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ブラジルニュース5

989taro:2008/12/04(木) 07:50:07
ニッケイ新聞 2008年11月22日付け

聖市は夜までプログラム=大学特別枠下院通過に歓声も=「黒人の意識向上の日」に

 「黒人の意識向上の日」の二十日、聖市パウリスタ大通りでの五度目の大行進やセー広場でのショーなど、様々な企画が続いた聖市。全伯の三百余りの市でも、黒人や黒人文化、パルマーレスの王ズンビ氏への表敬行事が繰り広げられた。
 二十一日伯字紙によると、サンパウロ美術館に集まった二千人の人々は、カポエラやサンバなどを見た後、楽隊車六台同伴でラーモス・デ・アゼベード広場まで行進。
 また、コンゴからの来賓も参加したセー大聖堂でのミサでは、オディーロ大司教が「カトリック教会は、黒人が奴隷として連れて来られたことを痛恨の事実と認識」しており、「このミサはあらゆる種類の人種差別克服の徴である」と発言。
 ミサの後、大聖堂前のセー広場では音楽家達十組によるショーが続いたが、夜だけで六千人、終日で二万人がセー地区の行事に参加したという。
 また、行進での楽隊やダンスの調子が一段と高まり、歓声も上がったのは、連邦大学の特別枠拡大を下院が承認と報告された時。黒人系の人の所得はまだ低く、就学の機会も制限されている中、公立高校出身者、黒人、先住民、低所得家庭子弟対象の連邦大学特別枠を五〇%に拡大との案件の下院通過は、格差解消への前進と歓迎されている。
 一方、「黒人の意識向上の日」制定のきっかけとなったズンビ・ドス・パルマーレス氏は、一六五五年、アラゴアス州で形成中のキロンボ(逃亡奴隷らによる集団社会)パルマーレス生まれ。一時、ペルナンブコ州の司祭に引渡され、洗礼を受け、ポルトガル語やラテン語、宗教の教育も受けた後、十五歳でキロンボに戻り、時の指導者ガンバ・ズンバ(偉大な指導者の意)の養子となった。養父の死後は、キロンボの王として十五年にわたる戦いを繰返した。
 戦いの激化は一六八八年のバンデイランテのレシフェ到着後。大砲で攻められパルマーレスが滅んだ一六九四年後も、三千人を連れて脱出したズンビ氏はゲリラ戦を繰返したが、一六九五年十一月二十日早朝討死。レシフェで晒し首にされた。
 十九世紀を待たずして伯国に奴隷制廃止の意識が芽生えてきたことに貢献したとされるズンビ氏は、今も黒人運動の偉大な指導者として尊敬を集め、リオ市などにモニュメントが残されている。




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