりの著名人番付で風土をひもとくなど、多角的な視点で地域の実態に迫っている。

 編集したのは、郷土史家らで組織する「猪飼野の歴史と文化を考える会」。エッセーや研究論文のほか、インタビューなども含めて約50編を掲載。監修を担当した上田正昭・京都大名誉教授、作家の玄月(げんげつ)氏、詩人の金時鐘(キム シジョン)氏らのほか、郷土史家、ジャーナリストらが原稿を寄せている。

 「わたしの『猪飼野著名人番付』」は、猪飼野で生まれ育ち、現在も居住する同会会長の郷土史家、足代(あじろ)健二郎さんが作成。平成20年に「著名人が大勢いるということを世間に思い切り自慢してやろうと、面白半分に作った」原稿と番付を若干修正し、再録した。

 番付の両横綱は、松下幸之助と司馬遼太郎の両氏。国文学者の折口信夫氏や歌手の田端義夫氏(ともに大関)、パントマイムのマルセ太郎氏(関脇)らも“ランクイン”し、土地にまつわるそれぞれのエピソードを紹介している。

 松下、司馬両氏については、それぞれ「パナソニック発祥の地・猪飼野」「司馬遼太郎・以前」として独立した論文を掲載。司馬氏が幼少の一時期を過ごした地が「鶴橋本通り」で、初めて新聞記者になったのは猪飼野にあった「新世界新聞」とする説を展開している。

 また、「血と骨」などの作品で知られる作家、梁石日(ヤン ソギル)氏を東京の自宅まで訪ねて行ったインタビューを掲載。猪飼野での文学修業や、小説のモデルにした父親の思い出などを語っている。

 このほか、日本書紀に記されている地名・猪甘津からの古代の歴史をつづった「猪飼野をめぐる考古学」、「焼肉は猪飼野からはじまった」「猪飼野ヘップサンダル小史」など、歴史や文化、産業といった多角的な切り口で迫った猪飼野の論文を掲載している。

 足代さんは「古代史への興味が郷土史へ発展し、いつしか猪飼野へと特化していった。古代からの多彩な顔をもつ街を、多角的に描きたかった」と話している。

 A5判、368ページで、価格は2800円(税別)。発行は批評社。問い合わせは足代さん(電話090・5018・8995)。

猪飼野(いかいの) 
大阪市生野区北西部と東成区南西部にまたがる地域が、かつてそう呼ばれた。日本書紀に、この一帯を指す「猪甘(いかい)津」の記述があり、古代には朝廷に猪を献上する猪甘(飼)部が居住したとされる。大正時代に朝鮮・済州島〜大阪の航路が開設されたことから移住が進み在日コリアンの集団居住地として定着。昭和48年の町名変更で猪飼野の地名が消えた。

131よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/11(水) 18:22:05 ID:u6OcHqbg0
【老舗そば屋の碑】 江戸のツルッ 大阪生まれ
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201105090053.html
 そばは東京、大阪はうどん。そんなイメージ、ありますよね。でも実は、江戸の老舗そば屋のルーツが大阪にあるって知っていますか? その「証拠」が大阪市西区新町2丁目の公園に立つ「ここに砂場ありき」と書かれた石碑。子どもが遊ぶ砂場じゃありません。これこそ、今に続く江戸のそば屋で最も長い歴史を持つ「砂場」のことなんです。

 起源は大阪城築城の時にさかのぼる。この辺りは砂利などの資材が置かれ「砂場」と呼ばれていた。「和泉屋と津国(つのくに)屋という2軒のそば屋が『砂場』の呼び名で繁盛してたんです」。そう教えてくれたのは遠く離れた東京都港区にある「虎ノ門砂場」の5代目稲垣隆一さん(72)だ。「そばがはやり始めた江戸に和泉屋ゆかりの者が移り、砂場の暖簾(のれん)を掲げたと聞いてます」。稲垣さんは現在136店が加盟する暖簾会「砂場会」の会長でもある。

 「蕎麦(そば)屋の系図」などの著書があるそば研究家の岩サキ信也さん(サキは「崎」の右上が「立」)によると、様々な人が集まった江戸は職人ら独身男性も多く、つるっと食べられるファストフードとしてそば屋は広がった。中でも有名な「糀町七丁目砂場藤吉」から、1872(明治5)年に暖簾分けされたのが今の虎ノ門砂場なのだそうだ。

 取材の日も70代とおぼしき男性3人が銚子(ちょうし)を傾け、「あの人はねえ、いい女だったよ」なんて話してる。昼間からそば屋で一杯というのが何とも乙だ。勝海舟や山岡鉄舟もなじみだったというから、同じように楽しんでたのかも。自分も一つと、もりそばを食べてみると、細くて白いそばに甘めのつゆがよく合う。「そばは職人に打たせても、つゆは代々店主が作る」と稲垣さん。「大阪発祥の味が江戸の食文化として花開いた、いわば東西合作だと思います」

 大阪のそば屋誕生400年を記念し、大阪府麺類食堂業生活衛生同業組合が1985年に建てたのが、あの石碑だ。「原点は大阪ってこと。誇りを感じます」と組合の前理事長で「民芸そばしのぶ庵(あん)」(大阪市北区)の大橋エイ二さん(エイは金へんに「英」)(73)は言う。

 最近は大阪の若手も老舗に負けてない。「なにわ翁(おきな)」(大阪市北区)の勘田拓志さん(40)は28歳で店を継いだ時、ほれ込んだ店で修業し、機械製麺からすべて手打ちに切り替えた。練ったそば粉を伸ばす手さばきはよどみなく、切り終えた麺は厚みも幅も1.3ミリほどにそろう。

 麺をかむと、心地よい歯ごたえとともにそばの香りが口の中に広がり、かつおだしをきかせたつゆがそばを引き立てる。さすがミシュランで2年連続星を獲得した味だ。「熱心な若手が増え、大阪のそばはレベルアップしてる。東京の人は粋(いき)を重んじるけど、味は大阪の人の方が厳しいと思いますから」と勘田さん。

 そうそう、やっぱり食は大阪ですよね。そのうち、そばの本場と言われる日がやってくるかも!?(石村裕輔)

    ◇

■推薦

 旅行作家 高木美千子さん(77)

 東京の人も感動してますよ  

 ちょっとのつもりで東京から関西に引っ越したはずが、もう37年。グルメ紀行をたくさん書いてきましたが、関西の味ってやっぱり奥行きがありますよね。関西人の味覚ってすごいと思います。もちろん行きつけのそば屋も何軒か。脱サラ組や2代目の若手がけっこう頑張ってて、東京の人を連れて行っても、おいしいって感動してますよ。いまや東京のそばをしのぐ勢いじゃないでしょうか。

    ◇

 〈メモ〉 虎ノ門砂場=東京都港区虎ノ門1の10の6、電話03・3501・9661。なにわ翁=大阪市北区西天満4の1の18、電話06・6361・5457。

132よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 06:11:27 ID:u6OcHqbg0
蓮如上人の功績「四幅御絵伝」公開 久宝寺御坊顕証寺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110512-OYT8T00092.htm

 浄土真宗本願寺派・久宝寺御坊顕証寺(八尾市久宝寺)が、同寺を建立した蓮如上人の功績を描いた「蓮如上人四幅御絵伝(しふくごえでん)」を13年がかりで完成させ、11日の河内蓮如忌法要で初公開した=写真=。

 近松照俊住職(61)が発案し、東西本願寺の学者らが絵柄を話し合い、京都の宮絵師・安川如風氏に絵伝の製作を依頼した。絵伝は4幅の掛け軸で、1幅の大きさ縦2・1メートル、横1・4メートル。蓮如上人が誕生から成長していく様子のほか、村人に説法したり、荼毘(だび)に付され阿弥陀如来となったりする場面などが描かれている。吉野や堺の港などの風景も登場する。

 この日、本堂の余間に絵伝がかけられると、門徒ら約300人が手を合わせ、完成を喜んだ。同寺は今後、法要に限り公開するという。近松住職は「念願の絵ができあがってうれしい。たくさんの人々に蓮如上人の心が伝われば」と話していた。

(2011年5月12日 読売新聞)

133よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 06:15:13 ID:u6OcHqbg0
住吉大社御鎮座千八百年記念大祭 5月12日(木) 11:00
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

同 舞楽   14:00 於:石舞台  奉仕:天王寺楽所雅亮会

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。


■奉祝行事
5月12日(木) 花柳流日本舞踊 於:第一本宮  12:30〜 
 花柳與桂一門による華麗な日本舞踊が奉納されます。(主な出演 花柳與桂・花柳與)

134名無しさん:2011/05/12(木) 18:23:47 ID:K5kJDM.c0
>>129
>継がれる「白雪」 住吉大社で神馬代替わり 大阪

アルビノ種が尊重されると聞いて、
ファイブスターストーリーズを思い出しました。
主人公がそれなので。
(名がアマテラスなのは偶然??)

マンガアニメに興味のない方、すみません。

135よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 19:57:08 ID:rfNnB/Go0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/206 本町橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110512ddlk27070411000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇「大阪最古」の貫禄 川の流れは秀吉時代のままに
 西町奉行所跡を後にして、東横堀川へと戻る。さきの天野屋利兵衛の碑の南、高速道路の出口付近に井原西鶴の文学碑が建っている。1972年に大阪北浜船場ライオンズクラブが建てたもので、「日本永代蔵」の冒頭の一節が刻まれている。

 「金銀こそ命の親と呼ぶべきものだ。だが、人の命はどうなるかわからない。死んでしまえば金銀も役に立たないが、残しておけば子孫のためになる。金銀の力でかなわないことは天下に五つしかない」

 大要、こんなところだろうか。経済小説の元祖だけあって、冒頭からお金のありがたさを説く。ちなみに、金の力でかなわぬ五つに「生・老・病・死・苦」を挙げている。いずれも生き死ににかかわることで、これ以外は金でどうとでもなる、ということだ。それもこれも、よっぽどの大金持ちの話。わたしらにゃ関係ないわな。

 なんて、くだらぬことを考えていたら、碑の陰から猫がじーっとこっちを見ていた。なんだか頭の中を見透かされてるようで、早々に退散。

 大阪案内人の西俣稔さんが、安土町の町名表示板を指して「近江の安土の人が移住したからなんですが、そもそも、安土のいわれは……」。もともとは目賀田山という土地だったが、織田信長はこの地名を嫌った。近くに安土という名の寺を見付け、土地を安んじるとは天下統一に通じると、自らの力を誇った城に安土城と名付けた、という。「信長の支配がなければ、ここは目賀田町になってたんです」

    ◇

 しばらく南へ歩けば本町橋だ。「現存する大阪最古の橋です」と西俣さん。1913(大正2)年に架けられた。ルネサンス風の石造りの橋脚など、なかなかに趣があって、貫禄を感じる。

 そもそもは、東横堀川が開削された時に架けられたとされていて、江戸時代は大坂に12しかなかった、幕府が直接管理する公儀橋だった。「北御堂(西本願寺津村別院)の参道としてにぎわってました」という橋は、今は本町通となっていて、ひっきりなしに車が行き来する。

 本町橋の上で足を止めた西俣さん、東横堀川の下流(南側)を眺めて、「川が左側に曲がってるのがわかるでしょ。これが本町の曲がり。江戸時代から、そう呼ばれてるんです」。確かに、流れが大きく湾曲している。

 「豊臣秀吉が1585年に東横堀川を開削した時、まっすぐに開削すると、浄国寺というお寺にぶちあたってしまうので、秀吉が『寺までつぶすな』と命じ、お寺を避けて曲がったという説があります」

 川の上を阪神高速環状線が通っており、高速道路も川の流れに合わせてカーブしている。「高速を通るドライバーがここでハンドルを切るわけは、秀吉にあるんです。そう考えたら、今と昔、420年以上の時のつながりを感じますね」

 そこまで考えてハンドルを切ってるドライバーがどれくらいいるか。歴史を知れば、見慣れた風景も違って見えてくる。【松井宏員】

136よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 19:58:46 ID:rfNnB/Go0
2011年5月12日
住吉大社1800年 大祭1800人参列
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/12/20110512-052683.php

 住吉大社(大阪市住吉区)で12日、神功皇后が住吉大神を祭った鎮座から1800年を祝う記念大祭が開かれ、歌舞伎役者の市川團十郎さんら約1800人が参列した。

 本殿の第一本宮(国宝)で、真弓常忠宮司が祝詞を奏上。太陽などをかたどった飾りを頭に着け、舞衣をまとった巫女(みこ)8人が平安時代から伝わる神楽「白拍子」と「熊野舞」を奉納した。

 住吉大社は神功皇后が211年に住吉大神を祭り創建したとされる。飛鳥、奈良時代の遣隋使や遣唐使も派遣時に祈願した歴史を持ち、これまで航海安全や和歌、農耕の神として信仰を集めてきた。24日まで、稚児行列や日本舞踊、神楽の奉納など奉祝行事が行われる。

137よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 20:01:17 ID:rfNnB/Go0
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録目指し 橋下知事ら本部会議
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/12/20110512-052682.php

 世界文化遺産の国内候補「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録を目指し、大阪府の橋下徹知事ら関係自治体首長による「登録推進本部会議」の初会合が12日、大阪市住之江区の府咲洲庁舎で開かれた。平成27年の登録実現に向けた最短のスケジュールなどが確認された。

 会長に就任した橋下知事は「世界遺産は京都にも奈良にも和歌山にもあるが大阪にだけない。登録に向けともに頑張りましょう」とあいさつ。各市が検討しているガイダンス施設建設についても「府でも予算を組んで応援したい」と意気込みを示した。

138よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 20:03:16 ID:rfNnB/Go0
■推進会議 仁徳天皇陵などを世界遺産へ
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110512111300455462.shtml

 大阪・堺市にある仁徳天皇陵などの古墳群の世界遺産を目指す会議が12日発足し、5年後の登録に向けて景観整備やPR活動を進めていくことなどが話し合われました。

 会議には古墳群のある地元の市長のほか、大阪府の橋下知事も参加しました。

 仁徳天皇陵や応神天皇陵などおよそ90基の古墳が集まる百舌鳥・古市古墳群は、去年10月に世界文化遺産の暫定リスト入りを果たし、大阪初の世界遺産実現に橋下知事も期待を寄せています。

 「京都・奈良・兵庫・和歌山も世界遺産があるが、大阪だけ無い。なんとか大阪に世界遺産を実現したい」(大阪府 橋下徹知事)

 ただ、周囲で宅地開発が進み「景観がそぐわない」という指摘もあり、会議では今後、5年後の登録を目指して景観整備やPR活動などをする予定です。
(05/12 12:36)

139名無しさん:2011/05/12(木) 20:25:35 ID:6V189dAY0
鳥取も徳島も
きっとメディアには紹介されない遺産があるはず

大阪が通ったあとで良いので
広域連合の他県にも協力してくれるとありがたい。

140よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 21:35:06 ID:rfNnB/Go0
古墳群 世界遺産へ推進本部
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005819681.html

「仁徳天皇陵」として宮内庁が管理している古墳を含む大阪の「百舌鳥・古市古墳群」をユネスコの世界遺産に登録しようと、大阪府が地元の3つの市とともに、きょう推進本部を設置しました。
「百舌鳥・古市古墳群」には、堺、羽曳野それに藤井寺の3つの市にまたがって大小87の古墳があり、去年、文化庁の文化審議会の審議を経て、世界遺産への登録候補の暫定リストに記載されました。
大阪府の咲洲庁舎で開かれた推進本部の初会合には、府と地元の3つの市の代表が出席し、橋下知事が「世界遺産登録まであと一歩まできている。府と市が一丸となって登録の実現に向けてがんばりたい」と述べました。
推進本部は平成27年の登録を目指し▼登録に向けた推薦書の作成などを進めるほか▼英語やフランス語など5か国語のリーフレットを作成したり、国際シンポジウムを開いたりして、情報を発信することにしています。

05月12日 15時55分

141よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 06:16:02 ID:rfNnB/Go0
海の神へ神楽の舞 住吉大社1800年大祭、團十郎さんら1800人参列
2011.5.12 12:28
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110512/art11051212340002-n1.htm

 住吉大社(大阪市住吉区)で12日、鎮座1800年を祝う記念大祭が開かれ、歌舞伎役者の市川團十郎さんら約1800人が参列した。

 本殿の第一本宮(国宝)で、真弓常忠宮司が祝詞を奏上。太陽や月、松などをかたどった飾りを頭に着け、舞衣をまとった巫女(みこ)8人が、平安時代から伝わる神楽「白拍子」と「熊野舞」を奉納した。

 住吉大社は神功皇后が211年に住吉大神をまつり創建したとされる。飛鳥、奈良時代の遣隋使や遣唐使も派遣時に祈願した歴史を持ち、これまで航海安全や和歌、農耕の神として信仰を集めてきた。

 24日まで、稚児行列や日本舞踊、神楽の奉納など奉祝行事が行われる。

142よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 06:18:55 ID:rfNnB/Go0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月13日(金) 住吉能  於:吉祥殿  18:00〜  ※前売7,000円 当日8,000円
 大槻能楽堂による能「翁」・狂言「末広がり」・半能「高砂」が奉納されます。
清元流浄瑠璃・三味線  於:第一本宮  15:00〜

143名無しさん:2011/05/13(金) 06:46:30 ID:dvmzlZlE0
実際の歴史はどれくらいなんでしょうね。

大和系でも出雲系でもないようだから
ひょっとすると現存する神社の中では最古ということもありうるのでしょうか。

144よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 19:18:34 ID:HK.8nYc20
住吉大社:伝統守り先人に敬意 鎮座1800年、1800人参列し記念大祭 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110513ddlk27040342000c.html

 「すみよっさん」で親しまれ、海の神を祭る住吉大社(大阪市住吉区)で12日、鎮座1800年を祝う記念大祭が開かれた。約1800人が参列し、真弓常忠宮司は「伝統を守り伝えた先人に敬意を表したい」とあいさつした。

 住吉大社は211年、住吉大神がこの地に鎮座して創建されたとされている。この日は、天皇陛下の御幣帛(ごへいはく)(神前に供える物)が国宝の第一本宮に納められたほか、巫女(みこ)が舞を奉納した。

 東日本大震災の影響で祝賀行事の中止も検討されたが、「関西から日本を元気付けることにもなる」と判断し、開催を決めたという。祝賀行事は24日まで。能の披露、稚児(ちご)行列などを予定している。【山田尚弘】


「すみよっさん」と共に 住吉大社1800年大祭
2011年5月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110513/20110513021.html

 鎮座1800年の記念大祭が12日開かれた大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)。大祭には、歌舞伎俳優の市川団十郎さんら約1800人が参列し、いにしえから続く「すみよっさん」の節目の年を祝った。

 住吉大社は神功皇后摂政11年の年である211年に鎮座したと伝えられる。本殿は「住吉造」と称せられる古代の様式で造られ、国宝に指定されている。毎年、5月に創立を祝う神事が行われている。

 大祭では、真弓宮司が祝詞を奏上し、8人のみこが舞や神楽を奉納。式典の後には創立を祝う「卯(う)の葉神事」の舞楽や花柳與桂(よか)社中による日本舞踊の奉納も行われ、祝祭に花を添えた。

 真弓宮司は「住吉大社の歴史は大阪の歴史と共にある。海上守護の神様として親しまれ、まさに水都大阪の守護神。浪速の心のふるさとというべき当社が節目の年を迎え、預かる立場として重責を感じている」と話していた。

 奉祝行事は、13日の住吉能や15日の稚児社参(行列)など24日まで行われる予定。

145よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 19:21:33 ID:HK.8nYc20
天神祭の奉納花火は7月25日 協賛金一部を義援金に
2011年5月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110513/20110513022.html

 日本三大祭りの一つに数えられる「天神祭」の実行委員会の初会合が12日、大阪市北区の天満宮会館で開かれた。本年度の行事計画として7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、奉納花火を斎行することを決めた。奉納花火の個人協賛金の一部が、東日本大震災の義援金に充てられる。

 同祭渡御行事保存協賛会の役員をはじめ、大阪天満宮の寺井種伯宮司、氏子総代ら関係者約70人が出席した。

 冒頭、あいさつに立った同実行委員会の京極俊明委員長は、東日本大震災の犠牲者に哀悼の意を表すとともに「自粛ムードもあったが、頑張ろう日本の合言葉のもと、経済の活性化の展開も見られる」と訴え、寺井宮司も「祭りを斎行させていただきたい」と呼び掛けた。

 会合では陸渡御や船渡御などの行事計画が承認された。奉納花火は25日夕に大川沿いの造幣局東側と対岸の桜宮公園の2カ所で行い、計3千発を打ち上げる。昨年、奉納花火の個人協賛は1発5千円で受け付けていたが、今年は5500円とし、500円が東日本大震災の義援金に充てられる。

146名無しさん:2011/05/13(金) 20:02:37 ID:JDOi1VM.0
>>143
創建が非常に古い神社は、実際の歴史は不詳というのが事実です。神話上の人物
が創建者にされているのが特徴です。

ひとつ言えることは、神道は原始的なアニミズムの宗教であり、自然物が御神体です。
三輪山を御神体とする奈良の大神神社などはこれを今に継承しており、拝殿はあっても
本殿はありません。

147よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 00:03:40 ID:HK.8nYc20
非常に古い歴史を誇る大阪。
今、灯り煌く超高層ビルもその悠々たる歴史の流れの一部であります。

住吉大社創建1800年、という歴史がありながら、今も成長を続ける大都会・大阪らし話題です。


「キタ」エリア写真コンテスト−入選作を「うめきた」工事現場に展示
http://umeda.keizai.biz/headline/1055/

 芝田商店会と大阪市北区活性化協会が「キタ」エリアの風景写真を募集した「キタの、むかし・いま・みらいを、感じる写真コンテスト」入選作品が決定し、5月9日より「うめきた」の工事現場仮囲いフェンスに作品が展示されている。

 昨年より地域活性化のための事業を検討してきた芝田商店会、大阪市北区活性化協会、大阪市立大学大学院創造都市研究科の3者。芝田商店街のある梅田周辺は、5月4日に開業した大阪ステーションシティや建て替え工事中の阪急百貨店、開発中の「うめきた」など、大規模再開発事業により街が変化していくことから「そうした風景を写真に残したいという思いから、地域活性化を兼ねて誰もが参加できる写真コンテストを開催しよう」と作品を募集した。

 作品は3月21日〜4月25日の約1カ月間、メール応募のみで受け付け。高校生から60代まで幅広い層から約500点の応募があった。「どの場所なのかがわかる写真」を第一の基準として絞り込み、テーマ別に懐かしさを感じさせる「芝田商店会賞」、刻々と変わる今を表現した「北区商業活性化協会賞」、未来を感じさせるワクワクするような「創造都市賞」、高校生以下を対象にした「フレッシュ賞」と最優秀作品賞、佳作を決定した。

 最優秀作品賞は、ハービスOSAKAを撮影した山田新太郎さんの作品が受賞。選考委員らは「未来的なタッチであるのにもかかわらず、今が鮮やかに表現されている点を評価した」という。最優秀作品賞を始めとする10点の入賞作品は、ノースゲートビルディング北側の工事現場仮囲いフェンスに展示している。

 担当者は「応募作品を拝見していると予想以上に多くの方がキタに愛着を持っていることが伝わる作品がたくさんあった。工事現場仮囲いフェンスという珍しい展示場所も話題を呼んでいるようで、地域活性につながれば」と話す。

 展示は今月20日まで。

148よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 00:20:10 ID:HK.8nYc20
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月14日(土) 神楽まつり  於:吉祥殿
  9:00〜 埼玉県大宮住吉神社神楽保存会   13:00〜 島根県万九千社立虫神社神楽保存会
蟇目の儀 百々式(ひきめのぎ ももてしき)  於:神館  11:00〜
  小笠原流弓道術礼法が行われます。
清水 玲子 ヴァイオリン演奏  於:第一本宮  14:00〜

149よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 17:09:21 ID:BoHn9/Pk0
江戸期の大阪町人「ささいな楽しみ」風俗画展
2011年5月14日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105130117.html

江戸時代の大坂町人の生活や文化にまつわる風俗画や錦絵など約100点を集めた企画展「なにわの遊・楽―芝居・祭り・花暦―」が大阪市北区天神橋6丁目の「大阪くらしの今昔館」で開かれている。

 祭りのにぎやかな様子を描いた生田花朝(いくたかちょう)の風俗画「十日戎」や住吉大社の御田植祭をみやびな色彩で描いた菅楯彦(すが・たてひこ)の風俗画「住吉御田」のほか、庶民の1年間の暮らしを1枚のびょうぶに描いた「大坂月次図屏風(おおさかつきなみずびょうぶ)」などが展示されている。同館学芸員の深田智恵子さんは「大坂の町人たちが持っていた遊び心や日常のささいなことに楽しみを見いだしていた様子を感じてもらえたら」と話す。

 29日まで(16、17、24日は休館)。入館料は企画展のみ300円、常設展と企画展は一般800円、高・大学生500円。問い合わせは同館(06・6242・1170)へ。(池畑聡史)

150よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 22:55:40 ID:BoHn9/Pk0
鎮座1800年 祝福の舞…住吉大社
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110514-OYO1T00534.htm?from=newslist

「すみよっさん」の愛称で親しまれ、今年で鎮座1800年を迎えた住吉大社(大阪市住吉区)で14日、祝賀行事の一つ「神楽まつり」が開かれた。同じ住吉大神を祭る大宮住吉神社(埼玉県)の神楽保存会のメンバーらが、笛と太鼓に合わせて舞を奉納した。

 住吉大社は211年にできたとされ、交易や産業振興に関係が深い海の神様が祭られている。

 お参りに来た近所の無職、大槻孝之さん(69)は「長い歴史を思うとしみじみとする。これからも末永く大阪の街を見守ってほしい」と話した。

 祝賀行事は24日まで開かれ、15日には子ども約300人による「稚児行列」や「住吉踊(おどり)」などが行われる。

(2011年5月14日 読売新聞)

151<削除>:<削除>
<削除>

152よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 23:02:57 ID:BoHn9/Pk0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月15日(日) 1800年を奉祝する神賑行事が終日行われます。

9:00〜 埼玉県大宮住吉神社神楽保存会   
13:00〜 島根県万九千社立虫神社神楽保存会
蟇目の儀 百々式(ひきめのぎ ももてしき)  
於:神館  11:00〜
   小笠原流弓道術礼法が行われます。
清水 玲子 ヴァイオリン演奏  於:第一本宮  14:00〜
稚児社参  10:00吉祥殿出発、住吉公園を経て第一本宮参拝。
※参加には事前申し込みが必要です。
江戸芸かっぽれ  
於:絵馬殿、浅沢社、五月殿、第一本宮  10:30〜
青山太鼓保存会  於:第一本宮  11:00〜
鈴木 哲也 声楽・筝曲  於:第一本宮  11:30〜
住吉踊  於:第一本宮  12:00〜
清々神楽  於:第一本宮  13:00〜
風流武者行事  於:第一本宮  13:40〜
神田代舞  於:第一本宮  14:00〜
田植踊  於:第一本宮  14:20〜
遊輝座 創作舞踊劇「住吉大社絵巻」  
於:第一本宮  14:30〜
平野地車囃子  於:第一本宮  15:30〜
畑 美枝子 オペラ  於:吉祥殿  17:00〜

153よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 23:06:46 ID:BoHn9/Pk0
道明寺天満宮
http://www.domyojitenmangu.com/kenko.shtml

献香祭 平成23年5月15日(日) 午前10時30分

泉山御流法印鳥休庵西際好誉宗匠によるお献香です。
 香道を今に伝える泉山御流のお香を神前に供えます。
 献香祭はどなたでも見学していただけます。

154よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/15(日) 21:32:05 ID:H4kchipU0
だんじり祭 動きや表情伝える 岸和田で写真展
2011年5月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110515/20110515030.html

 大阪府岸和田市北町のイベントスペース、かじやまち亭で14日、約300年の歴史を持つ地元の「だんじり祭」の様子を撮影した写真展が始まり、9、10月の祭礼に向けてムードが高まりつつある。5月の展示は15日まで。

 岸和田市内のデザイン制作会社、ステージクリエイツが開いた展示会で、入場無料。A4判サイズ約200枚を張り出し、だんじりを引く祭り人の動きや表情を伝えている。

 だんじりが一瞬にして方向転換する「やりまわし」のスピード感は映像で紹介し、会場となった和室の空間は祭り談議を楽しめる。

 地元ではだんじりの新調、修理に伴う入魂式が徐々に始まるシーズンを迎え、同社代表社員の松阪広太さん(30)は「だんじりが動きだすので、6月以降も毎月第4土日曜に写真を展示したい」。祭り人を撮影した同社の古坊健一さん(32)は「だんじりでは彫り物が注目されるけど、300年の伝統は町の人が中心になってやり続けているから」と話していた。

155よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/15(日) 21:33:34 ID:H4kchipU0
2011年5月15日
歴史にイチゴに"ごちそうさま" 大阪・泉佐野
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/15/20110515-052794.php

 地域の歴史を学びながら季節の味覚を楽しむイベントが、泉佐野市内で開かれ、約20人の観光客らがイチゴ狩りを楽しんだ=写真。

 泉佐野観光ボランティア協会(吉野勝会長)の主催。南海羽倉崎駅前に集合した一行は、同協会の井澤喜一郎副会長らから、第二次大戦中に同駅から東南側一帯に陸軍明野飛行学校佐野分教所(佐野飛行場)が造成され、広さは約300ヘクタールあったことなどの歴史を学び、正門の門柱などゆかりの場所を見学。

 このあと、同市長滝のイチゴ園でイチゴ狩り。参加者らは、真っ赤に熟したイチゴをほおばり、旬の味わいに満足げな様子だった。

156よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/15(日) 21:56:37 ID:H4kchipU0
大阪View:堺の伝統、はさみ鍛冶 日本刀の技術生かす /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110515ddlk27040203000c.html

 ◇玉鋼使用し、さびにくく フランスで個展、世界へ発信
 堺市堺区に江戸末期の1867年から植木ばさみや花ばさみを作り続けている鍛冶屋がある。「佐助」の5代目、平川康弘さん(60)は、はさみ職人としては数少ない国の伝統工芸士として技術を守りながら、フランスで個展を開くなど海外への普及にも取り組んでいる。【小松雄介】

 はさみの製造で最も難しいのが、硬い鉄を使った刃の部分と軟らかい鉄を用いた本体を合わせる「刃金(はがね)付け」と呼ばれる工程。熱せられた鉄が金づちでたたかれた瞬間、「バーン」という大きな音とともに火花が飛び散る。

 平川さんははさみ鍛冶の道に入って30年以上がたった50歳の時、日本刀の伝統技術を取り入れようと刀匠に弟子入りし、5年間修業を積んだ。日本刀の材料である「玉鋼(たまはがね)」を使用したはさみ作りに挑戦している。「はさみという実用品の中にこそ、日本の技術を残したい」と話している。

 作業場の見学も可能。問い合わせは佐助(072・233・6812)。

157よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/17(火) 00:20:29 ID:YYZfq7mQ0
稚児行列:福島から避難の兄弟も晴れ姿 大阪・住吉大社
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110516k0000m040154000c.html

 東京電力福島第1原発の事故で福島県富岡町から堺市に避難中の兄弟が15日、住吉大社(大阪市住吉区)の誘いで創建1800年記念の稚児行列に参列した。津波で祖父らを亡くし、家が警戒区域となるなど、混乱続きの2カ月。父母は2人の晴れ姿に目を細めながら「古里や地震のことは忘れてほしくないが、大阪での新生活を切り開く第一歩にしてほしい」と期待した。

 小学4年の新田光覇(こうは)君(9)と、幼稚園年長組の来覇(らいは)君(5)。地震による津波で、南相馬市に住んでいた祖父と曽祖母を失った。家は亀裂が入った程度だったが、原発から約7キロしか離れておらず、地震発生の翌日から避難生活が始まった。親族宅などを転々とし、先月6日、ようやく堺市営住宅に落ち着いた。

 大阪府内での暮らしも1カ月を超え、兄弟の言葉には「分からへん」「ちゃう(違う)」と早くも関西弁が交じる。いつも元気いっぱいだが、時折、母恵理さん(30)に「いつ富岡に帰るの?」「僕の家はあるよね?」と尋ねる。富岡町が立ち入り禁止になる前日の先月21日、父英希さん(33)と恵理さんが一時帰宅。持ち帰った幼稚園の集合写真を見た途端、来覇くんは声も出さないまま、涙をボロボロこぼしたという。

 住吉大社は、「少しでも元気を、また大阪の楽しい思い出を作ってほしい」と一家を招待した。行列には約300人の子どもとその保護者らが参加。一家は行列の先頭に立ち、約1キロを歩いた。

 金の烏帽子(えぼし)の稚児装束に身を包んだ2人は「先頭を歩けて気持ちよかった」「歩くのは疲れたけど、楽しかった」と、晴れやかな表情。恵理さんは、「津波で亡くなったおじいちゃんやひいばあちゃんに、晴れ姿を見せてあげたかった」とつぶやいた。

 一家の居住期限は1年の約束というが、恵理さんは「富岡町の復興は何一つ進んでいない。いずれは戻りたいが、1年では無理。福島に帰るまで住めれば」と話していた。【深尾昭寛】

158よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/17(火) 18:25:57 ID:/pXicHq.0
国産木綿復活探る 21日にコットンサミット
2011年5月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110517/20110517024.html

 綿花の栽培や国産綿の製品化に取り組む市民団体、企業が一堂に会する「全国コットンサミット」が21日、岸和田市の浪切ホールで開かれる。地域再生や環境保全を背景に機運が高まる国産木綿の復活に向けた方策を地域間交流を通して探る。

 戦国時代に始まった木綿の栽培は江戸時代に各地に広がり、綿紡績や綿織物などの繊維産業の発展が日本の近代化を推進する原動力になったが、その後、木綿の栽培は減退し、国外に依存している状況が続く。

 そこで、「和泉木綿」の伝統を受け継ぐ大阪・泉州地域の岸和田市を会場に約40の団体・企業の代表が集い、失われた機械技術の再生、新製品の創造、販路の確保などの課題の克服を目指す。

 当日は、サミットを開く実行委員会の代表を務める大正紡績(阪南市)の近藤健一営業部長が、注目を集める有機栽培の綿「オーガニックコットン」をめぐる業界の動きや国内綿花栽培の可能性も紹介する。

 国産木綿の復活について、実行委事務局次長の木村元広さん(62)=岸和田市立図書館職員=は「個々の地域、企業が連携することでうまくいく」と話す。サミットはその試金石になる。

159よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/17(火) 19:30:11 ID:/pXicHq.0
2011年5月17日
草創期の新聞 情報伝達はいかに 歴史博物館で展示会
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/17/20110517-052878.php

 新聞草創期の明治前期に大阪で刊行された新聞を集めた「大阪の新聞展」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。テレビもインターネットもない情報入手が困難だった時代に、新聞がいかに市民に情報を伝達していたかがうかがえ、興味深い。30日まで。

大阪で刊行 「東雲」創刊号や「此花新聞」…

 同展は大阪が歴史的に新聞発行のさかんな地域だったことから企画。会場には明治12(1879)年、発行の「朝日新聞創刊号」のほか、そのライバル紙として登場した「此花新聞」や明治中期に大阪で人気を博した、中江兆民主筆の「東雲(しののめ)新聞創刊号」などが並ぶ。

 「此花新聞」の題字の背景には大阪駅や造幣局、天保山の灯台など大阪市街地の風景が描かれていたり、「浪華新聞」は青く染めた新聞紙を使っていたり、と当時の世相などをうかがい知ることができる。

 珍しいのは、明治40年4月に創刊された上町地域のローカル紙「大阪上町新聞」。毎月3号刊行の4面構成という紙面で、主に大阪市の旧東区(現中央区)内のさまざまな情報を記事とし、現在のバーゲンセールにあたる誓文払いの大安売り広告なども掲載されている。

 開館時間は午前9時半〜午後5時(入館は午後4時半まで)。火曜日休館。入館料は大人600円、高大生400円、中学生以下無料。

160よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/18(水) 22:56:47 ID:HSDAGjbA0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月19日(木) 裏千家献茶式  於:第一本宮  10:00〜 
       今日庵茶道裏千家大宗匠 千玄室による献茶が行われます。

161よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/19(木) 06:04:04 ID:HoQnRvJI0
千利休と与謝野晶子 テーマ施設
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110519-OYT8T00083.htm

 堺市は18日、旧市立堺病院跡地(堺区、1.1ヘクタール)に、堺出身の茶人・千利休=写真上、同市博物館提供=と歌人・与謝野晶子=同下、文化学院提供=をテーマにした文化観光施設を建設する基本計画案を発表した。2014年度にオープンし、年間15〜20万人の利用を見込んでいる。

 計画案によると、千利休屋敷跡と与謝野晶子生家跡に近い同病院跡地に、総事業費22億円で2階建て(延べ床2950平方メートル)の施設を建設。2人の生涯や業績を展示品で解説し、茶の湯の体験施設も設ける。南海本線堺駅や路面電車・阪堺線宿院電停に近い地の利を生かし、観光案内所も置くほか、敷地内に民間の土産物店や飲食店も誘致する。

 市は08年、同様のテーマでのホテル併設型施設を目指し、運営する民間事業者を公募する方針を打ち出したが、景気低迷の影響で断念し、市主導の計画とした。

 竹山修身市長は、この日の記者会見で「修学旅行やアジアの国々の観光客を呼び込みたい」と話した。

(2011年5月19日 読売新聞)

162よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/19(木) 19:50:18 ID:mkCZHmh20
国内最古のコウノトリ足跡と判明…大阪の遺跡 水田跡
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110519-OYO1T00170.htm?from=newslist

「幸福の鳥」弥生人と生きる

大阪府東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代前期(約2400年前)の水田跡で見つかった鳥の足跡が、コウノトリと判明し、奈良文化財研究所が18日、発表した。水田稲作が始まった頃から人と共生したことを示す発見で、同時代の祭器・銅鐸(どうたく)に描かれた鳥もコウノトリの可能性が高まった。専門家は「農耕祭祀(さいし)の中で人々の信仰を集めた鳥だったのでは」とみている。

 これまでは群馬県内で出土した6世紀の足跡が国内最古だったが、今回はさらに約900年さかのぼる。同遺跡は1996年に大阪府文化財センターが調査。洪水で埋まった水田跡で鳥の足跡数十個と、人の足跡約100個を確認した。

 その後、鳥の足跡1個を石こう型に取り、同研究所に鑑定を依頼。しばらく特定できなかったが、兵庫県立コウノトリの郷(さと)公園(豊岡市)や山階(やましな)鳥類研究所(千葉県我孫子市)も分析に加わり、▽足跡の大きさが約15センチと大型▽サギに比べて指が太い▽指の間が広い――などの特徴からコウノトリのものと判定した。同遺跡の他の鳥の足跡も写真鑑定の結果、コウノトリの特徴と共通していた。


 一方、銅鐸については神戸市出土の桜ヶ丘銅鐸(国宝)などのように、胴部に首と脚の長い鳥が描かれている例があり、従来はサギかツルとみられていた。

 今回の成果を踏まえ、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長は「水田稲作の初期段階からコウノトリが人の身近な存在だったことは明らか。大柄で美しい鳥を、祭祀や信仰の対象として銅鐸に表現したのでは」と指摘する。

 足跡の石こう型は21日〜7月3日、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開かれる春季企画展で展示される。問い合わせは同館(0725・46・2162)。

 コウノトリ 体長約1メートル、翼長約2メートルになる大型の鳥で、シベリア東部などで繁殖する。日本では国の特別天然記念物に指定されたが、野生は1971年に絶滅。85年、旧ソ連からヒナを譲り受けて兵庫県豊岡市で人工飼育、2005年から野外に放している。現在、放鳥19羽、野外で生まれた幼鳥21羽が生息。市では無農薬、減農薬農法で餌場づくりを進めており、農作業中の人の近くで餌をついばむ姿も見られる。

(2011年5月19日 読売新聞)

163よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:01:48 ID:mkCZHmh20
コウノトリ:国内最古の足跡 「弥生時代、人と共生」−−大阪
http://mainichi.jp/kansai/news/20110519ddn041040008000c.html

 奈良文化財研究所(奈良市)は18日、池島・福万寺遺跡(東大阪市、大阪府八尾市)にある弥生時代前期後半(約2400年前)の水田跡から96年に見つかった鳥の足跡がコウノトリのものだったと発表した。これまで、前橋市で6世紀のコウノトリの足跡が発見されているが、今回の足跡が国内最古となる。

 足跡は長さ約15センチ、幅約12センチで、約100個が人間の足跡と混在して出土した。足跡が付いた直後に洪水で砂が流入したため風化せず、保存状態が良かった。鳥の種類が分からなかったが、奈文研の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)が昨年、兵庫県立コウノトリの郷公園(同県豊岡市)の獣医らに足跡の石こう型を見せ、大きさや形がコウノトリの特徴と一致することが判明。今年3月に山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)に照会し、特定した。

 ◇銅鐸モデルか
 松井センター長は「弥生時代から人とコウノトリが共生したことを示す発見」と話し、全国各地で見つかった弥生時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥の絵のモデルがコウノトリである可能性も浮上した。

 弥生時代中期の「桜ケ丘5号銅鐸」(国宝、神戸市立博物館所蔵)には、くちばしと首と脚が長い鳥が描かれ、各地で出土した弥生時代の銅鐸にも同様の鳥が描かれている。80年代、ツルが稲穂を落とした場所で稲作が始まったとする穂落神(ほおとしがみ)の伝承を基にツル説が浮上。その後、魚をくわえた鳥の絵に着目し、サギ説が登場。魚を捕るのは夏鳥でなければならず、冬鳥のツルでは矛盾するという説だ。

 松井センター長は「コウノトリは体が大きく、目や脚が赤いので神々しい。弥生人にとって信仰の対象だったのでは」と推測する。

 足跡の石こう型や写真は21日〜7月3日、大阪府和泉市の府立弥生文化博物館で展示される。【高瀬浩平】

164よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:03:14 ID:mkCZHmh20
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/207 本町の曲がり /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110519ddlk27070401000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇渦巻く流れに地蔵堂 手ぬぐいと色町“同居”
 お寺を避けて東横堀川の川筋を曲げた「本町の曲がり」。そのお寺、浄国寺は東区史によると、いったん順慶町に移り、その後、現在地の天王寺区下寺町に落ち着く。この浄国寺には、名妓(めいぎ)とうたわれた夕霧の墓がある。

 無理に曲げたためか、曲がりは流れが渦を巻き、入水自殺する者が後を絶たなかったという。今は川の両岸に雑居ビルやマンションなどが建ち並び、付近にはホテルや大阪商工会議所などもあって、繁華な一帯だが、江戸時代は寂しい場所だったらしい。

 上方落語の「饅頭(まんじゅう)こわい」に「本町の曲がりにかけては、夜は人も通らん寂しいとこやったで」というセリフが出てくる。噺(はなし)はこのあと、曲がりのすぐ南の農人(のうにん)橋で、身投げしようとしている若い女と出会ってひともんちゃくあるのだが……。

 それはさておき、こうした身投げがあまりに多かったから、付近の町民が「これではたまらん」と、水難よけの地蔵堂を建てた−−。宮本又次さんの著作「船場」に、こんなくだりがある。

 曲がりのあたりの駐車場の奥、阪神高速の高架下の薄暗い所に、「曲がり渕地蔵尊」の地蔵堂がある。入り口には金網が張ってあって鍵がかかっている。近所のたばこ屋さんが管理しておられるというので訪ねてみたが、「取材も写真撮影もお断り」とけんもほろろだった。

 どうやら、亡くなった先代の大将がどこからか地蔵を見付けてまつったようだ。地蔵堂の金網越しに、その大将が記した由来書を見ると、97年に地蔵堂を建てたと思われる。地蔵さんが江戸時代からこの世にあるほど古いのかどうかは、地蔵堂に近づけないので確かめようがないが、大将が曲がりの歴史をよく知っていて、水難よけの地蔵を後世に残そうとしたのだろう。由来書の最後にはこうあった。「今後も人々から手厚く敬われることをお願いする次第である」

    ◇

 前に挙げた「船場」から、昔の曲がりの辺りを点描してみる。江戸時代は手ぬぐい染め屋が多く、干し場に手ぬぐいがたなびくのが、おなじみの風景だった。同書には、屋根の上の干し場に手ぬぐいが何十枚も垂れ下がって干されている大正時代末の写真が掲載されているから、江戸時代のみならず明治、大正時代まで、曲がりの代名詞だったようだ。

 また、明治維新前後は、松島に対して小松島と呼ばれる色町として栄えたというから、「饅頭こわい」からだいぶ時代が下って、様変わりしたようだ。安物の遊女が客を引いていて、曲がりは安物の遊女の意味でもあったという。出合い茶屋、いまでいうところのラブホテルもあって、手ぬぐいと色町が同居していたわけだ。想像するだに、なんとも奇妙な光景である。

    ◇

 本町通の1本南の通りで、大阪案内人の西俣稔さんが立ち止まる。細い通りを指して「鰻(うなぎ)小路と呼ばれてた通りです」。東署の裏手にあたり、東署の寮があって、警察車両が止まっている。堺筋の1ブロック手前までの200メートル足らずを歩いてみるが、ビルとビルに挟まれて、なんの変哲もない。

 「でこぼこがあるから、細長くてうねうねしてる地形がうなぎに似てると、名前が付いたんじゃないでしょか」と西俣さんが推測する。別名「絹張小路」といい、繊維と縁が深かった土地柄をうかがわせる。【松井宏員】

165よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:04:12 ID:mkCZHmh20
2011年5月19日
銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/19/20110519-052983.php

 池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。

 今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。

 同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。

 この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。

 神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。

 大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。

 一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。

166よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:14:44 ID:mkCZHmh20
2011年5月19日
国内最古 コウノトリの足跡 大阪府の池島・福万寺遺跡で発見
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/19/20110519-052947.php

 大阪府の東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代の水田跡から、国の特別天然記念物コウノトリの国内最古とみられる足跡が見つかり、奈良文化財研究所が18日、発表した。群馬県前橋市の元総社北川遺跡で古墳時代(6世紀)のコウノトリの足跡が確認されているが、西日本では初で、約900年さかのぼる発見となった。

 今回の発見で、絶滅が危惧されるコウノトリが約2400年前には人と共存していたと推定され、神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(どうたく)(国宝)など弥生時代の銅鐸に描かれた鳥が、これまで論争があったツルやサギではなく、コウノトリだった可能性も浮上した。

 足跡の石膏(せっこう)型は、21日から府立弥生文化博物館(和泉市)で公開される。

167よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:32:21 ID:mkCZHmh20
国内最古のコウノトリの足跡
http://www.nhk.or.jp/lnews/nara/2055878822.html

15年前、大阪・東大阪市の弥生時代の水田の遺跡から見つかった鳥の足跡について奈良文化財研究所が分析したところ、コウノトリの足跡であることがわかりました。絶滅のおそれがあり、国の特別天然記念物に指定されているコウノトリが当時は水田のフナなどを食べるために人里にいたことを示すもので、稲作が始まった当時の人と自然の関わりを示すものとして注目を集めています。
この遺跡は、平成8年に大阪・東大阪市から八尾市にかけて見つかった弥生時代の水田の跡の池島・福万寺遺跡です。
水田の跡から見つかった鳥の足跡がどういう種類の鳥かわからないことから、大阪府文化財センターが奈良文化財研究所に分析を依頼していました。
研究所では、鳥類の専門家に協力を得て日本で記録のある542種の鳥類を調査した結果、足跡の大きさや特徴から今からおよそ2400年前、国内最古のコウノトリの足跡であることがわかりました。コウノトリは当時、日本にたくさん生息し、水田にいたフナなどの小さな魚を食べるため人里におりてきていたと見られています。
弥生時代の銅鐸には鳥の絵が描かれたものが見つかっていて、分析をした奈良文化財研究所の松井章埋蔵文化財センター長は「銅鐸に描かれたのはコウノトリだ。弥生時代にはコウノトリが信仰の対象となっていた」と話しています。

05月19日 10時21分

168よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 01:03:06 ID:mkCZHmh20
弥生人の身近にコウノトリ 大阪の水田跡に最古の足跡
http://www.asahi.com/culture/update/0518/OSK201105180167.html

 大阪府東大阪、八尾両市の池島・福万寺遺跡で15年前に見つかった鳥類の足跡が、弥生時代前期(2400〜2500年前)のコウノトリのものと確認された。国内最古とされてきた前橋市の水田跡(6世紀)で見つかったものより、約900年さかのぼる。

 鑑定した奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)らが18日、発表した。数十個が人の足跡とともにまとまって出土したことから、弥生時代の銅鐸(どうたく)に描かれ、サギかツルとみられてきた鳥はコウノトリの可能性がある、とも指摘している。

 1996年に府文化財調査研究センター(現・府文化財センター)が、洪水に埋もれた水田跡(約400平方メートル)で数十個を確認。ほとんどが同じ種類の足跡で、長さ15.1センチのものをひとつだけ石膏(せっこう)で型どりした。

 松井さんが昨年、兵庫県立コウノトリの郷公園(同県豊岡市)から足型を借りて照合したところ、指の長さや太さなど特徴が一致。共同研究した山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)も、コウノトリの可能性が高いという結論を出した。

169よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 20:33:05 ID:P7bAtr1M0
見〜つけた一品:なつかしの甘食 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110520ddlk27040415000c.html

 ◆マルミベーカリー(南海・堺駅徒歩10分)

 ◇牛乳に浸して、とろん
 あ・ま・しょ・く。記憶の奥の方にあった名前を、久しぶりに引っぱりだしてきた気分。元気だったんだねえ。こんな言葉をかけたくなる。「懐かしがって買われる方が多いですね」と店主の春木淳一さん(49)。そんな話をしていたら、迷いもせずに、2パックを手にして、買っていくおばさんがいた。

 「特に変わった作り方ではないんですがねえ」(春木さん)。そこが郷愁をそそる。少しだけPRするなら、ケーキに使う上等な小麦粉を使用していることと、裏をしっかり焼いていること。こうして、密でしっかりした生地に仕上がっている。さてさて、食べ方は……。牛乳に浸して、とろんと軟らかくして食べるのが好き。我流かと思ったら、「もちろん、その食べ方ですよ」と春木さん。認知されていたんだ。

 昭和2(1927)年創業。看板商品の「ポルトガルパン」(250円)は、現地のレシピに忠実に作られ、軽めの食感でほのかな甘みがある。このほか、地元のちんちん電車の形をした「チン電パン」(350円)はバニラクリーム入り。どれも素朴さがいい。【三角真理】

==============

 280円(3個入り)。プレーン、紅茶、クルミの3種類。堺市堺区市之町東2丁1の8、電話072・232・1231。7〜19時。日曜定休。

 ■ひとこと

 毎月21日、四天王寺(大阪市天王寺区)の大師会(だいしえ)で露店の一つとして出店しています。

170よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 21:30:32 ID:P7bAtr1M0
育て伝統の「玉造黒門越瓜」 大阪の児童ら苗植え
2011年5月20日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105190091.html

 なにわの伝統野菜に認証されている「玉造黒門越瓜(しろうり)」を広めていこうと、大阪市中央区役所は18日、同区保健福祉センターで苗植え式を開いた。玉造黒門越瓜保存会員と同市立南大江小学校の4年生約60人が参加し、越瓜の苗10株を植えた。

 江戸時代、大阪城の玉造門付近で作られる越瓜が良質で、かす漬けが評判となり、玉造黒門越瓜と呼ばれるようになった。明治時代ごろから都市化の影響で作られないようになったが、2002年から玉造稲荷神社(同区玉造2丁目)を中心とした同保存会が普及に取り組んでいる。

 この日、子どもたちは同保存会の会員の助けを借りながら、同センター2階テラスの畑に10株の苗植えをし、「実がなったらまた見に来たい」などと話していた。7、8月には長さ約25センチ、太さ約10センチの瓜が収穫できるといい、同区役所は8月下旬に予定されている食育イベントで料理などに使う予定。(吉川喬)

171よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 22:20:32 ID:P7bAtr1M0
芥川龍之介「朝日新聞…一笑」書簡2通を発見 神経衰弱も綴る
2011.5.20 11:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110520/osk11052016060009-n1.htm

 小説家の芥川龍之介(1892〜1927年)が、大阪毎日新聞の学芸部長を務めた岡山県倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)に宛てた未発表の書簡2通が同市内で見つかっていたことが20日、分かった。

 ライバル紙への皮肉などを込めた内容で、倉敷市文化振興課は「当時の大新聞同士の事情や芥川の人間性がうかがえて興味深い」としている。

 1通は大正8(1919)年5月の封書。大阪毎日に入社直後の芥川がライバル紙の大阪朝日新聞の文人パーティーに招かれなかったことへの皮肉を述べたもので「招待された顔ぶれをみると(朝日の文芸担当である)柳沢の友だちが多いので一笑しました」と書かれている。

 もう1通は10年10月、海外視察員として中国旅行後に心身が衰弱した芥川が、療養していた神奈川県湯河原町から送った絵はがき。「神経衰弱は中々なほりません」「今度と云ふ今度は殆死ぬほどへこたれました」と、自殺の一因とされる神経衰弱に悩む心情がつづられている。

 平成20年に市に寄贈された泣菫の遺品を調査した岡山大大学院の西山康一准教授らが確認した。

172よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 22:24:57 ID:P7bAtr1M0
>>171

芥川の書簡見つかる
http://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023010261.html

作家の芥川龍之介が詩人の薄田泣菫に宛てた未発表の書簡が岡山県倉敷市で見つかり、当時の芥川の心境を知る貴重な資料として注目されています。
今回、見つかったのは作家の芥川龍之介が岡山県倉敷市出身の詩人、薄田泣菫に宛てて書いた未発表の書簡2通です。
芥川と交流があり、同じ大阪毎日新聞に務めていた泣菫の孫が3年前に倉敷市に寄贈した資料の中から、岡山大学大学院などの研究者のチームが発見しました。
このうち、大正8年5月の書簡は、大阪朝日新聞の会合に招かれなかったことについて書いたもので、「恐らく商売仇のせいでせう」などと記され、泣菫とともにライバル紙の大阪毎日新聞に勤めていたことが会合に招かれなかった理由だとみずから推測しています。
また、芥川が自殺する6年前の大正10年10月に、療養先から送った絵はがきには、「神経衰弱は中々なほりません」とか、「今度は殆死ぬほどへこたれました」など自殺の一因とされる神経衰弱に悩む芥川の心境が読み取れます。倉敷市文化振興課の秋山剛主任は、「新聞社どうしのライバル関係が読み取れるうえ、徐々に芥川の元気がなくなっていく様子がわかり大変、貴重な資料だ」と話していました。
見つかった書簡は、解析が行われたあと、一般に公開されるということです。

05月20日 19時44分

173よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 23:54:08 ID:P7bAtr1M0
芥川龍之介:未発表の書簡発見 薄田泣菫宛て、倉敷で
http://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023010261.html

 芥川龍之介(1892〜1927)の未発表の手紙とはがきが、岡山県倉敷市が所蔵する資料から見つかった。倉敷市出身の詩人で、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部長を務めた薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)(1877〜1945)に宛てた書簡。泣菫の遺族から同市に寄贈された遺品の中にあった。

 手紙は濃いピンクの封筒に入れられ、大正8(1919)年5月23日の消印がある。「大阪朝日の披露会は菊池及(および)僕を招待せず恐らく商売仇(かたき)のせいでせう」などと述べている。泣菫は当時、新進作家だった龍之介や菊池寛を積極的に社員として採用していた。大阪毎日のライバル紙の大阪朝日新聞(現朝日新聞)が文芸関係者を集めたパーティーに招待されなかったことについて、龍之介は「招待された顔ぶれをみると柳沢(朝日の文芸担当)の友だちが多いので一笑しました」と皮肉を記している。

 はがきは大正10(1921)年10月21日の消印で、養生のために訪れていた神奈川県の湯河原から投函(とうかん)されている。「腹下しはやつととまりましたが神経衰弱は中々なほりません」などとあり、後の龍之介の自殺につながる心身の衰弱ぶりがうかがえる。

 泣菫の遺品には、龍之介や寛のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻や谷崎潤一郎ら当時、泣菫と交流のあった作家たちの書簡や生原稿などが多数あり、市が全国の研究者7人に依頼して調査していた。今回確認された龍之介の2通は、岡山大大学院の西山康一准教授と東京成徳大の庄司達也教授が調べた。

 倉敷市文化振興課は「研究し尽くされた芥川龍之介に関して、未発表書簡があったのは大変な驚き。今後も資料調査を続けたい」と説明している。【小林一彦】

 ◇芥川龍之介
 1892年東京生まれ。東大在学中、夏目漱石に認められ文壇へ。1919年、大阪毎日新聞に入社し作家活動に専念した。21年、同社海外視察員として中国旅行。帰国後、心身を病み、27年自殺した。代表作に「羅生門」「河童」「鼻」など。

 ◇薄田泣菫
 1877年、現在の岡山県倉敷市生まれ。97年、詩壇デビューし明治を代表する詩人となった。1912年、大阪毎日新聞入社。学芸部長として、芥川や菊池寛を新聞小説に起用した。代表作に詩集「白羊宮」など。

174<削除>:<削除>
<削除>

175<削除>:<削除>
<削除>

176よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/21(土) 23:01:19 ID:BWd4ac5c0
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
国内最古のコウノトリの足跡を展示

国内で最も古いものであることが分かったコウノトリの足跡が大阪府和泉市の博物館で21日から展示されています。

このコウノトリの足跡は東大阪市と八尾市にまたがる弥生時代の水田跡「池島・福万寺遺跡」で見つかったものです。
調査の結果、この足跡は国内で見つかったものの中で、最も古い弥生時代前期のものであることが分かりました。この発見によって、いまや絶滅危惧種とされるコウノトリが当時多く生息し、人間と共存していたことが分かりました。訪れた人は、「こんな時代からおったってコウノトリがいたということは不思議ですなぁ。人間と仲良かったんやろうな」
「(昔は)コウノトリがたくさん住んでいたとは聞いていたが、大阪もコウノなんとかという地区があるけど、これから名前きたのかなと思った」などと話しました。
この展示会は、7月3日まで開かれています。

【河内のムラの物語】
・7月3日まで
・大阪府立弥生文化博物館 .

177よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/21(土) 23:05:37 ID:BWd4ac5c0
スケジュールなどを確認 天神祭講社会合
2011年5月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110521/20110521021.html

 大阪の夏の風物詩・天神祭(7月24、25日)を前に、祭りに奉仕する講社の会合が20日、大阪市北区の天満宮会館で開かれ、当日のスケジュールなどを確認した。

 各講社の代表者ら約60人が出席。12日の実行委員会で承認された陸渡御や船渡御などの行事計画や巡行コースが報告された。

 また、25日夕の奉納花火について、大川沿いの桜宮公園では打ち上げ花火を、造幣局東側では仕掛け花火を中心とし、約3千発を打ち上げることが説明された。

 大阪天満宮講社連合会の宗石剛会長は「震災で自粛ムードもあるが、元気を発信する祭りにしたい」とあいさつ。花火の個人協賛を義援金に充てるなど、東日本大震災の復興を支援していくことも確認した。

178よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 09:29:34 ID:BWd4ac5c0
イベント情報
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/event/

◆重要文化財「愛珠幼稚園」園舎 一般公開
 23日午後1〜4時、大阪市立愛珠幼稚園(地下鉄淀屋橋駅)。明治34年に建てられた園舎の一般公開。学芸員による建物の解説や園児たちに親しまれてきたグランドピアノの演奏も。参加費無料。参加希望者は当日直接会場へ。大阪市教育委員会事務局文化財保護担当(06・6208・9030)

179よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 09:36:30 ID:BWd4ac5c0
絵本を「まちかねたワニ」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110522-OYT8T00081.htm

 約45万年前に生息し、化石が豊中市で出土した巨大ワニ「マチカネワニ」をテーマにした絵本「まちかねたワニ」を市地域雇用創造協議会が5000部作成した。希望者や市内の店舗などに無料で提供している。

 「マチカネワニ」は1964年に同市待兼山町の大阪大豊中キャンパスで骨片の化石が発見され、現場の地名を取って名付けられた。国内で見つかったワニ類の化石第1号で、体長約7メートル、体重約1・3トンと推定。同大学や市がそれぞれマスコットとして活用しており、市内では下水道のマンホールに刻まれている。

 絵本は「マチカネワニ発見の地・豊中をPRしよう」と同協議会が企画。体が大きすぎて竜と間違われた恥ずかしがり屋のワニが、ワニだとわかってほしいと待つうちに絶滅し、化石になったというストーリーで、イラストレーターの仲田万里子さんが絵を手がけた。

 協議会では各店で絵本を活用してもらうほか、今後はマチカネワニに関連した商品開発の支援を進めていく方針で、「マチカネワニを豊中のブランドとして広め、地域活性化につなげたい」としている。

 絵本は15センチ四方の12ページ。問い合わせは同協議会(06・6398・7719)。

(2011年5月22日 読売新聞)

180よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 09:40:02 ID:BWd4ac5c0
『大阪歳時記 五月(皐月)』

http://www.jinjacho-osaka.net/saijiki-osaka/5gatsu/05_saijiki_5gatu_syouman.htm

小満  二十四節気の一つ。   5月21,22日頃    七十二候 

万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来る頃。
天文学的には、天球上の黄経60度の点を太陽が通過する瞬間。
麦畑が緑黄色に色づき始めます。

「住吉大社」 卯之葉神事(うのはしんじ)
大社の創立が、神功皇后摂政十一年辛卯(かのと・う)年の卯月上の卯の日であるという伝承により行われているものです。
現在では、5月初めの卯の日に卯の花の玉串を神前に捧げ、石舞台で卯の花のかんざしをさして舞楽が奉納されるなどの形で行われていますが、江戸時代は、「四月卯之日神事」として、かなり盛大に行われていたようです。 
「住吉名所図会」には、当時の模様が見開き四頁にもおよぶイラスト入りで記述されていますが、それから判断してもかなり盛大であったことが伺えます。
卯の葉神事が行われる前後、卯の花が満開になる時期に合わせて、「卯の花苑」が毎年公開されています。
落語に「卯の日参り」という出し物があります。この話の舞台は住吉大社です。卯の日に参る賑やかな住吉界隈が舞台です。
住吉大社の手水舎にウサギの石像があるのは、うさぎ(卯)に縁の深い神社だからです。

181よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 11:39:00 ID:BWd4ac5c0
【日本三大祭の中で一番賑わう大阪の天神祭について】
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/7_2.html

天神祭の歴史

鉾流神事
当宮鎮座の翌々年の天暦5(951)年に鉾流神事が始まったと伝えられます。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事です。

鉾流神事は、鉾に託して「穢れ」を祓うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っています。この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭」が始められたのです。

ところが、寛永21(1644)年の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまいました。しかし、昭和5(1930)年に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されています。

陸渡御
神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、神霊を奉安する御鳳輦ですが、この前後を催太鼓や神輿、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。

かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永9(1780)年には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。

船渡御
江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾りたて、御旅所へ御迎えの船列を整えました。昭和12(1937)年の船渡御列は、二百艘に達したといいますが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限しています。

昭和28(1953)年、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っています。


天神祭のご馳走
天満宮の参道にあたる西天満の旧家、内藤壽一さんの家では、天神祭には門にちょうちんを出し、家紋の入った幕をはって迎えます。住まいは明治43年(1910)に上棟された大阪の町屋から、いまはビルになっていますが、天神祭のご馳走は変わりません。
壽一さんの妻の芳美さんは、帰省する子どもたちや孫たちのために、毎年お祭りの料理を用意します。芳美さんに内藤家の天神祭のご馳走を披露していただきました。

メニュー
1.鱧ちり
熱湯にくぐらせた鱧を氷水にさらして冷まします。水気をとって盛りつけ。梅肉、ミョウガとともにいただきます。

2.鱧の照り焼き
骨切りした鱧の切り身にタレをつけてじっくり焼き上げます。はじかみショウガが添えられています。

3.小芋の煮物
ぬめりをとった小芋を薄味で炊き、色よくさっと炊かれた絹さやが添えられます。だされる直前には、すりおろした柚子をかけます。

4.タコとキュウリの酢の物
生タコの足をゆでて、薄切り。輪切りキュウリは塩をした後に水にさらしてしぼり、タコとともに合わせ酢で和えます。ミョウガが添えられています。

5.冷やしそうめん
深鉢に氷と青しそがあしらわれ、薬味には、きざみねぎ、椎茸の煮物、錦糸たまご、えび、すりおろした土ショウガが並びます。

6.白天とかいわれ菜のおすまし・きくらげ入りの白天、かいわれを盛りつけた椀にすまし汁を注いでいただきます。

7.枝豆・ゆでた枝豆も、冷えたビールとともに夏には欠かせないメニューです。
あっさりとした味付け、しゃきっとした歯ごたえ。夏にふさわしい食感と、味を引き締める薬味にも気をつかってだされる料理。どれもおいしそうで、食もすすみます。

182よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 18:22:44 ID:aZWKqE4g0
大阪・コウノトリ足跡:“弥生”から命つながる 特定に15年、研究者の熱意 /兵庫
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20110522ddlk28040328000c.html

 ◇奇跡的に保存 野生復帰事業の励みに
 大阪府の池島・福万寺遺跡で見つかり、18日に発表された国内最古のコウノトリの足跡は偶然の産物だった。洪水で水田に泥が入り、足跡が付きやすい堅さになった時、コウノトリが舞い降りた。足跡が付いた直後の洪水で白い砂が入り、風化を防いだ。研究者たちの熱意もあって、弥生時代にコウノトリが飛び交う風景を、現代人が描く手がかりができた。【高瀬浩平、皆木成実】

 調査を担当した大阪府文化財センターの井上智博主査は96年、弥生時代前期後半の水田跡に白い足跡がくっきり浮かび上がっているのを見つけた。「驚いた。鳥の足跡は浅いので、残るのは奇跡的」と振り返る。

 足跡をつけた鳥が分かるまで約15年を要した。県立コウノトリの郷公園(豊岡市)の増井光子・前園長(故人)と、獣医の三橋陽子さん(38)が昨年2月、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長を訪問したのが転機となった。三橋さんは、後趾(こうし)(後ろ側に伸びている足の指)の跡が後斜めに伸びている特徴から、水鳥の中でもサギやハクチョウでなく、コウノトリの可能性があると指摘した。

 三橋さんは「当時コウノトリが列島に生息していたことは分かっていたが、生息域の広がりが確認できる新たな資料が見つかり、大変うれしい」と話した。

 山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)も協力。国内で確認された542種すべてを調査対象とし、迷い鳥や発達した水かきがあるカモなどを除外。コウノトリ、アオサギ、ダイサギの3種に絞った。最後は統計学の手法で、足の指が太く、指の幅が広いコウノトリの可能性が極めて高いと結論付けた。

 奈文研は19日、コウノトリの足跡の石こう型、生駒山地を背景にコウノトリが飛び交う田園風景のイラストなどを、大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)に提供した。同館で21日〜7月3日まで展示される。

 コウノトリを野生復帰させる事業を進める豊岡市の中貝宗治市長は「まさに、古代から命がつながっていると感じた。感動した。野生復帰事業の励みになる」と喜んでいる。

183よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/23(月) 19:43:26 ID:ut67rXZI0
おニューのだんじりお披露目 生野の東桃谷岡地車会
2011年5月23日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105220120.html

 大阪市生野区の東桃岡地車(じぐるま)会(中山英信会長、会員約100人)が古くなっただんじりを買い替え、22日に周辺を練り歩いてお披露目し、会の名称も東桃谷岡地車会に変更した。

 同地車会は2006年に41年ぶりにだんじりを復活させたが、だんじりの老朽化にあわせ、もっと大きなだんじりがほしいという声が上がっていた。このため昨年3月、ほかの保存会が使っていただんじりを購入し、約1年間かけて補修作業をしてきた。

 新しいだんじりは高さ約3.2メートル、長さ約4.8メートル、重さ約2.2トン。以前のものと比べて一回り大きい。ケヤキ製で、屋根周りに青竜(せいりゅう)や朱雀(すざく)が彫られ、あんどんや垂れ幕で装飾されている。同地車会の団体色のピンク色を使ったあんどんが特徴的だ。

 この日は午前中に同区勝山北3丁目の市立東桃谷小学校で新しいだんじりに魂を込める入魂式をし、午後から大人約20人と子ども約50人で周辺を4時間ほど練り歩き、だんじりばやしに乗せ「わっせい、わっせい」と威勢のいい声を響かせた。

 新しいだんじりは、7月の弥栄神社の夏祭りで本番デビューする予定だ。(吉川喬)

184よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/23(月) 19:51:19 ID:ut67rXZI0
なるほドリ:「百舌鳥・古市古墳群」は世界遺産になるの? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110523ddlk27070203000c.html

 ◇昨年、暫定リストに登録 市民一体の体制作り重要
 なるほドリ 今月12日に「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産への登録を目指す推進本部の最初の会議が開かれたね。世界遺産になるのかな?

 記者 世界遺産には文化、自然、複合の各遺産があります。百舌鳥・古市古墳群は、堺、藤井寺、羽曳野の各市一帯に広がる古墳群で、昨年11月に暫定リストに登録されました。

 Q 暫定リストって何なの?

 A 世界遺産条約の締結国による、世界遺産に登録してもらいたい候補の一覧です。地元自治体が国に記載を提案し、認められれば、国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出して、世界遺産登録に向けた動きが始まります。

 Q 「百舌鳥・古市」は世界遺産になるほど貴重なものなの?

 A 「百舌鳥・古市」は世界最大の面積を誇る仁徳天皇陵や日本で2番目の規模となる応神天皇陵を含む、国内最大級の古墳群で、これらの古墳は日本の古代国家形成過程や文化的伝統のあり方を示すものです。世界遺産となっているエジプトのピラミッドなどと並び、普遍的価値があるのです。しかし100基以上あったとされる百舌鳥古墳群の古墳は、開発などで約50基まで減っており、守る必要があります。

 Q じゃあ、世界遺産の登録は実現できるの?

 A 府や堺市などは2015年ごろの登録を目指しています。そのためには、国が候補の推薦書をユネスコに提出し、国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査などを経て世界遺産委員会の審査を受けないといけません。登録のためには普遍的価値の証明のほかに万全の保護措置が求められます。堺市などは古墳周辺の景観保全などを急いでいますが、世界遺産は遺跡や景観を後世に残していくためのものです。市民も一体となって守り伝える体制づくりが重要になりますね。<回答・内田幸一(社会部)>

==============

 あなたの質問をお寄せください。

 〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係(o.shakaibu@mainichi.co.jp)

185よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/23(月) 20:00:09 ID:ut67rXZI0
古代から現代までの堺の歴史 1冊に
2011年05月22日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001105230002

「歴史たんけん堺」を自費出版した小松清生さん=堺市堺区南瓦町

 古代から現代までの堺の歴史を、カラー写真を交えて紹介した資料集「歴史たんけん堺」を、堺市北区の元小学校教諭小松清生(すがお)さん(63)が自費出版した。筆者は小松さんと教員仲間の5人。小松さんは「市内散策のガイド本としてもどうぞ」と話している。

 小松さんは、教員や市民らでつくる「大阪歴史教育者協議会」の堺支部代表を務める。授業で歴史を教えるとき、教科書には堺の記載が少ないと感じた。「教科書の傍らに堺に特化した本があれば、歴史が身近になる」と、1996年から資料集づくりを始め、2009年に「歴史たんけんプリント堺」(約60ページ)と題した非売品の冊子を完成させた。市内すべての小中学校に配布して一部で副読本として利用された。

 「歴史たんけん堺」は、この冊子をもとに大幅加筆した。縄文・弥生、古代、中世、近世、近代、現代の6部構成で、古代の項目では、堺市南区の泉北ニュータウンにかつて、須恵器の生産工場が点在していたことを知ってもらおうと、現在の建物や道路の地図の上に、窯跡をピンク色で示した。

 このほか、刃物や昆布など伝統産業の成り立ちや、戦時中の空襲を経験した市民らから聞き取った体験談なども紹介。市博物館や市立中央図書館、新聞社などから借り受けた仁徳陵古墳などの写真も掲載している。

 小松さんは「堺は百舌鳥(もず)古墳群や茶の湯、鉄砲など名だたる歴史と文化の街。この資料集が堺を知る一助になれば」と話す。

 B5判70ページ、千円。4月から堺市内の主な書店で販売している。問い合わせは小松さん(ファクス072・254・1717)へ。

186名無しさん:2011/05/23(月) 20:58:18 ID:btK9vXpQ0
被災者招き 初の寄席
2011年5月22日

大阪市阿倍野区の住民らが運営する恒例の「田辺寄席」が21日、同区の桃ヶ池公園市民活動センターで、東日本大震災の被災者を初めて招いて開かれた。

昼の部では、桂文太さんら落語家4人が創作や古典の5題を披露。巧みな話芸に、市民ら約150人でいっぱいの会場では何度も、笑いが起きた。

福島県南相馬市から避難し、家族4人で大阪市西成区の市営住宅で暮らす中橋幸子さん(65)は「生の落語は初めて。語りにはキレがあって、気分転換になりました」と喜んでいた。

田辺寄席は1974年、プロの落語家の芸を楽しもうと始まった。最近は毎月3回開かれ、22日に570回目を迎えるという。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110522-OYT8T00084.htm

187よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/24(火) 05:51:44 ID:ut67rXZI0
古墳時代にタイムスリップ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110524-OYT8T00070.htm

6世紀前半の前方後円墳「今城塚古墳」(高槻市郡家新町)に、武人や馬、水鳥などの形象埴輪(はにわ)のレプリカ約190点がずらりと並んでいる=写真=。

 二重の濠(ほり)に挟まれた堤から外側にせり出すように造られた「埴輪祭祀(さいし)場」から出土した破片から復元。両手を挙げて祈ったり、杯を持ったりする巫女(みこ)の埴輪もあり、亡くなった大王の魂を鎮めるために行われた儀式を表現したという。

 今城塚古墳は継体天皇陵という学説が有力で、高槻市が史跡公園として整備し、隣接する今城塚古代歴史館とともに4月にオープンさせた。同館の森田克行館長は「200点以上の形象埴輪が出土した例はほかになく、造形も優れている。古墳時代の儀式の様子がわかる生きた教材」と話している。

 古墳は自由に見学ができ、歴史館の入館料は無料。月曜と祝日の翌日が休館。問い合わせは同館(072・682・0820)。(斎)

(2011年5月24日 読売新聞)

188よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/24(火) 05:53:52 ID:ut67rXZI0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。


5月24日(火) 表千家献茶式  於:神楽殿
   不審庵茶道表千家家元 千宗左による献茶が行われます。
※お茶券は各お家元にお尋ね下さい。

189よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/24(火) 05:58:17 ID:ut67rXZI0
遅くなってごめんなさい、昨日行われた祭です。


田村祭(たむらさい)
http://www.jinjacho-osaka.net/osaka-no-matsuri/osakasinai/tamurasai_kumatajinjya.html

神社      杭全神社(くまたじんじゃ)

斎行日時     5月23日(毎年)午前10時祭事施行

内容   杭全神社は征夷大将軍坂上田村磨の孫、当道により、素戔嗚尊を氏神として創建されました。
     毎年、坂上田村麻呂公の命日である5月23日に、田村社において田村七名家の参列の元「田村祭」が行われます。
     神前には特殊神饌「剣菱」が供えられ、参列者にもふるまわれます。

190よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 04:06:33 ID:jQKdS4qA0
「マリア十五玄義図」修復
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110525-OYT8T00086.htm

きょうから茨木の史料館で公開

 茨木市北部の民家で1920年に見つかり、府有形文化財に指定されている絵画「マリア十五玄義図」(縦82センチ、横65センチ)=写真=の修復が完了した。同市が所有者から寄託を受けて保管し、昨年10月から汚れを除いたり、しわを伸ばしたりする作業を行っていた。25日から6月13日まで、同市千提寺の市立キリシタン遺物史料館で公開する。

 「マリア十五玄義図」は、聖母マリアとキリストの誕生から死、復活などの15の出来事を表現している。江戸時代初期にキリスト教を信仰していた人たちが禁教令の中、隠し持っていたもので、木箱に入れて中身を知らせないまま長年、保存されていたという。

 劣化が激しく、紙の亀裂や絵の具の剥離(はくり)などがみられたため、2006年に府文化財になったことなどから、同市が専門業者に修復を依頼していた。

 同図は、国内では同市北部の別の民家からも図柄が異なるものが見つかり、京都大に寄贈されており、国の重要文化財に指定されている。

 市教委は24日、今回修復された図を報道陣に公開。所有者の東満理亜さん(61)は「きれいになってよかった。先祖が苦労して残してきた歴史を知ってほしい」と話した。

 修復記念特別公開展ではキリストの木像や墓碑など約25点も展示される。火曜休館。入館無料。問い合わせは同館(072・649・3443)。

(2011年5月25日 読売新聞)

191よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 19:05:44 ID:g4i3Ym2s0
大阪→東京 移設判明 1907年
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110526-OYT8T00072.htm

研究家・福井さん 新聞に記載、その後調査へ

 明治末期の1906年に大阪・天王寺公園に登場した国内初の観覧車が、翌07年に東京・上野の博覧会場に移設されていたことが、観覧車の歴史に詳しい福井優子さん(63)(東京都)の調査でわかった。「グレートホイール」と呼ばれたこの観覧車は、1か月半運行された後に解体されたが、その後の行方は不明だった。福井さんは近く学会誌に寄稿する論文の中で、調査結果を公表する予定。

 福井さんによると、グレートホイールは、日露戦争翌年の1906年に開かれた「戦捷(せんしょう)紀念博覧会」会場の天王寺公園で、同年5月から閉幕の翌6月17日まで運行された。車輪の直径は約15メートル、14個のゴンドラが蒸気で動いていた。

 福井さんが、知人からの情報を基に調べたところ、翌07年に上野で開かれた「東京勧業博覧会」で運行されていた観覧車2基のうち、1基について、同年4月11日付の「都新聞」(現・東京新聞)の記事に「工事中なる空中廻転車は大坂博覧会に使用せしをそのまま運搬せしもの」とあった。

 「大坂博覧会」とは、戦捷紀念博覧会を指すとみられ、同年6月12日付の「国民新聞」(現・同)に掲載された写真などの資料から、ゴンドラ数や形状、蒸気を動力とすることなど、特徴が一致することが確認できたという。

 観覧車は、勧業博覧会で運行された2基のうちの電動式観覧車が長らく「国内第1号」とされてきたが、実際の国内初は大阪のグレートホイールだったとする調査結果を、福井さんが約10年前に発表し、〈史実〉が塗りかわった経緯がある。

 福井さんは「国内第1号を巡る因縁の2基が、勧業博覧会で協働していたとは思いも寄らなかった。観覧車が移設されることは現在もよくあり、グレートホイールも興行主の間で転売されたのだろう。日本で観覧車が普及していく歴史的経緯が少しずつ明らかになってきた」と話す。勧業博覧会終了後にグレートホイールがどうなったのかはわかっておらず、今後調査したいという。

(2011年5月26日 読売新聞)

192よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 19:50:49 ID:g4i3Ym2s0
2011年5月26日
泉州検定に60人が挑戦
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/26/20110526-053224.php

 泉州地域(9市4町)の歴史、文化などの知識を問う「第7回泉州検定」が、大阪府泉南市の市立文化ホールで行われ、府内のほか、千葉などから約60人が挑戦した=写真。

 泉州への関心を持ってもらうとともに、ガイド育成を目的に、NPO法人「りんくうフォーラム」が平成20年から開催。今回から「並級」「上級」に加え、難易度の高い「師範級」が新設された。

 会場では、試験直前まで勉強する受験者の姿も。緊張感がただようなか、「タオル織機を開発した人物は」「岡部宣勝が岸和田藩主になる以前、藩主であった藩は」―などさまざまな問題が出され、参加者たちが真剣に取り組んでいた。

193よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 21:42:56 ID:g4i3Ym2s0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/208 橋の裏側 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110526ddlk27070416000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇川面から見える個性 凝った意匠が面白い
 ここらで一服。東横堀川の川面から橋を見てみよう。古い橋の裏側は、意匠が凝らされていて、けっこう面白い。最近はリバークルーズがはやってるので、見比べるのも一興。

 現存する大阪最古の本町橋は、正面から見ると実に風格がある。きれいなアーチを描く石造りの橋の裏側は、鋼材が網の目を作っている。1913(大正2)年のころのモノ造りは、実に堅牢(けんろう)だ。それにひきかえ、なんてやぼなことは言うまい。ただ、真上を走る高速道路の高架が邪魔だ。これがなければ、東横堀川の数々の橋の眺めは、ずいぶん違うだろう。

 大阪の高速はたいがい、埋め立てられた川の上を走っている。用地買収の手間がかからなかったからだが、おかげで市内中心部の景観を台無しにしている。ことに東横堀川は、上を高速道路にふたをされて、地図に表れない不幸な川だ。ソウルでは、川の上の高速道路を撤去したが、大阪でもできんもんか。

 高麗橋は本町橋と比べると、つるんとしたコンクリートのアーチが近代的な印象を与える。1929(昭和4)年にできた橋だ。

 普通に橋を渡ってると気付かないが、高欄のデザインもそれぞれ違う。平野橋は扇形だし、本町橋は網の目のようなデザインが施されている。

 橋の真ん中に橋の名前が表示されている。かつて水運に利用されていたからか、と思いきや、この橋名板は09年の水都大阪のイベントに合わせて設けたものだ。写真の撮影は08年なので、高麗橋には橋名がないし、本町橋は橋名板になる前のものだ。

 人がそれぞれ違う顔を持つように、橋もまた、それぞれ違う顔を見せてくれる。

 「川の端と端をつなぐから橋。箸(はし)も食べ物と口をつなぐから、はし。柱もはしごも、つなぐものはハシがつく」と大阪案内人の西俣稔さんが教えてくれる。対岸とつながることで人の行き来が生まれ、物が流れ、町が繁栄していく。

 八百八橋とうたわれた大坂には江戸時代末期、約200の橋があり、幕府が金を出して架け替えたり維持管理する公儀橋はたった12。本町橋や高麗橋がそうだが、それ以外は町橋で、橋の両詰めの町が金を出していた。公儀橋は江戸では御入用橋と呼ばれ、160〜170もあったのと大違いだ。

 「大都市比較統計年表」(08年)を見ると、大阪市の橋の数は839で、東京都区部(475)よりは多いが、18都市中では下から数えた方が早い。しかし、橋の長さと面積の総計は断トツの1位なのだ。長さは約14万4000メートル、面積は約289万7000平方メートルで、他都市とはけたが違う。長くて立派な橋がいかに多いかがわかる。八百八橋の面目躍如といったところだ。

 人々が橋を大事にしてきた大阪の伝統が、今に至るまで脈々と受け継がれている。【松井宏員】

194よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 21:54:21 ID:g4i3Ym2s0
行ってみよっと:堺の旧市街地 新旧の歴史が詰まった街 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110526ddlk27040404000c.html

 ◇路面電車や自転車、線香、鍛冶屋さん
 堺の旧市街地へ。まずは、市役所21階の展望ロビー。高さ80メートルからぐるり360度望める。案内役のNPO法人堺観光ボランティア協会の川上浩さん(64)が、「100点満点で、きょうは30点の眺めですねえ」。辛いなあ。こんなに晴れているのに。ということは、もっと見える日があるということ? 「70点」なら明石海峡、「100点」なら高野山や奈良・天理の山々が見えるとか。

 まず目に飛び込むのは、こんもりと茂った山。そう、世界最大のお墓、仁徳天皇陵だ。でも、あのカギ穴型の前方後円墳の形が判別できない。「飛行機からでないと分かりません」と川上さん。さすが全長486メートルの巨大古墳。全体を見渡すには、まだまだ高さが足りないわけだ。あちこちにモコモコとある大小の森は古墳。世界遺産登録を目指している百舌鳥古墳群で、古墳の数は47も! しかし、かつては100以上あった。開発で破壊されたのだ。大阪湾方向を眺めると、新日鉄、シャープ……世界に誇る大企業がマッチ箱のよう。

 展望ロビーには、出土品や歴史的な解説もあり、展望博物館といったところ。堺市の小学3年生は社会の授業で、このロビーを活用している。ナイスアイデア!

 さて、地上に下りる。歩道の幅が広いから、対向者や自転車が気にならない。気分がのびのびする。

 エレベーター付きの歩道橋に差し掛かったときだ。「ほら、あの自転車を見てて」と川上さん。自転車がコツンとエレベーターの壁にぶつかった。指でボタンを押す代わりに、タイヤを壁に当てて呼んだのだ。らくちん、とばかりにエレベーターに乗って行った。「自転車の町なんです」

 戦国時代から鉄砲作りが盛んだった堺は、金属加工の技術が自転車製造に生かされて自転車産業が発展。生産額は全国シェア6割。愛用者も多い。

 ところで訪ねたのは4月。チンチン電車の阪堺電車の線路沿いに、菜の花の黄色いラインがゆーらゆら。赤いチューリップも。2・5キロにわたって、季節ごとの花々でにぎわう。ここの土は、チンチン電車の振動で、地下の砂地が出てきたり、夏はアスファルトの照り返しが強かったりで、厳しい環境。でも、踏ん張って生きている。

 線路から1本入ったところに、千利休屋敷跡がある。寂しげな空き地に「利休がお茶に使った」という井戸がある。ふたがしてあるのは「お金を投げ入れる人が多くて」とか。

 茶道と香道の影響で発展したという線香も名産だ。明治20年創業の薫主(くんしゅ)堂は、ご主人の北村欣三郎さん(66)が一本一本手作りする。お香を入れた可愛い巾着袋は奥さんの徳美さん(60)のお手製。「若い人に親しんでもらいたくて」

 この辺りは江戸時代のころから「七まち」と呼ばれた。鍛冶屋さんが集まる地区だ。水野鍛錬所の水野淳さん(34)は「後世に技術を継いでいく責任があります」と志を語った。

 堺出身の与謝野晶子のこの歌がぴったりだ。

 <住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路>【三角真理】

==============

 堺市役所展望ロビー=9〜21時。喫茶コーナーもある。072・233・1101▽薫主堂=最寄り駅は南海「七道」。072・232・2549▽水野鍛錬所=南海「七道」。072・229・3253▽堺観光ボランティア協会=交通費として半日(3.5時間)1500円。072・233・0531

195よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 23:01:05 ID:g4i3Ym2s0
邦画活況の中でもっと大阪文学の映画化を 高橋 俊郎
オダサク倶楽部・図書館司書 2011年5月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110520/20110520033.html

 今、至る所で関西を舞台にした小説の映画化ポスターが目に入る。4月23日に「阪急電車−片道15分の奇蹟−」、5月28日には「プリンセストヨトミ」と立て続けに公開となった。有川浩著『阪急電車』は阪急今津線の話なので兵庫県ではあるが、万城目学著『プリンセス・トヨトミ』は空堀、大阪城を中心に、北は梅田から南は通天閣まで、まんま大阪が舞台である。

 原作が刊行された時も、その破天荒な設定に驚きながらもそこかしこに虚実とりまぜた大阪が満載で、わくわくしながら一気に読んだ。映画公開に先んじて発売された文庫本のあとがきでも、著者が中学生時代まで住んだ大阪に大変な愛着を持っていることがよく分かる。

 私はこれまで天王寺区・阿倍野区・住吉区など多くの区で大阪文学の講座や文学散歩を行ってきたが、そこでは必ず映画化されたものや、その小説にまつわる音楽を取り上げて紹介してきた。その作品に込められた豊かな世界を味わってもらいたいからであり、それは「街の記憶」に他ならないからである。

 5月4日に新しい大阪駅が公開され、近辺の阪急百貨店も来年の全面開業を目指して改装中であるが、阪急梅田駅からターミナルビルに続く今は失われたコンコースを思い出す人も多いだろう。

 高い天井に美しいステンドグラス、壁の格調高い透かし彫りなど、ここを歩くたびにこのような文化的な通路が他にあるだろうかと誇らしい思いすら感じたものである。このコンコースも今や1989年のリドリー・スコット監督「ブラックレイン」でしか見ることはできなくなった。この映画には同じく今は失われた戎橋のキリンプラザ大阪の外観も収められていて、映画にはその時代の文化を記憶する役割もあることを痛感する。

 2006年に日本映画の興行収入が外国映画を上回るようになってから、邦画活況の時代と言われているが、かつて映画が娯楽の王者であった頃は、文芸路線と呼ばれた文学原作の名画が数多くあった。

 大阪でロケされたものに限っても、戦前では昭和19年の織田作之助原作『還って来た男』が天王寺区上汐。戦後昭和26年林芙美子原作『めし』が西成区天神の森。同29年水上瀧太郎『大阪の宿』が西区土佐堀。同30年『夫婦善哉』が中央区法善寺横丁。(法善寺はセットで復元)同31年『わが町』が天王寺区細工谷。『わが町』は当初、大阪が戦災で壊滅したため、京都に舞台を置き換えて構想されたが、やっぱり織田作之助のわが町は大阪だと、焼け残った細工谷、安堂寺町などで撮影された。

 一昨年、太宰治の生誕100年では『斜陽』『パンドラの匣』『ヴィヨンの妻』『人間失格』と、原作映画が4本も製作された。これらは暗いと評されているが、同じ時代を生きた織田作之助は明るい。時代は明るさとバイタリティーを求めている。

 さて、織田作之助の生誕100年となる2013年にも、その作品や人生を映画化してほしいものである。その時にはぜひとも、大阪でロケをしてもらいたい。織田作之助がこよなく愛した大阪がスクリーンの中でよみがえるなら、その時こそ大阪発ルネサンスとも言えるのではないか。

 (たかはし・としろう 大阪市西区)

196よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 01:36:27 ID:nJEnJiF60
2011年5月28日
三好一族由来の品々 堺市博物館で展示
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/28/20110528-053341.php

 戦国時代に堺一帯で勢力を誇った三好一族由来の品々などを紹介する展示「堺の寺社と戦国三好一族」が、堺市堺区百舌鳥夕雲町の市博物館で開かれ=写真、歴史ファンらの注目を集めている。

 会場には、長慶の書状や実弟・三好義賢(実休)の画像など計15点と説明のパネルなどを展示。このうち「妙國寺」所蔵で僧侶が筆記した行状記録「己行記」は近年の修復に伴う調査で、三好一族の家臣から送られた手紙などの裏を再利用していたことが確認された貴重な史料とされている。

 7月3日まで。入館料は一般200円など。

197よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 02:08:46 ID:nJEnJiF60
住吉大社の御文庫 修復終える 大阪最古の図書館
2011年5月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110528/20110528028.html

 大阪最古の図書館とされる住吉大社(大阪市住吉区)の御文庫(おぶんこ)の全面修復作業が終わり27日、関係者に公開された。御文庫の全面修復は1723年の創建以来初めて。

 今年の住吉大社鎮座1800年に合わせ、全面修復を進めていた。

 御文庫は土蔵造りで、約1万冊の書籍を所蔵している。この日、大阪書林御文庫講のメンバーらによる書籍の虫干し「曝書(ばくしょ)」が予定されていたが、天候不良のため中止になった。集まった約30人が、輝きを取り戻した外観や新たに設置された石造りの説明文などに見入り、収められている書籍を確認した。

 同文庫講の世話人を務める藤波優さん(66)は「虫干しは年に1度の機会なのでやりたかった。御文庫は傷みが目立っていたが、見違えるようになった」と話していた。

198よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 06:19:22 ID:nJEnJiF60
新世界・天王寺動物園「百年祭」委員会、阪神・別府航路100周年式典に参加
http://abeno.keizai.biz/headline/77/

 新世界&天王寺動物園百年祭協働委員会が5月27日、南港ATC(住之江区)で開かれた阪神・別府航路開設が来年で100周年を迎える「フェリーさんふらわあ」の記念式典に参加した。

 同委員会は、2012年に「新世界・通天閣」、2015年に「天王寺動物園」が、それぞれ100周年を迎えるのを前に昨年12月、平松邦男大阪市長が委員長となり立ち上げられた。

 式典には平松市長や関係者が出席したほか、百年祭に関連するキャラクターが勢ぞろいした。集まったキャラクターは「ビリケンくん」「通天閣ロボ」(通天閣観光)、「ラピートくん」「ラピートちゃん」(南海電気鉄道)、「でんのすけ」(日本橋筋商店街振興組合、でんでんタウン協栄会)、「地球戦士ゼロス」(ジャングル)、「くしたん」(新世界援隊、新世界串かつ振興会)。

 当日は、東日本大震災の犠牲者を追悼する黙とうで始まり、関係者のあいさつが述べられた後、百周年を祝うくす球が割られた。

 式典後には、同委員会の代表団30人とキャラクターは「フェリーさんふらわあ」に乗り込み、別府に向かった。同市では阪神・別府航路開設記念事業実行委員会主催の歓迎式や交流イベントなどを予定している。

199よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 06:47:16 ID:nJEnJiF60
大阪検定の集団受検、12企業・団体が表明 大商会頭、1級挑戦
2011.5.29 02:09
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110529/osk11052902100000-n1.htm

 「第3回なにわなんでも大阪検定」申し込み締め切りの6月1日を前に、12の企業・団体が団体受検を表明した。

 アシスト、大阪市、大阪市信用金庫、大阪信用金庫、府、北新地社交料飲協会、京阪電鉄、摂津水都信用金庫、阪神阪急ホテルズ、阪和興業、ホテルニューオータニ大阪、ロイヤルホテル(五十音順)−で、それぞれ10〜350人規模で受検する。府は今年度から職員の昇格(主事から副主査)の際の加点要素として大阪検定3級合格を加える。

 佐藤茂雄・大阪商工会議所会頭は今年も1級に挑戦する。

 検定日は7月10日。申し込みはホームページ(http://www.osaka−kentei.com/)または主要書店にある案内書で。

200よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 08:42:15 ID:x92AXqQ.0
七夕伝説の枚方 居酒屋婚活「ひらコン」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110528-OYT8T00105.htm

数軒に200人 60分めど別の店に
 七夕伝説にゆかりがある枚方市で7月、200人の男女に出会いの場を提供し、地域活性化も狙った婚活企画「ひらコン」が初めて行われる。京阪枚方市駅周辺の複数の飲食店を参加者が移動しながら気の合う相手を見つけるというユニークな内容。主催の枚方婚活推進実行委員会は「枚方の街も出会いも両方楽しんで」と市内外からの参加を呼び掛けている。

 市民らが実行委を作って企画。枚方市や隣接する交野市には天野川が流れるなど、一帯は七夕伝説発祥の地と伝えられていることから、「星の数ほど出逢いがある街ひらかた」をテーマにした。

 7月2日午後7時〜同11時30分に開催。独身で20歳以上の男性100人、女性100人に参加してもらい、同駅前の居酒屋やバーなど5〜8軒に参加者を割り振り、飲食をしながら出会いを楽しんでもらう。

 60分をめどに次の店に移動するのがルール。「男性は左の店へ、女性は右の店へ」など、男女が逆方向に移動することで全員に会える可能性を作る一方、最短5分で店を移ることができるため、複数の店を回ってもらうことで街の活性化にもつなげる。

 実行委では今後、京阪樟葉駅前など、市内で場所を替えながら、年3回ほど実施していきたい考え。松尾勝代実行委員長は「ひらコンをきっかけに結婚したカップルが、枚方に住んでもらうなどで、枚方ファンを増やしていきたい」と期待している。

 参加費は飲食代込みで男女とも6000円。年齢の上限はなく、肩ひじをはらずに気軽に楽しめる場としたいため、同性2人以上での参加を求めている。インターネットのホームページ(http://www.putiputi.com/hirakon/)か、申込書に必要事項を記入してファクス(072・850・4180)で申し込む。問い合わせは実行委(090・6733・0148)へ。

     ◇

 枚方市では、関大政策創造学部のゼミと市、京阪電鉄による、ひらかたパークなどで結婚式を挙げる「ひら婚♪」も昨年から実施、今年も6月11日に同パークで、11月12日に枚方宿鍵屋資料館で式が行われる。

(2011年5月28日 読売新聞)

201よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 11:27:13 ID:2jy6gY5w0
JR大阪駅がリニューアル! 大阪ステーションシティ近くのラブラブデート❤パワースポット
http://www.myspiritual.jp/2011/05/jr.html

30年ぶりにリニューアルオープンしたJR大阪駅2 件。5月4日には「大阪ステーションシティ」もグランドオープンしました。

1番の目玉は「JR大阪三越伊勢丹」が大阪に初進出! 今まで阪急、阪神の両百貨店や大丸梅田店も大幅な増床や建て替えに着手して、大阪駅はすっかり全国屈指の百貨店激戦区となりました。

その他にも、売り場面積2万平方メートルという商業施設「LUCUA(ルクア)」、シネマコンプレックスなどもオープン!

大阪ステーションシティには、有料音声ガイドやガイドさんによるツアーも実施されていて、特徴的な8つの広場を回ったりできるなど、新たな観光スポットとして注目されています。

さて、そんな大阪駅2 件がある大阪・梅田は、現在映画でも注目を集めている阪急電車をはじめ、たくさんの電車が走る大阪の中心地。

この場所にパワースポットがない訳がありません。

202よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/29(日) 11:30:08 ID:2jy6gY5w0
>>201の続き

というわけで、今回は「大阪ステーションシティ」の近くにあるパワースポット、特に恋愛のパワースポットとして人気を集める場所を紹介したいと思います!


■ 「露 天神社」

大阪駅から徒歩10分。「露 天神社」(つゆのてんじんしゃ)は、通称「お初天神」と言って、地元の人に愛されている場所です。

「お初」というのは、実際の出来事を題材にして近松門左衛門によって書かれた、人形浄瑠璃「曽根崎心中」の主人公。

天満屋の遊女・お初が平野屋の手代である徳兵衛と恋に落ち、最後はこの神社の境内で心中してしまうという悲恋の物語なのです。

この境内では、お初と徳兵衛のブロンズ像が静かに寄り添っています。

現在ではお初と徳兵衛の愛を添い遂げた場所として注目され、恋の成就を願う人たちが訪れるパワースポットとして人気がある場所です。


■ 「綱敷天神社」

「綱敷天神社」は、明治7年に大阪駅が開業して以降、「梅田キタの氏神様」と言われ地元の人に愛され続けています。

この綱敷天神社は、大阪駅がある大阪市北区に3ヶ所の場所に社殿が分かれています。

神山町にある御本社をはじめ、茶屋町の御旅社と角田町の歯神社がありますが、茶屋町の御旅社内の末社としてお祀りされている「玉姫稲荷神社」は恋愛パワースポットとして、カップルや、女性同士のお参りが多い場所です。

ご祭神の「玉姫様」は茶屋町の産土神として御茶屋で働く女性の守り神様として崇敬されていて、梅田の縁結びの神さまとして若者を中心に慕われています。

今回紹介した、2つのパワースポットのように、新しくなった「大阪ステーションシティ」も愛され続ける事を願います。

203名無しさん:2011/05/29(日) 13:25:36 ID:5wqXoTns0
>1番の目玉は「JR大阪三越伊勢丹」が大阪に初進出!
>2つのパワースポットのように、新しくなった「大阪ステーションシティ」も愛され続ける事を願います。

うーん、ライターは関東人なんかな。
まあ良く紹介しているからいいけど。

204よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/31(火) 02:12:24 ID:3N7CXFho0
継承する適塾の精神 きょうから特別展示 大阪
2011.5.31 01:49
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110531/osk11053101490000-n1.htm

 大阪・北浜の史跡・重要文化財「適塾」(大阪市中央区)の特別展示「継承する適塾の精神−大阪大学創立80周年にあたって」が31日から始まる。6月12日まで。

 江戸時代末期に塾を開いた緒方洪庵の著作や手紙の展示のほか、今年創立80周年を迎えた阪大の研究活動、洪庵・適塾顕彰活動などを紹介する。

 「適塾」は明治政府の教育制度整備とともに発展解消し、大阪医学校、府立医科大学と改称したあと昭和6年に大阪帝国大学が設立された。大阪大学に改称したのは昭和22年。

 特別展示の開館時間は午前10時〜午後4時。月曜休館。入場料一般250円、学生130円、高校生以下無料。問い合わせは、適塾((電)06・6231・1970)へ。

205よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/31(火) 02:13:30 ID:3N7CXFho0
半世紀ぶり奇祭「鯨まつり」 海神・住吉大社1800年で安全祈願
2011.5.30 14:37
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110530/osk11053016160008-n1.htm

大阪・堺の伝統行事「鯨まつり」が今夏、57年ぶりに復活する。巨大なクジラ山車(だし)をひいて住吉大社(大阪市住吉区)へ奉納する勇壮な行事で、地元住民が中心となってクジラ山車の復元に取り組んだ。地元住民は「今年は東日本大震災の津波で多くの犠牲者が出ており、海の安全を祈願したい」と話している。

 祭りの起源は鎌倉時代末期とされ、クジラを捕り逃した漁師を慰めるために踊ったのが始まりと伝わっている。堺の奇祭として、明治以降は約20〜30年に1回のペースで開催。漁師らが竹と布で作った全長27メートルものクジラの山車をひき、伝承の「鯨(くじら)音頭」や「鯨踊り」とともに練り歩いた。もともと不定期に開催されていたため昭和29年を最後に忘れ去られていたという。

 今回の復活は、同市堺区出島町の郷土史研究家、鎌苅一身さん(63)が呼びかけ、地元の自治会などとともに実行委を結成して実現した。写真資料や、昭和29年当時の参加者に聞き取り調査してクジラ山車を設計。大阪市内の竹材店に依頼して制作を進め、骨組み(全長12メートル)が完成した。中に人間が入る構造で、口を開け閉めするほか、尾びれを動かしたり、潮を噴かせたりする。

 鎌苅さんは、「今年は住吉大社の鎮座1800年記念の年でもあり、復活できてうれしい。鯨まつりを知らない世代が増えたが、ぜひ昔の漁師たちの活気や息づかいを楽しんでほしい」と話している。7月24日に住吉大社の境内、8月1日に住吉大社から堺市内に向けて練り歩く予定。

206よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/31(火) 20:43:52 ID:RcNSPZBk0
老舗銭湯、惜しまれ幕 感謝込め住民掃除
2011年5月31日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110531/20110531021.html

 「ありがとう千成湯」−。明治時代から100年を超える歴史を持ち、25日に閉店した大阪市福島区野田2丁目の銭湯「千成湯」に27、28の両日、地元関係者が集まり、風呂場を清掃するなどして、まちの社交場だった名湯との別れを惜しんだ。

 千成湯は、現在の竹内義勝さん(70)、早苗さん(67)夫妻で3代目。戦災を免れた長屋が連なる野田地区の中にあり、内風呂が当たり前になった今も、まちのコミュニティーとして多くの人が訪れていた。しかし、地下の配管の不備が見つかり大規模改修が迫られたこともあって、廃業の道を選んだ。

 感謝イベントは、野田地区を中心にまちづくり活動をしている西江幸久さん(32)が企画。風呂掃除には約20人が参加したほか、洗い場をステージにしたコンサート、バナナのたたき売り、銭湯についてのトークライブなどが行われた。

 近くに住む女性(62)は、お風呂掃除に娘と孫2人で参加。「孫も『大きなお風呂に入れる』と、銭湯が大好きだった。ふれあいの場所でもあったのでさみしい」と名残を惜しんでいた。早苗さんは「最後まで使ってくれて風呂屋として最高の幸せ。お風呂も喜んでいるでしょうね」と目を細めていた。

207よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/31(火) 20:51:08 ID:RcNSPZBk0
創設140年の大阪・真田山墓地、墓石の風化で危機に
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110531-OYO1T00737.htm?from=newslist

今年創設140年の真田山旧陸軍墓地(大阪市天王寺区)で、多くの墓石が風化して剥落が進んでいる。かつて全国にあった旧陸軍墓地で最も古く、歴史的変遷も見て取れるが、墓地という性質上、行政からの支援が得にくく、保存に取り組む関係者らは「大阪の文化遺産として残すべきだと思うのだが……」と頭を悩ませている。

 大阪城公園の南約1キロにある墓地は、住宅や学校に囲まれた小高い丘の上にある。サッカーコート2面分に当たる約1万5000平方メートルの広大な敷地に、約5100基の墓石が整然と並ぶ。多くはもろい砂岩で、65%が壊れかけ、剥離片が周りに散乱。うち約500基が崩壊寸前だ。

 明治維新後、攻撃を受けやすい首都から遠い大阪を中心に陸軍関係機関が創設された。軍関係の死者を弔う場所が必要になり、1871年、日本最初の陸軍墓地が真田山に誕生した。

 西南戦争(1877年)や日清戦争(1894〜95年)で亡くなった兵士や軍役夫の墓が多い。このころは、墓石に、個人名や出身地、経歴が刻まれた。

 日露戦争(1904〜05年)で戦死者が急増すると、個人の墓は減り、合葬墓が増えていく。先の大戦中の43年にできた納骨堂には、約8000人分の遺骨や位牌(いはい)が納められている。埋葬方法の変遷がよくわかり、研究者らは歴史的に価値が高いとする。

 墓石も含め墓地は国有。戦後は大阪市に管理を任せ、有志で設立した財団法人「真田山陸軍墓地維持会」が、寄付金などを募り、3回にわたり、墓石の修復を実施したが、風化のスピードには追いつけない。維持会の吉川秀隆理事長(61)は「このままでは壊滅する。有志だけで維持をしていくのは難しい」と話す。

 大阪市は「個人が埋葬されている墓地という性格もある。財政難の市が特定個人の墓石を修復するのは難しい」というスタンスだ。

 2001年には、研究者や住民らが「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」を設立して、大阪市などに対し、史跡や文化財の指定を求めてきた。定期的に勉強会や案内会を開催して「歴史的な重要性を知って」とPRしている。

 考える会理事長の小田康徳・大阪電気通信大学教授(日本近代史)は「大阪で陸軍が創設され、各地から多くの人が集められたことが、現存する墓から確認でき、歴史的に貴重な墓地だ。今こそ多少の費用がかさんでも修復すべきだ」と、行政の支援の必要を訴える。

全国に80か所
 明治維新後、軍隊を創設した政府は、国として戦病没者を弔うため、全国80か所余りの墓地を造った。戦後は、政教分離の原則から、国が祭礼を行うことができず、維持管理は各自治体が受け皿となり、祭礼は遺族会や宗教団体が行う方式になった。保存されている墓地もあるが、取り壊しや敷地が整理されるなどし、原形をとどめていない所も多いという。

(2011年5月31日 読売新聞)

208よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/31(火) 21:36:44 ID:RcNSPZBk0
2011年5月31日
文化財ビルの屋上。ベトナム屋台料理のビアガーデンが期間限定オープン
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/31/20110531-053429.php

昨年、Twitterの口コミなどで人気を呼び、約2000人が来場した登録有形文化財「芝川ビル」の屋上ビアガーデン、「ラグナグ」が今年も6月1日より期間限定オープンする。

昭和2年建築の歴史ある文化財ビルでヘルシーなベトナム屋台料理とお酒を楽しめるとあって、昨年は来場者の約7割が20〜40代を中心とした女性。

ビジネス街である淀屋橋は会社帰りの懇親会などにも利用されやすく、昨年は期間半ばで予約が取れなくなったため、今年は3週間開催期間を延長する。

開催期間は6月1日から10月28日までの水・木・金曜日。ハノイ風揚げ春巻き、カボチャのココナッツミルク煮、ベトナム風オムレツ、スルメイカのココナッツカレー炒めなどビュッフェスタイルでベトナム屋台料理が味わえる。

問い合わせはレストラン リヴゴーシュ(電話06・6202・2202)
関連ホームページ:http://shibakawa-bld.net/story/2011/04/post_83.html

209よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/01(水) 21:22:39 ID:Tz2ykITc0
2011年6月 1日
古代米栽培いかが 泉大津イベント参加者募集
http://www.sankei-kansai.com/2011/06/01/20110601-053463.php

 「古代米の栽培を田植えから稲刈りまで体験してみませんか」。大阪府泉大津市の池上曽根史跡公園協会は、同公園内の水田で行う「弥生村の米作り」と「こだい米クラブ」の参加者を募集している。

 池上曽根遺跡は和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代の環濠集落として知られる。公園内にある水田(約330平方メートル)で古くから栽培されていたとされる古代米品種「朝紫」を育てる。

 「弥生村の米作り」は、6月に田植え、9月に稲刈り、11月に炊飯試食を行うコース。毎年親子連れの参加が多いのが特徴だ。田植えは古代の衣装「貫頭衣」を着用して行い、弥生人になった気分も体験できる。定員は100人で、参加費は千円。「こだい米クラブ」は、小学生が対象で、田植えなどのほか、かかし作りや土器作りなど、11月にかけて7回のイベントが予定されている。小学4〜6年生対象で定員30人。参加費は2千円。

 申し込みは、往復はがきかファクスで、参加希望のイベント名を書き、参加者全員の住所、氏名、年齢、電話番号を明記のうえ、〒595−0004 泉大津市千原町2の12の45 池上曽根史跡公園協会(FAX0725・20・1866)。締め切りは3日必着。

210よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/02(木) 19:25:47 ID:LTo/lI7I0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/209 農人橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110602ddlk27070455000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇対の欄干、泣き別れ 中央大通の南北に
 前回は川から橋の裏をのぞいたが、陸地に戻って大阪案内人の西俣稔さんと歩を進めることにする。本町の曲がりを過ぎて南へ下ると、繊維問屋が軒を連ねる船場センタービルが現れる。1970年の大阪万博に合わせてオープンした。1〜10号館まであって、飲食店も充実しているので、昼時ともなればサラリーマンで大にぎわいとなる。

 改めて外から眺めると、ビルの上で阪神高速の環状線と東大阪線が交差し、上へ上へと伸びていた時代がうかがえる。「センタービルは地下鉄あり、商店あり、貸しオフィスあり、上に高速道路。同じ敷地で一石五鳥」と西俣さんが笑う。

 続けて「新御堂筋を北へ行ったら、箕面に箕面船場という地名があります。こっちから移った船場商人の誇りですね」。話は北浜の地名の由来にまで広がる。「北浜は梅田から見たら南やから、南浜と付けそうなもんやけど、船場から見て北やから北浜です。どこが中心で地名が付いてるかがわかります」

 船場を東西に横切る中央大通が船場センタービルの北と南に分かれて走る。俗に「上を下への大騒ぎ」と言うが、ここは上は高速道路、下は幹線道路で車だらけだ。

 中央大通の西行き車線に沿って東へ、中央区役所の前を通ってしばらく行くと、農人(のうにん)橋だ。江戸時代初めまで、この辺りは田畑が多く、農民が耕作に通った橋だったからこの名が付いたという。

 大坂城に通じる要路だったので幕府が管理する公儀橋となり、その後、この地が発展して擬宝珠(ぎぼし)が設けられた。そんな由緒ある橋だが、今は緑色のペンキがはげちょろけ、排ガスのせいか黒ずんで、みすぼらしくさえある。東詰めには木製の橋名表示と由緒が記された説明板が建っているのだが……。

 しばらく橋の写真を撮っていて、「あれ?」と思った。普通、橋は左右対称だが、反対側の歩道と欄干が見当たらないのだ。だいたい、中央大通は西行き、東行きとも4車線もあり、さらに両車線の真ん中、船場センタービルの東側は高速道路への上がり口と降り口があるので、合わせて幅員が約80メートルもあって向こう側が見渡せない。なんせ、高速の高架がやたらくねくね曲がったり、上がったり下がったりしている。

 で、中央大通を渡る陸橋に上がって、反対の北側を見渡すと、同じようなはげちょろけた緑色の欄干と歩道があった。つまり、高速道路を挟んで中央大通の東行きと西行きの二つの橋が農人橋ということになる。昔はもっと小さな橋だったが、万博に合わせて船場センタービルと同時期に中央大通が開通し、農人橋は南北に泣き別れたのだ。

 車の喧騒(けんそう)を避けるように南へ歩く。西俣さんが町名表示板を指す。材木町とある。その名の通り、材木商が並ぶ町だった。「東横堀川を利用して材木を運搬してたんです」と西俣さん。今は少なくなったが、「木材住建 今九」という昔からこの地にありそうな材木商の軒先に、たくさんの材木が立てかけられていて、地名の由来をしのぶことができる。【松井宏員】

211よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/03(金) 06:05:41 ID:LTo/lI7I0
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/
船場料理の12ヶ月

6月「夏の日常食」

江戸時代、大坂の町の中にあった氏神さんの夏祭りは、旧暦6月に集中していました。明治5年に新暦(太陽暦)が採用されてからは、はじめのうちは毎年、旧暦の祭礼日に合わせて、祭りの日を決めていましたが、そのうちにエイヤッと1ヶ月ずらせて、6月の祭礼を7月に行うようになり、それ以来現在に至るまで、7月が大阪の祭り月となっています。したがって、水落家の「行事帳」の6月に記載されている夏祭礼の献立は、来月にご紹介することにします。この連載をはじめて、ちょうど半年になりますので、今月は船場の日常食を取りあげてみました。水落静さんに、大正末〜昭和のはじめ頃、夏6月ごろのふだんの食事についてお聞きしました。

朝:お茶漬、きゅうりやおなすの浅漬(ぬかみそ漬)、お香々
昼:おぬくのごはん、お番菜(おなすとしろうりのうすくず仕立)、浅漬、お香々
夜:お冷やのごはん、たちうおの塩焼、浅漬、お香々

朝のお茶漬(ぶぶ漬)は、夏にかぎらず、年がら年中そうでした。船場の商家では、ごはんを炊くのは、一日一回だけでした。お家(うち)によって、昼に炊くところと、晩に炊くところがありました。水落家では、昼に炊いておられました。どち らの場合も朝は必ずお冷やのごはんになり、熱いお茶をかけていただきます。おかずはお漬物だけ。夏の間の楽しみは、きゅうりやおなすの浅漬です。きゅうり は、白くて太くて種の多い半白きゅうりです。これがおいしかった。けれど、水落家では、浅漬はお上(主人家族)だけが食べるもので、女中さんらは、年中お香々だけでした。このお香々は冬期に何樽も漬け込んであるもので、夏時分になると、だんだん塩辛いものになります。

212よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/03(金) 06:06:34 ID:LTo/lI7I0
>>211

船場では、「朝はお茶漬」のお家が多かったようですが、年がら年中、「朝はお粥(かい)さん」のところもありました。また、いつもは朝はお茶漬ですが、冬にさつまいもが手に入ったりするとおいものお粥さんにするお家もありました。

昼は、お番菜とお漬物。お番菜とは、野菜を中心としたふだんのおかずのことです。夏ですから、ここではおなすと越瓜(しろうり)のうすくず仕立にしました。 種々のお番菜こそ、船場の日常食を代表するものです。大根とあげさんのたいたんやら、しろな(大阪白菜)とあげさんのたいたんやら、粕汁やらのっぺい汁や ら、お汁とも、煮込みとも区別がつかないような、具がたっぷり入ったおついです。このお番菜のおかげで、船場の食事の評判が悪いのです。たしかに大量に出 まわる旬のお野菜中心の始末な料理にはちがいありませんが、大きなお鍋でたくさんの量をつくりますからおいしいですし、それを何杯もおかわりするとそれだけでおなかがいっぱいになります。ちゃんと昆布とだしじゃこやら鰹節でお出しをとりますし、油揚げを大量に入れたりしますので、栄養面からもそんなに貧弱 なものではないと私は思っています。

水落家では、 毎日晩ごはんにに魚を食べておられますが、船場の商家では、赤ごはん(小豆ごはん)に魚がつくのは、毎月お朔日と15日だけで、それ以外の日は昼も晩もお番菜がふつうでした。水落家でも、毎朝魚屋の「魚留」が持ってくる上等の魚はお上用で、女中さんらは、骨屋町の市場へ安価な魚を買いに行き、晩ご飯のおかずにしたそうです。

以上は大正末から昭和初期の船場の日常食ですが、細かいところは違っても、「朝はお茶漬」に「昼と晩はお番菜」というパターンは江戸時代からずっと受け継がれてきたものでしょう。

大正末、昭和のはじめ頃、食事のとき、水落家では、すでにひとりひとり箱膳で食べるということはなくなっており、「お部屋」と呼ばれる6畳の部屋が食事室 で、一閑張(いっかんばり)(注1)の机を二つならべて、家族が囲んで座って食事をされたということです。お茶碗とお箸(塗りの箸箱へ入る)は銘々専用の もので、お茶碗は必ず蓋付(ふたつき)のもの。お漬物は、大きな鉢に盛りつけて卓上に出され、お茶碗の蓋に取っていただきます。

213よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/03(金) 06:07:31 ID:LTo/lI7I0
>>211>>212

6月の御菓子 「みなづき」

みなづき(水無月)はもともと京都の御菓子です。しかし、水落静さんが「6月晦日にいただきました」と言われますので、取り上げてみました。

古代律令制の時代に、6月・12月の晦日に大臣以下百官が朱雀門に会集して大祓(おおはらえ)が行われました。しかし、それは次第に行われなくなり、応仁の乱で中絶してしまいました。逆に、民間では6月・12月の祓は発達しました。とくに旧暦6月晦日の祓は、夏越祓(なごしのはらえ)、あるいは水無月祓(みなづきのはらえ)といわれ、ちょうど暑い時季で、悪疫を除去し、夏を無事に乗り切る願いをこめて、神社に参詣し、茅輪(ちのわ)をくぐり、紙の人形(ひとがた)を川に流したりします。

御菓子のみなづきは、水無月祓にちなんだもので、三角形に切った外郎(ういろう)製、または小麦粉を主体にしたもの、あるいは本葛製のものがあります。それに疱瘡よけの力があるとされる赤い色、小豆を載せて、夏らしくあっさりとした味にした優雅な御菓子です(注2)。みなづきの三角形は、氷室(ひむろ)の氷に見立てたとも 言われています。

注1漆器の一種。江戸時代初期、明人の飛来一閑が伝えたもの。淀屋橋の近くに一閑張の店があった。
注2御菓子みなづきについては、「鶴屋八幡」の岩橋義春氏にご教示いただきました。

214よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/03(金) 23:32:41 ID:F.YrhFCM0
大阪歴史博物館で「懐かしい市電とバスのある風景」展−ジオラマ大会も
http://kyobashi.keizai.biz/headline/931/

 大阪歴史博物館(大阪市中央区大手前4)で現在、特集展示「懐かしい市電とバスのある風景」が開催されている。

 大阪での市電の歴史は1903(明治36)年9月、日本初の公営路面電車として花園橋から築港桟橋までを開業したのが始まり。大正時代には営業距離も50キロを超え、市民の足として定着した。市営バスは、1927(昭和2)年に阿倍野橋から平野間を市営バスの営業が開始。車体の色から「銀バス」という呼び名も生まれた。地下鉄は、1933(昭和8)年に登場。梅田から心斎橋を結び、新しい都市交通として発展してきた。

 これらの大阪の交通機関の歴史を明治30年代〜昭和40年代を中心に振り返り、懐かしい街の風景を感じてもらおうと企画された同展。大阪市交通局が所蔵する市電、バスなどの写真約40点をメーンに、地下鉄が開通した当時のポスターや市バス関連のグッズなども展示している。入場者は年配者が多く、展示物を見ながら昔を振り返り当時の話に花を咲かせている姿も見受けられるという。

 25日・26日には「鉄道模型ジオラマ大会」も開催予定。地下鉄御堂筋線をはじめ、谷町線、中央線などの地下鉄車両や、地下鉄に乗り入れている阪急電車・近鉄電車などのジオラマ車両が展示走行する。

 同館学芸員・船越幹央さんは「20〜30代の当時を知らない世代にも、市電がどういう形で市民の足として活躍していたかを知っていただけたら」と話す。

 開館時間は9時30分〜17時。火曜休館。入館料は、大人=600円、大学生・高校生=400円、中学生以下無料。7月4日まで。

215よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/05(日) 05:59:41 ID:wlfIlFFQ0
大阪市文化財に錦影絵の幻灯器
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110605-OYT8T00092.htm

大阪市教委は、日本のアニメーションの原点とされる「錦影絵」の上映に必要な装置=写真=や、難波宮跡から出土した最古の万葉仮名文木簡など16件を市指定文化財に選んだ。

 錦影絵は、「風呂」と呼ばれる木製幻灯器に絵を描いたガラスの「種板」を組み込み、和紙のスクリーンに映像を投影する。幕末から明治期に人気を博したが、映画の普及で廃れた。選定を受けた、大阪歴史博物館が所蔵する種板は820点に上り、チャンバラや怪談など40超の演目があり、国内最大級のコレクションを誇る。

 難波宮跡から出土した木簡は、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」という和歌の一部が万葉仮名で記されている。出土した地層から、従来、7世紀末とされた万葉仮名の表記法の成立時期が数十年ほどさかのぼることがわかり、学術資料として評価された。

 他の指定は次の通り。

(2011年6月5日 読売新聞)

216よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/06(月) 05:56:13 ID:.iwLOIO60
天守閣再建80周年 ウエディング
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html

今年で大阪城の天守閣が再建されて80年を迎えます。
大阪城公園では80周年の記念イベントとして結婚式が行われました。

大阪城公園で行われた結婚式では普段は公園内に入ることができない人力車で、新郎新婦が優雅に登場しました。
この結婚式は1665年に落雷で焼失した天守閣が昭和6年に市民の寄付で再建され今年で80年を迎えることを記念して行われました。
式には大阪市の平松市長もお祝いに訪れました。
このイベントAPECの首脳会談が行われた大阪迎賓館の会議室で披露宴ができるとあってすでに7件の予約が入っているということです。

平松邦夫大阪市長に人力車の乗り心地をきかれた新婦は
「優雅で女優になった気分で嬉しかった」と話しました。

大阪市は、今年の12月31日まで、募集を行っています。

【大阪城公園迎賓館ウエディング80】
問い合わせ
06−6949−3210
(大阪城天守閣復興80周年記念プロジェクト委員会

217よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/06(月) 05:57:33 ID:.iwLOIO60
大阪城のジューン・ブライド
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110605-OYT8T00833.htm

大阪城天守閣の再建80周年を記念し、大阪市などが企画した大阪城公園を会場にした結婚式の1組目のカップルが5日挙式し、平松邦夫市長が参加して記念イベントが開かれた。

 結婚式は、市や大阪商工会議所などが80組限定で募集しており、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が催された大阪迎賓館での披露宴が目玉だ。

 この日、新郎新婦は公園内の豊国神社で挙式し、人力車に乗って天守閣前広場に到着。出迎えた平松市長は「お二人の未来が幸せなものになりますように」と門出を祝った。新郎新婦は人力車で披露宴会場に移り、居合わせた観光客らから「おめでとう」と祝福を受けていた。

(2011年6月6日 読売新聞)

218よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/06(月) 06:12:56 ID:.iwLOIO60
「適塾」の精神振り返る 阪大創立80年記念特別展
2011年6月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110605/20110605024.htm

 国の史跡・重要文化財「適塾」(大阪市中央区北浜)で特別展示「継承する適塾の精神」が開かれている。緒方洪庵直筆の手紙や、福沢諭吉の直筆掛け軸「七言絶句」など、普段は一般公開されていない資料約60点を展示している。12日まで。

 適塾は日本近代医学の祖・緒方洪庵(1810〜1863)が開いた私塾で、大村益次郎や福沢諭吉らを輩出した。その源流をくむ大阪大が今年創立80周年を迎えたことを記念して特別展示を開催。

 同大は今年4月、適塾の研究機関として「適塾記念センター」を設立した。これまで、適塾記念会などボランティア的な活動で行ってきた研究を公的に引き継いでいる。同センターの廣川和花准教授(33)は「80周年を機に、適塾の“科学的精神”に立ち返り、適塾の精神をどのように大事にし、引き継いできたのかを振り返る内容になっている」と話している。

 一般250円、学生130円。午前10時〜午後4時。月曜休館。問い合わせは電話06(6231)1970、適塾へ。

219yu-min:2011/06/06(月) 10:22:10 ID:kbNVcVdc0
6月5日(日)大阪市西区土佐堀の川の駅「ポンポン船船着場」近くにて作家宮本輝氏の代表作「泥の河」の文学碑の除幕式が行われた。
「泥の河」は、宮本輝氏が幼少のころ住んでおられた中之島の西端から西区江戸堀の土佐堀川周辺を舞台とし、戦争の傷跡を残す昭和30年の大阪、安治川の畔に住む少年と廓舟に暮らす姉弟との短い交友を描いた名作。
この作品で第13回太宰治賞を受賞し作家デビューを果たし、1981年には映画化され日本アカデミー賞を初め国内外の数々の映画賞を受賞している。
文学碑は小説「泥の河」の舞台となった場所であるとともに宮本氏の幼少のころの思い出に残っている地ということから場所が決定され、中之島西部の様子が描かれた一節が碑に刻まれている
除幕式終了後には、作品にゆかりのある土佐堀川クルーズがおこなわれた。
少し曇っていたが暑くも寒くもなく小説の舞台になった場所を辿りながら水都大阪の素晴らしさを十分堪能することができた。

220名無しさん:2011/06/06(月) 15:59:31 ID:rpDEow8U0
桂こごろうさん二代目「南天」襲名へ 40年ぶり復活 
2011年6月6日
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201106060033.html
 落語家の桂こごろうさん(43)が来年4月に二代目桂南天(なんてん)を襲名すると、所属の米朝事務所が6日、発表した。人間国宝の桂米朝さん(85)もネタを受け継いだ故・南天は「諸芸十八般」と称した多芸家で、40年ぶりの復活となる。披露公演を大阪、京都、東京、名古屋などで開く。

 1972年に亡くなった南天は「アニメのルーツ」とも呼ばれる錦影絵や滑稽手品、寄席の踊り「ずぼら」などの珍しい芸を持ち、60年代にはテレビ番組にも出演。錦影絵は米朝一門の若手らが継承している。こごろうさんは大阪府枚方市出身で91年に南光さん(59)に弟子入り、工夫の光る高座で注目株の一人だ。「優しさや、人をうれしくさせる気持ちを継いでいきたい」。米朝さんはひ孫弟子の襲名について、「(初代は)誠に欲のない、飄々(ひょうひょう)という言葉がぴったりの人でした。もう、継ぐ人はおらんやろと思ってた」と笑顔で話した。(篠塚健一)

221よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/07(火) 20:19:21 ID:q4a.jvw.0
来月25日に奉納花火 被災地「力強く支える」
2011年6月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110607/20110607021.html

 日本三大祭りの一つとして大阪の夏を彩る「天神祭」の委員総会が6日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれた。同祭渡御行事保存協賛会の会員ら約130人が出席し、7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、陸渡御、船渡御、奉納花火などを実施することが正式に承認された。

 会合では同祭実行委員会の京極俊明実行委員長が、東日本大震災からの被災地復興支援に向け「大阪のバイタリティーを日本全国に示そう」、大阪商工会議所会頭で同協賛会の佐藤茂雄会長も「西日本が力強く支えないと」と、それぞれ天神祭の意義を強調した。

 このほか昨年度の決算報告や本年度の行事計画が承認された。奉納花火は25日に大川沿いの造幣局と対岸の桜宮公園の2カ所で実施し、約3千発の花火が打ち上げられる。

222よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/07(火) 20:42:26 ID:q4a.jvw.0
大阪企業家ミュージアムが開館10周年 7〜11日は無料
2011.6.6 22:28
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110606/osk11060622370018-n1.htm

 大阪にゆかりのある企業家を紹介する大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)が開館10周年を迎え、7〜11日は記念に入館料を無料にする。来館者数は延べ約13万5千人(5月14日現在)に上り、近年は経営者や起業家だけでなく、キャリア教育の場として中学・高校生、大学生が訪れるなど幅広い層に支持されている。

 ミュージアムは企業家精神の高揚・伝承を通じ、次代を担う人材を育成しようと、平成13年6月5日に大阪商工会議所が開設した。パナソニック創業者の松下幸之助氏や日清食品創業者の安藤百福(ももふく)氏ら近代大阪で活躍した企業家105人をパネルとゆかりの品で紹介。ガイド付きツアーは、企業家の裏話も聞けるとあって人気が高い。

 近年は漫画冊子シリーズ「企業家の人生に学ぶ」の製作や、館内展示パネルの中国語・韓国語への翻訳など、子供や外国人にも企業家精神を分かりやすく伝える取り組みに力を入れている。事務局長の興津厚志さんはミュージアムが支持されてきた理由について、「企業家の困難に立ち向かうストーリーやチャレンジスピリットに共感する来館者が多いからではないか」とみている。

 開館は火〜土曜日の午前10時〜午後5時(水曜のみ午後8時まで)。入館料は大人300円、中学・高校生と大学生は100円。

 14日〜7月29日には10周年記念事業として、薩摩藩出身の実業家で“鉱山王”と呼ばれ、大阪商工会議所の初代会頭を務めた五代友厚の功績を紹介する特別展を開催する。

223よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/07(火) 21:40:06 ID:q4a.jvw.0
来月25日に奉納花火 被災地「力強く支える」
2011年6月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110607/20110607021.html

 日本三大祭りの一つとして大阪の夏を彩る「天神祭」の委員総会が6日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれた。同祭渡御行事保存協賛会の会員ら約130人が出席し、7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、陸渡御、船渡御、奉納花火などを実施することが正式に承認された。

 会合では同祭実行委員会の京極俊明実行委員長が、東日本大震災からの被災地復興支援に向け「大阪のバイタリティーを日本全国に示そう」、大阪商工会議所会頭で同協賛会の佐藤茂雄会長も「西日本が力強く支えないと」と、それぞれ天神祭の意義を強調した。

 このほか昨年度の決算報告や本年度の行事計画が承認された。奉納花火は25日に大川沿いの造幣局と対岸の桜宮公園の2カ所で実施し、約3千発の花火が打ち上げられる。

224よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/08(水) 18:50:03 ID:GeOZMGrI0
平和への誓い新た 大阪大空襲66年慰霊法要
2011年6月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110608/20110608021.html

 太平洋戦争末期の1945年6月7日、米軍の爆撃機約400機と戦闘機約140機が大阪市北東部に襲来、市街地を焼き尽くし、多くの市民が犠牲となった。この「第3次大阪大空襲」からちょうど66年となる7日、惨事の現場となった大阪市北区の長柄橋南詰めや同市旭区の常宣寺で慰霊法要が執り行われ、遺族らが静かに手を合わせ、平和への誓いを新たにした。

225よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/08(水) 20:02:56 ID:GeOZMGrI0
淀殿魅了したハギ見頃 豊中の曹洞宗・東光院 大阪
2011.6.8 01:57
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110608/osk11060801570002-n1.htm

 初夏に花をつけることから「ナツハギ」の別名で知られるミヤギノハギが豊中市南桜塚の曹洞宗・東光院(村山廣甫住職)で見頃を迎えている。

 “萩(はぎ)の寺”として親しまれている同院境内には、約2千株のハギが植えてある。この時期に花をつけるのは、豊臣秀吉の側室、淀殿も魅せられたというナツハギ。山門から本堂までの参道に沿って植えられた約30株が、大人の背丈ほどに枝葉を伸ばし、1.5センチぐらいの小さな濃いピンク色の花が咲き競っている。

 今月中旬までかれんな姿を見せ、一度散ったあと秋には、また花を咲かせるという。

226よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/08(水) 20:25:05 ID:GeOZMGrI0
大阪の郷土料理再発見 谷 福江 田辺大根ふやしたろう会世話人 
2011年6月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110607/20110607024.html

 「どちらのご出身ですか?」。知り合って話が盛り上がると、つい自他とも認める食いしん坊の私は、「そちらの名物は?」と聞いてしまいます。名物を送っていただいたり、郷土食を届けていただきビックリします。例えば阿波徳島出身の方から「甘くない金時豆入りちらし寿司(ずし)」を頂き、目からウロコ!です。

 また、なにわ伝統野菜田邊大根(たなべだいこん)の普及活動で知り合った生産の方の野菜への愛情と地元に伝わる調理法を教えていただき、野菜のおいしさに目覚めました。田邊大根の生産地だった東住吉区田辺では、田邊大根の衰退と一緒に、田邊大根料理を作る人もなくなりました。子どもの頃、明治生まれの祖母が作っていた自慢の「だいこだき」(大根・金時人参(にんじん)・小芋・鯨(くじら)のコロの煮物)など私も忘れてしまった味です。このようにして郷土食は、忘れ去られたり、作られなくなったりしていくのだと思います。

 このような大阪の郷土食を再発見し、次世代に伝えていきたいと、大阪料理研究科の上野修三さんの監修・NPO法人浪速魚菜の会の事務局・日本の伝統食を守る会の協力で、「大阪御数料理会」が発足しました。

 もともと、日本人の主食はごはんです。副食(御菜または総菜)を大阪では「おかず」と呼びます。大阪は気候温暖で、四季折々の食材に恵まれ、天下の台所と言われたように、全国からいろいろな食べ物が集まってきました。数々の食材を合わせて採る。つまり「お数」だとか。

 同会では、郷土料理を、大阪市内・摂津を北摂地区・河内の大和川の北を東大阪地区・大和川の南を南河内地区・泉州地区と五つに分けて、地域の産物を生かした郷土料理を取り上げています。郷土料理に造詣の深い方たちの、旬の食材タップリの家庭料理を試食しながら勉強し交流を深めています。

 第1回は、3月上旬に開催され、まだ寒さ残る北摂地方は、昨年夏に収穫し保存された(干しずいき)を使った「やさい巻き寿司おまき」三島独活とコンニャク菜の花の白和(あ)え、東大阪地区で春の訪れと言われる八尾の若ごぼうの炒め煮、大阪地区のバラ寿司、南河内地区の田邊大根の切り干しの酢和え(富田林市の河南町で田邊大根が作られています)、そして泉州地区のじゃこごうこ(水茄子(なす)の古漬けと海老(えび)ジャコの煮物)。

 学生の頃岸和田の知人宅で、一口しかいただけなかったお料理も、今は美味(おい)しくいただけました。まだ他にも何品もいただきましたが、同じ3月でも地域により旬の食材の違いを再認識しました。

 この会には、東京・岡山・京都など他府県からの参加も多く、郷土料理への興味の深さを感じます。ちなみに、第2回の5月上旬のメニューを少々。食材はまさに春爛漫(らんまん)。北摂の山菜おこわ。クレソン、セリの胡麻(ごま)あえの食べ比べ。東大阪のしんかい(お盆のお供え料理)。大阪市のしがらき(もち米うるち米を使った蒸し菓子)。泉州の新玉ねぎとアサリの煮物他。

 どれも、それぞれの暮らしに沿った食べ物で、伝えていきたいと思います。あなたの出身地の郷土料理は?

 (たに・ふくえ 大阪市東住吉区)

227よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/08(水) 20:31:51 ID:GeOZMGrI0
大阪ええトコ再発見
狭山池 2011年6月5日利水に治水、そして憩いの場
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/eetoko/110605/20110605027.html

 瑠璃色から黄金色に…。湖のように水をたたえ、空や太陽に呼応して美しい表情を見せる大阪狭山市の「狭山池」。大阪府の史跡名勝1号に指定され、風光明媚(めいび)な地として知られる。1400年にわたって地域住民の暮らしを守る日本最古のため池だ。

 かつては水利に恵まれなかった府東南部で狭山池が造られたのは7世紀前半。葉の付いた枝を土の中に入れて堤を丈夫にする「敷葉(しきは)工法」が用いられ、その名は日本書紀や古事記にも登場する。

 国家の土地開発政策と深く結び付きつつ、奈良時代にはため池の規模は2倍に。その後も各時代の先端技術が駆使され、機能強化やかんがいのルールが整備されてきた。かんがい地域は12キロ先の現・大阪市平野区にまで及び、約80の村に水の恵みをもたらしたという。

 狭山池の歴史や土木事業の意義を伝える府立狭山池博物館の小山田宏一学芸員は「人間の英知が込められている」と語る。

 平成に入って完成した改修によって、洪水調整機能を備えた新しいダム式のため池として生まれ変わった。

 周辺には約千本の早咲きの桜、コシノヒガンが植えられ、府内で最も早く花見が楽しめる場所としてPRされる。池の周囲に整備された約3キロの周遊路では、散歩などを楽しむ地域住民の姿が絶えない。利水に治水、憩いの場として狭山池は新たな歴史を刻んでいる。

 隣接する同博物館では、堤の断面などで過去の姿も知ることができ、小山田学芸員は、池と施設を見学すれば「時空を超えた楽しみ方ができる」と来訪を呼び掛けている。

 【メモ】大阪狭山市岩室1402。南海高野線「大阪狭山市駅」下車、西へ数百メートル。

228よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/06/09(木) 19:08:14 ID:SHBEBgQw0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/210 太閤下水 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110609ddlk27070446000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇「都市プランナー」秀吉の遺構 今も現役、計20キロ
 材木町から東へ歩く。市立南大江小学校(農人橋1)の西側に、なにやら地中をのぞける窓がある。のぞいてみると、溝を濁った水が流れている。「秀吉の時代からある下水で、太閤下水といいます。今も現役」と大阪案内人の西俣稔さん。

 豊臣秀吉は1583年に始めた大坂城築城に伴って、市中のインフラ整備を進め、城下町をつくった。下水溝もこの時に巡らされた。秀吉はすぐれた都市プランナーでもあったのだ。いま、話題の映画「プリンセス・トヨトミ」には、秀吉の血筋のプリンセスを守る大阪国が出てくるが、太閤下水はまさに秀吉の遺産。「大坂のまちが整備されてたことを示す貴重な遺構」と西俣さんが言うのもうなずける。

 西俣さんが、下水が流れていく西を指す。家やビルが背を向けて建ち並んでいるすき間を縫うように、細い道が延びている。「建物が背中合わせになってるところに下水溝が造られてるので、背割下水ともいうんです」。その道をたどると、東横堀川に行き当たる。「昔は東横堀川に下水を流してたんです」。もちろん、いまはそんなことはなく、松屋町筋の地下を流れる下水道から、西成区の津守下水処理場へ送られている。

 それにしても、400年以上たつ今も現役とは恐れ入る。中も見学できるらしいので、後日、大阪市の外郭団体「都市技術センター」(旧・大阪市下水道技術協会)の小南郁夫さんに案内してもらった。

 のぞき窓の脇に、見学用の下水溝への降り口がある。1985年にできたものだ。ちなみに、のぞき窓は太閤下水が市の文化財に指定されたのを受けて、06年に設けられた。

 プーンと下水がにおう。「ましな方ですよ」と小南さん。地上から約2メートル下、幅約2メートルの下水溝の両脇には石垣が積まれている。「最初は石積みはなかったんです。素掘りでしたが、江戸時代中期から後期にかけて石積みがされ、その後改良されて、明治19年と23年のコレラの大流行で、溝の底をコンクリートにし、石積みのすき間を埋めました」。下水が浸透したり、石積みのすき間から漏れるのを防ぐためだ。その溝は緑色にこけむしている。

 この下水溝は大阪医療センターから東横堀川の手前まで、約800メートル続いている。江戸時代、下水溝の掃除も補修も町衆の役目だったという。橋と同じだ。

 太閤下水は中央区や西区、北区などに計約20キロ残っている。市内の下水の総延長4867キロの243分の1にあたる。線でつながってるわけではなく、上の図のように部分部分が残っている。このうち将来も使用可能な7キロが市の文化財になっている。

 「なにせ家と家との間を通っているので、維持管理が非常に難しいんです。付け替えを進めましたが、建物の建て替えがない、影響がない所を残してるんです」と小南さんが説明してくれる。例えば、ここは小学校のグラウンドの下を流れてるので残ってるわけだ。

 見学できるので、ぜひトヨトミの遺産を見てほしい。申し込みは都市技術センター(06・4963・2092)へ。【松井宏員】


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板