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大日如来はブラフマン
1
:
時
:2013/05/26(日) 04:42:27 ID:kaIVvnv2
和井恵さん、始めまして。最近、仏教の教えに興味を持った者です。
釈尊の教えにある、縁起の法(四聖諦・八正道)は、四句分別の否定の理解が起これば涅槃に到達するのでは
ないでしょうか?涅槃に到達すると言う表現も変ですね。それは言葉で表現した瞬間に変質してしまう・・・
涅槃は、そのように理解しています。
こちらのブログで眼から鱗だったのが「空は非想非非想と同じ」と言うような事が書かれていたのを見た時で
す。なるほどと言う思いでした。
空の極至は八不で真諦。非想非非想処は想わず・想わずに非ずの処。と言う事で正定(八正道)の極致で真諦。
この境地を超えられれば・・滅尽定になるのでしょうか?この滅尽定と涅槃との関係が今ひとつ掴め切れていま
せん。
空についてですが、空は無自性ですので当然八不(不生の一不でも良いような)になり、同時に諸行無常(俗諦)
を表現しているように思いますがどうでしょうか。それと不思議なのが大乗等で説かれる大日如来や菩薩等なの
ですが・・これは、バラモン教のブラフマンの思想形態と何が違うのか分からないのです。なぜ釈尊の教えを根
底において学ばれたはずの高層達が、再度、大日如来等を曼荼羅の中心に描いたのか・・自力での苦の滅尽を説
いたはずの釈尊の教えが、なぜに他力の大乗の教えに変化したのか・・「皆空も空=空を空じる」で最終的に全
ては問題が無くなりますが、このような空の概念をいきなり説いて、はたして一般的に理解が起こるのだろうか
・・思考すれば思考するだけ疑問が沸き起こりますね。まだまだ修行不足です。何かとりとめもないお話になっ
てしまい申し訳有りません。
2
:
特明@討論希望
:2013/05/26(日) 23:31:07 ID:EgcCTBig
こんにちは、時さん。
> 釈尊の教えにある、縁起の法(四聖諦・八正道)は、
> 四句分別の否定の理解が起これば涅槃に到達するのではないでしょうか?
── 「四句否定」は、四聖諦を正しく理解するための「必要条件」なのです。
「四句分別」とは、「有る・無い」や「真・偽」といった「相対的な二つの価値」を利用して、
存在論〈ある特定の決めつけ〉を思考によって創作してしまう、あるいは選択してしまう「意行」なのです。
そして、その人が、ある特定の「見解〈価値観〉」を持つ、ということは、
その価値観へのこだわりそのものが、「執着」の結果なので、遠離 ・離貪・解脱・覚りへの妨げとなるのです。
それに対して、四聖諦は、「価値観〈見解〉」に執した「存在論」などではありません。
どうすれば、苦を滅することができるかという、具体的な「方法論〈How to〉」を略説したものなのです。
四聖諦は、苦の生滅のポイントをを「渇愛」の有・無に置きます。
そして、これが大原則で、これのポイントを外してしまったら、四聖諦は無意味になるのです。
渇愛が有れば、苦が生起し、渇愛が無ければ苦は生じない。そして、渇愛を滅すれば苦も滅尽する。
そして、渇愛を完全に滅ぼす道が「八正道」であり、完全に滅ぼした状態、それが「涅槃〈ニルヴァーナ〉」なのです。
これが、釈尊の「初転法輪」によって定義付けられた「涅槃〈ニルヴァーナ〉」の原義なのです。
> こちらのブログで眼から鱗だったのが
> 「空は非想非非想と同じ」と言うような事が書かれていたのを見た時です。
> なるほどと言う思いでした。
── 実は、この認識に到達した時に、
自分の中で、何度も何度も自問自答を繰り返したんですね。
そして、それが本当に正しいのだと判断するまでには、かなりの時間かかりました。
何と言っても、大乗仏教が「第一義諦」と呼んでいる教えでしたからね…
しかし、やっぱり、釈尊の教えのカテゴリーから言えば、
「非想非非想処〈Aでは無く、そしてAで無くもない〉」という教えを意味していて、
それはまた「四句分別」の四番目の「非A非非A」というカテゴリーを表わしているのです。
もっと、別の表現をするならば、不一不二の「無分別」という「分別」の領域。
釈尊は、三つの処〈領域〉を説いています。
1.有想処 … 別名「七識住」とも呼ばれ、現象界から、無所有処までの七つの階層世界を指します。
2.非想非非想処 … 不一不二、無分別、あるいは「不苦不楽」の世界。
3.無想処 … ここに到達すれば「想受滅」なのですが、普通は気絶状態になるので、
釈尊が教えた「想受滅定」を成就させるには、特殊な修行が必要なのです。
> 空の極至は八不で真諦。
> 非想非非想処は想わず・想わずに非ずの処。
> と言う事で正定(八正道)の極致で真諦。
> この境地を超えられれば・・滅尽定になるのでしょうか?
> この滅尽定と涅槃との関係が今ひとつ掴め切れていません。
非想非非想処を超えるポイントは、ブログ記事に書いてあります。
小空経に説かれている「無相心三昧」のプロセスが、それに当たるのです。
その1.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0228aca4e5b588cfc65771c52a0d13d7
その2.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/d5db6a504b400c93a04a8de32f4a275e
非想非非想処を超えて、尚かつ「気絶状態」を克服しているならば「想受滅定」なのです。
そして、その時、「無想処」の境地にいるので、心作用〈想と受〉は消滅しています。
それと同時に「渇愛」もそこでは必ず消滅しているので「涅槃と同じ状態」が成立している世界なのです。
※ 涅槃とは、どの世界〈処〉に居ようとも、渇愛の働きが滅していれば、それが「涅槃」なのです。
何処に居ようとも、そこで渇愛を有していれば「涅槃」では無く、渇愛を滅していれば「涅槃」なのです。
〈 つづく 〉
3
:
和井 恵
:2013/05/26(日) 23:34:40 ID:EgcCTBig
※2.のコメントは「和井 恵」がしました。
> 空についてですが、
> 空は無自性ですので当然八不(不生の一不でも良いような)になり、
> 同時に諸行無常(俗諦)を表現しているように思いますがどうでしょうか。
そうですね、「無常」のベースに「空〈縁起〉」が来るので、そうとも言えると思います。
> それと不思議なのが大乗等で説かれる大日如来や菩薩等なのですが・・
> これは、バラモン教のブラフマンの思想形態と何が違うのか分からないのです。
> なぜ釈尊の教えを根底において学ばれたはずの高層達が、
> 再度、大日如来等を曼荼羅の中心に描いたのか・・
大乗仏教の目的は「衆生済度」です。
大日如来なども、基本は「空」なので、仮設された仏〈方便〉なのですが、
しかし、ただそれだけではありません。
密教で大切な一つのポイントとして、「法力〈超越的な加持力〉」の体現を必要とするので
す。
それを発動させるためのシステムとして、大日如来を中心とした「曼荼羅」が役に立つので
す。
つまり、単なる「バラモン教のブラフマンの思想形態」とは、似て非なるもの…なのですね
。
> 自力での苦の滅尽を説いたはずの釈尊の教えが、
> なぜに他力の大乗の教えに変化したのか・・「
> 皆空も空=空を空じる」で最終的に全ては問題が無くなりますが、
実際には、問題は無くなりません。
釈尊は、「非想非非想処」には、無智〈無明〉が潜在すると説いているのですから。
ですが、この境地に到達して留まることが出来るのならば、現世においては最強かも知れま
せんね。
「有想処〈七識住〉」の各境地に比べて、より安定性〈不変性〉が高い境地ですから…
ただし、到達することは、かなり難しいですけど。
> まだまだ修行不足です。
> 何かとりとめもないお話になってしまい申し訳有りません。
いえ、いつでもお気軽においでください。
4
:
時
:2013/05/27(月) 02:08:42 ID:kaIVvnv2
和井恵さん、こんにちは。返信を有難う御座います。
> ── 「四句否定」は、四聖諦を正しく理解するための「必要条件」なのです。
なるほど、必要条件だったのですか。
中論の帰敬序で、初めに八不、続いて「戯論の寂滅という吉祥なる縁起の理を説きたもう仏陀を、諸々の説法者のうちで最も優れた人として敬礼する。」と書かれていましたので、てっきり釈尊の教えを十二分に理解した龍樹が中論を書き上げる(説く)際に、「釈尊の教えの結果」=「龍樹の最終理解」=「戯論の寂滅」を冒頭に置いたのだと思いました。「戯論の寂滅」と言う「吉祥なる縁起の理」と言う事で、縁起の法の理解が起これば、その段階段階に応じて「戯論の滅」が起こると。そしてこの「戯論」とは、四句分別の事ではないのだろうかと思ったのですが・・
そして「空」が中論にて説かれ、その内容が「戯論の寂滅」と言うのは ⇒「四句否定」=「八不」=「第一義諦」=「戯論の寂滅」の流れのように感じていました。。
> 「四句分別」とは、「有る・無い」や「真・偽」といった「相対的な二つの価値」を利用して、存在論〈ある特定の決めつけ〉を思考によって創作してしまう、あるいは選択してしまう「意行」なのです。
> そして、その人が、ある特定の「見解〈価値観〉」を持つ、ということは、その価値観へのこだわりそのものが、「執着」の結果なので、遠離 ・離貪・解脱・覚りへの妨げとなるのです。
ご説明は理解しました。有難う御座います。
>それに対して、四聖諦は、「価値観〈見解〉」に執した「存在論」などではありません。
>どうすれば、苦を滅することができるかという、具体的な「方法論〈How to〉」を略説したものなのです。
>四聖諦は、苦の生滅のポイントを「渇愛」の有・無に置きます。
>そして、これが大原則で、これのポイントを外してしまったら、四聖諦は無意味になるのです。
四聖諦は実践的な方法論ですね。
>渇愛が有れば、苦が生起し、渇愛が無ければ苦は生じない。そして、渇愛を滅すれば苦も滅尽する。
渇愛が滅する段階に応じて、その苦も軽減していくと言う理解ですね。
そしてその愛は、欲愛・有愛・無有愛の三愛と表現されるもので、それに執着する事で苦が発生すると理解しています。つまりは、無常なるものが「在る=自性」と言う思いに一瞬でも囚われてしまい、それに固執する事で「苦」が発生すると・・今は、こんな風に理解しているのですが・・・
>そして、渇愛を完全に滅ぼす道が「八正道」であり、完全に滅ぼした状態、それが「涅槃〈ニルヴァーナ〉」なのです。
>これが、釈尊の「初転法輪」によって定義付けられた「涅槃〈ニルヴァーナ〉」の原義なのです。
理解しました。有難う御座います。
・・続きます
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