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鬼和尚に聞いてみるスレ part14
920
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/30(月) 22:00:26 ID:1d4drIFg0
>>917
観照者とはアートマンとも無意識の観察状態とも言えるじゃろう。
それもまた観察している主体ではあるのじゃ。
観照とは自我を観察する事なのじゃ。
自我が観察される時、そこにもはや主体は無いのじゃ。
それでもなお主体を想定するならば、それが認識できない認識主体であるアートマンという事になるのじゃ。
アートマンを純粋観照者とも呼ぶのはそのためなのじや。
それに到達するには観察も必要なのじゃ。
しかし、最後には観察さえも捨てなければならないのじゃ。
観察という行為が自我を強化してしまうからなのじゃ。
観察を強化するほど自我も強化されてしまうのじゃ。
それをオショーは説いているのじゃ。
観察の果てに観察をも捨て去った時、観照者は現われるのじゃ。
それは全面的な観察で起こることなのじゃ。
観察も分離的な観察と、全面的な観察があるとも言えるじゃろう。
分離的な観察とは対象と主体が確固としてあり、主体である自分が客体を観察するという観念によるものじゃ。
そのように強い観念を持って観察していれば、観照からも遠ざかり、自我は強化されてしまうのじゃ。
全面的な観察とは主体と客体の観念が無いか、それを流してしまう観察なのじゃ。
今ここに観察しているとしてもそれが主体からではないと観る。
或いは客体をも自らと分離したものではないと観るのじゃ。
全ての認識対象が、自らの自我の観念からの反射であると気付いている時、純粋観照者は認識されずに在るのじゃ。
それが厭離を引き起こし、無我に導くものなのじゃ。
それが知れるまで精進あるのみなのじゃ。
>>919
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
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