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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

677避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 11:31:15 ID:LC3de7YgO
>>676
『I AM THAT 私は在る』
【82 絶対的な完成は今ここにある】の3回目

 質問者 いったい、なぜ私は想像するのでしょうか?
 マハラジ
 意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。
 脳の欠陥と混乱のために、あなたが知覚することは歪曲(わいきょく)し、
 好き嫌いの好みに色づけされてしまう。
 あなたの思考を秩序あるものにし、過度の感情的な意味づけから自由になり
 なさい。
 そうすれば、あなたは人々やものごとをあるがままに、明晰性と慈愛を持っ
 て見ることだろう。
 誕生、人生、死の観照者は同一だ。
 それは愛と苦痛の観照者なのだ。
 なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私
 たちはそれを愛しているからだ。
 私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。
 私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。
 そしてそれにもかかわらず私たちは愛情深く、献身的なのだ。
 私たちは優しく子供の世話をする。
 そして子供を捨てもするのだ。
 私たちの人生は矛盾で満ちている。
 しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。
 この執着がすべての根底にある。
 その上それは完全に表面的なものだ。
 私たちは何かに、あるいは誰かに全力でしがみつき、そしてつぎの瞬間それ
 を忘れてしまう。
 子供が泥だんごを作り、軽い気持ちで捨て去ってしまうように。
 それに触れてみなさい。
 子供は怒りとともに泣き叫ぶことだろう。
 気をそらしてみなさい。
 彼はそれを忘れてしまう。
 なぜなら、私たちの人生は今に在るからだ。
 そして人生への愛は今に在るからだ。
 私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
 を切望するのだ。
 宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
 あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。
 質問者 私は絵を見ることはできますが、画家は誰なのでしょうか? 誰が
     この悲惨な、しかし賞賛すべき体験の責任を取るのでしょうか?
 マハラジ
 画家は絵の中にいるのだ。
 あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。
 分割してはいけない。
 偽りの質問をしてはいけない。
 ものごとはありのままだ。
 そして、誰か特定の人に責任があるわけではない。
 個人的責任という考えは媒介者という幻想から来ている。
 「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」と。
 今のような社会と、その法律と習慣の構成は、分離した責任ある個人という
 考え方を根底にしている。
 だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態ではない。
 分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類(たぐい)の社会形態もありうる
 だろう。
 質問者 あなたには何の問題もないのでしょうか?
 マハラジ
 私には問題がある。
 もう言ったはずだ。
 在ること、名前と形とともに存在することは苦痛に満ちたものだ。
 それでも私はそれを愛している。
 質問者 しかし、あなたはすべてを愛しているのです!
 マハラジ
 存在のなかにはすべてが含まれている。
 私の本性そのものが愛なのだ。
 苦痛に満ちたものでさえ、愛すべきものだ。
 質問者 それが苦痛を弱めるわけではありません。なぜ無限のなかにとどま
     らないのでしょう?
 マハラジ
 それは探求の本能なのだ。
 未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのものであるように、
 成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの本性そのものなのだ。
 この在ることと成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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