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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

1避難民のマジレスさん:2018/07/07(土) 12:47:05 ID:GOHu/WSs0
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619

2避難民のマジレスさん:2018/07/07(土) 12:54:48 ID:LC3de7YgO
『I AM THAT 私は在る』
【33 すべてはひとりでに起こる】(つづき)

 質問者 私たちはいわゆる霊的成長を観察することができます。ひとりの利
 己的な人が宗教的になり、己を制御し、思考と感情を改め、霊的修
 行をおさめて真我を実現します。このような進歩は因果律に支配さ
 れているのでしょうか? あるいはただの偶然なのでしょうか?
 マハラジ
 私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
 まったく自発的に。
 だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
 彼はつねに見返りを考えて、そのために闘うのだ。
 質問者 粗野で未発達な者は、見返りなしには働きません。彼に動機を与え
 ることは間違いでしょうか?
 マハラジ
 どちらにしても、彼は自分のための見返りを見つけだすだろう。
 彼は成長することが意識の本性だということを知らない。
 動機から動機へと移行し、自分の欲望を満たすためにグルたちを追いかけ回
 すのだ。
 存在の法則によって源へと戻る道を見いだしたとき、彼はすべてを放棄する。
 なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
 彼は何も欲しない。
 他者からも、彼自身からも。
 彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
 何も望まず、何もしない。
 これが真の創造だ!
 自分のハートのなかで宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

3鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/07/07(土) 22:59:46 ID:1d4drIFg0
真の悟りへの道は一人一人の人の意志に任されているが、それもまた必然なのじゃ。
老病死の苦があれば永遠の安楽に惹かれていくものであるからのう。
全ての者は目覚め、死んで全てになるのじゃ。

4避難民のマジレスさん:2018/07/08(日) 07:12:45 ID:LC3de7YgO
>>2
『I AM THAT 私は在る』
【33 すべてはひとりでに起こる】(つづき)

 質問者 内なる努力への大きな障害は退屈です。弟子は退屈してしまうので
 す。
 マハラジ
 怠惰(タマス)と落ち着きのなさ(ラジャス)はともに作用し、明晰と調和
 (サットヴァ)を引き下ろす。
 タマスとラジャスはサットヴァが現れる前に征服されなければならない。
 それはやがて当然の成り行きとして、まったく自然に現れるだろう。
 質問者 そのとき、努力は必要なくなるのでしょうか?
 マハラジ
 努力が必要となるときは、努力が現れるだろう。
 努力を要しないことが本質的となったときは、それが現れるだろう。
 あなたが生を推し進める必要はない。
 ただそれとともに流れなさい。
 そして現在の瞬間の仕事に完全に自分を捧げなさい。
 それが現在において、今死ぬということだ。
 なぜなら生きることは、死ぬことだからだ。
 死なしに生はありえない。
 要点をつかみなさい。
 世界と自分はひとつであり、完全なのだということを。
 誤りはあなたの姿勢にあり、そこに再調整の必要があるのだ。
 この再調整の過程があなたの言うサーダナだ。
 怠惰に終わりを告げ、明晰性と慈愛のためにすべてのエネルギーを使って道
 を整えることで、あなたはそこにたどり着く。
 しかし実際には、それらはすべて必然的な成長の兆候なのだ。
 恐れてはならない。
 抵抗してはならない。
 先延ばしにしてはならない。
 あなたのままでありなさい。
 恐れることは何もない。
 信頼し、試みなさい。
 誠実に試みなさい。
 あなたの真我に、あなたの人生を形づくる機会を与えなさい。
 けっして後悔しないだろう。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

5避難民のマジレスさん:2018/07/08(日) 07:22:06 ID:LC3de7YgO
>>4
うむ。
現在の瞬間の仕事に完全に自分を捧げることが、常に自覚的であることが修行でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

6鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/07/08(日) 22:45:42 ID:1d4drIFg0
退屈と思っているのは実際は恐れからの逃避が原因なのじゃ。
逃避しているからいつもと同じ観念しか観えないのじゃ。
逃避が観られれば恐れも超えて進むことができるのじゃ。

7避難民のマジレスさん:2018/07/09(月) 19:18:29 ID:LC3de7YgO
『I AM THAT 私は在る』
【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】

 質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨ
 ーガを教えています。
 マハラジ
 どこで学んだのかね?
 質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。
 マハラジ
 それはあなたに何を与えたのだろうか?
 質問者 健康と生活の糧(かて)です。
 マハラジ
 それはいいことだ。
 それがあなたの求めるすべてだろうか?
 質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、
 いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気(いや
 け)がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしま
 した。それからヨーガに魅せられたのです。
 マハラジ
 あなたが得たものは何だろうか?
 質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。
 マハラジ
 どのような形でそれがあなたを助けたのかね?
 何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?
 質問者 健康はその明白なしるしです。
 マハラジ
 健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。
 その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?
 質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨ
 ーガはそれ以上をもたらします。
 マハラジ
 ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?
 質問者 進化、輪廻(りんね)、カルマ等々、といったインドの教えの全体
 です。
 マハラジ
 よろしい。
 あなたは求めていたすべての知識を得た。
 だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?
 質問者 それは私にマインドの平和をくれました。
 マハラジ
 そうだろうか?
 あなたのマインドは平和だろうか?
 あなたの探求は終わったのかね?
 質問者 いいえ、まだです。
 マハラジ
 そのとおりだ。
 それに終わりは来ないだろう。
 なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。
 マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。
 ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

8鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/07/09(月) 22:02:23 ID:1d4drIFg0
思考や分別は常に観念に囚われているからそれに平和はないのじゃ。
観念から自分という謬見も起こり、欲も起こるのじゃ。
観念が無い時、思考も分別も智慧として本来の働きを取り戻すのじゃ。

9避難民のマジレスさん:2018/07/09(月) 22:35:35 ID:LC3de7YgO
記憶でない観念ってあるのでありましょうか?
記憶≒観念 であるのではないでしょうか?
観念でない思考、分別とは、どんなものでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

10避難民のマジレスさん:2018/07/10(火) 19:19:58 ID:LC3de7YgO
>>7
『I AM THAT 私は在る』
【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】(つづき)

 質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。
 マハラジ
 綿密に調べてみなさい。
 そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。
 それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、
 またいつもの落ち着きのなさに戻る。
 静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。
 あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身
 は平和なのだろうか?
 質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りている
     のです。
 マハラジ
 あなたはそこに矛盾を見ないだろうか?
 もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。
 それなのにあなたは見つけられなかった。
 本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。
 質問者 ある程度の改善はあります。
 マハラジ
 あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。
 ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。
 あなたの言う平和はただの不安の不在だ。
 それに本当の価値はない。
 真の平安は乱されることのないものだ。
 けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言える
 だろうか?
 質問者 私は努力しています。
 マハラジ
 努力もまた不安の一形態だ。
 質問者 では何が残されているのでしょうか?
 マハラジ
 自己を安心させる必要はない。
 自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。
 ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。
 マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさ
 だ。
 心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。
 私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
 しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
 なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
 実在にははじまりはない。
 ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
 発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

11鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/07/10(火) 22:01:50 ID:1d4drIFg0
>>9 無いのじゃ。
 観念は全て記憶に拠ってあるものじゃ。
 観念を追う限り過去の想いを追うことになるのじゃ。
 それは苦を生み、今ここに居ることを忘れさせてしまうのじゃ。

12避難民のマジレスさん:2018/07/10(火) 22:19:34 ID:LC3de7YgO
>>11
で、ありますよね。
で、記憶に基づかなくても、思考ってできるのでありましょうか?
思考の要素=情報は全て記憶の中にあり。
それを組み立てる、文法も記憶の中にあり。
それを比較するのにも、記憶が必要になると思うのでありますが、

もしかしたら、あるがままに受けとめる。
比較しない。
そのようなありよう自体のことを指して非観念的な「思考」というのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ


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