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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

650避難民のマジレスさん:2019/02/22(金) 07:05:13 ID:LC3de7YgO
>>648
『I AM THAT 私は在る』
【79 個人、観照者、至高なるもの】(つづき)

 質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?
 マハラジ
 光が身体によって遮(さえぎ)られたとき、影が現れるのと同じように、純
 粋な自己覚醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が
 現れる。
 そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命
 のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い
 たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。
 身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。
 ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。
 観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為(な)す」と言うのだ。
 「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
 それは単に限定されているだけだ。
 しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。
 なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。
 行為者であるという観念さえ含めたす
べてはひとりでに起こるのだ。
 質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?
 マハラジ
 宇宙は行為であふれている。
 だが、そこに行為する者はいないのだ。
 そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
 して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
 だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
 行為はそれらの領域なのだ。
 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
 まりなさい。
 木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。
 木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。
 観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては
 いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。
 それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性
 もないのだ。
 人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。
 あたかも重荷が落ちたかのように。
 質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ
     うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観
     照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?
 マハラジ
 それはプリント地の布を洗うようなものだ。
 はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
 る。
 人格は観照者に場をゆずる。
 それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。
 布は、はじめは白く、終わりも白い。
 パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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