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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

825避難民のマジレスさん:2019/04/24(水) 23:16:09 ID:LC3de7YgO
>>822
『I AM THAT 私は在る』
【98 自己同一化からの自由】(つづき)

 質問者 どうやら、あなたは宗教を無用だと考えているようですね。
 マハラジ
 宗教とは何だろうか?
 空に浮かぶひとつの雲だ。
 私は無数の言葉で織りなされた雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる。
 無用な言葉を取り去りなさい。
 すると何が残るだろうか?
 真理が残る。
 私の家は不変なるもののなかにある。
 それは対極同士がつねに調和され、統合された状態にある。
 人びとはそのような状態の実際の体験や、その障害について、そしてひとた
 び知覚されればそれを意識内に確立する技について学ぶためにここへやって
 くるのだ。
 そうすることによって、生きることと理解との間に衝突が起こらないように。
 その状態自体はマインドを超えており、習う必要はない。
 マインドは障害に焦点を合わせることができるだけだ。
 障害を障害として見ることは効果のあることだ。
 なぜなら、マインドがマインドに働きかけているからだ。
 ことの起源からはじめなさい。
 「あなたは在る」という事実に注意を払いなさい。
 「私はいない」と言えるときはないのだ。
 あなたに言えることは、「私は覚えていない」ということだけだ。
 記憶がいかに頼りにならないものか、あなたも知っているだろう。
 些細な個人的関心事に没頭して、あなたはあなたが何なのかを忘れてしまっ
 たのだ。
 既知なるものを消し去ることで、失われた記憶を取り戻すように試みなさい。
 何が起こるのかをあなたに伝えることはできない。
 またそれは望ましいことではない。
 期待が幻想を生みだすからだ。
 内なる探求においては、予期せぬことが起こることは不可避だ。
 発見は、かならずすべての想像を超えたものなのだ。
 生まれたばかりの子どもに、誕生した後の人生を知ることができないような
 ものだ。
 なぜなら、マインドのなかにそれを形づくるための確かな画像が何もないか
 らだ。
 同じようにマインドは、「これではない、あれでもない」という否定の言語
 による以外に、非実在の言語をもって実在について考えることは不可能なの
 だ。
 非実在を実在と受け入れることが障害であり、偽りを偽りとして見て、それ
 を放棄することが実在を存在のなかにもたらすのだ。
 明晰(めいせき)性とかぎりない愛、完全に恐れのない状態。
 今、これらは単なる言葉、色彩のないただの輪郭(りんかく)、こうありう
 るというヒントでしかない。
 あなたは手術の結果、目の見えるようになることを期待している盲目の人の
 ようなものだ。
 もしあなたが手術を避けさえしなければ!
 私が在る状態では、言葉はまったく重要なものではない。
 また、そこには言葉への耽溺などない。
 ただ、事実だけが重要なのだ。
 質問者 言葉なくして宗教はありえません。
 マハラジ
 記録された宗教は単なる無用な言葉の山にすぎない。
 宗教はその真実の顔を行為のなかで、沈黙の行為のなかで示すのだ。
 人が何を信じているかを知るには、彼の行為を見守るがいい。
 大半の人びとにとっては、身体とマインドに仕えることが彼らの宗教なのだ。
 彼らは宗教的理念をもっているかもしれない。
 だが、それにしたがって行為することはない。
 彼らはその理念をもてあそぶかもしれない。
 そして、しばしば非常にその理念を好んでいるかもしれない。
 それでも、それにしたがって行為することはないだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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