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【転載】投稿記事の掲載。

8有尋有伺:2020/12/06(日) 13:12:09 ID:6erUuVP60
記事No : 7175 [関連記事]
投稿日 : 2010/01/15(Fri) 08:42:42
投稿者 : 和井 恵

エム先生、前レスからの続きです。


> > 「二種の観察」や「四念処」には、二つの果報が説かれているんですね。
>
> そうですね。。
> >
> > |このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、
> > | 二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。
> > | ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、
この迷いの生存に戻らないことである。」──
> > |
> > |(「ブッダのことば スツタニパータ」
第三 大いなる章 12.二種の観察/中村元・訳 )
> >
> > |友よ、四念処の一分を修するが故に有学(この場合は不還)である。
> > |
> > |友よ、四念処を完全に修習するが故に無学(阿羅漢)となす。
> > |
> > |( 念処相応 第三 戒住品 第26、27、
阿那律の説法より抜粋/インターネットによる検索より )
> >
> > 不還果は、そのまま阿羅漢のスタート(入り口)ですから、
私はこの不還果を得ることが修行過程の一つの区切りになるのだと考えています。
> > そしてここで、そのまま心解脱の完成へと向かうのか、
慧解脱の達成へと向かうのか、
その人によって方向性が分かれてくるのだと理解しています。
>
> ふうむ。。なるほどぉ。。なるほど、ばかりですが、こうしてみると、
不還果は重要ですね。岐路になりますね。

「四向四果」は、途中から(釈尊の活動がある程度広まってから)
説かれるようになった教えだと考えています。
ですから最初は、ここ(不還果)が修行における一つの「分岐点」として
捉えられていたのではないでしょうか?

例えば、下記の経典は、釈尊が悟りを開いた直後の様子を描いています。


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