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【転載】投稿記事の掲載。

1有尋有伺:2020/12/06(日) 12:57:21 ID:6erUuVP60
投稿記事の掲載。
2010年01月15日 22時59分50秒 | 閑話休題


この記事は、管理人エムさま(石飛道子先生)の掲示板に書き込んだものの、
内容が場違いのように思えて削除した記事です。
(経典そのものからは逸脱した内容なので、こちらのホームグラウンドで書くべき内容だと判断したのです)

読んでみたいとご希望された方がおられたので、こちらに掲載することにしました。



記事No : 7173 [関連記事]
投稿日 : 2010/01/15(Fri) 08:38:10
投稿者 : 和井 恵

管理人エムさま、おはようございます。


> > ええ、四念処と七覚支を連動させた四禅定ならば、それを修することで少なくとも
「五妙欲」を断ずるという離解脱は達成できるはずです。

> > そしてもっと簡単な方法は、正覚とはちょっと言い難いやり方ですが、
「思い込み」を利用するという方法もあります。

> > つまり、「五妙欲」そのものが、今までの経験によって造り出された薫習・習気(思い込み・囚われ)から
生起していますから、

> > その真逆の「思い込み」をイメージ・トレーニングで造りだして、
それを使って「対消滅」させてしまうんです。

> > (おそらく釈尊は、この方法も「正見解(解脱に役立つ見方)」という形で使われていたのだろうと
考えています)
>
> そうみたいですね。不浄観も、そうですよね。

2有尋有伺:2020/12/06(日) 12:59:59 ID:6erUuVP60
ここからは、釈尊の教えを解釈するとこうなる、
ではなくて、私自身の考えをそのまま書かせて頂きます。

四念処では、「我が身これ不浄なり」という不浄観が説かれますが、
これは別に「身体は不浄なんだ」と断定しているわけではありませんよね。

五下分結の一番最初、「有身謬見」という身体への囚われ(我執・妄執)に対して、
その対象(身体)を「不浄である」とイメージし続けることで、
それを「苦しみそのもの」に転変させてしまう。。

すると、そこに「厭離の相」が現出します
(これが、厭離・離貪の成就・達成のサインです)。

このプロセスによって私たちは、この身体(を始めとする諸々の対象)を
「非我(我執の対象から除外されたもの)」にすることが出来るんです。

一方密教の場合は、「不浄観」ではなく「清浄観」を活用します。

例えば、身・口・意の三密を整えるために一番最初に修する「護身法」などでは、
塗香の所作を終えた後で、浄三業の真言を唱え、蓮華合掌をして、
『一切諸法は自性清浄なるがゆえに、我もまた自性清浄なり』と観想します。

そしてさらに、仏部三摩耶の真言を唱え、印を結び、
『仏部の諸尊行者を加持して、すみやかに身業清浄なることを獲得せしめて、
罪障消滅し福慧増長す』と観想します。

この修行法の基(ベース)となっているのは、「非我(離欲)」ではなくて、
「無我(無相の証知)」なんですね。

喩えて言えば、目の前に赤々と燃える「炎」があったとします。
そして、それに近づくと火傷をする、
これは「苦」だ、と捉えて観るのが「不浄観」です(ここに智慧はありません)。

ところが、そうではなく、
「この炎そのもの」は、果たして善なのだろうか、それとも悪なのだろうかと考える。
すると、炎そのものは、善でも悪でもなく、
それは条件に依って善に見えたり悪に見えたりすることがあるのだ、ということが解る。
ですから、炎が暖炉の中の薪と縁を結べば「暖房」という善果が生じますが、
その炎が部屋のカーテンと結びつくと「火事」という悪果が生じます。

しかし、「炎そのもの」は、その現象的な顕れを超えて「善でも悪でも無いまま
(自性清浄)」なのだ、と捉えて観るのが「清浄観」の観法です。
(ここでは、無我・縁起・空性という智慧・正覚が観法の土台として置かれていますが、
離解脱を達成せずに使いこなすのは難しいと思います)

ですから、炎(煩悩と呼ばれているエネルギー)を本来の姿(無相)に戻し、
智慧を駆使して善用する(転変させる)ことが密教の方法なんです。

3有尋有伺:2020/12/06(日) 13:01:15 ID:6erUuVP60
> でも、阿羅漢果に到達しても、戻る場合もありますよね。

というエム先生のご指摘は、
成就するために修した方法の「選択(択法)の違い」によって、
そのような結果が顕れてくるのだと理解しています。

「思い込み(解脱に導く見解)」だけを使って成就してしまうと、
離解脱した後でも、その「思い込み」が残ってしまいます。

ですから釈尊は「筏の喩え」を説いて、その「思い込み」を捨てなさいと
指示をされたんです。

| 3 さてその林の荒れ地に住みついている神は、
|  その修行僧が聖典の教えをとなえるのを聞かなくなったので、
|  その修行僧のところに近づいた。
| 4 近づいてから、その修行僧に次の詩で語りかけた。───
|    「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、
|    なぜ真理のことばをとなえないのか?
|    真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、
|    心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞賛を博する。」

| 5 〔修行僧いわく、───〕
|    「昔は、わたしは離欲を達成するまでは
|    真理のことばを学びたいという願望がありました。
|    いまやわたしは、離欲を達成したからには、
|    見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
|    すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、
|    立派な人々は説かれました。」

|( 「ブッダ 悪魔との対話」第Ⅸ篇 第10節 中村元・訳 )

4有尋有伺:2020/12/06(日) 13:02:41 ID:6erUuVP60
これは、喩えて言えば、
楽器の弦が「緩みすぎていた(それは楽しい・我がものである)」ために
色々な不具合が生じてしまっている。

そこでそれを正しく調律するために、その真逆のイメージ(苦である)を使って
「引き締める」ことをするわけですが、
その「調律」が済んだときに「引き締め」を止めないと、
今度は今までとは違う意味での「苦」が生起しつづけることになります。

そこでそれを「捨てること」が必要になるわけですが、でも、捨ててしまうと
「刺激(誘惑)」に対する反作用(抵抗力)も無くなるんですね。
ですからこの場合の(思い込みによって達成された)「調律状態」は、
他から強い刺激を与えなければ、そのまま保ち続けることができますが、
世間(五妙欲の誘惑)からの「遠離(隔離)」という「温室状態(出家生活の環境)」
が崩れてしまうと、そのまま逆戻りしてしまう可能性があるんです。

つまり、ただその状態に到達しただけで、そこに自ら留まり続けるような
「働き(フィードバック・システム)」を身に付けていません。

「一切皆苦」をイメージし続けることで
「厭離の相」が日常生活の中で現出(顕現)した瞬間が、
不還果の達成(心解脱の成就・観察対象からの厭離・離脱)であり、
それがそのまま阿羅漢(心解脱の完成)への参入(スタート)となるのです。


|409 そのとき、わたしに、正しい道理にかなった思いが起った。
|  患いであると思う念いが現れた。
|  世を厭う気持ちが定まった。

|410 次いで、私の心が解脱した。
|  見よ、──教えがみごとに真理に即応せることを!
|  三つの明知をすでに体得した。ブッダの教えはなしとげられた。
|  
|  サッパダーサ長老

|(「テーラガーター 仏弟子の告白」中村元訳 岩波文庫)

5有尋有伺:2020/12/06(日) 13:04:33 ID:6erUuVP60
そして慧解脱は、「無常なるが故に苦である」の「無常」の本質・縁起・無相を
ここで「同時に」証知することが出来れば成就(スタート)します。

無常を、苦をもたらす因と観て、その無常を形成する原理が縁起であることを知る。
さらに、その縁起の本質が無相(実態のないもの)であることを実感するのです。

縁起を単なる「因果律」として捉えてしまうと、苦の滅尽には至りません
(それはただ、「変化する・廻るもの」でしかないからです)。

対象同士(これとかれ)の関係として客観的に観て(捉えて)しまうと、
それらの「無常の変化」だけしか観えないのです。

そうではなく、自己と対象との「関わり方」として捉えた場合、
此(これ)と彼(かれ)との関係は、自己の「選択」がそのまま関与してきます。
それに「依存すれば(縁起)」苦が成立してしまい、
「依存しなくなれば(縁滅)」苦が成立しなくなる、
という関係をそこで証知するのです。

それを直感(直接知覚)できたときに、苦もまた「無相(実体のないもの)」であると、正しく認知・理解することができるのです。
苦しみからの「厭離・離貪」が心解脱を成就させ、
苦しみ(苦と苦の生起)の本質を証知することが、
そのまま慧解脱を成就させることになるのです。

この「苦しみ(苦と苦の生起)の本質を証知する」ことが、
私たちの心の働きに「心理的な基準(目標)」を設定させます。

6有尋有伺:2020/12/06(日) 13:06:24 ID:6erUuVP60
サイバネティックス理論では、
人にはサーヴォ機構という自動調節システムを、
生まれながらにして身に付けていると説明しています。

あるひとつの「目標」が設定されてしまうと、
それから外れないようなフィードバック作用が働くようになると言うのです。

例えば生理的には、私たちの体温や心拍数を一定に保とうとする
ホメオタスシス(恒常性)という働きとなって顕れてきますし、
心理的には、自己(という囚われ・セルフイメージ)を守ろうとする
自己保存本能と呼ばれるような心理作用となって顕れます。
(この心理作用の「間違った目標設定による誤動作」が、
我執と呼ばれているものなのです)

ですから、離解脱と同時に、明確な「目標設定」を感得することが出来れば、
そこで力強い「新しい刷り込み(マインドチェンジ)」が生じて、
そこから、まったく今までとは異なった、
新しい心理的・生理的なフィードバックシステム(調律の恒常性を生じさせる作用)が
形成されるんです。
(そして、この働きが生じた場合には、自動調節システムが起動するので
「筏の喩え」そのものが必要なくなります)

7有尋有伺:2020/12/06(日) 13:09:56 ID:6erUuVP60
> >  『 この食べ物の滅から、生じたものは滅する法(性質)であると、
如実に、正覚によって見る。』
> >
> > ですから、ここでの「生じたもの」とは「苦しみ」のことなのだと
捉えることが出来るのではないでしょうか?
>
> ああ、なるほど、それもありですか。
わたしは、滅することが苦に直結していくから、生じたものは滅すると知ると、
生じただけではわからないが、
> それは、滅するのだと知るとき、苦につながるだろう、
というように考えたりしていました。
> 生じたものが、即、苦しみであれば、すぐに厭離できそうですね。

はい。「生じたものは、即、苦しみである」と知る(あるいは観る)ことが
最も重要なんですね。
(生じたものとは、自己に生起した対象への「依存関係」のことです)。

ダンマパダ(273)の中で釈尊は、

| もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。
| もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。

と説かれています。ですから、「生じたものは、即、苦しみである」と知ることが、

そのまま《 現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの 》に即応するんです。


| 教法は世尊によりて善く説かれた。
| すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの、
| 来り見よというべきもの、よく涅槃に導くもの、
知者がそれぞれに自ら知るべきものである。

|(増谷文雄、『新しい仏教のこころ』、講談社、74頁)

8有尋有伺:2020/12/06(日) 13:12:09 ID:6erUuVP60
記事No : 7175 [関連記事]
投稿日 : 2010/01/15(Fri) 08:42:42
投稿者 : 和井 恵

エム先生、前レスからの続きです。


> > 「二種の観察」や「四念処」には、二つの果報が説かれているんですね。
>
> そうですね。。
> >
> > |このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、
> > | 二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。
> > | ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、
この迷いの生存に戻らないことである。」──
> > |
> > |(「ブッダのことば スツタニパータ」
第三 大いなる章 12.二種の観察/中村元・訳 )
> >
> > |友よ、四念処の一分を修するが故に有学(この場合は不還)である。
> > |
> > |友よ、四念処を完全に修習するが故に無学(阿羅漢)となす。
> > |
> > |( 念処相応 第三 戒住品 第26、27、
阿那律の説法より抜粋/インターネットによる検索より )
> >
> > 不還果は、そのまま阿羅漢のスタート(入り口)ですから、
私はこの不還果を得ることが修行過程の一つの区切りになるのだと考えています。
> > そしてここで、そのまま心解脱の完成へと向かうのか、
慧解脱の達成へと向かうのか、
その人によって方向性が分かれてくるのだと理解しています。
>
> ふうむ。。なるほどぉ。。なるほど、ばかりですが、こうしてみると、
不還果は重要ですね。岐路になりますね。

「四向四果」は、途中から(釈尊の活動がある程度広まってから)
説かれるようになった教えだと考えています。
ですから最初は、ここ(不還果)が修行における一つの「分岐点」として
捉えられていたのではないでしょうか?

例えば、下記の経典は、釈尊が悟りを開いた直後の様子を描いています。

9有尋有伺:2020/12/06(日) 13:13:28 ID:6erUuVP60
|1 わたしは、このように聞いた。
|  或るとき尊師はネーランジャラー河の岸辺に、
|  アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにおられた。
|  さとりを開かれたばかりであったのである。

|2 そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かな瞑想にふけっておられたが、
|  心のうちにこのような考えが起った。
|  「他人を尊敬することなく、長上に柔順でなく暮らすことは、
やり切れないことである。
|  わたしはいかなる(道の人)またはバラモンを尊び、重んじ、
|  たよって生活したらよいのだろうか?」と。

|3 そのとき尊師は次のように思った。
|  「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、
|  わたしは他の(道の人)あるいはバラモンを尊び、重んじ、
たよって生活したいものである。
|  しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、
|  (道の人)やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、
|  わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。
|  わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

|4 まだ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、
|  わたしは他のバラモンまたは(道の人)を尊び、重んじ、
たよって生活したいものである。
|  しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、
|  (道の人)やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、
|  わたしよりも以上に禅定を達成し実践している人なるものを見ない。
|  わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。


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