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鬼和尚に聞いてみるスレ part14
917
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/29(日) 21:03:35 ID:Dp/qMVVc0
鬼和尚、
オショーは新瞑想法入門の中で、観照者と観察者に関して以下のことを述べていますが、意味がよくわかりませんでしたので、解説をお願いします。特に「観照者」は偶発的というのと、観察すればするほど、ますます存在から離れてしまうというのが、私の実践と噛み合わないように思います。「観照」が偶発的なら、理解できるのですが。また、オショーの観察と鬼和尚の観察は別のことを指しているのでしょうか?
観照者が観察者だという考えを忘れなさい。それは違う。観察者は訓練されうる。観照者は偶発的だ。観察者は一種の集中であり、観察者はあなたを別なものにしつづける。観察者は自我を高め、強化する。観察者になればなるほど、離れ小島のように、別々に、ひとり離れ、遠くにいるように感じる。どの時代でも、世界中の修行者は観察者を訓練している。彼らは、それを観照者と呼んできたかもしれない。だが、そうではない。観照者とは、全面的に異なる、本質的に異なる何かだ。観察者は訓練され、開発される。あなたは、それを訓練してさらに熟練した観察者となることができる。
科学者は観察する。神秘家は観照する。科学のプロセス全体が観察のそれだ。非常に鋭く、正確で、鮮明な観察。したがって、何ひとつ見逃さない。だが、科学者は神を知るには至らない。彼の観察が非常に熟練したものであるにもかかわらず、彼は神に気づかないままだ。けっして神に遭遇しない。それどころか、神の存在を否定する。観察すればするほどーそのプロセス全体が観察だーーますます存在から離れてしまう。橋は崩れ、壁が立ちはだかる。そして、自分自身の自我のなかに幽閉される。神秘家は観照する。だが、覚えておきなさい。観照とは起こることであり、副産物だ。あらゆる瞬間、あらゆる状況、あらゆる体験のなかで全面的であることからくる副産物。全面性が鍵であり、その全面性のなかから観照という賜物が表れてくるのだ。
観察のすべてを忘れなさい。それは、観察される対象の正確な情報を与える。だが、自分自身の意識は 完全に忘れたままだ。
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