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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

338避難民のマジレスさん:2018/11/12(月) 07:04:29 ID:LC3de7YgO
>>336
1『I AM THAT 私は在る』
【54 身体とマインドは無知の兆候だ】

 質問者 先日、私たちは個人―観照者―絶対なるもの(ヴィヤク
 ティ―ヴィヤクタ―アヴィヤクタ)について討論してい
 ました。私が覚えているかぎり絶対のみが実在であり、
 観照者は時間と空間のなかの与えられた点においてのみ
 絶対だとあなたは言われました。個人とは観照者の存在
 によって照らしだされた粗雑、あるいは繊細な有機体で
 す。私はどうやら明確に把握できなかったようです。も
 う一度それについて討論できるでしょうか? あなたは
 また、マハーダカーシュ、チダカーシュ、パラマカーシ
 ュという言葉を用いていました。それらは個人、観照者、
 絶対なるものとどのように関連しているのでしょうか?
 マハラジ
 マハーダカーシュは自然、存在の大洋、感覚を通して知覚されるすべてを含む物
理的空間だ。
 チダカーシュは気づきの拡張、時間の精神的空間、知覚と認識だ。
 パラマカーシュは時間と空間を超えた実在、無心であり、未分化の無限の可能性
、源であり根源、実質であり本質であるもの、物質と意識の両方であり、しかもそ
の両方を超えているものだ。
 それを知覚することはできない。
 だが、つねに観照者を観照する者、知覚者を知覚する者、すべての権限の根源と
終焉、時間と空間の根底、あらゆる因果関係の連鎖における起源的な原因としてそ
れを体験することはできるのだ。
 質問者 ヴィヤクタ(観照者)とアヴィヤクタ(絶対なるもの)
 の違いは何でしょうか?
 マハラジ
 違いはない。
 それは光と日光のようなものだ。
 宇宙はあなたに見えない光に満ちている。
 しかし、その同じ光をあなたは日光として見ているのだ。
 そして日光が顕(あら)わにするものがヴィヤクティ(個人)だ。
 個人はつねに対象として、観照者は主体として在る。
 そしてそれらの相互依存の関係は、それらの絶対的な同一性の反映なのだ。
 あなたはそれらが区別された、分離状態だと想像している。
 そうではないのだ。
 それらは同じ意識の静と動であり、それぞれの状態が他方を意識しているのだ。
 普遍なる意識(チット)のなかで、人は神を知り、神は人を知っている。
 普遍なる意識のなかで、人は世界を形づくり、世界は人を形づくる。
 普遍なる意識は連結部、両極端を結ぶ橋、あらゆる経験に均衡と統合をもたらす
要因だ。
 知覚されたものの全体性が物質と呼ばれ、すべての知覚者の全体性が宇宙のマイ
ンドと呼ばれる。
 その二つの同一性は、知覚力と知覚、調和と知性、愛らしさと愛することとして
それ自体を永遠に再主張していくのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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