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自己観察スレ4
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スレちょっと前の話だと
本当の自分ってのは認識できないものなんだよね?
思考とかに気づいたときのハッとした感じとかぼんやり感じる安心感は本当の自分ではないってことなのかな
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>>251
良かったです!
皆さん表現は違えどやっぱり共通する所があるんですよね。
大体自己観察で気づくことは「主体的な行為者(自分、エゴ)がいると感じているのは錯覚」ということです。
「主体的にやらないとダメだ!」
「なんとかしないと!」
本当は世界は既に完璧で、今のままで調和が取れているのですが、個(自分)がいると錯覚し調和から分離しているという勘違いの心から苦しみが起きてきます。
そこに気づくと楽になります。
しかしこの苦しみが起こる分離さえも、実は調和のひとつだった。
苦しみがあったからこそここに至ることができた。
そもそも初めから何も間違いはなかった。
そんな気づきがあった時、深い感謝と何事も受け入れられる世界に生きるようになります。
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>>252
本当の自分を離れた位置で見ることはできないですね。
でも本当の自分の特徴?特性?を知ることはできます。
私は本当の自分とは「気づき」そのものだと思っています。
背景や大空と言われるものの別の表現は「気づき」。
この世界は「気づくこと」が無ければ何も存在できないと思います。
肉体感覚、思考、自分と思えるもの全部。
また自分と思えるものを取り囲むこの世界全部。
全部が全部「気づき」がないと存在できません。
言い方を変えれば、自分を含めた世界全部が「気づき」でもあります。
私=気づき=世界だと感じています。
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本当の自分=気付き ですか
2つ疑問が湧きますね
気付きも認識することが出来ます
気付きもやはり背景に浮かぶ現象のひとつであって、根源的な「本当の自分」ではないんじゃないでしょうか。
夢を見ない眠りの間は「気付き」すら起こりませんが、その間「本当の自分」は存在しないんでしょうか。
表現は人それぞれなのだとは思いますが
同様の疑問から迷いが生じる方もいるかもしれませんのであえて書いておきます。
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>>254
返信ありがとうございます。気付き自体は本当の自分(気付いた時の感覚はそのものではなく付属品?)てことでいいんですね。
訊いといてなんなんですが、ここらへんは言語で説明するのは限界がある部分なんですかね。理屈だと255さんのご指摘ももっとものように感じられます。
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>>255
寝ている間も、瞑想で認識すらも消えてしまった状態でも、そこに常にある意識ってありませんかね?
睡眠や瞑想で認識が消えてるのにそれを認識する意識がある?という疑問が起こりますけども、そうとしか言い様のない常に在る意識をある時知りました。
ハッと気づかなくとも満遍なく常にここにある気づいている意識。
それがあえていうなら形を変えて現象として顕れている。
ですから肉体、思考、周りの世界は私ではないですが、私でもある。
と、私は捉えてます。
しかしちょっと話が飛躍したかもしれませんね…。混乱してしまった方がおられるようでしたらすみません。忘れて下さい。
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宇宙全体が「私」で、宇宙が身体を使って現れてるんだなって感じ
だから余計な事を考えなくても良く、宇宙の流れに任せていいんだなと
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>>257
> 寝ている間も、瞑想で認識すらも消えてしまった状態でも、そこに常にある意識ってありませんかね?
> ハッと気づかなくとも満遍なく常にここにある気づいている意識。
瞑想を追求していくとそのように感じられるようにもなるという話を聞いたことはありますが、今の私にはまだわからないですね。
説明して頂いた範囲ではやはりまだ「気付き」は主体ではなく客体なのでは? 「気付いている何者か」や「気付きが生じている背景」が主体なのでは? と思えます
ただ私も認識が更に変わればあなたの言うことに疑問を抱かなくなるのかも知れませんね。
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>>259
以前、188で
!となったときが気づきで、その後にああそうか、と思考がやってくる、と書いたものです。
気づいている、そのこと自体、その瞬間には
何もない空白で、
その後理屈をつける思考が、気づきを認識させるのだと思います。
気づきはそれ自体は認知されるものではなく、認知している側というか…
蛇足ですが、
だから、
気づいているときに、「これも認識されているではないか」
という思考に気づいていることが、その先へと深めるヒントになるのでは、と思います。
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>>260
あ、なるほど、それだとわかりやすいですね
いいきっかけになりそうな気がします。ありがとうございます。
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改めて「!」の瞬間を感じてみました。
その瞬間には主体も客体もありませんでした
これが自己観察さんか詭弁さんか、誰かの言ってた「二元論を超える」ってことだったのかな
完全なひとつのもの、しかないように感じました。
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>>262
つまり、思考が主客に分離させていたということですね。
主体である存在と、客体である現象。
しかし実はどちらも同じ。
般若心経でも空即是色、色即是空と「イコール」を強調しています。
その手がかりとして現象全てを否定するアプローチがありますが、否定しきった先にあるのは、翻ってすべて自分だったという気づきですね。
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自己観察をしていると肉体も本当の自分ではないと気付くと思うのですが、
その時に「あ、これ自分じゃないから別に大事にしなくてもいいんだ」と思ってしまいます。
これもエゴが思っていることなのでしょうか?
自愛は「自分を大切に扱う」というスタンスですよね…
長年そのスタンスでいたのですが心から大切に思うことができずに
自己観察に移行しました。頭で色々考えすぎなのでしょうか…
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>>264
それもエゴです。
あなたが思うことは全部エゴですよ。
今のその悩みもエゴです。
そのようにああでもないこうでもないと思考するあなたがエゴです。
ですからその悩みの思考を観察して、さらに思考していると思っている自分自身を観察する。
といういつもの話になりますね。
自分や私は思考によって起こってます。
それを観察できますでしょうか?
そんな難しくはありません。
自分に意識を向けた時、自分のイメージが湧きませんか?
それって思考ではありませんか?
自分や私が思考なら、本当の私と言える存在はどれでしょうか?
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>>265
全部エゴだと思うと虚しくなってきてしまいました…
それもエゴなんですよねきっと。
観察していってもキリがなくなってしまって余計に頭が混乱してしまう事があります
じゃあどれが私?となってしまって、迷宮入りしてしまうといいますか…
>自分や私が思考なら、本当の私と言える存在はどれでしょうか?
どれでもないという事なのでしょうか?
本当の私なんていない?それとも気付けていないだけなのか。。
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>>266
本当のわたし…は
そういうエゴの、あれやこれや
喜んだりがっかりしたり、わかった!と思ったりわからなくなってみたり…
そんなあれこれを全部載っけたお盆みたいなものです。
いまがっかりしている、なんだかわからなくなっている…
そんな「自分」の背景、
そこには何があるでしょうか。
考えるのではなく、感じてみてください。
「そんなこと言っても何も感じられない」
そう思ったとしたら、またその背景も感じてみます。
その思いが生まれる直前を観る、というか。
考えるんじゃなくて(頭のト書きを追うのではなくて)
その思いが生まれる、その直前の隙間みたいなところ。
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>>266
>本当の私なんていない?それとも気付けていないだけなのか。。
言い得て妙ですね。
今どこかの部屋にいますでしょうか?いるとしたら、部屋って何でしょう?
テーブル、椅子、棚、パソコン、壁、天井、床…。
それらひとつひとつは「部屋」でしょうか?
当然ですが、部屋はそれらが集まったものを指しています。
次に、それら家財道具や壁、天井、床をひとつひとつ捨てていくと想像してみて下さい。
どこまで捨てたら部屋ではなくなるでしょう?
捨てないとしても、もし四方上下の壁と天井と床がそれぞれ10m離れており、大きな隙間があったら、それは屋内(部屋)でしょうか?
屋外でしょうか?
屋内屋外の区別は、実はとても曖昧であり、密閉されていても、隙間だらけでも、実際に本当にあるのは部屋ではなく壁や天井等が存在できるただの「空間」なはずです。
それを部屋と外と区別しているのは自分の思考となります。
「私」も部屋と同じではありませんか?
視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚という壁と床があり、思考という天井で囲ったものが「私(エゴ)」ではないでしょうか?
ひとつひとつの感覚が消えてしまったとしたら、そこに残るものは何でしょう?
部屋と同じように何も残らないけれども、五感と思考が起こることの可能な、外でも内でもない空間とも「場」とも言えるものが常にここにあります。
空間は何も無いところを空間と言いますが、便宜上「空間がある」と表現します。
本当の私とは、それに近いものです。
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空間が家具に成りきって家具目線であれこれと思考しているのが普段の私達です。
「ああーもうずっとこの場所に置かれっぱなしだよー。部屋の模様替えで移動させてくれないかなー」
自分は本来、家具をも生み出す空間であるのに、家具目線になってしまっているため自分で制限しているのです。
これを分離とよく言います。
「部屋の模様替えしてくれないかなー」=自分では模様替えは無理!
という制限、分離。
自分は家具であるという認識。
その認識から家具目線での思考しかできないため、制限通りの現実を創ってしまいます。
もし制限された現実を創ってしまったとしても、それは自身で創った創造物として受け入れることです。
自己観察で言えば、それに対して起こった思考を観察し、流れて行くのを観察する。
自愛で言えば、その思考を認める、完璧とする。
意としない創造物をなぜか創ってしまうこともありますが、それに対して起こる考えも受け入れます。
嫌だと思ったならば、その思考を観察する、認める、完璧とする。
ここで否定し続けてしまうと、さらに否定の現実を創造してしまいがちです。
家具が空間自身の創造物であると気づくには、家具目線から離れることにより気づくようになっていきます。
それには家具目線の思考をしていることに沢山気づくこと、また自分は空間の方であることに気づくことが大事となります。
「空間などわからない!」
これも家具として言っている言葉です。
自分をよく観察してみて下さい。
あなたは肉体や思考という家具を包みこんでいる「意識(空間)」ではありませんか?
家具目線をやめて、「意識(空間)」としてただそこに在れば、自然と欲しいものを創ることができるのです。
あなたは既に宇宙の全てを所有している無限の存在なのです。
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>>269
横から失礼します
今の私にとても必要な言葉でした
意図していない(と錯覚していた)創造物を受け入れられず、それ(意図していない創造物)は私ではない(←これは分離ですよね?)と創造物に対して湧き上がる思考や感情を消そう消そうとしていました
思考を受け入れ観察します
横から失礼しました
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>>270
「それは私ではない」は本当の私を探求する際の否定の言葉です。
全ての家具や壁、天井を否定し、消し去った先には空間が残ることを知る方法です。
ですから、本当に嫌だなと思う事柄に使うものではありません。
なぜ嫌なのか?
それは家具としてみると嫌なんですよね。
本当のあなたは全てを包み込む空間であるのに、それを忘れひとつの家具に成りきってしまい、家具目線で良い悪いの判断をしてしまっています。
全てから分離して、分離した者として物事を考えています。
真のあなたは空間なのですから、すべて受け入れることが大事です。
上にも書いたように家具目線で嫌だ嫌だと否定することは、結局嫌だと思う現実を創り続けることに繋がります。
すぐにではないですけど、「またこれかー」という現実を創りがちになります。
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>>271
レスありがとうございます
はい。完全に家具目線になっていました
家具の視野で「私は空間である」と唱えているような状態になっていました(時々この状態から抜け出せなくなって、混乱することがあります)
家具目線から解放されたとき、あれほど煩わしく思えた創造物は完璧でした
意図していないと思っていた創造物は、完全に私が創造したものでした
あなたの言葉のお陰で気付けました
ありがとうございました
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>>272
長文でしたが、気づきに繋がったようで良かったです。
こちらこそ読んで下さりありがとうございました。
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>>266です
>>267さん、>>268さん、ご返答いただきありがとうございます。
お盆と部屋(空間)のお話、大変参考になりました!
思考・エゴを、置いてあるものに置き換えるだけでだいぶ想像しやすくなりました
この表現が合っているのか自信はありませんが、自分的に解釈したところ、本当の自分というのは
土台というか、海や空のような大きな位置にあるというような認識におさまっています。
またよく分からなくなってしまったらお2人が教えてくださった
例え方を思い出して一つずつやってみたいと思います。
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>>274
そうですね、海や空のようなもの、だと思います。
先日はお盆と例えましたが
よく言われるのは、
自分という個人は波だと思っているけれど、
本当は海そのものなのだ、と。
なのに海ではなく波という小さな存在、
なんなら、その波から飛ばされた小さな一滴だと思ってしまうが故に、自分は力のない何も選択できない存在だと勘違いしてしまうのだ、と。
これはとっても分かりやすい例えだなと思います。
波は波でありながら同時に海そのものでもあります。
ひとつひとつ観察しながら、時に海の立場として観察してみるのもありかなと思います。
一個人として自分を観察した時に、あれ、この観察しているのは誰?→自分だと思っている以外の自分があった
というのが自己観察さんの始まりだと思いますが、
それでうまくいかない人は、結論(本当は海)の立場に敢えて立って実践してみるのもありかなと。
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>>275
海と波の例え、とても分かりやすいですね!
また一つコツを教えて頂き、ありがとうございます。
先に結論に立って実践するのも新たな感覚がひらめきそうな気がします!
色々な角度から自己観察を実践してみます。
色々とご親切に教えて頂き、本当にありがとうございます。
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色んなメソッドとかアファとか試したけど、やっぱり自己観察だなと思う。
自己観察は欲望を叶える為のメソッドなんかじゃなく、制限のある、だからこそ美しい物質世界を楽む事ができる「全て」だったのね。
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フランクキンズロー博士のQEという手法がある。
QEスレもあるみたいだけど廃れてるのでこっちで紹介。
QEシリーズの本は何冊か出てるんだけど、その中で「クオンタムリビングの秘密」は自己観察挑戦している人にはマジでおすすめ。
観察の仕方、別の領域、そこで感じられる多幸感を感じるコツ、またQEは願望実現にも絡めているからこの板の人にはちょうど良いのではないかと思う。
ステマじゃないんだけど、自己観察についての情報過多で混乱している人はこれ1冊ですっきりまとまるんじゃないかな。
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>>278
ありがとう��!さっそく読んでみます
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>>278
あ、そうそう QEはまさに自己観察だよね。
当時QEのスレにそんなこと書いたよ。
実はセミナーも行ったけど、行ってよかった。
『クォンタムリヴィングの秘密』持ってるけど読んでなかった。読んでみます。ありがとう。
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レスありがとう!
通常の自己観察をやってもちっとも心が楽にならない。そんな人は読んでみて。
QEでは思考と思考の隙間に気づき、現象の背景に常に在る純粋な気づきに触れる方法が書いてある。
そこに触れると楽や静寂、喜びが湧いてくる。
いわゆる別の領域と、そこから湧き起こる快を感じることに特化していて面白い。
あと博士がくだらないアメリカンジョークをたまに挟むのがクセになる笑
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>>280
私はセミナーには行ってないんだけど、本は何冊か持っていて、最近読見直したらけっこうQEって大事なこと書いてあるなと改めて思って紹介してみたよ。
QEスレ廃れちゃったね〜、残念…。
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ある気づき共有。
自己観察の「自己」って自我、エゴのことだと認識していた。エゴ、自我を観察すること。
もちろんそうなんだけど、自我、エゴを観察すると、それを観察しているというか、ただただ現象に気づいているだけの「自己」が在る。
ここに気づこうと自己観察さんも言っていたね。
ダブルミーニングでもあったんだなー。
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今やっとようやく分かったんだけど
思考してない時間ってまさに別の領域だよね?
なんでこんなことが分かんなかったんだ?
いつもいつも毎度思考しているわけじゃないのは当たり前なのに
この瞬間は寝ている時とか生まれる前に感じている?ものと同じってことなのかな
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>>281
アメリカ人特有の必ずぶっこんでくるシニカルなアメリカンジョークを
笑える余裕があって羨ましい
自分は創作物なら普通にアメリカ人の著書読めるし楽しめるんだけど
気づきを学びたくて読んでる本に頻繁にジョークや
シニカルな言い回しがあるとイライラする
神との対話や思考が現実化するもダメだった
(特にシラミシャンプーだの橋から飛びおりるだのの例えが許せなかった)
「1ページに一文はジョークを入れないと死ぬ病にかかってんのか!?」とキレて
本を投げつけてしまった事もw
もっと余裕もてるように自己観察がんばる…
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>>285
www
すごくわかる。
でも、自己観察できてんじゃん。
そのうち、聖典を求めてる自分があほくさくなって、探求も終わるよ。
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>>284
エゴ=普段の自分のこと。
なので普段の自分についてのあらゆる思考から離れた所、エゴとは別の領域が「別の領域」。
だから無思考は別の領域だね。
またそれら思考を観察している立ち位置も別の領域だね。
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>>285
>神との対話や思考が現実化するもダメだった
これら読んだことなかったんだけど、やっぱりアメリカンジョーク挟んでるの?
国民性かねw
合う合わないあるかもねー。
話は変わるけど、確か神との対話の著者がテレビで本書いておきながら実践できていない自分はどうすれば良いかエックハルトトールに相談しててウケた。本気かわからないけどねw
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大半の人が自己観察ではなく自愛の方を選ぶのはどうしてなんだろう?
というか、どうして自愛が主流なんだろう?
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自愛から自己観察に発展したんだよね
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>>289
自己観察よりとっつきやすいからだね。
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>>291たしかに。
自愛と自己観察を併用している人いらっしゃいますか??
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久々に自己観察もどきをしたところ、頭頂部に何かが溜まっているような感覚になりました
嫌な感じはまったくしません
これって何なんですか? 分かる方いますか?
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>>293
自己観察がうまくいくと普段は経験しない感覚がおとずれることもあります。
293さんがただしく実践しているということだと思います。
その一方でそういう感覚は単なる現象に過ぎないわけで、そこにこだわることは何の意味もないともいえます。
その感覚があろうとなかろうと、自己観察状態が大事だ、ということですね。
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子どもの頃の、自分を見ているもうひとりの自分の意識を
思い出すことが出来たんだけど、普段生活をしていて頭を使う場面とか
人に嫌な事されるとまた元のエゴ視点に戻っちゃうな。損した!と思うと嫌だしむかつくし。
「自分」を手放すことのむずかしさを今感じてる
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思考にいつの間にか巻き込まれる前に、思考の発生の段階から気づくと別の立ち位置に居続けられるんだけど、これが行動していると忘れがち。
なんか気分が重いので10分間集中して行動中も観察し続けたら気分が軽くなってきた。
この時、意識は今に在ることがわかる。
気分の重さの原因もいろんな思考によるものなんだね。
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>>295
このレスではっとできたよ、ありがとう
子供の頃の「白い世界から、物理世界を見てる大きな目線」を
自分も思い出すことができた
オカ板の体験談でも
「生まれてから5歳くらいまでの間に「絶対に忘れないぞ」「絶対に忘れないぞ」と
言い続けてるもう1人の自分がいたけど、何を忘れないか忘れたw」
とかいうレス読んだことあるけど、たぶんこれも真我の事で
子供の頃って本来の自分をちゃんと意識できてるんだよね…
だから7歳までは神の子って言われるのかね
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>>294
どのメソッドでも毎回そうでした
単なる現象にこだわるせいでエゴがでしゃばってきて効果が出なくなる
ついつい忘れていました、ありがとうございます
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自己観察の視点ができるのって人によってはすごく難しいと思います。私もそうでした。
そこで、ババジのクリアハタヨーガのDVDをお勧めします。
やってたら中の人が出てきた。
また、最初に解説もついてて、ここで分かった人が言われている内容が分かりやすく解説されてます。
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それと「六根清浄大祓」という祝詞のがいいので現代語訳を載せておきます。
天照さまが言いました。
人は天の下にいる神さまです。
穏やかな平安を願う心こそ天照大御神さまと人のもとの主人です。
自分の無意識(魂)を傷つけないようにしましょう。
だから、眼にネガティブな映像が写っても、無意識には持ち込まないこと。
耳にネガティブな言葉を聞いても、無意識には持ち込まないこと。
鼻にネガティブな匂いを嗅いでも、無意識には持ち込まないこと。
口でネガティブなことを言っても、無意識には持ち込まないこと。
身体にネガティブなものが触れても、無意識には持ち込まないこと。
意識にネガティブな思いが起こっても、無意識には持ち込まないこと。
こうすると意識(理性)と無意識(魂)が清く澄んできます。
色々な現象(法)は 影や映像のようで実体はないのです。
清いのだから穢れなんかないのです。
論理的(理性的)に考えるとこの実感は湧きません。
この身は(神という)花のように美しいものから生まれたのです。
わが身は六根清浄なのです。
六根清浄だから、心の中にいる神様が具合良く内臓を動かしてくれています。
人の心の中にいる神様が穏やかだから、天地をつかさどっている神様も穏やかです。
天・人・地の神様が一体だから、万物のスピリット(霊魂)はひとつです。
思いはすべてかなっています。
そうでないと思うのは勘違いです。本当のあなたは無意識(魂)のあなた。
無意識の思いが実現しているので、意識(理性)の思いが実現しているのではないのです。
あなたの無意識が清いことがわかれば現象(法)あなたの思い通りに動きます。
これをシンクロニシティ(共時性)と言います。
このまとめも気づきを与えてくれたので
ttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-173.html
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本当に色々遠回りした。自己観察さんも探求初期で触れたけど真意をまだ理解
できていなかった。なぜあの時これ一本に絞らなかったんだろうと悔やまれるけど
それもまた必然だった。本当に長い旅だった…(泣)
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>>301
自己観察でどんな気づきがあったのですか?
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>>302
もうこのスレでも色んなスレでも色々言われてて、またかと言われるだろうけど…
単刀直入に言うと、「気付きに気付くこと」。はいQEでも前書きで書いてるレベルですね。
でも本当にそれだけなんです!
気づき=別の領域です。
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>>303
横ですが、
気づきっていうのは例えば「ある思考に気づいた」←この「気づき」でいいんですかね?
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>>304
そう。それです!それだけなんです。
それを常日頃維持するようにするだけです!
ただ自分も探求初期に陥りがちだったのが、最初から思考を観察しようとすると絶対思考に飲まれますw
今ここの現実に気付くとやりやすいです。つまりマインドフルネスです。
「私は今、レスを書いている(事に気づいている)」
「私は今、窓の外を見ている(事に気づいている)」
今ここの現実を定点に定めておくと、感情が発生したときにハッと気づきやすいです。
瞑想と同じですよね。呼吸を定点に定めて呼吸から意識がそれたらそれに気づいて戻す。
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>>305
ありがとうございます。
現実に気づいていくってのはわかりやすいですね。
あまりあっけなさ過ぎますが、
気づき=別の領域とわかったこととそれによって起こった変化とかはありますか?
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>>306
現実面での変化は起きていません。
(※はぁそうなんだよなぁ。現実はまだなんんだよなぁって私は悲しんでいる。)
↑気づきのラベリングです。
でも死ぬほど望んでいた幸福感がこんこんと湧き出ています!あれだけエゴに振り回されていたのに!
ちなみに自己観察は淡々と気づくだけで実は自愛になってるんです。
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>>306
おまけで、日中マインドフルに行動してると、それだけで無駄な思考のループが断ち切られます。そう、108式の自分を責めない1日メソッドが簡単に達成できるんですね〜。
306さんは今していることに気づいていますか?気づきを保っていますか?
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>>303
気づくことに気づき続けることが今に留まらせるということなんでしょうね。
QEのトライアンギュレーションもそうですよね。
触れている指に気づき続ける。
そうすると多幸感や安心感が湧いてくるんですよね。
ポイントは、気づきに気づく=「今」に在り続ける、なのかなと思います。
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QEスレが廃れてるからこちらに書くけど、セドナメソッドの作動原理がやっとわかった。
セドナ本ではなぜそうなるのか考えるなとは書いてるけど、分かりたい気持ちはしつこく
湧いてくるわな。
自己観察にも関係あるんだけど需要あるかな?
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>>310
同じ手放し系だし良いんじゃない?
どうぞどうぞ。
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ありがとう。
セドナのあの質問形式。なぜ、あんなに冗長なんだろうと思ってたのよね。
それがQEやマインドフルネスを知るようになってその疑問が氷解したのよ。
すべては「自覚」を促すためだった。
つまりマインドレスネス(自動操縦)からマインドフルネス(気づき)への移行。
QEでは気づくだけで変容が起こるよね。
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だからセドナは質問して自分が何を考えているのか気づくだけでよかったんだ。
セドナ本でも、質問の答えが「いいえ」でも解放できることがありますって言うのは、「気づき」のおかげだった。
むしろ、自分の思いに反して形式的にハイハイと答えるのは意味がないんだなと。
手放そうとせず、ただ自分の思いに気づくだけでよかったんだと気づいたよ。
駄文失礼しました!
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>>313
つまり、普段無自覚に考えていることをしっかり自覚するため冗長な一連の流れがあるってことね。
これは自己観察はもちろん、自愛もそうだね。
思ったのが、どれもとりあえず実践はするものの、「あまり楽にならないな…どうすれば」という考えに無自覚にハマってしまい途中で止まってしまうという所だね。
「あまり楽にならないな…どうすれば」にも自覚して手放して行くのが必要だなと。
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>>307
その後認識変わってどうですか?
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ここでおすすめされてたクォンタム〜の本よかった!
ありがとう。今まで自分が潜在意識活用について抱いていた疑問も前半部分で上手に説明してくれてた。
でも自分の場合、いきなりこの本ではQE理解出来なかったかも。
数年前、潜在意識ちゃんねるを初めて知った頃、インサイトを聴きながら瞑想の真似事をしてたのね。
すると、本当にたまにだけど思考が途切れて空白の状態になることがあって。体験としては興味深かったんだけど、智慧が得られるとか現実が動くといったこともなかったんでふーん、で終わってしまったんだけどクォンタムを読んであの状態が気付きだったのかと理解したよ。
あとはたまたま数ヶ月前にkindleで「嫌いなヤツを消す方法」って本に書いてある方法を実践してたんで、下地が出来てた感じかな。
この本も自己観察だと思う。
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イライラしたとき、イライラしてるなーって自己観察するけど、は?イライラしてるなーって思わんでもイライラしてんの分かってんだろボケ。て余計にイライラするんだけどどうしたら....
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>>317
そういう時はたいてい感情に対する感情がセットになっているからそれに気づく。
自己嫌悪が多いかな。今回はボケっておもってるんだなあって気づく。
とはいえ強い感情の時ほど自己同一化しているから客観視は難しい。
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そういう時は諦めて感情をただ感じる。
そして普段から自己観察の視点を維持するようにレベル上げしていくと客観視を維持しやすくなるよ
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とりあえず別の領域の場所と目を向ける方向はわかった
でもそれ以外はまだ腑に落ちてないw
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質問受け付けるよ!
気が向いたら答える!
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>>321
見てるかな?
生活の中になるべく気づきを取り入れてるけど、それはエゴの中の気づきであって別の領域からの気づきでない気がするんだ
エゴに気づくエゴという感じ
これは自己観察になってるのかな?
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>>322
見てるよー!なるほど。
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これ説明するのややこしいけど何とか。
気づいているのはいつだって別の領域(と便宜上しとこうか)なんだ。
エゴは気づかれる方であり、ただの思考だからエゴが気づくってことはないの。
エゴが気づいてるのか?と思うのは例えば、
①思考に気づく
↓
②「これエゴが気づいてるのかな?」
と、②の思考に呑まれてしまっているんだ。
ちなみに①も②も別の領域内で起きてる。
②に自己観察で気づけばその問題は解決すると思うよ。
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単純に「エゴが気づいてるのか?」の思考も観察する。で自己観察できてることになるから大丈夫だよー。
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>>325
なるほど。即レスありがとう!
考えたことなかった視点だから参考になった。
ちなみに自己観察は何年も前から知ってたけど、なんかできなくて、ここ1ヶ月くらいまじめに取り組み始めたところなんだ。
基本めちゃくちゃネガティブな性格なんだけど、精神が無風の状態になることが増えてきたよ。
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>>326
無風にいつも在るようになってきたら、奥底から幸せ感湧き出てくるようになるよ!
がんばれー!
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>>325
横ですけど、
気づいてるだけでいいのかな?
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>>328
気づくだけで良いんだけど、観察して仕組みを解き明かしていくと言うのかなー。
例えば思考だけど、思考している時もしていない時も自分は在るよね?
思考していない時に自分が消え去るということないしね。
ということは、普段思考が自分と思っていたけれど、実はそうではないと気づく。
このような気づきを観察によって増やしていくの。
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>>329
ありがと
認識の変更したいけどなかなかしなくて、
ふといつも不足なり何なり気づいてる自分がいるなと思って
だからといってそれ以上ば今のところないんだけど
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あとは身体も観察したりね。
普段身体が自分だと思っていたけど、例えば腕を無くしたら自分ではなくなるのか?を想像したり。
また例えばコップの水を飲んだら、どの段階で水は自分になるのか?なんて考えたり。
脳が自分だ!と思うなら、クローンを作って全く自分と同じ肉体を持った人間が生まれたら、それは果たして自分なのか?とか笑
そう考えると身体も自分じゃないし、思考も自分じゃないなと気づく。
そう言った「気づき」を観察や洞察で増やしてみるの。
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>>330
気づきの積み重ね。
こういったことに興味あるということは、既にそのレールに乗っかってるからね。
いずれわかるよー!
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>>332
再びありがと
あとは気づいて行ってみてってことですね
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>>327
例えだけど、以前は嫌なことがあると1週間は嘆いたり悲しんだりしていたのが、だんだんと3日、1日と期間が短くなってきた。
こんな感じでいいのだろうか。
それでも昔体験した象徴的な悲しい出来事は、繰り返し思い出して未だに泣いたりしてしまうけどね…
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>>334
それでいいの。
過去の象徴的な出来事も、今ここ(別の領域、本来の自分)から見たら、今起きた思考であって本当にあった現実なのかもわからない。
みたいな気づきが定着してきて、いずれその記憶も薄らいでいくよ。
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今自己観察さんのまとめ読んでます。
認識変更して日が浅くて、ぶれぶれ?日々起こることにエゴが反応して、それに翻弄されるのがまだまだありますが、自己観察さんのまとめはこの段階で読むとよく分かります。
めちゃくちゃ助けになってます。
自己観察さん及びまとめてくれた人に感謝してます。
ありがとうございます。
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うーん、やっぱり自己観察なのかも。
気づいたのは、願望を実現しようと必死になってた自分であり、現実をコントロールしようとしていた自分。
これって実現しようと必死になればなるほど、現実はコントロールできないことを自ら表明してるよね?
じゃあどうするか?ということで「必死をやめる」「何もしない」という考えになるのは当たり前だけど、これも結局は「現実を変えたいから何もしない!必死やーめた!」ってことであって、相変わらず必死にコントロールしようとしているね。
でまたまたどうするか?と悩んだけど、そんなあれこれコントロールしようとしてる自分(エゴ)に気づくだけだなと思った。
気づこう気づこうまでは必死でいい。
でもそんな必死な自分に気づくと急激にエゴがしぼむ。コントロール云々から抜け出た感じ。
あれ?ここが別の領域か?と。
「別の領域に浸っていれば良い」という自己観察さんの表現通りなんだけど、この表現通り受け取ると、叶えるために一生懸命別の領域に入ろう入ろうと必死になるんだけど、その必死に入ろう入ろうとする自分に気づくことがそうなんだなとわかった。
ここで本当にコントロールを手放した「何もしない」になるんだね。
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別スレだけどなるほどさんの「ぼーっとする」やってたら、日常生活でも出来るようになってきて、
あー思考が湧いてるなあ、こう感じてるなあ、いま○○してるなあ、なんてフラットに感じてて
あれ、感じてる時って常に一定の視点じゃない?
あれ!?これって自己観察してない!?!??これが別の領域か!!となった
別の領域www意味わからんwwwwと思ってたから全然まとめ読んでなかった
自己観察さんの言ってること矛盾だらけやんとエゴまみれで思ってた
今は言ってることがめちゃくちゃ分かるし、ずっと同じ視点から発言されてたのも分かる
エゴとは別の領域って意味なのも今ならよく分かる…
ここにいれば焦りも不安も感じようがないけど、その感覚を色んな角度で昔から説明してくれてたんだなあ
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>>338
そこにいることによる物理的変化ってのはあるの?
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>>72
>私は昔から、空間に非常に細かい無数の粒子が見えます
亀レスなので、72さんは、もう見ていらっしゃらないかもしれませんが、コメントします。
自分はかなり前に、世界の映像も自分も消えて、微粒子状態の繊細で清らかなエネルギーだけの世界を見たことがあります。
「ドラゴンボール」の悟空がスーパーサイヤ人になったときに、カラダの周りに気のエネルギーが生じてゆらゆらと揺れていますが、あれに似ています。カラダが消えて、エネルギーだけが細かい粒子になって生成消滅をその場でくり返しているような感じでした。
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思考の内容じゃなくて、思考そのものを観る。
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「私は不幸だ」
「私」というイメージ、「不幸」というイメージ。
言葉のひとつひとつにイメージを持たせ組み合わせて「私は不幸だな〜」と感じてしまう。
そのイメージは誰が創ったのか?
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もちろん私自身であるけれど、その「私自身」もイメージ。
ではそれを見抜いた時に何が残るのか?
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思考がポンポン湧きだす度にポイッと捨てて行くと、ただ無思考を観ている「私」がそこには残る。
そこに気づき「私」もポイッとしたら?
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>>344
私もポイッとしているのは誰だろうか?
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>>345
ポイッとするのは「私」だね。
昔誰かが言ってたけど、トゲを抜くためにトゲを使い、抜けたら両方とも捨てる(消える)と。
それと同じだね。
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ポイッとしてる私もされてる私も観察対象
では観察対象ではない、観察者である「これ」はなんなのか?
でも「これ」と指し示された時点でそれも観察対象なんだけど
そのことに気付いている、真の観察者も存在しているんだよね
二元論の世界を脱するってこういう意味もあったのかなと思う
観察する者とされる者の二つが存在するように思ってきたけど、そう捉えた瞬間に観察する者も観察される者になる
でもその瞬間にもその両者に気付いているだけの真の観察者が居て。
わかろうとして探しているとずっと気付けないけど、「気付き」が癖になってくると考えたり探すのを自然とやめられるようになって、わかる。
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横ですが、なので世界と自分はくっついてひとつと言われたりするのかなと思いました。
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1月に軽く認識変更して、自己観察さんのまとめ読んだら分かる分かるってなって、いつの間にか焦って認識深めたいと思って、昨日エゴが爆発し、気づいたら蓋になってたことが分かりました。
自己観察さんの口調自体は淡々として薄味なのかと思いきや、思ったより濃かった!
多分まとめられてるから尚更なんでしょうけど。
続けて読み進めるものじゃないな、と反省しました。
とりあえず、1月初旬に戻ってやり直します。
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わかるのって楽しいけど、でも
「わかるわかる!」って言ってるそれはエゴなんだもんね。
話は変わるけど、なるほどのさんのぼーっとする、はほんとお勧め。一番簡単に感じられる「別の領域」だと思う。「別の領域」、それなんだよ、ってなってる人はぜひ。
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>>350
それ「なるほどさんの」って付ける必要ある? と思ってしまったけど、ある?
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