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鬼和尚の仏教購読会 別館

29避難民のマジレスさん:2018/11/01(木) 07:14:50 ID:LC3de7YgO
>>27
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第一話 催眠術を解く(つづき)
 より抜粋

タオには名前もなければ形もない。
それはひとつの精髄、原初の精神である。
それは私たちを取り巻いている生命の大陸だ---
内にも外にもある純粋な精髄エッセンス。
それは存在であり、原初の精神だ。
タオはどんな名前にもおさまりきらない。
すべての名前がタオの名だ。
すべての形がタオの形であるから、タオには特別な形がない。
タオは数限りない姿で存在している。
それは樹にあっては緑となり、花にあっては赤となる。
人間にあっては人間となり、魚にあっては魚となる。
それは同じ法則だ。
「タオ」という言葉を「神」に置き換えたとしても同じことだ。
キリスト教徒やイスラム教徒が「神」と呼ぶものを、
道家の人々は「タオ」と呼び、仏教徒は「ダンマ」と呼ぶ。
ユダヤ教徒はそれを「ロゴス」と呼んでいた。
だが、それらは同じものを指している。
それはどんな名前にもおさまりきらない。
あるいはどんな名前でも言い表すことができる。

精髄と生命は見ることができない。
この二つは天上の光のなかに含まれている。
天上の光は見ることができない。
それは両目のあいだに含まれている。
形は見ることができるし、肉体は見ることができる---
肉体は形であり、精髄を包み込んでいる物質だ。
だが、精髄エッセンスを見ることはできない。
精髄は目では見ることができず、五感ではとらえることができない。
それは何も介さず、直に感じ取らねばならない。
あなたは私の肉体を見ている。 私はあなたの肉体を見ている
---そこには器官が介在している。
私の目が、あなたがここにいると告げている。
あなたの目が、わたしがここにいると告げている。
だが、本当にそうだろうか。 私たちは目にだまされているのかもしれない---
目には時々だまされることがある。 夜、暗闇のなかで一本の縄が蛇のように
見える。 蛇だと思い込めば、それは蛇と同じように作用する。 あなたは怖くな
って走り出す。 あるいは、砂漠のなかで、ありもしないオアシスを見ることも
ある。 それはたんなる投影による現象だ。 喉があまりに渇くので、あそこにオ
アシスがあればいいという願望が起こり、 その願望がオアシスをそこにつくり
だすからだ。 目はよく人をだます。 だから当てにはできない。 あいだにもの
を介在させて知られる真理は、つねに怪しく、疑わしいままだ。 それは確実な
ものとはなりえない---絶対に確かだとは言えない。
が、絶対的な確証のない真理などまったく真理ではない。
真理というものは絶対に確かなものでなければならない。
ほぼ確かでは通用しない。
となると道はただひとつ--- 真理はあいだにものを介在させずに知られねばな
らない。 人はそれを直接、端的に知らなければならない。
人はそれをいかなる器官も介さずに知らねばならない。
真理はまさにそのようにして知られる。
生命を見ることはできないが、それを感じ取ることはできる。
それは主観的な体験であって、客観的な対象ではない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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